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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    嘘つきが言う、「これは嘘」は本当。これは有名なパラドックスで、嘘つきは必ず嘘をつくし、だから嘘つきとなるが、嘘つきも本当のことを言う事はあろう。が、自分の知るある嘘つきの言葉に本当はない。もはや信頼もゼロということで、こういう嘘つきの被害から逃れるためには、言う事すべてが「嘘」だと思うこと。そう思っていさえすれば被害は免れる。

    自分がまだ小学生の低学年だったころ、世の中の「嘘」に慣れてもないし、まして身近な親がそんなに嘘をつくなど思っても見ない。ところが先天性虚言癖の母に嘘ばかりつかれて頭を悩ましていたときに、我が家に奉行していた職人さんがこういった。「お母ちゃんの言う事はぜんぶ嘘だから…」、この言葉に活力を得た自分は母のいうことを信じなくなった。

    兄ちゃん(そう呼んでいたし、自分が生まれた頃からいた職人で、本当に兄と思っていた)は、その言葉のおかげで母から言われぬ仕打ちを受けたようだ。母の言う事は何かにつけて「嘘だ!」と口に出していうようになった。母が「嘘じゃない」と言った時には、「お母ちゃんのいう事はぜんぶ嘘だと兄ちゃんがいってた」と言ったことで兄ちゃんはひどく恨まれた。

    子どもはそのようになるとは思わないし、自分が母を信じなくなったのは兄ちゃんに聞いたから、というのは子どもにとって正当な論理である。根拠でもある。嘘などついた事のない、信頼できる兄ちゃんの言葉を信じるのは当たり前だ。が、「お前が余計なことをいうものだから、子どもが言う事をきかなくなったじゃないか!」と責め立てる場面を幾度も見た。

    母はしつこく、執念深い性格だから、同じことを"これでもか"と何度も繰り返す。一度言えば済むことという観念がない。しつこい人間はそういうものだし、自分の頭に支配的にある言葉はいつもいつも口から出易いのだろうが、言われる者の身になったら溜まったものじゃない。「うるせーな、1回聞けばわかるよ!」という言葉を吐かずにはおれなくなろう。

    ところが、雇用者が雇い主にそのような言い方はできないし、兄ちゃんは毎日拷問のように母からその言葉を突きつけられて苦悩したと思われる。兄ちゃんはある日突然、自分の前から消えていた。学校から帰ったらいなくなっていた。「辞めた」という感覚が分らない。幼児のころから添い慕っていた兄が突然いなくなることの淋しさで胸が張り裂けそうだった。

    自分に言う言葉などなかったのだろう。今となっては喧嘩して出て行ったのかも知れないが、当時はそう言う事を考えることもなかった。母は人をキツク責める性格で、そこに遠慮も気づかいもない。自分の思いをストレートに発散させるだけの思慮なき人間だから、多くの人が迷惑を被るし、孫の仕事先、仕事中でも容赦なく電話をかけるという、稀有な性格である。

    どう、分析していいのか理解に苦しむが、単純にいえば人の迷惑より、今の自分の何かを解決することを圧倒的に優先させるのだろう。つまり、自分にふりかかる問題しか頭になく、時間を置くとか、少し相手の状況とかを考えることをしないほどに短絡的な性格というしかない。社会に身をおき、真っ当な社会生活が出来ない人間である。「超自己中人間」といえば分り易いか。

    人の配慮をしない人間の頭の中を見てみたい。現実にこういう人間がどうして輩出されるのか、親のせいなのか、それは分らない。母の父(自分の祖父)はたいそう厳しい人だったようだ。明治生まれの気骨に溢れた人である。一言も逆らうことの出来ない親に育てられた反動なのだろうか?あれほど自己に自由に奔放に生きる人間を羨ましいなどと思わない。

    常時接する身内の心理や性格分析などはあまり意味がない。そんなことよりも、毎日ふるかかる現実にどう対応すべきかが最重要課題であるから、ここで自分が他人の心理をアレコレ言うのは、身内の爆弾からすれば暢気な言い草である。我が家には母という爆弾の導火線が、一体何十年間燃え続けるのだろうか?反抗したのは自分と三女しかいない。

    現在はおっとりした性格の妻が無言の反抗を続けているようだが、昨日15年ぶりくらいに母と話した。長女からの依頼で、「もうどうにもならないから、何とかして!」と言われ、「あの人(母)と話す気はないし、声も聴きたくないから」と断ったが、「おばあちゃんがどうしても電話番号を教えろってうるさいので、何とか話してみてよ。向こうも話たいんだし」と言う。

    「こちらからはしたくないが、電話番号を教えて向こうからかかるならいいよ」と告げると早速かかってきた。15年ぶりに聴く母の声だが、瞬時に過去の様々な確執が思い出す。(長い間争ってきたのは紛れもないこの声である)。そういう事も抹消したいので、できることなら互いが棺桶に入るまで、母の声は聴きたくないと念じていた。開口一番母はこういった。

    母 「千加ちゃん(妻)が金庫のカネを盗んだので警察に言ったら、家族でよく話してくれと言われたから…」

    自 「それで自分に何を言いたいわけ?」

    母 「家にドロボーがいるのはやってられんし、警察に言うからといったら、"好きにしてください"というし、"あんたは手錠かけられて監獄に入って、それでもいいんか?”と嫁にいったら、"ドロボーなら罪だし、与えられた罰を受けます。だから警察に言ってもらって結構です"というんだ、この女は…。警察にいうのは身内の恥だし、そういう事はしたくないし…」

    やれやれ、また自作自演かい。何かをやろうという気もないのに、架空の事象を自分の中に描き、それで相手を脅したり、スカシたり、やる事は50年経ってもかわってない。妻は以前もドロボウ呼ばわりされたと聞いたときに、「警察なりどこなり、気の済むようにしてください。私は何をされても構いません」と言えと指示、彼女はそのようにしている。

    脅してひれ従わせようとする側に、脅しが効かないなら困るのは目に見えている。が、今度は「好きにしてください」と言うのが気に入らないと文句を言う。アレがだめならコレ、コレが効き目がないなら、とどんどんやる事がなくなって行く。そうすると脅しが効かないことの不満が増幅するという、まさに堂々巡りである。コレを一人芝居といわず、何という。

    嘘にも種類やレベルがある。母の嘘は自分の友人を巻き添えにしたものが多く、そこがやるせない。自分と母との問題なら言い合で済むが、他人が巻き添えになると家の恥になる。今は妻が最大の被害者である。「このお金を自由に使っていい」と気前のいいことをいわれ、使ったら、「金を取られた」といわれたらどうか?殺人はこのレベルで起こるのだろう。

    母の脳細胞は昔から幼児レベル以下である。が、それだけに話が通じない難しさがある。だから「お好きなように」というしかない。妻も就寝中の夜中にいきなり部屋に入って来、あることないこと吠えられたらやってられない。人を刺し殺すそんな勇気も度胸もない人間だからいいものの、ヒステリーで見境がつかなくなったら、と思うと心配の種は尽きない。

    確かに夜中に部屋に入って来られる怖さはある。近所の人、銀行員など出入りの業者に妻の悪口を言うくらいなら我慢もできとう。そういう姑の行状と思えば別に腹を立てることもない。「お前が腹を立てる事はない。すべてはバカの所業と見下していればいい」と、コレがバカの対処法であり、妻は心神耗弱状態から「もう口を利きません」といえるまでになった。



    「お母さんから、金庫と鍵を貰った。好きに使っていいといわれた」と聞いたときは、こんな母相手に長年の苦労がこれで実ったと安心していたのに、やはり母は一筋縄では行かない人間である。「好きに使っていいと、鍵を渡して言ったから使ったのに、言葉を返されたら、やってられんだろう」というと、「足腰立たなくなったら使っていいと言った」という。

    「だったら、何で証文書いておかないんだ?後になって"足腰立たなくなったら"というくらいなら、始めに言っておけば使わないだろが。いや、足腰立たなくなってから金庫と鍵を渡せばいいのに、何で先に渡したのか?それで、"足腰立たなくなったら…"と言っても、警察も裁判所も認めるわけがない。あんたはそう言ったというが、証拠にない言葉は、言わないと同じ。」

    「証文などと、そんなことをする身内がどこにある?口で信用するのが普通じゃろが」、「バカをいうんじゃない。証文はあんたを守るために書いとくもんで、足腰立たなくなったら使っていいと確かに言った、その言葉を守るためのものだろが。相手が悪人なら言った事も聴いてないというし、だから自分を守るために証文を書いておくべきだろが」

    と、こんなことを言っても分るはずがない。「そんな女だと思わなかった。あの女は大嘘つきだった。騙された」と罵るだけで、何かを解決する意志はまるでない。とにかく、家にドロボーがいるというなら、警察に突き出すか、家から追い出すか、どっちかしかない。どっちでも従うといってるんだから、どっちか決めたらいいだろが、文句ばかりで何が解決する?」

    もっとも母が何か結論を求めていないのは重々承知。結論を求めない愚痴や罵りあいに自分は参加する気はない。そこで母には三つの最終提案を突きつけた。①ドロボーの被害にあったというなら妻を警察に突き出す。②ドロボーを家にいるとの不安なら妻を家から追い出す。③妻は年寄りを置いて家を出れないといっているが、勝手にしていいとお墨付きを言い渡す。

    「コレのどれかを決めること。自分の気の済むようにすればいいし、あんたの決めたことには誰も文句を言わずに従う用意がある」。こういう風に、物事の解決を図る気もなく、愚痴や不満ばかりいう人間には、何かを決めることを進言し、相手にしないようにすべし。愚痴や不満を聞くのも辛いが、辛い以前にそれは罪だろう。所詮は他者の悪口に加担していることになる。

    憎き息子でも、嫁がさらに憎しとなれば、こうしてする寄ってくる節操のなさに加担するほど自分は無節操ではない。最後に母にこのように引導を渡した。「嘘つきは人を嘘つきというもので、この世にあんたほど嘘つきはいない。オヤジが死んだときに、相続放棄の用紙を送りつけ、"すべてはお前のものになるが、今は放棄をしておいてくれ"と言ったのはどこの誰だ?

    それが、自分の意のままにならない、息子が言う事を聞かないと、息子にはカネをやらんと親族近辺に言いふらしたのは誰だ?自分は妻にいった。全部お前にやるから、我慢して一緒にいてくれ。見せ金で息子を意のままにしようなどと、そんな腐ったカネなど屁でもないわ。嫁に盗られたというなら半分は息子のカネだと思うこと。すべてを独り占めしたバチがあたったのよ。」

    その言葉を受けて母はいった。「そんな作り話をいうのか?人が死んでいるときに、遺産がどうとか、放棄とか言うはずがない。」、「人が死んだから出てくる話を、綺麗ごとで片付ける、だから大嘘つきっていうんだろ。これ以上、不毛な話はしない。さっさと結論をだすことよ」。嘘つきとは、「言ったことを言わない」、「言わないことを言った」という人間をいう。

    だから、嘘つきとは話の筋道が通る道理がない。言ったことを忘れたというのは、嘘ではないといい、嘘ではないから罪はないというが、忘れることの罪は思いといわなければ責任の置き場はない。したがって、「忘れた」という人間は、覚えている人間の言いなりになるしかない。それが「忘れた」人間の「覚えている」人間に対する誠実さであろう。

    「忘れた」ことを正当化すべきではないのよ。「忘れた」ことで免罪されることではないのよ。忘れていても覚えてる人間には頭を下げるべきなのよ。「お前は小学生のころ、オレが親切に貸してやったものを嘘をいって自分のものにしただろう?」、「そんなこと覚えてないな~、いいがかりじゃないか?人から借りたものを盗るなんて、そんなことはしないと思う」

    そう言われて、「そっか、なら仕方がない」と覚えてる側は言うのが正しい。が、本当に忘れていたか、とぼけていたか分らない。どちらにしても、そのような突っぱねは間違っている。往々にして、忘れる側より、覚えてる側の方が正しいと思った方がいい。それが人間性というものだ。したがって、数十年も前の事件を本当に忘れている場合は、以下のようにいうべきである。

    「そういう事があったんだ。申し訳ないけど覚えてない。が、覚えてないが君のいうように、やった事は子どもといえども非道だし、今ここにこうして心から詫びさせてくれないか。お前の立場において考えると、謝罪の言葉もないし、地べたに頭を擦り付けても足りないほどだ。許して欲しい、本当に済まなかった」と、地べたに座して謝りたい気持ちになるだろう。

    どれだけ、相手に同化できるかが、人間の思いやりの深さである。自己正当化して罪を逃れようとする人間と、たとえ記憶の隅から消滅したとしても、もしそういう事実があったならの前提で、相手に同化して謝罪できる人間の、「人としての差」であろう。こういう違いはどう育まれるのか、そこは分らない。が、ニーチェの言葉は常に頭の中央にドッカ!とある。

    「人間の"生"の目的は、人への愛と謙虚さを身につけることだ」



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    国民生活白書によると、男性側の離婚申立理由として多いのが「性格が合わない」であり、女性側の離婚申立理由が「暴力を振るう」、「生活費を渡さない」等であるという。以前と比べると「結婚後に相手に満足できない時は我慢せずに離婚したほうがよい」と考える人の割合は、79年の23%から97年には54%と年々増え続け、それに伴い離婚件数も平成10年では243000件と年々増加傾向にある。

    日本法規情報株式会社では、同社が運営する「離婚・調停相談サポート」、「法律事務所検索サポート」、「弁護士事務所検索サポート」の運用情報やユーザーへのアンケートを元に、結婚観に関する意識調査結果について発表した。調査の結果、「専業主婦になるのが大前提」など「働く意思のない女性」とは恋愛したくないと思っている男性が1割程度いることがわかった。コレは多いのか、少ないのか?

    また、男性が「こんな女性とは離婚するべき」と思うイメージ像も明らかとなった。その前に 「こんな人とは恋愛したくないと思う女性像」についてアンケート調査の結果、「人の悪口ばかり言っている女性」が最も多く18%。続いて「口うるさい・怒りっぽい女性」が17%、「男性のプライドを踏みにじる女性」が16%、「男性にはおごってもらって当然と思っている女性」が13%、「世間体を気にし過ぎる女性」が12%という数字。

    以下、10%を切るのは、「やきもちを焼かせようがミエミエ」が8%、「働いたことが無い」が5%、「自分の考えを持っていない」が5%、「専業主婦になるのが大前提」が4%という結果である。「口うるさい」、「プライドを踏みにじる」、「悪口ばかり言う」などの理由は男として納得できる理由であるが、意外なのは「自分の考えを持たない」、「専業主婦を望む」、「働いたことが無い」が合わせて16%にのぼっている。

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    これらの結果は女性にも自立性を求める男が増加している傾向だろう。次に、「こんな女性とは離婚して当然と思う理由」についてアンケート調査の結果によると、「浮気する」が22%、「暴力をふるう」が18%、「毎日文句ばかりを言う」が18%、「家事をしない」が18%、「「収入が少ない」という」が10%、「自分より稼ぎが多いのを自慢する」が8%、「子どもが欲しくないと言う」が7%という結果である。

     「浮気」は離婚理由としては一般的なものであるが、「暴力をふるう」はいかにも現代女性像を表している。女性に暴力をふるわれたことも、ふるわれる危惧も予感も抱いたことのない自分に女の暴力は理解できない。暴力をふるわれたなら、相手を張り倒して病院送りにもできるし、女の暴力が怖いというのは、ふるわれても手出しできないヘタレ男が多いのか。

    相手が百貫デブ(言葉は古いが)や、プロレスラーなどの格闘技女性ならテコずるか、こちらが張り倒されることもあろう。が、一般女に男がやられるというのはどうにも理解できない。男が女に先に手を出すのは後々面倒だが、やられたらやってやればいいし、それで文句を言われる筋合いはない。なのにやられっぱなしで、あげく「暴力が怖い」などと抜かす男はキンタマもいでオカマになれ。

    まあ、女から手を出したとしても、男の人は怖い、二度と暴力はふるえないと思わせるべきである。女が手を出さないなら男は手をだすべきでないが、口下手で女からギャンギャン言われるなら、つい手がでてしまう。そういう女、自分ならどう対処するか?そもそもギャンギャン吠えまくるような女は、最初から恋人にも妻にもしないし、だからその心配は無用。

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    そういう資質があったとしても、早い段階から男の冷徹さと威厳を示して付き合うので、どういう女も飼い猫のようにさせる自信はある。自信と言うより、自然にそのようにするから、自然にそうなる。これが自分の男としての生き様であり、それを苦々しく思うとか、イヤだと感じる女はとっとと逃げるだろう。逃げてもらった方がこっちも都合がいい。そうするからこそ、自分の理想の女が現れることになる。

    男が、揉み手をスリスリして女に媚びてどうするというのか。近年はそういう男が多いなら、終にはケツの毛まで抜かれてしまうのだろう。男が悪いというより、男を男らしく逞しく育てようとしない親が悪い。家庭が悪いと、そこに行き着いてしまう。秀才を作っても、青白いインテリなら鬼女にコケにされて結婚生活は地獄だろうが、唯一の救いはその男がマゾヒスト(M)志向であるなら、それすら刺激である。

    「男って何?」を、自分の観念で言えば「逞しさ・強さ」である。逞しさとは誰に相対しても怯まない精神力をいい、強さとは肉体的なものだけではなく知力という「力」もである。社会では人と相撲を取ったり殴りあったりするところではなく、知力が強さを示す事が多いからだ。人によって「男は何?」の価値観は違うとおもうので、個々が自らの「男像」を掲げ、それに共感・心酔する女をパートナーとすればいい。

    と、同時に「女とは何?」も大事な要素である。これは男が決めた女性像というより、「女とは何?」は女が自身に問うものである。先に「男は何?」を男が問うたようにである。もちろん、男の視点に「女は何?」はある。が、女が自らに問う「女は何?」という価値観に男は共感し、惹かれればそれは女の理念であるから、付け焼刃的な、あるいは少女趣味的なものではなく、大人の理念であろう。

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    そういう理念を持った女と、その理念に合致した男がよい関係でいれる。理念とは一過性のものではなく、指針であり目標であるから、そこに向かうということ。つまり、人格をそこに向上させること。「私はこういう女でありたい」、自分の理想とする女を目指したい。理念とは素晴らしく、それに向かって邁進して行けるもの。よって、理念の自覚者は向上心が高い。

    女の決めた男の理想像も、男の女への理想像も、所詮は虚飾であり、一方的に望むもので、永続的なものではない。「理想の相手と出会ったので結婚した」とカップルは言う。言うのはいい、実際にそのように感じたのだから。しかし、感じたことと実際が合致するのか?違うだろう?関係を継続してみてわかることで、あげく、「理想の相手ではなかった」という。

    「人は誰でも役者」という言葉はその通り。他人の望む相手になどなれないし、それこそ「地」が出るように、人は自分の理想像を理念と言う形でしか遂げられない。この世に理想の相手などいないし、理想は自らが作っていくものでしかない。もっともそれすら持たない人も多く、むしろ無いのが普通である。毎日そんなことを考えて人は生きていないはずだ。

    「毎日文句を言う」、「家事をしない」、「子供が欲しくないという」が離婚理由として妥当との意見が増え、以前より「離婚したいけど自分がこのまま我慢しれば…」の傾向は薄まり、昨今は離婚という選択肢がより身近になっている。結婚生活の悩みは一人で抱え込みがちだが、専門家に相談することで気持ちが落ち着くこともあるので、法律家に相談してみるのも一策だ。

    イメージ 5気が合う、ウマが合う、のは相性がいいことを言うが、この「相性」って奴に永続性はない。だから恋人同士で別離があり、夫婦に離婚があるが、「相性」がいいと言いながら実は相手に合わせていた、嘘を演じていたケースは多い。さらには、「人と上手くやっていくためには相手に合わせる」というのが金科玉条のようにいわれ、それが人間関係の基本とまでいわれている。

    本当にそうなのだろうか?相手に合わせるとはどういうことであって、どこまでなされているのかは人によって違う。言い合いを避け、喧嘩を避け、面と向かって悪口を言わない事が付き合いのコツというが、本当にそうなのか?自分の経験でいえば、"人に好かれようとして自身に無理をする"のは上手く行かない付き合いの部類。なにより大事なのは、自分らしく生きるということ。

    それを相手にしかと植付け、本当の自分を相手に晒すならば、相手側もこちらへの対処法が作られる。もちろん、相手も同じように無理をしたり、作ったりせず本心を晒せば、こちらも相手への対処法が身につく。互いが自分らしく生き、その姿・姿勢に共感を抱く相手を見つけることだ。誰にも好かれよう、好かれたいというのはあまりにもあざとい人間である。

    「悪口をいうな」というのは少し意味が違っており、確かに人と上手くやるには相手を褒めるのがよい。教育界では、「褒めて育てる」、「叱って育てる」には両論があり、ハッキリと結論は出ていない。その理由は相手の性格によっても変わってくるからだ。しかし、人間関係を上手くやるのは文句ナシに「褒める」を選ぶべきだ。コレはもう心理学的、人間行動学的に結論はでている。

    人間は気分のいいとき、人(相手)を好きになるのは疑いようのない事実で、褒められて気分を悪くする人はいないのだから、この事は正しく、だから人を褒める人は好感をもたれる。「褒めるところがない人をどうやって褒めるのか?」と聞かれた事がある。こういう人に与える(教える)答えはない。自分で見つけられないなら、人を褒めることが出来ない人間と言うしかない。

    人を褒める人間はブスでもデブでもチビでもハゲでもバカでも褒めることに困らない。「それはお世辞ではないのか?」というが、明らかにお世辞と分る言葉を平気で口にできる人間かどうかは人間のたしなみである。お世辞は一般的に好ましくない物言いといわれるが、自分はそうは思わない。歯の浮くようなお世辞でも、言われた方は喜ぶ事もあるし、それだけでは決してない。

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    社交の場で交わされる言葉の90%はお世辞。お世辞は相手を称えもし、立てる言葉である。この現実を否定することはない。辞書にあるお世辞は、「他人に対して愛想のよい言葉。人の気をそらさない上手い口ぶり。相手を喜ばせようとして、実際以上に褒めちぎる言葉」とあるように、極めつけは結婚式のスピーチ、媒酌人の挨拶をみても、お世辞を否定する理由はどこにもない。

    お世辞は真実なのである。ブスをかわいいと思うのは嘘ではなく、かわいい部分を見つけているからであって、それだけ幅の広い心を持っている人間だからそういう見方もできる。チビに「背が高いね」、デブに「スタイルいいね」と言うわけではない。チビはチビなりに苦労して服を選んでいるのだから、「その服似合うね」と、褒めてあげればいいこと。似合う、似合わないは主観である。

    その服がその人に似合うかどうかは専門家でないからよく分らない。だから似合わないと思っても本当は似合っているかもしれないし、自分に見る目も素養もないのかもしれない。それなら「似合ってる」と思うべきである。お世辞は事実を含んでいる言葉であるから、遠慮しないでいうべき。巷の挨拶を見ても、「あら、いつまでもお若くて」、「いえいえ、そちらもおきれいで…」では?

    人は自分への周囲の視線を気にし、視点がどういうものか知っている。だから、聞きたいのは不都合な真実よりも、心地いいお世辞である。人間はそういうものであることを知っておくのがいい。お世辞に対する誤解は、"お世辞には真実が含まれていない"と見下げられていることだ。「褒める要素が見つからない」という人間は、人に対する観察力がないのだろう。

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    感受性が低いとも言える。なぜなら、人を褒めるということは、その人間を知ることであり、知らずしてでまかせにいう褒め言葉は相手に届かない。人の心を瞬時に汲み取る人もいれば、なかなか感じとれない人もいるなら、まずは感じとることが先決だ。また、褒め言葉はこれみよがしに、くどくどいうのは逆効果、チラリとさりげなくがよく、すぐに話題を変える事も効果的。

    このお世辞を、褒め言葉を相手に伝えたいと躍起になる人はダメ。人を否定的に見る傾向のある人が、無理してお世辞などいうのはブサイクで、不自然で聞いていられない。第三者にそう映るなら、言われた方はさらなり。さて、「悪口」についてであるが、悪口の基本は本人の前では言わないもので、本人を前にして言う「悪口」は、実は「善意」である場合多い。

    「悪口」と別に、「口の悪い人」という言い方がある。口が悪いのを自覚する人間もいれば、無自覚な人間もいる。「自覚のあるバカならマシだが、自覚のないバカには困る」、「無神経な人間って、なんで気づかない?」などと言ったりするが、無自覚バカより自覚バカの方がいいのか?それなら、「うちは口が悪い」という女の方が自覚するだけマシとなるが、それは違う。

    「私は口が悪い」を公言するのは、口の悪さを責められないための予防線である。これは人への気づかいや配慮が出来ない人間だったり、自分は秀才だとハナにかけた人間の相手を見下す話法であったり、二つに分けられる。前者は小心者で傷つき易い人間がこういう予防線を張る。後者は頭がいいのをハナにかけてズケズケいう付き合い下手人間である。

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    斯くの人間は成長の止まった幼児性気質で、相手の気持ちになれない。つまり、我が身に照らしてしか考えられないから、気づかいや配慮に欠ける。勉強ばかりしていた弊害が人間関係の上手い・下手に影響したようだ。また、親がそういう物言いだと子どもにも伝染する。そういう女に一度聞いた事がある。「お前は口が悪いが、嫌われるのは承知なのか?」

    「別に嫌われてもいいと思っている」、「人に嫌われるを承知の人間関係やってて楽しいんか?」、「別に…私は私でいいと思う」、「そりゃあそうだ、気づいたら周囲には誰もおらず、お前だけしか居ないことになる。そういう口の聞き方なら…」、「あなたに関係ないでしょう?」、「関係なんか持ちたくはない、なくて幸いよ」と、こうまで言われた女もショックだったろう。

    その後の逃げるような態度や控えた言動をみるに、彼女は思うところがあったのだろうが、一朝一夕に直らないのが人間の性格だ。人の言葉を噛みしめて苦悶し、努力しなければ彼女に明日はない。「ショック療法」というがある。人間は思いのほかショックを受けることで、自分を見つめなおすこともできる。周囲は常に自分以下という傲慢な人間はコレしかない。



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    世の中には相手が気にしたり傷つくような事を、平気で口にできる「口の悪い」人間は多い。そういう言葉を子どもの頃からとっちめないで、言わせ放題にした親にも責任があるが、原因はそれだけではない。口の悪い人間には以下の要素が当てはまる。①無神経、②自分が偉いと思っている、③物事批判的、④相手より優位に立ちたい、⑤何も考えてない(頭が悪い)。

    こういう口の悪い人間にはどう対処するべきか?口の悪い人間と悪口好きの人間は区別をされるが、「悪」とつく以上、よい要素はない。「お前は口が悪いな」と返せば、「自覚してる」と開き直る人間の多きこと。長年それでやってるなら、あちこちで指摘もされるし、当然自覚もあろうが、それでも直さないのは、直すのが大変だからだ。ただし、口が悪くても悪気のない奴もいるから見定めも必要である。

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    「ちょっと口が悪過ぎないか?何をいうのもいいが、聞いてて気分が悪いから他で言ってくれ」といえば、反省する奴もいる。これは性格が正直すぎる反動で、ありのまま、感じたままを言う人に多い。「ありの~ママに~」は流行りのようだが。言い合いを避け、喧嘩を避け、面と向かって悪口を言わない事が付き合いのコツというが、一概にそうとは言えない。「雨降って地固まる」という。

    悪口がやめられない理由は、言って楽しく気分すっきり、おまけにストレス解消になるからだろう。「私は性格悪いよ」という女が居た。「お前よく自分で"性格悪い"と言えるよな?オレなんか、自分の悪いとこも、いいところも良く分らんし、人がアレコレ言ったり、指摘してくれて判るものだと思いが、その"性格悪い"とやらは、どういう部分を指してそう思ってるんだ?」

    というと、「私は嘘をつくんです。無意識につく嘘も、意識してつく嘘もあるし、でも人から信頼されてない。だから性格悪いと思ってる」、「なるほど、嘘つきは信用されないのは当然だな。お前は嘘をつくことで自分の身を守っているんだろうし、他人は嘘をつかれない事で自分の身を守る。だから、嘘つきの言葉を信用しない他者は当然の自己防護だよ。で嘘をついたときってどうなんだ?」

    「そりゃ、気分はよくないですよ。ああ、またやっちゃったみたいに、あとはどうやってこの状況から逃げるかしか頭にないし…」。まあ、そうだろう。嘘をついていい気分ならんし、ついた嘘を守るためにまた嘘をつかねばならず、1つの嘘がどんどん嘘の連鎖となって行く。整合性をとったり、矛盾を調整しなければならぬが、、「そこまで考えてない。嘘をついて逃げるだけ」という。

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    頭のいい人間なら嘘の連鎖を緻密につないだり関連づけてごまかすが、常人の嘘はついて逃げて終わりだろうし、女のつく思慮ないその場限りの嘘は、あまりに幼児的で話にならなかったりする。悪口というのは人のいないところで言うのがスジだが、嘘は人がいるところ、つまり人にいうものだ。誰もいない部屋で一人、自分につく嘘というのがあるのだろうか?

