政治体制や経済活動という話題が、「硬い」という言われ方について否定はしない。世の中は、「硬い」ものと、「柔らかい」もので成り立っているから、どちらが重要で、どちらが不要というものでもない。政治に中立はなく、「体制派」か、「反体制派」か、のみである。経済も同様に支配者、労働者に分類される。経営者は支配階級、働くものは誰も労働階級となる。
雑多な人間社会である。雑多であることが健全と思っている。雑多というのは様々な考えや意見が存在することだから、水と油的な考えがあっても当然である。「両極端な意見」というが、これは地球の北極と南極、磁石のS極とN極、中国思想に端を発した陰極と陽極などの表現をいう。極を前に、極左・極右という言い方もするが、これはイデオロギーを表す。
極東という言い方はあるが極西はない。これはヨーロッパを中心に見てもっとも東方にある、日本、中国、朝鮮半島、シベリア東部をいう。「極」はきわみ、きわまる、などの読みと意味があるが、江戸末期の滑稽本『小野股倉噓字尽(おのがばかむらうそじづくし)』の中で、「極」をきまりと読めば、これは接吻の隠語のこと。つまり男女の仲が決定的になったことを言う。
雑多な社会の中で人間同士が仲良くすることもあれば、ちょっとした摩擦が元で喧嘩をしたりもある。批判も摩擦の原因になるが、批判に対する基本的な考え方は受け入れることである。相手を批判すれど、相手は批判を受け入れる。相手が自分を批判すれど、自分が批判を受け入れる。この場合の「受け入れる」は、「取り入れる」ではなく、「尊重する」でいいだろう。
互いに相手の見方を尊重するということだが、「尊重する」は「耳に入れる」ということ。「遮らない」こと。なぜなら、人には人なりの見方や考え方や意見があるのは当然だと思う事。それが思えないのは、「我」が強い人間である。なぜ「我」が強いか、心が狭いからである。心が狭いのは視野が狭いからだろう。物事には様々な見方、捉え方があることを解らない。
解ってはいても、自分を押し通す。この場合、「解っている」ことにはならない。「頭で解る」が行為を伴わないのは、「解る」とは言わない。「解っているんだけどできない」という言い方をする人間は多いが、実行できない、「解る」は何の意味もないと自分は考えている。確かに解っていてもできないことはある。電車で絡まれ、困っている人を助けたいが、それができない。
これは他人のことで自分に害が及ぶと考えるからだ。正しい事はすべきだが、そこは自分と他人の差でもある。せめて、自分に降りかかることなら抗う、もしくは上手くとりなすことも知恵といえる。無益な喧騒は避け、相手の股をくぐるのも知恵である。社会は自分と他人の、「場」であるからして、他人の言動は無視できないが、無視をする場合も必要である。
他人によって自分はなにかしらの影響が与えられると感じてしまう。それはいい場合もあれば、よくない場合もある。他人の言動が自分にプラスに生かされると思うなら、素直に取り入れるのも心の広さであるし、反対に他人の自分への批判や中傷を気にするあまり、委縮するのはよくない。人間はこれがキチンとできるなら、対人関係に苦慮し、悩むこともなかろう。
「君臨すれども統治せず」というのが、日本の元首である天皇の立場だが、人間関係は、「(相手を)批判すれども関与しない」。さらには、「(相手から)批判されても無視をする」。これも人間関係円滑術である。それができないのは、やはり上記したように「心が狭い」ということになる。「大は小を兼ねる」といい、何事も小さきより大が、狭いよりは広い方がいい。
人の心も狭きより広き方がいい。中年になって額がどんどん広くなって行く場合は、狭い方がいいとなるが、気にしないことで心はむしろ広くなる。ハゲ、デブ、チビという悪態言葉はあるが、どうしたことか最近は価値観の変貌なのか、柔軟性になったというのか、ハゲの似合う人はいる。同様に、デブやチビの似合う人がいるように感じるのは自分だけでなかろう。
「ハゲがカッコいい時代」という表題で記事を書いたことがあるが、本当にハゲが似合って、カッコイイと思える時代になった。昔はそんなことなど思いもしなかった。おそらくこれは、自分のキャパの変貌もあるのだろう。ブスは昔から好きだったから、「変わり者」と言われていたが、それで「変わり者」と言われても、単に少数派であるというだけで、気にはしない。
多数派を単に臆病者と捉えていたこともあるが、視点の広さを持っているという自負もあった。同じように、ハゲびとに偏見はないばかりか、ハリウッド俳優のジェイソン・ステイサムなどは、「俺は自分がハゲだってことを神に感謝しているぜ。そもそも俺に髪の毛なんて似合わない!」と、こんなことをさりげなく言える精神の強さには同じ男として憧れてしまう。
