「この本の中に見出されるのは、仕事中の『地下的なもの』、穴をあけ、掘り、掘り崩すものである。そのような深みでの仕事に眼が利くとすれば――、光と空気に長いこと不自由した結果の辛苦をあまり漏らさず、彼がどんなにゆっくりと、慎重に、穏やかだけれども仮借なく、前進して行くのが分る。その暗黒の仕事中で、彼自身満足している、ということだできよう。
何らかの信念が彼を導き、ある慰めがその努力の償いをしている、というようには思われないか?おそらく彼は、自分もやはり持つであろうものを、彼自身の朝、彼自身の救い、彼自身の曙光を知っているからこそ、彼自身の長い暗黒を、彼の理解しがたい、秘密な、謎めいたものを持ちたいのだ、というようには思われないか?…たしかに、彼は戻ってくるだろう。」
ニーチェの『曙光』の序文の冒頭である。『曙光』は道徳的な偏見に対する思想で、ニーチェはカントの『純粋理性批判』を、「道徳の王国」と揶揄、カントがそれを著した理由を、「事物の道徳的な秩序が理性の側から攻撃される可能性があることをカントがあまりに強く感じていたから」とした。自然と歴史によって道徳は反駁されたにも関わらず、カントは道徳を信じていた。
「慣習とは反対の道を行け。そうすれば常に物事はうまくいく。」このルソーの言葉は、カントの道徳を蜂のごとく刺している。確かに慣習とは常識的な人の行う習慣である。人間の割合で言えば8割程度を占めるくらいか、多くの人がやっている行動のことである。慣習が面白いとか、無意味でバカげているとか、根拠のあるなしに無関係に人はしたがっている。
慣習など面白いものでも楽しいものでもなさそうだが、客観的にみると「面白いな~」と思う慣習は結構ある。結婚式は「大安」、葬式は「友引」をはずす、といったカビクサイものから、いい加減腐っても良さそうな因習・悪習の類も多い。最近何かと話題の土下座だが、ヨーロッパやアメリカにこんな習慣はない。「文化」といえばそれまでだが、これって可笑しくないか?
外国人は土下座を、「アジア人の深い謝罪の行為」と考えているようだが、メディアなどを通じてあまりにも頻繁にこの行為を目にしたり、謝罪でなく正式な挨拶でこの姿勢がとられることを知ると混乱するようだ。また、謝罪と同義の姿勢が礼拝に使われる国家もあり、これは謝罪というより神に対する祈りである。神ならぬ人に向かってこの姿勢をとることに不快感を抱くという。
土下座謝罪を強要させる側は、「神気分」に浸りたいのだろうかと。人を土下座させて喜ぶ知能の低さ、空疎な頭の中身、そう考えるのが妥当である。土下座程度で気分がよくなり怒りが収まるというおバカ相手なら、土下座も股くぐりもしてやったらいいと思うし、いわゆる韓信気分。土下座をしながら、「どうしようもないバカだな、コイツら」と精神的優位にたてばよい。
土下座も深々と頭を下げるお辞儀も、冷静に考えると我々日本人にもいささか滑稽に思えたりするが、お辞儀や土下座が外国人に奇妙に映るのは当たり前だ。確かにヨーロッパの国に軽いお辞儀のような仕草はあるが、欧米諸国では感謝の意を示す時には、基本は相手の目を見ることが鉄則とされているが、日本では"メンチ切りをかます"といって、怒りの仕草である。
挨拶は仕草だけではない、言葉にも現れる。「お忙しいですか?」、「おかげさまで」などは日常的に行われているやり取りだ。関西では「忙しいでっか?」、「ぼちぼちですわ」などと。これが欧米諸国の人達には理解できない。「忙しい=成功、偉い、凄い」という考え方がない。彼らは、「忙しいですか?」と聞かれると、「不幸にして多忙です」というであろう。
ここでも何度か書いたが、やたら「忙しい」を口癖にする奴は無様で仕方ないと思っていた自分は、かなり前から、①忙しい、②めんどう、③疲れたを三大禁句としている。こんな言葉は情けないの極みであるほか、①忙しい=無能、②めんどう=横着、③疲れた=弱音だと自身に言い聞かしている。独り言で「ああ、疲れた」は、これ見よがしに相手に言わない分、いい。
「暑いな」とか「寒いわ」と同じであろう。「イク~」と自然に出る女に「どこに行くんだ?」と冗談言ってシラケさせるのはよくない。止めた方がよい。「日本人はすぐに謝る。謝るのがお好きな国民なのね~」と外国人は思うようだが、取って付けたような謝罪の安売りは好きになれない。女の子同士の生活慣習なのか、やたら「ごめ~ん」という言葉が反射的に出る女がいる。
女社会ではとにかく面倒をおこさぬよう、謝っておけば人間関係が保てるということなのか、どうなのかよく分からないが、自分はそのように考えている。ちょっとした言葉に目くじらたてたり、嫌味に感じたり、女は細かいし、目ざといし、そういう中から何かにつけて、「ごめんね」が生まれたのでは?男同士ではそういう細かな意識がない。よほど神経質な男は別として…
