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貴乃花親方に寄す 🈡

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貴乃花とて人間だ。神でもなければ絶対善の正義の使者でもない。だから、人は人にぞんざいであるべき。他人の悪なる行為を傍観すべきでないとはいうが、ヤクザに絡まれた人を助けるなどはできない。勇気は必要だが誰も自分がかわいい。ならば大事なことは他人の悪を見逃しはしても、自分がそれから学べばいいこと。人の事より自己の向上に寄与すればいいこと。

貴乃花親方の一連の行動は、ある面において大塩平八郎の如きである。協会相手に一歩も引かずの戦う姿勢は、「貴の乱」といわれもしたが、貴乃花の相撲協会への反旗は2010年、一門離脱で起こした理事選立候補に始まっている。相撲協会の『改革』を主張した立候補だけにマスコミ受けはよかったが、協会内部と貴乃花親方の戦いがここに始まったのは誰もが知るところ。

「大塩平八郎の乱」の直接動機は、天保年間の大凶作で市中に餓死者が続出し、もと与力職にあった大塩は新任の東町奉行に飢饉対策を進言するも一蹴された。しかも町奉行は大坂市内の米確保のための、「他所積制限令」を出しておきながら、幕府から江戸廻米の命を受けると直ちに、「江戸積勝手次第」を発令、窮民救済に当てるべき米を幕府へと差し出す醜態を行った。

これに激昂した大塩は天保8年2月19日、門弟を動員して挙兵した。民の窮乏を憂いての大塩の行動と、弟子の前途を憂いた貴乃花の行動の違いはあるが、思うにどちらも熟慮の行動とは言えず、思い立ったが吉日的な速攻性を共通とした。若き頃から厳格で不正を許さぬ性格の大塩はある時友人から、「君は人と会うときは刀を持ってはいけない」と注意されている。

それくらいに感情の起伏が激しい人物だったらしい。貴乃花の感情の起伏の激しさも元付け人が証言しており、一連の言動からも伝わってくる。大塩の行動の二大目的だった、「腐敗した権力者の打倒」と、「貧民救済」はどちらも果たし得ず全てが裏目に出た。貴乃花の行動によって、弟子たちは裏切り者の弟子という煽りから「汚名」という損害を受けたということになろう。

弟子に罪はないが、「親亀こけたら子亀はこける」もの。親方の短慮な行動が弟子たちに良いことは何もなかったのは大塩も同じだった。大塩や三島が傾倒するところの、「陽明学」というのは行動の「有効性」に背を向けることそのものを指す。三島はそうした大塩の、「かたくなな哲学」に共感したことから、大塩の行動の、「失敗」について何ら言及していない。

大塩44歳、三島45歳が享年齢で貴乃花は現在46歳。大塩、三島は憤死したが、生き甲斐を失った貴乃花が大塩や三島と同じ轍を踏むことはなかろう。生き甲斐とは情熱である。情熱あるところに生き甲斐はあり、情熱が途絶えれば生き甲斐を失う。貴乃花は今後どのような生き甲斐を糧にするのか。相撲道に求道者的片鱗を見せた貴乃花は相撲以外に情熱を見出せるか。

ただ生きるだけの人間もいれば、生き甲斐を重視する人間もいる。貴乃花は後者のタイプである。思うに彼の生き甲斐哲学とは、事の善悪についての一般的な解釈や法則に留まることではなく、積極果敢に行動に現すこと。自分も同じタイプなのでよく分かるし、行為に障害はつきものだ。問題はそれが失敗したときでなく、失敗しないために硬軟織り交ぜた努力だろう。

努力とは行動も必要だが知恵こそが重要で、貴乃花には硬軟の「軟」がなかった。こういう不器用なタイプは思いが貫徹できない場合、一切を投げ出すこともある。貴乃花は今、弟子を案じた物言いをするが全ては遅きに失すで、彼の度量不足が事態を招いたことは否定できない。理想を追求するのは男のロマンであるが、理想を追って会社を潰した経営者は少なくない。

弟子にも親がいる。結果的に一人相撲を取って去って行く貴乃花を弟子の親はどう見るか。斯くの事態になれば自分を信頼して子どもを預けてくれた親に顔向けできない。親方(経営者)の責任で弟子(社員)を路頭に迷わせることになったからには、弟子たちの親にも謝罪は必要である。理想家(ロマンチスト)が失脚するのは歴史が教える。彼らの多くは地道の対極にあった。

貴乃花親方の退職理由は種々あろうが、始まりは貴乃花自身の貴乃花一門離脱である。機を見て敏なり、協会による貴乃花への兵糧攻めが始まった。兵糧なくして部屋の維持はできない、運営もできない。協会は今年7月、すべての年寄が5つの一門への所属を義務とする決議をしたのは誰が見ても貴乃花締め出しの兵糧攻め作戦。後は無所属貴乃花に対して門を閉ざせばいい。

実際そのような形になり、貴乃花はどの一門にも入れなくなってしまった。「一兵卒でスタート」とはいったものの、力士の数に応じて支給される協会からの助成金が入らない形では部屋の存続は不可能である。財団法人としての閉鎖的な体質は法的にも問題ありと指摘する弁護士もいるが、協会は「親方個人に支給される運営補助金の使い道の透明化」を理由に挙げている。

「公益財団法人として個人の(使途)把握は難しい」とし、昨今の大相撲の不祥事も踏まえ、「協会としてガバナンス強化が問われている。一門にそのガバナンスの一端を担ってもらうため」(芝田山広報部長)と説明する。理屈はともかく、貴乃花親方と貴乃花部屋潰しといわれようが素知らぬ顔を貫く。「銭を貰うものが協会に弓を引くとは何事か!」の論理は明白である。

これで万策尽きたも同然だ。元兄弟子の貴闘力はいう。「理事にするための集合団体みたいなもん。そこに対して結束力とか、一部屋総当たり制になっているわけだから、こういうことはする必要ない。100人ぐらいの組織で統制が取れないってアホでしょ。内閣府から5つの一門にしなさいって通達が来ているとかいう話を聞いたが、そんなんあり得ないですよ」と指摘した。

協会は28日、「5つの一門全てが(貴乃花親方を)受け入れる用意があった」とメディアに伝えた。貴乃花が退職完了を待っての発言は卑怯の極みである。貴乃花問題で内閣府から呼び出しがかからぬようにとの思惑もあろうが、これはあんまりだ。人間ここまでされたら人格崩壊するだろう。貴乃花は生きていれるのか?総身に知恵なき連中はこれほど卑怯で卑劣だった。

平成の大横綱は土俵の上では活躍した。人気もあった。しかし、協会の役員として歩調が合わなかった。土俵の上なら歯向かう相手、反りの合わぬ相手は投げ飛ばせばいいが、スーツではそうもいかない。それでも平成の大横綱は出る杭であり続けようとした。遅かれ貴乃花時代は必ず来るのだから時期を待てばよかったのに、彼の若さとプライド、人気がそれをさせなかった。

彼は歴史から学ぶべきだった。特に家康から…。勝負師たる彼は言い訳はしないが愚痴は多い。自分の置かれた境遇に愚痴を言うのは、同じ立場・境遇の人間の悪口を言ってると同じで、好かれることも信頼されることもない。人気横綱故ゆえにメディア受けもよく、テレビで協会の内を暴露したのも失敗だった。世論を味方につけても協会内で孤立を加速させては生きていけない。

自由とは何か? ⑦

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カントの散歩は日課だったが、あの時代にスニーカーはない。革靴でゆったりのんびり汗もかかない程度に歩いたのだろう。歩く速さには人それぞれのテンポがある。音楽の速度表示アンダンテ(Andante)は、歩くくらいの速さをいう。語源は「andare」で、「行く」、「歩く」である。自分の歩く速さは速めのアレグロ(Allegro)で、ゆったり歩くとだらけて疲労が増す。疲れないために速く歩く。

ちょいと前にスニーカーを買った。一度に6足だから、シューズ的には大量買いになろう。まだ一度も履いてないのが数足あるのに、なぜ買ったのか?答えは買いたかったから買った。その奥にある無意識化されたものを想像すると、遊びをさらに楽しくするためか?ウォーキングもブログも、カントの散歩も、お遊びの日課。スポーツは身体を動かす遊びである。

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モチベーションをあげるためでもない、下がらないようにとの理由でもない。おニューのシューズを始めて履くときは気持ちがいい。気持ちのどこかがリフレッシュされた感がある。一年に一足償却するとして6年後の先取りだが、6年後も歩くのか?歩くだろう、そりゃ。年齢なんてのは単に記号(数字)、大事なのは気持ちと、気持ちにこたえられる肉体である。

まあ、人間は動けなくなったら終わりだ。動けなくて何が動物か。だから植物人間という。両杖、片杖でゆっくりと、ナマケモノのように歩く爺さんに出会うこともある。自分もあんなになるのか?などと考える。加齢で動作が鈍くなるのは、体力の低下が原因という。体力低下とは筋肉や関節の衰えをいう。さらには運動神経や平衡感覚機能も老化に伴い低下していく。

それがとっさの反応を鈍くすることで、転倒や事故に巻き込まれる危険性が高まる。階段は必ず駆け足で降りる(習性)ので、足がもつれたら大変なことになるなと、そんな想像をしながら、それでもスリルと刺激を楽しみながら速足で駆け降りる。用心はしても災いは突如おこる。その時は、「バカなことをしたな」と思うのだろう。それまで止められそうにない。

刺激とリスクは紙一重。階段というのは、立体的なので視覚が衰えてくると正確に段差を認識することが難しくなる。年寄りに階段は要注意で、用心深い人はエレベータなどでも手すりを持つ。階段に手すりがあるのは、高齢者と子ども用だろうか。未だ冒険少年気分だから、口うるさく何かと小言をいいそうな人もいようが、聞く気はない。痛い思いをしたら考える。

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冒険家といわれる人たちは、どこかでプツンと消息が途絶えたりする。ゆえに冒険家なのであって、「それ見たことか」と、家でじっとテレビを見ている人間が、いかなる言葉を吐き捨てようが冒険家批判の自己満足にである。冒険で命を落としても、それが冒険家の生涯なのだ。冒険心は男のロマンだから、やむにやまれぬもの…。冒険バカは男の甲斐性かも知れぬ。

レイモンド・チャンドラーの『さらば愛しき女よ』の世界観。チャンドラー作品を女性が手にするとも思えない。世の中には男オンリー小説、女オンリー小説というのは存在する。高校のとき、『アンネの日記』が女子に大ブームになった。興味があって借りて読んだが数ページで挫折した。返す時に、「悪いけど、自分には無理」と悪びれずに言ったのが懐かしい。

「愛と自由」というのをよく見かける。いかにも愛と自由がセットになっている印象だが、ここでいう自由とは何に対しての自由なのか?自由に人を愛せよということか?愛の束縛から逃れる自由なのか?自由だ、平等だ、愛だのと騒ぎ立てる前に、先ずは正しい意味を理解する必要がある。その上で、自由や恋愛について語る方が、自分的には面白いと思っている。

意味の理解など必要ないという人もいようが、それとて自由である。人は人の自由にいちゃもんつけて楽しむよりも、己の自由を行えばよい。愛について率直に語るなら、人を愛することが特段いいことだとは思っていない。自分が人を愛したいからするのであって、人を愛するのがいいことだから、「やる」ものでもなかろう。現実には良くないとされる愛もあるわけだ。

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そういう考えに浸るなら、普通の愛がよくて、不倫が悪いという見方にならない。愛は善悪を超えたものであり、善悪を定義するなら不倫に刑罰があってしかりである。すべてはモラルの問題であり、モラルとは個々の価値観である以上、他人のモラルに口出しする人間は暇人か、聖職者か、悪口好きか、道徳気取りのどれかである。自分はどれにも属していたくはない。

仮に暇人の部類であっても、「つまらぬ暇人」などにはなりたくない。自堕落な人間についても同じ考えでいる。自堕落な生活をする人は自堕落な生活をすればいい。それが自分に合っていてそれをしたいなら、人からとやかく言われることもない。ただし、自堕落でいたくないのに自堕落になるというなら、自己と格闘することだ。他人は自分に何の力にもなれないのだから…

それが分かれば依存もしない。禁酒・禁煙と同様、自己との格闘、自己の努力である。「井戸端会議」という面白い言葉がある。近頃は井戸でたむろする女性はいないが、同じことがテレビのワイドショーである。ゲストやコメンテーターらが、井戸端会議をし、それを視聴者がみて喜んでいる。参加してる気分なのだろう。井戸端会議が好きなものはやればいい、みればいい。

日々自らを鍛えたい人は鍛えればいいが、自堕落な人間を卑下する必要はどこにもない。自分を磨けばいいのであって、人を卑下して自分を磨くことにはならない。むしろ、自分を貶めていると思われる。人を愛することがよいと、そのことに理由をつけるなら、人を愛することは何より自分を磨くことになるからだ。そう考えると、昔と今とでは人の愛し方が違っている。

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つまり自分の磨き方が違ってきている。人を愛することで女性が、その人のために美味しい料理を作り、自らでセーターを編むなどは、珍しい光景ではなかった。それは何ら努力も必要とせず、何の厳しさもなく、むしろ喜びであった。それをよき時代と思うが、だからといって昨今の即物時代を非難することもない。時代に合った価値観の中で人は生きているのだ。

一人暮らしをしていたころの思い出だが、付き合っていた女が住み込みだった。アパートは4畳半一間、風呂もキッチンも洗濯機もない。下着類はタライで洗い、それ以外はクリーニング、コインランドローなどない。彼女は週に一度自分のアパートから一週間分の洗濯物を持ち帰り、翌週届けてくれた。きれいにたたまれた洗濯物はホワイトワンダフルの香りが漂っていた。

「わたし、ホワイトワンダフル好きなの」という彼女に洗剤なんか何でもいいの自分は女らしさをみた。自分が命じ、彼女が渋々やったのではない。彼女はそれがしたかったようで、当時自分にその考えはなかった。楽だし、便利だし、さほど感謝の気持ちもなく、そういう彼女がいながら女遊びをしていた。愛が何たるかなど、分かるはずもない22歳の若造だった。

勤め先の主人に男物の下着がバレて注意を受けたが、自分には言わず彼女はそのことに、「何が悪い!」と反抗した。とどのつまりは洗濯物の主である自分まで呼び出されるというなんともくだらない時代である。「他人の分を洗うことで余計な水道代がかかる」と、そんなことしか言うことないのかだった。彼女が言うことを聞かないからと、自分に腹を立てているのだ。

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彼女は頑強だった。それはその時も感じたが、大人になって当時を回想するに、とてつもない自分への愛の強さと感じた。それほど愛された理由は分からないが、自分が支払うデート費用の、彼女自身の支払い分をこっそり貯金箱にいれるそんな女だった。「愛は裏切るもの」、22歳のバカ男は人の真心さえ踏み台にして大人になっていくのか。Farewell My Lovely…

自由とは何か? ⑧

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本年度のノーベル医学生理学賞が京都大の本庶佑特別教授(76)に決まった。本庶氏の研究があらたながん治療を見つけた。従来型のがん治療は従来、外科手術、放射線、抗がん剤が中心だったが、「免疫でがんを治す」という第4の道をひらいた。1日の会見で本庶氏は、「回復した患者から喜びの声を聞くと、自分の研究が意味があったとうれしく思う」などと語った。

またしても京大からの受賞者で、むか~し、京大が東大に比べて自由な校風である理由の一つに、選択科目が必修科目より多いと聞いたことがある。それは今も変わっていないのだろうか?「東大より京大にノーベル賞が多い理由」で検索するといろいろ記されている。中でも今も昔も変わらぬ権威性として、「四行教授」のステータスが高いという信じがたい現状というくだり。

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                 座右の銘は、 「教科書を簡単に信じず、自分の目で…」


四行教授とは履歴書に、「東京大学卒、東大助手、東大助教授、東大教授」の四行しかない純粋培養の道を歩んだ人のことだ。これが最も由緒正しいとされている。何の由緒か?ステータスのそれである。東大では、研究や教育の現場で、「ときめく」経験に出会うことが、世界の一流大学に比べるとはるかに少ない。理由は東大型の土壌にどっぷりつかっているからだ。

そのことが多かれ少なかれ、「権威のクローン」になってしまう。根と幹はどんどん太くなって、効率的にたくさんの論文など果実が収穫できるようにはなっても、魅力溢れる新しい芽、そこからの新しい樹とその果実をもたらすことはない。学校の目的、教育現場における最終的な目的は人づくりであるが、東大においては権威作りこそが主眼というように聞こえてしまう。

東大には塾で偏差値という栄達を掲げた秀才ばかりが集まるところ。言い換えるなら、東大に入るための勉強は、「名人級」であるが、果たしてそれが学問なのか?というと疑問符がつく。料理の名人は、「味の素」は絶対に使わないというが、東大というところは、権威づけの元だからそれを笠に着ていれば、後はやりたい放題。それが東大出身者の、「旨味の素」かも知れない。

受験秀才の問題点は以前から抱いていた。彼らは知識の習得は早いし、暗記力も優れている。が、新しいことにチャレンジしたり、何かにこだわる執着心は少ないようだ。結局彼らが一番得意なことは、教わったことを忠実に覚えてどこかに吐き出すだけで、オリジナリティーがまるでない。オリジナリティーを産む元になるのは子ども時代の感動やとことん何かをやった経験である。

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偏差値を競い合う受験教育、こんなバカげたことをしなくてもいい世の中にしなくてはいけない。そんなことは誰でも分かっていたのに、受験産業が自滅衰退するような改革は誰もやらない。やればやったで大騒ぎで批判する。潜在力ある子どもを中学受験は潰している。学歴主義、偏差値主義が染みついた子どもたちは、彼らの貴重な黄金期である子ども時代を親が奪っている。

物理学の世界に天才的頭脳はいらない。自由な発想と地道な努力があればいいという。誰もが認める天才アルベルト・アインシュタインの脳は、死後に家族の許可なく彼の体から取り出され、トーマス・ハーベイ博士によって解剖され、40年間もの長きを研究に使われた。その後は分割されて研究者たちに分けられたが、一般人の脳とくらべて3つの点が大きく違っていたという。

 ①右脳と左脳の間にあるミゾが浅い。
 ②一般人の脳の重量1400gにくらべて軽量(1250g)だった。
 ③グリア細胞(神経細胞に酸素や栄養を運搬する)が多い。

これらが、アインシュタインを天才にしたのではといわれている。意外なのは脳の重量で、以前は大きくて重い方がよいとされていたが、関係なかったようだ。彼は学校の成績は最悪の落ちこぼれレベルで、Appleのジョブズも成績は悲惨だった。教師⇒生徒への画一的な知識の伝達という勉強が、如何につまらないものかを示すが、学校の成績が良いとなぜ親は喜ぶのか?

