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「正当化」の論拠

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12月27日の記事の続編を書く。正当性の根拠を倫理に求めないならどこに求める?宗教の場合もあるが、自己正当化を理屈や詭弁に求めるなどは除外するとして、何を正当化の根拠とするかは難しい。死刑という刑罰においても、死刑の法的正当化根拠を論じる記述を目にするが、死刑の存置・廃止論と共に、こうした論考を踏まえて更に思索を深める必要がありそうだ。

アムネスティが死刑反対の理由として、①死刑は「生きる権利」を侵害する残虐で非人道的な刑罰である。②罪のない人を処刑する危険性は決して排除できない。③死刑になるのは、どこの国でも貧困層やマイノリティなど、社会的弱者に偏っている。④死刑は政治的弾圧の道具として、政敵を永久に沈黙させたり、政治的に「厄介な」個人を抹殺する手段とされてきた。

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こうした考えに異論を持つ側の理由として例えば、「死刑は『生きる権利』を侵害する、残虐かつ非人道的な刑罰か」に説得力はあるのか?この主張には、殺人犯人に、「生きる権利」があることが自明のごとき前提されている。すべての人間に生きる権利があるのは当然である。しかし、他人を殺害した者に、「生きる権利」が当然にあるかは自明とはいえない。その理由は?

人間は生まれながらにして様々の権利を有しているが、同様に生まれながらの諸権利を有す他人の権利を侵害した場合、侵害者から一定の権利が奪われることは一般に承認されている。契約違反や不法行為で他人の財産権を侵害すれば、自分の財産権を奪われることとなる。犯罪を侵せば犯罪に見合った刑罰が科せられ、その結果、犯人の自由権や財産権が奪われる。

にも関わらず何故、「生きる権利」だけは何をしても奪われることがないのか?これらは死刑反対論者の独自の見解であって、すべての人に受け入れられる真理とはならない。ルソーは『社会契約論』の中で、人間が生来自由であることを仮定としながら、人間にはそのような自由がないと考えるなら、自由になるためには何らかの方法で社会を正しくする必要性があるという。

それが、「社会秩序は他の一切の権利と基礎となる神聖な権利である」という言葉を生んだ。社会秩序を維持するためには、「他人からの不侵害の約束を得られるためには、先ず自己の側から凡ての他人の生命や自由・幸福を尊重し侵害しない旨の約束と、この約束の遵守を有効に担保する方法とを提供せねばならない」と述べている。分かり易くいうえばこういうこと。

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「人は殺人の犠牲者とならないために、自分が殺人犯となった場合、主体性をもって死ぬことに同意するとして死刑を肯定する」という契約であるが、こんにちの社会ではより実質的に、「生命の尊重、範を垂れるべき国家が意図的な殺人(死刑)を行うべきではない」などの理由があげられ、これが死刑廃止論の根幹となっているが、これには当然にして反論の狼煙があがる。

なんの罪もない者を殺人被害から守り、真の生命尊重のためにこそ死刑は必要であり、被害者や被害者遺族の感情は尊重されるべきである。法解釈は人倫的な判断からも検討されるが、理性的判断の正当性・合理性というのは、人間の思考が多岐に及ぶ以上至難である。NHKの受信料に対する最高裁の判断であれ、どこに正当性や合理性を求めるかによって変わってくる。

選択可能なのはAとBという二つの行為しかなく、AをしなければBを、BをしなければAを行為する状況にあり、しかも、そのどちらを選んでも、「これでよかったのだろうか」という疑問を拭いきれない場合がある。この場合、「Aが正しくBはまちがっている」と、「Bが正しくAはまちがっている」という倫理的判断のいずれも、妥当性があると割り切ることができない。
  

次の事例はどうか。 2014年1月31日、堺市堺区の民家で住民の小笠原亘世(のぶよ)さん(80)が死亡していた事件で、大阪府警は1日、夫の康雄容疑者(85)を殺人容疑で逮捕した。「妻が寝たきりでかわいそうになり、妻を殺して自分も死のうと思った」と述べた。康雄容疑者は同月30日未明、ベッドで寝ていた亘世さんの首を荷造り用ロープで絞めて殺害した。

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同日朝、亘世さんを介護していたヘルパーが、死亡した亘世さんと近くで手首や首に切り傷を負って倒れていた康雄容疑者を見つけて通報。同署は回復を待って逮捕した。亘世さんは足が不自由だったといい、康雄容疑者は、「今年に入って寝たきりの状態だった」と説明したという。介護の心労から殺人に及ぶ事件は少なくないが、人を殺す愛情も法治国家では殺人となる。

介護がいかに大変であるかは当事者にしか分からない。どう大変かを言葉でいうよりも、「人間がどうしても知っておくべきは、他人との関わりにおける自分の存在の限界」である。いかに誠心誠意のものであっても、そのことで自分が不自由になる。あえて言えば不幸にさえなる。それを愛などと簡単にいうが、自分の幸福を望めば相手は不幸に、相手を幸福にするなら自分は不幸になる。

こういうことは、別れたい女にしがみつかれた場合でさえ起こり得る。自分は自分を不幸にする女とに慈悲は抱かない。自分が不幸を感じて相手を幸福にできるハズがないからだ。相手は一緒にいるだけでいいなどといっても、人間の共存的幸福とはそんなものではない。男女において二人の愛し方、愛され方が一致したときに、人は恋愛のすばらしさを感じるだろう。

片側通行の恋愛などは相手の一方的な恋心でしかない。恋は一人でもできるが、恋愛は二人で行うものだ。本質的なことをいえば、恋愛の成就が結婚とは思わない。そもそも恋愛の成就ということが一体何なのか、それが分からない。なぜなら成就した恋愛がこれほどまでに破滅するのは、成就というのは一時の錯覚であり、それも含めて成就というなら認めないこともない。



作家の山本文緒が40歳前ころ、「愛の確実性は存在しないが、愛そのものは存在する。それが努力によって永続的にはなるが、瞬間的に存在する愛も愛である」と述べていた。永遠の愛などと浮いたことをいう女にあって、面白いことをいう女だと思った。確実と永遠とはまったく別のものなのに、人間の渇望から生まれた文学などのシナリオが、そういう錯覚に陥らせた。

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「私自身、それらを創作することで飯を食べているのだから、私も犯人の一人である」と彼女はいう。彼女の本を読みたいと思ったことはない。なぜなら、彼女の言うがごとく、虚偽の小説から感受性を養う年齢はとうに過ぎた。しかし山本文緒という女性は、ノンフィクションのジャンルながら、日常をリアルに描く力のある人かと、読んではないが彼女の言葉から感じた。

世の中には面白い人とそうでない人がいる。面白いの話の中味は率直であるのが多い。面白くない人の中味は美辞麗句であることが多い。少なくとも自分にはそう映る。文章を装飾するのは能力の一片であるが、美文と名文は違う。名文とは表現美の言語的分析のみならぬ情緒が織り込まれていなければならない。情緒を表現することの難しさからしてもそうであろう。

ヒステリー論考 ①

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ヒステリー女性については何度かここで記事にしてきたが、やはり男からみれば特異な女性にちがいない。そういう女性を親に持った子、妻に持った夫らは、その修羅場体験からして悲劇であろうが、恋人に持った彼氏は別れればいいわけで、悲劇というほどにはならない。もっとも今どきのヘタレな若者は、彼女怖さに別れたくとも別れられない。そんな男はいるかも…。

恐妻家を公言する夫がいる。キョーサイといえば「JA共済」くらいしか浮かばぬ自分。妻が怖い、女の何が怖いのかいまいち分からない。幼少期は母が怖く、小二くらいまでは怯えていた。が、小三になると、「クソババ~」とやり返した。以後、「おかあさん」と呼んだことはない。小三時のある事件を思い出す。事件というほどでもないが、教師が家に来たくらいだからそうともいえる。

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母の日に児童は10円の模造カーネーションを学校で買わされる。花の下の札には、「お母さんありがとう」と書いてあるやつ。誰も自分の小遣いでは買わず、親にお金をもらってくるのだろうが、なんとも歪なセレモニーであろう。これのどこが教育なのか?「ぼくは買わない」と拒否した。担任女教師になぜ?と聞かれ、「カネー、ション(損)する」といった。


正直な気持ちだったが教師は逆上した。さっそく自宅に飛んで来たが、今に思えば彼女もヒテリー気質だったようだ。親とどういう話をしたのかは知らないが、クラス50人の中で、自分だけが買わないといったこと、「カネー、ションする」といったことが、教師には問題児と映ったようだ。4月に3年生になったばかりで、「母の日」は5月、教師も自分を把握する前である。

母の日の造花カーネーションを買わないだけで問題児となった自分。担任とは2年間反りが合わず口も利かなかったが、露骨に妬まれ、事あるごとに、「特殊学級へ行け!」といわれた。特殊学級というのは知恵遅れ児童の教室で、どう考えてもまともな生徒が送られるところではないが、思慮ない女教師は爪を切らない自分にもこんな脅しをかける。「彫刻刀事件」もあった。

以後担任は自分を異端視し、彫刻刀で人を突いたとでっち上げられ、学年中で話題になるほどに肩身の狭い思いをした。補導担当教師に呼びつけられ、「監獄に行くか!」とまでいわれた。9歳児を脅したりすかしたりでどこが教育者であろう。後日談がある。次女が幼稚園に入園したが、この教師が園長だった。数十年ぶりに顔を合わせ、当時のことをありのままにいった。

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園長はそのことを記憶していないといったが、とぼけ方に嘘がみえた。とんでもない昔話を保護者から聞かされた園長、苦虫噛み潰した顔を作り笑いに変えるのがやっとである。「そんなことがありましたか」というが謝罪はない。自分の勢いからして園長は恨まれていると感じたはずだ。ここで会ったが百年目、いたいけで純真な子どもを愚弄した罰を受けよ。


教師に恨みを抱く生徒も少なからずいるのを思い知ったかどうかは分からぬが、それ以降は自分と目を合わさなかった。子どもに恨まれる教師などロクなものじゃない。いい大人が、それも教師が、「監獄に行くか?」である。きちんと調べもせず、予断と偏見で事態を大袈裟にしてそんな言葉まで吐くバカ教師、色メガネを外してしかと子どもに向き合えといっておく。

つくづく思う。大人ってのはバカだだなと。教師なんてのは世間知らずもいいところでか、バカの代名詞である。どうなんだろう?子どもは子ども時代に、大人は尊敬に値する素晴らしい人と思うのがいいのか、それとも自分の様に、大人ってホントにばかったれと思うのがいいのか?答えをいえば、単純な二者択一ではなく、正しく大人を捉えるならそれが勝る。

大人も子どもを正しく掴み取る必要がある。学年内に、「彫刻刀で人を刺した奴」という風評は子ども心に傷ついたが、そこで心が折れることはなく、「事実を知らぬ奴らが勝手なことをいっていやがる」と自らに言い聞かせていた。温室の中でぬくぬくと過保護に育つより、雨風に晒されて強く生き抜く方がどんだけ強くなるか。今にして思えばである。

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「若い時の苦労は買ってでもせよ!」昔の人は本当に良いことを言っている。さて本日はヒステリーについての記事であった。3、4年の担任教師もどちらかといえばその傾向はあったが、5、6年の教師はさらに度を越したヒステリー女であった。根鞭で背中を思い切り叩かれ、それ以後顔を見るのも嫌になった担任である。彼女も自分に嫌われていることへの反省はあったようだ。

卒業を前に謝罪をされたのには驚いた。彼女は2年間の総括をしたのだろう。そのことで気持ちは晴れ、数年後に自殺の報を聞いた時は、自宅に線香をあげに参じた自分。大人と子ども、親と子、教師と生徒、上司と部下、師と弟子。これらは権威的な関係だが、上位者が間違ったと思うなら、素直に率直に頭をさげて詫びることだ。さすれば水平の関係になる。

ヒステリー第一号は母親である。その以後は、数人の体験をした。台所から包丁を持ってきて、「刺すからね(自分を)」と脅した女、人が往来する路上に大の字に倒れ込んで、泣きながらごねた女、洋服の着替えを置いていた女の部屋に離別した後に取りに行ったら、「全部捨てた」といった女。病的なヒステリー症状はないが、始末に負えない振る舞いを見せる女。

ヒシテリーが起こる要因は、驚き、憤り、興奮、精神的ダメージなどによる精神的ショックのようだが、そうした原因に簡単に反応してヒステリーを起こす女もいれば、同じ要因はあっても容易には起こさないタイプがあるようだ。前者にはヒステリー体質といわれる遺伝的因子があるとされる。いわばヒステリーは先天的な要素をかなり含んでいるらしい。


もっともそればかりではなく、生活状態や環境がヒステリー発生に大きな影響を与えるのも否定はできない。が、幼児期にいたずらに精神を刺激したり過労させたりで、神経系統の抵抗力を弱めさせれば、後年にヒステリーの訴因となることは、精神医学で認められている。子どもは自然のままに素直に伸び伸びと育てるのが何よりだが、そうもいかない親の見栄もある。

いずれにしても感情が主要因であるなら、自制心の無い人に起こりやすいのと、自分の見解でいえば、自分は絶対に正しい、相手が悪くとも自分は悪くないと、非を認めない人に出やすい症状ではないか。今回、久々にヒステリーではと思う女性に出会った。例の45年前の彼女である。文面からは、明らかに異常と思しき感情的な言葉が乱立していた。

ヒステリー論考 ②

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この年になれば女性のヒステリーを間近に感じる付き合いはないが、らしきはかつてブログのコメントに数件あった。もはやヒステリー女とは縁がないと思いきや、45年前の彼女と再会で予期せぬヒステリー女を久々味わうことになる。これまでは日常生活の中でのヒステリー発露だったが、文明の進歩か近年は、文(メール)のやりとりから人間を実感できる時代である。

日本中どこであれ、北海道であれ沖縄であれ、定点が距離に関係なくリアルタイムに結ばれるのは電信の発明の賜物だが、そうはいっても長距離間のケーブルを設置する必要があった。そのケーブルを設置する手間を取っ払ったのがインターネット。語源は一般名詞の「インターネットワーク (internetwork)」で、コンピュータ同士を結んだ世界規模のネットワークを指す。

もともと inter とは中間とか間、相互といった意味を持ち、international なら国際、intercession なら仲介となる。したがって語源的には、ネットワークとネットワークをつなぐものが、インターネットである。この世界規模の通信網のおかげで、世界は物理的な距離がなくなってしまった。 かつて長距離市外電話は通話料が気になったが、現在はタダより安いものはない。

それゆえに遠方のヒステリー女を瞬時に体現できるという、皮肉もいえてしまう。本来ならわざわざ出かけて相手を目の前にしなければ味わえないことが、居ながらに椅子に腰をかけて味わえる。これも便利といえば便利、無用といえば無用、便利な文明社会は、また負の遺産といえなくもない。あらゆることにはあらゆる思考を嵌められるなら、人間は誰も「考える葦」となる。

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ノスタルジーを味わうことになったが、おかげでヒステリーという不快をも味わうことになる。いつも思うことだが、真実とは残酷である。夫や妻の浮気を知らぬでいるなら心は平安だが、真実を知ることでどちらも傷つく。浮気をする側が悪い、罪であるといったところで、罪の本質は露呈することだ。行為が罪だろうというが、露呈しない悪とされる行為は、「不道徳」である。

多くの人間は不道徳や人倫に反した行為の中で生きているが、露呈しないから悪人も善人とされている。これは仕方がない。人間は本当は悪人のくせに善人と思われたい生き物である。人間の最大の罪は人殺しであろうか?大方はそのようにいうだろう。そういう人間は、弱い立場に立って、他人から理不尽ないじめめ経験を受けたことのない、あるいはそうした想像力のない者である。

いじめで命を絶つ子の気持ちをどれだけ親身に共感をもって思考できるだろうか。「強者の論理」というのは、弱者を不在にする傲慢さで成り立っている。そういう人間には、弱い立場の人間が、あらん限りの言葉で罵倒され、いじめ抜かれることなど考えることもなかろう。「人殺しが最大の罪」というのは間違いではないが、人間はなんとも罪深き生き物である。

強い動物が弱い動物を殺すのは自ら生きていくための労力である。どれほどお腹を空かせていても、そうした労力をしないでいては餌にありつけないが、人間が人を殺す理由は、自ら生きるためではなかろう。食肉を餌とするも、人は人間を餌とはしていない。なのに、毎日毎日人が人を殺している。バカげた社会と思うが、実際にバカげているのは人間である。

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いつの間に大きな命題に向かってしまったが、今回の表題はヒステリーという小事であった。ヒステリー気質が殺人に及ぶこともあろうが、言葉であれ、文であれ、冷静さを欠いた女の感情暴走は仕方ないことか。圧倒的に女性に多いが、男にも小児にもないわけではない。過去のデータだが、ヒステリー患者10人に対する男の割合は、1~1.5人という数字を目にした。

政治家や識者の論戦において、抑えが効かず、ヒステリーもどき無様な醜態をさらしてしまうのが、男性ならヒステリーには見えぬが、女性ならもろにヒステリーに見えてしまうのは偏見もしくは先入観なのか?いや、熱くなった状況は同じでも男と女とではどこか違う。記憶を辿ってみるが、自分はこれまで男のヒステリーと思しき状況・状態に遭遇したことがあるか?

