むか~し、彼女と「男と女の違い」について、知る限りの知識を言い合いしたことがある。この手のお遊びはよくやったが、あくまで根源的な違いに限定したおフザケでない真面目な知識の披露ということになる。例えば、「女は妊娠するが男にそれはない」、「女に卵巣、男には精巣」などと、性差が多くなるのは必然で仕方ないが、風評・世評的なものは「×」。
傾向性についての指摘をする場合には、相手に納得のゆく説明がされるなら許される。例えば、「女は主観的、男は客観的」というような世間的一般論についても、何が主観的で何を客観的というかの適宜な説明を布団に寝っ転がっての和やかなディベート遊び。「男は、"客観的な事実"を語るが、女は、"主観的な情報"を語る」という定義はo.kとする。
一般的に男が会話の中で強調したいのは、自分が何をしたか、どう考えたかという事実であり、これから何をするつもりなのか…のような、客観的な情報を整理したような形でもって、さも原稿用紙が用意されていたかのように、よどみなく話せるものだが、斯くの如き論理性に長じていない男もいるにはいる。これは個々の能力や頭の良し悪しに起因する。
それに比して女は、あることに対する自身の感情や、喜怒哀楽などの気持ちから話を組み立てて話そうとする。原稿に書かれている感じではなく、話しながら中身が展開したり、あちこちに飛び火するのが特徴的である。したがって、同じ事柄であっても、男は分析的・批判的に説明しがちとなるが、女は、情緒的観点から自分の感じた気持ちを語ろうとする。
男性から見たこういう女の話は、「聞いてて面白い」とする以前に女という生き物を理解する研究対象であった。事実をそっちのけ、あまりに主観感情が過ぎると、「感情的でヒステリック」に聞えてしまうばかりか、「話のポイントが解り難くて要領が全く得られない」と感じられる。女にとっては話すポイントや要領などは問題でなく、自分が感じたことを話したいようだ。
逆に男の話は女にとって、面白みがなく理屈っぽくて無味乾燥と感じるが、同調圧力の強さが、聞いてるふりをする。が、理解するのも面倒からか、「いったいこの人ってなに?」、「なにが言いたい訳?」と感じてしまうことは少なくない。たとえそれが事実であっても、「だからそれがなんなの?」と感じ、つまらないと思ったら、正直にそういう態度を現す女性もいる。
女の会話の話題の基本は井戸端会議である。自分の周囲の雑多なこと、周囲との狭い人間関係が何より大事のようだ。女性のブログの話題にそうしたものが多いのは、読み手もそうした話題を欲すのか、もしくは書き手もそうだと思うから書いているのだろうし、それで十分盛り上がる。すべてとは言わぬが、男のブログには日常のあれこれはあまり書かれない。
書いている男もいるにはいるが、おそらく周囲がそれを求めていると思っているから書くのだろうが、一般的に男と言うのは、日常生活の細々したことよりも、大きな話題を扱う場合が多い。自分に照らしていうと、日常の私的なことになど誰も興味を抱かないだろうというのが先に立つ。だから書きたいと思わない。自分が男であることからして、男の興味の対象を分類する。
それともう一つ、これは経験的なものかと思うが、男を巡る社会性(社会的環境)は、知識の有用性がものをいうところがある。職種にもよるが、知識を持たないものは話題についていけず、置いてきぼりのなる。したがって、男は社会全般的な知識を得よう、身につけようとする。それなくば人の上に立てないからだ。ゆえに社会のメカニズムを知ることが重要となる。
こうしたことも向上心あればのことだといえる。人をリードしたい、人の上に立ちたいというのも向上心だが、いつなんどき、そういう命が下されても困らないようにという備えさえも向上心とえるだろう。向上という目的があればそれ即ち向上心である。「備えあれば憂いなし」こそ自信となる。女は事が起こった時に、うろたえて、「どうしよう、どうしよう」という。
そういうところがいかにも女らしいことなのか、女はそれで免罪される場合が多いが、男はそうはいかない。求められれば結果を出さなければ無能とされるが、好んで無能を望む人間などいない。そのためには、「どこからでもかかって来いよ」というのが、自分の考える男らしさ、男の証明である。そういう自信の基礎になるのが、いろいろな意味の、「力」であろう。
自信は、「力」がつけさせてくれる。したがって、「自信のない人」は力がないと考えられる。力がないのは、力をつけたいという気構えや心構えがないから身につかない。だからか常日頃、「自信がない」と言っている。「自信がない」といって、「自信がつく」わけではないが、「自信がない」と言っておけば免罪符となるのか?それとも、失敗時の言い訳の先取りか?
