かつて不登校の子たちを登校拒否児という言い方をしたが、こんにち、「登校拒否児童」というのは聞かなくくなった。いわれなくなったのは言葉に問題があったからだろう。「不登校」は学校に行かないという状態だが、「登校拒否児童」といえば、どこか症例であるような、「枠」に嵌めた感がある。彼らは病人ではなく、ただ学校に行かないだけの子どもである。
ある程度の期間学校に行かない子どもについての状態を、解説する言葉を歴史的に見ると、最初に言われたのが、「学校恐怖症」であり、次に登場したのが、「登校拒否」、そして「不登校」という順序。それぞれの言葉の意味する背景は微妙に違っており、つまり、何が原因でその状態を引き起こしているのかによって、それぞれの言葉が用いられてきた。
端的に、原因と状態をセットで示す言葉として用いられた。外国では、1932年にイギリスで登校拒否(school refusal)という言葉が使われ、1941年にアメリカで「学校恐怖症(school phobia)」と命名された。命名者であるA.M.ジョンソンは、論文の中で「学校恐怖症」を、①心気的時期、②登校時のパニック時期、③自閉期、の三期に分類して解説している。
学校恐怖症は対人障害の一種だが、登校拒否が社会問題になる以前において、親は上記の第一期の段階では、「わがまま」、「甘え」、「気のせい」と決めつけ、子どもの表面的な理由のみを捉え、奥底にある心の問題を見逃していた。恐怖症が不登校に発展するのは第二期の対処法に問題があり、嫌がる子どもを無理やり学校に行かせたがる親が多かったこと。
研究分野でなかった当時としては普通ともいえるこうした親の行為は、ますます子どもに学校への恐怖感を増大させた。子どものストレスの原因は親が作ることが多く、例えばゲームやパソコンやマンガなどを制限したり、禁止することで引き起こされるもので、子どもによってはこれが強いストレス感を増大させたり、さらにはパニックを引き起こす原因にもなりかねない。
事実、ゲームを制限されて親を刺殺した事件もあった。心気的時期における子どもの頭痛や腹痛、吐き気など気分の不快さ、疲れ、倦怠感などの身体的不調もあれば、いじめの問題や体罰を含む教師との人間関係、コンプレックスや学業上の不安なども起因する。パニック時期になると子どものストレスは限界に達し、親に激しく抵抗したり泣き叫んだりする。
そういう子どもを親が無理に学校へ連れて行こうとすると、狂人のように暴れたりする。親が学校へ行かせるのを諦めると子どもは自分の世界に閉じこもり、コンピューターゲームやインターネットに没頭し、暴力、暴言などの攻撃的態度も減り、穏やかな状態になるが、心の緊張感が消えたわけでなく、親の不用意な言葉に突発的に激怒したり、暴れたりすることがある。
こうした問題に適切な対応を謝り、苦労をした親も多かったが、社会問題化することで正しい対応が用意され、無理に学校に行かせることもなく親も学校も子どもの視点や立場で考えることで解決を図られるようになる。こうした姿勢が、このタイプの恐怖症を抱いている子どもの不登校を未然に防ぎ、不登校の長期化や立ちなおりを早くすることに寄与する。
親の子どもについての考察は、甚だしく不完全であり、いかなる親もかつては子どもであったに関わらず、なぜに子の親となった時に親はかつての子ども時代の心を失ってしまうのだろう。子どもを幸せにしたいという金科玉条の言葉に魅入られた親は、真の子どもの幸福を願うというよりも、子どもを通して自己を実現するという不純な親が如何に多いか。
「真に子どもの幸福を願う親は、子どもに何もしないこと」。誤解はあっても、これが自分が模索した最終結論である。子どもの幸せは子どもに見つけさせるべきという観点からすれば、親は子どもをいじくりまわすことはすべきでない。放って置いても子どもは自分の幸せを見つけて行く。おそらく、いかなる親も自分が自分の幸せを摸索したように…
親は自分の子のことを目くそほども知らない。子どもを産むには生殖行為をすればいい。が、親になるには、子どもの欲求を理解し、それを喜んで満たそうとし、かつ満たせなければならない。親にその能力がない場合、しばしばであるが親は子どもの害になり、悪い習慣をつけ、子どもの性格を歪めてしまう。一切の悪い習慣は親が子どもに与えたものである。
「子どもとは何者で、どうあるべきか」という先入観が引き起こす間違った仕込みを、「教育」という体系で捉えているが、こんなものがすべての子どもに画一的に当て嵌めていい、与えられていいということはない。「教育とは何か?」をつき詰めると見えるものは、「教育という抽象的なものは何も存在しない」というのが、実は動物から教えられることでもある。
