ゴヤゴチャな現実をゴチャゴチャ考える
「この本の中に見出されるのは、仕事中の『地下的なもの』、穴をあけ、掘り、掘り崩すものである。そのような深みでの仕事に眼が利くとすれば――、光と空気に長いこと不自由した結果の辛苦をあまり漏らさず、彼がどんなにゆっくりと、慎重に、穏やかだけれども仮借なく、前進して行くのが分る。その暗黒の仕事中で、彼自身満足している、ということだできよう。何らかの信念が彼を導き、ある慰めがその努力の償いをしている、という...
View Article時間と音楽
『時間ですよ』というテレビドラマがあった。TBS系列で、久世光彦プロデューサー兼演出に向田邦子脚本のコンビに、森光子を中心として堺正章、悠木千帆(後の樹木希林)、天地真理、浅田美代子の顔ぶれが懐かしい。第1回放送は1970年2月4日で、平均視聴率は不明だが、最高視聴率は、1972年(昭和47年)3月15日放送分の36.2%という驚異的な数字を出している。天地真理、浅田美代子人気もあったが、銭湯が舞台...
View Article「二十世紀最大の○○」 ①
二十世紀生まれのわれわれとしては、表題にした「二十世紀最大の○○」と言うのは結構気になったりする。順位をつけるのも難しいが、順位にはそれなりに根拠があるだろうし、その根拠を聞いたり考えたりするのがこれまた楽しい。「○○」にはいろいろな言葉が入る。「発明」、「発見」、「理論」、「人物」、「音楽」、「文学」、「事件」、「ミステリー」、「選手」…これらのほとんどは、ジャンルにまたがるし、ジャンルごとに区分...
View Article「二十世紀最大の○○」 ②
リンゴ・スターのLudwig、Ludwigはリンゴ・スター、などの言い方はいかにも素人っぽいが、われわれ素人にはリンゴがLudwigを有名にしたように映る。さらには、ジョンがリッケンバッカーを、ポールがヘフナーを有名にしたのは間違いない。ならばグレッチはジョージ?と思いきや、正しくはチェット・アトキンスである。が、アトキンス以降のグレッチをジョージが有名にしたのも事実であろう。グレッチのドラムを有名...
View Article「二十世紀最大の○○」 ③
ビートルズについて述べるならば、それこそ分厚い「聖書」一冊では済まないかもしれない。まさに彼らは「bible」となっている。「二十世紀最大の○○」という言い方、区分けは、冷静に考えると何をもってになるが、そこは美人コンテストと同様に、一種のお祭り的描写と考えたらいい。いちゃもんをつける要素はいくらでもあるが、いちゃもんつけて得るものはない。いちゃもんにめげることなく、「二十世紀最高の美人は誰だ!」な...
View Article「二十世紀最大の○○」 ④
「二十世紀最大の発明」が何かを、日本人が即席ラーメン、カラオケ、ウォークマンとしたが、1903年にライト兄弟が飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功したのも二十世紀である。鳥のように空を飛ぶのは人類の永遠の夢でであるからして、ライト兄弟の飛行機が二十世紀最大の発明というのは異論はない。ただ、彼ら以前にも飛行機を作る試みは行われていた。飛行機の原理やエンジンの発明も先人の功績であろう。「発明」とい...
View Article生きてるとは死んでないこと!
死というものに向き合うからこそ、いまの「生」が充実し、豊かになるってことだ。「僕が死を考えるのは、死ぬためじゃない。生きるためなんだ。」というマルローの言葉が思い浮かぶ。この言葉を知っていること、理解していることで、人の生き方には雲泥の差がつくし、自殺も少なくなるかも知れない。それでもマルローは死んでしまった(1971年没)。石ノ森章太郎の「サイボーグ009」」は、人の心を持ちながらヒトでも機械でも...
View Article死んでるとは生きてないこと!
病気や不慮の事故などで死を運命づけられた人は、気の毒というしかない。人は何歳まで生きられるかについては、人によってまちまちだが、平均寿命という計測法がある。この場合の「寿命」とは、人の天寿の平均ではなく、死因にかかわらず生まれてから死ぬまでの時間を言う。2013年(平成25年)の平均寿命は、男が80.21歳...
View Article人を殺す愛情は存在するのか?
「死ぬまで生きよう」のテーマは死ではなく生である。生を美化する必要はないが、仮に美化するのなら、何をどう美化する?自らの生を美化するのは結構だし自由だが、美化の理由など大層もないだろうに。生きることは特段美しいことではないし、生きようとすることは生命の本質である。生命とは生きてることに価値があるわけだから、生きることが価値である。死を美化するのもオカシイし、間違っている。何をどう思うのは個人の勝手だ...
