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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    象徴的な言い方をすれば、親を殺す子は不良などでない非行もない善良な子が多い。不良と言うのは「積み木くずし」に見る、家庭内暴力で親を傷つけたり、室内の家具を壊したり、反抗心の強い子ども。就寝中の親を狙って殺すような子どもは、親が怖くて反抗できない、いわゆる「よい子」で、ふてくされて家を出て、何日も帰ってこない不良とはわけが違う。

    親が怖い大人しい子どもの方が、暴力をふるったり、家出して友だちの家を泊まり歩いたりする子どもより扱いやすいだろうが、そういう子どもはストレス発散できず、思いつめているに過ぎず、悲劇・惨劇はこちらの方に発生する。親殺しのような取り返しのつかない犯罪を起こさぬまでも、親に迎合して生きた子は、どうしても自分を受け入れることができない。

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    自分を受け入れられないから他人に迎合するわけで、自分をしっかり持っている人間なら、自分を殺してまで人に合わせない。では、人に合わせる人間と、合わせない人間とどちらがいいのか?というような二者択一を問うたりするのはいかにも愚問で、どちらにも利点があり、マイナス点もある。人に合わせる人間は存在感がなく、指導的立場にはまず無理。

    人に合わせない人間は傲慢で自己中に思われがちだが、確かにそういう人間もいる。が、揺れない、ブレない強い信念の持ち主もいる。合わせないだけでなく、相手を説得しよう、納得させようという能力を有す人間なら、"人に合わせない人間"というより、"人を引っ張る人間"というべきである。魅力ある人間というのは、断然こういう部類であろう。

    他人に迎合する人間は、そうする事が他人に受け入れられる方法だと錯覚している。他人に受けいれられたい人間は、人を説得しようという発想がない。人に迎合する人間は自分を受け入れられない人間といったが、他人を愛することもできない。迎合するのは、ありのままの自分ではなく、相手の望む人間になるということで、これを自分といえるのか?

    人に合わせない自分勝手と言う批判が怖いだけだ。だったら、相手を説得する術を身につけるできでは?簡単ではないし、どうやってその術を身につければいい?これを食べたら説得術が身につく食物があるわけじゃなく、一体どうすれば説得術を身につけられる?残念ながら自分には分らない。あるのかも知れない、その手の「HOW TO」本を結構目にする。

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    目にはするが、そんなものは売るために書かれた本。なぜなら、「説得術」を身につける何かを書けといわれれば、自分のようなそこらのおっさんでさえ書ける。論理的にまとめることもできる。が、それは自分を基準にした、自分にあった方法である。人の言葉や人の書いたものはその人の価値基準で、その人以外には向かないもの多し。典型的なのは女性口説き講座。

    そもそも女を口説くには、度胸(ない人間には)と、洞察力と、熱心さがあればそれで済む。口説き言葉をたくさん知っていたからと言って、言葉を生かすタイミングや雰囲気が大事であって、本に書いてることは、どれも正しくどれも嘘。つまり、本人には正しく他人には嘘。何事も自分に合ったやり方を見つけることであり、マニュアルに頼る時点で負い目がある。

    「ダメ」の指摘の中には熱心さがない事も加味される。元イーグルスのドン・フェルダーが子どものころ、血の滲むような練習をしたと書いていた。多くのギタリストがそうであろう。人に教わって上達するはずがない。まずは熱心であることがなによりである。努力は上達を裏切らないし、人に教わろうとは大違い。自分はこうありたいと思うなら、自らすべきである。

    人に迎合する人間に理由を聞くと、「嫌われるのが怖いから」の答えが多かった。嫌われまいとすれば嫌われないのか?嫌われまいとする気持ちは、その人を好きであるのか?「好きだから嫌われたくないのよ」と言われて、「なるほど、そういうものかもしれない」と若き頃は納得したが、多少大人になったので、大人的に思考すると、どうやら思い込みの錯覚である。

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    人に嫌われたくない、嫌われまいとするのと、相手を好きになろう、好きでいたいはぜんぜん違う。前者の姑息さは「依存」の心理である。相手から拒絶されるのを怖れるのは、「依存」をしたいもしくは、「依存」をしている状態であり、相手を好きである感情が取っ払われている。あるいは、好きだと思い込んでいる。それらが支配的になると、相手の自分に対する評価をあげようとする。

    そうなると自分の弱点や、短所を隠そうとする。"いい子ぶる"態度がそれだ。"いい子ぶる"というのは、本当の自分ではない自分を演じることで、理由は相手によく思われたいが基本にある。人間なら誰にでもある心理で、人から嫌われたい人などいないが、度をこす人間は大抵"自意識過剰"である。また、自意識過剰な人間は、相手の言葉じりを捉えることが多い。

    捉えて勝手に怒り出す。「あなたは私をこう思ってる」などと勝手に思い込むのが自意識過剰型の典型。人は人をそんな風に思っていないのに、こんな風にいわれたことはあるはずだ。つまり、決め付け人間は自意識過剰人間と言える。心理の裏には、「他人から好かれたい」、「他人によく思われたい」という背景がある。だから、人が自分をどう見るかに拘る。

    「他人から自分をよく思われたい」のが規範意識となる人間の怖さは、相手が自分を良く思わない、良く思ってないと分ると手の平を返したようになる。そういう人間は良く思われたいがために、言葉使いや礼などの所作を演じているのに、それでよく思われないとなると憎悪心に変わる。こういう女は始末に終えない。男的には呆れて物も言えない。

    イメージ 4が、"いい子ブリっ子"女の特徴である。なぜ、他人の目をそこまで気にするのか?これも相手に心理的に依存しているからである。友だちをたくさん増やしたり、一生懸命に迎合して、周囲にたくさんのファン(?)などを集めることで平安な状態を築こうとする人間であろう。人が人に「心理的に依存する」とは、言葉を変えると「相手に縛られる」ことでもある。

    現実の相手に縛られる場合もあるし、自分が勝手に想像する相手に縛られる場合もある。芸能人やあるアーチストの狂信的なファンというのは、後者の場合だろう。こういう人は、非常に依存心が強い自意識過剰型なので、気をつけた方がいい。ファンであるという視点は非常に物の見方を狭めるし、ちょっとでも腐そうものなら、容赦なく怒りまくる。

    ファンであることを非難する理由は何もないが、アーチストに心理依存する狂信的なファンは、常人には理解できない怖さがある。AKBファンが投票券欲しさにCDを何百万円も買って、現物をゴミ箱に捨てるというのも一例である。いくつになってもジャニーズ追っかけの女性がいるが、本来は中学生くらいまでで、絵に画いた餅は食べられないことに気づく。

    それで現実の彼氏に目が行くようになるが、いい年こいて芸能人に恋焦がれるなど、精神的に未熟であろう。もしくはAKBに熱を入れるおっさんのような、現実では誰にも相手にしてもらえない、あるいはすぐに嫌われる恋愛体験がもたらす逃避と考えられる。恋愛は相互で育むが、芸能人らに対する一方的な恋心は、自分さえ気持ちを変えない限り、捨てられることはない。

    それによって傷つくこともない。深層心理には強度の自己防衛本能があるのかも知れない。誰だって、絵に画いた餅より、「生」がいいに決まっているが、それが叶わぬ代償であろう。人間以外の動物は架空の相手に恋することなどない。すべては「生」の相手でしか恋も愛もない。その純粋さに比べると、人間は「幻想」を拠り所にする屈折した生き物である。

    「自己防衛的人間」には我が侭なのが多い。なぜそんなに自分に執着するのか、幼児期に遡っていえば、自分が安心して心を委ね、身を任せることができる人がいなかったと推察する。自分のことに気を配ってくれる親に恵まれた子は、自分で自分に気を使う必要がない。子どもの心に鈍感で、子どもに要求ばかりの親を持つと、自らに気を使う子どもになりやすい。

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    親に言葉を返さない子、反抗しない子の心を通常の親は読むことはできない。それを読める親は立派な医者(心理学者)であるが、無慈悲な要求を出して、子どもにストレスを与えるので不適格な親である。鈍感で天然であってもいいが、そういう親は子どもに無理強いしない人が多い。つまり、母親にありがちな自己イメージの高さが希薄で、これはこれで良い子に育つ。

    前にも書いたが、「わたし(あるいは主人)が高卒なので、子どもは大学を…」という言い方を耳にするが、そんなものが動機であるのがオカシイ。最も、学歴がなくとも充実した幸福感に浸る生活をしている人に学歴信仰はない。自分に不足しているものこそ「幸せ」と思う人、「足るを知る」のなかで幸福を見つける人、人間にはその二通りがあるようだ。

    エリートの自殺はときどき記事になる。有名大学⇒一流企業⇒あるいは弁護士・医師・学者たちは、一様に大学の成績がよく、教授に見込まれて大学院に残る。わき目も振らず勉強し、教授に迎合した論文を書く。真面目だから語学もやり、外国の大学に留学して帰国する。助手から講師になり准教授となる。ところがある日、途端に自分の講義内容に自信を失う。

    苦悩の末、大学を辞める。何故だ?側からみると、順風満帆なのに挫折していく。社会的に見れば順調なコースを辿り、さらにこれからと期待される人間が、ちょっとしたツマヅキで挫折する。一言でいうとこういう人間は成長していない。何も問題なく心身の成長健やかに見えるが、実は擬似成長である。人間の情緒の成熟と、社会的成長は別で、一致を見ない人あろう。

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    人間の本当の成熟はいかにして成されるかは難しい部分もあるが、人間の成長がいかにして成されなかったかの要因はさほどでもない。その人が育った家庭には歪んだ価値観が支配していたこともある。小保方氏が何故あのようなことをしたかにも、彼女が名声を得たい衝動が支配的だったと考える。家庭の中、職場の中、学術界の中にあった自己顕示欲であろう。

    自分の意志で自身の職業を選んだのか、そのような選択ができる環境がその人にあったのか、本当は自分がやりたいことは別にあったが、家庭の中では卑しい、みすぼらしい職業との反目はなかったのか。などは想像に浮かぶ。大学院に残り、博士論文の研究テーマは自分の意志であったのか。教授に迎合するためのテーマ選びをしていなかったのか。

    それよりも、自分と言う本性に気づいていたのか、いなかったのか。なども想像に価する。挫折したエリートたちは傍からみる順風性とはちがって、自分の基準ではない他人の基準で生きてきた結果、精神の情動に自律性がなかったのではないか。手芸が好きでそれを天職にしたい女性が、有名大学在学であるばかりに、母親の許しを得れなかった事があった。

    知識ばかりが詰め込まれている大学生の自我は、実は5~6歳でしかないといわれている。自我の未成熟は家庭に原因がある。原因と言うより欠陥と言った方がいい。その一つは自分のことしか考えない自己中心性、もう一つは付和雷同性。これは自分の考えを持たず、ひとりが「こうだ」といえば、みんなで「こうだ」となる。自分で物を考えることをしない。

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    これが「与えすぎ教育」の欠陥であろう。「主体性」の確立と声高に叫ばれながら、「主体性」の確立がなされようとしない日本社会の現状である。その極めつけが金銭教育だと思っている。教育産業は人を造るといいながら、塾と私学が癒着の構図が今回の桐蔭学園で露呈した。こんなことは大方の私学で成されていることだ。誰もが自己中の構図であろう。

    考えてみればいい。子どもの時に善いことをしたなと思った時は、自分の自我を通したことより、自分の自我を抑えたときでなかったか?自分の主張を通したときより、自分の我が侭を抑えたときでなかったか?そこに自分の卑しい姿を葬った、天晴れな自分の姿があったことを覚えている者もいはずだ。謙れというのではない。子どもには大事なことだといいたい。

    子どもは他人を説得する術を持っていない。持ってる子もいるが、未発達の情が災いし、自我と自我のぶつかり合う。鬩ぎあって自我を押し通す。人を諭す術はもっともっと以降のことだ。そういう自我のぶつかり合いの中で譲り合いの喜びを見出すのが、その子の情緒を大人に誘うことになる。桃太郎は黍団子を与えることを知っていた分、賢かった。

    大義目的のために食べ盛りの少年が食い物を与えて家来にさせる頭の良さ。信号のない横断歩道を早くから止まって歩行者を見送る心も、譲り合いの心。自我にもいい自我、悪い自我がある。悪い自我を抑えたときに味わえる喜び。横断歩道で急ブレーキをかけるのは、何も若者と決まったわけではない。いい年こいた大人がそれをやる。自我未発達の子どもである。

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    自分を大切にすると言うのは、他人を大切にすることだ。標語のように言われているが、一億総自己中の時代と言われもする。主体性の確立は、"したい性"の確立とは違う。真に主体性を持った人間は、自分のしたい事を抑える人であろう。主体性はまた自主性のことでもある。自主性とは行動することだが、行動すべきでないときも自主的にしない事が大事。

    他人に強要されても、自主的にしないこと。できることでも"しない"と抑えるのが自主性である。したくてもできないのと、できるけれどもしないというのはまるで違う。前者は臆病者、後者は明晰者という。「勇気があるなら万引きしてみろ」と促された時、「しない!」と言えるのが勇気である。そういうものを子ども時代に身につけた者は強い大人になる。

    人に「流されない」生き方の基礎は、自分に正直になること。万引きを強要する奴に媚びることはない。「迎合」は自分を人に売り渡すこと。「まったく自分に正直になることは、人間の成し得る最善の労作である」。これは有名な精神分析医の指摘である。"自分に正直になる"のは、ある人にとってはいとも簡単だが、ある人には死ぬほど難しいことのようだ。

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    鳩山由紀夫元首相が日本政府の自粛要請を無視し、ウクライナ南部クリミアに出かけたことに多くの人が痛烈に非難したが、政府の自粛要請はどの程度のものだったかだが、3月5日、鳩山氏のクリミア訪問の情報をキャッチし、ただちに鳩山氏の事務所へ外務省幹部の面会を申し入れたが、「鳩山氏本人はスケジュールの都合で応じられない」と回答したという。

    このため、宇山秀樹ロシア課長が鳩山氏の秘書に訪問の中止を要請し、9日にも宇山氏が秘書に重ねて働きかけを行ったとしている。これは民主党の鈴木貴子衆院議員の質問主意書に答えたものである。政府は20日の閣議で、鳩山由紀夫元首相が今月10~12日に、ロシアが一方的に併合したウクライナ南部クリミア半島を訪問したことに関する答弁書を決定した。

    これによると、「鳩山元首相のクリミア半島訪問は、私的な訪問といえども政府の立場に著しく反するもので遺憾であるが、今後の日露・日米外交に特段の影響を及ぼすとは考えていない」とするもの。また答弁書では、鳩山氏が渡航の際に利用した旅券の種類について「お答えする立場にない」としたが、外交旅券や公用旅券は「失効している」と言及している。

    「元首相が国の用務で外国に渡航する場合は外交旅券を発給している」とも述べ、鳩山氏が一般旅券でクリミアに渡航したことを示唆した。私的であろうと、元総理である。が、元民主党代表と言うこともあり、自民党としては私的としかいいようがない。日本では私的で通用するお国でもある。外国で元首相と言えば、国の代表と同じくらいの意味を持つ特使に近い。

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    鳩山氏は首相在任中、普天間基地移設問題で米国の信用を大きく損うことにもなった。野田政権下では政府の中止要請を無視してイランに行き、国際原子力機関(IAEA)を批判した。政界引退後には香港のテレビ局のインタビューでこう述べた。「尖閣諸島は、日本が盗んだと思われても仕方がない」。鳩山という人を一言でいうと、軽佻浮薄な人間の典型であろう。

    クリミア訪問を受け菅義偉官房長官は、「首相を経験した政治家としてあまりに軽率で遺憾であり、厳しく非難したい」と述べた。政治家は職業柄自己顕示欲の強いといえるが、民主党から自民党への政権が移譲され、安倍政権は国民から多数の支持を得ているのであれば、現在の自民党政権が決める事柄を守って行くのは、元総理大臣として当然である。

    鳩山氏は12日、「パスポートを返納させるべきだとの意見が日本で出ていることに関連し、没収されればクリミアに移住する可能性もあると語った」と報じられた。こんなことまで口にするとは最早常軌を逸しているとしか言いようがないが、バカ首相を上げろといわれるなら、もんくなく鳩山由紀夫と菅直人という民主党経験者の名が躊躇うことなく浮かぶ。

    坂口安吾は『インテリの感傷』と題するエッセイでこのように述べている。「今度の選挙で共産党が三十五人(第二十四回衆議院議員総選挙)になったのは、民自党の二百六十何名同様予想を絶した現象であったが、這般の理由は、だいたい新聞の報ずるようなものであったろう。私としては、むしろ、急速に共産党を第一党に膨れ上がらせ、政権をとらせてみたい。

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    そうすれば、共産党のバカラシサ、非現実性は、すぐに暴露する。政治が、民衆のものとなり、現実のものとなるのは、それからだろうと私は思う。日本を安定させるのは、共産政府をつくらせ、その非現実性をハッキリさせることが先決条件だと私は思う。」これは1949年1月23日投票の、第24回衆議院議員総選挙の結果における安吾の論評である。

    共産党が解散前は四議席であったのが、一躍三十五議席に躍進したことを述べたものだ。革新政党に投票した有権者の社会党離れが顕著で、約30%が共産党に投票したことで共産党の議席増となる。それから60年後の2009年9月16日、鳩山民主党政権が樹立した。8月30日の投票の第45回衆議院議員総選挙において、民主党は総議席の3分の2に迫る308議席で圧勝した。

    国民待望の民主党政権である。鳩山内閣成立時は70%を超える支持率であったが、鳩山自身や小沢一郎の金銭問題や普天間基地移設問題を巡る迷走もあって支持率は急降下した。特に普天間基地移設問題では自民党政権時代の日米合意をくつがえし、基地の県外移設を模索したが実現できず、ほぼ原案通りで決着させようとしたが、この対応が社民党の連立離脱を招く。

    党内では鳩山への退陣要求が起こり、鳩山内閣は2010年6月4日に総辞職する。後任には民主党の新代表となった菅直人が指名された。菅政権は2010年6月8日~2011年9月2日で終るが、在任中の2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生する。菅は震災の発生を機に国会のねじれを解消し、復興対策を円滑に進めるため、自民党に大連立を打診したが不発に終わる。

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    震災の復興で無能をさらけ出した菅は、自らの退陣を前代表で首相であった鳩山からペテン師と非難される。党内外の強い退陣要求を受けてなお居座る往生際の悪さで、民主党そのものの人気を落す。菅内閣は2011年9月2日の野田内閣発足に伴い、同日総理大臣を辞職する。民主党政権最後の総理となる野田佳彦は、民主党政権の落日を予想できるほどに無能内閣であった。

    鳩山は憲政史上最低の総理と言われだが、菅に代わると菅こそ最低首相の汚名を鞍替え、はたまた野田が総理になると野田こそ史上最低とビリ争いを演じた三総理である。坂口安吾のいうとおり、政権を担当させてみるのがいい。それでこそ民主党のバカラシサ、非現実性がよく分るというように、彼のエッセイの文字がそっくりそのまま至言に聞こえるようだ。

    「民主党なんかイランわ」、国民総意の不要論を突きつけられた民主党は、派手なデビューから3年で党そのものの存在意義すら失ってしまった。「失われた3年」という国民から屈辱土産を突きつけられている民主党。自民党内閣が高校の生徒会なら、民主党は中学どころか、小学校の児童会がいいところ。第46回衆議院議員総選挙で173議席を失う歴史的大敗を喫す。

    とまあ、忘れていた民主党のことを思い出して書いてみたが、その民主党をカネの力で作った鳩山兄弟であり、弟はとっくにサジを投げ、兄も今は政界引退しているのに、まだまだ目立ちたいのか、お金に余禄のある人は困ったものよ。おまけに昔取った杵(総理)も使いたいんだろう。なにも晩節を汚さなくとも、家でおとなしくテレビでも見てればいいのに…。

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    鳩山には今から60年程前、日ソ国交回復を成し遂げた祖父・鳩山一郎元首相の幻影があるんだろう、きっと。田中真紀子が中国に「ヨイショ」されてると同じように、鳩山もロシアで「ヨイショ」されたいんだろう、きっと。今現在、自分の存在感のない人間は、何とか存在感をもてることを望む。それが真紀子の中国、鳩山のロシアなんだろうよ。

    二人とも、おぼっちゃま、お嬢ちゃんで、チヤホヤされて育ったから、いくつになってもチヤホヤされたいんだよ。ところが、今はもう誰もチヤホヤしてくれないばかりか、自分のことを嫌ってる。それなら、どこかに必ずチヤホヤしてくれるところはあるはずであると、チヤホヤ先を一生懸命に探す。チヤホヤの相手は自分の味方。真紀子&由紀夫はその程度の政治家だ。

    「パスポートを没収されればクリミアに住む」という言葉をどういう心境で述べているかを分析すればわかる。みんな自分からそっぽを向いて相手にされない日本より、いっそロシアに住む方がまだマシと言いたいのだろ。できもしない移住などの言葉を吐くくらいに、日本では誰も相手にされない淋しさもあろうが、いつまでたってもチヤホヤされたいぼっちゃまだ。

    ロシアによるクリミア併合を認めない立場の日本政府にとって、併合を是認するかのような首相経験者の言動は国際社会から誤解を招きかねない。そんなことは分かっているはずの鳩山元首相は、「日本に帰ることを怖がっているくらいだったら、こちらには来ません。政府に批判されることには慣れています」と述べた。それくらいの事が言えるから、行くのだろう。

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    元首相がクリミア住人に呼び掛けた、「沖縄にこれ以上米軍基地を造らせないよう協力してほしい」言葉にもあきれたか、とっくに兄にサジを投げている実弟の鳩山邦夫氏は、「宇宙人らしい人間が本物の宇宙人になった。少なくとも日本人ではなくなった」とさらなる見限ったコメントをした。日本人多くが、「鳩山はバカ」、「アホ」、「マヌケ」と言うのは簡単。

    彼自身jがどのように批判され、中傷されようと屁とも思ってない。が、日本政はロシアのクリミア併合を是認するのかと国際社会から誤解を招くも、そういう意識が鳩山氏にない。「お前がバカだけでは済まないのだ!」と声高に国民も政府も叫んでいるのに、「わたしは何をいわれようと慣れている」というところが救いようがない。自身を客観視できない小保方氏と同類である。

    クリミアで、「多くの(日本の)国民は間違った情報をもとに洗脳されてしまっています。その洗脳された意見を変えることは簡単ではありません」と語るなど、批判の「ひ」の字すら聞こえない耳の所有者は、16日夜に生出演したインターネット番組で、「世界平和を作っていく中でどうしても行ってみたいと考えました。行ってよかったと思いますよ」と述べた。

    人の多くは、自分の行為を正しいと思うから行動するわけだが、一概にそうとも言えない場合がある。例えば暴走行為、万引き・かっぱらいをする不良たちは、実は彼らの内に「善」を持っている。ところが、社会の底辺を自認しながらも目立ちたい欲求から、他人の関心を引きたい。嫌われても目立つことを優先したい彼らは、自らの内なる「良心」に逆らっているのだ。

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    だから周囲が何をいっても聞こうとしない。聞くくらいなら、そんなことは最初からしないだろう。鳩山元首相をバカだのアホだのと言いながらも、彼にだって物事の道理くらい思考できる「脳」はある。ひょっとすると暴走行為で周囲に迷惑をかけている「族」や「不良」と同じ図式ではないのか?そんな気がしないでもない。つまり鳩山氏が聞く耳を持たない点で。

    彼が周囲から嫌われるのは、他人の関心を引きたいという虚栄心であるなら、嫌われても満たされる拠り所を糧にしている「族」と同じであろう。「族」どもの暴走行為を「カッコイイ」と憧れる同類はいるし、彼らはそういうヤツラに崇められているとの自負心をもつ。鳩山元首相の行為は、心理的要因において不良の暴走族と同じで、以下の発言がそれを裏付ける。

    「ウクライナ人もロシア人もクリミアタタール人もロシアへの編入を喜んでいます。まさに友愛の世の中を1年間でかなりの部分つくってきている。私の日露関係を少しでも動かしたいという思いが先方には伝わったが、日本側には伝わっておらず、このもどかしさがありますね」。美辞麗句を吐くこともせず悪に徹する暴走族の方が、鳩山氏より肝いりの思える。

    番組では、ロシアの外務次官から「評価されることをしているのに、なぜ批判されているのか」と言われたとも発言していた。が、それにはどのように答えたのだろう。「バカな国民ですからね、わたしの真意などわからないんですよ」とは言わないだろうが、腹で思っていれば口に出さなくても同じである。自分に逆らってまで他人の関心を引こうとするのは疲れる。

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    本来の自分に逆らうのは消耗度が激しい。元通産官僚の古賀茂明氏が3月27日のニュースステーションの最後の出演で、古館アナとちょっとしたバトルの後、マハトマ・ガンジーの言葉を引用した。古賀氏が言いたかったことは、権力と言う大きな力によって抑圧されている下衆なマスコミに対する、痛烈な一撃であろう。彼は「あなたにも言っておきたい」と古館アナにいった。

    古賀氏は悪者になりきれない偽善的態度の古館アナをせせら笑うように、彼の帳尻言葉を聞いていたが、あまりに腹黒の古館に怒ったのかオフレコ発言で口を塞ごうとした。それは古賀氏が番組を降板になると決まったときに、古館が楽屋で古賀氏に言ったとされる、「今回の決定は私の力ではどうにもならないことで、意向に沿えず申し訳ない」と詫びたという。

    古賀氏は冒頭、「TV朝日の会長とか古舘プロダクションの会長のご意向で私は今日で最後」とぶちまけた。虚を突かれた形の古館アナは、「今の話は承服できない」と発言。古賀氏には今後も出てもらいたいと思っているとしたうえで、「テレビ側から降ろされるということは違う」とコメントしたが、「あなたは楽屋で上記のことを言ったろ?録音してるよ」と引かない。

    古賀氏の真実暴露には、「生放送向きの人ではない」など批判的な意見も散見できたが、大体が最後の最後で言いたいことを吐き出した古賀氏寄りの意見が多かった。是非論は言うまい。古館は番組進行の役を担うアナウンサーであり、局批判、権力批判のコメントは生きる糧を失う。古賀氏はジャーナリストとしての本分である権力の監視役である。

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    水と油の関係の双方が、生番組の趣旨を損なわない程度に本音を披露し、それに対する適切なコメントを返すためには、番組前の周到なる打ち合わせや根回しが必要である。それがなされていないと言う事の露呈もあるが、ニュースステーションは久米時代の方が辛辣であったし、断然面白かった。古館というアナウンサーは、プロレス中継が天職であろう。

    つまらないものを大げさな語りでつまらなくなくするのは向いているが、報道に脚色は無用の長物。主観ばかりが目立ち、客観的な視点の報道ができないから聞き苦しく、知ったかぶりのあの顔を見るのもイヤになる。何で辞めさせられないのか理解不能。テレビ局なんて台所は火の車であろうし、局アナで充分ではないか?いや、その方がよかったりするかも…。



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  • 03/30/15--17:53: 我はブロガーなり

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    「ブロガー」なる言葉はブログを書く人を言う。「ターミネーター」とは終結させる人を言う。「ライダー」とは乗り手を言うが、馬、バイク、自転車などであり、車に乗る人は「ドライバー」である。ならば仮面ライダーの愛車が車なら、「仮面ドライバー」である。いや、「仮面ライダードライブ」として、車に乗った仮面ライダーが昨年10月より放送されているらしい。

    知らなかった。知るわけないか、仮面ライダー(1971年放送)の世代でもない。何でバッタのような恰好をしているのか不思議であった。オートバイに乗るヒーローと言えば、『月光仮面』、『まぼろし探偵』なら知っているが、彼らはそれなりにカッコよかった(今ではダサい白タイツ)が、バッタは人間というより昆虫だろ?さらにあの風貌は耐え難いものがあった。

    1956年に公開された『空の大怪獣 ラドン』を見に行ったはいいが、映画の最初辺りに登場するラドンの幼虫がとても怖く、夢にまでうなされるほどであった。炭抗の坑道の奥からキリキリと金属音と立てて現れ、多くの抗夫を襲うシーンは、いたいけな子どもにとってショックであった。仮面ライダーはまさにそのラドンの幼虫である。当時の子どもはキリキリ虫と呼んだ。

    「何でこんなものがヒーロー…?」時代は変わったものよ。『仮面ライダー』の原作者の石森章太郎が、「ヒーローをグロテスクなリアリティのある奴にしたい」という発想から生まれたらしいが、ラドンの幼虫を知らない世代だからいいけれども。さて、横道にそれたはいいが、何を書こうか忘れてしまった。書き始めに戻って確かめると、「ブロガー」についてである。
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    ブロガーという言葉に準じるなら、自分もブロガーである。"ブログを書く人"でもいいが、長ったらしいのでブロガーという。書いた記事を後で読み返すといろいろ発見がある。間違い字や送り仮名、同じセンテンスの繰り返し、オカシな文章、滑稽な文体など、書いているときは気づかないが、ピアノやギター演奏を録音してプレイバックで聴いたときと同じことだ。

    「何でこんなに下手くそなんだ?」となる。弾いてるときはもちろん聴いてはいるが、聴くだけに専念したときとはまるで違う。文章も同じであろう。だからこそ「校正」は大事である。チャットなどで間違えた文字を、すぐに訂正したり、言いなおす人がいる。几帳面な人でもあり、失敗やミスに羞恥感を抱く性格に見受けられる。が、自分はあんまりそう言う事に拘らない。

    誤記があっても相手が文意を感じればいいとあえて訂正しない。自分で読んでみても誤字・脱字が文意を伝えないことはない。人は単純なミスもするし、勘違いもする。先日知人が、こうメールに書いていた。" hanshirouさまも花粉症でしたよね?くしゃみで腰をギクッとなさいませんようお気をつけ下さいませ" 思わず笑った。自分は花粉症とは無縁である。

    苦しむ人の症状さえ分らない。が、書き手は誰かと混同しており、「これこれ…、どなたと間違えてらっしゃるんですか~」と、あえて訂正はしなかった。それを言うと、相手も明るく、「あれ、そうでしたっけ?」となればいいが、こういう間違いにとても敏感で、羞恥する人もなくはない。そういう経験的配慮といえるかもしれない。以下のようなことはしばしばあった。

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    「前代未聞」を「ぜんだいみぶん」という人に訂正を進言した事があったが、自身の思い違い、読み違いを極度に恥る人もいる。その時の相手のバツの悪さがモロにこちらに伝わると、「言わない方がよかったな」と思う。言ってあげないと、この人は永久にそう言い続ける…、それだけの親切心であるけれども、一人で恥ずかしがり、弁解するさまを見ると困惑する。

    そんなに羞恥ことなのか?である。間違いを指摘されたときは得した気持ちになるが、それをプラス思考というのか?知らないことを教わり、間違いを指摘されて、「羞恥」という自尊心を見せる人もいる。人の性格の多様である。そう言う人への知識があれば、自尊心を壊さぬよう指摘方法も見つける事も身につく。それを「思いやり」、「気配り」といえばそうなのだろう。

    人間関係は気配りや思いやりがあって成り立つ。上のシュチに対し、得意満面な面持ちで、"教えてやるんだ"、の態度の人もいたりする。「あっ、そっか。勘違いしてたよ」などと屈託のない人間もいる。が、知識をひけらかして得意満面な人間からは何かを得た気にはならない。人が人に何かを教えるということ自体"傲慢"であるなら、教える側こそ謙虚になるべきである。

    若い時はすぐに教えたくなるが、経年で控える事が多くなる。その違いを考えてみた。「老成」という語句がある。年をとり経験を積んで、熟達していること。または、そのさま。との意味だが、熟達はともかくとして、上記のような場合、相手に言わないのは、「老成」の一種であろう。若い時のようにアレコレが気にならなくなる。言うのは、やはり気になるからだ。

