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生きてるとは死んでないこと!

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イメージ 1死というものに向き合うからこそ、いまの「生」が充実し、豊かになるってことだ。「僕が死を考えるのは、死ぬためじゃない。生きるためなんだ。」というマルローの言葉が思い浮かぶ。この言葉を知っていること、理解していることで、人の生き方には雲泥の差がつくし、自殺も少なくなるかも知れない。それでもマルローは死んでしまった(1971年没)。

石ノ森章太郎の「サイボーグ009」」は、人の心を持ちながらヒトでも機械でもない存在となった悲しみを胸に、悪と対峙するサイボーグたちというストーリー設定である。ロボットの体となり、永遠の命を手に入れたとしても、人の生の活力は減退するのを作者は空想的に描いているが、「限られている」、「限りある命」とは、ある意味でポジティブな要素である。

「人間というのは、すべて歴史の中で生まれ、歴史の中で死んで行く。ただそれだけの存在である。それ以外のものは何もない」西田幾多郎の言葉だが、そうであるにせよ人間は色々な事に関心を持ち、西田のいう投げ出された歴史の中にわれわれは生きている。であるなら、人は関心を持った物になれるという可能性が、人を生き生きとさせているのである。

したいことをするのはイヌもネコもそうだが、自分がなりたいものになろうとするのは人間だけ。これが自由というものであろう。イヌはどう頑張っても出世はないし、せいぜい飼い主を喜ばせる芸犬になる程度である。傍から見ていると、食べることと散歩することがイヌの楽しみのように見える。ネコは自由奔放。ウシは頑張って草を食っても屠殺場行きだ。

「将来何になりたい?」と言ってはみるが、「死」は100%この可能性を失くしてしまう。生あるものにとって死は絶対に避けられないものだが、自ら望む死は避けることはできる。神風特攻隊が自ら望んで散って言ったといわれるが、多くは美化された言葉である。「彼らは嫌々死んでいったのだ!」と国家がどうしていえる?それを言えるのは同時代の徒たち。

他人の死はいろいろ見聞きするが、他人の死だけに他人事でしかない。人は誰も自分の死を見ることはできない故に、他人の死から自分の死のさまを想像するしかない。自身の死を主観的にどう捉えろというのかである。他人の死に遭遇して、命の大切さを噛みしめるしかなかろう。自分の命を主観的に捉えるということは、他人の命を大事にすることではないか?

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人は欲望や嫉妬からいとも簡単に他人の命を奪ってしまう。かつて、「犬死に」という言葉があった。犬や猫を屠畜していた時代の名残りから出た言葉であろう。昨今は動物愛護法も整備され、犬や猫とてそうそう簡単に殺すのは許されない。そのようなことをすれば、「動物虐待」で逮捕・収監される。だから、「戦友が犬死にした」というのは、犬にとって失礼である。

人間が生きるということは死に近づくことでもあるが、ある程度の年齢になれば否が応でも死を自覚することになる。自覚といっても普通の日常的生活の中にあっては、不治の病を宣告された患者や死刑囚のような切迫感はない。死が近づくことを「切迫」(Bevorstand)と、これはいかにも実存主義の用語であるが、差し迫ったものとして自身の死を自覚する。

なればこそ今を、真剣に「生きよう」という覚悟が生まれる。これが、ハイデガーが『存在と時間』の中で伝えたかったことである。『存在と時間』におけるハイデガーの真の狙いは、「存在とは何か」を問うことにある。この問いはプラトン、アリストテレス以来西洋哲学が問い続けた根本的命題であったし、ハイデガーは、存在の問いをあからさまに反復したことになる。

「存在」を明らかにするには神の存在も明らかにする必要がある。それが神の「存在論敵証明」といわれるものだ。その証明は簡単にいうなら、「神はもっとも完全なる存在者である。ということは、神はすべての肯定的な規定(神は全能)、(神は無限)をその内に含む存在者ということになる。ところで、「存在する」ということも一つの肯定的規定である。

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神は当然この規定をも含んでいる。したがって神は存在する」。これはもう言葉のまやかしとしか思えない、「風が吹いたら桶屋が儲かる」的な論理だが、この証明は、11世紀にアンセルムによって提唱され、13世紀にトマス・アクィナスによって否定され、17世紀にデカルトによって復興され、18世紀にカントによって否認され、19世初頭にヘーゲルによって承認された。

