『時間ですよ』というテレビドラマがあった。TBS系列で、久世光彦プロデューサー兼演出に向田邦子脚本のコンビに、森光子を中心として堺正章、悠木千帆(後の樹木希林)、天地真理、浅田美代子の顔ぶれが懐かしい。第1回放送は1970年2月4日で、平均視聴率は不明だが、最高視聴率は、1972年(昭和47年)3月15日放送分の36.2%という驚異的な数字を出している。
天地真理、浅田美代子人気もあったが、銭湯が舞台のこのドラマは、女湯シーンのヌードが売りでもあった。5年前の1965年7月4日に、同じTBS「東芝日曜劇場」の単発ドラマとして『時間ですよ』が放送され、好評であったことから5年後に連続ドラマ化されることになった。このときの脚本は橋田壽賀子、演出は橋本信也で、連ドラ化の際の脚本も橋田が担当した。
ところが演出が久世に変わり、橋田の脚本にアドリブシーンを入れるなど、それに嫌気がさしてか橋田は第三回を持って降りてしまった。橋田以外の脚本家が後を継いだが、向田邦子はカラー放送となる1971年の第二クール以降を担当した。『時間ですよ』という珍妙なタイトルの意味は何であろう?「おかみさ~ん、時間ですよ~!」と、堺の掛け声でドラマは始まる。
いろいろな意味にとれるし、「○○の意味です」と決めないで、視聴者にいろいろ考えさせる方がよいという一種のテクニックであろう。5月1日の記事に書いたボブ・ディランの『風に吹かれて』、吉田拓郎の『イメージの詩』などの歌詞と同様の手法である。単発ドラマの『時間ですよ』を連ドラ化企画段階でのタイトルは、銭湯にもじって『セントウ開始』であった。
『時間ですよ』は単純だし、含みがあっていいタイトルだ。堺正章の料理バラエティ番組『チューボーですよ』は、同局の『時間ですよ』にちなんでつけられ、二十年を超えた長寿番組となっている。チューボーは厨房のこと。「おかみさ~ん、時間ですよ~!」の掛け声は、銭湯の営業開始の意味と、視聴者に対し、『時間ですよ』が始まるの、ダブルミーニングであろう。
ドラマの始まりに「時間ですよ~」というアイデアはインパクトがある。「時間」とか「時刻」とか、われわれは日常しばしば使うが、そもそも「時間」という奴は正体もないし、「物質」でもないから実体はよく分らないが、確実に存在する何かである。多くの物理学者・哲学者が、よってたかって研究したり、現在も研究をしているが、「時間」の正体は分っていない。
物理学的な単位の他に、感覚的に占める割合も多く、それが「時間」を分りづらくしている。生体時間なんて呼ばれたりするが、「時間」には個人差があると聞く。つまり、個体差がある時間を時計や暦などを使って統一している。これにアインシュタインの「相対性理論」を加味し、光速に近い速さで進む乗り物は、中の時間は進み方が遅いといえばますます分りづらい。
「双子の兄弟のパラドックス」である。地球上では南極だろうがアメリカだろうがエベレストの頂上だろうが、1時間は1時間という、一般的に考えられている普遍的な絶対時間は、相対性理論において否定されている。物理学では「時空」という言葉がでてくるが、時空とは時間と空間を合わせて表現する物理学の用語、または 、時間と空間を同列に扱う概念のことである。
難しく考えずとも、今、我々が住んでいるこの空間、宇宙そのものが時空である。われわれの地球上で流れる時間と、200万光年以上先のアンドロメダ銀河にある同じ惑星の中で流れる時間は、時間と空間が不可分であることでいうなら同じであろう。ただし上に提示した光速で進むロケット内での時間の進み方は遅くなるので、地球に帰ったら双子の兄弟の年齢は開いている。
時間なきところに空間はなく、空間存在なきところに時間はない。これが時空の不可分である。ホーキング博士は、もし、本物のブラックホールがあったら、その特異点では時間がないとのこと。時間が無いが、あらゆる可能性を持った量子的な何か。時間無いと時間停止は別だから、時間停止の世界に空間は存在する。そもそも物理学では時間を止めての記述は多い。
こういう事を考えるより、美味しいステーキの店でも探すのが世俗人であろう。「時間よ止まれ!」と掛け声かけると、本当に時間を止められる少年がいた。その名は大西三郎といい、愛称サブタン。手塚治虫のマンガの主人公である。タイトルは『ふしぎな少年』といい、1961年5月~1962年12月に月刊誌『少年クラブ』(講談社)で連載された。テレビドラマにもなった。
1961年4月3日~1962年3月31日にNHKで放送された。主人公サブタン役には当時人気子役の太田博之、サブタンの姉役にジュディ・オング(なぜか?)であった。ジュディは1950年生まれだから当時11~12歳。サブタンが「時間よとまれ!」っていうと、通行人やら何やら周囲の役者さんたちが、ぴたっと動きを止めるはずなのだが、下手くそがいてゆらゆら動いたりする。
