結果を得た人間はその努力すらも当然であったろうし、それだけのこと。結果を得るためにした努力であるなら、「努力」そのものが美化されるわけでもない。まあ、美化する人もいるにはいる。「努力は人を裏切らない」という言葉は、努力をさせるための言葉で、あくまでもプロセス(過程)の大事さを説く。結果を問う前にとりあえず、「やれ」と。「努力」といっても100段階くらいはあろうし…
結果を出した人は、「努力した」しか言う事はない。逆に、「結果がでなかった」と文句をいう人はおかしいのよ。とにかく一生懸命やる必要があったということ。結果が得れなかった人間が、「こんなんだったら努力しなければよかった」みたいな恨み節をいうのは間違っている。最初から、「君は努力しても無理、やらない方がいい」と分かってるなら別だが、何事もやらなきゃ分らない。
確かに最初から結果の見えてる人間はいる。極度に高い目標を掲げていたりだと、「こいつはやるだけ無駄」という見え方はするが、可能性はゼロに近くてもゼロではない。何も行為しないなら「0」だが、何かを行動するなら、「0.00001」でも、「0」とは言わない。「行動は可能性を生む」は間違いのない事実。何かをしなければ、何事も「ゼロ」である。
エロ医師には困ったものだが、触診は大切であろう。子どもの頃に痛いおなかを先生の暖かい手の平で触られただけで、治るような気さえした。お医者さんは魔法の手を持っているようだった。打診というのもある。診察のときに医師が背中や胸やお腹をポンポンポンと叩くあれだ。何のためにかといえば、熟練した医師は打診から色々の情報を得れるからという。
昨今のように検査機械に頼る若い医師は、打診などで得る情報はないだろうし、だからやらない。内科医は、五感(視覚、聴覚、臭覚、触覚、味覚)のみならず、第六感まで働かせ、病気のありかを探っていたという。打診は昔は必須であったが、現代医療では意味がないといえばそうかも知れない。スイカを叩いて美味しいものを見分けるのは、生産者ならお手のもの。
素人でもポンポンやっては見るが、近年は「糖度計」を差して簡単に正しく計測できる。勘に頼った時代と、科学の時代の差であるが、医師のポンポンは子どもにとっては安堵感があった。やたら触るスケベ医師もいるらしく、役得なのか特に若い女性などには、無用な触診をするらしい。「医は仁術」という高貴な考えはどこに言った?「医は女性をジンジンさせる術は無用」。
自分の体を預ける以上、「信頼関係」が大事と言ったが、医師と患者というだけで信頼関係が生まれる時代は過去の遺物。医師が常に上から目線で患者を見下ろしていた時代とは違い、昨今は患者が医者を選ぶ時代のようだ。「医師を信用してはいけない」というキーワード検索をしてみると、かなりヒットする。これら患者の実体験が、ネットに書かれている。
ある体験談を人が情報として発信するを情報化社会という。「医師を信用してはいけない」の最大の理由は、医療も「業」であるからだろう。「医療」は「医業」といってもいいが、「業」に見せないところも医療の隠匿体質的なところでもある。「業」であるのにあまり「業」を使わないのは、「医は仁」の名残りであろうか。「仁術」とは、人命を救う博愛の道との意味。
「医は仁術」と言われた時代、医者は奉仕業的であったが、現在は、「医は算術」と言うように、医者とお金は切っても切り離せない仲になっている。計算高い、打算的、守銭奴医師などの意味で、「医は算術」と揶揄された背景には、「診療報酬の不正」や、「薬づけ医療」といった、儲け本位で患者を食いものにした乱療時代が、医師の信頼を奪ってしまった。
今でも不正に手を染める医師は後を絶たないが、こんな時代に、「医は算術であれ」と公言する医師がいる。悪徳医師の代名詞とも言う言葉をあえて吐く医師も珍しやと思いながら記事を読むと、「算術」の意味が違っていた。奈良県大和郡山市にある総合病院「田北病院」のホームページにある、『仁愛の心』と題された当病院名誉院長のブログである。以下紹介する。
「先日ある新聞に“医は算術であれ”という記事が掲載されていました。これを書かれた高名な物理学者の経験によりますと、この方の87歳になるご母堂は体のどこも悪くなく膝が少し不自由であり、そのため時々看護師が訪問看護に来ます。その時看護師はご母堂に“おばあちゃん”具合はどうですかと聞くそうです。この“おばあちゃん”が気になられるようで、介護を頼んでいるが全人格を預けているわけではないと、時々こぼされるそうです。
看護師には悪気はなくても、高齢者であるからといって、みんな“おばあちゃん”と呼ぶ事は問題です。その前に一人の人間として扱って欲しいという望みがあり、相手の気持ちやバックグランドを知って接するのはビジネスの基本であり、医療の世界ではこれが欠けていると述べられています。この事により、あえて“医は算術であれ”と主張されているわけです。本来は医は仁術であると言われてきました。
