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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    「ハニカミ王子」と「ハンカチ王子」。この二人の王子がマスコミの話題をさらったのはつい数年前のこと。昨今の斎藤・石川に対する声は、「なんで石川遼みたいな下手糞がもてはやされるの?」、「斎藤が一軍にあがれるのか?」など、"スポーツなんだから上手い奴がもてはやされないと駄目なんじゃないの?"の声、石川なんてマスコミから駆除すべきという声。

    ハンカチ王子は正に半価値になり、ハニカミ王子も「駆除しろー!」の蜂の巣「ハニカム王子」的現況だ。実力がないのにもちあげられたのはビーチバレーの浅尾美和もそうだが、容姿に群がる日本人の特異性。確かにプロスポーツは客商売でもあるから、容姿も大事なのは不動裕理を見れば分る。アレだけ女子ゴルフ界を圧巻しても人気はなかった。 

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    ゴルフのことは良く分らないが、石川と松山とは体格的にもメンタルの強さにしても明らかにモノが違うようで、その差が実力の差となっているようだ。石川が特別イケメンというわけではないが、愛称の通り、はにかんだ時の顔がおばさんに受け、視聴率がとれるからメディアも持てはやしたようだ。テレビ局の最大のお客様は選手ではなく、実はスポンサー。

    そのスポンサーのご機嫌を取るためにも視聴率を上げるのが命題だし、スポーツ番組の視聴者といえども、ゴルフをやったり、野球をやったりばかりの人ではなく、一切やらないが観るのは好きというスポーツファンが圧倒的に多い。ただし、おばさんに人気で視聴率が支えられたとしても、長期的に見たらそのスポーツの人気自体は下降して行く。

     それより何より、マスコミにもち上げられた若いアスリートはなぜか伸び悩んで消えていくのが多い。それが精神鍛錬の未熟な若さということか。最近ではサッカーの柿谷がいい例だ。CM、バラエティー、ファッション誌などに引っ張りダコ状態になり、以来絶不調になってしまったが、マスコミはそれでもなおプッシュを止めないのは、視聴率「命」だからだろう。

    調子に乗る、乗らないは自己顕示欲などの性格にもよるんだろうし、錦織などを見ていると、マイケル・チャン・コーチなどが、キッチリと手綱を引き締めている部分もあるのではないか。サッカーや野球は個人との契約コーチはいない。ゴルフは個人コーチがいるが、石川はデビュー時から正式なコーチを持たず、現在も父親の手の平の上で踊らされているのでは?

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    「新聞記者OBが書くニュース物語」というブログがある。経済記者として財務省、経産省、日銀などを担当、ワシントン特派員経験もある中村仁という元全国紙記者が、2013年の退職を契機にブログ活動を始めた。経済、政治、社会問題などについて、メディア論を交えて発言しているが、その中村氏の2014年7月25日に「石川遼神話の終わり」という記事がある。

    氏は石川のタレント人気にあやかるスポーツ報道の悪習を提言する。以下抜粋。「経済紙ながら日経はゴルフ報道に力を入れています。日経の読者である経済人、ビジネスマンにゴルフを趣味にしている人が多いからでしょう。全英オープンを前に1面を使って特集(7月14日)を組みました。一般記事で「怪物、松山、再び挑む」、「石川、猛練習で手ごたえ」と2選手にエールを送っています。

    羽川豊というベテランプロの談話も載せ、「優勝争いを」と、読者の期待を膨らませる解説です。読売は17日に「石川、全英から飛躍へ。アンダーパー不可能ではない」との応援記事を載せました。結果はどうだったでしょうか。まず石川はなんと4オーバーで予選落ちでした。1アンダー39位の松山はプロに転向したばかりで、人気より実力でのしていくでしょう。」

    とある。中村氏の期待(予測)通り、また多くのプロゴルファーの予想通り、松山は錦織同様、世界に通用する日本人アスリートとしての地位を着実にものにしている。特に松山はゴルファーに必要な体格に恵まれている点も大きいが、体格だけで世界は勝てない。中村氏は言う。「問題なのは、いまだに石川神話、石川人気から卒業できないスポーツ・メディアです。

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    現在22歳の石川選デビューは確かに衝撃的でした。高校生の時に史上最年少で優勝、史上最年少で賞金王(2009年)、高校生でプロに転向し、中年女性を熱狂させた甘いマスク、スマートな物腰で人気を独占し、ほぼ一人でテレビ中継の視聴率を何パーセントか引き上げました。天才的な素質、人気をかきたてる風貌を兼ね備え、「石川神話」が創造されたのです。

    最大手の広告会社がぴったり張り付き、賞金金額よりも、提携企業からのスポンサー料、広告料のほうが何十倍も多く、年収を10億円単位で数え始め、「金のなる木」になるにつれ、おかしくなりました。親族もふところに飛び込んでくる多額のマネーに我を見失ったとみられます。多額の報酬の後には多額の税金が追っかけてきます。

    その支払いのために、さらにスポンサー料、広告料が必要になり、本業がおろそかになっていったのでしょう。国内のトーナメントに出ずっぱりになり、毎週4日間の競技、その前日のプロアマ競技(主に提携企業の関係者とプロとのプレー)す。その間にコマーシャルの撮影がびっしり入ります。落ち着いて猛練習をすべき青年期の日々をそうした稼業のために費やしたのです。」

    石川は高校在学中にプロデビューしたが、それは史上最年少優勝、史上最年少賞金王という華々しい記録づくめのものだった。尾崎将司にもレクチャーを受けるなどし、あのタイガー・ウッズも石川のデビュー前には、「先急ぎをせず、高校を終え、大学に進学した方が良い」とアドバイスを送っていた。が、父親の意向だろう、石川は貰いの多い"慌てる○○"となる。

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    中村氏は顔見知りの石川の父親について言う。「将来のことを考えると大学に進んで、人間的な幅を広げ、体力をつけるようにしたほうがよいと、父親に勧めました。そうすると、父親は手帳を広げ、『3,4年先まで予定がびっしり詰まっており、大学にいく時間がありません』というのです。そこで、「通信教育でも大学をでられますよ」と申し上げました。

    父親は天才少年の将来性より、目先の稼業を優先する道を選んでしまったのでしょう。(中略) 金の卵を抱いて、何かを錯覚するようになったのではないでしょうか。『この子は学問でいうと、ノーベル賞クラスの実力を秘めている。次元が違うのです」というようなことをいいました。そこまでいいますかねえ。神話が崩れ始めるといろいろな批判がでてきます。

    『この年で、もう記念館を作っている。何を錯覚しているのだろう』も、そのひとつ。5年ほど前、越後湯沢に「石川遼記念館」を開設し、優勝杯などを並べ、石川グッズのショッピングサイトも作りました。ホームページには、"26年5月、閉館しました"とのお知らせが載っていました。何があったのか知りません」。そんな中村氏は、石川再生の可能生は親離れと言う。

    全英オープンに優勝したローリー・マキロイについて、テレビ解説者が興味深いエピソードを紹介していた。「マキロイは長い不調に陥った時、難民キャンプのボランティア活動に参加した。そこで、彼らに比べ、自分はなんて幸せなんだ、と悟った。その経験から、もう一度、自分を見つめなおし、ゴルフに新しい気持ちで取り組んだ」のだそうだが、いい話である。

    イメージ 5中村氏のゴルフの腕前は知らないが、彼の人生経験を基にしたアドバイスと理解できる。自分も石川が21歳にして自伝を出版したのには驚いた。そのタイトルが、『石川遼自伝 僕の歩いてきた道』である。歩いて来た道と言ったところでまだ21歳である。これから歩いて行く年齢ではないのか?が、21歳にして、「きた道」と過去形にするわけだから、偉業を成したのだろう。確かにトーナメント最年少優勝、最年少賞金王は偉業には違いないが、それらの偉業は引退したからと言っても消えるものではないし、色褪せるものでもない。こういうところに彼の父親のはしゃぎ過ぎの面と、金銭欲の一面が伺える。人がどのように金儲けをしようが、息子自慢をしようが、文句をいう筋合いではないが、石川遼は実質そういう親の被害者ではないのだろうか?

    他人のことなどどうでもいい、と言えばそうである。この親にしてこの子あり、親子は運命共同体であるから、遼が自分にとっていい父親というなら、それでいい。自伝は読んではいないが、レビューには時期早々の自伝に驚きの声は当然にしてある。成人を迎えたばかり人間が、はや自伝とは前代未聞である。この手のものは、苔が生える年齢で書くものであろう。

    ゴルフジャーナリストの宮崎紘一は、「ゴルフ界の至宝・石川遼をダメにする『チームRYO』の許されざる蛮行」との記事で問題点を指摘した。『チームRYO』とは、コーチであり統括マネージャーである父親の勝美(56)をリーダーとするの面々で、「電通」のI、「ヨネックス」のU、キャディのK、トレーナーのN、大手マネジメント会社のKらで構成されているという。

    金の卵石川に関わる広告代理店、用具提供メーカー、ゴルフシャフトメーカーが参入し、父親を除くと、いずれも30代から40代前半の若いスタッフ。そして金の卵を息子に持つ父親の不埒で傲慢な振る舞いが指摘されているが、石川遼が運命共同体と認識するなら余計なお世話ともいえる。自分に何が必要で、何を捨てるかは、20歳を超えた年齢なら行為していいはず。

    人はチヤホヤされると腑抜けになりやすい。腑抜けとまで言わなくとも、逆境心などは育ちにくいだろう。「褒め殺し」という言葉もある。チヤホヤの石川には松山、斉藤には田中というアンチヤホヤがいた。田中の活躍は言うに及ばず。方やメジャー、方や2軍。アメリカでのゴルフも松山より一足早く参戦している石川だが、「後塵を拝する」印象はぬぐえない。

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    甲子園を沸かした斎藤佑樹と田中将大だが、年月を経て二人の差はあまりに歴然で、それが収入の差に現れている。そんな斎藤の存在をメジャーはどう見ているのか。「すべての球種が平均を下回り、まったく調査対象外。アメリカにもアマチュア時代に輝かしい実績を残したドラフト1巡目選手が伸び悩んだり、期待通りの成果を上げられない例は数多くある。

    ただ、これだけメジャー(一軍)とマイナー(二軍)を往復しながら結果を残せない特定選手にチャンスが集中しては、競争の公平性が保てないのでは?それ相応の投資をした選手なら分かるが、彼の獲得資金は(契約金の)アベレージである1億円。そこまで彼に固執する理由が分からない」(ナ・リーグ球団関係者)と首をひねっていた。人気で取らない辛辣なメジャー。

    最も甲子園人気など、あちらでは「?」である。斎藤佑樹人気の凋落の原因を、一流でもないのにスーパースターへと祭り上げられてしまったことが不幸の始まり、と断じるスポーツ関係者は多いが、「彼は作り上げられたスター」と分析するスポーツ関係者もいる。彼の大学での成績は決して悪くない。高校卒業後、早大に進学し、1年生からエースである。

    数々の輝かしい記録を打ちたてながら4年生時の2010年秋には明治神宮野球大会でチームを大学日本一へと導くなど結果を残している。それだけに高校3年生時に成し得た全国制覇を「まぐれだ」と評してしまうのはさすがに乱暴過ぎだ。日本ハムの関係者も斎藤をこう擁護する。「確かに斎藤は高校の時点で能力以上の過大評価を得てしまったというところがある。

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    そうした声がプロ野球関係者の間で今も多々出ているのは事実だが、そこまでボロカスに言われるのもどうか。斎藤は頭のいい男。だからこそ高校日本一で“急造スター”となってしまったことも当時から自覚して危機感を覚え、多くのオファーがあったにも関わらずプロ入りの道を拒んで大学へ進学した。自分はそこまで持ち上げられるような選手ではない。

    このままプロに進んではそれこそ1勝もできずに潰れてしまう。そう思い込み、彼はプロに入る前に大学野球で鍛錬を重ねて技術と人間性を磨こうと心がけたのです」。ただし、大学時代で斎藤にとって1つ誤算だったことは、佑ちゃんフィーバーが少しも沈静化しなかったことだ。「斎藤は“大学に進学すれば周りが騒がなくなるだろう”と考えていた。

    ところが相反するようにフィーバーはより加速化してしまった。野球に集中したかった彼は、実はこれに大きく戸惑っていた」と前出の日本ハム関係者は代弁した。スターであるがゆえに周りからの要求は常に高く、がんばり続けてもそのステージに追いつかない。そういう悩みを斎藤は抱え込み、プロに入ってからもその葛藤は続いていたが、徐々に「免疫」もついた。

    結果が出せないと叩かれるプロの世界で、それを繰り返すうちに開き直りの精神が芽生えていった。「大学時代までの斎藤は虚像のスーパースター。本人もすごく窮屈な人生を歩んでいたが、プロに入ってからは違う。現在までプロで結果は残せていないが、いろいろ苦しんだことで、背負わざるを得なかった過去の栄光を、いい意味で振り払うことができてきている。

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    「来年は先発ローテーションに入り、2けた勝利をマークしたい。気を引き締めてやらなければいけない」と来季への抱負を述べていた斎藤だが、これまで同様大言壮語に終わればプロ5年目でラストイヤーを迎えてしまう可能性もある。嫌われ者になったことで、やっと長年苦しめられてきたスターの呪縛から解き放たれ、肩の荷が下りたのは確かかもしれない。

    石川と松山、斎藤と田中の対比は、身体的・精神的能力の差と言えるが、家庭環境の影響もあろう。親がマスコミに姿を見せない斎藤・田中はともかく、石川も松山も父親からゴルフを教わった。腕前の方は「日本アマチュア選手権」に出場するまでになった松山の父の方が遥かに秀でている。が、子離れをしないでいまだ金魚の糞状態なのが石川の父である。

    傍からみると、息子の才能を遠方よりひたすら眺める松山父、金の成る木の息子に執着し続ける石川父。こういう環境の差がメンタルスポーツであるゴルフに影響していると、専門家は指摘もする。「金の卵であった…」と、石川の現状を過去形にするのは、上の中村仁だけではないようだ。


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  • 04/21/15--19:54: 人妻の恋

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    同じ市民吹奏楽団メンバーの独身男に遊ばれた40代既婚女性が、数回の関係で突然終わりを告げられたそうだ。遊ばれたとはそういう事をいうのであって、彼女は相手が近づく課程から愛されたと思っている。だからそうだと羞恥もなげにいうのだが、そういう結果に終っても、遊ばれたと思えない、思いたくない女のナルシズムは浅はかというしかない。

    それで彼女は、「自身の境遇を悲観しないではいられない」と嘆いて見せるのだが、こういう話を1000人から聞いても同情する気にはなれない。かといって口先の慰め言葉もでてこないので、以下思うところを伝えておいた。「誰に恋をしようが、その恋自体に罪はない。恋を始めてはいけない規則もない。ただし、あなたには既婚という制約があるだろう?

    相手が独身であれ既婚者であれ、その制約は同じことです。一人で忍ぶ恋ならともかく、それでは満たされないのだろう、だから相手の誘いに乗るわけだ。それが始まりというなら、始めたこと即ち終わりの始まりということだ。本気になって、夫や子どもを捨てる勇気もない人妻が、恋を始めるというなら、始めた時から終わりに向かっていることを覚悟しなきゃ。」

    相手の男はつまみ食いにあきたのか、「始めてしまって思うことですが、やっぱり不倫はまずいです。ご主人に気づかれない保証はないですし…」と言われたという。これがお別れの言葉だそうだ。独身同士の男女なら相手に飽きたからといって、それなりの口実を考えなければならない。相手を傷つけないようにというのも男の配慮だろうが、人妻にはよい口実がある。

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    「やっぱ不倫はマズイですよ」と言えばいい。その言葉が人妻を現実へ引き戻す。いわれた女が傷つこうが、どうであろうが、「傷ついた」と言えた義理ではない。実らぬ恋は御法度の恋であるからして、始めたことが終わりの始まりというように、遅かれ速かれ終らねばならない。所詮はつまみ食いなら飽きてしまうのが最もよい終わりかただが、上記の女は違った。

    辛い、切ないと尾を引いている理由は彼女の想いにある。団員となぜそうなったかについてこう説明した。「相手の男性に愛されたこともあり、自分としても相性が良かったこともあって、声をかけられたときは嬉しかった。そうして彼とそういう関係になったときから、これほどに幸福感に包まれるような感覚というのを生まれて初めて知りました。」という。

    ノロケに聞こえるが、聞くところによると彼女は夫以外の男経験がないという。今どき真面目で潔癖症的な女性であるらしいが、44歳というから今どきの女性ということでもあるまい。「恋をする暇などなかったと思います。親の期待に添うよう学業に仕事に打ち込み、男性には負けまいと頑張ってきましたが、女性に生まれてよかったと、始めて感じました」という女性。

    不倫の刺激が加味されたものだろうが、不倫の当事者というのは、そんなことは考えはしない。不義・密通は死罪の時代もあったが、女性の性が目覚しく解放されたよき時代なのであろう。男にとって、女にとって…。ソープランドが週刊誌ネタとして載ることがあるのだろうか?中学生、高校生、女子大生、人妻…、おっさんが簡単に素人を調達できる時代だ。

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    なんともおっさんにとってよき時代でもある。若いときに羽を伸ばした男どもは、貞操バーゲン時代に何を思うのか?いや、貞操という言葉が死語である。死語であるから価値が高い。デパートの「特選品売り場」で買い物をするような高揚感か?いや、こんにちデパートに特選品売り場は存在するのだろうか?高級ブランド品店は個々別に店舗を構えている。

    100m歩いたら不倫行為者に出くわす時代である。夫一筋、汚れてない妻までもが餌食になる。思春期を迎えた少女の性の目覚めと何ら変わらぬ好奇心のたまものか?子どもを責めるが大人は良いのだと。いつの時代も大人と言うのは勝手なものよ。それで出てくる言葉が、「これほど幸福感に包まれるような感覚を、生まれて初めて知りました」である。

    きれいに言ってるのだろうし、初体験した中学生が「エッチっていいね」と言葉足らずでいってるのと何ら変わらない。言葉を修飾してご満悦の人妻に、「奥さん、不倫はいけませんよ」の言葉をかけるほど野暮な男で自分はない。「おめでとうございます」は、半分社交辞令、半分は「気取ってんじゃないよ」。女が気取りたいのは百も承知だから悪口ではない。

    なにかと物事の善悪を提示する人はいる。「それはよくないな」、「それはダメでしょう?」そういう人を道徳的な人というのか?正義感が強いといえば聞こえはいいが、とかく話の腰を折る人のようだ。人は善いことも悪いこともやるという現実を知ってか知らでか、真理という説法をする麻原彰晃がイカレタおっさんという別の顔を持っていたと同じこと。

    イメージ 4「あまり人前で善悪を振りかざすのは止めような」などと釘を刺す。赤信号の横断歩道を渡って咎められた気分になる。「みんなで渡れば怖くない」と言われた時代から成熟したのか、一人で渡れる時代になった。不倫も映画やテレビドラマや芸能人のお手本がなくても、みんなやってるからという口実がなくても、自身の考えでやれる時代に成熟したのかも知れない。自分の考えで行動できるというのは、一つの成熟であろう。そこには必然と自己責任がともなうからだ。「○○さんが、やれといったから…」、「○○さんもやっているから…」、これらが典型的な子どものいい訳だ。かといって、夫一筋の貞淑な妻と思われたいのは人妻の共通した虚勢だから、だれかれかまわず、「不倫している」とはいわないものだ。

    上の女性もあなただけに言ったという。光栄とは思わぬが見込まれたものだ。見込まれたというより、類は友を呼ぶという事だろう。おまけに「別れて以降、辛い、苦しい」というお土産まで聞かされている。女は男を女友達と同じように同情の類とみなすところがあるが、男は友人関係であっても、口先の慰め言葉など掛け合って生きてはいないものだ。

    自分に不倫を告白した女性は、自分なら言って差し支えないと思ったからだろうが、慰め言葉を望んでいたのならそこは見込みは外れたろう。「始まりは終わりの一歩」。「始めなければ終わりもない」。言いたかったことだが、その事は理解したようだ。ついでに、「恋は幻想、醒めれば現実だ」。これは理解したかどうか分らない。しかしこの人妻はこのようにいう。

    夫一筋というのは名ばかり、「夫に触られるだけでも気持ち悪い、そばに寄られるだけでも…」と言う。意地悪い夫への虐げ言葉ではない。彼女は極度の潔癖症であるようだ。中・高・大と女の園で育ち、それなら異性に興味が沸くのが順当だろうが、まったく湧かないタイプもいたりと二分する。それでよくも子どもができたものだと皮肉をいうと、「アレは生殖です」。

    保健の教科書みたいなことを言う。形骸化夫婦は多いし、まあ、気持ち悪いことはしなければいいわけだ。夫としてもこういう妻ならやる気も湧かないだろう。セックスが必要なら別の相手を探した方がいい。妻もそうして欲しいという。それでとうとう、不倫に踏み出したというのだろうが、本人はあくまで愛されたといっている。そういう夫婦事情なら外で調達してくれ。

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    そういう気持ちであって、それを言葉を変えて進言した。「くれぐれもバレないようにやりましょうね」。これはまあ、不倫のイロハの「イ」である。相手はエールと受け取ったようだ。少なからず罪悪感はあろう、人間だから動物のように本能に忠実に生きるわけにはいかない。昨今はなぜか浮気といわず不倫というが、言葉のインパクトの問題であろう。

    不倫は「不倫理」であり、なんとも大局的な言葉であるが、「浮気」は直接的で生々しい。しかも、綺麗な言葉とはいいがたい。昨今は浮気と言わず不倫というが、さすがに文化的な言葉なのかと…。浮気は男の甲斐性といったものだが、女の浮気は社会的不認知という時代背景があった。よって、浮気する妻は少なく、女の浮気など御法度とされていた。

    また、女は生物学的見地からしても男のように浮気をしないものだと思われていた。それが生物学的真相にあらずして、自制心のたまものであったことが正しかったようだ。女は動物生態学的にいっても男より淫乱である。そもそも淫乱は女に向けた言葉で男に向けていわない。英語の"bitch"というのは日本語の淫乱と同じ意味だが、男にはそういった言葉がない。

    「助平」、「やりちん」くらいか?「ドスケベ」もまあ、かわいい部類だ。「尻軽男」は仰々しい。男尊女卑の時代背景が言葉に表れているのだろうが、男は全員「助平」という事情もある。これこそ、科学的論拠があり、男は生物学的・遺伝学的な「助平」でない方がオカシイ。性欲が一人だけに向かうより、複数の対象に向かう方が種の保存や拡散に有利だからである。

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    男は「種撒きびと」である。女は大地に根を張って、花粉が飛んでくるのをじっと待っているモノだが、それは植物の話。動物はじっとしていられず、女であっても交尾を求めて動き出したのだ。壬申の乱、平治の乱、平将門の乱、大塩平八郎の乱…、乱を起こすのは男だが、女は淫乱を引き起こすと手に追えない。10人と連続でやれといっても男の能力を超えている。

    が、女は相手が可能なら100人、1000人ともやれるという構造上の問題である。男から見ると女の方が100倍淫乱に思えるが、女は男の方が助平という。交わることのない話だが、交わってみればよく分る。射精で終る男の性は儚いもの、余韻すらない。特に清楚系に淫乱が多いのは自明の理。清楚系というキャラが邪魔をし、下ネタとかも言えないわけだ。

    おもいっきし自身の性欲に忠実な行為・発言ができていないからだろう。おまけに純情っぽく見せている女、清楚系な女は、視野も狭く自己陶酔レベルが高い。男に清楚系好きが多いのは、普段と寝所のギャップであるというが、いかにも"やって当たり前系"なる女は、手ごろ感や値ごろ感を求めるトーシロ向きだ。自ら乱れるが清楚系自身を高めている。

    そんなわけで清楚系人妻も不倫に乱入する時代となる。世間の目を意識し、自制心が抑止力になっていたのだろう。自制心がそう簡単に取れるものでもないが、自制心をとるための口実が「愛」、「恋」という言葉。動物の交尾を恋愛とはいわない。人間がそういうのはキレイにいっているのであり、あれは子孫を残すためにプログラムされた生殖行動である。

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    動物は性行為を交尾というが人間は交尾と言わない。理由は簡単、人間にしっぽ(尾)がないからだ。それでは、雌豚と人間の男がやると交尾なのか?さて…、正解は獣姦という。それ以外を真面目に考える必要なし。人間の性行為をなぜか愛情(愛の交換)という。違っていても、本人たちが「そうじゃない。愛などないよ」といわない限りはそうみなされる。

    もっと近年は、セックスに愛などいらない(とまではいわないが、それはいわないだけ)人間が多くなったようだ。しち面倒臭いことを言わない時代になったのだろう。かつて外国映画で不思議でならなかったのは、出会ってするにやる男女。自分たちが「性には愛が必要。それが人間ぞ!」といい含められていたのだろう。それも性教育の一貫であった。

    昨今は「軽薄短小」の時代。だからか、外国映画のように出会ってすぐにやる。それを節度がないといえるのか?節度とは理性であるから、理性で自らに歯止めをかけることはできる。かけなくても間違いではないという社会認知を得たのだろう。善悪の問題ではなく、道徳は時代とともに変容する。昔人間から見れば異様でも、現代人にとっては「軽薄短小」だ。

    恋愛感情というのは不思議なもので、時間の経過と共に冷めていくものだが、これが不思議でなくなったのは、科学的に解明されたからだ。『愛はなぜ終わるのか―結婚・不倫・離婚の自然史』なる本がある。解明と言っても学説である。愛は4年で終わるのが自然であって、不倫も、離婚・再婚をくりかえすことも、生物学的にみると自然であるという。

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    思い出してみよう、それぞれの恋愛を…。一番恋焦がれているのは片思いの時、一番楽しいのは付き合い始めの最初の頃ではなかったか?その後はゆるやかに低下して行く。他の異性に興味を持つようになる。この女はどんな下着をつけ、そんな性器の形をし、セックスのときはどんな悶え方をするのか?は、別に助平な男でなくとも共通の思いであろう。

    女が夫以外の異性にいかなる淫乱心を抱くか男には分らない。聞いた事があるが、男と似たりよったりであった。好奇心とは見えないものを想像することだ。それでも女は自制心を要求された時代である。上記著書には、恋愛状態が長続きしないものだというのが遺伝子レベルで説明されている。つまり、遺伝子はあくまでも自分の種の繁栄を第一の目的としているからだ。

    なので一人のパートナーだけを永遠に愛し続けるというようなプログラムにはなっていない。だれでもか?誰でもだ。同じ相手と80回程度セックスしたら飽きるようになっているそうだ。本能に従うことしかできない動物と違い、理性的に生きる人間にとって、終わらない愛というのは理性によって継続するよう仕向けている。これが理想的な男女(夫婦)の恋愛関係か。

    理想的な男女関係を望むなら、理性的な男女関係をやることだ。坂口安吾は『恋愛論』の末尾にこう記している。「人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。」



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  • 04/22/15--20:35: 音楽昼話
  • 「濃いね~」、「深いね~」、「重いね~」という言葉をちまちま耳にするが、ヒゲが濃いとか、川の底が深いとか、体重が重いというのではない。いずれも自分の記事(文)の内容のことだ。考えてみるに自分は会話における相手の話の内容に、「濃い」、「深い」、「重い」という形容詞をつけたことがない。なぜつけないか?理由はそのように思わないからだ。

    濃い内容、深い話、重い話題、という区分けは自分の中に存在しない。他にもある。「エロいね~」、「下系ネタだね~」といわれてたりするのもピンとこない。すべては人間に関する内容であるが、そういう言い方をする人が言う。もちろん、自分は会話中にそんなことを言ったことも思ったこともない。「下系だね~」というなら、なぜ「上系だね~」と言わないのだろう?

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    下系を感じる人なら上系もあるんだろうし、あるのかないのか人のことだからわからないが、とりあえず下系のときはそのように言う。わざわざ「下系だね~」というからには、そういう話題を拒否もしくは、話題にする人間を見下げていると解釈する。「あの人は下系話がすきよね~」という言い方は、暗にその人に対する蔑みであろう。蔑まれたら止めるのがマナーというもの。

    会話には上と下の境界線があるのだろう。意識した事はないが、意識する人はいるようだ。下系の「下」の意味は下品と下半身のダブル・ミーニングと理解する。言い手によってはどちらかだったりするのだろうが、一般的にはそういうことだ。下半身も人間に所有されるものだし、上系(上半身系)は指摘されないが、下系のみ指摘されるのは話題として問題ということだ。

    だから、指摘された時点で止める。斯く言う自分も大衆の前で公然と下半身話は、よほど必然性がない場合はしない。あえてしないではなく、自然にしない。自身に対する制約であろう。見ず知らずの人の前ではエチケットとして意識すべきことはさまざまある。大あくびや、気に障るような行為・態度は普段、気心が知れた人間とそうでない人間とでは飼えるのが当然である。

    基本的に上・下(上品・下品、上流・下流、上等・下等)意識はすきではない、また高低においても、高品質や高性能はいいが、人間に関する高低を意識しないようにしている。例えば高学歴、高潔、高尚など。高学歴なる人物は単に低学歴の対比でしかないから、低学歴がいるからこそ呼称されるのであって、もし高学歴を誇る人間がいるなら、それは低学歴者の恩恵にある。

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    高潔という人物は歴史上に言われるが、そうそう簡単に言うべき事ではない気はする。高尚という言葉はかつて、「クラシック音楽は高尚だが、ロックは低俗」という言葉を耳にして以降、好きではなくなった。高尚そのものはあっていいが、その対比としての何かを貶すことでしか高尚を存在せしめられない高尚は違うだろうと。「高」はすべて「低」に勝るというのは違う。

    「高邁」、「高圧」、「高慢」などは卑下されてしかりであろう。何を持って低俗と言われねばならないんか?ロック音楽やエレキブームの初期にこのような議論が沸き起こったはずだ。それくらいにエルビスやビートルズは社会問題になった。そのエルビスがエド・サリヴァン・ショー出演をめぐってエドは出演の寸前まで反対していた。当時エドは良識の代表であったからだ。

    エルビスの腰を振るアクションを卑猥とし、本番では上半身だけのアングルの放送を行うことを要求、さらにエドはエルビスにスーツ着用を求めた。それら一切を受け入れたエルビスの上半身だけのアングルという珍妙な放送であったが、演奏後エドはプレスリーを、「立派な若者です」と称賛、再出演も実現した。エルビス最初の出演時の全米視聴率は82.6%を記録した。

    エド・サリヴァンは、カトリックの信仰を持つ保守派として知られていて、人種差別を嫌悪し、人種や国籍、性別を問わず様々な出演者を公平に扱ったが、そんなエドさえもエルビスは異端に映った。エド・サリヴァン・ショーは、1950年代から1970年代の当時の文化と強く結びついた番組であった。エルビス出演は、後のビートルズ、ローリング・ストーンズ出演に道を開いた。

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    優等生イメージで好印象のビートルズに遅れること8ヵ月後の1964年10月25日、ローリング・ストーンズはエド・サリヴァン・ショーに出演する。当時のアメリカ国民はあまり彼らを歓迎していず、6月に行った初のアメリカ・ツアーは空席も目立っていた。ストーンズはエド・サリヴァン・ショーで巻き返しを図りたかったが、エドは彼らの不良イメージを快く思っていなかった。

    ストーンズは、「Around and Around」と「Time Is on My Side」を演奏したが、サリヴァンはミック・ジャガーの身振りや歌い方に品がないとこき降ろし、なんとカメラに向かって、「2度と彼らをテレビに出しません」と頭を下げたのである。そうは言ったがストーンズは、1964年から1969年まで6回出演したが、ストーンズ嫌いのエドも世論には勝てないということか。

    ビートルズにしろ、デイブ・クラーク・ファイブにしろ、サリヴァン受けのいいグリープはみんなスーツを着ている中、無地のトレーナーにズボンという超シンプルなミック・ジャガーのファッションは当時のロックバンドにあっては断然光っていたはずだ。お揃いを着ない、揃った動きをしないという自由さが、こんにちのロックバンドの原型に繋がって古さを感じない。

    当時としては異端であったストーンズだが、65年に入ってアメリカでストーンズ人気に火が付き始めると、サリヴァンはあっさりと前言を撤回。65年2月、ストーンズは2回目の出演を果たすも、ファンの暴動を恐れたサリヴァンの指示で楽屋に12時間も閉じこめられてしまったストーンズである。さらに67年には3度目の出演を果たすが、このときも問題が発生した。


    Let's Spend The Night Together」の歌詞にサリヴァンが、「セックスを連想させる」と難色を示し、歌詞を「Let's spend sometime together」と変えるよう要求した。ミックは受け入れたが、猛反対のキースと大ゲンカとなり、結局キースが折れたがバンドにとっては後味の悪い結果となる。反逆児ストーンズがエドの要求を受け入れるほど番組の力は凄かったのだ。

