ネットで「ブログ論」を検索するといろいろ出てくる。「ブログ論」なる仰々しい命名はともかく、ブログについて個人的な考えを書けば、それはブログについて論じたことだから「ブログ論」でいい。すべてのブログがそうであるべきで、"ブログはこうでなくちゃ"などは勝手に言ってろで気にすることもあるまい。何も気にせず自分のやりたいことをやる人間には…
ただ、ブログを始める際に、「どうやればいい?」とか、「人はどうやってる?」とか気にする人はいる。そういう人は気にしてあれこれ考えたらいいが、ハッキリ言えることは世の多くのことに答はない。あれこれ言う他人がいたとしても、それは正解ではなくその人個人の考え方で、それを押し付けるに過ぎない。人間はこういう風になれば割りと自由に生きられる。
自由志向性の強い人は、抑圧された過去があったのかもしれない。自分に関していえばまさにそうである。人は分らないが、同じ抑圧されても抑圧を受け入れて生きる人もいる。その違い一つとっても人間は二つに分かれるようだ。友人などで、「どうしてそんな抑圧を受けて平気でいられるのか?」という不思議さはたくさん見聞きもしたが、「別にそれでいい」という。
反抗(反発)しないのか?というと、(たとえば相手が親なら)「育ててもらったから」という。以前はそれについていろい言ったが、反発は人に言われてするものでも、できるものでもない、自分の内から溢れ出たものであって、だからいろいろ言っても相手を苦しめるだけというのがよく分った。反抗は自分が自分の利(自由)を求めてやるもので、誰のためでもない。
社会学的にいえば、人が人に価値観を伝授することはできない。人は単に環境から学習するが、環境の中には価値観を伝達したがる人もいたり、何がしかの(例えば幸福というような)価値観から乖離した行動をする大人もいたり、どんな人がどういう価値観を伝授するかは子どもに大事である。あとは自己教育力、そうした環境の総体から子どもは物事を学ぶ。
間違った価値観を子どもに伝授する親は多いが、それでは、「間違っていない価値観とは何だ?」ということになる。AがBを見て間違いといっても、BはAを間違いと思っている。となると、何が正しいのかというのをどうやって見つける?それが思考である。あるいは賢者や博識のある人に尋ねる、教えを乞う。それを体系にしたものが宗教ではないだろうか?
よって、キリストもマホメットも釈迦も正しい考えを持っている人とみなすところから始まっていく。もし、3人の意見が違ったとき、誰の意見が正しいかを裁定するものはいない。いないから、というわけではないだろうが、基本的にキリスト教徒はキリストを正しいと、イスラム教はマホメットを正しいと、仏教とは釈迦を正しいと信じているのであろう。
宗教は信教とも信仰ともいうように「信じる」が前提で、信じる人を信者という。人が信じることに他人が口出しするのは間違っている。とはいうものの、新興宗教の教祖には間違った人もいるから、誰かが信者に「間違っているよ」と教えなければいけないが、教える人が親であり、兄弟であり、友人であっても、崇める教祖とは格が違うから、おそらく無理であろう。
昔のことだが、2人の女性に宗教を止めさせたことがある。3人目は「エホバの証人」でコレは寸前まで言ったが無理だった。いずれも寝食を共にするくらいの深い関係であったから成立したと思っている。女は(みながそうとは言わないが)、自分が入信している宗教を隠すことが多いが、恋人や彼氏ができると、生活の一部となっている宗教を隠し立てはできなくなる。
そもそも信者としての宗教を隠すということ自体、負い目があるとみていい。宗教とは不思議なもので勧誘されて深く考えずに入信し、止めるきっかけもないし、止めると災いが起こるのではという不安が先立って宗教を止められないようだ。内部の誰かに「止めたい」などというと、説得や妨害もあるという。説得は分かるが「妨害」って、それも宗教なのか?
