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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    恋は人を詩人にするという。同時に恋は人を哲学者にする。哲学とは人間について考える学問だ。ゆえに恋人についてあれこれ思考を巡らすのも哲学である。つまるところ人を賢くし、人間としての情感を豊かにしてくれる。しかし、恋がいつも楽しいとは限らない。恋に苦悩がつきものなのは、人間が一筋縄ではいかないからだろう。人は人の思うようにはならない。

    ゆえに恋も思い通りには進まない。しかし、「恋」というものは相手に強く引き付けられている思いが満たされず、苦しく、辛く思う気持ちをいうのだろう。ゆえに恋の神髄は悩むことである。それが恋であり、その思いを満たそうと努力するところに価値を見る。だからこそ人間が生きていく上において、恋は無上の楽しみに彩られる。たとえそれが悲恋に終わろうとも…

    恋を難しくするものは、人間の心理の様々な変化であろう。感情と感情のぶつかり合いである恋に技法はあるのだろうか?そのような指南書の類は沢山出版されているが、恋は生きたものであり、そんなのを読んで恋がうまくいくはずない。一切は売らんがための本であり、たとえ同じようなケースがあっても、指南書にあるような手練手管は当事者違えば性格も違う。

    当て嵌まるものだろうか?恋にテクニックがあるのかないのか、あれば効果があるのか、考えたこともないが、恋は自らの気持ちに素直でいればそれでよいというのが自分の考えだが、そんなものは具体的に披露するのは難しい。その時の状況や気持ちに素直でいれば素直に対処はできよう。なぜならある一人の女の価値というのは、自分ひとりにしか分からぬものである。

    他人が何をいおうと自分のことだ。ブサイクといわれようが腹も立たない。自分が良いならそれでいい。そもそも他人に自分の価値が分かるハズがないのだから。どの女にしろ、すべての一般的な価値を持っているわけではない。美人や巨乳が女の絶対価値ではあるめ~。例えば巨乳の恋人を持った男が別の巨乳女に恋をしたが、恋人以上の巨乳を想像した結果である。

    そうした心理変化はあくなき欲がもたらすものだ。誰と交わったところで格別の違いはない。あるとするなら気持ちの違いである。別の言葉で好奇心という。隣の芝生は青いということだ。それがいつの日か、隣の芝生は別に青くないと思えるようになったとき、情緒が安定するのだろう。女の尻ばかり追い回して得る者など何もない。それが、「隣の芝生は青くない」である。

    もし、数十年前の恋人の情報(存在場所)を知ることになれば、アクションを起こす者はいるだろう。自分もアクションを起こした一人である。学童期や学生時代の友人と会って、何が楽しいかといえば当時の昔話である。それしか共有の話題はない。ゴルフのスコア自慢や病床歴を言い合ったところで、話が弾むことはない。やはり、あの頃の思い出話に花は咲くものだ。

    誰もが、昔の恋人と当時の話をしてみたいのは、級友と昔話をするのと同じ気持ちである。もっとも、へんちくりんな別れをしているなら、抜け抜けと話しができるものだろうか?自分は彼女とへんちくりんな別れをしてはいない、だから恨まれることはないと思っていた。が、「なんであなたは私の前から消えたの?それも突然に…」。責めてはいないが似た感触だった。

    ♪ 懐かしい痛みだわ ずっと前に 忘れていた…松田聖子の『SWEET MEMORIES』の出だしの歌詞。そんなものかと。♪ でもあなたを見たとき 時間だけ逆戻りしたの…と彼女はいわないが、そんな風だったろう。だから思い出は、Sweet Memorieであるのがよい。しかし、45年を経た声の再会が、3日で終わろうとは夢にも思わなかった。見ていた夢が覚めたと自らに言い聞かせた。

    終わらせない選択もあったし、それは可能だったが、終わらせたからには相応の理由があった。しかし、その理由さえ不問にすることはできる。終えない選択をあえて終わらせたのは他でもない自分の別れの美学である。別れを決めたら、思わせぶりな言葉などを吐くこともせず決然とする。まるで何事もなかったかのように、後ろ髪すら引かれぬ自分に成り代わる。

    メールもアドレスも無用のものと即刻削除し消去する。「あったこと」を、「なかったこと」にするにはそうするのが良い。何かを形跡のようなものを残しておくのは、真の意味での、「なかったこと」にはならないだろう。そういうことができる人間はおそらく幸福であるからで、幸福な人間はまた、幸福を求めたりはしない。ばかりか、不幸であることにおいても無縁であろう。

    幸福な人が幸福であることを望まないなら、不幸な人は幸福を望むのだろうか?巷に氾濫するさまざまな『幸福論』の対象者は、いうまでもなく不幸な人であろう。ならば、不幸な人は『幸福論』を手にすることで幸福になれるのか。以下はある『幸福論』の中から描き出したものだ。「人間の生活は不断の迷妄に過ぎない。人々は互いに欺き、互いにへつらう。

    誰も我々の面前では、我々について、陰で言っているようなことは言わない。人間同士のあいだの結合は、かかる相互の欺瞞にもとづいているに過ぎない。陰で友人が言ってることを、もしもお互いが知ったならば、たとえ真心から感情を交えずに言ったのだとしても、それに耐えうる友情はまれであろう。それゆえ、人間は自身においても他人においても、偽装、虚偽、偽善であるに過ぎない。

    彼は他人から真実を聞くことを欲しないし、他人に真実を語る事を避ける。正義と理性からかくも遠く離れたこれらの性情は、人間の心のうちに生まれつき根差しているものである」。多少の読解力を要す文言だが、キーワードは「迷妄」という言葉にある。あまり使わないが、「迷妄」の意味は、物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込むこと。事実でないのに事実と信じること。

    確かに言われる通り、世の中はそれで成り立っている。真実が少ないのではなく、真実が隠されている現状を憂いているということだ。言葉の主は『パンセ』の著者でもあり、「人間は考える葦である」という言葉を残したブレーズ・パスカルである。名著といわれる『パンセ』であるが、果たして日本人の中に『パンセ』を愛読するものが学者を除いてどれだけいよう。

    自分も同著を強い関心ろ理解をもって読んだことはない。せいぜいかいつまんで抜き書きしているのがいいところだが、研究者によるとパスカルは、キリスト教がいかに素晴らしい真の宗教であるかを証明するために『パンセ』を書いたといわれている。『パンセ』の別名を『キリスト教擁教論」という。が、『パンセ』には主教論や人間論を超えた何かがあるようだ。


    「人間論と宗教論を結び、両者への関心と理解を喚起するもの」は何か?というならそれが幸福論というものであり、したがって『パンセ』は幸福論といって過言でない。幸福論は不幸の自覚から始まるとするなら、パスカルの幸福論もまずは、人間がいかに不幸なものであり、いかに悲惨な状態におかれているかを描き出すところから始まっている。それが上記の文言である。

    話を表題に戻そう。新年早々に彼女が送り届けたメールの真の意味は、言うまでもない交流の復活であろう。そんな言葉はどこにもないが、文脈や流れからしてそれを望んでいるが、書いている内容は、自身の婚姻後の労苦が大半を占めていた。それによって精神のバランスを崩していると書き添えてある。自分はそうした中味の意図から同情心を求めていると判断した。

    同情を誘う手口は、女性が女性であるがゆえの共感を求めるテクニックで、昔からの手法である。ただし、現代の分析心理学では、サイコパスと危険視されている。最も顕著なのが、「可哀相なフリ」をすること。『良心を持たない人たち』の著者マーサ・スタウトは、「空涙はサイコパスの得意技」と述べている。そういう知識のある自分はそうした含みから文を読んだ。

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    文字や言葉は意味を伝えるだけではなく、気持ちを伝える側面がある。手紙やメールというのは文章なのか言葉なのかを問う前に、言うべきことが適切に書かれ(表現され)ていればよいわけで、語りかける記法か、整然と文字を並べているかの違いである。書かれたものから、書かれていないものを読み取るのは、感受性であり、能力でもある。正しく読むには冷静さが必要だ。

    人が何かを言ったり書いたりする際は、嫌な体験や腹の立つようなことだったりの場合、愚痴や気晴らしも含めた記述になることが多い。いつの場合も人はその時の気持ちが文や言葉になるが、書き手の意図そのままが読み手に伝わるとは限らない。書き手の技量、読み手の力量にも関連するからだ。喜怒哀楽を伝えてみても、相手によってはまるで伝わらぬことも経験した。

    中学高校のころだったか、母親から受けた凄惨な体験を友人に話してはみたものの、共感は得られなかった思い出がある。友人たちは一様に、「親は大切にしなきゃ」、「親の悪口言わない方がいいよ」などの言葉を返すばかりで、誰も自分を理解してくれなかったのは、そういう親を理解できなかったのだ。親嫌いの友人が一人が、「親なんか結局自分勝手なものよ」といった。

    親に不満のない友人が多かったのと、「親は大切に」といった儒教思想の名残りがあったのだろう。自分でさえ、「親孝行はすべきもの」というのは正しいと思っていたが、そういう気持ちにならない現状に苦慮していた。思春期以降の自我形成期から親憎しが増幅していったのは、自己を確立する青春期に、その邪魔をするばかりか、親に従属するよう振る舞われた。

    さて、45年前の恋人に再会という尋常ならざる体験をしたが、それが3日で終わってしまったことも思いもよらぬ体験である。終わったのは、「終わらせたから」であり、終わらせない選択もあった。それを終わらせたのが自分で、相手にとっては「なぜ?」という部分もあるのだろうが、ある事を契機に180度展開したわけだから、想像力を発揮すれば、「なぜ?」の理由は見えてくる。

    受け取ったメールはかなりの長文であったが、内容を要約すると。①急に終わったことへの不満、②元夫への不満と離婚理由、③自身の情緒並びに精神疾患、④同僚への相談で得たアドバイス、⑤日頃の余暇の過ごし方、⑥進呈したお菓子の御礼である。それらを自分がどう判断したか。①は恨み節、②は不幸な境遇への同情心、③感情の起伏への理解であろう。

    ⑤は熱烈な宝塚ファンで、しばしば劇場にいくという。⑥は同僚からの指摘があった。自分が別離を決意したことには触れてはなかったが、「『その人は何も悪いことをしていないでしょう』と同僚に言われた」とあった。娘が勝手に宅配便を開けて手紙を開封したというのは伝えてないように思えた。おそらくその事自体は彼女にとって問題点だと気づいていない。

    これが一卵性母娘にとって自己肯定であり、娘批判になどとても至らない図式が見える。正しく分析した上で正しい謝罪はなく、ただ同僚に、「戴き物のお礼はいうべきといわれた」とあり、これは彼女自身の本意とは感じられなかった。「人から言われたのでしたまで」と、こういういう言い方は、自尊心の強い人間が相手に遜るのを「良し」としない場合に用いる。

    「人に言われたから行為した」と、こういう言い方はそれが事実であってもいうべきではない。大事なことは、人に言われて自身が気づいたかどうかである。そうした判断からこのメールは、謝罪でもなく、許しを乞うでもなく、誠実さも何もない、自己肯定感に満ち満ちたものである。こういう言葉を送る側の心の内をある程度正確に判断できる素養は自分にある。

    ここというときに、自尊心をかなぐり捨て、素直に、正直に相手にひれ伏せられるかというところが、人間性に重要なポイントであり、それからすると、こういう自己主張に彩られた文面からは誠実さの欠片も感じられない。「文は人なり」というが、文から人間性を理解できない者には無意味なことば。人に誠実に生きてきた者のみが、他人の文や言葉の誠意を理解できる。

    誠実の意味にはいろいろあるが、人に心を開放して本当に本当の結びつきを求めているか、自らの気持ちに自然でいられるか、これが真の友情・愛情の要件であろう。「自然な感情」に身をまかされると、人の心は間違いなく解放される。人の前で防衛的にならずとも、傷つけられることはない。人を信じる能力というのがいかに大事であるかが試されることになる。

    なぜなら、自分に人を信じる能力がなくて、相手の愛を信じることはできない。相手は自分の欠点も含めて愛してくれるものなのに、それを理解できないから、自分を作ったり、弱点・欠点を隠そう、良く見せようと背伸びをしたりして、虚飾の自分を演じてしまう。人と本当に結び付きが得られるのは、「心の解放」よりないだろう。が、それは一朝一夕にできないものでもある。

    残念ながら、そういう人間とは上手くいかないと自分は思って避けるようにする。権威志向で自尊心の強い人とは、自然で良好な関係が持てないのが自分の経験則である。今、この場で元夫の不満を並べ立てる場合なのか?この歳、同情心を寄せてくれることならなんでもいってみると感じた。真の謝罪に長文は無意味である。ともすれば言い訳になるからだ。

    自分は長文を書くが、こと謝罪においてはあらん限り短くする。「する」ではなく、「なる」といった方がいい。自分の自尊心を放り出し、一切の言い訳を弄すこともせず、ひたすら詫びる。それが謝罪と思っている。自分を相手に差し出すことである。命を差し出すのが武士の謝罪であるように、本当に大事なものを差し出すことが謝罪である。命までとはいかないが…

    これら彼女の文面からは、①正確な自己分析の無い恨み節。②同僚に言われたからアクションを起こした。③同情心を煽ることを主眼としている。④自身の非を認めて再度交流を望みたいとの真摯な気持ちが感じられない。もはや頭から消した相手となっていた。知人に、「百年の恋が一日で覚めるような体験は、できたらしたくなかった」と、直後に書いている。

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    先ずは結果をいうなら、前回と同様3日で終焉した。「3日坊主」とは言ったものだが、前回も3日、今回も3日…と、なんとも不思議な結果である。常々破局というのは、「どちらか一方だけの責任ではない」という持論だが、これはあくまで破局。交流期間3日を破局とは言わないだろうし、この際正直にいえば、「とんでもない女」ということで一方的に逃げ出した。

    それについての理由を書くのは悪口と捉えかねられないが、黙っているよりも人間考察において公益性はあろう。やたらめったら他人の悪口三昧で気分を和らげるという羞恥な情緒は自分にはない。いろいろと書いた母親についても悪口と受け取る人もいようが、批判とただの悪口は似て非なり。悪口に考察はないが批判はそれを伴う。よって、悪口と批判の違いはそこにある。

    批判とは単に否定的になるのではなく、自身の論理構成や内容について内省することを意味するなら、人間が生きる上で批判は欠かせない。ともすれば批判は情緒的になりやすいので、しっかりとした土台の上に、自分を活かし、反映させるものでなければならない。自分にとっての他者批判は自身を向上させるものであったし、批判がなければ自己格闘はできなかったろう。

    ある学者は批判的思考(クリティカル・シンキング)について、「批判とはあら探しではなく、理想的には思考過程を改善するための情報の提供をも意味し、したがって批判的思考とは、複雑な判断、分析、統合、また省察的な思考や自己モニタリングを含み、文脈に敏感な高次元の思考技能」としている。そこまで高次な批判がなされるか否かは批判者の思考レベルにもよろう。

    子の親批判、嫁の姑批判、夫(妻)の妻(夫)批判、生徒の教師批判は冷静になされる方がいい。正月に高1の孫が部活を辞めたという。あれほど好きだったバスケで、特待生で私立高に進学した彼が、指導教諭を批判して退部した。母親は勝手に辞めたと怒るが、自分はむしろ評価した。理由は教諭の勝手な誤解(思い込み)で、2か月の部活停止を命じられたと同時に退部届を出す。

