「思考する人は、事柄を深く視る人は、死を克服する。かれは死を自分がそれである所のものとして知り、道徳的自由と直接結びついた行為として知るからである。かれは死のうちで自分自身を認め、死のうちで自分自身の意志を承認し、自分自身の愛と自由の行為を承認する。かれは死が自然の死で初めて始まるのではなく、死が自然の死で完結し終息するのを認める」。
フォイエルバッハの言葉はなんとよどみのない言葉であろう。彼の著書には、他人を愛するということがすぐれて倫理的な行為であるとされ、しかもそれが、「死と不死」の問題と結びついた存在とする。人を愛するとは相手に自己を捧げること、自己を放棄することであるとともに、さらに愛において他人から切り離された個別人としての私が死ぬということである。
死を単に個人の生の終わりとだけ理解してはならない。人は現世のうちで他人を愛することによって死ぬが、それによって永遠の死に与かるのであろう。不死の精神に対するまやかしならぬ真の信仰は、精神そのものに対する信仰、意識に対する信仰などの絶対的な本質性と無限な現実性に対する信仰であり、それに従って生きることが、満たされた現実の生活である。
匿名著作『死と不死に関する思想』は、僧職者や神学者によって著者の犯人捜しをされた後に、フォイエルバッハであることが突き止められた。書物は警察の手によって没収されたが、本人が知らぬうちに公刊されたとして訴追は免れたものの、エルランゲン大学の教授職につきたいという彼の望みは断たれた。父親も息子の著作であることを知って驚き、こう伝えた。
「お前はこの著作によって世間から追放され、二度と公の職にはつけないだろう」。世間からの追放はともかく父親の予言通りになった。フォイエルバッハは機嫌を損ねた父親の元を離れ、叔母の家に落ち着くことになる。宗教と哲学は似て非也。哲学は理性に基づく思考を旨とし土台とするが、宗教は心情に基づく信仰、さらには空想さえも宗教的といえよう。
フォイエルバッハの名を哲学史上にとどめさせることに貢献したのは、誰あろうマルクスとエンゲルスであった。しかし、完成されたマルクス主義の立場からすれば、マルクスはフォイエルバッハには不満な点も多かった。マルクスは、「青年ヘーゲル派」時代の仲間ルーゲに、「フォイエルバッハは自然のみを論じて政治には全く無関心のようだ」とこぼしている。
さらにフォイエルバッハの強調する感性が、なんら、「実践」に結びつかないことにも不満であった。確かに観念的な人は観念のなかに巣食ってしまいがちで、実践や行動とは隔たりがある。マルクスは革命の人である。共産主義者にとって、あるいは実践的な唯物論者にとって大切なのは、現存する世界を革命的に改革し、既成の事態を攻撃、変革することである。
2人とも思考を同じにする唯物論者であるが、感性的世界についてのフォイエルバッハの見方は一方では単なる直観に、他方では単なる感覚にとどまっている。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』の中で、「フォイエルバッハは抽象的な思考に満足せず感性的直観に訴える。しかし彼は、感性を実践的な人間的感動的活動として捉えていない」と述べる。
自分達はフォイエルバッハの徒とエンゲルスに言わしめた時期もあったが、実践なくフォイエルバッハとマルクスの距離はこうしてますます開いて行った。一方、エンゲルスのフォイエルバッハの見方はどのような推移を経たのだろうか。エンゲルスはフォイエルバッハの死から16年を経て『ルートヴィッヒ=フォイエルバッハとドイツの古典哲学の終結』という書を著した。
一般に『フォイエルバッハ論』と言われる同書の中で、エンゲルスはフォイエルバッハ哲学の全体について総括的な批判を展開するが、『キリスト教の本質』で有名な彼を、「フォイエルバッハの意図は、決して宗教を廃棄するのではなく、それを完成する」とエンゲルスは彼に深い洞察を充てて、以下のように批判する。「フォイエルバッハの観念論は、次の点にある。
即ち彼は、性愛や友情や同情や献身といった相互の愛着に基づく人間の諸関係を、それらがあるがままの姿で素直に受け取ろうとせず、宗教の名によって一層高い聖別が与えられる時、初めて十分に価値あるものとなる。と主張するが、彼にとっての主要な問題は、こうした純粋に人間的な諸関係が実在していることではなく、それらが新しい宗教として把握されるということ。
さらにそれらは、宗教の刻印を打たれて初めて完全に価値あるものになる、とされている」。もっともエンゲルスの主張は完成されたマルクス主義の立場からのものであるが、フォイエルバッハが、「ただ観念的な回想にとって大切な『宗教』という言葉を、言語から消滅させぬように」腐心しているというのである。これはマルクス主義的に見て鋭い批判である。
