それにしても世の中はいろいろな人で成り立っているというのが、一昨日の記事に書いた物理学者の考えと、それに呼応した病院の名誉院長。いろいろと物の見方の幅を考えさせられた。高名な物理学者という事だが、高名であれ無名であれ、オカシなことをいうものだと、批判する自分の論は正しいのかというと、物理学者の言葉を批判する意見を述べているだけ。
人の意見を批判すると、「だったらお前は正しいのか?」と反目する人間は多い。批判する側が正しい、批判される側は間違っていると、そのように言う場合もあるが、正しい、正しくないはあくまで便宜的な言い方である。物理学者の意見は、彼が正しいと思っていっているかどうかは分らないが、まぎれもない物理学者の意見であるが、正しいとはいっていない。
自分は物理学者の意見を批判はしたが、自分が正しいとは言っていない。どちらも「正しい」言ってはいないが、心で「正しい」と思っているかどうか、それは分らない。自分はどうか?物理学者を批判した意見を正しいと思っているのか?そうは思わないが、彼の意見は間違っていると考える。それに対する自分の意見は言うが、「正しい」と言うのは実は難しい。
つまり、「正しい」とはどのように正しいのかを含んでいるからだ。①自分にとって正しい(自身の知識、考え、人生経験などを総合して)、②自分にも人にも正しい、③男として正しい、④日本人として正しい、⑤すべての人間にとって(批判の余地のないくらいに)正しい、⑥宗教信者として正しい、などが具体的だが、これ以外にも「正しい」の用法は多い。
親として、子として、上司として、部下として、企業人として、また政治家として、物理学者として、哲学者として、など職業や老若男女や地域性、国民性などを付け足せば「○○にとって正しい」はどんな風にも言える。武田邦彦教授の著書『正しいとは何か』を紹介したが、こういう本を読まずとも「正しい」がどう正しい、何に正しい、誰に正しい、とすれば難しい。
批判を怖れぬことだ。批判をするち、「お前が正しいのか?」という反論も返ってくるが、そんな言い方は野暮というもの、恐れる必要もない。その様に言われたら、「正しいかどうかの判定は自分にはできないが、自分の考えを言ったまで…」と言えばよい。何が正しいなどは当事者に判定ができないと言っても、第三者なら正しく判定できるものでもない。
判定者はスポーツ審判員のように、あるルールに乗っ取ってなされている場合、ルール違反かどうか、得点を争うゲームなら入った得点に合理性があるかどうか、認められるか否かの判断を委ねられている。それでも正しい判断(判定)は難しく、ミスも多い。裁判官とて同じことで、正しい判断を常に下すという事でもない。つまり、裁判官もミスをする。
裁判官のミスも許されない。というより裁判官のミスを誰がミスと判断する?それは別の裁判官がすることになる。ある判決に納得できないなら、上告というシステムがあり、上級審(上級裁判所)によって下級審(下級裁判所)の判決が覆されることもある。これは下級審の裁判官が間違っていた、という何よりの証明である。では、下級裁判官は間違え易いのか?
高裁、最高裁の裁判官は間違いが少ないのか?そんなことはない。上級であれ下級であれ、ミスはするし、ミスのない場合もある。上級裁判所が下級裁判所の判決を支持することも多く、こと裁判官にとって最高裁判決というのは、絶対に従うべきルールである。民間実務家(弁護士)は、最高裁であれ、高裁であれ、地裁であれ、判決は非常に重要視している。
しかし、裁判官にとって、最高裁判決とそれ以外では、重さはまったく異なる。高裁の判決ならまだ地裁の裁判官は、一つの参考として見る。しかしそれも参考程度であると思われる。実際、高裁判決といえども大きな拘束力もなければ、先例としての重さを持っていないのである。ましてや、地裁判決ならばほとんど参考にならないとも言われものもある。
実際、あるベテラン裁判官経験者の著書には、「裁判の現場では、下級審の裁判例についても取り上げることがありますが、圧倒的に大きな力を持っているのは拘束力のある最高裁判所の判例です。」裁判官って一体何?この問いに対する絶対的正解は、「人間である」ということか。その上に形容詞を付け加えれば、「重大なミスをしても許される人間である」
人間なんてのは何処の誰でも批判は可能だから、裁判官も批判の矢面に立つことは珍しくない。批判もあれば以下のような同情論もある。「我が国の裁判官は日本で最も可愛そうな人種と考えられる。川原の掘っ立て小屋で生活している乞食でさえ、自分の考えを主張して他人と議論することができるが、裁判官の異常な精神構造による思考では、それは土台無理なこと。
我が国の裁判官と検察官・警察官及び自民党関係者を除き、ほとんど全ての国民・世界中の全ての人々からその考えを否定される。彼らは権力の内部にいる時しか、権力が守ってくれる時しか、自分の考えを主張することができない何とも可愛そうな者たちではないか。退官後は自らの考えを一切主張せず、裁判官であったことも隠して生きるのであろう。」
我が国は三審制である。裁判の当事者が希望する場合、合計三回までの審理を受けることができる制度で、国民の基本的人権保持を目的とする裁判所で、慎重・公正な判断をする目的である。慎重な審理との関係で、三審制の3段階という階層は必然的なものではないが、三審制を採用している国が多い。一部の案件や「東京裁判」など、軍法会議などの例外もある。
とはいえ、下級裁判官が全身全霊を傾けて出した結論であれば、それを上級審でいとも簡単に否定されたら、いかがなものであろうか。司法試験には1級、2級、3級などという区別はなく、上級裁判所の判事が、下級の判事より能力が上という根拠はないのである。裁判官の職務はほとんど世間の常識に基づいて行われ、特別な知識や能力、経験を必要とする事案は少ない。
