Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

「経済」という思想 ③

$
0
0
成果主義には良いものと悪いものとがあるといわれるが、飴と鞭を適宜に使えば成功するというほど簡単なことではない。それでは、「良い成果主義」と、「悪い成果主義」の線引きとはどのような要因によって決定されているのか。これを理解するカギとして、「マルチタスク問題」とよばれる視点が経済学にある。マルチタスクとはもともとコンピュータ用語である。

複数の処理をタスクという単位に区切り、並行して実行することをいう。CPUは複数の処理を完全に同時には実行できないため、OSがタスクを管理して切り替える。これを、「組織の経済学」に当て嵌めると、複数の任務を負っている労働者(代理人)に対して、報酬を目に見えやすい貢献についてだけ連動させることによって、引き起こされる努力配分の歪みのことを指す。

イメージ 1

分かり易くいえば一人の社員が従事している職務は必ずしも一種類のみではなく、多くの社員は複数の職務をこなしており、それぞれの職務の評価基準を一律には設定できない。たとえば営業部員の場合、商品販売量で成果を計ることができるが、他メンバーへのサポートや新人教育、顧客ニーズのヒアリングといった活動を、数字(量)として把握することは困難である。

ところが成果主義のもとでは、タスク(職務)が複数ある場合、評価されやすいタスクのみをこなし、それ以外のことには注力しないという傾向が生じてしまう。プロ野球選手でも以前は先発ピッチャーばかりが評価をされ、中継ぎや抑え投手に仕事に相応しい評価はなかった。近代野球が分業とされて以降、中継ぎにはホールド、抑えにはセーブというポイント評価をみる。

会社内部でしばしば問題になるのは、優秀な営業マンに対する恨みつらみである。よく言われるのは、「あいつは売るだけで、それ以外のことは何もやらない。部下や新人の面倒もみないし、自分の数字だけしか興味がない」という陰口や僻み。ところが会社の評価はいい。売り上げをあげてくれるわけだから、貢献度は高くなるし、数字と言うのは具体的である。

成果主義には多くの問題点が浮き彫りにされるが、「ゲーミング」という調整も問題とされた。「ゲーミング」とは指標操作のことで、営業成績が月単位で集計される場合、現在の成績を上げすぎると、次の月の目標値が高く設定されてしまう。それを避けるために、今月販売した製品の納期を翌月にずらし、成績を平準化することで目標値の上昇を防ぐことをやる。

イメージ 2

主義や思想は人間が考え、人間によって実行されていく。ゆえに個々の人間の主張が反映されることで、主義や思想は捻じ曲げられて行く。社会主義の誕生と死について、痛烈な言葉を放ったのがズビグニー・ブレジンスキーというアメリカの政治学者である。ブレジンスキーはその著『大いなる失敗―20世紀における共産主義の誕生と終焉』の中でこう述べている。

「世界全般を見ても、イデオロギーに閉じこもり、官僚的中央集権をとる体制で、経済や社会が力強い発展を遂げることは稀である。消費財ひとつ作るにも、文字通り政治局レベルの政治的決定が必要であり、70年間にわたるこのようなシステム支配は、世界市場で競争できる製品をひとつも作りださなかった。これがスターリンが残し、ブレジネフが踏襲した遺産である。」

これはソ連について書かれたものであり、筆者はソ連圧政下のポーランドからアメリカに亡命し、苦学の末にコロンビア大学教授にとなった。専攻は共産主義の政治学で、教授時代に当時のカーター大統領に招かれて特別補佐官となった。その前のニクソン政権でやはり大統領特別補佐官であった、ヘンリー・キッシンジャーと並び称せられる優れた政治学者である。

ブレジンスキーの著書が発表された1989年は、ベルリンの壁が取り壊される直前であった。ベルリンの壁は、ドイツという国を二つに分けたと同時に、資本主義と社会主義とを分断するシンボルであった。これが壊されるのは社会主義の終焉を意味し、ブレジンスキーはそのことを正確に予測していた。レーニンがロシアに革命を起こしソビエト連邦を宣言したのが1917年。

イメージ 3

以来、最期の指導者となるゴルバチョフがエリツィンに政権を譲った1991年までの75年間に及ぶ社会主義体制の終焉であった。「ひとつの妖怪がヨーロッパを歩き回っている―共産主義という妖怪が」。これはマルクスとエンゲルスになる『共産党宣言』の冒頭分である。19世紀半ばから20世紀にかけて、この文言ほど多くの人に読まれ、感銘を与えたものはなかった。