    一度も出演していない大物はボブ・ディラン。1963年5月12日にはディランが出演する予定だった。彼にとっても初の全米中継のテレビ番組であったが、当日の本番前の午後にリハーサルで予定していた「ジョン・バーチ・ソサエティ・ブルース」という曲は、「赤狩り」に関連づけられた曲(「ジョン・バーチ・ソサエティ」は反共団体として知られている)であった。

    そこでCBS側は「放送にふさわしくない」とディランに曲の変更を要求したが、ディランはそれを拒否。「歌えないのなら番組には出ない」と、スタジオから出て行った。ドアーズは1967年9月17日に出演したが、演奏予定曲の『Light My Fire (ハートに火をつけて) 』の歌詞の一節 "Girl, we couldn't get much higher" が、ドラッグを暗示しており不穏当であるとされた。

    エドは、 "Girl, we couldn't get much better" と変更して歌うことを要求し、一旦了解したヴォーカルのジム・モリソンが、生放送中にエドたちを出し抜いて本来の歌詞で歌った。サリヴァン側は激怒し、二度とドアーズを出演させなかった。などの暗澹の歴史もある。エド・サリヴァン・ショー23年の歴史の中では上記したディランとモリソンが印象的である。

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    歌詞にいちゃもんつけられ、さっさとテレビ局を後にしたディラン、出演はしたものの、生放送をぶち壊したドアーズのジム・モリソンは、反権威的でカッコイイ野郎どもである。「ドアーズ」というバンド名は、ウィリアム・ブレークの詩「忘れがたい幻想」から採られた、オルダス・ハックスレーの『 知覚の扉 (The Doors of Perception) 』が元になっている。

    ジム・モリソンの死は、ブライアン・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、カート・コバーンらロックスターの悲劇となった。どういうわけだか、偶然というのだろうが、彼らはまな同じ27歳で死亡しており、27歳で他界したミュージシャン達を「27 Club」といい、ロック界のひとつのジンクスとなっているが、これを科学的に調べた学者もいる。

    クイーンズランド大学で統計学を専門とするエイドリアン・バーネットが、1956年から07年までイギリスのアルバム・チャートで1位を獲得したミュージシャンのうち1046名の死について調べ上げ、27歳が死にやすい年齢であるとの説が正しくないことを証明した。これらは単なる偶然であると。ただ、イギリスの一般人と較べてミュージシャンの死亡率が高いのは事実である。

    上の5人以外にも、ロバート・ジョンソン、エイミー・ワインハウス、ジャン=ミシェル・バスキアらがおり、「27 Club」は仮説でも、ロックスターが早過ぎる死を遂げるリスクが高いというのは音楽雑誌の通説だ。シドニー大学で心理学と音楽を研究するダイアナ・ケニー教授は、1950年以降のミュージシャンの死を集計し、新たな調査を行った研究を発表している。

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    クイーンズランド大学のエイドリアン・バーネットは統計学的見地からの調査研究であったが、新たな研究者は「心理学と音楽」についての研究者である。ケイ教授は、米国の一般的な人々と比較した結果、男性ミュージシャンは平均して50代後半、音楽業界以外では男性の平均死亡年齢は75歳だと判明した。女性ミュージシャンの場合はそれより若干長い60歳代前半だった。

    それでも、米国の一般女性の平均死亡年齢80歳には大きく及ばなかった。ケニー教授の研究は、ロックスターたちの早死について調査した最初のものではないが、過去60年間に死亡したミュージシャン1万2665人を調査した大規模な研究はこれまでなかった。教授はジャズからロック、ブルース、テクノ、ラップ、バラードに至るジャンルのミュージシャンについて調査をした。

    1950年代のロックンロールの隆盛以降、教授が死について集計したミュージシャンのうちの90%以上は男性だった。教授によると、音楽業界では一般国民の平均と比較して死亡事故は2倍、自殺は3倍に達していた。ケニー教授は、「音楽業界自体が極端な行動を支持しているところがある。特に若いミュージシャンは薬物を使用してステージに上がるのは半ば常識である。

    その後はアルコールと薬物で、一晩中パーティーに興じることがしばしばだ」と指摘。ツアーのストレスも早死ににつながっていると続けた。教授は心理学の経験に基づき、出自が崩壊した家庭であることが多かったり、ある程度の感情的混乱を経験したことのある若い傷つきやすい新人たちに、音楽業界は感情面での支援や指針を十分提供できないことが多いと指摘する。

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    上下いう区分けは好きでない。下品を意識しないから上品も意識しない。ブログを始めて9年半になるが、下品な話題を書いた気は一度もないし、上品な話題も同様である。巷で言う「下ネタ」の定義とは排泄・性的な話題だ。早死には動かない事実であろう。「27 Club」は神話であっても…。カレン・カーペンター(32歳)、ホイットニー・ヒューストン(48歳)、エルビス・プレスリー(42歳)

    デニス・ウィルソン(39歳)、カール・ウィルソン(51歳)、マイケル・ジャクソン(50歳)、トミー・ボーリン(25歳)、マーク・ボラン(29歳)、キース・ムーン(30歳)、ジョン・ボーナム(32歳)、ジェフ・ポーカロ(38歳)、ロリー・ギャラガー(46歳)、アンディ・ギブ(30歳)、フレディ・マーキュリー(45歳)、マイク・ブルームフィールド(37歳)…。日本人では、尾崎豊(26歳)、坂井泉水(40歳)が悼まれる。

    他方、クラシックの指揮者・ピアニストは総じて長寿である。レナード・バーンスタイン(72歳)、ウィレム・メンゲルベルク(79歳)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(81歳)、ゲオルク・ショルティ(84歳)、カール・ベーム(86歳)、アルトゥーロ・トスカニーニ(89歳)、イーゴリ・ストラヴィンスキー(89歳)、オットー・クレンペラー(88歳)、ブルーノ・ワルター(85歳)、クラウディオ・アバド(80歳)。

    ウラディミール・ホロヴィッツ(86歳)、アルトゥール・ルービンシュタイン(95歳)、マルグリット・ロン(92歳)、アルフレッド・コルトー(84歳)、シューラ・チェルカスキー(86歳)、クラウディオ・アラウ(88歳)、スヴャトスラフ・リヒテル(82歳)、ヴィルヘルム・バックハウス(85歳)、ヴィルヘルム・ケンプ(96歳)、リリー・クラウス(83歳)。それにチェリストのパブロ・カザルス(96歳)。

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    同じ音楽家なのにこうも違うものかと。やはり、薬物や不摂生が要因なのか。「クラシックは高尚、ロックは低俗」と言うのは充てはならないが、クラシックは高寿命、ロックは低寿命は事実のようだ。80歳過ぎてもステージに立ってピアノを弾き、指揮もするが、ロックミュージシャンは80過ぎて、ステージで、「I Can't Get No Satisfaction」とはやれないか?

    エド・サリヴァンに嫌われたミック・ジャガーは現在71歳。2012年に結成50周年を迎えたザ・ローリング・ストーンズは、ロンドンとアメリカで記念公演を行ない、レディ・ガガも出演するなどノリノリであったようだが、高齢ゆえにワールド・ツアーは期待できないだろう。そろそろギネスブックに認定されそうな気もするのだが…。日本人のギネスは内田裕也か…?



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    人生経験豊富な「そこらのおっさん」に色々聞いてみるべきである。一般的に「おっさん」はオヤジといい、彼らは「オヤジギャグ」と「シモネタ」しか言わないという巷の偏見がある。そんな事はない、「そこらのおっさん」は知識の宝庫、その知識は経験に基づく有意義なものが多い。どんなことでも答えてくれ、そこらのおっさんに「分らない」という言葉はない。

    なぜなら、「そこらのおっさん」にとって「分らない」は恥である。最高学府の大学教授や知名度の高い学者もおっさんの部類だが、彼らが答えを出せない珍問や難問を、「そこらのおっさん」はいとも簡単に答えてくれる。例えば次のような難問だ。「なぜ女性はおっぱいを簡単に触らせないのか?」この問いに「そこらのおっさん」 は正しい答えを出せる。

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      ・触られている間、どういう表情をしていいか分からないから
      ・感じてしまうので恥ずかしい
      ・1人に触らせると他の人にも触らせないといけなくなり、きりがないから
      ・触られて大きい、小さいと言われたりが嫌だから
      ・他の女と柔らかさ、弾力など、質感を比べられたくないから
      ・おっぱいを触らせるのはいいが、次の行為に移れる状況にないから
      ・感じていないのに、「感じてるの?」とか言われるのが嫌だから

    まあ、どの回答も女性に聞いたわけではないが、むか~し、「ちょい触らせて」といったら、「イヤよ」と言われたので、「いいじゃないか、別に減るもんじゃないだろ?」といったら「減らなくても嫌なの!」という明確な理由のないまま断られた。もう一人、聞いた理由は、「むやみに胸を触らせないのは女の世界的な標準態度なの」と知的な言い方をされたことがある。

    が…、男にとってどうしても分らないのは、なぜそうまでおっぱいにこだわるのか?手(腕)ならいい、肩ならいい、腰ならいい、背中ならいい、頭ならいい、それなのにおっぱいがダメというのは、実は女性自身にさえ明確な理由はなく、世界的な女の標準態度なのかもしれない。つまり、付和雷同的に「いやよ」といわなければ、女性の女性としての「沽券」に関わる問題。

    と結論している。オモシロイものだ、不思議なものだ。まあ、女といっても十人十色だ。ネットに次の理由があった。「胸は乳幼児に乳を与えることと、男性を性的に興奮させるためにあると現代医学では考えられている。乳は胸から直接子供に与えるもの。そのため、汚したくないという本能的思考があるのではないかと推測できる。また、男性を興奮させる=襲ってくる可能性あり。

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    そのため、防衛本能が働いているのでは?この件は、男がかっこよかったり、その人を気に入っていれば解消可能な問題ではないかと思われる。つまり、キモイ奴には触らせたくないという選択権が女にある。」という、読んでオモシロイ哲学的考察だ。つまり、回答者もこのように論理的に思考しなければ、なぜ触らせないのかが分かっていないと考えられる。回答をもう一つ。

    「とくに理由はないと思う…嫌なのは嫌。それに胸は男が触るためにあるものじゃない。それにセックスとかするつもりないなら触る必要ないんじゃない?」と、この回答はいかにも女の性を明示している。特に最後の、「セックスとかするつもりないなら触る必要ないんじゃない?」は、セックスの前段階としてのおっぱいの有用性を述べている。それはそうだ、男にも分かる。

    そういった前戯としての重要なおっぱいを、むやみに、みだりに触らせるのは用途がちがうだろう。どうせ触られるなら感じなければ損だという、女の貪欲性が現れている。こういう言葉があるではないか。「触るアホウに、嫌よのアホウ。同じアホなら触らな損々」という結論が「そこらのおっさん」の代表hanshirouからもたらされた。では、今度は男の立場から。

    「なぜ男はおっぱいを触りたいのか」である。これはまあ、男の立場から簡単に答えられるが、分らない女もいよう。想像力を働かせば、取立て難しい問題ではないが、明確な答えが分らないという意味で、「わからない」という女に成り代わって、できるだけ多くの明確な理由を啓示してみる。「おっぱい星人」という言葉は、女性のおっぱいに強い性的嗜好を持つ男を言う。

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    男である以上外人にもいる。英語で「titsman」や「boobman」と言われている。言葉の発祥源は不明だが、1990年代にタモリとヒロミが『タモリのボキャブラ天国』というテレビ番組で自分たちの嗜好を表現する用語として使い始めたのがきっかけであるらしい。タモリらの主張によれば、『おっぱい星からやって来た、おっぱいの素晴らしさを伝道するための使者』であるらしい。

    なんと2005年には『おっぱい星人』そのまんまの表題で映画化されている。はるか宇宙の彼方に存在するオッパイ星。この星に住むオッパイ星人たちにとって、2つの胸のふくらみであるオッパイは自らの誇りであり、神聖にして犯すべからざる存在なのだった。ところが、そんなオッパイを有する星がもう一つ存在することが判明する。太陽系にある第3惑星「地球」であった。

    それを知ったオッパイ星のプリンセス、ニップルは、「この宇宙にオッパイを有する種族は二つもいらない」と、配下の星々から勇者を集い、はるか100万光年離れた太陽系第3惑星「地球」侵略へ向け旅立つことになる。地球に到着した彼らは、地球上におけることさらオッパイ無法地帯ともいえる小さな島国「日本」へと辿り着くのだった…。」

    という見る気も起こらないくだらない映画のようだ。主演は目つきが鋭く、いかつい風貌から悪役を演じることが多い遠藤憲一。正直、「エンケン」がまた何で?である。さて、男がおっぱいを触りたい理由にあげられるのは、自分にないから珍しい。それは少女がオチンチンに抱く感情と同じものだ。少女が思春期を迎えれば別の用途でそれを好きになるのだろうが…。

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    神の創り賜う芸術、眩いほどに美しいもの、というのは詩心のある男。触ると気持ち良さそうな顔をするし声も出るから、と言うのは助平心のある男。自分のダントツは「ここにあるから触って~、お願い」と飛び出してるように思える。まあ、もっとも順当なる答えは、気持ち良くなってもらいたいからだろう。いくら触っても、女が気持ち良くならないなら多分触らない。

    いみじくもおっぱいが性感であるということが触りたい最大の要素だが、通りすがりに「ひょい」と触って行く男は、女に無縁の切実男?こういうことをされると凄く自尊心を傷つけられるという女の気持ちはわかる。前に恋人が、3人で道を歩いていたらいきなりすれ違いざまに一人の子が男に胸を触られ、ショックで長い時間立ち直れなかったといっていた。

    そこまで傷つく女もいるということだ。痴漢は電車で胸より尻を触るが、その理由は視界的なものだ。尻なら男にもあり、胸は女しかないのに胸は触れない。胸を触るには手を上げなければならず、バレたときにいい訳が聞かないが、尻なら手をだらりと下ろした感じで触れるので、バレたときでも言い訳が可能である。男も万が一のことを考えてだろう。

    尻は触るものであるが、おっぱいは触るを超えて揉むという段階に入る。ここまで到達できるのは認知された相手ということで、触るだけなら女もその間、どういう顔をしていればいいか?という悩みも解決でき、思う存分動作、発声を行えばいいのだ。許される男に熟れた果実を揉んでもらい、歓喜にひたるのも女に許された権利であろう。「持ちつ持たれつ」という言葉がある。


    ことおっぱいに関しては「揉みつ揉まれつ」である。そこで「そこらのおっさん」の教えは佳境に入っていく。それでは「どうやったら女におっぱいを触らせてもらえるか」という奥儀はあるのか?という問題だ。女のおっぱいを聖域と考えているネガティブな男の発想は以下のようなものになる。見下すわけでもなく、情けないとも思わない。むしろ、紳士的であろう。

     ・不可能
     ・触らせてもらうことは絶対に出来ない
     ・触らせてもらえるのは偶発的なことで、言葉による説得方法は存在しない

    ジェントルマンな考え方だが、いささか諦めと女性に対する高貴な思考が邪魔をしている。違法になってはいけないし、強引は論外としても、少し工夫すると以下のような考えに到達する。

       ・じっくりと女性の様子を観察し、最も触らせそうな瞬間に頼む
       ・こちらから先方のメリットを提示する(但し、金銭以外)
       ・ドサクサにまぎれて、故意でないみたいにして触れる

    物事は何もしないでいては、何も起こらないし、何も変えられない。されどおっぱいといえども、たかだかおっぱいではないか。経年でいえばおっぱいの存在価値は確かに下がっていく。それは見飽きた事も一因だが、啓蒙的精神を発揮させて以下の境地、理念が植付けられることになる。

      ・おっぱいという部位を特別視する文化を変えていくしかない
      ・おっぱいを触らせることはとてもファッショナブルなことなのだと刷り込む

    1980年に入ったバブル経済前だったろうか、秘湯ブームというのがあった。秘湯の由来は、山間部のさらに奥まった交通の便が悪い場所に存在する温泉のこと。日本人はなぜか「秘」が好きな人種に思える。秘湯、秘宝、秘伝、秘蔵、秘画、秘戯、秘技、秘所。そして「秘書」。会社の重役連中が美人女子社員を争奪合戦を繰り広げる「秘書」の名の由来は?

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    「秘書」という文字はなんと中国史の「三国時代」の蜀に「秘書令」、魏に「秘書監」という役職が存在している。こんにちの一般的な「秘書」といえば、管理職をサポートする女性アシスタントという意味での世界的認識となっている。かつて企業においての女性管理職への出世が閉ざされていた時代、「秘書」への登用は「出世」と理解されていたが…

    秘書はその上司や役員と○○関係になりやすいのか。自分は過去に二例を知っている。一人はある企業の専務、もう一人は社長秘書である。飲み会か何かの時、自慢げにサンローランのワンピースを誇っていたし、夜な夜な連れまわされているのが目撃されていた。自社の取引企業で見聞きしたある営業マンは言う。「4割の確率で肉体関係はありました。

    男が求めたり、女が求めその代償が仕事と金だったり。秘書が美人でバツイチ、子持ちなら相当な確率。上場企業でも、60代の雇われ社長の転職に伴い、秘書も一緒に行ったり。こいつらは相思相愛だった。会社は社員を性悪説で見る。従業員もそうしなければいけない。性悪説を低モラルと変えてもいい。会社の裏の世界は汚いというより、エゴ渦巻く弱肉強食世界。」

    まあ、恋愛関係にはなりにくいが、仕事と称してプライベートで連れまわされたりは大いにあり得る。恋愛関係未満、愛人関係未満の扱い、要するに綺麗な奴隷って事かと。道徳的というより、企業の本筋としていえば秘書に手を出すスケベじじいは終わったも同然。ちゃんと仕事をし、お互いが有能なパートナーと認識して、付き合っているのが秘書の本当の在り方。

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    「某大手企業で役員秘書をしているものです。役員によく食事に誘われ、最初のうちは「他の女性も誘いさない」と数人で行っていましたが、いつしか二人で行くのが暗黙の決まりになりました。仕事上気まずくなるのが嫌で仕事の延長という感じでお付合いしておりましたが、会話はシモネタが多く、ホテルの部屋に無理やり引き込稀そうになった事もあります。

    エレベーターで抱きつかれキスされたことも(もちろん振り切ります)、平日のデートの誘いもあります。私自身、キレるギリギリの所にいますが仕事を続けて行きたいし、婚約者も同じ会社の支店におりますので事を荒立てたくないし、我慢しています。「何もしないから安心してきなさい」と食事に誘われ悩んでいます。どうかよい断り方、対処の仕方があればお願いします。」

    という相談も無責任だろ。自分の事を人に委ねても役員の人格など一番知ってる本人がもっともよい答えを出せると思うし、ある意味こんな簡単なことはないと思うが。貸した金を返却するのも出来ない理由も、相手との人間関係を壊す気なら言えばいいだけだし。だから結論をいえば、断る。それができないなら我慢する。いやなら辞める。そういう簡単な答え。

    キチンと断って役員に今までどうり気にいられようなどムシが良すぎる。この役員は秘書と食事を楽しみたい、あわよくば…という下心を本人が変えない限り、まして秘書がその考えを改めるよう説得する限り無理じゃないの?で、相手の要求をことごとく断れば嫌われて当然なのに、嫌われないように丸く収めたい、収める方法は、それがムシのよい相談と思うこと。


    男子社員なら上司や会社に反旗をひるがえせば左遷は常識よ。それが嫌なら会社の奴隷になるしかない。というように、こういう女の甘ったれたムシのいい考えは男世界には馴染まない。女として、女特有の悩みとは言うけど、要はスケベジジイにどう対処するかだろ?秘書なんてどこの会社でもできるし、嫌なところで仕事以外の我慢をすることないと思うけど。

    ムシがいいなと自身が判断すれば、嫌われたっていいってわかりますよ。嫌な事を嫌といって困ることがあるなら、それは本人のうちに何か利害が災いしてるってこと。世の多くの難題は、利害を断ち切れば解決できること多し。本当に解決したいなら、根本を考えればいい。それをしないで上っ面のことばかりで、言ったり来たり、動物園のクマじゃあるまいし。



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    そこらのおっさんの「教え」といっても、教えたがり屋おやじのうざい押し付けかも知れんし、どうってことない単なる呟きかもしれんが、おっさんにその意識さえあれば良しとしよう。若者が年長者に教えたい事もあるだろう、おばさんが若者に言いたい事もあるだろう、で、おっさんの教えというのは、「耳をほじってよ~く聞けよ」と言うのではない。

    人に何かを言う時は、「お前に好き勝手なことを言うから、聞くも聞かぬも勝手にせーよ」というスタンスが一番利口だろう。道家思想にある、『われ こころみに汝の為 妄言せん 汝もまた 妄聴せよ』の言葉を直訳だが、クソ真面目な大人や道徳的な親、職業意識に徹した教師が、「うるさいと思わずに聞きなさい。お前のためを思って言ってるのだから…」

    と、こんな言葉は聞くのも嫌だったが、今もそのようにいうのだろうか?であるなら止めた方がいい。欺瞞に満ちあふれたこの言葉が子どもの頃から大嫌いだった自分は、口に出すのも躊躇われる。人が自分のためを思って言ってくれる言葉って、どれほど価値があるというのか?「お前に夢を託してる」と子どもにいう親もいるが、映画の脚本のような臭い言葉だ。

    何で親の夢を子どもに託さねばならないのだろう。子どもにだってやりたいこととか夢はあるだろうし、親の犠牲になることはない。老舗の跡を息子が継いでくれれば親は嬉しいだろうが、自分も継がなかったし、そういう例はいくらでもある。跡目を継いだ子どももいるし、それはそれで良い事だ。つまり、何が良いかは子どもの選択だと思っている。

    イメージ 6何がやりたいかが子どもにない場合に、実は子どもが親から多くのプレッシャーを受けていた事実もある。子どもの人生を拘束しない欧米社会では、子どもの自由度が日本とではまるで違う。ジョブズやゲイツを生んだアメリカ社会に立ち入ってみる。世界で最もも資本主義経済が発達したアメリカでは、自分が頑張りさえすればいくらでも金持ちになるチャンスがある。

    他国とは比べ物にならないくらいインセンティブ社会となっている。アメリカ人の多くは世界で通用するアイデアとやる気さえあれば、誰でもビル・ゲイツになれると信じている。ゲイツはハーバードの学生であった。レベルは段違いだが日本の東大であるが、そんな一流大学を2年で退学し、会社を起こした。ゲイツは大学を辞めるをこのように言っている。

    「もう、ハーバードで知的な刺激を得られなくなった」と。プライドの高いハーバードの教授陣たちは、「あいつは大バカ者」とカンカンに怒っていたという。そうしてゲイツは世界のゲイツになった。世界一の大学を辞めたことでそうなったのだ。ゲイツはわずか20年でそれをなし得たのだ。ジョブズもゲイツも共通するのは「different(変わり者)」であること。

    日本で「変わり者」は相手を中傷する言葉だが、あちらでは褒め言葉である。ようするに人と同じことをやってるようでは並なんだよ。日本は資本主義体制をとっていはいるが、みんな一同・一列の社会主義国家の要素が強い。世の中を前進させる原動力はなにはさておいても人のやる気だろう。やる気を与え、やったものには褒美を与え、さらにやる気を出させる。

    間違っても褒美を釣り言葉にしないこと。そこを間違えると褒美をくれなきゃ何もしない人間になってしまう。社会主義は、貧富の差をなくしてみんなが平等になる事を目指したが、大きな失敗は人々にインセンティブを与えることができなかったこと。そのために社会の進歩が止まってしまった。貧富の差が拡大するところは、確かに資本主義の問題点であるが。

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    資本主義体制を変える事はできないが、政治の失敗である格差社会をどう是正するかは政治家の課題である。確かに所得格差は教育格差に広がっているが、幼稚園から高校まですべて公立で通せば500万程度で済む。私立中高一貫校から国立大に行った場合、塾代も含めて2500万という試算。2500万円が幸せか、500万が不憫か、そういう量りを自分は持たない。

    自由にのびのび育ったことが親が子どもに与えた財産と思っている。先日の三女の結婚式で彼女はそのようなことを述べていた。彼女の行為をいつも反対する母親がいて(父親は不存在であったとお叱りも受けた。)その母親の指示を全く聞かないで好き勝手に生きたのが三女である。彼女は父親の目が行き届いた上の三人とはまるで別の人生を歩んだろう。

    父親の目が不在だったことで得られた自由などといいながら、父親の不在を恨んでいたという二律背反の言葉が印象的だった。思春期時期に彼女を叱ったものはいない。「だから今叱ってやってるだよ」と叱られ慣れしていない三女にキツイ言葉を浴びせている。時に目に涙を溜めて反抗する彼女を見るに、もっと早い時期に叱っておけばよかったと職場放棄を悔いる。

    ネットには格差社会に苦言を呈する投稿は多い。経済格差、教育格差への不平・不満のごうごう嵐である。文句だけはイッチョ前に言うのだけれど、文句を言うだけで格差が是正できるはずもない。単発投稿ではナシにコンセプトを持ってブログでも立ち上げてみるとか、社会参加の方法はあるだろう。記事のコピーで御託を並べても説得力はなんにもない。

    イメージ 4人生経験豊富な「そこらのおっさん」にあら聞いてみるべき。と前稿に書いたが、何はともあれ"本気度"だろう。何を聞く、何をやるは万人に与えられた共通語であるが、本気で聞く、本気でやる、となるとかなり減少する。おっさんは本気が好きだ。本気で聞いてくれば本気でぶつかるし、本気でないなら何一つ答える気がしない。本気度といえばザッカーバーグの父親の代名詞。秘所って何だ?辞書には3つの意味が記されている。① 「隠し所」=物を隠す場所。陰部。秘部。 ② めったに人に見せたり、人を入れたりしないところ。「うーむ…」これは意味深な文言でござる。「めったに」がついているなら、「たんび」に見せたり入れたりするなら、もはやそこは秘所とはいえない?③ あの世。冥土。これを秘所というのは初めて知った。

    知り合って間もない女に「夏休みにヒショチでヒショを見たい」と言った。「避暑地いいよね」と女。「だから避暑地でヒショを見る」、「避暑地で避暑を見る?」。意味が伝わってない。「避暑地で秘所を見る」と文字で書く。「なに、この秘所って?」、「秘所は秘所だよ。いいっていったろ?」、「避暑地で避暑かと思った。秘所っていやらしいとこ?」、「人気のあるとこ」

    「なにバカなこと言ってんの!いやよ、恥ずかしい」、想定内の返答だったが、後の言葉はいかにもすれてない○女らしい。今でいう天然気質の素直な性格の女。その後で「そんなもん見てどうすんの?」と言った彼女の言葉は自分の中に永遠に残っている。「そんなもん見てどうすんの?」などの言葉は、情報化社会の昨今では小学生でも言わないのではないか?

    こういう会話は男女の隔絶感を埋め、距離感を縮める効果がある。人はサプライズの後、どのように反応するかで、相手の性格が分かることがある。一番よく分ったのは道路で転んだ時、笑った女と、心配顔を見せた女。こういう時に笑う女って稀有。いい加減にいえば30人に一人くらい?女の母性本能的優しさは、こういう時に笑えるものではないと考える自分流。

    人に知識はなくとも会話に人間味があればいい。知識だけが充満する昨今の若者であるが、彼らの自我は10歳にも満たないお粗末なもの。なぜ自我が未成熟なのか?家庭教育に大きな欠陥があったからだろう。自我未成熟の最大の問題点は自分のことしか考えない自己中、もう一つは自分の考えをもたない付和雷同性。主体性の強調、主体性の欠如という自我未成熟。

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    主体性の確立が叫ばれるなか、両極に問題を感じる昨今の若者。自己存在証明は自己主張によって証明できるが、自己否定によっても自己を証明できる。なぜなら自己否定するということは、ある事を前提としているからだ。自分を虚しくすること、自分を忘れること、それが高い自我に生きられるものだ。人がなにかで、「ああ、良かった」と思うことがある。

    自己主張を通したときもそうだが、自身のワガママが抑えられ、自分が成り下がることが出来た時などの方が強く思うのではないか?つまり、人に道を譲った時のような…。すぐにあたまに来る、キレやすいと若者は言う。そのあたまに来るのを抑えたとき、キレる自分を抑えることが出来たとき、「よくぞできた」、「成長したな」などと思うことはある。

    大人の喜びとは自我を抑えたときに感じるものが多い。子どもの喜びが感情の刺激のみという点に比べて大きく異なる。成長とは理性を身につけること。だから、大人になって些細なことでキレたり、感情を露にしたりする人間を「幼い」という。どんなに知識が増えても、背格好は立派になっても、周囲から賢いといわれても、「子供だな~」と評価を落とす。

    「ひみつのアッコちゃん」の主人公の秘密とは、女の子の願いを何でも叶えてくれる鏡と魔法の呪文である。綾瀬はるか主演で2012年、実写版にて映画化されたが、こんなものが『宇宙戦艦ヤマト』同様、こんなものが実写版映画化されるくらいに昨今の日本映画は台本に困窮しているのだろうか。いずれも観てはないが、キムタクと綾瀬を目玉にした駄作だろう。

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    「秘密」といえば子ども時代、茶の間番組の代表『私の秘密』は親と一緒によく見た。名司会高橋圭三の「事実は小説より奇なりと申しまして…」の決まり文句で始まり、渡辺伸一郎、藤原あき、藤浦洸のレギュラー解答者と、週代わりゲスト解答者の4人が、珍しい体験など秘密を持った登場人物の秘密を探り出す番組で、1956年よりNHK総合で11年間続いた。

    個人の「秘密」というより、特殊技能や隠された体験談などを秘密と称し、それを当てるというあの時代特有の企画で、今の時代、そんなもの誰も興味がない。そうしたことから、秘湯、秘伝、秘宝、秘技などを巡ったりの番組に変遷する。ところがそれらも頭打ちになるほどに、昨今は珍しいものがなくなってきた。秘宝と銘打っても「何が秘宝じゃ!」と視聴者。

    「秘」をつければ興味を示す時代は去り、「秘」に騙されなくなった聴視者である。心霊、霊感、オカルト、超能力番組を放映することの問題点が、こういう番組を一掃する羽目となる。創世期にあってテレビは情報メディアであったが、今やネットにお株を奪われ、エンターテイメントで存在感を模索する。しばしば嘘情報で社会を混乱させた功罪もあった。

    ユリ・ゲラー、清田益章、宜保愛子、織田無道、福永法源、Mr.マリックらがオカルトブームを巻き起こす。そもそもスプーンを曲げることの社会的意義はなにもないが、それが単なる奇術と分ってしまったこんにち分ったことは、「ユリさん、清田くん、あんたら役者やのう…」。まあ、奇術師というのは役者的要素がないと面白くも何でもない。

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    そうして遂に奇術界の革命児ともいうべくマスクマジシャンの登場によって、プリンセス天功ら多くの名だたるマジシャンが失業の憂き目にあう。1997年から1998年にかけてフォックス放送で放送された特別番組『破られたマジシャンの掟!』においてヴァル・ヴァレンチノは、謎のマジシャン「マスクマジシャン (Masked Magician) 」として登場する。

    マジシャン仲間は長いマジックの歴史で守られてきた、トリックを明かさないルールを「Magician's Code (マジシャンの掟)」と呼び、共存共栄を果たしていた。ヴァル・ヴァレンチノその掟を破り、マジックのトリックを明かしていった。マスクマジシャンは、同じく1990年代後半にイギリスのITVで暴露番組に出演、その様子は2009年にITV4で繰り返された。

    『破られたマジシャンの掟!』に危機感を持ったアメリカのマジック界は、1998年5月18日に非営利団体「WAM (World Alliance of Magicians)」を結成、マジックの保全にあたった。彼らはフォックス放送に抗議、4回目の放送でヴァレンチノが正体を明かす。ヴァレンチノはアメリカショービジネス界から追放され、ブラジルで活動を始めるが、すぐにブラジルからも追放された。

    日本においては日本テレビ系列の『信ジラレナイ99連発』で『破られたマジシャンの掟!』の1シーンが用いられるなどして認知度を高め、2001年にはヴァレンチノ本人が来日し、日本テレビが制作したマジック暴露番組にマスクマジシャンとして出演している。彼の正体は既に本国アメリカでは明かされていたが、日本では依然謎のマジシャンのままだった。


    「秘密」は隠されてこそ秘密だが、種の分ったマジックほど味気ないものはない。また、マジックは「頭のいい人ほど種が見つからない」と言う。その理由は、マジックのタネは呆れるほど単純だが、一般に頭の良い人は色々と深読みしすぎたり、複雑なことを考えるが、頭が悪い人は物事を単純に考えることで、このような定説が生まれたのだろう。

    「秘密」を暴く、「タネ」を暴くのはいいが、自ら故意にそれらを語る、喋る事もないだろう。墓場までもっていってこそ浮かばれる秘密もあろうし、まして他人の秘密を知りうる第三者が秘密を他方に知らせるのは善意とは言えない。映画『うなぎ』では、隣人の密告により浮気最中の妻を刺殺した夫は、妻への憎悪を晴らせど、本質的には不幸だったのではないか。



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    「『自由精神』という原型を内に宿し、それをいつか完全なまでに成熟させたり甘美なものにならせたりするはずの在る精神は、自らの決定的事件として大いなる解放を経験している。そして以前はそれだけでいっそう縛られた精神であったし、永久に自分の片隅と柱とに縛り付けられているかに見えた、と推量されてもよいであろう。何が最も固く縛るのであるか?いかなる罠がほとんど引き裂き得ないものなのであるか?

