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私は貝になっていた

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日常の雑事から離れ、身近なことから人間や世の中の根本的な問題に思考を持っていくと、普段気づかない事が結論されることがある。同時に、我々はなんとも身近な問題のアレコレであくせくしているのがみえてくる。親が子の成績に一喜一憂する姿を見たり、話を聞いたりすると、なぜそうなるのか?どうして鷹揚に構えていられないのかと、不思議でしょうがない。

親は大抵"子どもの幸せのために言ってる"というが、勉強できない子は幸せになれないみたいな言い方である。できないよりできたほうが何でもいいのか?といえば誰もがそうだというだろう。足が遅いより速いほうがいい、手先が不器用より器用がいい、音痴より歌が上手いほうがいい、下手なピアノより上手く弾けるほうがいい、泳げないより泳げたほうがいい、などなど…。

それは確かにそうだし、「足が速いより遅いほうがいい」などとは自分も思わない。が、毎日血まなこになって、「足が速くなりなさい、ならなきゃダメでしょう!」とはいわない。手先の器用さも、音痴についてもガミガミ言わない。ピアノのガミガミは聞いたことがある。ピアノを止めた原因が、「親がうるさい」、「教師がすぐに怒るから」というのは何人かいた。

少女時代ピアノ教室で、ミスタッチしたとき、鍵盤の上の手の平を教師に叩かれ、恐怖を感じたという女もいた。ピアノ教師はガミガミうるさくいうとピアノが嫌いになる事を知らないのだろうか?親はテストの結果や成績についてガミガミいうと、勉強が嫌いになることを知らないのか?知らないならバカな教師、バカな親だが、知っているのにそうするならさらなるバカだ。

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バカといわれればどちらも反論するだろう。「ガミガミなんかいいたくありません。言わなきゃしないから言うんです」。これは理屈にかなっているのか?言い分として正しいのか?おそらくこういう言い方をする人は、それが正しいと思うから言うのであろう。だから、他人が「間違っている」といっても無駄。人は自分の行為を正しいと思うのが「常」であるからだ。

だから指摘する側も、「ガミガミ言うのはダメですよ」というだけでは伝わらない、意味がないのかということになるが、そうではない。何も、理路整然と指摘する必要はない。なぜなら、ピアノ教師であれ、親であれ、サラリーマンであれ、スポーツ選手であれ、ガミガミ言われるのが好きという奴がいるか?そこを考えれば解るだろうに。自分がされて嫌なことをしているのだろ。

ガミガミは注意でも指導でもない。単純に怒り感情の発露であろう。子どもに限らず大人でも相手がむき出しの感情で何かを言われると逆に頭に来る。まさか子どもは頭にこないと思っているのではないだろうな?本当に子どもに注意し、指導するなら感情を表さずに、冷静に適切にいうべきだが、それができないピアノ教師や母親は、いないほうが子どもにとっていい。

最近、テニスの錦織がみるみる力をつけているのが分る。その要因はマイケル・チャンをコーチに迎えたことであるのは誰もが認めるところ。今は全仏オープンの最中で、錦織はコンスタントに三回戦を突破した。そんななか、往年の名プレイヤーで、全仏3勝のマッツ・ビランデル(スウェーデン)が26日付の「レキップ」紙上で、錦織をV候補5人のうちの1人に挙げた。

「四大大会で勝ったことはないが、マリーやバブリンカを上回る危険なバックハンドを持つ」と同氏。錦織のバックハンドは、四大大会2勝のマリー(英国)や昨年の全豪を勝ったバブリンカ(スイス)をしのぐ武器と評価した。第5シード錦織と準決勝で対戦する可能性もある第2シードのフェデラーは、早くも錦織を警戒しているのか、インタビューでこのように答えている。

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「単純にいいテニスが見たかったから錦織を(映像で)見た。必要な情報も得られる」と、これはフェデラー自身の2回戦後、6連覇を狙うラファエル・ナダル(スペイン)の次戦について質問されたにもかかわらずこのような発言をした。錦織とチャンコーチのアジア人コンビは、露骨な人種差別を受けているといわれている。2015年2月14日号「週刊現代」誌が波紋を呼んだ。

記事は錦織に対する、「人種差別的な行為」を指摘する衝撃的なもの。米雑誌ベテラン記者が「(海外では)誰も錦織に興味はない」と解説。外国人の惜しみない拍手は、「いいアンダードッグ(負け犬)」として、「観客が望む通りのシナリオを錦織が描いてくれたから」だという。錦織だけはない。他のスポーツでも日本人選手が、「差別的行為」を受け、海外から身を引いた例もある。

これが「欧米」中心主義のスポーツ界の「闇」なのか。米国で人気のスポーツ誌「スポーツ・イラストレイテッド」で、テニスを専門に取材するベテラン記者のジョン・ワーサイム氏の衝撃的な証言が続く。「日本では大人気だと聞いていますが、正直に言って、錦織は海外のテニス・ファンの心はまったく掴んでいません。というより、誰も錦織に興味がないんです。