中1の時、何もいわずにいきなり近寄って来、ゆでだこのような真っ赤な顔でビンタを食わせた教師がいた。高1の入学式後の教室へ入る時間にワザと遅れて入ったところ、いきなり担任が真っ青な顔でビンタを食らった。思いつくのはこの二人で、どちらも教師である。かつて有名な兄弟漫画家に、山根赤鬼、山根青鬼というのがいたが、この教師はまさに青鬼、赤鬼だった。

中1の担任とはそれ以後口を利いた記憶がない。高1の担任はあっちがナツイてくるので、仕方なしに言葉をかわしたが、どちらも同程度に嫌いな教師だった。青ヤギさんなら可愛いが、赤鬼・青鬼教師などクソくらえ。政治家や識者の論戦を眺めながら、当然ながら当人は自分を観賞できないだろうから、その醜態は周囲は笑いの渦となるが一人芝居と思えば見苦しい。

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女性のヒステリーは物心ついたころから、母という身近な生きた標本があったせいか、見極めや鑑定はどうということはない。ヒステリーは病気に属すが、ヒステリー気質とは病気といわないまでも、病的エゴイズムであり、彼女たちは甚だ傲慢であったり、打算的であったりで、ひどいのは手に負えない。手に負えないから殴る蹴るでなく、ひたすらじっと耐える。

嵐が過ぎるのをひたすら耐える。父がそうしていたように…。下手に無用なことをいえば、火に油を注ぐようなもので、相手が冷静になるのを待つしかない。ヒステリー性向と思えるものにはさまざまあり、自分を実際以上に見せよう、披露しようとしてムキになるのもヒステリー性格と見る。これは幼児性格の延長で、大人による幼児的依存心の表れといえなくもない。

いい年とった大人だから、子どもと同じような物言いや行動は慎まなければならないと思いながらも、それが形を変えて噴出する。「慎まねば…」という理性のコントロールができない。予算委員会などにおけるの山尾志桜里のヒステリックな醜態は好例だ。彼女も自分は間違っていない、いつも正しい、己の非を認めないというのがいたるところに噴出するヒステリー気質。

純粋で正直な子どもは慎むことなく、「我」を出す。慎むことができない大人も子どもと同じことだが、子どもは許せても大人はダメだ。父は、「忍耐」と手書した文字をあるところに置いていた。母のような女といるなら、「忍」の一字であったのだろうか。父は自分の前で母の悪口など一言もいわなかった。が、母親は釣りの収穫がない時でさえ父を詰ったりした。

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ヒステリー論考 ③

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父があのような母を、「百年の不作」と思ったか否か分からぬが、母を見初めて伴侶としたのは父であって誰の責任ということでもない。その母の悪口を言うことは、自分(の選択)に文句をいうことになるが、知ってか知らでそういう人間は多い。夫の悪口言い放題の女にそのことを言ったことがある。彼女は、そんなこと言ったって最初に見極められないでしょ?」と返す。

これは正論か?出会って付き合ってるうちは見えない部分があるのは、おそらく1000人中1000人であるのは間違いない。「こんなハズではなかった」、「こんな相手とは思わなかった」となるだろう。が、そのように思うことや、後悔することと、誰かれ構わず相手を罵り、不満をぶつけることとは別では?悪口を言って後悔が消え去るものではないだろう。

そんな風にいえば、「いいのよ、別に。悪口・不満を言えばせいせいする」と、こんな言い方をする女は多い。「相手に聞いてもらえるだけで憂さ晴らしできる」ということのようで、それが分かるから友人たちが、「何でも言いなさいよ。聞いてあげるから」と気を利かせる。なぜ、愚痴や不満を吐き出せばせいせいするのだろうか?「ため込むから、鬱積するから」だろう。

ではなぜ、鬱積するとストレスになるのか?鬱積とは、「鬱」が積もると表記する。正確な意味を知らずとも字を見ただけでよくないことはわかる。人間が長期間にわたって感情を押し殺し続けると、身体的な不調や病気となって現れる。いや、これは人間以外の動物にもみられる。心の病が身体に影響を及ぼすのは心と体が密接な関係にあるというのが理解できる。

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WHO憲章には、「健全な肉体は健全な精神に宿る」である。人間関係が気まずくなるので口論を避けたい、自分も傷つきたくないし、相手も傷つけたくないからと、自分の感情を口にするのを我慢し、感情を押し殺すのは間違っている。であるが、人を捕まえて悪口で気分転換を図るのは情緒が成熟していない。したがって、そういう女性は思慮が浅いといっていいだろう。

陰口・悪口をいうなら、直接本人にいえばいいのよ。昨年の暮れにこういうことがあった。公民館で出会った将棋仲間のKさんとは互いに時間もあるし、平日でもやろうじゃないかとなって自宅へ誘った。棋力は6:4くらいで自分に分がある感じだが、いきなり3連敗したKさんは、熱くなったのだろう思わずこう言った。「家に呼ばれりゃ御祝儀というものもあろうし…」。

冗談半分とも本気半分とも、気づかせられないような言い方を人はする。本気で言えば大人げない、かといって冗談だけでは気が晴れないという人間心理のあやである。もとより負け惜しみや言い訳の多いKさんは、「体調が悪い」ならいつものことと気にもとめない。自分はKさんの御祝儀発言に言い返す。「体調のせいならいくらでもいっていいが、場所のせいするのはダメでしょ?」

これをいえば気まずくなるのは承知であるが、だからといって、相手の非礼を看過はできない。気まずくしたのはKさんであって、この人は自宅には呼べない人と判断した。Kさんは10歳も上の78歳で、だからどうということもないが、自分の言葉にKさんは情緒を見出し、「止めた、止めた。帰ります」と告げた。蒔いた種というのか、そういう言葉も彼の自尊心である。

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Kさんとは自宅で指さねばいいだけのこと、公民館でならわだかまりなく指せる自分である。が、以後Kさんは自分を避けている様子で、言葉を交わすこともなくなった。自ら墓穴を掘った状況であり、自分は別に気まずさを感じない。原因がハッキリしているからだ。確かに、Kさんの言葉を見逃すこともできた。「つまらんことをいう人だ」と見下げて反応しない方法もあった。

が、Kさんのその言葉で二度と自宅へ誘わないと決めた以上、惜別の気持ちを言ったまでで、自らに正直な選択でもある。人が人に何かを言う場合、相手の性格によって言い方は変わるものだから、Kさんを穏やかで好人物と感じるなら、先の言葉は100%冗談と受け取ったろう。「御祝儀といわれるなら、ずっと負けてもらっていいですよ」くらいの冗談も返せたはずだ。

自分にとってKさんは、言い訳と負け惜しみの多い、人間としてはしたない人との思いもあり、自分にとっては好人物といえる人ではない。が、そこは将棋というゲームのことゆえ、いちいち気にしても仕方がない。これまで将棋相手にはいろんな人間を経験している。対局中に圧倒的不利となり、「止めた」と駒を崩して立ち去った人、逃げ方を間違え、「そこは詰み」というと…

「だったら詰ませば?いちいち言わんでいい」といった人。善意といえば善意ともいえるが、善意が相手の自尊心を壊したことになる。こういう状況を、「善意も仇となる」というが、まさに人の世の難しさ。人の世の難しさを、かつては事前対応の難しさと考えていたが、ひと年とった後は、事後にどう対処するかに変わった。自分を嫌う人を避けないようになれた。

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それが、「〇〇さんはぼくの事嫌ってません?ぼくは嫌われても〇〇さんは嫌じゃない」などといえる。人を食った言い方でもあるが、好人物と思える人への御用達で、性根の悪い人にはすり寄らない。それが互いのためである。自分からみれば男にもヒステリー性格の人がいる。女のヒステリーに比べて対処がしやすいのは、黙って無視して近寄らなければ難はない。

男のヒステリーは放っておけること。そうすれば噛みついてくることもないが、女はその点、底意地が悪い。父が母の気分を害せぬよう耐えているのは子どもにも分かったが、何でガツンといわないのかという思いはあった。それなのに母は父の心を侵害させるようなことを平気でいう。相手が何もしないのを見越しているかのような、そうした言動は見ていて苛つくものだった。

何をいわれてもされてもだんまりを決め込む父の心境は、高校生当時の自分には理解できなかったが今ならよくわかる。この女は紛れもない、自分の選んだ女という理知と察する。言い訳の類を一切いわない人間の自己責任感、父のそういうところは頭が下がる。もっとも、自分は環境を選んで生れてきたわけではない。嫌で仕方のない母を選んで母にしたわけではない。

ゆえにか父と違って文句は許されようし、「親からの強制を義務と考える必要は子どもにはない」、というのは早い時期に本の中に見つけていた。親の言いつけをキチンと守る子が、「いいこ」であると世間の評価だが、大人の都合のよい論理である。バカな親、バカな大人にひれ伏す必要はないく、それがわかるということは、子どもがバカを超えているという自負でもある。

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どんな親にも迎合する子どもは、アイデンティティの放棄であり、「いいこ」神話は無視てしかりである。親に順応し、姑息に迎合する子どもは、子どもとして光り輝かない子どもであろう。子どもの人生はその子が決めればいいのであって、親が押し付ける幸福に寄りかかる必要は全然ない。そういう子は、「いいこ」を糧に楽をしたい子どもに見えてしまうのだ。

「小泉今日子」論 ①

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日曜日(といっても土曜の深夜)に記事を投じるのは調べたら昨年5月7日以来だった。日曜日は休稿日と決めている。特別な理由はなく、単にそう決めて守っているだけ。カントの朝の散歩ではないが、こうと決めたら厳格に守ってしまうところも自分の性格である。本記事は土曜の昼に書いたもので、月曜日に投じる予定だったが、書いたものなら載せようとの気になった。

カントが厳格に規則正しい生活をしたのは有名で、散歩以外にもチーズを常食とした。晩年はチーズの食べ過ぎで体調を崩し、医者に止められたがそれでも看護人に、チーズを懇願したという。確かにチーズは乳成分が濃縮されたもので栄養は豊富だ。特に少量で効率のよいカルシウムの摂取が期待できるので、散歩に必要な強い足腰と骨を作るにはうってつけの食材である。

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自分はチーズの常食はないが、リンゴとキウィは朝食時に摂っている。散歩というより、心肺機能の衰えをカバーするウォーキングは、晴天日には欠かさない。平均して2時間、体調のよい時は4時間のコースを歩く。カントは18世紀後半の人だが、当時のヨーロッパにおける平均寿命は35歳とあったが、彼は散歩とチーズと規則正しい生活のおかげか79歳まで生きながらえた。

カントの最後の言葉は、「Es ist gut」だった。英語表記だと「It's good」、日本語では、「これでいい」となる。広く知られている言葉で、最初に訳したのは誰なのか?気になるところだが、砂糖水で薄めたぶどう酒を飲んだ直後の言葉だから、「美味い」と訳すべきだったかもしれない。いずれにしてもカントの最後の言葉となったなら、「これでいい」はナイス訳である。

自分の最後の言葉は何であろうか。ま、何を言ったところで有名になることもないから、「はれほれひれはれ」とでも言ってみるか。誰も訳せないだろうし、臨終の場にいた子どもたちが、「父のあの言葉の意味はなんだろうか?」と永遠に考え続けられるような言葉がいいかも知れない。気取った言葉をいうよりも、解読不能な言葉が自分らしくてよいだろう。

昔から友人などには、「お前は枠に嵌られない人間だ」などといわれた。それに対して、「俺を嵌めようとしても枠が壊れる」などと返した。枠に嵌りたくない、嵌らないように生きる自分が枠に嵌められるハズもない。日増しに死に近づいているわけだが、死ぬ場面の実感はまだ湧かない。かつても今も、そしてこれからも、何となく通り過ぎていくだけの生である。

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「生きる」という前提が若い時に比べて多少は変わったろうか。それとも若い時分の生きる前提とは何だったのか?伴侶を見つけて世帯をもって子どもをもってというささやかな願いは一応は叶えられた。自己実現という大袈裟なものではないが、小さな自己実現は成し得ている。残された余生がどのように過ぎていくのか、大病や急死しない限りにおいては想像がつく。

股旅を旨として生きる木枯し紋次郎に、「あっしの旅は過ぎていくだけ、吹き抜けていくだけの旅でござんす」というセリフがある。その後で、「あっしには明日という日がねえんでござんす」といった。どういう意味かを考えてみるに、「明日がない」という生というものは、ひたすら現在に打ち込んでいるということか。それならそうした「生」もまんざらでもない。

現代人にとっての現在とは、バラバラに区切られて、関連のない一コマの時間にしか過ぎないのではないか。とかく世の中が複雑になりすぎている。何に対してどのように責任を感じ、また責任をとって生きていくべきなのか。我々の現在的な目的とは、何かを求めていきるという長期的なものではなく、極めて時間の短いものでしかない。そこで小泉今日子という女性について考える。

小泉今日子という女性は51歳である。キョンキョンなどといわれたアイドル時代もあったが、彼女にはミステリアスな魅力がある。聖子や明菜など、同時代のアイドルとは違って見え、彼女がアイドルを卒業して女優として活躍する頃になって、一段と感じられた。彼女のどことない落ち着きはらった雰囲気は、少し前の百恵、淳子、昌子の中三トリオでいえば、百恵であろう。

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山口百恵は堅実で真面目で保守的であるが、それにちょっぴり、「アク」を加味したのが小泉かも知れない。「アク」はまた、「悪」ともいえるところが、百恵と違って小泉には小悪魔的魅力がある。小泉は神奈川県厚木市、百恵は東京生まれだが育ったのが神奈川・横須賀市である。血液型は小泉がO型、百恵はA型、同じO型の自分は小泉に親近感を覚える。

百恵と小泉の共通点を探すのは大変だが、相違点は顕著に伺える。百恵は言動も雰囲気も自己抑制型で、彼女の基本コンセプトである、「芯の強さ」、「冷静さ」といったものを多くのファンは感じていた。ラストコンサートでマイクをそっとステージに置いて、カーテンコールを迎えたのはおそらく自発的というより、百恵のイメージに合わせたスタッフの演出であろう。

また百恵は、「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」の歌詞にちなんで、「それは何?」と聞かれて、「まごころ」と答えている。このあたりの自己抑制の半分は性格的なものかも知れない。かりにもし小泉が同じ質問を受けたら整然と、「まごころ」とは答えられず、ニコニコと思わせぶりな笑顔で対処するのではないか?と、これはあくまでも自分の想像だ。

「まごころ」と答えるようなカマトト的自己抑制は小泉には似合わない。百恵は清楚で冷たく暗い印象だが、他方小泉は、「元気印」の、「新人類」というコンセプトだったし、彼女の屈託のない笑顔は、そうした作られた営業イメージを跳ねのけていた。あえて共通点をいえば、私生活が貧しかったことだろう。百恵は母子家庭に育ち、家族を棄てた父を憎んで育った。

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彼女の自伝『蒼い時』によれば、父親の奥さんが家に乗り込んできたときの様子が書かれてもいるが、百恵は母親と妹を守るために懸命に働き、後年施設に入って老いた父と和解している。小泉は子どものころに父親の会社が倒産し、夜逃げ同然の経験がある。それで金銭感覚がシビアになり、アイドル時代に高収入を得ても不必要な出費はあまりしなかったという。

3姉妹の末っ子の小泉だが、中学時代は家庭の事情で父親と2人暮らしをしていたといっても、父子家庭ではない。百恵の息子は親の後を追うほどに成長したが、小泉と永瀬正敏の間に子どもは恵まれず、実質9年間の結婚生活だが、すれ違いの期間が多かったのでは?昨今、その小泉が何事かマスコミを賑わせている。何事かは不倫事だが、小泉のそれはこれまでとは事情が違っている。

「小泉今日子」論 ②

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まずはユーミンの言葉。「堂々と不倫宣言、すばらしいじゃないですか。小泉今日子さんらしいんじゃないですか?」。自分も同じ思いだった。「小泉さんらしい」については、ユーミンほどに自分は小泉を知らない。知らないまでもユーミンのいう、「小泉らしい」と一致するなら、知らない小泉のイメージは間違ってないということか?多くのファンも同じ思いだろう。

どことなく小泉はそうした芯の強さを持った女性で、こせこせとしていないという感じがある。父親との二人暮らしから影響を受けたのかどうかは分からないが、いい子ぶった自分を演じないところに男気質が見られる。「こせこせしたいいこより、堂々の悪者になった方がずっと楽」というのが、共感できる小泉流の生き方であり、実際にそのような言葉も述べている。

彼女は金銭感覚がシビアといわれるほどにしっかりとため込んでおり、「金持ち喧嘩せず」という強さも見受けられる。最近、「なぜ人は遂げられぬ恋に悲観的な見方をするのか?」と書いたが、出ては消え、消えては出てくる文春砲が暴いた不倫の数々だが、表沙汰になって消滅するのは、子どもの火遊び如きに過ぎない。それに比すれば小泉の恋は大人の恋であろう。

「自分が幸せになるなら他人が不幸になり、他人の幸せを望めば自分が不幸になる」という矛盾。この命題に答えを出すためには、小泉のような姿勢でなければならない。「人を不幸にしてまで自分が幸せになっていいのか?」この言葉は、妻子ある男を好きになった時の、親族や友人から投げかけられる言葉の類である。一見、正論如きに聞こえるがどうであろうか?

