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政治と経済についての総括

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大学には、「経済学部」や、「政治経済学部」はあれども、「政治学部」はない。かつて、「政治学部」は、明治大学と國學院大學に置かれたが、現在はいずれの大学にもない。政治学は法学部政治学科、政経学部政治学科、社会学部政治学コースで学べるが、政治経済学部を最初に発足させたのは早稲田大学で、「政経学部の原点は早稲田にあり」が通説だ。

同大学の早創期もそうであったように、政治学を法学部の一部門と捉えるドイツの慣習に合わせた考え方が主流であったなか、イギリスの慣習を採用して、経済学とともに政治を学ぶ学部として、「政治経済学部」を発足させた。当時イギリスにおいては、「政治を解らずして経済は解らず、経済が解らずして政治は解らない」という理解がなされていたことによる。

そのため、法学部が文系学部の中心学部であることが多い日本の大学にあって、早稲田大学においては伝統的に政治経済学部が早稲田の文系学部の看板学部となっている。文学部系の範囲は広く、一般的に文学部の表現論といえば、文学作品の表現効果についての研究・考察が主となり、文学を成り立たせる語句の秘密を解き明かすことにある。

ところが、「国語表現論」を社会学部で扱うと中身が変わってくる。文学作品を研究対象として扱うのではなく、実際に書くことの活動をとおして、社会学見地から自己の内面の可能性を現象化することになる。人間個々は一つの、「魂」であり、誰もが何か言うべきことを持つはずだから、自己の内面を言葉の上に展開することで、自他に対する新たな光を加えることができる。

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文章は、対象~認識~言葉~表現の厳しい相関関係の上に成立するものだが、そうした正確な認識の上に日本語をどう対置させるか、認識と表現の両面から自らを責めることで新しい言葉の可能性を探り創造する。人間が現実を認識するのは、人間的現実を形成するためである。いわば、現実を現実として認識することで、人間を人間として作り上げることになる。

人間は社会的動物であるがゆえに、社会で生きて行くためにどれだけ自分を偽ることになるのだろうか。好きになれない人間や嫌な相手に対して、なぜ正直になれないのか?自分が嫌悪する相手にさえ、好かれたいからなのか?自分にとってこうした疑問は早い時期から問題提起としてあった。好きなものを好きといい、嫌なものを嫌ということの善悪・是非である。

「世の中の多くは選択である」。こう判断する方が現実的な生き方ができる。善悪という判断に際し、自分は善を行ったのだから必ずその恩恵はある。天は正しい者に味方をするといった観念論は、実効的でなく裏切られることが多い。善の見返りを期待した善の行使は期待が外れる。であるなら、「選択」で対処して見返りは排除し、結果には自己責任を受け入れる。

西宮冷蔵の水谷洋一社長は、「正しい事をすれば英雄になれるという錯覚があった」と後悔し、「もし生まれ変わって同じ状況なら、もっと上手くやります」と言った。彼の、「上手くやる」が何かを考えた。あれは牛肉の産地偽装事件であって、管轄の農水相の役人への裏工作で、スーパーなどの卸先からの抜き打ち検査で偽装が判明したという手順であったなら倒産は免れた。

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義憤からの正義の行使には、そういった間接的な方法もあったはずだが、英雄になれるという不純な動機が裏目にでて、全てを失ったのは皮肉な結果である。神は正義に加担するということもなく、このケースは人間の邪悪な正義感の失敗だった。あげくこの事件は官民癒着を露わにした。許認可権を持つ役人は、何かと利害や便宜を拠り所に仕事をするものであろう。

確かに政治というのは本来、国を動かす手法であり、そのためのお金の動きがあるわけだ。国債を発行してリニアを作るとか、IT関連事業活性化のためにその関連事業への課税に特別枠を設けるとか、通信事業を民営化して民間企業の新規参入を活性化させるといった政治的手法は、そのまま経済活動に影響を与える。政治が経済を動かし、経済は政治を動かしていく。

家庭内の問題でいえば、姑との軋轢や夫婦の冷めた愛情にあっても、子どものために仲良しの、「フリ」をするという女性。「物心ついたことから、女の子は仲よくもないのに、フリはしますから…」というが、いかに、「フリ」をしてみたところで、子どもの目は誤魔化せない。それを上手く誤魔化せていると、仲の良い夫婦を演じるのは、子どもの心に、「傷」という邪悪を植えつける。

こうした邪悪が、「欺」から派生することを思えば、「欺瞞」という行為は子どもの純粋な心を汚して行く。神戸連続児童殺傷事件の少年Aの家庭は、周囲からみて、休日は広場で家族がバドミントンに興じるなど、家族愛に満ちた平和な家庭であったと周囲には映ったというが、そうした欺瞞から心の闇が増幅されるのであろう。家族は胸襟を開いて何でも言い合うことがいい。

