マルクス主義の台頭と崩壊 ④
マルクスはなによりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作りだされた国家制度との転覆に、なんらかの方法で協力すること、近代プロレタリアートの解放のために協力すること、これが生涯を通じての彼の仕事であった。1789年のフランス革命は、封建制と絶対王制を打ち倒して共和制を宣言し、人権宣言を発したことでヨーロッパ各国に大きなショックを与えた。その後イギリスやドイツでは資本主義経済が急速に進み、資...
View Articleマルクス主義の台頭と崩壊 ⑤
「思考する人は、事柄を深く視る人は、死を克服する。かれは死を自分がそれである所のものとして知り、道徳的自由と直接結びついた行為として知るからである。かれは死のうちで自分自身を認め、死のうちで自分自身の意志を承認し、自分自身の愛と自由の行為を承認する。かれは死が自然の死で初めて始まるのではなく、死が自然の死で完結し終息するのを認める」。フォイエルバッハの言葉はなんとよどみのない言葉であろう。彼の著書に...
View Article「経済」という思想 ①
新古典派経済学、ケインズ経済学、マルクス経済学…聞いたことはあると思うが、経済はまさに思想である。経済思想が政治思想、社会思想、教育思想の土台として一つの形をもって登場したのは、近代資本主義社会形成以後であった。古代、中世、近世の経済史をみてもわかるように、それは家族、民族、国家が人間の衣食住の問題をどう解決してきたかという歴史である。そこには経済における、人間の生き方としての経済思想があった。資本...
View Article「経済」という思想 ②
日本には皇室と言う文化がある。西洋には王室があり、皇室と王室のちがいは、皇室が古い神からの血を受け継ぐ人物によって受け継がれてきたのに対し、諸外国の王室は世襲で受け継がれてきたとは限らず、その国の中で戦いがあるたびに、勝者が国の頂点である王となって国を治めてきた。日本の皇室は天皇の血族であり、神のような存在であり、完全に世襲である。どんなに権力を持っていても天皇や皇族にはなれない。ロシアのピョートル...
View Article「経済」という思想 ③
成果主義には良いものと悪いものとがあるといわれるが、飴と鞭を適宜に使えば成功するというほど簡単なことではない。それでは、「良い成果主義」と、「悪い成果主義」の線引きとはどのような要因によって決定されているのか。これを理解するカギとして、「マルチタスク問題」とよばれる視点が経済学にある。マルチタスクとはもともとコンピュータ用語である。複数の処理をタスクという単位に区切り、並行して実行することをいう。C...
View Article「経済」という思想 ④
ケインズはこれまでマーケットの、「見えざる神の手」を、政府という、「見える手」で正す必要性を説いた。マーケットの失敗に対して政府が出動し、責任をもって景気回復に当たる必要性を論理的に明らかにした。ケインズ経済学の応用例として代表的なのは、1929年大恐慌時にアメリカ大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトの、「ニューディール政策」がある。「ニューディール政策」とは、不景気打開協議のために若い経済学...
View Article「経済」という思想 ⑤
経済学というのは、我々の生活を豊かにしてくれる知恵である。我々は意識しようがしまいが、毎日経済活動を行っている。この世に生まれてきた以上、生きているかぎり、何らかの経済活動をすることになる。言い換えれば、生きている事そのものが経済活動であるとするなら、我々は決して孤独ではない。みんなが手を差し伸べ、協力し合って生きている事になる。ゆえに、経済政策に対するさまざまな考え方が生まれるが、こうしたいろいろ...
View Article「経済」という思想 (総括)
「西側は冷戦に勝利した。我々はこの勝利を誇りに思う」。1990年の初頭、当時の西ドイツ駐在アメリカ大使のウォルター・バーノンはこう語った後に、次の言葉を付け加えた。「本当に機能するただ一つのものは、自由市場経済である」。批判はないがあえて問うてみるなら、「本当にそうなのか?」。我々は本当に自由経済の終局的勝利を目撃しているのだろうか?マルクス・レーニン主義者のイデオロギーが完全に破産したのにはもっと...
View Article良好なる人間関係
政治体制や経済活動という話題が、「硬い」という言われ方について否定はしない。世の中は、「硬い」ものと、「柔らかい」もので成り立っているから、どちらが重要で、どちらが不要というものでもない。政治に中立はなく、「体制派」か、「反体制派」か、のみである。経済も同様に支配者、労働者に分類される。経営者は支配階級、働くものは誰も労働階級となる。雑多な人間社会である。雑多であることが健全と思っている。雑多という...