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これには「離婚は不幸」という定番思考が見える。夫婦が何のわだかまりもない状態で生活しているときに、突然夫が若い女性に入れ込み、熱をあげて家にも帰らなくなった。妻としてはまさに寝耳に水という状況で、突然現れた女性に憎しみを抱くのも無理もない。が、考えてみるに、その女性の存在のどこに罪がある?まるで女が夫を誘惑し、唆したかような被害意識を抱く妻。

夫が若い女性に走った妻がこんな風に言った。「上司だからつい断れない事情もあったのでしょうけど、妻子があることを知りながら、なぜそういう関係になるのか理解できません」。大人の色恋問題に口を出せるものはいないが、自分はこう答えてみた。「理解できないというなら、妻子がいるにも関わらず、独身女性にちょっかい出す夫は理解できるのか?」

唐突ないわれ方に返す言葉を失ったのか、まともな返答はできなかった。単純に憎しむ気持ちもわかるが、自分の都合のいいように考え、都合の悪いことを理解できないなどという前に、身近で寝食を共にする夫を理解できないで、それで女性をか?他人の道ならぬ恋を責める前に、配偶者としての責任を追及すべきである。女が女に嫉妬するのが感情論というなら、言葉はない。

起こったことにブツブツ文句をいい、浮気相手女性のところに押しかける妻もいるが、問題解決というより怒りの行動だろうが、こうした行動もヒステリー気質というしかない。解決を望むなら、ギャーギャー喚くよりも、冷静に事実を受け止めて行動するしかない。夫婦円満、家族を大事にする夫が、突然家庭を棄てるなどは稀で、そうであるなら魔が刺したというしかない。

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多くの男は、夫婦不満、家庭不満のなかにあっても、浮気もせずに嫁の機嫌・不機嫌にさらされ、上司の機嫌・不機嫌に喘ぎながらせっせと働き、心身疲労の末に帰路につく。山本文緒の『群青の夜の羽毛布』では、教師を妻に持つ夫の独白がある。外に若い女を作り、そこに妻と娘が押しかけて離別させられ、遂には家に火をつけて家庭を破壊しようとした夫である。


厳格な母の被害者は夫だけではなく、長女も飼いならされた犬だった。家に火をつけようとしたのは長女であって、想いを同じにする夫がそれに協力したまで…。幸か不幸か命を取り留めた後も、生きることを放棄して自宅の一室に引きこもり、廃人同様の生を送る夫がいう。「確かに家族から逃げていました、先生。妻は私のことを本当には愛してくれませんでしたからね。

誰も私を待っていない、あの坂の上の家…。帰らなきゃいけませんか?恋をしてはいけませんか?傷の癒えた彼女がいなくなったのも、すべてあいつらのせいなんです。あいつら…、妻と娘…」。家族の誰にも必要とされない夫のやり場のない虚脱感を描いている。そんな山本が生み出す想像力は、現実と非現実の相俟った、「怖い」では表現しきれないおぞましさがある。

浮気は本気にならねば一時の熱病であり、飽きれば元の鞘に収まる図式が多い。夫の浮気が本気かどうかの判断は、浮気相手から結婚を迫られれば尻込みする。浮気だからやれるのに、言い寄られた浮気相手を亡き者にした類の事件は少なくない。男が不倫相手女性を愛おしく思うのも、先の見えぬ恋に身を捧げてくれる愛しさであるが、その女を妻とすれば元の木阿弥だ。

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小泉は自らの不倫宣言に対する外野の声に対し、「自分の責任は自分で取るつもり」といっており、「関係のない周囲があれこれいうな」と声なき声で心情を語っているのが分かる。相手の豊原功補とは、「結婚するとかそういうことではありません」ともいい、不倫の成就が結婚という短絡思考にも釘を刺している。「結婚が恋愛の成就ではない」という大人の考えであろう。

人生の姿は、何よりも恋という形で集約的に現わされる。恋をしたところでどうなるわけでもないのに人は恋をし、生きてみたところでどうなるわけでないのに人は生きる。なぜなら、「恋」も「生」も本能であるからだ。人生とはそれほど高尚なものではない。他人をゲスという言い方が流行っているが、ゲスでない人間がいるのだろうか?他人がバカであるように自分もバカなのだ。

人の生なんてのは、どう考えても大した問題でないことに腹を立て、不愉快になったりする。そうした不愉快な気持ちをどうすることすらもできないのが人間よ。自分のエゴだと分かっていながらどうにもできず、自分自身が嫌になる。分かっていながらも情けなくもなる。情けないからといってどうにもできない。それが人間であり、最も露骨に現れるのが恋であろう。

己の行為に責任を持つなら、こそこそすることもない。口実や言い訳を考えることもない、おどおど逃げ回ることもない。こういう考えが自分の行動規範であり、生き方でもある。小泉が同じ考えの持ち主なら分かり易い。自らの行為なら批判を覚悟だろうが、マスコミはゴチャゴチャうるさい。「自らに責任をとるなら、自らを生きて何が悪い?」小泉の思いを代弁しておこう。

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小泉擁護でもなく、コソコソ不倫を批判するでもないが、陰でコソコソが不倫の王道(?)であれ、それは嫌だという人間もいる。不倫に対する考え方というより、人の生き方の選択であるはずなのに、公言するなど非常識と、常識人の看板を掲げる女がいる。人を殺して何食わぬ顔で世間を生きる奴より、「殺しました」と公言(自首)する人間は非常識と自分には聞こえてしまう。

「小泉今日子」論 ③

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大胆予測をいうなら、小泉のいう責任とは豊原の妻に直接会って謝罪をし、慰謝料相当額の弁済をする。これは小泉に自分を重ねたもので、自分なりの責任の取り方を書いたまでだ。他に責任の取りようがない。その前には豊原が協議離婚なり何なり、キチンと話をつけるのが筋だが、公表したのは勇み足というより、豊原に行動を促す意味もあったとも考えられる。

それにしても豊原が離婚しない事由は何か?妻子と別れたくない半分、小泉と続けたい半分か?その辺りの事情は分からないが、小泉がやみくもに公表したというより、そうした意図があったのかも知れない。いずれにしても彼らの事情であって、周囲は黙ったままで傍観するのが賢明だが、一言いいたい芸能人が仕事をもらえて、ここぞとばかりに調子にのって意見を乱舞させる。

人の数ほど意見があるのが世間。世間とは何かといえば、他人といっておけばよい。ユーミンのようなエールもあるが、西川史子はレギュラー番組の中で、「離婚をしていないのに恋愛を宣言するのは非常識。"キョンキョンらしい"  "潔い"ってなに?。順序が違うんじゃないか」とバッサリ。いつもしたり顔で正論をいうフィフィは、「気持ち悪い!」とま、他人の生き方を批判する。

この世に絶対善がないように絶対悪もない。世間の一員としての自分の思考選択は、「不倫は後ろめたいものだから陰でコソコソやるもの。あげく文春砲の餌食となれば何もないと嘘をつく。普段は善人気取りを装い、化けの皮が剥がされた奴らである。自分が人間的に信用できるのは小泉の方といっておく。ということで、前者を常識人と呼ぶ考えは断じて自分にはない。」

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いかになる想像であれ予測であれ、いかに合理的に組み立てられていたとしても、「仮説の一つ」に過ぎない。ということは、それに対する、「逆の仮設」も成り立つ。人間は人間を完璧に把握できないから、想像や仮設を立てて判断する。それが誤りとは言わないが、逆の思考をすることもせずに、一方的に断じたりの思い込みの激しい人間を底が浅いという。

フィフィやキャシー中島が必ずこういう時に引っ張り出されるのは、彼女らが思い込みの激しい人間であり、テレビの視聴者にインパクトを与えるかの独断発言を得意にするからだ。これは一種のレトリックであり、カンニング竹山がいうように、マスコミの情報操作である。視聴者はついつい小気味よい意見に引きずり込まれる。我々はバカを見ながらバカになっていく。

人の生き方を、「気持ち悪い」とまでいうフィフィら、自称常識人が支持されること自体おぞましい。小泉を非常識と吐き捨てた西川も同様だ。彼女自身のかつての思い上がった言動をして、自らを常識人と規定する女である。なぜ誰も西川に問わないのだろう。「陰でこそこそやる不倫が常識人なのか?」と…。我々は、「常識」という看板の落とし穴に嵌ってしまい易い。

自分に石を投げられることなく、他人に石を投げられる人間など、どこを探してもいない。完ぺきなまでに正しい意見もない。すべてにおいて間違いという意見もない。上に昇ったり下に降りたり、右に寄ったり左に傾いたり、何にも左右されず影響も受けず真っすぐ進む人もいるが、影響を受けないのがいいというわけでもない、斯くの人は自らに固執した人だ。

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影響受けやすい人を優柔不断といったり、八方美人といったり、影響を受けない人を頑固といったり、堅物といったり…。それも世間の見方である。右を向いても世間、左を向いても世間、上を見れば偉い人、下を見ればバカがいる。どこに立ち位置を求めるかは個々の判断による。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉がある。「お山の大将」で満足の人もいる。

広い大洋に舟を漕ぎだす人もいれば、井の中の蛙でいい人もいる。世間というのは一筋縄でいかないから面白いのであって、フィフィや西川やキャシー中島、あるいはユーミンの意見は彼女らの考えであって、信奉することが危険であろう。同様にここでの自分の意見も自分の考えでしかなく、「一言にして尽くすべし」は危険だが、テレビほどの影響はないと思っている。

こういう見方はできる。人間は順風満帆なとき、幸せに浸っているときより、何か問題が起こった時にこそ、その人なりの本性がわかる。夫婦が離婚問題を抱えたとき、夫も妻も男として女としての度量が試される。一般的に、"男の度量"というが、"女の度量"とは馴染みがない。が、女にだって度量はある。度量がないから離婚問題でもめるし、ドロドロした本音や欲が露わになる。

ある弁護士がこう述べている。離婚問題の際に女性は二つのタイプに分かれるという。とても潔く、客観的な判断ができる女性は、たとえ夫が浮気に走り、新しい女性に入れ込んで離婚をいい出しても、一方的に恨んだり嘆いたりしない。例えば、「夫がしたことを許せない気持ちはありますが、でも、普段から夫とは会話もなかったし、私にも原因はあると思う」。

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「夫の浮気はショックではありますが、私が仕事にのめり込んで、夫に淋しい思いをさせたのかもしれません」。とこのように、相互の非を認め、離婚も受け入れ、妥当な慰謝料や養育費の算出をする。他方のケースは、まるで鬼の形相で弁護士に相談に来る女性。「主人を絶対に許さない。どこまでも苦しめなければ収まらない。先生、あの男をとっちめてください」。

「法外な慰謝料を要求して離婚できないようにして欲しい。相手女性に対しても慰謝料を要求して懲らしめてやりたい!」と、弁護士に相談に訪れこうした女性の場合は、目的は離婚ではなく復讐と化している。これでは解決できるものもできなくなろう。離婚も出会いがしらの交通事故も、一方にのみ非があることなどないのに、それが見えない、もしくは考えない。

小泉と恋愛関係にある豊原功補が3日に都内で会見し、恋愛関係に至った経緯や、家族への思いなどを語った。豊原は妻に対し、「伝えたい思いがいっぱい」としながらも、「そもそもが好きで一緒になって、一緒に子供を育てて家族の形ができて、私が弱いからかも知れませんが、そう簡単に一言でこうと言うことはできない」と述べたが、夫婦の長きを数分では語れない。

世間が世の中のことに騒ぎ立てるのは、元禄赤穂事件もそうだった。世間は義士を讃え、助命を望んでいた。時の将軍綱吉も世論の声の大きさもあって裁定を苦慮していたが、儒学者を交えての喧々諤々の論議の末、浪士の行為は義に適っているが法にもとる行為と落着した。が、考えてみるに、「義に適うが法にもとる」というのは、「法が義に適っていない」ことになる。

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幕府自らが施行している法が義でないというなら、幕府の在り方そのものが不義となるのは明白である。近代においても司法の判例には矛盾が多い。市井無頼の徒と交遊したことで下情に通じ、名判官とうたわれた遠山金四郎景元のような名奉行は望むべくもないが、近年のテレビ局御用達とはいえ、コメンテータを気取る芸能人の乱造は目に余る。

熟年の恋⇒ 財産共有が難しい

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夫婦や親子や家庭のことは成長することで変化もあろうから、一言でこうだといえば嘘になる。豊原がいつ結婚したかについては明らかになってはいないが、妻とは20歳以上の年齢差があり、長男が一人いるが、現在は別居中とのことでそうなった理由は小泉との交際と明かしている。小泉の恋愛関係は3年前からというが、心変わりは非情ともいわれても仕方のないこと。

今回のことは事実を言ったまでで、言えば言ったで、隠せば隠したで、世間というのは真にうるさい。コソコソやっても隠し通せるものではなく、辺りを気にして疲れもしようし、週刊誌の餌食になればなったで面倒くさい。そんなこんなを嫌がって何が悪い。そうした一切の事情も考えず、鬼の首でもとったようにガタガタ批判するバカどもを相手にする必要などない。

離婚に至るにしても様々な形態があろう。不誠実な離婚もあれば、誠意とみなされる離婚もある。夫婦が互いにブツブツと不満をいいながら、欲求不満で暮らすくらいなら別れた方がいい。それが人間の情緒的成熟であり、強さといえるのかも知れないし、自他への誠実さともいえる。どうにも日本人は情緒的未成熟を、「良心」と呼んでいるかのように思えてならない。

愛はとっくに冷めているのに、「奥さんが可愛そう」などと分かったようにいうが、仮に妻に懇願されて離婚を踏みとどまったとして、亀裂の入った夫婦が幸せになれるのか?3年も別居した夫婦が覆水を盆に返して元に鞘に収まるのか?それなら問題ないが、やってみなければ分からない。だったらやらない判断があってもいい。人と人は、「ゆえ」あって結婚し、「わけ」あって離婚する。

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他人のことは、「ゆえ」も、「わけ」も分からない。だから批判すべきでない。かつて、「夫婦喧嘩は犬も食わない」といったものだが、不倫や離婚とて同じこと。犬も食わないことなどを事情も知らぬ無関係の他人が肴にして楽しむのを、「ゲスの勘ぐり」ともいった。愛すること、愛されることですら他人のこと。犬が食わぬものを食う人間なら、犬の方がはるかに利口である。

批判も擁護も趣旨は同じものだが、感情むき出しの批判の言質に比べ、穏便さにおいては擁護が勝る。利害関係なき他人事なら、多少の批判はあろうとも、「可もナシ・不可もナシ」といった態度が「金持ち喧嘩せず」と、古人は教えている。死体に群がる銀蠅や蛆虫が如き貧乏人根性は、道理として批判されるべきであろう。誰も他人のことに責任は持てない。それが道理である。

論争好き人間というのがいる。負けず嫌いで、議論を好み、そういう場には好んで顔を出し意見をいう。テーマについての持論や信念や価値観はもとより、持っている知識を余すとこなく披露し、議論に勝利することを、彼らは常に望んでいる。 自己顕示欲もあろうが、自己の向上心という一面があっても、トドのつまりは嫌われることになる。その理由は明白だ。

ようするに、他人を利用していることに相手が気づくからだ。自己の向上心であれ、勝ちたい一心の負けず嫌い性格の標榜であれ、それらは自己の都合であって他人には無関係なこと。その辺りが見えてくるほどにしつこくつき纏われると、いい加減面倒になるのは無理もない。議論好き人間の経験からして拒否のサインはシビアに感じ、そろそろ退避の身支度をする。

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人と人との関係というのは、可もナシ・不可もナシというのが無難である。それを節度ある距離感といえばヤマアラシのジレンマの例えもある。ネットは飲んだり食ったり交流を含む全人的な付き合いにはならないので、一層の、「可・不可」の交流が求められる。立ち入り過ぎると歪が出る。歪はまた、ストレスの発露となる。それでブログを止めた人も多い。

エールにしても小泉にはどうでもいいことに思う。それだけ批判も多いのに、エールを拠り所にするほど彼女は幼くなかろうし…。結婚はしないのではないか、そんな気がする。同居もするのかどうなのかも不明。結婚しない理由は、例えばSMAPなんか見てて思うことだが、稼ぎの多い芸能人はそれこそ何十億も貯めているらしい。小泉とておそらくそうに違いない。

50歳近くまで一人でコツコツ貯め込んだ財産であっても、結婚すればいきなり共有財産となってしまう。それって、どうなんだろうか?恋に盲目な若き日ならともかく、SMAPや小泉くらいの年齢になると、金銭面における恋との躊躇いはあろうと察する。50前の人間が、身も心も銭も惜しみなく捧げたい、捧げてもいいというような相手が出現するのだろうか?甚だ疑問である。

世知辛い言い方かも知れぬがお金って大事であり、コツコツ貯めたならなおさらだ。恋や愛は不確実なものだが、反面お金は確実なもの。大分前に、志村けんがなぜ結婚しないかを考えていた時、ふとそんな風なことが頭を過った。汗水たらしてせっせと貯めた数十億円を、誰かに持っていかれるような気持ちになったなら、そうそうやすやすと結婚はできないのでは?