    高尚な選り抜きの部類の人間にあっては、それはもろもろの義務であるだろう、若い人に持ち前のあの畏敬、すべて古くから崇拝されたものや品位あるものに対するあのはにかみと感じやすさ、自分たちが成長してきた土地・導いてくれた手・崇めることを学んだ聖殿などに対するあの感謝、――彼らの最高の瞬間こそ彼らをもっとも固く縛ったり、もっとも持続的に義務づけたりするであろう。」

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    これは、フリードリヒ・ニーチェ全集5 『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』(池尾健一訳・筑摩書房)からの一文である。ニーチェにとっては平易な部類の文章だが、なぜ哲学者は難しい言葉を語るのか?カントしかり、ヘーゲルしかり、特にニーチェは難解である。語ろうとする内容が難解という事情はあるが、難解な内容に彼らの言語表現能力が追いついていないといえる。

    他にも理由がある。難解な言葉で語ることが哲学者として認められる最低の条件という事になっている。『存在と時間』のハイデガーも難解極まりない言葉をふりまくが、彼は「素朴」な問いには決して答えなかったという。「素朴」な問いとは、彼らにとって自身の検閲が働く問いである。例えば「人生、いかに生きるべきか」ような問いは哲学者にとっては青くさい。

    青くさい問いを不作法として退けるシステムが哲学アカデミズムに存在するのは事実である。難解な哲学者を考察する学術論文も量産され、横行する現実にあって、難解な文章を読み極める青くさい若者が、彼らに蔓延する素朴な問いに対し、「真理とはかくあるべし」平易な思考で答えてくれる大川隆法や麻原彰晃といった、あやしげな「新宗教」に走ったのは理解に及ぶ。

    早川紀代秀(大阪府立大学大学院緑地計画工学)、上祐史浩(早稲田大学大学院理工学研究科)、村井秀夫(大阪大学大学院理学研究科)、中川智正(京都府立医科大学医学部)医学科卒業土谷 正実(筑波大学大学院化学研究科)、土谷正実(筑波大学大学院化学研究科)、遠藤誠一(京都大学大学院医学研究科)、石川公一(東京大学医学部医学科)、林郁夫(慶應義塾大学医学部)。

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    上の面々は、「オウム真理教事件」の当事者として当時新聞紙面をにぎわせた懐かしい名前であるが、ご覧の通りほとんどが有名大学・大学院卒の理系学部卒である。そんな一流校の理系出身者というのは、秀才で冷静な思考のできるはずとの世間の認識とはまるで逆の、ヒゲヅラでデブで、コキタナイ乞食のような、食わせ物麻原に傾倒していったのだろうか?

    理系というのも一つのキーワードであろう。科学書は読むが哲学書を読むことはなかった彼らである。科学は「現象」である。現象とは(人に)見えるもの、つまり(外面的な)<<現れ>>のこと。出来事を、それが存在するかどうか、本当かどうか、といった、その見える<<現れ>>の背後にあるものは問題にせず、その観察された<<現れ>>として扱うとき、それを「現象」と呼ぶ。

    現象の対義語は「本質」である。多くの理系出身者が麻原という人間の現象に傾倒し、麻原という人間の実態的・本質的側面に蓋をした。麻原ならずとも、宗教的指導者の一般的特質は、人の心を見透かす洞察力に長じているのではないか?彼らの苦悩を読み取り、求める物を読み取り、適切な言葉で丸め込んでしまう人間という意味で、麻原は頭の良い人間であった。

    後に麻原を取調べた担当官も、「こちらの考えていることを読む力に非常に長けている」と言わしめている。さらに麻原の空中浮遊の写真、これはトリック的現象であるが、多くの理系秀才たちが、「これをエネルギー化すれば世界平和が実現できる」と考えた。ヘーゲルは「本質は現出する」といった。「本質」は「現象」となることによってのみ存在するといった。

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    「現象」は、「本質」の現れでた姿であり、事物の表面に現れでた感覚で捉えることのできる外観的な、側面を示すもの。これに対して「本質」とは、事物や出来事の本当の姿のことであり、事物の基礎をなし、その表面からは目に見えない背後に隠れている内面的なものを示す。端的にいうなら、「現象」は事物の外的表面的なもの、「本質」は事物の内面的なものをいう。

    であるなら、「現象」と「本質」の関係は一体のものであって、異なった別個の事物を捉えるものではない。我々人間は現象と本質を切り離して「現象」を認識できるが、「本質」は認識できないというのは正しくない。ヘーゲルは現象と本質との関係について以下述べている。「本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照するとは、自己を直接態へ揚棄することである。

    この直接態は、自己への反省としては存立性であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立である。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって、本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。」

    難しい文章だが、ヘーゲルがいうところの「現象」は、事物の表面に現れた外的な事実であり、「本質」とは「現象」の原因を作りなしている事物や事柄の内的なものだということ。要約すると、現象とは事物の本質的側面における、外的な表現であるとする。「外的な表現」というのは、事物の表面に現出されて我々の感覚器官に、直接反映されるという意味である。

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    感覚器官が知覚することで認識できる外的な表現というのは、あらゆる客観的な事物を現象として、捉えていることになるが、我々は事物の現象を感覚という主観でしか認識できない。このことから「本質」は、感覚器官で直接把握はできないが、「現象」を分析・吟味という思考作業で理解することはできる。となると、やはり「現象」がそのまま「本質」とはならないに帰結する。

    矛盾するようだが論点を整理すると、「現象」は事物の運動過程における名々の側面における本質の表現であるに過ぎない。現象と本質には違いがあり、その間には矛盾がある。「木を見て森を見ず」というのも認識である。小さいことに心を奪われて、全体を見通すことができないことのたとえだが、本人はそんな風に思ってはなく、物事をキチンと認識していると思っている。

    「現象」や「本質」もつまるところは認識である。局部的な「現象」や、その個別的な外的な連関を見るだけでは事物の全体を認識することはできではいないが、それで事物全体や本質を認識しているのなら、客観的な事物の真の姿を反映しない不正確な認識となる。そこで人間の認識というのは、感性的な認識から理性的な認識へと発展、高めていかなくてはならない。

    その目的とするものは、我々が抱えている現実的で色々な現象を検討し、吟味することを通じて事物の本質を、認識することにある。よく「勘があたった」、「女の勘は鋭い」などというが、「犬も歩けば棒に当たる」的なものであろう。そういうこともあるが、感性的なものに普遍性や妥当性はない。「STAP細胞はあります」と言ったところで、それを科学とはいわない。

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    女性は脳内の右脳と左脳をつなぐ「脳梁」という部分が太く、男性の1.5倍も細胞が密集しているため、的確に右脳と左脳の情報交換ができる女性は直感力に優れ、男性の些細な変化に気づきやすい。「人は目で見た」・「耳で聞いた」・「におい」の情報を右脳と左脳でやりとりして判断しているが、女性は脳梁が大きいので、些細な情報まで脳で判断できてしまうという。

    だとしても、恣意的なものとしか言えない。生活の中で役割はあろうが科学ではないから、女性科学者が世紀の発見をし易いという事には寄与しない。事物の本質とは、現象してこそ本質なのであって、現象しない本質などは存在しない。必ず現象するものだが、正しく認識する力量がないと麻原のようなペテン師に騙され、利用されるということだ。学問には答えがある。

    が、社会には答えはない。自分が正しく判断したモノを正解とするしかない。社会の倫理とは基本的に自身で考えるしかないということだ。哲学史に名を残す偉大なる先人といえども、生きた時代が異なる。彼らは彼らの時代に生き方や国家社会の問題を真面目に深く考えた。彼らの固い殻に閉ざされた思索は「倫理」といえるものであるが、我々はそれを栄養分として摂取する。

    そうしてそれらを自身の頭で思索する糧とすべきである。そこに我々が哲学と関わる真の意味があるのではないか。と文字にすれば簡単なようだが、コレがなかなか難しく、簡単ではない。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762年5月19日 - 1814年1月27日)は、ドイツの哲学者で、彼の「人がどんな哲学を選ぶかは、その人間がどんな人間かによる」という言葉が有名である。

    イメージ 7彼はこうも言っている。「理性を欠いた一切のものを自己に従わせ、これを自由に自分の掟(法則)によって支配すること、それが人間の究極目的である」。これは「自我の完全なる自己一致」を指している。「自我」と「自己」は別のもの。自分が考える「自分」が「自我」。自分と他人を通しての「自分」が「自己」。自我を語る時「アイデンティティ(自我同一性)」という言葉を使う。
    アイデンティティは「自分視点の自分定義集」。自己を語る時は「パーソナリティ(人格)」という言葉が使われる。パーソナリティは「他人から見た自分らしさ」をいう。一例をあげると、自分は女だけど「男っぽい」と、周囲(他人)から言われたとする。自分の中(自我)では、「自分は女だ」と思っていても、周囲の目を通す(自己)だと「男っぽい」ことになる。

    どっちが正しい本当の自分なのか?他人の目か、自分の意識か?何を正解とするよりも、「男っぽい」と言われることを自覚しつつ、「私は周囲から男っぽいと言われる女だ」と正確に「自我」をコントロールするのが「自己」である。自分は性的に女であるにも関わらず、「私は男だ」と本気で「自我」で思い込んでいるとしたら、性格が分裂している精神病である。

    パーソナリティとは、あくまで他人との交流からの自分視点を重視するものだが、オカマハどうなんだろう?オカマは自分が女だと思っているのか?男だと思っているのか?それぞれのオカマによって違うのか?見ている分にはいいが、身近にいるならどっちか決めてもらうほうがありがたい。「性同一障害」は間違いなく自らの性に否定的であるが、それとオカマは違う。

    「性同一障害」を別にすれば、性別というのは他人が決められることではない。他人がどう言おうが、どう思われようが、自分は女だと認識しているのであれば、その人は女性である。つまり、他人が人の性別を決められる立場ではない!と言うこと。だから自分にはなぜ男が女の恰好をし、女言葉を使うのか、その理由がよく分らない。男の意識なら男の恰好をするはずだろ?

    さらに、なぜこんにち男性の女装がここまで抵抗なくブレイクしているのか?「いわゆるイロモノとしての女装ネタは、一定の視聴率をとれるということで、テレビ局は女装に優しい」という分析は分るが、サラリーマンや紳士服売り場の男性店員が、女装で出勤することはないから、あくまでも趣味や憩いの場でのコスプレだろうが、趣味女装は女願望であるのは間違いない。

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    「女性になりたい」、「女性として見られたい」と思う人が多いようだが、「女装をして人に見てもらい、アートやエンタメとして感情を喚起してもらう活動であり、女になりたいと思ったことはないしゲイではありません。他の方とは違って僕には明確なキッカケはないし、あるとすれば、母親が中性的な感じに育って欲しいと思っていたことですね」という人もいる。

    まあ、何でも分からなきゃってこともない。世の中は分らないことの方が多い。他にもっと知りたいことは多いよ。女装子(ジョソコ)というらしく、市民権を得ているとの言い方もあるが、「市民権」とは一部にしか行われなかったものが、広く認められて一般化すること。テレビにオカマや女装子が多いのは、視聴率を当て込んだイロモノ出演であって市民権とまで言えない。


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    「なおわざわざつけ加えて言う必要があろうか?つまり、これら未来の哲学者らはまた、自由な、いとも自由な精神の者であるだろうということを、――また疑いもないことながら、彼らが単に自由な精神の者であるに止まらず、むしろそれ以上のもの、より高いもの、より偉大なもの、根本的に別のものであり、誤認されたり混同されたりするのを欲しないということを。

    だが、こういうことによって私は、彼らに対するほとんど同様に、彼らの伝令であり先駆者である我々自身に対しても、この自由な精神である我々自身に対しても、責任を感ずるのである!――つまり、あまりに永いあいだ霧のように〈自由なる精神〉という概念を不透明ならしめていた古い愚劣な先入観と見解をば、共々に我々から吹き払わなければならないという責任をだ。」

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    上は、ニーチェ全集11 『善悪の彼岸 道徳の系譜』(信太正三訳・筑摩書房)より「自由なる精神 44」の冒頭部分。ニーチェの言う自由な精神とは、あらゆる価値の転倒を実現するために相応しい精神を言う。通常の束縛された精神に対比させたもので、束縛された精神とは、この世の中の価値に囚われているような精神を言い、自由な精神とは、あらゆる価値や慣習から自由であるとする。

    『人間的、あまりに人間的 Ⅰ』においてニーチェは、自由な精神の本質とは、それが従来とは別の新しい価値を獲得したということよりも、従来の因習的なものから自分を解き放っていることとした。つまり、一切の既存の価値を転倒し、それから自由になっていることこそが自由な精神の本質的な意味とするが、社会生活における人間の慣習一切を否定するとどうなる?

    集団に属さない非倫理的な人間と非難されるであろう。倫理という既存の価値体系を否定するというのは、狭い意味ではたしかに非「倫理」的である。しかし、そんな非難をまともに受け取る必要はない。その点についてニーチェは、『曙光』の中で次のように述べている。「倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より外の何ものでもない。(中略)

    自由な人間はあらゆる点で自分に依存し、慣習に依存しないことを望むから、非倫理的である。人類のすべての原始的な状態にあっては、「悪い」ということは、「個人的」、「自由な」、「勝手な」、「慣れていない」、「予測がつかない」、「測りがたい」というほどのことを意味している。(中略) 慣習とは何か? 

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    それは、我々にとって利益になるものを命令するからではなく、命令するという理由のために我々が服従する、高度の権威のことである。(中略) それは、個人的なもの以上の何ものかに対する恐怖である。――この恐怖の中には迷信が潜む」。ニーチェは「倫理」といわれるものの本質をえぐり出し、「倫理」側からの非難に対して「反倫理」の立場から居直っている。

    同時に、倫理側が自分を善いと主張することには根拠がないともいっている。彼らが依拠している慣習とは、高度の権威に対する恐怖心に出ているに過ぎないともいっている。これが世間にある「倫理」の実態であり、「倫理」が準拠するところの高度の権威が、その権威を失えば何も恐れることはなくなり、慣習も意味を持たなくなる。「自由な精神」に慣習は無意味である。

    「倫理」の立場から反倫理が悪いと言うなら、「悪い」で結構でござるよ。と、ニーチェは、あらゆる価値を転倒させる作業を通じて、次第にそうした価値を成り立たせている前提に踏み込んでいく。自由な精神とは、束縛を解いた精神であるのはその通りだが、問題は人間がそれを社会生活でやる事で失う信用、もしくは信頼であろう。それらを失ったことで孤立する。

    ニーチェの言葉に連なる坂口安吾の言葉がある。「私は葬式というものがキライで、出席しないことにしている。礼儀というものはそんなところへ出席するところにあると思っていないから、私はなんとも思っていないが、誰々の告別式に誰々が来なかったなどと、日本はうるさいところである」。というのが他人の葬式に対する彼の態度だが、自身の葬式についてこう述べる。

    イメージ 3「死んだ人間などというものは、一番つつましやかに、人目をさけて始末して欲しい。むなしくなった私のむくろを囲んで、事務的な処理をするほかに、余計なことをされるのは、こう考えても羞しい。死んだ顔に一々告別されたり、線香をたて、ローソクを燃やし、香などというものをつまんで合掌瞑目されるなどと、考えても浅ましく、僕は身辺の人に、告別式というものや、通夜というものは金輪際やらぬこと、かたく私の死後を戒めているのである。死後の葬式の盛儀を祈るなどということに、私は関心を持ちたいとは思わない。(中略)告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。もっとも、そういうとこにこだわることも、あるいは、無意味かも知れない。私が人の葬儀に出席しないというのは、こだわるからではなく、全然そんなことが念頭にないからで、吾関せず、それだけのことにすぎない。」
     
    田舎の人は葬式の会葬者の人数に拘ったりする。「○○家の葬儀は凄かった、外にまで多くの人が溢れて受付も大変そうだった」と、コレは一種の羨望観の現われとして聞いていた。人は自分の死後の会葬者の数まで気にするのだなと。安吾のいう「葬式の盛儀」とやらがこれだろう。派手な挙式、派手な葬式で人は他者との差別意識を優越とするのではないか。

    このようなチンケな優越感を持つのがチンケな人間の世界である。他者と自分を比較することでしか自身の優劣を決められないのが人間なら、ニーチェや安吾の言葉は目に入るまい。つまり、周囲を見て暮らす人のことだ。自身の絶対的信念がないものだから、孤立を極度に怖れ、人と同じことさえしていれば、後ろ指を指されることもなく、無難な社会生活を横臥できる。

    斯くの人を非難する道理はない。要は自分がどうするかである。ザ・ローリング・ストーンズのミックが、エド・サリヴァンの言いなりに歌詞を変更した事について、自分は彼をビジネスマンと評した。「ザ・ローリング・ストーンズ」という事業主としての彼の経営手腕と評価した。反逆児といわれながらも、是は是、非は非という姿勢が50年以上もバンドを解散もせずに続けている。

    イメージ 4唯一の脱退者ビル・ワイマンはどうしてストーンズを辞めたのか?彼は地味ではあるが秀逸なベーシストとして誉れ高かった。あのボブ・ディランでさえ、ワイマン脱退をこう嘆いている。「彼なくしては、ただのファンク・バンドだ。ビルが戻ったら、本物のザ・ローリングストーンズになるよ」。ストーンズサウンドを支えて来たビル、「Honky Tonk Women」でのプレイは凄いの一言。
    Jumping Jack Flash」も始めて耳にしたとき、あのムーヴィングなベースラインに鳥肌が立った。ミックの派手な動きをフォローした感があるが、ムーヴィングなベースラインを直立不動、微動だにせず、直角気味のおっ立てたベースを知性的に弾くビルは、ストーンズの活動に飽き飽きし、それが脱退の理由であるといわれている。1993年のことだ。

    「バンドに入った時、ぼくにはもう8か月になる息子がいて、だから、ぼくは自分がかつてバンドをやっていて、テレビにも出て、レコードも2枚出したと息子に知ってもらいたくて始めたことだったんだよ。それでいろんな細々としたものをスクラップブックに集めるようになったんだ」。それがどんどん増えて山ほどの資料になってしまったとビルは振り返る。

    私生活でも知性的で多趣味のビルは、「覆水盆に返らず」を強調する。「昔の同級生、昔の彼女、離婚した昔の女房とヨリを戻そうったってうまくいかないんだから。バンドだって同じだよ」。ストーンズの活動に多芸多趣味のビルが飽きたという面とは別に、彼は突然飛行機に乗るのを嫌がるようになったと言われ、彼だけ陸路でヨーロッパツアーに参加したこともある。

    ビルは脱退当時、「ロッキン・オン」という雑誌で以下のように語っている。「正直、このまま続けていくのはとても疲れた。長期ツアーの連続だったしプライベートでもゴタゴタしていたし(この頃、年下の妻と離婚している)、だから辞めた。もう沢山だと感じた。それに今は自分の店のプロデュース(レストラン「スティッキー・フィンガーズ」のこと)でも忙しいから…」

    いろんな脱退があるものだ。バンドという集合体の中で、個人的なものが主張されるなら、それで組織に迷惑・被害が及ぶなら辞めるべきであろう。辞めるという自由は許されてしかりである。誰も引き止める権限はない。ビルはベースを弾くことが嫌になったわけではなく、1982年にもソロ・アルバム『Bill Wyman』をリリースしていたが、脱退後もアルバムを出す。

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    おそらく性格的に、バンドを辞めたくても辞められないジレンマに陥った人はいるだろう。本当の自由、真の自由とは何か?であるが、それらが我が侭と混同されることがしばしばある。自由とは、「外的な障害が存在しないことである」とホッブスは述べた。仕事が多忙で好きなゴルフにも釣りにも行けない。そんな時人は、「自由を奪われている」と感じるだろう。

    仕事は食う糧を得る手段だから、本当に自分がしたい趣味や道楽を満喫できないのは、「自分は自由を奪われている」と感じるのもやむを得ない。嫌いな勉強を親から強制され、好きなゲームをやれないとき、「自分には自由がない」と感じるだろう。自分の好きなこと、やりたい事を他から妨げられず、自分の思いのままにやれるのが自由であると、誰もが考える。

    「それを真の意味での自由と呼ばない」これが、ある哲学者の考えである。女を自由に口説いてセックスしたい、大好きな酒を、高級ワインを、思う存分飲んでみたい、ダイエットなど億劫であり、好きな物をたらふく食べたい、着たい洋服を着て街を闊歩したい。これらは快楽を求める欲望であり、愛好の対象に向かう行為は、外的対象によって規定された他律に他ならない。

    といえば、先の哲学者がカントであるのが分る。カントの言う「真の自由」とは、理性的な意志が、自ら立てた掟によって自己を規定することを言う。つまり、「意志の自律」である。カントのいう「掟」とは「道徳法則(道徳の掟)」を意味し、要約するとカントのいう「真の意味での自由」を成り立たせるためには、道徳法則によって自己を律することにある。

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    「道徳法則」を分りやすくいうなら、「嘘をついてはならない」もその範疇である。あるサラリーマンが会社を退職して何か事業を始めたのだが、どうも思わしくない。慣れない仕事で思った通りの業績が得れないし、このままでは借金地獄でたちゆかなるのは目に見えている。どうすればいい?苦境に立たされるが、それは自分が選んだ道であると呪ったりはしない。

    受験生が「どうしても合格したいから」と、自身の意思で好きなゲームを止めて頑張った。また、生徒の自由を束縛する校則を生徒会活動を通して見直し、自分たちで新たな校則をつくり、皆がそれに従うことになった。これらはすべて他者に律されたものではない、「意志の自律」である。このように自分が自分に課したものなら規則であっても積極的に従おうとする。

    カントが我々に要求しているのはこういう「意志の自律」である。我々自身の理性が生み出したもの、という観点に立つことである。そうであるなら我々の精神は他律からの束縛を受けないし、それが「真の自由」である。毎朝6時に起床、公園の周囲5kmのジョギングを課してる人は、他者から無理やりに課されたわけではないから、むしろ楽しんでやっている。

    同じ行為でも強制されたものとそうでないものとではまるで自由さが違うはずだ。他者への義務が束縛と感じるのは当たり前である。カントの自由についての考えは正鵠を射るものであろう。フィヒテやヘーゲルなどの多くの哲学者に影響を与えた。が、果たしてカントのいう自由を我々は背負いきれるのか?カントの道徳法則は、真の幸福を捨てろといっていないか?

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    そういう問題に突き当たる。人間は快楽を求めてはいけないのか?そういう疑問にぶち当たる。我々は――いや、少なくとも自分は快楽を求めて人生を楽しく彩りたい。経済的にもゆとりのある暮らしを望みたい。つくづくイスラム教信者のような宗教的戒律を遵守し、幸福を求める人間もいるが、あんなのは沢山だと思う。ほどほどでいいから幸福な人生を送りたい。

    この考えは多くの人の願いであろう。言っては何だが(といいながら言うけれども)、地べたに頭をこすり付けて幸福が得れるものなのか?イスラムの神はそういう信者全員に分け隔てなく幸福を供与するものなのか?と思う我々はそんなことをしないし、しないながらも幸福を得ている者は多い。では、それをする彼らにもたらされる宗教的幸福とは一体何なのか?

    実はそれすら分らない彼らはニーチェのいう、「我々にとって利益になるものを命令するからではなく、命令するという理由のために我々が服従する高度の権威。それは、個人的なもの以上の何ものかに対する恐怖である。――この恐怖の中には迷信が潜む」というものではないのか?宗教的儀式と言うのは、一種の慣習ではないのかとさえ、思ってしまう。

    キリスト教批判で知られるニーチェは『曙光』の中でこのように書いている。「力の感情のための処方がある。第一に、自制することができる人々、それによってすでにある力の感情に精通している人々に対して。第二に、まさにこの感情が欠けている人々に対して。第一の種類の人間はバラモン教が世話をし、第二の種類の人間はキリスト教が世話した。」

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    まさに事物についての自分自身の意見をどうして啓示として感じることができるのか、である。ある意見を啓示として感じることによって、それを自分に確証とし、それによって仮説的なものを排除し、意見に対する批判を懐疑の手から奪い取ったあげく神聖とする。宗教の発生の問題はまさにこうである。麻原彰晃の言葉を啓示とした信者たちは、無差別殺人を敢行した。

    「バカに金と力を持たすな」というが、金と力は最も人間をひれ伏させるものであるからで、ヒゲヅラデブのおバカなおっさんが吐いた普通の言葉を、啓示と受け取った側とてバカである。新興宗教の教祖と祀り上げられている普通のおっさんが、なぜに偉大なる幸福の創始者であり得るのか?信じる人を貶したくはないが、信じない側にとっては素朴な疑問だ。


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    「散々暴言吐かれた。主婦がそんなに偉いのか、たかが子供ひとり育ててるくらいで親ヅラするな。お前は家にいるだけで何もしてない。ひとりで子育てできないなら最初から産むな。今後お前に一切触らないし子供も一生抱かない。まだ産後2週間だけど、1ヶ月検診過ぎたら実家に帰りたい。ほんと見損なったよ。」と、これは夫に暴言を吐かれたと言う妻の書き込みである。

    なぜ夫がここまでいうのかの事情は分らない。が、このような夫の暴言だけを書けば夫は極悪人である。ネットには(なんの事情もわからぬ)同情者が妻にエールを送っている。「おつかれさま。その赤ちゃんにとって、あなたは紛れもないお母さんだよ」などの返信を読めば気が収まるのだろうし、産後2週間の妻に対していかなる事情があれ、ここまでいっていいものか?

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    夫の言葉を聞けば自分でもそのように思う。相手の言い分だけを聞けば、「なんでだ?そんな風にいわれなければならない?それはあんまりだろ?」みたいなことは、それこそ腐るほど経験したし、頭の中で腐って飽和し消滅している。大体において、一方的な言い分だけで判断するのは間違いで、後で片方の言い分を聞くと、どっちもどっちというのがほとんどである。

    感情にかまけて女が誇張したり、ありもしないことをさも事実であるように言ったり、それで一方的な被害者を装おうことが多いからだ。夫から暴言を吐かれた、足蹴りにされた原因が自分にあろうとも、暴力だけをとりあげれば「ヒドイ夫だ!」となるし、妻は第三者にそう思わせたいわけだから、自分のことは話半分にしか言わない。だから、短絡的に反応しない方がいい。

    人に何がしかの被害を訴える人間の多くは「自分は悪くない」と思っている。「自分にも責任がある」という人間は女であってもいたって冷静で、他人にあることないこと言おうなどはしないもの。その手の感情の起伏の激しい女の言い分を自分はまともに聞かないようにしている。当事者が二人自分の目の前にいればともかく、それでもあることないこと言う妻が多い。

    「お前は何でそんなありもしないことをいうんだ!」と怒る夫を見ていると、女は事実を提示して正しい判断を仰ごうとするより、被害者になりたい生き物である。夫がそういう呆れた言い方をするときは、必ず女が嘘もしくは誇張している。第三者というのは、どちらの味方というのではないし、正しい事実関係から正しい判断をしたいと思っている訳だから、嘘は困る。

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    人は誰も嘘をつくし、つくなと言ってもつく。だから逮捕されても嘘をついてイイことになっている。自分に不利な都合の悪いことをいう必要はない。問題なのはそれを聞いて裁く側、判断する側の力量にある。嘘八百の夫婦喧嘩においても、正しく判断する人間などそうそういない。「何びとも自分に不利益な発言をしなくてよい」と、これは民の権利として憲法の条文にある。

    【日本国憲法】 第三章 国民の権利及び義務

    ◎第三十八条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

     ② 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。

     ③ 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

    上は自白は証拠にならないことを規定した条文である。但し、自爆(発言)は証拠になるとする論は存在する。例え犯罪者であったとしても、自分に不利益な供述はしなくてよい。もし自白が証拠になり得るなら、威圧的に強制的に、あるいは拷問などによる自白もあり得る。昔の日本はそうであったのは誰もが知るところだが、この条文によって自白の証拠性は否定されている。

    唯一の証拠が本人にとって不利益な自白だけであるなら、それによって有罪になることもない。検察は、自白以外の証拠を充分に得なければ、起訴出来ないことを意味する。人の供述が真実であるか、虚実であるかを誰も知らない。ゆえにその自白に合理的な信憑性があるかないかを審理するのだが、それでも人間の判断に誤謬がないとは言い切れない。それが裁判である。

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    例えばこういう事があったとする。ネットで出会った女と食事に行った。話の流れの中で男と女はラブホテル街に向かい、あるホテルの門をくぐった。男は女の腰に手を据えていた。やる事をやって別れたが、ある日男の会社に私服刑事が来て任意同行を求められ、知り調べの末に「強姦未遂罪」で逮捕された。男の身元が割れたのはメールのやり取りである。

    相手も合意の"行きずりの恋"が、一転犯罪となり男は納得できないが、警察は女の供述を信じ、「強姦未遂罪」で捜査を始めた。取り調べにおける男の言い分は、言い逃れと脚下された。女の腰に手を当てていたことも、強引に中に押し込めるためと認定された。女は酒を飲みすぎ、意識朦朧状態で気づいたら衣類が剥がれ凌辱を受けており、必死の思いで抵抗したという。

    ここで問題になるのは取り調べ情況である。あのような密室でがんじがらめにされ、四方からアレやコレやと男の性を攻め立てられると、気の弱い男はすぐに白旗をあげるだろう。取調官からは人間の尊厳や人格を否定され、言葉による侮辱をこれでもかと投げかけられると、自尊心が崩壊する。「もうどうでもいいや」と反抗心が損なわれる。いわゆる"投げやり"状態だ。

    押し売りに玄関先に這いつくばられ、威圧も含めた購買を攻め立てられると、全く必要のない物まで買ってしまう心理は、その場を逃れたい一身であるというが、やってもいないことをやったという冤罪の心理はそれと全く似たものであろう。何を言っても誰も信じてくれず言い分け、弁解に取られる。自分の味方がいないという孤立感が犯していない罪を白状する。

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    これを回避するには「弁護士を呼んでくれ」と、味方をつけることだ。女は強姦されたといったが、強姦罪(刑法177条)における「姦淫」が成立するには、性器への挿入が必要とされ、コレすら女はあったという。「性器への挿入」の解釈は明記されていず、1cmでも挿入であるのか、5mmでもそうなのか?入り口をうろうろしている段階では挿入ではないが、そんな事実を誰が知る?

    被害者・加害者から聞き取るしかないわけだから、被害者は入っていた、加害者は入れていない。こういうバカげた事が争点になるのが公判である。1cmだの5mmだのがバカげたといっても「強姦罪」と「強姦未遂」では加害者も死活問題であろう。双方の言い分を裁判官が判断するが、言葉のやり取りのみでどうして正しい判断ができよう。それでもするしかない裁判官。

    「強姦未遂罪」には様々な判例があり、およそ男と女がそういう場面でいかなる状況であるかなどは、マンガ以上に滑稽なのもある。以下は実際にあった事件の判例だ。《被告人は、地面に仰向けに押し倒した被害者の両足の間に体を入れ、両手で同女の両足を持ち上げて膝を立てたようば形にした状態で、同女に「俺が一方的にやったら犯罪になるのでお前が入れろ」と命じた。

    被告人の陰茎を手にした同女が、これをその陰部に容易に挿入することができなかったため、いら立って「早くしろ」などと言って挿入をせかしたところ、とにかく早く射精したいとの思いで(中略)その場で立ち上がって同女に口淫させたことが優に認められる。被告人は、その後、泣き出した被害者に対し、謝罪しつつも警察に通報しないよう懇願している。

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    泣きやんだ同女が立ち去ろうとした際には、再び性欲を募らせたことから、自己が射精するまで帰らせない旨告げて、同女に自己の陰茎を手淫させ、あるいは同女の乳房を舐めるなどの猥褻行為を繰り返し、結局射精し、自己の性的欲望を充足させるに至っている。》本件の弁護側の争点は「強姦未遂」でありながらも、悪質性の低い「中止犯」であると言い募ったこと。

    同じ未遂であっても「自己の意思により」(刑法43条ただし書き)、実行行為を中止した場合は、中止犯として刑が減免されるが、中止犯による刑の減免は必要である。なぜなら幼女を誘拐し、身代金を要求する前に「やはりやめておこう」と人質を解放した場合と、足でまといになるからと人質を殺した場合とでまったく罪が同じであるのはオカシイ。これなら誰も人質を解放しない。

    良心の呵責におそわれて犯罪を中止した方を軽くするのは当然である。ところが、女性を威圧し、強姦しようとした被告が、上記の理由で挿入を止めたから、「強姦未遂」であるという主張が成り立つのか?被害者は16歳の少女である。この事件後に少女は深い痛手を負い、一人で外を歩けなくなってしまっている。なのに、挿入していない、中止したと減免されるべきなのか?

