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「経済」という思想 ②

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日本には皇室と言う文化がある。西洋には王室があり、皇室と王室のちがいは、皇室が古い神からの血を受け継ぐ人物によって受け継がれてきたのに対し、諸外国の王室は世襲で受け継がれてきたとは限らず、その国の中で戦いがあるたびに、勝者が国の頂点である王となって国を治めてきた。日本の皇室は天皇の血族であり、神のような存在であり、完全に世襲である。

どんなに権力を持っていても天皇や皇族にはなれない。ロシアのピョートル1世(後の大帝)は、神の寵愛により、全ロシア、モスクワ、キエフ、ウラジーミルおよびノヴゴロドの皇帝にして専制君主。カザンのツァーリ、プスコフの君主、スモレンスクの大公、エストニア、エヴォニアその他諸公国の公。他にも多くの諸国の世襲君主ならびに宗主という肩書である。

紀元前221年中国全土を統一したのが秦の始皇帝。戦国七雄のなかでもっとも後発の秦であったが、孝公の代に行った変法が大いに功を奏し、一躍強国の仲間入りを果たす。秦王政(後の始皇帝)が即位したのは前247年、13歳のときであった。偉業を達成した政は、全中国の支配者に相応しい称号が必要と考え、新たに、「皇帝」という称号を作り、自ら始皇帝を名乗った。

始皇帝は中国の歴史上最重要人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。万里の長城や阿房宮を始めとする宮殿、陵墓、兵馬俑の造営などに何十万という人々が動員され、広く社会全般の疲弊を招いた。権力者は我が侭なものだが、始皇帝は特に抜き出ていた。始皇帝の半端ない我が侭度は、「不老不死の薬を探して来い」と家来に命じたことにもいえる。

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不老不死薬など2000年経った現在にも存在しないのだから、2000年前にあるはずもない。不老不死の妙薬として水銀を飲んで死んだという伝承が始皇帝にあるが、美味い物を食べ過ぎて糖尿病の合併症で死んだかも?それにしてもあの体型だ。49歳の若死にだった。始皇帝は政治的には丞相の李斯の補佐のもと、法家思想にもとづく厳しい中央集権政策を実行した。

中央集権政策は庶民生活に直接かかわる分野にも及び、民間にあった武器がすべて没収されたのをはじめ、度量衡・貨幣・書体の統一などが実施された。始皇帝は対外遠征と大土木事業にも力を入れ、北は匈奴を打ち破り、南は新たに4つの郡が置かれた。秦や漢の時代はひとまずおいて置き、近代中国にあっては、ラストエンペラー溥儀の退位で幕が降ろされた清朝である。

1900年、清末期に起こった義和団事件は、義和団と称する秘密結社による排外運動であった。これを西太后が支持し欧米列強に宣戦布告をしたが、2か月も経たぬうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを強いられる。1908年に光緒帝が崩御、その翌日に西太后も病没して宣統帝が即位すると、清朝総理の袁世凱は失脚させられた。

1911年10月、辛亥革命が勃発すると中国各地に飛び火し、朝廷は一度は失脚させられた袁世凱を再び呼び戻して事に当たらせた。袁世凱は革命派首脳と話し合い、帝政の終焉と自身の共和国元首の座を取り引きすることで合意をした。1912年2月12日、皇帝溥儀は退位を宣言、これにより268年に及ぶ清の歴史と、秦の始皇帝以来続いた皇帝政治に幕が下ろされた。

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1912年、孫文はアジアで最初の共和国、中華民国の臨時大総統に就任するが、事前の約束のもとにその職を袁世凱に譲る。1913年、国家元首となった袁世凱に歯向く革命派と武力衝突があったが、袁世凱はこれを押さえ、中華民国は統一国家となる。大総統に就任した袁世凱が帝位に就いたことで帝政復活反対の学生デモをきっかけに地方の軍閥は次々と反旗を翻した。

袁世凱の足元の北洋軍閥諸将までもが公然と反発したことで袁世凱は退位をするも、一度失墜した権威は戻らず、同年6月に失意のうちに病死した。一時期であるが皇帝に即位した袁世凱もバカな男である。彼は軍人としても文官としても有能であったが、皇帝を夢見たことで彼の独裁政治は83日でついえた。いわば権力を持ったものは歯止めが利かなくなる好例である。

昔から戦争ばかりやって国は何度も斃れている中国は、文字は同じでも言語が違うように、本質的には異文化民族の集合体に加えて儒教の影響か、古代から役人天国のお国柄。中国5000年の歴史といい、古代中華文明は偉大な文明を生み出した。自己犠牲の精神や協調性が希薄なので戦争に弱く、偉大な技術も発展性、拡張性が弱かったので伝承が長く続かなかった。