    あれほど好きなバスケを辞めるわけだし、よほど腹に据えかねた自由があったのだろう。母親は目先のことしかかんがえていないが、相手が誰であろうが理不尽な行為に蓋をするような人間でないところが好感を持てた。この体験で失うものはあったとしても、彼の将来の人格形成にプラスになろう。男は筋を通してこそ男であって、私利優先で他人に媚びる人間が多すぎる。

    授業料一切免除の特待生なら退校になるが、部活費用免除の特待生であったことで学校に残れた。「後悔していないのか?」と聞くと、「していない」と返す。「それならいいが、多少の後悔はあっても、理に合わないことには屈するな。女(母親)には理解できなくとも、男のことは男なら分かる」といっておく。父親が黙っているのも理解はし、妻と事を荒立てないためだろう。

    とかく目先のことばかりガタガタと女はうるさい。今回のことは彼の将来の試金石になるだろう。そういうものを大事にして子どもは導くべきである。退部以後母親と口を効いていないというが、彼自身が体験したことだ、何を怖れることがあろう。自分の経験でいえば、支配意識の強い親に反発するのは自我確立からの反動である。子どもの成長・発達には自然のルールがある。

    それに強く人為を反映させると、自然は猛威を振るうのではないか。思春期時期の子どもは、大人の仲間入りをする時期であるから、親も教師も子どもとして見下し、大人への自我欲求を認めなければ子どもが反発するのは当然だ。娘(母親)を見て思うのは、自分の描いた理想図と食い違ったことに対する許容量のなさ。「何のためにこの学校に入ったのかが台無し」などという。

    「バスケをするために入ったのだけれども、練習のキツさ、辛さに根をあげたわけではないし、彼にとっては絶対に承服できない教師に振る舞いだったと思う。彼にとっての大事なものを差し出しても筋を通したのは男として骨がある」。この言葉を母親が理解できると思わない。理解するというのは、理解できない事を認めることで、理解できないから怒るのは間違っている。

    人は自分とは違うわけだから共感できることばかりではない。人は人を理解できぬとぶしつけな態度をとるが、理解できぬことに対する配慮が微塵もない。他人を理解することは難しいとの前提で、他人の存在を認めることがキャパシティであるが、寝食を共にする親子や夫婦というのは、そこが試練ともいえる。話を戻すなら他人となら付き合いを止めるのが正解だ。

    自分にとって必要であるべき相手を間違えてはいけない。必要な相手とは、自分の気持ちに自然でいられる人のこと。それが真の愛情・友情といったのは理に適っている。45年前の恋人だからといっても、交流するのは今である。懐かしさが人間関係に上手く機能するというものでもなかろう。昔は上手くいったとしても、45年の歳月は互いを大いに変えているはずだ。

    20歳そこそこの人間が、正しく相手を捉えていることもない。無理をせず、我慢もせず、心を開放しても自然な結びつきが得られるのは良い関係であろう。そもそも、「懐かしさ」とは何であるか?「基本的信頼感」というのがキーワードになる。基本的信頼感は人生の最初の時期に人間が獲得する、人間関係を形成する上で最も大切な、基本的な感情といわれている。

    さらに、「基本的信頼感」とは、人がこの世に対して抱く信頼感の事で、「懐かしい」と言う感情も、「癒される」と言う感情も、人間が遠き赤ん坊の頃に近い状態の時に体験した、「基本的信頼感」が揺り動かされて生じる。人が何かを懐かしいと思うとき、人は、自分がこの世に受け入れられて愛されてきた感情を想起し、人や社会に対して信頼感や愛情を再確認する。

    したがって、懐かしいと言う感情の中には、不信感はない。相手に対しても自らに対しても肯定的で良い感情のみが詰まっている。極論的にいうなら、「懐かしいという感情は、無償の愛を感じている」ということであり、でそのことがそのまま安心に繋がり、それによって人は癒される。ところが、そうした懐かしい相手と現実を行っていこうとするときに、当然ながら問題は派生する。

    「懐かしさ」はまた、自身の過去を内省するということも多く含まれ、これは個人的なことながらも純粋な内面的な心の作業であり、ある種、「禅的」な行為ともいえる。したがって、「懐かしさ」とは、「内省」の情であり、あの頃の自分に戻りたい、戻って立ち止まってみたい、できることならやり直してみたい、などの思いに駆られるのは、そうした事由によるのではないか。

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    彼女と出会った45年前の記憶を辿れば、夏に出会ってその年の冬か、明けて翌年には別れている。長野に帰るときに新宿のホームで見送られたというが、自分には記憶はなかった。彼女はまた、始めて声をかけられたときのことを覚えていた。「最初なんて声をかけたの?」と聞くと、「ぼくは高円寺に引っ越したんだ」といったという。その時の彼女の思いを聞いて驚いた。

    「この人がどこに引っ越そうがわたしに関係ないのに、何でそんなことをいうのだろう」と思ったというが、今に思えばこれが彼女の人間性を如実に表すものだと感じた。こうした彼女の45年前の性格は現在そのまま引きづっている。自分の驚きの理由とは、初対面に声をかけられた会話の内容は、まるで自分に関係のないことであるのはむしろ当然のことではないか…である。

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    その当たり前のことに疑問を持つという彼女は、人と人のコミュニケーションというものに違和感を感じているのではないか。邪悪な心とまではいえないにしろ、人の良心とは、人への興味から、共感を得、人を愛せること。それが人と人との温かい交流を生むが、サイコパスの特徴は良心がない。恋愛はタダのゲームであり、ゲームに勝ちたいとの強烈な思いが支配する。

    したがって、人を支配して思い通りに動かしたい欲望がある。その為に他人の同情を誘い、嘘をつき、善良な人を利用する。良心はなくとも、良心のある素振りはできる。が、結局は自分の為だけにしか行動しない。自分に興味のないこと、都合の悪いこと、相手の要望はことごとく無視をし、自分を価値を押し付け、不利とみるや逆ギレして反発をする。

    他人への思いやりが絶対的に欠落しており、手段を選ばずに自分の欲望を満たそうとするだけの人。彼女はまさしくこういう人であった。こんなことは認めたくない、思いたくはないが、このこと以外に彼女を説明できるものがないと感じられた。そのような結論に至った理由を書いてみる。「男の一言」を信奉する自分が、彼女のメールに返信したのは彼女への人間的興味だった。

    人間に強い興味と関心を抱く自分である。それらからして、前回の彼女との離別の原因ですら、怒りとか失望を超えた人間的興味で、もっと掘り下げてみたいという思いもあった。彼女に対する昔の恋人というノスタルジーは、いまや消失してしまっていたが、人間的興味との理由で交流を始めてみようと思った。その前に前回彼女に拒否されたある条件を提示した。

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    条件とは、PCメール受信設定すること。画像交換を可能にすること。彼女の拒否の理由は、「メールは携帯でしたい」だった。自分にとって携帯はずっとお荷物でしかない。所有の携帯も、家族の連絡事項との理由で娘から強制的に持たされたもので、携帯が便利と思ったこともなければ、外出時に持ち歩くこともなく、数文字のショートメールしか経験がない。

    過去のメール相手はすべてPCメール送信で、拒否された場合は交流をしなかった。すべての知人、友人、家族にもショートメール以外の携帯のアドを教えない。教えるとメールをされて迷惑を被るからという理由。PCキーボードからのブラインドタッチにすれば携帯メールは甚だしく非合理的でしかなく、Sメールでさえ打ち込みにストレスを感じてしまう自分。

    PCメールを彼女が拒否したとき、彼女でなければ即座に交流を止めていた。彼女はまた画像交換を拒否したが、その理由がバカバカしいほどに子どもじみていた。「カメラが壊れている」という。人間はしたくない事を、「しない」、「できない」というもので、そうと知りつつ、「娘さんの携帯で写メればいいんじゃないか?」といえば、「娘のは使いたくない」という。

    これだけ聞いても、彼女はいかにも頑固で、自分の意図しない他人の要望はことごとく無視をする人と感じた。「カメラが壊れている」は小中生如きの稚拙な理由であり、「娘のは使わない」は、理由としては羞恥の類である。自分の容姿のダメージを気にしてのことだと感じたが、そんなことは率直にでも言えるし、言い回しもできようものだが、それがない人である。

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    それなのに、「逢いたい」という心理は分からない。画像を交換して、それなりの気持ちの準備をするのが妥当であり、百聞は一見にしかずともいう。彼女はしきりに眼鏡をかけてるとか、白髪を染めてるとか、以前より太ったとか…、まあ、それも女心かと許容するキャパはある。おふざけでこんな風にほぐしてみた。「昔は黒かったけど、今は上も下も白いって、当たり前だろ?」。

    「それって嫌じゃない?」。「嫌だったらヘタるんじゃないのかね~。男は分かり易い。前もってああだこうだ言う前に、あの頃のわたしに戻ってあなたに会いたいっていうだろ?それが純粋さではないのか?前ぶりが多すぎると、こちらまで不純になりかねない」。PCメールは、「3日にするから」と了承したが、画像交換は、「そのうち」と先送り。自分はPCのアドを送った。

    PCメールも画像も前回出会った後、すぐに送信してみたが、どちらも受信拒否となっていた。自分は先回りしていってみた。「スパムや迷惑メールの多い時世だけど、一人のメールアドレスだけでも設定可能と話し、自分で設定する方法のURLを送り、「設定完了したら連絡を…」と待った。4日の昼に連絡があり、その記述を見たときに、なぜか違和感を抱いた。

    違和感というのは、「設定をしていないな」と直感的に感じたからだ。普通なら、「設定しました」、「やったよ」、「PCメールできるよ」などの肯定的な言い方になるはずだが、そうした言葉はなく、「入力したけど、どうかなぁ?」であった。「こんな言い方するだろうか?」と思いつつ、言い方はともかく設定できていればいいとメール送信のテストをしたところ、できていなかった。

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    送ったアドの入力ミスの可能性もあり、それを伝えたが、「間違っていない」という。ばかりか、彼女はドコモショップに行って設定を頼んだという。ドコモがそんなミスをするのかと訝り、ドコモに問うてみた。設定はアドさえ間違わなければ操作は簡単」という。ドコモがそんなミスをしてはサポートの意味がない。ましてや彼女のいうことが事実なら、彼女の怒りはドコモに向くはずだ。

    彼女が嘘をついていると確信した自分は、「あなたはなぜ怒りをドコモに向けないのか?それがすべてであり、人の頼みをやる気がないならしなくていいが、ウソをつく必要がどこにあるのか?」と、送信したとき、まるで見当違いの返信が送られてきた。会話になっていないばかりか意図的に問題点をずらして、現段階で起こっている問題を避けている内容だった。

    交流を願うなら簡単に設定すればいいだけのことを、なぜにこれほどあずるのかを考えるとき、彼女が相手の要望に応えようとしない理由を理解した。PCメールを設定しない合理的な理由などはなく、ウソをついてまで相手を罪に陥れようとする彼女に良心はみられない。人の指図に従うのを嫌がる性格であるばかりか、他人に対していい加減で不誠実な人間と判断した。

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    仕事は、「迅速」、「丁寧」、「正確」が良いといわれるが、このようにされた側は誠実さを感じる。今日できる事は今日、今やれることは今、これを習慣づけておけば、何事も迅速・的確になされる。あとはぬかりなきよう丁寧であればよい。先送りの危険性は失念である。多事に追われて忘れるのは人間の常、それを防止するためにも「思い立ったが吉日」である。

    「今できない事を明日やれるはずがない」をモットーにすれば、自然と仕事のできる人間になる。何かと先送り、先延ばしする人間に仕事のできる者はいないだろう。「疲れた」、「忙しい」、「面倒くさい」を禁句にする自分だが、こうした言い訳が人間をダメにすると思うからこそである。今できる事を即行動せねば落ち着かない自分は多分にせっかちともいう。

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    が、せっかちを長所と考えている。長所・短所というものは相対的であり、ならば前向きに考えるべきであろう。面倒くさがり屋の人間がいる。なぜにそうなのかは分からないが、自己啓発がなされないのだろう。「明日やる」、「いつかやる」、「そのうちにやる」という心境は到底理解できない自分だが、そういう人を批判するより、笑って済ませられる。

    以前はそうではなかった。行動しない、動こうとしないうじうじした人間には腹をたてたりした。仕事を命じる立場にある時は、特にそこは厳しく指導した。言い含める言葉はいろいろあるが、ひたすら自分は、「迅速・丁寧・的確は誠実である」と、そのこと一点重視で理解させようとした。またその際に、「誠実」の対義語を、「だらける」として批判した。

    「言葉」は人を裏切るが、結果はともかくとしても、「行動」は人を裏切らない。「言行不一致」とはそれを標榜する不誠実さをいっている。約束を守らないでいながら平気の平左という人間がいる。責任感の無さであるが、これほど不誠実を感じることはない信頼も信用もできない人間である。頼んだことはキッチリとやってくれる人間には信頼がおけるだろう。

    「こういう人間とは付き合えない」の断トツが不誠実な人間である。不思議にそういう人間がいる。女に多いが男にもいる。ただただ、不思議というしか言いようがない。何を好んでいい加減な人間と付き合う理由があろう。約束を破る人間に共通するのは、「破りたくて破っているのではない」という言い草だ。言葉にしなくてもそういうニュアンスが読みとれる。

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    だからか、「また破ってしまった。ごめんなさい」などという。これを謝罪といえるのか?相手にすれば謝罪のつもりでも、こちらはバカにされたも同然であって、謝罪とはならい。こういう人間には怒りを超えて、「何でそうなるの?」である。どのように分析すれども、「いい加減な人間」というしか答えは見いだせない。約束に対する思い入れが違うのだろう。

    「子どもと大人とどちらが約束を守るか?」の問いは愚問である。大人・子どもというより性格の問題だ。ただ言えるのは、子どもは本当に忘れている場合が多い。それを純粋といってみる。大人は忘れていないのに忘れたフリをする。これを邪悪といってみる。貸した金を返さない。請求すれば、「ごめん、忘れてた」。忘れていたは返さない理由になるのだろうか?

