とある歯科医院に1年以上通っている。1年間の治療が終り今はケアが主体。そこで思ったことだが、今までの歯科医院に比べてまるで違う。院長はどこも大差ないが、違うは衛生士である。歯科医院は口の中を見るので普通は喋らないし、喋ることもできない。ところが治療を中断してでも話をする。それも無駄話ばかり。今までこういう歯科医院はなかった。
そのことでふと気づいたことがある。ある時、院長が「この歯は抜いたほうがよい」と言った時に、なぜか「No!」と言った。理由は、歯は自分の所有物で、抜く抜かないは自分の意思、という気持ちがあったからだ。だから、医師にいわれても抜く気にはなれなかったが、同じことを歯科衛生士に言われた時、一つ返事で「はい、分りました抜きます」と答えた。
その事が自分でも不思議で、自分のその心の動きや状態を自問してみたのだ。自分が分らないから様々挙げられる理由を挙げて自分に問うた。まず考えたのが、「女が好き」という男の本質で、同じことを男に言われるより女に言われる方が効果がある。男は女に弱い生き物。確かに一般的に言われることで、お前は女が好きかといわれれば、そりゃ男よりはいい。
というより、「いい時もある」が正しい。「女より男がいい」と思うことも多く、男は嫌いではない。が、数年前にお腹を切って2週間入院した事があった。入院というのは、19歳の時に盲腸を切って以来だから、50年近く病院のベッドに横たわったことはない。その時に男女の看護師を経験したが、人数的にも女性看護師が多く、そちらがメインだった。
男の看護師は分担があるのか、患者の身体的ケアはしないようだった。主たる業務が何かは知らないが、女性看護師にされるケアをもし男にと想像したら、やはり何かが違う気がした。嫌だとか困るとかではなく、女性看護師の方が勝ると感じた。理由は男がスケベだからか?ないとは言えないが、ケアというのはやはり「白衣の天使」に、とのイメージがある。
看護は女性の天職なのか?いや、まてよ…。それは自分が男だから思うことで、では女性患者は男の看護師の方を好むのか?その辺はよくは判らないし、聞いたこともなければ、聞く宛てもない。そもそも病人や老人の世話は女子供の仕事であって、それは男は狩猟(稼ぎ)という流れからであったろうし、古来から外国では病人の世話は修道女の仕事だったりした。
その進化系が看護婦であって、女性だけの職場のイメージがあった。女の子は大きくなったら看護婦か美容師、男は大工・左官というのが手に職を付ける代表であった。大工・左官に女性は聞かないが、男性美容師は多く、男の看護士も少ないけどいるにはいた。当時は女性は看護婦、男は看護士といい、2003年からいずれも看護師という名称に統一された。
とはいえ、男性看護師の需要はおもには精神病院、精神病棟であったのも、理解に及ぶであろう。アカデミー賞となった『カッコーの巣』で男性看護師と精神病患者の凄まじい様子が思い出される。ようするに、羽交い絞めを含む力仕事の場、それが精神病棟である。上に提した女性患者は男性看護師を好むのかについて調べてみたが、それはないと言うのが実態だった。
女性患者さんは、なおさら女性看護師さんを要求するという。もちろん、男性患者も同じである。ただし、時と場合により、女性看護師だと恥ずかしいとかもあったりするようだ。一般的に女性の方が、目配り気配り心配りが細かく、より良いお世話ができるとされている。男は無骨者なのだろう。粗忽者という言葉もあり、これも女性には言わないようだ。
粗忽者とは、そそっかしい人。 おっちょこちょい。という意味だが、女性にいないわけでもない。古典落語で有名な『粗忽長屋』というのがある。ネットで読めるが、あまりに面白いので紹介しておく。「浅草観音詣でに来た八五郎は、道端に人だかりに惹かれて覗いてみると、役人たちが通行人に行き倒れの死体を見せ、身元の特定を行っている最中であった。
八五郎は死人の顔を見るなり、「こいつは同じ長屋の熊五郎だ。そういえば今朝こいつは体の具合が悪いと言っていた」と言い出した。役人たちは、「この行き倒れが死んだのは昨晩だから、お前が今朝会ったという友達とは別人だ」と言うが、八五郎は聞く耳を持たず、「そんなら、これから熊五郎本人を呼んでくる」と言い残してその場を立ち去った。