    「自分を偽る」というが、それは人に対してでなく自身に対していう。自分に嘘をつくということか。部屋の掃除を自分のためではなく、やってくる人のためにする人がいる。そういう人に本当の友人はできない。普段は掃除も片付けもしない人が、人が遊びに来るときに限って掃除をするのは、部屋の汚いのを見られたくないし、普段は掃除をしないのにきれいに片づいた自分を見せようとする。

    部屋に来られるのを嫌う女がいる。理由は聞かずとも分る。「汚いけどいい?」という女もいる。女の子がこんなに汚くしているのを見られたくないということだが、常時は汚く、あくまで来客用にきれいにする。やりたいだけの男に部屋のきれい、汚いはどうでも良く、屋根と仕切りがあればいい。ラブホと違って銭もいらない。その程度の男ならブタ小屋でもやれる。

    息子の嫁が「汚い好き」(キレイ好きの対語として自分が用意する言葉)で、ゴミ屋敷と思うと行く気にならない。部屋に行くといえば片付けの大騒動が予想され、来てもらいたくない⇒来なきゃいいのにと、招かれざる客となろう。こちとら罪はないが、「汚い好き」からみれば、自分たちの平穏な生活を乱す侵入者となろう。そんな所に行く気は起こらない。

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    足も遠のく。姑(自分の妻)がひっきりなしに掃除にいってるようだが、いつまでそれを続けるのか?言うべきか、注意して片づけさせるべきか、妻は後者を選ばない性格だ。自分はどちらも選ばない。きれい好き、時間の厳守、几帳面な貸借関係とかは「観念」の問題だから、言って直るものではない。言われて直す人間もいなくはないが、向上心の強い人間であろう。

    高い向上心を持てば人間的に伸びるが、それなくば人の言葉はウザイだけ。それを知る自分はバカには近づかないようにしている。汚い部屋を見て気分を害す、小言をいいたくなるなら最初から避ける。自分は君子でも賢者でもないが、『君子危うきに近寄らず』を踏襲する。これを孔子の言葉と思ってる人も多いが、これに酷似した言葉は『論語』にない。

    教養があり徳ある者は、己の行動を慎むもので、危険なところには近づかないという意味だ。嫌なところには行かない、嫌な相手とは付き合わないと決めている。それがストレスを生まない方法であり、ストレスゼロで長年生きている。誰だって子どもの頃に、「○○と遊んではいけません」と言われた経験はあろう。そういう時に「なぜ?」と不満に思ったはずだ。

    「付き合ってはいけない人間」は確かに存在する。親の価値観で「付き合うの止めなさい」というのも問題はあるし、自分はそういう親に従った事はない。昔の人間だから朝鮮人や部落民などを蔑む親の世代である。他人を否定的に見るか、どうかで人の見方は変わるが、自分は価値観を押し付けたり宗教の勧誘をしない限りは特に問題を感じない。自慢したり威張ったりする人間にはむしろ同情をする。

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    若い頃に比べて「嫌な奴」の類が圧倒的に少なくなった。話してみて嫌な性格所有者に出くわすことはあるが、上手く対処できるようになった。それでもあまりの奴にはガツンと食らわす事もあるが、自分が怒るとか腹を立てるというより、「バカかお前は!」的お土産である。若い頃から徹底して避けたのは口うるさい女で、嫌な女の最高位にランクされていた。

    心が安らがない、そういう女は。口数の少ない女は無害である。無用なことは喋らない派で、女の好きな世間話など無用の長物と思うからか、ブログにどうでもいいことを書く気も起こらない。どうでもいいは、日々の日記であろう。日本は中国や韓国と仲良くすべきと言うのも世間話ならこちらを好む。お隣さんだから仲良くしなきゃいけないという理由はどこにもない。

    「遠交近攻」という言葉があるが、中国・韓国は近攻遠交のお国である。江戸時代の陽明学者、熊沢蕃山は、「我は我、人は人にてよく候」といった。これが人づきあいの最善であろう。相手は間違っているかも知れないが、彼自身は、自分が間違っているとは決して思っていないのである。だから、相手を非難しても始まらない…。と近年はすべてがここに帰結する。やはり、「人は人なのだ」と。

    簡単で当たり前のことがどうして若い時分に分らなかったのか?若さとは自己中心で、自分が絶対に正しいという無知の極致である。また、若さとはなにより自信に満ちあふれ、その自信の根源とは実は自信の無さからもたらされている。自信があれば鷹揚に構えていれる。自らを振り返って思うに、若者の自信とは、無知と、思い込みと、自己中心思考であろう。

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    20歳には20歳の考えと経験しかない。20歳の思考と経験しかないものに、50歳、60歳の人間がアレコレいってみたところで理解できるはずがない。自分が若い頃とて同じであっただけによく分る。人は誰も自分の現実を生きているから、他人の過去を聞いたところで意味がない。また、人が現実に生きてることと、人はどう生きるべきかというのも、かけ離れた問題だ。

    かつて若者にこれ見よがしに自己の経験を語ったが、今は、そんな恥知らずなことはしない。経験というのはあくまで自分のものであり、人に言って聞かせる代物ではない。同じいうなら、成功談より失敗談の方が笑えるだけに勝る。親に反抗した話をいくらしてみても、反抗できない子には伝わらない。なぜなら、反抗するより従っているほうが楽という場合が多い。

    善か悪か、得か損か、面白いか面白くないか、楽か楽でないか…みたいな二元論で物事を判断するほ人間力を欠いたご時世だ。損を承知でやる事もあるが、楽な方だけになびけば、楽に生きる人間になろう。辛抱や苦痛から得るものなど考えもしない。失敗から何かを得ようとする人間と、失敗したら「もうダメ」と挫折感を抱く人間にとでは天地の差がある。

    面白いか面白くないかではなく、ためになるかどうかの視点も選択肢に入れ、美味しいものだけを食べるだけではなく、人体にいいか悪いかの視点を欠かない食生でないと、ジャンク体になろう。ダイエットをするからと、炭水化物を排除すればいいのは誰でも知識はあるが、炭水化物は心筋などの運動やエネルギーをつかさどる重要な栄養素でもある。

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    極端なダイエットはその意味で危険であり、拒食症から命を落とした人もいる。適度な運動は脂肪の燃焼効果はあっても、心拍数や拍動を急激にあげる運動も危険である。自然の法則に逆らうのはよくないし、人間関係においても自分に無理をし、調子こいて暴言吐いてもスッキリいかないもの。久々に泰葉の記事が紹介されていた。彼女はうつに苦しんでいるらしい。

    落語家の春風亭小朝と結婚前、交際中だった小朝の援助を受け1988年4月、小沢征爾や中村紘子らの母校桐朋学園大音楽学部に入学したものの、寝坊癖が直らず音大の出席が困難となり、3ヶ月ほどで中退。同年6月小朝と挙式するも、2007年11月に帝国ホテルの宴会場での金屏風離婚会見となる。夫への"金髪豚野郎"発言も話題になり、夫婦生活を綴った『開運離婚』なる著書を出す。

    泥沼離婚の後も、やることなすことハチャメチャの我がまま泰葉は開運離婚はできたのか?久々に見る泰葉のおババぶりに驚く。うつ病でめっきり口数も減り、人と会うことを避けるようになった彼女の口から、「ちょっと、走りすぎた」という言葉が出る。当時は過激発言を面白がられたマスコミにいたぶられ、一人になったときに自我と格闘するやるせなさ…、こういうタイプが自我崩壊をきたす。

    「私の体は穴だらけで、考えがどんどん外に漏れていく。だから私の考えは周りのすべての人に周知され、『あんな恥ずかしいことよくやるよ』と笑われ、『あんなひどいことやったんだ』と非難されたり、なのに体中の穴はどんどん大きくなっていく、今では電波という光の速さに乗って、世界中に私の考えていることが知られ、広まって行く…」。一例だが、これが初期の統合失調症患者が持ちやすい妄想。

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    イメージの中で「体」に穴が開いており、実際「心」ないし「自我」が穴だらけで崩壊寸前となる。さらには、自他の境界さえ崩壊しつつで、自我崩壊は人間が人間でなくなる事で、放心状態の日々が続く。周囲や世間の反応も怖れず顧みず、ムチャクチャやるのはいいが、吐いた唾をみんな飲み込まされるという恐怖から自己喪失感に至る。自己愛性パーソナリティ傷害人間の行きつく末路だろう。

    暴言や放言は相手を傷つけるが、自分さえ傷つけてしまう。それが分らず、その場の気分と勢いで好き勝手を言う人は、暴言に対する周囲の呼応に押しつぶされる。心の弱い人間は死ぬまで悪口をいい続けなければ、自我崩壊の恐怖に怯えてしまうのだ。一度自我を崩壊させて新たな自分にリスタートするのが治療的にはよいとされる。本人にも、周囲にも…

     「自己愛性パーソナリティ傷害の人物に対しては完全否定を続け、"誰も相手にしてくれない"という状況に追い込み、本人が認識した途端、自我崩壊となる。ここまで追い込まれるとうつ状態、パニック状態になる。自己責任として、そうでもなってもらわないと周囲がやってられない。どうでもいいから事を荒立てるのは止めてもらわないと、他人の生活に影響をきたす。

    昨今の自分の母親の現状で、15年以上口を閉ざしていた自分に擦り寄ってきた。「この人を相手する人間は居なくなったのだ」と自分は理解した。妻に言わせると、毎日どこの誰かに電話をし、妻や息子らの悪口を言うのが日課だったらしいが、そうは言っても、聞かされる人もうんざり感に襲われたかで疎遠になったのだろう。自らが神ごとき人間は最後に孤立する。

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    甘えた人間というのは依存性の高い人間である。自己に甘え、他人に甘えるうちはいいが、他人がうんざりで放りだされると、新たな依存相手を探すが、それも尽きてくる。人は早期に依存を止めて自立し、不満も愚痴も自らに押し込んで解決を図らないと楽に生きることはできない。人は社会的動物だが、社会の一員として自立がされていなければ、正しくも全うな協調関係は望めないものだ。

    お互い「持ちつ、持たれつ」という言葉が示すように、相手を従えさせ、半分は従う気構えが大事。神は人を従えるだけで、自ら従うことはない。それでも人は文句も言わずひれ従うのは神だからである。「さすがに神」と言うしかないが、穴だらけ、欠点だらけの人間にそんな大役が務まる道理がない。よって、人をひれ従わせようとする人間ほど、人間界ではバカの代名詞ということか。

    人間関係はどう転ぶか予測がつかぬ以上、「当たって砕けろ」である。最初から他人の目を意識してやっていてはダメだ。子どもの素行に対する親の苦悩も、相手は人間関係のイロハも経験もなければ、習得もない子どもである。何事もまずは経験させて分るという前提で望めば、親自らがその機会を奪うことは戒められる。親の過保護、過干渉、自己イメージの高さがこの自立を阻んでいる。

    ニートについていえば、「もう大人だから独立して一人で暮らせ」と家から叩き出すことだ。そうなればイヤでも食っていかねばなるまい。働きたくなくとも働かざるを得ない。自分は「学歴がない」、「気が弱い」、「一日中ゲームしていたい」などという寝言などいっておれない。"成人した子の面倒はみない"という最良の処方箋が分らない親がニートを生む。それくらい分らぬ親が親である悲劇。

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    誰だって子どもの頃に、「○○と遊んではいけません」と言われた経験はあろう。そういう時に「なぜ?」と不満に思ったはずだ。「付き合ってはいけない人間」は確かに存在する。~と、昨日書いた。本日は『バレンタインデー』という特別な日であるらしい。何が特別かといえば、気持ちが特別になるのか?この日に愛する彼氏に対して、気持ちが高揚するらしい。

    「するらしい」としたのは、女でないからよく分らない。が、高揚したらチョコを贈りたいのは実は違うと思っている。高揚したからチョコを贈るのではなく、『バレンタインデー』だから贈っている(と思っている)に過ぎない。なぜなら、高揚したときにチョコをあげたいと普段は思わない、そう言う事をしない。単に風習であろう。風習を否定しないが、好き嫌いはある。

    「我は我、人は人にてよく候」と、これも昨日記した。人は人なのよ。自分は興味も関心もなくても、全国的に「お盆」や「正月」みたいなものだから、他人を批判をすることでもないし、自分は自分を批判をすればいいのだが、それでも『バレンタインデー』にチョコを贈りたい女の気持ちを無視し続けたことに対して、時々の彼女に「お悪うございました」と言っておこう。

    イメージ 3社交辞令である。基本は自分で、嫌な事はされたくないのだ。相手が嫌でも自分はしたいというのは良くない、正しくない。「どうしてこんなつまらない彼氏なんだろう」と思われても構わない。なぜなら、『バレンタインデー』を嫌がることで、自分の何かを否定するような短絡的な女ではなく、自分の奥底にある何かを見つけ出して肯定し、理解してくれる女の方がいい。
    「正月は嫌だ」、「お盆は嫌だ」というつもりはないし、それと同様に『バレンタインデー』を嫌がっているのではない。決まった日に、決まった事をするという国民的行事が嫌なのだ。このブログを立ち上げて8年4ヶ月になるが、『バレンタインデー』に関する記事を書いた記憶は無く。"死ぬまで生きよう "バレンタインデー"で検索いれると2本ヒットした。

    一件は、2012年5月2日の記事で、"バレンタインデー破局をブログに綴った長谷川理恵"、もう一件は、2014年1月24日のタイトル『友人論』である。なぜ、記してないかは興味のない事だからで、少しその理由に触れているが、今回は徹底的に「興味のなさ」について書いてみよう。「興味のある」ことについての理由があるように、「興味のない」ものの理由も書いていい。

    自分の心にどれだけ正直に書けるか、への挑戦でもある。世の中、確かに『バレンタインデー』商戦やそれから派生する『ホワイトデー』商戦の移行というのは、特に後者は商業主義に毒された日本人の「バカさ」、「浅ましさ」だと思っている。いかに世間の流れだの風習だのといわれても、そんな風習は腐臭として取り合わないでいれるかどうか、は人それぞれだ。

    が、自分はそれができる。ケチだと言われようが、言われて幸いくらいにしか思わない。そういう目論見で贈るチョコなどハナから腐っているのだから、もう止めたら?と暗黙の進言になっていいと思っている。何かを充てにするために何かをするということを根本的に嫌うのが自分流である。従ってそういう相手は自分的に「付き合ってはいけない」人間の筆頭である。

    こういう書き込みを見た。ここまで書くことの驚きというのか、それを超えて自分には愚かな人間にしか思わないが、バレンタイン~ホワイトデー商戦と言うのは、こういう愚かな人間を作ることに寄与してとも言える。となれば、そこは問題であろう。これはもう企業の社会に対する使命を逸脱した行為であり、。即物的思考の蔓延を憂慮せざるを得ない。以下その書き込み。

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    「30代独身女です。年甲斐もなくバカなことしちゃいました…。婚活で出会い、付き合い始めて半年の彼氏に、バレンタインデーの希望を聞いたら『ケーキ』と言われたので、一生懸命ガトーショコラを手作りし、他にも手作りランチをいそいそと準備してお迎えしました。ガトーショコラは喜んでくれました。で、ホワイトデー。何もなし。話題にすら上らない。これって振られたってこと?

    私は全くどうでもいい存在?モノグサな父親でさえ『パートさんへのお返し何がいいかな?お前だったら何がほしい?』など聞いてきたし、ホワイトデー過ぎると母親に、『ホワイトデー何もらったの?』と聞かれ、なんとなくみじめで閉口してしまいました。私は何も高価なプレゼントなど期待していないのです。一応ホワイトデーを意識してくれている気持ちが伝われば、少しは安心だったのです。

    彼も色々忙しいのは分かるので、いい歳してホワイトデーを期待するなんてバカだとは思いましたが、愛情をはかる一つのバロメーターみたいに思っていただけに少しショックでした。クリスマスも誕生日も素敵な演出をしてくれたのに…。なのでホワイトデー後2回目にデートした時に、ついに『ホワイトデーなかった…振られちゃった(プクッ)』と、冗談めかして言ってしまいました。

    彼は苦笑いした後、近くのドーナツ屋でドーナツを買ってくれました。『これホワイトデーね』、『うん!(嬉)』でも今思うと自分から催促することの空しさ・恥ずかしさ・浅ましさ・情けなさと言ったら…。こんなことで『大切にされてない』なんて思うのは子供ですかね?なんだか色々とやる気なくしました」。羞恥と言いながら羞恥を行い、はたまた羞恥を書き晒す。

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    これを羞恥の認識とするかといえば、そうは思わない。これが今の世の人よ。人間のあまりの種類の多さを知らされる。これも女性の心理なのだ。すべてとは言わないにしろ、こういう女性が『バレンタインデー』商戦、もしくは『ホワイトデー』商戦を守り立てているのだ。少なくとも欧米人のように『ホワイトデー』を冷ややかに見るように、日本もそうあって欲しい。

    は、この国では成熟した女性を望むのは間違っている。上の女性は、「バカなことをした」、「子どもなんですかね」といいつつ、決して自己断罪をしていない。言葉と心が裏腹ないかにも日本人的様相を示している。『ホワイトデー』的見返りがないのは、大切にされていないと思うところに即物的文化の餌食になっていると思わざるを得ないのだ。

    昔ある女性の言った事がある。「もらって嬉しいものって何だと思う?」と、これは問いかけの様式を見せてはいるが実は問いではない。普遍的な答えを提示しているのだが、女性がその答えを気づくかどうかは定かではない。自分が指摘したいのは、もらって嬉しいのは「言葉」という回答だ。それも「心のこもった…」という形容詞が大事である。そこが互いの共通であれば…

    なぜに「物」なのか?この言葉を掲げて、それでも「物」なのか?であるなら人間とは一体に何なのか?と、これが自分の人と人との命題である。これを掲げ、教え、諭すのが自分の理想とする関係である。が、批判は構わない。心のこもった言葉以上に大事とすべきものがあるなら、つまりそれが「金銭的な譲渡であり、物である」と主張するなら持論を述べればいい。


    自己の価値を主張して相手に理解を求めるのは大切だ。互いが理解しあうよう努めるのが先決だが、どうにも理解し合えないこともある。自分が引くことで相手を立てるか、退いて去っていくかの選択となる。無理をして一緒にいっても将来的に遺恨を残せば、破局は目に見えている。映画『追憶』はそのことを教えてくれた。愛国主義者の夫と社会主義に傾倒する妻。

    水と油である。二人はそれぞれに努力をしたが、結果的に離れざるを得なくなった。ラストの場面で、相変わらず該当でチラシを配布する元妻に遭遇した元夫は、彼女の生き生きした様子に安堵する。無理を封じ込めて生きる事は自分を生きたことにはならない。結婚は妥協というが、妥協が良かったか悪かったかを人は知るときがくる。悔いとは未来でしか確認できない。

    そこはどうにもならないこと。今する決断が「悔いを残さないものか」、「悔いをすることになるのか」そこは分らない。が、分らないことを決断しなければならないのが人間だ。だから、そういう時に占い師に相談したり、いろいろ手立てをするが、それが藁であっても頼ってしまうのが人間。決断の怖さ、苦しさは、それを強いられた経験者なら分ろうというもの。

    人間の苦しさは、自身が真に望んでいるものでさえ隠そうとするところにも現れる。現代人が自己の深みにまで自分に到れないのは、やはりどこか自分にウソをついているからだろう。自分に正直に生きる事はそれほどに難しいことなのだ。背負っているものが多すぎる、大きすぎると人間は苦悩する。身軽な人間が生き生きと、伸び伸びして幸福そうにみえはしないか?

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    すべてを棄てて身軽になれるならそうするのがいい。苦悩からも介抱されるが、自己を押し込めると行き場がなくなり、自らの命を絶つことにもなりかねない。多くのものを背負った人の失敗は、しがらみの中で正しい対処が見つからない。佐村河内は死なず、笹井は死んだ。二人を雑草の強さ、エリートの脆弱さと見る事はできる。そればかりではないのだろうが…

    小保方?あれは女のしたたかさであろう。女の強さは自殺の男女比にも現れている。日本で男性の自殺者は女性の2.5倍である。現在のように中高年の男性自殺者が急増する前はだいたい2倍だったが、男性が女性の2倍というのは世界的に見ると小さい。米国では男は女の4.2倍、英国は3.6倍である。これを見ると、日本では女性の比率が高いことがわかる。

    男にとって命は借り物に過ぎないが、女は全身が自分の命である。地位や位階や勲章もらって無邪気に喜んでる男とは根源的に違う生き物である。女の依存はある種のズルさであろうが、いざ一人で生きることになったときの逞しさは男の非ではない。男は理性の奴隷であるから希望や目的を失った男は生きることを止めたがるが、女の生命力は希望や目的などヘタレの戯言だ。

    チョコを贈る女よりも義理チョコを貰おうとする男のバカさを問題にすべきかもだ。「今年は土曜だから職場で"義理チョコ"もらえず、収穫はゼロ!? 」などの言葉があった。確かに本日14日は土曜日だが、こんなことをいう男はもはやヘタレ以下、ただの「屁」であろう。ヘタレというのは屁を垂れる物体だからまだしも、「屁」はただの空気でしかない。

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    分らない。義理チョコを貰いたいという心理は分らない?チョコが食いたいなら買って食えばいい。貰うことにどういう意義(意味)があるのか、とんと分らない。分らない事は想像するしかないが、自己顕示欲?それくらいしか浮かばない。チョコが食いたいわけではなく、女子社員に貰うことの優越感?そういう奴は、お返しする『ホワイトデー』も自己顕示披露の楽しみ?

    子どもが物心つく前から、「誕生日、父の日や、Vデーなんかしなくていい。そんな事は余計なことで、貰って嬉しくもない」と申し渡した。理由はいくつかあるが、お決まりの日に、お決まりごとを申し合わせたようにするバカバカしさ、それを期待する自分の心のやましさ、期待しているにも関わらず、それを秘し、何事もなかったような不意を突かれたような顔をする。

    そういうワザとらしい事が嫌なのだ。別の生き方をするなら、「明日はVデーだ、期待してるよ」と言う方がまだムズがゆくはない。が、子どもの少ない小遣いからチョコなんかどうでもいい。ネットに書き込んでいた上の女は、「ホワイトデー過ぎると母親に、『ホワイトデー何もらったの?』と聞かれ、なんとなくみじめで閉口してしまいました。」などと書いている。

    正気でこんなことを思うものかと、読むのも恥ずかしくなるが、人間とはこしたものでもある。ホワイトデーに何ももらえなくて、人間の何がみじめというのかと。「お前どうかしてるんじゃないか?」とそばに居たらバカ呼ばわりしたくなるセリフである。「人は人」といったが、こう言う事を「みじめ」というなら、自分にとっては看過できない「みじめ」という言葉の用法だ。

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    「みじめ」というのは、こんな風にも使うのかと。もし人間が、人から戴き物がなければ、相手の気持ちが伝わらないというなら、何と不幸なことであろうか?気持ちを物に置きかえて、物をもらえない事が不幸であると感じる人間の心のさもしさ。そういう人は一体何を信じて生きていくのだろう。貰って最も価値のあるものは言葉といった。「真心ある」という形容詞つきで…。

    が、それより上に位置するものは、言葉を戴かなくても感じる幸福であろう。「言葉」も「物」も所詮は「代用の具」であろう。「目に見えない心を形に…」というデパートの歳暮用のキャッチコピーに翻弄されるほど愚か者にあらず。見えない心を感じとれることこそ、本当の価値ではないだろうか。他人がどうであれ、世間がどうであれ、自分はそういう価値を生きていく。

    期待をしていながらすっとぼけ、「おお!チョコレート、ありがとう」などとクサイ演技のムズガユさ。『バレンタインデー』ハナで笑って無視でいれる恋人、夫婦は、その「愛」に確かなものを抱いているか、もしくは「愛」を喪失しているか、いずれかだ。冷え切った心で暖かい言葉を贈られる位、言葉を受け取る人にとっての不幸はないが、人は役者、後ろめたさでそれをやる。


    きれいな心で、それこそ純粋に『V-day』や「B-day」を待ちわびる女もいるだろう。少女のようなけなげな心で…。反面、そうではない女もいるだろう。どちらがどうか、真意のほどは分らない。女の演技を見抜ける男などそうそういない。一番確かな事は、『V-day』以外の日常で、いろいろと、しっかり判断することだ。まやかしの臭い香る『V-day』は、その意味でも不要である。

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    「今の彼氏はドケチ。前の彼氏はいろいろ私に尽くしてくれたし、戴いたものも多いし、大事にとってある。比べるのはよくないかもしれないけど、あまりに違うので、比べるなっていわれてもね~」

    こういう女がいた。付き合っていないから愚痴も言えるのだろうが、愚痴を愚痴として聞かないのが自分である。こういうことをいう女の問題点をすぐに察知するし、あとはそのことを指摘するか、聞き流すかは時々の気分でもあり、それ以上にその女が恋に真摯であるかどうか、性格も見て決める。なまじアドバイスといっても、分らない女には言う意味がない。

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    捨て鉢な物言いか、深刻に真面目に言うか、どっちにしろこういう言葉を口に出す女は好感がもてない。いろいろ付き合えば人に対するあれやこれやの差、違いはあるだろうが、理由あって別れた男だろうし、そんな男の利点ばかりをあげるなら、何でそんないい男と別れるんだ?ということになる。だから、別れた相手の利点と新しい恋人を比べるものではない。

    むしろ、別れた男の欠点と現在の恋人の利点を比較するなら悪くない。というのも、過去には戻れないし、これから先を大事にするなら前の男よりランクが下など思うべきではない。どうしてもそうしか思えないなら、今の恋人は止めるべきだ。と、もしアドバイスをするならこのように言う。言うけれども、「そうね~、確かにそのとおりだわ」となる女は頭良し。

    難しいことを理解したから"頭良し"ではないのよ。これほど当たり前のコンコンチキなことはないだろうと言ってる、そのことを理解できないのは相当に「業」の強い女であろう。さもなくば振られた気晴らしにそこらの男に手を出したか、終った男の利点に固執するなど、新しい男にもし伝われば気分を害するはずだ。「お前だって比較されたら嫌だろう?」

    「嫌よ~、そんなの」と、言いながらやってしまうのが女の思慮のなさ。ふつうは、自分がされて嫌な事はしないのが理性であるが、女が感情の動物というのは、「私は嫌だけど人にはしてしまう」となる。これは男にとって、到底理解できない女のバカさ加減だが、感情優先だとこうなるのだろう。なるだけではない、それが当然のごとくの言い分には呆れる。

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    「だからお前みたいなバカとは話す気になれんのだよ」と何度いったか。言われても分らない女の多いこと。この不思議さは自分が女になって見なければ分らないことかも知れん。終った恋人と新しい恋人の差異に深刻になるものではないが、指摘すれば「愚痴よ~、まじめにとらないで」見たいな言い方も、女の専売特許。物事をまじめに捉えるのも男の習性だ。

    つまり、男は解決することを一義に考えるし、愚痴を言って気晴らししたいなら、チャらい男を選ぶ方がいい。それにしても何でそんな解決にもならない愚痴をいいたがるのか、これも男にとっては理解しがたい。男で愚痴をいう奴がいないわけではないが、愚痴=解決法でないとするなら、愚痴の多い奴は明らかに仕事のできない無能人間であろう。

    世の中、愚痴を言って問題が解決したなど聞いた事がない。いや、もっと早くから男同士の集団の中で愚痴は戒められるし、嫌われるだろうから、"男は愚痴をいうものではないな"という社会教育が中高生くらいから備わるのかも知れない。「なんだよそれは?愚痴なら止めろよ」が男の中に蔓延っている。男がなぜ愚痴を嫌い、女はなぜ愚痴を好む?

    それについては記事で書いたこともあり、知りたいひとなら検索してみればいい。それよりなにより、なぜ自分が愚痴をいうかを女性は考えてみりゃわかろう。実際、愚痴の嫌いな男もなぜ嫌いか、自分のことだから分るはずだ。"自分のことだから何でも分ってる"と言う事ではないし、多くは無意識になされており、あえて自己に思考を向けてみると発見もある。

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    「愚痴」は何も生まないし、1000回言ってみたところで何も変わることはない。それでも愚痴をいうのは、何かを生もうとか、変えようとしない人間ということだ。新しい何かを生む、やり方を変えるは大変だから、愚痴さえ言っておけば不満の捌け口にはなるのだろうが、男が愚痴を好まないのは、そこに自分を押しとどめて甘えてしまうと、それで終ってしまうから…。

    自分はそうだし、おそらく人も同じだろう。愚痴で問題は解決しないが、愚痴に逃げるのが楽なのだろう。「煙草より体に悪い妻のグチ」と、これは生命保険会社主催のサラリーマン川柳で一等賞を得たものだ。愚痴はイメージはよくないのはどこの世界もだろう。そもそも「愚にして痴」というくらいだから、愚痴は人間の愚かさの代表格といっていい。なのになぜ言う?

    時に人の愚痴に相槌うって、悪乗りすることもある。頑なでいるとクソ真面目で難しい人間の代名詞もつくだろう。「清濁併せ呑む」ということと同様に、広い視野と頭の柔らかさで生きる方が自らも楽しいはずだ。世の中が楽しいかつまらないかは、自らの関わり方によるから、楽しくないと言う奴は、自身にも問題があると、そこに気づかないと解決はない。

    新しい恋人と比較云々ではなく、恋の遍歴があれば誰でも人と人との比較や差は感じるだろうが、上にも述べたように終った相手を美化し、それを新たな恋人にぶつけるのはとんでもない事だが、若い頃にはそういうハシタナイこともやってしまう。新しい恋人が傷つく事も分らぬままに、前の恋人のようになれ、と言わんばかりの仕打ちを平然とやったりする。

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    これを若さの無知というが、至らぬ配慮であろう。前の恋人が自分に与えてくれた事がスタンダードになる懸念、そこを否定することだ。例えば、先の記事にあるような、誕生日に日付が変わった0時を待ちこして、「お誕生日おめでとう」だのと、隠したケーキを持ってくる女に、もし感激・感動したなら、それが強い愛情表現というスタンダードになり兼ねない。

    すると、新恋人のその辺りに何か足りないもの、不満があった場合、「前の恋人はこんなふうだった」、「ここまでしてくれた」といいがちになったり、口に出して言わずとも元恋人が大きくクローズアップされることになる。それは戒めなければならないのではないか?「私はあなたの元恋人の代わりじゃないんだよね」とさっさと別れたという話を聞いた。

    ひょっとして、そういう気分になった女も、あるいは男もいるんではないか?女はよくこのように言う。「昔の恋人の事はいわないで…」おそらく嫉妬心が沸き立つのだろう。だから、決して自分の元彼の話は絶対禁句と定めている。そこまでなっている女は、それを男に言って男の嫉妬に燃え狂われ、嫌な経験をしたのだろう。男は彼女の過去を気にするという。

    女も気にするのは変わらないが、聞かないことで排除できるようだ。嫌な事は知らないでいたいという特質は女は持つ。男はどうか?自分にとって嫌なことでも知っておきたい心が働くようだ。"彼女の過去が気になる"で検索すると、あるわ、あるわ、読みきれない数の書き込み。「彼女の過去を気にしないようにするにはどうしたら良いか?」との建設的な問いもある。

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    「気にはなるだろう、が、時間が解決する。それに委ねよ」という回答もある。「気にしなさんな!」というのは回答にはなっていない。「彼女は今、あなたを選んだんです。そのことにあなた自身が自信を持ちましょう。」というエールもある。気になることをどうすべきかは、容姿や学歴の問題も含めて難しい。自分はこの問題を以下のように諭している。

    「お前が今の彼女と出会う以前の彼女を拘束できるはずがない。存在すら知らなかったわけだからな?そう考えると何ら問題はないだろう?彼女の生きてきた道、彼女が経験した一切のことをお前は好意を持つべきだ。して出会った喜びに浸るなら、お前は今の彼女を愛という名で拘束したらいい。拘束できない事は不毛であり、拘束できることに邁進しろよ。」

    とりあえず言ってる事は当たり前だから、即効で頭での理解はできる。理性で理解できたら男は大丈夫である。あとは、嫉妬という醜い感情を断ち切って、よりよい男になれ、と補足する。当たり前のことを理解できなければなすすべはないことを自分はよく理解している。論理というものは、当たり前のことを理解するためにあるもので、男はそうあるべきだ。

    同じことを何人もの女に言ってみたが、果たしてわかったかどうかというより、女にはそんなことを分らせる意味はないと実感した。女に必要なのは論理的理解ではなく、嫌なことから目を背ければそれで済む。中には論理思考を求める女もいるにはいるが、「見たくない」、「聞きたくない」、「行きたくない」、「触れたくない」と言うのが支配的に存在する。


    どうやらそれで済ませていいようだ。見たくない物を見なきゃいけない場合、聞きたくないことを聞く必要がある場合、行きたくないところに…、触れたくないことに…、それを嫌だからと逃げていては務まらない場合が男にはある。女にもあるが、「嫌だ」と言って泣けば許してもらえる。男に行動を促す場合、なぜ自分がそれを嫌がるのかを突き詰めて考えさせる。

    論理的に思考させて、やっとそれを嫌がる理由を解明し、解決する。それが効果的な人間は知能が高い。それとは別に、ぐだぐだ言わずにやってみると思考より行動に促せる方法がある。単純な人間にはこちらの方が効果的だ。どちらも「やる」という行動に変わりはないが、人には向き・不向きがあるもので、使う側はそういう性格を把握しておくといい。

    自分は友人に何かをさせる場合は、この二通りを吟味して用いていた。度胸を決めてさっさと行動する人間の方が、意外とよい結果になる。やはり、度胸というのは大事な要素であろう。論理思考型は、理解すれば動くが、それに比例した度胸や勇気があるとも限らない。理解するのと度胸は別だから。それなら、理解はせずとも行動に踏み出せる人間の方が勝る。

    自販機のない時代、女に薬局にコンドームを買いに行かせることをよくやった。「絶対に嫌」といって憚らない女を説得するのは自分の論理的説得術を磨く方法と思っていた。女は買う側の自分の事しか考えないし、だから嫌だと言うが、売る側に回って思考したとき、いちいち買う側についていらぬことを考えたりしないもの。相手は何百人もの購入者を見ている。

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    「自分だけが変に思われるのでは…」、それがいかにバカげた思い込みであるかを諭す。「小事をものともせず、それができたお前は今日から輝く女だ!」などと滑稽なお世辞も言ったりした。論理的説得法を身につけるとかなんとか言いながら、ほんとはイジメだろう?いや、そうではなく、こんな簡単なことを実務としてやれない事が不思議であったのだ。

    「何で女は何でもないことを嫌がるのか?」という素朴な疑問は、女を特別視しない男の発想であったろう。女という得たいの知れない動物に、得体を求めたのが、若い時代の男(自分)にあった。身近に「謎」がいるのはどうにも居心地がわるかったのだろう。男は女を男として考え、女は男を女として考える部分はある。同権ではあっても同質ではないのはその通り。

    がしかし、女を特別視することで社会的に甘やかされている部分はある。それを特別扱いと世間は言う。今回、小保方氏の一連の騒動を見るに、やはり女は美人(?)は、どうにもこうにも甘やかされているし、それ以上に本人が甘える気でいるのが如実であった。今さらながら佐村河内と比較するが、雑草の強さという部分からしても、彼の男らしさには文句がない。

    小保方や笹井氏に比べ、社会的にも下層に位置する佐村河内氏だが、新垣氏と組んだ一連の不祥事に逃げもせず、キチンと自分の尻を拭いた精神的逞しさは理研のご両人に比して格段に上である。人はそれぞれに役どころが違うから単純比較はできないが、好き嫌いでいうなら圧倒的に佐村河内氏に軍配を上げる。が、それにも増して人間的魅力を感じるのは新垣隆氏。

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    堅物でいかんともし難い不器用な人間との印象だったが、何が人を変えるか分ったものではない。彼のまじめでひたむきな性格が、今は水を得た魚のように生き生きと、新たな一面を見せている。音楽的な才能はあってもあらずとも、人が生き生きしているのを見るのは清々しい。仏さまのような善人気質の新垣氏だが、いずれ自身の持つ有能なキャラに気づくだろうな。



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    この世は広い、人はイロイロだ。を体感する事は多だあるが、面白い考えに触れたので取り上げる。「人は自分がされて嫌なことは相手にもしない」というのが、人間社会の鉄則であり、これを守ればよい人間関係を築ける。なぜなら、人がされてもっとも嫌な事は、「殺人」であり、人を殺す前に、「殺されたら嫌だろうな」と考えるだけで殺人は減るかも知れない。

    減るけれども、なくなる事はないだろう。なぜなら、常軌を逸した人間はまともな考えで行動をしないからで、だから精神鑑定と言うのは必要だ。「キチガイに刃物」とは、非常に危険なもののたとえだが、精神異常者の殺人が罪とならないのは、「人間」と見ないからである。人間が人間を殺傷するのは犯罪だが、「人間として見られない」なら、罪は問えない。

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    さて、取り上げる考えというのは、「私は自分のされて嫌なことは相手にしない、という教えに反対です。」というある女性の書き込みで、論旨明快な書き込みなのでとりあえずはキチンと読む事ができた。言葉じりを捉えて、「何を言ってやがるんだい、このアホんだら」というのもアリだが、論理には論で対抗するのが誠実である。先ずは書き込みから…

    「私は自分のされて嫌なことは相手にしない、という教えに反対です。教えと言いましても、もう20才なので、誰かに教わったわけではないけど、そういう風に言う人が多くあると思います。反対理由は主に3つあります。

    ①自分のされて嫌なことが相手にとって嫌とは限らないから

    ②むしろ、自分のされて嫌なことじゃないことは、実は相手にとってはものすごく嫌なことかもしれないから

    ③自分がされたら嫌だからしないということでは結果的に、相手を嫌な気持ちにさせたくないというより自分がされたくないからという身勝手に聞こえるから

    です。他にも見返りを求めて人を救うのも、後々自分が苦しくなったときに助けてもらいたいだけで、本当にその人に苦しい気持ちから解放してあげたいと心からその人を救っているとは思えないです。」

    この考えを独善的と指摘する様々な反論は浮かぶが、こういう短絡的な思考に難しい応酬はしない方がいい。相手のあげた③つの理由を覆せばよいだろう。そこで、①自分のされて嫌なことが相手にとって嫌とは限らないからについてだ。確かにそういう事はある。自分と人が違うように、自分の嫌と相手の嫌は大きく異なることは珍しくないし、当たり前というほどにある。

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    例えば、自分が人から施しを受けるのを嫌いであっても、人は大好きだったりする。そういう場合、自分が嫌だから相手にしないというのは間違っている?いや、間違ってはいないと考えるべきだ。であるなら、「自分のされて嫌なことは相手にしない」という行為は、問題提起した女性の言うとおり、間違いとなる。なるほど、彼女の主張は正しいのか?