    判決文はこうだ。《被害者の上記申出は、性欲が著しく昂進していたという被告人の心理状態のもとで、十分犯罪遂行の外部的障害となり得るものであったと評価できるし、その後、被告人が被害者に執拗に口淫や手淫をさせ、実際に射精していることに照らしても、上記申出に基づく被告人の中止行為が何ら反省、悔悟、憐憫等の心情に基づくものでないことも明らかである。

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    したがって本件において、被告人が自己の意思によって強姦行為を中止したとはいえないから、被告人に中止未遂は成立しない。》と、最後の言葉がものがたっているように、この事件は少女を威圧的に凌辱したか否かの「強姦罪既遂」の事案などではなく、単に「強姦未遂」か、「中止未遂」は成立するのか、そのことを法曹三者(裁判官・検察官・弁護士)が争っている。

    一人の少女がどれほどの目にあい、その後に回復できない情況であったかなどより、入れたか、入れてないのか、止めたとすればいかなる理由か、そういうくだらない茶番が裁判の実態である。「強姦罪」の法定刑は、「懲役三年以上」だが、本件裁判官は性器を挿入していないとし、《被害者は幸いにして姦淫されるに至っていない》と断じ、懲役二年半と減刑した。

    ちなみに求刑は五年であった。《被害者は幸いにして…》、こういう言葉が日本の裁判官の法解釈である。日本という国はこと強姦に甘い。2013年8月25日、三重県朝日町の空き地で中学3年の女子生徒(当時15)が遺体で見つかった事件で、津地方裁判所は2015年3月24日、強制わいせつ致死と窃盗罪に問われた少年(19)に、懲役5年以上9年以下の不定期刑を言い渡した。

    被害者は死亡、もしくは恐怖で立ち直れないというのに、更正とか反省を理由に刑の減免傾向が強い。そうであるなら、更正できず再犯にいたった時、性犯罪者は宮刑に処すのがいい。強姦は完全な人格否定ゆえ極刑に、との声もあるが、人権を踏みにじるということならなにも強姦に限ったことではない。レイプ天国といわれるインドでは、以下の事件がレイプ厳罰化に繋がった。

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    2012年12月16日、ニューデリーで被害者の女性医者実習生(当時23歳)は婚約者男性と無認可のバスに乗った際、6人の男性からレイプされた。女性は集団に強姦された上、鉄の棒を入れられなどされ、内臓が激しく損傷する暴行も受けた。あげく、二人を全裸にして外に放りだすなど鬼畜の所業。男たちは路線バスを装って女性を乗車させており、悪質極まりない犯行だった。

    女性は27日、損傷を受けた臓器の移植手術を受けるためにインドからシンガポールの病院へ移送されたが29日朝、死亡した。事件の残虐さから学生らを中心に国民の怒りが高まり、反レイプデモがインド各地で発生し、レイプの厳罰化につながった。逮捕後に主犯格は自殺、少年1人を除く4人は13年9月に死刑判決が言い渡された。17歳の少年は、少年裁判所で罪に問われる。
     
    死刑判決を受けた男のインタビューを収録した英BBCテレビのドキュメンタリー番組についてインドの裁判所は3日、放映禁止を命じた。男はインタビューで「(一般に)レイプは被害者の女性に責任がある」、「彼女は黙ってレイプを許しておけばよかった。事が済めば(バスから)降ろしていたし、抵抗せずおとなしくしていれば、殺されずに済んだ」などと、あまりの言い分…

    インタビューは英国の女性映像作家が13年にインド内務省の許可を得て拘置所で行い、その後、BBCに映像を売却したもの。番組は「国際女性の日」の3月8日に英国やインドなどで放映される予定だったが、内容の一部が3日に報じらるとインド国内で批判が噴出、警察が放映差し止めを求めていた。映像作家は「番組の焦点はレイプ犯の心理と性差別だ」と意義を強調していた。

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    「親ヅラするな!」と言う夫ヅラ夫。ネットで捌け口の妻ヅラ妻。つまらぬ判決を出す法の番人ヅラ裁判官。少女や非力女性レイプの人間ヅラした陰茎野郎。商売熱心なジャーナリストヅラ映像作家。「ヅラ」とはアデランスなどの商品隠語かと思いきや、多様な人間にも結構当てはまったりするようだ。まあ、どちらもFakeであるのは間違いないが…



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  • 04/30/15--16:13: 精神は物質か?
  • ひとえに人間とは骨格や肉のかたまりや、消化・吸収・排泄を旨とする臓器という物質でできていると同時に、精神という物質でもある。精神は物質か?ならば見せてみよといわれても、見えない物質はいくらでもある。物質の最小単位は原子と高校で教わる。原子はまた陽子、電子、中性子などの元素で構成され、陽子・中性子はさらに素粒子(クォーク)が集まったもの。

    したがって、宇宙が誕生したときは、まずこのクォークが生まれたと考えられている。よって、物質を作る究極の素粒子・クォークの謎を探ることが、宇宙誕生の謎を探ることでもある。ビックバン後の宇宙は膨張し、温度が下がり、エネルギーからいろいろな粒子が生まれた。初期の宇宙は、クォークなどがまるでスープのような状態で自由に飛び回っていました。

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    ビックバンから1万分の1秒後、クォークは陽子や中性子という粒子の中に閉じこめられた。その後、陽子などが集まって原子核を作り、原子が生まれて星や地球が作られた。陽子はアップクォーク2個、ダウンクォーク1個が結合して作られている。ばらばらのクォークは軽いが、結合して陽子などになると重さ(質量)が約100倍くらいになる。なぜそうなるのかは解明されてない。

    人類は宇宙の多くの謎を知らないが、身近な脳研究は目覚しい進歩を遂げ、多くのことが分かってきた。精神とは何か?端的に言えば思考である。「人間は考える葦」、「我思う故に我あり」など、考える故に人間である。思考を脳細胞内の神経伝達物質と定義すれば、思考(精神)は物質となる。が、心は物質などではないという考えもある。

    ただの電気とすれば物質であり、死しても消えない魂といえば非物質。かつて唯心論と唯物論の対立があった。宗教的観念論が幅を利かせていた時代にあって、唯心論者は唯物論をこう非難した。「導き出された第二のものを第一のものとし、主観からではなく客観から出発し、本来唯一の確実なものである"私"からでなく、"対象"から出発するという誤りを冒している」。

    「出来あいの客観的真理としての感性的世界から出発した唯心論など、この世界に存立する必要はないというのは、唯物論者の転倒した直観に過ぎない」。「観念論」と称された当時の哲学的唯心論は「唯物論」をこう非難した。「唯心論」と「唯物論」は、意志の自由と必然の対立であり、観念論の唯物論に対する批判にフォイエルバッハはこう説明する。

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    「人々が主観(私)から出発しなければならない点において私は観念論に一致する。なぜなら、私に対して存在し、私に対してそのようにある世界の本質は、もっぱら私自身の本質に、私自身の理解や性状一般に依存するからである。したがって、私にとってそのような対象世界は、その独立性を損なう事なしに、単に私の対象化された自己に過ぎない。

    しかし、観念論者がそこから出発する自我、つまり感性的事物の存在を廃棄する自我は、いかなる存在も持たず単に思考された自我で、現実的な私ではない。現実的な私であるのはただ汝が対立する私だけであり、ただそれ自身他の私に対して汝であり客観的であるような私だけである。だか観念論的な自我にとっては、一般にいかなる客観も存在しないと同様に、またいかなる汝も存在しない。」

    難しい言葉を要約すれば、唯物論者が感覚的世界を人間から切り離して絶対化するのは人間を抽象化であり、観念論こそ人間の出発点とするのも同じ抽象世界である。どちらも人間を人間という具体的な存在として捉えていない。したがって、人間を具体的に、思考と感覚の両輪から統一的に捉えれば、唯物論と観念論の対立も解消するとフォイエルバッハは言う。

    「唯心論」も「唯物論」も、いずれも真理ではなく、真理とは人間を抽象的にではなく具体的に掘り下げた人間学であろう。女は感性的、男は理性的というが、どちらも人間である。どちらにも良い点、良くない点があるなら、双方の良い点をうまく機能させるのがよい男女関係、ひいては人間関係であり、対立を融和させるのが賢い人間の知恵である。

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    闘うだけでは愚かでしかなく、知恵があるなら出せばいいが、知恵がないならバカである。最大の問題は、知恵者とバカの争いであって、知恵者がバカに押される関係がなにより不幸な結果となる。よって、人間はバカを選ぶと不遇となる。何をもって賢いとするか、人間には想像力、記憶力、語彙力などの能力があるが、最も大事なのは読解力(理解力)であろう。

    これがない人間といるとこちらの頭も悪くなる。理解力の無さは伝染する(自分の経験)ようだ。よく、「バカと話しているとこっちまでバカになる…」は、この事をいう。バカは本当に死ななければ直らないのか?いや、自分がバカであることに気づき、嫌悪するならさほど努力を要さずとも直る。自殺する人間を「バカとしか言いようがない」と人は言う。

    人間はつきつめて考えると自殺以外に手はないのかも知れない。罪深い存在であり、意地汚らしい存在である。人間社会でいう、人間として守るべき道徳など、人間が守れるはずがない。それなら、そんなもの無くせばいいのだが、それがなければ社会秩序が成り立たないのだ。したがって互いに秩序を乱さない程度に守ればいい道徳の中で生きている。

    人間である以上それを守れと教えられる。が、そんなものは教えられたものに過ぎないと大人になって分かってももう遅い。それらは良心として自身に内面化され、それに添って生きるのは外からの要求ではなく、内からの要請となっている。だから、突きつめて考えると自殺するしか手がない。長く生きてればいろいろな自殺に遭遇した。

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    文士や画家の自殺、政治家、アスリート、学者、芸能人、子ども、親、教師、医師、弁護士などなど。自殺者の主観的理由は分らない。よって我々は客観的に理解するしか方法がない。自殺未遂者の言葉は自殺を代弁するものだろう。ただし、それが狂言で無い限りにおいてである。が、狂言であるなしも判別不能であろう。本人は死ぬ気だったという。

    自殺は意志でなされるが故に、人間の意志というのはこれほどに自由なものである。人間を含めたすべての動物には生存本能があるというが、自殺はそういった一切の自然法則から独立し、それゆえの一切の感性的動機から独立した意志であると哲学者は言う。人間の超自然的な意志の自由性は、「自殺ができる」という事実によって証明される。

    自殺は本能さえも凌駕する一切の束縛から解放された状態なのだろう。迷いはあったとしても行為した瞬間は、「生の執着」さえも束縛となっているのだ。自殺者はバカではなく、バカは死なないし、賢い人が自殺をする。笹井芳樹はなぜ死んだ?バカの不始末の責任を取ったのも一因と見る。バカを見抜けなかったのは万死に価する不徳と思ったのか?

    「死を決意するということは、自然に対する概念の優位をもっとも純粋に表現している」(フィヒテ)。「(純粋な無規定性という)意志の原理のうちには、私が私をあらゆるものから解放し、あらゆる目的を放棄し、あらゆるものを捨象できる、ということが横たわっている。ただ、人間だけがあらゆるものを、自分の命すらも放棄することができる。人間は自殺ができるのだ」(ヘーゲル)。

    イメージ 6自殺については概ねそういう思考がなされる。自殺は人間の自己保存欲の一つ自愛心と矛盾するように見えるが、見方を変えると自殺も自愛行動である。なぜなら、自殺者は幸福欲や快楽などのあらゆる満足を断念するが、そのことで自身の幸福欲求がもはやなにものによっても傷つけられないことを願っているといえる。自分は今後もはやこれ以上の不幸や不運や苦しみに悩まされたくないのだという思いは自己の幸福を願う自愛心に他ならない。人は誰にも未来は分らない。分らないから希望であり、また分らないから苦悩である。どちらを選んだかであって、いずれも自愛心であろう。ヘーゲルのいう、「自殺はあらゆるものを捨象できる」自由の証明ではなく、むしろその反対ではないだろうか?

    自殺はあらゆるものを捨象できる自由の証明ではなく、自らの捨象を放棄する者は、己の捨象能力が制限されているのを告白していることだ。自殺は自己否定という場合もあるが、自己肯定の末の自殺もある。自殺者にとってはどちらも自殺の動機になり得るだけに、個別の自殺の動機は不可解である。芥川の自殺は自己否定か肯定か、太宰は、高野悦子は、笹井芳樹は?

    人間を構成するものは精神と物質であり、であるがゆえに「精神主義」、「物質主義」という二極化が起こった。一般的に「心は物質的でない」とするのは変ではないし、疑問の余地すらない。人間の体のどこを切っても、「心が見つかった」ということはない。心とは脳であるというのは間違いではないが、脳のどこを調べても心は発見されない。それで心は物質ではない。

    『オズの魔法使い』に出てくるライオンは「勇気」を欲しがった。カラスにバカにされていたカカシは賢くなりたいと「脳みそ」を欲しがった。ブリキの木こりは心臓(ハート=心)を求めた。ブリキの木こりは今でいうロボットであり、人間の形をしているが人間と同じような喜怒哀楽の心がない。それで人間らしくなるために心を欲しがった。つまり、心は人の証である。

    『オズの魔法使い』は非常にファンタスティックな映画で、教育的要素も含んでいる。常々思うことだが、「何も教えずに教える」という、教育の根源を網羅した教育映画であろう。「教えない教え」というのは教育の理想と思っている。「言葉にしない言葉」も人間関係で重要だが、心でのお礼はダメな人もいれば、言葉だけではダメな人もいる。何か持って来いみたいな…

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    Sound of Silence」の歌詞の内容についてはさまざまに言われているが、 英語圏に人間でも難解のようだ。日本人に分らなくても当然か。「沈黙は神の友達」するクリスチャンもいる。ポール・サイモンの詞には、1962年に発表されたレイチェル・カーソン『沈黙の春 Silent Spring』の影響はあったのか?自分たちが子どもの頃、農薬にはDDTが一般的に使用されていた。

    稲にも大量に使用されていたが、国や自治体もDDTの残留性や生態系への影響を公にし、農薬が撒かれた直後には学校から「川で泳がないように」と達しがあった。環境問題意識の低い当時にあって、『沈黙の春』は、DDTの世界的な禁止運動に発展したが、その反動で蚊が媒介するマラリアが増え、レイチェルの真の意図は曲解され、彼女は悪者扱いされてしまった。

    ポール・サイモンの「Sound of Silence」は1963年に書かれており、レイチェル同様に文明批判と指摘するもの、コミュニケーション不足を嘆いていると指摘するもの、この曲の歌詞の真の意味を人類が理解するのは百年後か二百年後というもの、いろいろである。ディランも『風に吹かれて』でアレコレ指摘しておきながら、最後に「答えは風に吹かれている」と茶を濁す。

    何ごとも易々と答えを出さないことが普遍的なのであろう。人の数ほど考えがある、意見がある。であるからこそ、あえて答えを出さないのもクレバーさである。吉田拓郎が、『イメージの詩』で、「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか?信じれるものがあったとしても、信じない素振り…」と書いたのも、当時の説教臭さと哲学的な修辞(レトリック)である。

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    レイチェルは、「知ることは感じることの半分も重要ではない」と言った。好きな言葉である。まさにこんにちの詰め込み教育の弊害を言い当てているようだ。教えられること、記憶することばかりが重視され、自身の頭で考えることが苦手な子が多い。何ごとも自身の頭で考えることが正解なのに、それでは不安であり、間違っては恥ずかしいというのが前に出る。

    もし、ニーチェが自身の頭で思考をしなかったら、「自由意志があることを信じることは誤りだ」というのを発見できなかったであろう。自由意志的な行為というのはハッキリとした「意図」や「目的」や「動機」に基づいてなされる行為だが、ニーチェ曰く、そういう形で我々の意識にのぼる表象(イメージ)は、「すべての力のなかで、もっとも劣ったもの」であるという。

    「意識のうちに現れでるものは、すべて、ある一つの連鎖の最後の環であり、一つの結末である。ある思念が他の思念の原因であるように見えても、それは見かけだけのことに過ぎない。実際の生起の結びつきは、我々の意識の下部で進行している。現れ出る感情や思念などの系列と継起は、実際の生起の徴(しるし)なのだ。」(1885―6年の遺稿)

    一般に意志するとは、何かを意志することであり、その何か(意志の対象、実質)とは自己の幸福であろう。意志は常に幸福を意志するし、意志の実質か引き離された意志といったものは無意味なものに過ぎず、ショーペンハウアー的意志=「無を意志する意志」は、実際は存在しない。繰り返すなら、「いかなる幸福欲も存在しないところに、いかなる意志も存在しない」

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    意志が常に幸福と結びついているとの見方は、倫理学上の「幸福主義」の立場である。倫理学でしばしば問題にされる、幸・不幸と善悪の関係においても、善は自分にだけ善であるなどあり得ず、他人に対する義務を履行し、他人にとって善である限りにおいて、善と言えるのだ。単に自我から導き出された道徳は、幸・不幸と善悪との間には本質的な区別があるはずだ。

    よく「これは自分にとっては良いこと(善)だけど、他人には迷惑かも知れない」などというが、そんなものを善とは言わない。「自分に善くて人に善いもの」は善であろう。善人とはまずは他人に尽くす人のことであろう。善意とは他人を思いやるという意味だ。自分自身に対する善意な行為とはどういう行為なのか聞いて見たい。奉仕作業に行く自分は善人?



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  • 05/01/15--17:06: 考える人
  • ロダンの有名な「考える人」を真似るわけではないが、考えるときには大体あのようなポーズになる。が、このポーズで考える時は決まってトイレで「大」をするときである。「大は小を兼ねる」のでどちらも致すが、ロダンの「考える人」の右手はなんと左足の上に乗っかっている。実際にやってみると分るが、このポーズはキツイ。こんなんでは出るものも出ないだろう。

    どうしてまたロダンはあのようなポーズにさせたのかといえば、無理に体をよじることによって、筋肉を浮かび上がらせる意図だったらしい。あんな無理な姿勢で考えたら5分も持たないだろう。ブロンズ像ゆえに何時間でも何日、いや何百年もあのポーズでじっとしていられるが、ロダンは考えるというよりも、筋骨隆々の男らしさを狙ったようで、メタボモデルなどあり得ん。

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    これが彫刻家の哲学である。哲学者は「真理の追求」だろうし、芸術家の哲学は「美の追求」である。哲学とは何か?発祥はいつなのか?目的は?これらのことは誰もが思うことだが、哲学とは何か?と言っても、哲学者の答えはそれぞれ違う。つまり、それぞれの哲学者が違う目的を持って哲学をやっている。それぞれ違っていいし、違うことこそ哲学である。

    その前に広辞苑的哲学の意味は以下のように記されている。「古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学、実存主義など世界・人生の根本原理を追及する学問となる。認識論・倫理学・存在論などを部門として含む」。などと難しく書いてあるようだが…

    難しい哲学は専門家に任すとして、日常の身近な事を考える方が素人には面白い。カント先生は面白いことを言ってる。「古代ギリシャの哲学は、三通りの学に分かれていた。すなわち――物理学、倫理学および論理学である。この区分は、哲学というものの本性にかんがみてしごく適切であり、これに区分の原理を付け加えさえすれば、かくべつ訂正すべき点はないと言ってよい。」

    哲学は、物理学、倫理学、論理学の三つでこれを訂正するにあらずだそうな。物理とは物(自然界)の道理、倫理とは人の守るべき筋道、論理とは思考や論証の組み立てである。これは現代人的思考であり、さらに遡ると物理学は、古代ギリシャの自然学に源を発し、元々は自然についての一般的な知識の追求を意味しており、天体現象から生物現象までを含む幅広い概念だった。

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    それが現在の物理現象のみを追求する"physics"として自然哲学から独立した意味を持つようになったのは19世紀からである。倫理学も、行動の規範となる物事の道徳的な評価を理解しようとする哲学の研究領域の一つである。かつては法哲学・政治哲学など、規範や価値をその研究の対象であったが、国家的な行為についての規範(法や正義)を論ずることとなる。

    二つの学問分野が全く違う分野として扱われるようになったのは比較的最近である。論理学とて伝統的には哲学の一分野である。数学的演算の導入により、数理論理学という分野ができた。現在では、数理論理学は数学と論理学のどちらであるともないともされる。現在の論理学は、数理論理学と、数理論理学をふまえた論理学、数理論理学でない論理学に分化している。

    17世紀後半から18世紀の啓蒙思想時代に活躍し、ドイツ観念論哲学の祖でもあるイマヌエル・カントの哲学体系はその時代を現している。20世紀になると様々な学問の分化から、現代思想という体系になびく。「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という命題で有名な哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、哲学について次のように説明している。

     ・哲学の目的は思考の論理的明晰化である。

     ・哲学は学説ではなく、活動である。

     ・哲学の仕事の本質は解明することにある。

     ・哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。

     ・思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。

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    また、ウィトゲンシュタインと同年の1889年生まれのマルティン・ハイデッガーは、「古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することをめざしている。その存在理解のカテゴリー的解釈は、普遍的存在論としての学的哲学の理念を実現するものにほかならない。」と述べている。難しい語句だが、「存在」解釈の歴史をたどると面白い。

    アリストテレスは、師プラトンの形相によって示されるイデア(本質存在)が、質量(ヒュレー)によって支えられる事実存在より優位とした。質量(ヒュレー)とは、「木造の家」を立てるときの木材のこと。材木を用いて家をつくるその家のかたちがイデアであり、イデアは家を建築する場=実在の家に内在化する。プラトンの本質存在優位を建前とする形而上学である。

    それに最初の反逆を加えたのが弟子のアリストテレスだった。彼の哲学は、木材に働きかけ加工し、形を与えることで「木造の家」が現実化するというもの。「本質存在」の「事実存在」に対する優位を逆転し、それによって形而上学を克服しようと試みた。それと同じ試みはアリストテレスの2000年後にシェリングが、そしてその100年後にはサルトルが試みることとなる。

    イメージ 6シェリングは僚友であったヘーゲルによって完成された近代哲学の総体を、事物の「本質存在」だけしか問題にし得ない"消極哲学"だと批判し、事物の非合理な「事実存在」を問う"積極哲学"を提唱、これを「実存哲学」と呼んだ。ウィトゲンシュタインが、哲学とは本質を解明するというように、出来上がった家こそ本質、いや、木材を加工してこそ家であると、実に面白い。
    「大工あってこその家ではないか!」は、「存在」とならない。サルトルは第二次大戦終結後、『実存主義は一つのヒューマニズムである』と題する講演で、「事実存在が本質存在に優先する」と主張、形而上学の克服を図る「実存主義」の根本テーゼとした。作られた椅子の事実存在より、職人の頭の中にある作る前の本質存在が優先する。

    この応用でいうなら、生まれた子どもよりも生まれる前、作る前、作る行為、即ちセックスは本質ということになる。生まれた子どもは事実存在でしかない。あえて刺激的な言い方をするなら、人間が生きていく上において、ヘーゲルやニーチェやサルトルの哲学書を読むよりセックスする方が大事であろう。読書なしでも生きていけるが、セックスなしではダメだ。

    そう考えると哲学的な本や純文学やディケンズやフォークナーが良書で、性的な本が悪書というのはオカシイし、そもそも悪書などは存在しない。その人のモチベーションに寄与すればいかなる本も存在価値はある。親が子どもに『少年少女世界文学全集』を読まそうというのは分らぬでもないが、子どもは親に隠れてエッチ本を読むことが健全の証しである。

    『文学全集』の類は知識になるのかも知れないが、エッチ本は血肉になろう。血肉というのは紛れもない生きていくための必須なものである。いつだかこのブログに書いたが、「暇ですることない」という奴がいるし、よくそういう言葉を聞く。不思議だった。「暇ですることない」など、この年になるまで一度たりとも思ったことがない。だから口に出したこともない。

    暇ですることないって、暇だと何かしなくちゃいけないのか?どこかに行かなきゃいけないのか?海外旅行やアウトドアライフなどとしきりに持てはやされた時代もあったが、あんなものは一種の洗脳である。自分は何もしない事が楽しい。自分を強いらない事が楽しい。それこそ余暇の本質だろう。なんだか分らないけど、いろいろな強迫観念にとらわれている人多し。

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    「余暇は遊ばなきゃいかん」も強迫観念だ。何もしないのは紛れもない非生産的な状態だが、非生産的こそ余暇である。生産ばっかりしていたい人には退屈だろうが、体ばかり動かさなくても頭を動かすのも立派な運動だ。普段しないことをするのが余暇なら、暇なときに哲学書を読むのもいい。エッチ本も哲学本も嗜好だが、趣味は思考なら、哲学書を読みたくもなる。

    「自由」の定義にしろ、「自殺」にしろ、「幸福」にしろ、「存在」にしろ…、思想家によって様々である。それら「哲学」という言葉を使うが、「哲学」という言葉に何ら振り回されることもない。「哲学」とは普段なにげに使う言葉だ。あの人の考えにはきっちりした哲学があるとか、経営者の経営哲学、プロスポーツ選手としての哲学とか、チームを率いる監督の哲学とか…。

    いろいろな考えに触れることで人間は、「○○が分った!」見たいな言い方をするが、「分かる」ということは、対象者と考え方が同じになること、気持ちが同じになること、などといわれたりする。自身もそう思ったりする。しかし、「分る」というのは必ずしもそうではない。相手といろいろと話し合っているうちに、相手と同じ考えや気持ちに自分がなることがある。

    また、相手方の気持ちになったりもある。そういう事を「分る」といっているようだが、「分る」はそうばかりではない。人間が誰かのことを深く理解するということは、その人と交わりを増していろいろと話し合う中で、相手と自分は本当に違うということを思い知らされること、それも「分る」ということであろう。つまり、「分る」とは、「違う」という事を理解することでもある。

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    決して同じでなければならないことはないのに、自分と意見が違う人間を排除したり、異端視したり、腹を立てたり、そういう事が往々にしてある。そうではなくて、「こんな風に自分と相手は違うのか!」も「分る」なのだ。生きてきた時代背景や環境が違えば、同じものを見てもこんな風に受けとめ方、感じ方が違うのだということが分かることこそ大事であろう。

    気持ちが一緒になるとか、考えが一緒になるというような理解は、幅の狭いものでしかない。多数決で全員一致というのが、作為的な臭いが漂うかのような不信感や不自然さを抱かせるように、あるいは単純な全員一致は中身が薄いものであるように、だからそのようになったのだろう。人と自分は違うのだ。が、それが知識の差である場合には、説得を試みるがよかろう。

    信念の違いはそればかりではない。大事なことは、ああだ、こうだ、ああでもない、こうでもない、と時間をかけて話しているうちに、(自分にとって)当たり前のことでも、他の人にとっては当たり前でないとか、自分にとってはたいしたことではなくとも、他の人にとっては大変であるとか、そういったいろいろなことが分ってくるということ。それも「分る」である。

    確かに人間にとって「教養を高める」、「知識を増やす」ことは大事であっても、もっと大事なことは「成熟すること」であろう。すべての果実はやがては熟していくが、ところどころ熟さないままの実もある。栄養成分が回らないから、あるいは病気だから、であるなら人間も同じだろうな。すべてのものが成熟の要素になり得るし、病気にならないよう管理も大事だろ。

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    人生は長いよ。あの時は分からなかったけれど、今なら分かるということが結構ある。問題が起こってから、あるいは、課題を与えられて、その時は分からなくても、時間を置けば分かる事が多い。その場で、すぐに分からないからといって、すぐに問題が解決ができないからといって、いじめられてその対応がまだできない、成熟していない時に悲劇も起こったりする。

    解決よりも苦しさからの逃避だろう。自殺は自己愛の場合が多いといったが、自分に過保護に生きてきた人間は、辛抱や我慢が育たないのだろうな。もちろん、それは本人だけではない、親も過保護にしてきたはずだ。つまり、親に子育ての哲学がないということだ。果たして人生経験を積んだ親なのか?同じように過保護にされて育ってきたのか?哲学とは人生経験のことである。

    「あの人には哲学がある」という人は、おそらく人生経験が豊富な人だろう。「哲学とは人生経験」と噛みしめて、各々の人間哲学を作ることだ。ニーチェやヘーゲルやカントをぱらぱらとめくるのも人生経験であろう。生きているときにやる事一切が、人生経験であろう。それが多いか、少ないかで人の何かが決まってくる。少ないなら、少ないなりに決まってくる。

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    近年はどこもかしこも様式便器である。便座に腰掛けてみれば、誰でも「考える人」になっている。それが単にポーズであるか、実際に考える人であるかは周囲に分らない。当たり前だ、「個室」である。ペーパーで拭く必要が無いくらいに長便所を咎められたものだが、足の腿の上が黒ずんでることに気づいた。そこに腕を置いて、それが自分の「考える人」のポーズである。

    で、一体に何を考えているのか?ということになるが、何を考えたのかは、トイレを出たと同時に忘れている。便秘の人も「考える人」のポーズを取るとよいそうだ。




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  • 05/06/15--17:20: 「教育」の薀蓄 ①
  • ある現役の学習塾講師はこのように述べていた。「○○氏は塾を『教育機関』ととらえているらしいが、私は、"専門的な習い事の場"だと考えている。たとえば、学校で泳ぎ方や絵の描き方を指導され、もっとうまくなりたいからと、『スイミングスクール』や『絵画教室』に通うように、学校で習った算数や国語をさらに究めるために、『進学塾』に通うのである。

    すなわち、学校は生徒という『人間の成長』を軸に教科指導するのに対し、塾は『専門技術』に特化して教えるため、人間教育などしない。だから、両者を同じ『教育』という名で呼ぶことに抵抗がある。ちなみに、私が塾で教えていて気になるのは、生徒たちの大半が学校や学校の教師を悪くいうことだ。中には、学校なんて行っても仕方ないと語る子さえいる。

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    しかし、その子たちを塾が代わりに『教育』できるかと言ったら無理だろう。塾はあくまでも『専門技術』を指導する機関なのであり、塾講師とは、『教育者』より『職人』に近い」。と、当たり前のことを記しており、これを読んで、「納得できない!」と憤慨する保護者はまずいない。子どもを塾に行かせる目的は、子どもの学力向上を願っており、それ以外にない。

    この講師は塾を教育の場と捉えていず、自らを教育者と呼ばれることを否定している。つまり、成績向上のみを目指す機関は、「教育現場」ではないといっている。「教育」とは多岐にわたる概念であるが、この塾講師は英語の、「education」が「教育」と日本語に訳されていることの間違いを知っている。「education」は学校教育、塾は「training (訓練)」の場である。

    明確に区別されている、「education」と「training」だが、大手進学塾やほとんどの学習塾は「教育」という言葉を使い、「訓練」としないのは、「教育」という言葉の持つ響きが情緒的だからでもある。多くの日本人は、「Education」と「教育」が同義語と考えているが、「Education」の本来の意味は、能力を開発すること、その能力とは職業に関することである。

    Cambridge Advanced Learner's Dictionary
    educate:誰かを教えること。特に学校、大学など正式の制度を用いて教えること

    train:技能の習得、及び/又は、精神の又は肉体の練習によって、仕事、活動、スポーツに備えること、また、準備できていること

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    Oxford Advanced Learner's Dictionary
    education:知識と技能の向上のために、特に学校や大学で、教える、訓練する (train)、学ぶ過程

    training:仕事をするのに必要な技能を学ぶ過程

    Merriam-Webster Online Dictionary
    educate:学校教育を受けさせること。精神、意欲、美意識を向上させること(特に指導によって)

    train:指導、鍛練、教練によって身に付けること。教えて、何かに適う、適格となる、堪能とならせること

    education」とは、ラテン語の、「引き出す」に由来し、「引き出す」にあたる意味をもつことがないわけではないが、しかしその場合の、「引き出す」は、「産婆が(新生児を)引き出す」のように、純然たる空間移動に過ぎない。フィリップ・アリエスは中世社会研究を主とする歴史家だが、彼によると中世には現代の教育という行為を示す2つの違った観念が認められる。

    第一に、見習奉公という目的での教育行為
    第二に、学習、教授といった、知恵の伝達行為としての教育

    これら、社会の「よき習俗」を伝えていくという教育行為、そして、「学校での知恵」の伝授といった教育行為の2つの教育観念が存在した。アリエスによると、「education」という言葉は1527年に現れ、人文主義的教育や一般教養と共に広まったと記している。その時には、「education」 は、「instruction (知恵の伝授)」と対立する言葉として使用されている。

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    しかし、1680年に出版されたフランス語辞典には、教育が「人々が子どもを育て教える instruire方法である」と説明されているように、「education」 と 「instruction」 の区別は消えた。そして、18世紀に入ると社会の習慣を伝達する行為としての教育は、学校の発達に伴い消えて行く。言葉には基になる語源があり、類似するものから適切なものが生まれていく。