日本人の、「すみません」は、外国人の、「Thank you」と同義のお礼言葉。「ありがとう」というプラスの感謝表現が、なぜ「すみません」という謙った言葉になるのか?言われてみれば可笑しいが、これが日本人的、「謙譲の美」。自分が謙ることで相手を持ち上げるという文化である。したがって、謙りの態度が見えない若者は、「生意気」ということになる。
「君は生意気なんだよ」と上の者から言われた直後、その理由を問いただしたことがある。もちろんワザとであって、そういう言葉を返されてどう反応するか興味があったからだ。「どういうところが生意気なんでしょうか?そういう印象を持たれるなら直したいので教えてください」と言ったところ、「そういう物言いが生意気なんだよ」といわれてしまった。
相手も不意を突かれて返答に困ったようで、同じような言い方をしばしば見かけるし体験もする。「その言葉そっくり返すよ」という言葉。これほど無能極まりない言葉はないと思っているし、言われて思わず声を出して笑ったこともある。「そっくりそのまま返すって、ちょっと横着すぎないか?省かないで同じ言葉を言った方がいいぞ?」と返したことがある。
そんな言われ方、相手も予期してないだろうから、言われた時点でパニクっている。最近、コメントで久々にこの言葉を見たが、こういう言葉をいう奴は大概において無能であろう。同じように、既成の言葉を使う奴もで、自分で考えた言い方なり反論なりを考えないような人間が議論(言い合い)なんかできるはずがない。借り入れ言葉を言った時点でアウト!
人の真似をするのが流行といわれるようだが、昔、イッセイだったかケンゾーだったか、どちらだったと記憶するが、「流行とは流行っている服を着ることではなく、今あなたが着ている服こそ流行だ」というのが印象に残っている。VANヂャケットの創始者石津謙介はこういった。「IVYというのはオシャレじゃないんです。昔の古い洋服を着ることなんです。
オヤジのおさがりを着る、オヤジのそれはまたおじいちゃんから貰ったもの…」。つまりは物質的に長持ちさせるというのではなく、長続きする、させたいという精神的な価値観を大事にすることであろう。トラッド(trad) とはトラディショナル(traditional)短縮した俗語的表現で、「伝統的な・伝統に則った」という意味である。今IVYはtradといわれることが多い。
人間は「拘る」部分と、「拘らない」部分を使い分けることがある。「何ごとも拘らない」という人は嘘であろうし、「物事には絶対的な拘りを持つ」というのも嘘であろう。そんなに物事を突きつめては生きてはいけないし、厳格なカントでさえそうであること、そうでないことを分けていた。同じように、ここは譲れぬ部分、鷹揚に流していい部分がある。
「慣習を打ち破れ」、「慣習とは反対の道を行け」とニーチェやルソーはいうが、そればっかりだと頭が狂ってしまう。与えられた分量、与えられたサジ加減で、順応型と反抗型に分けられよう。先人の残した道を全否定というのではなく、大事にすべきもの、変えて行くべきものを自己の判断でやって行く。大事なのは思考であり、戒められるべきは安易である。
自分の考えや意見に自信が無いし、間違っているかもしれないし、できたら失敗はしたくはないし、迂闊な意見を言ったりで人から注視されると恥をかく。自身の意見に対してどう思われるか、なんと言われるかを気にしてしまって消極的になる。あるいは意見をすることで自分への風当たりが強くなることを避けたいから、押し黙って多勢に従う。慣習に添って生きる。
こういう生き方が決して悪いとは思わない。こういう生き方をしたい人、選ぶ人はそういう生き方が自分にあってると思うのだろうから、それも自分にあった生き方と言える。心の中で、自分の真の生き方ではないな、そういう不満が抑圧的になるなら、変えよう、変えてみよう、自分の納得行く生き方に目を向けてみようと、自律で思うなら、それはその時のこと。
一般的に人間の自律は安易さを選びやすい。放っておけば安易なことしかしないし、そこには挑戦もない。指導的立場の人が、指導的な意味でそういう人間の保守を良しとしないなら、それこそ指導名目で様々な啓示や暗示を与えることはできる。人を成長させる一つの方法は、責任を与え、期待していることを知らせ、苦労をさせ、汗を流させることだと思う。
彼らを過保護にし、甘やかせ、彼らの代わりにやってやるよりも、彼ら自身でやらせることである。潜在的な能力を秘めた人はいる。それを見抜くのも指導者かもしれない。が、それは指導者の質の問題と言える。優れた指導者、優れた教師、優れた親が如何に少ないかというしかない。確かに闘って得た喜びは半端ないものだ。大いなる闘いのうちに大いなる喜びがある。
