新古典派経済学、ケインズ経済学、マルクス経済学…聞いたことはあると思うが、経済はまさに思想である。経済思想が政治思想、社会思想、教育思想の土台として一つの形をもって登場したのは、近代資本主義社会形成以後であった。古代、中世、近世の経済史をみてもわかるように、それは家族、民族、国家が人間の衣食住の問題をどう解決してきたかという歴史である。
そこには経済における、人間の生き方としての経済思想があった。資本主義の経済思想にはいくつかの型があるが、18世紀後半から19世紀にかけて現れた大きな流れとして、自由主義と保護主義という経済思想がある。自由主義における経済思想は、個人の利益追求が、同時に公共の利益に一致するという思想である。この点は重商主義経済思想と根本的に違っている。
重商主義はマーカンティリズムといい、重農主義をフィジオクラシーといった。ともにヨーロッパの封建社会から資本主義社会への移行期に現れた経済思想で、まず重商主義が16世紀頃にイギリスやフランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国に現れた。重商主義の経済思想は、絶対主義国家(国王)の財政を強化し、人民を抑圧し、排外主義を強制するものであると考えた。
事実フランスでは、先のコルベールが重商主義政策を強化したために、農民の生活は困窮度を増した。重農主義は18世紀のフランスに現れた。重農主義の主唱者ケネーは、経済危機に瀕したフランスで農業のみが生産的であるとし、農業からの剰余及びそれに対する単一課税が経済を再建することを主張、合理的な農業経営がフランス経済の繁栄につながるとした。
そのためには商工業の保護は撤廃されねばならず、すべての経済の営みは自由に人の欲するままに行われなければならないと主張した。ケネーはこの時点で自由放任の経済思想を示した経済学者であったが、 国家、社会の富の基礎は農業であるとする重農主義は、フランス以外ではほとんど受け入れられなかった。『国富論』を著いたA・スミスはケネーと会っている。
しかし、スミスは『国富論』の中で、土地生産物が国の収入と富の唯一(あるいは主要な)源泉だとする重農主義批判の立場をとっている。重農主義には価値を生みだすのは土地生産物だけという考え方があり、たとえば人が1年かかって高価なレースの襟飾りをつくったとしても、それは亜麻を加工しただけであって、そこには何らの価値も加わっていないという。
レースの襟飾りは利潤を生みだすが、それは亜麻以上のものを作りだしてはいないという重農主義は詭弁めいている。価値を生みだすのは、農業(林業・漁業・鉱業を含む)であり、今でいう第一次産業だけであって、手工業や製造業はその原料を使いやすく加工するだけで、素材自体を増殖させているわけではないという考えは、農業が中心だった時代特有の考え方だったようだ。
結局、人類を支えているのは、太陽と大地と海の恵みに他ならないと…。スミスが労働に価値の本源を見いだしたのに対し、土地に価値の本源を見いだしていたケネーには抜け落ちた考えがあると言わざるを得ない。スミスは重農主義について批判だけでなく、評価も怠っていない。それは重商主義とはちがって、レッセフェール(自由放任)の立場をとっている点である。
重農主義は、商工業の自由貿易を認めている。貿易によって不足した製品が入ってくれば、製造業によけいな力を注ぐことなく農業の生産力が高まり、それによって資本が蓄積されて商工業も潤う事となり、必然的に発展していくであろうという考え方で、スミスはこの考えを高く評価している。実際、スミス自身も、都市より農村に資本を投下すべきだと考えていた。
しかし、スミスが重農主義は誤りという立場をとったのは、ケネーら重農主義者は商工業階級をまったく非生産的だとした点であろう。スミスは農業従事者と同じく、工業に従事する労働者も、社会的に価値のあるものを生産している。スミスの理想モデルは農業と商工業のバランスであり、農業だけが優先される国ではない。スミスは重農主義の評価と批判を以下述べている。
「土地の耕作に使われる労働だけが生産的労働とする重農主義の主張は狭く偏っている。国の富は消費できない豊富な通貨ではなく、その社会の労働で年間に再生産される消費財にあると主張する点に加え、完全な自由の確立が年間の再生産を最大限に増やす効果がある唯一の方法と主張する点において、重農主義の主張は寛大で自由であると同時に正しいと思われる。」
