Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

優越感・劣等感

$
0
0
人の心を見抜くというのは至難だが、これは能力でもある。注意して見れば人の本音はどこかに表れるもの。それがその人に会いたいと思わせることになる。世の中には二度と会いたくない人間もいるが、また会いたいと感じる人間もいる。相手にそう思われることもある。相手に媚びたり自分を作ったり、そんな無理をせずとも、ちょっとした相手の心や気持ちが読めることで好感をもたれたりする。

勘違いや思い込みも同居するが、人の心が見抜けると人生に大きな力となる。書店に所狭しと並ぶ成功本、あるいは批判書も、タイトルの一面だけを読むというより、成功本から批判を見つけ、批判本から隠されたものを見つけるのも面白い。人間は多面的だし、それをSだのMだのと一元的に捉えようとするのは、子どものお遊びだ。人間の深さを知る者はそんなことなどどうでもいい。

星を見、虫の声に耳を傾け、あらゆる感性を磨く。雲の流れ、風の向きにも注意をむける。人を妬む、恨むがあってもいいが、そればかりにエネルギーを傾けない。反面教師にすることもできる。言い尽くされた言葉だが、人に寿命があるなら今を精一杯に生きる。それが一番いいとは思うが、今を犠牲にして未来に賭ける、あるいは夢を託す人もいる。道半ばで倒れても、悔いはないならいい。

あれはダメ、これもダメと規制するより、あれがダメならこれ、これがダメならあれという風に、代わりの何かを見つけることだってできるはずだ。学校がイヤ、会社がイヤ、だから行きたくないし辞めたい。学校は学校、会社は会社であり、社会=心ではないはず。ようするに社会と心の二つの視点を持ったらいい。世の中に生きてて楽しいことは沢山ある。苦しい時は自分で自分の首を絞めない。

ガンジーや空海など、苦しさに耐えた人の伝記でも読み、女工哀史の物語でも読めば、自身の甘えに気づくこともあろう。徳川幕府は、当時人口の九割を占めた農民の不満をそらす目的で、エタ・カワタと呼ばれる身分を、「士農工商」の身分制度の下に新たに作った。さらには、農民に対して、「上見て暮らすな下見て暮らせ」と教え、エタ・カワタの人々への苛烈な差別が行われるようになった。

「非差別部落史」の通史を物語風に言えば、こんなストーリーが頭に思い浮かぶが、差別の構造は人間の優越感と自尊心であろう。優越感とは自分が他者より優れているとの認識で、ココから生じる自己肯定感情。自尊心の一端に位置する感情といえる。優越感の対語は劣等感となる。人間は優越感と自尊心を上手く使い分けている。ほとんどすべての人間は以下の相反する時間を過ごしている。

 ◎自分が得意なことをする時間、得意ではないことをする時間

 ◎自分の好きな人と接する時間、好きではない人と接する時間

 ◎プレッシャーのかからないことをする時間、プレッシャーと格闘する時間

自尊心と優越感は、これらをうまくやりくりするための力といえる。得意なことをやり、好きな人と交流し、プレッシャーのかからないことを楽しむためには、優越感を使うことが有効であり、得意でないことをし、好きではない人と接し、プレッシャーと闘うには、自尊心を使うことが有効とされる。無意識に使っている場合の、これら使い分けの意味を細かくいうと、自尊心は、「自分を肯定する力」。

自分が生きていていい。自分がなにかを好きになっていい。自分が何かを獲得していい。なぜなら、自分はこの世に生き、存在しているからであり、生きている者にはその権利がある。それが自尊心であろう。優越感は自尊心の一端感情といったが、細かくいえば、「自分をすごいと思う力」、「自分を特別だと感じる力」である。自分が生きていていい。自分がなにかを好きになっていい。

自分が何かを獲得していい。などの許認感情。なぜなら、自分は他の人間とは違うから。自分は特別だから。自分には、他の人間は持っていない特権があるから。などと思うのが優越感。自尊心の発生に他人は関係ないし、必要としないが、優越感は必ず自分より劣った人間を必要とする。それが自尊心と優越感の違いで、優劣の感性こそが優越感である。優越感が発生するときは気分がいい。