    「忘れる」=「不誠実」であるから自分は理由として認めない。子どもも大人も嘘はつくが、子どもの嘘は純粋である。要は、我が身を守るための嘘であることが多い。「子どもが嘘ばかりつくので困ってる」という母親がいた。「何をどう困ってるんです?」と聞いたら返答に困っていたが、何を困るのだろうか?子どもの嘘は、実は本音の裏返しであることが多い。

    「叱られたくない」、「親が怖い」、だから嘘をついて逃れようとする。それを叱りつけても問題は解決しない。むしろ、子どもの心のシグナルと捉えた方がいい。に対して、大人の嘘は不純である。純粋な嘘をつく大人もいるが、邪悪な人間は嘘をついて相手を罪に陥れようとする。子どもにこうした嘘はないが、もしそのような子どもがいるなら問題であろう。

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    なぜ、嘘をついてまで相手に罪を着せるのか?自分のためにつく嘘は、自分を甘やかせているという解釈もできるが、嘘で他人を罪を着せる大人は要注意人物とみなした方がよい。PCのアド設定を頼んだ彼女が、「入力したけど、どうかなぁ?」と返され、即座に実行されていないと感じたが、懸念通りだった。なぜこのような言い方をしたのかを推理してみた。

    この時彼女はドコモショップに行ったといってない。以下は彼女の言動に対するプロファイルである。彼女は自分で設定はせず、ドコモにも行っていない。できてない理由を彼女にこう指摘した。誰もができてあなたができない理由が不思議」。すると彼女は、「ドコモでやってもらった」と述べた。ドコモでやったということで、真摯な対応をしたと思わせたかった。

    ドコモでしてもらったのにできなかったのだから仕方ないでしょう。自分は悪くないといいたいのだ。これが邪悪な人間の世間や相手を愚弄した浅知恵である。「ドコモでできない」は一般的に通用しない。「ドコモでやれば間違いなくできる」という思考が彼女に抜け落ちている。権威を利用してしてもいない行為を、したかのようについた嘘を見透かされてしまった。

    彼女に、「ドコモでできないハズがない」という真っ当な考えがあれば、こういう嘘はつけないはずだが、ドコモを都合よく利用して墓穴を掘ってしまったのだ。「ドコモでできないならAUに行ったら?」と自分は皮肉った。すると彼女は、二人の懸案の問題にさっさと蓋をし、「早くどこかで会って色々話そう」と話題をすり替える。これが男には理解不能な女性脳である。

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    論理的に追い詰められ、逃げ場がなくなると、何事もなかったかのように180度方向転換をするのはしばしばみられる女性の特徴だが、男には絶対にできない不思議な感情である。おそらくこれは、神が与えし賜れた女性の本能的な論理からの逃避行動であろう。すべてを自分一色に染めて相手不在にできるという能力は、男からすれば芸術の域であるが、これが男を憤慨させる。

    自分は女性を多角的に捉えるので、こんなのは子どもと同様の稚拙な逃避と理解するが、追い詰められた女はヒステリーになるか、その場から逃げ出すか、もしくは彼女のように自分の世界一色に染めて状況を遮断するかのいずれかだ。まあ、ドコモの嘘など所詮はコドモの嘘。彼女もはや65歳であり、ヒステリーの要因となる女性ホルモンの分泌はもはやない。

    色々な年齢や人生体験的境遇を経た人間と話す面白さはある。若いころのような無知からくる憤慨はもう自分にはなく、あらゆる観点で人を捉えることができるようになった。腹がたたないことがキャパシティーなのだろう。それを思うとき、親子関係においても、親と子は40歳~50歳くらいの年齢差の方がよい子育てができるのでは?あまりに親が子どもすぎる懸念を抱く。

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    百歩譲って彼女が言うように、本当にドコモショップで設定をしてもらったとして、それで設定できていなかったなら、おそらくこういう会話になるのではないか。「設定できてないんだけどなんで?」、「えっ、何で?ちゃんとドコモでやってもらったのに。できてないってどういうこと?」、「それが本当なら、自分にはわからない。そんなことあり得ないから…」。

    「本当よ!嘘なんかいわない。だったら明日もう一度行ってくる」。ショップにわざわざ出かけ、順番待ちをし、あげくできていないならショップへの怒り、不信が増すし、相手から、「行ってないんじゃないのか?」といわれたら心外であろう。本当に行ったことを執拗にに訴えるだろうが、なぜ、してもいない事をしたと嘘をいうのか?彼女がその理由をいうはずがない。

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    だからそういったことはこちらで考えるしかない。不誠実で良心もなく、いい加減な人間と定義した。嘘をつく人間に、「なんでそんな嘘をつくのか?」と聞くほどバカげたことはないが、それでもそうしか言葉はない。案の定逆切れした。自分を被害者に見立てて相手を無茶苦茶にこき下ろす。彼女は二度離婚している。こういう女に男は苛つくものだ。暴力を振るわれたというが…。

    暴力がいけないのは分かり切ったことで、こういう時の男の叫び声を代弁するなら、「教えて欲しい。どうすればこういう女とまともな対話に持ちこめる方法があるのなら…」であろう。弁が立つ、弁舌がキレるということでは全くない。そんな女が被害者意識を押し出し、あらん限りの言葉で相手を責め立てれば男は手を出すか、閉口するしかないだろう。

    暴力は野蛮、黙って耐えろということだが、昨今は女が男にする暴力も問題にされるようになった。妻や恋人からの暴力を「逆DV」というが、それそれ「逆」という前置詞も消えてもいいのではないか?労働組合中央組織の連合の調査(「ハラスメントと暴力に関する実態調査」2017年11月16日発表)では、婚姻経験者を対象に配偶者から暴力を受けた経験があるかを聞いた。

    その結果は、配偶者から暴力を受けたことがある人は31.6%。約3人に1人が経験している。その内訳は、「心理的攻撃」24.4%、「身体的暴力」14.8%、「経済的圧迫」13.9%、「性的強要」9.8%となっている。調査ではショッキングな結果も判明した。暴力を受けた対象の男女比においては、女性37.1%に対し、男性側も26.1%と高い割合を示していたのである。

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    ところが驚くべきは、若年世代に限ると男女比が逆転している。10、20代で暴力を受けたのは男女ともに33.1%だったが、30代では女性35.4%に対し、男性は38.1%だった。暴力の中味を細かく分別すると、「身体的暴力」を受けたのは10代・20代女性が19.0%なのに対し、男性は25.0%。30代では女性が14.6%なのに対し、男性は23.8%と大きく上回っていた。

    また「経済的圧迫」を受けたことがある30代女性が18.8%なのに対し、30代男性は23.8%にのぼっている。稼いだ給与を妻が管理し、自由に使える小遣いが少ないということだろう。若い男が結婚を嫌がっているとの数字をみるに、世の移り変わりを感じる。頼まれたことをしない、ましてや本人が了承したことであるにもかかわらずしないなら、相手から何かを言われて当然である。

    それで逆ギレする人間への対処の方法があるだろうか?良心のある人間なら自身の不始末を受け入れ、詫びて言い訳の一つでも言うのだろう。もしくは言い訳をせず、自身の糧として改める努力をする。人は自らの醜態を人から指摘され、学んでいくしかない。自己教育力に長けた人間でさえ、やはり自らには甘い。何かを学んできた人間と何も学ばなかった人間がいる。

    おそらく彼女は二度の離婚から何も学ばず、すべてを相手のせいにしてきたのだろう。あくまで推測だが、今回のことで逆ギレする態度を見ても、「自分が悪かった」という言葉は皆無であった。彼女の言い分としてこういう言葉があった。「思い出をたどるだけなのに、なぜこんなことになるのか?」。これは、「何であなたが私にあれこれ命じる必要があるのか」であろう。

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    彼女は人からの指示や命じられるのを極度に嫌う性向があり、対応しないのはそういうことに対する反感であろう。何かを頼まれることが指示・命令と感じるほどに、育ったという想像もできるが、前にあげた彼女の得意な性向がある。「何でこの人は私に関係のないことを話すのだろう」と、自分が初めて声をかけたときの思いである。これが自分には不思議に思えた。

    人はこちらに関係のないことを話すものであり、それが人との出会いである。誰も自分についての経験や知識しかないわけだ。「そんな風に思うものなのか?」と思いもするが、実際彼女も元夫のことや結婚生活の実態を長々と記している。これを彼女の論理で言うなら、「そんなこと俺に関係ないだろう」といわれたらどうするのだろうか?思わぬからいいものを…

    要するにこういうことになる。自分はやるが、人のは認めたくない。これはコミュニケーション能力の完全な失墜である。男を一刀両断コケにするフェミニストが独身でいるのが正解なように、他人を受け入れられない人は一人で自由気ままに生活すべきである。一概にコミュニケーション能力の無さと断定はしないが、持ちつ持たれつや共感が自分と他者を結びつける。

    始めての電話をした数分の中で、離婚をしたと彼女が行ったときに、その時は夫のあれこれなどは言うこともなく、「私は結婚が向いていないと思う」と、何気に言った言葉が自分には引っかかっていた。おそらく彼女は自身のそうした部分も承知しているのだろうが、情緒は時に冷静にも攻撃的にもなる。今となってはこの言葉が彼女自身を現すものと理解した。

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    他人から指示命令されるのを嫌う人間に、善意な言葉は無用である。これすら反感でしかない。他人の言葉を善意と受け入れていれば、人間は学習をし、成長もするはずだが、二度の離婚からも何も学んでいないのだろう。ふと思うのが西川史子のこと。ちやほやされ、甘やかされて育った彼女は、時に自己中の権化のような発言で得意満面で息巻いていた。

    そんな彼女が結婚という現実に踏み出したものの、夫は早々に家を飛び出し別居をした。西川は、レギュラー番組の中で「帰ってきて」と夫に切ない言葉を浴びせたが、覆水は盆に戻らず離婚した。その後、彼女は夫の悪口を言わず、「夫から嫌われた。私が至らなかった」と述べたのを聞き、彼女は感情主体の女かと思ったが、実際は理知のある人だと見なおした。

    とんがった発言、非現実的な物言いは、すべて親が甘やかせた責任であって、他人との共同生活にはそれがマイナスであるのに気づいた。気づいたものの、自己変革はそうそう簡単ではないし、すぐには直せない。彼女は恋に憶病になっている。又人を傷つけ、自分も傷つくのではないかと。自己変革への自信がもてれば、再び結婚に踏み出すかもしれないと、自分は読んでいる。

    確かに離婚後の彼女は現実思考になったが、それらも自己変革のための彼女なりの努力であろう。離婚前のレギュラー番組内では、「夫が出て行った」と涙ながらに語ったり、1月5日放送の同番組内で「(正月は)自宅で(インスタントカップ麺を食べてた」などと語り、自身の結婚生活に悩む西川の苦悩と葛藤を見た。自分は以前の西川を、「男を幸せ気分にさせない女」と見ていた。


    現実に対応しないで、「懐かしさ」だけで交流はできない。相手が何を望み、可能なら叶えてあげたいという優しさ、良心がなければ上手くはいかない。再度の縁はなかったとし、お互い良い想い出だけをしまっておきましょう。彼女のことは、性格云々よりも、情緒に障害があったということなら、理解できないことも収まる。45年後に新たな学習をすることになった。


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    何事においても文句ばかりいう人間がいる。男にも女にもいるが、共通する特質は行動しない事。文句ばかりいい続ける人には、「文句があるなら、さっさと自分でなんとかすればいいのに」と思わせる要素が多分にあり、行動しないから文句をいい続けられるし、相手に文句ばかりいう人間が、人と上手くやっていけるハズがない。独身フェミニストがまさに好例といえる。

    自己肯定感というのは大事である。自己否定するより前向きな生き方ができるからだが、自己肯定感を自己正当化と勘違いする人もいたりする。言葉だけが都合よく勝手に使われるのは困りもので、自身の過ちを正当化し、他人に文句を言うのを自己肯定感と言わない。過ちを認識できないで文句ばかりいう人は、自己否定からやり直した方がいいだろう。

    自己肯定感とは自己否定から生まれるものであって、何でもカンでも自己を肯定することと間違って受け取る人がいる。「自分はなぜこうも至らない人間なのか!」といった自己否定に徹底的に向き合うからこそ、自己肯定感が生まれてくる。自分を責めて責めて責め倒したあげくに自己肯定感が生まれれば、成長の証しとしての自己肯定感を得たことになる。

    子どもを持てば人は親になる。人間の子どもはペットの様に飼育するだけでなく、人為的な教育を強めれば心が歪む。子どもの成長・発育を考える場合、子どもの立場に立って考える態度と、大人の立場で考える態度がある。昭和30年以降の高度成長期に育児に失敗するケースの多くは、大人の視点や大人の都合など、大人の立場に立った子育ての風潮だった。

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    保育所、学校、親、一部の評論家らが、大人の立場に立った判断で子どもの教育をあれこれ考え行った。人間と動物の違いはあるが、どちらが良いか、どちらが間違っているかの判断は人間も動物もない。動物の子育ての原則は、大人の立場の考えを子どもに押し付けず、子どもの実情をキャッチして、それに合わせて親が育児態度を決めることにある。

    犬や猿やライオンなどすべてが育児本能という直観力で、子どもに合わせた育児態度を行っている。そうした環境から子どもは自分と他人の関係について学び、「自他の関係」から互いの幸せについて考え模索し成長する。子どもは親に育てられて幸せ、親もまた子どもを育てて幸せと、「自と他が互いに幸せ」という親子関係の下で子どもは健全に育つ。

    「お前なんか産まなきゃよかった」、「こんな親のところに生れてこなければよかった」などの言葉は、双方の心を引き裂く絶対禁句であるが、人間は愚かであるからついこのような言葉を吐いてしまう。こういう場合には言葉を持たぬ動物の方に理知が感じられる。前途のような親子関係が愛を育んでいくが、愛に欠けて育てば子どもは問題児の可能性が高い。

    母親の愛情に渇望があった自分は、父の無言の愛をしかと感じていた。生きていれば今日で102歳となる。満たされなかった母親の愛情を父が供与してくれ、それで幸せを感じていた。母親の愛の無さを負の要素と捉え、考えることができるなら、それで思考の幅も広がるだろう。傲慢な母は子どもを盲従させ、己が意のままに支配してしまおうとの魂胆に見えた。

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    そうであるなら、そうならないようするのが子どもの防御策である。誰が好んで他人のロボットになりたいものか。子の親への反抗は、理に適ったものだが、それが分からぬ親もバカである。なぜ反抗するのかの原因を自身に照らして考え、改めるなど修正しない親は、存在すること自体に害があり、何の益にもならない。それは親としての悲劇でもある。

    文明は人間の生活を便利にし、合理的にしたが、その反面、文明は人間を病める動物にした。人間の子育てにおける学問が完成されていなかった時代、欧米先進国においては200年~300年前から、「先進国型育児崩壊」が始まっていた。人間形成崩壊、家庭崩壊、社会崩壊という現象が起こっているにも関わらず、無策のまま放置し手をこまねいていた。

    こういう時代が長らく続き、欧米ではもはや人間の原点に戻った正しい育児を、学問的に考察するなど不可能になっていた。そうしたなか、心ある篤志家や児童教育に危機感を抱く人たちによって、子どもの教育に真剣に向き合おうと手立てがなされた。『ロビンソン・クーソー』のダニエル・デフォー、『トム・ソーヤの冒険』のマーク・トウェインらである。

    『最後の一葉』で有名なオー:ヘンリーの短編は、後年日本の教科書にも載った。『クマのプーさん』のA.A.ミルンや、『不思議の国のアリス』のルイス・キャロル、『小公女』のフランシス・H・バーネット、グリムやイソップらの童話作家、さらには、『ミッキー・マウス』のウォルト・ディズニーらも、文学やアニメを通じて子どもの成長や教育に大きな影響を与えた。

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    先進国にあっては、「人間不在型社会」といわれた負の要素を改めるべく寄与した人たちの功績は大きい。多くの親が我が子をダメにしてしまう、「悪魔の愛情」を隠し持っているなかで、それを啓発し、変革すべき多くの児童文学者には頭が下がる思いだ。彼らに共通する子どもの目線が、逆に大人にも共感を与えるようになる。昨今において一向になくならない「いじめ」の問題。

