最近驚いたことが二つある。一つは6月5日のブログが書かれていなかったこと。もう一つは、10日のブログが書かれていなかったこと。そんなことで驚いたのか?と思う方もいるだろうが、いずれも翌日に記事をアップして、「あれっ!」と、前日の記事が抜けてることに驚いた。この程度で驚くというのは、コレくらいの事で驚くしか、他に驚くことがないのであろう。
書いたはずが抜け落ちていたのは、書いたという思い込みと、確認の杜撰さである。最近は年のせいか、22時前に眠くなって就寝したりがある。以前のように0時、1時まで平気で起きていることも少なくなった。記事が抜けた他の理由は、注意喚起のおろそかさがあげられる。戸締り、火の用心のような重要な喚起ではないにしろ、以前はそれで失敗はなかった。
普通にしているのに、"忘れる"、"思い込んでいる"などの現象が起きるということが、いうまでもない老化現象であろう。気づかぬうちに、意識しないうちに年をとっていくというのが、今回の二つの驚き現象で確認された。まあ、それならそれでいい、人に迷惑をかけるとか、それほどの大事でもなく、自然体で生活して抜けるブログならそれも自然。
このように老化というのは、自然に訪れるものだろう。人間は病気をしないでいたら一体全体何歳まで生きられるのか?それはどんな生き物にもある細胞分裂に大きく関わる。この細胞というヤツは実は分裂する回数があらかじめ決まっていて、ある回数以上分裂すると壊れてしまう。その回数が人間の細胞では40回~60回で、これは110年~120年にあたる。
つまり、人間は病気やケガをしない限り、120年ぐらいまで生きられると考えられている。とりあえずこれを「寿命」と言うが、生物学的な限界寿命のことだ。実験用のマウスは分裂回数が14~28回で、寿命は約3.5年となる。亀は万年生きると言うが、確かに長生きするゾウガメは、80~125回も分裂をくり返し、175年もの寿命があると言われている。
カメやマウスが何年生きようが、それは学者の問題であって、人間が何歳まで生きるかが個々にとって問題であろうし、人間そのものに対する関心事でもあろう。現在の人間の平均的寿命は、大体65歳から90歳くらいの間に死亡している。人は年齢を重ねるうちに虚弱になるからだが、こんにち学者の研究から人間の寿命は1000年も夢ではないという。
人間のDNA解析から長寿に関係するサーチュイン遺伝子というのが見つかり、それを活性化させる「NMN」という物質も発見された。2011年、ワシントン大学教授の今井眞一郎が、「NMN」のマウス投与実験で、以下に示す驚愕の結果が得られたと発表した。これを機に日本の食品会社「オリエンタル酵母工業(株)」 において「NMN」の研究が始められている。
1. メスのマウスにNMNを投与したら寿命が16%延びる
2. 糖尿病のマウスに1週間NMNを投与したら、血糖値が正常に
3. 生後22カ月(人間では60歳)のマウスにNMNを1週間投与したら、細胞が生後6カ月(同20歳)の状態に
早速というか、新興和トレーディング株式会社(本社:東京都港区)のオリジナルサプリメント販売ブランド「ミライラボサプリメント」が、2015年4月1日から販売しているNMN配合サプリメント『ニコチンアミドモノヌクレオチド+レスベラトロール』の販売が好調である。販売開始わずか22日間で、Amazonサプリメント新商品ランキング第1位を獲得した。ちなみに価格は29,160円也。
「不老長寿」の薬ではないが、不老不死は人類の長年の夢である。秦の始皇帝に仕えた徐福は、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と始皇帝に具申した。それで始皇帝の命を受け、3,000人の若い男女と多くの技術者を従え、五穀の種を持って東方に船出したのだが…、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。
徐福出航の地は、現在の中国・山東省から浙江省にかけて諸説あり、河北省秦皇島、浙江省寧波市慈渓市が有力。途中、現在の韓国済州道西帰浦市や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされる。青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承がある。徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市から、2200年前の中国の硬貨半両銭が発見されている。
