異質とは字のごとく異なった性質のことを言うが、似たような意味では、不適応 ・ 肌合いが違う ・ 呼吸が合わない ・ 水と油 ・ 性に合わない ・ 違和感がある ・ なじめない ・ とけ込めない ・ そぐわないなどが連想される言葉。「異質な人」という言い方がされるが、どういう人が、「異質」なのか?上記した、「肌が合わない」、「性に合わない」は個人の主観である。
人を、「異質」と言ったところで、性質が違う他人は自分からみて異質である。なのにそういう言い方をする。同質は異質の対義語であるが、他人を同質とする場合、何をもって同質というのか?ちょっとばかり性格や考え方の違う人間は人の数ほど存在するし、自分の似た考え方や価値観のタイプもいるが、自分の場合、それらを同質・異質という定義に組み入れない。
最も異質と感じるのは異性であろう。同じ人間でありながら、性が異なるとこれほど違うのかという驚きは多だあった。にも関わらず異性を求めるのは、不思議と言うより、「異なる」ことが魅力だったりする。「このハゲーーー!」は有名になったが、女の本質を知るものは、そんな女のヒステリックな叫び声に驚くこともなかろう。政治家だからダメというのは笑止千万。
あれを批判するのは男であって、女性はそれほど批判はしていない。他人の手前、驚いたような言い方はするだ、ああした不安定な情緒はどの女も持っているものだから…。正気の沙汰とは思えない場面は幾度もみたし、「女はまるで違う種だな」と思っている。国会内や大勢の前での発言でないし、嵌められた(録音された)部分もある。なぜにそれほど問題にする。
清楚でしとやかな政治家や女優のSEX時の声を隠し録りして世間に公表したのと何ら変わらぬ卑劣な行為だと思っている。よって、自分は豊田議員には同情的で、公表した秘書の返報感情(仕返し)に憤る。そうまでしなくとも、さっさと辞めればいいことで、リベンジポルノと何ら変わりない行為である。あの程度の暴言・罵倒を夫に向ける妻などそこら中にいるだろう。
国会議員だから問題というのも話を大きくおかしくするこじつけであろう。不倫をする政治家とどちらが問題ということもなく、どちらも人間の陰の部分であるが、不倫は性行為中の録音テープでも出回らない限り嘘をつき通せるが、隠し録りされた豊田議員は気の毒であった。人間は誰にも陰の部分や裏の部分がある。それ蓑で覆い隠していい子ぶっているに過ぎない。
陰では別人という人間も、ごく普通の人間と思っている。が、殺人者などという法や治安を乱す人間は、危険人物と考える。いじめも陰で行う卑劣な行為である。刑法犯罪に当たらないが、その精神的圧迫度は相当のものがある。定義付けが難しいのと、教育現場にむやみに司法が介入すべからずというこどで、違法性としての操作は、被害者が出ない限りはなされない。
だからいじめは不幸な結果にならなければ露呈しない。司法介入前に教師や教委が何にもできないのは、つまらん奴らが教師をやっているからで、被害者が出た後でさえ、「いじめはなかった」とする無能教師の責任逃れにうんざりさせられる。「それはなかろう」と思うが、いじめの定義とされる項目に合致しないからという姿勢で加害者は罰せられず、被害者の一人損となる。
社会福祉法人「いのちの電話」の斎藤友紀雄事務局長は言う。「『いじめ』は世界中で起きていますが、日本の場合、その一番大きな原因は、異質なものを認めないという精神文化に根ざしていると思う。偏差値教育や核家族化によって孤独を強いられた子どもたちは、必死に自分の居場所を求めるのですが、性格や能力が集団と調和しない子は、集団から排除されてしまう。
つまり、村意識が働いて、村八分にされてしまうのです」。ここにいう異質が何を指すのかの想像は可能だが、どこか違う、何が違うというのは、苛立つ人間の決めつけでしかない。ほんのちょっとの違いを、「普通とは違う」などと意地の悪い誰かの決めつけに呼応する害悪集団である。寄って集って問題にするから、被害者が生まれ、継続するからいじめとなる。
単一民族的な日本人は同調圧力が強いがゆえに異質や異端を嫌う傾向があるのは、斎藤氏の指摘にもある。情緒が未熟で適応障害といえるのは、むしろいじめ加担側ではないか。それを正すことをせず、被害者に指導するばかりで何のいじめ解消であろう。いじめ側の家庭環境から生まれた情緒の改善を教師が担うのは酷であろうが、事は学校内で起こることだ。
小中校時代の多感期に異質と見える人物はいた。だからといって、それが彼であり彼女であり、寄って集っていじめる必要はなかった。なぜに昨今は集団で個人攻撃をするのだろうか?これについて、いじめる側の家庭環境やに情緒欠落という問題がいわれている。家庭環境に問題ありということは、率直にいえば親の責任である。悪口好きな親がいる環境かも知れない。