    これも先進国型社会が未熟な大人をつくり、そうした未熟な親によって育った子どもが引き起こしている。自分と他人の関係は、いかなる場合においても無関係ではあり得ない。45年前の出会いの記事に書いた彼女が、「自分に関係ない話をどうしてするのだろう」と思ったというのを、自分は異常に感じられたが、彼女はなぜかそういう風に育ったのだろう。

    さまざまな理由による親の子どもに対する愛情欠乏は、「他を愛する感性」、「お互いにいいものだ」、「他人にしてあげる喜び」といった感情が欠落し、自と他の関係を阻害する。もっとも重要なのが0歳~7か月の乳児期におけるマザリングの欠如、つまり母親の干渉が過度に少ない育てられ方をした子どもは、「自と他の関係が希薄になる」といわれている。

    「精神的孤児」状態に陥った子どもは、母親に関心を示さず、母親があやしても無表情であり、言葉の発育が遅く、ひいては親が呼んでも振り返らず、友達にも関心を示さず、自分の関心だけで動く子どもになるといわれる。友達へのいじめが始まり、年齢が進むにしたがって問題行動は増し、正常なコミュニケーション能力が育まれないことで、他人から疎ましく思われる。

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    こうした母親の愛が子どもにとっては、「自」と「他」が愛で結ばれる出発点になる。愛情といっても間違った愛情、過度の愛情は、それはまた別の問題を生むが、そうした度合いなどを正しく認識するためには、何より親が人間的に成熟するしかない。他の動物と異なり、本能機能の脆弱な人間は、体験を取り入れた自己形成や、脳を適応行動させる学習が不可欠となる。

    それらを習得、是正するための児童文学であり、ディケンズやユゴー、ドストエフスキーやトルストイなどは、児童でも読める作品だ。これらから共感したり啓示を受けて人は成熟する。したがって、成熟とは様々な引出しを持つことであろう。そういう引き出しの無い人は、単に自分が思ったことが正しいと自己正当化するが、これは比較のための素養がないということになる。

    子育ての能力とか充実というのは、やはり比較検討であろう。もちろん、体験の大小も重要となる。人間にとって何より重要なのは、人間の本能の成熟であり、適応行動の充実であり、そのあとに知性や技術的な知識が控えている。したがって幼児期にとっては知的であることはそれほど重要ではなく、それが本能の熟成にむしろマイナスになる事さえある。

    そういう懸念のないままに、他の子どもに比べて卓越した能力や技能を評価し、数多の知識の詰め込みを強いるのは他より抜きんでて、一見よさそうにみえるが、心や人間形成に歪がでる。そうしたことからも、人間の親は、好ましい育児のできる親に自らが成長し、さらには成熟する必要がある。親が成長すれば必ずや子どもも成長するのではないかと…。

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    1月11日午後7時ごろ、兵庫県伊丹市内のコンビニエンスストアに5歳の幼女が一人で入ってきた。手には10円玉一枚と1円玉一枚の11円を握りしめ、レジ横の揚げ物コーナーをじっと見つめていた。厳寒の冬に素足のまま靴を履いていたことや、足首が紫色になっていたことから不審に思った女性店員が110番通報した。駆け付けた同署員に幼女は、「おなかがすいた」と話したという。

    女性店員は幼女が入店したときの様子や、署員から事情を聞かされ、「こんなことが起きるなんて…」と驚いていたが、この事実を知った我々の驚きも半端でない。幼女は伊丹署内で保護され、事情を聴いた署員が12日に伊丹市内の幼女の自宅を訪れ、無職の母親(26)と、会社員の祖母(47)を傷害容疑で逮捕した。幼女の腹や脚に複数の傷が見られた。

    女児は逮捕された母親の次女で、母親は10日夕方、自宅1階の居間で、次女の左腕を石油ストーブの天板に約5秒ずつ2度押し付けたとされ、祖母は包丁を次女の顔に当てたり、叩くなどした疑いがもたれている。同署は日常的な虐待があったとみて調べているが、二人とも容疑を認め、昨年10月ごろからしつけのため日常的に暴行を加えていたとの供述をしているという。

    容疑者宅は7人家族で長女(6)、三女(4)も一緒に暮らしているというが、後の2人は父親と祖父なのであろうか。母親と祖母だけが傷害容疑で逮捕されたというが、父と祖父は黙ってみていたのか、止めきれなかったのかは謎だ。今の時世でおなかすかした幼児が10円玉もってコンビニに入ってくるだけで異常であるが、次女だけ残されて家族全員外食に出かけていた。

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    虐待もあまりにひどすぎて拷問のようだが、次女だけ残して他は外食という仕打ちもひどすぎる。おそらくこの家庭は、母と祖母の力が強いのだろうが、「次女だけおいて出かけることに異を唱えない父親や祖父にも腹立たしさが湧く。同署によると母親は、「次女が失禁したことに腹を立てて頭をたたいた後、ストーブに押し当てた」と供述しているというが、何ということだ。

    祖母は、「ご飯の食べ方をしつけたら無視され、包丁でびびらせてやろうと思った」と話しているというが、何ともノータリンな母とその親であろうか。こんな家庭が現実にあるというのが悲しすぎる。好んでこんな環境下に生を受けたわけでもないとはいえ、いたいけで罪のない子どもがいたわしい。母親も祖母も実刑には至らず書類送検で釈放されるだろう。

    司直によるこの程度のお仕置きだけで更生することもなかろう性悪女が、態度を改めることはない。この際、父と祖父がしっかりしてもらいたいものだが、それも急にはできない。こういう悲惨な話を耳にしただけで養女にと希望する人はいるだろう。長女や三女には虐待の痕は見られず、これだけ親に嫌われたなら、施設や養女に行くのが次女には幸せかもしれない。

    そういえば以下のようなバカを通り越した母親も頭から離れることなく残っている。福岡市内に居住する家庭で、小学生の次女(当時10))に指示をしてランドセルなどを盗ませたとして、窃盗罪に問われた母親(41)に対し、福岡地裁の川瀬孝史裁判官は18日、「手段が卑劣というほかない」と指摘をし、懲役2年執行猶予4年(求刑懲役2年)の判決を言い渡した。

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    この母親は2017年月14日~4月23日、福岡市内の家具店とドラッグストアで、ランドセルとアイスクリーム、ギョーザの皮(計3万円相当)を次女に盗ませた。 判決は、次女が以前から母親の指示で万引きをしていたことを認め、「万引きをしないと怒られたり髪を引っ張られたりした」と供述したが、母親は次女にそのような指示はしていないと争っていた。

    母親側の弁護人は、「母親のせいにすれば許されると思ったのではないか」と無罪を主張したが、裁判では、次女の供述の信用性は高いと母親側の訴えを退けた。その上で、母親が商品の場所を移すなどして指示したと認定。「手口が手慣れており、常習性が認められる」とも述べた。川瀬裁判官は母親に対し、「お子さんとの関係を時間をかけて考えてほしい」と説諭した。

    母親への裁判官の諭しは当然であり、執行猶予付きだから母と娘は家庭内で同居することになり、裁判を通じて敵対関係にあった母娘への懸念は誰もが思うことで、考えただけでもゾッとする家庭環境である。娘の供述が事実なら、なぜ母は娘を敵に回してまで供述を否定したのか?娘を罪に陥れても、自分は罪を逃れたいということなのか?それが妥当といえる状況だ。

    仮に娘が嘘をついていたとしても、自分が罪を被ろうとするものなのに、「娘の供述は嘘」と争った母である。なぜなのか?そこは分からない。どちらにしても、この母親も言語に絶するクズ女であるが、その後、2人が普通に家庭で暮らしていけるのかに於いても懸念が残る。同じ福岡の久留米においては、2016年に信じられない母親の事件があった。 

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    2016年8月、福岡県久留米市の住宅で、17歳の少女をベッドに縛りつけて監禁し、暴行を加えたなどとして起訴された46歳の母親と内縁の夫が、少女の飼っていた金魚の死骸を無理やり食べさせたとして、強要の疑いで再逮捕された。母親は尾形優子容疑者、内縁の夫は江上孝容疑者(46)。2人は17歳の長女に、飼っていた金魚の死骸30匹余りを無理やり食べさせた疑いが持たれている。

    長女は当時金魚の世話をしていたが、2人は餌のやり方を巡って長女に言いがかりをつけ、水槽に食器用洗剤を入れて金魚を死なせたうえ、「全部食べろ」と命じた。警察の調べに尾形容疑者は容疑を認めたが、江上容疑者は「そんな事実はない」と否認しているという。2人は、長女をベッドに縛りつけて監禁・暴行を加えたと監禁傷害などの罪ですでに起訴されていた。

    松本清張の『鬼畜』も表題如きのひどい親だったが、父親に崖から落とされてかろうじて命を取り留めた12歳の息子に、警察で面会した父親は、「この人はぼくの父ちゃんなんかじゃない。知らない人」といわれて驚き、慄き、息子の前に膝まづいて、「悪かった!かんべんしてくれな!」と号泣する父親が、緒形拳の名演で映画で再現され、脳裏に焼き付いている。

    思えば自分も小学5年生の時、母親にされた行為を機に、二度と親と思わないと心に刻んだことがあった。あの時の、驚きを超えた茫然自失という状況を、あれ以前も以後も経験していない。傷つくとか、怒るとか、そんなものではない。憎悪という情動すらもはるかに凌駕するのが、「自失」であるのを10歳で知った。それほど特異で稀有な体験をした時、人の頭は真っ白になる。

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    昨年12月に大阪箕面市内の集合住宅で起こった筒井歩夢(あゆむ)ちゃん(4)虐待死事件で、虐待を行った母親の麻衣容疑者(26)と、交際相手の松本匠吾容疑者(24)、知人の大倉敏弥容疑者(20)ら3人は、歩夢ちゃんが、「食事をこぼしたことがきっかけで暴行が始まった」と供述していることが、捜査関係者への取材でわかった。そんなことで大人3人が幼女に暴行を加えたという。

    起訴状によると、3人は昨年12月24日夕~25日未明、集合住宅で歩夢ちゃんの腹に暴行を加えて死亡させたとされる。松本と大倉は昨年11月、麻衣容疑者が住むこの集合住宅に転居してきた以降、「日頃から暴行していた」、「しつけのつもりだった」と供述している。司法解剖の結果、死因は外傷性の腹内出血で、歩夢ちゃんの全身には約50カ所のあざがあったという。

    イメージ 1捜査関係者によると3人は24日、歩夢ちゃんと弟(2)を連れて外出。スーパーでオードブルを購入し、歩夢ちゃんの祖父からもらったクリスマスケーキを持って帰宅した。同日夕、5人で食卓を囲んでいた際、「食事をこぼした」として暴行が始まり、何度か間を置いて断続的に暴行。3人は、「いったん寝て起きたら(歩夢ちゃんが)息をしていなかった」と話しているという。

    25日午前2時10分頃、母親から110番通報があり、捜査員が大阪府箕面市粟生間谷西の「UR都市機構箕面粟生第3団地」に駆けつけると、長男の歩夢ちゃんが心肺停止の状態でベッドに横たわり、搬送先の病院で死亡が確認された。内縁の夫とされる松本容疑者や知人の大倉容疑者は、「しつけとして殴り、母親も一緒にやった」と供述しているが、母親は、「やってない」と否認する。

    3人の詳細な供述は公判で明らかになるが、母親の否認については自己保身からの嘘なのか、それとも男2人が暴行している場面を傍観していただけなのかは今のところ不明。男のいう「(母親も)一緒にやった」がどの程度の行為なのか、それとも手出しをしていないのに嘘をついているのかなど、詳細な調べが必要である。止めると母親が暴行される恐怖はあったかも知れない。

    大阪地検は15日、いずれも殺人容疑で逮捕されていた麻衣容疑者と交際相手の松本匠吾容疑者、知人の大倉敏弥容疑者を傷害致死罪に切り替えて起訴したのは、母親も加担していたと判断したようだ。が、殺人罪から傷害致死に切り替えたのは、殺意の立証は困難と判断したとみられる。報道では母親と内縁の夫、そして夫の知人と歩夢ちゃんと弟の5人暮らしとあった。

    なぜに夫の知人までもが同居なのかは分からないが、居候という状況なのだろう。世の中、分からないことはあっても、行為者にとっては何でもないということもある。「食事をこぼした」ことで、4歳の幼児に心肺停止に至らせる8時間もの断続的暴行もまったく理解できないが、これすら行為者にとっては、「しつけ」ということで普通の行為だったのかも知れない。

    「普通のことが普通でない」、「異常なことを普通と解する」。それを価値基準というなら、殺人行為者にとっての殺人も普通のことなのだ。「正常」と「異常」という言葉はあるが、言葉はあっても判断基準の線引きは個々によって異なる。「正常」とは何を基準に正常であり、「異常」は何を基準に異常とされるのか。正常と異常の間には何がながれているのだろう。

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    こういう例もある。東京・埼玉連続幼女殺人事件の宮崎勤は、その異常行動から精神分裂病の可能性も指摘されたが、彼は神戸連続幼児殺傷事件の少年Aのように、自分の犯行を鮮明に記憶していない。「ネズミ人間がでてきて」、「わあーっとなり」、気がついたら女の子が倒れていて、それは、「肉物体」になっていたという。彼は、解離性同一性障害と診断された。

    異常な犯罪には解離性障害者によるもがある。「そのとき自分は別の人格になっていました。やったのはそいつで、自分は知りません」と主張するが、これは本人のいう通りに理解すべきことなのか。刑法39条には、心神喪失者及び心神耗弱者の責任能力に関する規定があり、責任無能力者についての行為に犯罪が成立しないことを明らかにし、また刑を軽減する規定がある。

    いかなる異常な行為も犯罪も、精神が異常な者にとっては正常な行為である以上、罪の規定はできない。だから、精神鑑定が必要になる。少年Aは、解離性障害を起こしているとされなかったが、それに近い傾きはあるという精神鑑定人の判断だった。つまり、少年Aは、正常と異常の微妙な境界状態のところにいる、いわゆるサイコパスといっていいのかも知れない。

    彼の自分の犯行を語っていくところなどは冷血そのもの、人間性のかけらもないように見えるが、後に彼が元少年Aとして出版した『絶歌』からも伺える。彼の自己陶酔感や自己顕示欲から一部の専門家の間でも、「彼は更生していない」と折り紙をつけられた。恨みや怒りではなく、ただ快楽のために、「殺すこと」を目的とした弱者抹殺の殺人行為に人間性はない。

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    生きるためにハンターとして他の生き物を捕食する動物には、憐憫の情など皆無であるが、目的に於いては純粋である。生きるために「食らうこと」に必死で、そんな情が入り込む余地は存在しない。映画『エイリアン』の中で、アッシュが言う。「あれは素晴らしい純粋さを持っている。生存のため、良心や後悔などに影響されることのない完全生物だ」。

    人間は不純な生き物だという。だから目的を持ち、目的を叶えようと努力できる。目的を叶える事だけが純粋というのはどこか違うだろう。目的を叶えるという理想の背後にはどこかしこ人間としての物欲、名誉欲、自己実現欲、他者から認められたい欲望などがある。それを不純というのは欺瞞であろう。「動機が不純」である方が、目的は実現しやすいのかも知れない。