自分にとってそこは素朴な疑問であるが、頭の良いという基準が自分と違うのだろう。死後に脳を取り出されるなど本人も思ってみなかったろうが、「天才とは努力をする凡人」という言葉を残しているのをみても、天才は自分を天才とは思わないようだ。彼らは普通に考えているだけだろうから…。世に天才といわれる人は多いが、努力をして何かを成し得た人たちであろう。

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将棋の藤井聡太くんも天才といわれるが、彼の子ども時分のノートにぎっしり書き込まれたものをみると、5歳の子がここまで何かに入れ込むことができるそのことが凄いと思わされる。彼が幼児期から指したこれまでの対局のすべてが彼にとって肥やしになっているのだろう。同じことは、過去に読んだ本、出合った異性、話し込んだ友人たちの一切が肥やしと思っている。

何かに挑戦すれば必ず失敗もし挫折もする。その経験のないものは行動しなかったということか?失敗を当然とすれば挑戦を怖れることはなかろうに。行動しない人間の特徴は、失敗自体を怖れるというより、失敗をするのではと…、そのことを怖れるのが分かる。これも自分からみると不思議な人間である。つまらん自尊心や見栄や、自身に過保護なにんげんであろう。

とかく自由というのは、自由な精神をいう。哲学用語で「自由精神」といえば、ニーチェの『人間的な、あまりに人間的な』で述べているように、あらゆる価値の転倒を実現するためには、それにふさわしい精神が必要でそれを、「自由精神」と呼んでいる。思考していて何が面白いかといえば、99人が、「No!」ということに対して、「Yes」といえる人間でいること。

これこそが「価値の転倒」であろう。人によってはへそ曲がりなどというが、言葉は何でもいい。自分自身が何事にも囚われない、束縛を受けない自由な精神を持っていることが楽しいのである。自由な精神はまた、「非常識」などといわれるが、そういうつまらんことをいう人間は、「生」を楽しんでいるのだろうか?あるいは真っ当な、「生」を望んでいるのかも知れない。

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「真っ当な」という言葉はに面白いニュアンスがある。 正統な ・ 適正な ・ 適した ・ 尤もな ・ 適切な ・ 適当な ・ 正しい ・ 然るべき ・ 当然な、などの多くの同義語があり、沢山あってよかったね~、といいたいが、いずれも自由な精神とはかけ離れている。分かりやすくいえば、「ちゃんとした」である。思えば、「ちゃんとした」という言葉は、母親の大好物だった。

頭の中にこびりついた、「親の戯言」というのはいくつになっても残っている。「戯言」でなく「名言」や、「直言」ならまだしもだが、「戯言」であれ、それをくだらな」と思う限りにおいて自分にプラスになる。親など大した生き物ではないなら、「逆もまた真なり」という、批判精神、反抗精神に照らし、それが重要である。ダメをダメと理解するのは妄信より格段に頭の良さではないか。

自由とは何か? ⑨

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「真面目でちゃんとした人間になれ」は母の常套句。100回くらいは言われたろう。いろんな反論をしたが、「ちゃんとした不真面目になる」と返すのがお気に入りだった。しつこい母は何度も同じ言葉を繰り返すが、負けずに「ちゃんした不真面目になるといったろ?」としつこく返す。後年、加藤諦三の著書に、「ちゃんとした不まじめ」という表題をみつけて笑ってしまう。

「若者の哲学」という書籍で昭和46年刊行である。小学生の頃の自分の言葉を加藤氏が使っていたので、驚きもし、親近感を覚えた。同著は自分の座右の書で、背表紙が擦り切れてしまっている。本棚にあってもどこか惨めに思え、数年前に同じものを古書店で買った。同名の書籍を間違って買ったことはあるが、意識して2冊買ったのは後にも先にもこれが初めてだった。

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同著には、「不真面目」が、「不まじめ」となっているが、言葉で発している時はどちらというものでもない。ここで加藤氏は、「ちゃんとした」という言葉は非常に大切だと述べている。加藤氏のユニークさ、リベラルさは、大人から見てちゃんとしていなくとも、自分が生きる糧を自身で得ながら自分の好きなことをやって生きていれば、それもちゃんとした人生であると述べる。

「ちゃんとした」は一般的に社会的脱落や社会的承認の言葉だからか、「あの人はちゃんとした人」、「あの人はちゃんとしていない」などの言い方をする。「結婚するならちゃんとした人を選びなさい」と親はいい、本人も、「ちゃんとした人がいい」という。加藤氏がいうまでもなく、「ちゃんとした」の言葉を好む人は多い。が、天邪鬼な自分はこの言葉が好きでない。

「ちゃんとした」は世間評価の言葉であるなら、「ちゃんと」の意味がよく分からない。付き合い始めに、「あなたって真面目なの?」と聞く女性がいる。自分が真面目かどうかは人が判断することだから、「どういうのが真面目か自分じゃ分からない。人の見方だろ?」と返す。反対に女性に、「君って真面目なのか?」と聞くとほとんどの女が、「まじめじゃない」と返す。

「まじめです」と返した女がいた記憶はない。男から見て100%超真面目風な子ですら、「まじめじゃないです」と返す。この返答を不思議に思っていたが、「まじめな子は男に嫌われる?」という判断からの自己アピールではと感じていた。スキを見せて、「わたしを口説いて」と言いたげである。女の子同士の会話で、「まじめは嫌われる」というのを聞いたことがある。

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それとも本心なのか?言葉の裏にある心を読むのは面白い。これこそが恋愛のエッセンス。自由人たる自分はドン・キホーテ的な人間である。自らに正直に忠実になろうと理想を追い求め、やや強い意志と精神力によって自らを抑え、人の噂や風評や思惑に惑わされることもない。孤高にして高潔、孤独に耐え、世の不正を憎み、断固として信念を貫き愛する者のために戦う。

と、どこまで自分がキホーテ的かはともかく、自由というのは自分が何を望んでいるかによって決まる。自由の根源は自分の思いであり、自分の意志であって自分の欲望や感情ではない。ゆえにか何も望まない人間に自由はない。しかるに自由主義とは、騎士道精神や武士道に通じる。体を鍛え、心を鍛える事によって自由になる。心身の鍛練こそが自由への道であろう。

健全な精神は、健康な肉体に宿るから、病気がちであっては不自由そのものである。自由人を協調性のない一匹狼ごときに言われるがそうではない。腹を割り、立て膝付き合わせて協調を望む人間がいないだけであって、自身の意志に反する事を強要されれば断固不服従であるが、自らが信じる者や愛する者に対しては率先して強い忠誠心を示すなどが特徴としてある。

自由もそれが日常的なら特段自由に感謝することもなくなる。親の鎖につながれている時に求めた自由が、それが満たされることで感激が遠のいていく。愛も同じことがいえる。人間はたとえどんなに愛されても、どれほど献身的な愛に尽くされたとしても、二人の愛ある関係を永続的に保つことは難しい。「愛されて結婚するのが幸せ」という女は結構な数いるだろう。

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愛とは一人の相手を死ぬまで愛し抜くことをいうのだろうか…、どうなのか?もしそうであるなら、男という動物が一人の女を永続的に愛し抜くほど誠実に作られているだろうか?浮気はしないという男が、「嫁が怖いから」というのをどれほど聞いたことか。もし、男が一人の女だけを愛し続けたとしても、女は必ずやその愛に慣れるだろう。愛も自由も慣れに対処が必要。

真面目で律儀で一途な夫であっても、浮気心を抑えられぬ女性も増えた近頃である。どっちもどっち、男も女もたとえどのような深い愛情を得たとしても、そのことによって救われることはない。「愛される」という受動的な態度は、いかに激しく愛されても満たされることはない。ゆえに人間は、愛することでしか救われない。人を愛するという自己満足感は何をも超越する。

その愛が虚妄でないとどうして言えるだろう。口では「愛してる」といってみても、それが本心であるかないか本人には分かっている。思い込みで気づかぬ場合もある。「自己陶酔」というのは特殊ではなく、自分が自分に酔っている人はいくらでもいる。時に人間は自分の言葉に酔っていたと、「はっ!」と気づくことがある。その時のいいようのない寒い気持ち…、それをしらけるという。

しらけるというのは、自分の世界だけに閉じこもっていたのが暴かれたときに起こる心情だ。自分の世界だけに生きている時、そこに一瞬といえ、自分の世界とまったく関係のないものが入り込んできたとき、人間はしらけることになる。愛されていると信じていた女性がある時、「あなたのこと好きじゃなかった。好きな人は他にいました。」といわて、人間はどんなにしらけるだろう。

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いわれたことはないが、露骨にそんな言い方をされた友人がいた。彼はしらけるどころか、それはそれは浮かばれないくらいにショックだった。「なんでそんな言い方をしたのか?」自分は女の心理を考えた。そんな言い方せずとも、愛を終わらせることはできたろうが、あえてそんな言い方をしたのは、そのことで男がどんなに落ち込むのかを見たかったのだろう。

ヒドイ女である。「ヒドイ」以外にも言葉は浮かぶが、どれにしたところでヒドイ女に違いはない。去るのは自由、去っていく自由はあるにしても、去っていく相手に唾を吐きかける必要がどこにある?彼はその女に尽くした男である。少しばかり頼りなさはあっても一心に尽くしていた。だから、相手からも愛されていると思っていた。それがある日を境に世界が一変した。

二人は週末同棲を楽しんでいた。彼のアパートに彼女が来、彼は彼女の居場所を知らないという。「聞かないで」といわれたので律儀に守っていた。別れを告げられたアパートには彼女の生活用品の一切が消えていた。昨日とはまるで変った部屋で彼は一人、恋の別離を泣いていたのだろうか。「人は誰も自由。彼女の自由を受け入れろ」。慰めにもならぬ言葉を彼にいった。

自由とは何か?⑩

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昨日書いた友人の失恋は、仲のよかった奴だけに自分も辛かった。明らかに人を故意に傷つけようとする女は、何の恨みがあるわけないのに、人をもてあそんで楽しんでいたのだろう。基本的に人がどのように生きようと、ふるまおうと、誰にも干渉されない自由はある。ヒドイ女といったが、人の自由にもヒドイ行為はある。彼女に欠けていたものは良心ではないか。

良心がなにかを考えたことがあるか?「ない!」。ならば今考えてみる。良心とは単純に良い心と書くが、良心は必要か必要でないかを問えば、良心の意味を正確に分からぬ者でさえ、「良心は必要」というだろう。では、なぜ良心が必要かを考えると、社会では多くの人たちと接するからと答えたい。これはおそらく正しい。もし、無人島で一人生活するなら良心はいらない。

つまり良心は社会生活と関係があるようだ。だんだんと良心の意味も分かってきたし、良心が社会の産物であるのも分かってきた。どうやら良心とは作為的なものではなく本能であるように思う。なぜそう思うのか?どうやら良心とは、「社会の意志に従おうとする本能的な行為」とまとめたくなった。社会の意志とはなにか?神の意志と同じように声に聴くことのできない。

「公共の福祉」という言葉があるが、それこそが社会の意志、社会の要請といえそうだ。さらには社会秩序の維持とか、いろいろな考えがあろう。裁判所に呼ばれた証人がこう宣誓する。「良心に従い、何事も偽らず、何事も付け加えぬことを誓います」。なるほど、良心に従えばそういうことができるのだ。では、なぜ良心に従うのか?おそらくこの場合は罪に咎められるから?

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「う~む…」。罪に咎められなかったら良心に従わないこともあり得る気がする。良心というのも、そうそう簡単でもなさそうだ。本能の良心もあれば作られる良心もある。身近な例で考えてみる。道で財布を拾った。中を見ると4~5万はある。さて、警察に届けるか中身を戴くか?本能的良心所有者は迷うことなく警察へ。どうするか迷う人は良心と悪い心とが戦う。

その場合、良心が勝てば警察へ。良心のかけらもない人は、迷うことなくぽっぽに入れる。概ねこの三態であろう。いうまでもない、社会の意志(要請)としては、警察へとなる。なぜかは、困っている人がいるだろうからだ。もし、自分が落とした場合も、届けて欲しいだろう。良心というのは、そうしたお互い様の心から育まれ、身につくこともあるだろう。

良い社会とは、社会の意志とは、それらの要請であり実現である。本能的に良心を所有している人、後天的に身につけた人はともかく、良心の呵責に悩む人は良心に従うことは大なり小なり苦痛がともなう。だからこそ、良心に従いぬく行動は、その苦痛以上の喜びがあろうが、目先の苦痛に怖気ては良心に負けてしまう。良心に従いきれなかった者の堕ち行く先はどこだろう。

良心は社会の無言の要請であるが、基本的に良心は自由で強制されるものではない。自由には現象もあれば本質もある。「ああ、ウナギが食べたい」と思ったらすぐに食べれる人は自由である。海外旅行に行きたいと思えば躊躇なく行ける人は自由であるが、それらは自由の現象であって、本質的な自由ではない。金さえあれば自由が堪能できる境遇というのは現象である。

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ならば自由の本質、幸福の本質とは何?「現象とは、事物の表面に現れた外的な事実、本質とは、現象の原因を作りなす事物や事柄の内的なもの」とヘーゲルは捉えた。言い換えるなら、本質とは現象の背後に隠された、客観的実在の内的な側面のこと。カントも本質を「物自体」とし、「物自体」は絶対に認識不可能であり、人間が認識できるのは現象だけと主張しました。

「物自体」というのはカントの個人的な仮説であり、想像であるが、カントのいう現象とは、主観の形式によって構成されるもの。これは分かりやすい。さらに後年サルトルが、「実存は本質に先立つ」とするなど、哲学は難しいが、頭が哲学的になると別の「生」の楽しみも湧く。つまり、「分かる」とは、違うということ、同じということの把握であり、そこが面白い。

自由とは、幸福とは、欲望とは、学問とは、教養とは、お金とは、青春とは、遊びとは、死とは、宗教とは、夫婦とは、恋愛とは、親子とは・・・、数限りない疑問のうねりの中で少しでも何かを分かろう、現象と本質の違いを探ろうとするのも哲学である。難しい哲学もあるが、日常的な身近な哲学もある。人間関係についても相手に対して毅然と構えることができれば傷つかない。