    イメージ 5双方に人間関係があればためらわないのも事実。妻や子どもなら即座に指摘する。他人と肉親の差というのか、肉親の人生には関わるべきだが、他人の人生に関わる必要はない。他人には"おせっかい"となる。肉親に"おせっかい"の情が希薄なのは、運命共同体の意識であろう。もちろん、他者におせっかいを言うこともあるが、そういう場合は低く、低くあるべき。時たま自分の書いた記事を読んで思う。もし、他人がここまでクドく長々であるなら、余程身をいれないと読む気が起こらないだろうと…。自らが冗長な駄文を書きながら、他人だったら読む気がしないのも変かも知れぬが、魅かれて入り込む書籍や文がないわけではない。時たま自分を客観的に眺めると面白い。ブログの記事も客観的に読み返すと面白い。

    自分の文章でありながら、「分ったようなことを書いて、コイツは何様?」と、思える部分が多だ見受けられる。が、書き手(自分)の実態を知っているので、「分ったようなことを書いているのではなく、思ったことを書いている」に収束する。書き手本人には分ることだが、ふらりと当ブログに触れた、「通りすがり」なる素性の人は、今どき流行らない長文にうんざり感。

    中身の嫌悪も想像し得る。前にも書いたように、書くというのは調べる要素もある。発想力を鍛え、高める要素もある。仮説的構成力を養う要素もある。自己満足で「やったー!」と言える書き込みに意味はないだろう。結論を伴いながら、実は何も分らないから意味があるのだ。何かを身につけた人は、学ぶ必要がない。書くのは知的ストレッチの意味合いが強い。

    書くは調べる要素もあり、調べるは考える要素を生む。また、考えるは答えを出す要素である。答えといっても"当面"のという形容詞がつく。断定した回答であっても、"当面"でしかない。真理は普遍的なものを求めるが、人は"当面"の答えに連なって生きている。その場その場で答えを求められ、その場に適した答えを出して生きているのであろう。それが"当面"の正体だ。

    「考える」を最も効率よく、あるいは深くこなす行為が「書く」と「話す」であろう。人間は言葉によって思考する。言葉を持たない動物は、何によって考えるのか?おそらく本能であろう。つまり、本能に準じて行為し、回避しているのだ。人間がそうならないのは、言葉を持っているためであろう。すべての人間が本能に忠実に生きたら、どんな社会になるか想像できない。

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    ブログは中毒性があるようだ。早朝ジョギングなどのように…。中毒なる正体は脳内麻薬ともいわれる快感物質ドーパミンである。そのブログよりもさらに中毒性が強いのがツイッターといわれているが、やった事もなく、やる気もない。「一日一善」ではないが、「一日一ブログ」で、それが終ればネットを疎遠にする。ツイッターの短い文字制限か、一日に何度も呟く人は多い。

    読んだ人が面白いと感じると、リツイートという一種の転送機能で、自分の発言がねずみ算式にどんどん未知の人にも伝わっていく。反対に自分が面白いと思った発言を、人に伝えることも可能であり、そういう情報交換的要素はブログよりも大で、好まれる要因となっている。情報化社会にはうってつけのツールで、人々は情報交換を日がな行って暮らしている。

    ブログがブロガーなら、ツイッターはツイッタラーなのか?いずれにしろ、書く人は楽しそうである。「美味しいことはイイことだ。森永エールチョコレート!」という60年代のCMコピーがひらめいたが、「楽しいこと」はいいことであろう。「千里の道も一歩から」というが、ブログ5000字も最初の一字から始まる。最初の一字に何を選ぶかでブログの中身は決まるだろう。

    と、なるのが一般的だが、自分の記事にそれはない。"桶屋のたとえ話"的で内容に一貫性がなく、後でタイトルをつけるのも難しい。最近、タイトルをつけなくてもいいアイデアを考えたので、たまにこの手を使う。ツイッターでの「つぶやき」や「つながり」は、フォロアーの多くなりがちな発信者においての有名性や、コマメさや、工夫などがなされているという。

    イメージ 7ある事件を記事にするとき、どういう感想を抱くかで気をつけることは、同じ事件の感想が他人とダブらないことを重視し、自分独自のオリジナルな発想を心掛ける。おそらくそういうことは無意識的に成されているようだ。人と同じではつまらないし、嫌である。昔からそういう性向だ。あえて、無理に違えて…という場合もある。となると、書いたものは自身のウソの思考か?
    自身の中のオーソドックス思考が90で、マイノリティ的発想が10であったなら、迷わず10を書くだろうし、少数派としての懸念はない。なぜなら、90の部分は他のブロガーが書くからいい。ない物心ついた時から少数派を自認することで論理を磨いてきたこともあり、体制に組みして安穏という気はない。多数派は楽であろうが、金魚のウンチみたいなものだ。

    「単にへそ曲がりだけじゃないか?」おそらくそうである。が、ディベートとは"へそ曲がり"に論理をつけたしたもの。つまり、理屈磨きである。他人の起こした遠方の事件の真実がわかる道理がない。真実というのは、真実と言われているものに過ぎない。容疑者が吐いた真実も同様、真実といわれているものに過ぎない。だから、自分の想像は自由喚起でいい。

    この世の真実と言われるものが、果たして真実であるかは疑わしい。とはいえ、規定外の自由発想に違和感を抱くものは多い。同調者を求めようなどが間違いである。自分の中にある自分の感情を認めたくないとするのが他人である。そこで「同調圧力」という重石に襲われるのだ。「和をもって尊し」の日本人は、同じ肌、同じ目の色、同じ髪の色を欲する。

    様々な色が混じりあって一つの色という発想がない。赤は赤という単一の純色であろうとする純血主義の民族であり、文化であり、保守的であり、ネクラである。中山治が著書『日本人の壁』の中で、「日本人の国民性は、"内向性の極"と記したように、日本人の外交音痴はその内向性に起因するものだ。内向的日本人である以上、「抑圧」は当たり前である。

    「抑圧」を論理的に説明すると、ある感情を意志の力で無意識の領域に追いやることを言う。抑圧の少ない人は、自分の感情を隠さない。よって、「タテマエ」を嫌う。上の90:10の場合、10の思考を臆面なく提示できるのは、抑圧がないからだ。誰かが、「それはないんじゃない?そんな独善的な思考するあなたってバカ?」と言われることの危惧がない。懸念がない。

    イメージ 8自分は基本、人を見下げないのを信条とするが、逆に相手が見下げた発言をする場合には信条を取る。そうでない場合、どんな考えも尊重するし、異論があればキチンと反論する。が、他人のブログに出向いてまでそういうことをしなくなった。「人は存在するだけで価値がある」という成熟した考えに到達しつつあるのは、「老成」の一概念で、それを目指している。

    他人の考えに異議を進言するなら、自分の論を提示すべきで、それこそが礼というものだが、他人の考えに反証も持たず、「バカ、カバ!」というだけの人間は、「バカ、カバ、アホ、マヌケのチンドン屋」であろう。それが2ちゃんねるのような、ネットイナゴの暴力性である。論理で反証するでなく、上のような暴言を吐き、気軽に人に「死ね」という人々だ。

    まあ、自分のブログでありながら、人目を怖れて書きたいことを書けない人、中傷されてブログを閉鎖したと言う話は耳目にする。それもその人の生き方である。「そんなこと気にすることない」という、気休め言葉は、実は気休めにもなっていない。人は意識を変えれば自分が変わる。嫌な自分の洋服(性格)は、たたんでしまって、新しい洋服を身につけるのもいい。

    装い新たに生きてみると、別の自分が楽しく、逞しく感じられることもある。とかく社会は規範を作りたがる。枠を作りたがる。社会規範や、社会の枠は、共同体に必要であるが、それを個人の生き方にまで及ぼすことはない。「これが人間の正しい人生だ」などと社会が決めることではない。確かに社会は、社会的同調圧力によって、集団の成員に強制をする。

    それが社会規範という枠を超えて、人間個人に内面化され、内側から人間を規制してくる。そうした中にあっての人間関係は、触れ合いというよりお互い見られあう関係である。そして次第に自分を失っていく関係でもある。「束縛」とは自分の何かを失うことで、対等に互いが影響しあう関係がいい。自分の中にあるものを、その関係を通して発見していく。

    発見し、変革していく過程の変化の中で、人間は再びあらたな自分を発見する。新たな相手も発見することになる。そうして変革しあった人間同士が、変化した新たな人間関係を築いて行く。知らず知らずのうちに互いは向上して行くのがいい。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの実質デビュー曲に『知らず知らずのうちに』という曲がある。素朴で好きな曲だ。




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  • 03/31/15--08:20: 痴漢・強姦・盗撮
  • 京都府警右京署などは今月17日、京都府迷惑行為防止条例違反(盗撮)の疑いで、京都市右京区、アルバイトの男(32)を逮捕した。逮捕容疑は2月20日午後2時20分ごろ、右京区のビルのエレベーター内で、同市の女性(19)の背後からスカートの下にビデオカメラを差し入れた疑い。1階についても男が降りず背後でしゃがんでいた。直後に逃げたため、女性は男を約200メートル追跡。

    「盗撮したでしょ」と女性に言われ、男は「誤解です」などといい、その場を取り繕うためにか自主的に運転免許証を差し出した。女性はそれをスマートフォンで撮影し、後日交番に届けたことで逮捕につながったという。女性の機転により逮捕された男は、「若い女性の下着が見たかった。これまでに200回以上は盗撮をやった」と容疑を認めているという。

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                        まあ、アレだよ。 「見えてる」 と 「見られる」 は、別ということのようで…

    男がなぜ自主的に運転免許証を出したのか疑問に思われるだろうが、おそらくこの男は、痴漢的行為の常習性があり、万が一のときのため、"痴漢と疑われたときの対処法"なる書籍を読んで予備知識を得ていたのだろう。でなければ、咄嗟に免許証をみせるような行為をするはずがない。例えば、『この人、痴漢と言われたら』(中公新書ラクレ)には、以下の記述がある。

    1.自分の身元を表す証明書(免許証(私はパスポートのカラーコピー))を携帯し、いざという時は提示する。これで裁判所の令状なしでは逮捕できなくなる。

    2.痴漢冤罪事案に強いと思われる弁護士を調べ、予め携帯電話のメモリーに記録。すぐに連絡し、最悪でも逮捕後72時間の身柄拘束で済ませる。

    3.警察庁の定めた痴漢事案捜査方針書、警察庁平成21年6月25日通達(※)も携帯し警察の事情聴取の際にはこの通りやる様要求する。違反していたら、釈放後監察官室へ違法捜査を進言する。(※)http://www.shinginza.com/chikan20090625.pdf

    「備えあれば憂いなし」とはいうものの、ここまで用意周到でなければならないのかと訝りたくもなる。逮捕されたアルバイターのような痴漢行為の常習犯が、その場をすり抜けるための必読書といえず、その手の書籍が悪いとも言えない。売ってる書籍は読み手を選ばない。自分はこの女性の危機管理意識及び能力を称賛するが、バカな雑魚は以下のように茶化す。

    イメージ 2・免許証を盗撮するなんて…酷い…
    ・で、実際の盗撮画像は出たのかな?
    ・パンツ見られたぐらいで追い掛け回すとは女もせこいな。
    ・自意識過剰すぎ
    ・また示談金目当ての女ですか
    ・俺が女だったらそんな男、かかわる事すらしないわ
    ・トイレや着替え中でもなければパンツぐらいはいいだろw 顔はNGだがスカートなんてはくなよ。 
    ・パンツ一枚見られたぐらいで追いかけ回すって、バカ女。そんな見られたらまずいものならズボンでも履いとけ。見られて減るもんでもなし。
    ・仮にエレベーターの中で蜂が飛んでてたまたま手に持ってたビデオカメラで追っ払おうとして相手の女性の股の間に手が入っちゃった場合も有罪?
    ・女は金に困ったら嘘八百で被害者面出来るからいいよなあ…

    ・アメリカの殆どの州では、性器そのものを盗撮しない限り逮捕されない
    ・そもそもスカートという存在自体がおかしなものだ下から覗いたくらいで見られたくないものが見れるとか、むしろ露出狂だろ。スカートはいてるやつは露出狂


    こういう男ってなんだ?みんなでよって集ってこんなことを言いあって、実際は虫も殺せないクソマジメなヘタレども。発想が独断・独善で自己中心的でしかない。スカートの中を盗撮するような、チンケな行為を批判もできず、それを肯定するような男がチンケでなくてなんだというのか?チンゲ生えてんのか?おまえら…と言いたくもなる(実際、言ってるが)

    あれあれ、3月6日には兵庫県警豊岡南署地域課の男性巡査部長(34)を女性のスカート内を盗撮したとして書類送検し、停職1カ月の懲戒処分にした。「ドロボウを捕まえてみれば警察官」ってやつだ。巡査部長はこれまで小型カメラを12台購入し、「県内で150~200回盗撮した」と供述している。自宅のパソコンなどには約150点の盗撮動画ファイルが保存されていた。

    さらには御年49歳の摂南大学教授のスカート覗きである。3月12日午前9時ごろ、京阪電鉄樟葉-枚方市間を走行中の特急電車内で、隣に座っていた京都府の20代女性のスカート内にタブレット端末を差し入れて盗撮行為をした。女性が気づいて取り押さえ、枚方市駅で駅員に引き渡した。タブレット端末には、女性のスカートを写した静止画が数枚残っていた。

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    「パンツくらい見せてもいいだろう」などという奴もバカだろうな。手段が問題だろう?正規の手段(女をくどいて)で見ることもできそうにない、小心でモテないクンの戯言だろうよ。「姑息な手段を使わず、パンツみたいなら口説いてみろよ、このボケ!」と言いたくなる(実際、言っている)。その昔、大久保清という強姦魔がいた。その昔といっても1971年のこと。

    十年ひと昔なら44年前は大昔になるのだろうが、1971年3月から5月にかけて、大久保清(当時36歳)は群馬県下で何人もの若い女性に「絵のモデルになってくれませんか」などと誘い、そのうち関係を拒絶したり、嘘を見ぬいた女性8人を殺害した。実際に声をかけた人数は不明だが、150人ほどの女性が彼の車に乗り、うち10数人の性交に成功したとの供述である。

    この事件が明るみに出た時、大久保と関係を持った女は胸を撫で下ろしたろうし、そういう男の餌食になった後味の悪さを実感したろう。それにしても断られた女や、絵のモデルにという嘘を見抜いた女を殺すという彼の幼児体質というのか、自分の思うようにならないと怒り・キレるというのは、如何に甘やかされて育ったかが想像できる。彼は頭のハゲた子どもである。

    とてもじゃないが、彼の行為はナンパ師の風上にも置けない愚行である。ナンパ師は断る女をその気にさせるのが奥儀であり、それでも断る女を尊敬の対象とするくらいの度量がいる。つまり、自分の能力が通用しないということ。これは有能なセールスマンが、買わなかった客をリスペクトするのと同じであろう。買わなかった客から多くの得るものがある。

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    「なんだ、あの野郎。こっちが一生懸命に説明してやったのに…。時間の無駄だったよ。こんチクショーめ!」と、こういう営業マンに向上する道理がない。落せなかった女ほど心理分析が未熟であったと、賢明なナンパ師(?)は反省するものだ。人を説得する、納得させるという行為の面白さが、営業マンの本質であり、悪いナンパ師の中にもそういう者もいる。

    女性が、「ナンパ師ってイヤよね」という言い方をしたとき、その事をまともに受け入れたことはなかった。なぜだ?なぜ、男が女を口説いて、それがいけないことなのか?そういう素朴な疑問を当時は持っていた。が、だんだん、そんな女の言葉に疑問を持つのが間違っていると分ってきた。「ナンパ師ってイヤよね」は、本気でいってないのが分ったから。

    「そういう風にいいたいものよ、女は…」である。ホンネとお行儀言葉を使い分ける生き物だ。ゴチャゴチャいいたい女、勿体つける女はいる。自分が素直になる事を、もう一人の自分が傍から見てセーブをかける、そういうホンネとウソの葛藤で生きるのが女である。ホンネが分っているなら、ウソの部分を正当化し、口実をつけてやるのが男の役目であろう。

    「女は脱ぎたいために着飾る」。哲学者がいうように、脱ぎたい鎧をさりげなく脱がせる口実を習得するのが男の学問。女とナニをやるというより、人と人の真実の触れ合いであり、女を口説くのは男のロマン以上に、人間の心を読み漁る学問である。面倒臭いことは好きでないという男は簡単に女を買いに行く。女買いに憧れたことは一度もなく、むしろ卑下していた。

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    コミュニケーション不全で、ただやるだけの男女関係に魅せられるものはないといえば、「お前は男として変わっている」などと言われた。が、人間が人間を追及する面白さを、彼らは男女関係に見出せない。ただやるだけなら男はただのスリコギ、女はただのスリバチである。七面倒臭いことを嫌う男の生理に知性を加えると、女がただのスリバチでなくなる。

    「御託を並べても所詮はやりたいんだろう?」なかなか理解は得れないもの。何も理解を得たいわけでも、「やる」事に遠慮も口実も無用であり、本来の目的に付加価値を求めることもあるし、それが講じてくると主客転倒なる事多し。健康のため、ダイエットのために始めたランニングであったが、その面白さに興じて走る事が趣味になった人はいる。

    目的があまりに色濃い場合、人の思考は自分の域を出ない事がある。「人は自分の所有する程度の知識や価値観でしか思考できない」のはその通り。若いときからいろいろな体験をすることで、人間の幅を知ることになる。優等生気質のおりこうさんのような、無難な生き方から得るものは過小である。檻の外、枠の外から自分を眺めると、別の自分が発見できる。

    大久保清は36歳にして母親から「ぼくちゃん」と呼ばれていた。幼少時期から大抵のわがままやいたずらは許されていたという。小学6年の時、幼女に性的いたずらをし、被害者の親が抗議に来た時も母親は、「ボクちゃんがそんなことをするはずがない」と頑なに信じなかった。どこまでホンネであり、どこが自己正当化は分らぬが、彼の供述を以下記す。

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    「兄は妻に離婚したほうがいいと告げ口したり、保護司に俺をもう1度刑務所に戻してくれるように頼みに行ったりした。兄は財産が欲しいので俺を邪魔にしていたのだが、血を分けた肉親にこんな仕打ちをされるなんてことがあるだろうか」

    「警察や女にも恨みがあった。警察はいつも訴えた側の言い分ばかりを聞いて、俺の言い分は聞いてくれなかった。女たちは和姦なのに強姦だと言って俺を陥れた。それで俺は過去2回刑務所に入らられた。もともと嘘がつけない性格なのに、それが人に裏切られ、何度も警察の取調べを受けたり、刑務所に入ったりしているうちにだんだん嘘の言える人間になった」
     
    「俺は肉親に裏切られ、女に裏切られ、社会に裏切られて絶望のどん底に突き落とされた。だから、俺は人間の血を捨てたんだ、冷血動物になることにした。冷血動物になって、社会に復讐してやろう。たくさんの人を殺してやろう。肉親や世の中に絶望した人間がどれだけ悪くなるか、世の中の人に見せてやろうと思った」

    1973年2月22日、前橋地裁は大久保に死刑を言いわたす。大久保は控訴せず刑は確定した。控訴しなかった理由について、知人にこう話している。「生きながらえたとしても、かえって被害者の遺族を苦しめることになり、自分も苦痛から逃れたい…」。刑の確定から三年後の1976年1月22日、大久保は東京拘置所にて死刑を執行された。享年41歳であった。


    怖じ気づいて腰が抜け、へなへなと床にしゃがみこんで動きも出来ず、刑務官が抱きかかえて処刑室に移動された大久保清。凶悪犯の姿・形の欠片もないのが、一般的な死刑囚の最後である。 が、遺族の心情は違う。高校生の娘を殺害された父親は、公判で大久保に飛びかかろうという気持ちをなんとかおさえ、「1日も早く大久保を死刑にして下さい」と言った。

    その父も大久保清事件を題材にしたテレビドラマ(大久保役にビートたけし)を観て、「大久保もかわいそうなやつだね」とぽつりと言ったという。この高校生の父親は派出所勤務の警察官。警官に恨みもあり、また二度目に会った少女から、「この前関係したことは、強姦として事件になるんだってね」と、言われて逆上し、殺害したと大久保の供述にある。

    何にを見ても、なにも感じない
    何にを聞いても心の動揺も感じない
    何にをしでかしても無味な答えすら返って来ない
    何にを云われても他人ごとのように無感心でいる
    ああ!私の心にはなにもない
    おお!顔を歪めて笑う男が、ここに一人つくねんと座っているだけ…
    (大久保清・獄中手記「訣別の章」より)

    この詩を読んで感じたことは、無意味なことに意味はない。無意味をしでかし、獄舎に入れど虚無感増すばかり。人を殺す行為は、人が物に思えるからでは?温もりのない机や椅子と同じ無機的物体に思えるからでは?そのような非人間が、獄舎の中で少しずつ廃人になって行く様子が伺える。非人間は真人間になる機会を有すが、廃人にその可能性はない。

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    人生の何がむつかしい?について考えてみる。人が生きる場は社会である。社会とは「家庭」や「職場」とような様々な「人間関係」の場であるからして、人生の難しさは人間関係の難しさという事になろう。人間関係の何が難しいのか?順を追って考えてみる。まずは「家庭」だ。家庭の人間関係は、夫婦関係を軸に、親子関係、兄弟関係で成り立っている。

    犬や猫などのペットは、相性そぐわずとも人間関係と言わない。親子とは何?親子とは実態であり、肩書きである。年齢差の違う人間と人間であり、子の製作者が親というのはその通りだが、子は親の所有者というのはどうなのか?子が親の所有物であるかを親に聞いてみると答えはどうか?また、子は親の所有物であるか、子に聞いてみるなら答えはおそらく一つ。

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    前者は、「当然、子は親の所有物」という人、「所有物ではなく、別の一個の人格者」という人。いろいろだろうが、「所有者」は間違いで、正しくは「保護者」である。所有者と保護者の言葉の違いは各々で調べられたし。ともかく、"人が人を所有する"という言葉は存在しない。「所有」とは、主としてマルクスの社会理論の中で厳密化されてきた概念である。

    吉田民人(よしだ たみと、1931年8月20日 - 2009年10月27日)は日本の社会学者で東京大学名誉教授。上野千鶴子や宮台真司らに恩師と仰がれている。吉田はマルクスの所有概念を、「一定の社会構成体の内部で社会的に保障された、一定の類的または個的主体による、一定の生産または生活諸条件に対する、一定のわがものとしての関係行為」と要約している。

    「所有」をさらに分りやすくいうなら、「所有」とは人間が生存する上で不可欠な、外界の物資に対する支配を表す概念である。したがってそれは、第一義的には人と物の間の関係である。一義的とは"根本的"の意であるから、所有は人と物の関係である。ところが上記の問いにあるように、「子は当然にして親の所有物である」という親がいるのはなぜか?

    答えは「無知だからである」。「バカだからである」。所有の意味を知らないという点で無知、子の製造者たる親としての所有意識を抱く点においてバカである。粘土や木工で何かを作れば作った人の物となるし、花壇や畑に種を撒いて作った植物、野菜は、その人の所有物であっても、人間は製作者の所有物ではない。理由は簡単、子は物品でないからだ。

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    子には固有の意思があり、親がいくら所有物と喚いたところで、子は親のいう事を聞かない。親の思い通りにならない。子は犬や猫のようなペットではないが、ペットを飼育すると同じ論理に当てはめられる。それは飼い主として、果たす責任の存在だ。何の躾もせずに飼育をすると、散歩中に人を噛んで怪我をさせたり、人に社会に迷惑が発生することになる。

    人間の親を飼い主とはいわないが、親は子の保護責任者としての躾が成されていなければ、ペットと同様に他人を傷つけたり、迷惑をかけたりする。また、他人と意志の疎通ができなかったり、会社や学校などの始業時間に平然と遅刻したり、他人との約束を守らなかったり、働こうとする意志のない人間になるなど、社会参画の出来ない人間になったりする。

    よしんば、「子は親のもの」というのなら、「好きに、自由に扱っていい」ではなく、責任もって育てなければならない。車にも所有者管理責任義務が発生するが、いい加減な手入れしかしなかったり(例えばタイヤがスリップしたり、ブレーキがきかなかったり)の場合、人を殺傷する凶器になる。所有者としての認識を持つ必要は、責任と言う点に現れる。

    車にも「整備不良」があり、整備不良車は他人に迷惑をかけるように、人間にも「不良」は発生し、他人や社会に迷惑をかける危険な存在になる。誰がいったか、「子は神様からの預かりもの」という言葉をたまに聞く。「子は社会からの預かりもの、だから社会に役立つ人間になるよう育てる義務がある」という言葉もいわれ、いずれも躾の大事さをいったもの。

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    親子関係に最も顕著なものは、躾をする側とされる側の関係であろう。それこそが親子関係の難しさとなる。幼児期から学童期に子どもの人間関係は一段と広がる。それまでメインの親子関係より、友人関係が大事になって行く。幼児期までは何の問題もなかった親子関係にコミュニケーション不全が起こる。これらは「反抗期」といい、巣立ちのための準備である。

    子を思うあまり、心配をし、注意もするが、子はそれを嫌がるようになる。発生していない注意をいくら言われようが、起こってない事への想像力は、なかなか喚起されない。「大丈夫、そんなに心配しないでいいよ」という言葉は、どこの家庭でも普通に聞かれる。極度の心配性の親に対して子どもは過干渉の親と見定め、自身の行動を内密にするようになる。

    「何でそういうことを親に言わずに勝手にしたの!」。ある問題において親は言うが、子をそうさせたのは実は親である。多くの親は自分に原因がありながら、そこに気づくことなく子の責任、子の過失とする。以下の例は珍しくない。社会人晴れて一年生の娘の勤務先に、公私に面倒をみてくれる30歳で同性の先輩が出現、親以上に慕い、憧れの先輩となる。

    ある日、その先輩から宗教の勧誘をいわれ、親に内緒に入信してしまった。または、その先輩がマルチ商法まがいの個人営業をしており、補正下着、化粧品を契約させられるケース。未成年者ではないし、契約に親の承諾を得る必要はない。「あなたの肌はきれいだし、その美しさを維持するためにも今からキチンと手入れをした方がいい」などの言葉で勧誘する。

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    女は、「きれい」と「やせる」の言葉に弱い。化粧品に興味も知識もないが、業界大手の「ノエビア化粧品」が、Amwayと同じマルチ形式らしいことは聞いたことがあった。そうはいっても上場企業であり、代理店販売とネットショップ販売の「ノエビア」の印象は悪くない。マルチと知って実際驚く女性も多いが、化粧品自体のクォリティは悪くないらしい。

    新興宗教やマルチ形式の化粧品を勧誘されて契約した時の対処法として、ネットに様々な被害情報が決め手になる事が多い。親はそういった裏の面を子どもに見せて解約にもっていけるケースが多い。このように被害者の生の声が情報として得れるのはネット社会の利点である。自分は母親が新興宗教に入り浸っていたことで宗教に極度の嫌悪感を持っている。

    だからか、自分の子にはいかなる宗教にも入らぬように厳命していた。孫に宗教の摂理を説く母親にも直言した。「宗教の狭い価値観でしか物事を考えないような人間にはさせたくないから、今後一切施設には連れていかないでくれ」と。宗教者は自分だけが信じていればそれでいいが、一族に累を及ぼすこともあり得る。そこは断固阻止すべく立場に自分はいた。

    自分が好きなことを片っ端から批判した母親である。自分が物心がついたとき、母親が熱狂する新興宗教をボロクソ批判をし、仇を討った。母親は息子から受けた批判が余程こたえたのか、熱心さに翳りが見え始めていた。しかし、宗教教団と言うのはなかなかどうしてしつこいし、金銭的収入源としての信者を手放さいもので、定期的に寄付を取りにくる。

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    考えてみるに宗教の存在は、信者の寄付で成り立っている。信仰があろうがなかろうが金の無心は欠かさない。いわば、寄付を充てにした商売である。2人の知人女性に宗教を脱会させたことがある。天聖真美会と、神慈秀明会という宗教だ。配布された数珠の玉の中を壊してみると、紙切れに印刷された「光」文字が笑えた。退会すれども自分で壊せないという。

    「これを処分してくれない」、「いいとも」。といって、バラバラに粉々に壊してやった。こんなもん、どこぞの零細業者に図面を渡して安く作らせてるだけの代物。壊すことに何ら躊躇いはなかった。子どもの頃は、神社の境内の社に小便をひっかけて、バチがあたるかどうかを試した事があったが、年端も行かない子どもであったし、その時はビクビクした。

    数日経ってもバチは当たらず、「神」の存在を嘘と知った。それが講じてか、神仏に手を合わせる平均的な日本人とは意を異にする人間となる。日本には神道を始めとする様々な新興宗教がある。「天理教」や「金光教」、「創価学会」など、それなりの歴史のあるものに比べ、「幸福の科学」は比較的新しく、大川隆法が1986年10月6日に設立した。

    東大法学部卒者が興した宗教であることに驚き、彼がエル・カンターレを自認することに驚いた。エル・カンターレとは、奈良県の東大寺盧舎那仏像を指し、エル・カンターレ意識の一部はインドに釈迦として生まれ、古代ギリシアではヘルメスとして生まれるなどと定義している。さらにはキリストや孔子などの歴史上の偉人などが大川の口を通じて語ると主張する。

    イメージ 6東大法卒から商社勤務を経て宗教者という驚きはあったが、前世は仏陀であるとか、イエスや孔子のチャネリングは茶番として、驚くことではない。美輪明宏が「私の前世は天草四郎」とほざいてると同じ認識である。1991年、「幸福の科学」が宗教法人となった年に、いわゆる「フライデー事件」が起き、会員の景山民夫や小川知子が講談社にデモ行進をした。あれは、宗教者と出版社のトラブルという認識しかなかった。自由主義国家の日本には信教の自由も報道の自由も保障されてはいるものの、一方的な報道は慎むべきであろう。「三浦事件」の時もそうであったように、「フライデー」の記事はその点どうだったのか?それにしてもだが、「幸福の科学」にしろ、「オウム真理教」にしろ、なぜこのような宗教が日本に生まれるのか?