View Article私は貝になっていた
日常の雑事から離れ、身近なことから人間や世の中の根本的な問題に思考を持っていくと、普段気づかない事が結論されることがある。同時に、我々はなんとも身近な問題のアレコレであくせくしているのがみえてくる。親が子の成績に一喜一憂する姿を見たり、話を聞いたりすると、なぜそうなるのか?どうして鷹揚に構えていられないのかと、不思議でしょうがない。親は大抵"子どもの幸せのために言ってる"というが、勉強できない子は幸...
View Article皇室を考える ①
子は親を選んで生まれてこれないし、生まれてからも子どもの描く(理想とする)親になってくれることはない。親も同様に子どもを選んで生むことはできない。ただし、男女の産み分けについては、"可能"という説が巷で幅を聞かせている。どういう食品をとると女の子だの、男が生まれやすいだの、まことしやかに流れていたが、そんなことは信じない派であった。だまっていても男女の確率は50%だから、男が欲しくて女が生まれたらま...
View Article皇室を考える ②
昭和天皇のさまざまな発言を分析し、独特の語りを「天皇語」と命名した保坂氏は言う。「『天皇語』を身につけるとは、天皇が自分の言葉の持つ重み、時に威圧を伴うこともある力を自覚することにほかならない。」とし、次の例をあげている。昭和52年、香淳皇后が腰を傷めたとき、不自由はありませんでしたかと尋ねられた昭和天皇は、次のように答えた。「それはありました。だが、家庭のことですので。記者の人たちも家庭のことはあ...
View Articleブログに何を書こうがそれは自由 ①
長年ブログをやっていて、経年で変わることもあろうが、変わらないこともあろうし、昨日思ったことが翌日は違う考えになることだってあろう。その善悪は判らないし、ただ、見ず知らずな人の気分にいちゃもんつけても仕方がないというのが道理だろう。これが、自分の親とか、上司とか、教師とか、師匠とか、自分の生活に直接影響するような人だと困る。さて困ってどうするかは、その人が考え対処する問題である。ただし、昨日言ったこ...
View Articleブログに何を書こうがそれは自由 ②
ネットで「ブログ論」を検索するといろいろ出てくる。「ブログ論」なる仰々しい命名はともかく、ブログについて個人的な考えを書けば、それはブログについて論じたことだから「ブログ論」でいい。すべてのブログがそうであるべきで、"ブログはこうでなくちゃ"などは勝手に言ってろで気にすることもあるまい。何も気にせず自分のやりたいことをやる人間には…ただ、ブログを始める際に、「どうやればいい?」とか、「人はどうやって...
View Article「医は算術であれ」 ①
とある歯科医院に1年以上通っている。1年間の治療が終り今はケアが主体。そこで思ったことだが、今までの歯科医院に比べてまるで違う。院長はどこも大差ないが、違うは衛生士である。歯科医院は口の中を見るので普通は喋らないし、喋ることもできない。ところが治療を中断してでも話をする。それも無駄話ばかり。今までこういう歯科医院はなかった。そのことでふと気づいたことがある。ある時、院長が「この歯は抜いたほうがよい」...
View Article「医は算術であれ」 ②
結果を得た人間はその努力すらも当然であったろうし、それだけのこと。結果を得るためにした努力であるなら、「努力」そのものが美化されるわけでもない。まあ、美化する人もいるにはいる。「努力は人を裏切らない」という言葉は、努力をさせるための言葉で、あくまでもプロセス(過程)の大事さを説く。結果を問う前にとりあえず、「やれ」と。「努力」といっても100段階くらいはあろうし…結果を出した人は、「努力した」しか言...
View Article「何が正しい」はむつかしい ①
それにしても世の中はいろいろな人で成り立っているというのが、一昨日の記事に書いた物理学者の考えと、それに呼応した病院の名誉院長。いろいろと物の見方の幅を考えさせられた。高名な物理学者という事だが、高名であれ無名であれ、オカシなことをいうものだと、批判する自分の論は正しいのかというと、物理学者の言葉を批判する意見を述べているだけ。人の意見を批判すると、「だったらお前は正しいのか?」と反目する人間は多い...
View Article優越感・劣等感
人の心を見抜くというのは至難だが、これは能力でもある。注意して見れば人の本音はどこかに表れるもの。それがその人に会いたいと思わせることになる。世の中には二度と会いたくない人間もいるが、また会いたいと感じる人間もいる。相手にそう思われることもある。相手に媚びたり自分を作ったり、そんな無理をせずとも、ちょっとした相手の心や気持ちが読めることで好感をもたれたりする。勘違いや思い込みも同居するが、人の心が見...
View Article「何が正しい」はむつかしい ②
最近驚いたことが二つある。一つは6月5日のブログが書かれていなかったこと。もう一つは、10日のブログが書かれていなかったこと。そんなことで驚いたのか?と思う方もいるだろうが、いずれも翌日に記事をアップして、「あれっ!」と、前日の記事が抜けてることに驚いた。この程度で驚くというのは、コレくらいの事で驚くしか、他に驚くことがないのであろう。書いたはずが抜け落ちていたのは、書いたという思い込みと、確認の杜...
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