    残念だがそうはならない。最も、彼女は自分の主張を正しいとしていない。「私はこの教え(考え)に反対です」と言っており、反対というのは正しいから、正しくないからとは別に選択と考えることもできる。もっとも、何が正しい、何が正しくない、を決定づけるのは難しく、Aには正しく、Bにはマチガイ。日本では正しく、アメリカではマチガイというのもある。

    キリスト教では正しく、イスラム教ではマチガイ、男にとって正しく、女にはマチガイなど、「正しい・正しくない」は腐るほどあるが、何が正しいというのは控えなければならない言葉であろう。学校では教師が正しい、家庭では親が正しい、とは言い切れず、校則や門限もタダの決め事である。「なぜ守る?」と、問われた教師も、親も、「決まりだから守れ」というしかない。

    世の決め事は立場が変われば「正誤」も変わるとあっては、本当に正しい事はないことになる。が、それでは社会の秩序は保てないし、だから法や決まり事を作って人を従わせ、守らせようとする。作った以上は守る義務があり、守らない場合は罰を与える。こうでもしないと、人を統制する事はできない。が、罰なくして守らせるものがあるならそれは素晴らしい。

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    これが宗教である。宗教は神の命であるから、神は罰するために直接手を下さないが、それでも人は罰を恐れるところに宗教(神)の権威がある。新興宗教の教祖は神ではないから、教義に反したものを罰したりする。除名とか、強制退会とか、「幸福の科学」や「創価学会」などにはそういうケースがあった。人が寄って集って神輿を担ぐ宗教の本質はそんなものだ。

    話が複雑になったが、「正しいこと」など絶対にない。あるのはモラルや道徳や決まり(法)であって、「真理」以外は戯言であるが、その「真理」とやらはあるのか?人は普遍的に正しいモノを探すし、それにもっとも近いのが「宗教」である。上の書き手は、「自分のされて嫌なことは相手にしない」、を"教え"と記している。親か、教師か、書物か、誰かの教えであろう。

    教えに反する事はマチガイではない。発した側はマチガイというだろうし、世間の多数がマチガイと賛同しても、自分がマチガイと思わなければマチガイではない。誤解なきようにいえば、自分が「正しい」のではなく、「マチガイ」ではないということ。決定権はあくまで自分にあるということ。それで周囲からどう思われようが、嫌われようが、自分の生きる道だ。

    人から嫌われたくない、後ろ指を指されたくないなら、付和雷同に生きた方がいいが、それを好まぬなら、赤を黒というのは自由である。自由主義者も社会主義者も、宗教者も無神論者も自由である。人から「勝手な奴だ、付き合えん」と思われるのも自由である。自分は上記発言者の考えを否定はせず、「されて嫌なことは相手にもしない」は人間社会の鉄則とした。

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    「鉄則」はまた願望である。人が人を思いやって築いて行く社会の方が住み易いという「願望」であり、そのことに一抹の不安はない。よって、コレを正しいとするのは多数派であろう。自分の嫌=相手の嫌とは言えないも事実であっても、これを否定する事にはならない。なぜなら、「嫌」=「迷惑」ではないからだ。そう言う事は結構あるし、一例をあげる。

    「お前が嫌かと思って○○しなかったんだ」、「そうなんだ、別に嫌じゃなかったけどな」、「そっかー、配慮したつもりだけど悪かったな」という相手に対して、「何でオレを外すんだよ、無視するなんてヒドイじゃないか」、「いや、前にお前は○○は好きじゃないみたいにいってたので」、「そんなこと言ってないぞ、仮に言ったとしても、前は前、今は今だろう」

    という人間もいる。善意も仇となり、配慮もお気に召さぬという事例である。こういう場合、どうすればいい?「善意」と思った側が謝るしかないが、それでも「オレは悪くない。謝らん」という人間もいたり、とかくこの世は問題が多い。人によって変わる以上、正しい答えというのは流動的である。この手の問題には、小さな責任を認めて詫びるしかない。

    「オレは謝らんぞ、悪くない」というのは100%責任がない場合にいうべき言葉だ。が、100%責任がないというのは、そのように見ない自分の独善であろう。だからこういう人間も、無視されたと怒る人間も、その人の持つ基本性格が災いを起こしている。自分の何かに気づかねば、人は誰でも自分が正しい。さするに、人は自分の正しさを補強するために嘘をつく。

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    少しでも誤りや間違いやミスがあったと気づいたなら、居丈高にはなれないはずだが、自分の過小なミスを認めたくない人間の弱さ、その弱さを「業」と呼ぶ。分っていながらすっとぼけたり、隠匿するのは悪人レベルであろう。人が悪人になるかならないかの差は、自分の過小な責任に目をくばせるかどうかではないか。さて、小保方さんはどっちであろうか。

    イロイロな可能性はあろうが、科学と言うのは地道な作業の積み重ねで、ファンタジーではないのだし、科学者というのは自らを疑うことのできる人をその資質とするなら、彼女は役者であっても科学者と言わない。刑事事件に相当する故意の何かがあったか否かは緻密な捜査を必要とするが、ハッキリ言えることはああいう女を傍において置きたくないということ。

    人は人の心を正しく理解して付く合うのは不可能だから、予断と偏見がどうしても人の見方に影響する。予断はよくない、偏見はマチガイといっても仕方がない。長く付き合ってみなければおおよその事は分らないが、付き合う段階ではそれはない。偏見といっても、血液型であるとか、長女であるとか、一人っ子であるとか、末っ子であるとかの類である。

    そういったものを心に秘して人を正しく判断していく時間を必要とする。先に書いた「人の心を見定めるなら病気をしろ」ではないが、ある意味正しい。また、「人はみな役者」というのも、人の言葉をすべて真に受けないための手法である。疑心暗鬼にならない程度に、相手の腹を読むという卓越能力は、何と言っても感受性の高さからでる洞察力であろう。

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    あとは人間関係の経験もモノをいう。これらが重々備わってない若い段階で、人とくっつく以上、離れる事はむしろ当然で合ったりする。現代のように出会ってから結婚が早いと、離婚の可能性が高いのは自明の理であろう。互いの弱みを晒せてからの人間関係だが、それだから安心というわけにもいかない。真の人間性や人間関係の発露はその先にある。

    「自分のされて嫌なことは相手にしない」に異を唱えるのは、仮に相手が自分と違ってそうではなくても、相手に配慮がない点で間違っている。コレくらいのことで自分は傷つかないから、相手もそうだと思えばいじめになる。自分はコレくらいなんとも思わなくても、「もしや相手は気にするかも知れない」と、視点を最少に下げて行為する方がよい選択だ。

    何も分らない状況にあっては、最悪のことを考えた行動の方に配慮がある。相手の性格云々は、後に分る問題であり、それを先にするのはマチガイであろう。「己の欲せざる所は人に施す勿(なか)れ」という慣用句は、自分が好まないことを他人に無理じいしてはならないと言うことだが、それをして相手が怒ろうとも、「自分はされて嫌だからしなかった」で理解をえる。

    人との関係はそうでありたいし、もし逆に「自分はこれくらいは何とも思わないから、人にもするよ」は、強者の論理である。強者が傲慢になりやすいのは、こういう独善に気づかないからだ。弱者に視点を置くのも大事であるし、分らない相手には最大限の配慮で接することで、いずれも被害を被ることはない。やさしさは心の余裕であり、ゆとりであろう。

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    暖かい人にやさしさは所有されている。やさしさを演じる人もいる、過剰な親切をする人もいるが、愛に飢える人は騙されやすい。"③自分がされたら嫌だからしないということでは結果的に、相手を嫌な気持ちにさせたくないというより自分がされたくないからという身勝手に聞こえるから"については、真っ当な考えに思えるが、筆者の心にやさしさは見えない。

    なぜなら、「自分がされたら嫌だからしないということ」は結果的筆者のいうように、自分を差し置いての行為ではないからだが、心にやさしさのない人は斯様な気持ちを隠し持っている。こういうニヒルさが、現代人の特徴である。「オレもしないから、お前もオレにするな」というのが、人と人との付き合いのスタンダードになっているのではないか。

    筆者がこの言葉を添えた時点で、彼女の真意が理解できた。相手を無条件で労わる喜び、やさしさをどうやら彼女は社会教育から得ていない人のようだ。自分の行為には裏があり、よって相手の行為にも裏がある。現代の若者にはこういう考えが規範意識にある。自分がされて嫌な事は相手にはしないのに、もし相手にそれをされたら、自分は損をしたと思うのだろう。

    確かに自分が相手を配慮しているのに、相手は配慮などしない無神経な人間はいる。仮にそうであったからといっても、自分の人に対する配慮を止めていいものだろうか?「くっそー、こっちが気を使ってるのに、相手も使えよ!といいたくなる」と、こういうケースはしばしば耳にするし、自分も若い頃はそのように思う事が多かった。で、今は?思わない。

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    相手へ配慮は、相手からの対価を求ないでする。気を使うではなく、気を配るのは配慮であり、気を使うはしんどいだろう。相手が同質でなくとも、こちらは相手をコントロールできない。松井秀喜も同じようなことを言っていた。そういう場合、「仕方ないねー、相手の性格だから」と目くじらを立てない。相手がどうであれ、のべつくまなく相手への配慮はする。

    人(のため)にするのではない、自分がしたいからする。自分の信ずる生き方であるからする。まあ、「仏の顔も三度」というように、あまりに無神経で攻撃的な相手なら、さっさと付き合いを止めた方がいい。物分りの悪い人間と付き合うのは多少はしんどいが、分からせられたら…、という希望がある。が、こちらに危害を企てる人間と付き合うなどは論外!




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    「買い物は買うときまでの命かな」

    イメージ 1即効川柳だ。人間の楽しみの中で買い物はその一つであろう。「買い物依存症」というのもあるが、"気分がむしゃくしゃしたり落ち込んだりした際、ストレス解消のためについ衝動買い"という女性心理は理解できない。男でそういうものがあるのかないのか知らないが、「無自覚」の状態のままカードやローンで買い物をすれば、最悪生活破綻の可能性もある。買い物依存症の中には自分が買い物中毒だということを理解していない人もいる。自分の「弱さ」に無自覚だから、欲しいままに買い続け、 いつのまにか深刻な事態になっていたりする。とにかく、「買い物依存症」は「無自覚」だけに怖ろしい。買い物依存の心理の裏にあるのは、 「寂しさを埋めたい」、「良い子になりたい」といった気持ちといわれている。

    恋人との別れをきっかけに買い物依存症になったり、結婚生活で夫との関係がうまくいっていない女性が買い物にハマる…といったケースは非常に多く、これが女の憂さ晴らしというなら、そこは男とは違うようだ。憂さ晴らしとはダメージを受けた心を快楽に誘うことで、ある物質が強い繋がりを持っていると伝えられている。 その物質というのはドーパミン。

    ドーパミン=快楽ホルモンであるのは知られている。快楽/幸福感をもたらせてくれるドーパミンだが、暴走すると快楽/快感ばかりを求めてしまい、様々な依存症にもなりやすくなる。買い物も快楽であることから買い物依存症になるのだが、たまに既婚壮年女性にもあるが、一般的に若い女性に多いといわれ、その動機や症状を分析してみると以下のようになる。

      (1)特に欲しいわけでもないのに、服やブランド品を次々と買ってしまう
     (2)お金がなくても、借金をしてまで買い物をしたくなる
     (3)買ったものを身につけたり、使用することが少ない
     (4)購入したものはたいてい放っておく
     (5)日常生活の不満やストレスが多い
     (6)いけないと思っていても買い物を辞められない

    これらからして、依存してしまう女性は、買い物をすること自体が快感で、なかなかやめられない。ある心理学者は、女性に多い買い物依存症の快感のツボは、"お姫様扱いされること"だと指摘する。男が、たとえばプラモデルのような好きな趣味領域の品物を箱買いしたり、安い品物をかかえきれないほど購入して快感を得たりというのは、女性では稀であるという。

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    買い物依存女性はたいてい店員さんがいる高級店で買い物をするが、そのことで、"お姫様のように"扱ってもらえるからである。居心地の良い店内では、「いらっしゃいませ」から始まり、「こちらはいかがですか? とてもよくお似合いです」と褒められ、「ありがとうございました。またぜひお越しくださいませ」と姿が見えなくなるまで頭を下げていたりする。

    これ以上の“お姫様扱い”が他にあるかといえば、例えばエステサロンなどもそれに類する 女性はこのような扱いを快感と感じてしまう。ようするに、"ちやほや"されるのが大好きなのである。恋人も夫も、ちやほやしてくれたのはホンの最初だけ、だんだんとお姫様気分を味わえなくなる。結婚は「現実」といいながら、それでも女性はちやほやを望むのは何故?

    これは単に性格とか性向というより本能領域の問題であり、女は男より"尊重されている"、"大切にされている"ことを重要視する傾向が強いのは、生物学的な男女の役割の違いと現在の社会の仕組みに関わってくる。女性は、生物学的に子どもを産み育てることが出来る一方、妊娠中は不自由なことも多いため、誰かの援助が必要になる。それをパートナーに求めるのだ。

    イメージ 3特に妊娠・育児中は、男性から"大切に扱ってもらえるかどうか"が死活問題となる。そのため女性は、"他人から尊重されているかどうか、大切に扱ってもらっているかどうか"ということが大きな目安となり、重要となる。このことから女性は、"自分をお姫様のように大切に扱ってくれる"お店で買い物をすることが快感だと思ってしまう生き物であるようだ。
    自己愛傾向の強いナルシストの女性は、当然にしてちやほやされるのを好む。おまけに情緒障害もしくは情緒不安定傾向の女性が、「ああ、もうダメ、イライラするぅ!」などは日常的に起こり易い。あるセラピストは女性の買い物依存の兆候を以下のように指摘する。①どのように使うかを考えず買う。②現金がなくてもカードで買う。③ストレス発散のために買う。

    ④同じものをいくつも買ってしまう。⑤限定品と聞くと買わずにはいられない。などと、いかにも短慮的行動であるが、女性はオマケをつけてもらうのを凄く喜ぶところがある。男はあくまでも本質重視、タダでも無用なものは断ったりする。しかし、女性はオマケを断る事はまずない。しょーもないオマケであっても、「嬉しい!」などと、付加価値を喜ぶ性向である。

    「限定品と聞くと買わずにはいられない」というのは、限定品に遭遇しただけで、得をした気持ちになるのだろうが、それが自分の好みでなくとも自分が買わなければ誰かが手に入れるのが面白くないのだろう。「とりあえず買っておこう」という気持ちで購入してしまう。こういうところは男と買い物パターンがまるで違う。男は要らないものはタダでも受け取らない。

    反面、欲しい物は超高価であっても買う。これが男のステータス。道楽三昧というのは趣味が高じたもので、女性をして「男は分らない」と言わしめる部分であろう。夫婦喧嘩でよくあるパターンは、夫から「何でそんな必要ないものを買ったんだ?」、「だって、安かったんだもん」。超高価な物を買ってきた夫に、「そんなくだらない高価な物をよく買うわね!」。

    どっちの言い分も正当であるが、これは男と女の本質的差異と言える。「衝動買い」という言葉がある。巷でよく使われる言葉だが、自分的にはこの意味がよく分らない。物を買うというのは買おうという衝動があっての行為であるから、衝動なき購買はないはず。無理をして買う場合もやはり買うという衝動が購買を決定させる。一般的に衝動買いとはどういう意味?

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    よく考えもせず、その場の欲しいという気持ちだけで買ってしまう。という意味のようだ。「よく考えもせず」とは何を考えないのか? ある女性の例を挙げてみる。彼女宅に行って驚いたのは、引き出しの中にあるわあるはテキスタイル(織物、布地)の数々。何に使うともなくただタンスの引き出しにしまっている。「これって何のために買ったんだ?」と問うてみる。

    「かわいい布地だったので…」という答え。何に使うというのではない、その場で生地・布地に憧れて買ったのだろう。押入れの奥に袋のまましまってある布地の中には細かい刺繍を施された高価な布地があった。何年も仕舞ったままであるようなので試しに聞いてみた?「これはどこに使おうと思った?」、「刺繍が綺麗でしょ?」。答えになっていない、それが答え。

    彼女は手芸・編物が好きで、使わないものを買ったとしても購買動機は衝動買いとみなせないのは、購入したテキスタイルは用途として使うためではなく、「綺麗だから」、「美しいから」と言うことであり、いかにも女性らしい購買動機であろう。男には分らないものがふんだんに女性にある。「だって可愛かったから…」、「だって安かったから…」などなど。

    必要性の有無というのは男の理性的な側面だ。それで、「こんな必要ないものを!」と妻を責めるのは間違い。つまらないものを買ったことが原因で夫婦喧嘩になり、それが元で離婚となるケースもある。ある男がフィギュアをずっと欲しいと思っていたが、そんなものは生活に無用とずっと我慢をしていた。ところが、夫婦仲がこじれたと同時にジャンジャン買い始めた。

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    妻は妻で夫の趣味・道楽が面白くない。それで益々夫婦仲が冷えて行った。遂に離婚をすることになったが、いろいろ見聞きすると、ちょっとした事がどんどんと膨れ上がり、どうにもならない状況になる。末期には一切の会話もなくなるというのは、互いが互いの領域を避けようとする行動で、相手の行為にまったく無関心となる。もはや同居していること自体が不幸である。

    人の趣味は人には謎の部分がある。理解できないのは理解できない側に興味や素養の問題もあるわけで、理解できることが真っ当で、理解できないことが不当というものでもない。夫婦の絆や愛情に関して深い考察をしたシャルドンヌだが、次の有名な言葉は素朴で頷かされる。「愛する者と暮らすには秘訣がある。相手を変えようとしないこと。これがその秘訣である。」

    特に女性に多くみられるのは、好きになると相手のすべてを知りたがること。これはよくない。夫婦関係、恋人関係を円滑に続けけて行きたいなら、他人の不可侵領域を尊重すること。どんな人間にだって触れられたくない部分があるのに、自分の好奇心で人の机の引き出しや携帯電話を覗き見する。「隠し事がないなら見られて平気でしょう」という勝手な抗弁をつけて。

    こういう短慮なバカが長い間に夫婦仲がおかしくなった原因を自分にあると思わない。「鶴の恩返し」という物語が何を教えているかを考えてみたらいい。他人の善意がどういう状況でなされているかを知ろうとする必要はない。善意は素直に真摯に受け止めたらいいだけだ。携帯電話は便利であるけれども、これのおかげで恋人仲が、夫婦仲が、親子間がぎくしゃくしている。

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    人は「ダメ」といわれるとやってみたくなるし、覗き見は人間の本能だ。人の心は見えない、見えにくいゆえに、覗き見は人の本質を見た気になる。が、他人の携帯電話を覗くのは絶対にしないこと。私はあなたを信頼していないと相手に知らせていることになる。何でもかんでも知りたがる小心で嫉妬深い女は、必ず出すぎたことをしでかす。それで幸せも壊してしまう。

    「いいよ、見ても」などという男もダメ。決してキャパが広いのではない。何かあるとかないとかの問題以前に、決して侵してはならない個人の不可侵領域を設定し、その上で互いが自己責任で信頼関係を構築すればいい。北朝鮮や中国などの共産主義国家が、個人の領域にまで立ち入って統制を取るように、他人の自由を自分の都合で犯そうとするバカにつける薬はない。

    他人の携帯電話は「神聖にして侵すべからず」を守れるだけで、その人の人間性を表すもの。たといそこに多くの秘密が隠されていたとしても、パンドラの箱は一度開けると常習にとなり、不幸を招くことになりかねない。「私は平気よ、何であなたは嫌なの?」こんな小学生の発想しかできない女は、相手さえ小学生レベルに引き落とそうとする。こんな女、相手にするなよ。

    先の布地を買う女ではないが、自分も洋服を買うときに、それが自分に似合うかどうか以前にオモシロイから、柄がスキとかの理由で買う事が多い。着衣の結果は二の次、三の次で、若い頃からそういうところがあった。すべては着れば似合うよという後付である。トラッドやアイビー志向のチェック柄はその要素が強い。新しい柄が発売される度にその柄に心を奪われる。

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    トミーのオフィシャルサイトでは、フーデッドブルゾンというワーク感漂うアウターが、多彩なポケットを配され、その数なんと18個。どこに何を入れるというものでもないが、あちこちに10個ものユニークなワッペンをあしらい、存在感と遊び心満載のワードロープである。フロントはボタン×ジッパーのダブルクロージャー仕様で、FLYFISHの刺繍が入っている。

    釣り人用というわけでもなく、女釣り以外はしたことない自分である。歯科医院で衛生士さんに、「ポケット何個あるか当てたら1000円賞金!」といったが、せいぜい10個の返答がいいとこで、いろいろ隠しポケットもあって見た目ではわからない。「いくらくらいしたんですか?」と聞くので「当ててみなさいよ」というと、「じゃぁ4500円!」、もう一人は「15000円」。

    「惜しい、タケちゃん(4500円)のいった金額の8倍だ」というと、「どこが惜しいんよ。たっかー、院長先生でも絶対当たりませ~ん」と、院長が登場するのがイミフでオカシクて笑ったが、20代女性の買い物感覚はそんなものだろう。Tommy Hilfigerは、アメリカ・ニューヨーク州出身のファッションデザイナーで、ドイツ人とアイルランド人の血筋を引く。

    米国版石津謙介で、トラディショナル・スポーツ・ウェアのブランドを1984年に興している。彼は高校時代にジーンズを売って成功し、その後、1979年にフリーのデザイナーとして活躍した後に自身のファッションブランドを立ち上げた。2006年、アクセル・ローズ(ロックバンドガンズ・アンド・ローゼズのボーカリスト)と些細なことで殴り合いの乱闘をした血の気の多い人だ。

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    Tommy HilfigerRalph Laurenと比較されるが、Ralph Laurenよりも値段も安く大衆的なブランドで、日本では多少敷居が高いがアメリカではGAPと同じような衣料量販店である。トミーは以前、自分のブランドを「白人のためのブランドであって有色人種には着て欲しくない」と発言した事があったが、日本での出店が増え売り上げも上がり、その発言は撤回された。

    トミー自身は白人至上主義者であることは間違いない。自分の目にTommy Hilfigerの洋服は、若者向けというよりおじさんご用達であろう。VANも同様、団塊の世代が頑張って購入するアイテムで、若者は手を出さない。かつて一世を風靡したカルダン、ヴァレンチノ、ダーバンは、今どこかで息をしているのか?Ralph Laurenも米国ではアウトレット市場人気である。

    近年ジーンズはダサいオタク後用達に成り下がったが、かつてはリーバイス、ビッグ・ジョン、ラングラー、ボブソン、エドウィン、サスーンなどが目白押しだったことを思うと、なぜジーンズは廃れてしまったのか。昨今はまったく売れてないらしく、デニム工場がどんどん閉鎖され、廃業続きのただ中にある。日本デニム産業の本山・岡山のボブソンは昨年末に自己破産。

    それでも創業家がブランドを買い戻したものの、あまり旗色はよろしくない。ブラッド・ピットの「503」なCM が懐かしい国内最大手のエドウインは、昨年巨額な損失隠しが発覚。粉飾決算は10年以上続いていた。リーやラングラーは、エドウイン傘下に吸収され、リーバイ・ストラウス・ジャパンも国内の独自企画をほとんど打ち切り、もはや米国本社の傀儡企業などと惨憺たる現状。

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    デニム業界の衰退の原因は、ユニクロをはじめとする低価格ファストファッションが打ち出す、1000~3000円程度のデニムが市場を圧迫しているとの説が一般的だが、「最近の若者ってジーンズを履いてないですよね。ここんところずっと、ぜんぜん流行ってないです」と業界関係者。「古着マニアは?」に対しては、「そんな人、今どきいないでしょ?」としがないセリフ…

    デニムシャツとかデニムジャケットとかは着る若者が、なぜジーンズを履かなくなった?普通に、パンツの1アイテムとして使ったりはするのだろうが、チノパンや軍パンの方が、ずっと使い勝手がいいようだ。 ま、若くてチープな学生からしたら、ただでさえ貧乏なのに、ことさらチープに見えるズボンをなんでワザワザ履かなきゃいけんの?って話かも。



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  • 02/18/15--07:05: VANを着る
  • ジーンズが売れてないらしい。こんにち、おっさんのGパン信仰は、ブヨブヨ腹を無理矢理固い生地に押し込めてるのであろうか。おっさん体形に色落ちジーンズが似合うはずもない。「ウォッシャブルが似合う日本人なんてほぼ皆無です。よっぽど細くて脚が長くなきゃ無理。チャレンジする方が無謀…」(33歳、男性、某セレクトショップ勤務)の言葉が面白い。

    本年、年明け早々VANヂャケット10点の大人買いをした。新しいチェック柄も気に入った。着るより持っていたいとの購買動機。買い物は買うときが楽しく、買った後から喜びは減衰する。ナイキのスニーカーも昨年夏モデルだが、横幅狭いナイキはサポータガッチリ感で日本人の偏平足にやや窮屈。Tommyのアウターも遊び心満載の楽しさで買ったようなもの。

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    「ストレス買い」、「ストレス食い」という言葉がある。前者は仕事などでストレスがたまると、つい買い物に走ってしまうことをいう。買い物をした時に包まれる幸福感も、また少しするとその効果が切れてもっと高いモノを買ってしまったり…。買い物を繰り返えせど心は満たされない理由は、刺激に慣れるからだ。冷たいプールに足を入れると最初はとても冷たい刺激を感じる。

    それが肩まで水に浸かり、しばらく経つと冷たさに慣れ、ぬるくさえ感じるように、買い物もこれと同じと考えられる。小池龍之介の『貧乏入門』のなかにも、「次々にモノが欲しくなる欲望の3D」についての記述がある。"気持ちよくなるのは、手に入れた瞬間だけ。そのあとは、慣れてしまって快楽は消えて行く。" というように、誰しも経験あるだろう。

    まさに「買い物は買うときまでの命かな」である。"ポジティブな出来事や気分を高揚させることが起こると、一時的な幸福感と引き換えに快楽順応のせいで、後の幸福感や充実感が弱まってしまう"。これを心理学用語で『快楽の順応性』という。自分が稼いだお金をどう使うかは本人の自由だが、一生懸命働いたお金を一瞬の欲望を満たすために使い過ぎるのは勿体ない。

    まずは、「衝動買いにはキリがない」と理解しておくだけでも歯止めが効く。今の自分に与えられたものに満足する「少欲知足」の心も大事である。と、このようなことを書いて自分を戒めているわけではない。買い物をする人がいずれも心が乱れているわけでも、悪いわけでもない。こういう心理もあるというのを記したかっただけで、ふところと睨めっこして買えばいい。

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    さて、死ぬまでVANを着る。死んでもチェックのシャツにブレザーで棺桶に入りたい。湯灌が終れば死者は白木綿の白布に白帯を締め、額には三角形の布や紙をつけ、足に白脚絆・足袋をはかせるって、まあこれが死者の定番なのだが、江戸時代じゃあるめえし、何を着るも自由だが、自分で選んで棺に入るならまだしもそうは行かない。遺族は反対だろう。

    スカイブルー、イエロー、イエローグリーン、オレンジに囲まれて暮らすと心が和む。イエローグリーンの木の葉色、オレンジの柑橘系は自然への憧憬。楽しく生きるために色を大事にしたい。モノトーンやシックなオシャレ感覚ではないが、心だけはうきうき和む。色彩心理学で暖色系派は、楽天的感情の開放的環境を好む、人懐っこい性格で大らかという。

    何かにつけて「徹底」という性格が買い物に現れる。着るという以前に、買う事が快感というのは「買い物依存症」と共通するが、「依存症」とは無縁。口説き落とした女より、落とす前の女が輝いて見えるようなものか…。買って何年も着なくても、トラッドには流行、廃りがない。ディランの歌ではないが、流行って屁みたいに風に吹かれて消えるもの。

    martinのアコギを持っているだけで嬉しいオッサンもいる。VANの洋服を持つ喜び、着る喜びも同じく自己満足の世界である。欲しくても買えなかったあの時代に比べ、今はいくらでも買えるというタガの外れた状態である。眺めるだけだった35万のD-35や70万のD-45が、今はやすやすと買えてしまう。そういう金銭的余裕が、弾けないギターを買う動機だろう。


    人間には誰しも「所有欲」がある。いけないことではないが、自分の生活に照らしてやるなら「生」の執着心となる。ちょいとヨーロッパに行ったところで30万は必要だ。ルーブルで「モナリザ」を観るよりVANの服を買うのが安上がり。「Take IVY」なる教科書によると、アイビールックには厳格な規定があるが、今は何でもアリの時代で、アイビーカットのダサさは笑えてしまう。

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    もう一つ、自分がVANに執着するのは、VANをことごとく批判され、バカにされ、愛するVANを勝手に捨てられた母に対する復讐心でもある。シャツをズボンの中に入れないことをうるさく言う母は、それだけで不良と息子を罵った。エレキやビートルズも不良であった時代に、シャツを出すのも不良なのである。「そこまでいうなら本当に不良になってやろうか!」

    親に対する反抗感から不良を目指した同輩もいたと思う。自分はそういうのはなかった。いかにエレキやビートルズやプルオーバーシャツを不良と蔑まれても、「バカ親の言い草」と、逆に見下していたし、「だったら不良になってやる」という弱い心はなかった。「これが不良って、バカじゃなかろか」である。が、棄てられたりするのはさすがに頭にくる。

    そもそもVANとは何?日本の若者が始めて体験したファッションブランドが正解。当時あった「福助」や「グンゼ」は必需品であって、ファッションブランドではなかった。女性の洋服にはレナウンが「わんさか娘」と派手に広告をやっていたが、男物のブランドはなかった時代にVANが出現した。様々なアイテムがあったが、ボタンダウンの襟に斬新性があった。

    シャツの襟が浮かないようしっかりとボタンでシャツ本体にくっつかせるという発想だが、襟にボタンをつけたシャツなど見た事がなかった日本人。早速普通の白いワイシャツの襟を針と糸で、ボタンダウンに作り変えた思い出がある。これを母親が気に入らず、そのシャツを処分し、新しいシャツを買って置いている。これに腹を立てたのは言うまでもない。

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    子どものころに風呂敷をマントを背負った少年は全国に多くいたが、自家製ボタンダウンを作った高校生がどれほどいたろうか?これも、思春期少女が自分でスカート丈を短く縫い直すと同じ行動であろう。ボタンダウンについて、当時VANヂャケット社員で石津謙介の下で働き、後に「ミスター・IVY」と呼ばれていた、くろすとしゆき氏は、このように語る。

    「石津さんが、1959年にアメリカに行って、その当時東部のIVYリーグの大学生ファッションに影響を受け、日本で売り出そうとしたんです。それがVANヂャケットという会社でした。でも、IVYルックはぜんぜん売れなかったんです。不良服の烙印を押されていましたから…。当時は築地署から電話があり、"みゆき族とか、お前の会社が煽ってやってるんだろ?