    物質文明の先端を行く日本には、精神的な虚脱感のようなものが人々の心に広がっているのではとの認識であった。真の宗教者たるは、自分たちの信仰する対象を冒瀆されたときこそ、寛容であるべきである。これは「ファン」の概念と同じで、批判されて目くじらを立てるようでは自らに「真」がないということ。信者である前に、ファンである前に、己を悟れ。

    「ファン」でない者がいて当然であり、信者でない者がいて当然である。なのに、自らの崇拝対象の冒瀆は許さないのが、これまで宗教が犯してきた最大の過ちであり、それはイスラム対キリストの争いとして今なお続いている。「人生の何がむつかしい?」という書き出しで始めたが、さらに目を外に広げると、世界が、地球が、民族がむつかしいのである。

    宗教が矛盾を内包しているのは明らかであるが、幸福の科学の人間は、「聖霊を冒瀆することだけは許されない」というが、大川隆法の著作自体が、他の宗教を冒瀆するのだから何をかいわんやである。宗教の本質は一神教であるがゆえに排他的であり、排除の論理を旨とするが、これは世俗の人間関係にも通じる。何か一つの絶対正しいを信じる人間と会話はできない。

    宗教に入信する動機は、自分が知る限りで失敗や挫折、疾病などがある。「エホバの証人」に入ったある女性は大学受験に失敗し、予備校の近くで声をかけられた事がきっかけだった。当時、予備校近辺には宗教勧誘者がうごめいていたという。大川隆法も宗教家として立つまでは、世俗社会での成功を夢見ていた。それが東大法学部であり、司法試験受験であった。

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    上級公務員試験もそうであるが、大川はその夢を叶える事ができなかった。それが法学部から商社勤務への転身である。当然ながら商社マンなどは彼の夢を叶えるものではない。大川は父と二人三脚で宗教活動を始めた。父のペンネーム善川三朗名で『言霊集』が刊行され、予想以上の売れ行きに自信を深めた大川は商社を退職、宗教家としての道を歩み始める。

    世の中たった一つの挫折が人生を変え、たった一つの自信が人生を変える。人間は喜劇のバルザックには、人間悲劇のシェークスピアとは違った名言が多い。「俺の青春は雲一つない空のようにまだ青く晴れわたっている。偉くなりたい、また金持ちになりたいと願うことは、嘘をつき、頭を下げ、へつらい、偽ることを自ら決心したことではないか。」には笑ってしまう。

    人間関係の難しさに対しては、「ヤマアラシのジレンマ」を常に思い出す。これは人間関係の基本である距離感を呈している。「あまりうちとけ過ぎる人間は尊敬を失います。気やすい人間は馬鹿にされます。むやみに熱意を見せる人間はいい食いものにされます。」と、バルザックも言っている。自分に親切にしてくれる先輩や同僚にも適宜な距離感がある。

    「わたしはあなたを信頼し、尊敬しています」などとむやみに熱意を見せると、食いものにされるという事だ。物事の道理を押さえているできた人間は、そういう相手を利用などはしないが、利用しようとする人間にはこれ以上のものはない。自分を慕う女性にマルチ形式の化粧品を契約させられたことで、母娘が言い合いになった事があった。自分は母にいった。

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    娘さんには罪はない。純粋におねえちゃんと慕う人からこのような利害関係に発展するのは、おねえちゃんこそ問題であり、罪人である。母親のターゲットは娘であってはならない。娘は慕うおねえちゃんの人間関係を損ないたくないだけだし、だから娘を責めてはいけない。娘を説得し、納得させるために汗をかくべきであろう。幸いにして、母親は娘を理解させた。

    人生には虚実が多い。気をつけるべきは虚実を見抜くことだが、なかなかそれは簡単ではない。「人を見たらドロボウと思え」と、古人は知恵を授けてくれている。人を信頼すべきか、疑うべきか、そういう岐路に立つことは多だある。その際、自分が心掛けているのは、「相手を本当に信じたいという前提で、疑うことは何ら悪ではない」と、言い聞かせた。

    自分は実は神の存在を信じたい人間である。徹底的に本当に神の存在を信じたい、ゆえに疑っているのであって、神社の社に小便をひっかけたのも、神様を信じたかったからであった。本当に信じたいのなら疑いましょう。盲信は戒めることだ。



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    昨日は、主に親子について書いた。親子との問題はあり過ぎて書ききれるものではないが、子の性格の要因は実は親にあることを、親より子どもの方がよく知っている。「子は親の背中を見て育つ」というのは親子に関する象徴的な言葉であり、"背中"と言うところがいい。親の側からいえば、子を背にして何も見えていない。が、子どもは背中と対面している。

    怖ろしいことだ。この年になっても親に背中がある以上、常にさらされ、見られている。別段、子に尊敬されなくともいいが、良くないものを吸収してもらいたくはない。が、よくないものが背中に現れる怖さを実感する。親は自分に無知である。子の心を見据える親は存在しない。子ならずとも人の心は見えない、よって思考するしか感じとる方法はない。

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    子どもの心を思考するには、子どもがこれまで吐いた言葉の多くを、親は覚えていなければならない。それらから子どもの心のうちを思考するのだが、それでも正しい判断は難しい。正しい判断をしなければ、正しい助言は与えられない。相手に何かを言ったときに、まったく畑違いの返答をする奴がいる。それと同じことで、これほどバカげたことはない。

    「うちのお母さんは、言う事がバカすぎる」。中高生くらいになればこういう判断はする。自分は小学生のときにそのように思っていた。つまり、小学生にバカにされ、見限られるようなことしか言わない母親だった。男の子を持つ母親は、指示や命令だけで息子を理解はさせられないことを体験する。男の子は「なんで?」、「どうして?」を常に返してくる。

    女の子は面倒臭いことは考えない。感覚的に感じ取り、それで済ませる。だから、表層部分しか分っていない事が多い。要するに分りたくないのだろう。反面、男の子は分りたい気質が強い。女にとって男は謎である。男にとって女が謎であるように…。また、親にとって子どもは謎である。子どもにとっても親は謎であるように…。ドイツにこういう諺がある。

    Kinder sind ein Rätsel von Gott.」(子どもたちは神から与えられた謎である)。ドイツ人にとってこれが子育ての基本であり、モットーとなっている。子どもが未知の存在であるのは世界の子どもに共通であるが、赤ん坊の持つ不思議な「謎」は、親でさえ関与できない一面をもつ。日本人の親は、日本人の子を生み、日本人の子どもを日本人のように育てる。

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    "日本人のように育てる"とは異な言葉だが、いわゆる日本人らしさである。日本人らしさが何であるかを知るには、日本人以外の民族に指摘されるのが分りやすい。最近はテレビでも様々な外国人が、日本人らしさについてアレコレいう番組がある。彼らの言う日本人らしさとは、日本人の不思議さであるようだ。外国人からみて「ここがオカシイ日本人」である。

    それを気にすべきか、すべきでないのか、日常生活の慣習などは、文化であるがゆえ気にする必要はあるまい。しかし、問題にしなければならない点もある。青年交流で日本に来たある外国人高校生が、日本人高校生との会話で愕然としたというのを読んだ。親善交流であるがゆえ、そのような日本人観をあからさまに口には出さないが、事実はそういう事だ。

    外国人高校生曰く、「日本の若者は、人生でいちばん楽しいであろう時代に、実に不幸せそうな顔をしている」と感じとったという。そういう生気を失うと並行して、判断力も鈍ってくる。大学生は黙々とノートをとるが、それは断片的な知識を列記しているに過ぎない。彼らは断片的な知識を問われると答えられるが、彼らの意見を問われると黙り込んでしまう。

    このような例はあちこちでみかけるが、判断力が大人になるほど影をひそめる原因はなんであろうか?日本の社会組織は、自分の意見を明確に表示したり、発言したり、独自の判断を下すのは、マイナス評価を受けることを誰もが知っている。そういった独自の判断力を持って行動する人間は、人間関係を阻害すると言われる。職場においても、学校においても。

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    であるなら、日本の社会において、判断力とか自身の考えを表現する能力は必要ないのか?決してそんなことはない。今後日本が国際社会に進出するほどこの能力が強く要請されることに疑問の余地はない。となると、こういう風潮をどうすればよいのかを、国家が考え直す必要がある。"自分の意見を言うのは決して悪いことではない"ということを、である。

    「日本人の国民性は内向性の極み」と目されるような社会心理が、生活の多くの場で指し示されている。また、クマもんや、フナッシーなど、どこもかしこも、日本国内あちこちに蔓延する"ゆるキャラ"に見る「癒し」ブームも、日本人の内向性を指し示す社会現象である。ディズニーランドにはミッキーやミニーはいるが、巷あちこちに、県を代表するゆるキャラ。

    こんなお国は諸外国にはない。日本人の幼児性を象徴する、ある種の精神病理であろう。なんでもかんでも、「かわいい~」が先行する国民性である。生活の中で、たまたまそこにかわいいものがある…ではなく、かわいいものばかりを求め、それに浸りきった社会。これが日本民族であるのが気はずかしい。日本人型付和雷同性のなせる技である。

    集団生活の規律を重んじるあまり、個性の芽を摘むなどあってはならない。が、日本はそういう社会環境のようだ。他の国のことは知らないが、「躾け」という言葉を持つ外国は少ないのではないか?ドイツにもアメリカにもない。「教育」という語源は、ラテン語の「educate」(その人の能力を引き出す)から派生するが、日本の教育とは「記憶させる」である。

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    決まりや方程式や、年代や記号を憶えさせて、どのくらい憶えていたかというテストのやり方のどこが教育なんだろう?その人の記憶能力の開発に寄与はするが、これが教育とはおかしな話だ。レポート方式で個々の考え方や、構成の仕方や、取り組み方や、切り口や、掘り下げ方や、広げ方などを見る。と言うやり方を、どうして日本の学校はやらないのか?

    さて、「表題」から少し外れたようで、親子関係から夫婦関係に進路を変更する。家庭の中心は夫婦といったが、これは正しくなく、夫婦が揃ってない一人親家庭もある。日本の母子家庭数は123.8万世帯(平成23年11月)、父子家庭数は22.3万世帯(同)となっており、母子家庭は増加傾向(前回115.1万世帯)、父子家庭は減少傾向(前回24.1万世帯)にある。

    要因はいうまでもなく離婚の増加である。母子家庭の数が多いのは、子どもがいる夫婦が離婚する時に、母親が親権者となる場合が多いからだが、ちなみに1960年は、父親が親権者が47%と母親よりも多かった。その後比率は逆転し、1996年は、母親が親権者の割合は78%となっている。離婚はなぜ起こる?原因は様々だが、圧倒的正解をいえば結婚したからだ。

    夫婦はよく喧嘩をする(らしい)。自分は夫婦喧嘩をした事がなく、理由は夫唱婦随であったこと。さらにいえば、喧嘩をしなくてもいいような女を結婚相手に選んだということもある。その点、自分の目に狂いはなかったことになる。「喧嘩したことないね~」と言うと、「信じれん」という返答をどれだけ聞いたことか。唖然とされるので、言わないことにした。

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    それくらい夫婦の喧嘩は日常的のようだ。喧嘩の原因が自分にないわけでは決してないから、今に思えば出来た妻ということになる。夫婦喧嘩は仲のよい表れともいうが、仲のよい喧嘩がどういうものか分らない。大体において夫婦が喧嘩をすれば後味が悪かろうという想像しかない。そういう話はよく聞くし、だから好んで喧嘩をする夫婦はないはずだ。

    それでも喧嘩になるのだろうが、自分には喧嘩の理由がよく分らない。娘夫婦などに喧嘩の理由をアレコレ聞くが、誰であれ他人の喧嘩はくだらんとしか言いようがない。そんな事が喧嘩になるのか?見たいな内容だが、当事者的には大変なことなのだろう。しばしば喧嘩をすると離婚につながるのか?"喧嘩するほど仲がいい"なら、その論理は当てはまらない。

    喧嘩の理由のほとんどは、二人で生活するうえでの価値観や習慣のズレである。別個の意思を持った人間が同居すれば、いろいろ違いもあるだろう。結婚して最初の1年間は特に夫婦喧嘩が多く、ひどいときは家に帰りたくないと思うくらい殺伐とした空気が、二人の間に充満していたという話もある。こういう話は結婚した男女の数ほどあり、詮索すればキリがない。

    ネコを飼いたい、いや、イヌがいいという喧嘩もある。外食しよう、もったいないので家で食べる、も喧嘩になる。出かける、出かけない、お風呂に入ってよ、入りたくない、いつまで寝てんの、まだ眠い、など、喧嘩のネタは尽きない。人は自分の思う自分と、人から眺める自分は大きく異なる。自分は自分に楽に生きてるが、他人から見るとそれが気に入らない。

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    喧嘩の要因はそういうものでもあろう。人は誰も自分を知らない。社会の中で目に映るのは他人の顔ばかり。他人は自分にアレコレ寄与し、影響も受けるが、自分が自分の影響を受けない。だから、人間は自分をおろそかにしているし、それを教えてくれるのは他人である。自分で知る自分は甘やかした自分である。他人が指摘する自分は、結構辛辣である。

    他人から、あんたはここがダメ、ここを直してだの、ああせー、こうせーなどと命令されると面白くない。自分は心地よい自分でいるのに、それを他人からうるさく言われていい気がしない。だから喧嘩になるのだろう。そういった日常の些細な問題も、積み重なると我慢できなくなる。「ああ、もうこの人と一緒にいたくない」。それが離婚の第一歩であるのか。

    相手の浮気、とてつもない浪費などの許しがたい問題、などが離婚の要因としては大きいようだが、家事もしないぐーたら女房、子育てに興味を示さぬぐーたら亭主も、離婚の原因となり得る。離婚経験者に言わせると、離婚は結婚以上にエネルギーを要するらしく、確かに想像に難くない。元は赤の他人の男女とはいえ、それまで何年も家族として生活してきたのだ。

    近年の日本の離婚率は上昇気味である。厚生労働省が発表しているデータによると、2000年代の離婚率は高度経済成長期のそれの約2倍である。かつて離婚は後ろめたいものであったし、社会の落伍者という見方もあったが、離婚歴が3回、4回といった猛者もいたり、あげくは離婚歴を隠すことなく堂々としているのも特徴的だ。離婚は恥ではなくなったようだ。

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    離婚を恥と感じない人が増えたということは、「離婚が必ずしも悪とは限らない」と考える人が増えたということ。結婚生活の状態によっては、「離婚やむなし」という場合もあれば、離婚したほうがお互いにとっても、子どもにとっても最善と肯定的に考えるようになったようだ。確かに離婚は社会の落伍者とは言えず、"バツイチ"が、"プライチ"と言われ始めた。

    何事も経験、何事も勉強というなら、+1(プライチ)の要素はある。結婚前に見えなかったもの、分らなかったものが、結婚で分ったことは多いはず。仮に、それが離婚という結果に終ったとしても、社会的制裁がなければ、苦痛な共同生活よりは遥かにいい。夫婦が陰険に暮らすのは子どもにとっても害悪である。修復不可能な状況なら離婚を勧めたい。

    経済的な負担はもちろん女性側にのしかかるだろうが、そこはあえて自身の身の丈にあった暮らしをすればいいこと。かつてのように夫に先立たれて残った子ども3人、4人を女手一人で育てたという女性は決して珍しくはない。離婚に加害者も被害者はないというスタンスを持つのがいい。どちらにも言い分があるし、籍を入れた責任はどちらにもあるわけだ。

    すべて相手に非があり、自分にはまったくないなどという女性がいるが、そういう人間は自分がまったく見えていないのだろう。また、結婚にロマンを求める女性は、現実と理想のギャップに失望するだろう。1年や2年の結婚なら難しくはないが、一生のものとするなら婚姻は至難であろう。男らしさ、女らしさが死語といわれる時代であるが、忘れ去られたものもある。

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    男は優しくなければならない。女は気づかいがなければならない。これが自分の理想とする男らしさ、女らしさである。女が男の本当の優しさを知るとはどういうことか?その男と居ることによって、「素直になれる」、「安心できる」、「心を解放できる」である。女の気づかいは、衣食住全般にわたる相手への思いやりであろう。胃袋、玉袋などへの気づかいも…

    男にとって妻の存在は、異性の常時入手可能を意味する。「男は家に帰り、そして留まる」というように、これが一夫一婦制の起源となり、ひらけた平原に生きる場所を求めた人類の新しい家族単位は、自然選択の上から有効に働いた。母と父からなる安定した社会単位は、長期間に及ぶ子どもの生存と発育、社会性の発達などの躾に寄与するのは言うまでもない。

    男が狩りを、女が家事一般を、というのも生物学的身体能力においては自然な形態である。かつて女性が社会進出できなかったのは、家事育児がのしかかっていたが、現在では保育園やベビーシッターなどの社会インフラが機能していることで、女性がドンドン社会に進出した。ただし、そこに満たすものがあったとしても、多くの負の要素を生んだのも事実である。

    イメージ 9口を開けば、"時代錯誤"なる言葉を意識する。かつては薩摩から江戸まで誰もが歩いた。文句をいう筋合いなど誰にもない。当時の人は、自転車も、バイクも、クルマも、鉄道も、飛行機も知らない。アスファルトで舗装された道路もなく、真冬に雨や雪でぬかるんだ道を、冷水の浸み込んだ草鞋を履いてテクテク歩く。スニーカーなどない。立派だと思うよ。

    1000万円やるから鹿児島から東京まで歩いて行け、といわれて果たしてできるだろうか?現代人の脳は立派になったが、気力・体力・根性は、昔人間にはるかに及ばない。長い距離をあえて歩いて見るとき、昔の人に思いを馳せて歩いてみる。「負けてたまるか!」と思いながら…。すると、気力・根性が芽生えてくる。あとは体力…。



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    夫婦の問題は聞けばさまざまあるようだが、我が家のように問題のない夫婦が、夫婦の問題を取り上げてみても、根底がちがうからどうなんだろうか?それを言うなら、すべての問題は、すべての夫婦の性格や在り方が違うわけだから、当事者以外は解決できないのか?というと、そんなことはない。当事者が解決できないものを、第三者が入ることで解決することは多い。

    「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」とは、何でも食ってしまうような犬でさえも夫婦の喧嘩は食えないとの意味。夫婦間の些細な内情であれ、内情には違いないから、内情の当事者同士が解決するか、すぐに元に戻るような問題なら放っておけということだ。2013年9月30日の日経に、「言い争いの原因は何だっけ? 夫婦げんかの勝者は… 」との見出しの記事がある。

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    原因はどこの家庭にもあるしょーもないことだろうが、問題はアンケートの示す結果である。夫が勝ち…11.7%、妻が勝ち…46.0%、勝ち負けナシ…42.3%ということだ。勝ち負けの意味するものは何なのだろう?夫⇒外食、妻⇒家食で、妻が勝つと家食になるということか?どうしてこうなるのか、を単純に夫の弱さと決め付けるのだろうが、果たしてそうなのか?

    絶対に外食を「禁」の家庭ではあるまいし、その日に限って妻が「家で…」と言うのかも知れない。だったら、「いいからいいから、今日は上手い中華を食いたいんだから行くぞ!」と言ったらどうなるんだろう?素朴な(喧嘩の)疑問である。我が家は自分が外食といえば外食だから、反対というケースがない。だから、妻が「No!」と言った後のことは想像の世界となる。

    要は説得すればいいことだが、妻が勝つ家庭では夫がすぐに妻に従うということなのか?喧嘩だから、「外食!」vs「家食」の応酬があるはずだ。応酬があるにも関わらず、妻が勝つというなら、それは夫の説得力に準ずるボキャブラリーがないか、根本的な力関係が妻上位ということか。夫婦喧嘩は殴りあいでなく、口喧嘩だろうから女が強いという世評である。

    これまた自分は疑問である。女が口が立つなどと思った事がない。口喧嘩らしきものを女とやりあったことは数あれど、大概は泣かすか、相手が逃げて終る。それを勝ちというなら不敗であるが、へなちょこ論は言い負かして当たり前だと思っている。へなちょこ論とは感情論であり、あまりにギャ~ギャ~うるさいと、「喚くだけなら壁に向かっていえ!」と言う。

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    「聞いて欲しいなら、聞いてもらえるようなまともなことを言え!」なども言う。相手の論がまともであるかは本人には分らないが、それが如何にハチャメチャであるかを丁寧に示してやる必要がある。それをせずに、「聞くに耐えん」、「バカかお前は?」などとサジを投げると、女は言い負かした気になる。だから、相手の論が糞であることを説明しなければダメ。

    面倒くさいが、幼児や子どもをあやすと思うしかない。「筋の通った道理やまともなことを言えないなら相手にしてもらえないぞ?ちゃんとした話なら24時間でもするよ」、という前置きが必要だ。むやみに始めない方がいい。なぜなら、呆れて黙ると相手は言い負かしたと思うからだ。そういう短絡的で自分勝手な相手だから、「バカとは話さんぞ」の宣戦布告がいる。

    男は女の感情攻めに対しては論理で対抗できないと思っているが、だからと言って、「お前なんかと話してもラチがあかない」は禁句である。「お前みたいなバカと話してられん」も禁句である。そういうのは最初に言わなきゃダメ。途中からだと相手は勝ったと思うからだ。だから、最初に重々「バカとは話さんから、まともなことを言えよ」との前置きがいる。

    そして了解をとる。それくらいの用意を相手に見せてやること。それと、「言い合いはしない!」とハッキリ言うこと。「相手を説得し・納得させる気で話すように…」それも言っておく。こういう風に、話し合いはあくまでも自分の主張を相手に示し、納得させるためにするものだという事を女には言う。感情にかまけた言い合いが女の本分だが、それはしない。

    イメージ 3「(お前なんかと話しても)「ラチがあかない」、「バカとは話せない」などと言うと、大抵の女は、「ほら、そう言って逃げるんだよね~」と言う。バカ相手に押し黙った男を、黙らせたと思い込んで勝った気になっているから救いようがない。『孫子兵法』に、「無手勝流」という戦略がある。"戦わずして勝つ"の意で、これが最善と言われている。くだらんことをギャ~ギャ~喚く人間とは最初から戦わない。

    最初に言い渡しているにも関わらず、支離滅裂なことをいう女も少なくない。そういう場合も、「男と話したいなら論理を磨け。女を言い負かせても所詮は幼児の喧嘩だろ?」などと、これは捨てゼリフではなく、説明である。江川紹子、櫻井よし子のような冷静沈着で説得力のある女性なら得るものが多い。男が黙るから勝ったと思う女は避けるべし。若い時の父は母を柱に縛りつけていたが、何を言われても黙り通すほどに変節した。

    火に油を注ぐような無駄なエネルギーを使わぬことを悟ったのだろう。たまのガミガミ女ならいいが、毎日目の前にいる妻である。そんな父の変節を理解したのは、自分が40の年齢を超えてであった。幼児の頃は言われるままに母に加勢したが、そんな自分も成長するにつけ、母に文句を言わない父に憤慨した。よくもこんな女を娶ったものかと不思議であった。

    夫婦には様々な価値観の違いが生まれるが、ここぞという核心に触れる問題が生じた場合、離婚するぐらいの覚悟でやり合ったらいい。子どもの教育は妻の専権事項と思わず、臆せず発言すべきである。父は、ここぞと言う問題には必ず自分で行為した。行動した。自分の楯となってくれた。後で何があっても責任を取るという態度で、母を無視して決めていた。

    案の定、母から狂乱ともいうべき侮辱の言葉を吐かれていたが、息子のために良かれと思ったことに恐れなど抱いていない父の強さを自分は見た。うるさい母に伺いなど立てず、無視する強さである。貴乃花の兄の花田氏が離婚直後、「妻が子どもを有名幼稚園入園希望で、自分は子どもにそんなものは望んでいない」と言っていた。何も妻が正しい訳ではない。

    妻は自己のイメージの高さが子どもをブランド漬けにする。そういえば妻は「あなたが正しいわけでもないでしょう?」と言うだろう。重要なのは「無私」の話し合いである。妻には「私」があり、夫にも「私」はある。子育てにおいて正しいものは「私」を捨てることで、それが話し合いからもたらされるが、もし、女が「私」を捨てれないなら実家に帰ってもらう。

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    誤ったものは断固拒否の姿勢で貫くべきだ。辞表を懐に入れて会社と対峙するような男に魅せられる。養育費でセレブ生活を楽しむ花田氏の元妻の現状に世間は批判の渦であり、百年の不作であったというしかない。価値観を妻に牛耳られる夫の不甲斐なさは見てられない。どうでもいい些細な事柄に中途半端な喧嘩をするくらいなら大勝負の大喧嘩をすべきかと。

    子どもの進路や教育について夫婦は争えばいいが、大抵の場合は夫が降りるようだ。上記日経の記事はこうである。「先日、友人たちと飲んでいて『夫婦げんかはどっちが勝つのか?』と聞いたら、全員『カミさんに決まっている』と口をそろえた。『けんかしたら仲直りするまでが大変だろ。面倒だから白旗揚げておくのが一番だよ』。まったく同感である。」

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    なるほど、「逃げるが勝ち」の精神が、日本の家庭を守っているようだが、夫が妻に飼い慣らされた結果だ。夫唱婦随を信奉する自分にあっては、女は仕込むもので、最もある程度の見込みを立てて娶ることも大事。夫婦においても世俗の人間関係においても、重要度の優劣順位をつけるのはよくないと考える。小さき事が実は大事であったりすることもある。

    大した問題じゃないからと、放置しておくのは危険である。いずれにも同じくらいに関心と重要度を持つことを勧めたい。大変なのは分るが、あとあと大変になったときは遅きに失すという事を考えれば、後の大変よりは先の大変を選ぶべしか。「ならぬ堪忍、するが堪忍」という慣用句を眺めながら思った事がある。ならぬ堪忍とは、到底堪忍できないこと。

    それをしてこそ堪忍なのかと。なかなか人間も大変よのう。それから派生したのが「大事は雑事」である。「大事の小事」という言葉はあるが、「大事は雑事」は自分のオリジナル。雑事、雑事というけれども、雑事は大事につながり、決して手を抜かず、キチンとやっておくこと。「大」に気を取られるあまり、「小」を見下してはならない。という戒めである。

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    「夫婦のことは夫婦以外にわからない」これが夫婦喧嘩の実態か…。理由を聞いたところで、言い分を聞いたところで、確かに何でそんなことでと言うのが多い。傍目にはそうでもその場の当事者(夫婦)は一歩も退けぬ状況だ。夫婦喧嘩の経験がないから想像するに、相手を批判する、何事かを押し付ける、機嫌が悪いからと無視する、喧嘩を要約すればこういう事だろ?

    ネットにある夫婦喧嘩の状況が書かれていた。これは夫婦喧嘩の絶えない家で育った子どもが、こんなことで喧嘩になる、母親がいらいらするというのを記したものだが、「父の無神経さに母が怒り、父は怒られたことは次からしないものの、母の怒りの原因を理解していないように思えた。父は大雑把な人なのだ」と分析している。以下が喧嘩の内容。

    母 「何で大根を5本も買ってきたの?」
    父 「安かったから…」
    母 「こんなに誰が食べるん?」
    父 「ああごめん、俺が食べるわ」
    母 「そういう話じゃない」

    これを見て妻が悪い、夫が悪いといえるのが傍観者。妻は食べきれない量を買ってきた夫が悪いと思い、夫は安いから買ったはずなのに妻は多いという。とりあえず謝っておこうという感じだ。「五本は多いよ、いくらなんでも…」という者もいるだろうが、妻を悪者にしようと思えば簡単だ。夫はいい性格のようだし、以下は、良妻賢母だった場合のやり取り。

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    母 「凄いね~。五本もあるよ。安かったの?」
    父 「うん、普通の半額以下だった。歩きだから重かったわ」
    母 「大根料理に磨きをかけます。2本くらいは天日で切干にしましょうね」
    父 「切干大根、美味しいよな」
    母 「干すと栄養価が上がるしね」

    こういう思いやりのある女はいい。すぐさま夫の動機を理解してるし、物事を善意に考えられる女。確かに本数は多かったとしても、それを捌くのが才覚である。夫の善意を踏みにじってないし、女の「美徳」とまで言わずともこういう女は普通にいる。むしろ、上のような女が自分的には珍しいし、喧嘩を売っている。これが喧嘩を買う男だったこうなるだろう。

    母 「何で大根を5本も買ってきたの?」
    父 「安かったから…」
    母 「安いからって…、考えないの?誰が食べるのよ、こんなに!」
    父 「じゃかましい~、料理の才覚がないのを棚にあげて、文句しかいえんのか!」
    母 「だったらあなたが作ってみたら」
    父 「お前の仕事だ!料理もできないで文句を言うなら、ゴミ箱に捨ててしまえ!」

    さて、どういう夫婦がいいかは一目瞭然。明晰で優しい女は、大根5本をプラスに考える。女がネガティブに文句をいうのは、才覚のない女。こういう女は、喧嘩にならないようなことでも喧嘩にする。思いやりの心を持った女は、一見問題ありそうなことも、喧嘩になどしない。こういうのは主婦講座というより、性格の問題だろう。上のような女を娶れば「不作」である。

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    現在の妻を悪妻だの、ダメ夫だの、相手は誰が見つけたんだ?言わずにおれないのだろうが、言って良くなるものなのか?それでも言わずにおれない夫婦ってのはどこかで失敗したんだろう。互いの悪口を言わなきゃならない相手が自分の伴侶だなんて不幸すぎる。こうなったらもはやどうしようもないんだろうよ。急に良妻に、急にいい夫になるわけない。

    もうやり直しはきかない、今の状態を変えようがない、このままずっと現状維持なら、どこかに楽しみや生き甲斐を求めるしかない。人生の何がむつかしいかの最上位は、夫婦の現状を変えることでは?自分が変われば相手も変わるのか?その保証はない。その前に本当に自分が変われるのか?夫婦関係に先が見えた夫に問う。「妻が変わるなら自分も変わっていい」という。

    夫婦に愛がないのに、さもあるかのように振舞う。どちらも欺瞞であるのは分っている。それでも離縁とまでならないのは、不満程度で収まっているからだろう。不満はやがて不安になり、そして不信に到達するなら離婚となる。拭えない不安や不信は、覆水盆に返らない。離婚もせず、夫婦に尊敬も愛情もみえないなら、夫婦を気取って生きていくしかない。

    仮面夫婦というのだろうが、ホンネ優先のO型には到底無理だ。人に嘘をつく前に自分に嘘をつくのが耐えられん。だかたか、仮面夫婦を続けられるって凄いと思う。忍耐力とは思わないが、社交辞令がふつうにやれる人に思える。こちとら、社交辞令を言うだけで、ケツの穴が痒くなってくる。まあ、仮面夫婦でよいなら、その一生にサチあれ!と思いますが…

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    誰がつけたか「浪速のエリカ様」。維新の党の上西小百合衆院議員(31歳、比例近畿)が、病気で国会を欠席した後に旅行に行っていたとされる問題で、大阪維新の会は除籍処分を決めたが、上西議員は議員辞職を拒絶。上西議員は3日の会見で、国会を欠席した2日後に京都府宮津市を訪れたのは支援者との会食のためで、旅行ではなく仕事だったと釈明した。

    しかし橋下代表は、一連の行動は極めて不可解で、日頃の言動にも問題が多い上西議員に対し、「このようなグダグダ状況にした騒動の責任をとって議員辞職をし、2、3年修業して次の選挙で維新からもう一度出直してはどうか」と打診したことを明かした。上西議員は、「議員の身分は法に触れない限り奪われない。それだったら除籍で結構です」と拒否したという。

    橋下氏は、今回の処分の理由を、「彼女はこれまで国会議員としての言動に非常に問題があり、大阪維新の会として大阪府議会に指導預かりとして預けてたが、全然改善の見込みがないと報告が上がってきた」と明かし、「上西はああだこうだと言っているが、一連の行動と、これまでの言動を総合的に判断した」と説明、大阪維新のメンバーだった上西議員を批判した。

    「(初当選から)2年、彼女は完全に永田町の感覚になっています。永田町の感覚では除籍にならないかもしれないが、維新は納税者の感覚でやる。税金をあんな議員の給料にあてることはできない。彼女を育てられず、お騒がせして申しわけありませんでした」と頭をさげた。「国会議員をやり続けたいみたいだ。あの議員とは二度と付き合わない」と、語気を強めた。

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    「あの議員とは二度と付き合わない」、「あんな国会議員の記者会見につきあって…」と述べるなど、同士からこれほど小バカにされた議員がかつていただろうか?橋下氏からすれば、どうしようもないバカ女に思えたのだろう。候補者を議員にさせるのは政治グループの代表者でも、政党党首でもない、国民である。が、政治家に相応しいと推薦したのは橋下氏である。

    大阪維新の会の代表として橋下氏は、「二度と大阪維新の会は公認しない。彼女は政治家として修業が足りなかった」と責任と取った形で謝罪をした。身内に厳しいことはイイことであり、男の理性的な面と評価する。が、ことは上西議員のいうとおり、選挙民から付託を受けた国会議員は、以下の項目に該当しない限りその身分は保証されている。

     1.任期満了となったとき

     2.衆議院議員は、衆議院が解散されたとき(憲法第45条但書)