下級審判決を上級審で否定されたからといって、上級審を非難する声が下級審から上がることはない。自身の判断をいとも簡単に否定されて、正直いかがなものであろうか?下級審裁判官が一生懸命やったところで、上級審でどうなるか分からない、あほらしい、ならば簡単に検察の判断を追認しておこう、ということになってもおかしくはない。それが人間だろう。
上級審も法的安定性の名の下に、下級審の判断を追認し冤罪事件が作られる。このように、三審制の内包する欠陥が悪しき形で現われている司法制度と言える。裁判官の仕事歯は世間の常識に基づいて行われるので特別な知識や能力、経験は不要といった。彼らの勉強といえば、法の条文や判例ばかり見ていることになろうが、そんなで精神に異常を来さないのか。
企業の毒にまみれた廃液をそのまま海に垂れ流していいはずがない。こんなことは特別な勉強をしなくても、裁判官でなくても、健全な常識を有する人間であれば何も問題ない。こんな素人でもできる判断に権威をもたせるためか、法律の条文はわざと分かりずらい難しい表現にしている。例えば学者や専門家にしか分らぬような表記だと、素人にはチンプンカンプンである。
専門的な語句の表記によって難解になりやすい文を、いかに分かり易く書くことができるかで、その人の技術力の高さや能力を判別できる。裁判官は判決の条文を書くのが仕事であるが、あれほど仰々しくも分り難い文はないだろう。あえてとっつきずらい表現記法とすることで、裁判官等の権威の維持と、法の問題点を国民に知らせないことを狙ったものである。
世の中、専門家がやたら難しい言葉を使って、素人を煙に巻くという事はあるが、「四畳半襖の下張事件」というのがあった。月刊誌『面白半分』の編集長をしていた作家野坂昭如は、永井荷風の作とされる戯作『四畳半襖の下張』を同誌1972年7月号に掲載したところ、刑法175条のわいせつ文書販売の罪に当たるとされ、野坂と同誌の社長・佐藤嘉尚が起訴された。
本裁判にあたって被告人側は、丸谷才一を特別弁護人に選任し、五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、有吉佐和子ら著名作家を次々と証人申請して争い、マスコミの話題を集めたが、第一審、第二審とも有罪(編集長野坂に罰金10万円、社長の佐藤に罰金15万円)としたため、被告人側が上告した。1980年11月28日、上告を最高裁第二小法廷が棄却し、わいせつ性の理由を下記のように判示した。
「文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうつたえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の健全な社会通念に照らして、それが「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」(前掲最高裁昭和三二年三月一三日大法廷判決〔チャタレー事件判決〕参照)といえるか否かを決すべきである。」
上告棄却後の記者会見場で、野坂昭如は裁判長の栗本一夫を以下、痛烈に批判した。「文章を裁こうという裁判でありながら、判決文が文章としてろくなものでない。こういう文章を書く人たちが日本の伝統に支えられた文章を裁くことができるのか。ハハハ…」この裁判で栗本裁判長は、野坂に「"好色、どうして悪い"と挑まれた。が、裁判官は全く答えることはできなかった。
1976年公開の日仏合作映画、『愛のコリーダ』(大島渚監督)は、「阿部定事件」を題材に、男女の愛欲の極限を描いた作品だが、本作品の脚本と宣伝用スチル写真等を掲載した同題名の書籍が発行されたが、その一部がわいせつ文書図画に当たるとして、わいせつ物頒布罪で監督と出版社社長が検挙起訴された。対する被告人側は「刑法175条は憲法違反」と主張、憲法判断を求めた。
一審、二審とも従来の判例を基本的に維持しながらも、「当該書籍はわいせつ物に当たらない」として無罪とした。大島は、「わいせつがなぜ悪い?」と裁判官に論争を提起するも裁判官は答えられなかった。出版物等に対するわいせつの規制は、国家権力が国民を従順にさせるための方策の一つに過ぎない。裁判官はそのことを理解しているから答えられない。
そもそも国家権力が、国民を従順に従わせる、などということはあってはならないのである。だが、管理されるのが好きで、無知文盲なこの国の国民はこれらに従順である。誰もがパンツの中に"わいせつ物"を所有し、わいせつ行為を行っている。違うのかね、裁判官?最近テレビなどによく顔を出す、元横浜地裁の井上薫元判事は、2006年に再任を辞退して退官した。
誰が批判していたのかは知らないが、井上判事は判決文が短かすぎると批判されていたという。普通の人でも出来ることに権威を持たせるためには、わざと分かり ずらい表現を用いて、ゴチャゴチャ書かねばならない(これが能力の欠如と相まっておかしな文体となる)、という内部の"常識"がある。井上は先輩が守ってきた裁判官の権威を失墜させるものである。
という内部からの批判に対して井上氏は、理由もないのに長く書く必要はない、との考 えのようだ。分かりやすく簡潔に、がベストなのは言うまでもなく、どの世界でも常識である。問題は警察、検察の判断を 安易に追認した判断、政権の意を汲んだ判断でない正しい判断ができるかどうかであり、正しい判断が出来れば、判 決文は短くても何ら問題はない。
井上は旧態依然とした保守的な体質を踏襲せず、自身の考えで対応した。それが上司、先輩ならびに同僚の反発を買ったのだろう。巷言われるように、裁判官は社会を知らない。裁判所という狭隘で小さな組織からでしか社会を見ることが出来ないからであろう。井上氏だけでなく全ての裁判官に共通の問題であろう。