(一)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ 澄ましたお耳に
かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ 澄ましたお耳に
かすかにしみた 呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
(二)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色
かしたミルク わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色
かしたミルク わずかなすきから 秋の風
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
(三)誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
昔の昔の 風見の鳥の ぼやけたとさかに
はぜの葉ひとつ はぜの葉あかくて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
昔の昔の 風見の鳥の ぼやけたとさかに
はぜの葉ひとつ はぜの葉あかくて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
サトウハチローの作詞に中田喜直が曲をつけたこの曲は、NHKの依頼によって作られた。『みんなのうた』の放送開始は、1961年(昭和36年)4月3日となっており、第一回の曲はチェコ民謡の、『おお牧場はみどり』だった。曲のインパクトに煽られてか、牧場というものを見てみたくて仕方がなかったのが懐かしい。始めて牧場に行ったのは中学になってからだった。
何気なく聴き、口ずさんだ曲だが、あらためて詞をに目を通すと詩的な雰囲気がよく出ている。「誰かさん」とは誰かさんなのでそれはおいて置き、「ちいさい秋」とは何か、を考えてみた。作者はこの詩について、『原稿用紙を前に布団に腹這いになって外を見ていたら赤くなったハゼの葉を見て言い知れぬ秋を感じて、この歌を書き上げた』というようなことを書いている。
この言葉は結果的に、詩人らしくこの詩の動機や背景を要約網羅したものなのだが、歌詞もつドラマ性が自分の心を魅きつけた。「秋」に限らず季節に大きい、小さいのサイズがあるわけではないが、「暑い夏」、「寒い冬」というインパクトに対して、過ごしやすい秋や春につける形容詞は何だろう。「春は早朝」、「秋は夕暮れ」がいいと、清少納言は言っている。
これは時間帯を指しているのであって、自分なりに秋や春のよさを考えてみたい。確かに秋や春のよさは、夏の暑さ、冬の寒さに対比した、「暑すぎず、寒すぎず」という言葉でいい表せるが、秋の良さの独自性を一言でいえば、落葉の散歩道かなと…。夏の新緑の葉が赤く染まって、やがて枝に別れを告げる落葉という現象に、五感の中の秋の自然さ感じるのだ。
『落葉のコンチェルト』という好きな曲がある。この曲の歌詞には「落葉」もでないし、コンチェルト(協奏曲)様式でもない只の邦題に過ぎないが、どこか70年代の香りに包まれている。原題は、"for the peace of all mankind(すべての人類の平和のために)"となるが、直訳では到底あり得ない詞の内容。「人類」を意味する"all mankind"を、「2人」と訳すと意味が連なる。
For the peace
For the peace
For the peace of all mankind
Will you go away?
Will you go away?
Will you vanish from my mind?
Will you go away and close the bedroom door
And let everything be as it was before?
> 平和のために
> 平和のために
> 2人の平和のために
> 君はどこかにいってくれないか?
> どこかにいってくれよ?
> 僕の心の中から消えてくれないか?
> 君がどこかにいって、寝室のドアを締め切って
> 全てを君と出会う前に戻してくれないか?
> 平和のために
> 2人の平和のために
> 君はどこかにいってくれないか?
> どこかにいってくれよ?
> 僕の心の中から消えてくれないか?
> 君がどこかにいって、寝室のドアを締め切って
> 全てを君と出会う前に戻してくれないか?