     3.兼職することのできない(職務専念義務)公務員の職に就いたとき(国会法39条)

     4.国会開会中は院の、閉会中は議長の許可を得て辞職したとき(国会法107条)

     5.一方の院の議員が他方の院の議員となったとき(憲法第44条、国会法108条)

     6.法律で定められた被選挙資格を喪失したとき(国会法109条)

     7.比例代表選出議員は、選挙の際に所属していた名簿届出政党等以外の政党等に所属する者となったとき(国会法109条の2)

     8.懲罰による除名処分を受けたとき(国会法122条4号)

     9.選挙無効訴訟・当選無効訴訟の判決が確定したとき(公職選挙法204条以下)

     10.資格争訟裁判で、議員就任後に議員資格を喪失したことが確定したとき(憲法第55条)

    国会議員には憲法(第51条)によって保証された免責特権(自由な発言・表決のため、議院で行った演説や討論等については責任を問われないという特権)がある。それによって、議院内での行動は罰されないように思えるが、議院の秩序を乱した場合は懲罰が科される。スムーズな議会運営のために、議院に「院内の秩序を乱した議員を懲罰する権限」を与えている。

    イメージ 3具体的には、正当な理由なく会議を欠席したり(国会法124条)、会議中議場の秩序を乱したり(衆議院規則238条・244条、参議院規則235条・244条)、秘密会における秘密事項を洩らしたり(参議院規則236条)、といった行為をすると懲罰の対象になる。上西議員は本会議を欠席したが、事前に医師の診断書が提出されており、"正当な理由なく会議欠席"に該当しない。よって懲罰対象とならない。上の項目以外にも、議院で無礼な物言いをしたり、他人の私生活に関して言及したり、およそ院内の秩序を乱したとされる行為は、すべて懲罰対象となるが、ここでいう院内とは、議事堂という建物を指しているのではなく、「人の集まりとしての議院」の意味で、議事堂外であれ議員活動している場合は院内に含む。懲罰は以下の4つがある。

     1.公開議場における戒告

     2.公開議場における陳謝

     3.一定期間の登院停止

     4.除名

    4)の除名は、議院の秩序や品位を特にひどく害した者に科される(衆議院規則245条、参議院規則245条)が、議員の身分剥奪という非常に重い処分なので、出席議員の3分の2以上の賛成が必要となる(憲法57条2項但書)。なかなか厳しい条件であり、長い国会の歴史で除名該当者は各院1件。無所属参議院議員小川友三(本会議採決日・1950年4月7日。賛成110票・反対10票)

    日本共産党衆議院議員川上貴一(本会議採決日・1951年3月29日。賛成239票・反対71票)。議員身分剥奪の除名は難しいが、過去政党除籍者は多い。上西議員は現在維新の党所属であり、大阪維新の除籍処分を受けて、党首で衆議院議員の江田憲司氏は、「国民の疑念を招いた点で責任は極めて大きい。厳しく処断をしたい」と強調したが、同日除名処分を課した。

    今回の上西議員騒動に拍車をかけた議員の男性秘書だが、記者会見席に途中から登場し、議員秘書としての自身の記者への対応について謝罪した。男性秘書は上西氏を取材した記者に対し、「お前、わしの車に当たっとるんじゃ。コラァ!」と巻き舌で制止した様子がテレビで放映されていた。秘書は、「申し訳ございませんでした」と、型どおりの謝罪であった。

    上西議員は2012年、第46回衆議院議員総選挙で大阪7区で62,856票で次点落選後、比例で復活当選。2014年の第47回衆議院議員総選挙においても大阪7区で出馬、67,719票で次点落選後比例復活した。大阪教育大学附属天王寺小学校、同中学、同高校、神戸女学院大学卒業という経歴だ。関西でも有名な小学校受験難関校らしいが、学力と頭の良し悪しは別としたもの。

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    彼女がどこの小・中・高・大学を出ていようがバカはバカである。超難関受験校に入学して賢くなるとは限らない良い見本であるが、政治家はどんなバカでも民意で選ばれる。ならば、比例復活議員の一体どこが民意?ちなみに2012年の衆院選で死票率は53.0%、2014年衆院選の詳細は以下の図表。死票とは、有権者の投票行動が議席獲得に結びつかなかった票をいう。

    死票率53.0%という数字は、全国で300の小選挙区の合計で約3163万票となり、前回の46.3%と比べて9.7ポイント増。2012年の総選挙は、「第三極」として新たに日本維新の会や、日本未来の党が参戦するなど、12党が乱立するけたたましい選挙戦が繰り広げられたが、日本共産党も前回までの方針を転換、原則全選挙区に候補者を立てている。

    当選者が1人の小選挙区制では、候補が多数で票が分散されれば当選ラインは下がり、落選候補の合計得票数が増える傾向があることから、死票率が上がったようだ。この選挙で小選挙区で237議席の当選者を出し、大躍進した自民党の死票率は12.9%と、大敗した前回選挙の74.0%から大きく低下した。一方、惨敗した民主党は前回の13.2%から82.5%に大幅上昇した。

    第三極同士で共倒れが目立った維新の会も81.9%。小選挙区全勝の公明党はなんと死票率0%。上記した当選者1人の小選挙区制では、「落選候補の得票数が増える傾向がある」ことから、中選挙区制や大選挙区制に比べて当然「死に票」が増える。そこで考え出されたのが惜敗率。これは小選挙区における当選者の得票数に対する落選候補者の得票数の割合を示す。

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    「惜敗率」の高い次点落選者から比例区で復活させるという、重複立候補制である。そもそも公職選挙法では、「一つの選挙において公職の候補者となった者は、同時に、他の選挙における公職の候補者となることができない」と明記されている(第八十七条)。そこで1994年、立候補者が、「小選挙区選挙」と「比例代表選挙」に重複して立候補できるよう改正された。

    当然ながら立候補する際に所属政党の許可が得られれば(公職選挙法第86条の2第4項より)、との但し書き付きであるが、許可するに決まっている。上西議員もこの恩恵を受けた比例復活ゾンビ議員である。「惜敗率」なる言葉を持ち出し決定された比例重複立制だが、これは最悪の選挙制度、「小選挙区制」を補完するために採用された、さらなる悪弊である。

    理由は、有権者が落した候補が政党幹部によって生き返らされるからだ。そもそも「小選挙区制」の弊害は、1人しか当選できない故に、金と権力のある大政党所属議員しか当選することができない。「小選挙区制」のもとでは、中小政党が当選する(議席を得る)ことは皆無に近く、大政党だけが議席を得る。これに重複立候補制や復活当選が加わるとまさに親方日の丸だ。

    選挙というのは、候補者を当選させることばかりではなく、落選させることも重要で、有権者が落選させたのに政党の権限で生き返させるのはどう考えてもおかしい。惜敗率だのと赤飯炊いて喜ぶゾンビ議員に胸糞悪い。悪運強い菅直人元首相は、国民が「NO!」と言ってるのに蘇った一人で、どの面下げて登壇していると思うが、選挙システムが悪いのである。

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    前回の選挙では地元に張り付き、危機感を前面に出し、ビール箱に乗って演説。「安倍自民の1議席を奪う意味は大きい」と訴えた。妻の伸子さんも、「今度が一番厳しい選挙」と支持を求めたが及ばず。しかし、比例の最後の1人の当選者となる。菅氏は、「小選挙区で議席を獲得できなかったことは私の努力不足。475番目の議席を入れていただいた」と言葉を詰まらせた。

    前回の選挙では民主党海江田代表が落選するという波乱があった。これが民主党の末路を象徴した結果である。なぜ海江田氏は落選し、菅氏は当選したのか?二人とも比例と選挙区の重複立候補者である。衆院選の比例選挙は党ごとの、「名簿順」で当選者が決まる。これを、「拘束名簿式」といい、あらかじめ政党の側で候補者の当選順位を決めた名簿を確定しておく。

    それによって政党の獲得議席数に応じて名簿登録上位順に当選者が決まるが、衆議院の比例代表制は、全国を11のブロックに分け、それぞれのブロックにおいて比例代表選出を行っている。各政党では当選議席数が確定すると、候補者名簿の上位から議席を割り振る。そのため名簿の上位に掲載されている候補者の方が、当然ながら当選の確率は高くなる。

    どちらかが当選するが、名簿上の順位は同じなら「惜敗率」がものを言う。民主党の比例東京ブロックで獲得した議席は「3」であるのに、名簿の同順(1位)は15人いた。その15人から3人を選ぶのに「惜敗率」が使用されるわけだ。菅氏は、東京ブロックで惜敗率が上位となり、ギリギリで12回目の当選を果たし、海江田代表は惜敗率で菅氏に及ばなかった。

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    地元の選挙民が「ダメ」と意思を示したから落選したはずなのに、復活するなどこんなバカな選挙はないだろう。菅氏は2012年の衆院選でも、自民の土屋正忠氏(72)に敗北し、奇しくも2回連続の比例復活当選となった。上西議員も同じように2回比例復活である。ハッキシ言えば、地元選挙民が、「NO!」と落したような人間は、ダメというのは間違いないようだ。

    『悪法も法なり』という法諺(ほうげん。法律がらみの格言・ことわざ)がある。ラテン語で "Dura lex, sed lex"("The law is harsh, but it is the law":「法は過酷であるが、それも法である」)と訳される。これはソクラテスの言葉とされているが、ソクラテスの言行記録とされる文献である『クリトン』に似た記述がある。法治国家は、法がすべてである。

    その法にどんなに問題があったとしても、現行法律には従わなくてはならず、「惜敗率が高い落選者から比例区で復活」させるという、重複立候補制度の運用と結果は尊重しなければならない。『悪法も法なり』がもう一つ意味するのは、「法」の限界性。人の作る法は必ずしも「正義」を体現できていないばかりか、ときに正義とは矛盾する「悪法」も存在し得る。

    であるなら、人の作った法や制度についての絶対正義を盲信することなく、その内容が社会正義と矛盾することがないか、謙虚にチェックし続けることが必要だ。橋下氏は、こんなバカでどうにもならない人間が議員であっても、辞めさせられないことにどれほど無念の思いを抱いているか推察できる。こんな人間に税金3000万円の虚しさが以下の言葉に現れている。

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    「29歳だった女の子が(初当選から)2年経つとこうなってしまうのか。国会議員は現金で給料2900万円ぐらいですか?国会で?」と傍らの江田憲司・維新の党代表を巻き込んで聞き出し、「2200万円!これに1200万円の経費が入り、3000万円以上の給料が29歳の女の子に入ったわけですよ。飛行機載るときにはVIP待遇。いや国会議員やると変わるもんだな。

    もう完!全!に永田町の感覚ですね。ずっと議員やりたいみたいです」。言葉には悔しささえ感じられる。カネのために議員にしがみついてると言いたげだが、それはそうだろう、誰が考えてもそれ以外にあり得ず、高額給与所得者をそうそう簡単に辞めるはずがない。ノンポリ政治家はみんなお金のために議員をやっている。その上西議員の腹の中はおそらくこうだ。

    「橋下さんね~、あんたガタガタいうてるけど、議員は簡単に辞めさせられへんことくらい、知ってるんやろ?うちらの身分は法に触れん限り奪われへんねん。あんたが気が済むなら、除籍でもなんでも好きにしいや。そこらのバカ女のうちやけど、議員にさせてもろうて感謝してるで~」。こういう態度が見え見えのバカ女に、どうにもならん苛立ちだろう、橋下氏の心中は…。

    彼の元職は弁護士。弁護士という職業は法あってのもの。法を遵守し、法に依るところが大きい仕事だが、反面、法に対して胸糞が悪くなることもある。「何でこんな法があるんや?まったくバカげてる!」と。橋下氏の現在の心境だろう。法は完全ではないし、万全といえない。バカも法によって保護されるなら、まさに、「人生はむつかしいよ!」である。

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    『なぜ日本の大学生は、世界でいちばん勉強しないのか?』という本がある。興味はないから著者にも興味がないが、名前とプロフィールが記されているので書いておく。著者は辻太一朗というNPO法人「大学教育と就職活動のねじれを直し、大学生の就業力を向上させる会」代表である。最近のNPO法人にやたら長ったらしい名が目立つが、それはつける人の自由。

    こういう本を著して誰が買うのだろう?まさか、大学生が、「これを読めば勉強するようになれるかな?」の思いで買うとは思えない。もし、大学生が買うとするなら、これを読んで自分が勉強しない自己正当化にするなら分かる。自己正当化でどうなるものでもないが、人間は弱いから仲間がいれば安心と言うことはあろうが、1575円もするからまず買わない。

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    日本の大学生がなぜ勉強しないかは簡単だろ?①勉強したくない奴が行く、②みんなが行くから行く、③学歴が欲しいから行く、④勉強しなくても卒業できるようになっている、⑤就職に利があるから、とまあ、素人考えだが、当たってないとも言えないだろ。これだけみても、大学に勉強しに行く動機でないのは分かるだろうし、これが日本の状況である。

    だから、世界でいちばん勉強しない大学生なんだろう。企業はいい成績の生徒を取りたいのだろう(それが即ち勤勉という見方ができる)が、実は企業はそのようにはみていない。つまり、学生の質がすこぶる落ちている状況では、「質」の目安となる成績への信頼度が失われているからだ。学生たちも企業において成績の信頼度が薄らいでいるのを知っている。

    そんな現状で企業はどのようにして学生の質を探り、選考しているのかといえば、成績は信頼できないとなると、応募者を多数募り、各社が独自の選考基準を設けるしかない。面接重視というが、面接に割ける力は限られている。よって早くから募集をかけて、エントリーシートや筆記試験で選考する。質が悪いなら少しでも質のよい学生を採りたい努力である。

    1960年に8.2%だった大学進学率は、2005年に50%を超えた。バカでもチョンでも大学へ行く時代なら、学力はおろか、実業に必要なコミュニケーション能力、論理的思考力、問題解決力などの汎用的能力さえママならぬバカが大学生だから、企業も必死にならざるを得ない。知識といえばやたら詰め込むだけの知識が何の役に立つという考えもなくそれが勉強という実態。

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    知識を応用していかに正しくものを判断できるか、そういう「考える力」を育成し、身につけさせ、はたまたそれを厳正に評価できる授業がなされないようでは、日本の将来はないだろう。少子化になっても大学の数は減らせない、ならば大学は授業内容よりも、生徒を入れやすくするなど、経営面のことばかりが先行する。これはもはや大学教育の末期症状か。

    いい学生が育たない環境ばかりが「負のスパイラル」としてどんどん広がっていく。こういう問題をどう解決する?どこが解決を担うべき?やはり、国家事業ではないだろうか。かつてアグネス・チャンという歌手がいた。今も存命だが歌手ではない。なかなかしっかりした考えと理念を持ち、有名な「アグネス論争」という言葉も生んだ。国籍は中国人である。

    その彼女がこういう発言をしている。「日本の大学生が勉強をしないのは、大学の先生がそれを許しているからだと私は思います。私の経験上、アメリカやカナダの大学の先生は非常に厳しいです。講義に出席するのは当然のこと。たくさんの課題が出されるので、学生は予習・復習に多くの時間を費やさないと講義についていけず単位を取ることはできません。

    その上、最低取得単位数のラインが厳しいため、勉強のモチベーションは否応無しに高まります。たとえばスタンフォード大学は、1学期に履修すべき単位数をクリアできなければ1年間停学、つまり大学に来てはいけないというルールがありました。私が日本の大学で教える時は、授業態度や出席数については厳格に指導しています。なぜなら私が大学からいただいている報酬は学費が元です。

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    アグネスは1955年イギリス領香港生まれ。72年来日、「ひなげしの花」で歌手デビュー。上智大学国際学部を経て、78年カナダ・トロント大学(社会児童心理学科)を卒業。92年米国・スタンフォード大学教育学部博士課程修了、教育学博士号(Ph.D.)取得。目白大学客員教授を務め、子育て、教育に関する講演も多数。現在の職業はエッセイスト。

    「教育の基本は家庭にある」という信念のもと、教育改革、親子の意識改革について積極的に言及している。98年より日本ユニセフ協会大使としても活躍している。2009年4月1日、すべての人に開かれたインターネット動画番組「アグネス大学」開校。ということは学長さんである。大学生が勉強をしないのは、大学の先生がそれを許しているからという主張は正しい。

    小・中・高教員のように教員免許を持つ教師を教育のプロというなら、大学教授や講師は研究者であるし、教えるスキルなんか身につけてない。今後は学生の質を上げるなら、指導方法を身につけるのも大事となろう。こんにちのような質の低下した学生が多い時代に教える技術の卓越した教師は、益々必要といわざるを得ない。質の低下とは、勉強の嫌いな大学生である。

    学問をする大学に、なぜ勉強の嫌いな人間が行くのか?が、そもそも日本と言う国の不思議さであるが、誰も不思議と思わないところに日本と言う国の病理がある。親が子どもにレールを敷こうとするのが顕著な国。つまり、学歴社会の国である。コレがある限り、子どもは自由にならないし、夢を持つこともできない。「将来は大学に行くこと」が夢であるなら誰も責められない。

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    子どものころから先生や親から与えられたことを、その枠の範囲の中で憶え、反応し、さらにはそれらを要領よくこなす子どもが勝っている世界なのだ。こんなことを幼稚園に入る前からやり続けると、20代の前半など、大学に入って個性的な発展が望まれるときに、もはや何も出来ない人間になっている。コレが早期教育の弊害である。子どもが小4の時に中学受験を考えた。

    自分は子どもを妄信的に塾に押し込んで、金銭的なバックアップをする代わりに塾に詰め込み教育を依頼するというのは教育と思っていない。自分で書店に行って中学受験の問題集を買って、自分でいろいろ眺めてみたのだが、ページを開くにつけてだんだん腹が立ってきた。例えば漢字にしろ、植木算にしろ、鶴亀算にしろ、何で今の時期にこんなことをさせる必要がある?

    それが腹が立った原因だった。ところが、それをやらない限り難関中学には入れないというなら、難関中学はそういう問題がさっとできる子を望んでいることになる。私立中学がそれを求めているなら、そういう問題が解けるような訓練が必要で、それを受け持つのが塾である。この、当たり前と言う図式に疑問を持つ親はいないだろうが、自分は「くだらん」と思ったのだ。

    いわゆる「早期教育」とはコレを言うのである。多少難しい表現となるがが、論理的・具体的にいうと、早期教育とは、胎児から小学校以前に行なわれる胎教を含む教育で、"出来るだけ早い時期から開始する"という志向性を持ち、知的な教育、主にIQを高めることを目的とし、働きかけに対する子どもの期待される反応を、強く期待して行われる教育といっていいだろう。

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    ただし、幼稚園や保育園や、いわゆるところのお稽古事やスポーツ教室は、学習的な早期教育の定義から外す(ピアノやバイオリンも早期教育というが…)。「早期教育」には様々な種類があり、日本で早期教育と言うと、主に「超早期教育」と「幼児=就学前教育」を指すのが一般的。「幼児教育」とは辞書的にいうと、文字どおり幼児を対象とする教育一般のことをいう。

    具体的に、「満1歳から学齢に達し、小学校に就学するまでの幼児に対して行なわれる教育」のことで、広義には、幼児に対する家庭教育や、児童館などで行なわれる幼児を対象とする社会教育も含まれ、狭義には、保育園や幼稚園など幼児を教育することを目的として設立されている教育機関で行なわれる教育を指す。が、コレはあくまで制度的なものでしかない。

    幼稚園や保育園で行われる幼児教育は、制度的教育の典型であり、定義としていうなら、それでは充分ではなく、人間性の発達(情操教育)の本性に根ざす広く深い基盤を持つもの全てを幼児教育と言うべきである。ピアノやバイオリン、絵画教室などのお稽古ごとは、情操教育の典型とされた。そもそも情操教育を簡単にいうと、「美しいものを、美しいと感じる心」であろう。

    したがって、情操教育の対象は美しいもの奏でたり、見たり、画いたりであるべきだが、子どもを情操豊かな人間にするという目的が、熾烈な競争社会の中でだんだんと薄れていっているこんにちである。他人がどうでも、親がどういう子どもに育てたいかは親の価値観であるが、学歴社会が現実のものとして存在すれば、猿回しの猿に必死に芸を覚えさせたいのかも。

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    固定観念を捨てきれない親を持ったことで、子どもが自由を奪われていくようだが、親の価値観に添って生きて果たしてそれが子どもの人生か疑問である。小学~中学頃の自分は毎日飛んだり跳ねたり、高校はバンドを組んで楽しくて仕方がなかった。どんな子どももやがて現実が見えてくると何かに発奮するが、今の子どもは幼少期から親に現実を押し付けられている。

    日本人妻を娶り、日本に永住を決めたあるドイツ人が、子どもに夢を持たせることの大切さを学校のPTAで主張したところ、「日本では、そんな夢多き子とか、そんな個性的な子だと、間違いなく逸脱者になりますよ!」と言われたという。逸脱者でいいのではないか?子どもが夢をなくし、現実の競争の中で勝ち進み、エリートという職についたとしてもだ…

    味気もない、面白みもない、乾いた人間になるよりはずっとましだが、どうして親はそういう人間よりも、エリートに憧れるのだろう?おそらく、それが子どもにとっての最高の幸せという固定観念を捨てきれないのだろう。どんな子も根源的には、自分らしい生き方を望んでいるはずだろうし、自分しか出来ないこと、自分がやりたいことがなにかを探っているはずだ。

    レールに乗せたい親の気持ちは分らなくもないが、それは本当に子どもの幸せを望むというより、周囲への対抗心や見栄である場合も多い。エリート階層にならなくても幸せは山ほど感じれるはずなのに、無理をし、無理をさせて、子どもの心を歪ませて行く親をみていると、小津安二郎の映画『一人息子』の「親子になったときから、悲劇が始まっている」の言葉が浮かぶ。

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    いくらいってみたところで憧れが強く、妬みも強い親には、ルソーのいう子どもの自由さ、自然さは分るまい。子どもが自然に健康的に振舞い、生きていくことを反対する親が、子どもの子ども時代を奪った責任を取れるのだろうか?生物学者で1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進マサチューセッツ工科大学教授の父親は、息子に勉学に金を惜しまなかったという。

    塾のない時代に家庭教師をつけて勉学に励まさせた。利根川博士は、「自分がノーベル賞を取れたのは父が学問に対する金銭供与のお陰」との言葉を添えた。凄い父が凄い子を育てたように見えるが、いくら金をかけてもダメな子はダメだから、博士自身は学問向きの頭を持っていたようだ。利根川博士はいい父親に恵まれたが、利根川博士自身は、悲劇の親になってしまう。

    事件は2011年10月26日に発覚した。「米マサチューセッツ工科大学(MIT)は26日、ノーベル医学・生理学賞を受賞した利根川進MIT教授(72)の息子で、MIT1年生の利根川智さん(18)がキャンパス敷地内の寮の自室で死亡しているのが見つかったと発表した。地元警察によると、「事件性はない」とし、引き続き死因などを調べている。

    MIT大学新聞によると、智さんは1週間ほど姿が見えず、部屋周辺で異臭がしたため、大学警察が25日の午後5時ごろ部屋に入って遺体を見つけたようだ。ピアノが得意で、入賞歴もあるという彼は、今秋MITに入学したばかりだった。」公表されないがおそらく首を吊っての自殺か。利根川氏は日経の『私の履歴書』で、次男である智さんについて以下のように語っている。

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    「智はずば抜けて才能に恵まれた、ミステリアスなところのある子供でした。何をやっても見事にすんなり、すばらしくよくできてしまう。物理、数学、歴史をはじめとする学業一切はもちろん、チェロとピアノを演奏しましたが、ピアノのコンペティションで勝ってカーネギーホールで演奏するほど、音楽の才能にも恵まれていました。いつ見てもクールで余裕がある。

    これほどすごい才能を持った子供は将来どうなるのだろうと、本当に楽しみにしていました。智は小さい頃からサイエンティストになると決めていて、3人の子供の中で唯一、私の知っている世界を目指していました。科学を志していた智は、残念ながらMIT一年生の時、誰にも何も告げずに、18歳で夭逝してしまいました。親にとって、これ以上の残酷はありません。

    私も残りの人生それほど長くはありませんが、最後まで十字架を背負って生きて行かなくてはなりません。実は、私はあまりにも次から次へと幸運に恵まれてきましたので、以前から時々"大丈夫かな"という気がしていました。私は宗教を持たない人間ですが、やはり天は禍福を調整したのではないかと。もしそうなら、ノーベル賞その他の幸運はいらないから、智を返してほしい…

    と心から思います。深い悲しみにくれる日々ですが、本当に短い間ではありましたが、あれほど魅力的な若者と過ごせたことを、感謝しなくてはならないのかと思うこともあります。」と、「息子を戻してくれるならノーベル賞もいらない」というくだりは氏にとって無念の極みであろう。彼が何を悩み、何を苦しんで死を選んだのかは、本人以外に知る由もない。

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    が、偉大すぎる親を持った子が、親のようになれない自分を悲観することはままある。周りが期待することのプレッシャーも相当のものがある。1つだけ言えることは、彼の人生は勉強だけで終わってしまったということか。父のように学問が好きで仕方のない人間は、学問をやる事が何より幸せであるが、勉強に生き甲斐を見出せない人間は、途方に暮れる。

    もちろん偉大な親に罪はないが、「ノーベル賞はいらない」の利根川博士の言葉には、それとなく自分の偉大さを呪うようでもある。「一体、自分はいつまで勉強をしなきゃならないのか?」という息子の悲痛な叫びが聞こえてくるようだ。惜しい才能というより、なんとも惜しまれる命であろう。


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  • 04/08/15--20:25: 「或阿呆の自殺」 ①
  • 昨日も記事を書きながら小津安二郎の『一人息子』が頭を過ぎる。冒頭の言葉は芥川龍之介の『侏儒の言葉』から引用された。『侏儒の言葉』は芥川龍之介の箴言集であるが、「『侏儒の言葉』は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。」


    イメージ 1という「侏儒の言葉の序」に始まり、「眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。(昭和改元の第二日)」という「或夜の感想」で終わる。「侏儒(しゅじゅ)」とは、①背丈が並み外れて低い人。こびと。②見識のない人を嘲っていう語。③俳優の異称。などの意がある。読んでみるといわゆる芥川らしい言葉満載であり、つい引き込まれて行く。
    芥川は早い時期から、「論理の核としての思想のきらめく稜線だけを取り出してみせる」という技法に傾倒していた。と、コレは芥川自身の説明にある。芥川の箴言を読むに、坂口安吾が芥川の影響を受けているのがよくわかる。事実安吾は早くから芥川、谷崎潤一郎などを読み、アラン・ポー、ボードレール、チェーホフなどにも影響を受け、啄木や白秋の詩歌も愛読した。

    安吾の「反抗的な落伍者」に対する強い畏敬の念は、これらから養われたのであろう。そういう自分も、影響を受けたか否かはさて、芥川の『地獄変』は体がぶるぶる震えた記憶がある。芥川の流れから発されている安吾の言葉は長く自身の体に刻まれている。芥川の自殺の真相は、「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安である」という有名な遺書の一節を読みとるしかない。

    この言葉は芥川自身の彼の自殺の心理解明の糸口を与えてくれている。龍之介の実母は彼が11歳の時に他界しているが、煙管(キセル)で頭を叩かれたことなどから、「僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない」と述懐している。1898年(明治31年)、江東尋常小学校入学。府立第三中学校を卒業の際「多年成績優等者」の賞状を受け、第一高等学校第一部乙類に入学。

    1910年(明治43年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、龍之介はその選に入る。頭のよい少年で成績優秀につき無試験で、第一高等学校第一部乙類に入学を許された。1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。23歳の夏、青山女学院を卒業した才色兼備の吉田弥生と交際をする。

    このまま行けば結婚という段取りであったが、弥生に別の男性から縁談が舞い込む。龍之介はその時、どれだけ深く彼女を愛しているか気づく。弥生に求婚したい意思を養父母とフキ(実母の姉)に告げた途端、激しい反対にあう。相手の女性が「士族」でないことや、私生児だったこと、また、婚約者がいるのにプロポーズする龍之介の一途さなどが反対の原因であった。

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    龍之介の気持ちを汲んだフキは夜通し泣き、龍之介も泣き明かした。実母フクの姉フキは生涯独身を通し、龍之介を我が子のように面倒を見た。この恋は、龍之介があきらめる形で収束する。旧家の士族芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家系である。身分の違いが婚姻を許されない苦悩を龍之介は友人にこう打ち明けている。

    ・私は随分苦しい目にあって来ました。又現にあいつつあります。如何に血族の関係が稀薄なものであるか……如何に相互の理解が不可能であるか。

    ・イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない。周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。

    失恋の悲しみを紛らせんと、龍之介は遊郭に足を踏み入れるが、官能は悲哀を消滅させられなかった。失恋直後に書いた『仙人』に次の一節がある。「何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか。」この問いは、終生、龍之介を縛るものだった。そんな矢先、芥川の人生を大きく変えたのは、文豪・夏目漱石との出会いであった。

    漱石が弟子と面会する「木曜会」に参加するチャンスを得た龍之介は、漱石の学識と人格の虜になる。芥川は仲間と雑誌『新思潮』を刊行する。創刊号で漱石の注目を引いたのは、芥川の『鼻』である。漱石は弟子の芥川に、期待と愛情を込めた手紙を書くが、最大級の讃辞の羅列であった。漱石から望外の激賞を受けた芥川は、文壇デビューを大学卒業間近の25歳で果たす。

    イメージ 3失恋の痛手を文人である漱石に癒され、開眼させられた。ところが…。出ようとする杭は打たれるのか、「中央公論」掲載の『手巾』は、的外れな批判にさらされた。「何を書こうとしたのか雑然として分かってこない」、「どこが面白いのか」など、好みに合わぬとばかりの恣意的な批評に、若き龍之介は傷つき動揺したが、反論はせず創作に集中する。卒業後、芥川は海軍機関学校の英語教授となる。漱石の悲報にふれるも27歳になった龍之介は、月給と原稿料で生活の見通しがつき、8歳年下の塚本文と結婚する。結婚前、頻繁に出された手紙には、「この頃ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛いい気がします(略)何よりも早くいっしょになって仲よく暮らしましょう。」などの記述がある。

    しかし結婚生活は、思いのほか煩わしいものだった。「新婚当時の癖に生活より芸術の方がどの位つよく僕をグラスプ(心をつかむ)するかわからない」、と親友に宛てている。当時の芥川は、社交的で軽率な青年だった。新人作家の集まりで、既婚者の秀しげ子と出会う。初対面でなれなれしく話しかけ、翌日には人の心をそそる手紙を出し、自著も同封した(当時の雑誌記事)。

    しげ子は当時、女性の少なかった文壇において、華やかな存在であった。そんなしげ子の魅力に芥川は一時期、翻弄され密会を重ねたが、しげ子は次第に女の本性を露わにし、龍之介にまとわりつくようになる。自宅まで押しかけることもしばしばあったという。創作の苦しみに加え、女性問題が龍之介を悩ませていた矢先、長男の誕生がさらに龍之介に追い討ちをかける。

    当時、芥川家に同居していた養父母とフキの3人は、龍之介の孫を溺愛するばかりか、龍之介夫婦の子育てにも過剰に干渉した。世代の差から来る養育方針の違いはいかんともし難く、家庭の中における人間関係に疲弊した龍之介は、自伝的小説『或阿呆の一生』で、長男出生を次のように書いた。「何の為にこいつも生れてきたのだろう?この娑婆苦の充ち満ちた世界へ」。

    28歳の時に毎日新聞の社員になった龍之介は、筆一本の生活に入っていたが、作品はマンネリ化し、長編小説への意欲も空回りしていた。1921年、30歳の時、海外視察員で中国に赴くが、帰国後は健康がすぐれず、腸カタルの下痢はひどく、神経衰弱も発症した。以後、これらの持病と格闘する。34歳の冬、龍之介が当時の作家の代表作を集めた、『近代日本文芸読本』が刊行される。

