限りある身の力ためさん。と続くこの言葉は、江戸時代前期の陽明学者熊沢蕃山のされている。中江藤樹門下にて陽明学を学ぶも、陽明学に傾倒していた岡山藩主池田光政に招かれ、藩政確立に取り組んだ。零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた。しかし、大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらした。
ばかりか、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者であったために、蕃山は保科正之・林羅山らの批判を受けた。著書『大学或問(わくもん)』で幕政を批判したことで、69歳の高齢にもかかわらず幕命により、松平信之の嫡子である下総国古河藩主・松平忠之に預けられ、城内の竜崎頼政廓に幽閉された。元禄4年(1691年)反骨の儒者は病を得て古河城にてその生涯を終える。
そんな境遇のなか、表題の句は、「辛いことが我が身に降りかかるというなら、いくらでも降りかかるがよい。自分の力を試してやる」と、己を奮い立たせる気持ちが表れている。報道に、「いじめ」の文字が堪えない。こういう気概を今の子どもたちに教えられないだろうか?教えられないなら、なぜだ?いじめなんかに耐え抜いてやろうと、たかだかいじめじゃないかと思われてならない。
近年は、家で飼う犬や猫を家畜と言わずペットという。家畜とは人間が飼育して利用する獣類をいい、犬・牛・羊・やぎ・馬・豚・兎などがいる。ペットとは、愛玩動物のことで、英語ではコンパニオンアニマル(companion animal)などと呼ばれるが、これに人間の子どもが加えられる時代であろう。「家畜化(ペット化)する子どもたち」、そんな風に言ってみる。
大切なペットは見れば分かる。主人に服を着せられた犬などに感じられる。高度成長期後に、子どもを着せ替え人形にして自己満足する親が出現したが、その数は減ることはなかった。大量のブランド服や靴を、アイドルのように着飾らせる親の気持ちは分からなくもないが、肝心なことが抜けている。彼らは服は着れるが、服を脱いで畳むといった行為ができない。
服は着るもので、脱いで畳むのは親の仕事と思うからで、だからその必要がない。もっとひどいのは、親が服を着せるこどもは自分でボタンが嵌められない。ボタンは親が止めるものだと思っているから、その必要はない。このように、親が「〇〇思っている」ことで、子どもの仕事はどんどん減っている。これが現代の家庭教育なら、昔人間は閉口するばかり。
ペットの犬が服を脱いだり畳まないと同様、人間もその必要がないと親が思えば、その子はそうなる。それでいいじゃないか、人の子どもだ。自分はこうした多くのこと問題意識を持つし、疑問を抱けば分析もする。それらを社会学とみなすから、分析は楽しいが、それらは批判とは別だ。自分自身のために批判はするが、他人に言って分からせる必要はない。
と思うようになった。どこの親がその子に何をしようが、他人が口出しする理由はどこにもない。と、考えるようになった。なぜなら、自分の言行が正しいと思うことが傲慢であるからだ。子どもに限らない。いい大人がつまらんことをいい、つまらんことをするが、自分も他人から見ればつまらんことをしている。それほどに自分が自分を律してはいない。
人に見本になる事も、なりたいとも思わないただの自由主義者である。だから、他人も自由であればいい。何かをいう権限も立場も今はない。そういう立場にあれば理念を他人に口述するだろうが、現在は考えを勝手に記述するという立場を守っている。他人と話せば話は耳に入るが、自分の価値観は言わない。他人のブログを見てもその内容に口を開くこともない。
が、自分なりに分析をして楽しむ。親子関係や夫婦関係、嫁と姑や兄弟などの諍い事も目にするが、高見の見物だ。自分には関係がない。自分の人間関係、夫婦関係、親子関係が他人に関係ないようにである。が、分析と社会学的考察はする。ブログには面白い記述が散見されるが、内容は個々の思いの発露だからいいが、記法について、「?」と思えば分析する。
わたしが宜保愛子です。嫁からすれば義母の宜保でしょうね。
なぜ、そのような記法をするのか、と言う背景について考える。かれこれ15年くらいまえだが、姑を、「義母ちゃん」と呼ぶ知人がいた。知人と言っても単に、「知る人」で親しくはない。彼女の「義母ちゃん」を煩わしく感じた自分は、「"ちゃん"はいらんだろう義母で通じるし、必要ないのでは?」と言うと、「可愛いでしょう」と返す。幼児の我が子を「〇〇ちゃん」という。