    純粋とは矛盾であり、社会を動かす数多の人間は、自分が人間であることを止めた人間なのかも知れない。弱い人間ばかり100人集まって、強い人間一人と綱引きをすれば、100人の弱い人間が勝つ。しかし、一対一では確実に負ける。それが社会というものだ。そうしたことからしても、自分が人間であるということの証明は、二重性に引き裂かれているということである。

    矛盾した二重性に引き裂かれた悲痛こそ生きている証であり、その中にしか人間らしい喜びはないのかも。人間は悲痛を通じてしか人間にいたれない。生き甲斐に通じる路も悲劇なら、人生の意味に通じる路も悲痛である。ならば安定と幸福を求めるものは、人生の意味に背を向けていることを自覚する必要がある。幸福に別れを告げる人生はむしろ人を生きやすくする。

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    ネグレクト(幼児虐待)はいじめと同じで、自分がよくないことをやっているという意識がないところが問題だ。自身の行為を客観的・理性的に顧みず、感情優先でやりたい放題すると人間は何でもできてしまう。殺人もその部類だ。同様に子どもへの過保護もよかれと思う点では同罪だが、過保護は虐待のようにトラウマにはならない部分、将来的な悪害を残してしまう。

    他人の気持ちを考えない人は、相手から指摘を受けるとイラつくだけならいいが、逆ギレして攻撃に回ることが多い。親から甘やかされて過保護に育つと、我慢ができないうえに無反省になるのは無理からぬこと。なぜなら、小さい頃から何かあるたびに母親が、「あの人が悪い」などと、いつも子どもの肩をもったりするから、反省しない人間になるのは当然である。

    過保護で甘えて育った人間は必然的に自分のことや自分の気持ちしか考えない。忍耐力もないうえに自己中心的だからすキレやすくなるのだろう。また、自分がある行動をとるのが周りの人間を傷つけるかなど、爪のアカほども考えない。過保護に育たなかった人間は、特権階級意識を植え付けられなかったので、周囲のことがよく見えるから自然と他人の気持ちを考える。

    自分が何かをしようとするとき、他人が障害になることもあるが、それを推して自分の目的を達する場合、そうした他人の迷惑の度合いを考えることになり、行動を中止をすることもある。したがって、行為をするかしないかの決断は、他人を無視することの理由に納得がいった場合に限られる。ところが過保護に育った人間は、何かをやる時においても周囲のお膳立てがある。

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    そのことを甘やかしや過保護という。したがって他人の気持ちを考え、悩む必要がなく、その人には他人の気持ちを考えるということが必要でなくなってしまう。成長期にこの差は大きいものとなる。確かに、他人の気持ちを考えないで済むのは楽であろうが、そうした葛藤はない方がいいとはない。社会では親や身内のように、お膳立てをしてくれることはないからだ。

    結局、親は子どもが社会で真っ当に生きられるように育てなければならないのに、子どもに苦悩をさせたり、要らぬ心配をさせぬように育てることが間違っているということだ。家庭の中だけの子育てをするとこういうことになる。これが近視眼といわれる母親の目線である。男はどちらかといえば、今より将来を睨んだ教育やしつけを考えるが、それを父親の社会の目という。

    育つ過程で他人の気持ちを考えなくてもいいように育つと、成長しても他人の気持ちを考えなくても生きて行かれると思うのだろう。考える事すら面倒と思うようになるが、この「面倒」というのがよくない。なぜなら、大事なことを「面倒」とするなら、大事なことがおろそかになるのは当然だ。自分の気持ちだけ考えて生きて行かれると思う人は、必ず他人と摩擦を生む。

    「なぜそうなるのか?」の原因すらも分からない人は、相当の重症である。誰が好んで自分の気持ちを平気で踏みにじるような相手と付き合いたいものか。そういう非難をうけるが、それをまた攻撃と理解するなら、重症というより障害である。したがって、彼女が鬱などの精神疾患になったのも、早い時期から自と他の問題や葛藤をスルーしてきたからではないか。

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    そういう想像は自ずと湧いてくる。彼女が二十歳の時に出会い、半年ばかりの期間に会った回数は数十回程度で、長期間寝食をともにする関係でもなかった。二十歳は成人年齢であるが、形の上での成人であって、甘やかされて二十歳まで育った人間に、他人の気持ちを考えろなどと声が枯れるほど行っても無駄であろう。当時はそういうことすらなかったようだった。

    自分は彼女の人間的な質を見たとはとても思えない。何でもカンでも昔は懐かしく、彼女以外にもノスタルジーを感じる人間は沢山いる。三つ子の魂という基本習性が後年に影響を与えやすいと昔の人は考えていた。だから、甘やかされて育った人間には、口で言おうが、殴ろうが、蹴とばそうが、そのようなことをしたところで無駄であろう。唯一の救いは自己教育力である。

    自己教育による自己変革への努力である。記事にも書いたが彼女と45年ぶりに出会って、3日後には離別を決めた自分である。それは自分なりの看過できない価値観であったからで、許せないものを無理して許そうとしない自分の自己への厳しさでもあった。親でも我が子でも友人であれ、恩師であれ、昔の恋人であれ、許せないものは等しく許せないし、例外はない。

    今に思えばあの判断は、彼女の人間性を洞察するものであったと、我ながらに人の見方の狂いの無さを実感した。自分には何ら罪のないことを、彼女と娘の共依存という事情から、独断的な罪を着せられたことには、相当の違和感を抱いた。絶対に許せないという違和感・嫌悪感が速攻で離別を決心した。今回も同じことに遭遇した。自分は何ら罪なきことを責める彼女である。

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    「一度あることは二度ある」とは言わぬが、「二度あることは三度ある」は確信に満つる言葉である。今回の離別で彼女とは永遠に話すことはない。最初のことも自分には相当の事由であるが、二度目は彼女の人となりを確実に補足したものだから、それはそれでよかったと思う。今回新たにメールが届いたが、精神疾患があるということで、そう理解した。

    返信をしないのは、無視というよりも最善の選択である。言葉は悪いかもだか、いい加減頭がイカレテいるとも感じられ、だから返さない。どのような記述であろうとも彼女のような、自分しか見えない過保護人間と関わることは二度とない。昔の人は、「バカは死ななきゃなおらない」といったが、バカのところに、「甘やかされた過保護人間」をつけ足せるのではないか。

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    幼少時期に身につけなければならない能力を身につけられなかったのだろうし、身につけさせなかった親の責任は大きい。能力とは何かを始める際に、それなりの覚悟を決めて事にとりかかったり、他人の気持ちを考えて相手を幸せ気分に誘う奉仕の心。人間にはそれぞれの年齢時期にそれぞれ学ぶものがある。それらは、それ以前に教えても以後に教えても無駄。

    そうはいっても、時期を逃した人に足りないものを身につける自己努力は、いつなんどきであってもすべきだし、やらないよりは勝る。今回久々にであるが、甘やかされて育った人間行動には、衝動的というのが加えられた。後先を考えないという顕著な行動である。厳密には、「考えない」というより、彼女にとって時間とは「現在」しないのだと、そういう風に感じられた。

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    後先のことを考えないのではなく、こういう人に後先はないのではないか?平気で嘘をつく人も同じように後先を考えないからその場バッタリの嘘をつく。こういう人が重症になった場合、同じように、「後先のない」人間になるのだろう。嘘は取り返しがつかないものゆえに、慎重に使うものだが、見通しもないままにでまかせの嘘をつく人は、信頼のおけない人となる。

    後先を大事にする人間は、所詮は後先など考えもしない人間と交流は望むべくもない。現在というのは、すぐに過去になり、あるいは現在の数分前は未来でもある。「現実主義者」という仰々しいネーミング見るに、そのように生きる実感を抱くのだろう。がしかし、厳密にいえば今という時間はなく、人はみな過去を生き、未来を生きるのではないか。

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  • 01/18/18--16:22: 男を振り回す女
  • 「あの女は男を振り回す」とか、「いい加減あの女に振り回された」とかの言い方をする男は少なくなかった。自分にいわせると"男を振り回す女"など存在しない。なぜならそういう女は、男を振り回そうとの意図でやっていない。振り回された男の女への愚痴でしかない。女にいい顔をしたい男の卑しさが、ひとのよさを見せつけたりするから女の情緒に振り回される。

    女の情緒に振り回される状態とは、その場、その時の女の思いや言葉に順応していることをいう。後先考えない女、後先ない女は、その場、その時のことだけで何かをいう。それがいかに理不尽であろうが、道理に反していようが、男には理解できぬままに女に同調してしまう。バカな男はそれを優しさと勘違いするようだが、そんなものは優しさではなく卑しさである。

    男には女の性質が理解できないのは当たり前田のクラッカーだし、分かったようなことをいう自分でさえ、本質は分からない。分からないけれども、経験が教えてくれたことは沢山ある。したがって、分かった上での行動というよりも、分からぬままに経験から選択することが多い。所詮人間は分からぬままの行動をするものだが、人に人は分からないという前提からである。

    国民栄誉賞を取った羽生善治永世七冠は、「将棋の本質は自分にはまだわかっていません」。といったが、以前から彼はこのようなことを述べていた。「千人とやっても女は分からない」という名言は、言葉は悪いが比喩的な言い方で、親しく付き合ったということだろうが、自分とて結構な月謝は払ったものの、「女の本質は自分にはまだ分かっていない」のが正直な答え。

    同性(男)の方が理解はしやすい。男が同性に欲はなくとも、異性にそれなりの欲を持つのは、「なぜだ?」といわれても正確には答えられない。無意識化の領域部分が大きいからだろうが、たくさんの経験を踏むことで、本質理解には至らぬとはいえ、それなりの理解は得る。羽生永世七冠が将棋の達人であるのも同じ理由であろう。ゆえにか、あえて本質に言及している。

    「女」という言い方は一般的な全体のくくりであって、個々には様々な相違がある。「弱きものよ、汝の名は女なり」の有名な言葉が誤訳され、社会に浸透すれば弱くない女も借りてきたネコのように弱さを演じ、それで味を占めてきた部分は多分にある。それほどに「女」は弱きものの代名詞として使用されていたが、昨今はネコを被るのもうっとうしくなったのだろう。


    本性むき出しで生きられるなら、その方がずっと、づっと、ZUTT、生きやすい。しかるに昨今は、誤訳であったシェイクスピアの名言でさえ死語になっている。女の浮気や不倫が珍しい時代もあったが、こんにちの女はネコや杓子をもって堂々浮気をやり、不倫をやるように、この部分においても男女同権の時代である。「女だてら」が死語になれば、女の強さが際立ってくる。

    元々、本質の弱い男に筋肉や力を神が与えたのは、無神論者の自分でさえも納得する。強さを隠匿し、弱さで男に哀願する女を数多く見た。自分に非があるような行為・行動をしても、猫なで声で男に許しを乞う女にうつつを抜かした若き日の自分であった。女の周波数の高い声は、男からすれば優しく心地よい響きとなる。もし、しわがれた太い声だったら、それこそ女はキモイ。

    女が男のペニスを「美しい形」と哀願したくなるのも、性欲本能のなせるわざ。女の気色悪い造形の性器さえも決してそのように思わないのも同じこと。性欲や愛情は、美しくないものも美しく、汚いものも清く見えてしまう。まさに「清濁併せ持つ」のも異性関係である。そういえば、太川と藤吉夫婦はしっくりいってるのだろうか、キャパを繕ったのが見え見えの太川であった。

    「誰が見ても不倫でしょうが、自分は妻を信じる」は本当ではなかろう。こんな言葉を吐かねばならないほどに失いたくない妻だったということなのに、おそらくそれを承知の上での男漁りだったと思っている。太川の本性は、藤吉に看破されていたことになる。もし、彼女は自身の見込んだ太川を前提に、あのような殊勝な態度を見せたに過ぎない。これが女の狡さである。

    ところが、そうではなくて、まったくの見込み違いの太川であったなら、男として道理を通す、骨のある男という見定めがなかったなら、藤吉は逆ギレしていたのではないか。「人を裏切ったお前に用はない。荷物まとめて出ていけ!」の姿勢を、泣けど喚けど崩さぬ男だったら…。おそらく藤吉は、「冗談じゃないわよ、人がこれほど詫びているのに」となるのでは?

    それが自分の見る女の本性である。自分の意思を通すためには、どんな言葉もどんな芝居も厭わぬが、いざそれが通じないと分かるや否、それこそ360°態度を変える。謝罪に見せかけた演技であって、本質的な謝罪というのは、足蹴りにされようがしばかれようが、着ぐるみ剥がれて外に出されようが逆ギレはしない。それだけ自身の罪を責めているからである。

    したがって、本当に心から詫びているかを見るためには、冷たい言葉を吐いてみるのが良い。それが相手の本性をみる手段である。資産家の老婆が、乞食の様相で町を徘徊し、石を投げられ罵倒されながらも、優しく接してくれる心ある人間を見つけるように、本質はまったく同じことだ。藤吉がマスコミの前で、「主人なしでは生きていけない」といっていた。

    そういうことを本心でいう女が、夫を裏切るだろうか?そこが道理に反している。かつて自分も謝罪を許さなかったことで、逆ギレする女を何人も見てきたが、それとは異質の光る女も見た。そこに基準を合わせると他の一切は虚飾の女である。過ちは赦すが、嘘は許せない。追い詰められて逆ギレする人間には、良心はないものと考えている。逆ギレとは憎悪である。

    良心のある人を探したいものだ。憎悪を隠して接する人間は、別れる時に千年分の言葉を用意する。「俺はこういう女と長きに過ごしていたのか」と、罵詈雑言を浴びせられた男の悲哀も見たが、そんな過去の一切までも否定して、何のための人生であったか。人生とは過去の集積である。それ以外のなにものもない。それを否定するような人生とは、自身の存在さえの否定であろう。

    これほど虚しいことはない。邪悪な心を持った人、良心の心を持たぬ人。どちらも必ずいる。前者を避け、後者を得るためにどうするかである。離別の際に、自分の選んだ相手に文句や不満を言うのは、それこそ自己を否定することになる。選んだ相手を見誤ったと正当な主張のようだが、見誤った自分の責任ではないのか?人は何でも楽して人の責任にする。

    「男を振り回す女などいない。いるのは、振り回される男だけだ。」

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    18日午後10時すぎ、東京・大田区のマンションで、父親で会社役員の鳥屋多可三(58)の腹をナイフで刺したとして、殺人未遂の疑いで現行犯逮捕された慶応大学生の鳥屋智成容疑者(20)は、一階の居間で弟と多可三さんの口論を止めに入り、「やめないなら刺すぞ」と、刃渡り13cmの果物ナイフで多可三さんの腹を1回刺したという。別の部屋にいた母親から119番通報があった。

    警察官らが駆けつけたところ、父親の多可三さんが腹から血を流して倒れていて、病院に搬送されたが、まもなく死亡が確認された。調べに対し鳥屋容疑者は、「刺したのは間違いない」と容疑を認めているという。田園調布署によると、智成容疑者は多可三さんと50代の母親、弟の4人暮らしで、事件は多可三さんが弟に説教をしているのをやめさせようとして起こした。