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    100人以上の作家に自ら手紙を書き、収録の承諾を得るのは、並大抵の作業ではない。2年にわたる努力の結晶であったが、仕事の性質上労力の割に収入は少ないものだった。にもかかわらず、「芥川は1人だけ儲けて、書斎を新築した」というデマが文壇に流れる。「われわれ貧乏作家の作品をかき集めて儲けるとはけしからん奴だ」という声が沸き起こった。

    菊池寛は、この件について次のように証言している。「かうした妄説を芥川が、いかに気にしたか。芥川としては、やり切れない噂に達ひなかった。芥川は、堪らなかったと見え、「今後あの本の印税は全部文芸家協会に寄附するやうにしたい」と、私に云った。私は、そんなことを気にすることはない。文芸家協会に寄附などすれば却って、問題を大きくするやうなものだ。

    そんなことは、全然無視するがいい。本ほ売れてゐないのだし、君としてあんな労力を払ってゐるのだもの、グズグズ云ふ奴には云はして置けばいゝと、私は口がすくなるほど、彼に云った」。1人でも多くの作家を掲載せんと苦心したにも関わらず、評価されるどころか当の作家たちから悪評を立てられた。善意が仇、というのは世情の常というが、龍之介は深く傷つく。

    菊池寛に反対された龍之介は、「それなら今後入ってくる印税は関係作家全員に分配する」と言いだした。が、教科書類似の読本には、作品を無断で収録して印税も払わないのが当時の慣習であり、この案にも菊池は反対した。「彼はやっぱり最後に、三越の十円切手か何かを、各作家の許に洩れなく送ったらしい。私は、こんなにまで、こんなことを気にする芥川が悲しかった。

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    だが、彼の潔癖性は、こうせずにはいられなかったのだ」。菊池寛は、こう書いて芥川のことを悲しんでいるのだが、「こうせずにはいられなかった」のは彼の潔癖性のためだけだったとは思われない。彼は生活のため、身を守るためには、最後まで小心翼々と生きた。彼が「皆によく思われたい」と願ったのは、虚栄のためというよりは、矢張り生活のためだった。

    こうした自分自身を、龍之介は「生活的宦官」と呼んで自嘲しているけれども、自嘲しながら彼はなお顧みて他を言うような発言を繰り返すのだ。と、小説家で文芸評論家の広津和郎は、彼の明敏な目でその辺を指摘する。この一件で神経衰弱が進み、睡眠薬の愛用を始めた龍之介は、薬の虜に突き進んで行く。知人宛ての書簡には以下ものように綴られている。

    「オピアム(アヘン)を毎日服用致し居り、更に便秘すれば下剤をも用い居り、なお又その為に痔が起れば座薬を用い居ります。中々楽ではありません」と、記している。文子と結婚前には、「何よりも早く一緒になって仲良くくらしましょう。そうしてそれを楽しみに力強く生きましょう」と書き送っていた龍之介だったが、実際結婚してみると失望することの方が多かった。

    (女人から芸術的刺激を得たい…)と、願っていた彼の願望に文子が応え得なかっことも不満の原因だった。結婚前、龍之介のところには文学少女や自称女流作家が頻繁に訪れたが、彼はこういう女たちを嫌悪し、文子がそれらとは全く逆な女であることを喜んでいたにもかかわらず、実際に文子と暮らすようになってみると、芸術を理解しない妻に不満を感じ始めたのだ。

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    ない物ねだりしたあげくに、ない物に不満を抱くなど、我が侭という以外の何もない。以後、龍之介は文子とは違った芸術を解する、中身の濃い女を求めるようになる。そして「狂人の娘」と彼が呼ぶ秀しげ子と出会うことになる。「或阿呆の一生」は、龍之介が本格的な自叙伝を書こうとして果たせず、とりあえず短い断章を寄せ集めて自伝に代えたものである。

    その中には、「月光の女」、「狂人の娘」、「越し人」、「青酸カリの女」と称する妻以外の4人の女性が登場する。龍之介は女の名前を記していず、便宜上彼女らを上の俗称で呼ぶ。「月光の女」は7年間も肉体関係を持ち、龍之介の最愛の女だったようだ。にもかかわらず、相手の素性や人柄については全く触れず、ホテルの階段で偶然出会ったのが始まりと述べている。

    「月光の女」とは誰なのか?芥川亡き後、友人の文士たちや研究者が色々議論を交わしたが、結局個人を特定は出来なかった。「月光の女」以外は素性が知れている。秀しげ子を現す「狂人の娘」などは踏み込んだ説明をしている。「越し人」と呼んだ松村みね子は、歌人として又アイルランド文学の翻訳者。「青酸カリの女」は、龍之介の妻文子の親友で秘書の平松麻素子。

    して、「月光の女」だけは謎である。分らないなら知りたく思うのも人情というもの。「月光の女が」登場するセンテンスの幾つかは、秀しげ子のことで、幾つかは彼が昵懇にしていた芸者ではないかとも推測されている。七年の歳月を共に過ごしているとなると、文子夫人と結婚した三年後あたりから、この女性と深い仲になり、死の直前まで続いていたことになる。

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    女の印象や想い出は男にとってかけがえのないものだ。克明に覚えている女、さほどの女、覚えてすらいない女、それは付き合いの長短ではないし、説明できない要素をあえて言にするなら「個性」ということか。同じ「個性」といっても好みが左右し、好みでない女はよくないことを憶えている。反面、好みに添う女は、心に残る言葉の一つに至るまで憶えている。

    誰でもそういう傾向はあるだろう。好きな歌については歌詞も記憶と言うより、体の一部になって忘れない。あの日、あの時の、女の言葉は異性であればキラリと輝くし、同性であれば背中を押すものであったり、力づけられたり、勇気の温床であったり…。それらが自分という個体を形づくっているのだろう。人間関係は「意味」のあるものでなければならない。

    意味のない人間関係は、自分になにものも寄与しない。人は基本的に何かから影響を受けたいものではないか?変わりたい、自己変革をしたいと望んでいるのではないか?自分自身がそう思うからこそ、相手も変えようという意思が働く。つまり、相手を変えようと思う人間は、「その方が相手のためにもなる」と思っているのだろう。だから、人に面倒臭がることはない。

    逆に、面倒くさい人間に対しては言葉少なに、あるいは社交辞令的になる。こちらから本音で接しようなどの気が起こらない。とはいっても、人を変えようなどはなかなか簡単ではないし、そもそも、「変えよう」などの気持ちで接するべきではない。人に何かを与えるためには、与えようとすることを気づかれないようにすべきだ。でなければ、相手は構えてしまう。

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    子どもに何かを与えようと思う親や教師は、呼びつけて何事が説教を垂れるのではなく、同じ輪の中に入って、一緒に遊びながら、気づかれないように相手に何かを与えていく、という教師や親が教育者と言えるかも知れない。「教育者」という言葉は好きではないから、「感染力のある人間」という言葉を頭に描いている。つまり、インフルエンザウィルスのような…

    ときに、A型、ときにC型、ときにH(エッチ)型、I(愛)型…、さまざまに感染させていく。基本的に変わりたいと欲する人間は向上心が強いが、一般的に人は人から言われて変わるのが嫌だの仕草を見せる。自分は変わりたいのに、露骨に言われると反発する。だから、自然に、さりげなくがいい。一方的に相手を変えようなどすると、失敗するし、上手く行くはずもなし。


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  • 04/09/15--08:12: 「或阿呆の自殺」 ②

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    人間は誰も自分がまずいことをしていたり、よくないことをしているのが分かっていても、人から否定的に指摘をされると不快になるものだ。約束を守らない人がいる。本人もそうであるのは分っている。そういう人間を約束事に敏感にさせるには、「君は約束を守る人だね」と言った方がいい。相手はそういう間違った解釈の方が、身に染みるもの。

    そして相手の期待に本能的に応えようとする。本能に問いかけ、本能を目覚めさせるのが実は自然。意識的に人との約束を守らないよう生きたいと願う人間ならともかく、そういう人間はまずいない。約束を守らない理由が自分の何であるか、そこのところを本人が気づかなければダメだろう。相手を変えようと思うなら、肯定的に問いかけるのが効果的。

    素直じゃない人に、「君は素直じゃないんだよ」と言ったところで、素直になるはずがない。子どもも人前で「いい子です、うちの子は…」と言えば、いい子になろうとする。物事を否定的に捉える親のせいで、子どもはその真似をしている。こういう親から影響を受けないよう、早いうちからへりくだらないこと。卑屈な性格にならないで済む。

    親は子どもの性格を歪めてしまうので、常に自問自答しながら子どもに接する言葉を注意すべきである。誰でも簡単に親になれるが、よい親になるのは難しい。"よい親"の種類もいろいろあるが、子どもに何かを与えるというより、子どもを傷つけない親、心を歪めない親なら、それで充分及第点である。それくらい親は子を心を傷つけている。

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    龍之介の生母フクは彼が生まれて7ヵ月して発狂したため、母の実家である芥川家に預けられた。龍之介の実父新原敏三は、牛乳の製造販売で成功したが、喧嘩早く気性の荒い男で、フクは夫とは真逆の極端に小心で内気な女だったという。母の一族には、他に精神異常者は出ていず、フク発狂の遠因は粗暴な夫との関係にあったかもしれない。

    発狂後10年間狂人として生き続けたフクだが、煙管で叩かれたことから、「母に親しみを感じたこともない」というのも無理からぬこと。しかし、こんな言葉も残している。「あなた方のお母さんを慈しみ愛しなさい。でもその母への愛ゆえに、自分の意志を曲げてはいけない。そうすることが後に、あなた方のお母さんを幸せにすることなのだから。」

    これは龍之介の遺書の中にある、「わが子等に」とした八項目の一つで、原文は「汝等の母を憐憫せよ。然れどもその憐憫の為に汝等の意志を抂ぐべからず。是亦却つて汝等をして後年汝等の母を幸福ならしむべし」となる。龍之介には我々世代にも馴染みのある三人の息子がいた。長男の比呂志、次男の多加志、三男の也寸志である。

    比呂志は俳優であり演出家であり、数本の映画、テレビドラマに役が残っている。劇団「四季」の名付け親でもある。三男の也寸志は、作曲家で指揮者。父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。NHKの「N響アワー」ではメイン司会として、なかにし礼、木村尚三郎らとの会話が懐かしく思い出される。



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    次男の多加志は、父親譲りの文才を最も嘱望されていたが、学徒出陣により22歳の若さにてビルマ戦線にて戦死した。2007年、彼の生前の同人誌が『星座になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春』(新潮社)と題されて出版された。著者の天満ふさこ氏は、2008年に母校の広島女学院大学にて講演を行い、貴重な多加志の同人誌原本も展示された。

    三人の息子のの実母となる文は龍之介の8歳年下であり、文と龍之介の馴れ初めは、龍之介の中学時代の親友に山本喜誉司という男を介してである。龍之介は山本家によく遊びに出かけた。その山本家には、他に一組の家族が住んでいた。海軍将校に嫁いだ喜誉司の姉が、夫に戦死されたため娘を連れて実家の山本家に戻ってきていたのである。

    この海軍軍人の遺児が、龍之介の妻となる塚本文である。龍之介が山本家に遊びに出かけていた当時の文は、まだ小学生で龍之介は未来の妻を子供の頃から見知っていたことになる。少女に惹かれていた龍之介は大学を卒業する24才の時、彼は山本喜誉司宛てに以下の手紙を出している。龍之介らしい言外に計算を秘めた手紙である。

    「僕のうちでは時々文さんの噂が出る。僕が貰うと丁度いいというのである。僕は全然とり合わない。何時でもいい加減な冗談にしてしまう。始めはほんとうにとり合わないでいられた。今はそうではない。其の予感というのは文さんを貰うことは不可能だという予感である。第一文子さんが不承知それから君の姉さん(文の母)が不承知、それから君が不承知、それから色んな人が皆不承知という予感である。

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    僕は文さんの話が出ると冗談にしてしまう。此の後もそうするだろう。そして僕のうちの者が君の所へ何とか言ってゆくのを出来る限り阻止するだろう。或はその後は思いもよらない所から思いもよらない豚のような女を貰って、一生をカリカチュアにして哂ってしまうかもしれない。僕はさびしい。しかし僕は立っている者の歩まなくてはならないのを知っている。(中略)だから僕は歩む。歩んでそして死ぬ。僕はさびしい。

    この話は成立しないだろうとの彼の予感は、精神病者の実母を意識してのことだったかもしれない。であるけれども、この手紙の効果はあったらしく、芥川家の希望は山本家と文に伝えられ、龍之介は直接文と交渉できるようになった。この年の8月に龍之介は、はじめて文子に手紙を出している。当時、文子は16才で、まだ女学生の身だった。

    「文ちゃんを貰いたいと言うことを、僕が兄さんに話してから、何年になるでしょう。(こんな事を文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません。)貰いたい理由は、たった一つあるきりです。そうして、その理由は僕は、文ちゃんが好きだと言うことです。(中略)僕には、文ちゃん自身の口から、かざり気のない返事を聞きたいと思っています。繰り返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それだけでよければ、来て下さい。」

    二人は結婚した。そうして3人の男の子の父親になった龍之介には、妻である文ちゃんとは別に4人の女がいた。謎の「月光の女」はともかく、「狂人の娘」秀しげ子。龍之介は文子と結婚した翌年の大正8年、「十日会」という作家の集まりでしげ子と顔を合わせている。秀しげ子は、高利貸しの父と芸者上がりの母に生まれ、劇場の電気技師の妻であった。

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    歌人という看板を掛けているものの、実態は作家のあとを追い回す狂信的ファンであって、龍之介は当初、愁いを帯びたしげ子に惹かれ、彼女を「愁人」と呼んでいる。同時期龍之介は、「月光の女」とも交渉を開始する。「月光の女」は、何時会っても月の光の下にあるような感じというからに、龍之介好みの憂いを帯びた静かな女だったようである。

    愁いを帯びた高雅な歌人だと思っていた秀しげ子は、実はとんでもない女だった。龍之介は秀しげ子と知り合った翌年に、一度だけ性交渉を持ったが、龍之介は彼女が弟子格にあたる南部修太郎や、友人の宇野浩二とも関係していることを知る。この厚顔無恥なヤリマン女が、龍之介との一度だけの関係で妊娠したと主張し始めた。さあ、大変だ!

    イメージ 8龍之介が恐れていたのは、秀しげ子の夫から姦通罪での告訴であった。名の売れた作家や詩人に近づいてくる人妻は多く、彼女らと深い関係になって、窮地に追い込まれる文学者は後を絶たなかった。北原白秋は姦通罪で告訴されて入獄し、当時、龍之介と人気を二分していた有島武郎は、女性の夫から脅迫されて軽井沢の別荘で女と心中した。

    龍之介曰く、秀しげ子は「狂人の娘」である。秀しげ子でほとほと懲り果てたのか、龍之介は女性からの誘惑には簡単に乗らないようになっていた。青根温泉に避暑に出かけたときに、彼はお藤という文学少女につきまとわれたが、「芥川龍之介窮したりといえども、まだ、お藤さんの誘惑にはのらんよ」と言って斥けたという実見談もある。

    龍之介が「越し人」と呼んだ松村みね子は、歌人であり、アイルランド文学の翻訳者である。みね子は、龍之介が海軍機関学校の教官時代にファンレターをもらって知り合い、龍之介が病院に入院したときには見舞いに訪れたりしている。みね子と軽井沢で再会した彼は、彼女を自分と才力の上で格闘できる女として愛情を感じたが、人妻ゆえに深入りを避けた。

    「青酸カリの女」は、龍之介の妻文の親友平松麻素子である。彼女は、「死にたがっていらっしゃるのですってね」と言って龍之介に近づいてきて、龍之介と心中の約束をするようになる。この約束は果たされずに終わったけれども、彼女は所持していた青酸カリの瓶を龍之介に渡し、「これさえあればお互いに力強いでしょう」と告げている。

    1イメージ 9927年(昭和2年)7月24日、田端の自室で雨の降りしきる中、芥川龍之介は服毒自殺をし、社会に衝撃を与えた。そんな芥川最後の年は、慌ただしく幕を開ける。1月4日、龍之介の姉ヒサの家でボヤ騒ぎがあり、ヒサの夫西川豊は火災保険を狙った放火の嫌疑をかけられ、6日に鉄道自殺する。事件の処理に追われた龍之介には、8人もの扶養家族がいた。妻と3人の子供、養父母にフキ、ヒサの前夫の子。そこに西川の遺族が加わり、12人に膨れ上がる。

    また、西川が抱えていた高利の借金が重くのしかかり、自らの病気どころではない龍之介は、猛烈な勢いで筆を走らせた。「僕は多忙中ムヤミに書いている。婦人公論12枚、改造60枚、文藝春秋3枚、演劇新潮5枚、我ながら窮すれば通ずと思っている。(知人への手紙)

    4月、「文芸的な、余りに文芸的な」で谷崎潤一郎と文壇史に残る論争を繰り広げている。「小説は物語の面白さ」を主張する谷崎に対し、「物語の面白さ」が小説の質を決めるものではないと反論する芥川は、「話らしい話の無い」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。龍之介は死の前年、静養のため養父母の家を離れ、妻子を伴って鵠沼に移り住む。

    「狂人の娘」しげ子は、妻子と静養中の龍之介を突然見舞いに来ることさえあった。「私の子、あなたに似ていない?」。彼女の言葉は龍之介の胸を引き裂き、滅びへの道を促進させたのか。遺稿『歯車』には悲痛な告白をする。「僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた1人に違いなかった」。「僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた」。

    芥川龍之介がなぜ自殺を選んだかの理由については諸説あるが、芥川と親しかった小穴隆一は、「狂人の娘」が原因だろうと推測し、菊池寛は、「経済的な問題が原因では?」と、いかにも実業家である。さまざまな心労から大量の睡眠薬を服用しなければ眠れなくなり、その結果、持病の痔や胃病を悪化させ、生きる気力・体力をなくしてしまった。

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    ・死にたがっているよりも生きることに飽きているのです。

    ・彼は彼の一生を思い、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった。(或阿呆の一生)

    ・僕の意識しているのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識していない部分は、――僕の魂のアフリカはどこまでも茫々と広がっている。僕はそれを恐れているのだ。光の中には怪物は棲まない。しかし無辺の闇の中には何かがまだ眠っている。(闇中問答)

    ・僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?(歯車)

    龍之介は気力と睡眠薬とで、辛うじて生を保っているに過ぎなかった。そして最後の力を振り絞って遺稿『歯車』を書き上げる。上記の言葉を残し、芥川龍之介は36年の生涯を閉じた。自殺直前の芥川について記した吉田精一著『芥川龍之介』によると、「その夜(昭和2年7月23日)、伯母の考へでは午後10時年頃、彼は伯母の枕許に来た。

    「煙草をとりに来た」と云って。そして24日、伯母によれば午前1時か1時半頃、彼は又伯母の枕もとに来て一枚の短冊を渡していった。「伯母さんこれを明日のあ朝下島さんに渡して下さい。先生が来た時、僕がまだ寝てゐるかも知れないが、寝てゐる僕を起こさずに置いて、そのまままだ寝てゐるからと云って渡して下さい」。これが彼の最後の言葉となった。

    龍之介の死後、文はこのように述べている。「私がもう少し現代的で、明朗に振るまっていましたならば、主人も楽しいことがあったのかも知れません。私たちの結婚生活は、わずか十年の短いものでしたが、その間私は、芥川を全く信頼してすごすことが出来ました。その信頼の念が、芥川の亡きのちの月日を生きる私の支えになったのです。」

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    夫に女のいる事を夫人は気づいていただろう。他所に子供がいる、と言われたらと不安になった事もあったし、鵠沼の借家から一人で田端の家に帰った時、緊張の糸が切れて泣き出した事もあった。芥川は晩年に一度だけ夫人と赤ん坊の三男の三人で湯河原まで一泊旅行をした。心身共に疲れきった芥川は、帰りの電車でシートに横になり寝てしまう。

    そんな龍之介に文は思い切って願い事を言ってみた。「奈良に連れて行って下さい」。芥川は少し間を置いて「贅沢言うな」と言った。夫人の無理な注文は、旅行の予定でも立てれば、少なくとも夫がその日までは生きる張りになってくれるのではないかと言う願いだったのだ。結婚前は、気恥ずかしいほど甘い恋文を彼女に送った龍之介である。

    結婚後も若い文ちゃんに、もっと優しく出来なかったものか…。男女のことは他人に推し量れないが、人生は、この傷つきやすい作家には重荷だったのか。死の前日、芥川は近所に住む室生犀星を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため出かけて留守であった。犀星は「もし私が外出しなかったら芥川君の話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんだ。

    龍之介の死から8年、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けた。芥川賞は日本で最も有名な文学賞として現在まで続いている。

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  • 04/10/15--08:21: 「或阿呆の自殺」 ③
  • 小津安二郎の『一人息子』の冒頭、「人生の悲劇の第一幕は、親子になったことにはじまっている」は芥川龍之介の『侏儒の言葉』。自分は一人息子である。だからか、小津の映画を自らに重ねて観た。小津は芥川の言葉に共感したのは映画を観れば分る。確かに映画は母子の悲劇を描いているが、「人生」は悲劇などと言ってられないほどに覆いかぶさってくる。

    自分も一人息子であるがゆえのプレッシャーは一時期あった。母親の息子への思い入れを感じた時期でもある。「競書会」というのがあった。「競画会」もあった。日本人は「競う」ことが好きだったのか、書にしろ、絵にしろ、子どもを競わせた。小学生時の競書会のときは必ず母親が会場まで付添い、自分の背中の後ろから硯の墨を磨りながらプレッシャーをかけるのがお決まり。

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    言葉は覚えてないが、励ましではない。怒られているようだった。優しい口調の人でないだけに、口を開けばとげとげしい言葉が母親の特徴だった。競書会の作品は校舎の室外に張り出される。「特選」、「天」、「地」、「人」、「佳作」というランクで、特選は大体学年で5名内である。いつも常連が名を連ねていた。そりゃあそうだ。上手い奴は常に上手いのよ。

    自分はいつも佳作であった。一度だけ「人」に入ったことがある。が、書いた後は必ずよくないところをなぞって修整するのがダメだったんだろう。子どもはそんなことがバレないと思い、毛書を絵のように修整してしまう。そんなのは大人が見れば一目で分るのに、なぞるのがよくないというのを知らない。習字は授業であるだけで、特選の奴らは書道教室に通っている。

    佳作が定位置の自分に見かねた母から書道教室に通うよう命じられた。日曜日は遊ぶ日なのに、習字に行っても早く帰って遊びたい。終ったら駆けて帰ったものだ。ある日、教室の庭の池に墨を垂らすと面白いことになった。いわゆるマーブリングの科学実験をしていたのだが、池には錦鯉がいて、誰かがいいつけたのか、先生は飛んで来た。「家に帰れ!もう来なくていい!」

    以来通わなくなった。母親は事情を知らず、「来るなと言われた」は言ってないし、ガンとして行こうとしない自分をどう思ったのかは不明。書道教室でも、ピアノ教室でも、学校でも、子どもが行かないのは必ず理由がある。親はそれを知らない生き物なのだ。「子の心、親知らず」であり、親は親で、「親の心、子知らず」であろう。年月は経ち、高校の習字の常勤講師がそいつだった。

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    憶えてはいないだろう、5~6年も前のことだが、面白い因果と思った。まあ、鯉の池に墨を垂らす方が悪いのだが、烈火のごとく怒らずとも、優しく注意すればよかったろうに。子どもは無知だが、大人もバカと自分は分析した。相手がどんな年上でも、バカと見下したらへりくだらない自分の、そういう性格はこういうところから芽生えたのであろうか?

    自己正当化などではない。自分も悪いが、対処の方法を問題にすることが多い。感じたことは大事であり、成熟するにつけて冷静な視点が身について行く。池に墨を垂らす面白さは、墨が鯉に有害という事を知らないだけで、子どもというのはそういう物であって、イタズラ小僧を悪意の権化と見るのは甚だしく間違っている。あの時は純粋に面白さに見入っていた。

    墨が鯉によくないと教えてくれるものは居ず、何年か後に自分で当時を思い出して発見したのだ。常識がないとか、気づくのが遅いとか、そういう問題よりも、子どものイタズラの原点は好奇心である。そのように考えると、思春期時期の小・中・高生が、性に芽生え、それを大人は「不純異性交遊」という名でくくって排斥しようとするが、そういう大人ってバカである。

    本人たちは、プログラミングされた本能の命ずるままに自身に正直に生きているのだ。排斥する前に、大事なことを注意し、納得させなければならないのに、性の問題を言いづらいとばかりに蓋をして、不良よばわりする大人がバカでなければ何だ?子どもは勉強してればいいの親(大人)は、さらなるバカである。それが、「最初に自分を偽るとすべて無駄になる」の法則よ。

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    ヒステリー性格の人間こそ短絡的である。特徴は、実際の自分以上に自分を見せようとする、病的なエゴイズムとか、極度に打算的であるとかの性格だ。このヒステリー性格というのは、人間の性格のうちで最も好ましくないものを多く含んでいる。おそらく幼児的依存心の大人の現れかたであろうし、大人の子どもであると見ている。自己主張の根源は他人への対抗意識だ。

    中一のときに他の小学校から来た奴と言い合いした。彼は太陽より大きい星(天体)はないと言う。自分は天体観測をしていたし、太陽より大きな星など腐るほどあるのを知っていたが、「ない」と言い張る相手に「ある」では説得にならない。が、自分はそうしか言えなかった。それで、翌日図鑑を学校に持ってきて見せて納得させた。悔しかったが、それが子どもなのだ。

    相手は納得し、「お前はスゴイ」である。知っていて当たり前のことを、知らないやつがスゴイと言って自尊心を維持するのだが、スゴイことでも何でもない。彼とは中~高ずっと一緒だったが、その時の言い合いの感じは大人になっても変わることのない、謙虚さのない知ったかぶりの性格である。人の本質は変わらないという、いい見本として彼が浮かぶ。

    すっぱいのに「甘いレモン」を主張する性格は、自分を実際以上に見せようとする他人への対抗意識である。他人の食べるブドウは甘いはずなのに、自分が甘いレモンを主張する以上、他人のブドウもすっぱいと言い張るし、他人の食べるブドウはすっぱいと主張したいのだ。「自分の食べるレモンはすっぱい、他人の食べるブドウは甘い」と、素直に認める人間であるべし。

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    こういう生き方を「自然」という。朝に夜が訪れ、また朝が来るように、こういう考えにならないと、どんなに努力しても、忍耐しても最初の時点で自分を偽っているから、幸福にはなれない。土台で嘘をつくと、後の努力は無駄に等しくなる。優秀な人を優秀と認め、バカは素直にバカと感じる。どちらもあえて口に出す必要もない。人をバカというのはよくないと無知者はいう。

    バカをバカと認識できないで、賢者を賢者と認識できるのか?自分に嘘をつくのはよくない。認識して口にする必要ないし、バカだと見下す必要もない。ただし、バカにはバカとしての対処があればいい。賢い人だからとへりくだる必要もない。尊重磨ればいいだけで、尊重するのとへりくだるのはまったく別である。へりくだることで敬意を表したと見せたいだけだ。

    先日記事で、「先生好きの日本人」と書いた。先生と呼ぼうが姓で呼ぼうが、尊敬が変わらぬなら同じことなのに、先生とへりくだる自分を相手に見せたいんだろう。呼ぶのは自由だが、他人に強制まですることもない。表題があるのだから戻る。『侏儒の言葉』にこういう記述アリ。「人生はマッチに似てゐる。重大に扱ふには莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である」

    マッチとは時代を感じさせるが、「マッチ一本、火事の元」という標語に信憑性があった時代である。「焼肉焼いても、家焼くな」が現代的かどうかは別にして、芥川はマッチを「正」、「負」の両面から擦って見せている。また、「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。」の言葉も芥川らしく、坂口安吾にも通じている。常識行動が危険思想とは何事か?と訝る人多し。

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    が、世にいう常識とは、それが正しかろうが誤っていようが、「常識」で片付ける。こんなに便利で底のない言葉はない。真理でもなければ、ただの便宜である。盲目的に常識に従い、しかも、それを行動に移すことは何と危険であろうことを言いたかったのだろう。常識と言って人を卑下するのは簡単だ。鯉のいる池に墨を落すのは、「常識が欠落している」とこれは違う。

    では、そういう事をしない人間は、「常識が備わっているのか?」相手は10歳の子どもだろ?子どもに常識を問う方が飛躍している。いわゆる、「いい子」は常識が備わっているのではなく、何もしないで」いる子のことを言う。何もしないから問題も起こらない。しかし、科学の根幹は、「常識を疑え!」である。常識が人間を縛っているという考えが土台にある。

    常識外れのものはとかく面白いものが多い。子どもが金色のリンゴを画いて責める大人は、大人の常識を子どもに求めている。金の卵を産む鶏もいるし、常識が頭にあってはこういう物語は生まれまい。もっともっと大人は子どもを知るべきだし、そのためには高い感受性を持って子どもに接しなければならない。大人の視点が正しくとも、正しいばかりの世の中は殺伐である。

    若者は正しいだけを求めてない。ビートルズやエルビスの音楽は、当時の大人にとって正しくなかった。大音量でうるさいエレキは不良であった。確かに近所迷惑の一面はあったろう。長屋住まいの隣娘の弾く琴が下手くそで耳につくが、一生懸命やる姿が微笑ましいと、心をくばせる江戸時代の川柳。「ピアノ殺人」は現代の象徴だが、「琴殺人」はなかったろうな。

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    『侏儒の言葉』の初出は、大正12年の「文藝春秋」創刊号から自殺の2年前の3年間連載され、出版は遺稿として扱われた。納得させられる言葉の数々…。名言というより真理をついている。人の世を、人間の実態を、覗き穴から覗いてみるように、正直に、辛辣に表現することを課している自分だが、さすれど芥川の文学的表現には到底及ばない。

    恋愛…恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。

    結婚…結婚は性慾を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。

    幼児…我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。

    親子…古来如何に大勢の親はこう言う言葉を繰り返したであろう。――「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」

    自殺…万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

    地獄…人生は地獄よりも地獄的である。

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    自殺する人間は「なぜ?」であり、本人以外、正確な理由を知ることはできないが、いや、本人には自分の自殺の理由が本当ににわかっているといえるのか?そう考えられなくもないのでは?なぜなら、己がする己の行動を、よくわからぬままに無意識的にすることがある。自殺とて、己の行動である。なのに、自殺した人間に周囲は外野も含めて、理由を知ろうとする。

    理由はあるはずと考える。しかし、死ぬ理由という明確なものが本当にあるのだろうか?死ななければならない絶対理由があるのだろうか?と、このように考えたらどうだろう。それでは気持ちが収まらないのか?人は別に死ぬ(ほどの)理由がなくても死ぬんだと…。大層な理由などなくても死ぬんだと…。確かに自殺など考えられない人にとって、死は特別である。

    しかし、自殺する人にとって死は特別なことではないのかも知れない。「命を捨てるなんて、なんともったいない」と思うだろう?10年位前だったか、藤圭子(宇多田ヒカルの母)が、現金5000万円を所持しているのが空港当局者にみつかって、差し押さえられたことがあった。5000万円だろうが、1億円だろうが、自分のお金を持ち歩いてなぜ差し押さえられる?