こちらが毅然とし、それで相手が傷つくのは仕方がない。すぐに汚い言葉や暴言を吐く者は頭の程度の低さを現している。そんな言葉に頼らずとも、人を追い払ったり分からせることは出来よう。「一」をいって「十」を知る者、「五」や「十」が必要な者、「十」をいえども「一」の理解に及ばぬ者、いろいろだから世の中楽しい。人間関係とはとりあえず協調、それから種々判断をする。

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若さはバカさ。「バカやったな~」、それが若さ。過ぎ去って分かることで当時は分からない。何かにつけて未熟としかいいようがない、それが若さ。平気で相手の自尊心をブチ壊す物言いをした。それも若さ。今はそんな気になれない。相手が自分に何をいおうが、どう評価しようが屁でもないし、それを楽しめる。他人の批判を自己啓発とした若き日は去り、今は「従心所欲」の日々…

最近あったことで、「自分は真実しか言わない(書かない)」、「自分のいうことは正しい」と、こういう奴はうじゃうじゃいた。そんな言い方に若い時なら、「自分が真実ってバカかお前は?自分で取材したわけでもない、何かの受け売りだろ?気取ったこといってんじゃないよ!」などと、相手を傷つけるというより無知さバカさに呆れ、強い口調で相手を傷つけたりはあった。

若さとは、エネルギッシュで率直でそれでよかった。土俵際まで追い詰められてうっちゃるより、速攻のけたぐりで相手を葬る快感があった。人は自尊心をもって生きているが、相手の自尊心を潰して何の得もない。「金持ち喧嘩せず」、「負けるが勝ち」の言葉の意味が理解できる年代になった。ホリエモンもいつしかそうなろう。人間は傲慢だから自分がエライと思ううちはバカだろう。

将棋の相手に大差で勝っていい気分…、それもくだらない。それで相手から憎まれることはあっても幸せになることはない。「緩める」というと語弊があるが、余裕があるなら故意に接戦に持ち込める。「幕末の剣聖」と呼ばれた男谷精一郎は、竹刀での三本勝負において必ず二本目は負けたという。以前はこれを男の優しさと思っていたが、近年は心の余裕、ゆとりと考えるようになった。

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人にやさしい生き方もいいが、それはそれで相手に、「~してやっている感」も出よう。ならば、「ゆとり」の心の方が、生き方的には自然なふるまいではないか。目指すところは、「やさしい人」ではなく、「ゆとりある人」。その方が、「自由」により近い生き方に思える。作為のないやさしさ、それが、「ゆとり」であって、どうやって身につけるかの試行錯誤である。

光陰は矢の如し。過ぎた時間のなんという速さか。若き日には湯水のように溢れかえった命であるが、周囲からいろいろ訃報も聞こえてくるようになった。どう生きてもあと数年と思うなら、生かされるというより、一層主体的にいきるべきかと。特段、理想の人生などなかったが、ここに至れば然したる不満もない。過ぎたもの一切が今日まで、そして明日からという詩が過る。

自由とは何か? 🈡

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「強いる」というのが好きでない。よって強いることはまずしない。何かを継続的に行う場合においても、自らを強いることがないように工夫をする。自分なりの工夫とは楽しむことが多い。「強いる」では続かないのが分かっているのだろう。そのことは全般的な自身の生き方(人生)でもある。自分に限らず、他人を強いるのも他人からから強いられるのも好きではない。

そうはいっても社会にはルールがある以上、他人から強いられることがないことはいいきれない。学校や勤め先には規則があって、教師や上司から命令を強いられたことを忘れたわけではない。親からもいろいろ強いられたが、それが嫌だったということ。何かにつけて文句たらたら言いながら強いられたことをやる人間がいるが、そういう人間も無様で好きではなかった。

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社会の一員として多くの規則や命令に囲まれて生きるのが人間だ。せねばならぬことは、文句をいわずやるが、それを不自由な存在とは思わない。自分が言いたいのは、人間関係上の無用な強制であって公的なことではない。「付き合い」と称する暗黙の強制であるのは誰もが感じている。「付き合いを絶対に断らない人」が、「いい人」として称賛されるが、実は本人は辛い。

人から嫌われても幸せな人はいる。人から「いい人」と称賛されても不幸な人はいる。これが社会の根本的な面白さであろう。人から嫌われたくないから、ついついいい人を演じる人を奉仕者と自分はみる。人から好かれること、嫌われることが、その人の心にどう影響するかは、個々で違う。嫌われることで「自分はダメ」と思う人間もうれば、そんな風に感じない者もいる。

後者の自分は、「しょうがないね。人間には好き嫌いも合う合わないもある」と考える。これが当たり前で、無理に繕ったり無理をしたりする必要を感じない。自然に自分を出して生きて好かれないならしょーがあるめ~。長いことこれでやってきた。好かれることも多かったから、自分に無理をすることも、偽る必要も感じない。友達の多さなんか自慢することでもない。

周囲に100人いて、10人に好意を持たれれば十分だ。5人でもいい、極端な話、一人でも…。その方が無用な付き合いをしなくて済む。ネットと現実は違うようで、案外似ている。ネットで多くの友達を作ったはいいが、自分の都合でブログの閉鎖挨拶を見ると、謝罪・謝罪・謝罪である。あれは本当に相手に悪いと思っているんだろう。相手はそこまで思ってないのではないか?

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なのにあれほど平謝りされると滑稽に感じるのでは?部外者でも滑稽に思う。友達を作りたかったのも自分なら、捨てる(切る)のも自分である。「自分」のところに「自由」の言葉を入れてみるといい。あれを、「良心の呵責」というのだろう。自分は多くの人に好かれている、支持されていると思うから呵責なのだ。結局のところ、人間の良心とは何を成し得るかである。

「良心」とは、自分の存在への一つの確かめに思える。「澄みきった良心ほどやわらかな枕はない」というが、言葉の意味は、「皆と同じようにしていることは安らかであり、子どものころから教えられたとおりにしているのが、人間的で楽ですよ」ということ。良心とは普遍的・永久的なものではなく、単に学習されたものに過ぎないというのを本質的に理解するとどうなる?

おそらく、社会的に「良心的」といわれている行為だけをやって、得意になることはないだろう。それが羞恥に思えるからだ。何かの行動をすることは、「非良心的」であることは度々ある。考えて考えて考え抜き、悩みに悩み抜き、自分の前には行動しかないと分かった時、人は行動すべきである。たとえそれが非良心的なものであったとしても、やはり自分を優先する。

人気ブロガーがブログを止めるとき、申し訳ない気持ちになるのが良心だろう。閉鎖(行動)を選んだ以上、そんなにいい子ぶらなくて、人気の飲食店の閉店挨拶に張り出し程度でいいと思うし、そんなにおもねる必要もないが、これも人の性格だ。しつこい勧誘電話に自分は無言でガチャンする。すぐに、「なんで切るんですか?」と再コールしてくるバカがたまにいる。

アタマに来てるんだろうが自分はいう。「勝手にかけてきたんだろ?勝手に切ってどこが悪い?」。これで相手もガチャン。何も言えないからだろう。うっとうしい勧誘電話に良心なんか見せる必要ない。たとえ好まざる相手であろうと、行動することは非良心的である見本のような事象。我々は決断しなければつまらぬ時間に流されていく。だから、決断は大事。

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人が良心的に行動していたら、遂に人間は何の行動もできなくなる。行動するということは、どこかで誰かの意に背くことになる。である以上、そこまで良心的に考えないことだ。憲法19条の条文は、「思想及び良心の自由」を侵してはならない」としている。ここにいう「良心」とは、カントのいう道徳哲学における「良心」という概念とは別のももであろう。

良心の自由と人間の心理構造においては、様々な裁判判例がある。人間の感覚というのがいい加減であるのは、外国人の捕鯨禁止やイルカの保護に感じられた。彼らは生の肉を平気で食べるくせに、日本人漁師が摂った魚をその場で食べるのをゾッとするという。そして、日本人は残酷だという。人間に自由への欲求はあっても、どこまで自由になり切れるのかと定義した。

遂げられぬ恋に苦しんだ友人の心は発狂寸前だった。平静を装っていた不自然さは手に取るようであった。アカの他人を捨てるなど、捨てる側には何でもない。親を捨てる女性の手紙はこう書かれていた。「私は自由になりたい。それがどんなに忘恩の行為であり、非難されるべきものであっても、私はすべてを無視して自由になりたい。父からも母からも、そして自分からも…」

この心情は痛いほど理解できる。これも行動が非良心的である事例だ。あらゆるものから自由になり、最終的には自分からも自分を自由にしたい。憎み、傷つき、苦しみ、他人を意識し、さまざまな欲望を持つ自分からも解放されたい。誰でもそんな風に思うのではなかろうか。自由とは環境である。人間は植物とちがって、自然的環境の他に社会的環境がある。


これらの環境にがんじがらめにされて生きている。そうした環境にがんじがらめにされない方法、それを自由という。自由は目的ではなく生きるための手段である。だから、自由を得ると同時に自己も獲得せねばならない。さらに、自由とは何か?周り回って、「希望」かも知れない。「希望」とは何か?自らを信じること。好きだった『希望』という曲の歌詞が流れる。

かつての恋人を探しに旅を継いでいく女を歌ったもの。あり得ない設定のようだが、男の描く女の理想を歌詞にするとこうなる。あなたの名を「希望」とすれば、永遠に旅はつづけられるという。この女は不幸に見えるが本人はこれがが幸せなのだろう。努力とか、辛抱とか、継続、鍛錬、いろいろな要素や言葉はあるが、全てをくくるものが希望なのかと。

若者とは何か?

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◎若者は無知である

「無知の知」とはソクラテスの言葉。自分が無知であることを知っているという点において、それを知らぬ他人より優れているということだ。人は誰も他人の無知を指摘はできるが、自身の無知には鈍感のようだ。「孫氏の兵法」にも言われる、"己を知る"が如何に大切であるかである。では無知を自覚することでの効用というのか、どのような利点があるのだろうか?

ある奴がこんな風にいった。「無知の知が何の役に立つんだ?」。自分がどう答えたかの記憶はないが、今もし問われたらこんな風にいうかも知れない。「それは無知の知を自覚しなければ分からないだろう。役に立つからそうするというものじゃないからな」。言い方というのは、その日その時の気分でどのようにでも変わる。明日は違う言い方をするかも知れない。

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「〇〇が何の役に立つのか?」という言い方を決まってする奴がいる。口癖というより、根っからの功利主義なのだろう。自分に得にならないことはやろうとしない人間はいる。功利主義は自分の利益だけを追求することを善とする学説に思われがちだが、それは「自己中」であって、功利主義というのは、「最大多数の最大幸福」を基本原理とする倫理思想である。

分かりやすくいえば、「自分の最善の利益になることは、社会全体にとっても利益になり、逆もまた然りということ。行為や制度が社会的に望ましいとされるのは、 その結果として生じる効用(功利、有用性)によって決定されるとする考え方である。自己中とはまるで正反対なのに、自分の利益を優先させる人間を指して、「あいつは功利主義だ」などという言い方をする。

哲学用語は時に間違って使用されることがある。功利主義は日本語感的に上記のように誤解を受けるので、帰結主義(結果主義)、公益主義というべきかも知れない。若者を経験した記憶からいえば、若者は多分に快楽主義かも知れない。幸福主義ともいうが、快楽というのは行為に結果として付随するもので、それ自体を目的として生きると、むしろ快楽を得るのは難しくなる。

これは「快楽主義のパラドクス」ともいわれる批判で、様々なスポーツを例にとっていうと、もっとも快い瞬間というのは、脇目もふらず一心不乱に打ち込んでいる時であり、快楽を気にしすぎていてはスポーツに熱中できないだろうし、むしろ快楽を目指していない時のほうが多くの快楽を得ることが出来るだろう。 それらから若者は多くの誤解と無知に生きている。

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幸福を得たいがためにむしろ幸福を遠ざける。安定と幸福を求める者は、人生の意味に背をむけることになろう。喜びを通じて人間になるよりは、むしろ悲劇を通じ、体験を重ねることで人間になる。ゆえにか、幸福以外に目もくれない人間は、人間的な至福感から遠ざかろう。五木寛之はその著作『青年は荒野をめざす』の中で、目の前の幸福に背を向ける若者を描いている。

幸福になることによって人間はダメになる。幸福になることで、人間は人間の求め得る大きなものを失うということはある。こういう言葉は作品の中に頻繁に表れる。自分は同著は読んだが、五木の大作『青春の門』は読まなかった。あれは大河小説であって、なぜに週刊現代という雑誌に連載されたのだろう。映画やテレビドラマもされたがどちらも観ていない。

若者が無知であるのは、例外を問わず若者を終えてから知ることになる。自分の経験でいうなら、若者は、「無知の知者」ではなかった。若者は根拠のない変な自信に満ちていた。それを無鉄砲というかもしれないが、一切を含めて愚かであったという回想だ。あの頃の幸福とは何だったのだろい。ドストエフスキーは、「かぐわしき苦悩の香り」のようなことを言っている。

イメージ 3五木が描こうとしたものは、幸福という視点を離れて人間の生の実在感を求める若者。幸福が人間の求める最終目的でないという考え方は自分も同じ。「幸福とは何か?」についていろいろ書いたが、その日、その日が喜びに満たされた人生を幸福というなら、そうした主観というのは同じ生活条件にあっても、幸福に感じない人もいる。
となると、幸福はその人だけの主観であるのか?自分の望みが満たされていく過程において、我々は幸福だという。それらはつまり、「感じ方、考え方」の問題だけのものなのか?そんなことはない。確かに幸福は感じるものであるが、望みが満たされるという「事実」がないなら、感じたくとも感じようがない。したがって、幸福は感じ方よりも事実の問題が優先されるだろう。

◎若者は貧乏である

貧乏と貧困は似ているが同じ言葉ではないはずだ。例えば、「今月は出費が多くて給料日まで貧乏生活だわ」。「最近、貧困家庭が増えている」とか、「あいつは心までが貧困だ」などの言い方をする。「心が貧乏だ」とはいわない。貧乏は貧しく耐乏か?貧困は貧しく困窮か?耐乏なら耐えればよいが、困窮は脱しなければならない。よって、心が困窮は脱すべきもの。

貧乏は一時的なもの。貧困はある程度継続的な状態。やはり、貧困は脱しなければならない。「若者は貧乏」といったが、決して貧困ではなかった。自分のことをいうのが分かりやすい、よって自分の若者時代を述べている。貧困はつらいだろうが、貧乏は苦にはならなかった。欲しいものが買えないのは当たり前であって、若者=貧乏は、肯定すべきものだった。

若者が金銭的に満たされているなら、金銭感覚が麻痺するのではないか?毎日ステーキやうな重食っててどうなるだるう?若者には吉野家や立ち食いそば屋が似合う。似合うだけでなく御馳走三昧は将来のためにとっておくべきで、朝晩カップヌードルだけでも生きていける。食事はステータスに合わせるもので、フランス料理など食ってるようでは若者の堕落である。

考えてみれば分かろう。若者が何によって存在しているかを…。美味いものを食ったり、裕福な暮らしをするために若者が存在しているか?地位やお金が若者の存在に必要か?ある人にこう言われたことがある。「若いのに金と暇がある奴にロクなのはいない」。ロクな奴かどうかはさておき、金も暇もなかった。自慢できるものがあるなら、若さと滾る情熱だったろう。

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だからか、お金がないのはむしろ誇りだった。時間があるのだから稼げばいいのだから…。気取ってる場合じゃない。そんなものは捨てて活動する以外に生きる道はない。情熱は質的なものであって、欲は人間の一切を金銭で計算したり、権力で算段する。そんなものと比較することがどうかしている。人間を金に交換して体を売り渡す女子高生などいなかった。

「ウチの身体をウチが自由にして何が悪いわけ?」いうのだろう。悪いとは言わない。お前の身体も性器も好きに使う自由はある。みんなあんたのもの。ただ、上記したようなことから言えば、人間は人間を金で売り渡すことで、精神までもお金に換算し、お金と交換可能なものにしてしまっている。職業ならともかく、援助交際などと御託を並べる哀れな少女と映ってしまう。

若者とは何か?②

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若い時にたくさん見たり聞いたりしたもの、感じたもの、読んだ本などが人間の土台になる。いろんなものを見たし、いろんな種類の人間も見た。それで、「あんな大人には絶対になりたくない」という人間はいた。「あんな大人になりたい」という人間は小説などの主人公にいたが、現実には記憶にない。あえていえば、前者が母で後者が父という面白い対比が挙がる。