異人は恋愛や失恋に際し、自分たちが世界の中心(top of the world)であるが如く大げさに考える。本曲においても、傍にいた女性が自分の元から去り、それまでの素晴らしい思い出が頭から離れない。いっそどこかへ行ってしまえ。そうでないと、自分はどうにかなってしまいそうだ。と、自分の頭の中の半狂乱な気持ちを、「全人類の平和のために」と綴っている。
いかにも男の童心ぶりが現れているが、こういう場合に女の側はさっさと忘れちゃってるんだろう。茨木・日立の妻と子の6人を殺害という惨劇があった。この夫の心情は、過去の一切を無きものにしたいということではないか。過去に区切りをつけて新たな未来に気持ちを向けられず、過去に執着する男の未熟さ、大人になり切れない不甲斐の無さといえるだろう。
好きになった女の過去を気にしたり、性関係に拘る男に比べて女はさほどではない。過去に拘る男と女の思考の差、なぜ男は過去に囚われるのか、その理由を自分は男の幼児性と見るが、どちらかというと男の脳は女性のように分散できないで思い詰めるところがあるのは、天才の出現の多さにも現れている。一つ事に没頭することに関しては長所もあるが短所にもなる。
数多い男の失恋の楽曲に見る詞の内容と、男に捨てられる女の歌には大きな違いがある。泣いて泣いて泣きぬれて、涙乾けば新たな明日を迎える女に比べて、泣けない男は気持ちの切り替えができない。涙は女のために用意されたものであり、女性の、「失恋からの立ち直り方」は、自分にかかっている、「呪縛が解ける」ことと似ており、それさえ解ければ立ち直れる。
つまり女は、彼への思いを寄せる呪縛を解くために男の痕跡を消そうとする。一方、男は失恋について考えるのを辞める、「思考停止」タイプか、ターゲットを切り替え、「別の対象に夢中になる」タイプに分かれる。どちらのタイプにも共通するのは、失恋という悲哀を受け止めつつも、心のモチベーションの保ち方に重さを置くということでポジティブであろう。
「思考停止」タイプの男は、意外と立ち直りが早いし、「別の対象に夢中」になる男は、対象が現われるまでの時間に左右される。時間のかかる男もいるが、早撃ちマックタイプもいる。失恋の呪縛が解けることで女は解放される。男も立ち直りは早いが、案外と昔の女のことをしたためているもの。それを引きずりやすいとは言わぬが、男はロマンに生きる動物である。
「ちいさい秋」の話はどこにいった?脱線しても簡単に戻せてしまうから、脱線しまくる自分である。言わずもがな、「ちいさい秋」とは情緒的・比喩的な表現であるから、受け手にとって「ちいさい」の感じ方はさまざまある。うだる夏の暑さから解放された初秋の時節は、それ自体がいかにも量的に小さく、小さくとも期待感の現れであり、存在感のそれでもある。
夏を、「大暑」とすれば秋はいかにも小さい。「小さい秋」とは、詩人の造語であるが、それに対義する「大きい秋」のイメージは湧かない。したがって、秋は小さくとも存在感のある季節といえるが、普段は見過ごされるものであって、誰かさんにしか見つけられない、そんな特定される秋である。そんな、「ちいさい秋」を見つけることができた小さな満足感が表されている。
それぞれに連なる語句の意味については、それぞれがめいめいに感じ取ればいいことだ。絵や文学や音楽などの作品というものは、一旦作者の手を離れたら独り歩きを始めるがゆえに、解釈は多様である。サトウハチローはこの詩について、『原稿用紙を前に布団に腹這いになって外を見ていたら、赤くなったハゼの葉を見て言い知れぬ秋を感じて、この歌を書き上げた』と述べている。
彼にとって、とあるその日のその時間のその気持ちが作らせた作品であり、かけがえのない一瞬であったといえよう。人は誰もそれぞれの瞬間を生きているわけだから、同じ日、同じ気持ちというのは永遠にないだろう。新陳代謝の激しい芸能界や、お笑い界にあって、東でウッチャン・ナンチャン、西ではダウンタウンが、絶世人気を誇った時代があった。
お笑いの世界も、世代交代期と言うのは存在するが、日常の一瞬を奇妙に拡大する漫才のネタやルールとでもいうのか、彼らにはそれらを超越するものがあり、それを才能といってよいのだろう。西でダウンタウンに次ぐといわれた圭・修こと、清水圭、和泉修というコンビがいた。彼らの持ちネタに童謡の歌詞をあげつらうというギャグがあった。ぼやき漫才の典型であるが。
例えば、「やぎさんゆうびん」では、どうして、「読まずに食べた?」。なぜ、「黒やぎさんは、白やぎさんからの手紙とわかるのか?」。また、「ふしぎなポケット」では、ビスケットが一つ入ったポケットを叩くと、ビスケットは粉々にならずに、「二つ」に割れるのか?「ぞうさん」の鼻が長いのは、「かあさんも長い」というが、とうさんでもじいさんでもいいハズ。
子ども時代には普通に受け入れた歌の関節が外されるようないちゃもんであるが、同じようにいちゃもんをつけられる楽曲は沢山あった。なぜ浦島太郎は海底へ行けたのか、金太郎がクマと相撲の稽古なんかするか、たい焼きが海で泳ぐなんかあり得ん。すべてのお伽話にはいちゃもんがつけられた。我々のようなワンパク小僧にとって、唱歌や童謡さえ替え歌の宝庫であった。
まともに歌うより替え歌のいたずら気分の満足感だが、なぜか女の子にはそうした面白さが伝わらない。「そんなこと言って、何がおもしろいの?」と見下す彼女たちは、もはやおばさんの域なのだ。「ぞうさん ぞうさん おかおが長いのね ばーか わたしは、うま なのよ」。子どもは大人になるのを避けられない。そのことで何かが確実にすり減っていく。