「自分は特別だ」という意識がいいようのない快感になるが、何に対して特別かといえば、「他人よりも特別」なのである。優越感に浸って気分がよいとき、その人は自分が他人からどのようにみられているか、適切に把握しているもので、他人が自分の優越意識に敵意をもっているか、悪意を抱いているか、あるいはその逆の羨望の眼差しについても敏感で、敏感だからこそ隙のない行動をとれる。
 
これらは優越意識の高い人の顕著な行動だが、優越意識の低い人はまったくこの逆である。自分は他人からどのように見られているのか、一体自分が何を得意としているのかが、自分で理解できない。つまり、他人から見た自画像が適切に描けないということは、悪意であれ、敵意であれ、期待であれ、他人から向けられる感情には鈍感でとなる。優越感は単に思い込みの場合もあるが、それすらない。 

どうなんだろう、優越感の強い人と弱い人と、どっちがいいと言えるだろうか?優越感の是非を考える前に優越感の対語、劣等感について考えるほうが判りやすい。劣等感はないほうがいい、克服すべきもの、誰もがそのように思うはずだ。強い劣等感に苛まれる人は間違いなく心が弱い人であり、強い心(信念)を持っている人なら、多少の劣等感なら乗り越えられるはずだ。その前に、なぜ劣等感があるのか?

自分の身体的特徴・心理的特性・生活環境などを他人と比較することで劣等感が発生するが、これは自我の発達と共に自然に起こることでもある。劣等感は誰でも抱くものといっていい。それらとは別に、競争心を煽ったり、競争社会が劣等感を生むといわれている。競争心があるから人は成長するが、劣等感は競争心の残骸であるといえる。人間として生まれ、社会で生息する以上仕方のない事。

が、劣等感が人を苦しめるなら、「劣等感から解放されたい」、「劣等感を克服したい」と誰しも思うが、思うことが出来るとは限らない。先にもいったが、心が弱い人だからである。となると、心を強くすることで劣等感から解放されることになる。その方法を考えてみるが、言葉で言うのはまあ、簡単だし…。その前に劣等感から生じる悪影響はさまざまあるし、これらを見て嫌気がさすのもいいかも。

 ・人間関係がうまくいかない。

 ・ストレスからうつ病など、健康被害を起こす。

 ・他人に嫉妬ばかりで、自信がもてない。

 ・自分より劣っている人を貶したり、ペット動物を虐待したりする。

 ・自分より優れている人を認められない。

 ・自分を大事にしない、自暴自棄になったりする。

 ・人に攻撃的になり、暴力行為に及ぶこともある。

 ・アルコールや薬物などに依存してしまう。

他にもあるが、いじめをする側も劣等感の存在はある。人をいじめて楽しいなあどは劣等感の捌け口であろう。優越感とまで行かなくてもいいから、劣等感を無くすという前に少しづつ軽減するために最初にやることは、自分の欠点を知ることだ。嫌なところの順位をつけて、箇条書きに表してみるといい。そうして、自分の嫌なところ、嫌な自分をどうするかという問題に移るのが、第二段階である。

自分の欠点や、歯がゆい部分をピックアップしても、それで自分が嫌でない、それほど嫌でないというならダメだ。自分の嫌なところは徹底的に嫌悪感をもてるかどうか、それが欠点を直すことも含めた性格改善の一歩である。とりあえず、自分の嫌なことが嫌であるかどうか。それがあって、次の段階の改善の努力に移る。人の精神的な成長と言うのは、努力が伴わずしてあり得ないし、望めない。

「自助努力」のいいところは、やれば出来るんだという自信にもつながる。つまり、何かの努力をすることは、その人間の様々な点にいい結果をもたらすことになる。「どうせオレはこんな人間だから」、「別にこのままでいいや」という言葉は冴えないものよ。横着というか、向上心がないというか、こんな風に自分に甘えて何もしない人間が、劣等感を背負って生きる。