親も大人には違いないが、子どもにとって親は親である。大人というと他人を指すのではないか?たしかに、「なりたくない大人」の要素を母はたくさんもっていたが、やはり、「あんな親には絶対にならん」だった。多少なり勉強ができたからか、通知表を近所に見せに回るような親だった。近所のおばさんはこぞって、「〇〇ちゃん、偉いね、賢いね」と自分に言ってくる。

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同じことをおじさんにいわれたことがないのはなぜだろう。男は女とちがって井戸端会議を行っていないこともあるのだろうか。身近な問題について、ああでもない、こうでもないの話題は男には向かない。それをスーパーの通路でやるおばさんがいるが、邪魔でしょうがない。店員が一言、「通路で立ち話は止めましょう」といえばいい。あれは間違いなく通行妨害である。

「通行の邪魔」という神経回路・思考回路がないのだろう。そのことだけに夢中になって周囲が見えない。これがおばさんの特質だ。思うに親というのは、「見本になる親」、「反面教師としての親」でいえば、絶対に後者が勝るというのが体験的な思いである。「あんな人間になろう」というのと、「あんな人間にだけはなりたくない」では、後者の方が一段と努力をする。

「あんな人間になりたい」から一生懸命に勉強したという話は小説に出てくる。「あんな人間には絶対にならない」がストーリーの主軸の物語はないのではないか?確かに、『児童文学全集』にふさわしい内容は前者である。しかし、物語の登場人物には、「善い人」と「悪い人」が対比で描かれている。「花咲かじいさん」や、「舌きりすずめ」などは好例だ。

猿を悪く描いた、「さるかに合戦」もある。スズメの舌を切るのは子どもごころに怖い感じがした。「さるかに合戦」は、うすとくりとハチが主人公という発想がユニークだった。子どもの頃にこういう物を読むと、猿は悪い動物、カニは好人物のイメージがつくが、本から自然に刷り込みがなされるのだろう。女の井戸端会議に対して男は込み入った議論を好むところがある。

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『朝まで生テレビ』を好んで見たが、「男の人ってなんであんなくだらないことやるの?」と女性にいわれたときは正直驚いた。「女性はそんな見方をするものか」である。そういえば女性の井戸端会議を批判する男はいる。あれは女の習性と思うからか批判はないが、双方の言葉を聞けばやはり異性の理解は至難のようだ。若者時代にはくだらない議論をした思い出はある。

「くだらない、くだらない」といいつつ、それでも議論を止めない。女性が井戸端会議の中で、「こういう話ってくだらないよね」などというのだろうか?まあ、いってもいわなくてもいいが、若者はバカバカしいことに熱中する。事実としての、「どちらが正しいか!」などの答えを求めて夜を徹し、延々と議論をしたのが懐かしい。男の議論好きはおそらくこういうこと。

「説得という行為の中に潜む自己の存在確認」、「説得という行為による力の確信」。男がそういう生き物であろう事は男だからよく分かる。どちらも自我に関連する。さまざまな価値意識が混在する世の中で、女性の価値意識というのは男より少ない気がする。女性は、「事実そのもの」を理解するが、男は、「その事実がどういう意味を持っているか」を知りたい、探りたい。

男の悩みでよく聞かされたのは、「どうしても自分の殻を打ち破れない」という言葉で、これが何とも不思議であった。昆虫はその成長過程で殻から自然に脱皮をするが、人間はそうもいかないらしい。自分の殻を打ち破るのには勇気がいるという。思い起こせば、「自分の殻を打ち破りたい」に苦闘する若者は、どこか真面目で、親に従順ないい子だったように思われる。

イメージ 3親の影響なのか、内部に巣くう保守性を打破できないでそれで若者か?ビートルズが世界の若者に人気があったのは、ある種の殻を破ったからだ。殻を破る、規制を壊す、権威に屈さない、そういうものに憧れるなら、自ずとそういう生き方を模索すると思うが、憧れないのか、憧れても殻が破れないのか?一体、それほどの何が障害なのかよくわからない。殻は破る方が面白い。

若者にとって、「平凡」は偽善である。若者は革新に満ちているはずだが、現状を打破したい気持ちがあるにはあっても、やらいのか、できないのか、いずれにしても慣れから脱却をしない奴である。「満足ではないが殻を破れない以上、現状に甘んじるしかない」というところに落ち着く。勇気とは冒険心、冒険とは勇気、冒険心がない、勇気がないでは殻を破れない。

就寝時には寝間着姿で足を縛って寝るのを実践していた子がいた。臆病という感じはなかったが、自分と付き合うことでとんでもない冒険をさせられる羽目になった彼女だった。ある日、日比谷野外音楽堂の塀を超えてタダ見をする提案に彼女は頷く。高い塀の下に踏み台に代わるものを置き、彼女を先に行かせようとしたら、「見えるから先に行って」というので先行した。

塀の上から跳び降りるときも、「あっち向いてて」といい、彼女は「どさっ!」飛び降りた。足の骨でも折ったら大変なことになっていた。「あっち向いてて」の言葉がいまだに脳裏にしっかりと残っている。自分がやる無謀なことでも、「嫌よ」という言葉を一切吐かず、くらいつき従うのが昔の女性だったかも知れない。そうした世代観というものは確実にあった。

今の時代は女が先に歩いて男が三歩下がって歩いている。なぜに女が男を主導する時代になったのか?要因もあったと思われるが、人はその時代を生きる。社会学者はさまざまな指摘をするが、当時は男が舵なら女は船、舵の方向に船も進んでいくのが当たり前だった時代、男が男として機能していたろう。昔を懐かしんでいるのではない。自分たちは斯くの如く生きてきた。

「平凡は偽善」といったのは、結局、人間という生き物は慣れたところで慣れたように暮らしていき、情熱とやらはその慣れた生活を壊さない範囲でしか持ち得ない。確かに、「類は友を呼ぶ」といい、革命の戦士たちは同じ類で集まり、臆病者は同じ類の集団を拠り所にする。したがって、人間の集団は別々になっていようとする傾向があり、これを「群居本能」という。

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若者とは何か?③

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自分たちが若者であったころ、「若者って何?」など考えなかった。同じように老人になって、「老人って何?」とは考えないようにだ。寿命いくばくもない老人は、いつ襲ってくる脳卒中や心臓病など健康管理に気を使っっているが、命を長引かせたいからそのようにするというより、自分の身体に何がよく、何がよくないということが判断・実行できるようになる。

若者が自分の寿命について考えることは普通はないだろう。湯水のように溢れ、あり余る命が、死うを遠き彼方に押しやっている。『若者たち』というフォークソングがあった。♪きみの行く道は果てしなく遠い、なのになぜ…と歌われるが、行く道は逝く道ともいえるのか?そうではなく、長い人生の道のりをゴール求めて歯を食いしばって生きて行こうという歌だ。


人生のゴールが何かを考えたことはないが、以前、「人生はあがりのない双六」と聞いて納得した。あがりは終点、それが死なのだと。金ぴかの小学一年生の記憶はないが、中学も高校という短いスパンで、それぞれにあがり(区切り)はある。大学は学童期といわず、大人として社会に出るための準備段階であり、「そのための教養や知識を身に付ける」というのが本来の目的だが。

実際は、「単に学歴を得るため、その方が人生に有利」と考える者が多い。日本の企業は新人社員募集要項に、「大卒であれば、学部・専攻は問わない!」などの記載が多い。おそらくこれは、「入社後の研修で指導すればいい!」との考えだろうが、IT系のシステムベンダーであってもである。アメリカでも学歴は重要だが、上記のような募集要項はまずありえない。

その意味で、学歴社会の質が違う。つまり、日本のように学歴目的で大学に行く、大学を出ていれば"食いっぱぐれがない"などの観点はない。あくまで大学は自分の将来の指針と専門的な知識の習得が目的となる。したがって、「新人研修で一から鍛えればいい」などの悠長な考えもなく、新卒であろうと即戦力を求められるので、日本の専門学校に近い感覚といって良い。

例えばプログラマーの募集には、情報工学・電子工学の学位が必須とされる。さらに日本のように必ずしも大学を4年で卒業しなければならない、ということが無いので、早い人はどんどん単位を取って3~3年半で卒業する人もいれば、ちょこちょこ単位を取って4年以上かけて卒業する人もいる。大学在籍中に長期の海外旅行で見分を広げる学生も少なくない。

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今しておかねばと、これも社会に出る準備である。仕事でアメリカに6か月在住したが、カルチャーショックの連続だった。「半年ほどヨーロッパをさまよい歩いたのよ」とあっけらかんにいうバックパッカーがいた。彼女は当時20歳の女性であった。「そんなことをよく親が許したね」というと、彼女の頭の上にマンガでいう「?」が三つくらい見えるような顔でいった。

「よいことをするのに、どうして親の許しが必要なの?」。この一言で自分は適切な応答ができなかった。「反対されたけどね。でも説得した」、「反対はなかったけどいろいろ注意をいってたわ」などを予測したけど、まるで違った。"親の許諾"という観点の無さに大いなるカルチャーショックを受けた。もちろん、全ての親が一つ返事で、「いいよ」だとは思わない。

が、許諾を得るという点において、親子の大人の関係を感じた。日本で親が旅行に行くのに子どもの許諾をえることはまずない。だから、子どもも同じようでいいとはならない。いろいろ親子関係について話す中で、「親は私の人生に介入しない」といい、「親は私とは関係ない」という言葉にも驚かされた。親子関係を否定するとか、肯定するとか以前の考えがそこにあった。

例えば日本の女子大生がそれほど厳格な家庭環境であったようでもないのにこんな風にいう。「これといったハッキリとした原因があるわけではないのに、最近両親が煩わしいんです。家に入る時でも中学・高校の時ほど楽しくもなく、勉強の能率もあがりません。いっそ、家から出て一人暮らしをしたい気持ちにかられます」。これを聞いて即座に、「彼女は親絶ちをすべき」と感じた。

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親が子どもを手元に置いておきたいのは100%親の都合である。いなくなると寂しいし、いると安心する。これって、子どもにとっていいことなのか?なぜ、日本の親は子どもより自分の都合を優先するのか?「(娘の)一人暮らしは絶対に認めない」という母親に理由を聞いたことがある。返った答えに唖然とした。「それは娘だからです」、「男の子ならいいわけ?」と返す。

「…多分、ダメというでしょうね」。しょぼい理由を聞いて、これ以上問わなかった。「親がダメなものはダメ」というのが分かったからだ。確かに児童期の子どもにとって、家庭は居心地のいいものだ。親は自分を庇ってくれるし、養ってもくれる。ところが、思春期になり、自我が芽生えてくると子どもにとっては親密な親子関係が、煩わしく感じられるようになる。

「それはなぜか?」を考えない親が問題なのだ。親子が親密で仲が良いことを肯定するばかりか、自慢する親もいる。「そんなこと自慢できることか?」というのが自分の問題意識であり、これをそういう親にぶつけることはしない。なぜって、自慢できることを他人から批判されたくないだろうし、批判について考えることもない。そういう親は少し話せば分かる。

自分と子どもの関係だけがすべてという親は、視野の狭い人間というだけではない病理を感じる。一歩外にでれば子どもは社会のものという意識がまるでない。だから、常時目に入る場所に置いておきたいのだ。子どもにも自己の内面的な生活がある。それに目覚めてくると、家庭によって拘束されることを望まない。そうした自然な親離れをなぜに許さないのか?

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自分のことしか考えない親だからである。例外もないわけではないが、「子どもは社会のもの」、「友達のもの」、「恋人のもの」、「社会の一員として歯車如きもの」と考えるのが父親ではないか。子どもの自然欲求に従い、その時期に社会的にも独立すべきである。「一人暮らしはさせません」という親に閉口したのは、この親は子どものために子育てをしていない。

若者とは揺り籠や鳥籠から外に向かってはばたくときである。家庭における親の過保護は必ず若者をダメにする。若者は家庭から解放されることで一人自活するすべを身に付け学んでいく。それを許さない親はニートを作る可能性もある。ニートは子どもがなりたくてなるのではなく、親が作るものではないか?そんな気がする。自分の全力を仕事に尽くすべきである。

若者とは何か?④

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老若男女は関係ない。
貴賤富裕も関係ない。

人間の価値を決めるのに関係あるはただ一つ。気力ではないのか?その人が成功したか、成功しなかったか、そんなことは何の関係もない。勝敗というのは時の運も大きく関係する。だから、何よりも大切なのは、その人が最後まで気力を持ちつづけ、自らの可能性に賭けたか挑みつづけたかで、名声を得た得ないはどうでもよいこと。正直が災いして無名で終わる人もいる。

正義感が強いことで成功できなかった人もいようし、成功した人の中には違法すれすれのあくどいことを行った人もいる。だから、そんなことはどうでもいいこと。成功したというだけで人を正しく評価はできない。だから、どうでもいいことだ。「お金持ちだからといって人を評価すべきでない。その人がそのお金をどういう風に使うか見届けるまでは…」という。

欧米のセレブにチャリティーはボランティアに熱心である。限られた人生なら、人のため社会のために生きるのも選択肢の1つ。真のお金持ちとはお金を蓄えることの興味より、いかに吐き出すかを考えている。預金通帳の数字に躍起になるのは小金持ちのこと。山口県周防大島町で行方不明となっていた2歳男児を発見し、大きな注目を集めたスーパーボランティアの尾畠春夫さん。

酒もたしなまず、預金もゼロという彼は、「体が動ける間はこれを続けたい」という。「妻は5年前に用事があって出て行ったきり帰ってこない。でも家の鍵をもっているのでいつでも帰ってこれる」と面白い言い回しだが、5年前とは2013年。東日本大震災は2011年で、尾畠さんは、被災地の南三陸町に1年半以上いたことになる。ボランティアに熱中するあまり、妻は買い物に出たっきりか?

誰もが尾畠さんを善い人と思っても、良くないと思う人もいる。すべての人に愛される人間なんかいるはずがない。妻や子どもたちが主人や父を立派と思おうと思うまいと、彼は正しいことをしたいのだ。「正しい行いをして嫌われるなら仕方ない」ということだろう。この場合の善悪良否は尾畠さん個人の問題だ。他人の善悪にはなまじ口出しできるものではなかろう。

何事に全力を尽くすことで悪い結果が出ることはない。人間には様々価値があり、人によっての価値観があり、その元になる価値基準がある。大きな、いいことの価値観もあれば、小さく、しょぼい価値観もある。何が大きくて何が小さい。何が良くて何がしょぼい。それが自分で見えないひと、分からぬ人がいる。だからクラーク博士は、「少年よ大志を抱け」といった。

「大事の小事」、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」というのは中国の故事。人生は死ぬまで分からぬものだから、とりあえず大志を抱いておれば間違いはなかろう。細々というより、分かりやすい二文字で表現した。世の中には小さい男がいる。低身長ではなくケツの穴の小ささ。小さいケツの穴から大きなウンコは出ない。無理をするとキレ痔になろう。

小さい奴は小さく生きるが分相応というもの。大体において、「大きい・小さい」は心意気も含めた男向けの言葉で、大塩平八郎の身長は217cmあった。弓削の道鏡は正座をすれば足が三本に見えた。名は伏せるがあるプロ野球選手は、浴槽に入るとき、「チャポン!」が三回聞こえたという。余談はともかく、人が何かに夢中になるのがその人の生き甲斐なら、他人の批判は無用だ。

夫のゴルフ三昧に嫌味をいう妻に、「付き合いだから…」といっても耳には入らない。嫌なものは嫌なのだ。ボランティアに明け暮れる尾畠さんは、我々の尺度からすれば革命的な人である。革命的に生きるということは、それで名声や評価を得たところで執着することもない。名声を得られなかったといってもどうということもない。富んでも奢らず貧に文句もでてはこない。

お金がなくともお金持ちを羨んだりもない。革命者とは最初の一人である。誰がやるかが問題になるなら最初の一人になればいい。恋愛が勉強の邪魔という人間がいる。恋愛はむしろ勉強のプラスになる人間もいる。ラジオや音楽を聴きながらの勉強がはかどる人間も、集中できないと避ける人間、これは個々の人間の心の問題だから、奨励も禁止もすべきではない。

親がこれをやるなどどうかしてる。すべてを人為で動かそうとすると心が歪む。何事も自然な状態に勝るものなし。自然にしていて、好きな人ができたときには、それを積極的に自らの生活に組み入れればいい。恋人の存在は自分の生活に光を与え、それによって生活全体が明るくなる。そういう姿勢の人間は、恋が勉強にマイナスとなっても、長い人生において必ずプラスになろう。