なにかを命じられた時、「自信ないです」というのと、「自信あります」というのと、人にはこの二種類がいる。人間は小ズルいところがあるからか、「自信がない」といっておけば、失敗しても責められない、成功すれば力量を評価されるという腹積もりだろうが、上手くいかない点ではどちらも同じ事。ならば、「自信がある」というのは、逃げ道が用意されていない分損なのか?
答えは、「No!」だ。自分が上司として命じた時に、「自信がない」という人間は、「なくてもいいからやってみろ」とは言わない。他の要員を当たり、「自信あります」という積極性のある人間にやらせたい。何かをやる際に大事なことは、積極的で前向きな気持ちであるからだ。これが親として息子を教育する場合だと、「自信がなくてもいいから、やってみろ!」と叱咤する。
これは父親が息子を逞しく育てるための教育手法の一つであろう。「老若男女」というが、この世はまさに老人(大人)と若者(子ども)と男と女でできている。子どもがいなければ大人は存在せず、老人とてすべての若者の行く末である。が、男は永遠に男であり、女は女として生涯を終える。何で自分は男(女)に生まれたのかという疑問に求めど答えはない。
答えられない疑問というのは、答えようがない疑問ともいえる。例えば、妊娠後に男女の生まれる確率は50%なのか、どうなのか?どちらかの確率が高いのか、低いのか?6人兄弟で全部男と言う家族がいれば、5人姉妹もいる。この現象はいったいなぜ?という疑問を追求すれば、科学に答えを求めることになるが、男女が決まる要因は以下に言われている。
精子の中のにあるX染色体とY染色体の比率というのは、頻繁に射精する男なら50%であるが、少し間があくとYが多く製造される。また、性交時の女性の膣粘液が酸性傾向にあるかどうか、これは快感を得ると変わるとされている。さらには受精のタイミングでいえば、Y精子は寿命が短く活発、Xはその逆であるなら、排卵日と性交日時の相関関係もある。
体質的なものも言われたりするが、6人全部が男兄弟、あるいは5人姉妹は、偶然に偶然が重なった結果と言えば否定はできない。難しい事柄についての疑問に対する「解」というのは、何も難しい事ばかりではなく、実に簡単明瞭な答えも存在する。「簡単明瞭」とは、簡単であるがゆえに明瞭ということであって、それを理解する人は頭が良いのだろう。
「人はなぜ死ぬのか?」の問いに、宗教的、哲学的、科学的、想像力も含めれば多くの答えが用意できる。「死を生み出している棘は罪」。「アダムとイブは神に対する罪を犯したゆえに命を失った」。「死は神への反逆に対する必然的な結果」。「すべての人は受け継いだ罪によって死ぬ」。これらキリスト教的な死の意味は、自分にとって子ども向けの作り話に思えてしまう。
無神論者にとってはすべてがアダムとイブが犯した罪(原罪)が、人間全体に永続的に及んでいるという教説ほど、いかにも神ありきの都合のよい論理は、バカバカしいにも程がある。これで宗教が成り立たせられるのは驚きである。仏教にも同様の考えがあり、伝統的に輪廻が教義の前提となっているが、輪廻思想による永遠の命などは到底信じられない。
理由は簡単である。誰もそうした体験談を話すものもいないし、証明する者もいない。キリストが言うのだから正しい、仏陀が言うのだから信じなさいと言われて、信じるものが宗教の虜になるのだろうし、あくまで信じるも信じないの領域である。人が老化して滅び、死んでいくのは科学的に解明できるが、それでは満ち足らず、唯心論的な考えを信奉する者もいる。
「観念や精神や心などの根底には物質がある」と、する考えを重視するか、「精神こそが根源的で、物質は精神の働きから派生した」と、みるという考えを信奉するかの違いである。「唯心論」か、「唯物論」かの二極的な思考はおいて置き、人の生き方や望みは個々でちがってはいても、多くの人間に共通するものは、大きく分けて以下の3つに限定される。
・普通の暮らしでいい。できれば多少なりゆとりがあり、将来の不安なく日々を過ごせ、子どもに恵まれるなら人並みの教育を受けさせ、真っすぐに成長して欲しい。
・伸び伸びと物事を考え、言いたいことは率直に述べ、人の言う事にも素直に耳を傾けるが、上司や周囲や世間に気兼ねすることなく暮らしたい。
・自らの力には及ばない不時の災害や事故に遭遇することなく、国家間の破壊的な戦争に巻き込まれることなく、安心して一生を終わりたい。
他にもいろいろ挙げられるが、大体がこの3つの延長戦にあるとみてよい。こんな欲のない素朴な考えについて、「そんなささやかなものでいいのか?自分はそんなでは満足できない」という人もいよう。少し前ならこんなことは、「小市民的自己満足」と一笑に臥されたかも知れない。が、よくよく考えてみれば、現世でこの3つを叶えることがどれほど難しいか…?