劣等感の強い人は例外なく自信のない人間だから、何かに一生懸命になるだけで大いにプラスになるはずだ。とにかく自信と言うのは何かに打ち込むことで得られるもの。理屈を言わず、卑屈にならず、何でもいいから打ち込めるものを探すことだ。ブログをしない人が、「自信がないからやらない」という。それでやっている他人を「自信があるからやっている」という。

こういう言い方そのものが卑屈といえる。やってる者は自信があるからやっているわけではない。そもそも自信とはなんのこと?文章力?話題?何を自信と言いたいのか、さっぱり分らない。そんなことでやるものではないし、とにかく楽しむことである。言うまでもない、自分が楽しいかどうかである。まあ、他にもいろいろな理由を聞く。交流を楽しむという人もいる。

いずれにしても「楽しむ」が主体であるはいうまでもない。自分なんか、交流どころか一人でも十分楽しい。何が楽しいかはいろいろあるが、頭にあることを文字によって具現化できるのが楽しい。言葉や文字というのは実に便利でありがたいものだと、つくづく思わされる。文字や言葉がないと、頭にあることを言い表せない、書き表せない。文字や言葉の恩恵を楽しんでいる。

劣等感の強い人は自信がないからと言った。なのにどうして人と比較するのか?劣等感は人と比較しなければ起こらない。人と比較して自分のダメさに気づき、それが劣等感となるなら、本当は比較しなければいいのだが、それは難しい。だったら比較してもいいから、自分より優れている人は凄いし、沢山いるし、それでいいのでは?人の凄さを素直に認めればいいんだよ。

もし、人が誰と比べると(どんなに優秀で、どんなに美人で、世界でナンバーワンの位置にいるひとであっても)ほとんどの人は自分が凄いとか、一番だとか思わないものだ。ジョコビッチやタイガー・ウッズと比べると簡単に脱帽するから劣等感にならないが、自分の身近な人、ライバル、気になる人と比べてもいいから、「人は人、自分は自分」と割り切ることだ。

実際そうだろう?人は人だし、自分の人生にその人が関わることはない。その人の人生に自分が関わることもない。人は人、永遠にそうである。完全に比べるのは無理であるなら、比べる回数を減らせばいい。人には必ずよいところがあるし、同様に自分にも必ずよいところがある。「自分のよいところなど何もない」などと卑屈な物言いをする人間は少なくない。

これも可笑しなことだ。だいたい、人の良し悪しなんてのは、他人が決めること、判断することなのに、何故か自分でそんな風に言う。バカじゃなかろかといつも思う。自分のことを自分で決めるなと思う。だから卑屈な人という事なんだろうけど…。劣等感を無くすは無理としても、減らす、改善するには他にもさまざまあるが、沢山知っていても仕方がない。

沢山あってもやれることはとりあえず一つで、自分の嫌なところを一つでいいから直してみせることだ。始めの一歩はとにかく何かやる。本当は劣っていないのに、自己評価が低く、他人を高く評価するのも劣等感の強い人の特質だろう。当たり前だ、自分を過大に低く評価すれば他人の評価は高まるはず。先も書いたが、自分の評価は確信ではない。他人がするものだ。

などと書いたが、とかく劣等感を克服しよう、改善しようなどの本は腐るほど出回っているし、劣等感を所有してる人がそんな本や文字を読んだところで、それで劣等感が直るなら、世の中劣等感に苦しむ人はいない筈だ。結局はそう簡単には行かない、難しいから、劣等感に苛む人が多いわけだから、自分が書いたものを劣等感の強い人が読んでも直らない。

それであるなら、そこでどうするとなる。「劣等感なんか直りませんよ」と、コレが最後の手段である。「直るわけないだろう?ずっと劣等感で苦しんでろ、お前のことだ。人が知ったことか!」ということだ。とどのつまりはそれしかない。「ダメ」といわれて反発しないようなら、そういう人間は何をお膳立てしても意味がない。どんなこともやらない。

バカに「お前なんか一生バカでいろ。バカで暮らせ!」と吐き捨てるのと一緒。問題は言われてどうするか、それしかない。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>