林真理子の本など一冊たりと読んだこともないが、彼女に関する記憶は社会問題になった、「アグネス論争」である。30年も前のことでもあり、嫉妬混じりの不毛な論争と無視していたので当時の明確な記憶はないが、アグネス・チャンによる、「子連れ出勤」の是非論争であった。Wikiによると、1987年、歌手でタレントのアグネス・チャンが第1子を出産した。
彼女は出産直後から乳児を連れて、テレビ番組の収録スタジオにやってきたことがマスコミに取り上げられると、それに噛みついた林真理子、中野翠らのハイミスらがこぞって、「大人の世界に子供を入れるな」、「周囲の迷惑を考えていない」、「プロとして甘えている」などと痛烈に批判した。母親としての行為をアカの他人が、なぜにこうまで批判をするのか?
これら、アイドルに対するブサイク女の醜い僻み根性と感じていたが、アグネス側には列記とした事情があった。当時12本のレギュラー・準レギュラー番組を抱えた彼女は局側から、「早く復帰してくれ。子供を連れてきてもいい」などと説得され、不安に思いつつ職場に復帰したというのが真相だったという。となると、林らの言い分は勝手な邪推ということになる。
この論争には対してフェミニストで社会学者の上野千鶴子は、『朝日新聞』紙上において、「働く母親の背中には必ず子どもがいるもの」と発言してアグネスを擁護した。人気のアグネスにテレビ局側の要請があったという事実も知らず、甘いだの、周囲に迷惑をかけているだのと、無知蒙昧と僻み根性丸出しの林の言い分は、まったのお門違いの感情論であった。
局側の要請という事情を知らぬ林らは、本来なら非礼発言を謝罪すべきであったが、2013年発刊の著書『野心のすすめ』の中で林は、「アグネスさんの『子どもを連れて行ったことで、職場の雰囲気がなごやかになりました』発言はいくらなんでも鈍感すぎるのではないか。自分が子どもを持った今でも当時と同じことを思います』と、30年を経ても噛みついている。
「そういう事情か…」という理性で鉾を収めることをしなかった林の卑屈な性格は、子をもった後にも直らない。彼女が振り上げた拳を下せなかったのは、直木賞作家でありながらも、結婚願望の強いブサイク女との扱いで、メディアからアンフェアなバッシングを受けたとの理由があったにせよ、感情論で対峙するからしっぺ返しを食らったことに気づいていない。
30年後に及んでもアグネスを貶す林に対し、林のことなど口にすら出さないばかりか、非難すら口にしないアグネスは当時について、「これまで生きた中で一番つらかったアグネス論争」と振り返るも、「あれが自分を強くさせた」と捉えている。アグネスのターゲットは林真理子という個人ではなく、子を持つ母親が仕事ができる環境作りという彼岸に向いている。
林が中学時代に壮絶ないじめ体験を受けたことはファンの誰もが知る話で、ファンでない自分も耳にした。当時クラスでは、「林真理子を百回泣かせる会」というのが作られ、画鋲を持った手を無理やり握らされたり、プールに突き落とされたりしたというが、彼女はそれらを我慢して耐えたという以前に、「彼らは私のことがすくなんだ…」と信じて疑わなかったという。
真実は彼女にしか分からない話だが、本質的マゾ傾向人間ならともかく、にわかに信じがたい話である。社会人になってもひどい仕打ちを受けたというが、以下の話はあまりに残酷だ。自分はブサイクな人間の出しゃばらない奥床しい性格に強く惹かれるところがあるが、ブサイクであることで卑屈に歪んだ性格の持ち主も少なくなく、そこはキチンと色分けしている。
自分がいじめられたなら他人を攻撃しないというならともかく、勝手な判断からアグネスを揶揄し、中傷しまくった林は自分のセオリーから逸脱した人間である。ただし、人は己のハンディをむしろ拠り所にして頑張れるもので、彼女のその点は認めている。プロゴルファーの不動裕理もゴルフには集中できたが、優勝してもインタビューを嫌い、人前を避ける性格となった。
彼女のファンは、ブスでもいいからもっと性格や表情を豊かにすれば人気もでように…というが、そうもできない彼女である。その点、屈託のないブスは人から愛されるようだ。男でも三枚目に徹することでしがらみが取れ、違和感がないから好まれるのと同じ事だろう。ブスを引きずる女とそうでない女の差はまさに世界を変えるばかりか、人生を好転させることになる。
自分は容姿に悩む女には、「あっけらかんとブスだと認めた方がいいよ。そういう女には美人以上の魅力が備わる」などといったが、多くのブサイク女は、どうしても自分は綺麗と思いたい、ブスとは認めたくないところがある。だから、中途半端、どっちつかずの曖昧な人間となる。卑屈や負け惜しみでなく、「ブスでよかった」と思えるブスは強いということだ。