いや、それこそが宗教なのだ。信者の論理より教団の論理や都合が優先する宗教なんぞ、橋の下の乞食よりたちが悪い。橋の下の乞食は身なりも悪い、住む所も貧相だが、誰にも迷惑をかけていない。そういう意味での乞食です。信教の自由は認められていますが、こうしてブログに好き嫌いを書くのは単に自己問答です。オカマも嫌いと書いても咎めを受ける筋合いはない。
世の中は好きな物と嫌いなもので成り立っている。それにどっちでもないがプラスされるが、どっちでもないというのはどっちなのだろうか?分り難い答えだから、「興味ない」、「考えたこともない」の方が分りやすい。好きでないなら嫌い、嫌いでないなら好きが決めつけなのかどうなのか、どっちでもないというのは、いい加減に好きとか嫌いとか下せないのだろう。
確かに二元論は難しい。24色の色を好きか嫌いかで言いなさいといわれると困る。黒とか灰色とかは基本的に好きではないが、黒でなければ、灰色でなければダメというところで、他の色はおかしい。嫌いな黒といっても、黒い洋服は嫌いでも黒いストラトは素敵だし…。「どちらでもない」が単に嫌いだから、黒白ハッキリいうのも、何らカッコイイわけでもない。
このように何事も思考を深めると、安易に出している答えの実に無責任なこと、いい加減なこと、だからと言って突きつめると生きていくのが難しくなる。そういう時にブログで自己問答をするのだ。したがってブログの発言そのものが自分の(当人)生き方を示すというより、ブログは思考の場としてあれこれ考えるところ。だから極端な思考も飛び出す。
普段はもっと気楽に安易に生きているものだと思う。囲碁・将棋の棋士が、日常生活の場で何十手も先を考えたり見つめたりはしないだろう。ブログは自身の考えと格闘するけれども、基本は娯楽である。ただし、人間の基本的な性向を現すのは紛れもない。そういった娯楽のなかで、目くじらたてて言い合いし、言葉を荒げたり、それとて娯楽であろう。やりたい人はやればいい。
ブログに対するこういう意見がある。ちょっと変わった考えなので真意を考えつつ載せてみる。「私がブログを書く理由について書きます。それは、論破されるためです。言い換えると、自分の見識がいかに狭量で間違っているかを知るためです。このブログの記事は、見て頂ければわかるのですが、おそらくはいかにもドヤ顔感いっぱいの上から目線な雰囲気に仕上がっています。
でもこれは、別に「真理に気づいてしまった俺が無知な読者のお前らに教えてやろう」と思ってやっていることではありません。そうではなくて、自分がその時点で正しいと思うことを出来る限り率直かつ簡潔に述べることが、議論の作法であり、書き手の責任だと考えているからです。特にブクマが伸びた記事などでは、しばしばコメントで辛辣な批判もいただいています。
しかも、そうした辛辣なコメントの多くは、私の記事側の間違いを的確に突いています。この2ヶ月書いてきたことの半分くらいは、既に間違っていたのではないかと考えるようになっている程です。これははっきり言って凹むし、とても恥ずかしい。しかし、同時にこれこそがブログを書く意味でもあります。ブログに書かなければ、私は自分の見解が間違っていたということを知ることができなかったはずだからです。
知らなかった前提知識を教えられたり、小気味良く論破され、自分では気づけなかった間違いに気付かされることは、頑張ってブログを書き、間違いがわかって凹む、というコストを払うのに十分値することだと思います。誰かを論破してしまったとき、得るものは(少しの快感以外には)何もありません。でも、論破されたとき、世界は少し広がるのです。これは何者にも代えがたいことだと、私は思います。」
性格がなんとなく伝わる文章だ。真意は奈辺にと言えるほどにたくさんの思いが文字に現れている。①論破されたいはコメンターをよい気分にしてたぶらかしている。②我こそは論客なりを呼びよせている。などと殊勝な言い方だが、孤独な人のようだ。そのそも「論破されたいがブログの目的」と、向上心に見せているが、黙っていてイイことをあえて口にする。
それが本当に目的なら、自分はこの人には何も言いたくなくなる。仕掛けにかかっているようだからで、それに気づかずあれこれいうのも羞恥であろう。それがもし本当にブログを書く理由なら、そのように書いてはダメだ。真意を隠してこそ向上する意味があろう。だから、嘘でも他の理由にするか、黙っておくほうがいい。例えばこういう女がいたとする。