    素朴な疑問だが、差し押さえというのは没収であるからして、それがやれるアメリカという国もスゴイ。確かに現金5000万を持ち歩くというのは、アメリカでなくても異様だ。ギャンブルで稼いだのなら小切手にするか、預金してしまってもいいはずである。没収の理由は、「何やら出所の不審な金であった」と考えるのが一番妥当なような気がする。

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    それで、「麻薬などの売買に使用した可能性がある」として押収されたという。その藤がフジTVでこう激白した。私はこの5年間で世界中(カジノがある場所など)をファーストクラスで移動し、一流ホテルに宿泊していたから5億円くらい使っている。空港で差し押さえられた時は、ベガスのウインホテルから帰ってきたばかりで、またカジノに行くところだった。

    「5千万円持っていたからといっても当たり前で、どうと言うことはない」。と、彼女はさらりという。どうしてこの話を持ち出したかと言えば、大金を普通に持ち歩き、5年で5億円使う人もいるということ。何ともったいないと我々は思うが、もったいなくないから使えるのだ。命もそれと一緒で、自殺するなど何ともったいないと思うが、命が惜しくない人にとっては何でもない。

    アレコレ自殺の理由を詮索せずとも、数億のお金がもったいなくないように、命がもったいなくない人間もいる。藤圭子は2013年8月22日、東京・新宿のマンションの前で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。遺書はなく、衣服の乱れや争った形跡がないことなどから、新宿警察署によって飛び降り自殺を図ったと断定された。

    彼女は自身の持ち歌、「新宿の女」で余生を終えた。マスコミもいろいろ書き、著名な精神科医もアレコレ分析するが、庶民感覚とは言えない金の遣い方からしても、彼女が庶民感覚とは言えない命の捨て方と思えばどうという事はない。藤圭子以外においても、自殺した人間のことをアレコレ考えるよりも、命が惜しくなかったんだと考える方が妥当だ。

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    『命預けます』という藤圭子の歌がある。昭和45年の大ヒットだが、「命預けます」とはスゴイ歌詞である。「下駄を預ける」というのは、他人に下履き(靴)を預け、自分はもう自由に動けない。後は預けた人次第で自分は一切口を挟みませんよと…。『命預けます』も、「こんなろくでもないあたしでよいなら、あなたに命預ける」。が、藤圭子には、命を預ける誰かがいなかった。

     命預けます
     流れ流れて東京は夜の新宿花園で
     やっと開いた花一つこんな女でよかったら
     命預けます
       
     命預けます
     嘘もつきます生きるため酒も飲みます生きるため
     すねるつもりはないけれどこんな女でよかったら
     命預けます

     命預けます
     雨の降る夜は雨になき風の吹く日は風に泣き
     いつか涙も枯れはてたこんな女でよかったら
     命預けます





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    「人生の悲劇の第一幕は、親子になったことにはじまっている」

    というのは本当なのか?まあ、すべての親子を対象とするのではなく、そういう親子もあろうと考えるべきだ。この言葉を知ったとき自分は子どもであった。当然ながら子どもの視点でその言葉を噛みしめたとき、どうしてこんな家に生まれてきたのだろうと「生」を呪った。よその母親はみんな女神のように見えた。「何であんなにやさしいのだろう…?」

    羨ましかったことは沢山ある。①弁当のおかずが多い、②自分宛の手紙を勝手に開けたりしない(手紙がくる奴限定)、③洋服は欲しい物の値段を親に金をもらって自分で買いに行く(我が家は既製服なんか着たことない。全部母親の製作)、④兄弟・姉妹がいる(自分は一人っ子)、⑤日曜日に家族で出かける、⑥親が人前で子の悪口を言ったりしない、などなど。

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    50年も前のことだが思い出すとこんな感じで、当時はもっとあったろう。もちろん、こういう不満は口に出して伝えたが、門前払いであった。言い返せなかったことも多かった。特に①などは、「兄弟の沢山いる家ならおかずもいろいろ作れるが、弁当一つにあれこれおかずを入れられない。小学校はまずい給食でうんざりで、中学から手弁当を楽しみにしていた。

    ところが、毎日の弁当のおかずは魚肉ソーセージを炒めたものばかり。よくもまあ、毎日同じものばかり、何も考えもせずに入れるモノかと思うが、当時はそれが我が家の普通と思っていたのだから、飼い慣らされていたのだろう。他の奴は肉も卵焼きもゆで卵も入っていて、それは他人の家の普通だと思っていた。だからこういう言い方になる。

    「みんなはおかずの種類が多いのに、何でうちは一品なんか?」これに対する母の答えは、「おかず食いは出世しない」。どこから仕入れてきたのかこの言葉、いわれて見るとそうなのかと思ってしまう。出生という言葉は子どもにとっても大事なことのように思われた。だからか、「おかず食いは出世しない」というのを、信じていたように思う。

    本来なら、このような手抜き弁当なら、親に対する愛情は感じないものだが、小学高学年で絶縁を言い渡していることもあり、だからか親に、「○○して欲しい」という要求を言いかねる部分もあった。こっちが親のいう事は聞かないと宣言したのだから、親が自分のいう事を聞かないのも仕方がないと思っていたのだろう。バカな親と思っていた。

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    親も腹に据えかねる子と思っていたのだろう。現実的にどっちもどっちであろうが、弁当のおかずを毎日同じもの一品、子ども宛の手紙を勝手に開く、この二点だけでも客観的に見てヒドイ親であろう。どうして子どもの栄養とかに頭がいかないのかと思うが、ようするにそういう人間なのだ。自分の面倒臭いが優先して、他にことがおろそかになる。

    して、それを自己正当化するための何かを考えつくか、どこかから仕入れてきて勝手に思い込む。行動のすべてが、自分の快・不快であるとか、楽・面倒であるが規範にある。今の自分からみると、とんでもない人間だが、当時はそういう分析などできるはずもないし、すべての子どもにとっては自分の親が親というスタンダードになる。

    母親は自分の何が足りないかを考えないかを考えない人で、それでいて「親を大事にしない極道息子」という当時の価値観を吐く。我々世代は親に手をあげるなどはとんでもないことだという価値観があったし、親は「絶対悪」的存在という風には思えなかった。「親孝行」、「親の恩」、「親に感謝」などの言葉が、これ見よがしに耳に入った時代である。

    子どもにとって自分の生きる場、生活する場が家庭であるのはいうまでもない。家庭というのは子どもにとって、すべての動物の雛にとっての存在の証しである。巣なくしては生きていけない。が、人間の子どもには、「広場恐怖症」なる児童心理がある。「広場恐怖」とは、児童心理学の権威B・ウォルマンが著書、『子どもの恐怖』の中で以下の説明をしている。

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    「親の寂しい気持ちが強く、自身の恐怖や不安を軽減させるために、子どもに傍にいることを要求することで、子どもが『広場恐怖症』を発症するおそれがある。子を自らの感情の拠り所とする親は、自分の寂寥感が子どもを縛っていることなど気づいてない。子どもにしがみつきながら、それを子どもへの愛情と錯覚したり、思い込んでいる場合が多い。」

    これは母親の顕著な情動である。母親が少しでもそういう自身の感情から離れ、理性的に思考すれば、"自身の都合で子どもを利用している"に、気づくこともあろうが、そういう事を考えないところが女脳である。これが講じてくると、役割逆転が起こるようになる。親の役割は本来子どもを気づかうことなのに、逆に子どもが親を気づかうようになるのだ。

    自分はこの現象を早い時期に坂口安後のエッセイで知った。「親は子どもに献身的にあれこれしていると思っているが、子どもの方がどれだけ親に対して気を使い、自己犠牲を強いられているか…」の一文だ。子どもは親に気など使ってはいけない、己の精神の成長に親の何かが障害になってはいけない。親は子どもに気を使わせてはいけない、という図式である。

    親の使命は子に何の見返りも求めず、要求もせず、ただ与えることをもって愛情とすべきである。いわゆる「無償の愛」で、これが親の根源的なあり方だと知った。いや、知らされた。親子に限らず、恋人であれ、夫婦であれ、友人であれ、相手に精神的・肉体的負担を強いるというのを根源的な愛情とはいわない。もちろん、金銭的な負担も同様である。

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    愛とは与えることのみが使命である。自分はこの考えは「美しい」事とは思わない。当たり前のことだと認識している。自分の身勝手はその分他人の迷惑になっているのだ。個々が自分の持ち場をキチンと守れば、人間は自分の苦しみだけを何とか処理していける。自分の都合、身勝手さで他人に迷惑をかけ、「申し訳ない」などという人間が多すぎる。

    だから小保方のような女は大嫌いである。恩人を死に至らしめるばかりか、どれだけ周囲に迷惑をかけているにも関わらず、ちょっとしたマスコミの言葉に反応(するそぶりを見せて)被害者に納まろうとする。こういう女は多いし、被害者になる事で救われたいとする人間の最も卑劣なズルさである。人に迷惑をかける人間ほど、こういう性情が強い。

    男として男にエールを送るなら、ダメな女とは関わらないことが生きて行くコツである。ダメにもいろいろあるが、向上心なく、欲まるだし、恥をしらない、言い訳ばかりで自己正当化の女。恥を知らない女は傷つくことないが、傷ついた素振りをするのが得意である。他人の目、という厳しさを知らないから現実に無頓着でナルシズムに酔い、感傷的になろうとする。

    まるでママゴトのゴザの上の遊び感覚のようだ。周囲の誰かが、「そんなことしてたら将来困るよ」などと口酸っぱくいっても、その事を考えず、その場その場の感性で生きている。自分の周囲の誰かが、自分のおママゴトのために迷惑しているということが分らない。それはなぜかといえば、おママゴトをやっていて、迷惑する人などいないからである。

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    いくつになってママゴトをする女はどうしようもない。だから関わるべきではない。小保方という女に関わった人の多くがそれなりの被害を被ったが、自分にいわせると関わった側の責任なのである。小保方氏には罪はない。ないというほどの人間だからであり、それを見抜けない責任を問うしかないのだから。つまり、世の中には悪人もドロボウもいるということ。

    悪人に「悪人だな」と、ドロボウに「ドロボウ!」と言ってみたところで何になる。言えば悪人でなくなるのか?ドロボウでなくなるのか?面白いと思うのは、屋根をつたって逃げるドロボウを「ドロボー!待てー!」と言って追いかける場面を沢山見た。自分が経験したことはない、映画やテレビの世界。なぜ、「ドロボー!」と、言葉を発するのか?

    「待てー!」という言葉を発するのか?「ドロボー!」と発するのは分らなくもない。そのように言って追いかければ、それを耳にした通行人の誰かが足をかけたり、取り押さえてくれるかもしれないからだが、逃げる相手に「待てー!」というのはどうだろう?言ったところで待つはずはない。アレは、「御用だ!御用!」と江戸時代の十手が発してると同じだな。

    逃げるドロボーに、「待てー!」というだけカロリー消耗して損だと思うが、つい出てしまうんだろうし、「待てー!」と言いながら追いかける方が多少なりともサマになっている。外国映画などの逃走シーンを見てると余計な言葉を発さず、黙々と追いかけているが、こちらの方が合理的だ。テレビなど観ていて、「待てー!」と言いながら追いかけるシーンが可笑しい。

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    「他のことは分らない」とつくづく思うし、それは正しい。なぜなら、他人は自分ではないからだ。が、それは真っ当すぎる答えだ。他人を理解することの難しさは、自分というものが災いしていることに気づくならいい。つまり、他人の行動は自分の理解し得る範囲内においてしか理解できないということ。だから男はm男の感性でしか女を理解できない。

    女も同様、女の感性でしか男を理解できない。それを超えて、人間(ヒューマニズム)的な視点で思考しないと、理解は遠のくばかりだ。人間的視点で理解して善悪を見極めようとしても、「女は女なのよ」と言われたらどうするか?それがあまりに常軌を逸脱した行為であるのに、「女は女よ」と正当化されたら?「だから女はバカなんだよ」というしかない。

    だから自分は、善悪正誤を正しく判断するときに「女だから…」などというなという。「男だから…」というなという。自身も言わないようにする。性の都合よく利用したり、性を正当化していてはで正しい答えはでない。だから、そのようにいうが、聞かない女は多い。聞いていないのに、聞いたフリをするのも多い。だから真の理解かの確認がいる。

    本当に心のやさしい女を探せるのか?これが妻を娶る課題であった。控え目で謙虚な物言いをする女はゴマンといる。が、本当に控え目で謙虚ならいい。傲慢で自己中な女もいるし、そうならそうでいい。が、本当は傲慢で貪欲で甚だしく自分勝手であるのに、口先は控え目で謙虚というのも多い。そこを見抜くのが、女を前にした男の役割である。

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    いや、能力と言った方がいいだろう。それほどに難しいからだが、慣れてしまえば何でもない。そういうネコカブリ女には共通点があるから、すぐに分るし、自分は騙されない自信がある。「女は雌キツネ」という言い方がある。その罠にかかった男は多く、かかってこそ男である。女の魅力は性としての魅力であり、男にない物を所有する魅力である。

    筋骨隆々でゴツゴツ骨ばった肉体、太く低い声、毛むくじゃらなヒゲ面、洗濯板の上に干しブドウが乗っかってるような胸…、これらすべてを一手に備えている女性に男が興じるはずがない。貧乳であっても他でカバーする部分はあるから、さほど問題にならない。体型は見れば分るが、心のうちは見ることはできない。だから謙虚な女は女らしいとなる。

    「私のような女」という言い方を口癖にする女性がいる。一見して謙虚に見えるが、謙虚を売りものにするのがズルイ女の手口であるから油断は禁物。基本的なことをいうなら、あまりこういう言葉を言う女は信用しない方がいい。しかと自分を見せていこうの前に、言葉によって自分を相手に思わせようとする意図がみえる。「言葉半分」としたものだ。

    言になんか興味はない、行為で判断すればいいのよ。人間は言葉の生き物だから行為(行動)の前に来る言葉で惑わされてはいけない。が、相手は惑わさせようとする。例えば「私のような女」は、その言葉によって、一切の怠情の免罪符を得ようとする。「うちはバカだから」と同じこと。「バカならバカでなくなれよ」とこっちがいうと、宛てが外れた顔をする。

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    「私のような女」と本気で思ってる女はそういう言葉を吐かないで沈黙するもの。そして、良くなろうと努力をするもの。男が本当に謙虚な女を求めるなら、口先で謙虚なことを言わない女と付き合うのがいい。傲慢で貪欲な女も謙虚なことを言わないだろうから、どちらかということになる。謙虚言葉の安売り女は、実は甘やかされて育った過保護女に多い。

    理由は、そうして過保護に育つと、保護が災いして現実に直面した時に、自分の醜さに気づかされることがない。その上、自分の言った言葉に責任を取らされることもない。だから、平気でそういう言葉を連発できるのだ。あまりに謙虚なことを言ってる女は、無責任で甘えて育ち、過保護でズルいのが一般的であり、真に謙虚な人は騒がないし努力型である。

    男も同じようなものだろう。謙虚を安売りする奴はニセ謙虚が多い。そういえば、親が子どもに「謙虚」という言い方をしないが、それはなぜか?本音で接すればいいからである。謙虚と言うのは本音ではなく、嘘とは言わないまでも作為である。親と子は正面から裸でぶつかればいい。謙虚など無用で、すべてを出し合い、作為に興じる関係でないほうがいい。





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    ひょんなことから「ミモザの日」というのを知った。花オンチの自分は数年前までミモザの花すら知らなかった。バラ、ユリ、チューリップ、桜、菊などの有名種を知るくらいだった。マーガレットは雑誌の名で、花の名であるのも知らなかった。レンゲやタンポポなどの野草は子どものアイテムとして知っていた。「キンモクセイのいいにおいがするね」とある女が言った。

    「オレのキンもクセイか?」と言ったら、「なにバカなこと言ってんの?」とたしなめられた。その女は冗談やオヤジギャグをまったく聞かないし、相手にしないクソマジメ女。ピアニストで作曲でもあったフランツ・リストに、『パガニーニによる超絶技巧練習曲』というピアノ練習曲がある。バイオリニスト・パガニーニの曲をリストが抜粋、ピアノ用に編曲したもの。

    有名な『ラ・カンパネラ』はその一曲。超絶技巧という名もスゴイが、上の女も超絶糞真面目であった。自分は下品でだらしない超絶愚行男だから、女は超絶糞真面目なのが好みである。別にギャグに愛想してくれなくてもいいし、それを物足りないとは思わないし、むしろ、「なにバカなこと言ってんの」と言われる方が、なぜかわからないけど、刺激的なのだ。

    超絶愚行男を自負する自分がここに書いていることを、「くそまじめですね~」といわれることが多い。自分ではマジメなことを書いているなどと、ぜんぜん思っていないのだが、人にはそう見えるらしい。しかし、といっては何だが、猥褻犯は周囲も驚くクソマジメ男が多いのはなぜ?マジメは虚飾で本当は別の顔を持っている?あるいは抑圧の反動か?

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    いろいろな見方があろうが、マジメというのは周囲からみると目立たない存在であるのはその通り。エロいことも言わないからマジメと見られているが、それ自体が間違っていることを周囲が気づいてないだけだ。実際はド助平で変態エロ男なのに、それを隠しているからマジメに見えているに過ぎない。こういう奴がたまにシモネタを言うと、超キモチ悪かったりする。

    言いなれてないからだろう。人間の本質なんて変わるものでもない。超絶真面目男は超絶助平の仮の姿である。それは女にも当てはまる。超絶真面目女はやはり、抑制のたまものだから、その反動はある。だから、自分は超絶真面目女が好きなのだ。女に憧憬が深い男は、軽い女に触手を伸ばさない。バーゲンセールの商品は、所詮はバーゲンの価値しかないのだ。

    「類は友を呼ぶ」という図式に当て嵌めると、超絶愚行男と自負する自分の本質は、実はものの考え方が真面目なのかも知れない。真面目な人間と比較して見ると、自分は到底真面目ではないが、ではその真面目男のガチガチの思考や生き方に魅力があるか、羨ましいかというとそれはない。真面目だなと思うが、真面目だと思うだけで、そうありたいとは全く思わない。

    だから超絶愚行の自分を愛している。愚行の定義が何かといえば真面目でないといっておこう。したがって超絶真面目女というのは、思考に柔軟性のない不器用さであって、常識的な行動を範とするが、得てしてそういう女は愚行男に憧れるものだ。これも"ないものねだり"の図式である。自分も女も、互いに"ないものねだり"をし、それが実は相性の良さといえるのかも…

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    「類は友を呼ぶ」というが、「類」は表層ではなく「本質」であろう。まったく異質のカップルに見えても、それはあくまで表面的であり、本質は他人には伺い知れぬものであったりする。ここは、「人は見かけによらぬもの」という故事に収斂しておくべきだ。とかく人は分らぬものよ。実際問題、自分が分からぬ存在であるなら、なおさら人は分らぬものである。

    人と人は決して分かり合えない関係である。50年連れ添っても分らないものであろうし、そこまで分る必要もない。自分が欲でエゴイストの人間は、他人の無欲の行動ですら、私利私欲と受け取るし、他人のふしだらな行動を見ても、それ自体は卑小なる市民社会や人間社会に対する抵抗と捉える人だっている。その人が解釈する世界観は、その人の器量によって決まるのだ。

    男心は男にしか分らないし、それでいいし、だからこそ性差である。だから自分はオカマが嫌いなのだ。中性人間がなにを言ったところで、信憑性はないし、そういう境界線をもたない信憑性のなさが好まれる今の時代背景か。敵か味方か、やるのかやらないのか、男か女か、ハッキリ色分けすべきが信頼に及ぶ。オカマには悪いが中途半端が好きでない。

    男心は男に分ればいい、女心は女に分ればいい。もし男が女に対して孤独を感じず、女の中にいて孤立を感じないなら、男の器量は女と同じと自覚すべきである。オカマは何を自覚しているのか?おそらく性的無自覚であろう。ある時は女、ある時は男、こんなのは信用出来ん。テレビで観るにはいいが、友人にはいらん。オカマ心はオカマに分ればいいよ。

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    昔も今も偉大といわれる人は、常に孤独の影を宿している。それは、その人が自分を多くの人に理解してもらおうという気がないからであり、この人にだけ理解されれば良いと思う部分があったからだ。人間は誰も、自分自身にないものを理解はできない。誠実で真面目な男が憎悪の鬼になると犯罪を起こす。殺人以上にヒドイことはこの世にいくらでもあるのだ。

    それを見かねて殺人をするのに、周囲は殺人以上のものはないと言う。殺人をする人にとって、殺人という行為は、実は人を殺す以上の事であったりする。それでも周囲は「殺すこともないだろう」という。自分がそれと同じ場にいたら、どうするかを深く、深く、深~く、思考しないで簡単に言う。確かに殺人という行為自体は、単純であり明快である。

    それに至るプロセスは複雑極まりないものであったとしても、殺人の行為自体は種々様々な解釈をもたない。殺人はまぎれもない事実であり、殺人が行われたことを否定はできない。「殺人よりヒドイことはこの世にある」といったが、その意味は殺人という行為にどのような解釈も出来るからだ。が、どういう問題が殺人以上の罪であるかを具体性をもって決めることはできない。

    そして司法が殺人以上の罪を認めることは、社会秩序の意味において問題である。「情状酌量」というのは、法治国家において、犯罪の中から人間的な道理を認めた温情であろう。こんにち共産主義の国家といえばどこなのか?ロシアはいまだ共産主義国家なのか?ちがうな。共産主義政権下の資本主義国家である。基本は中国と同じだが、中国と違って共産主義独裁ではない。

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    その点は中国より進歩的といった印象だ。共産主義国の憲法には、祖国への裏切りというのが最大の罪とされている(⇒国家反逆罪)。確かに祖国と個人の関係や、人民全体と個人の関係においては、国家反逆罪=死刑という国家的定めはできるが、個人対個人の関係において、果たして殺人以上の罪は定め難い。にもかかわらず、殺人以上のヒドイ仕打ちは多だ存在する。

    法というものをどんなに完璧に作っても、人間関係の複雑さをカバーし得ない。法とはあくまで外に現れた客観的事実を重んじなければならないからだ。したがって、法的には無罪のまま、人間は殺人以上の事がやれてしまうのだ。子の親殺しは、子という弱者が凶器を持つことで起こる。それを世間の人は親殺しという。とんでもない子どもだと、無慈悲に叩きのめす。

    親の立場で子どもを批判する前に、子の視点で親を眺めてみたらどうか?と、その主旨で親殺しの記事を書いた。親というのは、法的無罪であっても人間的有罪という行為をするものだが、近年は虐待に法的処罰が課せられる。人権意識が高まった現れで、良いことだと思っている。のっけにミモザのことを書いたが、新学期を向かえたある中学教師の苦悩のメール。

    「母の植えたチューリップが風に揺られて笑っています。葉が出、茎が伸び、蕾をつけると、咲くのが心待ちとなり、咲いた朝には「さいたーさいたー♪」の歌を口ずさみたくなります。今年度は職場の仲間ががらりと入れ替わり、たくさんの仕事を引き受けるポジションになりました。慣れない仕事に言いようもない不安が渦巻き、毎朝吐きそうになりながら出勤するのです。」

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    に対し、こう返信した。「ふわふわ揺れる女性のようなミモザの黄色が好きです。3月8日は「ミモザの日」、世界の男が恋人や愛人や妻にミモザの花を贈る日。与えられた仕事をそつなくこなすのがプロフェッショナルです。そういう人が、頭ひとつ抜きん出ていくんです。何でもこなせる、「組織横断的な働き方」が求められる職種であり、お気楽にやりたい人に忙しいのは迷惑でしょうね。」

    「ミモザの日ってあるんですか?フリージアやジャスミンと並んで好きな香りにミモザがあります。と言っても、本物はわからない^_^; アタックネオのミモザの香りはとてもいい香り、元気の出る香りです。やり甲斐はあります。任された喜びも…。なのに不安はなんなのでしょう…?気負い?プレッシャー?変な力が入っているようです。

    ちゃんとできなかったらどうしようと、ただただ不安で…こなしていくしかないのですけど…先が見えないことが怖いんです。初めてのことにチャレンジってこういうことなのかな。hanshirouさんは不安な場面やプレッシャーをどう乗り越えていかれましたか?よければ憐れな子羊に示唆を与えてください。お願いします…」。と、慣れない仕事を与えられ、喜びと不安が混在しているようだ。

    「不安やプレッシャーは克服すべきものですから、誰にでもあるし、あって当たり前です。なぜ、不安やプレッシャーが起こるのか?人間に自尊心があるからです。それらから解き放たれる言葉として、「バカになれ!」というのがあります。これは、自尊心を捨てろということです。自尊心や虚栄心を取り払うことで、人間は出来ないこともできてしまうものです。

    イメージ 7大きな不安やプレッシャーに襲われるというのは、危機的状況でしょう。ですが、そういうときに人間は最も成長するし、その人の本質が見えるときでもあります。未知への不安は行為をする前に克服することはできませんが、成功という結果に拘ることなく、「今」を全力で頑張ればいいのです。そういう毎日を情熱をもって過ごせるかどうかにかかっています。
    解決できそうなことは解決し、できそうにない事は、解消でストレスを溜めないこと。人生はそうすべきと思っています。これは、自分にのみ特化したものではなく、誰にでも当てはまることなので、人にはそのように進言しています。やさしいことばかりではないし、難しいことに直面した時、失敗や、先を考えず、"今を全力で行う"は、人生の道理かもしれません。」と返す。

    「ありがとうございます。始業式での挨拶のヒントのお言葉でした。『今日は明日には思い出に変わるよ、今日これを頑張った!今日はこれが楽しかった!そんな思い出を積み重ねて過ごせば毎日が充実するし、必ず1年間で成長するよ!』、そんな風に言いました。子供に向けて言っているようで、実は自分に言いきかせていたんです。職場の先輩の励まし言葉は優しいようで他人事です。

    最後の戸締まりをする、休みの日に鍵を開けて学校ににくる、非行の連絡に急行する…当たり前になりました。プライベートにゆとりはありませんが、"今を全力で頑張ること、情熱をもって過ごすこと"、それしかないですよね。苦しいときにこそ成長があるんですね。ポジティブに受け取ってみますが、今年のわたしは悪戦苦闘の日々に思われます。」

    人が自分の悩みを人に話すとき、慰められたい気持ちもあるでしょうが、もっと前向きな言葉を必要とする人もいる。切実であればあるほどそうなのかも。そういう時に、こうしたらいいよと限定的な言葉より、誰にでも当てはまるような、普遍性のある道理のようなものがいいようです。特化した言葉は、相手の周囲の様子が分らないから無意味でしょう。

    こういう場合にはこうすべきという答えは自分を中心にいう言葉が多い。性格も環境も違う人なら、物事の道理を理解させる方がいい。なぜ不安なのか、プレッシャーはなぜ起こるのか?答えは簡単、失敗を怖れるから。恥をかきたくないから、笑われたくないから、すべて自尊心・虚栄心の問題だ。教師は生徒より優れてなければならないという思い込み。本当にそう?

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    生徒は陰で教師バカにする生き物だが、そういう生徒に教師はどう優秀であるべきか?生徒が教師を優秀だと思えるものは何か?教師が優秀というのは教師の一人合点であって、生徒が求めているのは自分たちと同じ空気を吸っている人間であるかどうかでは?教師は優秀であるより同質であるかどうかを見ている気がする。自分たちもそうだった。

    教師が優秀であるか否かなど、まったくといって思考の外で、目糞ほども考えたことなどなかったし、今の時代も変わらないだろう。ならば教師は(生徒に対して)優秀でなければならないと考えるのは愚かなことだ。教師ばかりではない。親だってそう、会社の上司だってそうではないのか?優秀か否かの視点で見るのは、同年齢の相手であったり…



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    アメリカでトムと言えば、日本では太郎に匹敵する名であろう。Tomはトーマス(Thomas)の英語・オランダ語での短縮形で、英語では Thom の綴りもある。類似の短縮形にトミー (Tommy)がある。トム・クルーズ、トム・ハンクス、トム・ワトソン、最近は缶コーヒーのCMに出づっぱりなトミー・リー・ジョーンズにトム・ソーヤ、トム・ドゥーリーなどが浮かぶ。

    トム・ドゥーリーは南北戦争時代の実在の人物で、南軍に参加したトーマス・ドゥーラと言う。彼は心変わりした恋人を殺し、絞首刑になったときの歌である。兵士トーマス・ドゥーラは、フィアンセであったローラ・フォスターが、心変わりをした事に怒り彼女を殺すが、裁判で彼は、「ローラを殺してはいない、しかし自分は罰を受けるに値する」と死刑を望んだ。

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    トムは1868年に絞首刑になるが、この事件の真犯人はトムのもう一人の愛人だった女性、アン・メルトンの嫉妬によるものであったとも言われ、事件は多くの謎を残したまま忘れられ去られようとしたが、トムの処刑後、詩人トーマス・C・ランドがトム・ドゥーリの悲劇を歌にし、音楽フィールドで再び光が当てられた。血なまぐさい歌詞だが、多くの歌手によって歌われた。

    トム・ソーヤといえばマーク・トウェイン、マーク・トウェインといえば、ディズニーランドの豪華客船でアメリカ河を遊覧するアトラクション「蒸気船マーク・トウェイン号」が浮かぶ。マークトウェイン号が進む川はアメリカ河といい、19世紀始めの頃のミシシッピ川がモデル。東京ディズニーランド開園時には、実際にミシシッピ川の水を1瓶運んできて、注いだそうだ。

    ディズニーランドのシンボル「マーク・トウェイン号」の遊覧だが、それはウォルト・ディズニーがマーク・トウェインの『トムソーヤの冒険』の愛読者であったことによるという。「マーク・トウェイン」は作家になる前は船の船長だったらしい。マーク・トウェインの生まれはアメリカのミズーリ州という田舎町で、ウォルトも少年期をミズーリで過ごしている。

    マーク・トウェインはアメリカを代表する作家で、『トム・ソーヤーの冒険』の他に、『王子と乞食』、『ハックルベリー・フィンの冒険』、『不思議な少年』などの小説があり、エッセイ、旅行記などもある。マーク・トウェインはまた、数々の名言を残しており、アメリカ国内や世界のあちこちでの講演やスピーチなどで、最も引用されていると言われている。

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    ◎人類なんてこんなものだ…、ノアたちが箱舟に乗り遅れなかったことを、残念に思うことがよくある。

    ◎今から20年後、あなたはやったことよりも、やらなかったことに失望する。

    ◎ユーモアの源泉は歓びにあるのではなく、悲しみにある。天国にはユーモアはない。

    ◎アダムはリンゴが欲しかったから食べたのではない。禁じられていたから食べたのだ。

    ◎新しいものを考えついた人も、それが成功するまではただの変人にすぎない。

    ◎私の本は水だ。偉大な天才の本はぶどう酒だ。しかし、みんなは水を飲む。

    ◎教育とは、うぬぼれた無知からみじめな曖昧さへの道である。

    ◎友人たちが「若く見えるよ」と誉めだしたら、あなたが年をとったしるしだ。

    ◎私に批判的な人たちが私のことを何と言おうと、彼らが真実を語らない限りは気にしない。

    彼の皮肉たっぷりな、辛辣な、的を得ている言葉は、読むだけで笑えるし、彼の言葉を知るだけで嫌な人生も味なものになる。「死んだら葬儀屋も悲しんでくれるくらい、一所懸命に生きろ!」 (Let us live so that when we come to die even the undertaker will be sorry.) という言葉は一瞬「?」で、すぐには意味が分らないかもしれないがこういう事。

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    一般に葬儀屋は人が死ねば喜ぶ職業であり、その前提で、葬儀屋さえも悲しんでくれるくらいに一生懸命に生きろ、という意味。そういえば、あのガンジーもこのように言っている。「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ」 (Live as if you were to die tomorrow,Learn as if you were to live forever.) 矛盾していて理解しづらいが実に深い意味を持つ。