すべてを犠牲にして一つことに邁進する善悪は決められない。「深く狭く」か、「広く浅く」か、学者は前者であるべきだが、自分は後者を好む。前者を「学者バカ」といい、後者を「器用貧乏」などという。人間の価値を決めるのに老若男女は関係ないといった。が、男女が無理して競う意味はない。大人と若者が競うことの意味もない。

「男が男で、女が女だった時代」といえようか。日本という国は卑弥呼もそうで、天照大神(あまてらすおおみかみ)もそうであるように、女性が支配していた。男は、素戔嗚尊(すさのうのみこと)のように、暴れまわるだけで何もできない。林道義の『父性の復権』が評判になった。評判になっただけで、復権にはなっていない。林は、父権なんてもともとなかったという。

父権というのは、女子供を守らなきゃ死ぬんだという思うから自然発生した原理であるという。日本の社会構造というのは、女が男を奮起させる、しゃんとさせるのであって、ヨーロッパの一神教男性原理とは異質である。女にとって子どもとは、自分の肉体の一部として生まれるゆえにか、「我が子」を実感できるが、男にとって子どもとは、まるでフィクションである。

「似てるから親子」てな程度のものでしかない。だからいいのであって、だから子供を客観的に眺められる。ただし、大事なことは一つ。「子どもは大人を映す鏡である」という認識は絶やすことはできない。「日本人はなぜかくも醜くなったのか」。諸悪の根源が先の大戦の敗北なのか…。敗戦を境に男は豹変したのか。徳川幕府の太平の世で、武士が豹変したように…。

男が男であった時代に女は女であった。人生論の最終課題は、「自由」の問題であり、男らしさ・女らしさのなか、競争社会といわれるなかにも自由はある。それを見つけられないがゆえに、誤った平等主義や競争否定論が生まれる。男女の能力には向き・不向きがあり、それを自覚する者は偏った平等主義には組しない。真の平等とは、「適」が認知されなければならない。

若者とは何か?⑤

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大人はみんなかつては子どもだった。老人もかつては若者だった。男女の性は年を取っても変わらないが、「女は経年で男らしくなり、男は女らしくなる」という人がうる。これはあながち嘘ではあるまい。女は閉経することで女性ホルモンの働きが弱まり、男も加齢で男性ホルモンの分泌が衰える。社会において男女差別は撤廃されるべきだが、区別と差別の混同がある。

男女差別の根本にあるのは利害であり、男女の利害が対立しあう延長線上には必ずといって差別問題が生じる。区別と差別が混同するややこしい社会で我々は生活している。確かに差別は不合理であるが、「不合理だ」と声高にいったところで、差別が解消するものでもない。不合理な差別制度をなくすためには、法整備も必要だが、個々のモラル意識が問題となろう。

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道徳は教育できるが倫理教育は難しい。なぜなら道徳は人間の行動の規範であり、倫理は社会での行動の規範と関係する。道徳は規則や行動の基準を問うのに対し、倫理は規則的にそれが正しいかを問う。倫理とは行動について決められたもので、それは正しいか正しくないかを判定する。一方、道徳は「基準」を作り出し、その行いが正しいか正しくないかを決定する。

判定と決定の違いは微妙で伏在だが、例えば野球の審判のコールを判定という。その判定がビデオで確かめられ、判定違いという決定が下される。これだと分かりやすいだろう。倫理が判定であるがゆえに不倫も判定である。近年の不倫全盛時代において、不倫の箍がだんだんと弱まってきているのは間違いない。「浮気」が許されるように、「不倫」も許される緩い社会である。

「浮気は男の甲斐性」といわれた時代(今もいわれるのか?)と同じように、「不倫は妻の甲斐性」といわれる時代かも知れない。政治家も弁護士も教師も医師も芸能人もスポーツ選手も一般人もおててつないで不倫しまくりだ。なぜ、あの厳格な太川陽介が妻の不倫を許したのか?自分はこう見る。太川は亭主関白で妻に厳しかったというが、裏を返せば威厳で妻を独占していた。

独占というのは言葉を変えると執着である。妻に去られては困る、逃げられたくない、だから妻を力でコントロールしたのだろうが、それでも妻に裏切られた。つまり、太川のやり方で妻を制御できなかったのだ。真の亭主関白なら、そんな妻は叩きだすはずだが、太川のような骨なしの亭主関白男は妻に逆襲されると、「お願いだから俺を捨てないでくれ」と土下座をするタイプ。

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太川の似非亭主関白は白日の下に明らかになったが、そのことを何より知っていたのは妻である。亭主関白ぶった夫にしおらしい態度を見せながら、裏では男といちゃちゃしていたという、これは女の頭の良さである。別の言葉で「狡さ」ともいうが、狡さは賢さである。「知らぬは亭主ばかりなり」という言葉は古くからあるが、貞淑な女に騙されるのが男ということだ。

太川のようなタイプは、無理をせずに尻に敷かれていいこしてるのが無難である。性格はとっくに妻に見透かされているわけだから…。不倫は道徳的に許されないのか?これは全くの愚問であって、道徳的にゆるされないから不倫という。それなら、独身女性と妻子持ち男(もしくはその逆や既婚者同士)の恋愛をなぜ不倫というのか?これについても明快な答えは出せる。

そういうことが不道徳かつ不倫にあたらないということになると、結婚制度は意味を失ってしまい、一夫一婦婚を土台にした日本の社会は秩序を失い、崩壊の危機にされされる。したがって、不倫行為者は少数派の楽しみとし、多くの人は夫婦の貞操を守り合うのが望ましい。そのことで、不倫行為者に対し、非難や罵声を浴びせることは許してあげなければならない。

道徳なんてのは神が作ったものではなく、共同体が自己維持のために作り上げたもの。「既婚男は独身女性を手籠めにしてはいけませんよ」といっているにも関わらず、独身女性が率先して手籠めにされたいのなら、男も色気を出すだろう。誰でも嫁とは違う、それも若い女性のパンツを脱がしたいのはスケベ心というより、ごく当たり前のもっともな心情である。

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女性の方からけしかけられ、「え、いいの?」と念を押す男に罪はなかろう。妻は夫を責めるより、相手の女のところに押しかけるべきだろうが、それをさせてはならないのが戴いた男の気概であり、彼女の気持ちに応えて妻の殴り込みを死守すべきなのに、女房怖さの薄情男もいる。こんな男に差し出した女も哀れというしかない。不倫もいいが、男を選べといいたいくなる。

妻にケツを抑えられた夫と不倫関係になったはいいが、そういう男が妻に嗅ぎ付けられたとき、妻に頭が上がらぬ男は不倫相手の女性を庇うことすらできない。なにげに始めたはいいが、慰謝料の問題も発生したりと、不倫の代償は高くつくこともある。不倫はいかにして可能か?その答えは、絶対にバレないようにすれば許されよう。この点については男より女が勝っている。

相手のすべてに魅かれて、行きつくところまで行ってみたい。それは自然な気持ちであり、自分の周囲や現状に目をつぶった方が幸福なのはわかっている。若者は自分のなかにある何かに惹かれて荒野をさまよいた衝動に駆りたてられる。幸福でなくてもいい、安定を拒否して、どこか見知らぬ土地の見知らぬ街や自然の中に身をゆだねたい。「青年は荒野をめざす…」

家庭の幸福にどっぷりつかった者たちに求めるものはない。若者とは、若さとはそういうものではないか。何かわからないが、求める何かがあり、それを掴む情熱は苦しみすら克服しかねないエゴイスティックなもの。そんな若者時代を思い出す。世の中にはどうしても避けられないものがいくつかあるが、その中の一つに世代との戦いがある。身近な例でいえば親との戦いだ。

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親心というのは激しいもののようだ。どのような激しさかといえば、子どもに対する所有欲である。取り込もうとする親、離れようとする子、身近な世代間戦争は家庭の中にある。戦いに挑む若者は幸せなどに浸っている場合ではない。もし、全ての若者が、「自分は幸せです」という社会とは何と不幸なじだいであろうか。若者と大人は別の生き物、別の存在である。

にもかかわらず、若者は大人と共存しなければならない。社会というのはそれでなければ維持できない。大人や老人たちはいかにも保守的である。守るものがあるからだろう。大人はそれでいいが、若者は保守的であってはならない。大人も若者みんなが保守的になり、内部に矛盾を含まなくなってしまったということは、いずれかが死んでしまっていることになる。

若者とは何か?⑥

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「hanshirouさん凄い。そこらの若いもんより若いんじゃないですか?」
「ええ、体力だけは自信あります。まあ、体力だけですが…」
「体前屈だけが最低点で、あとはすべて年齢離れで驚きました。」
「体が硬くて前屈は昔からダメ。あれを鍛えようって気はないですね。」
「普段、運動されてるんですか?」
「ウォーキングやってます。毎日二時間同じコースを歩いています。」
「へ~!毎日二時間ですか…?まさに超人じゃないですか。」
「超老人ですかね(笑)」

先の10月8日「体育の日」、区のスポーツセンターで行われた【平成30年度「体力・運動能力」調査票】による、『新体力テスト(65歳~79歳)』の結果において調査員との会話である。「若いもんより若いじゃないですか?」とはいうものの、体力が若いというだけで若者ではないのは分かり切ったこと。体力がなかろうと若者は若者、体力があっても老人は老人である。

今はもうどんなことをしようが、どんな薬を飲もうが、祈りを捧げようが、若者になれない。若さとはかけがえのないもの、せめてその頃の体力を求めたいとの高齢者の願望だが、願望だけで身につくものではない。人は努力をしているというだろうが、本人はいたって普通に生活している。何事も日課となれば、三食と同じこと。「努力」というのはそういうものでもある。

おばさんがいかに若造りの恰好をしようが、ババはババであるが、自己満足の世界は体力増強とて同じことか。まあ、きれいなおべべを纏って健康にはならないが、体力増強は健康維持に寄与することになる。思うに若者時代、青年期というのは人間盛りの時期であった。「男ざかり」、「女ざかり」という言葉があるが、青年期に当てはまると同時に、「働きざかり」ともいう。

すべてを一つにして青年期を、「人間ざかり」といってみよう。「人間ざかり」をどう解釈するかを考えてみると、人間の生命活動がもっとも盛んなころをいう。そうした年頃は食欲もさかん、性欲もさかん、他にも種々の欲望が渦巻いている。肉体的にも精神的にも、いろんな形で欲望がはちきれんばかりに溢れているが、決して青年が無分別ということではない。

これらは生命活動の激しさの現れである。人間ざかりは欲望ざかりといえよう。欲望は無視できないし、欲望を無視することは人間の無視である。が、何もかも手放しに尊重することが人間尊重とはならない。人間の欲望には本能的なものと理性的なものがある。本能的欲望が低俗、理性的な欲望が高級ということではない。区別はすべきだが、きっぱり区別の必要もない。

人間にも社会にも矛盾はある。矛盾のない社会も屍のような社会である。かといって、若者と大人が決定的に分裂すれば、社会は平衡を保てなくなり、人間は自滅する。したがって、社会が保ちうるギリギリで限界のところでの対立は必要である。それが親と子、若者と大人を活性化させることになる。慣れ合った同士は一見平和そうだが、やはりどちらかが死んでいる。

若者が大人に反抗するそのことが世代戦争である。のっけにこう書いた。「大人はみなかつて子どもだった」。「老人もかつては若者だった」。自分が子どもだったころ、若者だったころをすっかり忘れた大人や老人たちは、自分たちが保守的であることをいいことに、若者を取り込もうとする。自分に逆らう若者を、「生意気だ」などと毛嫌いし、烙印を押す。

彼らにそれをするなといっても止められないなら、若者が戦うしかない。世代戦争はまた、アイデンティティの確保である。若者が老害どもに精神を売り渡すことだけは避けるべきだが、近頃は折り目正しい若者が目に付く。大人に魂を売り渡したかのごときである。日本が滅びるとするなら、おそらく家庭からであろう。昔からある母子心中には憤りすら覚える。

これほどに母親は子どもの所有意識が高い。外国のように、子どもは神からの贈り物という考えに立てば、母子心中などあり得ない。我が子の首を絞めて殺せる母というのは、まさに独りよがりのクレイジーと外国人はいう。子どもは施設で育つ。死にたきゃ一人で死ね!「この子を置いて死ぬことはできない」などと、よくもまあ言えたものだと思う。やはりキチガイである。

せっかく産んでもらいながら、母に命を奪われるのは残念というよりない。「命短し恋せよ乙女」という言葉が頭にある。出所を調べると、『ゴンドラの唄』の冒頭の歌詞であった。『ゴンドラの唄』は1915年(大正4年)に発表された歌謡曲で、吉井勇作詞・中山晋平作曲。 芸術座第5回公演『その前夜』の劇中歌として生まれ、松井須磨子らが歌唱、大正時代の日本で流行した。

「命短し 恋せよ 乙女 紅き唇 褪せぬ間に」と歌われる。「命」とは若い時、「乙女」は純粋な心という意味の比喩表現。恋に限らず、若いうちにいろいろ楽しんでおけってな意味である。言葉どおり、「異性を求めよ」とするのも若者の特権である。ジジババが異性を求めては遺憾のいわれはないが、情熱という感度においては月とすっぽんの差があろう。

初恋もそうだが、異性慣れしていないころは、異性への想いも単純明快なものではない。異性を求める心情も、羞恥心や虚栄心と絡み合う。男の子が女の子の前で、どれだけ虚勢を張っているかは、女の子にはとうてい想像もできまい。そういうときゆえに、何気ない一言によってプライドが傷つく。ふつうの人から言われるなら何でもないが、好きな相手から言われると傷を負う。

10代のころ、20代のころ、「異性間の友情は成り立つか?」というような言い合いをした。体験したわけでないのに、観念論で言い合う。「成り立つ」、「成り立たない」の二つに分かれる。おそらく自分は前者だったろう。恋愛感情を抱かない異性は幼馴染の女性にあった。「彼女に恋愛感情を抱くべきでない」という無意識の抑止だったのかも知れないが。

友情と恋情の違いもいろいろ言い合ったが、「やる」か、「やらない」。もしくは「やりたいか」、「そういう気はないか」などの判断基準だった。端的にいうなら、恋愛は性欲を目的にし、友情は何らかの意味での生活関係を土台にしている。幼馴染の女性はまさに後者のようであった。「異性間に恋愛的色合い抜きの純粋な友情があり得るかどうか」は個別の問題である。

もっとも、友情と恋情のけじめというのは、ハッキリとはつけ難いものでもある。恋愛を別の言い方をするなら、「性的な欲求と結びついた友情」という言い方もできよう。ただし、恋愛は性欲だけではない。もしそうであるなら、異性でさえあれば誰とでも恋愛できることになる。今時こんな関係を「セフレ」というが、自分らの時代にそんな言葉はないが、事実はあったろう。

若者とは何か?⑦

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純潔教育世代にとって、恋愛感情抜きの性愛はいけない事だという自己規制があった。近頃は性に緩い時代、寛容な社会のようだ。異性間の性的結合を動物的な観点からみれば、実に単純な入れポン出しポンの事実に過ぎないが、友情となると、どんなに些細な、どんな部分的な生活関係の上にでも成り立つ。綺麗にいうなら、「生きる力になり合える関係」である。

こうした考えは今の年代になって得たもので、10代・20代の若者時代にそういう視点を持つことはなかった。異性であろうと同性であろうと、友情関係の成り立つ法則に変わりはないが、恋愛は性欲を土台に、友情は何らかの生活関係を土台にしている点において理屈の上では違いがハッキリしている。現実問題として異性間に恋愛抜きの純粋な友情は果たしてあり得るのかどうか。

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昨日までは友人でも愛情か性欲かはともかく、床をともにすればたちまち友人関係は立ち消える。したがって、「異性間の友情は、その者同士の友情期間においてのみ成立する」と結論する。あとは野となれ、山となれの男女関係だ。何が何でも友情を存続させたいと頑張る必要性があればの話だがとくにはなかろう。恋愛関係を終えた元恋人がこんな風にいうのを聞く。

「これからは友達同士でいよう」。これって社交辞令なのか?そんな羞恥な言葉を口にしたことは一度もない。愛が終わった相手となぜに友達でいる必要があるのか?恋が終わった相手と友達でいたいとは思わない。もはや恋人でなくなった二人が一緒に映画を見たり食事に行ったりするが性関係はナシだという。ないということは、そんな気にならないなからなのか?