    などといわれたりしましたし、築地署に呼ばれましたしね。デパートの仕入れ担当には、"こんなモンが売れるはずかない"、"誰がこんなモン着るものがいる"とか、散々バカにされました。ボタンダウンのシャツを見た仕入れ担当が、"この変チクリンな襟のボタンはなんですか?全部取ってもらえません?だったら入れてもいい"などと言われた時代です。」という。

    襟のボタンを取れというのは笑うに笑えない時代の逸話である。音楽プロデューサーの松任谷正隆氏は、40年前のファッション雑誌をみながら、「このヂャケット、このネクタイ、今も持ってます。昔のものをずっと持ち続けるというのも、石津さんやVANの洗礼を受けたからでしょうね。そういう意味でも僕の育ての親はVANでしょうね」と、彼の言葉は頷ける。

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    IVYリーグと呼ばれたアメリカ東部の名門八大学の学生は、世代を超えて受け継がれた伝統の装いで青春を横臥していた。単なる流行に留まらず、いつまでも色あせないファッション…、石津はそれに強く惹き付けられ、VANの商品をデザインする。日本の若者が始めて目にするファッションブランドはこうして生まれた。松任谷もそんなVANに夢中だったという。

    松任谷はユーミンの夫であるが、細野晴臣や松本隆らと結成していたハッピーエンなるロックバンドは、ウェストコーストサウンドを意識したアメリカンバンドで、ユーミンのブリティッシュ志向とはまるで正反対であった。松任谷は当初からユーミンのブリティッシュ志向には馴染めないでいた。ウェストコーストサウンドというカテゴリーを一言でいうのは難しい。

    VANのあとにJUNというブランドが出てきた。1954年創業のVANIVYルックに対し、1959年に創業されたJUNは、配色および柄に独自性を持たせたトラディショナルエレガントで、VANに比べて着る人の職業を選ばないという融通性のある路線を採った。後にコンチネンタルルックに転向、女性ブランドROPEとともにヨーロピアンスタイルブランドとして知名度あげていく。

    当ブログでブランド信仰者を揶揄をするが、ブランドといってもユニクロもGUもブランドであり、ブランドもピンキリである。自分がする批判は、貧乏人が高級ブランド商品を欲しがるとか、無理をして買うとかに言及する。ある女性に「そんなに無理をして買うものか?」と聞いたら、「ローンで月々3000円だから無理じゃない」といわれて笑った。「無理」の意味が違っている。

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    3000円を12回と60回では違うだろうが、そういう感覚が希薄な女性は、リボリビング払いに騙される。大事なのは月々の支払いではなく、利息を込めた支払い総額であるが、おつむの足りない女性にはそこが分らないようだ。高価な物が買いやすくなったと考えるか、高価な物は利息も含めてさらに高価になったと思うかで、その女性の経済観念が違ってくるのだ。

    30万の価格のものが長期ローンで支払い総額50万になっても、月々3000円なら問題ないと考える女性にカネの管理は任せられない。30万の商品が50万になっても欲しいという女性、30万のものが50万になるなら、「そんなもん誰が買うか!」という女性に一票投じたい。手軽なローンが組めない時代は、欲しい物を買うためにそれこそ一生懸命に頑張って貯めたもの。

    人間の頑張りという教育効果は、そういうところからも育まれた。欲しい物はすぐに手に入れられるという利便の時代だが、それなら支払いはかったるいだろう。社会情勢によって人間は変わっていく。社会によって変えられていくと言った方が適切だ。VANの洋服が欲しいだけで、洋服全般が欲しいわけではない。J.CrewTommy Hilfigerを買う事もあるが、それはあくまで着るため。

    VANを買う大きな動機は「青春を買う」である。VANに心を揺さぶられのは、青春に揺さぶられること。青春期は自由だが経済的には不自由で、今、その自由を買うこと。VANを欲しい自分が好きである。だから、「永遠のVAN」である。「僕の育ての親はVAN」といった松任谷、「VANは会社じゃない、学校だった」と言ったのは同じくIVYリーガーのマイク真木であった。

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    ご存知かな?1964年の東京オリンピック。開会式の日本選手団の赤と白の上下の公式服装だが、これがVANであった。正確にいうと当時VANの社長だった石津謙介によるデザインであり、VANとして商品化されて売り出されたものではない。しかし、当時の世相はこれに異議があった。「日本男子に赤い服を着せるなんて何事だ。けしからん」。そういう声が国民からあがっていた。

    ユニフォームを仕立てたあるテーラーには抗議が殺到し、店の主人はショックで入院したという。しかし、この衝撃がその後の日本のライフスタイルを大きく変えることになった。石津は、金ボタンのブレザーにボタンダウンシャツ、コットンパンツといったスタイルを、アイビーファッションとして提案したが、アイビーという言葉を知っていたのは、ほんの一握りの若者だけ。

    ブレザーは当時、スポーツ選手が着る特殊な服というイメージしかなく、ブレザーを着て街を歩くなんて「頭がおかしいんじゃないか」と思われていた。デパートからも、「こんな服、誰も着ない」、「金ボタンを取り換えたら仕入れてやる」であったという。ところが、東京オリンピックの開会式が終わった直後から会社には、ブレザーを仕入れたいとの電話が鳴り出した。

    金ボタンを取り替えろといっていたデパートの担当者からも、「ブレザーを品切れにするな」と言われるほどの売れ行きをみせたという。赤は女の色という固定観念が東京オリンピックを機に大転換したのだった。女の赤は挑発的な色という心理学的な考察があるが、男の赤はなんだろう?やはり、赤は女の色という棄てがたい潜在式は、どうしても我々にはある。

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    赤を着る男の勇気というのは、「どうだ、何か文句あっか!」という自らの固定概念への挑戦かも知れない。確かに勇気はいるが、それは固定概念打破にはつきものだ。赤のブレザーはないが、赤いスイングトップは着る。今回買ったスカイブルーのマウンティンパーカも結構派手だ。自らへの刺激という意味を込めてであり、VANを愛する蛮族とでも言っておこう。

    が、今回はショートステンカラーコートの赤には躊躇いがあって見送った。色が問題ではなく、人からみればド派手の若造りと思うだろう。「若造りじゃない、活造りだ」と、ジョークで応対する。アメリカのおじいちゃんが、ド派手なスタイルを楽しんでいるが、「若い頃は地味でいいんだ、地味な恰好でも楽しめる。年を取ったら派手にしなくちゃね~」と言う。

    人目を気にせず自らのスタイルを楽しむ欧米人ならではだが、さすがに人前でチューは日本人向きでない。人前どうこうより、これは文化である。愛の言葉を多用しないのも、同様に文化であろう。「寄る年波には勝てない」という言葉がある。若さを過信して行動しても、結局は年相応のことしかできない、ということだが、力仕事はそうでも服は関係ない。

    VANは心の栄養源。心の若さを保つもの。for the young and the young‐at‐heart なる有名なロゴは、一体誰が考えたのかの資料はないが、当時の垢抜けない日本の町並みでは抜群におしゃれでよく目立った。「young at heart」とは若々しいとか、心が若いという意味で、日本人の使う英語ではないし、何か参考にした原典があるのだろう…。

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  • 02/19/15--16:02: 5月5日の性くらべ

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    実家の隣に居住するなおみちゃんは同い年、おててつないで保育園に通っていた。が、しばしば保育園から互いの家に「まだ来てない」と連絡があったという。自分の親となおみちゃんちの店員が付近を捜すと、河原で遊んでいたり、神社のお堂の中にいたり、材木置き場周辺にいたり、まあ麦畑にはいないし、いかがわしいことなど何もしていない。

    就学前の幼児だから、異性を意識しあうということなどない。が、自分とは異なる人間というのは幼児にもある。行方不明ではなく、登園時間が数時間遅れる程度というのがわかると、もう探さなくなったと当時の園長先生から懐かし話を聞いたものだ。それが慣れっこになり保育園にきてなくても、そのうち来るだろうというのも二人に信用があったということ。

    新一年生ともなると児童会の一員として並んで登校だが、遅刻も欠勤もない自由な保育園にくらべて、学校はいろいろ決まりや制約があった。なおみちゃんとの二人登園も分断され、我々は組織の一員となった。それでも二人は学校から帰ると保育園のときと同じように、彼女の家の商品倉庫(衣料品店だった)でよく遊んだ。遊びはいつも彼女が「~しよう」と決める。

    男の子にままごとの主導権はない。男友達とは鬼ごっこなどで走りまわるが、商品倉庫で多くやった遊びは「殿様ごっこ」と記憶する。彼女は自分をお殿様に見立て、侍女のように振舞うのが好きだった。座布団を敷き、アイロン台を脇息にし、時に自分の部屋から布団を持ち出し、自分を病気にさせて介抱するのだ。病気になったときのやさしさに心は潤む。

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    ♪幼なじみの想い出は青いレモンの味がする~の歌詞のとおり、異性を意識しないまでも先天的に二人は異性であった。思春期にありがちな接触欲というものがまるでなく、それでも心の奥に男と女が存在していたのは間違いない。男の子は女の子の本能的なやさしさに心が息づき、女の子は男の子の世話をすることでの母性の本能を開花させていたのだろう。

    最近の若い男がSEXに対する興味が薄れているのは、数年前から言われているが、一般社団法人「日本家族計画協会」がまとめた「男女の生活と意識に関する調査」によると、若い男性の「セックス離れ」は特別深刻なものではなかったという結果。調査は昨年9月、全国の16~49歳の男女3000人を対象に実施し、1134人(男519人、女615人)から有効回答を得た。

    2002年から隔年調査で昨年で7回目。その中でセックス経験が50%を超える年齢について、14年調査で男性20歳・女性19歳と、若い男性の「セックス離れ」は事実でなく、男性29歳・女性28歳という誤った報道が、「セックス離れ:若い男性、性の『絶食化』」(毎日新聞)、「セックスレスの既婚男女増加=若年男性『草食化』も」(時事通信)などと報じられていた。

    男性の草食化が進んでいると言われたころの分析によると、異性との関わりを面倒と感じたり、結婚に利点がないと考えたりしている男性にその傾向が強かったという。「相手との関係を築くには相応の時間とお金と労力がかかるなど、セックスに至るまでのコミュニケーションを難しいと感じる男性が増えているのではと懸念する。難しいは、面倒に連なって行く。

    イメージ 3一般的に男性は相手より優位に立ちたいと考えがちで、これは本能的な闘争心でもあるが、学歴や収入面で同年代の女性に負い目を感じれば、結果的に関わりを避けることもあるのではないか。また、40年前、50年前と比較していうなら、昨今は性の氾濫が何らかの影響を与えてるように思う。未知の「秘密」の箱を開けてみたい、「禁止」は欲望を増幅させる。
    昨今、「性」のどこが秘密じゃ?「禁止」も絵に描いた餅のご時世である。我々の時代は女性そのものがミステリアスであって、昨今は羞恥心の欠片もないほどにあられもない肢体を晒す女性に「パンドラの箱」は喪失した。かつてあった「裏本」は消滅、すべてが「表本」である。取り締まりも厳しく、女性を知るはナマで見るしか方法がなかった。

    ネットの掲示板で男を誘うために、性器画像を貼り付ける中高生や小学生も珍しくない。そんな時代に生きる男の心情とはいかなるものかは古い我々には理解を得ないが。想像するに女性の秘所など珍しくもなく、そこら中に散らばっているのは事実である。セックスの興味は、まずは異性への興味である。老人が性に疎くなるのは異性への好奇心が薄れるからだ。

    異性への興味は性器への興味でもある。若い男にとって女性器は閉じられた天の岩戸であり、お目にかかるにはそれなりの努力を要した。それが昨今は鮮魚店に行けばパック入りアワビのように簡単に目に触れるほどに価値を喪失した。滅多に性器を露出しないからこそ女がミステリアスな生き物であったはずが、これはもう「秘所」という言葉が死語といっていい。

    こんな時代にあっては女性も憐れではないのか?海のナマコは海の中に居てこそ違和感のない姿を晒すが、そのナマコが家の生息し、ニョコニョコ壁に張り付いて動いていたら、誰もナマコを食したくなくなるだろう。それほどグロテスクな醜態だ。女性の性器とて、ある種の興味と好感を抱かなければ、露出された人間の体の部位であれほどグロイものはない。

    正確には露出されてはないが、口腔も同じ意味での粘膜のグロさである。厚い表皮に覆われた生物は、より薄い粘膜の接合で相手と接触を叶えたい、それが口腔であり性器である。服を着たまま抱擁するのと一糸まとわぬ姿で抱擁するのと違うようにだが、女性に比べて早い時期からAVなどの画像や動画に触れる機会の多い男に、もはや女はパンツを履いたエテ公か。

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    性に限らず、何事においても低年齢化は避けられないが、大人が児童を性的興奮の対象とする問題に関連しては、児童の福祉に反するという考えは維持・継承すべきであろう。これらは一般に性犯罪および児童虐待として扱われるべきものだ。子供の性の研究における最も有名な2つの研究は、フロイト及び、アルフレッド・キンゼイによるものである。

    自慰及びオルガスムに関しては、1950年代のキンゼイの報告が有名である。キンゼイによれば子供は5ヶ月の年齢からオルガスムを感じることが可能であるとし、3歳まで少女が少年より更にしばしば手淫を行うことに気付いた。腟の反応は、成人女性のそれと類似した状態で性的に刺激された少女に観察された。これに対して少年は精液生産年齢が大きく関わる。

    それまでの少年は射精を伴わない性的興奮の絶頂(ドライオーガズム)を経験し得る。精通が無く、精液の分泌が出来ないとあっては必然的にドライオーガズムとなる。子どもの性の問題は研究であって、市井的な理解に及ばない。また、医学的分析より、社会学的分析をすべきである。「男性の女性に対する学歴や収入面での負い目説」という分析はどうなのだろう。

    これは医師であり「日本家族計画協会」理事でもある北村邦夫氏の分析である。同じ負い目説でも自分の社会学的考察によれば、女性の言葉の率直さに傷つく脆弱男が多い昨今ではないかと見る。「お殿様ごっこ」を幼児の遊びとして好んだなおみちゃんのような、女が男をごく自然にリスペクトする文化が廃れたのかも知れない。これは男女同権を否定するものではない。

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    それは社会形態のあり方というのか、また、動物的生態学からみてメスよりオスが体型・腕力の優性を率直に認めていたのかは分らないが、両性の体格差はオスがメスを守る役目を負うからである。もちろん種による個体差もあるが、ライオン、ヒヒ、トドなどのハーレム型の配偶形態を営む動物は、性的二型(性によって体型が異なる)が大きく、雄の方が圧倒的に強い。

    腕力・筋力などの体力、攻撃力についての強さとは別の、生命力についていえば女性の生きる力は強い。持続力(?)というのは男の領分だが、これも個人差によるものだ。自殺の男女比は圧倒的に男が多い。女性の自殺者は心神耗弱の精神的疾患、路頭に迷って死ぬのは男である。それと人間の場合は、体力差、腕力差以上に精神力(肝ッ玉)の差が強さに影響する。

    メスが骨格上も筋量も平均的にオスに劣るのは、出産と哺育の機能を身体に備えているためであるから仕方がないし、その分オスがメスを保護する任を負う。ほとんどの哺乳類は優位な筋力面が力の強さとなるからか、オスとメスとで争う機会は少なく、そこはメスも自己防衛本能が働くからであろうが、人間はオスとメスがしばしば争ったりするのはなぜ?

    それは言葉があるからだ。神はメスに筋力の代わりに言葉を与えたようだ。これでオスをやっつけなさいと…。人間は神の創った最大の失敗作というが、もちょっと設計の段階から考えなかったんかいねー?神もたいしたことないよ。三流設計士が設計した高層住宅なら壊して作り変えるしかないが、キリスト教のアルマゲドンも人類滅亡に向かっているという。

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    「黙示録」は人類が「救われるか、滅びるか」の大問題を扱っている。救世主キリストの再来による救いと滅びであり、「清く分かたれた選びの民の救いと、悔い改めようとしない不信仰者の滅亡」という両者の明暗を分かつ。こういう考えは非キリスト信者にとって、極めて独善と偏見以外のなにものでもない。よってキリスト教会は一致した解釈を出せないでいる。

    宗教の話はともかく、昨今の女性は男に守ってもらいたいのか?それとも家に悪漢が忍び込んできた時、夫を充てにせず自ら戦おうとするのか?東北大震災のときに、妻子をおいて我先にと逃げ出した夫に愛想をつかした妻による「震災離婚」が問題になった。まあ、自分に言わせればダメ男はともかく、日頃から夫をリスペクトしてその気にさせるのも女の技量である。

    男を生かすも殺すも女次第というと御幣があるが、男の脳細胞は意外と単純に出来ている。『葉隠』は武士の指南書だが、こういう記述がある。「人の心を見定めようと思ったら病気をしろ」という教えだ。単純だけど、困ったときの親身度を測るには、病気になってみるのが一番と言うことか。「お殿様ごっこ」で病気でやさしくされるのはよい気分であった。

    よい気分にしてくれる女性を身を挺してでも守るというのが男気であろう。本能と言うべきだが、本能も環境によって変わってくるように、人間の本能というのはそれほどにあやふやなものらしい。母性本能という神話が崩壊し、男の庇護本能さえも女によっては本能とはならない。あえていえば、男の守護本能をくすぐる「なぜか放っておけない女」は間違いなくいる。

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    再度言うが、「男は単純である」。男と女に限らず、人と人が良好な関係を維持する上で大切なのは「初対面のつつましさ」で付き合うことだ。「つつましさ」とは何ぞや?「つつましさ」とは、自分の弱みを自覚するところから発露する感情である。互いが自分の弱みを分っていれば、相手に対して尊大な態度をとることはない。新婚当時の妻はつつましく、夫にやさしい。

    夫婦関係が上手くいかなくなるのは、そういうものがなくなっていくからだ。ばかりか、相手の弱みに攻撃を与えようとするなど、これでは人間関係は壊れて当たり前だ。もはや初心を忘れた夫婦には修復しがたい感情の壁ができあがる。良かったときの互いの意識とはなにか、障害になっているのは何か、自分の価値観だけを信奉し、優先していないか?

    こういう風に幅広い視点で考えられる人間は、すぐに行きすぎの何かに気づくし、つまりそういう障害を排除することを考える。子どもの進路についての妻と夫の隔絶した価値観も、様々な問題を思考して答えを出すことだ。なまじカネがあるだけに、金銭教育をしようとする親は多い。おカネがあったらよい教育ができると錯覚するのだろうが、それは本筋ではない。

    ①親の子に対する教育愛、②美しい自然環境、③ある程度の貧困。これが子どもの教育に大事であるとの考えを自分は信奉している。逆に考えてみるといい。①子に対して無関心、②乱雑な部屋など汚い環境、③裕福金満家庭。これが悪い弊害というよりも、思考ナシでいるならよい事はない。おカネもちが非難されるのではなく、カネにモノをいわせる短絡さが問題。

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    長く同居して互いに遠慮がなくなるのはいいけれども、人は互いに弱みを持っているし、それを見せ合うのが夫婦であろう。長く一緒にいれば、それは必然的に見せ合い、出し合うことになる。つまり、弱みを晒すというのは信頼関係の表明であるし、こちらが出せば、「実はわたしも…」と偽った過去の経歴を訂正したりもありうる。弱みを見せ合うことで対等になる。

    それが関係を急速に深めたりは往々にしてある。が、人間関係の難しさはここから始まるといっていい。「弱みを見せたらダメ」という言葉は、寝首を掻くような相手、裏切るような相手なら自分の弱みはすべて相手にとっての攻撃材料となる。弱みを見せた側に勝ち目はない。夫婦といえどもこのような危険性はある。だから夫婦はならないようにするのがいい。

    一度たりとも、披露した相手の弱みを攻撃しないこと。これが弱みを晒した同士の大鉄則である。ところが、思慮浅く、喧嘩や言い合いの際に、口が過ぎる事がある。欧米人は感情のぶつけ合いの喧嘩や言い合いはするが、自分が言いすぎた言葉、超えてはならない非人道的な罵倒などをしたと気づいたら、「言い過ぎた、ごめんなさい」と謝ることが多い。

    宗教的なバックボーンからか、許しの言葉を乞うと許すの国民性があるが、日本人の謝罪下手というのはどうしたものか。相手の弱みを攻撃するのは犯してはならない夫婦の大鉄則だと思う。「だから母子家庭の女は…」、「学歴のない男って…」、「背の低い男って…」、「貧乏育ちの女はカネ使いが荒い」、「安月給の男のところに嫁ぐんじゃなかった…」

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    まだまだ、沢山ある。夫婦が所有する弱みとは、庇いあうものであって、絶対に攻撃材料としてはならない。相手のことだけではない、相手の家族、親族を攻撃材料にするような人間を「性悪」というのだ。人の悪口、弱みを突くことで自分がいい気分になるような夫婦は、この世から消えてなくなりやがれ。喧嘩で勝ち負けを争う相手なら大いに利用すべきだが。

    それでも限度というものはある。耳の聞こえぬ相手に「つんぼ野郎が」というのも、チビ、デブ、ハゲというのも、喧嘩の下手な人間はすぐに相手の弱みにすがろうとする。喧嘩にルールはないが、遺恨を残す喧嘩にするか、その場の鬩ぎあいにするかで口の聞き方も変わってくる。まあ、言ってはみたが、頭に血がのぼった人には無意味な戯言だ。

    激しくも乱暴な言葉以上に、気持ちが削がれ、離ていくのは、上の2画像のような陰な物言いの女であろう。本人は気づいていないのだろうが、どんだけ美人であっても巷のブサイク女の方が可愛く感じるようになる。心が離れ、愛情も薄まり、アレもやる気がしなくなる典型タイプだ。チンがチーン!




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  • 02/21/15--00:47: 3月3日はひまなつり

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    高1のときの担任Tが釣り好きで、ときどき釣りの話をした。餌がどうの、場所がどうの、小船まで買って休日に沖合いに出かけるとのことだが、生徒を誘うわけじゃなし。生徒を私的に誘う教師はいないだろうが、随分前だが、地元のバカ高校の女生徒が教師と関係を続けてると聞いたときに、その学校に連絡してやろうと思ったが、よくよくバカバカしいので止めた。

    なぜバカバカしいと思ったのか、その生徒が教師との関係を無理強いさせられていたのではなく、自分から仕掛けて以降楽しくやっているなら、その教師を指弾する必要もなかろうと思ったからだ。陰で不倫理、不道徳なことをやってる人間なんて、教師だろうが警官だろうが、宗教の教祖だろうが、そこらのおっさんだろうが主婦だろうが、所詮は人間のやることだ。

    見つからなければよいし、見つかれば非難や責を負えばいいし、第三者が他人のアンモラルな行為に関心を持つこた~ない。その学校に我が子が通っているというならすぐに問題にすべきだが、他人の子だから日和見主義ということでもなく、他人のことに関わればあれもこれもでキリがない。何かを知って善人ぶる前に、自分のことはどうなんだと、それもある。

    自分のページを他人にめくられて、何もないなどあり得ないが、自分でページをめくれば飛ばし読みもするだろう。巷にあっては印象的な事件は数多しだが、他所で起こった事件を我々は報道で知るしかない。報道は事件の細部を、あらましをキッチリ見せてくれるわけではなく、そういう不満は仕方ない。ところが映画だと、まるで事件の現場に居合わせたようだ。

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    フィクションとはいえ印象的な映画も多い。今村昌平監督の『うなぎ』は心に残る一編だ。夫は釣りの好きな無骨者。無骨なだけに一途な愛妻家だが、妻もやさしい笑顔と愛想を絶やさず、夫の夜釣りの弁当を作ったりの内助をみせる。が、それは表の顔である。一見貞淑な妻が、夫の夜釣りの合間に男を自宅に引き入れる情景をお隣さんに知られている。

    お隣さんは夫に妻の行状を手紙で知らせる。通勤帰りの電車の中で夫がその手紙読む場面から映画は始まる。映画を見終わった後でこのお隣さんの行為について思考をめぐらせた。「趣味は何ですか?」、「思考です」と、分けの分らない回答で相手を煙に撒くのだが、「思考は趣味か?」と言う奴もいたが余計なお世話だ。自分が趣味と思うなら趣味なのだ。

    何事も世間の枠でくくりたい、くくろうとする人間がいる。世間の枠はマジョリティとして「常識」と名を変えるが、枠に嵌まらない、あるいは枠からはみ出す者を非常識と断罪する。ブログやソーシャル・ネット ワーキング・サービス(SNS)といった個人が情報発信するメディアはすっかり定着し、それらの動きを伝えるミドルメディアも存在感を増している。

    こういう場では多様な言論を生み出し、ネット上の出来事がミドルメディアを経由し、マスメディアに取り上げられる昨今だが、こういうことは、基本的に良い方向だろう。マスメディアによる限られた視点だけでなく、多様な議論を生み出す可能性があるからだ。ところが、ネットとマスの共振がひとたび牙を剥くと、「炎上」という攻撃に転じることにもなる。

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    あるブログのある発言が何か問題になったとすると、どこからともなく、どこの誰かさんがちょびちょび攻撃に現れるというのだ。ブログやSNSによって誰もが自由に発言できたはずなのに、気に入らない発言にそうやってちゃちを入れ、いつの間にか大勢が「お前は屁をしたろう」、「屁をしたろう」と、みんなで指を差しあうような状況になって行くのである。

    集団イジメという言い方もできるが、「私刑」という状況だ。つまり、個人がメディアを持ったことによって、誰もが「私刑」を実行できるようになったといえる。そこに怒涛の人間が押し寄せて、「屁をこいた』、「屁をこいた」と吊るし上げるのだから、たまったもんじゃない。自分がされたらどんなに嫌で煩わしい事だろうが、罪人の如きに攻め続ける。

    膨大な攻め手に対応しきれず、ブログの閉鎖を余儀なくされるが、これをネット用語で「炎上」という。誰が命名したのか、面白い言葉だ「炎上」というのは…。煙を立ててもうもうと燃えるわけではないが、そういう雰囲気が感じられる。ネットで生まれた言葉が世間をリードしていく時代である。これまで「新語」というのは、マスコミが主導していたのだ。

    やっているうちに、鼻くそを取り出す奥儀や合理的な方法を編み出すことにもなりかねない。極めようと意図するなら立派な趣味である。ただ、必要にかまけてやるだけなら趣味とはいえまい。「趣味はオナラ」という人間がいた。彼のオナラは臭気はないらしいが、多彩な音色と、7色の音階をこき分けるというからして、趣味が高じて特技にまで昇華した事になる。

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    書いて字の如し、「味わいの趣」あらばそれが趣味だ。世に変わった趣味の保有者は多く、芸能人伝説によると、原田知世の趣味はスカトロであるらしい。キューバの首相のファンではない。あれはカストロだ。原田知世スカトロ説を追ってみる。彼女のファンで、かつてつきあったこともある吉川晃司によると原田のスカトロは、ちょっとサドも入っているらしい。

    つきあう男に自分のウンチとかを喰わせるらしい。”私のこと好きなら食べれるでしょ”って...。吉川も、念願かなって原田とおつきあいすることが出来たが、付き合って少したってからこれをやられたらしい。吉川がどう対応したかは不明である。そんなは性癖だろう?と、他人の目にはSMもスカトロもそうであっても、本人が趣味というなら趣味である。

    人前で公言できない趣味の類だから、彼女にインタビューでこのことを聞く者もいないし、答える道理もない。他にも変わった趣味でいうなら、「野草マニア」、「生き物観察」、「献血マニア」、「コスプレ」、「古携帯収集」、「河原の石ころ収集」、「鉛筆の芯彫刻」、「屁の音階で作曲」、「自己啓発」、「資格マニア」、「心理学」いずれも趣味といわれる。

    趣味らしくない趣味というのも当てはまらないが、かつての趣味といえば、読書、音楽鑑賞、映画鑑賞などが履歴書の定番であった。こんなものは趣味といわずとも誰でもするんじゃないか?で、趣味という以上回数(量)が多いということか。読む側も突っ込みを入れることもなかろう。女性の釣書に記入する趣味といえば、お茶、お花、俳句…、ほんまかいな。

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    「趣味はパチンコだ」という奴はいる。別にどうも思わないし、履歴書に趣味はパチンコと書けない時代でもなかろう。多少、躊躇う者もいようが、数十年前ならパチンコ、競輪、競馬といえば「穀潰し」の定番であった。「穀潰し(ごくつぶし)」とは、これまた死語であって、ただ、飯を食うだけで定職もなくぶらぶらと遊び暮らす者。のことをいった。

    いまではこれを「ニート」というのか、それにしても、「あの男は近所でも評判の穀潰しだ」の方が迫力がある。穀とは、米や味噌など食事一般の意味で、それを潰してしまうということ。昔なら、「この穀潰しめが、お前なんかとっととこの家から出て行きやがれ!」と親から追い出されたものだが、最近はそういう意味でも甘い。ニートにせっせと食事を運ぶ親。

    近所の兄ちゃんが、「何もせずに一日中家にいるなら、川で夕食の魚でも釣って来い、このバカたれが!」と父親に言われているのを子どもの頃に聞いた事があった。自分の父親も釣りを愛した人である。しかし、あのような母だから、釣れないときの言われ方は、「釣れもしないのに、餌代ばかりつぎ込んで、ほんまに腹の立つ!」などとヒドイ言われようである。

    言っておくが、釣りは趣味である。夕食の食卓に並べるために行くのではないが、実入りがないと餌代云々を言いたくなるのが台所を預かる女の言い分のようだ。散々嫌味を言われても寡黙を通す父親に、幼児期の母を柱に縛り付けてた当時の面影はなく、ここまで言われてなんで一言言い返さないのか不思議であったが、今に思えばヒステリー女から得た教訓だろう。


    映画『うなぎ』で浮気場面を目撃した役所広司が妻を刺し殺すシーンは、人が犯罪(殺人)を犯す動機に理解を得るほどに生々しいが、監督の今村昌平は、それほどに妻の貞淑さと淫乱さの一面の対比を際立たせている。今村昌平の人間観は以前にもここに書いた記憶があるが、誰ばれ捕まえては「おい、人間観察をちゃんとやっているか」と声をかけていたという。

    『日本映画学校』を主宰していた今村は学校の理念をこう定めている。「人間とは、何と胡散臭いものか、何と助平なものか、何と優しいものか、何と弱々しいものか、人間とは何と滑稽なものかを真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい…」。今村のいう人間観察者の真意とは何か?

    人が職場を辞める大きな理由は人間関係だ。仕事がキツイとか給料が安いとかより人づきあいにおける悩みの方がその人には甚大である。犯罪の動機とて同じこと。思わずカッとなってとか、他人の仕打ちを恨んで引き起こされる事件の多き事なり。男女の色恋沙汰もほとんどがそうであろう。男は女がたて突いたときに血が昇り今村昌平、女は男の寝込みを襲う。

    女が非力ゆえなら寝込みは妥当だが、役所広司が妻を刺すときの鬼気迫る演技、自転車で口笛を吹きながら興奮を押さえ込もうとするところ、その足で警察の玄関をくぐり、住所氏名を名乗っって、「たった今、妻を殺して来ました」の場面のアッケラカンさは、人殺しという犯罪は、まるで鬼が島の鬼退治をして凱旋した桃太郎の如き正義感に溢れていた。

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    が、役所演ずる山下は、妻の愛くるしい笑顔と裏にある別の顔触れて逆上したが、以後、極度の人間不信に陥って対人関係を避けて生活する。悪事を善人面で行う人間を、今村は滑稽と捉えているのだろう。誰でもそういうものだし、何事もなかったかのようにすましてオナラをこく女が、浮気をしていながら何事もなかったかのような顔を繕うなど、朝飯前だろう。


    今村はそれを面白いと称している。20代だったある日、部屋ですかしたオナラの臭いが漂ってきたときに、そばにいた彼女に言った事がある。「なんで、そんなオナラをしていませんという顔をしてお前は屁がこけるんだ?」、「えー、そんな、オナラなんかしてないよ」と来たもんだ。が、これはダメだ。オナラは二人しかいない場合、絶対にホシは判明する。

    自分でなければ相手に決まっているのに、なぜに逃げ失せられると思っているのだろう?こういう嘘はあまりに無理があるし、100%判別できる嘘をつくものではなかろうに。どこかの場所で人を殺して、「殺ってない」というのと訳が違う。彼女はどんなに咎められても屁をしていないという性格なのだろうが、もし、女にオナラを吹っかけられたらどうすべきか?

