「西側は冷戦に勝利した。我々はこの勝利を誇りに思う」。1990年の初頭、当時の西ドイツ駐在アメリカ大使のウォルター・バーノンはこう語った後に、次の言葉を付け加えた。「本当に機能するただ一つのものは、自由市場経済である」。批判はないがあえて問うてみるなら、「本当にそうなのか?」。我々は本当に自由経済の終局的勝利を目撃しているのだろうか?
マルクス・レーニン主義者のイデオロギーが完全に破産したのにはもっともな理由があるが、社会主義が崩壊した後に残されたものは空虚であった。先進工業国の労働階級は比較的豊かな生活をおくっているが、民族主義や社会不安や内戦は今も存在し続けている。また、多くの開発途上国地域では、「マンチェスター資本主義」が、今なお支配しているという。
マンチェスター資本主義とは産業革命後におけるイギリスの炭鉱労働者の劣悪な労働環境で、日本でいえば「女工哀史」であろう。ここには資本の自由はあるけれども、とてもじゃないが人間の自由はない。世の中は人間が主体なのにこれはおかしい。人間が人間として扱われる世の中を作らねばならないとの情熱が、さまざまに主張されて生まれたのが社会主義である。
マルクス以前のさまざまな社会主義思想が、マルクスによって形成化され、その後に『共産党宣言』が出されたことで、共産主義という名前がついた。これが後の1917年、ロシアに革命が起きて、レーニン率いる国家が生まれ、この国家が目指す到達点が共産主義ということだった。マルクスの理論には経済政策が不可欠で、彼は昼夜を徹して経済学の研究に没頭する。
そこで生み出されたのが、「マルクス経済学」であり、これが社会主義を裏打ちしているという構図であった。マルクスに資本論を生ませ、レーニンに帝国主義論なるを生ませ、国家独占資本主義論に影響を及ぼしながら、社会主義の新しい理論が生まれた。マルクス経済学にはまずは経済があり、国家論があり、それに付随した言語や家族や様々な体系になっている。
社会主義危機の最中に小平がゴルバチョフに言った言葉は、「新しい思考を採り入れない者は真のマルクス・レーニン主義者ではない」であったように、社会主義のイデオロギーとは、「絶えざる改革の過程」とされている。何か辿り着く先が社会主義というわけではなく、人類は常にそれぞれの社会段階でいろんな問題を抱え、人間優先という方向で解決していく。
こうした、"絶えざる改革の営み"が社会主義であるとするなら、マルクス・レーニン主義というソ連型社会主義でない考え方が導かれる。小平は、「ソ連型のマルクス・レーニン主義が真の社会主義ではない」と喝破した。マルクスの中に、"初期マルクス"という考え方がある。花も実もあるり、血の通った人間的思考で、魅力ある思想家であったのは間違いない。
ただし、マルクスの理論は後の人間によって歪められて行く。共産主義とは、「唯物論的弁証法」の世界観である。世界には自然現象と社会現象で成り立ち、両方とも唯物弁証法で考えるが社会の面については体系化された、「史的唯物論」が、生産力と生産関係の相克によって、歴史の各段階が発展していくと説いた。史的唯物史観は現代にもなお生き続けている。
中国の天安門事件が日本を含む共産党に対する大きな疑問を呼んだが、歴史は複雑な歩みをするもので、現在の日本共産党が今なお天安門を引きずっているわけでもない。万が一共産党が政権をとったからといって市場経済が計画経済に変わることもない。もっとも日本共産党の主張は正しく偏ってなく、ごくまともであるから、共産党という名称を変えるべきかも知れない。
ただし、経済となるとそうもいかない。正しい事を行えば経済が回るわけではない。清濁合わせ呑む姿勢で、切り捨てるべくは切り捨て、全体利益のためになら悪と手を組む選択を決断するのが政治である。ゆえに共産党には期待できない。共産党は観念の政党として今後もその役割を果たすべきであろう。実行は無理としても、観念的で正しい主張はいくらでもできる。
政治的な営みとは政治的なアクターの、「行動」の結果であるということができる。アクターは政治家だけに限らない。一般市民や有権者はもちろんのこと、市民団体の活動家なども含むこれらの、「政治的」なアクターが、なぜ、どのような理由で、どのようなメカニズムで、一定の、「行動」を取ったかを考察し、説明しようとするのが政治学の1つの役割でもある。