なんとも興味深い長い歴史をもつ。そうして近代になって論点が、神の「本質証明」(…である)の内に事実証明(…がある)も含まれるかどうかにある。これは、神という完全な存在者をモデルにし、「本質存在」と「事実存在」という分岐した二つの存在概念の関係を吟味し、「存在とは何か」という問いに答えようとする試みであると考えることができよう。

近代になってライプニッツという哲学者が、「なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか」(『理性にもとづく自然と恩寵の原理』)という思い切った問題提起をした。何もなければ事はいたって簡単であるのに、なぜ何かが存在するのか、いったいに「存在する」とはどういうことなのかを問うている。カントはライプニッツ哲学の系譜を引いている。

よってカントも先の「神の存在の存在論的証明」を否定する根拠として、「存在は事象内容を示す述語ではない」というテーゼを「存在とは何か」の問いに持ち出し、答えをだしている。プラトンやアリストテレス、ライプニッツやカントのような、昔の人間はもういいというなら、現代の哲学者に聞いてみるべしで、ウィトゲンシュタインはこう言っている。

「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである。」

「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、"存在者が存在する"という驚異のなかの驚異を経験するのである。」

イメージ 4プラトン、アリストテレスが持ち出した「驚き(タウマツエイン)」に呼応するように、ウィトゲンシュタインは「何かが存在するという驚き」といい、ハイデガーも「"存在者が存在する"という驚異」とした。哲学者の「なぜ存在するのか」に対する答えは「驚異」ということになる。たしかに、いわれてみればその通り。それ以外に答えの出しようがない。

それでも「存在」を極めようとするのが哲学者たる所以。われわれは「存在は驚異である」にしておこう。かつて『野生の驚異』という映画があった。『自然の驚異』とも言う。人間の存在も、営みも、ありとあらゆるものが驚異といえば驚異である。そもそも生命自体が驚異である。人間はたとえ大腸菌のような単細胞生命体さえ、人工的に作り出すことはできない。

単細胞生物を作るための設計図(DNA)も、必要な材料もすべてわかっているし、そろえることもできるし、なのに原始的な有機生命体を試験官で作る事はできない。最新の実験設備を使った最良の環境で、金を湯水のようにつぎ込み、ノーベル賞学者が束になってかかっても、我々は大腸菌1個すら作れない。これを生命を驚異といわずしてなんといえようか。

われわれ親は共同作業で子どもを作ったというが、「お前らが作ったんか!」と言われると実は違う。われわれはただ「やった」に過ぎないのだ。したがって新婚夫婦が「今晩、子どもを作ろう」というのは間違いで、「今晩やろう」というべきだ。品がなくとも正しくいうならそのようにいうべきである。排卵・受精・着床・出産のメカニズムは驚異である。

「驚異」といってはつまらないので、神が創ったというのだろう。それなら驚異も驚異でなくなるし、ひたすら神の存在意義が大きいとなる。神など人間が作り出したものと考え自分としては、人間も卒がない。人智を超えた事はすべて神の仕業にすればいい。神がいなくても起こる事は起こるのが自然の驚異と思うが、誰かの、何かのせいにした方が落ち着くのだろう。

ところで、神って地球で発生?宇宙で発生?宇宙以外のどこかで発生?ニュートンは、太陽系の模型を部下に造らせ、「偶然出来るはずがない」と言って「(神の)存在しない」説を否定している。現実問題として、太陽系(特に地球と生命)が偶然発生する確率より、神(ニュートンの千倍以上の思考力を持つとして)が単独で偶然発生する確率の方が遙かに高い。

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偶然できるはずもないから神が創ったというのも科学者らしからぬ発想だが、むしろ科学者であるからこそ、科学の領域を超えたもの形而上的なものを信じる以外になかったのかも知れない。太陽が地球に自然環境を準備して生命を誕生させたという可能性も高いが、それでもニュートンは確率の低さに頭が混乱したのだろう。「苦しい時の神頼み」というだろう?