「私を口説いて欲しい。口説かれるのを待ってるし、望んでいる」という女。こういうところにしゃしゃり出て行く男はまず、口説けないし、女に弄ばれているだけ。本当に男を求め、口説かれたい女はこんな発言はしないものだ。余計なことはいわず、だまってその時間を楽しむ。このようなことを公言する女は、時間を楽しむのではなく、時間を試している。
上の男がかなりのしたたか者で、腹黒い男であるなら、この女と同様、口説かれない自信があるからだ。口説かれない自信というのは、相手を高度に品定めをしているか、高邁な自尊心を「我が美徳」と誇りたいのであろう。駆け引きは誰にでもあり、それは自然なものだが、駆け引きを公言する人間に素朴で純真さはみえない。隠すべくことは隠したほうがいいのよ。
「論破されたい」などというブロガーも、「口説かれたい」を公言する女も、ある意味人を見下した失礼な言である。「論破されないぞ」、「口説かれないわよ」という方が人間味を感ずるし、非礼感もない。飛びつきたくなるような客寄せトークには裏があるものよ。表題に書いた、「ブログに何を書こうがそれは自由」と、コレは何ら間違っていない。
であるけれども、この言葉をいちゃもん付ける人には言わない。こんな当たり前のことが分かっていながらあえて発言に何かを言う人に、この言葉はその意味で無意味である。これで退散させようなどは逆にみっともなさ過ぎる。くだらないいちゃもんなら、むしろそれを吐いた人間が、赤っ恥を書くようなことを言った方がいい。その発言がまさにそうであるなら。
以前にいちゃもんつけた側にブログの主が「何を書こうが自分の勝手だ」と言ったら、コメント側も、「そういうなら俺だってなにを書こうが勝手だろ」といわれて、閉口していた。確かにコメントに何を書こうと言い分としては成立するであろう。マツコデラックスは以下のように言う。「どこの誰だか判らない、どんな性格かも判らない人からの書き込みは、ロボットが書いているのと同じだもの。」
彼の発言は説得力があるというが、これなどはレトリックの典型である。以前から新聞などには読者の投稿として、「秋田県・○田○夫」、「東京都・○川○子」、あるいは「匿名」などもあるが、これとで現実的には、どこの誰だか判らない、どんな性格かも判らない人である。日本全国から集まるというのはそうことで、いちいち誰だの性格だの、いう方がオカシイ。
それをしてロボットの発言という。こういう種の発言を信条の彼は、突飛で屁理屈を言ってるだけ。好きな物と嫌いな物に白黒つけると、無理がでてくると最初にいった。彼はブログをやらないし、ブロガーは嫌いらしい。それをロボットが書いたというところに、彼の面白さがあるのかどうなのか、自分は何も面白くない。彼の好き嫌いは自己正当化に於いても無理がある。極めつけは以下の発言。
「日本のデブって頑張ってよく見せようとしても汚いの。それはどんなに小奇麗にしてても自分は醜いんだってどこか卑屈になってるところがあるから、そういうところが本当に嫌い。 アメリカのデブの堂々っぷりを見習いなさいよ。デブほどゴージャスや余裕っぷりを見せてるじゃない。日本人て謙遜と卑屈が混ざったところがあってデブがそれを象徴してると思うの。」
「何を言うのも自由」ではあるが、「間違いを言うのも自由」ではない。明らかに誤読であるとか、年表とか人物・地名などの誤記の指摘なら、丁重に謝意を示すべきであろう。が、解釈や見解の相違についての指摘は、相手の意見も含めて再考するのがいい。揚げ足などのいちゃもんはそれにあらず。あとは、自分の記事や画像の転載が嫌ならハッキリ記すべきだ。
文章、画像は、公にした以上自由であるべきだが、人それぞれの判断を尊重すべし。青山繁晴のブログには以下の記述があり、この考えを自分は好んでいる。「この地味ブログの本文、写真いずれも、いくらでも転載可能です。ブログ、SNS、ツイッター、なんでも自由にどうぞ。このブログにあるぼくの記述、写真はすべて、エントリーした時点で公開情報です。
ただし、一部だけの転載、アップは、全体の意味やニュアンスを変えてしまうことがあります。いくら何でも、"アップするなら、すべてを載せてください"とは言えませんが、元の意味を変えないようには、お願いしますね。」多少オーバーに言えば、多少言葉を変えても元の意味が変わることはないが、問題になったときに元文が残っていればいいわけだし。