「同情はよくない。なぜなら同情は本来なら滅びるはずの弱者を救う。これは、自然淘汰の原則に反する。同情によって下等な種が生き残ってしまうのは、よくない」とニーチェは言うが、ブスに同情しても彼女のためにならない。男はよく、「ブスは消えてなくなりやがれ!」というが、人は動物であり、飾って眺めるだけの静物ではない。「動」に振る舞えばいいのよ。
芸能人で人気のあるブスやデブはみんな「動」ではないか。美人は「静」でも観賞できるが、ブサイクは「アクティブ」に果敢に生きるべし。日本人の他人への同情心を美徳として生きていくしかない下等な種であり、これは決して「個」の尊重とは言えないもの。ブスをブスじゃないというより、ブスをブスとして認め、素敵であると感じるのが尊重である。
そのためにブスは卑屈にならず、明るく振る舞うことが求められる。芸能人にはそうしたいい見本がたくさんいるし、一念発起で大いに真似たらよいし、暗くて僻みっぽくて人を避けるブスを目指してはならない。どんな美女にも聞けばコンプレックスはあるようだが、それは自分の理想とするものへのコンプレックスだから、永遠に解消しないものであろう。
ブスのコンピレックスは「恨み」とならないものであること。なぜなら、「恨み」は自分を消耗させるだけだから。美女に同情されたブスは、「あなたが美人だからそんなことが言えるのよ」と言われる。だから、かえって卑屈になる同情はすべきでない。人を励ます人は、しばしば人を励ます自分に酔うという罪を犯す。だから、「頑張れ!」という上目線はよくない。
声をかけるなら、「一緒に頑張ろう!」、「おれも頑張る!お前もな!」でいい。英語にジョイナスという言葉がある。ジョイナス(join us)は、「一緒にやっていこうぜ!」という仲間意識への掛け声である。「私、あなたのことが好きよ。あなたは自分にないものイッパイ持ってて…」昔、ブスな子が美人の子にこう言われたと感激していた。確かに、性格が伝わる。
現代の多くの人は、「経済的・能率的」を一義に考えて行動する。端的にいえば、「労少なくして、効多くする」ということだろう。が、労少なくに重点をおき過ぎると、実現すべき目標を無意識にレベルダウンさせているかも知れない。効率的な考え方は体以上に頭を使うことだ。「憂き事の尚この上に積もれかし」を怖れず、跳ね返す能力を身につける。
そのためには、「労多くして」を厭わぬ姿勢が大事というのが自分の経験則。「楽をして」という考えは排除すべしである。「楽を戒めるためには楽をしないようにする」などはいかにも見え透いた嘘。自己啓発法はいろいろあるが、自分の場合は3つの禁句を掲げて遵守した。①忙しい、②疲れた、③面倒くさい。この言葉を意地でも言わぬよう自らに心掛けた。
すると、①忙しいことなどない、②疲れない、③面倒なことなどない。 そういう風になった。とはいっても決して無理をすることではない。無理をせぬからと、自分を甘やかすことでもない。意識とは適合な加減とバランスの上に成り立つ。自分の視るところによる自分というのは、自由主義者であり、楽天主義者であり、したがって、比較的楽観主義者である。
自分に無理なことをしない。したくない。だから、基本的に物事を楽しみながら行う。それならば、ついつい無理をすることも悦びの延長である。人間は嫌々無理をするより、愉しんでする無理の方が疲れない。また愉しい事は時間を割いてでも行う。よって、「忙しい・疲れた・面倒くさい」は、意識することなくすべてがセットとして簡単に解消される。
楽天主義は、心身の健康にも社会の健康にも資するだけでなく、悲観論者なら不可能と見なすだろう目的を達成しようという気分にさせる。また、楽天的な気分は、人を益々楽天的にさせる。なぜなら、楽天的な人は悲観をしない。いつも上手く行くと言うわけではないが、楽天家の根本には、「自信」の二文字がある。上手くいくというのを信じ、簡単に諦めない。
しかるに楽観とは、忍耐と密接な関係がある。前者があって後者がある。なぜなら、楽天的でなければ忍耐する者などいない。多くの科学者が悲観的であったなら、数千回もの実験を経て新薬や、新技術の発見などあり得ない。さらに楽天家は企画性に長けている。悲観的に始めた企画が成功した試しはなく、悲観論者はその意味で正攻法など持っていない。
「憂き事の尚この上に積もれかし、限りある身の力ためさん」。この言葉は楽観主義者ならではである。辛いことなど怖れることもない。来るなら来い、どんどん来る方が自分を試される。楽観論者は何をも苦にしない挑戦者である。それが、非観者と対照的と言われるゆえんだ。子どもが楽天的であるのも怖れを知らぬからで、大人が怖れを教える必要がどこにあろう。