実際に「不老不死薬」として欧米で発売されている「TA-65」というサプリメントがあるが、効果のほどはどうなのだろうか?「TA-65」は、細胞分裂を制御する「テロメア」に関連する酵素を活性化するとのことだが、日本のAmazonでも普通に売っている。ちなみに価格は1ヶ月分が23,000円である。動物の体にある細胞の大半は、分裂できる回数に限りがあると書いた。
これには、染色体の末端に位置するテロメアと呼ばれる配列が深く関係している。細胞が分裂すると染色体の末端のテロメア配列が少しずつ失われていくが、「TA-65」はヒトの培養細胞でのテロメア伸長、マウスでのテロメア伸長と運動機能、記憶機能の向上が確認されたのだという。また、肥満・喫煙・ストレスは、短いテロメアとの関係が分っている。
逆に、運動・マルチビタミン・オメガ3脂肪酸は、長いテロメアとの関係がいわれている。寿命を延ばす効能として、具体的には、理想的な体脂肪率(女性は22%以下、男性は16%以下)及び、適度な体重を保ち、1日1時間以上の有酸素運動及び、レジスタンストレーニングを行い、一日8時間の睡眠をとり、ストレスを軽減し、喫煙者はタバコを止めることだという。
数十年後に人間の寿命は1000年もあり得るとある学者はいう。100歳でも長寿なのに1000歳まで生きていたらどういうことになるか?歴史のスパンを100年とするなら、まさに歴史をまたぐ。今から約1000年前といえば平安時代中期、三条天皇と対立していた藤原道長は、1015年天皇に譲位の圧力をかける。三条天皇は翌年正月に譲位、東宮敦成親王が即位し、道長は摂政となる。
そんな時代から今の時代まで1000年も生きるって考えられん。自分の年齢さえおぼつかない。「何歳ですか?」と聞かれ、「はて、893歳だったか、いや894歳かな?ハッキリわかりません…」てな具合。人間の適正寿命はどれくらいがいいのか、人さまざまであろうが、ちなみに自分はどうなのか?40~50の若さを維持できての200、300歳なら、500歳でも生きてはみたい。
余命数十年を睨んで、こんなことを問うのも野暮というものかも知れぬ。ただし、寿命が延びても健康体とは限らない。いろいろな臓器、循環器系の疾病もあれば、人間の血管なんて、交換なしで500年、1000年も持つのか?椎間板や、鼓膜や、歯、視力、聴力は何百年の使用に耐えうるのか?2人に1人はガン死という昨今、一日も早いガン撲滅が待たれる。
ケンブリッジ大学遺伝学者オーブリー・デ・グレイ博士も、人間の寿命は1000歳を超えるといい、その理由を次のように語る。「老化は、身体的現象の一つに過ぎません。今日解明された多くの疾病のように、その原因を突き止めることで老化を阻止することができる。我々が現在取り組んでいるSENS計画は、老化防止実現にかなり近いところまできています。
これは、単なるアイデアではありません。人間の身体にある全ての細胞と分子のダメージを修復するべく、非常に綿密に計画されたものです。また、ここで使われる技術は我々で既に用いられている技術、あるいは臨床試験中の技術を単に組み合わせて行うものです。今後10年の間に我々はまずネズミに対して実験を行い、その寿命を著しく延ばす事に成功するでしょう。
その次の10年間で人間にも適用することが可能になると見込んでいます。この技術が完成すれば、我々はもはや老化による老衰や虚弱、そしてそれらに起因にする疾病を恐れることはなくなるわけですが、こうした技術が完成した後も、我々は不死になるわけではありません。交通事故や、毒蛇にかまれたり、新種の悪性インフルエンザにかかれば、我々はこれまで通り死ぬでしょう。」
生あるものは必ず滅す。長く生きながらえるのがいいかどうかはともかく、寿命を延ばす研究はおそろしい進歩を見せている。太く短い生も傍から見れば魅力的だが、当人は早く死にたかったわけではあるまい。自死を選んだ人たちはともかく、「悟り」を死ぬ境地とせず、いかなる場合にあっても平気で生きることを「悟り」であると、正岡子規が『病牀六尺』に書いている。
彼は肺結核となり、脊髄カリエスを患い、35歳で死ぬその日まで、病症で腰から歯ぐきから出るウミを看護人に拭きとってもらいながら普通の人以上の仕事を為し得た。「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きていても何の面白みもない」とも述べている彼の根性、図太さには脱帽である。そんな言葉が何処から出てくるというのか。