どんなに優れたアイデアや、卓越した才能を持っていても、それらすべてを自分で着想することなど誰にもできない。客観的な視点も大切だが、何より大事なのは優れたアイデアを実行する行動力である。折角のアイデアも卓越した才能も、行動しなければ宝の持ち腐れである。自らが自らの能力に開眼することもないではないが、多くは他人の目に見えるものだ。
行動的な人間は、知識の吸収などに対しても意欲的である。言い換えると教育、訓練などに対しては、消極的、傍観的であってはならないということ。安全を求めて退却することもできる、成長を求めて前進するかを選ぶこともできる。ある時点に立って、過去を悔やんだり未来を案じるのも結構だが、今この時に「行動できる」という事を忘れてはいけない。
何かをやる事への怖れ、特に人がやらないことに対する怖れは強い。セブン&アイ・ホールディングス代表取締役会長兼CEOの鈴木敏文はこう言っている。「人間は自分が思いつかないことには反対する。一方、私は人が思いつかないことには、それだけ価値があると考える。実行すれば、差別化が生まれ、結果として成功に至る」。これは"人のやれない事をやれ"の奥儀。
慣習どおりにやっていれば無難、問題は起こらないというのが常識的な考え方であるが、『慣習とは反対の道を行け。そうすれば常に物事はうまくいく』。このルソーの言葉を真に理解するために、穴の空くほど言葉を眺めているうちに言葉の真意が読みとれる。「慣習」すべてに反旗を翻せといってない事も分る。「常に物事がうまくいく」との言葉の奥に潜むものも見えてくる。
文字は単に記号に過ぎず、単純に読めば単純であるが、言葉は読み手の深さに対応するし、生き返る。そこが言葉の面白さでもある。主体性が無い。自分で直面している問題を、人生を乗り越えていこうという意志が無い。責任感が無い。責任を取るつもりが無い。しかし、権利は得れるだけ得ようとする。だから人は、これはこうだ。これが人間なのだという。
だとしたら『その逆』をしたくなる。 現世的人間にあっては自身の現世的目標を達成した人、ほんとうに幸福な人、あるいは満ち足りている人にはめったに出会えない。それでも我々は、自分の一生に関わる問題を、多数派の考えに委ねている。「疲れた~」と口にする人は多い。疲れるのは仕事のせいではなく、心の持ちようが悪いのだ。だからそんな言葉を言わない。
航海は安全なほうがよい。安心の航海なら切符を買う人は多い。それでもタイタニックは沈んだ。不沈と言われた船である。世界貿易センタービルは現代のタイタニックと言われていた。ボーイング社のジャンボ・ジェット機が衝突しても崩壊しない設計といわれていた。人間は言葉を駆使するが、いかなる言葉も、「あり得ることは起こり得る」を内包している。
ひとたび社会に足を踏み出し、楽に生きていける世の中などあり得ない。こんなことは分かっているといいながらも、世間の只中でうごめいているのが人間だ。哲学者は暗示に満ちている。「お金持ってきなさい。幸せになれますから」と宗教者とは違う。今の世代を象徴するものの一つに、安楽な生活を求めるという風潮がある。趣味にあった暮らし、暢気な生活などなど…
あまりにも安楽という風潮が強いためか、苦しみを「悪」としか見ない人は多いのではないか?『苦労は買ってでもしろ」というが、ワザワザ苦しみを買いたい人はいないだろう。が、目の前に立ちはだかる苦しみをプラスにはできる。『夜と霧』の著者として有名なオーストリアの精神科医・心理学者ヴィクトール・エミール・フランクルに面白い言葉がある。
◎「そもそも、我々が人生の意味を問うてはいけません。我々は人生に問われている立場であり、我々が人生の答えを出さなければならないのです。」
◎「どのような状況になろうとも、人間にはひとつだけ自由が残されている。それは、どう行動するかだ。」
◎「幸せは、目標ではないし、目標であってもならない。そもそも目標であることもできません。幸せとは、結果にすぎないのです。」
◎「誰しもが、後で振り返って、あの苦しみを通らないでよかったかと聞きなおされたら、みんな、いや通ってよかったというであろう。」
どの言葉に共感するかは人それぞれだ。自分は最後の言葉が好き。「後悔先に立たず」という慣用句を排除し、人生のすべてを受け入れる。率先して苦しみに飛び込んで行ったとしても、「いい体験だった」の方が光る。その苦しみに耐えかね、自らの命を投げ出した人が、「死んで得したと思わない」、「死ななきゃ良かった」などと言わない方が、霊としてもカッコイイ。