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いうまでもない、結婚とは財産の共有だ。若いうちならそんなことは当たり前と意に介さないが、50歳近くともなれば、人間は愛情なんか信じなくなるだろうし、人と違ってお金は嘘をつかないこの世で唯一確かな友となる。その友を他人と共有できるかといえば理解がしやすい。「愛をとるか、お金をとるか」の究極の選択に、若い女性は以下の回答を述べている。

・「愛とある程度の創意工夫があれば多少の貧乏も乗り越えられるような気がします」(33歳/医療・福祉/専門職)

・「お金はなくなったらまた働けばいいけど、愛は一度なくしたらなかなか元に戻らない」(28歳/建設・土木/事務系専門職)

・「お金は努力(節約等)でなんとでもなるが、愛は努力でどうにかならないから」(28歳/機械・精密機器/技術職)

上記したのは代表的な理由だが、まだまだあるだろう。確かにお金で解決できることは多いが、愛で解決できることもある。見初めた絶世の美人に、「一晩100万でどうだ?」と脂ぎった中年が声かけてものにした。別の女性は、「冗談言わないで。いくらお金を積まれたって、あなたとなんかとなら死んだ方がマシ」と、言える女性が今の時代にいるかは甚だ疑問である。

前者も後者も男にとっては女の謎だが、どちらの謎が理解しやすいかといえば前者である。後者のような頑なな女性に対して男は、「1回100万だなんて、別に減るものじゃないし…」などと思ってしまう。サイパン島にバンザイクリフという名所がある。戦時中のサイパン島で生活する日本人女性や子どもたち、「捕まったら強姦されたあげく殺される」の言葉を信じていた。

米兵に追われて逃げに逃げ、行き着いたところは崖。もう、道はない。かくして、サイパン島のきりたった崖から身を投げる女性たちが、米軍のカメラの前で映しだされている。映像はまた海に浮かぶ女性や子どもたちの悲惨な姿を映し出しているが、この世で戦争の真実ほど怖いものがあるだろうか?それが映像に残っている。従軍カメラマンといえ、人の死を撮るのは忍びなかったろう。

        何のためらいもなく、崖の上から身を投げる女性。驚く以外にない (3:00辺りの影像)


できるならカメラを置いて救いの言葉をかけたいのではないか?撮る人、飛び込む人、いずれも真実(映像)の怖さであるが、事実として記録に残されたものゆえに価値はある。女たちの死は、従軍兵士であった田中徳祐著『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』に記されている。鬼畜米英と教育され、洗脳されていた当時の日本人女性たちは死よりも凌辱を恐れたのだ。

愛は全人的なものである。自らを尊敬できない人間が他人を愛せるか?少なくとも男には男の理想があって、それを抱きつつ努力していく姿勢がなくて、真に女を愛することなどできない。「どうせ俺は…」といじけたり、悲観的になる男は、女の尻に敷かれた方がよい。自らを尊敬できる人間になろうと必死にもがく男の張りつめた精神こそが、愛を美しく純粋にする。

企業経営から見た「小泉論」

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小泉と書くと書いてる本人さえ小泉純一郎元総理と錯覚しがちになるが、それほど小泉今日子はキョンキョンのニックネームが似合う。同時代のアイドルは、聖子、明菜、伊代(松本)、ちえみ(堀)、優(早見)と呼ばれた。ノリピー、ショコタンの愛称はあったが、小泉が今日子でなくキョンキョンの名づけ主はデビュー当時に住んでいた近所のおばさんであるという。

おばさんは業界とは縁もゆかりもない一般人だが、そのことを小泉自身がインタビューもしくはエッセイで書いていたと、キョンキョン通の情報である。ただ、近所のおばさんがつけたあだ名を彼女の呼称とするようになったかは不明のようだ。今日子といえば岸田今日子もいたりと紛らわしいので、マネージャーもしくは事務所がキョンキョンにしたのかも知れない。

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後年はKYON2が多かったが、キョンシーとは誰も呼ばなかった。たまたま観ていた『夜のヒット・スタジオ』で、小泉と堀ちえみが初テレビ出演に遭遇したが、堀はぽっちゃり、小泉は足が太いという印象だったのを覚えている。当時のアイドルには誰にも興味がなく、今回の件でも自分は小泉ファンでも何でもなく、当時のアイドル楽曲は聖子以外は聴く気がしなかった。

それにしても集団いじめに相当するような凄まじい小泉バッシングである。いじめには必ず首謀者がいるが、それに該当するフィフィは、「いちいち宣言する必要がどこにある?」と悪意極まりない発言をするが、「事実をそのままいっただけ」のことを、「勘違いしてる」だの、「愛人のくせに偉そうにしてる」だの、「罪を背負って生きていく」など止めて欲しいという。

あげく、「いまだに、"小泉今日子"である自分が言えば何でも許されると思い込んでいるのは、それこそ、"明後日"の方向を向いてしまっている。勘違いも甚だしい」などと、自身の勝手な思い込みを、さも事実であるような口ぶりをし、自身への賛同の大さに気分をよくしたのか、「こういった非常識なことを受け止めてしまう世間でなくて良かったと安心した」とまでいう。

こういうしゃしゃり出たお節介バカに同意する人間の方が危険である。なぜなら、彼女の発言は事実を勝手に歪めているだけで、小泉は現在の事実を隠さずにいったに過ぎない。つまり、フィフィは事実を批判し、勝手な想像を織り込んで身勝手に注釈を加えるだけのゲスである。こういう思慮無い人間の人叩きが受け入れられること自体、今の気候でいうなら寒々しい。

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他人の悪口で飯を食う人がいてもいいが、分かったような勝手な想像でマスコミ操作をする人間は危険だし、若い男がなぜ彼女に惹かれるのかがさっぱり分からない。三谷幸喜は、「ばばあの特徴は、"思い込み"と、"聞き違い"といったが、それに"悪口好き"を足せば言い得ている。もっとも、どこにも利口とバカはいて、その区別はされなければならないけれど。

フィフィが隠した不倫を週刊誌にすっぱ抜かれて謝罪する芸能人を、常識者といったかどうか、あるいはいかなる批判をしたのかどうかは知らないが、正直に言ったものをここまで血祭りにあげる理由は分からない。が、ここまで人をけちょんけちょんにいうからには、今後は仕事のメインを不倫専門家として、彼女の常識論を振りまいて行けば、バカ度の観察になろう。

恣意的な意見も人の意見と思えば、意見そのものへの批判は問題であるが、正直なことをいっただけでこれだけ叩けるのは、思考が歪んでるとしか言いようがない。まあ、事実はどれだけ批判されようとも事実であるが、虚実はどれだけ美化されようとも嘘に変わりない。批判される事実と、美化される虚実とどちらを好むかという選択を人間はするが、好むと正しいは別である。

雑魚の恣意的発言など、取り上げるのも躊躇うが、それも事実なら仕方ない。「週刊ダイアモンド」なる経済誌がある。一般人には読まれないものだが、ネットに配信されれば目にも入ろう。芸能人コメンテータの戯言とは中味がちがうが、今回の小泉の一件について論評がある。タイトルは、「小泉今日子に企業は学べ、『バレる話はさっさと公表』という覚悟」である。

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書いてある内容は男の世界観である。それを一言でいうなら、「他人の尻馬に乗るな」、「後手を引いて慌てふためくな」である。言い換えるなら、キチンと自分の意見をもって発言せよ」、「起こったあとで困惑し、泣きべそかくな」である。これくらいの用意がないと、男は戦いに勝つことはできないばかりか、すぐさま相手から見切られ、足元をすくわれてしまう。

何かがあって、「どうしよー、どうしたらいい?」は女の世界観であって、それで男は務まらない。想定外の事にもすぐさま対処し、怖気ずくなどもっての他である。これは頭の中にあらゆる思考とその対処がなされていないとできない。突然、文春記者にマイクを向けられても、仕事のできる男ならそつのない対応をするはずだ。男はそうでなければ情けない。

常に戦場を生きる男のそれがたしなみといえる。実際に戦場では、咄嗟の事には咄嗟の判断で対処せねば命はない。ビジネスにおいても、仕事のできる人間は何事にも迅速で、判断も的確である。ネットで何かを注文しても、とろいというだけで二度とそこでは買いたくないし、さらに顕著なのはメル友で、1分あれば書けるものは3日も4日も延ばす人間とは速攻止める。

やはり、速いというのは誠意であろうし、ネットショッピングにもそれは感じる。特に見えないものを、知らないところから購入するわけだから、日数がかかるだけで微妙な不安感を抱くことになる。何はなくても、「速い」というのは何より誠実な印象を受ける。早く手に取って自分の意図したものかどうかを確かめたいという顧客心理に根差した対応が求められる。

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ダイアモンド・オンラインでは、今回の小泉の行動を6つに分析してその是非を記している。①キョンキョンの「不倫宣言」は実にクレバーなやり方である。②不倫をネグったままにすれば本業が巻き添えを食らう。③大手事務所から独立すれば不倫がバレるのは時間の問題だった。④業界屈指の大手事務所が「情報操作」した痕跡。⑤隠蔽を続ければ嘘をつかざるを得なくなる。

⑥「いずれバレる話」は一刻も早く公表すべし。いずれも、隠匿が深いダメージを受けるという企業戦略的には当たり前のノウハウだが、それからして小泉の態度を評価するのは、ゲスな感情論を排せば当然中の当然、当たり前の論理である。ビジネス的に考えるなら、フィフィの容赦ない発言は、大手事務所サンミュージック在籍の彼女による我田引水とも受けとれる。

そうした力学は無意識に発生するものだろう。上記の6つは見出しだけに留めるが、企業経営の立場で、"都合の悪い話を公表することは大きなリスク"と捉えがちだが、実際は公表を先延ばしにして「嘘」をつくことの方が、遥かに大きなリスクとなる。嘘はマネジメントを複雑にする。不祥事や不正に直面した場合は、正直こそが誠実であるのは言葉を待たない。

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フィフィはイナゴの親玉気取り

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フィフィはいじめ大好き人間のようだ。人を叩く側は高みの見物気分で、自分が実施できているでもない「正義」を振りかざし、さらには知り得てもいない根拠をいかにもそうであるかの如く加味し、自論の正しさを強調する。それはまた自己の正義感をも充足させるから気分もよいのだろう。あげく自らを、「正義の人道戦士」如きに錯覚して悦にいっている。

そうした思いで人を叩くけばいじめの認識もない。思慮無き持論を一点の揺らぎのない正論と思い込んでいる。いじめには首謀者がいるといったが、尻馬に乗るもののは、「加担」という罪状となる。いじめの首謀者は、いじめ相手の何から何まで気に食わないようで、こうした無慈悲な人叩きに対して自分は黙ってはいられない。いじめ首謀者を抹殺に取りかかる。

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フィフィの発言は悪意に満ちているばかりか、深読みすれば彼女がペテン師なのが分かる。世の中で書かれたもの、発言されたものにあって、最も怖ろしいものは何か?何が一番多くの害毒をばらまくかといえば、「虚偽」ではなく、「ある事の一部を意図的に欠落させた事実の表示」であろう。フィフィをペテンといったのは、彼女はそれをやる性悪女だからである。

小泉は事実を述べただけであるが、そもそもそフィフィはそれが気に食わない。善であれ、悪であれ事実は存在するが、悪の事実を公言するのは許せないとの言い分だが、そんなことでムキになる彼女の脳構造はまさに豆腐のカス、おから状態である。企業が悪(不祥事)を公言すれば、「そんなことなぜいうの?黙っていればいいのよ」といっているのと何ら変わらない。

今回の小泉の一件について、フィフィの言葉には虚偽とする確たるものはないが、思い込みというなら嘘とはいえない。ただ、前提の一部を意図的に欠落させた文章には、嘘はなくとも記載されているすべてが事実ではなく、虚偽に等しいものの可能性は否定できない。他人の心情の勝手な代弁するのは行き過ぎであるが、賛同者は彼女の小気味いい言葉に騙されてしまう。

それもフィフィファンなら仕方がない。人間が神ではない以上、真の義はあり得ない。真の義とは絶対的無謬のこと。また、「絶対」という言葉の多くは恣意的だ。一人の意見に1000人が無批判に同調するなら、その1000人が間違っていることになる。場の空気とか雰囲気や興奮からのノンポリ賛同者もいるが、結果は結果であるから、そのように定義されるだろう。

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とにかく自分は悪意に満ち満ちて人を叩くという行為が許せない。だから本件に時間を割いている。多勢に無勢の叩かれる側は、嵐が去るのを待つ心情であるが、叩く側の多くは高みの見物気分。「不倫を公言するなどどうかしている」、「奥さんや子どもさんがかわいそう」などの言い方を持ち出す場合が多く、そうした弱者救済を正義の御旗にすれど、所詮は仮説である。

LiLiCoとかいう女もこんな風に述べている。「私たちはちゃんと堂々としてますっていう風にやりたいんでしょうけど、最初は(豊原の)結婚が破綻してて(小泉と)付き合うという仮定から来てるので、何とも思わなかったんですけど、この交際があって(豊原が家を)出ちゃった。別居。これ駄目だよね。それは駄目」などと、無名の芸能人も尻馬に乗って目立ちたいのだろうが…

浮気相手や愛人が外にいても、家庭で良夫ぶりを演じている方がいいんじゃない?」ということだろうが、女は女の習性で物をいう。自責の念に駆られて家を出る男を、女ができるはずがない。「何事もなかったようにすっとぼけて良夫を演じなさいよ」というのは、「良夫」ではなく、「良妻」にいっとれ。あげく映画『うなぎ』のように夫に殺される妻もいる。

誰もが自分の考えや主観をいうのはそれはそれで仕方ないが、「不倫してることを公言するなど非常識で恥知らず」ということで自分の常識度をアピールするのだろうが、要は他人の選択である。「なぜに他人が他人の価値観に基づく生き方が気になるのか、気にいらぬのか!」に尽きるが、そういう考えの及ばない輩が、御意見番を気取る前に自身の埃を叩くことだ。

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他人ことを批判してどう幸せになれるのか?「奥さんがかわいそう」、「子どもがかわいそう」などとしたり顔でいうが、豊原が家を出る時点で妻に小泉の存在はいうだろう。さもなくば妻は夫が家をでる理由を理解できない。行為の是非はともかく、理由としていうべきことだが、何事もなく良夫(良妻)を演じ、突然文春砲に晒された時のショックと比較してみろである。

全体を深く思考すれば、フィフィの思慮無い発言は彼女ならではのペテンであり、性悪女に賛同する男の多さに愕然としてしまう。30年前ころにこんなことをいった。「社会的弱者を同情心でしか見ない人間は、潜在的差別思考がある」。PTAの部会での発言で、これは「同情は思いやり」という部員を批判したもの。会が終わって一人の女性が自分にこう述べた。

「うちは母子家庭ですが、あなたの言われるように、慮ったような同情はむしろ迷惑と感じます。普通にしてもらえるだけでいいのに、善人気取りの人たちは多いです」。確かにそれは感じている。自分は現在、知的障害の女性とやり取りをしているが、こういうメールを貰った。彼女たち障害者は、健常者のちょっとした言動に対してすごく敏感になっている。

確かに障害者もイロイロで、権益を当然と思う人もいれば、少数とはいえ出来るだけ健常者に近づきたい人もいる。かなり以前から、「同情は相手を見下げることによる快楽」と戒め、むやみな同情を避けている自分であるが、そうした戒めから本当の同情がどういうものであるかが見えてくる。善意の供与というのは難しいが、少なくとも差別意識だけは皆無でいたい。

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下肢に障害のある女性から教わったことがあった。何とかクルマには乗れるがいわゆるビッコである。ところが彼女は「駐車禁止等除外標章」を所持しているが必ず駐車場を利用する。不思議であったので「何で?」と率直に聞いたとき、「路上に止めるのは誰のクルマでも迷惑に変わりません」といった。心の美しい女性だと感じ、浅ましい自分が恥と教えられた。