それが翌日学校で話題になったりする。「昨日のそば屋の出前の人、とまれー!っていわれたのに動いてただろ?」みたいな。時間を止められるサブタンが羨ましかった。「時間よとまれー!」の言葉も流行ったし、言われたら止まるのが掟であった。「透明人間になれるのと、時間が止められるのと、空をとべるのと、どれがいい?」などは男の子の常時会話であった。
今の時代、同じことを言うのは矢沢永吉だろ。「時間よ止まれ」などと歌っているが、彼の詞ではなく、岩崎宏美の『聖母たちのララバイ』やゴダイゴの『銀河鉄道999』の山川啓介の作詞である。それにしても時間を止めるということは…、よくよく考えると矛盾がありすぎる。人の動きが止まると心臓も止まり、司令塔の脳も止まれば生命体が生きていられるはずない。
子どもの頃は考えもしなかったことだが、たとえていえば、それだけ子どもが純粋だったのだろう。今はなまじ知識があるからこんなことを考えてしまう。所詮はあり得ない話だし、ミソもクソも一緒にした思考は不純千万だ。ということで、『時間よ止まれ』ではなく、『時計を止めて』という歌。グラシェラ・スサーナというアルゼンチン出身の歌手がヒットさせた。
彼女は『サバの女王』、『アドロ』などが有名で、ハッキリした日本語で歌っていた。コニー・フランシス、サルバトーレ・アダモ、ジョニー・ティロットソン、ミーナ、ジリオラ・チンクェッティ、ヘドバとダビデなど、日本語の上手い外国人を思い浮かべたが、日本人より日本語を丁寧に歌う。矢沢や桑田、今は亡き桑名正博らは巻き舌で日本語を英語風にしたりする。
かつて60年代のアメリカンポップスが流行っていた当時、日本語訳を盛んに歌っていた伊東ゆかりは、所属する渡辺プロの社長渡辺晋から、「おい、ゆかり!コニーのように上手く日本語を歌えないのか?」と、皮肉混じりに言われたことがあるという。確かにコニー・フランシスの日本語は絶品であった。スサーナもハッキリした日本語と抜群の歌唱力が人気だった。
「時計 (El Reloj) 」は、メキシコの Roberto Cantoralが作曲した曲を、かも・まさるが訳詞したラブソング。「時計を止めて」という別の楽曲もスサーナは歌っているが、こちらはジャックスの水橋春夫の詞・曲。どちらも"時計を止めて"という願いの歌である。今のこの恋を終らせたくないから、二人の時間が進まなければいい、だから時計を止めてと切に歌っている。
時計なんぞ止めなくても、壊れて動かない時計をして出ればいいではないか?と、そういう問題ではない。時間を止めて恋が進まない方がいいというのは、恋が進行して終焉するのをあらかじめ予感しているからこそ、時間が進まないのを願っている。スサーナのレパートリーに、『粋な別れ』というのがある。この歌は、石原裕次郎やちあきなおみら多くが歌っている。
♪生命に終わりがある、恋に終わりがくる~という歌いだしである。終る恋など追わないで、粋な別れをしようぜと結んでいる。詞・曲ともに浜口庫之助であり、本人に聞いて見なければ分らないが、想像はできる。「粋」の意味は、気質・態度・ 身なりなどがさっぱりとあかぬけし、自然な色気の感じられるさま。「粋」とは江戸時代における美意識の一つである。
ものによく通じていること、あるいは通じている人をいう。つまり、さっぱりとした別れ。別れなどあって当たり前という風に物事の通じている人なら、無理に追ったりしない。そういう別れが「粋な別れ」。有り体にいえば、「去るものは追わず」が粋な人だ。去ろうとする者の気持ちになってみればいい、しつこく追いまわしても迷惑千万であり、これは「粋」ではない。
「浜口庫之助/自作自演集」というCDがある。1.愛のさざなみ 2.夕陽が泣いている 3.ここがいいのよ 4.黄色いさくらんぼ 5.恍惚のブルース 6.銀座の子守歌 7.風が泣いている 8.涙くんさよなら 9.花と小父さん 10.雨のピエロ 11.バラが咲いた 12.粋な別れ 13.夜霧よ今夜も有難う 14.月のエレジー 15.えんぴつが一本 16.甘い夢 17.港町涙町 18.愛しちゃったの
聴いてはないが、タイトル通り本人が歌っているのだろう。彼の歌声を始めて聞いたのはサンヨー・カラーテレビの「サンカラー 薔薇」というCMだった。当時はおっさんの声に聴こえたし、実際おっさんであった。CM放送は1969年、浜口は1917年生まれだから当時は52歳の申し分のないおっさんである。カラーテレビの色を分りやすく表現した言葉が印象的だった。
浜口庫之助は不思議な音楽家である。彼の音楽経歴はハワイアンから始まった。あの時代の洋楽の仕事は米軍キャンプ回りで、ハワイアン、ウエスタン、ジャズがメインであった。浜口はハワイアンから、ラテン⇒ジャズと進んだ。だからか浜口の書く歌謡曲には、それらすべてがエキスになっている。『バラが咲いた』という曲、アレとてフォークではない。
