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Channel: 死ぬまで生きよう!
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異質と同質 ③

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童謡『赤い靴』は今聴いても寂しく陰鬱な感じだが、子どもの頃には怖い歌だったのは、"異人さんにつれられて行っちゃった"という歌詞の部分。最初は、"いいじんさん"かと思っていたら、"いじんさん"のようで、"いじんさん"の意味も分からず、誰かに聞いたこともなく、ただ歌詞どおりに歌っていたし、子どもはオウムや九官鳥のようにただ真似をするだけ…

異人さんが外国人の事だと知ったとき、あどけない子どもの頃の自分がふと過った。何かを知ったときに、知らないころ当時の自分を思い出したりするが、そういう時に成長の証しを感じることになる。自分も他人もまだ知らない未知の自分は今なお存在するし、知らない自分には可能性が眠っていることになる。「可能性」、「潜在能力的な自分」は永遠かも知らない。


自分について時々思うのは、「自分は知らないが、他人には分かっている自分」というもので、それを他人の口から聞くのは嫌いではないし、「他人が知る、知らない自分」を知ることは何とも新鮮ではないだろうか。つまり、人からそう見える自分の一面というのは、自覚していなくても一つの真実であり、滅多にないこういうフィードバックは大きなチャンスである。

若い頃は、人が自分をそのように見ているのかと、驚きもし、傷つきもしたが、その頃に比べて今の自分はまるで違うが、よく言えば成長であり、悪く言えば図太くなっているのだろう。「図太い」が悪いかどうかは定かでないが、繊細で多感な頃に比べると品位に欠ける。他人が自分を、「そういうふうにも見えるんだ」、「そう感じる人もいるんだ」と肯定するのは大事である。

「勝手に決めつけないで」とか、「分かったような事いわないで」、「あなたに私の何がわかるの」などの言い方は、怒りとして発せられるもので、嫌と言うほどきかされたが、こういう人間とは付き合わない方がよいという自分の考えである。その根拠・理由は、「自分のことは他人から教わるもの」という考えが根底にある。それほど自分は自分を見えていない。

他人の意見を柔軟に受け入れられるかどうか、それができない人間とは上手くいかないし、だから付き合わない。謙虚さというのは意識下でなされるもので、無意識の謙虚さというのは、「柔軟性」と置き換えられる。意識下の謙虚さというのは、時に裏切られることもあるからだ。むやみに謙る人の腹の中は、傲慢さを隠すための、「なり」であったりすることが多い。

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必要以上に謙遜する人を自分は注意するようにしている。「そこまで謙遜しなくとも…」と感じる人は、やはり不自然である。同様に、相手に対する主観を言っただけで、ムキになったりする人にも注意がいる。まあ、そんなことで腹を立てる人間とは付き合わぬ方がいい。人には誰にも長所・短所があるが、悪くいってもないのに、攻撃されたと感じる人は心が狭い。

相手にすぐに敵対するのは、余程自分に自信がないからだろう。自分には自分と言うものを自分なりに自覚する部分はあるが、他人は他人でこちらを他人なりに自覚しているものだ。それにいちゃもんつける理由はどこにもない。が、「私には分かっているが、他人には知られたくない自分」という場合もある。それを他人が察知したからといって、罪はないわけだ。

このように分析すると、人間には大きく四つの自分に分類される。① 「私にも他人にも分かっている自分」。別の言い方をすると公開されている自分。② 「私は知らないが、他人には分かっている自分」。これは自分には見えていない、盲点になっている自分。③ 「私には分かっているが、他人には知られていない自分」。これは隠したい自分、知られたくない自分の姿。

④ 「私も他人もまだ知らない、未知の自分、可能性、潜在能力的な自分」。これらの自分を人は対人関係の中で使い分けている。誰構わず自己開示するのは危険と知りつつ、それでも気を許したはいいが、揚げ足を取られたり、侮辱されたり、心を許した相手は間違っていたと後悔することもあろう。心を開く相手にしてはならぬことを平気で行う人間もいるということだ。

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男にはないが女性との関係の中で印象的なのは、「傷ついたでしょう?ごめんなさい」という言葉をいう女。何のことはない、何でもないことを勝手に、「傷ついたでしょう?」と言われて驚く。「傷ついてなんかないよ」と返しても、言い訳や無理してると思うから、返す意味がない。相手は勝手に傷つけたと思い、それに沿って話を続けるから、まるで噛み合わない。

感傷的な性格の女性はこんな感じである。自分が傷つく範囲は相手も同じと考え、悪く言えば相手を傷つける言葉を発し、それを、「ごめんなさい」と詫びるなどの一連の所作は、真に見事な一人芝居である。「傷ついたでしょう?」という言葉は、「傷つけてみた」と置き換えた方が分かり易い。人を蹴落として、「ごめんなさい」といい人ぶるのは女の常道か?