豊原の妻が未だ愛情冷めあらぬ状態であれ、見知らぬ人たちから、「かわいそう」、「憐れ」などの同情で気持ちが晴れるだろうか?物事が定かでない場合、差し出す側の善意がはた迷惑ということもある。状況の勝手な判断より、「沈黙は金」であること多し。所詮は他人事というのは冷淡というより、無用な配慮や善意の押し付けに気づくことでもある。

自分がしてはいけないことと思うなら、自分はしなければいいだけのこと。自分の価値基準を人に押し付けたいろいうなら、あらゆる思考をすべきであって、それでなければ、小中学生のいじめの首謀者と何ら変わりがない。他人の悪口で世の中が浄化できるはずもなく所詮はいちゃもんだが、エジプト人も日本に長く住むと、悪口達者ないじめ好きになるようだ。

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ヒステリー論考 ③

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子どもに視点を置くか、親の価値観を優先させるかによって育て方は大きく変わる。子どもは誰のものか?という命題は、親にとって難しい問題だ。親は意識・無意識にかかわらず子どもに期待をかけるが、子どもにとっては迷惑な期待も親の楽しみの一つのようだ。子どものためといいながら、大方の親は親であることを楽しもうとする。期待だけならまだいい。

欲が介入すると何が何でも子どもを自分の理想の枠に嵌めこんでしまおうとする。親の権利であるがごとく押し付けるが子どもに義務はない。そこで親と子は争い強いものが勝つ。一般的に親が強いのはメシを食わせてもらう弱みもある。子どもを享楽の対象とすることが果たして教育なのかと思うが、「子どもの将来のため」という都合のいい言葉を自らに言い聞かせる。

親の言いなりになりたくない強い反発心が自分の子ども体験だった。傲慢で力で押さえつける親には知恵で対抗したが、引き下がらない親ゆえに、自分たち母子は深刻な状態が続いた。自己実現のために親は障害という強烈な思いがあった。男には本能的闘争心があり、子どもと言えども押さえつけるのはダメ。それでも思い通りに動かしたい母はいつもヒステリックだった。

親が子に背く以上子も親に背くと思っていた。全権を握る親に対する反抗には、並みならぬエネルギーが必要だった。そうしたエネルギーを出さない、使わない子どもは、親に屈することで親から飴をもらえて、それを良しとする子どももいたのだろうが、親の言いなりになってもらう飴など腐ったものだと思っていた。親の最大の罪とは、子どもに飴をちらつかせる事だろう。

子どもは非力で純真で素直だから、飴玉一つで誰でも誘拐犯になれるが、自分が母から何かをしてもらうことや、飴玉やお金をもらうことを徹底して拒否したのは、自分の心を売り渡したくなかったからだ。母の喜ぶ顔など見るのもうんざりというほどに嫌悪していたのは無理からぬこと。そんな心情に育つ体験をさせられたからである。女はズルいと切実に思った。

鬼のような言動を見せる母が、時々に情緒が変わり、自分になびいて笑顔で接する様は気持ちが悪いの一言であった。自分が特別というわけではないが、そんなことをされるとかえって人間を疑ってしまう。自分はいたけで無知な子どもであったが、笑顔の奥にある般若の仮面は寸分たりとも見逃すことはなかった。その証拠に、自分が取り入らないと分かると豹変する。

そんなことを繰り返し、自分にはもはや信頼がおかれていないことを悟るほど、利発な母ではなかった。思慮がなく、思考もせず、いつもそのときばったりの母に、男の子は信頼を寄せることはないだろう。おそらく、親のご機嫌取りを良しとするように育たなかった男の子に、こういう親はバカにしか見えないだろう。男の子に信頼を得るために大事なのは「一貫性」である。

昨日と今日で言動が違うなど、男には許せることではない。なぜなら、男の行動規範が理性に殉じているからで、感情が行動規範になる女と男の違いである。もっとも、感情が行動規範といえるかと思うが、経験はないが女の子同士の世界観はそれで成り立っているのかも知れない。男の子は、あらゆるものから、信・義・勇などを自身の規範として学んでいく。

ところが自我が形成され、それに伴い欲やズルい考えが芽生えてくると、せっかくカッコイイと思い、理想と掲げていたヒーローたちの行為が絵に描いた餅に思えてくるようになる。そこで立ち止まって正義を問いただすか、利の欲望に順応して信義を葬り去るかの葛藤が起こる。子どもが大人の社会に批判的になるか、狡さを兼ね備えた大人に脱皮していくのかの葛藤が起こる。

あることを覚えている。「君はもう少し、役得ということを考えてもいいんじゃないか?」といわれて気づいたことがある。公は公、私は私と分類するのが当たり前と思っていたが、人の金で飲み食いや、支援者や得意先の歓待を自分は頑なに拒否していた時の相手からの言葉だった。拒否の理由は単純にそれが嫌だったわけで、モラルや我慢の無理強いではない。

そうしたものに溺れない、利を感じないという生き方を善しとしただけだから、その時の言葉すら誘惑に満ちた独饅頭の様に思えた。よって、以後もそれは変わらなかった。堅いなどといわれても、何にも困らなかったし、堅いのが嫌ならそちらが自分と付きあわなきゃいいだろうと。目先の利や欲に溺れないのが、自分にとっての普通の在り方で、人から言われるものではない。

などの言葉を当たり前に言うだけで、綺麗ごとの偽善者と受け取られたり、だから言わないでいることが多かった。物や金で自分の精神が動くなどなかったのは、おそらく子ども時期の母との体験が大きいと感じる。自分を売り渡した時点で、それはもう自分ではなくなっているという思いがあった。今でも、何かで自分という魂を売り渡すことはない。金や物や美人でも無駄だ。

世の中見渡すに、金や色仕掛けで男を腑抜けにさせようと意図するものは多い。ある生保が飛び切りの美女をしつらえて勧誘を始めたことがあった。ある生保とは、住友生命である。美人の効果は大きく成功したようだが、美人とやり取りする時の男の間抜けな顔は見るのも無残。自分は付き添いの所長に言った。「美人は嫌いなので、ブサイクな女性を連れてきてよ」。

言葉はでないが「まあ」という口がわかった。それがダメと感じた所長は、趣味でやってるという刺繍のレリーフをくれたり、自分には桃色作戦を変更し、それでも勧誘を諦めなかった。「自分は保険は嫌いなので入らない」と公言していたところに、プロ根性を発揮したのだろうが、彼女が数年後に退社することになった時の私信に、何やら書かれていたような記憶がある。

正確には覚えてはないが、「あなたをどうしても落としたかった」みたいなことが正直に綴られていて面白く読んだ。落とされない自信と、落とそうの自信とがぶつかり合っていたようで、こういう場合はどう考えても落とされない側が勝つに決まっている。同じように、売り手と買い手の勝負においても、買い手が売り手に負けるなどというのは、自分の辞書にはない。

買い手は自分の意志で買うのであって、売り手の誠意に負けて買うことはあっても、その場合においても、それを買いたいという自分の意志は反映されていなければならない。買いたくもない、買う気もなかったのに、口車に乗せられて買ってしまったというのを聞いたりするが、自分にはとても信じられない。それもお遊びならいいが、本質的に真面目な自分にはあり得ない。

生保の所長は顔や態度や言葉には現わさないが、かなりの執拗なヒステリー性格だったと思っている。あのしつこさ、負けず嫌いさ、執着心は、ヒステリーの要素をふんだんに持っている。ああした熱心さ、プロ意識は大事で成績にも反映するのだろうが、もし、自分を落とし込むような名殺し文句があるとすればそれは何であろうか?残念ながら自分にも分からない。

ヒステリー論考 ⑤

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現代社会は思いの他、巨大になりすぎた。そうした中で個性的に生きるのは難しくなっている。個性とは言うまでもなく、他人と違う恰好をするとかではない。髪型がどうの、洋服がどうのこうのではなく、それらはむしろ限界的区別というものであって、些少な相違に関するナルシズムを個性的とはいわない。が、個性的であるというのは魅力的なことには違いない。

ならば、何をもって、「個性」というのだろう。個性については様々な見方や意見があろうが、思うに人間が個性的であるということがもっとも顕著にあらわれるのは、自らの人生に課せられた問題の解決の仕方などではないだろうか。したがって、様々な困難な問題に直面することを避けている人間は、絶対に個性的になどなり得ないが、ようは安易さを求める人間である。

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人にはそれこそさまざまな能力があるが、自分をごまかすことのできる才能の持ち主もいる。自分を誤魔化すのが能力か?と言われれば、演技の上手い役者を才能があるといわれるように、実社会でも上手く、誰にも気づかれることなく自分を誤魔化せる人間も才能である。時々に自分を巧妙に誤魔化しながら器用に人生を立ち回るなど、なかなかできるものではない。

が、自分も他人も誤魔化すことのできる人を、「世渡りが上手い人」などとポジティブな言い方をするが、自分や他人を誤魔化すのは善悪は別に、大変な能力といえるだろう。それほどに人間の精神はどこまで誤魔化しのない真実に耐えうることができるだろうかと考える。人間の悲劇というのは、自らの真実から眼を背けることのできない人に起こるのではないだろうか。

ニーチェもロマン・ローランも家康も、「生は担うに重い」といったが、「自分は一体何のために生れてきたのか?」と考えたニーチェは、無意味であることに気づかされたのだ。生まれたことに目的があるのではなく、生れた後に目的を作っていく。短いスパンの中で人生を捉える人、あるいは数年先という長いスパンの中で捉える人は、それぞれに生きる目的も違ってくる。

人生とは、「ひたすら耐えることを目的とする」と答えにおいて、それは立派な回答である。耐えて耐えて耐え抜いて、我慢に我慢をかさねて我慢の限りを尽くしてこそ人間は鍛えられていく。キリスト教にもマルクス主義にもそれなりの救いはあるが、ニーチェという人は、聖書や資本論における救いを拒否した人である。彼は現実をありのままに受け取ろうとした。

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そのことで、救いが奪われ、ただ無意味な生が永遠に繰り返されることが可能となった。これがニーチェに永劫回帰思想である。つまるところ永劫回帰とは、ニヒリズムの極致である。ニーチェは耐乏を受け入れるだけでなく、耐えることを愛した人でもある。彼は耐乏を受け入れるだけでなく、それを愛したところがすごい。しかもそれを自らが望んだのである。

大辞林第三版による、「永劫回帰」の解説は以下の様に記されている。「あらゆる存在は意味も目標もなく、永劫に繰り返されるが、この円環運動をあえて生きる決意をする者は生の絶対的肯定に転じることになる。永遠回帰ともいう」。 宗教批判の根底にあるのは、所詮神は信じるか信じないかの問題に過ぎず、西洋における精神の歴史は神に対する懐疑と信仰の歴史である。

「神様は存在する」ということにして生きる人たちの方が、苦しみ強く乗り越えていけるのではないかと思ってしまう。そういう人たちにとっての苦しみとは、決して無駄ではなく、神様はずっと見守ってくださると思っているようだが、神を信じず、信仰のない自分などは苦しみをどう考えるのだろう。何も拠り所のない苦しみなら、自らの精神力で跳ね返すしかない。

ヒステリー球は内科領域の呼び名で、耳鼻咽喉科では、「咽喉頭異常感症」と呼ばれる。もっともヒステリーも近年だとセクハラ的な言い方で、正しくは、「解離性障害」、「身体表現性障害」を用いる。分かり易いのでヒステリーという用語をいうが、率直にいって理性をなくすること。その結果として男が被害にあっているということだが、同性にも被害は及ぶことになる。

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「溺れる者は藁をも掴む」というが、そういう自分は何を掴もうとするのだろうか。記憶を辿ってみるに、様々な自己啓発を画策したように思う。「人はなぜ人生に意味や理由を求めるのだろう。意味や理由を求めれば、自ずと人生に意味や理由があると思うから、それが悩みの原因になったりする。自分は人との出会いにも「縁」などという意味を求めない。

そう思うことは簡単だが、根拠のないことをあえて思おうとはしない。この世で起こることは必然などとも思わない。この世で起こる事の一切は偶然であると思っている。間違った思い込みで苦しんだり、悩んだりする人を見かけるが、そうまでして悩みたいのかと思ってしまう。人に迷惑もかけず、これといった罪も起こさず生きていても、大震災ですべてを失う人もいる。

もし彼らの誰かが、「清く正しく生きてきたのに、なぜこのような仕打ちを受けるのか?」と考えるに至ったなら、苦しみ慟哭するであろう。「善人も悪人もない。自然は何をも意図すず、どういう人間にも公平に降りかかる」と思えばいいのではないかと愚行する。遠藤周作の『沈黙』ではないが、信仰者は理不尽な出来事に際し、「なぜ神は黙っておられるのか?」を問う。

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信仰なき者はそんなことを問う対象がない。自然の猛威への怒りだけだが、それすら無意味がないと悟ると黙するのみだが、敬虔なる信仰者は、神の無慈悲さを自ら解決せねばならない。信仰者の苦悩はさまざまな形で現れるが、トスカ姫による悲痛のアリアには心を打たれる。祭壇に花を捧げ、聖壇に祈りを捧げることもない我々にとっては神への嘆きは皆無である。

  私は芸に生き 歌に生き
  人様には何ひとつ 悪いことをしませんでした
  不幸な人を知れば そっと手を差し伸べ助けました
 
  私はいつの日も 心からの信仰をこめて
  祈りを聖壇に捧げましたし
  心からの信仰をもって 祭壇に花を捧げました

  この苦しみの時に、何ゆえに・・・主よ
  私にこのような報いを お与えになるのですか?


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女性が女性を、「彼女はヒステリー」などといったりを耳にするが、実母の事例からすれば、彼女はそれこそ日常の細かいことに至るまで、息子への期待と依存にに満ちていた。それこそ彼女の身勝手な期待であるが、「期待」をしていることに対して、「期待した結果」が得られないときに、「感情的」になる。こちらにすれば人(親)の勝手な期待に応える義務はない。

傲慢な親はそこが分からず、勝手にイラついたり腹を立てたり、あげくはヒステリーを引き起こしたりする。妻が夫に期待する場合にも同じようなことになる。何で人は人に勝手な期待をするのだろうか?これが根本的な問題である。他人は自分ではないし、そういう他人に自分勝手な期待をし、適わないからと不機嫌になることの責任がこちらにはないとすべきであろう。

トヨタは儲かっているが…

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トヨタ自動車が2018年3月期の連結最終利益予想を上方修正し、過去最高更新することが分かった。これは日本国内の販売増というより、米国の法人税減税と円安の影響が大きく寄与し、手放しで喜べる状況ではない。現に6日、東京都内で記者会見した小林耕士副社長は、「通期見通しの評価は『バツ』だ」とし、売上高も過去最高を見込む通期予想に表情が晴れない。

その理由は本業のもうけを表す営業利益は、為替などの影響を除いてみると、前期に比べ550億円の減益となる見通しとなっている。本来得意とする北米においては、競争環境の悪化で減益となり、17年度の中国での販売台数は日産自動車やホンダに及ばなかった。経営陣は本業を強化に加え、電気自動車(EV)などの次世代環境車への開発という難しいかじ取り状況にある。

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トヨタはいち早く水素自動車を開発したが、「未来」と命名されたこのクルマにトヨタは未来を託すのか、業界では危ぶまれている。「トヨタに未来はあるのか? EV車への完全シフトに出遅れたウラ事情」と題する業界紙は、トヨタがこれまでEV車に中途半端な参入しかしなかった理由について、「水素自動車を捨てなければならなくなるから」との見方を示した人がいる。

その人とは、メルマガ『週刊 Life is beautiful』の著者で世界的プログラマーの中島聡氏。先ずは米国・カリフォルニア州が、トヨタが世界をリードしているハイブリッド車を、「地球に優しい車」と認めなくなってしまった。それに続いて、ヨーロッパ諸国が2030年~40年にかけて(ハイブリッドを含めた)「内燃機関車」を市場から排除しようという動きに出たこと。

この一連の動きによってトヨタは、しばらくは得意とするハイブリッドで繋ぎ、10年から20年かけて水素社会に向けたインフラを作った上で、水素自動車を地球温暖化の切り札として世界に普及させるトヨタの目論見が座礁したことは、誰の目にも明らか。にも関わらず戦略変更してEV車にコミット出来ないトヨタは、「イノベーションのジレンマ」に陥っているのだと…。

誰もが電気自動車を作るようになった世界で、トヨタがどこで勝負する会社になるのかという、「絵」が描けないからだとし、今の世界では、「勝ち組」だからこそ急激にその世界を壊すことは自らの首を締めることになる。このジレンマを打ち破るには、「別会社を作って本気で電気自動車を作らせる」などの少し乱暴なことをしなければ間に合わないと中島氏はいう。