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    二人が絶対に自分はしていないと言い張れば、相手に対する不信感は増すが、とりあえず放屁犯はうやむやにできる。しかし、どうしてもとっちめてゲロ吐かせたいならよい方法がある。あるけれどもそれをすべきではないとの結論に達した。「オナラ南下していない」と強情に言い張って、もし、確たる証拠を突きつけられたときの極度の羞恥心から未然に自殺を防ぐため。

    だから、とっちめない方がいい。で、結論をいえば、「女にオナラを吹っかけられたら、自分だと言って上げることだ。」相手がトボけたら即座に、「悪い悪い、したのは自分だ」と言った方がいい。が、そういう自白をもってしたとしても、真犯人は動かない。つまり、してない方が「した」と言ったとしても、実際の放屁犯の屈辱はさらに増すだけであろう。



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    "「学ぶ力」か「学力」か、滋賀県知事と県議、教育めぐり白熱 "という新聞記事だが、滋賀県の三日月大造知事と県議の一部で「ぶ」をめぐる議論が続いている。新年度からの教育政策で三日月知事が「学ぶ力」の重視を打ち出しているのに対し、一部の保守系県議らが学力テストの点数アップに直結する「学力」を前面に打ち出すよう求めているからだ。

    県は新年度予算案に「学ぶ力」向上に向けた新規事業を盛り込んだが、一部の県議らが「『ぶ』は不要」と、教育観をめぐって県議会議論が白熱しそうだ。これって"「重箱の隅」のほじくりあいか?3人の子どもの父親でもある三日月知事は、「テストの正答率で比べることを学力と呼ぶなら、学力を高めるために学ぶ力を高めよう」との持論を述べた。

    しかし、県議からは「『学ぶ力』ではなく『学力』でいい」と厳しい批判が出た。背景には、滋賀県が全国学力テストで低迷を続けている実態がある。文教委員会では「(学テの)成績が下位だから県民はいらいらしている」と注文がついた。ある県議は「教師や周りの大人が本気になって取り組まないと意味がない。県民に分かりやすい名前の方がいい」と話す。

    一見、どうでもよいような論争をしているようにも思えるが、実は重要な議論であるというのはハーバード大学院国際教育政策専攻修士過程修了、東京大学工学部システム創成学科卒。1男2女のイクメン父として、独自の子育て論も展開する本山勝寛氏。彼には「学びの革命」をテーマにした多数の著作がある。何がそんなに重要なのかについて、本山氏はこのように言う。

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    「学ぶ力」と「学力」。本来は同じ意味を指すはずだが、「学力」の場合は「学力テスト」のみと紐付けて考えられることがしばしばある。三日月知事がこだわる「学ぶ力」とは、学校の教科のみならずあらゆる場面、あらゆる事柄から自らが主体的に学ぶ力と推測する。「学ぶ力」とは、物事への好奇心や探求欲を持ち、自ら学ぶ方法を身につければ、「学力」は自然と身につく。

    本山氏には、『「東大」「ハーバード」ダブル合格 16倍速勉強法 』なる著書がある。なにやら怪しげなタイトルだが、一連の記事は自著に関心を引き起こさせるためでもあろう。「東大」、「ハーバード」を出ている事は素晴らしいが、問題は彼が今何に従事してその頭脳や学問から得た知識を役立てているからだが、彼の経歴の記述があまりにも稚拙で笑ってしまった。

    東京大学工学部システム創成学科卒業、ハーバード教育大学院国際教育政策専攻修士課程修了。日本財団広報担当。1981年生まれ。 大分県出身。小学生時代、集英社の『学習漫画日本の歴史』シリーズを暗記するくらい全巻熟読し、社会科の成績が常にトップ。 高校でテレビアニメ『お~い!竜馬』をきっかけに司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読み始め読書にはまる。

    持ち前の読書力をいか し、高3春の「合格可能性なし」の判定から、塾にも通信教育にも頼らず独自の勉強法で成績を上昇させ、東京大学へ現役合格。 大学時代4年間で、歴史、思想、政治、科学、経済など1000冊以上の本を読む。その後、韓国留学を経て、ハーバード大学院に 留学。その国の言語で本を多読することで、独学による語学力の劇的な向上に成功する。

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    というものだが、「小学生時代、集英社の『学習漫画日本の歴史』シリーズを暗記するくらい全巻熟読し、社会科の成績が常にトップ。」と、こんな経歴は必要なのか?何のためにこういう記述がいるのか?東大・ハーバード大を出ている人間なら、大学卒業後の経歴を重視すべきなのに、上のような小学校のマンガのような経歴を書くなど、普通は羞恥の極みではないかと。

    東大・ハーバード大以降の経歴に特筆すべきものがないのだろう。それでも東大・ハーバード大は光る経歴になるというなら、自己満足である。いや、「凄い」、「羨ましい」と思う人がいるから本が売れるのだろう。東大もハーバードも出ていない、小卒の土建屋のおっちゃんが総理になり、その本がジャンジャン売れたのも、小卒以降の経歴が人の目をひいたからだろう。

    悪口を言いたいわけではないが、東大を出た人間が、"こうしたら東大に入れますよ"なんて書いているようでは、現在の状況が推測できる。茂木や堀江のような東大出身者が、「東大なんか屁だ!」という方が、現実的で面白い。世の中には経歴依存で生きる人間と、実力で生きる人間がいて、世の親と言うのは子どもに経歴を持たせれば安心という親心はあろう。

    イメージ 4しかし、東大を出ようが、ハーバードを出ようが屁にもならないのが現実社会だし、ゲイツやジョブズのように「ハーバードなんかに居て何になる」、「スタンフォードなんか出ないでバカでいろ」という人間の書籍の方が読む価値がある。肩書きで仕事をするのではない、力(能力)が大事あるのに、肩書き幻想を親が抱くのは、肩書き=成功、あるいは肩書き=能力という錯覚だろう。自由にさせておけば、その子がどれだけ花を咲かせたか分らないが、無理強いした事でつまらぬ人間、あるいは犯罪者に陥った不幸な子どもはいた。親は子どもを幸福にしなくてもいいから、不幸に落とし込むような言動は慎まねばならない。『「東大」「ハーバード」ダブル合格 16倍速勉強法 』には、"誰でも今から実践できる"と書いてあるが、当たり前だ。

    実践なら乞食にだってできる。実践と成果を混同しないように、この本を読んだ人間の何割が同様の成果を得れるのかという幻想を棄てることだ。幼稚園からフィギュアスケートを習っても、全日本や世界大会に出場できる選手になるのは目糞を潰して顕微鏡で見るくらい、もしくはそれ以下の粒である。将棋の県代表クラスでも、プロ棋士になるのは東大入学より至難という。

    昨年将棋の初タイトル「竜王位」を取った糸谷哲郎竜王を幼稚園の頃から知っており、その当時に2局対戦もしたが、どう考えてもそこらの子どもではないのが印象的だった。将棋の強さではなく、全身すべてが同年齢の常人とはかけ離れた得意な性格である。羽生や森内は普通の小学生だったらしいが、糸谷少年には大人を餌食にしたいとする鷹睨みの凄みがあった。

    そんな彼が12歳で棋士養成機関である奨励会で辛酸を舐めていたころは、4段になれるのだろうか?ひょっとして3段にも上がれないのではないか、そんな気さえした。彼の奨励会全成績を見ると、ダメなときはてんでダメ、しかし火がついたらとてつもない強さを発揮するのが現れている。苦労は最初だけで、5級に昇級するやアレよアレよの間に三段に昇る。

    三段リーグも3期・勝率.722で突破した。これは一例に過ぎないが、経歴も肩書きも不要の実力社会に生きる人間の在り方だ。もう一人、同じく広島県出身の今泉健司氏は41歳にして念願のプロ棋士となった。一般的に40代はプロ棋士でも棋力が衰えてくると言うが、「年齢は意識したことがない。諦めずに努力していけば、必ず道は開けると…」と彼は言う。

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    今泉氏は二度の奨励会を経験したが、棋士への夢は実らず、挫折を繰り返しながらも定跡外れの人生で夢を掴んだ。山に登るにはいろんな道があるように、彼は彼の道で極めたし、人生なんてのは挫折といったところで命まで取られるわけじゃない。志半ばで命を絶った人の弱さには相当の理由がある。チヤホヤされて生きて来た人は周囲はみんな味方と思うのだろう。

    それが、何かの理由で敵に感じ、終には八方塞がりになる。無理して人に嫌われることはないが、「好かれてないな」と思うのも大事なこと。自分を認めてくれる人はこの世の中にたった一人でも居ればいいじゃないかの気持ちでいい。何もみなから拍手をもらうこともない。仮にそのようであっても、心からの拍手とは限らないし、皆は自己中心に生きている以上、妬みもある。

    周囲に多くの人をはべらせている人は、一見して多くの人に好かれているようだが、相手にとっても「利」のあるつながりであろう。「利」が人を繫ぐことが悪いと思わないが、「利害」だけで繋がってる人間は侘しい。誰からも好かれたいからと多くの人に囲まれて自己満足に浸る人は、その数を自慢したいのだ。本当に理解し合える人間となら毎日話などはない。

    「心の友」が本当の友に思えたりする。「心の友」とは、会話がなくとも時々思い浮かべる相手である。「今、どうしているのか、何をしてるのか…」それを心に浮かべられる相手のことだ。「学ぶ力」と「学力」が問題になるのは、木を見て森を見ずのどうでもいい問題に思う。「学ぶ力」が学力に、「学力」は「学ぶ力」から輩出されたではイカンのか?

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    それとも、「学ぶ力」ナシに「学力」を向上させたい意向なのか?レンジでチンの時代ではあるけど、学力レベルの全国平均値の低い滋賀県が、レンジでチン的な学力向上を早期に実現させたいならそれも良かろう。となると、「学力」とは眉唾的な気がする。「学ぶ力」の結集や成就が「学力」に反映しないなら、「学力」そのものに意味がないように感じるのだが。

    いずれにしても、「そんなに時間をかけてられない」という短絡的な発想からの応酬であろう。先の本山氏は「重要な問題」と言うが、滋賀県議会の議員のレベルもお粗末である。「知力」とは「知識力」だけではなく「考える力」も測るものだ。もっとも、考えないで知識だけを仕入れる事は可能である。これを「詰め込み教育」といい、それは弊害と言われている。

    いかに知識があれど、考える力のない人間は話しててつまらん。知識はあらゆることと縦横無尽の関係にあるが、断片的に遮断した知識はクイズの回答のようなものだからである。知識を交えたいろいろな話ができる人と、ただ知識だけがつまっている人との違いである。知識があっても知恵のない人間がつまらないように、「学力」だけ充実した人間もつまらない。

    「学ぶ力」抜きに「学力」を上げたい滋賀県議の体面意識、どう折り合いがつく?文科省は学習指導要領のなかで『確かな学力』という言葉を使っており、これは基礎的な知識や技能だけではなく、学ぶ意欲や思考力、判断力を含めた幅広い学力を育てるという定義である。普段、何気に「学ぶ」とか「学力」とかを我々は使うが、殆んどは習得になっていないか?

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    何かを得ることだけが「学ぶ」ではなく、「学ぶ」の本質、「学んだこと」の意義は、「何かが変わること」だ。言い換えるなら、人は何かを変えるために学ぶわけだ。学んだの証しはただ一つ、何かが変わることである。「学力」は「人間力」につながるものであるから、人間的魅力のない高い学力保有者は電子計算機でしかない。電子計算機が古い?ならばコンピュータ。

    学力、学力、学力と、まるで受験のためだけに学力は必要とされている。確かに受験に学力は必要だが、中学~高校と勉強をせず、それでも大学へ行こう、親も行かせたいと、あわてふためいて必死に外注で即席学力をつける。こんな時代にいつからなったのか?自身の学力に頼るしかなかった時代、早い時期から大学に照準を当てて勉強をしたのである。

    切羽詰って予備校のない時代では早期目標を掲げて学力を向上させるしかなかったのである。今のような駆け込み寺で即席に付けた学力がどういう結果をもたらせているか、大学の幼稚園化であろう。まあ、幼稚園化と言うのは比喩であるが、講義は中学レベル、入試は「同意」で合格という昨今の大学の低レベルに、文科省がついに「ダメ出し」をした。

    文科省は今月19日、講義内容や運営方法などに不備があるとして、改善を求める大学253校を公表した。新設された大学や学部を昨年度から調査を始めており、対象となった502校の約半数に問題が露見した。多くは学生の定員割れや、教職員の高齢化などであったが、大学としての"適格性"が問われそうなものも少なくなかった。大学の"適格性"とは何だ?

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    一部の講義での"レベルの低さ"が問題視された千葉科学大(千葉県銚子市)を例にとると、たとえば「英語1」の講義。同大のシラバス(講義計画)によると、冒頭から「be動詞」、「過去形」、「進行形」と、中学校レベルの内容が並ぶ。「基礎数学」の講義でも、割合(百分率)や小数、四捨五入とは何か、から教え始めるという。これが昨今の大学である。

    つくば国際大(茨城県土浦市)でも、「化学」の講義が元素や周期表の説明から始まったり、「生物学」では光合成やメンデルの遺伝法則を一から学ばせたり。そうしなければ次の段階に進めないからである。なぜこのようなことになるのか?中学、高校で勉強しないバカが、就職するのが嫌だから、高卒では将来の嘱望はないからとの理由で大学に行くからである。

    「行く」は「行かせる」から、、「お前みたいな勉強が嫌いで遊んでばかりいる奴はさっさと社会に出て働け、そして人の役に立て!」と、海援隊の『母に捧げるバラード』のまんまのセリフである。「知恵のない奴は汗をかけ」と言われた時代だが、この言葉はことによっては「差別用語」となりかねないご時世である。バカでも即席で学力が作れる時代なのだ。

    こういうバカが大学に行くから上のようなカリキュラムになるのだが、こんな大学が必要かの前に、親も、進学率の数字をあげたい学校も、根本から考えなければならない事態だが、その前に社会が本当に大卒を求めているのかどうか?高卒初任給と大卒(短大)初任給に格差を設けているのを止めたら、ネコも杓子も大学に行こうとしなくなるのではないのか?

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    企業は何のために初任給に差をつけているかといえば、大卒=良い人材ということなのだろう。専門知識も身につけているというのは、確かにある。マクロ経済や工業系の知識を多少なりかじっているというなら、企業にとってプラスになるという具合。ところが、百分率や小数が分からない大学生がこんなにも溢れる時代である。その事は数年前から言われていた。

    ある大学4年生がスーパーの閉店間際、298円の30%引きシールでいくらになるか計算できないのを知って驚いたが、「レジで計算してくれるから必要ないでしょ?」と真顔で言うのにも驚いた。便利さが人をバカにしているし、頭を使わなくても不便を感じない時代の弊害なのだろう。これって弊害か?弊害と言わない時代はもうそこまで来ているようだ。

    バッターが10回打席に立ち、ヒット3本打った。このバッターの打率はいくらか?と聞いたとき、「打率って何?」と返され驚いた。「だって、野球に興味ないもん」と、自己正当化された。なるほど、それなら自己正当化させないよう、問いを次のように変えた。サッカーのAチームとBチームが10度戦った。結果はAチームの7勝3敗となる。Aチームの勝率は?

    「サッカー興味ないから分らない」とは言えないはずだ。結果はいわずもがな、勝率の意味すら分かってない。こういう大学生を企業は雇用するなら、日本の将来は一部の有能者にかかっている。小・中学から勉強しないと大学には行けない時代にすべし。それより大学をもっと減らすべきだが、それだと「うちの子どもの行ける大学がない」と親は嘆くのか。

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  • 02/23/15--16:18: 女性差別主義者?
  • 「あなたは女性差別主義者ですね」と言われたことがある。言われたからそうとは言えず、言われなくても差別者はいる。言った人間はそう感じたから言ったのだろう。今、同じように問われたら何と答えるだろう。おそらく、「そう見えますか?」と問い返すだろうな。現実に差別は存在するし、差別的な言い方もするが、根本的に人を見下すのは好きではない。

    差別主義者は意識的であるが、気づいてない無意識者も多い。意識・無意識の比率はわからないが、「意識にないから違う」というのは正しくない。「あなたは女性差別主義者ですね」と言われた理由は、「女はバカだ!」みたいなことを言ったときである。固有名詞を出し、「田嶋はバカ!」、「上野(千鶴子)はバカ!」と言えば、女性差別者に聞こえないらしい。

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    が、「女はバカだ!」とくくっていうと、差別主義者と思われる。「田嶋」、「上野」という個人名を出したから補足をするが、彼女らはフェミニストといわれる人だ。自分はフェミニストの行動や思想を「頭が悪い」と思う事が多い。さらには「頭がいかれてる」と感じることもあるし、これらを率直な言葉で分りやすく言い換えると「フェミニストはバカ」となる。

    なぜそう思うかは、彼女たちは男を攻撃して飯を食ってるからだろう。根っから男が嫌いとまでは思わないが、フェミニストは商売(職業)に思える事が多い。職業以外に男を嫌ってる部分もあろうが、どの程度ホンネで男を嫌っているかは本人以外には分らない。「嫌い」には段階やランクがあるだろうから。異性を求めるのが本能習性であるなら異性の否定はどういうこと?

    二次被害や幼少期のトラウマは聞いたことがある。男から暴行や姦淫を受けたという事例がそのようになるのは理解に及ぶ。女性がフェミニストになる理由もさまざまだろうが、「頭のいかれた」フェミニストはともかく、フェミニズムとは、性差別を廃止し、抑圧されていた女性の権利を拡張しようとする思想・運動、性差別に反対し女性の解放を主張する思想・運動をいう。

    男女同権運動との関わりが深い列記とした思想であって、田嶋や上野などの発言に見る極端な男性卑下者ではない。したがって、フェミニスト=頭が悪いのではなく、頭の悪いフェミニストが多いだけの話。フェミニストたちが(正しく)指摘するのは「父権制」の否定であり、どうして男に「不当に高い価値を賦与する」か?フェミニストは「男に価値がないから」と言う。

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    だから男にのみ選択的に与えられるすべての価値は「不当に高い価値」という原理をフェミニストたちは提唱する。これが飛躍した論理であるのは頭のよい人間なら直ぐに判ろう。なぜなら、逆にもし女性のみが実質的に権力の中枢にいる場合に、男性に不当に高い価値を賦与するか、それこそ疑問であるとフェミニストは攻撃するのだろうが、正当な攻撃はかまわない。

    が、どうして男に「不当に高い価値を賦与する」のかの理由が、「男には価値がないから」という論理は本末転倒で、こういう反証はズレを超えて、妄想好き女の科目と言った方がいい。だからこういうことをいうフェミニストはバカである。仮定の話が悪いとは言わないが、もっとマシな仮定話はないのか?「男に価値がない」なら「女だけに価値がある」というのか?

    男を無価値と退け、女だけを高価値というのは自己妄想も甚だしい。女の価値は女が提示するものもあれば、男が提示するものもあるはずだが、男を無価値と断罪=女が高価値というのはフェミニズムなんてものではない。「男はバカだから」と言う事で女の地位を確立するのが田嶋陽子的思考だが、こういう風だから彼女は女性に嫌悪されるんだよ。

    「田嶋はバカ」は、男より女の方にその思いが強く、彼女は同性までも敵に回して卑屈になるしかない現状である。「自分が一番」の彼女は、人の意見が聞けないのは誰の目にも明らかで、そこに気づくことは、彼女を無存在にすること。彼女はその事が怖いのであろう。偉そうなことをいうのはいいが、人の意見に耳を貸さないで議論もできない彼女から得るものはない。

    イメージ 4男はやさしくなければならない。なぜなら男は強く、逞しくあるべきであり、やさしさとは強さ、逞しさから派生するものであろう。重い荷物を持つのは女性をいたわるやさしさであろうが、ハンドバッグを持ったり、車から先に降りてドアを開けたりという物理的、外面的やさしさは日本男児のやさしさとは違う。そう言う男は映画の見すぎか西欧人の真似をしているのだ。田嶋陽子は、やさしい男に出会う機会がなかったのではないか?男の本当のやさしさが何かは、一緒に暮らしてみれば分る。もし、女が男といっしょにいて、「素直になれる」、「安心できる」、「躊躇うことなく心を開ける」、「くつろげる」という気持ちになれたら、その男はきっとやさしい男であろう。田嶋や上野は残念ながら男のやさしさに触れた事がないと感じさせられる。

    好きなタイプの男性でナンバーワンの座を不動にする「やさしい男」であるが、なぜ女性は「やさしさ」に弱いのか?多くの女性は男に表面的にでもやさしくされると即座に男にほれてしまう。が、それも間もなく本質はやさしくないと分って「別離」を繰り返すのであろう。女が男にやさしさを求める理由は、女が本質的にやさしい生き物でないからであろう。

    「悪女」、「魔女」、「鬼婆」、「角隠し」などの言葉があり、「般若」とは、「嫉妬や恨みの篭る女の顔」としての鬼女の能面である。女のやさしさは男を捉まえるための演技である事がほとんどであろう。それに気づかぬ男はバカというより、場数を踏んでいない事もあろうし、男の女体への憧憬が男が女に騙される要素であるなら、若い男は女の餌食になって当然である。

    女は本来はやさしくしてもらいたい動物であり、男が女にやさしさを求めること自体"ないものねだり"である。男が女にもてたいならやさしく振舞うことだが、とはいえ、もてたいために振舞うやさしさってそんなのは見せかけに決まっている。なぜなら"意図"した行為であり、そんな簡単に本質的やさしさが身につくか?女にもてないなら嫌われる要素を改善すること。

    文字に書いてはいるが、「女にもてたいためにどうする」という行為の羅列は抵抗がある。そんなにもてなければいけないのか?もてるために○○しなければならぬのか?がオカシイ、不自然、ワザとらしい行為であるから、男がそんなクサイ演技などはすべきでないというのが根底にある。もてる男は意思をしないで自然に、地で、生きていて女にもてるのではないのか?

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    作った行為(要素)は単にメッキであり、それでも女にもてたい男はいろいろ考えるようだ。アレコレ考えないでもてるならそれでいい、もてないならもてる事をあきらめろ、ではダメなのか。自分はそういう意図的行為をしたことがないから、する人間の心象はわからない。あえていうなら、①威張る・自慢する、②ケチる、③しつこい、これが女に嫌われる要素に思える。

    社会的地位が高い、富裕者、高学歴、高面(イケ面?)など、それなりに自慢する(威張る)要素を持っているなら、事実だからそれでよいし、威張ると感じる相手が妬みや卑屈であったりする。しかし、自分は思う。それなりのものが備わってるなら、むしろ威張らぬ方がよい。せっかく優位な立場であるのに、なぜ威張る必要がある?そういう人間は逆に愚かに見えてくる。

    ケチは女が大嫌いなもの。その理由は、自分に尽くしてくれている誠意が疑われるからだ。女がどれだけ自分勝手で短慮であるかは、男は自分だけにケチでなければ、他人にはいくらケチでもいいと思っているからしても分る。ケチかケチでないかの判定は自分では分らぬが、女にケチと言われたからケチではなく、その女の勝手な都合だと解した方がいい。

    イメージ 6まあ、自分は女に好かれたいために見栄を張る事はしない。あくまで自分の相手に対する自然な気持ちを大事にするが、それをケチと罵るような女に自分の気持ちが入ってはいないだろうし、だからケチと言われて何とも思わない。去るならとっとと去れよと思っている。男をケチだという女は、男が心に秘めているものが分ってない、物欲まみれ女の戯言だ。
    しつこい男も嫌われる強い要素である。女はナルシストであり、ジコチュウ、ワガママであるから、自分が求めているときに相手がいくらしつこくでも文句はいわない。が、自分が求めてない時の"しつこい"を嫌う。顕著なのがSEXであろう。人間には発情期がないとはいえ、生理周期による気分の高揚や、情緒の浮き沈みはある。それが女で、男はそこを理解しておくべし。

    とモテない三要素を書いてはみた。ダメなものを改善すればよくなるのが一般的だが、威張らなくて、ケチでなくて、しつこくなければもてるのかというとそうはいかない。それでもてる保証はどこにもない。もてない三要素とは別のもてる三要素も加味の必要があろう。だ、先にいったようにすぐに身につくものではない。①強い、②やさしい、③信頼感が漂う、である。

    やはり女は生物学的に言っても男に強さを求める。肉体的強さだけでなく、へこたれない精神的強さ、これは男の魅力であろう。優秀なサッカー選手、野球選手などの技能保有者は、どれだけ精神力があったかを如実に感じるように、料理人やデザイナーや多くのジャンルで女を凌駕しているのは、脇見も振らず、一心にひとつことにすべてを傾注できるからであろう。

    将棋の有名棋士が、始めて女性の弟子をとるときに、多くの注文を出した。派手な洋服で身を飾らない、派手な化粧をしない、有名人・芸能人と交流しないなど多項目に渡る「将棋道」に邁進させるための覚悟を説いたものだ。「女性は周囲から自分が見られているを意識したときから"道"をはずれる」とその棋士はいいもしたが、思春期の女性にそれは難儀だったようだ。

    AKBに恋愛禁止を言ってみても、サカリのついた少女に効き目はないと同じこと。②のやさしいは、男に限らず人間すべてに求められる普遍的要素である。しかるにやさしくない男は「強くない・逞しくない」点において欠陥人間である。外面的やさしさは属にいう化けの皮が剥がれるとの言い方で、これは女について言う言葉だが、男にも「皮」かむりはよくない事情がある。

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    上っ面のやさしさは人間関係を損なうし、本当に心の底からのやさしさでなければやさしさとはいわない。③の信頼も大事で、女は庇護を求める生き物だから、いっしょにいて不安を感じるような男はダメだ。別のいいかたで「頼りない」という。もてない三要素にもてる三要素を羅列したが、これが真に身につけばないよりはもてる。が、そうまでしてもてたいかは個々の問題だ。

    「あなたは女性差別主義者ですね」という女性のパターンは決まっている。気が強く口うるさく、負けず嫌いで男とはあらゆる点において対等でありたい女。それ自体は別に構わないが、そういう女に限って掃除や片づけをしない。料理もしない。なぜなら、それがどうして女の仕事か?そういう方便を用意する。自分の嫌いなことにはチャーンと言い分けを用意する。

    そういう女に「差別主義者」といわれても片腹痛いだけで、「お前に女の領分はあるのか?」と腹で問うている。口に出さないのは出してどうなるかが見えるからだ。というように、これが差別主義の本質であろう。差別主義者は露骨に言葉に出さず、腹で相手を見下す怖さを本質的に有している。そうならないように、感じたこと、思ったことを言葉にするようにはする。

    「差別主義者」と言葉尻を捉える者が、差別主義が何かなど理解していない。だから、そういう相手には黙って言わせておく。本質の分らぬものに本質を提示するのは徒労である。自己弁護でする気はないが、自分は男と女を根本的に区別している。あえていうなら、「区別主義者」であるがそんな言葉は存在しない。差別とは、差をつけて区別することを言う。

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    区別に差をつけようがつけまいが、区別に差があっても不思議ではない。男と男の差も、女と女の差もある。能力差もあれば、容姿のような先天的差異もある。能力差については努力もあり、大いに言及するが、先天的容姿についてあからさまな差別感を自分は有さない。同性差別も異性差別もあって当たり前というスタンスだから、あえて「差別主義者」といわれても返答しない。

    が、そういう時にいう差別主義者は烙印である。男女の性差を否定する方が無理があるのに、平等論者の多くは性差を認めない。「カラスは黒い、白鳥は白い」といって、差別主義者といわれるなど何とも思わない。男女に格差があっていけないとはまるで思わない。その差を尊重して別の価値で異性を尊重しあい、互いの価値を高めて行くのが真の男と女のあるべき姿であろう。

    田嶋のように「男に価値はない」という女は、逆に(男から見て)「女は無価値」と言っているのだ。無価値と無価値が喧嘩してどうして価値が生まれよう。ハゲとハゲの喧嘩なら「土どちらも怪我(毛が)なくてよかったね」となるが、無価値同士の言い争いは便所の落書き程度の言葉しか生まれない。まあ、何でもカンでも平等に扱えというなら、「女性専用者」は廃止だ。

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    男子校に女子、女子校に男子を入学させる。妊娠・出産の特別扱いも止め、戦争になったらアラブの女性兵士のように日本も女性を招集する。トイレの男女差別、公衆浴場も混浴にすべきだ。このように差別論者は単に違いを差別と認めるだけで、そこに歴然と存在する上下の君臨と従属の差を認めようとしない。だから無理があり、無理が出るし、そういうところに気づいてない。

    当たり前に気づくべくところに気づかないのを世間では「バカ」という。出来る、出来ない、する、しない、以前に気づかないのは、どうしようもない「バカ」というしかない。逆DVという言葉が流行りのようだ。流行と言うより現実であり、社会問題化している。そのうちこの国も女性の男性差別主義者が圧巻、「男性差別反対!」のプラカード行進が始まるのだろうか?



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  • 02/24/15--15:09: 人は中身か外見か?

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    人を見定める場合によく引き合いに出される言い方だが、まるで「中身」か「外見」かのいずれか、と言わんばかりの言い方である。中身もよく外見もよい人間がいないわけでもないし、「良い」にも段階があろう。「すごく良い」、「まあまあ良い」、「並に良い」など、悪くはないなら「良い」の範疇だが、上の比較は、「超性格悪い」、「超外見が悪い」との感じでいう場合が多い。

    「オレは中身重視」といっても、「超ブサイク」でもそうなのか?「わたしは外見重視」といって、「どうにもならん女たらしの浮気者」でいいのか?と突っ込みたくなる。いや、実際突っ込んだこともあるが、知り得た結論は男からは状況にあった理性的判断が多いが、女は「性格悪くても、浮気性でもイケメンならいい」というのが多かったが、男には理解を得ない返答だ。

    これから想像するに、「浮気性だと苦しむ」、「辛い日々は嫌だ」というような、先を想定した思考をせず、とりあえず今、イケメンとつきあえるなら「シアワセだよ~」という思慮の無さか、くらいしか思い当たらない。自分が困ることなど想定しなきゃ、こんな返答はできないはずだと考える。これをしても女が感情の動物であるという認識を深めるのだ。

    であるなら、上のような二者択一の問いは「理性的」か、「感情偏向」かを問う問いであるように思う。この手の問いはさまざまあるが、理性重視、感情重視を区分けするのに適切かも知れない。理性と感情のバランスが大事とはいうが、人はどちらかの傾向に偏りやすく、特に男女に関する心情の差異は、「男脳」、「女脳」というくらいに顕著のようだ。

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    それも分らず若い頃はこんな言い合いをよくやった。人の中身をいろいろ知る機会が少ない年代でもあるし、見るだけの外見(外観)は嫌でも目に入るが、中身は見ようとしなければ見えない。実際は、見ようとしても見えないほどに難しい。銀幕スターで最初に憧れたのは誰?記憶を辿ってみるに、当時はラジオ全盛の時代、映画はいいとこ『ゴジラ』か『赤胴鈴之助』。

    ヒーローに憧れてもヒロインに執着はない。ゴジラもヒーローである。『赤胴鈴之助』にはヒロインも登場したが、聞いてビックリ中村玉緒である。驚くのは失礼というもの、彼女にだって純真な少女時代はあったのだ(今が不純とはいわないが、まあそれなりに)。役名は"しのぶ"で、映画は1957年封切りだから、当時彼女は18歳のおぼこ(?)であった。

    ヒロインに興味はなく、赤胴鈴之助とそのライバル竜巻雷之進くらいしか記憶にない。ヒーローに憧れたあの時代だ。月光仮面、七色仮面、スーパージャイアンツ、海底人ハヤブサ、まぼろし探偵、明智小五郎に、鉄腕アトム、鉄人28号、マグマ大使のロボット類とてヒーローである。勧善懲悪のヒーローものに押されてか、ゴジラも人類の味方になって行く。

    これらのヒーロー物の中で、特筆されるヒロインといえば、『まぼろし探偵』に出演していた吉永小百合であろう。が、思春期まだ遠き悪ガキに吉野さくら(吉永の役名)なんかどうでもいい。登場している意味すら理解できない年齢である。やはりというか、自然の摂理とでもいうのか、異性に気持ちが行くのは思春期である。本能とは誰が考えたわけでもないが、そこは本能である。

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    雑誌の表紙を飾っていた、浅野順子という女性がまぶしく見えたのが、初めて異性を自分の男が受け止めたときであろう。浅野順子はデビュー当時浅野寿々子といい、雑誌のグラビアモデルとして活躍していた現大橋巨泉夫人である。二人は1964年、14歳の年差結婚で話題になった。これには驚いたの何のって、「えー、浅野寿々子が何でまた巨泉のようなおっさんと…」である。

    芸能人の結婚で驚いたのは巨泉と浅野、木之内みどりと竹中直人くらいだろう。理由はどちらの女性にも好感を抱いていたからだ。木之内は1983年にベーシストの後藤次利と結婚したが、この結婚は世間を騒がせた末のことだった。さかのぼって1978年9月、木之内は新曲『一匹狼 (ローン・ウルフ)』発表直後にベーシスト後藤次利との交際が発覚したのだった。

    木之内は米国ロサンゼルスでレコーディング中であった愛する後藤のもとに、すべて一切を投げ出して逃避行する。後藤は当時、元シモンズの玉井タエと婚姻関係にあったのが、木之内が二人の仲に割って入った。公然と不倫するなど珍しい時代であり、木之内は一気に人気を下げた。が、そんな事は本人も百も承知であった、というより恋は盲目、女は恋に生きるのよ。

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    同年9月11日、帰国ともに記者会見を開き、「子どものできるようなことはしていません」の迷言を残し、木之内は21歳で芸能界を追われた。上の迷言は清純派木之内のファンに対するせめてものリップサービスであろう。誰もそんな言葉を信じない。これほど熱い恋で結ばれた二人だが、女癖の悪い後藤とはわずか4年間の結婚生活だった。1987年のことである。

    彼女の大ファンであっただけに、後藤との一連の出来事は女の不甲斐なさを思い知らされたが、驚いたことでいうなら、その3年後の1990年に竹中直人と再婚した事だろう。イケメンに懲りたのか、ブサメンを選んだ木之内は、「男は顔じゃないです」の言葉を残してはいない。当たり前だ、そんなこと。言うはずがないが、まさに美女と野獣は巨泉夫婦を凌いでいた。

    美女は美男と釣りあうと思っていたが、してその実態はまさに世の中の不条理が条理であることを教えられた二人の結婚である。薄い唇と清楚な顔立ちが木之内の魅力であり、自分は妻に彼女を重ねて一目ぼれをした。木之内のデビューは1974年、自分の結婚は1977年である。1977年といえば、映画『野球狂の詩』、テレビドラマ『刑事犬カール』など、彼女の絶頂期であった。

    そんな人気絶頂期の逃避行を経て、21歳という引退に、芸能界のみならず世間一般でも一時期騒然となった。大橋夫妻の近影を見る事はあり、さすがの浅野順子も66歳のおばあちゃんである。巨泉が結婚したとき、彼女は木之内みどりが世間を騒がせて引退した同じ21歳であった。木之内は現在57歳であり、ネットで近影画像を探したが残念ながら見つからない。

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    見ないほうがいいよ、という天からのお告げかもしれない。木内みどりの今画像は沢山あるのだが…。木之内みどり以上に好きになった芸能人はいない。浅野、木之内以外に好意を抱いた女性をあげれば、松原智恵子、田代みどり、酒井和歌子くらいしか浮かばない。芸能人や銀幕スターなど所詮「絵に描いた餅」。生きた女に比べ見るだけでは屁にもならん。

    浅野順子は思春期時期の憧憬だが、木之内みどりは当時も今も変わらない思いがあり、自分にとっての永遠の女神と言える。細く、華奢でいたいけな魅力は、男(自分)が保護意欲を掻きたてられる女の典型像であろう。不思議なのは竹中と木之内の接点である。竹中は木之内より1歳年上だが、活躍した時代は違うし、二人はどこでどういう風に出会ったのだろうか?