欧米人が期待し、関心を持っているのは、欧米のスターたちだけです」と解説する。そうは言うが、テレビの映像を見る限り、観戦する外国人も日本人同様に錦織の健闘を応援しているようだ。では、なぜ錦織の試合が喜ばれたのか。「それは彼が負けたからでしょう。欧米人は自分たちのスターに懸命に立ち向かった末に敗れる、いいアンダードッグ(負け犬)が大好きなんです。

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観客たちが惜しみない拍手を送ったのは、彼らが望む通り、そんなシナリオを錦織が描いてくれたからですよ」と背景を解き明かす。腹黒欧米人とはいったもの、海外のファンが錦織に期待するのは勝利ではなく、彼が選手の、「引き立て役」に過ぎないというまさに屈辱的としか思えないような話。記事は、2013年12月から錦織のコーチを務めるマイケル・チャンにも及ぶ。

チャンが現役時代に実力をなかなか認められず、コートを縦横に駆け回るプレースタイルを捉えて、「バッタ」や「ドブネズミ」といったあだ名を付けられたとも記している。錦織に対して、記事の指摘を裏付けるような出来事がすでに13年6月1日の全仏オープン3回戦で起きていた。錦織はフランスのブレワ・ペアと対戦。第1セットを6-3で先取して迎えた第2セット。

第10ゲームでペアはコーチにアドバイスを受ける違反を犯し、主審はペナルティーによる失点を宣言した。すると、地元のファンは主審と錦織に大ブーイング。錦織が構えを取っても騒ぎは鎮まらず、「観戦マナー」もなされなかった。錦織に落ち度はなく、テニス人生初とも言える大ブーイングに、「こんなブーイングの嵐を受けたのは初めてだった」と試合後に振り返っていた。

このセットは落としたが、結局、勝ち抜けて4回戦に進出。日本男子として1938年の中野文照以来75年ぶりの快挙となったが、何とも後味が悪い。また全仏では、黒人のセリーナ・ウィリアムズ(米国)も、判定に不満を示しただけで観客の不興を買い、ファーストサーブを外す度に拍手され、ミスには大歓声が起きた。敗れたセリーナは、試合後の会見で抗議の涙を流した。

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サッカー元日本代表の中村俊輔は、スコットランド・プレミアリーグ、セルティックに所属していた08年にライバル、レンジャーズのサポーターから、「ナカムラが俺の犬を食った」と書かれた横断幕を掲げられ、英テレグラフ紙は、「誤った侮辱」と非難している。有名なのはドイツWC決勝のイタリア×フランスの試合中、ジダンがマテラッツィに頭突きを食らわせたあの事件。

これは直接的には、マテラッツィがジダンの背後に駆け寄り、「お前の母親と姉は売春婦らしいな?」といったのが要因だが、その前から諍いはあった。試合中にマテラッツィがジダンのユニフォームを引っ張るなど激しくマンマーク、試合中所々で言い合いの1場面でジダンが、「俺のユニフォームがそんなに欲しいなら試合の後にくれてやる」と皮肉をマテラッツィに言った。

するとマテラッツィは、「ユニフォームよりもお前の姉が欲しい」と言い返す。その場は何も起きることなく過ぎたが、「売春婦」発言はこの布石の上でなされたのだが、当初は真相が分らず、アルジェリア移民2世であるジダンへの人種差別、ジダンの家族への侮辱発言といわれた。ジダン本人は発言を控え、ジダンの代理人がマテラッツィの「非常に深刻な発言」が原因と述べた。

1年後の2007年8月18日、テレビ番組のインタビューにおいてマテラッツィ本人から問題の発言が、「Preferisco la puttana di tua sorella.」であると明らかにされた。「お前の姉貴より娼婦 (puttana)のほうがましだ。」という発言であり、イタリア語のputtanaは英語のbitchに相当し、解釈次第では非情に悪意ある重大な差別発言にもなり得る単語である。

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元々マテラッツィはこの手の駆け引き戦はよくやる人物であったが、耐えられずに頭突きをしてしまったジダンが悪いということだ。怒らせて冷静さを失わせるための根も葉もないオチョグリ言葉だと流せばよかったのだが。翌7月12日、ジダンはフランスのテレビ局、「カナル・プリュス」のインタビューを受け、「あの試合を見ていたすべての子どもたちに謝りたい」と話した。

FIFAによる事情聴取の後、ジダンには出場停止3試合と罰金7,500スイス・フラン(2006年7月当時の為替レートで約71万2500円)、マテラッツィに同2試合と5,000スイス・フラン(約47万5000円)が科された。当初、一部メディアが頭突きの原因はマテラッツィの差別発言によるものと報道したため、サッカー界にはびこる人種差別主義に対しての議論が盛んに行われた。

その後、ジダン本人、マテラッツィ本人、及びジダンに発言の内容を聞いたフランス代表のリリアン・テュラムらが差別発言については否定したため、人種差別発言は問題から外された。サッカーのみならず、スポーツにおいて言葉による挑発(トラッシュ・トーク)は日常茶飯事ともいえるため、本件のような挑発した側まで処分を下したFIFAの裁定は大いに議論を呼んだ。