神がいれば何でも答えは出せる。誰かが最初に考えた神を宗教の起源、拠り所とし、時代の推移とともに神の存在を肯定し、確信していったと考えるが、ここまでくると「いる」、「いない」、「存在する」、「存在しない」という風になるであろう。神をバックボーンとする宗教がなかったら、人間の作った神を「いる」、「いない」と議論する方がおかしい。

神の寿命はないのだろうが、それこそ何億年も生きているのだろうが、何も食べないで死なないで、何の材料もないのに星や天体や人体やネズミやバクテリアも作ったというのは超人だ。神は死んだのニーチェは個人的に神ならぬ超人を作った。して、ニーチェの心を超人の言葉として発言させている。面白い発想だが、原理的には神の発想と同じことであろう。

小便して糞も垂れる宗教の教祖なども、「自分は神」的な発言をするが、時に凄いコスチュームの写真を見ると笑ってしまう。神が裸なのか服を着ているのかは、服を着ているイメージだが、いかにも神的なコスチュームはあるのだろう。時に大川隆法などは、その手のデザインを着たりする。王位なのか王冠までつけているが、信者以外が見るとイカレタ御仁である。

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信者がよければいいのであって、信者以外が何を言おうと自由である。ニーチェは「神は死んだ」としたが、教祖も信者も人間はみな等しく死ぬ。生命が有限だから美しく輝くとはトーマス・マンの言葉だが、「死のうと思っていた。今年の正月、よそから着物一反もらった。 お年玉としてである。着物の布地は麻であった。 鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。

これは夏に着る着物であろう。 夏まで生きていようと思った」。これは太宰の言葉だが、死ぬ人はこんな状態なのだ。生きることに耐え切れない人間が死ぬというのは間違いない。以前は「人はなぜ自殺するのか」が不思議であったが、上の太宰の言葉などを読むと、死に行く人はまるでトイレに糞を出しに行くかのごとくである。悩んでなんか死ぬべきでない。

悩んだなら生きるべきである。死ぬ以上は悩もうが悩むまいが、結果的に同じことだ。だったら楽しく死んだ方がいい。「死ぬということは、生きているよりいやなことです。 けれども、喜んで死ぬことが出来れば、くだらなく生きているよりは幸福なことです。」と、谷崎潤一郎の言うが如く。文筆家の言葉だから話半分で、人が楽しく死ねるかどうかは疑問だ。

ハイデガーは、「人はいつか必ず死ぬということを思い知らなければ、 生きているということを実感することもできない」といった。上にも書いたが、こういう心境になれる人間は余命宣告を受けた病人もしくは死刑執行を待つ罪人であろう。2013年8月9日に元四人囃子のベーシストでプロデューサーの佐久間正英氏がスキルス胃がんを公表し、1月16日に世を去った。

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佐久間氏の死を自分の問題として扱えないし、終わってもいない自分の生を見渡すこともできない。他人の死が自分の問題でなく、自分の死を見渡すことができないとするなら、「死」とは一体なんのか。ハイデガーは「死」を実存論的に以下分析した。「死の不安に直面したとき、死への自覚によって、人間は頽落から脱して、自由な人間として自立することが可能となる。

世俗の欲望への執着や自己中心的な態度から解放され、他者を真の意味で共存在するものとして了解し、本来的な実存の可能性を促し合うことができる」と言うのである。おそらく佐久間氏もそうではなかったか?自分は佐久間氏が死を前にどういう生を求め、行為するのかに興味があった。死が現実となったときに人はどう生きるのかを探ることは、死を考えるテクストになる。

自分もその時は来るが、そうではないときに考えてみたかった。死の自覚における全体的な存在可能性に対する了解のことをハイデガーは「先駆」といい、決意性が先駆において生じることを「先駆的決意性」とした。それは、死への自覚において本来的な存在であろうとする決意なのである。『存在と時間』のもっとも重要な論旨は、「先駆的決意性」によって時間性が変わることだ。

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人間の生、人間が生きるということとは、自分がどんな存在であったかから、どういった存在であり得るかをめがけつつ生きていることである。人生とはそれをいい、人間は時間的存在である。そこでハイデガーは、「先駆的決意性」によって現れた時間性こそ「根源的な時間性」であり、気遣いを可能にしているもの(気遣いの存在論的意味)が「時間性」であるという。

時間とは「川の流れ」、「食事休憩1時間」のようにイメージされることで、実体的なものとして客観化されている。が、実際は実態的なものではなく、事物としての存在もない。自分自身の実存に関わりつつ、おのずから生成されている。ハイデガーは、先駆的決意性によって「根源的な時間性」が開示されるのだという。「根源的な時間性」とは、一体どのようなものか?


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