そんな浜口が、ロックバンド(というよりグループサウンズ)のザ・スパイダースに『夕陽が泣いている』という楽曲を提供した。この曲は、メンバーうちでもかなり物議をかもしたし、「こんな曲やってられん」(ムッシュかまやつ)、「この曲を始めて聴いて、スパイダースはこれはもう世も末だと思って悲しかった」(近田春夫)など、様々な反応があった。1966年のこと。
始めて聴いた自分は、「これって演歌?」であった。それほどカッコよくないスパイダースは好きでなかったし、変テコなGSくらいに思った。ジャンルがどうかはともかく、『夕陽が泣いている』は120万枚の大ヒットで、以降スパイダースは露出も増え、人気急上昇となる。過去の『ノー・ノー・ボーイ』、『ヘイ・ボーイ』、『サマー・ガール』などは全く売れていない。
同じような事はガロの、『学生街の喫茶店』でもあった。こちらはすぎやまこういちの曲だが、ガロはCSNを目指した玄人肌のグループであったし、メンバーは涙目で歌謡曲を録音をした。商業的に成功するのと、やりたいこととは相容れないものである。売れるのは悪い気はしないが、好きで始めた音楽でありながら、嫌なことを強要されることのジレンマか…
アーチストというのは、"売れてなんぼの世界"である。趣味でやるのと業としてやるのと、そこが違う。本当に好きな事は「業」より「趣味」でやる方がいいという考えもあるが、好きなことをやって食って生きたいというのも人間の「業(ごう)」である。ある時期、受け入れられても時代の変化に対応できない作曲家は多い。一言でいうなら世代観の違いである。
一世を風靡した筒美京平も今の時代は見る影もないし、東海林修、川口真、来生たかお&えつこ姉弟や、宇崎竜童&阿木燿子、村井邦彦、すぎやまこういち、都倉俊一、鈴木邦彦、林哲司ら職業作曲家の時代は終焉した。中村八大、いずみたく、宮川泰、古賀政男、浜口庫之助、井上大輔など、今は亡き往年の大作曲家たちも数々の名曲を生み、一時代を築いた人である。
そういえば筒美京平はこのようなことを言っていた。「同時代の職業作曲家に怖れはなかったし、自分の自信が損なわれることはなかったが、吉田拓郎の出現には驚異を感じました」。拓郎は、いわゆるシンガーソングライターの走りで、彼の後から中島みゆき、ユーミン、桑田圭祐、小田和正らが現れた。職業音楽家が消えるきっかけは、シンガーソングライターである。
その拓郎、ユーミン、みゆきでさえ、時代遅れとなり、今の時代にあった曲を書けないでいる。人はその時代にしか生きていけないのだろう。音楽も文学は新陳代謝の激しい世界である。洋服は流行はあっても蘇生と崩壊として繰り返されるが、音楽はそうはいかない。小室哲也や坂本龍一がどんなに張り切っても、一度死んだ作曲家が生まれ変わることは無い。
それぞれの職業音楽家にはいい時代があったのだ。彼らはその時代にあった曲しか書けないのである。まさに、「時計を止めて~」の心境であろう。もう一度あのよき時代に戻れないものかと、幻想を抱くことはあるかも知れないが、戻る事はないのは彼らが一番分っている。ブライアン・ウィルソンもポール・マッカートニーも、エルトン・ジョンもビリー・ジョエルも、同様である。
彼らは昔取った杵だけでコンサートをやっている。いや、やれている。それで食っていけるというところに、彼らの楽曲の普遍的凄さがある。日本の流行歌というのは、単に流行であって、時代をまたがない少数民族御用達であるということか。オールディーズといわれる名曲、スタンダードナンバーといわれる名曲を聴くと、世代を超え、時代をまたぐ名曲であるのがわかる。
「歴史に残る名曲」で検索すると、まさに各人各様である。これは世代によっても時代によっても、またジャンルによっても変わって来るし、今日の一位は明日の五位かもしれないし、順位とは恣意的、感覚的な要素も強く反映する。よって投票で決める以外は、個人的な主観というしかない。以下の曲がリストアップされているが、共感はするが個人の嗜好であろう。
◎ USA For Africa - 「We Are The World」
◎ ABBA - 「Dancing Queen」
◎ Billy Joel - 「Just the Way You Are」
◎ Carpenters - 「Top Of The World」
◎ Whitney Houston - 「Saving All My Love For You」
◎ ABBA - 「Dancing Queen」
◎ Billy Joel - 「Just the Way You Are」
◎ Carpenters - 「Top Of The World」
◎ Whitney Houston - 「Saving All My Love For You」
日本の流行歌にあっても、好きな曲=名曲とは言えないが、名曲の普遍的定義もまた難しい。時々YouTubeを聴きながら、つくづく、「この人たちって天才だな~」と、歌唱(楽曲よりも生来の声質)で感じるのは、美空ひばり、松田聖子、石川さゆり、八神純子、キム・ヨンジャ、玉置浩二である。聴いているとすべてを奪われ、もっていかれるような説得力がある。