近代から現代に目を向けると、1989年6月の天安門事件を機に、改革開放政策が大きく後退すると危惧されたが現実は違った。小平は、1991年初旬から上海を皮切りに、武漢、深圳、珠海を歴訪、改革開放を再加速すべきと訴えた。「白ネコでも黒ネコでも、ネズミを捕らえるのがよいネコ」と有名な語録を残した小平は、上記の南巡講話以降、開放改革にさらに弾みがついた。

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しかし、あまりに急激な経済発展で起きた環境問題と民族問題の深刻化、政治上の自由化はいっこうに進んでいない。民主化も同様である。経済上でも、貧富の格差は深刻で、都市部と農村部、沿岸部と内陸部では、年間所得に数十倍の差がついてしまっている。農業だけでは生計が成り立たず、家族の誰かが都会に出稼ぎに行くというのが、貧困家庭の一般的な状況だ。

貧富の差は犯罪の温床となり、都市部には、「黒社会」といわれる犯罪組織は当たり前に存在する。どこの国でも犯罪は起こる。資本主義、社会主義に関係なくそれは起こる。「すべての犯罪は人間が孤独でいられないというところから起こる」と言ったE・H・フロムは、この観点からナチズムの社会心理を分析してみせた。人間にとって全てから分離されるほど不安なものはない。

社会主義がなぜに大いなる失敗に終わったか、再度整理をすれば、官僚が人の欲望を勝手に判断し、誤った資源配分をしてしまったがゆえに、人々の生活水準が上がらなかった。その結果として、人々はやる気を失ってしまった。世の中を前進させるのは何はともあれ、「やる気」である。特権階級は潤い底辺の国民は貧困にあえぐ、これが社会主義国の現状である。

やる気を持てば生活は少しづつでも豊かになり、成果をあげれば褒美を出すことも重要だ。そういう動機付けを与えないと、「自分だけ汗水たらして頑張っても何も変わらないし、バカを見るだけ」という気持ちになりかねない。社会主義の目指すものは貧富の差をなくして、皆が平等になることだったはずなのに、大きな失敗はインセンティブを与えなかったことにある。

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やる気が失せれば社会は前進せず停滞する。インセンティブを重視する資本主義国の国民は、頑張ればきっと大金持ちになるという、夢と希望が湧いてくる。こういう風にやれば収入があがり、やらなければ貧乏になるのが資本主義経済で、そのコアとなるのがインセンティブである。世界で最も資本主義経済の発達したアメリカでは、頑張れば誰にもチャンスが来る。

アメリカ人の多くはアイデアとやる気があれば、誰でもビル・ゲイツになれると信じているだろう。ゲイツはハーバード大学の学生であったが、大学を卒業するという歩留まり論よりも、学生の時にチャンスをものにするためにハーバードを中退した。ハーバードがゲイツに何かをもたらせるのではなく、ゲイツがゲイツに何かをもたらせるなら世界屈指の大学とて不要であった。

ハーバードの教授たちは、「ビル・ゲイツはバカだ」と、一様に口をそろえたが、わずか40歳そこらにしてゲイツは世界一裕福なビジネスマンとなった。おそらくこんなことは社会主義国では到底起こり得ないことだ。マーケットメカニズムの偉大さは、人々にインセンティブを与えることで能力を発揮させ、さまざまな発明や新製品のアイデアを喚起させることにある。

アメリカの強さは、その強烈なインセンティブ・システムにあると言って過言ではなかろう。日本もアメリカ経済をお手本に、「成果主義」が言われるようになったが、どういうわけだか日本の企業の場合、成果主義のデメリットばかりが言われているのはなぜだろう?成果主義の最大の利点は、向上心のある従業員は、高い成果をめざし労働意欲を高めることとなる。

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その成果主義の評判が悪いということは、成果主義そのものがやる気を引き出すことに寄与していないことになっているのでは?そう結論づける前にそもそも、成果主義が一体何を意味しているのかを明らかにすべき。成果主義を、「企業に貢献をした労働者を適切に報いる」という意味で用いるなら、そうした意味での成果主義は企業にとって不可欠である。

貢献と報酬のバランスがとれていない企業が、従業員に適切なインセンティブを与えていないのは明白であり、それを是正するための成果主義である。ところが、近年言われるところの成果主義というのは、ここでの意味よりはもう少し狭く、目に見えやすい、「短期」のかつ、「個人」の成果と報酬を明確に連動させるインセンティブ体系を暗黙のうちに指している。


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