    Facebookによれば父親は慶應出身の会社役員で、長男も慶大生、次男は慶應高生と世間的に羨まれるような家族環境という見方もできるが、弟に加勢したというだけでなく長男自身も日頃から腹に据えかねてる事があって、ついカッとなってしまったと想像する。智成容疑者の風貌は優しく柔和に見えるが、「(説教を)やめないなら刺すぞ」という言葉には決意が見える。

    第三者による一般的な口論の制止は、「いい加減に止めろよ!」と思われるが、どういう状況のなか、これまで父親に対する何らかの鬱積があり、それが弟と父の口論の場で、「やめないなら刺すぞ」となったにしろ、本当に父を刺したことを見れば、感情的になったというだけでなく、父を亡きものにしたいという決意すら感じられるが、いかんせん状況が分からない。

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    こういう場合にいつも思うのは、殺すという手段の他に殴る・蹴るなどして相手を威圧する方法があったろうに、犯行に使った果物ナイフがどこにあったかも気になる。たまたまテーブルの上にあったのでつい手に取ったというのと、わざわざ置いてある場所に取りに行ったというのでは、公判でも大きく変わってくる。時間は元には戻せないが、殺す以外の方法はあったはずだ。

    それなのに、殺意を込めてのナイフということなら、智成容疑者にとって父親はこの世から消えてもいいくらいの憎悪があったとも考えられる。ましてや、自分と父親による修羅場でなく、弟と父が争っている状況だ。あくまで一般論でいうなら、人と人との喧噪場面に第三者が制止に入り、しかもその第三者が当事者のどちらかを刺し殺すというのは聞いたことがない。

    止めに入る側というのは基本的に傍観者であろうから、何を好んで殺人者となるリスクを負う必要があろう。そのようなことを含めて考えるに、本件において善意の第三者という立場を逸脱した兄(智成容疑者)は、弟と同じ心情あるいは、それ以上の憎悪を父親に持っていたと考えられる。兄は決して傍観者ではなかったということができよう。もしくは相当の弟思いだったのか。

    可能性というのは種々考えられるが、やはり傍観者がこれほどのリスクを侵す行為をしたことが、ただならぬ状況と思われる。昨年の11月21日、青森県弘前市で無職で35歳の息子が、二人暮らしの母親を刺殺した事件があった。殺人容疑で逮捕された水木久志容疑者は、数年前から母親に小言をいわれ続けていたという。事件のあった日、弘前は記録的な豪雪だった。

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    母親の悦子さん(62)は朝から自宅周辺で雪かきをしていたが、久志容疑者は母から、「仕事も雪かきもしてくれない」といわれたことに腹を立て、同日午後6時半ごろ、刃渡り約15センチの包丁で悦子さんの背中を刺したという。から、時間の経過を見ても、カッとなって衝動的な咄嗟の犯行とは言えない。また、久志容疑者が110番通報したのは同日の夜11時半であった。

    調べに対し久志容疑者は、事件を起こしてからの約5時間、「自宅でずっと泣いていた」と供述し、後悔も口にしているという。取り返しのつかぬ行為に対するさまざまな思いが交差したと推測する。本人の供述にはないが、おそらく死ぬことも考えたとも思うが、そうした勇気もなかったのだろう。こういう場合の自殺は思い切りが必要だが、それもない優しい子に思える。

    親を殺す、人を殺すなどは、心の歪んだ気性の荒い性格の持ち主ではなく、むしろ、穏やかで心の優しい子が八方道を封鎖されて、どうにもならない状況に追い詰められ、それでも生きるためには、何より自分に障害となるものを亡きものにしようとする。不良にもなれず、親に依存する心苦しさを感じる反面、依存対象から追い詰められ、やり場のない苦しみは増幅するだろう。

    親子の共依存は一般的に悪害とされるが、子どもが30歳、40歳になってもそれを続けているなら、もはや双方が徹底的に依存を貪った方がよいのかも知れない。糸のついた凧が順風を受け、その糸が突然切れたらどうなるか?制御バランスを失ってグルグルと回転して落ちていく。唯一の心の拠り所であった母に詰られ、批判されれば久志容疑者にとってこれほど辛いことはない。

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    子どもにとって親の小言ほど感情を損なうものはないのは経験した。確かに小言というのは、陰険で抑圧的で、真綿で首を絞められるような、それくらいに神経を逆なでさせる。威勢のいい売り言葉ならまだしも、陰険な言葉はじわじわ感情を圧迫する。母と娘ならどうかなどは自分には分からぬが、こうした陰険さは男社会に少ないだけに、男にとってはたまらないもの。

    母親の小言にイライラするというのはしばし耳にするが、自分はまさに小言三昧の日々であり、それに対抗するために耳栓をポケットに忍ばせ、小言が始まるとワザとそれを耳に入れて、「何かいったか?」と挑発した。やられた側は、これほど頭にくることはなかったようだが、恒常的にいい方法と思った自分はそれを続けた。すると不思議に相手も慣れてくるのである。

    一種の知恵だろうが、こういう知恵を使われると親も堪忍するしかないのだろう。相手を困らすのが最善なら、困らせられない方法は相手が考えるしかない。母親は、自分が気に入らない自分の持ち物を隠すというのをよくやった。その対抗措置として母のタンスの中の洋服や着物をそこら中に散らばせて抵抗し、「隠すと大探しするからこうなる」と突きつけた。

    このようなことになる原因は母親にあるということを認識させるためである。こんなことをされては母もたまったものではない。それ以降、物を隠すことをしなくなった。苦肉の策で考え出した弱者の対応策だが、戦術・戦略としては優れたものだったかも知れない。相手から困らせられるなら、それ以上に相手を困らせればいい。これこそが最善の戦術・戦略かも知れない。

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    誰が不倫をしていようが発覚してしまおうがどうってことなかろ?世間は何を騒いでいる?という時代になるのがいい。所詮は他人のモラルの問題であって、それを週刊誌がすっぱ抜いて商売にし、テレビが取り上げて視聴率を上げ、暇な芸人コメンテータが関係ない他人のことをあれこれと言葉にするが、くだらないと思わないのだろう。テレビは不倫の御用聞きか?

    近頃、確かに結婚していることが男女の性的交際の歯止めにならなくなったようでだ。かつては不義密通といったが、人倫から外れた行為だから不倫という言葉がマッチしたが、法律用語では、「不貞行為(貞操義務不履行)」という。一夫一婦制の婚制度から外れた男女関係、配偶者のある男性または女性が配偶者以外の異性と恋愛し、性交渉を行うことを指して用いられる。

    配偶者のいない男性や女性が、配偶者がいる異性と性交渉を行う場合も含む。既婚者がお忍びで密会すれども性交渉を伴わぬ関係であれば不貞行為とはならない。姦通や不義密通を現代の一般語で「浮気」といったが、不倫の語源は、TBSのテレビドラマ、「金曜日の妻たちへ」(1983年)が最初とされている。密会を重ねながら、「何もない」と言い張ろうと道義に反する行為とされる。

    したがってその代償は重く、イメージを重視する芸能人は、スポンサーの意向から仕事を干されることになり、一般人にあっても家庭や友人関係を崩壊させる危険をはらむし、不倫をした側・された側、あるいは相手方にも経済的・精神的に深刻なダメージを受けることにもなる。不倫は明治時代の旧憲法下では、姦通罪として罰せられることもあったが現在はない。

    姦通罪は明治13年(1880年)から布告され、刑は死罪にも及ぶ重罪で協力者もまた中追放か死罪とされた。しかしこれは、「夫があって不貞を働いた妻」のみが罰せられるという、女性だけに限定されたものに限定され、したがって当時は既婚女性の不倫は犯罪扱いだったが、既婚男性の不倫は何のお咎めもなく、これには江戸時代から始まる吉原の存在が関わっているようだ。

    江戸時代において不義密通は重罪で、その罪が発覚すれば男女ともに切り捨て御免、命をとられても文句は言えないものだったし、密通の罪を犯した妻が三行半を叩きつけられて家を追い出される、あるいは番所に届けられて詮議(評議して明らかにすること)にかけられ、死罪が適用されることもあった。不倫が重罪なら、吉原遊郭の遊女(娼婦)との関係は矛盾ではないのか?

    遊郭とは、遊女を抱える売春宿を1か所に集めて塀で囲った場所で、広義的に売春宿で、吉原が有名だったが、遊郭はあくまでも娯楽と捉えられ、お金を払って遊ぶ分には罪には問われることはなく、裕福な身分階級の者が気に入った遊女を大金を積んで囲うことも珍しくはなかった。つまり、武家の女性と遊郭の遊女では身分がまったく違っていたということになる。

    同じ女性であっても厳格に身分の違いが設けられ、その分厳しさもあった。苗字を与えられ、武家に嫁いだ女性の不義密通はもっとも重罪となり、相手の男性も同罪に処された。もっとも遊郭とは高級な売春宿であり、遊女は身分の高い者御用達の高級娼婦とも評されていて、身分の低かった農民は、「岡場所」という、公に営業許可を与えられた娼婦の歓楽街で女性を買っていた。

    江戸時代は売春が驚くほど盛んで、これは、住環境が劣悪だった事に大いに関係しているという。たしかに、江戸町民の七割から八割は長屋住まいで、それも間口九尺、奥行き二間の棟割長屋だから環境は悪い。ゆえにか、江戸市中には岡場所と呼ばれる売春街がいたるところにあり、宿場女郎もあった。岡場所や宿場の女郎では割り床がふつうだったと言うことだ。

    割り床とは、一室を屏風などで仕切って、二組み 以上の寝床をこしらえることで、六畳一間を二人の男が衝立屏風だけの仕切りで、互いが"いたしている"など、今では考えられないおおらかさであったが、それはさておき、食うや食わずの百姓や、日雇奉公している長屋住まいの若造などに、女郎買いなどするほどの経済的余裕がなどあったはずもなかろう。

    娼婦にも客にも身分差があったということだが、江戸時代には吉原を代表する政府が認めた公娼遊郭があり、明治・大正を経て昭和33年まで残っていたが、「既婚男性は客にしない」といった決まりはなく、ある意味で男性は不倫や浮気のし放題だった。して第二次世界大戦後の1947年、日本国憲法で男女平等が定められ、姦通罪は同条に違反するとして廃止された。

    女性のみに規定された姦通罪がとっパわれたことはよかったのだろうか?男がそうなら女だって「やるわよ」という時世を憂える声はしばしば聞くが、男がよくて女がなぜにいけないのだという合理的な理由を説明できるものはいない。「女はつつましく身も硬くあるべし」というのは、それが男に都合がよかったからで、男が好き勝手をしながら女はダメだというのは説得力がない。

    「婦女子の堕落は男の非にあらず。身を売り、性病を蔓延させ、傾国に値するなり」と、一見正当で合理的に聞こえるが、男に自由があって女に自由がないのはやはり差別であろう。キリスト教の洗礼を受けた矢嶋楫子や津田梅子らが女子教育に力を入れたが、「あなた方は聖書をもっています。だから自分で自分を治めなさい」という信仰の自治を教えた時代とはわけが違う。

    女子教育の真の目的は、解き放たれた自由を横臥することであろう。自由とは何かについて誤解がある。自由とは決して束縛がない事ではなく、存在する束縛の外へ飛び出す事である。人は苦痛を避けようとするが、人が一番苦しい事は何もない事ではないか。「快楽の刺激が欲しい」というのは誰もがじっかんすることだろうが、刺激がない事ほど苦しいものはない。

    何もない苦しさに比べれば、痛みや苦痛も刺激という意味では快楽の一種だろう。それすらもないままにただ生きるだけなら半死人である。誰もが中高生時代には、「校則が自由をなくしている。校則さえなければ自由だ。学校さえなければ自由だ」などと思ったりもするが、実際問題、本当に校則がなくなり、学校すらもなくなったら、人は別の苦しさを味わうだろう。

    「束縛するものがあるから自由がない」わけでは決してない。束縛があるから、不倫という刺激を味わっているではないか。などと、人が自由を感じるためには、自らを束縛するものが必要だ。現状、ソープやパチンコは法規制の適用除外を受けているが、「ソープは売春だ。パチンコは賭博だ」などとガチガチに法規制をすると、世の中はさらに乱れることになろう。

    物事を四角四面に真面目に考えるのは悪いことではないが、クルマのハンドルや精密機械にも幾分の遊びがあるように、人間の心にも遊びの部分がないと、修行僧のような人間ばかりの世の中のどこが面白い。他人の不倫をとやかく言う前に、真似をしようと思わねばそれでいいのでは?人を真似るのを猿真似というが、主体的に行うなら立派な自己責任ではないか。

    新憲法制定と民法改正によって、男女平等の理念が掲げられ、江戸から明治にかけて妻のみにあった姦通罪という刑罰は消え、現代において不倫は、男性・女性を問わず民法上の、「不貞行為」として、夫・妻または不倫相手に対して権利侵害の請求という形に変わった。昔から本妻以外に、側室、そばめ、妾、てかけ、二号さん等の呼び名の女性を傍らにはべらす習慣があった。

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    いつしか「文春砲」という言葉が生まれた。「砲」ってなんだ?弾丸をはじき出す仕掛けの武器、とある。子どもの頃に「運動会の歌」というのがあり、2番の歌詞は♪ズドンと打ち出す号砲に…である。子どもながらに号砲の意味が分からぬが、スタート合図のピストルのことだと思った。「文春砲」も、芸能人のプライベート弾(ネタ)をはじき出す仕掛けの武器なのだろう。

    どんな人間にもプライベートはある。「Private(プライベート)」は私的ということだから、反語は公的「Public(パブリック)」となる。人のプライベートを暴いて、「裏の顔」などと表現するのはタチが悪い。そんな言い方って、まるでトイレという個室でウンコしてる顔を盗撮し、「これが〇〇の裏の顔」といってるようなものだろう。どこが裏の顔であろう。

    もうちょっと辛辣にいうなら、人のウンコする顔見たさに週刊誌を買う人が変態ということにならないか?「ウンコする人、それを撮る人、見たい人」という図式となる。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」というのは阿波踊りの囃子言葉だが、する人と見る人を同列にし、見てるくらいならやれよと言っているのだが、文春砲というのはそれとは違う。

    知るべきことではない、見るべきことではない、それらのものを手間暇かけて世間に知らせることに何の意味も意義もないが、それを喜ぶ人たちのためにやっているのだ。「文春砲」が悪いのではなく、それを喜んでみる人こそがバカである。他人をバカ呼ばわりするのは簡単で誰にもできる。文春砲を喜ぶ人でさえそれを隠せば他人をバカ呼ばわりできるのだ。

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    要するに「バカ」は隠しておけるのだが、そういうやつらを一人ずつ文春砲が暴いていったらどうなるか?バカの正体丸出しということになる。要はそういうこと。他人をバカ呼ばわりするものもバカなのだということ。それが露呈したかしていないかの違いでしかない。プライバシーとはそういうもの。が、暴く者には商売という大義がある。では読んで快感を得る者はただのゲス。

    大衆には品位あるものと品位ないものがいる。品位なき大衆をゲス(下衆)というが、「下衆の勘繰り」とはそこから出た言葉。なぜ人の不倫が面白いのか?それは下衆の仕業である。今回の小室哲也の不倫疑惑にはこれまでにない世間の反応があった。世間はどちらかというと、女性の不倫に厳しいようで、小室の場合はそれもあってか同情的な意見が多かった。