この方も、医療を金銭で計る事は反対と述べています。しかし医療の世界には相手の気持ちやバックグランドを知って接する態度が欠けていると指摘なさっています。ビジネスの社会では顧客が存在し、それぞれの顧客の背景を調べ、その要望を聞いて臨機応変に対応します。医療にもそのような考えが必要ではないかと述べられています。科学の世界では多様な見方をする事が非常に大切です。
一つのものでも角度により見え方が違います。医療の世界でも同じで、患者さまや介護を受ける方の目も加えなければなりません。マニュアル化された紋切り型の対応は問題となります。医療従事者には患者さまを庇護すべき弱者と考える方もおり、いわゆる医療のパターリズム(父権主義)につながります。これでは知らず知らずのうちに患者さまと医療従事者との間に上下関係を生む事になり、独立した人間として患者さまと接する配慮に欠ける事になります。
ビジネスの世界では契約は両者が対等の立場。しかし医療の世界では、医療従事者は一段高い位置にいるとの考えが未だ一部に残っているようです。患者さまからすれば、身は委ねても“こころ”まで配下にされてはかなわない。医療従事者は、いい意味で“医は算術であれ”を心掛ける必要があると思います。」
一読して、「なるほど」と思った。納得したという、「なるほど」ではなく、うまくまとめたというでもなく、まあ、"我田引水"的な、「なるほど」である。ここにいう、「医は算術であれ」の「算術」とは、元記事の物理学者のいう、「相手の心を推し量れ」、「バックグランドを熟知して対応せよ」との意味だが、これらは物理学者の理系思考からすると、「算術」というのだろうか?
だとすれば、「算術=人の心を計算」ということ。「人の心を計算する」という言い方は馴染めない。「万有引力の法則」を発見したニュートンは、科学者、数学者として知られているが、実はこういう言葉を残している。『天体の運動はいくらでも計算できるが、人の気持ちはとても計算できない』。計算が商売のニュートンも、人の心は天体の計算の様にはいかないのだと。
・人の気持ちに共感や同情することはできる。
・人の望みや考えを推察することはできる。
・人の考えを疑うこともできる。
・人の心を信じることもできる。
・人の心を思いやることもできる。
のように、人の心(感情・望み・考え)を推察することはできるが、あくまでも推察であり、人の心はわからない。不確かな推察を信じて、右往左往するのはよくない。よって、人の心を計算し過ぎないこと。相手の心を察し、思いやりをもって考えた場合には、計算から得る答よりも、自分で答えを出すことよりも、相手の悩みを聞いてあげる方がいい。
この名誉院長は、物理学者の母親の心を無視した看護士の呼び方に、「もっと計算しなさい」と言っているのなら、大科学者ニュートンの、「人の心は計算できない」を理解できないだろう。87歳の老婆にして、「おばあちゃん」と呼ばれて嫌だという人がいるなら、その事を看護師に計算して理解しろという方が無理である。ニュートンでさえ、ご母堂の心は理解不能だ。
87歳の老婆を、「おばあちゃん」と呼ぶのはやさしさと感じるが、○○さんと苗字で呼ばれたいのか?「おばあちゃん」と呼ばれるのを嫌がる老婆を、"ひねくれババぁ"とは言いすぎか?どちらにせよ、人の心は計算できない。だったら、「おばあちゃんと呼ばないでください」と言えばいい。それが親切というものだろう?「おばあちゃん」と呼ぶ側に罪はないんだし…
「おばあちゃん」の呼び方が嫌だと意思表示をした方が罪をつくらない。それを息子が、「医は算術であるべき」、もっと計算を…と指摘するのは、いささか仰々しすぎる。簡単なことを難しくしてしまっては、人間関係を歪めてしまう懸念もある。「体はどこも悪くないし、介護を頼んでるだけで全人格を預けてるわけではない」などと息子にこぼすという母である。
つまり、「おばあちゃん」と呼ばれることが馴れ馴れしすぎるから、もっとよそよそしい関係がいいと息子に愚痴をいう母。だったら息子がなだめればいい。それが言えない息子なのか?だから、算術を用いよと、意味不明で手前勝手なことを言う。介護する側からすれば下の世話もあるし、相手の羞恥心を緩和するためにも、介護士や看護師は打ち解けようとするだろう。
それが気にいらぬなら、息子を通していってもらえばいい。被介護者の心情は自尊心にも関わるし、対応が難しい。我がままな人の世話はなおさら難しい。よって、善意が悪意に取られるのは双方にとって不幸である。自分は介護は必要ないが、目下、歯科医院で歯周病ケアをやっている。これは歯の重要さ、大切さをしみじみと理解したからでもある。