余談だが、仕事で数ヶ月渡米するときの英語の勉強中に、アメリカ人に絶対にいってはいけない言葉として、「Are your mother is a pimp?」と本にあった。好奇心旺盛な自分は、どういう反応をするか試しに言ってみた。冗談が通じなかったのか、いきなりボディー・ブローを喰らい、「お前の腕をねじ上げて欲しいならいつでもやってやる」と顔を真っ赤に怒っていた。

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唐突で脈略のない冗談だが、そういうものが通じないのに驚いた。アメリカ人が日本でいきなり、「あなたの母は売春婦?」といわれても怒るすべもないし、和気藹々の日本人とは感性が異なると感じた出来事だった。このように、終わったことも、未来のことも、あれこれ考えながら同時にブログに書いている。何が正しいかなどの答えは出せないが、自身の考えは生まれる。

何かを断定口調で書くと、意見や考え方の違う人間が、「分かったようなことを言う」などと傍から見えるのだろうが、誰でも何かについて分らないよりは分りたいと思うのが常である。足が遅いより速いほうがいい、手先が不器用より器用がいい、音痴より歌が上手いほうがいい、下手なピアノより上手く弾けるほうがいい、泳げないより泳げたほうがいい、バカより賢いほうがいい。

ではないが、そのためには各部分、分野においてトレーニングするしかない。運動も知能もトレーニングで向上し、効果も出るが、肉体は衰え、脳細胞も減ってスカスカ状態であるなら、なおさらのこと神経線維を太くしなければならない。付加を与える過激な運動は返って体によくないが、答えのない問題はいくら考えてもいいが、答えのある問題は、分らないとストレスになる。

なぞなぞといっても答えはあるし、唐突に出題されて答えが分らないと癪に触るから、思考は答えのない問題に限る。体力や思考力は落ちて行くものだが、こうして長いことブログをやってて不思議に思うのは、10年前、20年前より書くスピードは一段と上がる。つまり速くなる。体前屈ではないが、始めてやるときより少しづつやっているとだんだん曲がるようになる。

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それと一緒か?はやり地道に続けなければダメであろう。「発想力を高め」、「仮説的構想力をつける」ためにやるのではなく、結果は何事もあとからついてくる。ジョギングしていても、今日はいつものルートは体力的に無理だと思えば距離を縮めればいいし、体を余すと感じるなら延ばしてもいいように、5000字ノルマも大変と思えば3000字でも1000字でもいい。

何事も無理はよくないから、そういう気持ちでいるが、とりあえず5000字は負担にならないし、制限なくば6000でも7000でも行きそうなときの方が多い。これが読むための人に照準を合わせていれば気を使うだろう。自分のためにやってるというからどうということはない。以前はよく言われたものだ。「長すぎます」、「読むのが大変」などと。人はみな自己中心主義だ。

自分が書いた自分の記事でも読むのは大変だから、それはそうなのだが、書くことをもってやっているし、書き終われば後はおぼろという事。♪後はおぼろ 後はおぼろという印象的な歌詞の『恍惚のブルース』という歌がある。「おぼろ」とは「朧(おぼろ)月夜」にいう、ぼんやりとかすんでいるさま。はっきりしないさま。の意味と、不確かなさま、の意味がある。

かすんでみえ、葉っきりしないから、不確かなのだろうが、『恍惚のブルース』では、①死ぬほど楽しい夢をみた 後はおぼろ~ ②こころがしっとり濡れていた 後はおぼろ~ ③わたしは貝になっていた 後はおぼろ~という歌詞である。文脈は「後のことは覚えていない」というのだろう。特に三番の「わたしは貝になっていた」というのは、かなり意味深と感じたものだ。

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『私は貝になりたい』というドラマは1958年に放送され、1994年版では主人公のフランキー堺役を所ジョージ、2008年版では中居正広が演じたが、「貝になりたい」の意味は、脚本にある。「こんど生まれ変わるならば、私は人間になりたくない。牛や馬にも生まれません。人間にいじめられますから。どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい」

そういう意味の「貝」である。貝なら海の底にへばりついて何の心配もない。兵隊にとられることもない。戦争もない。妻や子どもの心配をすることもない。だから貝になりたいのだ。が、『恍惚のブルース』で青江三奈が歌う、♪あなたがこんなにしたわたし ブルーパールの霧が降り 私は貝になっていた」の意味は? 一般的には口を閉ざして開かないのたとえだが…。

あれこれ意味を考える。決め付けは簡単だが、それは思い込みの危険をはらむ。ああでもない、こうでもない、いくら考えても答えはでない。しかし自分で考えるということは、出た何がしかの答えに対して責任を取るということ。万人について考えるのではない、自分なりに考えるのだから間違うこともある。しかし、間違っても自分で出した答えなら責任をとる。

それでいいのだろう。自分で考えない人間は責任を取らない。誰が言ったの、彼がいったの…、と自分で考えたのではない。だから責任をとらない。考えると言うことは、自分の考えに責任をとることだ。そりゃそうだろう、自分ですることだし、自分でしたことだ。自分でした事に責任を取らなくなったら、人間オワリだろう。



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