    「死」を意識した有名な言葉はたくさんあるが、スティーブ・ジョブスが2005年、スタンフォード大学のスピーチで述べた次の言葉。"If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?"(今日が人生最後の日だったら、今日やろうとしていることをやりたいか?)というのが直訳だが、「もし明日死ぬなら何をする?」と意訳される。

    こういう死生観を持って生きるべきと思うが、それでも人間は有り余る時間を無駄にする。無駄が決して悪いことではないが、ある日突然、医師に寿命を宣告されたらどのように生きるだろうか?いかに想像したところで、実際にそういう憂き目にあわぬ限り人間は自堕落な生き物だ。確かに動物は生きることにのみ純粋である。生きて子孫を残して死ぬという意味で純粋だ。

    「人間はそれでいいのか?」という問いは常に投げかけられている。さりとて、「何をする?」、「何ができる?」というものでもない。であるが故に、半年後に寿命を切られたとして人間が果たしてどのように生きるか、察しがつく。ジョブズは何を言いたかったのか?ガンジーは明日死ぬとしても、学びを捨てるなといった。共通するのは実利よりも意識についてである。

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    どうせ死ぬのだからやりたいことをやれ、と解釈も出来るし、いつか死ぬという意識があれば、何かを失うことを憂えるという落とし穴にはまらずに済む。持っている物を失いたくない、1億あっても2億にしたい、と飽くなき欲が人間の本質であろう。それを人間の弱さと言えないか?事業欲とは聞こえはいいが、儲けるばかりで従業員に厳しいブラック企業経営者もいる。

    そんなにガツガツしないで、もっと従業員に優しく、温かい経営をしたらどうかと思うが、経営者の本質はやはり「欲」なのだろう。売り上げ世界一を目指すには1000円の月給で10000円分の労働を課して従業員をこき使う。ブラック企業といえば、「ワタミ」、ユニクロの「ファーストリテイリング」の名が上がるが、「ヤマダ電機」や100円均一の「大創産業」の名もあがる。

    自分の心に従わない理由などはないし、偉業を成し遂げる人は共通して、「人はいつか死ぬ」という事実を明確に意識しているし、そうだからこそ、今を一生懸命に生きようとしているが、ガツガツ企業経営者には腹黒いのが多すぎる。ユニクロの柳井氏は、「自分の能力以上を求められる環境でなければ、成長は難しい」というように、昨今の成長振りは目を見張るものがある。

    経営者の感覚でいえば、従業員に能力以上のものを要求するのは当然であろう。が、それでは人間の精神が病む人も出てくるだろう。人には能力の前に性能(性格)があり、性能以上の事を要求されると壊れるようになっている。壊れたら壊れたまでのこと、補充はいくらでもきくし、文句ばかりで仕事をしない人間はどうぞ辞めてもらって結構という考えのようだ。

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    企業経営者とは一線を画す哲学者は、人の刹那な人生について別の考えを持っているが、ニーチェはこのように言う。「死ぬのは決まっているのだから、朗らかにやっていこう。いつか終わるのだから、全力で向かっていこう。時間は限られているのだから、チャンスはいつも今だ。嘆きわめくことなんか、オペラの役者にまかせておけ」。物質的豊かな生活とは対極である。

    柳井氏は従業員に自営業者になれという。自分の職業に徹して、第一人者になるためには細部に精通しているべきという。たとえ店長という職にあっても、店舗経営に必要な一切のことを勉強するためには半端な努力では済まない。しかし、それをマスターしないと、店舗をコントロールできないという。これが離職率50%のブラック企業の実態なのか。

    徳島県の日亜化学工業勤務時代の1993年、世界で初めて高輝度青色発光ダイオードの商品化に成功し、世界を驚かせた。ノーベル賞に輝いた中村修二氏は、企業家柳井氏とは全くの正反対の、従業員的思考を述べている。「若い人になにより言いたいのは、まずは価値観を変えなさいである。"同じ会社にずっといるのが美徳"、"会社を辞めるのはよくない"これは間違いだ。

    完全に間違っている考えがいまだに幅を利かせている。みんな知らず知らずのうちに経営者に洗脳されている。そこに気づかなきゃダメだ。会社を辞めるのが道徳にはんするなどと、冗談じゃない。会社を辞めることはとてもいいことなんです。なぜならその事が自分を進歩させるからです。会社を辞めてゼロからやり直すのは、面倒だし、しんどいし、苦労も多い。

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    だからこそ自分を磨ける。アメリカ人はしょっちゅう会社を替わります。常に能力の向上を考えているからです。日本のビジネスパーソンには夢がないといわれる。その多くは大学受験が芽を摘んでいること。大学に入っても夢がない、何をしていいか分らない、だから適当に遊んで、いざ卒業の段階になって自信がない。その結果、安定志向に走ってしまうという図式だ。

    そもそも、大学に行けば何とかなるということ自体が間違っているし、それで大企業に就職して「大企業なんてつまらん」、「こんな仕事をするつもりじゃなかった」と気づく。人は自身の経験からさまざまな考えに到達するから、柳井氏と中村氏の考えが違うのは当然である。どちらの意見が正しいとも言えない。それぞれが自分の体験から主張しているだけだ。

    どういう考えであっても実行するのは別の人間である。ただし、同じ柳井氏、同じ中村氏は二度と輩出されないだろう。仕事は会社のためにするのではなく、自分を伸ばすため、自分が楽しむためにこそあるのだろう。そのようになるためにはどうすればよいかは、自分で考えて実行するしかないのだ。成功者はあえて結論をいうが、それぞれの課程を踏んでいる。

    結論に至っていない誰かには、とりあえず課程を踏むしかない。その都度起こったことに対処して行くしかない。人生が思うようにならなかったとき、多くの人はその責任を押し付けられる対象を探したくなる。それをして、慰めたいのは自己愛であろうし、自尊心であろう。そうでもせねば精神が持たない人もいる。失恋をしてもさっと新しい対象を見つける人もいる。


    自分はまぎれもない後者であったし、その理由として、"くよくよしても何も得られない"、"何もいいことないじゃないか"、は当たり前に考えられたし、だから、くよくよしない方法を考えた。ボブディランに、"Don't think twice, it's all right."(=邦題「くよくよするな」)という曲があるが、もちろんこの歌の影響もある。"think twice"=考え直す、熟考する。

     座って悩んだりしないでいいのさ
     いずれにしても仕方なかったんだ
     座って悩んでもどうにもならないよ
     今の時点でわからないならね

    学歴志向型に注意として言っておきたいのは、学歴は過去形、学習は現在進行形であることだ。昨日のBSジャパン放送の「日経プラス10」は「東大合格者数ランキングから読み解く教育格差 傾向と対策」で、東大生の親の年収は「950万円以上」が過半数を占め、貧困状態の子どもは十分な教育は受けにくいため、成人してからも低所得層を抜け出せないまま次世代も困窮する。

    これがいわゆる教育格差における「貧困の連鎖」といわれている。確かに、有名大学の学生には裕福な家庭の子どもが多い。そこから、「貧しい家に生まれると教育を受ける機会もなく、ニートや非正規になってしまう」とか、「金持ちの子どもだけが私立の進学校に進み、エリートになるのは不公平だ」などの批判が言われるが、頭のいい親から80%の確立で知能のよい子が生まれる。

    これは統計学を元にした遺伝学的論拠として現時点で反証はないが、現実的には東京大学大学院教育学研究科・大学経営・政策研究センターで行った「高校生の進路についての調査」で、親の年収によって大学進学率に大きな格差があることが明らかになった。詳しい数字は省くが、上記した東大生の親の年収950万以上が過半数を占めているのは、紛れもない事実である。

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    これは憲法に謳う、「教育の機会均等」が幻想であることを示している。偏差値レースに参加するなら、高校から大学だけで1000万以上が必要なうえ、選抜の主戦場は中学受験に映りつつあるため、費用はさらに増す。2015年の東大合格者数上位20校を見ても、都立日比谷高校一校以外はすべて私立の中高一貫校である。確かに学費の個人負担は先進国の中で日本は最も多い。

    つまり、教育も市場原理で動き、学歴は努力による結果ではなく、生来の属性で決まる社会にある。これでいいのか?教育格差の拡大は、ニッポンを教育後進国にするのではないのか?早々問題提起されていることだが、国家が取り組む問題であろう。教育といっても人間教育で楽しく人生を送ることもある。教育格差の暗闇の中で明るく希望を見つけていくのも人生だ。

    子どもの学力が親の経済格差で決まるのはおかしいと思えども、それで個人の幸・不幸が決まるわけではないのだから。支配者階級になれば、苦労もストレスも多いのも事実であり、何の不足もないエリートの自殺がそれらを物語っている。成功の陽の目を夢見て嘘つついたり、捏造したりするのも、エリートの苦しさであり、性である。子どもの将来に不安を持たぬ方がいい。

    不安を持ちすぎる親は、間違ったことをするかもしれない。誰もが極度の秀才になれるわけではないし、昨今はそこそこの秀才は要らない時代である。どんなエリートにも勝者と敗者という現実がある。だからか、万引きひとつした事のないようなエリートが大きな犯罪をおこしたりする。研究費を不正取得する学者も後を絶たない。小保方嬢のようなバカな学者も出てくる。

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    かつて日本の教育は一億総秀才を目指してきた部分がある。天才も作らず、際立ったバカも作らず、みんなが秀才を目標としてきた。うかうかしていると県立高校にも入れないし、行く高校もないかつての時代は遥かに遠のいた。今はもう、お客様のようにどこかの高校に入れるようになったし、周囲には不登校も増えているから、少々サボったところで目立たない。

    「勉強ができさえすれば…」の時代から、「勉強ができても…」の時代になっている。大事なのは少々の秀才と、ズルをしないで一生懸命に働いてくれるような人間である。後者は人間教育(躾け)によって作られる。秀才にすることばかり考えて、勉強以外に興味を持たなかった親が、子どもが勉強に挫折したときには、ズルしないで一生懸命に働くような子の躾けをしてきたか?

    これがこんにちの社会の問題点。どこの場所で働くにも、使い物にならない子どもが多いという現実は、躾をおろそかにした親の責任だろう。子にエリートを夢見る親の家庭から使い物にならない子ができる。確かに子どもを見ればその親が分かる。親を見れば子どもの想像がつく。すべての鍵を握っているのが親と言うのは、「親は子どもを映す鏡」と古人の言葉通りである。

    これほどに子どもが親の影響を受けるという不思議。わがままな子の親は最も分りやすい。人間学とは何か?他人ひとに優しくすること。他人に好意を持つこと。他人の長所を認めること。他人を褒めること。先輩を尊敬すること。後輩を可愛がること。俊才を友人に持つこと。威張らないこと。口で言えば易しいが、実地に臨んでこれほどむつかしい学問はない。

    それらを人間社会から学んでいく。本を読んで人生勉強しようとなんてのは虫が好すぎる。これらは実地臨んで、周囲に気を遣いながら、苦労をし、悩み、試行錯誤の結果、漸くやっとのことで身につく感覚なのであろう。熱心に本を読んで、他人に好かれるコツが分ろう筈はない。

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    定期ではなく読みたい記事があるときに買う「文藝春秋」誌。1923年大正12年1月、文藝春秋社として菊池寛が創業したが、1946年昭和21年3月、戦争協力のため解散を余儀なくされるも、佐佐木茂索をはじめとする社員有志により同年6月、株式会社文藝春秋新社が設立され、1966年昭和41年3月、現在の社名に改められる。芥川賞や直木賞など多くの文芸賞を手がけている。

    「文藝春秋」の記事には驚かされるものが多かったが、1980年8月、三億円事件のあの有名なモンタージュ写真が、三億円事件前に事故で死去したある工員男性の顔写真を、ほとんどそのまま使用したものであり、作家・小林久三氏とジャーナリストの近藤昭二氏が「文藝春秋」に発表した「『顔』の疑惑」というレポートとともに工員の写真が掲載されたのは驚いた。

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    なぜそのようなことになったのか?現金を強奪された4人の銀行員は犯人の顔をほとんど見ていない。しかし、警視庁鑑識は素早くモンタージュを作る必要があった。銀行員らは事件直後に容疑者として浮上した少年Sが犯人に似ていると証言していたが、少年は現職警官の息子であったため顔写真を使うわけにいかない。そこで少年に似た人物の顔写真をそのまま無断使用したという。

    モンタージュ写真はインパクトがあったが、捜査本部は1971年に「犯人はモンタージュ写真に似ていなくてよい」と方針を転換、問題のモンタージュ写真も1974年に正式に破棄された。警視庁はこのことを公式には認めていない。が、このモンタージュ写真のインパクトに引っ張られ、それが捜査に影響を与え、犯人像に対する誤解を生んでしまったのは事実である。

    白バイ警官姿でない普段着のモンタージュ写真に使われた工員の写真を見せたある友人は、「これは凄い!この雑誌は価値があがるぞ」と言ったのが印象的だった。「そんなに言うならお前にやるよ」といったが、かなりの数が発刊された「文藝春秋」にプレミアムなどつくはずもないと自分は踏んでいた。それより、警察ってこんなインチキやるんだという驚きだった。

    「三億円事件」の犯人はその後、例の白バイ警官の自殺した息子の少年Sであることがほとんど確定したようだが、まあ殺人でもない傷害でもない、3億円は保険に入ってたから「実害」はない。あれだけ「遺留品」があるのに犯人まで辿れないのが不思議。モンタージュが「別人」とはお笑い。警察が「本気」で捜査していたのか?という疑問だけが残っている。

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    「文藝春秋」誌の記事でもう一つ驚いたのは、1998年3月特別号の「少年A 犯罪の全貌」と題した「神戸児童連続殺傷事件」の犯人とされる少年の供述調書の掲載であった。門外不出のはずの検事調書7通が公表されたことに世間も自分も驚いた。この検事調書を掲載するにつけ、当時の平尾隆弘編集長はジャーナリストの立花隆氏に相談した事になっている。

    検事調書掲載の前文「正常と異常の間」を書いた立花氏は経緯をこう記している。「数日前の深夜、「重大なことで、どうしても相談したいことがあるから、今から行ってもいいですか」と、(平尾編集長から)電話がかかってきた。声の調子が異様だった。長年のつきあいだから、声の調子で彼がどういう心の状態にあるかすぐわかる。(中略)「何なの?」と聞いたが、「会うまでいえません」

    と、さらに真剣みをました声でいったので、それ以上は何も聞かなかった。それから三十分もしないうちに彼は仕事場にやってきた。そして、神戸の小学生連続殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗こと少年Aが犯行を自ら全供述している文書が手に入ったのだが、これを雑誌に載せるべきかどうかをめぐって、いま社内で大激論がまき起こっているという情況を話してくれた。(中略)

    立花氏はこの検事調書を提供した何者かについてもこう弁護している。「提供者の意図は事件の内容を広く世の人に知ってもらい、あの事件のことをもう一度考えてもらいたいと思ったのだと思う。もしその人が公務員なら、公務員法の"職務上知り得た秘密を守る義務"に反することになるだろうし、弁護士などであれば、秘密漏洩罪に触れることになるだろう。

    イメージ 3しかし、その人は、こういう危険が自身の身にふりかかる可能性があることを知った上で、それよりこれを世に伝えるほうに大きな価値があると思って文春側に資料を提供した確信犯なのだろうと思う。(中略) 文春社員が自分でどこかに行って盗んできたというならともかく、第三者から資料提供を受けて、それを発表するという行為には、何一つ違法性はない。
    それは憲法二十一条によって強く守られている出版の自由権そのものの行使だから、この行為に誇りを持ちこそすれ、恥ずべき点は何一つない」。立花氏に限らず、頼まれれば誰でもこのように書くだろう。まさか、「資料提供者はおそらく金銭目当てであり、数百万、いや一千万それ以上の報酬を手にしたのではないか?文春側もこれはかなりの部数発行を期待したはずだ。」

    などと書くはずがない。が、おそらく本音はこちらであろう。そして最後にこう結んでいる。「私は長いジャーナリスト生活において、何かあることを報ずべきかどうか迷ったときのチェックポイントはただ二つだけあると、先輩たちから叩き込まれてきた。その二点とは、「それは内容において真実か」、「それは社会的に報ずる価値があるか」である。

    この文春の報道がその二点をクリアーしていることは明らかである」。と立花氏の取ってつけたような記述だが、文春側の意図は、少年法の改悪にむけて一気にはずみをつけようとの面と、A少年の「異常さ」と「残虐さ」を世間に強く印象づけることを狙ってなされたのは明白である。また、後で巻き起こる漏洩問題から立花氏の権威を利用したのだろろう。

    立花氏は前文で少年Aを次のように書いている。「少年Aは、正常と異常の微妙な境界状態のところにいる。いわうるサイコパスといってもいいかも知れない。調書を読むと、自分の犯行を語っていくところなど、冷血そのもので、人間性のかけらもないように見える。(中略)「懲役13年」の中で、彼自身がつかっている「絶対零度の狂気」とはまさにこのようなものを表現する言葉かも知れない。

    (中略) 私のようにこの少年をモンスターと考えていた人の中から、やっぱりモンスターだけど、人の心の片鱗くらいはあるようだけど、ほんの少し好意をもってくれる人が出現することが期待できるくらいだろう。一般の人の少年に対する心証はすでに最悪なのだから、それがこれ(検事調書公表)によって、さらに最悪化するということもないだろう。」

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    立花氏は、調書公表によって少年が何の不利益を被ることがないばかりか、少年に対する著しい偏見に対し、神戸事件の真相を究明する会や人権弁護士からは非難が殺到した。「調書の公表をきっかけとして、"神戸事件はサイコパスによる猟奇的快楽殺人事件だ"といった大宣伝がくりひろげられつつあることを、私たちは黙って見すごすことはできません。

    透徹した理性をもってこの一連の調書とあい対するならば、じつにこの「供述調書」は、一これを流布するものの意図とは全く逆に、--検事のでっちあげた虚構でしかないことが、鮮やかに浮かびあがってくるのです。およそ非現実的なことを書き殴ったバーチャル・リアリティの世界。色もなく音もなく匂いもない、モノクロームの世界…」などに批判を起こしている。

    確かに、検事調書にみられるような取り調べは、外界から遮断された密室の中で行われることから、容疑者は特異な精神状況に追いこまれがちであること、とくに少年の場合はそういう状態が強いであろうことは間違いない。実際、様々な調書を書き上げた元最高検検事である永野義一氏でさえ、そういう指摘がなされている。

    「文藝春秋」は4月10日発売の5月号において、「少年A神戸連続児童殺傷 家裁審判決定(判決)」を全文掲載しているが、「文藝春秋」によると、共同通信神戸支局のデスクとして取材に関わった佐々木央氏が、審判決定の全文にあった成育歴の大半と精神鑑定主文の重要な部分が「要旨」から抜け落ちていた、という事実を知ったのは10年ほど前だったという。

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    佐々木氏は事件を担当した井垣康弘元判事に「ぜひ全文を開示してほしい」と依頼、今回の掲載に至った。神戸家裁は10日、佐々木央氏、井垣康弘弁護士に抗議文を送った。神戸家裁の岡原剛所長は、「裁判官が退職後も負う守秘義務に反する行為」とした上で、「非公開とされる少年審判に対する信頼を著しく損なうもの。事件関係者に多大な苦痛を与えかねず、誠に遺憾」と厳しく批判した。

    これに対し、井垣弁護士は「事件を理解する上では、決定要旨で省かれた加害男性の生育歴について、正しい情報を共有することが必要。少年法と照らしても、公開は特に問題はないと考えている」と話した。「神戸連続児童殺傷事件は、18年が過ぎた今も社会に影響を与え続けている。今回、初めて明らかにされる事件の全貌は、少年犯罪を考えるための多くの教訓を与えてくれると言えそうだ。

    今年1月に殺人容疑で逮捕された名古屋の19歳の女子大生は、犯行前にツイッターで「酒鬼薔薇君を尊敬しています」とつぶやいていた。「文藝春秋」2013年8月号に、「死ぬまでSEXに発情する団塊世代」と題する記事がある。"熟年セックスブーム!"とやらが週刊誌を席巻し、「中央公論」誌もが、「人生後半戦・男の欲望は枯れない」と題する記事を掲載。

    「婦人公論」は昔からセックス記事で売っているが、先日、フィリピンで少女とのみだらな行為を撮影したとして児童買春・ポルノ禁止法違反(製造)の疑いで逮捕された横浜市立中の元校長高島雄平容疑者(64)のお元気なこと甚だしくだが、結局こういう人たちは若い頃にお盛んでなかったという事だろう。だから、本来は枯れた年齢に花を咲かせていると思う。

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    人間どこかで帳尻を合わすという事だ。「文藝春秋」2013年8月号はその記事がお目当てで買ったわけではなく、「激変する医療 がん治療のビッグバン」と、「記念対談『風たちぬ』戦争と日本人・宮崎駿 /半藤一利」であった。他にも読み残す記事もあり、数日前にふと目についたのが児童文学作家中川李枝子の、「大きな大きなカステラを」というエッセイである。

    中川李枝子といえば、あの『ぐりとぐら』の作者であり、2013年はこの作品の記念すべき出版50年目に当たるという。「日本一の保母さんになる。」の決意で東京都立高等保母学院を卒業、みどり保育園に就職した中川は自信に満ち溢れていたという。彼女は保育園に就職して2年目に、『ぐりとぐら』書き上げた。処女作は、『いやいやえん』である。

    入園の際にいきなり主任保母と言われて責任を持たされた中川に園長は、「一人も欠席する子がいない保育をする」という要望をだされていた。当時の保育園は、のんびり、ぶらぶら園児が多く、保育園に行く途中に道草したり、原っぱで遊びほうける園児が多かった。自分も記事に書いたが、毎日道草ばかりで、まともに保育園に行ったことがなかった。

    中川はどうすれば保育園に来てくれるかを悩み、じっくり子どもたちを観察した。そこで気づいたのは、一つの遊びを自分のアイデアで膨らませて面白くできる子は、みな想像力が豊かな子どもであった。そこで中川は、子どもの想像力を育て、高めるのが自分と仕事と悟ったという。道草や原っぱの遊び以上に園に来るのが楽しくさせるために『いやいやえん』を書いた。

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    『ぐりとぐら』は次作にあたる。ヒントになったのは『ちびくろさんぼ』で、最後のホットケーキを食べる場面は、当時ホットケーキを食べた子どもはほとんどなく、トラがバターになって169枚のホットケーキができて子どもは大喜び。もっともっと子どもたちにホットケーキを食べさせてあげたい、食料事情がままならぬ時代の李枝子の切なる願いがそこにあった。

    それが「大きなカステラを」のアイデアとなり、大きな卵でビックリさせ、卵をさらに大きく見せるために、小さな野ねずみを主人公にした。「ヘンゼルとグレーテル」のお菓子の家は、多くのこどもに夢を与えたようにである。2014年2月1日、スタジオジブリの宮崎駿が東京都内で中川李枝子さんと対談をした。宮崎が公の場に姿を見せたのは昨年9月の引退会見以来だ。

    中川さんは『となりのトトロ』の主題歌「さんぽ」の作詞を手がけるなど、宮崎氏と親交が深かった。対談で宮崎氏は「中川さんの『いやいやえん』を読んで衝撃を受けた。主人公が冒険に出かけると、普通は賢くなって戻って来るものだが、中川さんの本では全然賢くならない。何も意味を持たせないところがすごい」などと、なごやかなムードで語り合っていた。

    『いやいやえん』は、主人公しげるが通う保育園のお話が5話収められている。短いお話も長いお話もあり、好きなものから読める。また、中川の実妹である大村百合子による絵も多く、簡単に読み進めることができる。 第1回(1963年)野間児童文芸新人賞受賞作品となった。妊娠したと友人に報告したとき、「産まれた子には、『いやいやえん』を買って上げてね!」といわれた。

    なにか、子ども心に強烈な印象を残す本のようで、我が娘もすぐはまりました。」というレビューが印象的だ。自分は名前を知るくらいでどちらも読んではない。もはやこの年になっては、読む機会もなくなったのかも知れない。

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    子どもを取り巻く教師と親とは敵対するものではないが、表層はともかく腹の底では敵対に似たものであるのを教師は知っている。が、教師は自分たちに敵対意識を持っていることを知らない親は多い。理由は簡単で、親は教師に対して発言を遠慮しないから。言葉を選んで遠まわしに言ったりするが、何を言わんとするかの本音は、如何に言葉を飾ろうとて見えるという。

    教師がそういうのだから間違いない。ところが、教師は親に対してズバズバ本音を言わないし、かなり気を使った表現をするものだ。理由を比喩的にいえば保護者はお客様であるからだ。教師と突っ込んで話すとこの現実がよく分る。こんなんでいいのか?と思うがいいも悪いも現実である。現実に対義する言葉は「理想」である。「理想」を掲げて現実なのか、掲げなくて現実なのか?

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    「それが現実というものよ」という言葉はしばし耳にするが、これは理想に破れたとき、あるいは理想の壁に立ち塞がれたときに出ることであろう。「理想の相手と結婚したが、現実は悲惨であった」。「理想を求めて努力したが現実は厳しかった」。などなど、こういう言葉を吐くことで、人は現実にひれ伏す。そもそも「理想」とは何?辞書を引けば簡単に出る。

    1. 人が心に描き求め続ける、それ以上望むところのない完全なもの。そうあってほしいと思う最高の状態。

    2. 理性によって考えうる最も完全な状態。また、実現したいと願う最善の目標あるいは状態。

    とある。我々はそれらの意味を知って「理想」などといっているのか?どうやら多くの人間は漠然と言っているように思う。理想的な親子関係、理想的な夫婦、理想的な教師、理想的な父(母)、理想の国家、理想の政治家、理想の食生活、理想とする人生…、とかく理想とつけられるものはいくらでも用意できる。「理想のうんち」というのもネットに定められている。

    「今日も元気だ!一本糞で!」というのがある。切れ目ない一本糞が、とぐろを巻いている状態を健康の証しというが、水分が多くて凛とした形をなさないもの、あるいは水分のすくないポツポツしたウサギのうんちはよくないらしい。理想のうんちというのは形状のみならず、腸内環境がよく、善玉菌が多く、この善玉菌がウィルスなどの病原菌に進入をガードしているのだ。

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    人は一般的に三食の生活をするわけだから、毎日排泄が理想である。それもいきまず"ストーン!"と出るのがいい。黄色がかった色合いで、200~300グラムの重量があり、これはバナナ2~3本分の分量である。臭いはあってもそれほどキツクなく、水分含有率80%の練り状こそ理想のうんこである。うんこの語源は、自然に「う~ん」と出る声によるものだという。

    もし、人間が「ああん」と言えば「あんこ」と言われたかもしれないが、イキむときは口を開けずに奥歯をくいしばって「う~ん」であろう。「ああん」は別の行為による女言葉だ。志村ケンはイキむときは「あい~ん」と言うらしい。いずれにしても、イキむのはよくないということだ。「うんこ」はイキむ声の「う~ん」に接尾語の「こ」が語源だが「うんち」は違う。

    中国仏教では大小便を「吽」といい、大小便の溜まり場のことを「吽置」と呼んでいた。奈良時代に「吽」が日本へ入り、上流語として使われていた。なるほど、「うんち」は上流階級の言葉であったのだ。「糞」という字は、「米」に「異」と書く。米を食って異物になって出てくる、それが「糞」という字の成り行きと説明もあるが、これは正しくないとする説は以下。

    「糞」は、「A=米の上にノが付いた番の上の部分」と、「B=華から草冠を除いた部分」と、「C=升から左上のノを除いた形」を合わせた会意文字。Aはちりの象形文字、Cは両手を意味する象形文字、Bは塵取りの象形文字。つまり、両手で塵取りを持ってちりを取る様子が元の意味で、「塵取りを推して汚物を除くさま」を表した字で、後に汚物、くそを表すようになったという。

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    まるで「糞」という字を発明した人の説明のようだが、これが正しいといわれている。好き嫌いでいうなら子どもに説明して分りやすい金八先生流解釈の、米+異の方が個人的にはユニークで面白いし、この程度の嘘を教えてもまさか入試にはでないし、それなら和気藹々のコミュニケーションとしての「糞」の意味が面白い。正しいも大事、楽しいも大事だ。

    しかるに徳川家康が三方が原の戦いで大敗を喫し、恐怖に慄いて馬上脱糞(だっぷん)したといわれているように、確かにこれは「糞(フン)」となっている。が、家康は「糞(フン)」ではないと言い張る。以下…、「武田軍の山県昌景の手勢約2万が、命からがら戦場から敗走する家康を追撃した。家康は恐怖のあまり馬上で脱糞してしまい、浜松城に逃げ帰った。

    家康の脱糞に気付いた大久保忠世に大笑いされ、それに対して家康は真っ赤になって怒りだし、「それは腰の弁当の焼味噌だ」と苦し紛れの嘘をついたという。このやりとりと「落ち」の面白さから語り継がれたものと考えられているが、そのまんま史実とは難いかもしれぬ。人に「フン」というのは非礼でも「脱糞」という言葉使いは問題ないということだ。

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    「糞も味噌も一緒にするな」という戒めの言葉があるが、天下の徳川家康とあろう物が糞を味噌といっては名が廃ろう。家康の生誕地三河に「八丁味噌」がある。米麹や麦麹を用いず原材大豆の全てを麹にした豆麹で作られる赤褐色の豆味噌である。名古屋圏では「味噌汁」といえば八丁味噌を用いた赤い汁が一般的であり、米味噌を用いた味噌汁は「白味噌汁」と区別する。

    岡崎の矢作川地域で収穫される矢作大豆と、知多の成岩(ならわ - 半田市)や饗庭(あえば - 吉良町)で造られる塩を用いて、主に八丁村で作られていたことから、八丁味噌と呼ばれた。八丁村は岡崎城より西へ八丁離れていたことが村名の由来で、現在の愛知県岡崎市八帖にあたる。八丁味噌は「三河味噌」や「三州味噌」とも呼ばれ、江戸時代は江戸へも出荷された。

    家康の名言に、「味噌は味噌臭きがよし」というのがある。武士が威張り腐って鼻持ちならないとの世評に対し、家康は家臣にこう諭した。「武士に武士くさいのと、味噌の味噌くさいのは使い物にならぬというのは、公家か商人が言い出したこと。武士は武士臭く、味噌は味噌臭いのがよい。武士は公家臭くても、出家臭くても、商工臭くてもならぬ。」

    「味噌は生臭くもなく、こげ臭くもなく、ただ本来の味噌臭きをもってよし」。などの言葉は、さすがに味噌産地岡崎出身の家康である。あちらには「徳川家康の食べる味噌」という名産がある。味噌と言えば甘口味噌の総称である西京味噌がいい。魚を西京味噌で漬けたものはご飯と相性がいいが、中でも銀だらの西京漬けは逸品であり、好物の一つに挙げられる。

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    理想のうんちが糞になり、はたまた糞が味噌の話になったが、「理想と現実」の話は人の生に切っても切れないことであろう。理想を持ち続けるか、現実の妥協に安住するか、は単に選択の問題であろうか?故事にいう言葉に、「名ばかりの英雄よりも、夢を語り続ける人形の方がましよ」とあるが、肩書きや地位や功名を自慢する人は多い。確かにこの言葉は多くに当てはまる。

    「名ばかりの東大生よりも、東大に行きたいという幼稚園生の方がまし」と置きかえれる。つまり、成って使い物にならないなら、これから成ろうとする人間の方に期待がもてるといえなくもないし、ダメな大人より乳幼児の方が可能性がある。人は教育を必要とする生き物だが、いかなる動物であれ、本能習性とは別の教育を親から授かることはあろう。

    そして、親から授かった教育はすべての動物に役立つものとなる。動物にもバカも利口もいるのだろうし、愚かな犬も賢明な犬もいるのだろうが、そういう知能の違いはあっても、愚かと賢さにそれほど目立った差を感じない。ところが人間はどうだ?人間の赤ん坊を愚かだと思う者はいない。赤ん坊は無知ではあるが、愚かではない。ならばなぜ愚かになるのか?