分担と言うわけではないが、医師は治療、衛生士はケアが主体。人にもよるが、態度は柔和でも医者の本質は権威的である。反面、歯科衛生士は患者と対等感があり、同じ言葉も"上から目線"的にならない。内科、外科の看護師と歯科衛生士を比較すると、患者に対する密着度が違う。看護師は注射や言葉のケアが主で、歯科衛生士ほどの定期的な密着業務をやらない。
医院が繁盛するのは、"美人の看護婦あってこそ"と言われたが、同様に歯科医院の隆盛は密着度の高い歯科衛生士にあり、美人でなくてもいい。女性患者などは、建物の美観や院内の清潔感を気にする。自分が紹介した女性も、「この歯科医院は清潔感もあるし、従業員の応対が明るくて馴染みやすい」と、紹介した歯科医院を気にいっていたが、他にも以下の理由をあげていた。
「私は子どもの頃から歯医者が嫌いで、親に連れて行かれようとしたら逃げ回ったり、泣いて断った。今はそのツケを強く感じているし、大人になってから、必要に差し迫られていろいろな歯科医院に行ったけど、虫歯の治療なら長くて10回も行けば終るし、あくまでも治療に行くという感覚だったけど、今のところのようにケアを重視してくれる医院はなかったし…」。
彼女も通院して一年以上になるし、「これからもずっとケアを続けて行きたい」といっている。彼女も歯科衛生士さんが気にいっており、若いせいか院長も物腰が柔らかく、語り口が女性的だといっていた。30代後半の医師だが、自分のように年配で、物怖じせずにズバズバいう患者は苦手かも…。だからか、衛生士に言わせたりする。こういう場合においても衛生士は大切。
衛生士とは外で会い、メール交換はしても、上心(下心の反対)でしかない。医師ともやってみたいが無理であろう。お医者様に気安く、「飯でも食いに行こう」と言える雰囲気もない。彼らは世界観が狭く、異業種交流でさまざま吸収した方がよいが、施術中に無駄話もなく、患者との友愛感情も育まれないし、医師と患者という純然たる関係しかあり得ない。だから衛生士が重要なのだ。
前にも書いたが、スーパーやデパートの試食販売のオバちゃんも、よく見ていると買ってもらいたい食品の話よりも、顧客が連れてる子どもを褒めたり、幼稚園や学校とか、無駄話に導入している。おそらく、試食販売マネキンの営業マニュアルかも知れない。つまり、無駄話をすることで顧客と人間関係を作る。そうすることで、その商品を買わなきゃいけない気分にさせる。
「美味しいね、また後で買うね」で退散する客が多い中、無駄話で人間関係を作ると、断りにくくなる。"営業マンを家に入れてはダメ。どうしても買わされる"というセオリーがあるように、彼らは短い時間の中で顧客との人間関係を作る話術に長けている。相手に擦り寄ったり、お世辞をいったり、頭を下げたり、(営業成績の)泣き言をいったり、これらみなが買わせる術である。
その日がダメでも通ってくる営業マンに、顧客は根負けする。断ったら威圧したり脅したりなどの言い方をする営業マンは下の下で、優秀な奴は今日がダメなら明日、明日がダメなら明後日というスパンで考える。時間をかけなければダメな顧客もいる訳だから、購入しなかった顧客でも決して悪い印象を与えず、爽やかに、好印象のまま去って後日勝負する。
一人の女に照準を当てたコマシの奥儀は、「慌てる乞食はありつけない」である。前に出会い系である男と会った中学教師が、エッチを断ったらボロカス言われたという。「ココまで来てやらせないだと?男を舐めんなよ。お前のような世間知らずのお嬢さんと俺とは訳が違うんだよ。三流大学出て出世もなくこき使われてるサラリーマンの何が悪い?」などと啖呵をきられた。
こんなこと言われたら普通は腹立ってそそくさ帰るはずだが、ヘビに睨まれた蛙のように大人しく指示に従うM気質とでもいうのか、その中学教師は男の言いなりになった。こういうぶしつけで野生的な言葉で女に言い寄った経験のない自分には未知なる世界観である。よくもそんな言葉で…としか思わないが、こういう男の強引さに魅力を感じる女もいるんだなと。
人の世に正解はない。すべては人と人の相対関係の中での出来事だ。だから、「こうすれば女が口説ける」みたいな、"How to本"が売れたとしても、まったく効果はないと思う。何故って、目の前の対象は本に書いてある女とは別人である。人間関係は自ら実践し、学習するしかない。かつては目の前の女はみんな口説く対象だったが、今はまったくそういう気はない。
今は女性と何処で会っても、食事をしても、女というより人である。人間の満足は、「求める」から「与える」に移行する。異性を性の対象と見る時代は誰にもあるが、年を重ねると人間関係に興味が移る。人間関係とは何?人間と人間の関係のこと。社会や集団や組織の場、あるいは個人的な場における、感情的な面も含めた人と人の関係のこと。ガツガツ男もだんだん年を重ね、紳士になって行く。