急いで長屋に戻った八五郎は、熊五郎をつかまえて言った。「浅草寺の近くでお前が死んでいたよ」。熊五郎は、「人違いだ。俺は生きている」と反論するが、八五郎に、「お前は粗忽者だから自分が死んだことも気付かないんだ」などと言われているうち、自分が本当に死んだと思い込み、自分の死体を引き取るために八五郎に付き添われて浅草観音へ向かう。
浅草観音に着いた熊五郎、死体の顔を眺めて、「こいつぁ、間違いなく俺だ」と言う。野次馬たちは一様に呆れて、「この死体がお前のわけはないだろう」と言うが、熊も八も納得しない。二人が、「熊五郎の死体」を抱いて運び去ろうとし、役人と押し問答になる。熊五郎は、「どうもわからん」と呟く。「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰?」
いかにおっちょこちょいと言えど、そんなレベルではない粗忽者の話である。小噺は誇大されてこそ面白いわけだ。5代目柳家小さんが、4代目からこの噺を教わった際、「これは粗忽噺の中で一番難しいと3代目は言っていた」と聞いたそうだ。立川談志は、主観が余りに強すぎたが為に、自分自身が死亡している事すらも正しく判断できなかったのだとしている。
それで、談志は「主観長屋」と称していた。ある日、立川談志が『粗忽長屋』を演じて楽屋に降りてきて、「どうだ、俺の『主観長屋』は!」と周囲に言った時、居合わせた志ん朝は、「普通に演れないだけじゃないの?」と言い放ったというエピソードが残っている。小さん、談志の『粗忽長屋』を比較して見た。良否は一長一短あり、それがそれぞれの個性であろう。
が、噺というのは、取るに足らないことを面白く脚色して聞かせなければならない。演目のストーリーなんてのはそれこそ2分もあれば伝えられるが、ストーリーを伝えるのが噺家の役目ではない。2分の物語を20分に広げるための有用な無駄話がほとんどである。どういう前ぶりで導入するか、どういう無駄話で観客に魅せるか、それら一切も噺家の個性である。
と、まあ本日も表題を決めて記事を書いているが、様々な関連からあっち行き、こっち行きの落語のようになってしまう。ところで、看護師というが、歯科衛生士という。医師というが、消防士という。美容師というが弁護士という。漁師というが武士という。書式に慣れているからか、医士、美容士、弁護師、武師は何か変。そこで「師」と「士」の違いを調べた。
江戸時代は、職人に多く「師」を使った。浮世絵師、瓦師、味噌師、表具師、畳師など…。それよりも武士とあるように、「士」を「師」の上としたように、江戸時代にあって師と士は明確に区別されていた。そして明治~昭和時代にあってはいろいろな職業が増え、そこで職業名をつける必要が生まれた。職人の動きをみていると、ほとんどの人が手を使っている。
それで職人としての師が流用されていき、猟師、漁師、医師などが発生した。以前、医師は医者と呼んだ。一方、会計士や弁護士、行政書士、司法書士など、一級国家資格に「士」が使われた。これは武士にあやかり、偉い階級ということで…。平成時代に入ると一層機械化が進み、職人の必要性は下火になり、瓦師、表具師、畳師などは珍しくなって行った。
医師、教師など、偉そうなのは残り、「振込め詐欺」を発明した頭のいい詐欺師も活躍中だ。それに代わっていろいろな資格に「士」がつかわれるようになった。建築士、歯科衛生士、税理士、介護福祉士、栄養士、不動産鑑定士、自動車整備士など、その数は膨大である。近年新しく生まれた資格検定から、「○○士」とつけられた(どうでもいいような)資格も多い。
「~師」又は「~士」の付く職業名は、保健医療の分野に21職業、法務の分野に3職業、経営の分野に3職業ある。これらの職業は、いずれも法的な裏付けにより国が資格の交付にかかわっている国家資格の職業であるという点で共通しているが、医師、薬剤師,看護師と、理学療法士、歯科衛生士のように士の付くものはどのように使い分けられているのだろうか。