    『国富論』のアダム・スミスの、instruction」は、職業、実務、運動スキルの訓練、その社会に求められる生活信条や習慣づけ、身や心の処し方の方向づけに用いられている。これらの人間形成作用は、「education」と異なり、「discipline」(訓育、規律)、または 「exercise (訓練) 」とは区別されて使用されていた。スミスにおける、「education」 概念は、「訓育」と対をなす「知育」を意味した。

    ロックやルソーなど古典近代期の、「education」概念は、知育、徳育、体育、美育といった様々な領域を含み込んで構成されていたが、スミスの、「education」 概念は、訓練や規律とは異なるものとして考えられていたようだ。人間の学習訓練は、「教育的な教え (educative teaching)」などと言い換えられるが、動物の訓練 (training) と明確に峻別できるとも思わない。

    単純に嫌なものを避けるうちに、心的な性向 (mental disposition) が育まれることもあるが、いつもそうという訳でない。よって、「education」と「training」は区別されるべきかも知れない。大脳前頭葉が肥大した人間は、動物と違って感性が多様だ。明治初期、「love」をどう訳すかの末、「御大切」に落ち着いた。「education」の訳を巡り、大久保利通と福澤諭吉と森有禮が論争した。

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    大久保は「教化」を主張、福澤は「発育」が適訳といい、森は間をとって「教育」とした。「教育」という言葉の発祥や、「education」としての訳について述べたが、大事な問題は中身である。「教育」とは何か、時代の変遷でさまざま変容している。現代の教育加熱社会と50年前とではまるで違う。飢えや貧困から少年保護のために作られた少年法が、今や犯罪の温床の時代。

    「少年法によって守られているから刑務所に行かなくてもいい」と豪語し、悪辣な犯罪者である15歳の少年に、少年法の適用など無用であろう。教育加熱は少年の屈折した心を育んだのではないだろうか?一般的日常語としての「教育」という語について、その概念を明確にしようとすることを、「教育哲学からのアプローチ」と考えてなされた結果は以下のとおりである。

    教育思想一般としては開発主義、自由主義、民主主義等々各様の主張がありはしたが、戦前、戦後、巨額の国費を投入してなされたいわゆる公教育の主たる側面は「牧民的教育」観に立つものであった。 ※「牧民」(『管子』に見られる語で、為政者が「民」をさなから牛馬等を扱うように「牧」、管理統制すること)。朱子学が目指すところの教育は「聖人」である。

    日本の朱子学には「聖人」になるという思想はなく、求めるものは「人倫」であった。豊臣秀吉・徳川家康らに儒学を講じた儒学者藤原惺窩は、家康に仕官を要請されたが辞退し、門弟の林羅山を推挙した。彼には、「人倫は皆真なり」(人間関係にこそ真理がある)の言葉がある。1960年代の中頃、『青春とはなんだ』という映画はテレビドラマにもなり、人気を博した。

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    その答えは何だったのか?次作に、『これが青春だ!』も放映されたが、何が青春かよく分らないが、誰にでも青春期はあるだろうから、その時代を青春時代と言えばいい。♪喫茶店に彼女と二人で入ってコーヒーを注文すること、それが青春~、という歌詞もあったし、青春とはその程度のモノだ。60歳を超えて、「ワシは今が青春よ!」というじっちゃまもいる。

    青春とは現象ではなく精神である。VANヂャケットの創始者石津謙介も、「若さとは年齢じゃない、精神である」といった。青春期は教育される時代、老齢期は自己教育の時代という違いはあろう。青春期に勉強するといかなるご利益があるのか?勉強しなかった者、勉強した者にはそれぞれの結果があるのだけは間違いない。あるのはあくまで結果であって、良し悪しではない。

    勉強したものが得、しなかった者が損とはいえない。だったらしておくのがいいという親は多く、こういう歩留まり論は子どもに勉強を願う親の言い草だ。勉強が出来ようが出来まいが、問題になるのは現実であって、現実への対処であるが、学校というところは問題を現実から切り離して設定し、それで答えを出させようとするなら、勉強した方がいいという答えになる。

    例えば歴史の年代の暗記は無意味で、そんなことを知って生きてる人は時代趣味な人だが、試験をするしかないから、無意味なことを暗記させる。重要なことは歴史から何を学ぶかなのにその本質が失われている。歴史から学んだことが人生や社会生活に寄与するものなのに、そんなものは学校の勉強とはいわない。学習の本質は、社会に役立つことを学ぶべきはずである。

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    与えられた問題を、与えられた時間内に、与えられたように解く。実際の人生や、現実の社会では、このようなことはまれであり、ほとんどないといっていい。同じ問題を、全員が、一斉に解くから平等なのだという学校というところが如何に世間ズレしているか?何も試験が悪い、テストが悪いわけではない。試験が教育の全てを支配していることが悪いのである。

    だからか、ジョブズもゲイツもバカバカしいと学校を辞めた。彼らのように自分のやりたい事を見つけた人間は、大学の勉強など屁にも糞にもならない。そういうものを見つけられない多くの若者が4年間大学へ通い、それが何かの役に立つと願ったところでせいぜい卒業証書くらいである。大卒証書がモノをいうと本気で思っているとするなら、時代遅れの大学生よ。

    1000人卒業して就職できた人は何人だ。同じ大学の学生なのに就職できない学生の違いは何なのか?「あなたは当社に必要ない」と、内定を取れない理由は何なのか?おそらく人間的な差であろう。その差は大学入る前にすでにあったものか?大学でついたものか?もし前者であるなら、その差は大学で修整すべきものではなかったか?いや、大学でつけれる差であったかも…

    差がいつからあったかなど分らない。内定を撥ねられた時点で確実についていた。大学が卒業証書目的ならそれも一つの目的だ。こんにちのようなおびただしい数の人間が大学に行くなら、彼らがいずれも学問に適正のある頭脳をもった人間とはいえない。ごく一握りの筋のいい頭脳をもった人間、学問に向いた環境なりを持った人間が、最終的に学問の世界に残っていく。

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    現在なされている教育の目的は、試験に合格することのみであろう。そう断言して何ら言い過ぎでない。だから、試験の合格率の高い塾、そういうテクニックを教える先生がもてはやされるのである。試験というのは、一定の基準によって人物の評価をし、選別することを可能とする事であり、こんな簡単な方法はない。この試験の利点は、そのまま、試験の欠点になる。

    試験問題は、一度答えを出すとそれで終わりであり、後はそれが正しいか、間違っているかの検証するだけである。しかし、一度答えを出したら以後は変わらない、などという普遍的な答えは現実の社会にはない。が、答えを出したら、それで終わってしまう。何も考えなくなる。考えなくてよくなる。現実の問題は、答えを出したから終わるというわけではない。

    答えが出たからといって、片づくわけではない。むしろ、問題が新たな問題を生むから、その新たな問題に対処していかねばならない。しかし、こういう受験勉強の成果ばかりで人物の優・良・可・不可を決めるなら、そりゃあ採点側も楽だし、誰でも「赤ペン」先生になれる。こんなことばかりやっていて、日本の学校教育を良くすることなど、到底できないだろう。

    勉強に向かない性向の人間は大学に行っても何もいいことにはならない。さりとて、高校卒業段階でやりたいこともないし、どこかで働くといっても高卒では将来はないと思い込んでいる。ひたむきさ、熱心さ、好感度があれば学歴など関係ないんだし、大卒でも精彩のない人間はいくらでもいる。特殊な頭脳を必要とする仕事ならともかく、現実的に仕事そのものと学歴はリンクしない。

    イメージ 8嫌な仕事も逃げず、避けることなく、前向きに気を利かせて働いていれば目に止まるものだし、学歴をいう企業が少なくなったのも分る。目の前に出された物しか目に入らない。食事が出されても、箸がなければ箸がないと駄々をこね。醤油がなければ、食べられないと母親にせがむ。その癖が、職場でもいっこうに抜けない。仕事もしかり、目の前の仕事しかこなせない。

    物事の根本、本筋を子どもに教えていく親が少なくなったという事だ。「見掛け倒し」という言葉があるが、見掛け倒しの人材は企業の人事担当者に見抜かれている。それほどに、人間つきあいに必要な礼儀やマナー、モラル、常識のな、社会に適合できない人間が多く生み出されているという。オリックス元会長の宮内義彦氏の発言が、ネット上で話題になっている。

    宮内氏の発言とは、「正規雇用は一度採用されたらクビにならない。たとえ生産性が下がっても企業は解雇できない。だから非正規で雇用調整せざるを得なくなり、非正規はいつ契約が終わるかとびくびくしながら働かざるをえない。これは不公平だ。働かない人の雇用を打ち切れるように、解雇条件をはっきりさせることが必要」との持論を展開した。 

    宮内氏が法改正が必要というように企業の、「解雇権」は制限されており、正規雇用者は一度採用されたら、客観的に合理的な理由がなく、社会通念上相当であると認められない場合、無効となる(労働契約法16条・解雇権の濫用法理)。あくまで、『できない』というのではなく『難しい』だけで、現行法下でも、能力不足や適性欠如などを理由とする解雇はおこなわれている。

    働かない正社員を、"月給ドロボウ"と呼ぶのは今も昔もそうだった。そういうふとどきな正規社員を簡単にクビにできるようにし、正規・非正規の差別をなくするためにも、正規社員解雇のハードルを下げるのは賛成だが、有給も取らず、遅刻も欠勤もせずに会社に来る社員を、かつてはマジメと評価したが、昨今は勤務態度がマジメだけでは即リストラの対象だろ。



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  • 05/07/15--16:11: 「教育」の薀蓄 ②
  • education」の訳は「教育」ではないと分ったところで、それで日本の教育の中身が変わることもなければ、親の意識が変わることはない。が、本当に少数の一部の親が何かの啓示らしきものを感じることはあろう。歴史年表の年代など覚えていない親が、どうして子どもにそれを覚えさせたいのか、どうしてそういう勉強の成績がよくてと喜ぶのか、サッパリ理解できない。

    現実社会に役立たないものを学びとして強いる疑問は、"上の学校に入るための必要なこと"という答えで納得するようだが、自分的には納得出来ないその理由は、人間をトータルで見るからである。人間にとって何が大事かの序列を考える時、教科書を憶えて100点を取る勉強を熱心にやるような人間が、アタマがいいと思ったことがないからだろう。

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    小学校受験は首都圏だけで31,793人(2011年度)と、不景気も災いしてか加熱情況から減少傾向にあるが、有名校に入っておけば幸せが約束されると思う親も一つの親の形である。金持ちの道楽といっては言い過ぎだろうが、ダイアナ妃は頭が悪く学業成績も不良で、貴族の出身にもかかわらず大学にも行かず幼稚園で保育の仕事をしていた。日本では考えられない。

    それでも王室妃だから日本ではありえない。ホテルに勤務する長男がこんな言葉を吐いた。「もう少し真面目に英語をやっておけばよかった」、これを聞いて正直笑った。笑いながら腹の中で、(誰もがこういう後悔をもって生きているんだ…)と頷く。そんで「子どもは親が勉強しろっていったらするのか?」と何気に聞いたら、「するはずがないよ」という。

    「お母さんが、毎日寝るときに教科書読むといいよって言ったけど、そんなもん寝る前に読むバカはいないよ」というので、それでまた笑った。となりに妻がいたので、「お前はそんなバカなことを言ったんだ?」と笑いながら顔を見た。照れくさそうにしていたが、出来もしないことを子どもにいうのが親なら、つくづく親ってバカな生き物だと、改めて思う。

    子どもがどういう生き物で、何をし、何をしないか、を現実的に捉えている自分は、できもしないようなことを「しろ」という自分が笑えてしまう。先を読むことで人間のある種の不幸も見えてくるし、社会のあちこちで形式ばった、見え透いたことを皆がお行儀よく言ったり、やったりがおかしくて仕方がない。だから、取ってつけた道徳的なことを言わない安吾に共感する。

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    「人間は堕落すべきだ」、「恋愛なんか何度やってもつまらなさが分るだけ」、「悪妻こそ自分を魅きつける」、「親は子への自己犠牲にあらず、子の方が親への自己犠牲を強いられている」、「葬式に出席するのが礼儀なのか?」、「大根足は隠せ。スカートは履くな、もんぺがいい」、「女の貞操には魂がなく、亭主への義務でしかない」などと、どのエッセイを読んでも楽しい。

    安吾は今の時代に生きていれば、"女の貞操は亭主への義務でさえなくなっている"という現実を知ることになろう。女性の浮気など御法度というその時代においても、安吾は貞操は夫への義務と言い切った理由は、その前文を読むと分る。「御婦人方は娘の頃は肉体の快楽について極めて幼稚な空想家にすぎないようだが、一度現実に快楽を知ると、根底的な現実家とになる。

    快楽に限らず万事につけてその傾向で、処女と女房の相違には、童貞と亭主とは比較にならぬ大きな変化の一線がある。だから、まだ現実に快楽を知らない処女のうちは、どんなに空想家であっても、空想だけでは滅多なことで引きずられはせぬ。女を本当に引きずる力は、現実的な力で、女は根底的な現実家である。」(昭和22年5月発行『時事新報』文化欄:「貞操の幅と限界」)

    このエッセイをウィットに富むと思うか、毒舌と思うか、現実と思うかは読み手の経験意識にもよる。化けの皮が剥がされたと感じる御婦人方には、さらにそれを隠匿するためにか、「坂口安吾なる文士は失礼極まりない」などとほざいたり、言い合ったりするのかも知れぬが、それもまた女の虚栄心である。坂口安吾という人に「毒舌」なる概念はさらさらなく、純粋に書いている。

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    同じように自分も、「あなたって毒舌家なの?それともイヤミがすきなの?」という女に出会ったことがある。モノは受け取り様だから、受け取る人間の生育環境や性格によってまるで変わってくる。自分はイヤミも毒舌も吐かない点では人を選ばぬが、相手から選ばれるのは仕方のない事だと思っている。いつだったか、女の言う「毒舌ね」に反論を試みたことがあった。

    「自分は毒は薬だと思っているし、だからそういう気持ちでしか発言しないよ。"毒をもって毒を制す"という言葉があるが、あなたに関してそれはない。なぜなら、あなたを"毒"だと感じていないからだよ」。言ってる言葉の意味を相手が理解したかどうか分らない。論理的に思考する奴なら判るだろうが、相手は女であり、感情的になっているなら無理だろう。

    「あなたって毒舌ね?」などという時点で穏やかではないのだろうが、そこで「悪い、悪い、そういう意味で言ってないんだよ」とでも期待する女が多いのは仕方のないことだ。自分は、謝る理由のないことに謝罪を装おうのは好きでない。なぜなら、そういう事をやると相手との今後の人間関係に影響し、支障をきたすので、イヤミ、毒舌さらさらないを分らせるしかない。

    確かに「毒をもって毒を制す」というのは言えてる。相手が毒であり、猛毒ならなおさらのこと。しかし、毒のような人間はそうそういるものでないので、「毒で制す」を乱用すべきではない。「コイツは性格悪いな、付き合う相手じゃない」というのは、言葉使いで咄嗟に分かるのは、「イヤミ、ツラミ」が丸出しである。本人は抑えているのだろうが、そんなものは誤魔化せない。

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    自分はよく、「それってイヤミ?」といわれて、ハタと気づくことが多い。そういわれると、(これをイヤミと受け取る背後環境があるんだ)と自身を納得させる以外にない。それほどに、「イヤミ」と受け取る相手の問題である。イヤミも毒舌もすべては相手の感じ方である。その場限りの人間なら誤解であっても謝っておく。後の付き合いがないならスタンスなどどうでもいい。

    そういう風に今後があるかないかで変わってくる。①相手がどう受け取ろうが、それは相手の勝手と考え無視する。②相手がどう受け取ろうが、それは相手の誤解とし、弁解し納得させる。③相手が受け取ったことを尊重して謝罪する。と、この三つを選択することになるようだ。①と②は似ているが、無視するか弁解するかの違いも、相手の人間性が加味される。

    たまにだが、④相手がかなり悪意に取った場合、攻撃する。もやったりする。相手の言い方、言葉の選び方で、愚劣な性格と即断した場合にである。この最後が「毒をもって毒を制する」ということだろう。少々のことで感情を出さない自分だが、一応の線引きはある。「お前、そこまでいうか?そういう言い方って下劣だろ?」と思ったら最後、毒が自然に排出される。

    世間には"人を怒らせるような物言い"をする人間はいる。どういうわけだか、そういう口の聞き方、言葉の選び方をするのは、人間が卑屈なのか、人間関係慣れしていない自己中のオタク気質なのか、さまざま要因はあろうが、いずれにしてもそういう奴は人を怒らせ、怒られることで益々自身の殻に閉じこもってしまう。コミュニケーション能力の問題であろう。

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    想像でいうと、勉強ばかりしてアタマがカチカチか、幼少期からいじめられて人間不信に陥ったからなのか、罵りあいの家庭環境から、「愛」と縁遠い卑屈な性格が形成されたのか、なんらかであろう。人を怒らせるタイプというのは心理学でいう、「怒りは感情の蓋」に該当する。簡単に言えば上に挙げたように、怒り感情の下には、別のネガティブな感情が埋もれている。

    悲哀感情であったり、罪悪感だったり、 孤独感、自己無価値観だったり…。誰でも幼少期頃から、暗いといじめられたり、ネガティブ感情は良くないと周囲から指摘されたり、上から教えられて育つ。が、自分にそういう感情が出てくるときにそれをなかったことにしようとする。つまり、ネガティブ感情を感じた瞬間、それに蓋をしてなかったことにしてしまう。
     
    そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか、ネガティブな感情を無意識のうちに抑圧する習慣を身につけてしまう。ぐっと飲み込んで押し留めたネガティブ感情はどこに行ってしまうのか? 実は、どこにも行っていない。抑圧されたネガティブ感情は、その都度自身の体に蓄積されて行く。これはもう、"腐った牛乳を冷蔵庫に入れっぱなしにしておく"と同じこと。

    人間が心を開きあった付き合いをしないと、こういうケースも起こってくる。自分がそういうネガティブな人間に向けて、毒を発することは実は相手に気づかせたいという気持ちもある。そのような態度、仕草で世の中を渡って行けるはずはないだろう?お前は自分のそういうネガティブなところに気づけよ、そんな言い方ダメだろう?と相手の怒りの理由を教えてやる。

    イメージ 6何も毒をもって相手を制することで自己満足を得ようなどのチンケな発想ではないし、もしそうであるなら、怒って威圧してそれでいい訳だ。が、理由を言ったところで気づかないのがネガティブな人間の特質だ。だから、ネガティブと言った方がいい。逆にポジティブな人間は、相手の言ったことを善意に考えるし、取り入れようとする器を持っている。
    だからこそポジティブである。自身に対する向き合い方の違いが他人への向き合いの違いになり、また他人への向き合いの違いが、自身への向き合いの差になるというスパイラル現象だ。こういう現象からなかなか抜け出せるものではないし、もし、抜け出したいと試みるなら、"自分以外はみな師"くらいの心構えで自尊心を捨てることだ。相手の何ごとも「悪意」に取っては自分の何もよくならない。

    自分に対して怒る人は仕方がないが、怒る人か、叱ってくれる人かのせめて見極める目を持ち、後者であるなら相手の言葉をしっかりと噛みしめてみて、腐った牛乳に気づいたならさっさと捨てることだろうな。自身の嫌なところは他人が見ても嫌だと感じるだろうし、だからといって他人に嫌な顔されたり、疎んじられたりで変えられないことが多く、結局、自分で捨てる以外にない。

    他人の自分に対する怒り(叱り)は、自身が蓋をしている問題的な感情の蓋を開けてくれていることだと気づいた人は、その後の努力次第で他人から嫌われることがなくなるはずだ。嫌われる要素は種々あるが、相手を見下したような態度、言葉使いもそうだろう。「どうしてこうまで自分の子ども中心になれるのだろうか?」と、これはある中学教師が言っていた。

    ジコチューという新語も言われてはや何十年も経つが、何かにつけて個人の出来事に怒ったり躍起になったりするが、社会的出来事に無反応・無関心というのがより顕著になってきている。特に若者の社会的な問題に対する関心度の低さの要因はなんであろうか?社会学者はどう分析しているのだろう。おそらくジコチュー蔓延による私益>公益優先からの流れではないのか。

    学園紛争が何であったかはともかく、今後あのような社会・政治に対して大学生が怒るという事はおそらくあるまい。最近の若者は自己を高く見せようとするので、自身の身の回りに直接不利益が生じると、すぐに相手のせいにしようとして怒り出すが、社会や政治に対する怒りというのは、その原因となる問題が直接自分とは関係ない。県民や国民の一人として関わるに過ぎない。

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    そういう風に不利益が直接自分に及ばないことには怒りの手をあげないのだろう。見知らぬ人が困っていても感情移入することもなく、社会の出来事にはきわめてクールである。この共感性のなさは怖ろしい。すべてのことは自分に関わるかどうかで、直接関係ない人たちの気持ちを推し量ろうとする構えすらない。「そんなのカンケーない!」という言葉が流行った。

    海水パンツ履いた芸人がやっていたギャグだが、何の意味があってあんなことを?「カンケーない!」と強く押し出すことがカッコよかったのか?あれで若者が社会的出来事に無反応、無共感が強まったのか?いつまでもあんな芸で喜ばせられると思う方もバカだろ。映画にもなった『鉄道員』(ぽっぽや)の原作者浅田次郎のエッセイには悲愴な内容がある。

    9歳の時に破産して生家が没落し、両親は離婚で家族は離散した。浅田少年は母親と兄と3人が六畳一間の暮らしを始めるのだが、「貧しい生活ながら私はどうしても私立中学を受験すると言い張り母を困らせた。私立中学に拘ったのは、親の不始末によって私の人生まで変えられたのではたまらぬ、と考えたからである。」と自伝にある。母親は浅田のわがままを許してくれた。

    「合格発表の日、母は夜の仕度のまま私と学校に行ってくれた。盛装の母は場ちがいな花のように美しかった。私の受験番号を見上げたまま、母は百合の花のように佇(たたず)んで、いつまでも泣いていた。別室で販売されていた学用品を、山のように買ってくれた。 小さな辞書には見向きもせず、広辞苑と、研究社の英和辞典と、大修館の中漢和を買い揃えてくれた。」 

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    ナイトクラブのホステスで生計を支えてくれた母親である。「私はおしきせの学問を好まなかったが、常に自ら喜んで学び続けた。今も読み書くことに苦痛を覚えたためしはない。その力の源泉はすべて母があの日、『えらい、えらい』と泣きながら私に買い与えてくれた三冊の辞書である」。懸命に働く母の悲哀を心に、浅田は一切を自ら精進させるエネルギーに転化したのだろう。

    なんと、けなげで美しい花のような母親であろうか…。自分も母親から受けた一切を、自ら精進させるエネルギーに転化した。人は親を選んで生まれてこれない。ゆえに他人の母親を羨ましがってなどない。もし、他人の母親を指をくわえて羨ましいと眺めているような自分であったなら、何もプラスにできなかったろう。自分は行動することを自らに課した。だから納得している。 

    東京都下・奥多摩青梅市御岳山にある、「民芸の宿 山香荘」。ここは浅田次郎の母の実家で、時おり浅田もここに宿泊に、執筆活動に来るという。



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  • 05/08/15--17:33: 香山リカという○カ
  • このひとがついにというか、のっぴきならぬ騒動を起こしてしまった。誰が聞いても嘘だと分る嘘を吐いたことで、彼女は人間としてもっとも大事なる信用を失墜させてしまった。発言がオカシイ、バカじゃないの、というのは主観的要素もあるわけだが、信用失墜となる「嘘」を吐いてしまったことで、長らく隠匿していた彼女の本質を万人にさらけ出してしまった。

    嘘の用途や質にはいろいろあるが、自身を守るためのその場限りの嘘がもっとも戒められる嘘であるのは社会の共通認識である。それをやってしまった理由も原因もよく分る。一言で言えば、彼女は小保方晴子と同等の足りてない人間であったことは以前から指摘されていたが、小保方氏のように一発ですべてを台無しにしたのではなく、長らく業界にあった。

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    事の成り行きは、民間シンクタンクである独立総合研究所代表取締役社長青山繁晴に対するやっかみから出たものであるのも明白だ。この件の成り行きについてはネットに書かれてあるし、取り上げたブロガーも少なくないので、重複しないよう別の視点から、なぜ香山リカがバカとして葬られることになったのかを、彼女が取ろうとしない責任と後始末について言及する。

    おそらく彼女は小保方晴子程度では済まされない程に、身包み一切を剥がされることになるだろう。それは、彼女が金曜パネリストとしてレギュラー出演している生放送番組『虎ノ門ニュース8時入り!』(スカパー!プレミアム)の番組チーフプロデューサー山田晃氏の、事を曖昧にしない性格によるものであろうし、こういうバカは容赦しませんよという姿勢が小気味いい。

    子細を誤魔化すことなく、躊躇うことなく、後日、番組の内容を変更してまで徹底追及する姿勢は、「バカには土下座させるか膝まづかせるか、でなければ私は許しませんよ」という男気であろう。普通はここまでやらないのは、社会が女という弱者に味方する部分もあり、「女いじめ」、「そこまでしなくとも」は、小保方晴子のときの擁護派も凄まじいものがあった。

    この世はまさに男女同権と言いながら、男が女に甘い点はオカシクないかと思う輩は多いが、女に厳しくなれない男の所詮は「女好き」であろう。別に好きなのはいいが、だからといって人を誹謗し、中傷する発言をしたのなら、それはそれで男同様に責任を取らせるべきだ。なぜなら、責任を取らないで逃げ隠れする女のズルさを容認する社会の体質がなぜかある。

    イメージ 2今回は相手が悪かった。そんなことを青山繁晴が許すはずがない。やったことをやっていない、言ったことを言っていない、書いたことを書いていないと、よくもまあ、人間はそういう明らかに嘘だと露呈するであろう事を承知であるのかないのかを別にして、すっとぼけられる往生際の悪さを見せつけるが、こと青山氏はそういう事をもっとも嫌う性向であろう。
    そうでなければ公人としてアレコレ発言は出来ないはずだし、テレビで発言する人は逃げてはダメであるのをもっとも周知している発言者である。だから、逃げる香山を許さない部分もあろう。香山はついに番組降板という懐刀という奥の手で、八方塞がりの現状突破を狙ったが、あきらかに自ら収拾がつかなくなっての小ズルさは、うっとうしいほどに被害者モード丸出しである。

    チーフプロデューサーである山田晃は、この件を問題にし誤魔化すことなく6分間近くも時間を割いて経緯ならびに謝罪を行った。以下はその内容。「先週金曜日の放送中、ブレークタイムのコーナーで、ニコニコ動画における (青山氏出演の) 木曜日の視聴者数が多いという発言をきっかけに、香山リカさんが青山さんを応援するファンに対して"信者"という発言をされました。

    それを受けて須田慎一郎さんが、"宗教だから"と返し、その後MCのサンキュータツオさんが、"ネトウヨもついている"と発言しました。また、スタッフが(スタジオがサテライト形式であることをいうと)、サンキュータツオさんが、"仕事しろよ"という発言が行われたほか、視聴者の居住地などの個人情報に触れる軽率な発言がありました。これらの発言は著しく不適切でありました。

    青山さんを応援する方々に対して人として許されない、事実と反する誹謗・中傷をこの場を借りてお詫びいたします。これに対して当の須田氏、サンキュー氏、スタッフの一平氏は真摯に謝罪文を番組側と青山氏に提出した。が、香山氏のみこういい訳した。「"信者"という単語を使ったのは事実ですが、国語辞典にもあるように"信者"にはある人物の思想や人柄に心酔してる意味もある。

    私はこの意味で申し上げ、宗教・信仰という発想は心にもないことですが、私の発した"信者"の意味を宗教の信仰者と受け取られ、不快にさせた方々にはお詫びします」。と、この香山リカの発言は他の2名とは異質のいかにも女的なバカの謗りを免れない発想である。女がバカな言い訳をするのは、こういう言い訳が男や社会に通用すると思うからだろう。

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    ハッキリいえば通じない。この場に及んで、「信者」の意味を持ち上げ誤魔化そうとするところがバカである。聞く側が誤解したなら悪う御座った、というのが自己弁護であることに気づかない女って、だから世間からバカと言われるのだ。男世界ではこんないい言い分けなんかしていれば誰からも相手にされない。謝罪の本質が分ってないというか、謝罪になっていない。

    「相手が誤解すれば…」と、自己弁護をする時点で謝罪になってない。むしろ相手を逆撫でしてることに気づかないのは、考えが甘い点において社会性がない。謝罪とは、一切の自己弁護を放棄することで、少しでもそれが入ると謝罪にならない。とにかく自尊心を捨てることで相手を立てること。香山氏の発言はサンキューという芸能人よりもはるかにバカである。

    ちなみにサンキューはこう謝罪文を書いている。「司会者として番組に臨む姿勢と認識の甘さであり、司会に不適格な私自身の処遇を含めて番組制作者と検討させていただきます」。と、クビを覚悟の失態と責任逃れをしていない。須藤氏も、「視聴者を不快な気持ちにさせたのは間違いのない事実」とした。香山氏のみ、(受け取り手によっては)誤解を与えたという自己弁護がある。

    この違いが人間観、社会観の違いだ。男観・女観と言い切るのは御幣があるが、とかく女は言い訳が多し。切腹という発想がないんだろうな。なんとか生き延びたいと、その生命力がまた生物としての女には大事なのかも知れない。自殺者の数は常の男は女の二倍である。ただし、社会生活の場においては、観念しなければならないことも知るべきことである。

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    香山氏が素直に、「発言に言い分けの余地はなく申し訳ないと思います」。と、どうしてこういう覚悟をみせられないのか?これが彼女の無知・自尊心・虚栄心のなせる技であろう。謝ることで自分が下位に見られるという発想・恐怖がつきまとった人。バカが肩書きだけで生きていくと「地」を出せない、それが虚栄心である。自分に自信があれば、頭を下げるなど吝かでない。

    彼女は、「まれに見るバカ女」の一員であるがその理由はこうだ。香山リカについて、「ああ、いるねえ(こういう女)」以上の感想を持てる人というのはあまりいないだろう。自分も彼女にはそれ以上の何もないのはそのとおりである。香山リカの存在意義というのは、精神科医という肩書きと、そういった取り立ててカラーのないあたりさわりのなさだったりする。

    だが、だれも真面目に見ていないのをいいことに、香山リカの文章はすべて、実にいいかげんな思いつきの垂れ流しでしかない。「サイコのお部屋」みたいな悩み相談ものでもそうだし、時評コラムみたいなものでもちがいは対象が個人の悩みか社会問題というだけ。そこで情けないのはその精神分析っぽい用語への置き換えが、ほとんどの場合、何の役割も果たしていないこと。

    精神分析的な用語に置き換えることで、精神分析的な治療法や分析法が何か適用できるなら意味はあるけれどそれがまったくない。橋下大阪市長ともこういう舌戦があった。「香山氏は一回も面談もしたことがないのに僕のことを病気だと診断してたんですよ。そんな医者あるんですかね。患者と一度も接触せずに病名が分かるなんて。サイババか」これに対して香山氏はこう答える。

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    「私は精神科医として(橋下的なもの)の象徴としての橋下さんや彼を熱狂的に支持する人たちを分析し、その発言や行動に社会病理性を感じ、歴史との比較なども行いながら、警鐘を発したいと考えている」とし、改めて、「橋下さんご自身の内面的なことを問題にしているのではなく」、「橋下さんの発言や行動から見えてくる(橋下的なもの)に対して物を言っているだけ」としている。

    香山はすぐに「私は精神科医」というが、人生相談や悩み事相談ならそれでもいい。ある人の悩みに、「それはナントカ症候群です」と診断を下してあげるのは、少なくともその人が、自分の悩みは自分一人のものじゃなくて、他にも同じような人がいるんだ、という気休めにはなるから。だから精神分析用語への置き換え自体、それなりに価値があることだと言えなくもない。

    が、社会現象を前に、それがナントカ症候群だと言ってそれが何の役にも立つのか?「思いつきの垂れ流し症候群こそが香山リカの精神病理」といわれる所以である。橋下氏や青山氏などの人気のある人間に即座に嫉妬し、噛み付き悪い点を探し当てて満足する程度の精神科医である。今や地上波に出なくなった人物の代表が、香山と森永卓郎だが気分の悪くなる顔の代表か?