大学の教職課程を終えて教員免許を取っただけの若造を教師というが、教育者ではない。教師を何年も何十年もやっていても、世間から隔絶された狭隘な社会で教育者としての資質が育まれるのかは疑問という他ないが、中には優秀な教師がいるとするなら、子どもに愛情を欠かさぬ親がいるとするなら、教育とはそういう教師や親の行動と言葉であろう。
「行動と言葉」は個々の人の、「物の見方」、「考え方」から生まれる。したがって、教育に携わる者が、人生観、人間観、仕事観、国家観といった、「考え方」を磨かずして、子どもたちに良き教育(良き言葉と行動)を授けることなどできない。子どもに対する親を労働者といわぬように、日教組が宣言したような労働者としての教員も同様に教育者といわない。
「みだりに人の師となるべからず」といった吉田松陰が言いたいことは、「教えるものがないのに先生と言わない」、「学ぶべきことがない相手の生徒とはいわない」ということであろう。これらのことは、親にも当て嵌められる。自分の母親は、自分が小学5年生になったときに、親として得る物がないと気づいた。飼育はされたが、親として何ひとつ得る物はなかった。
「子どもに手を貸すことが出来ないなら、せめて邪魔だけはしないで欲しい」というディランの詩を目にした時、画一的で儒家思想的な、「親を敬うべき」という考えが間違いと気づかされた。「せめて邪魔だけはせんでくれ」という言葉は自分にとって衝撃的な自己肯定感を育むものだった。人間は誰もが等しく生まれてこない。誰もが慈母の家庭に生まれてこない。
社会主義者の長のような親もいる。あたらめていえば、社会主義とは、人間関係の個の尊重を極力排し、親子、夫婦、家族、師弟という関係の上で人間が結び附くことを求める。どこかの国のように、個人と国家という関係に一元化する。であるなら、人間は国家の前において平等となる。自由と多様性の保障などどこ吹く風、というべく全体主義の怖さである。
最近とみに、「家族」という欺瞞を指摘する本が多く出版されるようになった。「鬼母」と名指ししても、「親不孝者の戯言」と批判されることもなくなった。それだけ、「鬼母」が共感を呼ぶ時代になったのだろう。仲の良い家族は素敵だが、不仲の家族に仲のよい、「フリ」は無用である。疎遠の夫婦は縁切り可能だが、それができない親子は心理的縁切りをすればいい。
子どもの不登校原因の多くは、子どもの育て方も含めて親に原因がある。不登校の波は皇室にまで及ぼす時代というほどに、皇室にも不登校を生む親がいても不思議でない。かつて広島に、「小さな学校」という私塾があった。代表の木幡洋子氏は、広島大で「憲法」を専攻する院生であり、予備校の講師であり、主婦であり、母親という数足の草鞋を履く女性。
不登校児のために、「小さな学校」をボランティアで開校したのが1985年で、月10万もの赤字を出しながら、カンパやバザーなどで資金難を埋めながら運営していた。彼女と不登校の子どもたちとの出会いは、研究のための面接調査だったといい、調査が済んだ後もなついて離れない子どもたちの寂しさ、切なさといった心情を理解するに、放って置けなかったという。
「よその子に必死の母親」を夫も子どもも支えてくれていた。向学心の強い彼女は31歳で広島大学政経学部を卒業後、1983年に同大学大学院法学研究科修士課程憲法専攻修了、1992年3月同大学大学院法学研究科博士課程を満期退学、1999年から2003年は青森県立保健大学准教授、2003年4月から2014年3月まで愛知県立大学教授を最後に教職の任を終えた。
近影のおばあちゃんっぷりに驚いたが、30年も経てば人は変わる。前髪のクセだけは変わっていない。彼女は不登校児が他人に心を開かない原因を、「人間不信から心を閉ざしている」と言った。「会う事さえ拒んでいた子が、小さな学校に通うようになって、生き生きとした笑顔を見せてくれる瞬間が生き甲斐」といっていたが、人の心の温かさに触れた子どもは変わっていくのだろう。
そういう切っ掛けを誰かが与えるか、自己啓発の一環として自分で探し、見つけてくるか、木幡氏は前者を選んだ。誰もが自己啓発を行えるものではないし、不登校の子どもたちにさえ、等しく教育を受ける権利は憲法の条文にも記されている。通信教育という自宅学習もあるが、そこには和気藹々とした学校のような人と人のつながりはない。木幡氏はそこを目指した。
知育偏重の問題はさまざまに挙げられる。あるとき、探検のような鋭く長い牙を持った虎の化石が見つかった。動物学者はこぞってなぜにその虎が生存競争に敗れ絶滅したかを推論した。その結果、牙がどんどん長く伸びて下顎を突き破り、自然淘汰されたと推論した。生存に有利な武器も過ぎたものになれば不利にもなる。何事もバランスが大事であろう。