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クルマ社会は勢いを増すばかりで、ホンダも遂に最終利益1兆円企業の仲間入りを果たすことになる。最終益の1兆円突破は、国内事業会社ではトヨタ自動車、ソフトバンクグループ 続き3社目である。クルマの原価率というのは算出不能といわれるくらいに複雑らしいが、それに加えて極秘情報とされているので、自動車メーカーから原価や原価率が公表されることはない。

クルマの製造原価を考える前に、複雑なクルマの製造工程は以下の6つの工程によって出来ている。①プレス工程、②車体組み立て工程、③塗装工程、④エンジン製造工程、⑤組み立て工程、⑥検査工程。それらからクルマの製造原価は決まることになるが、専門家がいうには、クルマの製造原価を一言でまとめるなら、「重さ」と「台数」と「手間」ということになるらしい。

一つづつ説明すれば、まずは「重さ」だが、一般的には車重1tの車よりも、車重1.5tの車のほうが販売価格は高い。それもあってか、「クルマは1kgで1000円」といわれたこともあったが、当たらずとも遠からずで、高級車となると4,000円/kgを超えるものも珍しくない。最近は樹脂部品も増えたが、クルマは鋼板を加工・組み立てる以上、「車は重いほうが高い」は遠からず。

次に台数とは生産台数のこと。そのモデルが生産終了までにどのくらい台数が作られるかが、クルマの値段決定の重要なポイントとなる。例えば新車開発に500億円、生産設備に200億円の新規投資が必要なら、投資合計金額は700億円となる。このモデルを1ヵ月に5000台、4年の生産期間中に24万台製造するとすれば、1台あたりの開発費と生産設備の負担は、約29万円となる。

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そのクルマがヒットして生産台数が増えれば1台当たりの負担は減り、不人気車となってまったく売れなければ1台当たりの負担は増える計算となる。最後に、手間とはクルマの製造に要する手間のこと。大衆車の製造工程の大部分はロボット化されているが、それでも人間の手による部分もある、特に少量生産の高級車は熟練した行員の手作業での組み立てになることが多い。

したがって、「手間」を、「ラインスピード」と言い換えることができ、1台の車にどれほどの時間(=労力)を掛けるかと言うことになる。上記したオートメーション工程を前提にした大衆車ならラインオフするまでの時間は短く、高級車になればなるほど人手と時間を要することになる。細部まで丁寧な仕上げを行うためにラインオフするまでの時間は当然ながら長くなる。

ユーザーはアクセサリーが豊富なほど豪華と思うようだが、装備品の装着にはたいした手間も時間も掛からない上、上級グレード車とベーシックグレード車の差は、ライン上ではほとんどない。自動車メーカーが製造しているのは車本体だけで、エアコン、エアバッグ、シート、タイヤ、ホイールなどの各種装備品は専門メーカーから購入し、工場で車体に取付けている。

そうれら一切合切を取り付けて完成したものが工場原価で、それにマージン(儲け)を加えたものが工場出荷価格になる。最終的なメーカーの希望小売価格は、工場出荷価格に輸送費などの経費やディーラーの儲けが上乗せされて決まっている。そこで原価率となるわけだが、種によっても当然異なるものの、一般的には車両本体価格のうち80%くらいと言われている。

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あくまでこれはひとつの目安としての数字であり、一例として、150万円の大衆車の場合は、大雑把には以下のような内訳と記されている。一見して設けはそれほど多くはないように見えるが、あくまで150万円のベーシック車ということでもあり、1000万を超える高級車もある。自動車メーカーはそれ以外にも定期的なメンテナンスなどもあり、ゆえにか1兆円産業となる。

 ・現材料費+人件費・・・・・・・・・90万円
 ・開発費・生産設備投資の分担+諸経費・・30万円
 ・メーカーの利益・・・・・・・・・・・・15万円
 ・ディーラーの利益・・・・・・・・・・15万円

その昔、トヨタ自動車が利益が多すぎると新聞で叩かれたことがあった。非難の論調は金額の膨大さに向けられたもので、トヨタが不正な手段で利益を上げたわけではない。「みなが困っているこの不況に…」そういう理由で槍玉に上がっただけ。不況であってもクルマは手放せない、他の物は節約しても、クルマは便利であるから売れるのであって、トヨタに罪はなかろう。

連日のようにトヨタは、PHV(プラグイン・ハイブリッド)車の大々的なWeb広告を打っている。電気自動車よりもPHV車の方が、多くの充電方法を用意しているなどとし、潜在ユーザーの掘り起こしを狙っている。充電が切れてもガソリンを使って走れる「PHV車は賢い選択」というキャッチコピーで、電気自動車単体よりPHV車に付加価値を見出さんと懸命である。

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「悪女」論考 ①

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「悪女」といわれるなかには、女性特有のヒステリーも含まれていると思っていたが、ヒステリーは一種の症例であるが、悪女は病気ではない。「悪女」はまた、「性悪女」とも少しニュアンスが違っている。性悪女は男を困らせるだけで、男にとっていいことはなにもないが、悪女は男を困らせるけれども、それが女性特有の魅力であり、男を惹きつけるともいう。

過去、悪女についての記事をいくつか書いたが中身は失念した。"悪女・死ぬまで生きよう"で検索すると3件見つかった。意外と少ないのは表題以外の記述が多かったのだろう。悪女に興味があった自分は、悪女を見極めたかったからに過ぎず、悪妻も悪女とすれば、悪妻など嫁に娶ってなるものかである。それで安吾の『悪妻論』も読んでみたが、中身の理解はできなかった。


年齢も若く、経験も足りないということもあるにしろ、「夫婦は苦しめ合い、苦しみ合うのが当然だ。慰め、いたわるよりも、むしろ苦しめ合うのがよい。私はそう思う。人間関係は苦痛をもたらす方が当然なにだから」。「良妻などというものは、ニセモノ、安物に過ぎないのである」などの記述は反感すら抱いたが、『悪妻論』の以下の記述には同意を覚えた。

「才媛というタイプがある。数学ができるのだが、語学ができるのだか、物理ができるのだか知らないが、人間性というものへの省察に就いてはゼロなのだ。つまり学問はあるかも知れぬが、知性がゼロだ。人間性への省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異らぬ」。これは才媛に限らず、男の秀才にも当てはまると思った。

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「知性なき才媛は野蛮人・原始人」とは、言い過ぎの比喩だが、「才媛は非文化人」の言い方に共感はあった。「教養とは人間性への省察」と安吾はいうが、現代人における教養というのは、「人間関係の調整力」といわれている。文化的知識に深い造詣があるとか、沢山の本を読んでいるとかではない。人間にとって、それほど人間関係は難しいということのようだ。

「人間関係調整力」とは、自分と他人または、他人と他人の衝突を防ぐための知識や経験、さらには思いやりであり、人間関係において最も重要なことを、「教養」というのは、あながち間違いではなかろう。人間に重要なのは学問的な知識ではないというのは経験的に実感するが、学問ができれば偉いと世間はいう。学問に秀でた人間は学者にでもなればいいのだろう。

頭の良さとは考えることでもあるから、深い洞察力も含めた思考が人間関係の調整に寄与し、バカでは役不足となる。ただし、頭は悪くても人柄の良い性質が人間関係にプラスになったりする。頭は悪くとも好人格な人は人から好かれる。安吾は才媛(秀才)がすべてではないといっているのだから、秀才は人間への省察に興味を抱けばよいということになる。

人間が悩むのは、目の前にあるトラブルを解決できないからだと思っている。乞食よりも高学歴で優秀な人に自殺が多いのは、学問ができても人間的・世俗的な問題を解決できないということか。問題解決の手法として、知識を拠り所に、それを理詰めに考えるという方法もあるが、問題解決においては過去の類似体験を持ち合わせていることが役に立ったリする。

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囲碁・将棋の棋士が過去の棋譜データを基に、同一局面から好手を選ぶようにで、棋士が思考する際は論理脳(左脳)より、感覚脳(右脳)を駆使するのが分かっている。ゲームと社会的問題は違うだろうか、「洞察力」が右脳活用の極致といわれる問題解決能力であるのも分かっている。が、右脳というのは働かせようと意識すれば働かないという厄介な性質であるという。

つまり、意識しないで右脳を活発に働かせるという無意識の経験的力量が大きくものをいうことになる。難題を事もなげにさっさと支持する管理職は、頭の良さというより、人間的な感覚を備えた感性豊かな人間であろう。それら、秀才などは足元にも及びつかない。誰もが魅力的な人間でありたいと願ってはみても、本当に魅力的な人間はごく少数というのが実情だ。

即ち、魅力的な人間になりたい、なるためには、「何が人間的魅力なのか」を理解しておく必要がある。それが決して学問に秀でた人間でない事だけは間違いない。特定のアスリートを評価する際、「攻・守・走」に秀でた人物などといわれるが、将棋は走らないから、「攻・守のバランス」が絶対的に重要だ。人間には嗜好があるからゆえに、どちらかに偏るきらいがある。

悪女を避けたいがためには、「悪女がなんであるか」を知る必要がある。それで悪女本などを読んで研究したわけではない。悪女本を読んで何かの役に立ったこともないし、これほどおどろおどろしい悪女がいるのかと驚くばかりであった。永井路子の『日本史にみる女の愛と生き方』は、女性を、美女、賢女、愚妻、強女、幻女、傑女、艶女、妖女、寵女に分類されている。

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男と女との「はらほろひれはれ」的結末は、今より古時代の方がけたたましく、寵女とは寵姫、つまり側室のことであるが、永井路子の寵女の段にある藤原薬子(くすこ)にまつわる話は、昨今の不倫話などとは比較にならぬほどに面白い。薬子は紫式部や清少納言や小野小町ほど著名ではないが、彼女はまぎれもなく平安初期の日本の歴史を揺さぶった女性であろう。

平安朝初期に起こったある事件は彼女の名をとり、「薬子の乱」と呼ぶ。彼女は桓武天皇の皇太子安殿親王の妃として嫁いた花嫁の付添人であったが、当時35歳くらいの主婦であったにも関わらず、その大胆なる秘技によって親王をとりこにしてしまった。親王は彼女を親王付女官として寵愛するが、道ならぬ恋(不倫)が、許されようハズもなく、桓武天皇に追い出すよう命じられる。

長くなるのでこのあたりに留めておくが、その後は想像もむつかしくはない。男を誘惑し、自分に振り向かせることを道楽(?)とする悪女もいるが、確かに人の心を弄ぶのは遊戯として面白いのは分かる。これも女性のナルシシズム的傾向性であろう。「男をはべらす」といい、はべらせるの意味は、従える・奉仕させる・仕えさせるだが、そんな男は嫌というほど見た。

つまらん男だと思うと同時に、つまらん女と見えた。だから、そういう女性には興味もなく、むしろ嫌悪感を持った。おそらく母のイメージと重なるのだろう。こういう女に女性らしさは微塵も感じられなかった。なぜに男はそういう女の魔力に惹きこまれるのか?何人かに聞いたが今風にいえば、「M男くん」である。まあ、ドM男は同性からみてもキモチわり~。

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「悪女」論考 ②

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世界三大美女といえば、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町といわれるが、これはあくまで日本版であって、日本人以外に小野小町を知る人はほとんどいない。もともと、「クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネ」が三大美女といわれたところに、日本人が勝手にヘレネに換えて小野小町を押し込んだ。ヘレネを知る日本人は少なく、彼女はギリシア神話に出てくる女性である。

スパルタ王テュンダレオスの妃レダが白鳥に変身したゼウスと交わり生んだ卵から、ディオスクロイおよびクリュタイムネストラとともに出生した世界一の美女とされている。上記の三人にもう一人、マリー・アントワネットを加えて世界四大美女とすることもあるが、そもそも世界三大美女などど誰が言い出しっぺで、誰が決めたのか?そういう疑問は残る。

もっとも、「世界三大美女」などの用法は日本だけともいわれており、文明開化後の明治時代あたりに出来た表現で、おそらく当時の講談師や文士兼新聞記者によるのではないかと想像される。日本人は物事を決めつけるのが好きな民族のようで、「日本三大~」、「世界三大~」が好きで何でも当て嵌めてしまう。「血液型行動学」なども日本独特といわれている。

貴あれば賤にならうなら、美女があるならブスもいるが、世界三大ブスの呼称はない。日本人が言うにしても外交的な問題も孕み、トップシークレット過ぎて後世に伝わらなかったかも知れない。フランス人やロシア人にはまるで西洋人形のような八頭身で彫りの深い小顔でお目めパッチリの信じられないような造形美女が多いが、イギリス人、ドイツ人はブサイクとされている。

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古い歴史のヨーロッパには幾多の確執がある。ゲルマン人は今のヨーロッパ文化の祖であるローマを滅ぼした蛮族だが、我こそヨーロッパ文化の中核と自負するラテン民族にとって蔑視の対象となる。スラブ民族は未だヨーロッパでも一番格下である。「スラブ」の語源は「slave(奴隷)」で、イスラム教徒に長らく支配され、ロシアあたりは欧州の最貧、最後進国であった。

あと、プロテスタントは食事が質素で食事を楽しむことをしないから、それが表情にも表れてブサイクになるのではという説もあるが、日本人はアジア系のなかでは北方系であるが、短足でっちりでこれは西洋的な美の基準でいうなら、ブスの類かも知れない。日本三大美人は秋田、京、博多をいい、三大ブス産地といえば、名古屋、水戸、仙台が有名である。その根拠は?

日本海側は日照時間が短い。そのためあまり紫外線を体に浴びることが少ない。さらに雪が多いため外出機会が少なく、その結果として秋田県の女性は肌が白く美人になるといわれている。秋田以外にも同じ地形と気候から、越後美人、庄内美人、津軽美人といわれている。秋田は満州や朝鮮半島の東側から渡来した人が多かったことも秋田美人の誕生に繋がっている。

京美人も日本海が関係しているといわれ、陽に当たらないことは、女性にとって大事なようだ。博多美人は、秋田や京とは違う理由があるとされる。一つ目の理由として、福岡という地域が東京・大阪・名古屋と同様に大きな都市であるために美人が集まってくるというもの。これらからすれば、博多女が美人というより、博多にいる女性が美人ということになる。


さらにもう一つの理由として、福岡に住んでいる女性は化粧などに関心を持っているために美人が多くなっているということらしい。化粧に関心=美への関心ということだろう。名古屋、水戸、仙台といわれる日本三大ブス産地の俗説として、名古屋においては、戦国時代に理由があるとされる。天下人三人の尾張、三河にブスが多いのは、戦国大名が美女を城に取り込んだ。

がゆえに後に残ったのはブスばかりになってしまい現在に至るというもので、なかなか面白い説である。水戸にブスが多いのも同じ理由である。茨城(常陸)を統一したのは佐竹義宣である。ところが、関が原の戦いでは石田三成に加勢し、家康より54万5千石から20万5千石に減封となり、秋田へ国替えを命じられた。佐竹家は秋田へ移る際に美人を連れて行った結果、水戸にはブスが残った。

仙台ブス伝説にはこれも戦国大名伊達氏ゆかりの逸話がある。伊達綱宗が吉原で高級遊女である高尾大夫を身請けしようとしたら断ら、怒った綱宗は大夫を斬ってしまった。仙台にはブスが多いのは高尾大夫の怨みによる祟りといわれている。嘘か真かオカルチックな逸話である。こうして三大ブスの理由を並べてみると、いずれも歴史に関係しているのがなかなか面白い。

実際的には美人もブスもイケメンも個々の主観やイメージでしかなく、色白美人という美人の基準も一つの見方に過ぎない。1966年、化粧品メーカー資生堂が、前田美波里を起用したポスターに、度肝を抜かれたのは男性諸氏ばかりではない。そこには小麦色に日焼けした美女ののっぴきならに視線があった。キャッチコピーは、「太陽に愛されよう」であった。

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負けじとばかりにライバルのカネボウは、夏目雅子を起用し、大胆にも手ブラで男性諸氏の目線を釘付けにした。女性は男の目線のなかで生きるという効果が、こういうポスターの醍醐味であろう。世か色白美人から小麦色へと変貌していく。当時流行った楽曲『想い出の渚」の歌詞にも、♪小麦色した可愛いほほ 忘れはしない いつまでも…と歌われている。

三大美女、三大ブスに続いて、三大悪女といえば、クレオパトラ、則天武后、マリー・アントワネット、西太后、カトリーヌ・ド・メディチ、エテカテリーナ2世らが入れ替わりで出てくるが、中国三大悪女(呂后・則天武后・西太后)を言っておけば、彼女らに匹敵する者はいない。そもそも、世界の悪女が三人で収まるはずがなかろう。嫉妬と憎悪からの行為は半端ない。

夫の妾の目鼻耳を潰して肥溜めに住まわせ、豚女って呼んで息子に見せつける呂后(呂雉)もエグいが、 西太后や則天武后も残酷さではひけをとらない。彼女らは皇后の身分であり、女性が権力をもつと悪女(悪妻)なることが多い。北条政子、日野富子、淀殿らが日本三大悪女といわれる所以だ。流人であった頼朝を見初めた名家出身の政子の嫉妬深さは、当時としては異例だった。