エンゲルスがいうところのマルクス主義の立場とは、「階級対立と階級支配」を基礎とする現代の資本主義社会において、「純粋に人間的な諸関係」は疎外されており、それをただ、「宗教」として、「観念論」的に主張しても無駄で、階級闘争を通じて実現する将来の、「階級なき社会」おいて初めて真に人間的な諸関係は実現され、真に人間的な道徳が成立するとした。
エンゲルスの主張には人間関係を階級対立・階級闘争のみと定義つける無理さは否めないが、確かにフォイエルバッハは、人間を階級の一員として捉えるマルクス主義の基本思想にはいたっていない。フォイエルバッハのいう人間関係は、どこまでも個として人間相互の関係であり、「私と汝」のものでしかないが、エンゲルスはそれを、「抽象的な人間関係」とみる。
しかし、人間を階級の一員としか見ない視点も、多分に抽象的であろう。そしてそうした人間の経済的社会的側面のみを強調することが、かえって逆に、「純粋に人間的な諸関係」を損なうことになるであろう。マルクス主義に固執することでフォイエルバッハの真意は理解できなくなる。おそらくフォイエルバッハも棺桶のなかからエンゲルスに反論したかったであろう。
人は主義・主張に蹂躙されると、物の考えかたが硬直する。代表的なのは宗教である。が、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』は、当時社会主義国家であったロシアの知識人に多大な影響を与えたのは事実である。マルクス主義の箍を外せば偏見から解放され、自由に闊歩できる。真の思想とはある種の何かの枠を外してなお価値が高められる。
人間を枠で縛り、型に嵌めようとするのは危険である。他人の観念のなかで架空の生き方をするのも間違っている。人間は究極的に自分を行為するが、型に嵌められた人間が、いつか自身の真の存在に気づいていくとき、他人の中にある自分の架空の存在などに興味をなくすであろう。他人と深く関わり合っても、人間は自分を失わず強く生きるべきと思われる。
影響されるのは悪い事ではないが、影響され続けるのが悪い。「ネオナチ」という言葉がある。ナチズムを復興しようとする政治運動のイデオロギーであるが、麻生財務大臣が先般、「ヒトラーはいくら動機が正しくても駄目だ」と述べた。これは、「ヒトラーの動機は正しい」と言っている。中森明夫が最近のヒトラー関連書籍の人気から、復活ムードを指摘している。
相模原の障害者施設での無差別殺傷犯がヒトラー思想に影響を受けたとの報道もあるが、ヒトラー的思想とは、人種主義、優生学、ファシズムなどに影響された選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべき主たる人種という主張である。「ネオマルクス主義」というのもある。衰退したマルクス主義に新たな光を当てようというものだが…
「ネオマルクス主義」なる理論が生まれる背景には、ギリシャ共産党が反動勢力によって弾圧され、党員の多くは国外に亡命を余儀なくされ、終には党も親ソ派、国内派に分裂した。「ネオマルクス主義」の考え方は、マルクス主義=科学的社会主義の基本的見地の、「修正」を求める議論であるが、マルクス主義的な装いを持ちながらマルクス主義とは似て非なるもの。
マルクス主義的イデオロギーの破産は、社会主義国の崩壊に示された恰好だが、社会主義国家が社会生活をきつく管理し、いかなる個人的逸脱をも押さえつけてしまう全体主義的専制体制には、進歩がないばかりか、いずれ崩壊の憂き目にあうことを実証してみせた。これを楽観的側面とするなら、マルクス主義の破産には、人類的見地からみた悲観的側面もある。
それは、「人類及び社会というものは、よりよいものに根本から変革できる」と主張する世界観の破綻ではなかろうか。資本主義社会の抱える矛盾は必ず社会主義社会を生み出すというマルクスの確信に満ちた予言は、逆に社会主義社会の抱える矛盾が資本主義礼賛に変わってしまったのは何とも皮肉である。いかに素晴らしい主義や主張も人間が操るからであろう。
階級廃絶を主張していたマルクス主義が、党官僚という偽善的な新階級を生み出してしまい、富は公平どころか 特権階級に集中した。マルクス主義者がいう支配階級と労働者階級の逆転などはあり得ないと看破されていた。政府が人民を全面的に統制するだけの社会構造からは、官僚制の肥大を生むことは予見できたはずだが、マルクスにそのことは予見できなかった。
ロシア革命後のソ連では、共産党幹部(彼らは官僚)ノーメンクラツーラという支配階級を形成した。現在の中国や北朝鮮も完全に支配階級と非支配階級に色分けされている。結論をいえば、マルクス主義による平等はあり得ない。そこには労働者を纏める特権階級が形成され、力による抑圧が始まり、思想の統一化、言論統制など主権を完全に剥奪された独裁国家の誕生を生む。