    青山氏のファンを信者とまでいい、それに対する青山氏の怒りを「下劣」とする非難を自身のツイッターに書き込んでいた。ここまでは彼女の収まらぬ心情として理解はするが、共感は出来ない。そもそも青山の番組出演の際は、彼のファンと称する信者がスタジオ界隈に押し寄せ、「みんな暇なひとだ、仕事しろよ」みたいなトークで、彼と彼のファンを侮辱したのだ。

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    当の青山は冷静な視点で香山らの「悪乗り発言」をこう諌めた。「私のファンとか応援してるとかの言い方は正確ではなく、僕の問題提起を通じて自分の頭で考えている視聴者の方々です。私はタレントでもなければ芸能人でもなく、イタズラにファンとか応援してるという言い方は止めて欲しい。僕がどういわれたことより、僕の発言に耳を傾ける視聴者への誹謗・中傷は許されない」

    今回の件で問題が拡大したのは番組の発言そのものより、香山氏のツイートの書き込みである。山田氏が経緯をこう説明した。「5月1日の放送で、香山さん本人の意に反するコメントが一時的にネットにアップされたと説明しましたが、この件に関して改めて経緯と説明をしたいと思います。4月30日深夜、香山リカさんのツイートについてのネット情報を私が発見しました。

    このツイートはその後削除されており、私が見たのは削除前のまとめサイトのようなものです。5月1日の生放送本番前に香山さんに確認したところ、「自分がツイートしたものではない。ツイッターのアカウントが乗っ取られた可能性がある」とのコメントを得たため、5月1日の放送で言及しました。香山さんは、「私自身、正確にツイートしたものではない」と回答した。

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    私が、「香山さんが書いたものはないのですね?」と確認すると、香山さんが、「そうです、はい」と回答があり、そこでアカウントが乗っ取られたならば、事実を究明し、番組で公表することをお約束しました。ツイートには番組関係者しか知り得ない情報が含まれており、番組終了後に話し合いを持ちました。話し合いの場で香山さんから次のように告げられました。

    (1)一連の6つのツイートは香山さん本人が、香山さんを熱心に擁護する人物に向けた私信の下書きだった。(2)下書きが知らないうちにツイートされてしまった。(3)香山さんがネットに一連のツイートがアップされたのを発見したのは4月30日の夜8時から9時ごろ。その段階で該当する6件のツイートを削除したと。(その後)香山さんへの聞き取り調査を引き続き進めました。

    一連のツイートについて、当初は、『アカウントが乗っ取られた』と乗っ取りの可能性を示唆していたが、私が、『アカウントの乗っ取りなら、警察に届けるべきでは?』と提案すると、『(ツイッターの)下書きは事務所のパソコンで書いて保存していなかったため、アカウントの乗っ取りではなく、使用していたアプリケーションの誤作動かもしれない』と証言されました。

    アプリケーションの誤作動なら開発会社に問い合わせすべきであるし、乗っ取りなら犯罪なので、警察に相談すべきだとは思いますが、サーバーに保存していないデータの流出なら"パソコンそのものが乗っ取られた"可能性があるので、私の方から香山さんおよび香山さんの事務所関係者に詳細な調査をお願い申し上げたところ、今週、香山さんからお手紙をいただきました。

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    そこにはアカウント乗っ取り、アプリケーションの誤作動には触れられておらず、私および番組への対応への不満と、本日の番組の出演辞退、番組そのものの出演辞退が記されておりました。当番組はそれを受理しましたが、香山さんのお手紙の内容が私達が確認している事実と異なる部分もありましたので、今後反論文をお送りするなどのやりとりをしていきます。ご報告は以上です。」

    どう見ても香山の一人芝居、一人相撲である。香山リカなる人物の存在意義さえ失いかねない危機的状況に、精神科医としてどう対処する?斯くも八方塞がりの収拾困難なら気弱な男は自殺するかも…。自ら撒いた種とはいえ、死ぬか、佐村河内氏のようにすべてを捨てて楽になるか。前者は王様(エリート)の名誉の守り方、後者は乞食になっても生きて行かんの逞しき生命力か。

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    ところで香山リカが裁判を起こすと息巻いているようだが、これはアレだな…。自分の潔白を強くアピールするためというのが見え見えだな。彼女があのツイッターの書き込みを自分が書いてないといったときの、翳った顔がすべてをものがたっている。もし、本当に自分が書いてない書き込みが自分の名で出されたら、人間はもっと驚くだろうし、怒りを露にするはずだ。

    チーフプロデューサーに、「香山さんが書いたものではないのですね?」と問われ、「そうです、はい!」って、そういうものか?仮に自分だったら、「とんでもないですよ、なんでこんな書き込みが自分のツイッターに出されるのか、驚きを超えて理解できませんね~」くらいの言葉は出るはずだ。それが、「そうです、はい!」って、潔白の人間にしては冷静過ぎると思うが?

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    まあ、訴えらる側に非があると分っていても、告訴することによって非がない印象を与える。訴訟を起こす自由はあるからいいけれども、弁護士を依頼するというなら、それを伝えたいなら伝えればいい。弁護士って言うのは代理人だから、依頼した後は本人は隠れておけばそれでいい。にも関わらず、ぐだぐだと気が収まらないから自分を叩いている。人間の愚痴とはこうしたもの。

    「弁護士さんは他人の"痛み"が分かる現代人には珍しいタイプ」と、こういう言い方って何だ?自分は精神科医ではないが、彼女の心理分析をするなら、どうにもならない情況に追い詰められて神の手を必要としている惨状だ。「他人の痛み」とは彼女のことで、撒いた種の辛さが滲み出ている。告訴発言は自身に非がないというポーズで、言葉だけだ。出来る道理がない。

    「暴言の書き込みは私ではないTwitterアカウント乗っ取られました」と、彼女の苦しい言い訳は、咄嗟に言ったものか、それともこの線で逃げ切ろうとしたのか、後先考えぬ物言いはバカである。Twitterの内容が内部の関係者しか知り得ぬと、プロデューサーに指摘され、"しどろもどろ"になった時点でパニックを起こしている。こういうのをすぐにバレる嘘という。

    嘘というのは用意周到に見えても、相手の指摘一切を想定した完全武装というのはなかなか難しい。「嘘」は「嘘」である以上に、どうしても無理があるし、ほころびがでるものだ。いかなる虚も、その嘘を信憑づけるために、さらに別の虚を捏造することなくしては主張できない。分りやすくいえば、一つの嘘がその嘘を真実にするために10も100も嘘を吐かねばならない。

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    真実を語ることはバカにでも出来るが、上手い嘘をつくには、かなりの頭の持ち主でなければならない。バカが見え透いた嘘を吐くのはバカだからであって、だからバカは真実をいうべきである。パスカルは「パンセ」でこう言っている。「われわれは理性によってのみではなく、心によって真実を知る。」これは深い言葉である。真実とは心に訴えるものなのだ。

    だから人は真実に感動する。人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。自分自身においても、また他人に対しても。パスカルは、「クレオパトラの鼻がもっと低かったら…」という比喩を言った人だが、「悲しみは知識である。多く知る者は怖ろしき真実を深く嘆かざるをえない。知識の木は生命の木ではないから…」こういう言葉を吐けるほどに彼は人間を凝視している。

    「悲しみは知識である」とは、いかに悲しい現実とはいえ、知識がなければ悲しみはない。死んで動かない母親の乳房をまさぐる幼児がふと頭に浮かぶ…。悲しいかな人間は知識がなければ悲しみさえもわからないのだ。真実は知らない方が幸せである。世の父親、母親たちも、子どもに隠している真実は山ほどあるはずだ。それを隠しているからこそ、親の威厳を保っている。

    その真実は決して明らかにせず、墓に持っていくべきものであろう。お互い様といっておく。子どもにだって親に知らせたくない真実を持って生きている。それは決して親には言ってはならない。言う側も、聞く側も傷つくような真実は隠しておくべきものである。カントはそれを嘘だと戒めるかも知れぬが、嘘とは偽りの言葉であり、隠しているだけを嘘とはいわない。

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    起こった事を黙っているのは嘘を吐いたことにならない。嘘とは吐くもの、言うものであり、言わないことは何であれ嘘ではないはずだ。処女でない女が、「処女です」と言うのは嘘だが、黙っているのは嘘を吐いていない。だから、「君は処女ではなかったんだね。僕を騙していたんだね」は間違い。「君は処女ではなかったんだね。僕が勝手にそう思い込んでいたんだね」が正しい。

    些細なことで相手に罪を吹っかけて、自分の気持ちを晴らす人間はいる。人間とはそうしたものかも知れない。それでいいのか?それが人間として正しいのか?であろう。「人間とはそうしたもの」とは、肯定ではない、正しいと言ってるわけでもない。むしろ、「人間は罪深い生き物だ」という意味だ。人に罪を吹っかけないように自身を律するべきであろう。

    「たとえ話は嘘ではない。なぜならば、それはけっして起こらなかった事柄を述べているのだから」、これはバーナード・ショーの言葉である。「人間が人間である限り、悪を体験し、悪に苦しむ」と、パスカルは、「悪」の意味をとことん追求した。彼にとって「悪」とは何であろうか?我々の言う「悪」と同じものか。違うものなのか。パスカルの名は物理・数学の人であった。

    「パスカルの原理」、「パスカルの法則」のあのパスカルが哲学者であったという知識は中高生時代にはなかった。『パンセ』を知るまでは…。ネットでパスカルで検索すると、「パスカル (pascal,Pa) は、国際単位系 (SI) の圧力・応力の単位である。」と出る。人物のパスカルを検索するなら、"ブレーズ・パスカル"。かつては物理学も哲学であり、よってパスカルの本業は哲学者。

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    かつても現在も含めて、哲学者の数は一体どのくらいいるのだろう?業(研究)としての哲学者、思想家としての哲学者に分別されるのか?語義的には「愛智」を意味する学問的活動であるが、かつては形而上学という学問の総称であった。諸科学が分化独立した現在では、哲学は学問とされることが多いが、科学とされる場合もある。古代ギリシアでは学問一般を意味していた。

    単に論理的な価値しかない抽象的な概念でもって体系をつくりあげる哲学者たち。彼らは生きる自然を一個の"機械じかけ"に変えてしまう。映画にもなった『時計じかけのオレンジ』のタイトルにある"時計じかけ"は分るが、なぜ"オレンジ"だったのかを調べたことがあった。オレンジ(orange)とはオランウータン(Orang utan = 森の人)の orang (人)の意であった。

    イメージ 5詩人は、すべてに生命を与えるが、事物の輪郭や相互関係をぼんやりとぼかす。この両極端の中間にたくみな選択を行う折衷家がいる。彼は自分の主張することがらすべての統一が見出されるべき、事態の核心に達することがない。「真の哲学者は、すべての事物をそれらの根底をより深く探ることで統一しなければならない」。セルティヤンジュはこう言っている。彼はその意味でトマス・アクィナスを「真の哲学者」と言う。これからすると西田幾多郎も「真の哲学者」である。西田は師である北条時敬から、「哲学には論理的能力のみならず、詩人的想像力が必要である」と言われ、西田にはその両方が備わっていた。真の哲学者とは、現実より自己の観念が優先、かつ、人間に対して妥協できない思いを持っている人のことであろうか。

    第一の条件だけなら誇大妄想狂と紙一重だが、第二の条件が加わることで彼は真の哲学者たり得る。彼の頭は常に人間についての理想を思い描いている。しかし同時に常に現実との矛盾に悩み、とりわけ自己内部の矛盾には敏感である。彼の精神は時に混沌の中を彷徨う。普通人から見ると、こうした人は純情すぎ、時に馬鹿に見える。何を一体こだわっているのか、と。

    何の悩みもなく、目的に向かってひたすら進むだけの生き方とはどんなものであろうか?そういう人間も魅力的だが、真の人間の魅力とは、やはり「どこかおかしな所」や「利益にならないものに対してひたむきな所」にあるはずだ。苦悩するひと、哲学者しかり、偉大な芸術家しかり…。西田幾多郎が『善の研究』であるなら、パスカルは"悪の研究"といっていい。


    「数学者としての『練習』とか、青年時代に一時、物理額に熱中したことを除くと、パスカルという人物全体が悪の問題であると言えよう」と、セルティヤンジュが代弁してくれるように、パスカルの作品の中で、とりわけ『パンセ』は悪の問題を蔵している。『パンセ』は思想・思考を意味し、未完の著作であり、彼の死後に編纂して刊行した遺著である。

    『パンセ』初版の正式題名の和訳は、『宗教および他のいくつかの問題に関するパスカル氏の諸考察 — 氏の死後にその書類中より発見されたるもの』である。無神論者は、理性を信仰に服従させることを欲しないが、パスカルの時代にも教会に属しながら福音の真理にしたがわない似非クリスチャンもいた。パスカルはそういう対象者に向けて弁証論著作を企てた。

    いかにして似非クリスチャンを唯一の神の信仰に向かわせるか、彼らをどう説得するか、パスカルが意図した最初の苦悩である。説得の難しさは何につけても、バイクを大音量でぶっ飛ばす「族」の不良共を改悛させるようなものかも知れない。例えば矢沢永吉が、「おまえら、そんなこと止めてオレのコンサート聴きに来いよ!」といえば、効き目はあるかも知れない。

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    が、パスカルの悩みは、似非クリスチャンにとって唯一の神が、彼らを魅きつけるだけの魅力がなかったことだ。いうまでもないパスカルはキリスト教神学者である。「すべての人間は幸福になる事を求めている。このことに例外はない。そのために用いる手段がいかに異なっていようとも、彼らはこの目的に向かっている」にもかかわらず、人間は幸福になれないのは何故か?

    かつての哲学者も、今後の哲学者も人が幸福を願う点において彼らは無力である。「哲学者たちは汝の真の善が何であるか、汝の真の状態が何であるかを知らない。汝の悪を癒す薬を知りもしないのに、彼らがどうしてそれを与えることができようか?」。パスカルが念頭においていた第一の哲学者は同時代のデカルトで、「無用にして不確実なデカルト」と槍玉にあげている。

    哲学者たちは汝らに幸福の約束をしたが、果たせていない。「キリスト教以外のいかなる宗教が真の善を知っていようか」に帰結する。一神教を真善という考えにおいて、同種の異教徒たちにとっては不可解極まりないものである。なぜ多くの神々が存在するのか、というように。この疑問を整理してみると、「何故、善人が惨めで、多くの邪悪な人間が成功を収めている?」

    「何故、健康な人、病める人、富裕な人、貧しい人、暴君と虐げられる人がこの世に共に住んでいるのか?」、「何故、かくも多くの誤謬、意見、風習、慣習、ならびに宗教の存在を神は許しているのか?」。あまりに素朴な問いだが、当時のキリスト教擁護家に答えは存在した。「罪は人間のみが責任を負う。神は過失の資料を準備するが、違反に必須である罪への同意はしない。」

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    事実である無しはともかく、キリスト教擁教家は神の立場をこう説明するが、パスカルの独自性は、他の擁教家が持ち出す「原罪」は人間の現実の姿を合理的に説明できず、観念論と成り下がったのに対してパスカルは、人間の悲惨な状態を「原罪」の教理によって説明した。「原罪は、人間の眼から見れば愚かなものである。しかしそれは、そのようなものとして与えられている。

    読者はこの教理が欠けているといって私を責めてはならない。というのも、私はそれを、理由なしに存在するものとして与えているからである。」これがパスカルの「原罪」説の思想である。創造主であるところの神が自らの似姿で人間を造ったため、創造された当初の人間は、清く、罪なく、完全、不死の状態であり、理性かつ自由意志を持っていた。

    しかし、人間は神の支配から逃れようとして神に背いた。その結果、現在の人間に苦痛と死滅が入り込み、残された僅かな理性でさえ時々感情と欲望の支配下に置かれてしまう。「正に獣と似たものになった。自身のなかにあなたがたの惨めさに対する救済を求めても無駄である(四三〇)」。原罪遺伝の概念もまた人間の理性または倫理観念を越えた不可解なものとした。

    原罪遺伝が不可解であるとしても、これが人間の矛盾性を説明し得る唯一の合理的「真理」とパスカルは考える。この観点からすれば、キリスト教は人間性の背反性と真理を教えると同時に、その背反性の原因をも合理的に教示するという、他の哲学には望むべくもないもの。人間性の矛盾から出発し、自立に探究した結果、キリスト教神学と同様な目処に辿り着いた。

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    香山リカのツイートで下劣とされた青山繁晴が怒った。香山は、「私が書いてない」と、とぼけた。ならばさらに男は女の嘘に逆上する。香山リカ、小保方晴子らの女の常道といえる一連の逃げパターンに、男が怒ってみてもどうにもならない。やったことをやってないと平然と言える女に、男が何ができる?平手を食わせるか、"バカ"と見下し、諦めるしか手がない。

    向かってくる女ならいくらでも論駁し、泣かすことはできるが、スタコラさっちゃん(坂口安吾的表現)に対しては、どうにもならない、打つ手ナシ。女の嘘を病気とするなら、それを男は許すしかない。世間が許さない?いや、世間も許すだろう。それくらいに女の嘘は問題にし得る価値がない。男は静かに、『パンセ』を読むがよかろう…

    ◎女は影のようなものだ。後を追いかければ逃げる。逃げれば後を追ってくる。

    ◎女の言葉をとらえるのは、ウナギのしっぽをとらえるようなものだ。

    ◎女が悪い場合でも、大抵は金切り声を出すとの言い分が正しくなる。涙しかり…

    ◎女たちをしゃべらせるにはさまざまな方法があるが、黙らせるためのものはひとつもない。


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  • 05/11/15--19:29: 人生をパンセする
  • 「人間は一本の葦でしかない…だが、考える葦である」。など、数々の名言が随所にある『パンセ』は、パスカルが人間の悲惨さ、偉大さについて省察した思索の書であり、魂の世界を反映した瞑想録である。冒頭の言葉を知る人は多いが、「人間は一本の葦」を含む原文を全部読んだ人は少ないであろう。結構長い一節であり、以下のように書かれている。

    「人間は自然のなかで最も弱いひとくきの葦にしかすぎない。だが、それは考える葦である。彼を押し潰すためには全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一しずくの水でも人間を殺すには十分だ。しかしながら、たとえ宇宙が彼を押し潰そうとも、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬこと、また宇宙が自分よりも優れていることを知っているからだ。宇宙はそれについて何も知らない。」

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    シェークスピアに匹敵する名文であろう。どういう頭の構造をしているのかを窺い知ることが出来る。われわれ凡人よりも数千倍(単位は恣意的)も頭がよいと感じさせられるが、この文の中でなによりパスカルは、「知ること」、「考えること」に対する信頼と覚悟が、甚だしく強く感じられるのだ。人間は、「知ることができる」という一点において、「全宇宙」よりも尊い存在と言い切る。

    そこらのおっさんが言えば、「なんという大げさな…」と思うだろう。決してそこらのおっさんをバカにしているのではなく、言葉は発する人によって価値を持つというほどに、われわれはその点無知蒙昧である。「何を言ったか!」よりも、「誰がいったか!」で判断するのは人間としての弱さでもある。権威主義は嫌いといいつつ、権威の奴隷になっている。

    自身に「権威」を都合よく内包させているのだろう。アカデミズムはそれらの頂点をなすものだ。「藤村新一」という名を記憶する人も少なくなったろう。彼は、「ゴッドハンド」の異名を持っていたが、外科医ではない。出身は宮城県で、元特定非営利活動法人副理事長の肩書き持つが…、「はて?」。"旧石器捏造事件を引き起こした人物"、といえば記憶が呼び戻される。

    「旧石器捏造事件」は、考古学研究家の藤村新一が次々に発掘していた、日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、全て捏造だったと発覚した事件である。中学校・高等学校の歴史教科書はもとより、大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大のスキャンダルとされ、2000年11月5日の毎日新聞朝刊で報じられたスクープによって発覚した。

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    毎日新聞のスクープで指摘されたのは、宮城県の上高森遺跡および北海道の総進不動坂遺跡だったが、彼のかかわった全ての遺跡について再点検と綿密な調査の結果がすべてが捏造であると確定した。「捏造家」という職業・職種はないが、佐村河内守、小保方晴子、藤村新一、森口尚史が日本人「捏造家」と言われている。韓国には黄禹錫(ファン・ウソク)がいる。

    黄禹錫は、韓国初のノーベル賞にもっとも近い人物とされ、「韓国の誇り」と称されていた生物学者であったが、ヒト胚性幹細胞(ES細胞)捏造事件によって、懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けた。森口尚史の名も記憶から薄れている。彼も東京大学で博士号を取得し、東京大学特任教授などを経て東京大学医学部附属病院特任研究員を務めた学者である。

    2012年(平成24年)10月、読売新聞により「ハーバード大学客員講師」の肩書きで「iPS細胞を使った世界初の心筋移植手術を実施した」と大々的に報じられたが、多方面から数々の疑義が提起されたが、その2日後に同新聞は「同氏の説明は虚偽」とし、それに基づいた一連の記事は誤報であったことを認めた。森口自身は、マスコミによる捏造と述べている。

    佐村河内、小保方においては未だ記憶のただ中にいるが、佐村河内外の日本人3人はすべてアカデミーに所属する。日本のアカデミーとは一体どんなどころか?を強く印象づけたのは、やはり小保方晴子の「STAP細胞捏造事件」であろう。藤村新一には同情はできないが、考古学にあまり予算がつかず、小世界の住人がやりたい放題な状況が放置されてきた結果である。

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    古代史はロマンであるが、所詮は飯の種にならないから勝手にやってれば?という雰囲気は誰にもある。そこで一役、名を上げたいという気持ちに襲われたのだろう。やってはいけないが気持ちは分る。考古学も閉鎖性が強い世界だが、原子力も教授や学生数は極度に少ない。だから意味がないとは言わないが、問題は「爆発しない」といわれたものが「爆発した」事。

    これは仕組みが分っていなかったことであるし、そういうものを科学といえるのか?この辺の経緯は、反原発側であり、今やテレビタレントの中部大学総合工学研究所特任教授武田邦彦教授が言う。学者は、爆発の確率ゼロとは言わない。「絶対」とか「ゼロ」とは言わず、どちらとも取れる言い方を仰るのが学者。これは委員会などで「残余のリスク」というもの。

    武田邦彦教授はそれを知ってか踏まえてか、ハッキリ白黒言う人であるが、そういう学者はムラから追い出されるのがアカデミーのしきたりである。学者の世界というのは閉鎖的であるが、委員会が無意味なセレモニーである以上、変わるものではない。そもそも「○○委員会」というのは、建前がほしい政治家や役人側の要請で開かれるものゆえ、学者に責任はない。

    アカデミーからあぶれた武田教授は、TV番組や一般読者向けの著書を多数出版、情報発信しているが、多くがベストセラーになっている。同じく、『患者よ、がんと闘うな』、『大学病院が患者を死なせるとき』、『抗がん剤は効かない』などの著作で有名な医師で、元慶應義塾大学医学部専任講師の近藤誠氏もアカデミーからはキチガイ呼ばわりされた人である。

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    広島大学消化器外科の自分の主治医も近藤氏を、「好き勝手いうのは責任もないし、本を売るためにはそうでなきゃ」と批判的である。同業者を悪くいえば業界で生きていけないのはアカデミーに限ったことではない。斯く言う近藤医師も、強靭な精神力で大学病院側と闘ってきた。強靭というより狂人的と言えるくらいに30年間、"孤独な闘い"を続けてきた。

    「出世もあきらめて、万年講師でした」と自嘲気味に言うが、その顔に悲壮感はない。近藤医師の主張は一貫している。医師や薬に頼りすぎない。抗がん剤も大きな手術も、がん検診もほとんど必要ない。特に早期発見されるような自覚症状のないがんは、「がんもどき」であって、放っておいてもがんにならないし、なんら影響がないという、『がんもどき理論』が有名。

    「多くの有名人が、がんの手術をしてすぐに亡くなっているでしょう。たいていは手術のせい。放っておけば半年や1年では死なない。これまでのがん治療は、"信仰"みたいな部分もあると思う。その意味で、医療と宗教は似ているが、宗教と違って医療は人を殺すことがある」と近藤氏は言っていたが、「オウム真理教」のような宗教も人を殺す前の発言である。
     
    近藤氏が最初に論争を巻き起こしたのが1980年代。乳がん患者への乳房温存療法だった。現在では一般的な治療となっているが、当時は乳房を全摘出するのが標準治療であった。そんなとき、所属元である慶応大学の外科が全摘出するのは、犯罪行為と名指しして雑誌に発表した。それ以降、大学病院内では孤立状態が続くが、「一念岩をも通す」の人であった。

    イメージ 5ムラ社会に限らず、そういう人は孤立するが、ムラ社会で孤立せず、それでなお発言力を強めていくためには周囲の認知を獲得するための地盤作りが先決といわれる。新参者でも独断専行型、あるいは共同作業を無視した勝手な行為を、「クズの集まるムラ社会に辟易、反吐が出る」といってみても、クズとて集団なら、クズにどう思われるかがムラの論理というものだ。
    「手術でポンと切り取ったおっぱいが無造作にお盆にのせられた様子を見て、無残だなと思ったよ。でもね、当時はほかに方法がなかったし、僕がどうこうしようだなんて思いもよらない」と、これは近藤氏の研修医生活1カ月で、始めて乳がん手術に立ち会った時のこと。彼の言う、自分がどうこうしようなど思いもよらない、またできもしない時期であった。

    それから10年後、担当教授の推薦で米中西部の研究所に1年留学。その留学で乳がんの乳房温存療法を知った。しかし、当時はまだ認知度は低く、慶應病院の外科も理解がない。近藤氏は、自身の生活基盤の領域を超えて、乳房温存療法を広めたい、全摘手術への疑問を世に伝えたいとの思いが、雑誌への手記に繋がった。医師としての「仁」公益優先への思いである。

    人はそれを勇気というが、岩をも抜く「信念」の強さとはそういうものと理解する。しかし、誤った信念、間違った信念もあるし、麻原彰晃などはその代表例。医学界では1991年に安楽死事件というのがあった。入院中の末期がん患者に塩化カリウムを投与し、患者を死に至らしめたとして担当の内科医であった大学助手が殺人罪に問われた刑事事件である。

    日本において裁判で医師による安楽死の正当性が問われた現在までで唯一の事件である。横浜地方裁判所平成7年3月28日判決は、被告人を有罪(懲役2年執行猶予2年)とした(確定)。判決では、医師による積極的安楽死として許容されるための以下の4要件を示している。

    1.患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
    2.患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
    3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと
    4.生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

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    本件では患者が昏睡状態で意思表示ができず、痛みも感じていなかったことから1、4を満たさないとした。ただし、患者の家族の強い要望があったことなどから、情状酌量により刑の減軽がなされ、執行猶予が付された。安楽死は様々な視点で議論され得る難しい問題だが、上記の4要件では、なにより患者の自己決定権が重視されていることが特徴である。

    今や世界の潮流は延命治療よりも「生命の質」を問う時代にある。いかに惨めな状態であっても、一分、一秒の命を長らえるといった生命至上主義に基づく延命療法を求める患者より、QOL(クオリティ・オブ・ライフ=生命の質、生活の質、生き方・死に方の質)を重視する時代にある。「あなたはずっと寝たまま状態で、意識もなく、それでも生きていたいか?」

    と、問われてみれば答えはでるだろう。そういう植物人間状態で生命の維持費がバカにならないなら死を選ぶ。維持費の問題に関わらず、昏睡だけで生きている実感がないなら死を選ぶ人も多いはずだ。このように自分の「生きる価値」、「死ぬ価値」について真剣に考える時代にある。生を重視すれば死は恐怖だが、元々無から得た命とするなら生は「余禄」である。

    これら、思考・思索が『パンセ』であり、「人は考える葦である」。して、人間は思考の末、「知ることができる」という一点において、「全宇宙」よりも尊い存在と言い切ったパスカルは決して大風呂敷を広げたのではないと言うのも分る。宇宙で起こることは現象に過ぎない。が、人間の行為は現象ではない、列記とした思考の産物だ。無意識の行為もありはするが。

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    ありはするが、考えることが出来るという一点において人間は尊い存在だ。人間が思考しなければ女性の乳房はすべて生ゴミと消えたであろう。人間が物理的に弱い存在であるのは認める。背丈の何倍もある高さからネコを背中から落としたところでしっかり立つ。子どものころ、アリを捕まえてアリの背丈の何十倍もの高さから落としても怪我をしないアリが不思議だった。

    われわれが知ってることの多さは、知らないことの多さに比べたら風と共に消える屁のごときであろう。また、「知ってる」と思ってることの多くは、「自分で知っていると思い込んでいるだけ」なのかも知れない。「知る」とは何か?本当に「知る」とは何なのか?意味を知ることも「知る」である。ならば、われあれは人生の意味を知っているのか?

    知るべきなのか?そもそも人生に意味があるのか?あれば幸福なのか?なければ不幸なのか?人生に意味があるのかないのか、とりあえずお前はどう考えるのか?人は生まれたこと自体に意味があるという人がいる。性交による自然生殖は「神の摂理」と言われた時代もある。今もそうなのか?ならば、女性生殖器内での自然受精を可能にする人工授精は邪道なのか?

    1978年にスペクトー・エドワードが生殖現象から性行為を取り上げ、「体外受精・胚移植」を発表、体外で受精させた受精卵(胚)を人為的に子宮内に移植し、着床を可能にしたのが、「神への冒瀆」ということになる。神は昔の人間(というのも変だが)だから、旧態依然として摂理を教えとし、科学の進歩など望んでいないとするなら、そんな神は邪魔くさい。

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    人類の進歩の妨げになる神は迷惑である。「神の摂理」という言葉は死語にすべし。よって受精の瞬間は意味というより現象である。出産も現象である。出産は意思というなら、尿意も便意現象と同じように、出産も現象である。もちろん、母も胎児も産みたい、産まれたい意思はある。出産に意味を求めるなら、生まれた直後に命を落とした赤ん坊に意味はない?

    貧しい国に生まれ、で物心もつかないまま餓死してしまった子どもの人生に「意味」はない?それも人生なら、100歳まで生きた人と等しく意味があるということだ。花の命が短くとも、そこに意味があるように…。意味のあるナシを長短・軽重とすべきと問題がある。ならばいっそ人生に意味はないとするなら、長短・軽重にあって平等か?平等主義の弊害が臭う。

    意味とは個々のもの。自分にあって他人の人生の意味はない。ないというのは責任を負うという意味で、眺め鑑賞する意味はある。われわれは遼くんや大谷や錦織のプレーを眺めるが、技術もさることながら彼らの人生を眺めている。彼らが勝っても負けても責任を負わない。人生に意味はある。人生に意味はない。それは個々が感じること、思うことであろう。

    という前置きで自分の人生に意味はあるのか?運よく床に伏して死がおぼろに近寄ってくる体験を味わうことができるなら、その時に自身の人生の意味をどのように問うのか、楽しみにしておこう。現時点で言葉にする人生の意味のあるなしよりも、いっそう意味があるように思うからだ。廻り廻って答えを出してみれば、文章もいわば人生のようなものだ。

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  • 05/13/15--01:42: 「教育」の薀蓄 ③
  • 王室のお妃が高卒であるなど日本では考えられない。それでも王室に入れる国である。それでケンブリッジ大卒の皇太子とは、話題も合わなかったというが、下に合わせられないのは上に問題がある。子どもと親は30歳近くも離れているが、それでも親は対処できるだろう(出来ない親もいるが)、年齢差を見下すことなどあり得ない。親子とは言わずもがな年齢差である。

    いずれにしても英王室における皇太子妃の選考要件としては、頭の悪さ、学歴、教養の有無などは関係なく、将来のイギリス王妃としての「Good looking (外見の良さ)」だけが重要であったようだ。ちなみに数日前に第2子のシャーロット王女を出産したチャールズ皇太子の長男ウイリアム王子妃キャサリンの母親は、元英国航空の客室乗務員であった。

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    父親も同じく運行管理者(Dispatcher)をしていて二人は結婚したが、母方の祖父母はそれぞれ工員と炭鉱夫の家系で労働者階級に属していた。そのことでウィリアム王子との結婚では、「炭坑から王室へ」などと皮肉を込めて報じられたが、家柄などなんら問題にならないお国柄である。欧米先進国にあっては、客室乗務員に対する社会的評価は一般的に低い。

    機内で食事や飲み物をサービスするいわゆる、「ウエイトレス的な仕事 」は、「高卒女性の職業」とみなされている。したがって客室乗務員の採用条件に、「短大卒以上」と明記されているのはKLMオランダ航空くらいと言う。日本でもお嬢様といわれる裕福な家庭に生まれ、大学に行く程度の頭脳がありながら、進学しなかった人の理由は以下考えられる。

    1.親が超傲慢。父母の思う大学のみ許可⇒プレッシャーで受験も全落⇒一浪ダメ⇒家事手伝い花嫁修業へ

    2.個性的(変人)だった。世界が俺を呼んでいる~と言って旅行人になった。山が俺を呼んでいる~と冒険家になった。流通業界が私を~と就職し、有能な経営者になっている人間がいる。

    3.実は貧乏だった。家庭の羽振りが良く思えたが、実は身内の借金を肩代わりしていて、奨学金があったから高校も卒業できたの。

    この手の話は実際にある。他にも理由はあるが、本人の自主性より親のメンツが優先されるのか、早くから手を回し、塾漬けにするのが日本の資産家家庭であろう。熱いキャラで人気上昇中の松岡修造も資産家家庭に生まれ、慶応幼稚舎に進んだものの学業は惨憺たる状態で、授業中も教師の話を殆ど聞かず、宿題にも手を付けない日々であったという。

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    慶応幼稚舎は4年生次から落第があり、その線上にあった松岡の母親は担任から何度も呼び出しを受け、本人も注意を促され、三学期になってやっと頑張って挽回し、からくも落第を免れるというパターンを繰り返すという問題児であったという。その後、慶應義塾高等学校に進むも、中学3年生の時に覚えた麻雀に嵌り、異常なまでにのめり込むようになった。

    夢中に取り組んでいたテニスよりも麻雀にうつつを抜かす毎日が続いたことで、「甘え地獄」(松岡曰く)を解消させるため、慶應での学生生活を捨て、高校テニス界の名門校として知られていた柳川高等学校への転校を決意する。彼はテニスプレーヤーとして名を馳せたが、幼少時期から問題児であったことが、現在の好感度キャラに生かされていると思えるのだ。

    慶応出身の有名人は多いが、いわゆるいい子でなかった松岡の個性はひときわ光る。文科省は大学入試センター試験を、5年後(2018年)をメドに廃止の意向で検討に入っているが、いつまで時代遅れの受験をやっているのか、この国は?2013年に発表された教育再生実行会議の提言には、1点刻みで合否を争う知識偏重大学入試とあるが、今頃気づいたって遅くないか?