頼朝は、妻の北条政子が2人目の子どもを身ごもっていた時に浮気をする。それを知った政子は烈火のごとく激怒。浮気相手の住む屋敷を打ちこわし、その女性を追いやってしまう。こんにちでも浮気相手の元に乗り込むのはあり得ることかもしれないが、当時は一夫多妻が当たり前の時代だった。北条一族の大反対を押し切って夫とした頼朝への怒りだったとみる。

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義経を慕う静御前に政子は優しさといたわりを見せた。このとき静は源義経の子どもを身ごもっていた。同じ状況で頼朝に浮気をされた政子の静への配慮、思いは頼朝への当てつけもあったろう。静はその後に男児を産んだ。当時の常識からすれば政敵の男児は殺されるのが一般的習わしだった。結果的に男児は殺されてしまったが、政子はこのとき助命嘆願をしている。

いじめは一知半解なり

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野球の場外ホームランは普通のホームランより声援が大きく、それだけ価値が高い。日米プロ野球におけるホームランの最高飛距離はヤンキースのミッキー・マントルが1960年にデトロイトで打った推定距離193mで、ギネスに登録されている。日本のプロ野球で最高飛距離のホームランは、2005年6月3日、アレックス・カブレラが西武ドームで打った推定180mと記録されている。

場外ホームランは野球の醍醐味かも知れぬが、ブログをやっていると時たま場外コメント舞い込むことがある。記事欄のコメントとちがって中傷や雑言が多いのは、気づかいというより、小心者の姑息さであろう。誹謗・中傷に気づかいなどはなかろう。それらとは別に共感メールもあるが、私信にするのは羞恥心からか。一度だけのものもあるが交友が続くこともある。


今回の場外メールは、小泉今日子擁護の自分の意見が気にいらないようで、フィフィの意見を真っ当と押し付けるなどは慮外者。誰の考えが気に入らない、誰の考えが自分に合うなどは個人的なことで、一人で思っていればいいこと。まあ、それをやり取りするのがコミュニケーションというものの、意見を言い合う、出し合うはいいとしても、押し付けがバカげている。

思えば自分も若かれし頃は他人に意見を押し付けていた。今に思えばバカだった、無知だったと反省する。多くの知識を拠り所にし、だからといって他人に知識を押し付けるのは、無知であると今にして思う。自分はこういう考えを所持するとの自己把握をし、それを述べても他人に押し付けぬよう制御はすべきである。が、ブログに文字で書くことを押し付けと感じる人もいる。

子どもから大人に成長し、社会の価値観が大きく変節し、斯くの情況が大きく変わっても人の思考図式は、物心ついた時のまま残っていることはある。変わらねばならぬことが変わってないということは、その人がまともに成長していなかったということになろう。本を読み、他者と交流をしても、他人に影響されないままに育った人は他者を頑なに受け入れなかったのだろう。

「孤独なる懐疑主義者」といえば言い過ぎだろうが、思考に柔軟性がない人は世の中に多い。例えば、戦争中に幼児時代を送った人は、物心がついた時は戦後となり、表現や行動は形の上では戦後であれど、幼児期に叩き込まれた図式は戦時中のままの世代を、「焼け跡派世代」という。「三つ子の魂」は永遠というのはまさに正鵠を得ており、後に大きな影響を及ぼす。

イメージ 1何につけ自分の意見を言わねば気の済まぬ人は、良く言えば問題意識を持っている。して、自論を披露するだけでは物足らず、押し付ける自制の無さに抜けきれぬ幼児体質がある。「自分も不愉快、相手も不愉快、しかも大きな損失を受けながら、なお、行わねばならぬこともある」という規範はあるが、芸能人如きの不倫などには当てはまるまい。

誹謗・中傷の私信に無視を決めること多く、コメント欄があるのにわざに私信の理由は怖れもあるのだろう。何をいうのも自由だが、やり返されてしまってはの危惧と見受けるが、だったら黙っておくのも大人のたしなみというものだ。「沈黙は金」といい、さすれば吐いた唾を飲まされることもなかろう。「溜飲を下げる」という慣用句もある。

溜飲を下げるとは、不平・不満・恨みなどを解消して気を晴らすこと。「相手を論破して溜飲を下げる」などと使う。自分もそうだったが、今は人を打ち負かして悦に入ることはない。今回のフィフィはあまりに他人の価値観に立ち入り過ぎたことに腹を立てた自分だ。それに対する共感・応援エールも、集団ヒステリーが如きであり、自分的には看過できぬ様相であった。

当ブログで出会って現在も続いている最長メル友は8年2か月に及んでいる、現在私信のやりとりするのは彼女がオンリー・ワン。パソコンメールの良いところは、機種を変えない限りはトレイに残るところだが、2009年12月12日にもらった第1信には、なぜかキョンキョンについて書かれてある。小泉は彼女と同年代女性だから同じ髪型にしたとかの会話の流れと記憶する。

自分は携帯メールをしないPCメール派で、PCメールは古い受送信トレイから懐かしく閲覧ができるところがいい。またPCの画面の大きさがどれほどの長文であれ、スクロールなしで一気に読め、さらには両手キーボードによる文字の打ちやすさもあって、長文派の自分は携帯メールなどやる気がしない。携帯の何が便利なのかよくワカランが、持ち歩きなのだろう。

自分は出かけるときに携帯を持ち出すことはない。友人、知人に教える電話番号も家電にするが、相手のほとんどは携帯番号を言ってくるし、もはや家電はジュラ紀の化石のような遺物のような言い草をする。それほどに人には便利な物でも、自分にとってはそれほどに邪魔な物。在宅時に鳴る電話はともかく、外出先まで追い回す携帯は自由主義者にとって煩わしい。

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長いこと携帯を持たなかった理由を、「行方不明になれないから…」だったが、家族にとっては不便であると子どもらに強制的に持たされたが、当初は有難迷惑と思っていた。いつ頃かも忘れたが、所持する機種softbank製830Pの発売日は2008年11月だから、2009年2月の誕生日に手渡されたことになる。携帯電話の批判記事は、07年10月3日、08年3月3日に書いている。

時代遅れの自分だが、便利な物は便利、不便な物は不便である。こんにち携帯は便利な時は使い、不便な時は使わないという至極真っ当な利用をしている昨今だ。個人的な携帯についてはともかくとして、一人暮らしで電話もなかった時代が懐かしい。若い時は公衆電話の3分10円の出費も痛手であり、彼女と話すためには会うしかない。それはそれでよかった時代でもある。


互いがやりくりして時間を作り、点と点の距離を必死でつなごうとという、そのいたいけな情熱が良かったのかも知れない。電話の会話で簡単に済まそうなどはなく、人間自体が行動するものであることを認識させられた。携帯はコミュニケーションとして比類ない便利なツールといわれたが、携帯で済ませよう、済んでしまうコミュニケーションの希薄さに人は気づいてきた。

何はとも携帯の恩恵は不倫がやりやすくさにある。つい30年前、個人個人が電話機を持ち歩くなど考えられない時代だったが、今や当たり前になっていることで、人間の生態系が変わっているのは間違いなかろうが、自分自身の生態系に変わりがないので、いまいちよく分からない。携帯に批判はないが、子どもまでもが電話機を持ち歩く怖ろしい時代という錯誤感はある。

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他人を尊重なしに自分への尊重はないが、自分を尊重するが他人を尊重できないもの多し。一億総中流化は貧困社会よりはいいことだろうが、生活レベルを競い、生活レベルの高低で他人を判断するという問題も生まれた。中流にも上下を見つけ出したい現れだろうが、ある経済学者は、「経済学とは手段の学問である」といった。確かにこれは名言であろう。

経済学の目的は国民の経済的水準の向上にある。言い換えるなら、国民を貧困にする経済学など無用である。武力闘争の時代は過ぎ、生活レベル競争の時代に移ってきた。その次にはどういう時代がくるのかは分からぬが、働きすぎ批判の兆しからみえるものは心の質の向上か?「心の豊かさ」という語句はどれだけ前から言われているが、真の豊かさは競争を止めたときにくる。

そんな気がするこの頃だ。無用な競争がなければ心が豊かになり、心が豊かになればいじめもなくなる。いじめはよくない、よくない、よくないと誰もが言いもし、思いもするが、人を叩く自分がいじめの当事者との認識がない。「いじめはよくない」は誰もが知っていることだが、所詮は一知半解なのだろう。「一知半解は、知らざるに劣る」と、誰の言葉だったか頭を過る。

他人を「気持ち悪い」というバカども

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ある男がデートの際、680円だった会計に1180円だしたところ、同伴女性から「気持ち悪い」と言われたという。ネットの意見は、「普通だと思う」、「店員側からすると、渡すお釣りが少なくてすむから楽」、「行列ができているときに1枚1枚出されるのはイライラする」など、さまざまな意見があった。テレビのワイドショーでもとりあげられ、以下の意見があった。

「500玉を貰おうとする魂胆が気持ち悪い。いいコインを貰おうとする魂胆が、私生活でも響いてきそうで、その細かさがプライベートでも細かいんだろうなと…」。ある女子アナはこのようにいった。社会学者古市憲寿氏は、「そもそも現金が気持ち悪い」とし、コンビニなどでは現金を使わないことを明かしたが、「現金が気持ち悪い?」という彼の言い分はこうだ。

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「誰が使ったかわからない。現金て汚いじゃないですか。汚いものにできるだけ触れたくないので、できるだけ電子マネーで払うようにしています。コンビニで今時、現金を使うのって頭悪い人じゃないですか」とまで言い切る。こんなことを話題にせねば話題がないのかであるが、1180円を出して、「気持ちが悪い」とむき出しにいった女性は、そんなことまで干渉したいのか。

「500玉を貰おうとする魂胆が気持ち悪い」といった女子アナもだが、おまえらアタマ大丈夫か?イカレテないんか?と、正直思った。もし、自分がそういう行為をして、「気持ち悪い」などとほざかれたなら、何も言わずにそのまま女を放って一人でどこかに行くだろう。相手がキョトンとして何か言ってきたら、「お前のような気持ち悪い女とは二度と会う気はない」という。

怒りではない。そんな程度のことを、「気持ち悪い」という女の情緒に嫌悪感を抱く。それにしても、「気持ち悪い」という言い方が目立つ昨今である。というか、軽すぎる。以前は、「気持ち悪い」などは、グロかホラー映画か変態オヤジくらいしか言わなかった。変態オヤジどころか普通の人間に対して、「気持ち悪い」と嫌悪感むき出しに言う。フィフィは小泉今日子に言った。

そんな言葉までいって自分の価値観を押し付けたいのか?女子アナはこういう男は、「私生活にも響いてきそうで…」というが、「私生活に響く」はお前のことだろう。いちいち他人を干渉して生活するお前のことよ。こういう物言いの女性に対する批判意見のなかに、「人を気持ち悪いという人間が気持ち悪い」とあったが、自分も同じような気持ちになる。

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不倫を実行を告白した小泉にフィフィが、「気持ち悪い」といったとき、この女は余程人から気持ち悪いという言葉を投げつけられたと思った。つまり、自分がそれを言われて傷つき、嫌な気分になったから、同じように相手にそういう言葉を吐くのだろうと。こざかしいというのか、陰湿な女の返報感情である。真っ当な人間は人を、「気持ち悪い」などと軽々しく口にしない。

だからそんな言葉をいう人間は、その言葉の強さを実感してる人間である。向けて言って相応しいのは、変態オヤジか痴漢くらいだろう。巷でこういう事例がある。いじめを受けた小中学生の女子の遺書に、「みんなから気持ち悪いといわれた」というのが多かった。こうした中傷言葉は女子のみで、男子に男子は言わない。いじめ自殺した男の子の遺書にもない。

他人を最大批判する時の女子御用達言葉だと思っているが、なぜそうなのかも考えた。女が女に、「気持ち悪い」というのは、最大の蔑み言葉であり、侮辱だからだろう。ブスやデブよりはるかにキツイ。だからこそ効果がある。いじめ加害者というのは、相手を傷つける最大言葉を使うのだろうが、こういう言葉で相手を攻撃する女というのは何と陰湿であろうか。

男から見ればとてもじゃないが許しがたい。が、これが女の世界なのだ。神は男に力を与えたように女に言葉を与えた。『世界悪女物語』を読んで思うに、よくも女は女をこれほどまでにいたぶれるものかと…。おそらくヒステリーと関連するのは明らかだろう。夫の愛妾の手足を断ち、眼をえぐり、鼻を削ぎ、耳を燻(くす)べ、瘖薬(唖になる薬)を呑ませて、厠に中に押し込む。

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現代はこのようなことは許されないが、だからか言葉で相手を貶める。どこまで女は直情的なのか。子どもが子どもを「気持ち悪い」などというのは、子どもがまだ未成熟で無知であるのを差っ引いても、あまりに情緒なき言葉である。それでも世間的には、「子どものやったこと」と甘く受け止められるものだが、被害者が受ける気持ちを考えると許しがたい。

同じことを大人がやって、相手を傷つけるのは言語道断である。人が何をしたところで、そんな言葉で蔑む権利がなんびとにあるというのか。だから、自分は小泉擁護ということではなしにフィフィを断罪する。こういう性悪女が世間で賞賛されていいはずがなく、彼女は子どものいじめを助長するといえなくもない。人格攻撃は止め、批判があるなら論理的にすべきである。

もっとも、他人の生きるスタイルをなぜにそれほどまでに干渉するのか?上に述べたように大人になり切れていないか、性悪のどちらかである。他人を許容できない、自分の価値基準だけが絶対的という驕りもある。テレビというのは、即効性があるがゆえに怖い。「気持ち悪い」発言などは瞬時に広がり、世間を圧巻する。社会全体がいじめに加担し、助長している。

およそ言葉のなかで最大限に侮辱言葉である、人が人を「気持ち悪い」などは、かつては滅多なことで使わなかった気がする。かつてがいつごろかは分明致しかねるが、多メディアの情報社会では、誰かがいい出せば市民権を得たかのように広まっていく。以前にも増して付和雷同性が高まり、子どもがバカな大人を真似るつまらん時代になったものである。

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「子どもは大人を映す鏡」というのは、今に言われた言葉ではないが、大人が子どものいじめ問題を解決できない根本的な要因は、実は大人にあることを考えると、正に、「子どもは大人を映す鏡」という言葉が重くのしかかる。大人は無意識に子どもを啓発し、子どもも無意識に大人から触発されていく。「対策」を穿き違え、何かをやったかのような大人の滑稽さ。

いじめは教育の問題か? ①

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過去、どれだけ多くの子どもたちがいじめで命を捨てたことだろう。寄って集って弱い者いじめをする者たちには無性に腹が立つ。いじめられる子にはいじめられる要素があるという。だからいじめを受けるのだろうが、そうではなくて、手籠めにできる相手を尊敬できるか、対等に感じるられるか、そのことが人間が育まなければならない人間らしさではないだろうか。

「敗者をいたわる美学」という言い方をするが、平昌冬季五輪のスピードスケート女子500メートルで金メダルに輝いた小平奈緒に美学の意識はなく、敗者へのいたわりも、心ならずも逝った同僚に対する思いも、彼女の人間性から培われたもののように感じた。スポーツを通して得た栄誉であるが、「今後問われるのは人間としての生き方」という彼女の発言は心に残る。

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人は否が応でも集団に身を置き、集団の中で過ごすことになるが、集団に身をおくということは人と関わるということだから、集団が好きな人は人が好きだろうし、集団を好まぬ人は人嫌いなのかもしれない。そういうことを周囲は敏感に察知する。人には二種類ある。自分と他人である。自分は自分、他人は他人なのは当たり前な言い方に思うが、実は自分も他人である。

即ち自分は他人から見れば他人ということは、自分という人間は、自分と他人の二つを生きていることになる。したがって、自分の生き方と自分を他人に見立てた生き方がある。自分は他人でもあるということを頭に置いている人とそうでない人の生き方は違ってくる。自分は他人でもあるという見方をする人は、気配りなどができる人で、バランスを上手くとりながら生きている。

自分が自分であることに気づくのは難しくはないが、自分は他人でもあるということに気づくのは、強く意識をしなければならない。「自分は自分であって、自分以外のなにもでもない」という言い方をするが、ある意味正しくある意味間違っている。上記したように、自分は他人でもあるからだ。同じように自分以外の他人も、実は彼らにとっては自分なのである。

したがって、自分の友人のAくんは他人であるけれども、Aくんにとっては自分であるから、Aくんの気持ちに重ねてAくんの主体性を意識することも大事である。Aくんは他人、しかしAくんは自分でもあるという見方を両立させることで、自分と他人は手を取り合える。自分が他人であると意識したとき、視点はAくんから見た自分が見えている。これを客体的視点という。

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世界を構成するものとして、「見るもの、知るもの」を主体といい、「見られるもの、知られるもの」を客体という。自分から見る他人は主体的に見るが、自分を他人の視点から客体的に見ることもできる。したがって、主体は意識であり、客体は物という言い方をするが、認識論の領域においては、主観・客観と区別されている。少し難しくなったが、難しい部分ははしょる。