それとも、友達だから抑止しているのか?後者は不自然、前者は性の対象外の相手になり下がったということ。元恋人と良好な友人関係をを築こうなど、考えたこともないゆえに経験もない。「今後は友達として…」といわれたことはあるが、望まない自分がそれにどう答えたかの記憶はない。自分には無理だが、恋愛を終えた元恋人同士が友情で結ばれるなら結構なことだ。

「青春をどう生きるか」より、「青春をどう楽しむか」が現実的である。「どう生きるか」などと、いくら考えたところで仕方なかろう。腹がすけば飯を求め、年頃になれば異性を求める。食生活によって個体を維持、性生活によってコミュニケイト、種族を保存することにもなる。生命というやつはそういう具合にできている。無理をせずに自然の摂理に沿って生きてきた。


「人間にも社会にも矛盾はある」といったが、矛盾とどう戦うかが革新であり、保守的な人間は矛盾に目を塞いでいるようだ。なぜなら、矛盾があれば矛盾し合うものの間で闘争が起こることが見えているからだろう。保守は今のままを維持しておきたいので、変化や発展を望まず、今が一番良いというのを証明するために、しきりと「調和」見せたり語ったりするようだ。

若い時の最大の関心事は友人と恋人であろう。スウェーデンの社会思想家で、教育学者でフェミニストのエレン・ケイは著書『児童の世紀』で、「教育の最大の秘訣は教育しないことにある」 といい、『恋愛と結婚』では、「恋愛のない友情はありえても、友情のない恋愛はありえない」と述べた。男の友人と寝たい気持ちは起こらぬが、異性の友人は互いが望めば床をともにする。

近親相姦ならともかくも、思いが重なるなら道徳的問題はない。その時点で純粋な友情から、発展的な愛場へと移行していくことになる。が、友情と違って、恋愛は終焉することもある。友情の終焉もないではないが、それはどちらかが相手を売ったり、偽った場合に起こる。恋愛の終焉も多岐に及ぶが、もっとも多くて分かりやすいのは、互いに飽きがきたということだ。

慣れが飽きをもたらすのは、若さゆえに仕方がないし、罪ということもない。いかに理屈を重ねようと、行いがすべてであって、飽きたものに理屈はつけられない。単に「飽きた」ということだ。好きな食べ物も毎日食べれば飽きよう、好きな楽曲とて毎日聴けば飽きてもこよう。「人間というものはいたって移り気であり、善人さえも悪人へと変化してしまう…」とある。

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飽きは心理学的にも存在が定義され、「飽きないのは無理!」ということらしい。つまり、そもそも人間は飽きるようにできている、そのことに疑いの余地はない。そしてこれは生物の生存競争にとって優位点があるために組み込まれている。同じことをやり続けているよりも、どんどん次のことに取り組んでいく人のほうが、生物として生き残りやすい、ということのようだ。

人のほとんどの意見が他の人と合うことなどない。好きなもの、好きな場所、好きな季節、時間帯、みんな違う。こうした多様性はもしかすると、飽きる性質と関連があるのかもしれない。飽きの一つの原因としていえるのは、完全に内容が分かってしまったがゆえに飽きるというのがあるが、男は女にそれを見る。がゆえに、女はミステリアスな方がいいとされる。

あっぱっぱーでサービス精神よろしく、ナンでもカンでも出し惜しみしない女は、最初は喜ばれるが飽きられるのも早い。なかなか実体を現さず、少しづつ小出しにする女性がいるが、あれは性格なのか、それとも意図的にやっているのか判明不能だ。ある人が、「うちの女房は三年もネコかぶっていた」と笑わせた。どういう状況かは不明だが、嘘の自分を演じていたのだろう。

そんなことができるのか?女性は真の自分と、自分を外側から見るもうひとりの自分を創造できるという。素晴らしい才能だが、非力ゆえに備わった能力であろう。男は自分を出さないで生きては生きない。朝、顔に塗りたくって自分を隠す女…、朝、髭をそり落として素顔を露わにする男…、いわゆる比喩的な言い方だが、男と女は一日の始まりから違っている。

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若さと青春は同義である。若さを横臥することこそ青春であり、一人家の中にくすぶっていては青春に機能していない。いろいろな青春があろうが、自身をよくよく分析するに、自分についても他人についてもよくわかっていない未熟な人間が、「血気にはやって」やること如くであるように思う。世間までが一緒になってそういう「若さ」を褒めたり、すかしたりであった。

残念なのは、青春がどういうものであったかは、青春を卒業をした後でなければわからないのであって、現在青春を生きる人はひたすら青春を謳歌して生きるほかない。ある時期を、それが何であるか分からずに生きているということは、つまりはその間中、一種の病気にかかって生きているということで、青春時代というのは、誰もが青春という病に生きている。

若者とは何か?⑧

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はかならずも自分の若者時代は、他人を無視した自己拡張期を生きた時代だった。他人に気を使いながら、気兼ねをしながら委縮して生きるよりよかった気もする。人の風下には立ちたくないという勢いが自分を前に前に進めていた。まさに、"Top Of The World"、世界の中心に恐れを知らぬ自分がいた世界において、他人を意識する余地はなかったろう。

根拠のない自信に満ち、この世の一すべてのものが眼下に広がっていた。どう考えてみても青春の病に罹患した状態である。もちろん、社会にはルールがあり、ルールというものは沢山あったが、そうしたルールに怖気ることがなかったのは、若さゆえの思慮のなさともいえよう。子どもの頃、『大人になりたい』という歌をコニー・フランシスが日本語で歌っていた。


それを伊東ゆかり、中尾ミエ、弘田三枝子らがカバーして歌っていたが、彼女らの所属する渡辺プロの社長である渡辺晋は、伊東や中尾に、「コニーのように上手い日本語で歌えよ!」と激を飛ばしていたという。確かにコニーの日本語は秀逸だった。どれほどレッスンをしたのか、計り知れないプロ意識を感じさせられる。『大人になりたい』の原題は、『too many rules』。

 昨日の夜2時10分に家に帰ると
 両親の顔は真っ青、猛烈に怒ってた
 私は10時15分前にはベッドに入らなければならないの
 ほらね また規則なの
 規則が多すぎる、規則だらけなの
 親なんてバカみたい、規則ばかり作って
 空のお星さまにお祈りするわ
 まだあなたの愛を失っていませんようにって
 だって規則が多すぎるんだもの

too many rules』を、『大人になりたい』という邦題にしたセンスが、ヒットの要因にもなったようだ。青春期というのは、どこの国でも親の監視がうるさいものだが、"Folks are just fools(親なんてバカみたい)"とこき下ろす。「folks」という単語を両親とするのは、親しい間柄で使われる言葉。確かに、「大人になる」ということは子どもにとって、自由のシンボルだった。

こんな物語がある。「ある村に一人の若者がいた。彼はその村に不満で町に出て行った。が、やがて村に戻った若者は、町の女は美しいなどと村を町と比べて非難した。そんな彼の話に村人は面白がって聞き入ったが、だんだん飽きてきて、ついには誰も相手にしなくなった。若者は町には行く気になれない。町の生活は厳しかったからだ。彼は村での居場所も失っていた。

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どこに行けども不満を漏らす者は、結局どこにも居場所がなくなるという例えである。勤務先に嫌なことがあるとすぐに辞めて新たな勤め口を探すが、問題は周囲にあるのではなく、人間関係に対応できない自分にあることに気づかない。どこにだって人間はいるのだから…。人間は自由を好むが、自由といっても無人島の自由ではなく他人の中にあっての自由である。

その点において自由とは人間の試練の場でもある。人間関係が嫌だから家に引きこもって仕事もしない。これを自由というのだろうか?社会的動物たる人間が、社会で活動できないというのは、なんと不自由であろう。人間は自由のもとに成長するが、その自由とは「条件」でもある。誤魔化しの生き方によって、自らの存在意義を確信できるなど絶対にあり得ない。

手軽に海外旅行が可能な時代である。大学の卒業旅行でヨーロッパに行くのが珍しくない時代だが、多くの若者が外国に出ていくにつれ、さまざまな不幸な事件も起きている。日本からの旅行者を騙して金品を巻き上げたり、強奪したりならともかく、レイプや命を奪われたりもある。2012年8月、聖心女子大生の益野友利香さんがルーマニアで殺害された事件は悲惨である。

首都のブカレスト空港から車で約5分の、両側を森に囲まれた幹線道路。道から数メートル入った森の中で益野さんの遺体が発見された。40~50メートル離れた場所で益野さんのスーツケースが見つかったが、財布など金品はなかった。逮捕されたのは空港で益野さんに声をかけたニコラエ・ブラッド。同容疑者はタクシーを探すのを手伝うと言って近づき、犯行に及んだ。

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フランス在住の日本人はいう。「ヨーロッパで絶対な安全はどこにも存在しません。深夜タクシーで起きた事件に着目されていますが、そうでなければ大丈夫だったと言い切れるわけではないです。ただ場所と時間と自分の備え方によって危険に会う確率は変化します。その確率を勘案した行動が求められます。確率といっても数学的な話じゃなくて、感覚的なことです」。

海外旅行など考えられない自分たちの若者時代。それでもとにかく、いろいろなことをやる若者は出現した。どれが本物でどれが単なる思いつきか見当はつかないが、エルビスやビートルズは本物だったんだろう。グループサウンズとやらは所詮は真似事にすぎない。村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を獲った選考会は大荒れに荒れたが、ともかく獲った。

作品にならない作品を書き、展覧会にならない展覧会を自前で開く若者も多かった。模索の時代といえば聞こえはいいが、本当にそうであるのなら最初から分かった顔をする方がどうかしている。分からない方が正直だし、正しいのかも知れない。深夜放送の大ブームは何だったのか?「オールナイト・ニッポン」、「セイ・ヤング」、「パック・イン・ミュージック」。

言葉は深夜の空間を叫び声となって飛び回った。刹那的人間をよしとする者、ことさらに自分を追求する者、瞬間から瞬間へ何の連関性もなく存在しつづける若者は、マジメ学生にもノンポリ学生にも表れている。得体の知れぬ若者を、「一人ぽっちで誰にも煩わされず、自分自身の考えや感情に浸っている時にのみ、彼は赤裸々の彼その人である」と評した哲学者がいた。

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自分たちと同時代の70年代の若者は何を人生の拠り所としていたのか。なぜ彼らは日常性を拒否し、バリケードを築いたのか。政治行動に走った若者も、芸術行動に走った若者も、彼らにとっては世界が揺れ動いていた。そんな70年代だったろう。当時の合言葉といえば、「若者は若者なんだよ。それ以外の何ものでない。以上でも以下でもない。大人はわかっちゃいない」。

「大人は勝手だ」というが、「若者とて勝手」である。ようするに、人間はみな勝手なのだ。もし、断絶があるのなら互いの、「勝手」が原因の一つであろう。大人たちはみな自分たちがしてきたことを正しいと思っている。本当に正しいのか?それは断じてない。正しいと思い込んでいるだけ。それで、自分たちの言葉を受け入れて行動する若者を、正しい青年という。

若者とは何か?⑨

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「未来は若者たちのもの」などといわれた。あっちでもこっちでもいわれていた。昔も今もいわれている。世界中どこの国々でいわれている。大人たちがいえば、若者たち自身が語り合うこともある。人からそのようにいわれて、「そうだね」と納得するものもいれば、「何をいってんだ」と鼻を曲げる若者もいる。そういえば、「鼻を曲げる」という言葉を聞かなくなった。

「へそを曲げる」というのは慣用句だが、「鼻を曲げる」とは、刺激臭などを嗅いだ時の様相から、機嫌を損ねる、ムっとするという意味だ。確かに「未来は若者たちのもの」であるのはまちがいないが、青年たちがそれをどう捉え、どう感じるかは個々の問題だが、「未来は若者たちのもの」という言葉は青年たちにどんな意味をもつのだろう。まずは、自分はどう思ったか?

「未来」という言葉が、将来とか多くの日々とかと考えるなら、若いもんに未来という時間は多い。「未来」を来たる時代という風に解釈するなら、その時のためになにがしか用意と準備を整えておかねばならない。 アメリカの文化人類学者マーガレット・ミードはこういった。「未来とは、今である」。普通、「今」とは現在をいう。仏語の三世は、死後の世、来世、後世をいう。

ミードのいうように未来とは今の積み重ねである。「今日の仕事を明日に延ばすな」という慣用句も同じ意味で、「今でしょ!」もある。何事においても先送りする人間で仕事のできる奴はいない。「禁酒!」の意志を紙に書いて張り出す者がいるが、思考は書くことで現実になり、脳に刺激を与えることで多くの情報が入ってくる。ブログを書く面白さもそれだろう。

今回は若者について書いているが、もし自分が自治体の長だったなら、成人式の祝辞は自分で書く。形だけの町長、市長は総務課の祐筆者の書いたものを読むだけで、横着にもほどがあり。10年勤めれば10回の言葉を書くことになるが、「未来は君たちのもの」などと型通りのことをいうのだろうか?言葉はともかく、町長・市長の言葉は心から若者を祝しているのか?

真意はともかく、若者はそうした祝福の言葉の陰に、「だから今はどんなに辛いことや嫌なことがあろうと、希望をもって我慢しよう」という声なき声を聞くこともあろう。そうした通り一遍言葉に耳を貸さない、いわゆる「鼻を曲げる」若者もである。小学生時代から校長先生の挨拶は退屈だった。小中高と様々な校長のさまざまな訓辞があったが、覚えている言葉は何一つない。

校長の訓辞などはしょせんはセレモニーでしかない。形式的な言葉ではなく、どうしてもっと心に訴える言葉をいわないのだろう?セレモニーだからである。戦時中も若者が星のたくさんある階級章をつけた軍人に同じことを言われていた。その様子を映像などで見るが、若き学徒たちの眼は爛々とし言葉を心に蓄えている。彼らはみな、国家に未来を奪われた青年たちである。

おそらく自分たちの誰もが死地にまみえるという気概が表情に溢れていたのだろう。若者たちは国難を救うために、教科書もノートもペンもとりあげられ、その代わりに銃をかつがされて戦場に送られた。なんという時代であろう。我々の平和は彼らの犠牲のうちに到来したのである。湯水のように溢れる今の若者の未来と、未来を奪われし若者の差はあまりに隔絶的である。

彼らにとって、「未来とは、死である」。ミードの「未来とは、今である」などはまったく通用しなかった。「明日こそは死」という約束が交わされていた時代の若者を不憫といわずしてなんという。どんなに生きたかったであろう若者たちのことを思えば、我々は命を大切にしなければならない。こんなことを新成人を前にしていうかも知れない。糧にするもの、聞き流すもの…

人はそれぞれだ。いかんせん、高い壇上から申す身分である。最近の若者はとみに「上から目線」を嫌うようだ。いや、我々だってそうだったかも知れん。が、「上から目線」などという言葉はなかった。同じ状況はあったとしても言葉はなかった。誰が作り出したのだろうか、「上から目線」なる言葉だが、言葉そのものに罪はない。罪なのは若者の大人たちへの不信である。

今も昔も若者の自殺はあった。若い命を絶やすのはなんとも残酷であるけれども、死に行くものは平安なのだろうか。昔の若者の自殺と今の若者の自殺の決定的な違いを見ることがある。個々の事例に違いはあるが、学校や会社でのいじめや過労自殺というのが顕著な時代に比べてほとんど皆無といえるのは、昔の若者の大人に対する命がけの不信による自殺である。

大樹の幹に『巖頭之感』を書き残し、華厳の滝に身を投じた藤村操(16)は、「若き自殺の古典」と語り伝えられている。三原山火口に身を投げた実践女学校生徒真許三枝子(23)と松本貴代子(21)を皮ぎりに、その年(1933年)だけで三原山では944人(男804人、女140人)もの自殺者がでた。東尋坊、華厳の滝、三原山以外にも、三段壁(和歌山)や足摺岬(高知)も自殺者が多い景勝地。

観光地で自殺が多発するのは、死ぬ前に美しい景色を見たくなるのか、どうせ死ぬのなら綺麗な風景の場所で死にたいと思うのか、そのあたりの心情は理解できそうでもあるが理解は不能。藤村は旧制一高哲学科の生徒だったことから、「哲学自殺」といわれた。自殺40日後に発見された彼の遺体は肉親でさえ判別困難なほど腐乱しており、夏場の水死体が景勝地を汚した。

藤村操の自殺は社会的インパクトが大きく、後追い自殺が相次ぎ、未遂を含めるとその後の4年間で160余名が華厳の滝から身を投げたとされる。「無鉄砲」とは若者の代名詞で、向こう見ずな行動をいう。鉄砲も持たずに銀行強盗をするような行為と解釈すればピッタンコだが、もとは「無点法」または、「無手法」と書いていたようで、「無鉄砲」は当て字である。

どうやら日本は自殺天国であった。今でも年間3万人弱が自殺するが、「自殺天国」とは、自殺者が天国に行くことではない。歩行者が車にはねられても、「安心しない!それが歩行者天国」ということではなかろう。キリスト教は、死後に人間の「魂」は天国や地獄に行くとされているが、そんなものは人間の空想である。天国も地獄も存在はしない。といえばこれも想像か?