    推薦・AO入試の一部は本来の趣旨と異なり、学力不問の選抜になってしまっている。このため、①入試で合格することが目的となっていて、高校で養うはずの力を育てることが軽視されている。②入試で評価される能力と、大学が測りたいと考えている能力にギャップがあり、入試の内容が大学入学後の学びに繋がっていない。これらの実態にメスを入れるという提言である。

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    その他の理由として、③「受験」があるのは日本・インド・韓国などのアジアだけ、④日本のように「一発勝負」の受験制度は、海外から見ると異様に見えるらしい、などがある。確かに人の能力差はいろいろで、人によっても学ぶスピードは異るなどの事情があるのに、たった1回の試験で失敗したら第一志望を諦めざるを得ない現状は、問題でないはずがない。
     
    フランスには、思考の過程を問われる「バカロレア」があり、歴史は古く、ナポレオン1世が「幅広く人材を発掘する」目的で1808年に導入したといわれ、中等普通教育の修了と大学入学資格の証明を兼ねるものでフランス国内で毎年70万人近くが受験する。バカロレアの特徴は、知識の暗記や受験テクニックだけでは太刀打ちできず、与えられたテーマについて論述する。

    正解にたどり着くことを目的とせず、答えが正解により近いことを説得力のある論理で示すことを求められる点は、正解が一つの問題を解く能力を鍛えることが求められる日本とはまるで違う。また、アメリカには多くの大学が取り入れている「SAT」がある。(このほか「ACT」という試験もある)多くの大学が「SAT」か「ACT」の受験を義務づけている。

    これは、誰がどの大学で学問を修める学力があるかどうかを判定し、合否の基準にする目的で作られた制度で、高校3年で計7回まで受験が可能となっている。最も良い成績を大学に申請し、高校の成績などと合わせて評価を受ける。また、米国トップスクールでは、エッセイと高校時代の成績と課外活動の記録、「SAT」の点数合算による書類選考が行われる。

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    スウェーデンの大学は全てが国立であり、入試の点数か、高校の成績表のどちらか良い方で、どの大学に入れるかが決まるシステムである。それらの成績が長期に保存され、25歳以上であれば、4年以上の職業経験が選抜の際に加味されるから、人生の途中で、どうしてもこの仕事に就きたいと思うと、やり直しが比較的容易にできるシステムになっている。

    "世界一過酷"といわれているのがインドの最高学府である。国立大学はインド政府の直接の管轄であり、資金が比較的豊富に供給されているが、その中でもインド工科大学の受験の規模は日本では考えられない状態である。インド工科大学は、インドの頭脳の輩出大学であり、インド国内ではマサチューセッツ工科大学やカリフォルニア工科大学に匹敵すると自負される。

    受験者は毎年30万人、合格率は60人に1人で2%を下回っている。インド工科大学の試験会場は、インド全土1026会場とアラブ首長国連邦ドバイの1会場を加えた、計1027会場で一斉に実施されている。皆一生懸命受験勉強をしてきた学生達ばかりで浪人もいたりと、競争は熾烈を極める。入学試験の結果次第で進める学科が決められる。入学後も遊んでる暇はない。

    4週間毎に試験を実施し、クラス毎に成績を発表する。これでは、学業をさぼれない状況にある。最高学府は勉強するところ、という主旨が国家的に打ち出されているし、日本と違って「勉強したくない奴は来るな!」である。日本の最高学府は東大であるのを疑うものはいないが、問題はその東大に入れる能力を本当に持っているかであり、入試の技術は二の次であろう。

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    ところが、入ることの技術ばかりが偏重されるから、入ったことで満足する。大学は終着点ではないわけなのに、あれほど苦労して入ればそういう気持ちにとりあえずはなるのだろう。よもや使えない東大生、いわゆる東大までの人、みたいな言われ方に自分がなるとは思わないだろうが、終わってみればなっている可能性もある。どうしてなったかは、無理して入ったからだろう。

    本当に最高学府に相応しい、ごまかしのない、即席的な、付け焼刃的な学力ではなく、真の学力をつけさせようという国家体系がない。受験請負屋としての塾に受験技術を牛耳られて、受験産業が潤う社会ってなんというか、滑稽である。本当の頭脳、真の頭の良さとは何であり、どうやってそれを身につける方法があるのかは、欧米国家の方が理解している。

    数兆円規模といわれる受験産業を路頭に迷わせたくないがために、旧態依然とした一発受験を長らく実施しているにほんの受験制度は文科省の役人と大手進学塾との根強い癒着があると考えるのは穿った見方だろうが、入学者を選別する合理的なマークシートは受験人口も減っている昨今に鑑みて止める方向で検討すべきであろう。「バカロレア」はいいと思う。

    何かと傑作な「Yahoo!知恵袋」に以下の書き込み。こんなことをしたい東大生ほど、入学した事、在学生であることを誇っているのだろう。誇るのは構わないが、誇って満たされる自尊心などたかが知れたものではないのか?人を見下すことでしか満たされない自尊心など危いね~。東大が最高学府であるかどうかより、最高学府に相応しい学生であるかを見ているのよ。

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    こういう事を書く東大生は最高学府と思えぬほどに幼稚である。「どう考えても最高学府は東京大学ですよね?たまに否定する馬鹿がいますが」。言葉の奥に見えるものは、最高学府東大生としての自負の無さ。だから他人に聞き、そうだと言わせたい。東大生がそんなこと聞くなよ、恥ずかしい。自覚があれば、東大を最高学府でないとする無知者をあげつらう必要ないだろ?

    こういうことをやる東大生は中で落ちこぼれているのを晒している。だから、せめて東大生という現実にしがみついて、落ちこぼれて粉砕した自我を留めていたいのだ。でなきゃ、こんなことを書く意味がないわ。一度も一軍に上がったことのない読売巨人軍の二軍選手が、飲み屋で「オレは巨人軍の選手だ」と言ってるようなもの。そんなこと巨人軍内では言わないだろ?

    巨人軍の選手の真の評価は巨人軍の中にある。同様に、東大生の評価も中にある。それを外に持ち出して評価されたい、いい顔したい、そういう人間がどの程度か想像しなくても分ろうというもの。囲碁や将棋のヘボプロが、アマチュアより強いと自慢してどうするって話だろ。世の中そういう人はいる。専門家が素人に何を自慢したところで、優れてるのは当たり前だろ。

    人に秀でたものを所有し、それが本人の自信になるなら素晴らしいことだが、他人に自慢するために所有するなら、持たぬ方が人間的に素晴らしい。そういう見方を自分はしてしまう。別に本人には言わないが…。自慢する人間を嫌う人は多い。茶化す人もいる。嫌ったところで卑屈になるゆえ、同情し理解した方がよい。「この人は自慢したいんだな」と…。

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    自慢話をされると自分が相手より下にみられて、それで腹が立つのだろうが、自慢する人はそうともいえず単に自己顕示であったりする。なのに、勝手に自分が下に見られたと思い込んで自尊心が傷つくのだ。自慢話にイライラしない方法は、なぜ相手が自慢するのかを考えればいい。自慢話をする人は実は相手に自分を認めてもらいたいからかも知れないのだ。

    野球選手が野球が上手いことを自慢はしない。ギタリストやピアニストがそれを自慢することなどない。なぜか?自分で自分のことが分かっているから自慢する必要もないし、むしろもっともっと上達したいと思っているはずだ。プロといえども他人に認めてもらいた部分はあるが、自慢することで認めてもらうことではナシに、相手を感動させることにある。

    となると、自慢することで人に認めてもらおうという人間は、相手に感動や尊敬を与えるものがナニもないということだ。だから自慢をするしかない。おまけに自分自身も自分を認めていない。つまり自信がない。よって自慢する人間は自分に自信がないのを、言葉によって「凄いだろうと」相手に思わせることで、自身を得ようとしているに過ぎない。

    まあ、自信というものは、"何かを極めなければ手に入らない"というものでもないし、自分は自分なのだし、自分でいい、何も他人と比較する必要はないと思うのも自信の一つの形である。他人と自分を比べてばっかりの奴がいる。そういう奴は自分の欠点や劣っていること、悪いところが気になって仕方がないのだ。欠点も短所も含めて自分は自分と思うこと。

    イメージ 8誰も完璧ではないのに、なぜ自分は完璧であらねばならない?そう自分を認めること。自分に不足部分があるのに、他人から認められる場合もある。お世辞の場合もあるが、どちらかは重要ではない。どちらであっても、自分の不足を認識していれば、自然謙虚になれる。よって無用な謙遜するより、素直に「ありがとう」と言っておけばいい。

    自慢が自慢に聞こえなくなると同様に、相手もお世辞を言って調子に乗る(自慢する)かどうかを見ている場合もある。それはそれで意地の悪い部分かもしれぬが、人とはそういうものかも。いろんなしがらみを持って生きているので、相手の意図がそうであるなら、調子に乗らなければ肩透かしを食らわすことになろう。

    すると相手は、(この人は人間が違うな)と思うかも知れない。別に人格者と思われる必要もないが、世辞の類にうつつを抜かすというのも、自信のなさの表れである。他人の評価を価値基準にしないで、自分は自分の目指すものがあるはずだ。「他人の評価に一喜一憂する者は、自らの軌道の上に立っていない」とニーチェはいったが、好きな言葉である。

    以上、後半部分は「自己教育力」について記した。自分で自分を教育する、つまり「自己教育」の言葉は以前から使用されていたが、それに「力」を付け加えることで「パワー」が増す。そのためには常に自分を客観的に見る必要がある。我先にとバーゲンに押し寄せる行為が悪いと思わぬが、それを浅ましいと感じるのは、自分を客観的に見ているからであろう。

    そんなことは世の中にあり過ぎる。たったの一分でも得をしたい、得をした気分になる生き方は、公道をクルマであわただしく走るのに似ている。如何に急いでいるとはいえ、飛ばしたところで、ゆったり走ってみたところで何分も違わない。「冷静さ」は「感情的」の対義語であり、冷静な視点は、自分を客観的に見ることで得られる。自己教育力で冷静さを…

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  • 05/13/15--16:48: 好奇心としての学問
  • 子どもが学校で教わる勉強を実務的でないと批判するのは大人の論理かも知れない。小学校に入学すればいろいろなことを教わるし、教わっていないことを教わるわけで、分らない事を教わる以上、分らないのは当たり前である。学校の勉強というのは知らないことを教わるところだから、教わったことが分らないでいいのか?いいわけない。

    誰からも教わらない知識を学校で教わるなら、分らないより分かった方がいいし、教師はその子が分かっているかいないかを知る必要がある。それがテストであって、その様に考えるとテストは必要であろう。テストはその子の学習到達度をチェックするものだから0点もあれば、30点、50点、80点の子も100点の子もいることになる。

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    もし、自分の子どもが0点を取った時に親はどう反応すればいいのか?100点ならどう反応すべきか?これらについては正しい親の処置(言い方・対処の仕方)があるはずだが、知らないままにあれこれ言うのが親だろう。どういう対処がいいなどと考えたこともないし、正解を知らない。教育学を学んできた学校の教師はそれを知っているのだろうか?

    別に正解を求めなくとも、0点取った子どもには「ダメじゃないか、もっと勉強しなきゃ」といったりする。人によっては荒れ狂う親もいるかもしれない。危機感を抱いて速攻、どこぞの学習塾に行かせようとする親もいるかも知れない。「おお、0点か?なかなかやるじゃないか!5点や10点より、0点取る方が難しいからな」という親はいるか?

    自分は似たようなことは何度もいった。0点は見たことないからだが、子どもを責めるよりは褒める方が面白いと思ったからだ。実際問題、10点と100点のテスト結果にどういう人間の差があるのか?100点を取った時に答案を見せられたことがあった。90点とかの時もそうだし、よい結果を子どもは親に言いたくなるが、その理由は何でか?

    子どもが100点を親に見せたい心理を考えたことがある。正確な心の中は見えないが、普通に考えれば親が喜ぶ、親に喜ばれたい、ということだろうし、現に母親は素直に、正直に喜んでいた。ということは、逆に悪い点数なら喜ばないことになる。ガミガミ怒る親も一般的だ。親ってそれでいいのか?子どもの成績に一憂、一喜する親でいいのか?

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    親への問題提起である。「いいんじゃないか、0点でも100点でもお前の勉強だろ?いい点のときだけ見せるようなことするな!いい点褒めて欲しいなら、悪い点を怒らなならんしな」と言ったことがある。この言葉を子どもがどう受け取ったか知らないが、母親が嬉しいならそれでいい。腹を傷めて産んだ子という共感か、男親と女親は違うし、違って当然かもしれない。

    100点は見せるが0点は見せないそんな子どもを自分は好まない。「テストの結果、勉強の成果よりも、いいところは見せよう、悪いところは隠そうと、そういう人間が好きになれない。まあ、それは酷な話かもしれない。人は基本的にはそういうものだと思うからだ。しかし、そこに問題提起をする以上、それを助長するような親にはなりたくない。

    子どもを真っ直ぐに伸び伸びとさせたいなら、子どもに姑息な心を親が植付けてはダメだろう。それが自分の教育観であった。言うまでもない、勉強は自分が自分のためにするもの、そう考えると、結果を親に知らせる必要ないというのは自然に導かれたし、それなら理念が一貫すると考えた。勉強を否定するのではなく、理念が大事だということ。

    結局親は、その場その場の自分の都合で物を言い、それが結果的に一貫性を欠いていたりするのは、誰もが子どもの時分に、"親って勝って過ぎる"と思ったはずだ。それなのに、親になったらそうなってしまう。こんなバカな話はあるまい。自分は親の身勝手さを痛感したからか、その時の子どもの気持ちを絶対に忘れまいと強く念じていた。

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    あまりに身勝手で傲慢で、こんな親に振り回されたらたまったものではないと子どもながらに強く感じたし、だから小学高学年で母親と絶縁した。以降は何につけても親に意見をされるのを拒否した自分は、勉学においても遊びにおいても、親と共有した記憶はない。もっとも4~5年頃までは勉学に遊びにうるさかったが、どこの親もそうなのか?

    字をうまく書けとうるさかった。父親は一切のことに無関心に見えた。無関心であったというより、今に思えば無関心を装っていた。なぜか?想像するに、母親がガミガミタイプだったからか?いや、自分が思うに、父親は本当に自分を愛している人だった。子どもは子どもの人生をやればいい、というスタンス、それが「愛」の根源である。

    母と父が言い合いしていた。「勉強なんかしてるようではロクな人間にならん」。この父の言葉が母を押さえつけた。小学5年生だった。その時どう思ったかの記憶はないが、母親のガミガミに対する父親の考えは凄いとか、おそらくそんな風に思ったかも知れない。この言葉に支配され、勉強は自分への挑戦と位置づけ、ガリ勉でない程度にやった。

    歴史年表など、憶えることが面白い勉強もあった。大化の改心、関が原、第一次大戦などの年代は、知りたい欲求にかられた。世界の国の位置と首都、全天の星座と一等星、体内の臓器の種類や位置、英語の歌詞の訳、百人一首と作者、文学と作者、三角関数や微積分、生命の神秘、物理法則の不思議さ、物質の謎や、元素の周期表などなど。

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    すべて知りたい欲求にかられた。だからそれらを知ること、知ろうとするのは自然なことだった。それを称して勉強という。知識欲は自分にとって実務的であった。昔の人間の多くは強い好奇心が勉学に向かわせた。何のための勉強か?自身の欲求を満たすための勉強であった。初等教育での鶴亀算、植木算などの算術も、面白い公理・定理である。

    産地の収穫物やユニークな地名、県庁所在地、山川平野などの地形も知りたいが優先する。学問が好奇心なら、「好奇なき学問に意味ナシ」というのが学問に対する自分の核心だ。学問だけではないすべてのことに言える。ギターもドスムスも好奇心から取り組み、だから上達する。浅田次郎は、「おしきせの学問を好まぬ」といった。「おしきせ」は死語で、あまり使われない。

    「おしきせ」は「お仕着せ」、昔、主人から奉公人などに与えられた着物をこのように呼んだ。季節ごとに渡され、季節に合わせて皆が一斉に衣替えする。決まった時に同じ物を全員が着ることから、「決まり事」というような意味が生まれ、さらにはそれが「(上のひとから)一方的におしつけられる」というような意味にも拡大したものであろう。

    学歴信仰社会の日本では、なぜかおしきせの学問が行われる土壌がある。もし、高校も大学も学問入試偏重でなければ、世の中はずっと変わっていただろう。が、たとえ学歴優先社会であったとしても、義務教育で最初に学ぶべきものがどうして学問であるべきかは疑問である。日本人として、この国で生きていくために必要な事や心構えを学ぶべきであろう。

    イメージ 5日本人が日本国家に対していかに生きるべきかを学ぶべきなのに、どうして最初から学問を教えようとする?そこに、学ぶ側と教える側に意識のズレが生じ、そのズレは、年を追うごとに拡大し、最終的にはどうにもならないほど拡がっている。学ぶことの大事さは、生きる為のそれであり、生き方を学ぶのであって、自分の周囲の世界との関わり合い方を学ぶのである。
    が生きていく為に学ぶべき事は沢山ある。が、それらの多くは学校では学べない。学校が知育偏重であってはならないも持論にある。小学校から東大や有名大学を目指す難関私立校ではそうなるしかない。果たして学校の教師というのは知識教育の課程を終えてはいるが、実用、実務、実利といった現実的な効用を教える人間ではないのである。

    その意味で学校は、教諭という職種の社会集団であり、閉塞的で孤立した社会である。したがって、教師と生徒も特殊な人間関係である。近所のおっさんとは訳が違い、一般社会に当てはめようとするには到底無理があるし、保護者は学校は普通でないという自覚を持つことが大事であろう。自分の記憶からみても、学校と近所の遊び友達は違った。

    休憩時間は決まっており、ドッヂボールや鬼ごっこはするが、時間制限が楽しさを奪う。メンコやビー玉遊びも学校ではできない。つまり、良くも悪くも学校はよそよそしく、誰もが学校用の嘘の自分をやる。その中で楽しくやるしかない。学校は一般社会には当て嵌められないとするなら、一般社会で必要とする訓練も得られないような気もする。

    人生において人は何につまずくのか?とてつもない大きな岩につまづくわけではない。目に付かない小さな石ころにつまづくことがほとんどで、それらの対処の仕方を道徳の授業で学んだとしても、学校というよそよそしき場での議論は、実務的でない。どういう発言をすれば教師受けがいいかを考える子どもが多いのは、作文を見れば一目だ。

    「平和」とか「人権」とか「友人」とか「親切」を書けば教師受けがよい。現実を生きる子どもにとって学校は観念的である。ホンネを書いているかより、タテマエの美しさを評価するところである。「うちの父は休日にパンツ一丁で昼寝をよくします。おまけに所構わずオナラをします。でも私はこういう父が大好きです」ではダメだろう。

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    「うちの父はとても疲れているのか、休日はよく昼寝します。私たち家族のために一生懸命に働いてくれているんだなど、父の寝顔に思いを寄せるのです」と、こちらの方が良い評価を得る。子どもが事物を素直に見、ためらうことのない的確な表現をする勇気という評価はない。つまり、学校という場はホンネを育む土壌にないということだ。

    学校は擬似社会を学ぶ場であり、ホンネよりも社会常識を身につけることを強いられる。閉じた構造の中で、お互いが都合のいい役割を演じる場になってしまっている。抑圧があれば反動もあるし、学校が生徒同士、教師同士、教師と生徒のいずれの関係をみても、あまりに閉鎖空間と言える。そういう中でイジメが発生するのは否定できない。

    互いがキャラを演じる場でのストレスは半端なく、その不満を自己のうちに向けるよりも、他者に向ける方がストレスが発散できる。こういう人間的習性要因を無くさない限りいじめはなくならない。つまり、学校でいじめはなくならないということだと、ある中学教師に言ったところ、「それでは身も蓋もないので、私たちは努力する」という。

    自分:「どういう努力をするのか?」

    教師:「道徳の授業を通して話し合うことですか、いじめの根絶に向けて…」

    自分:「頭で分からせても人の目を盗むからね~、監視するしかないんじゃない?」

    教師:「確かにそういう部分はありますね」

    いじめはストレス発散だから、悪いと分っていてもやる。ギャンブルも買春もストレス発散なら、悪いことだといっても無理なように。交通違反だって、ポリが見張っていれば誰もやらない。大人とてそうだから、子どもに頭で分らせることは難しいが、子どもの素直さ、従順さに期待はできる。道徳の授業がまったく効果がないとは思わない。

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    今年から中学の補導主任を命ぜられた女性教師は、好きな晩酌を止めたという。夜間でさえ生徒の不祥事の連絡があるし、校外補導もしなければならない。「補導主事ってコワ~い男の体育教官ではないの?なんで女性教諭なわけ?」と聞いたら、「うちの学校は女性の方が強いんですよ」という。なるほど、それなら男女差別なく女性が補導主事をやって悪くはない。

    しかし、好きな晩酌を止めなければならないとは、女性ならではの制約だろうか?もっとも男の教諭といえども、クルマを運転して所轄の警察に行くこともあろうし、ビールでくつろいでいるとそうもいかない。補導主事が禁酒を強いられるとは知らなかったが、言われてみるとそういうものだろう。女子生徒の性的な問題もあるというが、これは厄介な問題だ。

    今の子は早熟だからといって、避妊の仕方だけ教えている。又は、男と女の関係抜きに性行為ばかりを教えている。避妊法と性行為だけを教えるのは異常極まりないし、もっともっと男と女の正しい関係の在り方を教えるべきと、そういう古臭い観念論をいう人はいる。こんにちの世の中のように、性情報が突出する時代にあって方や性を誘発し、方や性の抑制を言う。

    どちらになびくかは人間なら分るだろう。誘発を止められない限りは妊娠や性感染症の二次被害を防ぐしかない訳だが、こういう観念論を口にする人間は現実認識がないといえる。生殖の性ばかりを教えてみても、コンドームの存在を誰も合理的に説明できない。「子どもが欲しくないときには出来ないように避妊をするのよ」と言ったところで、それは生殖ではない。

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    生殖でない性行為を何のためにするのか誤魔化さず説明できるなら、大人は子どもを見くびっている。子どもの頭の中身がどれだけ汚染されているかを知らない無知大人である。教育とは知らないこと、知るべきことを教えることで、大事か否かは主観に過ぎず、「のべつ幕なし」に教えるべきだ。ある教師が「のべつくまなし」では?と言った。

    この語句は結構勘違いが多い。「のべつ」は「述べる」の「のべ」に助動詞「つ」が付き、「絶え間なく続くさま」の意。「幕なし」は芝居で幕を引かずに演じ続けるの意。「のべつ隈なし」は、「隈なく探す」の「隈」と誤解したもの。自分も一時期誤用していた。「のべつまくなし」を使うは42.8%、「のべつくまなし」が32.1%とある。

    結論を言えば、結論はない。「できない子をできるようにするのが指導」と教師はいった。彼らは職業だからそれでいい。が、イジメをなくしたり、伸び伸びと育てたりの任もあろう。いや、教師にそれを望むべく人材がはたしているのか?であるなら親が任を負うしかあるまい。自分の子だし、当然といえば当然よ。

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    「早漏れだけど、どうしたらいい?」と悩める友人がいた。「ああ、早漏れ、水漏れはクラシアンに電話してみな」と冗談を言った。それにしても、「くらし安心クラシアン」という取ってつけたような名前と、CM攻撃によって成長してきた会社だが、結構トラブルは多いという。しかし、情報化社会にあってはぼったくり、泣き寝入りがネットでさらされる時代である。

    「ぼったくり!クラシアンの罠」というサイトにいろいろ書いてあるので、クラシアンに修繕を依頼したい人はよく読まれた方がいいが、とかく水漏れ(早漏れは場違い)は緊急性を要する困った問題なので、迅速な対応が必要となり、何はともあれ慌てて依頼する場合が多い。その辺りの顧客心理もあり、少々高額な修繕代を提示されて、「じゃ、止めます」とは言えないもの。

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    数日前、たて続けにパナソニック(旧松下電器)製のドラム型洗濯機とプラズマテレビが故障した。プラズマテレビの不具合は半年前くらいから症状が出始めていた。口では上手く説明できないが、たまに写真のネガフィルムのように色が反転したりの状態で、数分もすればすぐに直るので、修理の緊急性もなく、「またなったか」という感じで、鷹揚に構えていた。

    購入して8年、そろそろ液晶に買い替えを検討しつつ、どうせなら一気に壊れてくれんかなどと思っていたが、プラズマテレビの色合いの自然さはケバイ液晶(自分の主観)に比べて捨てきれないが、プラズマは2013年10月をもって生産中止となってしまった。液晶は早くからパソコンなどに使用されていたが、小型は液晶、大画面はプラズマという空気はあった。

    アメリカでもプラズマ主流であったが、それでも液晶派はシャープくらいだった。なぜ逆転してしまったのだろうか?考えられる理由は二つある。2001年に32インチのプラズマが日立から出て一世を風靡した。その後のテレビ市場は、40インチまでが液晶、それ以上がプラズマといわれていたが、液晶パネルが大型化に成功したことで、プラズマが不利な立場に追い込まれた。

    もう一つは、液晶テレビの価格低下である。加えて液晶は店頭での見栄えが圧倒的によく、一般客は明るくて店頭で映える液晶の美しさに魅かれたようだ。ブラウン管時代も量販店の店頭では、テレビの輝度信号をあげてメリハリをつけ、見栄えをよくしていたし、カラーテレビは色の美しさが何よりアピールになる。つまり、自然な色合いより美しさを見せていた。

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    それに反するかのように、ソニーのトリニトロン・ブラウン管が映し出す自然な色合いは、眼の肥えたユーザーの人気を博した。放送局用モニター菅は、ほとんどといってソニー製であり、ユーザーにあってはプロ用ブラウン管と呼ばれていた。しっとり感と瑞々しい色合いは、他を寄せ付けないものがあった。自然な色を再現するのがプロ用として求められたからである。

    ソニーの家庭用テレビも、「放送局用と同じモニター菅を使用しています」が売りだった。回路は放送局用とは違っても、モニター菅は同じであった。ソニーの技術は目覚しく、VHSにしてやられたβマックスにしても、汎用性品としてはかなりの高水準であったが、消費者は画質よりも長時間録画可能のVHSに魅力を感じた。βマックスの画質の美しさは頭に焼きついている。

    結局ソニーは、その高い技術力に眼や耳が肥えていない一般ユーザーとのギャップのジレンマに陥っていたが、それでも良い物を作って売りたいというコンセプトは、そのまま井深大と盛田昭夫の信念であった。世界のソニー、技術のソニーと商売上手の松下電器の図式である。松下電器はマネシタ電器といわれるほどに、コンセプトもなくパクリとケバさが売りだった。

    松下製カラーテレビの色のケバさは、水商売女の厚化粧並みケバさであった。団塊の世代というのは、いいもの、本物と同時進行で生きてきた。それはあらゆる分野にまたがっていた。クルマでいえば日産フェアレディ、スカイライン2000GTR、トヨタ2000GT、セリカ2000GT、カローラレビン、音楽はプレスリー、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ツェッペリン、ビージーズ…。


    エルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、サッチモ、ビル・エバンス、シャーリー・バッシー、シュープリームス、マイケル・ジャクソン。スポーツ選手でいうなら、力道山から始まって、長嶋、王、金田、ベーブルース、具志堅、大鵬、北の湖、ベン・ホーガン、ジャック・ニクラウス、尾崎将司、青木功。芸能なら、小津安二郎、美空ひばり、ザ・ピーナッツ、やすきよ漫才、談志、三平…。

    挙げればキリがないが、本当の本物が出てきた世代だけに、目が肥え、耳が肥えていると、そういう社会評価である。よって、団塊世代の感性を納得させる物作りは大変といわれている。いうなればSONYも世界のソニー、世界が真似のできないメイド・イン・ジャパンであった。ビートルズやプレスリーが真似ができないように…。「凄い」の最高位の称号は「無比」である。

    「比べることすらできない」。美空ひばりの歌の上手さが分る年齢になったとき、彼女を超えるものはおろか、比べるものすらいないのがよくわかる。話をテレビに戻そう。技術の結晶「ソニー・プレミアム」の一つが、前出のトリニトロン・カラーテレビである。トリニトロンはカラーテレビ受像管の一方式で、ウォークマンやAIBOのような「絵」になるプロダクトではない。

    しかし、「絵」を映し出す映像クオリティーは革命的で、1968年に発売されると同時に、国内外で高い評価を得、ソニー・ブランドの確立に貢献した。1973年には、米テレビ界の最高の栄誉「エミー賞」も受賞した。しかし、時代は手塚治虫の初期のマンガにあった薄い壁掛けテレビである。当時子ども心に、こんなテレビが本当にできるのかの思いはあった。

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    手塚治虫はまさに未来を生きる人。ブラウン管が衰退し、壁掛けテレビが現実化してきたとき、プラズマと液晶の二大対立が消費者を悩ませる。確かに、HiVi的見地からすればプラズマの画質のよさは液晶の非でない。それは明らかだが一般人からすれば、店頭では明るいテレビのほうが綺麗に観える。プラズマの衰退は、そういった複合的な理由があるのだろう。

    当時、液晶を売るためにメーカーから出向していたシャープの社員は、プラズマ・ディスプレイを覆う前面ガラス板に映り込む部屋の灯りをしきりにアピールしていたが、画質の違いは比ではなかった。プラズマには保護用のガラス板は必要で、バックライト方式の液晶の方が確かに明るい。液晶には視野角という問題点があったが、正面から観る店頭では分らない。

    液晶は消費電力の少なさもある。初期のプラズマは、50インチで500Wを越えていたが、液晶は40インチで100Wを目標に掲げて努力をした。それは果たせなかったが、省エネ化は進んだ。現在はバックライトにLEDを使い、消費電力は飛躍的に減少している。商品が壊れたから買い換える時代でないし、エアコンや冷蔵庫の省エネ化がセールストークになっている。

    プラズマも液晶も画面が大きさに比例して消費電力はあがるし、フルハイビジョン化⇒4K⇒8Kという流れから画質を高精細化すれば、電力の制御が難しくなる。パナソニックのプラズマ断念は、高画質と省エネが両立しないとの判断もあったのだろう。LEDをバックライトに使える液晶に勝ち目はなく、2010年に2100億円投じた尼崎第3工場をはじめプラズマ工場をすべて閉鎖した。

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    パナソニックは12年3月期に7721億円という巨額赤字を計上、13年同期にも7542億円の赤字を計上した。赤字の主な原因はプラズマテレビ事業にあった。作っても売れない、それでも作らざるを得ない、売れない以上叩き売りをする。「プラズマからの撤退なくして、パナソニックの再生なし」。かなり前から撤退が取り沙汰されていたが、完全撤退を決断できないでいた。

    プラズマファンにとっては残念なことだが、最近の液晶は幾分進歩しているのが救いである。液晶の物理的欠陥である動画応答速度の遅さも、近年は倍速、4倍速という補正で改善されているが、自然な色合いの画質はやはりプラズマである。今回、プラズマの故障に際して、何度も量販店に通って液晶をみた。50インチで10万程度だが、やはりプラズマは捨てがたい。

    で、結局修理を依頼することにした。事前に金額は分らないとのことで、ネット情報などから基板交換なら3万円(基板一枚につき)程度で、二枚の可能性もあるということだが、それでも修理に決めておいた。結局基板交換はなく、LDVSケーブルの劣化で要交換という事であった。LDVS ( Low Voltage Differenctial Signaling ) とは、デジタル有線伝送用のインターフェース。

    部品代そのものは800円だが、技術料15000円に出張費、その他で、19764円の修理代金であった。事前に、「トータルで20000円程度」といわれ、基板交換からすれば安価であるし、了承した。ドラム式洗濯機の異常はその二日後に発生した。洗濯後に排水が出来ないでドラムに溜まったままで、配水管のつまりは素人にも分るが、縦型洗濯機のように自分でやれない。