が、幼児が中高生になれば、「〇〇ちゃん」とは言わんだろう。呼びたくとも、意識して、「ちゃん」は取るべきで、子べったりな親では友達の手前、恥をかかせることになる。親自身の成長の問題だ。「義母ちゃん」の呼称を、「可愛いでしょう」と言われた自分は、「それは問うてるのか?」と返すと、「うん」と言う。「いちいち人に聞くのはいいが、その問いには答えない」と言った。
「なんで?」と問うので、「そんなことは人に聞かず、自分で判断しろよ」と突っ返しておく。「ガキじゃあるまいし、いちいち人の判断を仰ぐな」という言葉を投げかけないでいた。言わない理由は、人の意見を素直に聞く相手には見えず、屁理屈を聞かされるのを拒否したからだ。こういう場合に、「沈黙は金」となる。くだらん言い訳など聞くだけ耳が錆びれる。
明晰な女なら他人から、「義母ちゃん」の是非を指摘されただけで自問し、自答するが、バカに念仏は無用である。同じようにネットにも姑の呼称はさまざまあるが、普通に、「姑」と書けないもどかしさと分析するが、それで言い得たも同然だろう。妻は姑にあれほどイビられながら、誰に対しても、「おかあさん」であった。漢字で書けば、「お義母さん」となるが、言葉は音で響く。
わたしはオットと申します。
たまに、「姑さん」という場合は、実母との混同を避けるときの呼称。一方、姑は妻を、「よめ」といい、さん付けはない。「よめ」は、「嫁」であって、「ヨメ」ではない。近年は、「夫」を、「オット」と表記する。「なぜ」の分析はするが、女の無思慮を批判しない。他人の妻の夫がどのように捉えようが、個人的に不快な印象は抱かないが、「気持ち悪い」、「不愉快」を公言する人もいる。
とある女性エッセイストがカタカナ表記を流行らせたと書いたが、以下はある女性が、「カタカナ表記」についての記述である。「私が初めて"オット"を目にしたのは、林真理子さんのコラムでした。林さんは社会的にも経済的にも自立した方なので、配偶者をあえて第三者の目から見たような音だけのカタカナ表記の、「オット」は妙にしっくりきていると思いました。
母、妻という血縁関係でありながら、息子や夫を客観視してますよーと強調したい方が好んで使うのかなと思います。字に意味を持たないカタカナ表記は漢字と違い、あっさり感が出ますよね。例えばこんな感じで。『40歳の私、誰か結婚して!』⇒『40歳のワタシ、誰かケッコンして!』」。字に意味を持たせないあっさり感を女が好む理由は、別の含みがあると感じる。
「40歳の私、誰か結婚して!」より、「40歳のワタシ、誰かケッコンして!」。この表記のあっさり感が何なのか、男の自分には理解不能であり、それよりもあっさり感の必要性すらも分からない。40女が、「結婚して」の表記は、切実すぎるし、みっともないので、意味を持たせぬカタカナ使用であっさり感を求めるというなら、女が得意とするごまかし、逃げであろう。
社外文書や私信の類は辞書を片手に漢字を多用した頃が懐かしくも思い出される。読み手に文章をスムーズに理解してもらうためであり、それが漢字の効用であろう。実際問題、漢字の少ない文章は読みにくいばかりか、即座に意味を感じ取りにくい。「じせつはあきとはもうせ、ときおりざんしょもかんじられるこのごろですが…」。これを真っ当な文章というだろうか。
こんな記述はふざけて書かない限りあり得ない。「時節は秋とは申せ」の方がどれだけ読みやすいかである。例えば、「散歩帰りに夫と喫茶店に寄って来た」と書けばいいものを、「サンポがえりにオットとカフェにヨってきた」は一見難読である。こういう女性の心理分析をすれば、自己に自信なき者が人と違ったもの(この場合は表記)を持つことで、独自性を主張する。
文の意味の伝え方よりも、カレシ、ワタシ、コドモ、オット、ムスコ、ムスメ、オトコ、オンナなどのカタカナ表記多用する女性エッセイストが、他の作家との違いを意識してであろうが、所詮は自己顕示欲と才能のなさをかわすために、「軽妙で洒脱な文章」という自己満足的な感じしか伝わってこない。これは女性の情緒の深層理解などに興味のない男の感じ方。
80年代の女性エッセイブームにあやかってか、昭和臭がプンプン伝わってくる。「二十歳の女です」。「ハタチのオンナです」。「はたちのおんなです」。これらの表記の意味は同じだが、文章の雰囲気を変えようと作為する。「夫」を、「オット」とするのも無機質を狙ったがゆえの表記であり、つまるところ、「私の生活の中にあるこの夫という物体」的なニュアンスを醸したい心理かと…。