仏教は仏の教えであると同時に、仏になる教えである。一般的には、「死んで仏になる(死者を仏と呼ぶことも)」というが、これは間違い。人は死後に仏になれない。なぜなら、「仏」とは、「悟った者」の意味で、「成仏」とは「悟る」ことをいう。死んでしまった人間が、何かを「悟る」にも土台は無理な話。悟りについてある仏教者は、「最高の人格の完成」という。

間違いではないが、それだけではどんなことかちーとも分からない。一体、「最高の人格」とは何なのか?ダライ・ラマのような人をいうのか?スマナサーラ長老その人なのか?仏教的最高人格者は、キリスト教やイスラム教徒にとってそうではなかろう。「所違えば品変わる」とは土産物のことではないが、宗教とは観念論的独善の世界である。自分は無神論的自由を好む。

若者とは何か?⑩

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気づいたら少数派に属していた。自分のことである。多数派はつまらなそうだった。当たり前のことを当たり前に考えるからで、さらにいうなら、見せかけの満足感に慣れきった奴らに見えた。少数派には小さいながらも自由があるように思えた。人と同じことをしなければならないのは、どこか不自由な感じがした。人と自分が違っているのが当たり前に思えた。

多数派に与する者は、人と自分が同じであることが心地よい。全ての人間がそうではないにしろ、それが多数派の拠り所か。少数派を反体制というのは間違いではないが、他人への承認欲求の希薄さと、物怖じしない自己主張が少数派の生きざまか。改革行動には数が必要だからと、少数派もスクラムを組むが自分はそれも好まない孤独志向。かつてロックも反体制とされた。

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今のロックにそのイメージはない。ロックミュージックは純粋に音楽となる。今の時代、反体制の象徴って何なのか?アフロヘアーは消え、スキンヘッドも珍しくない。となると、タトゥくらいか?日本では刺青といったが、ヤクザの刺青と異なり、タトゥは市民権を得ているのか?日本ではもう少し時間がかかりそうだ。温泉地の露天風呂でもタトゥお断りの張り紙がある。

時代はどのように変わろうとしているのか?感じることは、あれはダメ、これはダメから、何でもオーケーの時代になりつつある。以前はダメだったものの多くが許容されている。その分、理想というものが手繰り寄せられる時代になってはいないだろうか?思うに青春期の若者は理想を求めた。しかもその理想は現実をふまえた理想ではなく、現実無視の理想だった気がする。

対人関係にも理想を求めた。親にも友人にも先生にも恋人にも理想を求めた。つまり、理想の親、友人、教師、恋人であることを望むのはいいが、少しでもその人たちが自分の理想にそぐわないとなると、途端に失望し、非難を始める。それほどに若者は純粋だったのだろう。純粋であること、潔癖であることは、ある面からいえば、寛大であることの反対ではないか。

すべてのことを相手に要求するのは若者の顕著な特徴だ。所詮は無理からぬことなのに無理ということも考えず、相手にすべてを要求していたようだ。自身を顧みても若者時代の未熟な象徴である。他人は自分のために生きているわけではないが、そんなことも分からず自分の思うように動いてくれないと腹を立てた。他人を自分の所有物のように思っているからだろう。

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親もそんな風になりかねない。子を所有物とみなす親は少なくない。だから言うことを聞かないと腹を立てるが、子どもの意見や意志に聞く耳を持たない。親が傲慢であるもっとも顕著な例が、子どもに一流大学を望む親。大学に限らず、一流中学、一流高校を望む親も同類である。さらにいうなら、一流小学校や一流幼稚園を望む親たちを、「お受験」族と揶揄された。

これら自分の視点に見える親という化け物たち。と、そのようにいえばこう反論する。「子どものため」、「子どものことを考えるから」と、こんなありきたりの言葉は耳にタコができるほど聞いた。こんなような言葉を子どもにいう母親もいるという。「お父さんは、三流大にいったから会社でも苦労してるのよ。お前には同じような苦労をさせたくないの。わかるでしょう?

学歴のない人が世間でどんな風にみられてるか考えてみて。それを現実の社会で味わったものにしか分からないから、あなたに今そのことを分からせたいの。『勉強のとりこになって一流大なんか行く必要ない。もっとノビノビと青春時代を過ごすべき』なんていう人は、自分が一流大出てる人なのよ。一流大を出ていないために受けた差別に苦しんだ人の言葉じゃない」。

この母親は本当にそう思っているのだろう。本当に子どものために一流大を出るのが幸福と思っている。が、この考えのどこに見落としがあるかを考えてみる。受験戦争時代に率直で具体的な批判を耳目にすることは少ないが、「果たして子どもが母親と同じように物事や人生を感じるだろうか?」という点が欠落している。母親は子どもは自分と同じ考えと思い込んでいる。

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子どもに同じように思わせようとしている。子どもの考えなどどうでもよく、親の価値観の刷り込みを行う。親は子を思いどおりにしたい。人間が同じことで喜び、同じことで苦しむわけではないという思考が頭から抜け落ちている。皆が同じ考えを持ち、同じ方向に向かっていくのが付和雷同。人と違っているのが良いというような、個性を重視しない日本人の特質だろう。

こうした親たちは本当に子どものことを考え、一流大学へと子どもを駆り立てていることは確かであるが、抜けているのは、子どもが親と同じようにものごとを感じると考えていることだ。親が悔しいと思うことを子どもが悔しいと思わないかも知れないのに、どうして一切を親の視点だけでで見てしまうのだろう。その答えは、「そういう親だから…」という以外にない。

また、そういう親にはこんなことを100回言っても耳に入らない。仮に、一流大学を出ていないために同僚よりも出世できなかった、同僚よりも実力があるのに昇進できなかった、そんなことがあったとしても、そういうことがどれだけ悔しいかは、その人がどれだけ出世願望が強いかといった要求の強さによって決まるのでは?官僚トップの事務次官の不祥事は少なくない。

あんな風に恥をさらしても、「事務次官にまで昇りつめたのだから上でき」。と彼らの親は思うのだろうか?まあ、親がどう思う、こう思うはどうでもいいこと。一流大をでてトップにまで駆け上がっても、その地位に相応しくない者はいるということだ。東大を出て長らく早大教授を勤めた加藤諦三氏は、同じような種の親を持ったこともあってか親への思いは辛らつである。

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このように書いている。「"子どもの幸せを考えるからこそ"といって、受験地獄に子どもを放り込み、尻をひっぱたいている気狂いじみた親には、自分も夫も三流大卒の場合と、もう一つは自分も夫も一流大卒の親の場合がある」。自分にブランドがあるのに子どもにそれがないのが、たまらなく許せない。子どもの幸せといいながら、そうした見栄や欲望がホンネである。

子どもを親が無理強いしたり、子どもの能力を無視して願望や期待をかけすぎることで悲劇が起こることはただある。「親の夢 壊して育つ 子どもかな」という川柳は、親の悲哀を詠んでいる。親子の愛はもっとも美しいものである側面があると同様に、もっとも醜くなる要素もある。人間の中でもっとも恐ろしいことは、「醜悪な行為を美しいと思い込んでいる人間」ではないだろうか。

若者とは何か?⑪

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「子どもの幸せのために…」といいながら親はレールを敷こうとするが、子どもは自分を守る権利がある。権利であって親のいいなりになる義務はない。親のいうこと、成すことが正しいと信じれるならいいが、そうでないと思ったら自分の意志を守るべきではないか。親に従わずして生きてきた自分だが、そうでなかったらどんなひ弱でヘタレな人間になっていたか。

想像するだけでゾッとする。親というのは親の手を噛まない飼い犬を作ろうとするようだ。親の手を噛まない人間が、社会の荒波の中で強く生きることができるだろうか?そう考えると、親は家庭のなかでいい子である人間を育てようとする。これがニートや引きこもりの一因ではないかと考える。父が祖父とお酒を酌み交わしながらふとこぼした言葉が脳裏に残っている。

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「親のいうことを黙って聞いてるような子どもは、ロクな人間にならん」。祖父の長男は、中学を出て大阪に家出をし建設会社の社長になった。時に凄い外車にのって帰省したが、子どものころから自慢の叔父だった。母の弟だが、母にとっても自慢であったようなのに、それならなぜに息子を支配しようとするのだろう。女親というのはいつも目先だけのことしか頭にない。

人間が人間の思うような人生を生きていくのは難しい。ならば、せめて自分の思うように生きてみるべきと考える。大学教授の、官僚も、ジャーナリストも、医師も、俳優も、みんな自分の職業がもっとも価値あると信じているのだろうか。思うに、真に価値あるものは、自分が自分の意志と努力で欲して得たものではないか?その人の志こそが人間を偉大にするのではないのか。

母親の思考が子どもと同化するのは、我が子が自身の身体を削って生まれたことと関係するのだろうか?子どもは自分の一部という思いにいたるのだろうか?男親には分からないところである。そうであるゆえに母親は子どもとの関係でもっとも自分を抑制しなければならないはずだが、これは人間として明晰な部類であろう。親の経営する会社に息子を入れたときのように…

一流大を出た親のたまらない優越感を、子どもが同じように感じるとは限らないのに、優越感をそのまま子どもに委譲しようという発想はいかがなものか。一流の親から一流が生まれないのは、スポーツや芸術の世界では頻繁にある。一流ピアニストの子どもはみな三流である。ゴルフもテニスも野球も、最高の選手を指導者に持ちながら、なぜか一流から一流は生まれない。


いかに一流大を出た親の優越感が精神的支えであったとしても、それをそっくり子どもに持ち込もうとするのは正しい子育てだろうか?「正しい子育てなんか関係ない。とにかく子どもは親と同じ一流大に行ってもらわなきゃ。三流大だと親として立つ瀬がないでしょう」というのがホンネであろう。気持ちは分かるが、自分(親)の都合でする子育てって一体なんだろうか。

人間が精神的に成熟している一つの証とは、バランス感覚を所有した人である。一つの立場からのみ見たこと感じたことを気狂いのように主張したり、押し付けたりしない人間のことをいう。これは子に対する親だけではなく、人間関係においても大切なことだ。別の角度や他の立場から見たことと併せて考えられること。未成熟というのは、その点がハッキリしている。

つまり、一つの立場にしがみついているということだ。世の中には自分と他人という立場がある。そうした立場の違いによって物事はまったく異なって映るということを教えるのが真の教育ではないか。これはもう、親のキャパによるとしか言いようがない。「自分は真実しか言わない」、「正しいことしか言わない」という人は、他の視点から物を見ていないのがあからさまである。

ソニーやホンダという一流会社の創業者は息子を会社に入れなかった。数日前、ユニクロの創業者が二人の息子を同時に取締役にした。ということは三流会社ということになる。にも拘らず柳井氏は世襲は否定したが、表向きの非難をかわすためというのがもっぱらだが、既定の事実を作っておけばどのようにも変えられる。ブラック企業といわれた柳井会長の腹のなかは真っ黒。

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母親は子どもにとって暴君となる可能性がたかいが、父親も理性を欠けば暴君である。母親は大草原で暮らしたらどうであろうか。父親の暴君を歯止めするのは、大邸宅から小さい家に住み替えたらどうか?暴君になるのはあまりの高い理想と、あり余る資産のやり場に困るからだろうが、「我が子に美田を残すな」と故人の教えがある。自ら耕し開墾せよ、ということだろう。

ベルサイユ宮殿に生まれた王子は当たり前にベルサイユ宮殿の王となる。人間が自分本位の考えによって、どれだけ多くのものを駄目にしたかは歴史が教えている。にもかかわらず、当事者になると見えなくなってしまうようだ。本当に子どものことを考える親なら、反抗を善とし強圧的に押しつぶすことをしない。薄弱な子どもは反抗しないが、正常な子どもは反抗するからだ。

親心の激しさはいうに及ばずだが、それをバカげた独善論と自分は考えた。親が子どもに夢中になるのは自分のためだからである。一例として、子どもがもし、「お母さん、本当にぼくのことを思うなら放っておいてください」といってどうするかを見ればわかる。子どもが何をいおうが親は自分が正しいと押し付ける。それが親がいうところの、「子どものため」なのだ。

子どもがやることは一つ。聞かないこと、無視すること。親の責任とは子どもを思い通りにしたか、できなかったかであって、子どもにとってそんな責任論などたまったものではない。「責任とってもらわなくて結構!」であろう。子どもも若者もどうしても年長の大人たちから強圧を受けることになるが、そうした親や周囲のエゴイズムにどう対処していくかが若者の将来を決める。

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子どもは、若者は、そうした激しく厳しい周囲の外圧に一人で立ち向かわなければならない。それなら強い人間になるだろう。青年期の反抗というのは、自己本位な周囲の者たちによって阻害されかねない自分の人生を守るためである。「親による子殺しはなぜ起こるのか?」を考えるまでもなく、究極なエゴイズムの存在がそこにあるという考えに至る。決して難題ではなかった。

子どもを醜い、許せないと思う親は、自分自身がそうであることに気づかない。それで子どもに手を下す。ちょっと待った!自分自身の醜さに気づいて自らに手を下せよ!といいたくなる。だから人間は誰もが自己中であり自分勝手。織田信長の傅役平手政秀は、自らの命を賭けて信長に換言した。不良に手を焼く親は、遺書を置いて死ねば子どもは我に還るかも知れない。

若者とは何か?🈡

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長くいわれてきた「母性本能」というものが、非科学的で根拠のないものだと科学的に推認される時代になっている。その魁となったのは、フランスの哲学者で歴史学者でもあるエリザベート・バダンテール(Élisabeth Badinter; 1944年3月5日 - )の著書『母性という神話』である。フランスにおける多様なフェミニズム論の一研究との批判もあるが、彼女はこのように述べる。

「いわゆる『母性愛』は本能などではなく、母親と子どもの日常的なふれあいの中で育まれる愛情である。それを『本能』とするのは、父権社会のイデオロギーであり、近代が作り出した幻想である」。母性本能という概念はどういう経緯で生まれたか?「そもそもこの『母性本能』という考え方は、女性の慈悲深い愛情を称えて言われるようになったのでは決してありません。

むしろその逆で、女性を蔑視し差別するために言われるようになったものなのです。進化論の考え方では、女性は男性のように優れた能力を持つように進化しなかった、つまり、女性は進化が途中で止まった生き物であり、そのために男性のような優れた能力を持つことが出来なかった存在だとされていました。それゆえ、女性は男性に比べて能力が劣る生き物だとされていたのです。

だからこそ女性には、子どもを産み育てることに無条件の喜びを感じ、どんな場合でも子どもを無条件に愛する『母性本能』が備わっているのだ」とされたのです。ジェンダー論を背景にした考えといえなくもないが、最終章の、「だから男はずるいんだ」的な主張には違和を感じるが、ともかく動物の本能習性に比べて人間の本能が壊れていることは間違いのないこと。

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また、「母親のいかなる普遍的かつ必然的な行動」などはなく、 「母性は感情である」とさえ言明している。その点については同意する。若者に話を戻す。子ども自身は無力と未熟さを自覚をすることはさほどないが、青年期にはそれらが劣等感という形で噴出する。子どもは単にできることをやろうとするが、人にできて自分にできないことに悩むようになるのが青年期。

他人と自分を比べるようになる自我期において、それは劣等感となって現れる。「なんでわたしはこんなに不細工なの?」、「どうして俺はイケメンじゃないのだ!」などと、他人の容姿よる劣る自分に嫌気がさす。運命とは言うまでもない、他人と自分との差異の現れだが、どうすることもできないから運命を憎む。それで気持ちが晴れればよいがどうなのか?