    教育をされないからか?それもある。もう一つ決定的なのは、教育されることで愚かになることに気づかないのが親である。「教育とは、うぬぼれた無知からみじめな曖昧さへの道である」というマーク・トウェインの言葉を書いたが、「正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ」とアインシュタインが言ったように、子どもをダメにするのが親である。

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    子どもが好奇心を失い、損なうような教育を親が授けているからであろう。「子どもは好奇心の塊である」のは、巷言われる通りであるが、その目を潰す親がいると、アインシュタインもいっている。子どもは教育によって愚かになる。その典型が親殺しであろう。ただ、世間のいう「親を殺すなどなんという愚かな子」という、そういう愚かさとは自分は思わない。

    犯罪に手を染め、人生に親殺しという汚名をつけることになったという愚かさである。殺したいほど憎い親を殺さないでやり過ごすのは正しい選択だが、こういう理性が教育で身につくかどうかは分らない。「我慢」は辛抱の一種だから、必ず身につけなければ人は生きてはいけない。それをどこで、どういう形で身につけるかだ。部活の辛さで身につけるものもいよう。

    履歴書に部活動をやたと書くのが有利と言われた理由は、部活動から協調性や耐性を仕込まれたと見れるからで、確かにその一面はある。これらは親が躾けや教育で与えたものではなく、自ら自発的に意思的に身につけたものだ。自己教育力といっていい。自分で自分を律することは容易いようで難しい。言われたことはできるが、自分で率先してというのは難しいという。

    学校に文句ばかりいう親がいるらしい。モンスターペアレントという名がつけられている。教師はそういう親を切実に感じているようだが、まさか本人の耳に入るような本音はおくびにも出さない。購入した商品に言いがかりをつけるユーザーをクレーマーというが、これも同種であろう。何でもカンでも他人のせいという人間に自律なる言葉はないようだ。

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    子どもを勉強させるように仕向けるのも、本来は親の役目である。なぜなら、自分の子どもだからである。そういう当たり前に自分を律するという親がいない。昨今においていえるのは、自分を律することの大半は、外注に出されている。委ねられている。子どもに勉強させるようにするノウハウなんか考えることもなく、塾に行かせるのが手っ取り早いというように。

    何でもカンでも受け皿が用意されていて、お金を出せばいいようになっている。自分は動物の親として、こういった横着な、人任せな、人間の親的な行為を嫌った。何で自分の子どもを人に委ねなければならぬのかは、いかにも動物的な思考である。人間は賢いし、だからズルくなる。金を出せば事足りるという時代であるようだ。同級生に資産家の親を持つ息子がいた。

    「日曜大工にしろ、ちょっとした工作にしろ、自分でするよ」と言った時に、「何でだ?金を出せばやってもらえるだろうに?」と真顔で言われて驚いたことがある。彼にとっては、それが当たり前で、何でわざわざ自分がやらねばならぬかであった。彼は数年前に糖尿病の合併症で世を去った。命を長らえることができなかったのは、美食家であったからだろう。

    命を粗末にするなどと、なんとも不憫な奴だと思った。それに変えて言えば、「貧乏は贅沢である」トンカチ、のこぎり持って体も動かす。燃料代をセーブするため、徒歩や自転車を多用する。また日常の粗食は健康にいいし、体にイイことばかりだ。繰り返す、「貧乏は贅沢である。」

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  • 04/17/15--19:58: 笑いの効用
  • 人は誰でも笑ったことがある。なぜ笑うのかについては、「嬉しいから」、「楽しいから」、「オモシロいから」の他に、「腹が立つから」、「悲しいから」と、そんな時も笑える。そんなバカな、腹が立って笑えるか?というだろうが、自分は腹が立って笑うことが多い。「悲しいときに笑う」という経験は記憶にないが、歌の歌詞には「涙を抑えて笑ってみよう」はある。

    だから、そういう歌詞に影響されてか、悲しいときに笑おう、笑顔をみせようとする人はいるかもしれない。「泣いたカラスがもう笑う」という言葉があるが、これはもう赤ちゃんの得意芸である。赤ちゃんに限らず、欲しいものを買ってもらえなくて泣きわめいていた子どもが、それが手に入ったとたん泣きやんで笑顔を見せる場面を経験した親はいろだろう。

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    「なんというか、子どもは現金なもの」という言い方もされるが、子どもの素直さ、正直さを見せ付けられる。大人ならこうはいくまい。彼氏に約束をすっぽかされて泣き泣きしている彼女、彼氏から「ゴメ~ん」と詫びられて、心は暖まっているのだが、(ここですぐに許しては甘い女だと思われる)、(もう少しすねたら何か買ってもらえるかな?)などの邪悪な心がはたらく。

    邪悪とまでは言い過ぎだろうが、大人が素直でないのは"駆け引き"を身につけたことによるからだ。子どもの純な気持ちをいたぶるかのように、「あら、泣いたカラスがもう笑ってる~」と大人は子どもを嘲笑するが、こういわれていい気持ちがしなかった記憶がある。自分の母親は底意地の悪い性格だから、人を傷つけるようなことを、無意識で言ったりする。

    だから、この言葉はよくいわれたし、言われるたびにバカにされた気分になるし、また言われるのが嫌だから、素直な気持ちを押さえるようにした。子どもというのは自尊心が傷つかないよう、自己防衛心を少しづつ構築していくもので、それは親といえどもである。子どもを傷つけたりの言動をしないような暖かい性格の親ならいいが、抜き差しならない親もいる訳だ。

    例えば、何かをしてもらったときに、その事を恩着せがましく言われたことはあるだろう。それも、何かの度にまるで虎の子でもとったように、何度も、何度も、くどくいわれたら、いい加減嫌になってくる。相手にそれが見えたら、何かをしてもらうことをあらかじめ拒否するようになる。これが自己防衛心である。無償の善意などとはとんでもない、まさに毒饅頭である。

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    人の善意がインチキであるほど醜いものはない。が、ハナっからそういう恩を売ろうとする人間はいる。そういう人間の差し出す毒饅頭を食わないことで、人間は自分の"卑しさ"の加減を磨いていくのだろう。自分の母親は、反面教師として考えると、善意で慈母観音のような母親にはない、さまざまな、多くの人間の醜さを提供してくれた。その点はいい教材であった。

    吉田拓郎の『オヤジの唄』に、♪オヤジが人を疑うことを教えてくれた、という歌詞があるが、親は子どもに恋愛やセックスを教えることはできないが、うまい話には裏がある、毒がある、「人を簡単に信じてはいけないよ」みたいなことは教えてしかるべきだ。言葉でいくらいっても、その場、その場の状況は自己判断が必要だが、「人を疑え」を知ると知らぬとでは用意は違う。

    それでも人は人に騙されるものだ。言葉が経験に及ばない事象は沢山ある。ただし、言葉を安易に信じるというのは、基本的に人間の欲であろう。「良心」というけど、「良心」も人によく思われたいという「欲」の部分が混在する。なぜなら、相手の立場からすれば、信じてもらえないより、信じてくれる人間の方が好感がもてるからだ。それが顕著なる人間が多い。

    こちらが相手を信じないと怒り出すような人間もいるが、これはハッキリいって短絡的で無知というか一種のバカだと自分は見ている。つまり、信じない相手を怒りという態度に現してまで信じさせようとするのは、やってはいけないことだ。よく女性の人間関係でそういう話をよく聞かされた。つまり、女性は信じない相手に何とか論理を尽くして説明しようとしない。

    イメージ 3感情を露にして、「あなたは私のいう事を信じないのね?だったらもういい!」などとやるわけだ。いわれた側は、自分が相手を信じないことが相手の気分を害したと、そういう罪悪感に陥る。女同士だけではない。こんな言い方をする女はいくらでもいた。分らせよう、信じてもらおうと誠意を尽くす女は嘘をつかない性格であるが、言葉を信じないから怒るのは、根っからの嘘つき女が多い。
    そういう誠実・非誠実という見方でも相手を分別できる。「あなたは私のいう事を信じないのね?だったらもういい!」などとやられて、「ごめん、ごめん、そういうわけじゃないんだ。信じる。信じるから…」などと迎合するような男は、まず女の術中にはまるバカ男。自分はこう言われた時点で、一切取り合わないし無視する。表層言葉で男を簡単に信じ込ませようなど甘いわ。

    そういう言葉をいうと険悪になるから、黙って取り合わない。相手が、言葉を押し付けるのは無理、感情的になっても効き目はないと学習するか否か、もし、学習しない女でないならこんな女と付き合う価値はない。男社会で、言葉の強引な押し付けで通用するはずがないし、男は納得しなければ動かないというのを知らない女は多い。それを知ることが「男学」である。

    上のような女が感情的になったらすぐに詫びたり、謝ったりするような底の浅い男が好まれるなら、この世は終わりだろうな。女が強い社会が古代史からみても継続したためしがない。昨今は、女が強いといわれるのは、怒らすとうるさいから相手にしていない男もいるのではないかと思うが、脆弱マザコン男のような、本当に女を怖がっている男もいるんだろう。

    それが東北大地震のときに、妻子をほっぽらかして自分だけ逃げる、助かろうとする男の実態である。日常の生活では夫を意のままに虐げておいて、いざというときにこの失態と呆れるなら女も女よ。男は普段から持ち上げて威張らしておくから自覚も湧こうというもの、自分勝手なことばかりの言動なら、男だって自分勝手にそそくさと逃げるだろう。女もそれくらい分れよ。

    わが命を賭して妻子を…という責任感を持たせる普段の心がけが妻にあったか?そういう疑問も沸く。男の強さというのは、自らを厳しく律する強さであって、それは周囲から持てはやされる責任感として成り立つもの。生命的には男は弱いのだから、女が男を強くするといって過言でない。「頼もしいわ」、「男らしいわ」、「逞しいわ」といわれてその気になるのよ。

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    よく女の子は小さい時から、「女の子は考えがしっかりしてる、男より大人だ」などと言われるが、それもうなずける。しっかりしてないと本当に生きていけない、それくらいにだらしない男がいるのは事実。真に勇敢な男と言うのは、自分自身のことは最後に考えるものだ。愛という舞台に男を立たせて、バカらしい役を演じさせてはダメ。男を逞しくするのが女の役目。

    「大抵の男は意気地なしね、いざとなると。」、これは漱石の『行人』の中の言葉。東北地震の後に"震災離婚"というのは増えたのは、果たして男だけの責任であろうか?人に罪を擦り付けていい子ぶる女の性質を加味して考えたらいい。一つだけ言えるのは、「妻子のために死ねる何かを見つけていなかった」と、このことは間違いない。当然、妻にも責任があろう。

    漱石は「男はいざとなったときに意気地なし」というが、そうばかりとも言えない。いざ、という時の行動は平生の感謝や日常の要素が大きく関わるであろう。「笑いの効用」と題したが、笑いのある家庭に平和はある。「腹が立っても笑えるか?」といわれれば、上記したように笑える。己の腹立たしさを笑えばいい。何でこんなことで腹が立つのかと自らを笑うのだ。

    「自分で怒りを抑えるには、他人の怒る姿を静かに観察することだ」と、古代ローマの哲学者セネカもいうように、怒りを抑えることで相手をしかと観察できる。現に、逆上して暴言を吐いてる奴は、こちらのことが見えていないし、相手のことを考えるゆとりすらない。これでは発する言葉もトンチンカンになるだろうし、だから感情的になった女とは話す気が起きない。

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    感情的になっていても、相手が男なら無視すればこちらの真意を汲み取るが、女は汲み取るどころか、こっちが相手にしていなくてもしつこい、うるさい。だから、家から出たり、その場を立ち去る男が多い。自分のことしか思考しないから、相手の真意を汲み取るなどできないのだ。人間とは何か?の大命題にはいろいろな考えや定義があるのは知っている。

    が、人間も猿の仲間であるように、群れる動物である。交わりを求める動物だ。交わりに召された存在であるという定義にあげられよう。人間は一人では生きられないし、それができるのは仙人である。ふつうなら気が狂ってしまうといわれる。人間は絶えず対話をかわしながら生きている。言葉を有する人間にとって、会話は最も堅実なコミュニケーションであろう。

    が、対話とは単に人と話すに限らない。人間は自己と対話をし、隣人とも対話をする。宗教者なら神との対話もすると言うだろう。自己との対話は、絶えず心の中に何かを思いめぐらし、自己に語りかけながら、ある時はそれが良心の声に、ある時はそれが悪魔の囁きに聞こえることもある。良心の声に救われ、悪魔の囁きに打ちのめされ、いずれにしてもそれが人間だ。

    言葉で思考する人間と違って、言葉を持たない動物は本能で思考する。善も悪も本能によって決められる。人間は自己対話をするが、隣人対話をしない人多し。こんにちほど何かにつけて対話が必要な時代はない。対話の少ない時代には「阿吽の呼吸」といった。「目は口ほどに物を言う」と持てはやされた。それでは誤解も生むし、人間関係が円滑に行かない。

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    時代の様式が複雑になるにつれて対話の必要性が生まれた。のはいいが、どこか違う方向に進んでいる気がしないでもない。会話術、即ちコミュニケーションテクニックが体系化されている時代でもある。こう言われたら、こう返すのがいい。ああ言われたらどうするか?などが研究され、体系化されている時代である。言葉だけではない、何かにつけてマニュアル信仰の時代だ。

    これも人間の叡智が生んだものだが、テクニック(技術)が向上することで、必然的に失われるものがあるのを気づいていない人が多し。それは何か?結婚式のスピーチにしろ、なにやらの挨拶文などは、これ見よがしの名文、名言に彩られてはいるが、どこかで聞いたような言葉ばかり。ここまで言えば分かるだろう。失われたものは「心」である。お体裁が心を失わせた。

    背伸びをしてまで人からよく思われたい人間の心理を、「つま立つ者は立たず」と咎めたのは老子。「つま立つ」つまり、つま先で立つ=背伸びをする。言い換えれば、背伸びをしても、立てないしバランスを崩す。つま先で立ってもちゃんと立てるのはトウシューズを履くバレリーナである。「つま立つ者は立たず」とは、「分不相応の事をしても、立つ(成立)しない」という事。

    物事が体系化し、要領ばかりが先行するから、分不相応の人間が輩出される。勉強ができないし、好きでもないのに有名大学に受かったと喜んでいる。なぜ喜ぶか?高名な教授陣から高度な学問をできるからではない。有名大学の学歴が得れたという喜びであろう。親も子も…。そういう時代だから、勉強なんかするはずが無い。それが日本の大学生は世界一勉強しないの現実。

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    そもそも大学に行く目的が違う。それが日本の現状だ。偏差値50を70にする技術(ノウハウ)を持っている塾や予備校は、バカでも入れる大学を見つけて、うはうは笑いが止まらない。人間は死ぬまで成長していかねばならない。塾を出たら塾はない。無理やりにでも勉強をさせてくれるところなどない、だからしない。昨日の自分より、明日の自分になれるのか?

    自分のなるべく姿になるより、自分のなるべく自分に遠ざかっている人が多くないのか?そこに憂い、悩み、苦しみ、はたまた喜びはなければならない。他人と比較しての憂い、喜び、妬みなど何の意味も、何の必要もない。なのに、他人と比較することでしか自分を認識できないというのが、競争社会の申し子たちだ。こういう社会を日本人は作り上げ、今なお続いている。

    「笑いの効用」とは、人を蔑み、笑い飛ばすことではないが、そうしない事には自分がよく見えないのだろうか?自分が笑われる前に先んじて他人を笑うことで、自分が笑われるのを回避する。いや、回避できると思っている。「先んずれば人を制す」という慣用句が、「笑われる前に笑え」という効用に使われている。「死ね」といわれて動揺する子どもたち。

    「死ね」と言われたから「死にます」といって自殺した子どもたち。「死ねといってはいけません」とと真顔で注意する教師たち。これを過保護と笑ってはいけない時代である。「死ね」なんて言葉は近代に生まれた新しい言葉ではない。50年前、100年前、いやもっと前からあった。自分らが子どもの頃、「死ね」と言われたら逆にバカにしただろう。「お前はアホか!」と。

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    「人に『死ね』というならお前が先に死ねよ」と。人に死ねという奴がどんだけバカであるかを自ら公言してるようなものだが、今は違うのか?こんな脆弱な子どもがいるその原因は確実にある。昨日も記したように、「人は無知で生まれるがバカには生まれない」。親がバカにするのだろう。無理やり勉強させるから知恵が退化し、テストの点がよいバカに育てる。

    知恵とは、物事を記憶する能力の対語ではないのか?創造は記憶の対語ではないのか?子どもに知恵を授けたいなら、教科書を丸暗記させるようなバカな勉強を強い、100点取ったら喜ぶような親にならないことだ。というと怒られそうだから、そういう親ではなかったと、自分のこととしておこう。親殺しをするような子を、問題のある子と指摘する世間であろう。

    それは間違っていないのか?「問題の子ども」、「問題の人間」と考えるのではなく、「子どもの問題」、「人間の問題」と考えるべきだ。生まれつき「問題の人間」はいない。すべては「人間の問題」に収斂していく。事件の底流には必ずそれがある。「人間の問題」がある。「人間の問題」を考えることが、「問題の人間」を考えることでもある。

    「笑いの効用」という表題ではなくなったな。「人間の問題」がよかったか?まあいい、タイトルなんか…。そういえば、お隣の山口県(防府市)には、天下の奇祭「笑い講」というのがある。可笑しくもないのに笑っているのが、見ていて可笑しい。

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  • 04/19/15--18:12: 笑いで高揚

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    「微笑」とは笑いなのか?辞書には「ほほえむこと」とある。「ほほえみ」とは声を立てずにこりと笑うこと。モナリザのあの顔は笑っていることになる。本当に笑っているのか?怒ってはいない。悲しんではいない。喜んではない。何が原因で微笑んでいるのかわからない。が、笑っている。アランの『幸福論』には「12.微笑」のなかでこう書かれている。

    「不機嫌というものは、結果であると同じ程度に原因である。と私は言いたい。われわれの病気の大部分は、礼儀を忘れた結果であるとさえ考えたい。自分自身に対する人間のからだの暴行という意味である」。この言葉の意味を思索した人はいるだろう。いや、アランの『幸福論』を読んだ人は、書物から多くの言葉を思索したはずだ。それでこそ"読んだ"となる。

    その結果、幸福になったのか?なことはない。アランは、パリの名門校などフランス各地の高校で哲学の一教師として生涯を貫いた人物。本名はエミール・シャルチエ。一高校教師でありながら社会的な事件に対して積極的に発言し、政治活動や講演活動にも参加。新聞への寄稿も精力的に行い、連載した文章は膨大な数に及ぶ。『幸福論』は幸福をテーマに編纂された書。

    哲学書であるが、各章が短い文章で構成されているし、平易な言葉で書かれているからか、どこから読み始めても、「なるほど」と、自らの言動を振り返るきっかけになるような一行が含まれる。アランは「伝染」を重視しており、喜びも悲しみも、上機嫌も不機嫌も伝染するという。よって幸福とは、"上機嫌でいることがなにより大切"であるとアランは説く。

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    「これこそみんなの心を豊かにするし、まずは贈る人の心を豊かにする(後略)」、「贈り合うことによって増えて行く宝である」と言っている。そして、たとえばレストランのボーイに、「ひとこと、親切なことばを、心からの感謝のことばを言ってごらん」などと書いている。アランの父親は獣医師であった。よって職業上、動物の観察をする機会が多かった。

    動物は人間と同じ条件におかれ、人間と同じに体を虐使するのに、なぜか病気が少ないことを不思議がっていたという。アランはその疑問に次のような答えを出した。「動物には気分というもの――つまり、思惟によって維持される苛立ちとか疲れとか、倦怠とかがないからだ。人間は眠りたい時に眠れないと腹を立て、その苦悩のために返って眠れなくなる。

    また別の場合には、最悪のことを心配して、不吉な空想をもって不安状態を高ぶらせ、ますます悪くしてしまう」。アランはあらゆる不機嫌、あらゆる身近の不幸を軽減するためには、それらの原因を探せ、知れといっている。不幸を取り払うのではなく、あくまで軽減ということだ。病気は自らが作り出すモノもあるし、想像上の病気は本当の病気と同じである。

    乳飲み子は腹を立てて泣き喚くのではなく、泣き喚くことで腹を立てている。こんな大人がいたら、それは乳飲み子という他ない。思い出してみるといい。元兵庫県議会議員野々村竜太郎氏の「泣きギレ会見」だが、アレは一体なんだったのか?何であれほど泣き喚かねばならなかったのか?怒り感情と言うのは他人に対してだけでなく、自らに向けられることがある。

    イメージ 3野々村氏の場合はまさにそれ、選挙民から見捨てられる不安に怯え、他人の反応をうかがいながらも、疑惑に対する何ら正当な抗弁ができず、結果的に質問とは無関係なことを勝手に叫びながら号泣していた。「誰も自分の言い分など聞いてくれない」、「誰も自分の気持ちを分ってくれない」、「誰も自分を認めてくれない」といった不満が「逆ギレ」を起こした。
    しかも公人という立場上、怒りの矛先を選挙民にも周囲の誰にも向けられず、自分に向けてしまった。そういうお粗末極まりない事象である。彼は実際は泣いていなかったが、泣くに等しい情けない心情であったろうが、実は冷静で真面目人間だけに、本当に泣いたり怒ったりの演技ができない人である。自意識過剰の自己演技能力に長けた女なら見事に演じる。

    自分に全面的に非があるような場合であっても、あのような場で晒されることに怒りを示し、暴力的に責められることに反発し、自分が強い立場であるような錯覚を抱いたり、この世は自分の思い通りになるというような思い込みもあってか、「怒ればなんとかなる」という逆ギレ対応や、「泣けばなんとかなる」といった小保方手法的ヒロインを見せたりする。

    女は泣けば勝ったも同然というのを知っているから、ここぞというときは泣ける生き物である。古今、どれだけの男がその涙に騙されたことか…。女には男に分らぬ二面性があるが、それは怒りに対して露骨な逆ギレを見せる場合と、怒りに対して泣きの風物場面を見せる場合と、どちらも逆ギレであるが、後者はネコカブリ女、いい子ぶった女の手法として見られる。

    女の涙は演技的スイッチもあるが、怒りが内に爆発した時の防御とも言える。維新の党を除名になった上西小百合議員は、そういう我が侭に育ったせいか、あの態度はいかに幼児期から親にたて突いていたかが伺える。彼女はあの場で自分が最も強い女であったことを露骨に表していた。ちょっとした誤報に対しては、鬼の首でも取ったような誇った態度をみせていた。

    不祥事会見などで最もだいじなのは、冷静さと誠実さであろう。逆ギレなどはとんでもない。ちょっとした言葉じりを捉えてムキになったところで、自身の犯した罪が消えることはないのに、それをやるのが、女の喧嘩である。女の喧嘩は相手の言葉じりの取り合いであり、いかに相手を怒らせる汚い言葉を吐くかの応酬は、まるで漫才の掛け合いでしかない。

    イメージ 4ハナから辞職するつもりの野々村県議はともかく、辞職の気などさらさらない上西議員の対応は世論が何を意識し、そういう世論に対してどう対応をするのが誠実か、最善かを(演出であれ)講じなければならなかったが、あれだけ地を出すというのは、危機管理広報アドバイザーを雇わなかったのだろう。せいぜい弁護士と打ち合わせした程度という感じであった。
    我々が仕事や信用を失わないために、日々気をつけることは、他人の怒った姿を教訓にすることだろう。他人の怒った姿から学ぶことは多い。夫婦でも恋人でも他人と生活して感じることは、相手が不機嫌状態をこれ見よがしに見せつけること。自分に置き換えれば、不機嫌状態を相手に見せつけること。なぜそうなるのか?いや、なぜ(意図的に)そうするのか?

    ここでは人間の性格が大きく現れる。不機嫌な態度=自身の怒り感情である。そういう不快感情を露骨に表すことで、相手に自主的反省を求めているのだ。なにか嫌なことがあったわけでもないのに、勝手に不機嫌になる人間もいる。そばに気を使う人間がいると、相手のそういう態度が気になって仕方がない。そういう人はまた、自分の何が行けなかったを考え込む。

    こういう不快感情を露骨に表す人間は、甘えたガキである。子どもの頃からそうやって親に気を使わせることで発散していたのだろうが、恋人や配偶者は親ではないのだし、そんないちいち構ってられないのに、甘えん坊はそれが直らない。相手の露骨な不機嫌態度には、「さっきから見てると機嫌悪そうだが、こっちも気分悪いからちょっと場を離れさせてもらう」と言えばよい。

    あるいは、「機嫌が悪いなら収まるまで散歩でもしてきたらどうだ?」と相手に促す。どちらでもよいが、こんなことは最初から我慢をせずに言った方がいい。でないと、相手はクセになってしまうだろうから。他人に気を使わせ、自主的な反省を求める素振りだろうが、原因がわからないまったく不可解な状態でこんなことをやるのは、実は男に多いと聞く。

    自分も男だからやった事がある。が、それがバカげている、そんなことをやったところで実りはないと言うのが分る時期は来る。遅かれ速かれ来なきゃいけない。すぐにむくれる女がいた。自分の発言の何かが気に障ったようなときは、すぐにむくれて態度に出る。急に無口になる。そういう女も可愛くて、「あれ、急にむくれたけど、何が気に障ったんだ?」と聞く。

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    「何でもない」とごまかすが、「いや、原因を追及して詫びるところは詫びなきゃいかんし、だから言ってよ」などというと、「○○言われた」などという。「そっか、悪気はないから気にせんでな、でもふくれた顔もかわいいね」などといえば、その場は収まる。やはり、一緒にいる相手の仕草や動向には、それはちょっとした事で起こるだけに、素早く気づくこと。

    そうして素早く対応すること。女は男ほど陰険でないからほめれば収まるが、陰湿な男はほとほと女も苦労するんだろう。「ちょっとした事ですぐに機嫌が悪くなるから…」これは彼氏をもつ女の最も多い苦情であろう。要するに甘ちゃん男である。恋人なら、機嫌が思わしくない日は会うのを避けられるが、毎日同じ屋根の下に同居する夫婦は溜まったものじゃない。

    3年経ち、5年経ち、二人の関係も慣れてくると甘ちゃん男への対応も一応年季が入ることになる。「無視する」、「放っておく」、「出かける」などの対応を身につけるのが一般的だが、男がそういう状態のときはセックスするように仕向けるという女がいた。なるほど、これも一計であろう。男は単純だからな…。スリコギを撫でてやれば収まったりする。

    イメージ 6いずれにしても、不機嫌は幸せの元凶だ。「他人といると楽しい」これが人間の本来の姿である。「あなたはわたしを不幸にさせる存在」ではなく、「あなたはわたしを楽しませてくれる存在」。男はこうあるべきで、こうであれば必ずもてる。女は楽しい日常を望む生き物だからである。男がそうでないとは言えないが、べちゃくちゃ喋る女は煩わしい部分がある。

    男は思索の時間も必要である。自分はそう言うところはあえて最初に言っておく。じっと一人にしておく時間が男には必要なのだと。それを見て、そういう状況を判断できる女は明晰である。大事なのは互いの気遣いであろう。気遣いは疲れるという人間には、気遣いの大切さが分らないのであって、気遣いなしでどういう生活になるかをやってみればいいのよ。

    何ごとも逃げていては成長できないし、逃げないでいれば人は成長できる。物事を正面から取り組むことを避けることで、自身の神経的な自尊心を守ることはできるが、そんなことを続けているとだんだんと普通のことさえできなくなる。普通に働くとか、普通に家庭生活をするとか、そんなことさえも普通でなくなってしまう。避けようとさえすることになる。

    アランは言う。「気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す」。「ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである」。なるほど、というしかない。すべては自己超克であると。

    感情や気分だけで生きていると、悲しみや嫌なことに遭遇したとき、不幸だという思いや怒りの感情にすぐに溺れ、流されてしまう。そういった感傷的な気持ちに流されず、「少し経てばこの気持ちは収まる」、「いまは辛いけど明日は明るくなる」と、意志の力で楽観主義に立つ。幸福を得るには、それが大事であると、これはアランの『幸福論』の重要なポイントだ。

    『幸福論』の最後、「93.誓うべし」の冒頭はこうだ。「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意思によるものである」。思うだけではダメ、考えるだけではダメ、「我思うゆえに我あり」とデカルトは言ったが、あれは「あるもの」は意識しないと「ある」とはならない、という意味である。アランは実践を重視する。希望という思いは実践しなければ訪れない。

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    デカルトの言葉は、「自己の存在」について考えるということが、そのまま「自己の存在証明」になっている。同じように、アランの『幸福論』は、読んで幸福になるのではなく、自分を発見するためにである。他人を通して自分をみる。他人から自分を教わる。それが自分を知る端的な方法だ。「人の振りみて我が振り直せ」というが、他人への批判、他人から戴く批判が自分を作。

    他人の良い点を学んで身につけろというが、賢者ならそれも可能だ。いい所を真似るのは頭ではできても、実際は難しい。一日一善でさえ難しいように…。我々のような愚か者は、他人の不出来な部分を見て、「あんな人間にはなりたくないな」と批判した時点で、良い自分を目指していることになる。あとはそれを常に念頭において実践していくだけだ。

    誰だって悲観的になりやすい。それは気分の問題であるし、自然に起こることだ。自然に生きることを奨励する自分だが、意思という人為でよいものが得られるならばそれも人間の知恵である。無理して自然に逆らってまで幸福を追求することもないし、取立て努力を要さずとも運よく転がってくる幸福もある。親の七光りで地位や資産を得た者も幸福である。

    アランは言う。「どっちにころんでもいいという見物人の態度を決め込んで、ただドアを開いて幸福が入れるようにしているだけでは、入ってくるのは悲しみである」。別の訳はこうだ。「幸福の入るに任せて戸を開けておくだけで、公平な傍観者の態度に留まっているならば、入ってくるのは悲しみである」。与えられるより、積極的に動くことと言う。

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    すぐには報いられずとも、求めることに意味がある。アランの『幸福論』は、「人は笑うから幸せなのだ」であるる。「笑う門には福きたる」というが、笑うと免疫力が上がるというのは以前から言われているが、アメリカのウェスタン・ニューイングランド大学の研究によれば、楽しい映画を観た後は唾液中の免疫グロブリンAという免疫物質が多くなっていた。

    笑いによるさまざまな健康効果は、コメディ映画を観て笑うだけでもいい。楽しい映画を観るだけでなく、これから楽しいものが観られると期待をするだけでも、成長ホルモンやβ-エンドルフィンというホルモンが分泌される。成長ホルモンは子供にとっては成長を促すホルモンで、大人にとっては新陳代謝を促すなど若々しく健康な体を作るために重要なホルモン。

    β-エンドルフィンはハッピーホルモンとも呼ばれ、気分を高揚させたり多幸感をもたらせてくれます。笑いは若返りやリラックス効果なども得られる。また、声をだして笑うだけでなく、笑顔を作るだけでも効果は絶大。作り笑いをするだけでもセロトニンが分泌されて、心が穏やかになるのです。谷岡ヤスジに『笑う角にバカ』というタイトルがあるが意味不明。

    ヤスジの言い分によると、「『笑う角にバカ』は、『笑う門にバカ』と書くところを「角」と誤字ってしまったのだった。シカシ、今さら直すのもカッコ悪いので、三年間もトボケ切ってたのだった」。だそうだ。なるほど…、ならば「笑いの多い家庭はバカが多い」って意味か?お前が笑わせてるんだろが!?

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