日本で最初の看護学校は明治18年に設立されたが、当時はまだ看護に関する資格制度が導入されておらず、看護の仕事に従事する者は看護婦や看護人と呼ばれていた。看護婦、助産婦、すべて「師」と改訂されるが、医療分野の技術的な仕事の職業名に「師」がつくのは、第二次大戦前に、概に職業として成立していたと考えられている。現在、「師」と「士」の区別のルールは判りづらくなっている。
第二次大戦前から存在した歯科技工士は、なぜ「師」ではないのかとの問題も解明されていない。「士」は明治時代になって西洋の制度を導入するようになってから、使われ始めたまでは分っている。まあ、あまり突きつめて、知識を得てもどうということはないのだが…。自分の体を委ねるがゆえにか、医師と患者は信頼関係が大事である。が、医師とは無駄話をする機会などない。
いうまでもない、人と人はコミュニケーションすることで信頼関係を築いて行くし、歯科医院の場合それはもっぱら歯科衛生士の役回りであろう。「感じのよい歯科医院」なんてのは歯科医の対応より、歯科衛生士や受付も含めた院内全体の雰囲気の向陽性であろう。今まで通ったすべての歯科医院は"お通夜"のようなところばかりで、そういうものだと思っていた。
やはりコミュニケーション(会話)は大事である。それがあるから、自分は衛生士の指示を聞くし、コミュニケーションの全然ない医師とは、そこら辺りが違うのは当然だ。敵対するわけではないが、男と男はいかばかりのそういう感じは否めない。同じ事でも女性の方がトーンが柔らかいし、それよりなにより先に言ったコミュニケーションが成り立っている。
親子でも夫婦でも恋人でもコミュニケーションは信頼関係を築く。会話は無駄話で十分だし、他愛ない無駄話の方がむしろいい。「患者と私語を慎むように」などという院長はダメだろうな。巷の見方もそうだと思うが、歯科医院の繁栄は、医師より衛生士にかかっているというのは、決して言い過ぎではないだろう。それでなくとも行きたく歯科医院である。
行くのが躊躇わないような雰囲気は、衛生士が醸し出すものだろう。コミュニケーションが苦手、好きでないという人も居るだろうが、自分の知るある営業マンを思い出す。子どものころから赤面症を自負するだけあって、会話は苦手、人付き合いは苦手だったという、そんな彼が優秀な営業マンに変身した。彼から過去の事実を聞くまでは想像すらしなかった。
彼はそんな自分を嫌悪し、自己変革のために「話し方教室」にも通ったという。現在の彼からして想像ができないし、だから興味をもっていろいろと尋ねた。「話し方教室ってそんなによかったの?効果があったってことだな?」と問うと、答は「No!」であった。彼は言う。「良いとか悪いとかいうより、中でメンバーが話し合う時間を持つということだけです」。
「なんだ、それならサークルに言って会話するのと同じじゃないか?」、「ハッキリいってそんな感じでした。そういうところに行って会話が上手くなるとかではなく、話す機会を多く持つという、それだけです」。なるほど…。英会話教室も同じこと。そこで英語で会話するだけである。語学を習得するもっとも適切な方法は、その国に行くことである。
その国に行って、その国の言葉を使わなければ生活できない境遇に自分を置くことである。それが何より手っ取り速いし、一定期間外国に行くとか、留学するとかの主旨はそういうことである。その国で生活すればどんなバカでも話せるようになる。生まれた子がその国の母国語が話せるのと一緒だ。塾に行けば成績が上がるのか?ピアノを習いに行けば上手くなるのか?
誰もそうはならない。友人も会話教室に行ったから有能な営業マンになったわけではない。普段から高い意識と目に見えぬ努力を続けていたことに尽きる。「きっと地道な努力をしたんだろうな?」というと、「努力の記憶はないですが、希望はずっと持ち続けていました」。それを努力というのであって、努力した人間は自分ではそう思っていないことが多い。
大した努力をしない人間の方が努力をしたという場合が多い。努力は目的ではないし、単なる手段であるから、目標・目的に達した人間(結果を得た人間)は、努力という手段を誇示したり自慢はしないものだ。努力を誇る人間は、目的・目標を得られなかった人間に思える。「努力したのにダメだった!」という人間は、本当に努力をしたのかどうかの疑問が沸く。