もし、人間が他人と比較しない、他人との差異を問題にしない、自分自身の、「伸び」だけを問題にするのなら、言葉通りに、「伸び伸び」と生きられるだろう。それができないのは人間が欲な生き物であって、こういう例もある。ある美人の女性が自分の容貌に劣等感を抱いていた。「何でと?」誰が見ても申し分のない美人であるが、彼女は姉と自分を比べていたのだ。

秀吉は困窮する農民に、「上を見て暮らすな、下をみろ」と諭した知恵者であった。そのために、「穢多」・「非人」という階層を作り出した。校内で一番の成績をとる者でも、兄のあまりに秀才ぶりに劣等感を抱くようにである。こうした事例から見出すべくは、「他人は他人、自分は自分だ」という悟りである。悟るまでもない現実だが、「悟る」というほどに難しいことなのか。

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「他人を気にしないで暮らすことの楽しさ」を実感するが、青年期や若者というのは自分を誇張したがるものだ。他人からすれば何でもないことを気にしたり、自慢したりの若者が通例である。50歳、60歳になっても誇張が止められない者もいる。つまらんことやくだらぬ悩みを誇張するのは若者だけの特権ではないようだ。そうした誇張癖は、その人の内面の不安がもたらすもの。

若くてハゲの外国人俳優がこういった。「俺にハゲを与えし神に感謝している。俺には髪は似合わね~」。なんと逞しい言葉であるか。そこまで言える日本人を知らない。「髪があって当たり前」の概念を吹き飛ばし、「髪がないのが自分なのだ」と肯定する。「人と同じでないものは変」というのが子どもの心理であって、それが小中学生のいじめの要因になったりする。

「他人と違って当たり前」という情緒は子どもになく、だから他人との差異を気にする。『みにくいアヒルの子』などの児童文学で啓発もするが、子どもたちの現実志向に対する大人や教師たちの真剣なまなざしが必要である。そんな教育者不在の学校なら行く必要が感じられない。理不尽な仕打ちを受ける子どもたちを、自己保身しか頭にない教師が救えるハズがない。

自己保身の必要なき親が、「自分の顔は自分の顔」と笑って生きられる子に育てられる。森三中がデビューしたころ、ブスをものともせぬ存在感には好感をいだいた。彼女たちのあっけらかんとした性格がどう育まれたかに興味があった。「ブスでデブのなにが悪い。私たちは楽しく生きられますよ~」。そんな、周囲を圧倒するパワーは自己肯定権化者のようであった。

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26歳女性から失恋メールが届く。多くを聞かずとも状況は読める。男と女は付き合いが長くなるほど相手の欠点を許容できるようになるものだが、細々したことを男がいい始めたら、「終わりの始まり」と認識すべし。欠点だらけ同士のハズなのに、女ばかりに文句をいい、我慢を強いる男に女の方はじっと耐え、時にそれが情緒不安定になって爆発することもあろう。

「ワガママは男の罪、それを許さないのは女の罪」という歌がある。男目線の男中心の言い分だが、女がそれを許すなら、時に彼女の気持ちが荒むくらい許容してやれ。とかく生理によって情緒が支配される女性は、昨日と今日が別人であれ、それを理解できぬは男の罪と、これは女性への憧憬の深いとされる作家の渡辺淳一氏の言葉である。そういえば彼は医師でもあった。

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自分が自由に自分のままでいられる恋人って珍しいのか?若者はなぜに苦悩が絶えないのだろう。「若いという字は苦しい字に似てる」と、こういう歌詞があった。「苦しみと悩みは偉大な自覚と深い心情の持ち主にとって、恒に必然的なものである」。これはドストエフスキーの言葉であるが、これをを簡略すれば、「バカには苦しみも悩みもない」と言い換えられる。

若い人は、男も女ものべつくまなく悩み苦しむが、誰も人の悩みを解消することはできない。男の失恋、女の失恋を多く目にし、耳にしたが、幸福の探求を自由の探求と位置づける自分に、他人を救うことはできない。ただ、自由でいろ、自由に生きろ、人は自分の自由にはならないとしかいいようがない。実際そうであるし、にも拘わらず人は他人の無慈悲を哀しみ苦しむ。

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良い人…? ①

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この表題は必然的に、「悪い人…?」を内包する。言葉でしゃべる時はマンガのふきだしのように字は出てはこないが、文を書くときには、「良い」がいいのか、「善い」がいいのか迷うことがある。大辞林には、「良い」と、「善い」は1つの項目として載っている。ということは、"辞書的な定義としては同じ"ということになるが、厳密には使い分けが必要である。

辞書の記述がすべてということでもないようだ。「良い」の一般的な使い方として、「品質が良い」、「頭が良い」、「体調が良い」、「良い文章」など、全ての「よい」に使える。一方、「善い」は読んで字の如しで、道徳的に正しいの意味で使われる。簡単にいえば、「悪に対する善」となる。「良い子」とすれば、「物事が他のものより優れている子」という意味。

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「善い子」と表記しないのは子どもであるからで、子どもの言動を善悪の基準としてあまり捉えないからだが、子ども時代を過ぎれば道徳的な「善人」という言葉で評される。そこで、「良い人間」、「悪い人間」というのをどのように使うか?まら、それに該当する人間とはどのような人間をいうのか?自分の知るところの人間に自分がどういう理由を当て嵌めているのかを考えた。

いうまでもない人間の、「良し悪し」には、どうしても倫理的なものが含まれる。どうも倫理というのは苦手な領域である。その理由として、「倫理」というやつは、"固い殻の奥"にありそうな気がする。不倫は倫理にあらずという程度の倫理なら猫にでも分かりそうだが、哲学者たちの、「倫理」についての思索は難解である。まあ、自分は哲学者ではないからいい。

とはいっても、自由主義者にはどうしても倫理という壁にぶつかり、倫理と自由のはざまで思考が混濁する。自由は倫理を超えるものか?倫理の枠内での自由なのか?「不倫はよくない」、「不倫は非道徳的だ」と、これは誰にも分かる論理。なのになぜ不倫が横行するのか?自由を求めるからである。規則や道徳的「禁」を犯すことで人は自由を体現できるのだろう。

夫婦以外のあらゆる男女の性愛を不倫として断罪するそこいらのおばさんはさておき、「不倫はダメ」の理由は社会の秩序の崩壊になるからである。それを認めれば結婚制度は意味をなさず、結婚制度を土台に築かれた社会は秩序を維持できないのは中高生でも分かる論理。近年の箍が外れたかのような不倫ブームは、「いいじゃないの、道徳的人間でなくても」ということか。

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もし許されるなら、自分の嫁でない他人と嫁とイタシたいだろう。が、「もし許されるなら」という前置きは、「誰が(許すか)」である。嫁の夫が許すハズはない。我が嫁も許さない。だとすれば誰が許すのか?本人(人妻)ということになる。なるほど…。だったらこういう風に口説けばいい。「もし、あなたが許すならイタシたいのだけれども、いかがなものでございましょう」。

「嫌です!あなた何を言ってるの。ダメに決まってるでしょう」というのが道徳的な返答である。まあ、これは道徳的な返事をしただけで、心のなかは違っているかもしれない。そこでこのように追い打ちをかけてみる。「嫌よ、嫌よもいいのうち…という言葉からすれば、今の言葉は『いいわ』と受け取れますが、ダメに決まってるって、何が何にダメなんですか?」

「そんなこと分かってるでしょう?私は人妻なんだからね」。と、こういう会話になれば堕ちたも同然というのが自分の解釈だ。「もっと口説いて、もっと強引に…」という女性の心理を分かる男は得な性格だ。男は女性にとって、「善い人」である必要はない。男が言葉巧みに女の武装を取り払ってくれたなら、「あなたって強引なのね」という口実を用意すればいい。

と、こんなところで口説き講座なんかやってる場合ではないし、もうそういうのは卒業してしまった。「あなたって悪い男ね」と女はいいつつ、善人ぶって実は悪い女。だから、「わたしも悪い女なのね」などともいう。良いとか悪いとか、善とか悪とか、簡単にいってしまえるが、人間なんてのは一見単純に見えても、意識的・あるいは無意識的に実存的な存在といえよう。

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「主義」や、「イズム(-ism)」といわれるイデオロギーが、一体どれだけの数あるかを知らぬが、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場、本質存在 (essentia) に対する現実存在 (existentia) の優位を説く思想を「実存主義」といい、これがもっとも人間的なものではないか。当初の日本語訳は、「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して、「実存」とした。

例えていえば、一人の人間の中にも矛盾があり、あるケースににおいては、同一人物であっても、好きにもなれば嫌いにもなるものだろうし、自分自身においてもそういう経験はいくらでもある。ということなら、人間についての、「良し悪し」というのは、「好き嫌い」とした方が分かりやすいのでは?先日、といっても本年の正月21日、保守派の評論家西部邁が自殺した。

他人の手を借りた自殺で、手を貸した西部の心酔者二名は自殺幇助罪で逮捕・起訴された。これに対して西部の長女は朝日新聞の取材に対し、「生前本当によくして下さった方々。父の自殺にお二人を巻き込んでしまい本当に申し訳ない」と語り、「お二人が自殺を手助けしたというのなら、父の自殺の意志を変えることができなかった娘の私も同罪です」と涙声で話した。

「三島由紀夫は皇居前で一人腹を切るべきだった」という論評もある。それなら若者を道連れにしなくて済んだということ。三島も西部も他人を巻き添えにした点については孤独者たり得なかったのだろう。ビルから落ちても電車に飛び込んでも内臓は散乱するし、首を吊っても脱糞したりと、人に迷惑をかけない死に方というのは、一人で樹海の奥深く入り込むしかない。


一人暮らし者がアパートで自殺すれば、その部屋は永遠に空き部屋になる。「この部屋にて自殺者あり。よって家賃は五分の一」で、借り手があればいいが、重要説明事項で告げる義務がある。映画『飢餓海峡』のラスト、青函連絡船から容疑者が海に飛び込む場面は、海の藻屑となって誰にも迷惑がかからない。迷惑なのは飛び降り自殺で通行人が巻き添えになること。

三原山自殺や華厳の滝自殺はインパクトがあったせいか、後追い自殺が数百人も続いてちょっとしたブームになったが、いくらブームとはいえ自殺がブームというのはいかなる世相だったのか。明治の文人川上眉山の自殺理由も印象深い。「愛、妻子の外に出でざる者は痴なり」と彼は書き残している。40歳の男盛りであったが、妻以外の女性を愛したことを恥じたのだ。

良い人…? ②

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自分の知る人間においての「良い人」と書いた。見たことも会ったこともない人物の評伝を書くより、知る人間の方が説得力が勝ろう。「良い人」とは、「好む人」が分かりやすいとしたが、頭に浮かんだ良い人の筆頭はSさんである。彼の親切は忘れたことはなく、思い出すことに苦労はない。1986年2月9日の早朝6時頃、その日は待望のハレー彗星の近日点通過だった。

近日点とは、太陽系の惑星・彗星などが軌道上最も太陽に接近する点で、地球から見て観測に適した日のこと。76年周期のハレー彗星を待ちわびた子どものある日、学校の図書室で図鑑を見ながら、「早く35歳にならないかな~」などと指折り数えた記憶がある。念じて大人になるわけないが、ひたすらその日を待ちわびたが、中学~高校には天文への興味は薄れていた。

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それでも子ども時代の思いを実現させたいと早朝に起床、家族全員を先導して見晴らしのよい海岸べりにクルマを飛ばした。夏場は海水浴場で賑わう場所も2月では何の変哲もない。その辺りをクルマでうろうろしてるうちに、タイヤを側溝に落としてしまった。あれあれ、これはどうにもならないと愕然としていたところに、新聞配達員が通りかかり、こちらに寄ってきた。

よく見ると読売新聞販売店の経営者であるSさんだった。弟は同級生で彼は二級上に兄だった。状況を把握すると、「すぐに人を呼んでくるから待ってて!」と仕事中にも拘わらず、自宅に戻り男を二人連れて現れた。二人とSさんと自分の4人でクルマを持ち上げ、側溝に落ちたタイヤを脱出させた。彼らはすぐにそのまま仕事に行ったが、難を逃れてほっとした自分である。

近日点通過時刻は6時40分だったが、期待に添わず写真で見るハレー彗星ではなかった。ボヤ~とした豆粒のハレー彗星は、多くの観測者をがっかりさせたとの報道だった。次回の76年後は100歳を超えているから、文字通り最後のハレー彗星である。ところで、Sさんの善意・親切に自分は報いたいし、そのためには現在の毎日新聞から読売新聞にすべきかどうかを考えた。

毎日新聞を購読する理由は、『将棋名人戦』の主催紙であったからだ。当時読売は『十段戦』(現在の『竜王戦』の前進)である。お礼を兼ねて販売店に立ち寄るためには、何より読売新聞を購読するのが何よりであろうと、そのことは分かっている。数日間、熟慮した結果、改めてお礼にも行かず、読売購読には至らなかった。善意に対する暗黙の義務感に自分は屈しなかった。

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非礼であると自分を責めたが、自分に無理をしなかったからか、30年以上を経てもSさんの善意・親切がいささかも消えずに心にとどまっている。あの時の彼のとっさの行動は、無償の善意以外の何ものでもない。商売上の利害も何もあったとは思わない。その後に、新聞を購読してくれるかも…といった細やかな希望はあったかも知れないし、なかったかも知れない。

自分たちは義理や人情を重く受け止める世代であるがゆえに、心が大きく揺れていたが、最終的に自分はSさんの無償の親切には応えなかった。そうして今現在も、あの時の判断は正しかったと悔いはない。購読する理由のない読売新聞を、自分に無理をしてとったとしても、それだとSさんのあの親切を、純粋に善意とは感じなくなろう。どれでもいいなら替えていたと思う。

情緒に流されず、おもねることなく購読紙替えないでよかった。読売をとったのちに後悔することも発生しなかったことで、Sさんの善意を永遠のものにできた。Sさんは自分にとっての「良い人」の一人となっている。よもや彼はそんなことを思われているなど思いもよらないことだろう。あの時の決断はまさにそれ、「自分が後悔するかしないか」という判断だった。

「良い人」を永遠に留めていくためには、いささかも自分が無理をしないことである。善意に対して自分は報いた、返したという気持ちはその後になっていつしか負担になる可能性もある。「あの時、あれをしなければよかった」という可能性もないとは言えない。自分が悔いれば、相手の善意を多少なり責めることにもなりかねない。義理を果たさぬことで永遠の借りを作るのだ。

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「良い人」を永遠に、「良い人」と置いておくために、何をすべきで何をすべきでないかを経験したことになる。人は人から受けた親切に、その場の気分でついつい必要以上におもねることがある。親切を仇にしない人間と思われたい、義理をちゃんと返す人間でありたい、相手からも称賛を浴びたい、いかばかりか、無意識かの気持ちが発生するが、心鬼にして無理をしないことだ。

人という字は支え合うという象形だから、持ちつ持たれつであるべきだが、そこに無理が入り込むと後々負担になる。それを読み切るための強い意志も人間社会には必要だろう。「義理も果たさぬ冷たい奴」と思われることがあろうと、「義理も果たさぬ冷たい奴」などと思う心が邪悪なのだと理解する。この手をよく使うのが親。無償の善意がこうなっては親といえども醜い。

自分がそれをしないことは、自分も要求しないことでもある。おそらく義理や人情にうるさい人は、それを要求する人に違いない。「自分がそれをしないでいる」ことは、「自分はそれにならないこと」であるのを、強く噛みしめていける人間なら、筋が通っている。礼儀正しい人は相手の礼儀にもうるさいものだ。自分は礼儀正しくとも、相手にそれを望まないのは人格である。

シラーといえば、ベートーベンの第九交響曲『歓喜の歌』の作詞で有名だが、彼の言葉にこういうのがある。「ぼくは友人に尽くしたいんだが、残念ながら好きでするのだ。で、ぼくはしばしば思い悩む。自分は有徳者ではないのだと…」。メロスの行為が感動的なのは、彼の行為が義務づいているからではなく、単に友情に基づいているからである。友情とは無償を旨とする。

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これを恋愛に当て嵌めるとどうだろうか。恋愛には「愛」の文字がある。「愛」は無償であるからこそ輝くというが、果たして男と女の恋愛が無償で成り立つものだろうか?「女は自分がいただいたものだけの分量の愛を返す」という。それならまだしも、100円のチョコを贈って1000円のものを期待する女性もいる。と、体験はないがホワイトデーとはそういうものでは?

これが今に始まったものではない女のしたたかさというなら、自分なら速攻で、「さいなら」する。女が輝いて美しいのは人を愛する女である。「愛されることは滅びゆくものだが、愛することは持続する」と、リルケの美しい詩があるが、愛することも持続しない。愛は決して永遠ではない。しかし、随分と長く続くものもある。が、男と女は美しい言葉で彩られたいものだ。
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