View Article政治と経済についての総括
大学には、「経済学部」や、「政治経済学部」はあれども、「政治学部」はない。かつて、「政治学部」は、明治大学と國學院大學に置かれたが、現在はいずれの大学にもない。政治学は法学部政治学科、政経学部政治学科、社会学部政治学コースで学べるが、政治経済学部を最初に発足させたのは早稲田大学で、「政経学部の原点は早稲田にあり」が通説だ。同大学の早創期もそうであったように、政治学を法学部の一部門と捉えるドイツの慣習...
View Article小さい秋
(一)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた めかくし鬼さん 手のなる方へ 澄ましたお耳に かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声 ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた(二)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた お部屋は北向き くもりのガラス...
View Article不登校なこどもたち
かつて不登校の子たちを登校拒否児という言い方をしたが、こんにち、「登校拒否児童」というのは聞かなくくなった。いわれなくなったのは言葉に問題があったからだろう。「不登校」は学校に行かないという状態だが、「登校拒否児童」といえば、どこか症例であるような、「枠」に嵌めた感がある。彼らは病人ではなく、ただ学校に行かないだけの子どもである。ある程度の期間学校に行かない子どもについての状態を、解説する言葉を歴史...
View Article異質と同質
むか~し、彼女と「男と女の違い」について、知る限りの知識を言い合いしたことがある。この手のお遊びはよくやったが、あくまで根源的な違いに限定したおフザケでない真面目な知識の披露ということになる。例えば、「女は妊娠するが男にそれはない」、「女に卵巣、男には精巣」などと、性差が多くなるのは必然で仕方ないが、風評・世評的なものは「×」。傾向性についての指摘をする場合には、相手に納得のゆく説明がされるなら許さ...
View Article異質と同質 ②
異質とは字のごとく異なった性質のことを言うが、似たような意味では、不適応 ・ 肌合いが違う ・ 呼吸が合わない ・ 水と油 ・ 性に合わない ・ 違和感がある ・ なじめない ・ とけ込めない ・...
View Article異質と同質 ③
童謡『赤い靴』は今聴いても寂しく陰鬱な感じだが、子どもの頃には怖い歌だったのは、"異人さんにつれられて行っちゃった"という歌詞の部分。最初は、"いいじんさん"かと思っていたら、"いじんさん"のようで、"いじんさん"の意味も分からず、誰かに聞いたこともなく、ただ歌詞どおりに歌っていたし、子どもはオウムや九官鳥のようにただ真似をするだけ…異人さんが外国人の事だと知ったとき、あどけない子どもの頃の自分がふ...
View Article異質と同質 ④
逞しさと厚顔無恥は紙一重という。バカと天才が紙一重であるように、表裏は一体と見るのも、一つの物の見方である。厚顔無恥はまた図々しさともいうが、謙虚で控えめな人間はこういう性質の人間を異質として嫌う。確かに質は違っているし、避ける気持ちも分からぬでもないが、見習おう、取り入れようとする人間は、自身を一皮むくことになる。自分にないもの、足りないものを採り入れるか、避けるか、どちらがいいのかについての答え...
View Article憂き事の尚この上に積もれかし
限りある身の力ためさん。と続くこの言葉は、江戸時代前期の陽明学者熊沢蕃山のされている。中江藤樹門下にて陽明学を学ぶも、陽明学に傾倒していた岡山藩主池田光政に招かれ、藩政確立に取り組んだ。零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた。しかし、大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらした。ばかりか、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者であったために、蕃山...
View Article憂き事の尚この上に積もれかし ②
林真理子の本など一冊たりと読んだこともないが、彼女に関する記憶は社会問題になった、「アグネス論争」である。30年も前のことでもあり、嫉妬混じりの不毛な論争と無視していたので当時の明確な記憶はないが、アグネス・チャンによる、「子連れ出勤」の是非論争であった。Wikiによると、1987年、歌手でタレントのアグネス・チャンが第1子を出産した。彼女は出産直後から乳児を連れて、テレビ番組の収録スタジオにやって...
View Article憂き事の尚この上に積もれかし ③
>多くの科学者が悲観的であったなら、数千回もの実験を経て新薬や、新技術の発見などあり得ない。2014年ノーベル物理学賞を授与された天野浩名古屋大学大学院工学研究科教授は、中学生までは勉強嫌いだったという。そんな天野氏を変えたのは、高校時代の朝礼で、校長が紹介した一篇の和歌であった。それが、「憂き事の尚この上に積もれかし~」だという。自分はこの句を熊沢蕃山が詠じたとばかり思っていたが、新渡戸稲造...
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