「正しいはむつかしい」との表題だが、子規の言葉は生きんとするものに正しい。自死という手段で自らの命を絶つのは、本当に死のうと思い、実際に行為したもの以外には分るまい。もう一つ、正しいと思う言葉がコレだ。「人間の、また人生の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、いやな物はいやだという、要はただそれだけのことだ。
好きな物を好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物を脱ぎとり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突き止め見つめることが先ず人間の復活の第一条件だ。そこから自分と、そして人生の、真実の誕生と、その発足が始められる。」(坂口安吾『続・堕落論』1964年)
何度も何度もこの文章を眺め、考えた。時々の年齢で…。答も時々の年齢に相応しいものであったろう。安吾はホンネとタテマエの食い違いをいう。あまりに食い違いが大きいなら、そこには人間性の窒息があるだけだ。自らを丁寧に調べ、自分のホンネを生かすよう努力・集中しなければならない。その時の社会通念に背いても、ホンネを生かせるよう頑張るべきだ。
「堕ちる道を落ちきることによって自分自身を発見し、救わなければならない」という有名な語句。底まで落ちればそれ以上落ちる事はない、後は這い上がるだけ…。これは正岡子規の境地。で、這い上がるために何が必要か?それは生きること。ボストンバッグもカバンもいらない。人間はみな弱い。子規のように強くはない。だから落ちるとこまで落ちきれない。
落ちるところまで落ちる人は強い精神を持った人である。弱いから落ちきれず、だから自殺を選んだりする。「死にたいが死ぬ勇気がない」という人がいるが、死にたきゃ死ぬよ。死ぬのに勇気など要らない。死ねないのは死にたくないからで、生への執着が断ち切れないからだ。人が本当に死にたいなら死ねる。が、死んだ後で「しまった」は別にしても…
人が迷うのは努力をしているからで、ゲーテの『ファウスト』に出てくる有名な言葉に、「絶えず努力する者は救われる」というのがある。これは天使の言葉だが、作品『ファウスト』全編を通しても、最上級に重要な言葉とされているが、驚くべきことは、何に対しての努力なのか、励みなのか、限定されてはいないこと。悪事に励んでもいいとの解釈も成り立つ。
プロローグの1つ、天上の序曲から思い出されるのは天主の言葉。「地上にある間、人は迷うものだ。しかし、善い人間は、いくら暗黒の衝動にうながされていても、決して正しい道を忘れないものだ。」全体を読まねば分らないが、『ファウスト』はゲーテが60年の年月をかけて完成させた作品である。ここでいう、「善い人間」とはどういう人間?「正しい道」とはどんな道?
抽象的ゆえに分らない。おそらくゲーテ研究家でさえ分らぬのではないか?ただ、「努力は救われる」の『ファウスト』論理からすると、「分ろう、分りたい」という努力をすれば救われるかも知れない。救われるとは、分らないことが、分るようになるということだ。「努力」という言葉は大げさ、仰々しい感じもするが、"あることにひたむき"と置き換えればいい。
分らないことは分らないでいい。分かる事は分るでいい。違っているのでは?などの不安は無用である。今の時点で自分の思う人間の正しい思考、正しい行動というのは、叙情的なものへの傾倒ないし確信である。叙情性はリリシズムといい、あるがままを、あるがままに感じること。相手の心にストレートに訴えかけるよう、自分の「心」や「内面」を表現すること。
こういう思考性、行動性を「正」とする。安吾のいう人間の、「正しい姿」、「正しい人生」の影響か共感か、いずれにせよ「同化」である。安吾も多くの先人から影響を受けている。永井荷風や徳富蘆花らの影響も感じる。荷風のこの言葉。「浮浪、これが人生の真の声ではあるまいか。あの人達は親もいない。兄弟もいない。死ぬ時節がくればひとりで勝手に死んでいけ。」
「結婚式や葬式、その他の会合には、友人のはもちろん、親兄弟のでも出席しない。時間が惜しいし、わずらわしいから…」荷風の生き方に安吾は同化している。言葉に共感するだけなら誰でもできるし、そんなのは真の理解ではない。行動(生き方)に反映してこそ同化であろう。ゲーテ言う、『ファウスト』の"正しい道"の意味が、少し解りかけたか…?