    もちろん、小室の才能を惜しむ意見も多いが以下がその一部。「他人のプライバシーやデリケートな部分を推し量らずに、心も理性もない報道をするのはもはや人間の所業てはないと思います」。「某コンビニを経営してますがもう文春は陳列しないことにします。卸の業者にも絶対に納品するなと連絡します。本部なんか関係ない頑なに拒否します」。「さっさと廃刊して下さい」。

    「小室さんを返して!あなたたち、小室さんを追い込んだだけでなく、ファンから生き甲斐や希望、楽しみも奪ったんですよ?許さないから」。「週刊文春を絶対に許しません!!GACKTさんの時もそうだけど、人の不幸で食べたご飯がそんなに美味しいですか?文春方全員がゲスの極みですよ」。「先生を引退決意させた文春を私は許さない」など、思いのほか強い口調。

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    寡黙で強弁を発しない芸術家肌タイプの小室ならではのエールかも知れない。自分は会見を見ていないし、録画も最初の数分を観たに過ぎない。自分的には見たいものではなかったからで、最初に小室がこれで引退といったときに、野球選手や大相撲の関取同様、ミュージシャンに引退という言葉があるのかと。断筆という言葉を使う物書きはいて、画家に引退の言葉はない。

    囲碁や将棋の棋士の引退は、公式戦に出られないことだが、ミュージシャンはステージや録音をしないということ。小室はプロデューサーでもあり、仕事の内容といえば裏方作業であるが、引退とはすべての活動をしないということだろう。才能を惜しむ声は多いのだろうが、同情はすべきでない。凡人が有能者に対する同情というのは、どこかそぐわぬものがある。

    もっともニーチェは、「同情というのは相手を見下げることによる快楽」といっているし、弱者に対して、悲しく惨めな人だと哀れむのは、同情の名を借りた自己満足のように思えてならない。心が健康な人間は、そんなことで満足を得たりはしない。小室の会見の記事には、「この5、6年、男性としての能力はない」とあった。そんなこという必要があるのだろうか。

    自分にしか分からなぬことをいっても何ら説得力にはならず、「ない」もは、「ない」でいいのよ。物理的に不可能といったところで、それと女性への興味は別だろ…。巷にはバイアグラ飲んでいたす者もいる。露骨にいえば勃たなくとも女性への興味を絶やさぬ男は多い。「恥ずかしながら」と前置きをしたところで、話に尾ひれをつけすぎると、かえって信憑性を疑われる。

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    「物言えば唇寒し秋の風」と詠んだのは芭蕉である。人の短所を言ったあとは 寒々とした気持ちに襲われるという意味であったのが転じて、何事につけても余計なことを言うと、言いすぎて災いを招いたりする。いかに雄弁であれどそれは銀、沈黙という金には及ばぬとはその通りであろう。自分はそれにプラスし、「詭弁は鉄」を付け加えている。銅にも及ばぬ鉄である。

    その際友人が、「鉄では勿体ない。ブリキだろ」といったが、ブリキは缶詰の容器に使われる鋼板にスズをめっきしたもので、スズは錆びないが鉄は錆びる、錆びない点でいえば鉄よりブリキが勝るだろう。 小室の控えておくべき無用な発言を迂闊と悟った自分だが、物が使えなくなろうとも、女の柔肌に興味を絶やさぬ男の「業」というものを想起させられた。

    世の中には深読みする人間もいるので、だから「沈黙は金」というわれる所以だ。理知的に整理された文章を用意したところで、他人から見れば「下衆の勘繰り」も含めて得にはならない。英雄は色を好むというのも、英雄といわれる人物には、様々なストレスなどの心労や雑務に追い立てられる。それを唯一解放してくれるのが、女性であるということかと。

    英雄のプライバシーを暴き、事を荒立てれば英雄が英雄でいられない。その意味でも文春のやることは、亡国の誹りを免れぬ愚行である。かつて主婦連などが行った「不買運動」が功を奏したように、有名人の不倫を暴いた号が売れなくならない限り、文春砲が止むことはないだろう。芭蕉は、「秋深き隣は何をする人ぞ」と詠むなど、のっぴきならない人間の矛盾を現している。

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    ほとんどの人は昔の出来事に触れると懐かしいと感じ、そのことをまるで追体験するかのごとく思い浮かべることもできる。なぜ懐かしいと感じるかには諸説あるようだが、懐かしいという感情(ノスタルジア)や過去を思い返す能力は、他の動物にはない人間特有のものだと言われている。ならば懐かしさというのは、人間にとってどのような意味があるのだろうか。

    「認知心理学」は人間の心を扱う心理学で、知覚・理解・記憶・思考・学習・推論・問題解決など人間の高次認知機能を研究対象とする。その中で記憶についていうなら、人間に記憶があるということは、人間らしさを保つ上で重要となる。物事を新しく記憶することも大事だが、嫌なことを忘れたり、昔のことを懐かしく思い出したりするのは、人間にとって意味がある。

    「温故知新」というように、昔を思い出したりたずねたり、解き明かすことで自分の成り立ちを理解できることになるというメリットがある。人間の記憶は、「エピソード記憶」と、「意味記憶」とに分類される。エピソード記憶とは、友だちと遊んだなど自分が過去に体験したことの記憶で、意味記憶はものの名前など一般的な知識のことで、この2つは質的に異なるものだ。

    懐かしさはエピソード記憶と関わっていて、人間の発達段階で比較的遅い4~5歳に獲得されるという。それがアルツハイマーなど認知症にかかり、脳の海馬と呼ばれる部分を損傷すると、このエピソード記憶がうまく呼び出せなくなる。そのような人にかつて好きだった音楽を聴かせるなどすると、いろいろな記憶が呼び覚まされ、元気になることがしばしばある。

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    これは懐かしさが刺激となるからではないかと考えられるが、そのメカニズムはまだよくわかっていない。どちらにしても、人間の記憶というのはその人の人生を支えている大事なものだが、古い記憶ととなると正確さも薄れ、思い違いや事実とは異なる記憶に支配されることもあり、それはそれで意味のないことともいえないが、間違った記憶が人生に影響することはある。

    人はそれぞれ個々に思考のクセというものがある。例えば嫌なことがあったときにどう考えるかによって、対処の仕方も変わってくる。嫌なことを上手く処理できずに時間がかかったり、「反芻(はんすう)」というわれるように、嫌な出来事の原因をぐるぐる考えてばかりだと、暗い気持ちを引きずりがちとなる。こうした、「情動調整」の上手い下手で人の人生も変わってくる。

    もし、嫌な出来事について考えすぎてしまうような場合、反芻に気づくことが大切である。人間関係においても、頼んだことをスルーされる場合など、「仕事やもろもろが忙しかったのだな」と善意に考えられるなら、反芻をストップさせられる。嫌なことがあっても、自分の思考の持ち方次第で、反芻を少なくできる。このように、自分の思考のクセに気づくことが大事。

    こうした考え方を続けることで、対人関係におけるトラブルも少なくなり、抑うつ症状になりにくいというメリットがある。したがって、嫌な考えをしてしまう自分の欠点をいきなり、「直そう」とするのではなく、嫌な考えをしてしまう自分に、「気づく」こと。嫌なことがあると人は落ち込むが、落ち込まないようにするのではなく、落ち込んだときにどう気持ちを切り替えるか。

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    このように自身の、「情動処理」をしていけば、くよくよしないで前向きに生きていけることになる。これに慣れるといつの間にポジティブ人間に生まれ変わっている。スーパーの駐車場で、入り口に近いところが開いてないだけでイラつく人。自転車に乗ろうと思ったらパンクしていて腹を立てる。どちらも、「歩けということだな」とプラスに考える人は大らかであろう。

    ただ、反芻はマイナス面だけとも言えず、良い面もある。「自分はなんでこんな性格なんだろう」などと性格を否定するのはよくないが、「(相手に対して)言い方が悪かった」というように、「行動」を振り返ることができれば、次に生かすことができる。単にする「反省」は反芻に含まれるが、これを次に生かそうとするなら、それは良い意味の反芻といえるだろう。

    自分をどれだけ客観視でき、考え方や行動を見つめ直すことになるなら、心の健康は良好になる。大体において、イライラの多い人は、常に対象に問題を向ける人であって、自分は絶対に悪くない、間違っていないと考える人である。女性に多いヒステリーは自己絶対化が基本にあり、思うようにならないことが原因と思っていた。それは自分の母親から判断したものだ。

    が、一概にそうでもないらしい。食べ物が詰まっているわけではないのに、喉が何かで塞がれているような違和感を感じる人は、「ヒステリー球」症状が疑われる。常に胸に閉塞感・異物感があり、その感覚を飲み込んだり、吐き出したりできない状態の「ヒステリー球」は西洋医学での呼び方で、東洋医学では梅の種が喉元にあるような症状から「梅核気」と呼ばれている。

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    ヒステリー球の原因はストレスとされ、「必要以上にストレスを受ける環境にいる」、「理不尽なことがあるのに我慢している」、「なかなかストレスを発散できずにいる」、「知らない間に身体に疲労が溜まる状況にいる」などヒステリー球は、現状生活や自身の考えに対する身体からのサインといわれ、つまり、現状を変えて欲しいとの体からの訴えとされる。

    基本的な対処法として、睡眠、食事、運動、笑うこと。など、生活を変えることを心がけるが、個人の体質や環境の改善はそうそうできるものでもなく、ライフスタイルを突然変えることは難しい。少しずつでも自分の生活を整えることで、ストレスを解消していくしかない。臨床例からみても女性の方が発症しやすい傾向にあるが、男性にないわけではない。

    男にはない女性のホルモンの急激な変動が、精神的な不安を起こす原因の一つといわれる。また、相手の感情を察する強みが裏目に出てしまうこともある。周りの空気に合わせる外の顔と、自分の内側の感情や思考に差が出過ぎてしまう、優しい人に多い症状といわれる。端的にいえば、外面と内面の差が強すぎる人であって、それが心に自己格闘⇒自己分裂をきたす。

    他人の感情を読み取る力が強すぎるあまり気を遣い過ぎたり、それが人間関係の苦悩になる。自分よりも他人を優先するような優しい人、心配性の人などにヒステリー球が多いといわれている。つまり、自分の中で形にならないものがあるのに、それをうまく形にできない、うまく伝えられない、そういった焦燥感が募って身体が心の悲鳴を代打した状態とされている。

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    45年前の彼女に出会ったはいいが、離別となった最初の事由にも驚いたが、それが彼女の環境であるならと理解に努めた。二度目については、こちらが提示したことを了承したにも関わらず行動しない。それをいえば、「自分の意のままにならないと攻撃するのね」などという。心の病める人は万事にこうなのか?傷つきやすい自分をいたわる事ばかりに躍起になるのだろう。

    障害は疾病だから偏見はないが、理に合わぬことを突きつける人の性格はいかんともし難いが、心の病に罹患してる人なら病のせいにするのがよかろう。どちらにしても離れるのが賢明である。何の罪もないことを罪とされてしまう、そんな相手に太刀打ちできる術はない。逃げ出すのは好きではないが、かつて母から逃げ出したように、それが最善ということもある。

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    当たり前のことだが、その間を成長といい成熟という。それらを人生ともいう。人は誰も死ぬから、だから死ぬまでいきようということだ。生まれてこの方どれだけの数の人間に出会ったのだろうか?カウント数も分からない、記憶にもない。出会ったというだけでなく、交流してきたかである。何百人なのか?何千人なのか?見当もつかないが、何千はないだろう。

    交流といっても、どの程度の交流かということもあるが、人間という生き物は実に多彩である。それがすべてでそれしかない。純真な人もいれば狡猾な人もいる。良心的な人、貪欲な人、立派な人、悪辣な人、率直な人、気を許さぬ人、人間全般的な形容詞はいくらでもあげられるが、生活の中で実感する人の顕著な特徴に思いを馳せてみると、以下のような特質が浮かぶ。

    何をやっても中途半端な人。すぐに疲れてしまう人。何をやるにつけても熱心に集中し、それなりの結果を出す人、ちょっとやそっとでは疲れるなどといわない人。実際にそうなのか、疲れたなどといわないのかどちらか分からないが口には出さない。こうした人の顕著な相違というのは、体力とか健康上の差の問題というより、おそらく精神的な要素に違いがあると思われる。

    何をやるにもこまめな人。億劫だという人。いわなくても面倒臭がり屋なのは見ていて分かる。周囲と上手くやれる人、そうではなく、必要なとき以外は何かと人を避けようとする人。元気で張り切ってる人と何事にも楽しそうでない人に客観的な条件に特別な違いはないのに、その差も心の問題か?本人たちが違えば、当然ながら彼らの周囲の人の在り方・気分も違ってくる。

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    ひまわりが己を太陽に向けるように、いつも明るい人を向陽性という。そういう人が集団の中に一人いるだけで、その集団の雰囲気は明かるいものになる。いつも不機嫌で、笑顔さえも無理して作ってる人とは雲泥の差である。同じ会社に勤め、同じ体を持つ人間でありながら、どうしてこうも違っているのか?同じ学校を卒業し、同じ生活レベルでありながら一方は楽しい人生。

    他方は概して不機嫌に不機嫌な一生を送っていく。こうした差の元になるものは何かと思考すれば、その人の育った環境であるのが分かる。環境というのは、その人の情緒的な成熟に大きく寄与するからだ。そうした情緒的成熟過程が人に決定的な差を生んでいる。情緒的な成熟とはどのように育まれていくのだろう。何より重要なのが批判精神ではないかと思っている。

    常々、「批判が自分を作る」と思っている。なぜなら人間は自分を正当化する類まれな能力を持っており、社会もそれを容認することもある。自己を正当化できるような言い訳可能社会は決して人間に良いとは言えない。なぜなら自分を甘やかし、周囲もまた甘やかすようでは、甘えた人間を作ることになる。ひねくれた人間の多くは言い訳多用人間という見方ができる。

    その昔、自分を、「バカ」だと羞恥もなく公言できる人間をあまり見なかった。他人からバカ呼ばわりされただけで自尊心が傷つくのが真っ当な人間だが、平気で笑顔で、「わたしバカなの」といい、周囲もそれを許す社会というのはどこか奇妙である。しかし、価値観の多様化の中で生まれた、「キャラ」という言葉に寄り添い、「キャラ」といっておけば周囲が容認する。

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    「彼女はおバカキャラだから」というように。本質的にバカであっても、それを恥とは思わず、周囲もバカだと見下さず、容認されてしまうなら、彼女にとっての自己向上とは美しく着飾ることだけなのか?昔は、「抜け美人」といったもので、美人ほど抜けた(頭の悪い)者が多いとされた。美人は容姿だけでちやほやされるので、賢くなくても引き合いがあったのは事実。

    林真理子も自伝にあるように、ブサイクにとっては何らかの能力は必要で、それが講じて惜しみのない努力ができるなら、ハンディをむしろ長所に変えることにもなろう。もっとも美人もそれなりに美しさを維持する努力をする人も、知性や教養を身につけるべく努力をする人もいるわけだが、何もしない美人というのは、どんどん美貌が衰えるだけとなるのだろう。