異質が自然であって、同質は稀有とすべきだが、異質、異端、変人などと騒ぐ人間の心の狭さと言うしかない。アメリカでは "different" は褒め言葉である。日常会話でも、"He is different." といえば誉め言葉でしかない。これを世界に印象づけたのは、1997年、スティーブ・ジョブズが再登板したアップル社が制作した一連のコマーシャル "Think Different" シリーズだ。
以来、イノベーションの基本原理は "What's New" から、 "What's Different" に転換したとさえ言われるようになった。 日本では、「ちょっと違うんじゃない?」は否定的な捉え方だが、アメリカで "different" はネガティブな意味ではまず使われない。面と向って "It's so different" とか、"You are different" と言われたら、褒められたことになる。
が、情緒未熟な子どもたちにとって額面通りには受け入れられない。やはり、仲間集団の中で人と違っていると、時に居心地の悪さを感じたりもする。髪型や服装から、学校に持って行くお弁当にいたるまで。肌の色や髪や目の色の違いも、移民の国でもあり、言葉の外国アクセントさえも気になる。病気で心身に不自由を抱えている子は、それとて気になるはずだ。
そんな子どもたちに、「違ってても平気!」と語りかける絵本が、Todd Parr著になる、"It's Okay To Be Different"である。アメリカ人の凄いところは、子どもに対して誠実に向き合うところ。子どもを見くびって、大人の論理で都合よく誤魔化したり、偽ったりしない。ありのまま、あるがままを、率直に肯定して行こうとするから、あとで修正を余儀なくされることがない。
それらは、「It,s okay to have different moms.(異母)」や、「It,s okay to be adopted.(養子)」などの言葉にも現れている。幼児期から「異」に対して偏見を排し、肯定して行くと、「異母だからどこが悪い?」、「養子がなぜいけないんだ?」という考えが自然に身につくことになる。日本だとできる限り隠そうとするから、露わになった時に不自然な違和感を抱く。
日本人が読むと、あまりの率直な記述に驚くばかりだが、人種のるつぼたるアメリカにおいては、「みんな違って、みんないい!」と認めてくれる社会である。7つの色が混じって光の色になるように、である。他人を卑下して自分を高めようとする人は、そうでもしなければ他者から認められないということだから、バカのやることであるのに気づいていない。
「うちはブスだから」という女の子は、それで卑屈でなければむしろ良い性格であることが多かった。「お前のせいじゃない。努力でどうにもならないことは気にしない、卑屈にならない」などと言ったりしたが、「うちはデブだから」という子には違う言い方をした。デブは自己責任だから、「ポテチ止めたら?」、「デブが嫌なら努力しろ」などと辛辣な言い方をした。
外観というのは一目だが、内面の異質を知るまでに時間を要すことになる。人は異質を排除するのか、異質に惹かれるのかについて2つの考えがある。心理学者のユングは人間の外的側面をペルソナ(仮面)と呼んだ。周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。
その逆の内的世界に対する側面について、男性的側面をアニマといい、女性的側面をアニムスと名付けた。男にとってペルソナは男らしさの表現となるが、内的心象はこれとは対照的に女性的である場合がある。これをアニマという。女性の場合ペルソナは、女性的な側面で表現される。しかし、内的心象は男性である場合があり、これがアニムスということになる。
元はどちらか?ペルソナか、アニマ(アニムス)か、ユングは明記していない。車のハンドルを持つと人が変わるというが、それが本質かも。ペルソナを元型でないとする学者はその理由として、ユングは人類の集合的な心(社会的慣習や伝統的な精神など)から各人が切り取ったものをペルソナと名づけたのであり、集合的無意識そのものを指すわけではないという解釈による。
しかるにペルソナとシャドウ(影)は、補いあう性質とユング派では考えている。人間が異質のものに惹かれるのは、そのためと言えば納得もいく。豊田議員の例でいえば、彼女は厳格な家庭で育った。他にも厳格なルールで生きてきた神父であれ、人間だから性欲もあるし、悪い感情も持つ。それらを自制心で我慢して生きる人は、抑制した性欲や悪い感情が影となる。
そうした心理状態が自由奔放な人に惹かれてしまうことはある。人間は、「相補性」を持つ傾向がある。真面目でひたむきな女性が、どうにもならない荒くれ男に惹かれるように…。本質的に遊び人の男が、清楚で真面目な女に惹かれるように…。類似性も相補性も、人間が無意識に好きになってしまう要素のひとつであり、心理学的な恋愛法則とされている。