    二人にはこういう物語が残っている。ある日、竹中直人が海外での仕事のために飛行機に乗ったら、同じ飛行機に木之内みどりがいて、大ファンだった竹中直人はウキウキしてしまい、(実物がきれいすぎる…)と思って話しかけたという。木之内はカメラが趣味ですごく本格的なカメラを持っていて、この飛行機から乗り換えて、別の国に行って写真を撮る、と言う。

    竹中は早く仕事を終わらせて、みどりのいる国のその町に飛行機で追いかけたというのだ。ここから交際スタート、めだたく二人は結ばれた。「ほえ~」なんというロマンチックなお話であることか。思いつめた逃避行の末に結ばれたとはいえ、確かにそれもロマンチックではあるが、片っ端からアイドルに手を出すようなやりチン後藤と、一途な竹中では人間の質が違う。

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    女の幸せは一途な愛を享受できるかであろうし、もちろん、女の浮気も論外である。おはぎにはあんことキナコがあるが、質は違え、味も違えど皿に乗っかっていれば雰囲気は出ている。男と女もそれに類するものであろう。質は違えど皿に乗れば安定感が出る。竹中は美女を得、木之内は野獣の優しさを噛みしめた。二人は今年で結婚25年の銀婚式を迎える。

    美女を娶れば心配はつきない、イケメン男なら浮気は覚悟がいるとしたものだが、三船美佳(32才)と高橋ジョージ(56才)の離婚は当初の報道で「高橋が家にいるときは、外出をしてはいけない」という"外出禁止令"の存在が離婚訴訟に至った原因とされたが、女性誌の取材で判明したのは、「そこまでするかー!」という耳を疑うような高橋の美佳への束縛ぶりだった。

    結婚当初、美佳がまだ高校生だった時、放課後に友人と遊ぶことを禁止されていた。もちろん部活動も禁止で、そんな高橋の意向により、彼女は卒業式のダンスパーティーにも参加できなかった。 「報告」、「連絡」、「相談」といえば、仕事上でも家庭においても、物事を円滑に進めるための基本的なコミュニケーションだが、この夫婦の場合は別であった。

    イメージ 9美佳には、1日のスケジュールを全て高橋に報告しなければいけないルールが課されていた。その他共演者との絡みもチェック。ちょっとでも色目をつかっているように見えると「チャラチャラするな!」という。離婚裁判について会見で高橋はこう言った。「行動はチェックしますよ、お互い夫婦はそうでしょう。どこにいるとか、おれはどこにいて何時に帰るとか…」

    「束縛されたい、してくれる彼がいい」という女がいる。おそらくそれを愛情と感じるのだろうが、誰だっていつまでも束縛し続ければ嫌になるだろうよ。美佳はジョージから「胸元、生足出すな」と言われていたらしいが、しょっちゅう谷間見せてたらしい。これは逆らい続けてたってことか?若い嫁に老夫の醜い嫉妬、二人並んで勤行をした時も有ったが今は昔…

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    相手を縛り付けておくのを嫉妬というが、まあ、自分に自信がないということの表れだろうが、こんな男と十何年も一緒にいれたのが不思議である。無知な高校生妻だからもったといえなくもない。女に見切りをつけられた男は惨めだし、惨めな男は惨めになる原因があるんだよ。清原も今頃泣き言をいってるが、こういう男は自他に甘ったれてるんだよ。

    豪遊だのとカッコつけても、女が手綱を緩めているからで、もう手綱は必要ないと放されたら、土下座して謝るタイプだろう。その時に女の現実の怖さを知るのだが、時すでに遅し。自己に甘え、他人に甘え、女に愛想つかれた男の末路って不細工すぎる。「人は中身か外見か」、ハッキリいえるのは容姿・外見は経年で衰える。それを劣化と言うが仕方がない。

    反面、中身は経年で向上する場合が多い。とりたて向上心をもたなくとも、人間は知らず知らずのうちに成長するもの。大きく成長を遂げるか、多少はなりかは人それぞれだが、年を重ねて精神的に劣化するということは、神経症などの精神の病を除いてないだろう。とはいっても、相手選びは「今でしょ!」であろうし、現時点を重視することになる。

    したがって、「人は中身か外見か」に答えはない。「中身が大事だぞ~、顔なんかすぐに飽きる」と言ったところで、何を基準に選ぼうが、選ぶ側の自由である。何を後悔したところで、選ぶ側の自由が後悔になっただけのこと。他人が何を言おうがすべては本人の問題である。電柱体型のオバサンも、土左衛門風のオジサンも、かつては細く・若くあったはずだ。


    「一目惚れ」って言葉がある。言葉からすれば、視覚(見た目)って事のようだが、言葉とか物の言い方にほろろんなる事は結構ある。どちらかというと自分の場合はそちらの方が多い気がする。なぜかは分らないが、ブサイクな女でも気立てや性格に感じるものがあればほろろんする。ということは自分の場合は「外見より中身重視派」ということになるのか。

    決め付けはない。ときどきの問題だ。何でどちらかでなきゃ遺憾のだ?何事も決め付けるのは好きじゃない。柔軟な心で時々に対応すれば言いだけのこと。何かを決め付けると、正しい選択の障害にならないのか?昨日はバナナよりリンゴを選んだが、今日はバナナを選ぶことはあるだろう。だからといってリンゴよりバナナ、バナナよりリンゴが好きというわけじゃない。

    人は人として好感が持てればいいわけだ。顔の部品の位置関係や、優れたパーツの問題ではなかろう。美しいものを否定はしないが、パーツが美しくないなら、他に美しいものが見つかるはずだ。確かに外見がキレイってことはなにかしらの努力をしてる場合が多い。そういう人は内面もしっかりしていたりするが、それと性格の善し悪しは別であろう。

    18歳の頃だが、レコード店の店員のがさがさでアカギレにまみれた手に好意を抱いたことがあった。もちろん、その人は心優しい女性であったが、それが手の平に象徴されているように感じた。一生懸命に家事の手伝いをし、お店で仕事もし、そういう働き者なんだと、そういうところに惚れてしまった。遊びほうけている女セよりも、偉いという尊敬心が芽生えるのだ。

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    2007年にナイスカップル大賞、2011年にパートナーオブザイヤーを受賞し、"芸能界一のおしどり夫婦"として知られてきた三船美佳&高橋ジョージ夫妻であるが、夫婦の幸せが、どちらかの抑制や我慢の上で成り立っているのは喜ばしいことではあるまい。我々は外からだけでしか人を判断できないし、その理屈でいうなら容姿はそう、中身を知るのは難しい。

    三船夫妻の現実を知ると、夫婦の裏の怖さをしる。言うまでもない夫婦は男と女だから男と女の怖さでもある。男と女にも、夫婦にも、人間は誰にも裏の顔がある。女の裏の顔は実感した経験はある。言葉にされて慄いた事もあった。もし、そういう相手と夫婦をやっていたと想像したら寒気がするし、男が女の裏の顔(真実)を知った時はすでに遅しということになる。

    男は単純だが女は怖いよ~。まあ、恋愛においても最初はラブラブであり、成長するにつれ、当初は良かったことが疑問に思えたり、納得できなくなったりする。これは子どもの成長とまるで同じ。ジョージが彼女を子どものままというスタンスを変えなかったことが問題で、美佳の自立心の芽生えに気づかず、子ども扱いをした男の不甲斐なさと笑ってやるしかない。

    子どもを持つ親も、外見の成長だけしか目には入らないが、心は圧倒的な速度で成長している。子どもの心の中身をしっかり見つめ、年齢に呼応して手綱を緩めたりしていかないと、しっぺ返しを食らうので要注意。こと子どもに関して親の目は、外見より中身ということ。

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  • 02/25/15--16:47: 別れの理由
  • 3年前、恋愛相談にのった25歳の女性から日曜の夜に久々メールをもらう。当時彼女は大学を出て半年のホヤホヤの社会人。短い挨拶に続いて、何やら意味深な口ぶりは、特別な用件があるのは明らか。「お久しぶりです。お元気ですか?ちょっと今精神的に落ち着かなくて。それで連絡してみました。」、「感情の整理は女には大変だよ男とちがって感情の動物だから…。

    情緒の乱れ、感情を理性がコントロールできないのが女。おそらく彼氏のことだと思うけど、恋人との愛と性の悩みは男と女に与えられた試練だから誰にでもあることだよ。」、「もうダメです。彼氏と別れそうです。嫌われちゃいました。」、「そうなんだ…。彼氏もバカだねーそう思う。あなたは心やさしく、一途で気持ちも熱い、そんな女を捨てるんだ。」

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    自分の会話の特徴は、どうした、こうした、どうなった、という言葉を発さない。そんなことを聞くよりあらかた想像し、洞察してぽんぽん言葉を投げかける。が、次の彼女の言葉には驚いた。「私のなにが嫌なのか聞いたらね、付き合い始めてからずっと~嫌だったって言われて。もう3年近くなるのに、付き合い始めてから不満に思ってたことをずっと言ってくれなかった。

    すごくショックだったし、全部私がいけなかったんだと思いました。」と彼女は記しているが、彼女が全部私がいけなかったというのは合点がいかないし、何もいわず、我慢をして3年付き合ったみたいなことをいう男もいるのかと腹立たしくなる。我慢をして付き合うのは自分の選択であって、自分のしたその我慢を別れ際に洗いざらい言うような陳腐な男はクズである。

    我慢をしなくていいように伝える事は伝え、改善する事もせず、実は最初からこうだった、ああだった、好きでなかったというのは許されないと思う。これは言われた側は立ち直れないほどショックであろう。彼女はこう記している。「ありがとう。がんばる。。。乗り越えるのに、時間かかっちゃうと思うけど。」彼女のいうように、これは辛いだろうな。

    思えば3年前、彼女が職場の男と交際に踏み切るときに、このようなことを言ったのが記憶にある。「わたしの愛は重いって言われるんです。相手にとって負担になるみたい。どうしたらいいでしょうか?気にはしてるんですが、どうしてもそうなってしまうから…」。「重い愛」でふと浮かんだのが、テレビドラマ『東京ラブストーリー』の赤名リカである。

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    「カ~ンチ!」と、屈託のないリカは、誰の目にも本能に忠実な女の正直な感性に映ったが、回を重ねるに連れ彼女が心に背負っている慟哭が少しづつ現れていき、最終回の電車の中でのあの思いつめた場面に集約していく。彼女は自身の涙とともに今までたまっていた一切のものを吐き出し、別人のように生まれ変わって永尾完治の前に現れたのだ。

    あの爽やかなラストがあるがゆえに、『東京ラブストーリー』は名作である。「重い愛」は相手に負担になるという。軽薄短小の時代にあっては、多くの若者が軽く、薄く、短く、小さいものを良しとする時代なのか?トレンディドラマなど観た事もない自分だが、放映後数年を経て、愛媛県の女からこれを勧められた。鈴木保奈美の出世作であろう。

    鈴木は女優としていい役を果たし、いい仕事を残した。リカの陽気な笑顔の裏に秘して姿をあらわさない影と知性、がラストに彼女の魅力を讃えたとように感じる。原作は柴門ふみのコミックであるけれど、それは読んでいないし、読むきもないし、コミックとテレビドラマは別のものだからである。鈴木保奈美の年齢と、あの時代から生み出されたテレビ全盛期の才気であろう。

    男に別れを告げられて落ち込むより、気晴らし、気分転換は必要だろう。『東京ラブストーリー』のDVDでも観たらよいかなと勧めてみたい気もするが、あれが放映されたのは1991年1月だから、丁度バブル時代(1986年12月から1991年2月)終焉直前である。そういえば彼女の生年が1990年で、こういう古いテレビドラマを実感として馴染めるか、勧める側にも躊躇いがある。


    自分から見るとふざけたことをいう男であり、こんな奴は恋人として対象選択を間違っていたと言うしかない。「付き合い始めてからず~っと嫌だった」という言葉をよくも投げかけられるものかと、それだけで男の本質を現している。自分がもしそういう言葉を聞いたなら、どん引きどころか、「言っとくけど、そうまでして付き合ってくれって頼んだ覚えはない。

    嫌な相手と付き合ったお前もいい加減バカだな。自分のバカを、恥を晒した言葉をよくもいえたもんだよ」くらいは言葉にでる。別に売り言葉に買い言葉的にではなく、当然のこととして伝えたい。どういう意味でいってるにしろ、「最初から嫌だった~」で付き合うなんかバカに決まってるだろ。なのに彼女は「全部自分が悪いという。」そこはあまりにヒトが良すぎる。

    ヒトがいいのは悪いことじゃないが、「人として認められないような人間の前でさえ、ヒトがいいのはダメだ」。何でもカンでもヒトがいいのは間違いで、それでは正しく物事を判断できない。「全部自分が悪かった」という自戒は悪くはないが、男が我慢をして付き合った理由は体目的の場合だってある。でなくば何で無理して付き合う理由がある?テメエの都合もあるんだろう。

    愚劣な目的がありながら、我慢しただとバカも休み休みいえよ。相手に「我慢していた」と言って。そう言えばお前は善人なのか?同じような事はいくらでもある。「会社を我慢して勤めた」というなら、その我慢は自分が自分に課したわけだ。さっさと辞めないで我慢をしたのなら、退職時に「ずっと我慢していた」なんかいうなよ。自分の問題を他に転嫁するなよ。

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    これが物事の道理である。だから、つまらん言い訳やくだらないことをダラダラ言う奴は、物事をキチンと考える能力がないし、一言でいえばバカである。バカが道理にそぐわないことをダラダラいうのだろう。ちったー考えて物を言えよと。そんな言葉を吐かれた彼女が、相手の自分勝手さや言葉の意味を一身にに受け止めるのはかわいそうだが、言って分からぬなら仕方がない。

    バカでないなら分れと思うが、感情が災いして冷静に思考できないのも女である。男が「だから女はバカなんだよ」と言ったところで、それが女なのだと。種類が違うのだと。そうしか生きられないのだと。ならば、ヒドイ事をいう男だなしかない。自分がその男に何か言わせてもらえるなら、二度と立ち直れないくらいに言ってやる。言わなきゃだめだ、こういう世間の癌は。

    男なら分るはずだ、自分が書き殴ったことは。それを聞いてどう思うか、反省するなら向上する人間だが、「うるせー、お前にカンケーねーだろが!」というならコイツも地バカである。こういう言い方しか返せないバカは多い。お前にカンケーあるとか、ないとかでなしに、言ってることが理にかなってるのが、くだらない言い草なのか、そこが問題のはず。

    それを「お前にカンケーねーだろ」と返すのがバカの見本。こういう風に、バカはバカなことしか言えないもの。言葉を発してみてそれが分る。バカと付き合った結末は彼女が取るしかないし、悲恋感情を克服していくしかない。可哀相だが、彼女もバカだから時間もかかる。もし彼女が明晰なら、「こんなバカを好きでいたのが恥ずかしい」と即座におもうはず。

    イメージ 6答えの出ない問題は、目に見えぬ何かに影響されているが、その多くは感情であろう。それを廃して考えると答えは簡単なはず。だから他人の悩みを他人が聞けば実にバカげていたりする。他人には感情移入がなく、当事者は感情が災いしてるから解決できない。客観的とか第三者の視点とかが如何に大事であるかだが、そうも行かないのが人間社会であろう。
    「言われてる事は分かっているんだけど…」、だからこういう言葉が存在する。自分はこういう言葉が大嫌いであった。同じように、「頭では分かってるけど、実行できない」と言う言葉も大嫌いだった。いつごろかはハッキリしないが、この言葉を毛嫌いすることで、言葉による甘えが少なくなった。自分は自分を甘やかせるし、その甘えは言葉になって出る。

    「何が正しいか分かっていてもできない」、「頭で分かっても行動できない」それら一切は、分っていないのだと、言行一致を旨とする。これは中国の明時代に王陽明が興した「陽明学」の『知行合一』の考え方である。王陽明は、"知って行わないのは、未だ知らないことと同じである"と主張、実践重視の教えを説き、朱熹のいう朱子学を批判した。

    朱子学は、"万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」"を旨とする。『知行合一』は、「知は行の始なり、行は知の成るなり(知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である)」「行動を伴わない知識は未完成である」とも言い表される。なかなか、分っていても出来ない事が世の中でもある。悪漢に取り囲まれて困っているヒトを助けられるか?

    「困っている人を見たら助けなさい」くらいは、小学生でも知っている。が、人には出来ること(自信のあること)と出来ないことが区分けされているから、人は自己安全のために傍観者でいる。儒教の中国人やキリスト教をバックボーンとする欧米人よりも、日和見主義者が多く、それが日本人の特質でもある。恋人も夫婦もくっつくより別れのエネルギーに心血注ぐ。

    相手にハッキリとした理由を言わない(言えない)のは女に多い。女がやさしいからではなく、ズルイからであろう。自分の都合の悪いことには向き合わず、できることなら逃れようとの姿勢が見てとれる。男は物事を論理的に考えるため、別れの理由が感情的だったり、一人よがりだったりすると困惑する。男が理解できない女の別れというサイトがある。以下列挙。

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    1.「好きだけど別れたい」…こんなのは美辞麗句であって、キチンとそお理由があるなら論理的に説明すべきであろう。あなたは好きだけどもっと好きな人がいる、と理解すべし。

    2.「生理的に無理」…グロいナマコや、鶏肉の皮のプツプツ、見た目が嫌という女はいるから、この言葉くらいは理解してやらなきゃダメだな。女には生理があり、男にはないのよ…(?)

    3.「他に好きな人ができた」…これのどこが悪い?これ以上にキチンと理由はないし、飽きられたと言う事なら受け入れるべきだ。別れ際にいう時にもっともいい言葉だと自分は理解する。だって、これならどうしようもないだろうし…

    4.「男の人無理かも」…「唐突に『男の人無理かも』とフラれたとき、一瞬時間が止まった。3年も付き合ったのに、おかしい」(24歳・不動産)

    「あっちから告白してきたのに、『男の人が無理だから、別れてほしい』と言われた。なんだか矛盾してる」(20歳・専門学生)

    などの抗弁があるが、いかにも幼稚だし、若いってこんな発想しか出来ないんだろうな。「3年も付き合ったのにおかしい」と思う方がおかしい。心変わりはあって当たり前だ。どっちが告白しようが関係ない。「男の人が無理」というのは、初心な女の正直な気持ちだろ?お前がパンツを脱がそうとしたんじゃないのか?言葉が真意なら何にも矛盾していない。

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    5.「友達のときのほうが楽しかった」…そういうのってあるんじゃないか?彼女になった途端、エラそうに振舞う男がこのパターン。対等から一気に命令口調になるのは、男の蒼さだろう。支配欲むき出しにするなら、相手にもっと惚れさせてからにしろよ。

    6.「先が見えない」…誰も千里眼じゃないんだし、こんなこと当たり前。先の見えるカップルなんかどこにもいない。こういう当たり前の言葉をいうときは、相手の言葉をまともに受けるより、別の理由を置き換えていると解釈すべし。女が正直にホンネを言って別れるほうが珍しい。

    「未来のことは誰にも分からないのに、『先が見えないから別れてほしい』と言わた。正直、今でも意味が分からない」(27歳・ライター)

    上の疑問は、言い回しと理解しないからだろう。本音を言わない場合が多い。「別れを決意したのなら、彼を納得させられるような理由を考えましょう。そうすれば、お互いに前に進めるはずですよ。(編集部)」とあるが、思考力も洞察力のないバカ男なら、「ごめん、他に好きな人ができちゃったので…」の言い方を勧める。別れに際してはウソでもこれ以上の言葉はない。


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    別れ際に絶対に言うべきでないのは、思わせぶりな言葉、相手を侮辱する言葉。こころにやさしさをもつならそううy言葉を吐くべきでない。大事なのは別離であって、「あなたに失望した」だの、「わたしの見間違え」だの、もはや関係なくなる相手なんだから、讃えてあげるとか、よい縁にめぐり合ってとか、幸せになってとかの言葉が育ちの良さというものだ。

    相手こき下ろすのは男よりも女に多いと言うが、男も女も止めた方がいい。床を共にし、少なからず幸せを感じる時もあった同士なら、縁がなかったと去っていけばいいだけ。失敗を嘆くより、新しい対象を求めて進めばいい。「愛の終わり、別れには何も言わないのがよい」。これが鉄則だ。対象喪失で自分を見失うことになろうが、「覆水盆に返らず」の心意気だ。

    元の状態に固執すると犯罪が起こしたりする。振った女を刺すのは近年男が目立つが、自分に自信のないダメ男だろう。女なんか腐るほどいるんだから、押入れに忍びこんで高校生を刺すなど、理解し難い時代の変貌だ。いかつい男らしい顔つき、体つきでも中身は小学生のままなのようだ。成長していない男は怖い。早めに気づいて縁切りした方がいい。

    「君は自分を愛してくれない男を失ったに過ぎない。が、彼は本当に自分を愛してくれる人を失ったのだ…」と、こんな言葉が慰めになればいいが…

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    ずいぶん前に『トゥナイト』という番組で、「まじめな社会学」というコーナーがあった。担当は山本晋也監督である。番組の街頭インタビューで、「女性は見かけの美しさか?内面の美しさか?」という質問をした。そのとき、全員が内面の美しさと答えたという。そこで監督は一計を案じ、カメラを止めて「本当はどっちなの?」と聞いてみた。さて、結果はどうだったか?

    「やっぱり、外見よね。」が、100%であった。山本監督はテレビのウソをカメラを止めることで正しい「社会学」を披露したことになる。人間は美しい言葉を好む。心にもない言葉を人前では避け、美しい言葉を並べるのはお行儀のよい日本人に多い。顔じゃないと言いながらも「外見」、おカネじゃないといいながらも「金」、勉強ばっかりではといいながら「学歴」である。

    「人は中身か外見か?」の問題に結論が出る事は永遠にない。結局どちらも必要だから、「両方大事」に行き着くし、「表裏一体」的な二者択一に誰が結論を出せるというのだ。あるいは、誰が出した結論を正しいといい切れるのだ。時と場合によって、外見に心を奪われたり、やはり中身の大事さに気づいたり、常に揺れ動きながら人間は成長していく。

    成長した暁にどういう結論が待っているでもないが、ある時期、どういう相手を伴侶として選んだかというのはその時の状況もあったろうから、自分は結婚相手は絶対に中身だ、いや、絶対に外見だ、といってはいてもその通りになったわけでもあるまい。一度に両方選べないから、どちらかを選んで上手くいかなかった場合は、次には違う価値観になったりする。

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    恋人にイケメンばかりを選んでいた女が、結婚相手に野獣を選ぶ事は何ら不思議ではない。男の場合も同じ事が言える。容姿が結婚と言う日常生活に何ら寄与しないというのが分ったのだろう。せいぜい友人や近所で「素敵な旦那さんですね」といわれて、気分をよくするくらいで、結婚生活での実用性はなく、所詮は自己満足の世界なら経年で廃れていくはずだ。

    男においても周囲の羨ましがる美女を伴侶としても、「百年の不作だった」と後悔する事もある。中身か外見かは"ない物ねだり"の世界なのかも知れない。外見で一緒になったら中身を問題にし、中身で一緒になったら隣のイケメンのご主人を鼻高々に自慢する奥さんに嫉妬したり、そういうものかも知れない。近隣にイケメン御主人がいなければ、そうまで思わなかったかも。

    これを「身近な問題」という。遠くにありてならさほど気にしないことでも、身近な問題となると話は違ってくる。いいと思って結婚した夫との生活に何ら問題があるわけでもないのに、隣のイケメンご主人のせいで今までなかった劣等感に苛まれるのは浅はかなことだ。が、浅はかといっても現実である。こうなる理由は、妻の夫への愛情欠落の序章とみなせられる。

    かつて韓流ドラマがブレイクした時、世のおばさんらが"ヨン様フィーバー"にうつつを抜かした。あれほど熱心に韓流スターに憧れるなら、亭主への愛情が薄くなって行くと言う事だろう。「結婚は現実よ。韓流スターは夢なのよ」というが、妻の見境ない鼻息の荒さを見せ付けられると、男とていい気持ちはしないし、妻への愛情が冷める夫もいるだろうな。

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    ハシカみたいなものだと静観する夫もいるにはいるが、客観的にみれば身の程知らずの入れ込みババァである。そんなことに感情を支配されない明晰な主婦から見れば、「おバカな人たち」となろうが、入れ込んでる人は他人目などなんのその。人様が何をやっていようが放っておけばいいし、「おバカな人たち」も心で思うこと。人の自由に口出しは禁物よ。

    どのような方便・言い分けをしたところで、自分の亭主と韓流イケメンスターを比較しているのは紛れもない事実。結婚と言う安定にあぐらをかき、「夢を追って何が悪い」という妻につける薬はない。そうやっていられるのも、夫の稼ぎがあるからという感謝も忘れてはしゃいでいる女をバカと言わず何と言う。「バカ」にも種類があるから、「かわいいバカ」としておこう。

    自分が言うのは、節度・限度の問題で、テレビのブラウン管の前で憧れのスターに投げキッスをし、CDやDVDを買ったりで思いを巡らせるのと、頻繁に家を空けて韓国ツァーに行ったり、コンサートにいったりとでは金銭的負担も異なる。そもそも電柱体型の妻、土左衛門体型夫に成り下がった結婚生活は「愛」より「惰性」であろう。だから刺激を求めるのだ。

    夫は年甲斐もなくAKBに入れ込み、妻はジャニオタでファンクラブ会員と言う状況でありながらも、中睦まじい夫婦もいるし、これをユニークな夫婦といっていいのかである。互いが好き勝手な生活を夢見ながら、それでいて絆は深い「同床異夢」的夫婦であろう。屈託のないネアカ夫婦である。批判の余地もない楽しさ万点夫婦である。夫婦に決まった型はないのである。

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    「悪妻に一般的な型はない」で始まるのが坂口安吾の『悪妻論』であり、文中彼は次のように言っている。「思うに多情淫奔な細君は言うまでもなく亭主を困らせる。困らせるけれども、困らせられる部分で魅力を感じている亭主が多いので、浮気な細君と別れた亭主は、浮気な亭主と別れた女房同様に、概ね別れた人に未練を残しているものだ。」

    安吾の『悪妻論』の本意を理解するのに相当の年月を要した自分である。つまり、悪妻そのものが魅力として亭主の心を惹きつけるなら、悪妻は良妻と結論づける安吾は、「女として何の魅力もない女こそ悪妻である」という。男女の性の別が存在し、異性への思慕が人生の根幹をなしているのに、異性に与える魅力というものを創案できない頭の悪い女は、問題である。

    数学ができる、語学ができる、物理ができるなどの才媛と呼べる女は、学問はあっても人間性という省察なき秀才、知性なき才媛は野蛮人、非文化人と辛辣に言う。確かに人間性の省察こそ真の教養といえるものだ。いかなる知識やいかなる書物を読破したところで、それらは人間性の省察に役立つものであるべきだ。それほどに人間理解は難しいといえる。

    一見ノー天気風な夫婦にこそ全人的交流があるのも頷けるが、問題は陰でコソコソ立ち回る夫婦であろう。と言っても、浮気をするなと言うのではなく、浮気は陰でコッソリやるものであるからして、そうではなく、陰でコッソリやるべきことでない以外のものに心を通わせられない夫婦は問題だ。浮気はコッソリやるのが相手への配慮という点において美徳である。

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    若い頃に、「あばたもエクボ」という言葉を知った。"あばたもエクボに感じられるようになってこそ、二人の愛は成就している"という言葉に頷かされた。異性関係や人間関係で目指すべくは、「あばたもエクボ」と悟る。が、いまは違う。それらはまやかしであることに気づいたからだ。補足するが、「あばた(痘痕)」とは、疾病によって皮膚にできたくぼみのこと。

    エクボとは笑顔にできるくぼみ。どちらもくぼみであるが、あばたは汚いもの。エクボはかわいいもの。そのあばたもエクボのように思えるようになれという教えである。言い換えると、短所も長所として感じろ、ということだが、あばたはあばたと知りつつ、エクボと同じように大切であるべきで、あばたがエクボに見えるのは短所が長所に思えると同様に幻想である。

    無理やりそのように思い込めば、あばたもエクボに見えることは可能である。同じように、自分の子どもだから何でもよく見えてしまうという、いわば「親バカ」も真の愛情ではない。子どものよくないところをよいと感じるのが「親バカ」というなら、親はバカにならなければ子どもの劣っている点を愛せないといってるようなもの。したがって「親バカ」は真の愛情ではない。

    我が子が他人より劣っていても、親がバカにならずに愛せるのが真の愛ではないか。劣っている点は重々承知の上で、この子は誰よりもかわいいと思えることである。他人と比較して優れていることがなくても、かわいいと思えることである。比較をし、引き算から得たものが多いほど子どもを愛する親は、何かの価値基準でもって兄弟(姉妹)を比較している。

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    比較することで愛情などは生まれない。それは自己満足であり欲である。子どもの与えてくれるものの大きさによって満足するような親は子どもの心を離していく。幸いその子が親に与える大きなものをもっていたとしても、手放しで喜ぶ親に一抹の虚しさを覚えるだろう。「愛とは何か?」という本質的命題を子どもに供与せずして子どもは親から愛を学ばない。

    愛されて育てば人を信じれる人間になるが、成績の上下で情緒を乱すような親を持った子どもは、真の愛を知らずに育つ。ひいては人を信じられない人間になるだろう。家庭環境というのは怖ろしいまでに子どもの全人格に影響する。即物的に無関係に愛されているという実感が、子どもの情緒によい影響をもたらせる。いわゆる無償の愛が、子どもの心理的安定を育む基礎である。

    「お前のために頑張って働いてやっているのだ」と口にする親と、黙した親の後姿から学ぶ子どもとは大違いであろう。恩着せがましい言葉の羅列で責められた子どもに心の安らぎはない。どう見たところで子どもは家庭内において心理的に受身であるから、だから「愛され」、「守られる」必要はもちろんだが、「愛されている」、「守られている」を感じることが大事。

    子どもに純真な心を持ち続けさせるよい方法は、子どもの周りにいるすべての人が純真なものを尊重し、愛することかもしれない。純真さとは、たとえばこの世に新しい人間として生まれた赤ん坊を抱いてその目を見ると、赤ん坊のエネルギーを感じるが、そのエネルギーは赤ん坊が全くの白紙の状態から出ていることの驚き。これ以上に純粋なものがこの世にあろうか。

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    純真さ…、即ちピュアな心が何をもたらすのか?自分を愛し、他人を尊重する心であろう。尊重も愛であろう。愛する能力を持つ人は、人を愛することによって、その人を自分の価値ある存在におしあげる。人を愛するから人は自分の価値となる。さらに愛は安らぎとなる。自分自身の弱みや不始末があっても、相手を失うことがないと感じるのが信頼感である。

    相手の弱点や短所に気づいても、それによって相手を見捨てる気持ちにならず、むしろ愛おしさが増すのが愛であろう。まさに赤ん坊に与えるような無条件の愛が、ピュアな愛であろう。それをどうやって持ち続けるようになるのか。人と人を比べたりしないのもいい。愛とは比較を完璧に無視するもの。比較しているうちは愛ではなく、比較されてるうちは愛されていない。

    他に素敵な男がいようと、強い男が、逞しい男が、やさしい男がいようとも、目の前の男に心を惹かれて尽くしたいと思う女性が、人を愛する能力をもった女である。女の過去に拘り、汚らしくよごれているとか、悲惨な体験をしたとか、それで気持ちがさめるのは、その女性を愛していないことになる。文字にすれば簡単な様でも、人生体験のいることかもである。

    これは「外見」か「中身」かの選択にも通じる部分もあるが、中身重視=愛情、外見重視=ミーハー、と世間では捉えられている。確かにその一面はあるが、イケメンと付き合ってみて、もてるから浮気に悩まされてもうコリゴリということもある。ハッキリ言えることは、外見重視が悩みの種だったとなる。では、性格のよい女と付き合って苦労したというのはあるのか?