同じように経済の繁栄もアクションが重要で、企業が必死にイノベーションに励むのは、競争があるからだ。勝者となるためにはライバル他社より少しでも良い製品をより安く作るために努力を惜しまない。マーケットの凄さは、企業を自然にそう仕向けるところにある。もっともイノベーションには2つの側面がある。一つはすでに存在する製品をいかに安くできるか。
もう一つは上記したように、新製品を開発すること。前者はプロセスイノベーションといい、生産工程を合理化を実現させるが、このようにイノベーションは生産性を上昇させる。企業が何より目指すのは、デファクトスタンダード(事実上の世界標準)であろうが、そう簡単になし得るものではないが、それをなし得た企業もある。マイクロソフト社とインテル社である。
ビル・ゲイツのマイクロソフトは、ウィンドウズで世界を席巻し、パソコンの心臓部であるマイクロプロセッサ―においては、圧倒的シェアのインテル(ペンティアム)も一人勝ちの事例だろう。言わずもがな両企業が世界のマーケットを独占できたのは、デファクトスタンダードをいち早く確立したからで、ウィンドウズやペンティアムを使うよう法律で強制されたわけでもない。
両社ともにあくなき新製品イノベーションを欠かさない。商品の生産には原材料たる資源の奪い合いから、地球上の資源の絶滅を危惧される分野もあるが、何より知的生産にあっては資源の奪い合いがない。したがって、物の生産にはある限度を超えると収穫「逓減」が働くが、コンピュータソフトなどの知識の生産には反対に収穫「逓増」が働くようになる。
こうした理由から自動車メーカーのトヨタやダイムラーベンツ社が、世界市場の80%のシェアを占めるなどはまかり間違ってもあり得ない。どうしても資源の奪い合いが必要になるからである。資本主義社会における独占企業の存在は、一国内に限らず、国際的なマーケットが独占の弊害に晒される。これを厳しく監視・管理し、健全に対処する国際機関が必要となろう。
マルクスは資本主義の果てをこうした独占企業による人民支配を見定めていたし、それを否定することで社会主義を夢想したのだった。考え方の基本は決して間違ってはいないが、自由市場経済の弊害はあっても、社会主義の計画経済はゴスプラン(国家計画委員会)によって、価格などが全部決められているというのは、体験はないがいかなる経済社会であろうか。
そういう場合は、「裏経済」のようなものが暗躍すし、価格統率がとれないばかりか、商品の二重価格ヤミ再販も横行してメタクタになるだろう。官僚腐敗も必然的に派生する。マルクス経済学の理論は立派でも、人間が腐っているなら理論も主義も絵空事か。もっとも自由競争社会にあっても、官僚や政治家の汚職は絶えない。国家に教育の重要性が問われるばかり。
自由主義市場経済しか知らない我々は計画経済のどこが悪いのか、悪かったのか、良いところはないのか、などは文献にて知るしかすべはないが、マルキシズムの象徴ともいえる、「計画経済」は当初はバラ色とされ、英知の成果と思われていたのだが、巨大で強固な官僚機構が育って行くのと並行して、様々な矛盾が生まれ始め、競争なき社会は閉塞感に窮して行く。
そうしたペレストロイカ前のソ連では、国際的競争に耐え得る商品は、工業製品の全種類の15%ほどに落ちてしまっていた。自由貿易がどんどん拡大していったのは、貿易に参加する人たちの生活が、貿易をする前の状態に比べて格段に豊かになったからである。自由貿易はなぜ利益をもたらせるのか?まず、国によって得意とする産業が異なるというのが大きな理由。
次に、消費生活に多様な選択肢が増える事。クルマ好きの日本人がトヨタや日産の高級車よりも、さらにBMWやフェラーリに乗ってみたいと、これも選択肢の広がりである。確かに自由貿易は利潤を生むが、それでも自由貿易に難色を示す考えもある。したがって、自由貿易を推進する上で重要なのは、自由化によって損失を被る国内産業従事者への相応の補償である。
経済を数行で語り尽くすことはできないが、細かい事は専門家の領域である。さらにはもっと深く追求したいとあらば、専門書を読むことだ。マーケットの背後にある深層、バブル発生の理由、金融不安と日本経済の将来性、金融ビッグバンという語句、「大競争時代」に生き残る方法などについて、とりあえず上辺だけでも知っておきたいなら問題はなかろう。