共産主義という妖怪はヨーロッパの、いや世界の国の土深く埋められてしまったが、この著書がなぜ人々の心に響いたのか?それは、産業革命以降の資本主義社会があまりにも労働者にとって過酷であったからだ。『共産党宣言』を著したマルクスとエンゲルスの意図は、民主主義を実現する目的だった。といえば驚く人もいようが、そう理解する人も少なくない。

実際彼らは著書でそのように主張している。彼らは世の中をブルジョワジーとプロレタリアート階級に分けた。前者は支配階級、後者は党同社階級で、この二つが対立するのが世の中であるとした。支配側は労働側にろくに金を払わない不届き者をいい、それを搾取といった。二つの階級は争うが、やがてプロレタリアートが勝利し、ブルジョワジーはなくなる。

そのとき、世の中の企業・産業は国有となり、労働者に貧富の差はなくなる。その後には階級自体が消滅して真の意味での平等社会が実現する。これは民主主義の理想形である。ヨーロッパのはずれ、産業革命に乗り遅れていたロシアで『共産党宣言』を大事に温めていたのが、若きレーニンやスターリンだった。彼らも当初は平等社会が人々を幸せにすると考えていた。

イメージ 4

そうした理想に燃えてつくった社会主義国がソビエト連邦であった。ところが実際に革命国家が稼働していく中で、理想とはまったく逆の官僚支配による強権的な中央集権国家が出来上がった。なぜこのようになったのか、貧富の差をなくして平等な社会を実現するために取った方法は、官僚たちが何でも決めてしまうシステムで、実はこれが破滅の第一歩であった。

マルクスとエンゲルスの掲げる目的は正しくとも、方法論が間違った。旧ソ連体制ではモスクワの政府機関クレムリンの仕事部屋にデンと座った役人が、ものを生産する工場や農場の現場を視察をせず、部下の報告だけを信じて実情からズレた生産量などを勝手に決めていた。こうしたマーケットを使わない官僚支配による計画経済が社会主義崩壊の命取りになった。

一方、資本主義経済の考え方の基を作った書物が、『国富論』であるのは疑う余地はない。1776年に刊行された同著は、イギリスの思想家アダム・スミスになる。そのなかにはマーケットのメカニズムを上手く表現した、「神の見えざる手」という言葉がある。『国富論』で出てからというもの、1929年に至るまで、市民社会は市場経済メカニズムによって発展を遂げる。

当時の経済学者の多くは、「マーケットメカニズムに任せておけばすべて上手くいく」と思い込んでいた。ところが、そうした楽観論を凍り付かせる事件が起こった。1929年10月24日、ニューヨーク株式市場の大暴落と、それに端を発した世界大恐慌の始まりだ。その前日までうなぎ登りだった株価である。アメリカのとった低金利政策でネコも杓子も株式に投資した。

イメージ 5

「儲からないわけがない」という幻想がバブルを発生させていたことを警戒する経済学者もいたが、実力以上に株価は急騰していた。一度下落した株価は底なし沼の如く急落し、手が付けられない状況に陥った。アメリカの歴史教科書には、10月24日を、「暗黒の木曜日」といい、29日は、「悲劇の火曜日」と記されている。株価は32年7月までにピーク時の1/8にまで下落した。

日本では関東大震災(1923年)の痛手が癒えていなかったが、1930年(昭和5年)から日本恐慌が始まった。産業界をリードしていた繊維業界は減棒となり、失業者が溢れ、自殺者が急増した。世界が同時的な大恐慌という未曾有の危機に直面した時、「危機を作り出したのは、マーケットメカニズムに支えられた資本主義が不完全なためだ」という経済学者が現れる。

彼の名はジョン・メイナード・ケインズ。著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』は、マーケット至上主義を修正する革命的理論書であった。これまでの資本主義経済は、アダム・スミスが見出した自由放任主義的な市場経済のメカニズムによって発展し続けたが、不況に苦しむ人たちを目の当たりにケインズは、これが「神の見えざる手」なのかと憂いていた。

ケインズは、「マーケットにすべてを任せおいても需要と供給が一致しないのはなぜか、マーケットが大量の失業者を生むのはなぜかを考えた。そこで得た結論は、需要と供給を調整する役割を担う価格(賃金を含む)が硬直的で、十分調整能力を発揮できていないということだった。失業が大量に発生する不況期に、マーケットメカニズムを放任してはだめだと結論した。

イメージ 6


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>