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家庭の長たるを政治家とは言わぬが、家庭内や近隣社会や学校内の出来事などの小さな政ごとに携わることになる。したがって夫であれ妻であれ、様々な事態に適切な判断と行為のできる者が、長であることが望ましい。子どもは大人の縮図というが、大人の世界観や社会観を子どもに見せるのは悪い事ではない。大人の醜さを隠そうとすることが問題であろう。

日本人は西洋人に比べて、子どもを未熟で未完成のものと捉え、見くびっていることが多い。幼年期は生物ならすべてに義務づけられた時期であるが、性格の構造や人格形成をする上で、なによりも重要な時期である。親や大人は子どものそうした「幼年期における想像力のエコロジー」に敏感であるべきなら、何より見せてはならぬものは、「虚」や、「欺」であろう。

政治と経済と教育が国家の根幹であろう。この中で唯一大人が子どもに携わるのが教育だが、教育現場でいじめをなくすことを大人はできない。大人も子どもも含めたこの世が生存闘争の場だとするならば、適者生存というのは修羅場であり、争いや闘争、競争社会であることを前提とし、それに価値観の多様性を認めるならば価値観の相違から争いはなくならない。

ただでさえ、人には、好悪の感情がある。だとしたら、いじめから逃れる術はないということか。であるなら、いじめから逃れる術はない。謝ったいじめ対処法でいじめをなくそうとすればするほどいじめをなくそうとする当事者、教育者こそ子どもをいじめる側になってい。謝った対処法というのはいじめを一掃しようとする非現実的で道徳的な言葉の羅列である。

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現実問題としていじめはなくならないという前提でいうなら、大事なことはいじめに対処する術こそ教えるべきと考える。強く鍛えるということも大事だが、いじめ対処は危機管理術であり、その能力を高めることも教育である。よくないのは、逃げ出したり、自殺すること。それをダメと教えるのが教育である。日本では政治や経済のことを義務教育で教えないのはなぜか?

教えないというより、教えられないのだろう。それが教える側が負け犬であることの証拠である。政治や経済は、民主主義国や自由経済国では、生きていく上で欠かせない必須な事であるにも関わらず、日本人は世俗的なことを卑しむ傾向がある。ゆえにか、金儲けなどという下賤な事は日本の学校では教えない。しかし、生きていくという事は、世俗的なことである。

世俗的な事を教えずに何を教育するというのだろう。この世にタダで手に入るものなどないということや、危機管理意識など、生きているための有用なことは教えないのが日本の学校である。アメリカでは小学校から経済を教えているし、教科書には上記の言葉、「ただで手に入るものなどない」と、ハッキリと書いてある。政治や経済は、なんと生々しい現実であろうか。

生きることが現実なら、生々しい現実を教えられないで、それが何の教育であろう。経済に真剣に取り組もうとするから、ゲイツやジョブズのような人間が出てくる。天才は化石のような過去の歴史より、今という現実に興味を抱くという。「故きを温ね、新しきを知る」という発想を現代的に改め、今を教えるから歴史が生きる。新しい時代の考えは、「新故知温」である。

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戦後最低の投票率となった平成26年の第47回衆院選。選挙が行われるたびに、若い世代の投票率の低さが指摘され、「政治に無関心な若者」という構図で問題視され、様々な分析をされているが、AKBの選挙のように自分の一票で彼女たちの総体が変えられることがあっても、国政選挙の自分の一票は何も変えられない、変わらないという意識があるのだろう。

「なぜ選挙に行かない?」の理由には上記の答えが多い。「選挙ったって、誰に投票していいか分からない」という意見もある。それがAKB選挙との大きな違いである。投票率の推移を見て思うのは、若者(大人)が、ますます幼稚になったことも挙げられる。かつては、20歳になったら…という様々な自覚が自然と芽生えたが、そうした大人になったらの自覚がない。

沖縄で開催予定だった、「AKB48 49thシングル選抜総選挙」には2800万円もの国費が、「沖縄観光の課題の解決を図る民間事業者の取り組みを支援し、沖縄観光の持続的発展に資するものに助成できる」という名目の支出であるが、ハワイが閑散期にホノルルマラソンを開催して観光客を呼び込むというハワイ観光局綿密な計画のもとに企てられた施策とは大違い。

・AKB総選挙に国費2,800万円…、なにやってるの?どうしちゃってるの日本?

・税金・沖縄振興予算でイベント補助はいいが、 「一発勝負でAKBの総選挙で人を呼び込んで次にどうつながるか見通しもない」これ。国民的アイドルとか知らんし。

・経済効果に対する政治判断は、慎重かつ綿密であらねばならない。

・2800万円の税金が投入されたイベントが、雨でポシャった訳ね。 ほぼ効果なかったんじゃない? まぁとりあえずこんなにかける必要は無かったのでは?

・助成金によるイベント開催の持続性は低いというこの指摘は正しい。助成金を必要とするソフトについては熟慮すべきで、次につながる企画をやるべき。

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