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    修理依頼をした内訳は、部品代0円、技術料7100円(配水管のつまりを除去)、出張費、その他で計10368円となる。開けてビックリ、よくもまあこんなにつまるものかというくらいに、繊維のカスが詰まっていた。ヒートポンプ式なので排気を循環させるために、繊維を細かくして二重のフィルターを通しても、長い期間使用すればあり得ないくらいの繊維のクズが溜まる。

    「チリも積もれば山」となるの言葉通りの実感である。おそらくドラム式を使う家庭において、繊維が詰まって排水できない故障は相当数あると思われる。なにしろ、1回乾燥をしただけでも目に見える量の繊維のクズがフィルターについている。注意書きには「乾燥フィルターは使用の度ごとに掃除をしてください」と記されている。チリ(糸くず)とてバカにできないものよ。

    「詰まる」という現象ほど困るものはない。人間も脳血管や心臓の冠状動脈がつまると死に直結する。結石で尿路つまる、胆管がつまる、うんちがつまれば便秘となる。出るものがでないのはそりゃあマズイ。水道菅がつまる、トイレの大が流れない、お風呂の排水ができない、こんなでは安心した暮らしができない。そこで考えられた、「くらし安心クラシアン」という社名だ。

    そのクラシアンがぼったくりというなら、なぜに社会問題にならないのか?『水道の水漏れ5千円!パイプの詰まり8千円…安くて早くて安心よ。』とうたっているクラシアンだが、これをまともに受け入れる人は、いささか甘いといわざるを得ない。例えば『水道の水漏れ5千円』というが、何が5千円で、何がかけ落ちているかを判断せず、5千円でO.Kと思う消費者が軽率だろう。

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    軽率以外に言葉を探すなら、「甘い」である。水道の水漏れ5千円と信じて依頼したが、それならば何も分解せず、緩んだ部位をレンチやスパナで締めると直る場合が出張費込みで5千円という事はある。こんなのは締めるだけだから実質1分もかからないし、それで手間賃というものでもなかろうが、そういう事を自分でせず(わからないのだろう)水道屋を呼ぶ人もいるわけだ。

    昔、幼なじみの女が結婚した旦那を「蛍光灯も取り替えられないのよ、どう思う?」と不満を言ってたことがあったが、70歳、80歳でひとり暮らしのお年寄りなら分らなくもないが、20代の男が蛍光灯も変えられないとは呆れるしかないが、誰かに愚痴を言ったところでお前の亭主なんだよ。ノロケも同罪で、お前の亭主はお前が素敵だと思っていろってことだ。

    良きにつけ悪しきにつけ、つい人に言いたくなるんだろうな人間は…。ところでクラシアンがぼったくりというのは、サイトの書き込みを読めばよくわかるが、工事担当者によって値段が違う、また顧客の種類(うるさいorおとなしい)によっても値段が変わってくるのは、この手の零細業者の常道である。5千円を1万円といっても払ってもらえるなら高い方がいい。

    ところがパナソニックとかの大企業とならば、全国一律誰がやっても決まった額が設定されている。「ぼったくり!・クラシアンの罠」によると、これだけ高い料金を取られながら、なぜトラブルにならないか。について、作業前に必ず料金を提示するからだという。提示しても法外だと思えば断る依頼者もいるだろうが、「せっかく来てもらったのだから」というのが一般的日本人。

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    その辺を考慮に入れた商法だろう。「○万円と、思っても見ない高い見積もり金額を言われても、『じゃ、やめます』 と追い返す勇気のある客はまずいない。名の知れた業者だけに、なおさらである。途中で新しい問題が発見され、追加作業料金を提示されても、それが余程の金額でない限り、 それを断って改めて別の業者に依頼する気にもなれない。」と書いてある。

    「合法的ぼったくり手法」だそうな。いくらかかるのか不安があるなら、何もクラシアンでなくとも、あちこちの水道業者に事前に問い合わせてみるのが妥当だ。自分は引越しの際、3つの業者に見積もらせ、最後の業者が見積もった後で、前の2つの業者よりも安くやるならそちらで頼むという。引越しの値段もあってないようだし、仕事を取ると損はでないから必ずO.Kする。

    世間とはそういうものだと踏んだほうが賢いということだ。世間の言いなりになるのではなく、こちらが世間をリードして行く。ところが人間という奴は見栄っ張りというのか、「引越しの見積もりは3件くらい取ったほうがいい。結構値段違うからいちばん安いところでやった方がいいよ」と教えてやると、「別にそんなことまでしなくてもいい」という奴はいる。

    イメージ 8「そんなことまで」の「まで」がオモシロイ。別に「まで」というより、当たり前の知恵だと思うが、「まで」の意味は、"自分はお金持ちだよ~"、"面倒くさい"、"そんなセコイことしなくても"くらいしか思い浮かばない。「まで」をいう奴をバカだとは言わないが、業者にしてみれば裏打ちでいわゆるカモのような、言いなりになる客を「バカな客」と言っている。

    それでいいならいい。お金を出す側の自由だ。クラシアンのようなぼったくり会社にわざわざ依頼せずとも、CMナシの地味な業者は沢山あるし、それよりなにより、水漏れの主原因はゴムパッキンの劣化で、日曜大工店に行って材料を購入すれば、修理実費は300円でお釣がくる。蛇口の原理を知ればサルでもできる簡単な修理である。



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    「くらし安心クラシアン」というコピーは、どうやらインチキであるらしい。もっともそのようなコピーを真に受ける人間ばかりではないし、蛇口からの水漏れなどはほとんどゴムパッキンの劣化なので、日曜大工店でパッキン(200円くらい)を購入すれば簡単に交換できる。自分でやると5000円がいかに高いかが分る。水栓の原理は簡単なので難しく考えないように。

    「くらし安心クラシアン」がぼったくりのインチキなら、「くらし安心グラシアン」は、正しいこと間違いない。グラシアンとは、バルタサール・グラシアン(Baltasar Gracián y Morales, 1601年1月8日 - 1658年12月6日 哲学者、神学者、イエズス会司祭)著述家でもある彼は、教育的・哲学的な散文を数多く残し、世界中で翻訳され、多くの人々に愛読されている。

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    ショーペンハウエルはグラシアンの著作のドイツ語訳を手がけ、森鴎外は部分的な日本語訳を発表している。ショーペンハウエルは、「人生のよき手引き書」といい、ニーチェは「ヨーロッパはいまだかつて、これほど精妙にして複雑な人生の道徳律を生んだことはなかった」の言葉を残している。欧米ではこんにちなおマキャベリの『君主論』と並び、不朽の名著と読み継がれている。

    聖職者による人生訓が何ゆえそれほどに人を魅きつけるのか?ニーチェをしてグラシアンに対する手放しの賛辞は驚きというほかない。ニーチェは言わずと知れたアンチ・キリストであり、彼のキリスト教批判には辛辣な言葉が多い。「あらゆる国家も社会秩序も、階級も結婚も教育も法も、すべてこれらはその力と存続をただとらわれた精神の抱く信仰にもっている。

    したがって理由のなさ、あるいは少なくとも理由への問いに対する防御の中にもっているといえる。そのことをとらわれた精神は承認することを好まぬが、それが恥ずべきことだと当然感ずる。その知的な発想の点できわめて無邪気であったキリスト教はこの恥ずべきことには少しも気づかず、信仰を、ただひたすら信仰を求め、理由を求める願いを熱意を込めて退ける。

    つまり、信仰という結果を指して、『あなたたちは信仰の利益をきっと感ずるようになるでしょう』といい、『あなたたちは信仰によって至福を得るべきです』と暗示する。国家の行き方もまた事実そのとおりであり、父親が息子を教えるのも同じ仕方である。『ただこのことをほんとうと思えば、どんなにそれがよい効果をもつかがわかるだろう』という。

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    だがそれは、一つの意見が運びこむ個人の利益からそれが真理であることが示されるはずということで、つまり一つの教えの役に立つことが知的な確実性と根拠づけを保証するということである。このようにとらわれた精神は、その原則を利益のためにもつから、したがって自由な精神を判断するときもその見解をとることで利益を求め、まさに役立つもののみを真とするのだと憶測する。

    しかし、とらわれた精神が自分と同じ種類の人々に役立つものとは正反対のものが自由な精神には役立つようには見えるので、自由な精神の原則は危険だと考える。彼らは、自由な精神は正しくない、なぜならばそれはわれわれの害となるからということを口にもし感じもする。」いささか長い引用だが、ニーチェのいう"自由な精神"とは、自由に情熱を上げるひとではない。

    すべての信仰から眼をそらして試みつつある思惟のきびしさをもつ人をいう。一方、グラシアンは自由についてこのように言う。「正しい道を進むために、いつでもよく考えることが大切だ。熟考すること。常に先を見据えること。この二つこそが人生に自由を与えてくれる。」  2人の共通点は、生の奴隷として生きるな、生の主体として生きろと言っている。

    義務への服従でなく、自らが価値定立の主体としてということ。グラシアンの先を見つめて熟考とは、予定通りに生きるということ即ち自らの価値定立である。ニーチェは、『この人を見よ』のなかで、「自由精神とは、再び自分自身を確実に所有するに至ったところの自由になった精神」といい、こうなるためには世俗を抜き出て孤高に耐え抜く「例外者」になる必要ありとする。

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    「例外者」というからには、例外なのだろう。賞賛を期待するなどもっての他であり、不敬・非倫と世間の非難を浴びる覚悟をしなければならない。当然であろう、人間は社会的な動物だ。が、ニーチェはこういう自由精神を、「決して安易な独断の生ではなく、むしろ因習的独断にとらわれていた自己を超克し、本来の自己へと帰還していく困難極まる途である」という。

    自分がおかしいのではなく、因習がおかしいということだが、おかしいとしても社会の世間の決め事である。変人はみな自分はまともだと思っている。おかしいのはむしろ世間であると思っているが、世間とは善悪良否を超えてマジョリティである。そこに立ち向かうのは並大抵ではない。そもそもグラシアンは、このような問題にどう答えを出しているのだろう。

    人との関わりについて、「好ましい人とつきあうべし」という。「相手から学び、互いの意見の交換の場にすべし。見栄だけで行動する人は避けるべし」という。また、「信頼できる人とつきあうべし」という。「誰に対しても、高貴な人だなどと思いこまぬように。そうでないと自分の心が畏縮するからで、いかなる偉大な人も話してみれば、その偉大さは錯覚と分る」という。

    確かにそういう事は多い。話してみると、「なんだ、普通の人間じゃないか…」と。当たり前だ、人間は人間以外の何者でない。どんな美女でさえ、裸になれば普通の女である。それを幻滅というなかれ。うんちもしないような女だと勝手に定義づけたのは自分である。グラシアンの言葉をまとめた『賢人の知恵』は、確かに「くらし安心グラシアン」に相応しい。

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    次の一文などは好例。「頑固、生意気、ぶしつけ、無分別な人に出くわしてもいいように、前もって心構えをしておくこと。こういうタイプに立ち向かうための良策はない。たまたま出会うことを想定し、不毛な衝突に巻き込まれないようにすることだ。バカバカしいやり取りに引き込まれないよう、また、相手への振る舞いが横柄にならないよう、気をつけよう。」

    確かに無駄な言い合い、くだらない論争はさけるべし。自分は相手にそれを感じたらさっさと店じまいをして店の中に立ち入らせないようにする。公的な場で自分が相手を選り好みするのは避け、相手に選ばれることに主眼を置く。そうするのが公平な付き合いだと思っている。ただし、公の場においてである。女数人のグループと付き合うときにはさらなり。

    まず、グループの中の不美人と多く会話を心掛けるのが鉄則である。バカな男は女の嫉妬の怖さを知らない。見え透いたようにかわいい子ばかりに気持ちが行くと、不美人の妬みを呼び起こし、障害物となり得る。りあえず、べっぴんさんは無視して不べっぴんさんと関係(絆)を強めること。誰からも真っ先にチヤホヤされていたべっぴんさんの気を揉むことにもなる。

    美人にチヤホヤしても、そんなの当然、いつものことと思っているべっぴんさんには、むしろチヤホヤしない方が相手の気を惹く効果がある。つまり、当たり前のワザと避けるのがいい。むか~し、そうしていたときに、べっぴんさん側から個人的に、「なんであんな子がいいの?」と言われて驚いた。女というのはみさかいないというか、そこまで露骨な物言いをするものかと。

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    まさに感性だけで生きているかのようである。こういう非理性的な物言いを、男は口が裂けても言えないが、美人とて不細工に嫉妬するもの。グラシアンは、「心づもりを明かさないように」と、このように言う。「感情は心の窓。現実を考えれば包み隠すべきものだ。手のうちを明かすと確実に敗者となる。用心していれば、あらゆる攻撃に対しても優勢を保てる。

    自分の望みは秘密にする。そうそれば、それを横取りしたり、阻止したりしようとする相手をくじくことができる」。人間というのは何事も自分が理解できることは普通に思えるから、あまり関心を払わないが、反面、自分の理解を超えたり上回ること、把握できていないことに敬意を払う。貴重品が貴重なのは高価だからである。よって、つかみどころがないと思わせる。

    得体の知れないが価値がある人という期待が続く以上、相手はよく分らないが称賛はするものだ。これを故意にやるというのは大変だし、できてるひとはそういう性格を自然に有しているの違いない。作為というのは長続きしないものだから。賢者は賢者のように生き、振舞っているのではなく、本人的には自然の振る舞いであろう。だから賢者といえるのかと。

    『賢人の知恵』を読むのは賢人になるためでなく、読んで賢人になれるはずもなく、ショーペンハウエルのいう、「人生の手引き書」であろう。読んで賢くなる書物などこの世に存在しない。つまり、読むだけでは何事も分ったつもりで終りだ。ある時に書かれたことを思い出して、それを参考にやってみる。そういった行為なくして人間は賢くはなれない。

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    グラシアンは賢くなる方法など提示も教授もしていない。が、「常に自分の内面をチェックせよ」という。自分の気質、能力、判断力、感情などを正確に評価するのが、自分を知ることになり、自分を知ることが自己改善・自己変革の基本である。つまり、「何をどうする」ためには、「何」が「何」であるかを知ることだ。また、「何」がどう「悪い」のかも知ること。

    何の善悪を知ることが、内面を知ることだが、実は意外と難しい。そういう場合は他人からの指摘に注意しておけば間違いない。他人は自分の師であろう。吉川英治は、「自分以外はみな師」といったが、人は自分が学んだ相手の言葉を語り、その努力を通じて成長する。これが達成できる人は優れた人でしかない。吉川の言葉は彼がそうできるか否かを問うものだったろう。

    人間という脆弱な生き物には、何が影響するか分らないほど多くからの影響を受ける。昔、男を嫌悪する女がいた。いろいろ聞いて分ったのは、彼女が父親をとてつもなく嫌悪していたこと。そのあまりに尋常ならざる嫌悪さにあらぬ想像を抱いたが、それを聞くことはしなかったし、聞かされることもなかった。彼女には彼女なりの父親から得た男性像がある。

    自分にも母親から得た女性像がある。それによって女性を尊敬し、また軽蔑もする。自分が女性の嫌いな点はすべて母親の嫌な点である。尊敬する女性は、自分の理想の女性像であって、母親を反面教師にしたタイプでもある。このように自分の中に作られた女性像のほとんどは、母親に関連する。父親を嫌悪するあまり、すべての男を嫌悪するというのはただならぬ事だ。

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    そうに至ったただならぬ何かが彼女にあったという事だろう。親と言うのは、なんとも罪深いものかと。子どもの一生に汚点を残すほどの影響力を与える親など、むしろない方がいい。逆もあり得る。あまりに父親(母親)にのめり込んでしまう子どもも、実は被害者である。それを明らかにしたのがフロイトであった。いわゆる、マザコン、ファザコンと呼ばれる深層心理。

    グラシアンはこのように言う。「愛され、かつ敬われることは望ましいが、尊敬を失うまいとして愛されることに執着しすぎてはいけない。愛は憎しみより大胆で、愛着は畏敬の念より図々しい。人は結婚するとき、愛されすぎるリスクを負う。愛情が深まるにつれ、敬意はうすれていく。度を過ぎれば侮りのもとと言うわけ。愛情は深さではなく正しい理解こそ大事。」

    子が親を本当に必要とする時期はある。正確にいつまでというのはいろいろな考え方があるが、何より不幸なのは、必要としていないのに親からまとわりつかれること。子どもは直接的・間接的、さまざまな方法で親の害を示すが、物分りの悪い親はそれに気づかない。傲慢な親も、自分が虐げられるなど許されないと思っている。その点立派なのは動物である。

    子への愛情に執着しないし、子から執着されたい気すらない。太宰治に『斜陽』という一篇がある。斜陽とは西に傾いた太陽。夕陽。そのことから、勢いあったものが時勢の変化で衰えることの意味に使われる。親は子に対し、斜陽の姿をさらさないことだ。忘れられ、のけものにされる前に自ら去るべきである。子が自分を必要としなくなることこそ、「子育て」の目的である。

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    テレビを見て時たま思う。かつての美女が、あられもない厚化粧でテレビに出てくるのが痛々しい。職業である以上、呼ばれて出るのはいいとしても、絶対に出てこない銀幕女優がいる。2014年12月発売の『週刊女性』にある記事の見出しをみた。「甥が語った!御年94歳・原節子の新居での極秘生活」。原節子といえば、"永遠の処女"と称された銀幕の大女優。

    1963年、恩師小津安二郎の葬儀に姿を見せて以来の52年にも及ぶ隠遁生活。『週刊女性』の司葉子と冨士真奈美の対談記事で司が、「(原節子は)ほんとにすてきなお姉さま。今でもときどきお電話します」。姿を見せないが隠遁ではないようだ。甥は多くを語らない。「病気などもなく元気に過ごしています。私が言えることは彼女が元気ということだけ…」

    原は自ら女優になりたかったわけではなく、家庭が貧しかったからである。高峰秀子もそうだった。そんな大根女優を名女優に変えたのが小津であった。引退の理由は明らかにされていないが、小津が亡くなったからというのが有力である。原の4歳年下の高峰は5年前に死去した。老いは必然だが、原節子、ちあきなおみ、山口百恵に引退の美学を見る。

    小学生のときの初恋の女性は、50年を経ても永遠の少女は、あのころのままで自分の心のなかに住みついている。ノートに片隅に書いてはすぐに消したなまえ、誰にも分らぬよう木に切り刻んだなまえ。「この恋は永遠に終らない…」と、そのように想うのが初恋であろう。永遠に醒めない夢が人生にひとつくらいはあってもいい…

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    「もっと勉強していれば運命が変わっていたかも…」みたいなことをよく聞く。勉強して何がしかになっていたとしても背負った何かで苦しむかも知れない。有能な科学者になったから死なざるを得なかった人もいる。バカだから楽しく人生をやれた人もいる。結局何をしても、それなりの後悔はあるのだし、「後悔」という言葉を事前に消すことなどできないだろう。

    予備校講師だった(今もだが)林修が、「今でしょ!」という言葉を流行らせたが、彼の職業上「(勉強するのは)今でしょ!」との意味だったと思うが、イチローや錦織や将棋の羽生やフィギュアの羽生、そして浅田真央やサッカーの本田に言ったところで通用しなかったろうし、誰にでも相応しい言葉ではない。アスリートに限らずやる事のない人間に、「勉強しろ!」は相応しい。

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    いつも勉強を否定することを書いているようだが、根本的に言いたいことは、上に記した世界になだたるアスリート達もその練習の中で、「今でしょ!」みたいな事は言われたはずだ。錦織の松岡修造がコーチだったときに言われたかも知れない。松岡ならいうだろうし、誰だっていう言葉だ。今やるべきことを今やる、考えてみれば当たり前の言葉だから、別に名言でもない。

    「今日の仕事を明日に延ばすな!」を短くしたものが、「今でしょ!」である。とりあえず目標として掲げる野球選手やサッカー選手、フィギュアのスケーターであるなら、コーチは毎日、「今でしょ!」といったはずだ。さぼらせないのがカネを貰う指導者の責務である。親も子に夢を託すなら、言葉以外のいろいろなサポートのなかで、「頑張ろうね」くらいはいうだろう。

    フィギュアスケートに長久保裕という名コーチがいる。1946年生まれの彼も元フィギュアの選手で、1966年、全日本フィギュアスケートジュニア選手権男子シングルで優勝の後、1967年から1971年まで、長沢琴枝とともに全日本フィギュアスケート選手権ペア5連覇の偉業がある。競技引退後は千葉県松戸市で指導者となり、1988年から仙台市の「泉DLLアカデミー」のコーチとなる。

    荒川静香はしばしば宮城県出身、仙台市出身と紹介されるが東京・品川生まれの鎌倉育ち。静香という名は鎌倉にゆかりのある静御前から取られている。1983年(昭和58年)春、父親の転勤に伴い、1歳4ヶ月で宮城県仙台市に転居し、小中高と仙台市で学んだ。高校はスポーツで名を馳せている東北高校である。荒川がスケートに興味を持ったのは5歳の時であった。

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    なにげに遊びに行った勝山スケーティングクラブでスケートに興味を持ち、「ちびっこスケート教室」に入会した。それまでは水泳、体操、英会話、書道、そろばん、ピアノなど様々な習い事をしていたいわゆるお稽古事少女であった。そして小学1年生のとき、オレンジワン泉(現・アイスリンク仙台)で長久保裕の指導の元、本格的にフィギュアスケートを始めたのである。

    オレンジワン泉を本拠地とする「泉DLLアカデミー」には、長久保裕の指導を受ける田村岳斗、本田武史がいた。二人は東北高校の先輩・後輩で1996年の全日本シングルでは後輩の本田が優勝、田村は二位に甘んじたが、翌1997年度では田村が優勝(本田は怪我で欠場)した。このとき東北高校1年だった荒川は女子シングルで優勝をした。2位は一歳年上の村主章枝であった。

    前年度の全日本では荒川はSPで一位になりながらもSP三位の村主にフリーで逆転され、優勝村主、荒川は二位に甘んじた。伊藤みどり引退後、村主・荒川・安藤・浅田と続く女子フィギュアだが、荒川と村主のバトルは熾烈を極めた。全日本フィギュア女子の一覧表で見ると、1997年・1998年連覇後の荒川の優勝はない。この時期の荒川の悔しさはいかなるものであったろう。

    そうしたなか、2005年12月に行われた翌年2月に行われるトリノオリンピック選考会を兼ねた、第74回全日本フィギュアシングル女子で荒川は三位に終る。優勝は村主、二位は浅田真央であった。7年間も全日本の優勝から見放されていた荒川が、2006年トリノオリンピックで金メダルを取ったのだから分らない。同じ代表の村主は四位、安藤美姫は十五位の成績だった。

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    我々は結果だけで判断するが、荒川の苦悩は想像できるし、この金メダルの重みが彼女にどうであったかも想像は可能だ。それに引き換え村主の悔しさも想像できるが、村主は明石家さんまに当時の心情をバラされてしまった。トリノオリンピックから8年後の2014年6月9日、毎日放送「明石家電視台」でのこと。その時のゲストはフィギュア男子の織田信成と町田樹であった。

    さんま: 「俺ね、あるフィギュアスケートの選手といっぺん飲みに行ったことがあるんですけど、もう一人の女子の人をすごい嫉妬してはって、あれはあの得点は入るはずがない、私のほうが良かったんだ言うてウォンウォン泣かれた日があるんですけど…」

    織田: 「え~?ど、どなた?」

    さんま: 「名前言えるか!アホ!」

    村主自身がトリノオリンピックの後、「さんま御殿」に出演し、その後打ち上げに言ったと当時話していたので、おそらくその時の事と思われる。まあ、女の嫉妬だから荒川にも村主に対する嫉妬はあったろう。ただ、荒川は最後に勝って笑った人だ。村主はいろいろ問題があるのか評判がよろしくなく、解説などに呼ばれることもない。なぜか村主に対する悪評は多い。

    荒川を憎んで無視し認めようとしない。中野友加里には練習の妨害をし、佐藤夫妻から叱責を受けるも謝罪せず勝手にコーチを変更。安藤にワザとタックルして怪我をさせ謝りもせず、出産には上っ面の祝福。浅田にはキムと比較して嘲り、団体戦敗因の戦犯責任をなすりつける。これら真偽は定かではないが、マスコミ露出のなさが人気の無さをものがたっている。

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    女の嫉妬というが、男にも嫉妬はある。ただ、男は理性を働かせてそういうモノを追いやろうとするし、嫉妬するなど無様なダメ男と強く自分を戒める。女にだってそういう強い理性の働きかけはあるし、「人に嫉妬するなんて女のやることではない」という風になればいいだけの話。「人を憎む、嫉妬するのはよくない」と思いながらも、情念が災いし、コントロールできないのだろう。

    村主に限らず、自分が打ち込んできたある何かが結果的に人を嫉妬する要因となっているなら、「やらなければよかった」と思うかもしれない。しかし、人との比較を止め、競技は自分の向上心の闘いと思えば嫉妬もなくなるはずだが、現実に競技は他人との戦いである以上、感情の起伏に左右される。それを戒める言葉として、「自分との戦いです」と競技者はいう。

    誰もが目指すものは、自分の感情・欲望・邪念などにうちかつ「克己心」であろう。村主章枝(33)は2014年11月13日に、日本スケート連盟に引退届を提出、受理されて同日、東京・岸記念体育会館にて現役引退会見を行った。28年の長き競技人生を、「寂しい思いもあります」と言ったのをみると、完全燃焼での引退でもなさそうだ。これ以上生き恥を晒したくないもあったろう。

    彼女はトリノオリンピックでメダルに届かなかったことが、その後の自身の競技の目標といい、「オリンピックという場所に魅了され、魔法にかけられて、自分に足りなかったものを発見するためにはオリンピックでなければ解決できないとこだわっていた。」といった。目標や夢を高く設定するのはいいが、オリンピックは全日本の予選通過あってのもの。美学と現実は同居しない。

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    競技者というのは自分を客観的に見れない。自分の技術や能力が落ちたとは思えないもの。長くやっているほど技術が向上するのが人間(の能力)と、素人には思えるがそうではないようだ。走ったり飛んだり跳ねたりするなら、体力的な衰えは影響するが、ゴルフにしても、5年より10年、10年より20年やってる方が技術を極めれていると思えるが、決してそうではない。

    囲碁・将棋なども長くやってる方がさまざまな点で有利なはずなのに、若い脳とくたびれた脳とでは鮮度が違うのだろう。多く詰め込んでいるほうが得というのではない。やはり気力という眼に見えないところの衰えが大きいのだろう。横綱の引退で、「気力、体力の衰えはいかんともし難く…」が定番言葉だが、相撲も体力だけではないし、頭も使うし、気力も重要なのだ。

    「大男総身に知恵は回りかね」といった。これは相撲取りをはじめ、体が大きく間抜けな男をからかっていう言葉であるが、体が大きいからと言って、それだけで威圧されるものでもないという警句にもなっている。言われた大男は、「小男の総身の知恵も知れたもの」と言い返せばよい。これと同じ意味で、「独活の大木(うどのたいぼく)」という慣用句もある。

    独活(ウド)は食用の野草だが、木のように高く成長するものの、茎が柔らかすぎて使い物にならないことから、体ばかりが大きくて役に立たないことをいう。反対の語句として、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」というのがある。「後悔先に立たずって当たり前」という表題で書き始めたが、これに対義する慣用句は、「終わりよければすべてよし」かもしれない。

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    つまり、人間は結局どう生きても選択しなかったことへの未練や悔いはあるし、そうはいっても道が二つあったらどちらかを選ばなければならない。二人の異性と付き合って楽しむのを、「二股かける」というが、おモテになる男(女)なら、三股も五股も珍しくない。今日はナオコ、明日はトモコ、次の日はカヨコと、別に器用な人間でなくとも普通にできるが嫌悪する奴はいる。

    「そんな器用なこと、オレには無理だ」などというが、今日は日本そば、明日はラーメン、その次はカツ丼というように、毎日同じものでは飽きるだろうに。というと、それは違うという。一夫多妻制の文化圏は、人間の本性を見抜いているが、キリスト教は禁欲によって治安を維持し、だからみんな陰でナニを致すのだ。反抗の美学、違反の刺激も人間のエロスである。

    テニスやゴルフにコーチは重要といわれる。野球やサッカー、卓球にもチームコーチはいるが、個人で雇うコーチはいない。コーチの重要性がもっとも高いのはフィギュア・スケートではないだろうか?2010年のバンクーバー五輪女子フィギュアスケート。この大会で唯一人、最高難度のトリプルアクセルを成功させながら、なぜ浅田真央は銀メダルに終わったのか。

    現地で取材したスポーツジャーナリスト生島淳の疑問から審査方法を検証、勝利の戦略を自著『浅田真央はメイクを変え、キム・ヨナは電卓をたたく』で提案した。生島はキム・ヨナが金メダルを取れた理由を、高得点が出やすい演目を作るコーチ、選曲から衣装、メイクを担当する振付師の重要性に着目。フィギュア界を支える経済事情に視野を広げて考察している。

    イメージ 7バンクーバー五輪後、浅田はフリースケーティングの曲を新世代の振付師に依頼し、メイクも一新した。羽生結弦はブライアン・オーサーコーチについて一年余りで目を見張る進化を遂げた。ロシア功労コーチ、アレクセイ・ミーシンは、フィギュアスケートにおけるジャンプの重要性を指摘する。「私の今までのコーチ人生の全ては、教え子たちに何よりもまずジャンプを教えたということ。

    トランジション、足さばき、顔の表情等、私が言うところの『リボンとヒダ』によって、別のフィギュアスケートへと我々をいかに誘惑しようとも、ジャンプは、シングルスケートにおいて重要なものであり、最も面白いものと考えている。四回転ジャンプ無しで上手くやることや、例えば男子世界チャンピオンになれることは理解している。でもそれはたまの例外だ。」

    フィギュアスケートの勝敗は、コーチと振付師によって決まる?という世評は偽りの無い事実であろう。荒川、田村、本田、鈴木明子を育てた長久保コーチは、「フィギュアスケートを、スポーツとして一生懸命やります。なんていうような子どもは絶対にダメ、伸びません」という。彼は指導する上で、遊びの要素を取り入れており、それが何より大切だという。

    「楽しくなくて何かが続けられますか?僕はスケートを子ども達には一生懸命に遊び感覚を持ってやらせます。でなかったら止める子が多いでしょうね」。彼は根性主義や熱血指導など頭にない。ゲーム感覚で楽しく世界へ跳ぼうという考えである。「荒川は遊びの天才でしたよ。ちょっと目を離すとすぐに何かで遊んでいる。"アクセル三回続けて跳びっこしよーよ"みたいに…」

    そういう子どもの心を殺さず生かして、上手いことそそのかすのがコーチの役目であろう。なにしろ遊びたいサカリの少年・少女達である。「どんなに才能があっても張り詰めすぎる子はダメですね。子どもはそれでキレてしまいます」。長久保がいうように、どれだけ好きにさせるかが指導者として大切だし、好きだから一番を目指すし、目指したいのが子どもの心であるのはよくわかる。

    コーチがうるさくいい、家に帰ればまた親がうるさく言う。親は子どもに勝手な期待をし、子どもは親から勝手な期待をされてしまう。将棋の羽生善治名人はこのように言う。「宿題や勉強は支障ない程度にやっていた、という感じです。最初から将棋に対して、" これは面白いぞ" というより、よく分らないことが多く、"よくわからないけれど面白い"と思いました。

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    親が必死にやらせるものの本質的な面白さを、子どもは理解していない。だから上手く行かないと親のせいにしてそれで自尊心をカバーする。こんな子はダメだ。親が頼んで何かをやらせる子どもは、「やってやってるんだ」と優位に立ち、都合の悪いことろだけ親の責任にする。こういうバカげた子育てをなぜやる?なぜこれが良くないか分らない?

    子どもに遠慮しながら勉強をしてもらっている親の立場は、親子にとっての主客転倒である。羽生名人は言う。「通った将棋道場に子どもが多かったのがよかった。子どもが多いということは、自分にとっての、"学校以外の遊び場の1つ"という感じだったんです。将棋道場が…。非常に通いやすかったし、子どもにとって楽しい場所だったんですね。」

    羽生の親は将棋を知らない。母親は将棋道場に羽生を連れて行き、そっちのけで買い物を楽しんでいただけで、道場の成績など興味もなかった。すべては子ども自身の問題である。「親の干渉や期待がなかったのが良かったと思います」。放っておいてやる子、やらない子、将棋も勉強も遊びと感じる子が伸びる。親の余計な口出しは、子どものためというより、親自身のため。

    うるさい親だったら羽生名人は存在しなかったかも…。何事も結果がものがたる。よいと思ってやったことがダメだったり、親が何もしなくても本人が自力で伸びたり。だから、後になって親が後悔してもダメ。本人が何を後悔をしてもダメ。後悔は後からついてくるもの。後悔が先にあってたまるか!である。




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