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    「ある」とか「ない」より、ちょっくら思い浮かばない。性格のよい女はコリゴリで絶対に結婚相手は悪女に決めているというのもあり得ない話。そういう点から「外見」と「中身」を判断すると、外見<中身と言う事になる。確かに若いうちは何事も物の表面しか見えない近視眼状態というのはある。見た目がよければ中身もよく見えるというのは商売の基本でもある。

    商品の包装や、同じリンゴでも見た目のいいものは美味しそうに見えるし、世の中のセオリーが見た目重視であるのは疑いがなく、だから人間も同じように見た目がよければ中身もよく見えるのだ。あとは、いろいろなことを経験し実体験から見た目に騙されないという事を学んでいく。すなわち、見た目重視が悪いのではなく、そこに人間の弱点をみることだ。

    さするに「人間は中身」と言い切る人に、自分自身の中身に自信があるかと言えば、それは別の問題であろう。「人間は外見だよ、そりゃあ」という人が顔に自信があるというわけでもないだろう。心理学的考察では、ブサイクほど外見に拘るとなっているし、前回も言ったように「外見」は何も容姿・容貌に限らない。身なりや服装、話し方、言葉使いもその範疇だ。

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    こうして、結論の出ない(結論などない)ことをグダグダ言うのも世の中の常。何も結論だけを求めて生きているのではないし、一種の遊びである。「人間は、中身」を真に実感してる人間が、「人間は見た目」派をどれだけ時間を割いて話しても納得は得ないものだ。その人がいつの日か、「やっぱり人間は中身だ」と変節するかも知れない。ないかも知れない。

    どちらも持ち合わせてる人間はいるからだ。美に執着、見た目に時間をかける女は中身の悪さを隠すためではない。女は、永遠に「美」に憧憬を抱く動物である。化粧もしない、身の回りを構わない女性もいる。実は、自分はそちらの女性が好みである。「さあ、出かけるぞ!」と言って、「ちょっと待って!」と壁塗り1時間は待ってられん。そんな理由?そんな理由だ。



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    「あり得ない」という言葉を使いすぎだ。「あり得ない」なんて言葉は滅多に使うものじゃない。「あり得ない」ことの多くは「あり得る」んだからの持論を書いた。そんな、「あり得な~い」などという奇異な体験をした事は記憶にない。ないというより忘れているんだろう。だったらたいした事じゃなかったろうし、余程のことなら覚えていてもいいはずだ。

    ところがその「あり得な~い」といえるような出来事を体験した。このような事がどうして起こり得たのか、その原因は表向きには分らない。分らない事は想像するしかないが、想像しても「コレ」という原因は見つからない。いろんな可能性が考えられるが、相手の行為を善意と理解すると解決しない。一般人は商売を善意と考えるが、商売従事者は悪も善意である。

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    広島に「セビロ屋」という老舗の洋品店がある。幟町と言うところにいた頃は近い事もあってかちょくちょく顔を出していたが、当時の経営者は「カープの選手の洋服をあつらえて店を大きくしてもらったようなもんです。」というのが自慢話であったし、行けば必ずコーヒーを出してくれる気さくな店だった。先日、10年ぶりくらいにふらっと覗いてみた。

    「セビロ屋」はず~っとVANの商品を置いていたし、それ以外にも目の肥えたアイテムを置いていたので、あそこに行けば好きな商品は確実にあった。なにせ、大正15年創業というから大老舗である。現在は都心から離れているところに居住なので、VANはネット購入の昨今だ。ネット購入はサイズや色合いの点で不安もあるが気軽に返品に応じてくれる。

    なにより通販の楽しさは商品が届くまでの楽しみである。宅急便のピンポ~ンに心が躍るのはいくつになっても味わえる感慨であろう。とまあ、余談はともかくとして本題にはいる。「あり得な~い」体験だが、どうも不可解な点が多いのも事実。自分の意図した商品と別のものが来たというそれだけのことだが、100%店のミスを100%顧客のせいにするお店のこと。

    どちらのミスに関係なく、顧客の意図せぬ商品なら、言い分があろうとも引き下げるのが一般的な店である。この店は10年以上ぶりだが、VANプレミアムウィンドブレーカーに目が行った。遊び心のワッペンがぺたぺたであり、同種の商品でコーチジャケットというのがあり、こちらは購入したばかりでワッペンぺたぺたはなく、ほとんどそれだけの違いで4000円安い。

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    ウィンドブレーカーを買おうとしたが、販売終了といわれてコーチジャケットにした経緯がある。ところが販売終了のウィンドブレーカーが「セビロ屋」に在庫としてあったのだから、「むむっ!」となった。が、その時は思いなおして購入を止めた。一週間後、病院の帰りに再度立ち寄ってみたら、お目当てのウィンドブレーカーは売れたようで取り置きになっていた。

    ハンガーに吊るしてあり、「2月26日ご来店」と書かれてあった。「手を通してよろしいか?」というと、「いいですよ」というので手を通した途端に欲しくなった。元々欲しかった商品だけに止むを得ない。「これはもう終了商品なんでしょう、VANのH.Pからも削除されてます」というと、「もしよければ探してみましょうか?」とオーナーの山田さんがいう。

    そういわれ、「取り寄せられるならお願いしますよ」と、これはオーダーした事になる。翌日に電話があり、「在庫もなく販売終了とVANからFAXはいりました」という。それを知っていただけに「セビロ屋」に置いてあったウィンドブレーカーに心が動いた。あの時買っておけばよかったね」と伝えると、「もう1回頑張って探させてもらえますか?」という。

    なかなか商売熱心だ。「いいですよ。よろしくね」と、その心意気に賛同した。どういうルートで在庫を探すのだろうか?まあ、見つかればいいし、見つからなければいいし、という気持ちであった。2日後に連絡があり、「ありましたよ」という。「あったんですか、すごいですね」、「明日東京を発送するので、明後日には届きます。届いたら再度連絡します。」

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    2日後、届いたとの連絡があり、「金曜日に伺います」と、昨日取りに行った。ところが、そこにあったのは、なんと所有するコーチジャケットであった。「なにこれ、違うじゃない。頼んだのはプレミアムウィンドブレーカーですよ?」というと、「これもウィンドブレーカーです」という。何をいってるんだコイツは、商品名は違うのにこの言い方は何だ?と感じた。

    「そうじゃないだろう?商品名でウィンドブレーカー、コーチジャケットという名で区分けしてるじゃないか?コレもウィンドブレーカーです。ってそんなことを言ってどうすんの?ここに吊るしてあったものと違いじゃないか?商品について互いの意志の疎通はできてると思ったが、何でこうなるわけ?」と正すと、「お客さんが試着したのはコレですよ」というのだ。

    「何を言ってるんだ。ここにあったのはコーチジャケットじゃない、ウィンドブレーカーで、終了商品だからもう手に入らないといったろ?そうしたら、探させてくださいといったじゃないか?これは現行商品でカタログにもあるし、すぐ買えるし、あなたが苦労して探す商品じゃないじゃないか?ちなみにいうけど、コレは持ってるんだよ」と言うと、驚きの返答をした。

    「お客さんが何を持ってるかなど、知る分けないでしょう?うちは注文いただいたものを取り寄せただけですから」と言うのだ。「バカいうなって、お客が何を持ってるか知らないだと?じゃいうけど、持ってるものをあえて買うか?」腹が立ってきた。店側はこちらの頼んだものを取り寄せたと言い張るし、お客さんが着たのは間違いなくコレです」とかなりしつこい。

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    自分は思った。この状況は店側のオーダーミスをこちらの責任に転嫁しようとしているか、もしくは終了商品は手にはいらないから、意図的に別の現行商品を押し付けようとしているなと。どちらにしても、善意な顧客を怒らせるし、なぜそこまでするのだろう?2月26日に取りにくるという顧客のストック商品が何か、売り上げ伝票で確かめれば分るの、なぜしない?

    今どきこんなガサツな商売する店があるんか?と思いながら、この状況は明らかにオカシイ。何が何でも自分の意図しない商品を持ち帰らせようという強引さを感じた。ウィンドブレーカー(販売終了商品)を一生懸命探してみるという言葉はどこに行った?現行商品なら今までのやり取りは何だったのか?意図せぬ商品をしぶしぶ買って引き下がるとでも思ってるんか?

    店の態度はかなりオカシく、不信感は増すばかり。「そんなことするなら二度と来ない」といったら、「来ていただかなくて結構です」という。この言葉を聞いて、自分に対する相手の思惑がハズレたなと感じた。相手は引っ込みがつかなくなっている。二度と来る気はないから何を言われてもいいが、顧客と店とどちらが間違いかの確認をしない理由は腑に落ちなかった。

    客の取り置き商品が何であったを売り上げ伝票から調べようとしない店。それなら水掛け論でしかないが、しないところに何らかの意図性を感じた。顧客(自分)が、持っている商品を買うはずもないが、店側はそこに言及しない。「セビロ屋」のオーナーは、物腰柔らかく、あくどいことをする人には見えないが、横槍を入れて罵声を浴びせたのは別の店員である。

    オーナーは言葉少なく、逃げ腰であったし、もう一人の店員が汚い口ぶりでたたみ掛けてくる。なぜオーナーが黙し、話した事もない店員が横槍入れるのか?最初から終始やり取りをしていたオーナーのダンマリの理由は不明だが、頼んでもいない商品を無条件につきつけられる屈辱感は拭えない。まさに「あり得ない」体験である。「来なくていい」という店も初体験だった。

    頼んだものが違っていて、ここまで強い態度を通すお店も珍しい。よほどの経営難なのか?どちらのミスであれ、返品すればいいことだろう。だから、店員の言葉は返答になっていない暴言である。「もっている物を頼むはずはないわな?」という思考もないままに暴論を吐く意図は何だろう?実に不可解であったが、オーナーのダンマリの意図がうすうす分ってきた。

    こんな高飛車な態度で、お店のミスが判明したら示しはつかないだろうに。何より事実を調べ、提示すべきである。早速VANの本社に「セビロ屋」からのオーダー状況を聞いた。「セビロ屋」は先にプレミアムウィンドブレーカーの在庫状況をVANに問い合わせしてるはずだ。だから最初、「販売終了商品です」と連絡が来た。その件については把握済みであったが。

    それなのに、「ありました」と現行商品(コーチジャケット)を取り寄せたところに悪意を感じる。こんなことまでするのか?まるで倒産間際の悪あがきに思えてならない。別の理由も考えられるが、それは後で記す。とんでもないVANShopであり、フランチャイズでないただの専門店契約なら、VAN本店に指導義務も必要性もないが、とりあえず苦情を申しておいた。

    VAN側は「セビロ屋」さんからも謝罪の連絡はさせるといったが、「心ない謝罪ならいらない。事実調査の上で店の不始末としても、来ない客に謝る事は無いでしょうし、どっちにしたって二度と行くことはないし、謝罪なんかいりませんよ」と言っておく。これは確信犯であり、ミスの範疇ではなく、だから謝罪も作ったものでしかないと分っていたからだ。

    「人は見かけによらない」、「商売は汚い」というが、客のミスであったとしても、頭に血が昇って暴言吐いた店員はただのバカである。が、彼にはそこまでしなければならぬ理由があったのだろう。それは彼の作為の責任がオーナーとぶつかったからか?「あり得ない」の言葉は使いたくなかったが、「セビロ屋」は実は「セビリ屋」であったと思えば解決つく。

    と、まあここまではお行儀よく書いた。が、これから書く事が実は本題である。読んでいて、気分の悪くなる人もいようし、納得する人もいよう。今回の件はこう考えると疑問も解ける。以下のことは商売上普通に行われるものであり、こういう事実を知る者からすれば何でもない事だ。商売人が善人面してあくどいことをやるものだと思えるなら、別にどうと言う事はない。

    まず、障害になった「オーナーは人のよい、善人である」というのを捨てる。長年商売をやる人なら、あくどい事も実は重要なノウハウである。そのあくどい事が相手に分らなければ、あくどいことでも何でもなくなる。そのことを踏まえて自分が辿り着いた結論を以下記す。まず、オーナーは善人でも何でもない。もちろん、商売上であるが、それでこそ商売人である。

    オーナーの策略というか、営業戦略を自分はこう分析した。自分が終了商品だと言った時に、彼はそこから自分に対し営業戦略を開始した。それは先ず"恩をいかにして売るか"である。ありもしない商品をいろいろ探すふりをすることで、頑張ってくれてるなという好印象を与えた。そうして、まったく別の現行商品を取り寄せ、自分の前に「依頼の商品が見つかりました」という。

    このとき、如何にすっとぼけた顔をするかが大事。善人(気の弱い)客なら、一応は「違う。この商品じゃない」という。店側は「いえ、これでしたよ」と言って反応を見る。善人客は(いろいろ手を尽くしてくれたんだし、自分がちゃんと伝えなかったかも知れないし、だから間違った商品が来たんだ)と思えば、店側の思う壺。店はまんまと客の意図しない商品の販売に成功する。

    こういうクサイ演技は自動車販売、家電製品、多くのジャンルでやる事だ。ない物を注文されて、「ない」では能が無い。如何にない商品の代替に持っていくかが営業能力である。そのためには、顧客に恩を売ること。そのために「ない」商品をいかにも手を尽くして探したように見せ、ポイントを稼ぐのだ。人は恩を感じたら強く出れなくなるし、そこが営業サイドに狙い。

    もっともいい例が、スーパーやデパートの試食販売。ただで試食させることでとりあえず恩を売っている。それで断りにくくさせている。今回は似たような商品であるし、違う商品をすっとぼけて自分に売ろうとしたが、残念ながらその手に乗らなかった自分だ。そこで宛てがはずれ、引っ込みが付かなくなったのだ。相手も自分を善人だと思っていたのだろう、きっと。

    ガンとして譲らない自分に対し、これはダメだ。この手で妥協するような人ではないなと感じたようだ。あれほど商品知識に長けたオーナーが、黙り込んでとぼける事ができなかった様子が手に取るように分かる。そういう手法で成功した事もあろう、「違う商品だけど、まあいいや一生懸命に探してくれたのだから」という客もいたはずだ。ところが、自分は怯まなかった。

    「人を舐めるのもいい加減にしろよ、バカもんが!」、と自分なりの結論が出た今はそう思っている。あんたも悪人だが、負けず劣らず自分も悪人だよ。そういう一筋縄でいかなかったな、バカものめ」である。そう考えないと、この一件はあり得ない。そうではなくて、やはり「あり得ない」ことではなかった。ちゃ~んと「あり得る」ことの範疇で起こったこと。

    世の中の汚さ、人間の汚さと思うなかれ、汚いのは商売であって、そこに従事するものなら、なんでもないことである。それに引っかかるか、見極めるかであって、結局人を善人と思い込んだら、多くは手玉に取られると言う事だ。人の腹は黒い。特に商売人は顔で善意を売る真っ黒いお腹の人が多いと思って不足はない。そこに気づかぬ人は、それはそれで幸せなのだよ。



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    昨年の12月25日のX'mas、残念なメールが届く。長年利用していた「VAN HOUSE 岡山」閉店の知らせである。メールには一時閉店、新経営者で2015年3月中旬~4月初旬に再openということであった。「VAN HOUSE 岡山」にはいろいろ世話になった。商品の返品・交換にも快く応じてくれるオーナー中務氏の、紳士的な電話応対など全面的信頼していただけに残念である。

    どこも同じ商品を置いているなら、安心できるお店を利用したい。広島にVAN専門店「セビロ屋」があるのになぜ岡山?そこは店内の雰囲気を始め顧客の嗜好の問題である。久々「セビロ屋」に足を踏み入れたのは10年ぶりくらいだったと思うが、ハッキリ記憶はない。ここで買いたくない何らかの理由があったのだろうが、そういう予感が今回の一件に繋がるのか?

    「VAN HOUSE 岡山」25年間の功績を称え、顧客有志による「慰労会」が開催されていた。年明けにはなんとしても岡山に立ち寄り、中務氏のご尊顔などを眺めてみたいと思っていた矢先の閉店であった。VAN創業者である石津謙介氏と同郷ということもあり、岡山にVANの火と絶やさないとの思いは中務氏に強くあったろうし、店内には石津氏ゆかりのものも置いてある。

    「いた、居た!ここにも備前男が 僕も岡山生まれです。いつまでもVANを育てようね 石津謙介 1999.4.20.」のサインがあった。他にも中務氏とVANの歩みを思わせるお宝グッズが所狭しと並べてある。先駆者石津氏が育てあげたVANは1978年倒産した。VANに勤務していた友人から売りつくしセールの連絡をもらい、会場(産業会館だったか)に駆けつけた。

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    33年前のことだ。当時の洋服はほとんど人にあげたか処分したかで残っていない。同世代の松任谷正隆は40年前、50年前のものを持っているといっていたが、東京人の彼は転居がないし、自分のように地元⇒東京世田谷区⇒東京豊島区⇒東京杉並区高円寺⇒東京杉並区堀の内⇒横浜市神奈川区⇒広島西区⇒広島南区⇒東京狛江市など、転々すれば家財道具は処分する。

    それより、実家においていた古式懐かしきお宝を勝手に処分するバカ親がいてはダメだろう。「親に大事にしていた古マンガを捨てられた~(涙)」という奴には共感したものだ。そう言う事をされて「(涙)」と言う奴、自分のように「(怒)」という二つのパターンがあるようだ。「なぜ怒らない?」と理解できなかったりしたが、そこはそれぞれの家庭環境なのだろう。

    中務氏や「VAN SHOP多治見」の橘氏のような、昔のお宝を所有しているのを見ると羨ましくもあり、すごいなという驚きもある。その当時のものはその当時にしか必要ない物だとして処分するのが一般的だが、古いものを捨てないでいてひと財産を築いた人は世界各国珍しくない。ガラクタは、我楽多と書き、瓦落多とも書くし、瓦落苦多とも書くが、どれも当て字だろう。

    ガラクタの「ガラ」は、「ガラガラ」という物が触れ合う音を表し、「クタ」はゴミを意味する「 芥(あくた)」の略か、もしくは「朽ち(くち)」が訛ったものとされる。そのガラクタが大化けして何万、何十万、いや何百万になったりするご時世だ。世界的には「え~、こんなものが何億、何十億」とオークションで値付けされとのニュースには驚くしかない。

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    VAN世代各自は個々に思い出がある。VANが全盛期の頃はショップに対して殿様商売をしていたと耳にした。店舗契約にランクがあったのか、自分の町のVAN専門店には人気の商品は入荷せず、売れ残りのようなものばかりであったから、わざわざ遠方に足を伸ばしたものだ。仕入れ商品の返品も「禁」であったし、いわゆる専門店イジメの様相である。

    親会社の下請けイジメに類するものだろうし、背中にVANのロゴ入りのシャツは、非売品として垂涎の的であった。アレを手に入れるにはよほど専門店にコネがあるか、優良顧客ではないかと。近所の先輩にくたびれたロゴ入りTシャツをもらったときは、嬉しくて狂乱した。殿様商売が祟りVANは経営難に陥る。元社員のH.Pに当時の事が書かれている。以下引用。

    「当時、VANヂャケ労組は静岡市竜南の事務所を職場占拠していて、私も動員され何度か行きました。1976年頃から建て直しと称して経営に入り込んできた丸紅静岡支店への抗議もありました。本当に大手資本は自分たちの身の保全しか考えていないし、VANの負債を大幅に増やしてしまったのは彼らだったと今でも思っています。結局は1980年東京地裁での和解合意で終結しました。

    それまで2年間泊り込み、職場占拠していたVANヂャケ労組の組合員はアルバイト等で食い繋いでいたんですよ、これは大変な苦労だと思います。彼らはその後、静岡市鷹匠町に「VANショップ静岡」をオープンし、現在に至っています。「VAN」のロゴが使えるのも倒産闘争に勝利した成果だと思います。現在も当時のメンバーが居るかどうか私には定かではありません。

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    放漫経営で会社が潰れるというのは、従業員にとって死活問題であるという事がコレを呼んでも分る。H.Pの主はこう結んでいる。「VANも挫折したけど、今は新生VANとして蘇りました。VANロゴは決して清廉潔白ではないけれど、VANの3文字に人生を感じます。汗を感じます。VANを昔に比べて身近に感じます。私は「現在も未来にも」VANの3文字が見れる事を感謝します。

    VANは1978年に倒産した。が、1979年、VAN再建を目指す各界の様々な動きがあった。あまりにも強大なVANの影響力もあってか、街中は“トラッドにあらずばヤングにあらず”状態で、日本中の全国各地に、社会人から大学生、高校生に至るまでいたるところに“IVYクラブ”が結成された時代で、石津謙介とVANの再登場を待ち望む声が全国に日増しに高まって行った。

    この大きなムーブメントは、再建にたずさわる様々な関係者達、大口債権者である巨大商社「丸紅」に、強力な追い風となる。VAN新社構想とは、「旧VAN関係者による自主的な経営が保証されること」が前提条件としても、ヒト、モノ、カネをいったいどうするのか?「…カネを出してくれる人がいないならば、我々が調達できる範囲の小さな会社を作ればよいではないか。

    大きな会社より、かつてのVANのイメージを守れる会社をまず作るべき…」と、かつてのVAN武者達の声が鳴り響くが、新社構想が浮かぶ度に創業者石津謙介は、複雑な思いに胸を痛めた。当時会長の石津氏は、「実質経営者は丸紅であったとはいえ、破産の責任はまぬがれない」と、新社構想呼びかけに慎重だった。石津氏の元には、国内大企業の引き抜き工作も後を絶たない。

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    石津氏はこれらの要望をガンと受け付けなかった。あるメーカーとは一ヶ月交渉が続いたが、石津氏は相手企業のオーナー・幹部の居並ぶ会議の席で言った。「今さらVANブランドで儲けようなどと、ケチくさいことは考えないでもらいたい。あなたのところには誰でも知っている立派なブランドがあるじゃないか。新しい事業を起こすと言うなら、ゼロから始めるべきだ!」

    VANを創り、VANを潰した石津氏の様々な思いが込められた言葉であろう。借りてきた猫のようにはならないとする石津氏の侍魂を言葉に見る。「お洒落な人になるな、洒落た人間になりなさい」という石津語録は今でも受け継いで生きているが、確かに「お洒落だね~」などといわれて嬉しいと思ったことない。お洒落に気を使うのではなく、洒落た人間を目指したいのよ。

    「流行を作るのではない、風俗を作る」とも石津氏はいった。疾風のように現れ、疾風のようにVANを去っていった石津謙介は、実生活では93歳の大往生であった。彼がどういう人かを文献で知る以外ないが、「私とVAN JACKETの体質から生まれるユニークさ…」と自己を表現するようにユニークな人なのだ。自分もユニークでありたいし、VANに惹かれるのはそこの部分。

    ユニクロも「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」(UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE)を縮めたものだが、柳井氏のコンセプトもそうであろう。VANは特定少数派の商品であったが、ユニクロは不特定多数にのし上がった。VANは風俗を作ったが、ユニクロは気軽さが愛される要因だ。「安かろう・悪かろう」の代名詞が改善され、いまや世界のブランドとなっている。

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    1984年、広島市内にユニクロ1号店がオープン。そして2014年末時点でみると、ユニクロブランドだけで国内852店、海外695店と合計で1547店までネットワークを広げた。ユニクロ以外でもグループ企業の店舗は1319店あり、グループ全社合計だと2866店にも及ぶ巨大企業である。それもわずか30年あまり。日本のアパレル産業をになう企業は大小あわせて約1万3000社。

    ここ数年の売り上げが9兆~10兆円といわれる中、ユニクロは国内売り上げだけでも約7000億円。7~8%のシェアを持っている。本来的に熱しやすくて冷めやすいといわれる日本人にとって、アパレル業界で30年間も成長し続けるというのは、業界関係者の視点においても驚異という。その最大の理由は、ユニクロは日用品であるということ。もはや生活用品である。

    洗剤やトイレットペーパーと同様の生活必需品としての地位を確立したユニクロは、今後も売り続けるだろうといいうのが業界の見方だ。ショーツやTシャツのようなインナーウェアであれ、コートやパンツのようなアウターウェアであれ、あまり流行に左右されることのない生活用品=消耗品と考えれば、同様の商品を悩まず迷わず購入する。しかも機能性が向上している。

    「当たり前のことを当たり前にしているだけ」。これが柳井氏のビジョンであるなら、当たり前のことを他企業はやらなかったことになる。「うちは販売だ」、「うちは製造だ」、「うちは物流だ」と勝手に決めていた側が真に買う人の側に立ち、責任持って商売をするなら、企画・生産・物流・販売まで一貫して手がけるのが自然である。それが柳井氏の言う「当たり前」。

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    この言葉を今回の「セビロ屋」の一件に当てはめると、あの店が顧客のことを考えた商売をしていないのが露骨に見えてくる。「客の立場にたったら売れるものも売れない。心を鬼にしなければ営業はできない」とうそぶく営業マンはいる。確かに営業にはそういう一面はあろう。実際、あくどいことをやっているなと感じながらモノを売ってる営業マンは少なくない。

    しかし、それは余程上手くやらないと、心底を見透かされる場合もある。簡単に引っかかる客を営業マンは、「バカな客だ」と腹で罵ったりするが、手ごわい顧客には自分の非力を感じるものだ。「相手が一枚上手だ、これでは売れるものも売れない」と脱帽せざるを得ない顧客もいる。ほとんどの顧客は数年の実績でカモにできるが、では頑強・明晰な客は何で動かせる?

    それは「誠意」、「誠実」であろう。見え透いたお世辞や稚拙な誤魔化しトークが通用しない顧客は、コレ以外には無理だ。自分も心を動かさるのは相手の誠実さ。営業マンは誰でも誠実のフリをするし、そんな事は分かっている。だから本当で本物の誠意であるべきだが、実はこれが難しい。誠意を売っても物が売れなければ、ただの世間話に終ってしまう。

    自分を売ることでモノを売れなければ意味ないし、モノは売ろうとしなければ売れない。それは一般の顧客であって、自分のようなタイプにモノを売ろうとすると返ってモノは売れない。モノを売ろうとしないで買ってもらえるか、それが達人の域であろう。欲しいモノを買わせるのは簡単だが、さほど欲しくないモノでも買わせられる営業マンにあって見たい。

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    と常々思っている。お世辞やゴマ擦りは通用しないし、そんな言葉には興味もない人間にどうアプローチする?斯くの奥儀を持つ営業マンはこちらも学ぶものがあるはずだ。その事からいっても「セビロ屋」の店長(オーナー)は商売人の端くれだろうがバカである。汚い商売の一手法も、通じる相手と通じない相手を見極められない点でバカである。

    「持ってる商品を買うか?」と聞かれれば誰だって「買わない」と答えるし、実際買わないだろう。ボケ老人とか、持っていることを忘れて同じものを買う人は、"持っているから買う”のとは違う。こんな当たり前の問いに言葉がつまるのは、そこに何らかの意図が隠されている。買わせようとした商品を自分が持っていることをあいにく「セビロ屋」は知らなかった。

    だから自分が「この商品は持っている」と言った時に、「こちらがあなたが持っているかどうかを知るわけない」とバカなことをいう。これは「あなたは同じ商品を買うか?」の答えになっていない。買わせようとしたが宛てがハズレて、ついこのようなホンネが出たのだろうが、持ってるものを誰が買うか!バカな奴はバカな言葉を吐くし、だからバカなのだ。

    顧客がどういう商品を欲しがっているか?自分がワッペンつきのブレーカーが欲しかったことを読めていない。「あなたがここで試着したのはコレだ」と言い張っても、ワッペンのない商品を欲しがる理由がない、着るはずもない。それでバカげた押し付けは、顧客のことなど毛頭ないのだろう。確かに頭に毛のまったくない店長だが、それで「毛頭ない」とはならないし…

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    現行商品なら「セビロ屋」で買わずともVAN本部で買う。どこにもない終了商品、それを「探す」というから頼んだことさえ忘れたフリをする悪辣店長である。「探したがなかったので、同じような商品ですが、コレでどうですか?」の方が人間的だ。それでも了承を得て入荷すべきで、断りなく仕入れるのは顧客の意向を無視だから、良心的な店でこう言う事はやらない。

    この件のVAN本部の回答は、「先程該当店に担当の者より電話確認させていただきました。該当店とは話に食い違いが起こっている状況です。(中略) 今後このようなことが起こらないよう、オーダーの控えをお客様、店舗、双方が持ち合い、オーダーの正確さを高め、それでも万が一何か起きた場合でもきちんと確認が取れるよう各店に指導させていただきます。」

    というものだった。"当該店と話の食い違いが起こっている状況"とは、「セビロ屋」が何らかの言い逃れをしてるのだろうが、基本は「もっているものは買わない」である。「販売終了商品を探してみます」という言葉は営業の範疇だが以後のウソは非道である。どんなにとぼけようが、自分に責任を押し付けようが、「セビロ屋」で注文した理由を知るのは自分だ。

    まさに「せびる屋」である。言い分けはバカの謗り。顧客を罪に陥れようとするから、本部に謝罪を進言されて侘びもできない。ウソがばれた後のバツの悪さは遺憾ともし難いだろう。こんな店でも善人ぶって商売やれるが、問題があった時の対応で店の腹黒度は分るということ。

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    素行に取り立て問題のない中1の孫だが、どんな不良の子であれ問題のない時期はある。自分は子どもが不良になるのは100%親の責任と思っている。親8割、友人関係2割などの言い方もするが、どっちが正しいわけでもない。大事なのは確たる気持ちの所在である。悪友に確たる気などない。子どもが揺れ動く思春期である以上、確たる気は親が持つしかない。

    「不良って何で不良っていうか知ってるか?」、唐突に孫に問う。「何で?わからん」、「不良は不良品のことよ」、「なんだ、そっか…」、「商品は機械で作るが、何個に一個は不良品がでる。不良品は使えないから捨てるしかないだろ?人間の不良も一緒で、社会にでてもどこも働かせてくれん。だからフラフラするんだよ。お前はそんな人間になんかなるなよ」

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    「ならんよ、ボクは不良なんかに…」、「でも、みんなそう言って不良になるんだ。不良になりたくて不良になる者はいない。ほとんどの不良は気がついたら不良になっている。何でかわかるか?」、「多分、その子が弱いから?」、「正解!その通り。弱いから不良になるんだよ。不良ってのは強そうに見えるが、自分をそうみせていきがってるだけの弱ったれよ。」

    「そうかもしれん、強い人は刀を抜かんって本にあった」、「昔、韓信といって中国で一番強い武将がいた。彼は冷やかしを受けて。股をくぐれといわれてくぐった。何でかわかるか?」、「強いからじゃないん?」、「いや、強ければやっつければいいだろう?」、「強さを隠しておくとか…」、「それは本当の理由じゃない。本当はそこで喧嘩して、もし相手を殺したら?」

    「そっか」、「そうそう、捕らえられて監獄入って、それで一生終わりだろ?そんなバカなことにならないために無駄な争いを避けたんだな。我慢は悔しいけど、勝つ自信があるから我慢はできるんど。」などと、話しておけば不良にならないと言うものでもない。誰かの何かの言葉が、何かのときに頭をかすめる事があるかもしれない。それは爺の言葉でも親の言葉でもいい。

    英雄豪傑の言葉でも行為でもいい。その子の中に留まって、何かのときの抑止力になればいい。ならぬかも知れぬが、なるかも知れない。自分がまだ小学校に上がる前から祖母は口癖のように自分にこういった。「どんな事があっても、人様のものに手をかけんように…。お前が欲しいというなら、どんなことしてでも婆ちゃんが買ってやるから…」一つ覚えの祖母の教えである。

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    祖母は教えなどと毛頭ない。気持ちを正直に表したものであり、孫が警察の厄介にならぬよう、祈りを込めた言葉である。この言葉は、事あるごとに自分を支配した。だから万引きも含めて、人様のものに手をかけるような事は、自分の脳裏や心の中には目糞ほどもなかった。人は自らだけで善悪を考えるものではない。人からの言葉や何かを心に仕舞う従う場合が多い。

    そこを考えると、「今言わなくても、いずれ分る」という言葉に信憑性はない。そういう考えもあるが、就学前から善悪を自分に言い続けた祖母の執拗さには感嘆する。「今言わなくても、いずれ分る」というのは男の理性としてよくわかる。が、年端もいかない孫に善悪を言い続けたのは祖母ならであろう。祖父や父の口からは出てくるはずのない女の願いであった。

    その時分らないことも経年で分ることは多い。その時は「ウザイ」と思ったことも大事であるのが分る。であるなら、「分らない時期には何を言ったところで意味がない」というのは間違っている。連呼の大事さとは、頭では理解できなくとも体で覚えさせるのだ。体に染み付いたものになる。同じようなことをプロ野球の名匠といわれた、元近鉄の西本監督が言っていた。

    選手には小さいミスをくどくど言う。相手が嫌な顔をし、「うるさいおやじだなと、モロに顔に出てもいい続ける。そうこうしているうちに、人間は言われるのが嫌になるから、言われる前にやっとこ、言われないようにしよう、と思うようになる。そこが狙い」。なるほど、名匠というのは卓越した采配や、秀逸な野球理論ばかりではない。こういうことも名匠なのだと。

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    人に何かを言うのはしんどい、メンドイのは、相手が言われるのを嫌がるのが目に見えているからだ。人にいうくらいなら自分でやった方が楽。こういう人間は多い。性格だから仕方がないが、典型的に管理職には向かないタイプである。そういう人間は"自分は管理職になどなりたくない"と思っている。が、別の能力があれば管理職に抜擢させたりで様子をみる。

    変わらない人間もいるが、「地位が人を変える」と言うように、変わる人間もいる。今まで対等の仲間が、役職になったかというように別の人間になる。「何だよあいつは、役がついたからって偉そうに」といわれたりするのを怖れて遠慮深そうにするのが一般的だが、役職には役職としての別の仕事があるんだ。今までと同じようにやっていてはいけない。

    そう思うのが正しく、実際にそうにすべきである。そのためには上司からの言葉のサポートはプラスになる。「帝王学」とまで言わないが、上に立って下を眺めたり全体を把握するための視点を養う立場に位置するための、「帝王学」なる教科はある。学問以外の部分も大きいが、帝王になるのは大変である。高校時代の友人で超有名企業の社長がいる。

    二年間社長を勤め、創業者の孫に社長を譲り、現在彼は会長である。何十年も疎遠になっているが、彼が社長であるのをテレビで知って驚いた。そうしていろいろな事が頭を過ぎった。なにせ、小学校、中学、高校も同じで、高一の入学式後の初ホームルームに二人は遅刻し、一緒に教室に入った同士である。いきなり、教壇の前で二人は担任からビンタを食らった。

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    遅刻でビンタを食らったというより、遅刻して教室に入ってくる態度が担任のカンに触ったようで、確かにフザケていた。当時、高校生にビンタは普通であったが、彼も自分もこの一件でこの教師が大嫌いになった。15歳の感性はそういうものだ。彼は胆の座った物怖じしない性格で、生徒会長も勤めた秀才派というより、頭のキレがいい人間であった。一を知って十を知るような。

    小学生時は、札付きの悪学童で、人相もよくない典型的生意気小僧である。先輩からもよく小突かれたが、気が強いから刃向かっていく。そこら辺りも彼には大会社社長の資質があり、彼の社長を知ったときは驚かなかった。あれほどの会社なら役員賞与は数億をくだるまい。が、彼を知る者なら何ら不思議でない。彼がその会社でどう立ち回ったか頭に浮かぶ。

    「上にへ~こら、下においコラ!」がダメ管理職の典型だが、彼にそれはない。媚びるというより力で圧していくタイプだ。時価総額7000~8000億円企業のトップともなれば、上を制する迫力は必要であろう。今だからいうが、小学校時代の彼は不良になってもおかしくない感じをもっていた。悪事で警察沙汰という不良ではなく、周囲を圧倒する力を所有していた大将気質。