「ハゲであるを神に感謝する」などと、こうまで言えない、発想もない。よって、ジェイソンの言葉は、他のハゲびとのいかなる言葉より決まっている。デブも似合う人がいるが、自分はオカマや女装が好きではないので、オバQの衣装しか纏わぬマツコや、美輪明宏は好きになれないばかりかデブが似合うとは思わない。普通の衣装のホンジャマカの石塚はデブは好感もてる。
チビについては、これは100%先天的なものゆえに、取り立て話題にすることもないが、女性の場合は長身に比べてチビの方が愛らしい。芸能人に限って男のチビは、キムタクシューズが必須と言われたが、岡田准一が長身であったなら、果たして今ほど存在感があったかといえば疑問である。やはりというか、人間は外観より実在感こそがアピールの源となろう。
視点をどこに置くかで物の見え方は変わってくる。反対に人は自分のことをネガティブに見る人と接する時、委縮したり、罪悪感を抱いたり、腹立たしさを感じてしまうこともある。これすら視点を変えれば、それは必要のないことであり、あなたがそれを背負う必要は全くない。決して慰めで言っているのではなく、視点を変えればと具申をし、後は当人の問題だ。
「あばたもエクボ」というように、自分の欠点を許容してくれる人は必ずいる。それでこそ雑多な世の中である。人の欠点をあげつらうことがいじめの温床となるなら、いじめをされる側は、「人をいじめ能ナシの哀れなバカども」と強い気持ちを持てたらいいが、そこまでになれぬなら、日々は辛くとも自らに我慢という枷をかける。これが多くのいじめ体験者の告白だ。
あとは自己啓発として、「女工哀史」や、「からゆきさん」などの過酷な女性史などを読むのもいいだろう。辛い時には、自分などよりずっと辛い思いを生きた人たちに思いを寄せてみる。こういう別の視点を摸索することで、現実逃避は可能である。一例を言ったまでだが、自身がどういう自己啓発をするか、自分に降りかかる問題として、自らが知恵を出すことだ。
いじめの問題はつき詰めると論理は稚拙であり簡単に投影できる。ようするに、誰も人は自分の都合の良いように他人を投影して見ている。したがって、他人からネガティブな評価や言われ方をされた場合、どんなにそれが正当性を持っているように見えてたとしても、その人の勝手な世界観で相手を見ているに過ぎず、同意する必要もなく、気遣うこともバカげている。
他人の感情は他人のものでしかないが、何故にその人がそういう感情を保有するのかを分析することで事態を客観的に傍観できるが、小中生あたりでそうした捉え方ができない場合、そういう事を諭してくれる親や教師に巡り合うことで勇気づけられるなら、思い詰めたいじめ自殺などの防止に寄与できよう。問題は、教師を信頼できない子や親に相談しない子であろう。
そういう子どもは子ども自身に問題があるのではなく、教師や親の敷居が高いのではないか。平素からいじめ被害に遭った場合の対処法はどうすべきかを親子が胸襟を開き、ざっくばらんな会話を持つことはあってもいい。いじめがあってからではなく、いじめが起こるとも起こらぬとも分からぬ時からの問題意識を親がもつことが大事であろう。防火訓練のようにである。
子どものいじめに限らず、他人からの批判に対する適切な対処が上手くできない大人も少なくない。批判や非難はあらゆるところに生まれるものだ。姑の嫁批判、夫(妻)の妻(夫)批判、子からの親批判、友人、同僚、恋人…人と名のつく相手からの批判は一理あるものもあるが、批判そのものをへこむからと嫌がる人間は、むしろ批判をする側を萎えさせてしまうことがある。
なぜなら、どうしても有用な批判も存在するからだが、「自分に批判はやめてくれ」と前もって告げる人間も中にはいる。「お前の批判もしないかりに、俺の批判もしないでくれ」と言われた時には驚いた。「批判は止めて傷を舐め合おう」という弱腰で向上意欲のない人間とは付き合う意味がない。彼の注文言葉が原因となり、自然と遠ざかってしまうことになる。
「私に気になったことがあったら、ちゃんと言ってください」と言う女が一人だけいた。付き合う前の段階でそんな言われ方に驚いたが、その言葉を聞いただけで、彼女の心の在り方が感じられた。男女が付き合う前のセオリーというものではなく、彼女自身の自然な内面の表れと感じられただけに新鮮であったが、その一言は、その後の彼女の性格と合致していた。
人と人の関係において相手にも自分においても正しいの根拠は存在しない。天は全ての状態を許しており、良い、悪い、という人間が作った物差しを正しいとする根拠は見つからない。もし、ただ1つ正しいことがあるとするなら、「それが起こった」という事実である。「なにかを正しいと信じた結果、特定の感情を作り出した」という事実だけは確実に正しい。