農業を重視するあまり製造業と貿易を抑制すべきでないとスミスは言う。極端な重農主義に走るのは隣国フランスでなく中国という見解だった。「貿易が広範囲に行われ、中国の巨大な国内市場に世界の外国市場が参入し、中国船で貿易が行われていれば、中国の製造業がさらに拡大し、製造業の生産性が大幅に向上しないはずがない」。 スミスは200年以上前に、そう予言していた。
中国とソ連はかつて社会主義国家であった。「かつて」と言うからには、現在は中国もロシアも社会主義体制国家ではないのか?中国・ロシアは資本主義国家なのか?この問題は誰もが不可解な疑問がある。その前に社会主義の認識に誤解のないようマルクス理論を持ち出せば、資本主義が成熟して社会主義に移行し、最期に共産主義へ到達するというのが理論の柱である。
であるなら、社会主義と資本主義は対立関係にない(あくまで理論上)が、一党支配の中国共産党は現在の状況について正式見解を発表していない。おそらく、「現在の資本主義化は理想の共産主義を実現するための過程である」。という解釈(言い訳)で資本主義化を行っているだろうし、「基幹産業は国家が共産主義思想に基づいて行っているため問題ない」という理屈も用意する。
しかし、こんな詭弁は通用しない。なぜなら現在の中国はマルクス思想に言われる、「資本主義⇒社会主義⇒共産主義」という経路ではなく、文化大革命によっていきなり社会主義となった(多くの社会主義国家も同様)ため、本来的な思想にはあり得ない、「社会主義状態での資本主義導入」という現象が起こったに過ぎない。これはロシアも同様である。
社会主義体制を止めたロシアは、一応は民主主義とはいうが、普通の民主主義国家としておかしい。議会などの議席は、与党だけのの腰巾着政党で占められていて、真に野党らしい野党の議席は無い。資本主義自由経済を取りながら、経済を支えるのはもっぱらエネルギー産業であり、輸出であり、エネルギー産業を支える企業は、もっぱら国営か、国家が大株主である。
中国は中国流、ロシアはロシア流ということか。中国は共産主義を実現するために国家の経済を豊かにというのが資本主義導入の理由であり、国民の生活を支える基幹産業は国家管理なので問題はないということだ。ロシアは共産主義国家でなく自由主義経済圏となった。ロシア大統領プーチンはロシア連邦の元首であり、メドヴェージェフ首相はロシア連邦の首長。
元首とは国際法上、外国に対して一国を代表する資格をもつ人のこと、首長とは集団・組織を統率する人の長ということになる。イギリスの元首はエリザベス女王、日本の元首は天皇陛下であるが、英王室も日本の皇室も政治に関知できないため、プーチンら外国の元首とはニュアンスが異なる。表向きは政治に関与しない英皇室だが、黙っちゃいないところが外国流である。
チャールズ皇太子がカミラ夫人と初のアメリカ公式訪問の折、ブッシュ大統領主催の公式晩餐会。一般的に晩餐会では相手を非難しないのが礼儀。ところがチャールズはブッシュ大統領の、「イラク政策」と、「環境政策」を毅然と非難をした。ブッシュは憮然として聞いていたというが、大統領のイラク攻撃に非はあるにせよ、場所が場所だけにどっちもどっち。
ヨーク公アンドリュー王子もアメリカのイラク政策激しく非難し、ハッキリと「アメリカに誤りがある」と言った。前首相のブレアは、「アメリカのプードル犬」と言われたが、イギリス王室の王子とは対照的である。アンドリューの骨太さは母親のダイアナ譲りだが、マザコンチャールズはカッコよかった。日本の皇室はお行儀よろしく、「君臨すれど統治せず」を遵守。
現皇太子は、英国に留学してつぶさに英王室を見てきたこともあってか、しきりに、「開かれた皇室」を提言していたが、日本の皇室で離婚は皆無、到底許されないが、どういう事情であれ雅子さまの離婚などは考えられない。皇室が性に合わなくとも彼女はご病人として寛大な処置を与えられ、皇后になっても外国訪問など公務は徳仁天皇だけで遂行することになろう。
自分の好みというではなく、巷の見解とて秋篠宮妃の笑顔は柔和で愛らしい。まさに100万ドルの笑顔であろう。日本流にいうと1億円の笑顔。それに比して雅子妃の笑顔は3000円くらいと勝手に値踏みした。次の次の天皇は秋篠宮家の長子ということになろうが、愛子さまの不登校問題などを見ても、どこか子育てがしっくりいってないと感じられる。