    趣味も趣向も違う彼となぜウマがあったのか不明だが、社会見学や行事などの写真には必ず彼と写っており、どちらともなく関心を抱いていた。「憎まれっ子世にはばかる」という慣用句は、まさに彼のための言葉に思えてならない。高2でクラス替えがあり、以後彼と会話する事はなかったが、大学卒業後に彼が現在の会社に入った事は友人から聞いていた。

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    トップになるような人間は、やはり普通の人間ではダメだ。普通でないとはどういうものだ?と言われると難しいが、小学生時の素行だけを見ていると、不良になってもオカシクない奴が中学~高校とよい風に変節したということ。「学問」にも目覚めたろうし、持ち前の度胸と行動力がプラスされれば充分ふつうを超えた人間だ。反面、不良に落ちていく人間も見た。

    思春期辺りから不良に堕ちていく人間の特徴は、勉強から逃げるタイプかもしれない。当時は学習塾のない時代だから、勉強の目的は上の学校を目指すとの目的意識がハッキリしていた。中学辺りから家庭学習をみっちりやらないと、高校で成績が上がらないし、大学も目指せない。ま、そういう時代であって、今のように勉強が嫌いでも大学行く(行かされる)などあり得ない。

    川崎市の多摩川河川敷で、中学1年の上村遼太くん(13)が殺害された事件はやるせない。不良の喧嘩ではなく、18歳が13歳に目くじらたてて殺害するというような事があっていいものか?33歳と38歳ならそれほど違う意識はないが、13歳と18歳というこの世代にあっては、大人と子どもくらいの差を感じるはず。誰でも思い出せば、中1からみて高3は別世界の人。

    逆に18歳からみれば13歳など鼻をタラしたガキであろう。そういう子どもを憎しみを込めて殺すという無慈悲さをどう理解すればいい。ちょいと反抗しただけで、「生意気な野郎だ」とか「ぶっ殺すぞ」とか、マジギレしたり、腹を立てたりというのは、18歳の側の情緒に問題がある。18歳の容疑者の父親が息子を庇うコメントをだしているが、それ自体は悪いことではない。

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    父「犯人には相応の罰を受けてほしいと思います。ただ、息子は上村くんの殺害とは無関係です」

    が、話の内容が、「うちの子に限って、まさか…」の域を出ていない。逮捕前に父は息子に確認したら、「自分は殺ったいない。無実だ」とそりゃあ、そういうだろうよ。だからといって、親子が真実を語っているわけではない。「私は息子を信じる」のはいい。信じると事実は無関係だから、じっと捜査の行方を見守って、事実が判明した上で所感を述べるべきだ。

    誰だって自分の子どもを信じたい、信じるだろうし、そんな言葉は出さずともいいのよ。世間へのアピールだろうが、捜査に影響しない。誰が見ても我が子を贔屓目に見るだろう親がアレコレいっても仕方あるまい。親の知らない真の息子の姿を知って驚く親は多いが、それは親の無知ということ。だから受け入れるしかない。自分の知る息子が本当の自分などあり得ない。

    「親は子に完全無知である」、そう考えて多角的に眺めておくことだ。「まさか」など思ってどうする?「まさか」よりも「もしや」という疑いが重要だ。子ども時代に親に本当のことを言った人間がいるか?それを思い出せ。子どもは人をいじめていても、いじめられていても、親にその事を隠す。なぜって、大人だって隠すだろう?そういう複雑心理が人間なのよ。

    親は子どもにとって、もっとも近いようで、実はもっとも遠い存在だったりする。親子は対等ではないし、だから親に弱みを知られるのは嫌なのだ。逆にも言える。親だって子どもに弱みを知られたくないだろう?お互いが弱みを晒せる対等な関係ではないのよ。もし、親が本気で「子どもには何でも相談して欲しい」と願うなら、親も子どもに自分の悩みを相談することだ。

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    相談されても答えられない。それでいいのだよ。相談というより親が弱みを見せれば子どもも見せるだろう。それなら親子は何でも言い合える関係になろう。いじめられてることも、いじめてることも、親にも知られたくないのは、知ってもらうメリットがないからだ。いじめを受けてる子が親に言って解決すると思っていない。子ども世界では親を出すのは卑怯なりの部分がある。

    だから、親にいうと仕返しがくる。「ちくった」ということになり、さらに陰険な精神的に耐えがたきいじめに移行する。追い詰められた子どもは死ぬしかなくなる。大人が子ども同士のいじめを、何の問題なく解決するのは難しい。上村遼太くんは18歳の少年に暴行を受け、警察沙汰になった時でさえ、「もう仲直りしたので大丈夫」と警察に説明している。

    親はおろか、犯罪を未然に防止する警察にさえウソの供述をするのが子どもの世界。また、上村くんを助けようと、上村くんの友だち有志数人が、18歳の少年宅に謝罪を求めて押しかけたという。この義憤が仇になって、上村くんは仕返しをされたのだ。こういう状況を考えると、上村くんを18歳の少年から引き離す方法はなかったのではないか?何という虚しさであろう。

    笑顔のかわいい上村くんだが、彼の笑顔の裏にある苦しみやSOSを、いったいどの大人が受け止め(警察もふくめた)解決できたのだろうか?なんとも虚しさだけが漂う事件である。解決できないから犯罪は起こる、起こった犯罪者を収監して閉じ込めておかない限り解決できないとするなら、人智を超えた解決法をなんとか思考し、最善策を見つける以外に手立てはない。

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    母「事件の日の夜、一度は外に出かけようとするのを止めることができたのだから、あのとき、もっともっと強く止めていれば、こんなことにはならなかったと、ずっと考えています。顔や体の酷い傷を見て、どれほど怖かっただろうか、どれほど痛かったかと思うと涙が止まりません。」

    母親の言葉は今となっては虚しいが、子育てというのは"力仕事"でもある。「あのとき強く止めていれば…」、確かにそうだろう。が、それで遼太くんの死が防げたか?別の日に同じ事になったかもしれない。母親の後悔は事件をその日、その時間に限定したもの。そうではなく、もっと以前から、遼太くんへの感応・対応がなされていなければ、あの日の外出は止められない。

    躾は生半可なものではなく、体を張るパワーがいる。だから"力仕事"なのだ。結果がすべてであり、あの時○○したら…という後悔は、やはりパワーが希薄だったのだ。遼太くんが学校に行くより前に母親が出勤し、遅い時間に帰宅するので子どもの把握ができなかったのは事実であろうが、これを母子家庭の悲劇とくくるのは、他の母子家庭の手前もある。

    さまざまな母がいて、さまざまな子がいて、さまざまな環境があるからして、母子家庭だのと、何かにくくるのは間違っている。最新の脳科学研究によって、思春期に不良になる原因が解明されてきた。思春期の不良化は、精神病になる一歩手前の状態で、ここで信頼できる友人や大人に恵まれず、十分なケアが行われないと、依存などに悪化して行く。

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    犯人とされる18才の少年は遼太くんに依存し、遼太くんは当初不良仲間に依存した。お互いがいかんともし難い孤独感に悩み、苦しんでいたのだろう。孤独や孤の要因は、親の愛を実感しなかったと推察するが、淋しさを紛らわすために、打ち込む何かを見つけられないのも不幸である。「すべての犯罪は人間が孤独でいられないところから起こる」といわれる。

    今、遼太くんの母親の後悔は分るし、想定外の大事が起こったといえなくもない。自分が「あり得ない」の言葉が嫌いなのは、ほとんどの事は「あり得るべくして起こる」の考えに立つ。「結果」には必ず「原因」があると、そのことを頭において常々親は危機感を持って子どもに接するしかない。



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    愚痴を言わない、言い訳しないことで人は強くなれる。強くなるとはすべてを背負うということ。他人のせいにしない強さ。悪事をするなら覚悟を持ってするという強さ。露呈したら逃げずに責任を取る。それが強さの看板だが、女には向かない。女は愚痴と言い訳の動物である。巷に聞く女の愚痴は、夫は構ってくれないし、子どもも巣立って淋しいなどという。

    なって見なければ分らない女の情緒だ。男にもいないわけではない。愚痴や言い分けを、牛のよだれのごとくたらたらいう男は、見ていて(聞いていて)気分が悪い。そばにいれば決まっていう言葉は、「男が言い訳なんかするなよ」である。女はいいのか?いい悪いを置いて、そういうものだと思うから腹もたたない。女の愚痴は聞いてはいないが、耳に馴染んでいる。

    男の愚痴はなぜ戒められるのか?前にも書いたが、愚痴は物事を解決するものではないし、愚痴で物事が解決したためしがない。愚痴の字を愚者・痴者とすれば人間の愚かさの代表格とまで自分は思っている。確かに愚痴は建設的でないし、聞く側も疲れるから他人にも迷惑である。「ねえ、愚痴を聞いてくれない?」、「いいよ、聞いてあげる」と女同士が言い合っている。

    もし男が、「ちょっと愚痴を聞いてくれないか?」と言えば、「聞きたくない、愚痴なんか。壁に向かっていってろ」というセリフを何度いったことか。女は愚痴を聞いてくれる彼氏(夫)はやさしいというが、そんなには自分の都合で言ってるだけだ。愚痴を聞く男はやさしいとどこの辞書に書いてある?まあこのように、女は自分の都合で人の良し悪しを決めるもの。

    黙って聞けと言われれば聞くし、聞いた事は腐るほどある。が、聞いてどうするも何もない。相手は「愚痴を聞いてもらってスカッとした」などという。そんなものか?そんなものみたいだ。なぜ、愚痴を聞いてもらうとスカッとするのだろう?想像するに、心に溜まった鬱憤を吐き出せるからだろう。溜まったウンチを出してスッキリしたのと同じことかと想像する。

    同じ糞でも鬱憤である。糞は一人でするが、鬱憤はどうしても相手が必要のようだ。行為と言語の違いだろう。言葉は人に発しなければ独り言になる。独り言で鬱憤が解決できるとは思わない。だから人の迷惑を考えずにだれかれ捕まえては愚痴を言う。女でも愚痴を聞かされるのは息苦しい、心苦しい、それでも愚痴を言われるとこぼす人、ネットの書き込みは結構ある。

    そういう人も、ネットにそう書いて鬱憤を晴らしているという、その構図が面白い。「愚痴は言うまい、聞くまい」というスローガンなども目にするが、「立ち小便禁止」と同じで、そんなもの何の役にもたっていない。「愚痴がなぜそんなに悪いの~!」なども結構言われもし、耳にもしたが、言いたいものは拒否されると困るのだろう。だからそのように言う。

    愚痴がなぜよくないかを考えようとしないのが愚痴好きであろう。人は自分のしたいことの反証を考えないものだ。言い換えると、人は自分の行為を正当化したいものである。愚痴を言うだけ言った後に、「愚痴は本当はよくないんだけどね」という人もいる。これに似た言い方は多い。子どものためによくないと知ってやる事を後で、「親バカなんだよ」も同じ。

    何でも人のせいにする親を見てると、自然に子どももそうなる。学校でも「ぼくは悪くない。誰かがなんとかするべきだ」と考えてしまう。自分に罪はない、自分以外のものが悪い。学校のせい、先生のせい、友だちのせい、とにかく何でも自分以外の責任にしてしまう。たとえ自分に責任があっても他人の責任にしようとする。そういう大人は結構いるから注意だ。

    こういう人間は、また平気で嘘をつく。先日「セビロ屋」で体験したばかりだが、おそらく親が、「しょうがなかった、お前のせいじゃない。悪いのは先生だ」などという家庭のように思う。親は子どもを慰めてつもりだろうが、これでは子どもを嘘つきに仕立て上げるようなもの。「責任逃れ」と言うのはよくないが、現実に心弱き人は責任逃れをするものだ。

    「責任逃れ」に関していえば、言葉は非常に便利だ。「責任逃れ」の言葉もあるが、「責任を取る」と言葉は簡単に言えてしまう。口に出して言ったからには責任をとるのかといえば、結局口だけ。人間は言葉の動物だから、自分にとって都合のよい、様々な言葉の用法を編み出している。哲学者や偉人・賢人は、そういった人間による言葉のまやかしを戒めている。

    「美言は真ならず、真言は美ならず」
    「言葉は我々の無知を覆い隠す曇硝子である」

    いくらでもあるのでやめておくが、こういう言葉があるにも関わらず女性は美しい言葉に騙されてしまう。言葉が悪いのではなく言葉に美意識を感じて反応する己の心に問題がある。問題があるといっては御幣がある。美しい言葉と普通の言葉と汚い言葉があれば誰だって美しい言葉をいいと思うだけのこと。美しい言葉を吐かれると、自分が美しくなった気がするのだろう。

    「民子さんは、まるで野ぎくのような人だ」というのと、「民子さんは、まるで野ぐそのような人だ」では、どっちについて行きたくなる?これはまあ、冗談半分の極端な例だが、言葉で女性を口説く場合は真実より脚色がいいのはあたりまえのこと。ブサイクな女に、「あなたは何てブサイクな人だ、ボクはブサイクな女性が好きなんです」で喜ぶ女がいるはずがない。

    ではブサイクな女を「美しい」と嘘をいっていいのか?ダメに決まっている。そんな言葉は嫌味に取られて返って逆効果。それではなんて言えばいい?形容するのが難しい人に形容詞は使うべきでない。率直に「ボクはあなたが好きだ」でいい。なんでもカンでもシェークスピア劇のようにやる必要はない。ブサイクな女でも性格が可愛ければ、すべてが可愛いと思えばいい。

    そうしたら、本当に容姿も可愛く思えるし、「君は可愛い」は、何が可愛いかを特定していないけれど、相手にいろいろ含みを持たせることになる。作った虚言はなかなか伝わらないが、ブサイクを本当に可愛いと思ったら案外伝わるもので、発する言葉や顔が真実に溢れているのだろう。自分には見えずとも相手には見えるのだろう。このブログでは頻繁に愚痴を戒めている。

    自分は愚痴が大嫌いなのは、母が毎日愚痴を言い続けていたのも大きな理由かも…。母の愚痴にはうんざりだった。それから思うに、愚痴をいう性格はまずは小心者であろう。次に、見栄っ張り、次に悪口大好き人間、次にジコチュウ人間…。とここまで言うと言い過ぎか?専門的かどうかは分らないが、愚痴をいう心理として以下の3つが提示されている。

     (1)相手から「ストローク」を受けることで、欲求を満たせる
      (2)感情を打ち明けることで気持ちが楽になる「カタルシス(浄化)」が得られる
      (3)ひとに話すことで、自分の頭のなかが整理できる


    「ストローク」とは、人間はいつも誰かに「自分の存在を認めてほしい」と思っている。心の奥底で、「わたしのことを理解して」って望んでいる。心理学では、そういった心の動きを「ストローク」と呼ぶ。これを軸とし、愚痴にはその他の欲求も叶えるメリットがあるから、思わず愚痴ってしまう。これは解毒の一種であり、自分の心に向き合えば愚痴は言わないで済む。


    女優三船美佳(32)が、高橋ジョージ(56)に離婚を求めた裁判の第1回口頭弁論が3日、東京家裁で行われた。ジョージは出廷したが、三船は代理人弁護士が出席した。三船が出廷しなかったことには「都合でしょうから」と理解を示すも、「彼女はインタビュー(1月17日の記者会見)の中で、何回も(離婚の話し合いの)場を設けているって言っていますけど、それは嘘です」という。

    そうして、「不可能に近くても、不可能ではない。(三船と)2人で幸せになる道を探したい。戻れる可能性はあると思っている。僕は最後まで努力するつもりです」とし、三船には、「じっくり時間をかけて療養というか、気持ちを整理していただきたい。最高に愛しています」と彼女への思いを語るが、自分が聞くに、これはもう袖にされた男の悲しい愚痴であろう。

    大体において未練がましいのは男であり、女が気持ちが冷めたらテコでも動かないのを高橋の年代として知らないはずはない。それでもこのような言葉をマスコミに言わなければならない情けなさ、覚悟のなさは気の毒と言うしかない。さっさと諦めて20歳前のファンの女の子を見つけ、また調教した方がいい。が、おっとどっこい今時の20歳なら、逆に調教されるかもだ。

    男の醜態は見たくないが、これは彼自身の問題だ。世間の冷ややかな目にもこうしてプライドを捨てて三船にエールを送っている彼の実の性格がよく分る。女は環境に順応しやすいが、男はなぜこうも未練たらたらなのか?従来、女は弱いといわれてきた。この弱さというのは積極的な意味においての弱さである。言葉を変えると、何か事業を始めるとか、ひとつの仕事を成し遂げるとか。

    そういう意味(積極的)においての弱さである。反面、女は消極的な意味においては男より断然強いし、そういう消極的な意味においての強さが女の美徳であった。それを忍耐と表現してもいい。女は辛抱強い忍耐の持ち主であった。ところが、時代の変遷と社会変化によって、女の忍耐が美徳と言われない時代になった。そうして女は積極的な意味で強く、消極的な意味で弱くなった。

    女が堂々と男に愛を打ち明け、SEXを要求するなど、様々な面においてすこぶる積極的になったのが現代の女。それは家庭の維持にも現れている。家庭を作る能力と、家庭を維持する能力と言うのがある。前者を積極的な強さ、後者は消極的な強さとする。そう考えると女は家庭を維持する消極的強さが失われている昨今だ。辛抱しないでさっさと離婚する女性が増えたという。

    女性に耐えるという美学がなくなったのだろう。忍耐は昨今の女性にとって、美徳でもなんでなくなった。社会的抑圧からも解放されている現代女性が、離婚の多さに寄与している。日本のフェミニズムは責任をとらずに権利主張ばかりと書いたが、法律で男女平等になり、女性上位と言われながら、その実、女性は男の心を次第に失い出したと言う事もいえる。

    男の本質的性分は支配欲であるから、まあ、そのように育てられなかった脆弱男子はともかく、男の本能を失っていない男子なら自己主張、同権主義の強き女性には馴染めないだろう。以前にも言ったが、女性は可愛くあって、そのように男に愛され従属することで、逆に男を隷属させている。明晰な女性はそういう本能的資質を絶やさない。田嶋陽子の口癖はこうだ。

    「かわいかわいい、いいこいいこして、男に媚びてそれで家庭円満幸せだよーなんて、虫唾が走るよ。わたしはそんな女になんかなりたくない」。いいんじゃないか?そうなってるだろうし、だから寄ってくる男もいないし、一人で好き勝手できて幸せに生きている。だれが、田嶋陽子の生き方を批判するものがいよう。田嶋を見習うも批判もない、女性は独自で生きている。

    フェミニストの思いあがりで、「この指止~まれ!」と言っても誰も止まらない。最近はフェミニストの看板を下ろしているようだが、看板下ろしたところで男を卑下する姿勢は変わってない。男を必要とするから、男が女を必要とするのに、男を卑下して何で「田嶋さん、アイシテま~す」となろう。彼女はフェミニストの端くれとして一人で生きて見せればいい。

    田嶋の立派なところは、男がいないことの愚痴を言わないことだ。まあ、それを言っちゃ~フェミニストが廃る」というものだろう。男の前で可愛く振舞うことが、なぜ男に媚びていることになるのか、田嶋の言い分も分らなくもないが、あの面で男に媚びても不似合いだというのを自覚しているのだろう。フェミニストといえばブサイクが多いが、自己防御で男を排除しているのかも。

    引き合いの多いモテモテ女が、「男なんか毛虫同然で、キモ~い、いらな~い」とはなっていない。需要があれば必然、そのように生きるのだろう、それが自然というものだ。どうもフェミニストたちの動機に疑問が沸くのだが、男拒否の動機が、自分が求められないことの腹いせなどとは、死んでも言わないだろう。が、そのように感じる男は多い。ひょっとしたら同性にも?

    そういえば関西出身で美人フェミニストに遥洋子ってのがいる。この人はWikiにも年齢不詳ってあるが、まさかのアイドル気取りか?今どきのアイドルは年齢不詳も詐称もしない。情報化社会だし、偽ってもすぐにバレるのがおち。まあ、遥洋子が美人と言っても30年前の話しで、今はくたびれたフェミニストである。彼女の頭の程度もどうやらオカシイようだ。

    フェミニストってのは偏り思想だけに、大脳も偏ってしまうのか?彼女のバカっぷりは同性からの指摘も多く、同性に嫌われるような女ってのは確かに共通するものがある。いずれにしても遥洋子はべちゃくちゃうるさ過ぎ女。


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    ある奴があることを出来ないとき、どうしたらさせられるか、説得でなく本人が納得できるには、どういう言葉が適切であるか。そういうことをいろいろ考える事は多かった。本来は本人が考えるべきことだが、行動しない(出来ない)人間は、「行動できない」というが、「できない」は「しない」であり、しない人間は「すべき」の思考がなされないというのが自分の結論である。

    友人と膝を突き合わせ、朝まで語り合うこともあった。なんでそこまで…、相手が友人であるからである。友人の利益になることを考え、言ってやるのは友人の義務であろう。物質的利益、精神的利益のためだけに人は生きていないところが、人の人たる不思議なところ。人は自分に損害になることであっても、立ち上がらないことは多く、理由も分っている。

    人が自ら行動するのは大変なのよ。だから、人にいわれてしぶしぶやる事が多い。禁酒や禁煙、薬物治療も自主的にやれる人間は、相当の意思の強さがいる。意思に委ねるか、医師にに委ねるか、後者の方が楽だろう。それでも医師の指示に従わぬ人間は多い。行動できない人間は「すべき」の思考がなされてないといったが、「してはいけない」、「すべきでない」思考も同じこと。

    勉強しない人間の多くは、「勉強が嫌い」と言うのが大きな理由だが、「勉強なんかして何になる?」というのを自己正当化として隠し持っている。例えば、社会的に高い地位や、それに類する職業につくためには勉強しなければならず、そういう思考を持って勉強をするわけだ。思考ナシにするはずがない。やらずして逃げる人間も同じこと。「やったからといって○○なれる保証はない」と言う。

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    そんな当たり前のことをいうか?保証なんか誰にもないに決まってる。保証があることなら「やる」、ないことは「やらない」なんかバカの戯言だろ。そういう言葉に耳を貸すものはいないのに、何事もやらない人間はそのように言って逃げる。逃げるというのは不安というプレッシャーを避け、楽に生きようとする。誰も人の生き方に文句も苦言も必要ない。自分の人生は自分で決めたらいい。

    ところが、行動することで起こり得る失敗を極度に怖がったりする人間は、そういう自らの心理を覆い隠すことで、「何かをやっても実らない」とネガティブな結果を出す。失敗が先行するので行動を怖れる。そういう結果重視の人間にはプロセスの重要さを気づかせてやりたいし、それが友だちである。どうでもいい人間に、そんなことをするのは相手も迷惑である。

    相手の迷惑を考えるのは友だちでないということだ。ニーチェは「友人には柔らかいベッドになるのではなく、寝心地の悪い堅いベッドになれ」といった。相手を癒すのも友だちなら、苦いことをいうのも友だちだ。時々で対処すべきであろう。過去を思い出せばいろんなことがあった。いろんな相談も受けた。解決に到ったことも多いが何ら解決できないこともあった。上手く行く事も行かないこともある。

    勝負というのは勝ったり負けたりをいう。勝ち続けるならそれは勝負ではない。なのに、「勝ち組」だの、「負け組」だのと枠に嵌めるバカがいる。そんな言葉、あるわけないだるろうに。流行語に敏感で、すぐにそんな言葉を使う奴は多い。「温度差」が流行ればすぐに使ったりするが、自分の言葉で話せないんか?大衆迎合派というのか、流行言葉など恥ずかしくて使う気にならない。

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    使うといいかな?と思う場面もなくはないが、拒否反応の方が強い。「ジコチュウ」という言葉が生まれる以前は、「自己中心」であった。「ジコチュウ」は、「自己中心」を単に縮めたもので抵抗なく使っている。「ジコチュウ」は「ワガママ」とニュアンスは違う。「ワガママ」はどちらかと言うと「自分勝手」に近い。「ジコチュウ」は自分の立場ばかり見て、他人の立場を見ないろいう視野の問題に思える。

    こういう言葉が多く使われる昨今は、以前に比べて他者軽視・軽蔑をいとも簡単にするようになったのだろう。そんな他者との関係の捉え方が、自分自身の捕らえ方にも影響を及ぼすまでになっている。他者を見下したり、軽視することで、無意識に自分の価値や能力に対する評価を高めようとする人間の多いこと。巷で言われる「負け組」になりそうな人が、社会を生き抜くためにも必須の所持品だ。

    他者を低く見ることで自身の評価を吊り上げる人間に出会う事が多くなった。自分の過去の経験には何ら左右されない思い込みの自己評価であるのを本人たちは分っていない。他人をカスといえば自分がカスでないという単純な論理。他人をバカと言う事で自分がバカでないを逃れている言い方であろう。自分も他人に対して「バカ」という言葉を多用するが、そういう意識で使う事はない。

    目も当てられない「バカ」に、手っ取り早いので「バカ」という。説明する事もあるが、目も当てられない「バカ」に、説明は不要のことが多い。自身の自尊感情をひけらかすために他人を「バカ」という人間はよく分るし、あまりいい気持ちはしない。人によっては「人が人をバカということ自体がいい気持ちがしない」という人もいる。そういう人のために説明は必要だろう。

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    が、そう堅いことをいいなさんな。善人面もしなくていい。賢いという言葉の対語として馬鹿があるわけで、バカは人の状態であもあるが、人に向けていう言葉でもある。また、バカがバカに向けて「バカ」という事もあるので、そんなに目くじらたてることもないのよ。関西には似た言葉(似て非也ともいう)で、「アホ、ちゃうか?」というのがあるが、どうもこの「アホ」というのは親しみこもった言葉らしい。

    関西人でないからよくわからないが、関西人はそのように使っている。したがって、自分などは正しい「アホ、ちゃうか?」は使えないので、使った事もないが、そういう関西人でも関東や他の地域では「アホ、ちゃうか?」は使えないという。やはり双方が関西人であることが必須のようだ。自分を卑下する言葉を「自虐的」と表現する事がある。「腐女子」などはその好例だろう。正に腐った女の意味。

    自身を「腐女子」、「おバカ」というのがカワイイという時代らしいが、それだけではない。自らのことを腐女子と表現する背景には、相手から「腐ったような女子」といわれる前に、自分から表明して侮蔑を回避するという「居直りのレトリック」であろう。そこまで考えていない、といってもそれが無意識の心理学だ。自らを「負け犬」、「負け組」と呼ぶ女性は増加した。

    イメージ 4人から何かをいわれて傷つく前の予防線と理解すれば、弱い人間なんてそんなものだろ。だから、そのこと自体、責められない。自らを心から「カス」だの「バカ」だの言う人間は、自尊感情を有する人間としてはあり得ない。自らを「賢い」、「偉い」、「有能」などという必要がないとどうように自らを「カス」は必要ない。すべては相手が判断することだ。
    人間は多面的であるから、ある一部分が劣性であるからとすべてがダメな事はない。自分がフェミニストの極端な言葉を「バカ」というのはその点をいうだけで、人間性を否定しているのではないが、近年の若者傾向は、自己の「仮想的有能感」が強いだけに、他人においても「一事が万事」的な視点が増殖しつつある。他人を見下さなければ生きていけない時代なのだろうか。

    自分に自信のある人間は、他人を見下げなくても問題なく生きていけるが、我々の世代人には分らない、殺伐とした世知辛い世の中なのかも知れない。「子どもたちの感情はどのように変化してきたか―教師の目から見た特徴―」(名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要、心理発達科学)の資料によると、近年の子どもたちの感情は著しく変節しているという。

    「怒り」、「悲しみ」、「喜び」、「恐れ」、「驚き」、「面白さ」という項目に関して、昔の子どもと今の子どもと、どのようにその感情をもっているかについての調査・研究だが、「怒り」に関しては今の子どもは20~30年前に比べて増大・表出も多くなった。他方、「悲しみ、「喜び」、「恐れ」、「驚き」、「面白さ」に関しては昔よりも感じやすさが後退し、表出も少ない。

    つまり、「今の子どもはすぐに怒る」である。まら、「むかつく」、「最悪だ~」、「サイテー」などの言葉で怒りの心情を表現するというが、昔の子どもはそういう言葉もなく、怒りは内に閉じ込めていたものだ。研究分析によると、今の子どもは「自己中心」でありたい、「王様気質の子どもの増加」、「情緒が不安定」、「我慢ができない」、「忍耐力がない」となる。

    セルフコントロールができていないようだが、何故にそうなのか?感情自体の現象なのか、感じてはいても表出しないで抑制なのか、そこは定かではない。前者は明らかに社会動向に対する変節で、後者は子どもが素直さを失いつつある。昔の子どもは「素直だね」と言われて喜んだが、今の子どもは「素直」を評価ととらない。「素直じゃないです」反発する。

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    世俗社会はもはや平成生まれによって動いている。昭和20年代生まれの我々にとって、圧倒的に手に届かないところで動いている。だから、我々は若い人と率先して言葉を交えていく必要があるが、そこに断絶があるのではなく、若い人は若い人の中にある自分と言う意識で発言し、行動する。それが我々にとって異質に感じられるのだろう。となると…

    我々は若い世代に何を発言すればいいのか、そこが見えない。見えないと言うのは答えを模索しているというのでもない。人はその時代を生きるし、その時代しか生きていけないのだろう。我々の青春は、ああいう時代であったから、あのように生きて来たのだ。それでもあの時代に、大人と我々には確執があった。大きな価値観のズレがあった。それは今も同じだろう。

    世代観格差というのは当たり前に存在し、それをいち早く体験するのが親子だろう。どう考えても20~30の開きがあるのが親子である。が、同じ家庭に同居することで、子どもは生まれながらにして親の価値観に染まって行く部分はある。順応する部分もあるが、自我形成は反抗期という形で現れる。子どもは同じ世代の子どもたちの中で生きているので、そちらの価値観の影響を大きく受ける。

    子どもが友人から受ける影響と、親から受ける影響の質差は、思春期時期に顕著に現れる。この時期に親がどう対処するかが親の試練で、親の資質のあり方であろう。ほとんどの親が間違いを起こすが、取り返しのつかない間違いを起こす親が問題であろう。親の必需品である、「自分たちの子どもの頃は○○だった」この言葉、この考えに固執すると危ない。

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    子どもは自生まれてない時代を知らない。「今いくよくるよ」が美人だった時代を知るはずがない。昔と今を生きているのは親だけ。そう考えると、子どもたちの時代をしっかり学ぶのは親の方で、学んで今の時代に対処するのが正しい親である。学ぶのが面倒臭いなら、昔のことを基準に今の時代を考えない事だ。それはボブ・ディランの歌詞に現れている。


    The Times They Are A-Changin'」 (時代は変わる) 

    Come mothers and fathers
    Throughout the land
    And don't criticize
    What you can't understand
    Your sons and your daughters
    Are beyond your command
    Your old road is
    Rapidly agin'.
    Please get out of the new one
    If you can't lend your hand
    For the times they are a-changin'.


    (和訳)
    いいか、国中のお父さんお母さんたちよ
    じぶんが理解できないことを批判するな
    あんたらの息子や娘たちはもう
    あんたらの言うとおりには、ならないんだ
    あんたらの来た道はどんどん古びている
    もし、若い奴らに手を貸せないのなら
    せめて奴らのジャマはするな
    時代はいま変わっているから

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    親子関係に先験的に愛はない。もし親子にも先験的な愛があるなら、どうして惨めな親子関係があるだろう。親子の愛は育てていくものだ。親が主で子どもが従の時代もあるが、そんな親子といえども、子どもが成長し、成人すれば人間関係でしかない。互いが尊敬しあうことによって存続するもの。夫婦関係にしたって、互いに尊敬がなくなったらそれは形の上だけの夫婦。

    親が子どもに「善」を教えるのは難しい。「悪」を子どもに教える親はいないが、親の日々の言動から子は善も悪も学んでいる。子どもの人間関係の問題に親が影響を与えるのはさらに難しい。家の中ではよい子が、外ではまるで別人であったりする。本当は別人なんかではなく、同じ子どもだが、親が子どものことに無知であると言う現実がこれだ。

    「神戸連続児童殺傷事件」も、「大津市中2いじめ自殺事件」も、「佐世保女子高生殺害事件」も、その他多くの少年事件の子どもは、家では"借りてきた猫"のような子どものケースも多い。「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」、「秋葉原通り魔事件」、「附属池田小事件」は少年事件ではないが、起こってみれば親はただただ驚き、腰を抜かす。家族で自殺者も出る。

    ゲーテの『ライネッケ狐物語』は、森の王様ライオンは正義を愛し、慈悲に富み、おかげで森の生活を他の動物も楽しんでいた。ところが悪賢いライネッケという狐が、ライオンの忠実な家臣である動物を、悪意があると嘘の密告をしてライオンに殺させた。最後にはライオンまで殺して自分が森の王様になるという、「悪人栄えて善人滅ぶ」話。こういう話はできるなら子どもに聞かせたくない。

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    子どもに聞かせたくない話として本当に避けるべきなのか?臭い物に蓋で、済ませたい親はいるが、それで済ませられるのか?ならば現実にどう向き合い、どう子どもに教え、どう友人に教えていくのか…。そのためには深い考察と知識も必要となる。これについてはルネサンスの思想家マキャベリが、著書『君主論』の中で以下のように述べている。

    「狐とライオンの二役を演じることだ。善人で慈悲深いライオンは、であるがゆえに罠にかかるし、狐はどうしても狼に食われざるを得ないので、狐として罠を見抜き、ライオンになって狼の度肝を抜くことが必要となる。マキャベリは「清濁併せ呑む」重要さを説いている。善人だけで生きてはいけない。悪の素養も必要となる。善人は騙されてばかりであり、それをバカといわれても仕方がない。



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