男には理解できない女の習性である。男同士はハッキリと言葉を言い合うから、それに相手が傷つくとかどうとかなどは関係ない。傷つこうが傷つくまいが、「自分がお前に言いたい言葉はこれだ!」ということ。さらにいうなら、言った言葉を相手がどう受け取り、どう処理するかである。したがって、傷つく・傷つかないという情緒的なことは問題ではない。

このように、女の話は中身その事より、傷つく・傷つかないという情緒が問題になり、男はそんなことより話の中身の受け入れ・受け入れないを問題にする。この点が大きく違う。噛み砕いていえば、どうでもいいことを問題にする女、どうでもいい事はどうでもいい事の男であろう。女は男との会話で女的に思考し、男は男的な思考で話す。噛み合わないのは必然か?

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「傷ついたでしょう?ごめんなさい」を発せられる度に、女はこんなことが傷つくのかと、あまりのつたなさに驚くだけである。こういう母親が息子の教育に携われば、大きい心を持った男の子にはならないような気がする。余程、男の子が母親の小心さを批判しない限りにおいては…。何をおいても子育ての前提として、親が成熟することであろう。成熟とは何か?

広い視野と、正しい物の見方、強い心ではないか?それは母親に求めるべくもないというのは傲慢であろう。誰であれ、そのような意識を持てば可能であるからだ。子どもの育て方云々の前に、親が自らの成長を図ることが大切かもしれない。自らをいい親として認識するためには、こどもにかける言葉が冷静で正しいものであるべきという自信と認識であろう。

それらは、ダメ人間の自分には到底ないもので、学習などから身につけるしかない。ダメ人間の親が子どもを正しく導けると思う親はいないと思うが、だからといって、自分は正しいという親には閉口する。自信のなさと正しいものを摸索する態度が、親を学習へと誘わせる。昔の親に比べて現代の親はなぜ育児下手になったのか、答えは思いのほか簡単である。

昔の親は、子どもをすくすくと育てることを良しとしたが、今の親はあれもこれも、これもあれもと欲が先行し、すくすくなどの言葉は何の価値もない。先進国社会が未熟な大人を作り、未熟な大人が親になるという図式に当てはまる。善悪は別に事実を述べれば先進国社会においては、小児にも成人にも価値観の多様化現象が現れる。あるひきこもりはこのようにいう。

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「働かないことが価値があること」。さらには、「勤勉は無価値」、「結婚しないこと」、「家出」、「恋人よりセフレ」など、取り上げればキリがないほどに多様な価値観が存在する。そうした価値観多様化のメカニズムも分からず、現代社会はこの現象を是認する考えが支配的だが、人間形成の観点からいえば、価値観多様化現象は、人間の成熟阻害の現象ともいえる。

働かない、結婚しない、離婚するという現象だけを見ても、その家系は絶滅する可能性が高い。現代社会に生息する人間にとって、価値観の多様化は批判できないという考えもあろう。が、それは甘えであってはいけない。多様な価値観に沿って生きるのではなく、多様な価値観から自分の信ずる価値観を絞り込み、理念や生きがいとして掲げなければ価値観に埋もれたゴミとなる。

価値観の多様化は選択種が広がったと解するべきで、基本は「二兎追う者は一兎も得ず」だろう。最小年棋士として売り出し、29連勝の記録をたてた藤井聡太四段は、高校に進学するかしないかの選択に悩んでいるという。彼には「将棋」という絶対的な価値基準があるからいいものの、それがなければ高校~大学~就職~などの多大な価値観の中でさらに悩むはずだ。

高校に行くべきか否かについても、かけがえのない学校生活を楽しむという価値観もあり、その時間を将棋の研鑽に費やすべきという考えもある。どちらも異なる価値観であるなら正・誤はないだろう。彼がいずれかの選択をすればいいことで、選んだことが彼の人生となる。自分の人生を誰からも強制されることなく、自身で決められる点に於いて彼は幸せかも知れない。

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