「自分を客観視すれば心の平穏が得られる」と松尾芭蕉は述べているが、どういうことかといえば、紆余曲折の末に芭蕉が辿り着いたのは、「風流の精神」である。芭蕉は元は武士の出であったが、武士の地位を捨てて俳諧師の道を歩み始めたのは23歳であった。主君の死に遭遇した芭蕉は、「二君に使えず」の精神を大事にし、主君の家から去ったといわれている。

下が上を斃して一躍出世する下剋上の時代は去り、主君の死に遭遇して武士の地位を捨てている。ここにいたって芭蕉は、苦しみや悲しみに立ち向かうこともせず、さりとてイジけて嘆くようなこともせぬ道を歩み始める。そんな事情から到達した、「風流の精神」だった。疾病で十分な療養もできない苦しみの時でさえ、「風流の精神」で俳諧の素材として眺める。

激情や悲哀といった感情が最も起こるはずであろう時ですら起こさず、その状況を他人事のように眺めることで、心の平穏を得るということ。そうした理知的な現実逃避から辿り着いた、「風流の精神」は、極めて強い精神力を要する思想となった。それほどに自分を完全に客観視するなど凡人にはできかねるが、苦しむ自分を客観的に眺めることは訓練次第でできるだろう。

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同様に、他人の苦しみを我がことのように受け入れ、共に苦しみ、涙することも訓練によってある程度は可能になる。「主客一体」という言葉が茶道にある。「一座建立」ともいわれるが、招いた者(亭主)と招かれた客の心が通い合い、気持ちのよい状態が生まれる状態である。主客に一体感を生ずるほど充実した茶会となることをいい、茶会の目的の一つとされている。

茶道も奥が深いが、本日の表題はいじめについてで、いじめも奥が深い。いじめの定義は曖昧だったが文科省は、「一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」をいじめの定義とした。「いじめてない」といっても、受けた側が「いじめられている」、「ショックを受けた」という状態であればそれがいじめになる。

セクハラも児童虐待も受けた側の認識を基本とするなら問答無用である。ただし、子どもの場合、悪ふざけといじめの判別が難しい。そこで、①反復性、②同一集団内、③故意、④立場が対等でない、⑤傍観者がいる、などから判断されることになる。いじめも奥が深いといったが、それは構造上においてである。いじめは集団の場合がほとんどだが、一対一のこともある。

集団いじめの場合、外から見てリーダーかはっきりわかる場合と、リーダーの判別が不能の集団などのケースがある。近年はいじめ側の集団の中から、あらたないじめが発生することもある。何のことはない、昨日までは仲良くしていたけれど、ある日突然いじめられる側になるという。人間関係は希薄で流動的であることが、こうしたことに現れているようだ。

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⑤傍観者の心理も複雑だ。自らは何もしないかわりに、いじめられている人を見て、「いじめられる側も悪い」、「仕方がないことだ」と、自己正当化する者もいれば、「かわいそうだ」、「なんとかしたいが勇気がない」、「下手に関わってとばっちりを受けるのも…」と、これは消極派で思考である。何もしない点においては、自己正当化組と何ら変わりようがない。

自己肯定派はいじめ当事者に近い心理状態の傍観者であるが、観客派という者もいる。「自分には関係ない。所詮は他人のこと」と、これは自らも属している集団や組織で起こっている出来事に対して無関心で傍観者を装うのは、共感性や社会性が欠けている現れでもあるが、自分以外の他人をまるで風景を眺めているかのようなニヒルな人間が多いのがこんにちの時代である。

無関係の自分がターゲットになるのは嫌なものだし、可哀そうと思いつつ何もで着ない人間に、勇気と正義感を植え付ける方法があるのだろうか?勇気と敵愾心をどう育むかは、何はともあれ自分が強くあらねばならない。精神の強さ、腕力の強さ、それらをどう育むかの方法はないわけではないが、個別主体性の問題であろう。宗教的バックボーンに委ねることもある。

人間の自尊心は変な方向に傾くこともある。自分がいじめられていることを認めたくないという、屈折した倒錯心理はなぜ起こるのだろうか?主に解決のターゲットが見えない場合に起こり得る。教師や親や友達に相談しても、何も変わらないだろうという八方塞がり的諦観が、事実を事実として認めたくない心理に陥る。そういう時には最悪、「死」という逃避に望みを託すこともある。


もっとも避けねばならない死、などといったところで、当事者の思いではなく他人の思いでしかない、「もっとも避けねばならないのが死である」ということを、当事者に知らしめること、伝えること、あげく伝わってこその価値観であり、伝わらぬなら絵に描いた餅である。自殺を食い止める方法があるなら、情熱ある大人が当事者と対座してとことん話し合うしかない。

学ぶ力

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自分と他人は違うが、視点を変えれば自分は他人、他人はまた自分と述べた。当たり前に思えることも、当たり前でなかったりするところが面白い。当たり前は奥が深いのだ。至極簡単なこと、当たり前のことを見下げた物言いをする人がいる。黙って聞き流せば何も起こらぬが、そこに問題意識を持つことで何かが変わるきっかけとなる。それが感受性というものだ。

「なぜ他人(の考え)は自分と違うのだろう?」という素朴な疑問を意識したとき、自分が普通で他人がおかしいと思ったのは、年齢的につたなかったからだろう。そう結論すれば簡単に納得できた。年齢を経てもそうした考えの域を出ない大人は多い。自分と違えば、「あいつはおかしい」となるのはもっともらしいが、自分がおかしい場合もあるわけで、だから思考が必要となる。

将棋で相手が指した手を、「その手はおかしい」、「変じゃないか?」などと思うことがある。思うだけでなく実際正しくない手であるのは、棋力の低い人に見られる。が、「その手はおかしい」と思った相手が上級者もしくは格上だったとき、説明を聞くと素晴らしい手だったりする。これはつまり、「その手はおかしい」と判断する自分の方がおかしかったということだ。

「あいつはおかしい」は、「自分がおかしい」のかも知れない。そこの根拠を自ら把握するための思考である。簡単に捨て鉢な言い方をしても、バカは自分だったりする場合がある。世の中は、社会は、自分中心に動きやすいが、自分が間違っていると相手から指摘されても、納得できるものではない。しかし、間違いを納得できないと突っ張るだけではただのアホだ。

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そこで大事なことは冷静さと検証である。自分は他人と違う。ゆえにどちらの考えが正しいのかをじっくり検証する時間がない場合、言い合いになるのはよくない。そんなのは不毛であり、時間のムダである。ディベートの様な論理による脳トレならいざしらず、ディベートの本質は結論を求めないことにあるが、結果を求めての言い合いは、草も生えぬ荒地であろう。

人間は自分を他人より尊ぶがゆえに、不毛の論争をやってしまう。思うに人は、「自主的思考重視」と、「知力重視」に分けられる。前者にも知力はあるが、後者に及ばないものだから、まともにやれば論駁されるのが必然となるも、逃げの手段をいろいろ用意する。女性がよくやる、「そんな難しいことを言われても分かりませ~ん」で、これは感情論で話そうということだ。

相手は逃げの一手を打っているのだから、これ以上は噛み合わないとこちらも逃げるが正解。「意味がわからない」、「自分が正しいと思ってない?」、「だから何なの?」もっとヒドイのは泣いてしまう。泣くのがヒドイ理由は、泣いてる場合ではないからだ。これは明らかに反則だが、反則を犯してでも勝とうとする、意見を通そうとする女性にどういう薬をつけるべき?

「泣く子と地頭には勝てぬ」という名言がある。子どもが泣くのは無視できないし、あやさねばならぬ。地頭は権力を嵩に物をいうので抗えない。が、大人の女の泣きは武器であるから、眼には眼をで対抗すればいい。思い余って、行き詰って泣きという武器を出すのは、男の暴力を非難すると同じ理屈であり、同情ではなく非難しないことには収まらないだろう。

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実母も最終手段は泣きだった。向かってくるより、泣かれることの方が自分は腹が立った。「泣いて同情してもらおうなんて冗談じゃない」である。「女の涙に男は弱い」という。「男の暴力に女は弱い」などもいうが、「弱い」の意味が違う。オカマは別にして、この世は男と女の世界だから、理解し合えない同士が、全人的に妥協して上手くやっていくしかない。

人は自分と他人を比較することは多いけれど、そんなことをすれば劣等感が増幅するだけだ。それが分かっていても自分と他人を比較するのは、比較して劣等感を持つというより、劣等感があるから比較をしてしまうのだろう。不幸な人が他人を羨むように、幸福になれば他人と自分を比較して羨んだりしないが、逆に人を見下すようになる人もいたりも困ったものだ。

卑屈にならないために人と自分を比較しないのがいいが、自分と異性を比較するのはむしろ相手理解のためになる。自分は男だから、「女はワカラン」と簡単に結論を出すよりも、分からんことを分かろうとするのも、「考える葦」としての領域である。あれだけ強い羽生永世名人が、「将棋は分からない」という。奥が深く分からないから熱中できる。異性も同様である。

人と人は依存しあうところも良い。ペット可愛さに依存する人もいるが、依存も深入りしない方がよい。自分は依存心の強い人と上手くやれると思わない。なぜなら、そういう人と上手くやるためには相手に自分の生き方を支配させる必要性が生じるからだ。心の病に罹患してる女性は依存が強いわりに、相手を幸せにすれば自分も幸せになれるという発想がない。

イメージ 4自分が幸せになりたいためにそれを阻む障害を排除しようと、強力な自己中心主義となる。与える愛情はなく、求める愛情に終始するばかり。45年前に20歳だった彼女は心を患っていた。そのこと自体が問題とは思わなかったが、彼女とちょっとしたやり取りから感じたのは、こちらが決して、「幸」状態にはなれないことだった。
自分で感じたことを他人に吹聴することではないが、別段個人を特定したわけでも、心の病に罹患した人たちを蔑むわけでもない。鬱病罹患を告げられた時さえ、何の躊躇いもなかったが、問題は実直な相手の感じ方である。鬱で心療内科に通院し、抗鬱剤を服用する人は気の毒だとは思うが、気の毒だと思うことを自らに反映しない無意味な同情はよくない。

相手を理解することで我慢を強いられ、思考や行動を変革せねばならぬを今さら求めない。だから、疎遠であることが最善と感じた。人と人が自然に疎遠になるケースは世の中の常であるが、それはよくないからと勝手に解釈し、無理を強いて交流を続けるのもストレスを生む。武者小路実篤は、「天に星、地に花、人に愛」という色紙を好んで描いた。

言葉の出典は彼でないのを知ったが、自然には自然の美しさがあるように、人為にも人為の美しさがあるということだろう。「天に星」、「地に花」という、比類ない表現に感心させられ、改めてこれについて所感を述べたくなった。いじめを好む人間に、「人への愛」の気持ちを持てないものだろうか。そうした優しい気持ちを育むのが親の子どもに対する使命ではないだろうか。

泣いたもの勝ちなのか? ①

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 泣いた女がバカなのか 騙した男が悪いのか
 褪せたルージュの唇噛んで 夜霧の街でむせび哭く

西田佐知子のヒット曲『東京ブルース』の女が泣く場面には、「泣く」と「哭く」の二つの文字があるが、「哭く」は当て字であろう。「慟哭」とは、悲しみのあまり声をあげて泣くことだから、そういう状況だろう。女が泣くのは「男泣き」ほど稀有なことではないから、嫌というほど見せつけられた光景だが、「見せつけられた」のが二人の場合ならまだいい。

男女が数人入り混じった場面で、これをやられると男は困る。泣くだけならまだしも、靴も履かずに素足で飛び出していく場面もあった。冷たい冬の路面に靴も履かずに素足で(パンストは履いていたと思うが暖の効果はなかろう)どうなる?玄関で靴を履くくらいの判断はあってもよさそうだが、それをしないところが、「我を忘れて飛び出した」という効果は高い。

「我を忘れて」もいいが、靴を履くのを忘れてはダメだろう。こういう時の女の感情はどこまでが演技でどこまでが忘失状態か分からない。その女以外は誰にも分からないだろう。そういう感じで跳び出せば、きっと男は追いかけてきてくれるという思いもあるのか、それすらないのかも分からない。人前でそれをやられたとき、「行ってやれよ」と友人はいった。

「いや、放っておく」と自分はいったが、自分のその態度をみた同僚女性が後を追い、連れ戻してきた。あの時そうしなかったら、彼女はどうしたのだろう。わからない。「あの時、ああしなければどうなっていたか?」というのはいろいろあって、しなかった場合についての答えは、想像するしかない。「歴史に"たら"はない」といわれるが、日常においても"たら"はない。

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「ダメだろ?女を泣かしては…」戻ってきたかのように、女への同情言葉を投げかける友人たちだが、こういう場合のお決まり言葉である。「泣かしてなんかない。勝手に泣いただけ…」などの言葉を返すのは大人げない。だから男は黙っている。「泣かせた方が悪い」という風潮は間違いなくある。だから、泣いたものが勝ちというなら、どういう勝ちだということなのか?

「泣けば悪いのは相手」という意味と自分は捉えている。泣いた側に罪があっても、泣けばその罪は一転して、泣かせた側に移ってしまうというなら、そんなバカな話はないし、こんな理屈は通らない。思えば実母とのバトルで嫌というほど体験させられた女の泣きの理不尽さである。それで得た結論は、「泣こうが喚こうが悪い方が悪い」というものである。

泣いたもの勝ちというルールはスポーツにもない。負けて泣くのも勝って泣くのも個人的な事由による。競技中に泣いて試合が止められることもないし、泣けばどうするという競技ルールもない。同じように、恋愛ゲームにおいても泣けば勝ちというルールなどない。が、泣きは反則行為に等しいと自分は感じている。それは、男の暴力が反則であるようにだ。

「女が泣いた時にどういう処置をとるかで男の優しさが試される」という女性エッセイストの一文を見たとき、こんなことを書くから誤った優しさが世の女に喧伝されていくのだろうと思った。女が女の都合で書いたり物申したりするのはそれはそうかも知れない。男の論理に女が承服しないように、男女が相容れぬ状況判断というのは、それこそ山のようにある。

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それが「男の見方・女の見方」として、あれこれ書かれている。どちらの主張が正しいかを判断するのはオカマが適切ということもないし、「ところ変われば品変わる」というように、同じにんげんでさえ国や主義によっても善が悪に、悪が善になる。この世に絶対的無謬がないように、善悪も相対的であるなら、正当性について正しく検証するというのは、実は難しい。

かくて残された手段は話し合いによる妥協である。夫婦や親子や恋人同士のゴタゴタは、犬の餌にもならぬようなものが多いが、哲学者を必要とするような無理難題を解決する時によく使われるのが、「人間性」、「人間味」、「人間的」という便利な用語であり、それを基にするのは、「法外の法」というものになる。これは哲学用語などで以下注釈を入れておく。

法治国家の裁判における判断は法をすべてとするが、遠山の金さんではないが、義理・人情を旨とする日本社会には、たとえ満場一致の議決ですら法外の法を無視することを得ず」という断固たる不文律がある。それが情状酌量という判断となって、人間味のある名判決となる。親の傲慢支配から逃れるがための親殺し、レイプを忌避するために思い余っての殺人などなど…

それに比べれば夫婦喧嘩や恋人同士の痴話喧嘩などは、早々に妥協して解決すべきであろう。自分は切羽詰まった状況での女の泣きは、上記した男の暴力と同等のルール違反と定めており、泣きに左右されることはない。子どもの聞き分けのない泣きも敢然と無視したように、躾の類というのはその場その場の状況で変えてはならない確たるものであるべきと思っている。

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親の都合で決まりを変える時に、「親バカですから」などというのは、とんでもないこと。心を鬼にしても決めたルールは守らせないと、躾はできなくなってしまう。「一貫性」というのは、己の情に対する挑戦でもあり、動かぬ姿勢を貫くことで、相手に諦めさせるのを意図する。ごねてもダメと分かったら子どもはごねない。泣いても無意味と分かった女は泣かない。

躾と教育は同じといえば同じものだが、以下は違いを指摘する記述。「躾は道徳的観念に基づき、社会的な規範に則った行動を取るように行動を誘導、あるいは強制する事」。「教育は基本的人権に基づき、精神的、肉体的な成長を促すために必要な知識、経験を与える事」。「躾けとは、教育を受けた結果、得た学びを実践する過程において、常に正しく実行できるように、習慣化させてあげること」。

「教育とは、何をするべきか?何をなすべきか?そして、それはなぜか?…を本人が自ら気付けるように関わること」。躾と教育の違いを前提に記せばこうなるが、厳密に分けることに差ほど意味はなく、的確・適切な方法を対象に用いればよいだけのこと。大事なことは、施す側に安易な例外を認めぬ毅然とした自制心であり、それなくば一貫性が失せ、効果は落ちる。
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