    自身と貪欲さに裏付けられた自己肯定感は大事である。なぜなら、その人が自分に満足していれば、他人も満足するであろうから。自分に自信がなく、努力もせず、自分に対して投げやりな言動をし、自分を他人によく見せるような演技力ばかり磨いたところで、他人はその人を受け入れない。つまり人間は、自分をどう感じているかによって、人間関係も上手くいくしマズくもなる。

    だったら、自信を持った方がいいに決まっているが、その自信が身につかない。なぜなら、自信を持つためには努力が欠かせないからである。自分を信じる努力だから、他人の眼に触れないところで自らのためにやる。そうした人に自信はもたらされる。何もしないでただ他人の関心を引こうとしても、結局は本来の自分に逆らっていることになり、誰も関心を持ってくれない。

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    自分を偽らなくても他人に好感を持たれるようになるには何が大事か?まずは自分を隠そうとせず、ありのままに晒して、足りないものは身につけ、足るものは維持し、余分なものは吐き出すことだろう。そうした自己のアイデンティティの構築に、本当は親がプラスになればいいのに、むしろ子どもに価値観を押し付けて足を引っ張ろうとするような親が多いのが実際だ。

    仮に親といえども、「あなたの望むような生き方を押し付けるのは止めてもらえないか!」とキッパリ言えるような子どもは、親の用意した揺り籠から抜けられるはずだ。「親のいうことを聞いていさえすれば何でもしてくれるし、楽でいい」と、こういう子どもに育てた時点で、本来的な教育から逸脱したことになる。親と子は共依存から自立へと変革していかねばならない。

    「いつまでも、あると思うな親と金」という慣用句を、親が真剣に考え、憂いもするなら、子どもに何が大事かを伝達できるだろう。子どもにとって親に見放されるのは何かと不安であり勇気もいるが、傲慢な親の存在に反発できた子どもは、自ずと自立の道を開いたことになる。「這えば立て、立てば歩めの親心」は、子どもの自立以前には大事だが、後生大事にするものでもない。

    子どもの成長に合わせて、柔軟に、臨機応変に、親の態度や在り方を変えていける親こそ、本来の親である。「それができるか?」という問題ではない。「それをやらねばならない」という親の使命である。ニートを作り出すのは親の問題も少なからずある。一時期流行った、「パラサイトシングル」という言葉は、いつの間にか、「ニート」という言葉に変わった。

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    「パラサイトシングル」とは、"すねかじり"として否定的な見方をされたが、「ニート」は若年無業者という容認か?若年がどのあたりの年代かは問題にされるべきでは?30超えて若年であるはずもなかろう。こんな言い方は止め、「パラサイトシングル」に戻した方がいい。英語でボカし、和らげることも止めて日本語で、「親に寄生するバカ息子(娘)」と辛辣に呼んでいいのでは?

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  • 01/25/18--15:17: 死ぬまで生きよう
  • 人間に限らずすべての生物は死ぬまで生きている。なにものにも立ちはだかる死に対して抗うかの如く生きている。よって、死ぬまで生きようというのは、ら、「人の死は自然にまかせておけばいい」ということだが、人間は自然死ばかりではなく、自ら命を絶つものもいる。早く死んで幸せな者、長く生きて不幸な者もいるからして、長寿が幸福とばかりは言い切れない。

    どちらにせよ人は生きてる間中思考をすることになり、我々が生きているということは、この時、この場所において生に取り組んでいるということになる。我々が少しでも長く生きたいと思うのは、死が「無」であることを知っているからで、自分がこの世から消えてしまうことへの恐れでもあろう。死は無であり、ゆえに自分が死んだことも、この世から消えた実感もない。

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    それでも死を嫌がるのは、他人の死から死への無常観を感じるからだろう。人間は他人の死を通してのみ死を実感する。死とは生の対極にあり、健康にも何ら問題なく生きる者にとって、死は遠きもののように思われるが、ペットの死、身内の死、ニュース報道に見る事件や事故の死など、あまりに身近であるのも事実だ。死とはなにかといえば、死とは現象であろう。

    息もしない心臓の拍動もない、そんな動かない人を見て、「この人は死んでいる」言ったりする。そして、それを「死体」と呼んだりする。が、動かなくなった体、つまり死体のどこに死があるのだろうか。死体から死を取り出して見ることなどできない。動かなくなった人から動かない心臓を取り出すことはできても、それはあくまで動かなくなった心臓であって死ではない。

    つまり死は状態である。死体は見ることができても死は見ることができない。誰それさんの死体を目の前に我々は、誰それさんの死体を見るが、死を見ているわけではない。死体と死は別のものである。死とは目の前の誰それさんの死体ではなく、誰それさんがこの世から消えたということだろう。人が死んだとは、目の前の死体ではなく、この世から消え去ったことをいう。

    それが一般的な死の現象である。やがて死体は焼却され、自分の目の前からもこの世からも完全に消えてしまう。誰それさんが自分の父親なら、父が死んだということはそういうこと。父は死んだと思うことなくこの世から消えていったように、自分も同じ運命を辿るだろう。いつの日か自分は死ぬが、死んだという意識も認識もなく、残された者だけが自分の死を認識する。

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    我々は生を得た以上死ぬのではなく、死ぬために生れてきたといえる。もし、自分が死なないのなら、何のためにうまれてきたのだということになる。そのように考えると、死ぬということは大切であり、死が大切であるからこそ生が大事なものとなる。したがって、「限りある命を大事にする」考えは、どこから見ても真っ当である。なのになぜか死に急ぐ人がいるのはなぜなのか?

    なぜ、死んでしまいたいという気持ちになるのだろうか。死ねば苦しいこともなくなって、スッキリすると思うからだろうが、死ぬということは実はそれすらない。つまり、苦しさから解放されたという実感さえないのだ。死んでないものなら、死ななくたっていいではないか?「生きてるから実感させられる」と思うのだろうが、決して死んでなくなるものではない。

    死とはそれほど非情なものである。苦しさから逃れるために死を選択するのは、「間違い」とまでいわないが、出来ることなら生きる範囲の中で解決すべきである。考えるということは、それがどういうことかを考えることであって、それをどうすればいいかを悩むことではない。ただし、それがどういうことかを考えて分からなければ、どうすればいいのかを悩むのは当然だ。

    したがって、やらなければならないことは、漠然と、悶々と悩むのではなく、それがどういうものでどうすればいいのかを追求し、突き止めることではないのか?それを一生懸命に考えるなら、死んでる暇なんかないだろに。自分は自殺を食い止める方法を述べているのではない。自殺という究極の選択は、そうそう簡単に回避できるものではなく、ロジカルに解決できるものではない。

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    人間が感情の動物である所以だ。末期がんでホスピスに入所することになった「遠い蒼空」さんの発した一言にある種の感慨を受けた。「死ぬのか、オレが!」という言葉である。言葉の真意は何かと考えた。「死に対する疑い」、「死を忌避できぬ己が無力さ」、「死を現体験するという想像力」などなど…。いかんせん、死を想像すらできない人間の思考の限界…。

    末期がん患者の多くは余命宣告をされている。宣告されないのとされるのとどちらが良いのだろうか?こればかりは当事者の性格によるから一概には言えない。自分なら宣告されるのが良い。ある朝ふいに刑務官が獄舎に現れ、開錠し、「本日、執行の日となりました」と宣告される死刑囚の心情はいたたまれない。彼らは驚くのか?あるいは命運これまでと即座に悟るのか?

    これも個々の性格によるだろう。それよりも、〇月〇日に刑を執行すると決められていれば、その日に向かって気持ちの整理や心の準備ができよう。人によっては、「期日を決められることは朝が来るたびに命が縮められるようでたまらない」という考えの人もいよう。しかし、朝がくる度に命が縮められるのは事実である。期日というのは決まった日であり、待ってはくれない。

    どちらが自分に適しているかで決められない。執行日は法務大臣の腹積もりで決まるということ。末期がん患者の余命宣告はあるにはあるが日時まで決められるものではないし、幅がある。ゆえにか、「半年の命といわれたものに、もう一年以上も生きている」などの言葉を聞くが、そりゃ嬉しいだろう。捨てた命が長らえるは、どんなに美味い料理を食する以上の喜びだ。

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    運命論者は人の命は日時に至るまで決められているという。バカをいうなって!仮にそうであっても、誰がそれを教えてくれるのだ?いたら自分の前に連れてこい。まがい物、偽物預言者はそれこそ履き捨てるほど見たが、決まっている運命を指摘できないなら、「ない」も同じだろう。もうちょっと現実的になれよ、運命論者ども。「科学で分からぬことは沢山ある。」

    そんな言葉は聞き飽きた。解明されていない事実は沢山あるといいたいのだろうが、あってもなくてもいい。問題は解明されていく姿勢である。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と古人は言った。尾花とはススキの穂のこと。これは幽霊などいないといってるのではなく、「怖い怖いと思っていると、なんでもないものまで怖く思えるものだ」という意味であるが、真にそのとおり。

    運命、運命といってると何でも運命になってしまう。それがひいてはネガティブな気持ちを引き起こすこともあろう。だったらいっそ、「運命などと、そんなものは屁でもない。オレが運命を変えてやろう!」くらいの意気込みがあるべきだ。あらかじめ物事を決められるほど癪に触ることはない。学歴がなんだ、階級が何だ、金持ちが何だ、そういう気持ちが物事を変えていく。

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  • 01/26/18--16:47: 人間賛歌に辿り着く

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    「もう、バカばっかしやってる」などの言い方をする。テレ隠しや謙遜もあろうが、「バカを行為したくないのに、意思に反してやっている」という真面目な気持ちなら、自分は最近それを強く感じる。以前はほとんどなかったことだが、外出から帰ると部屋の灯りが煌々とついたままになっている。こういうバカ(無駄)は数年前には絶体と言っていいくらいになかった。

    なのになぜだ?これを老化というのだろうか?他に理由が見つからない。老化とは脳細胞の減少であり、それが物忘れや記憶の減衰を引き起こし、反射神経すらも鈍くなる。外出時に部屋の灯りを消すなど、こんな当たり前のことは以前は意識しないでできていたが最近は、無意識ではやれなくなっている。度々の失敗から強い意識をもって注意・喚起しなければならない。

    強い意識をもって消すように努めたことで、数日間は成功していたようだが、ある日帰宅すると煌々とついている灯りに愕然とした。その日に限って意識が希薄だったのだろうが、こんなこ当たり前のことをなぜに強い意識せねば実行できないのかが悔しい。脳内をMRIで見ると、スカスカとまではいかないにしろ、大分脳細胞が減ってしまっているのではないだろうか。

    その自覚症状であろうし、それしか我が身に説明ができない。他の症状で特に老化を感じる事はないが、灯りの消し忘れのみ多発する。それもあって、「部屋の灯りの付け忘れ」で検索したところ、以下の投稿があった。何度注意してもダメどころか、「注意すると逆ギレされてしまいます」と妻はこぼす。こうした情景からつくづく思うは男もイロイロなら女もイロイロである。

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    こんなことで逆ギレする夫には様々な潜在的な理由があるろ思う。なにもなくて単に"うるさ妻"にキレるという夫もいるだろうが、もし、この夫が消したい、消そうと思いながらもそれができないほどに能力後退を実感しているなら、「うるさい!」という言葉もでるかも知れない。簡単なことができなくなって、その簡単なことに口を出されたら、自身が虚しくなろう。

    妻は、「何かよいアイデアありませんか?」などといってるが、口うるさく言うのを止めて、消し忘れていたら黙って消すのが、自分の思うところの良妻だ。理由は、本人が意識しない限りは他人がどうしたところでダメ。「馬を水飲み場まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」という慣用句ではないが、馬も人間も意思の問題である。

    どんな名回答があるのかと思いきや、そういう場にこれ見たことかというように別の主婦が参じ、「うちの夫もそう」などと共感し、愚痴の溜まり場と化す。しばしばこういう場面に遭遇すると、女という生態がつくづく嫌になる。なんでこうなのか?悪口に花を咲かせる、それが女だからというしかないが、枯れ木に灰を巻いて花を咲かせるのが好々爺である。

    ま、そうした批判をすれば、また輪をかけたように、自分の夫や男への言い分(不満)を増幅させるばかりで、自分たちの醜態を客観視して、はたと気づくことはない。男にも妻の悪口をいうものはいないではないが、我が意を得たりとばかりに、他人が参入して妻の悪口合戦ということは皆無とは言わぬが少ない。その理由はいろいろあるが、自分はこのように考える。

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    A男が妻の悪口を言ってるときに、B男の妻と同調できる点があっても、事はA男の妻の問題であるなら、B男はA男の妻に対してA男がどう対処すべきかを建設的に考えるだろう。それもせずに一緒になって双方の妻の悪口三昧などは、みっともなさすぎる。男はあることに対して、建設的で前向きな意見を思考する。だから、仕事のできる事といわれるようになる。

    よく言えば、工夫と問題解決が男の信条ではないか?勿論、一緒になって妻の悪口に盛り上がるがさつな男もいるが、おそらく仕事のできない男である。男に井戸端会議がないのは、基本的に男関係は共感で成り立たないからで、そこが女とは根本的な違いがある。先ずは男は批判が先導する。妻の悪口ををいうA男に対し、冷静にB男の問題点や足りない部分を探そうとする。

    ところが女にこれをやると間違いなく気を悪くする。なぜなら、女は夫の悪口に共感を求めているからで、それなのに冷静に分析されて、「君にも悪いところがあると思う」などとされたら、「この人に言うんじゃなかった」となる。そういう態度をされたら自分なら、「悪口に共感を求めるなら相手違いだ。別の相手を探せよ」と、口には出さずに腹で思うだろう。

    悪口を聞いてもらいたいのか、それとも問題を解決するための方策を見出したいのか、後者の女性の方が魅力を感じる。悪口を吐き出し、聞いてもらえばそれで気分が晴れる、憂さが晴れると、そういう女とは雲泥の差がある。前者女とは付き合わないし、後者のような女となら様々な問題について、惜しみない時間を費やしたい。例えばある女性からある相談を持ち掛けられたとする。

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    自分なりに考えて回答したところ、「堅苦しくてよく分からないし、そんなにいわれてもどう答えていいのか分からない」などといわれることもある。この場合、解決策を求めた真摯な相談ではないなというのが分かる。物事の一切は相対的であるから、相手の性格や頭の様子などを加味して、それに合わせた物言いが大事であろう。以前は自分を出すだけだったが、臨機応変に振る舞っている。

    振る舞えるようになったというのが正しい。経年で忘れっぽくなることもあるが、経年で人を的確に判断して、それに対応するのがよいと分かるようになった。年を取ったらバカになる部分もあるが、そうばかりでもない。が、後者のような自己の向上は意識をしなければみえるものではないが、前者の場合はそれはもう情けないというか、嫌というほどに感じさせられる。

    どちらも老齢、どちらも自分である。成長は分かりづらいが、後退は分かり易い。以前、県内トップの中高一貫女子高生がこんなことを教えてくれた。入学の際の校長の訓話とし、「あなたたちは選ばれた人達なのです。他の人たちは違うからこの学校に入学したのです。その意識だけは忘れないように」。聞きながら、エリート校というのは、こういう人間教育をするのかと感じた。

    普通の公立中学の入学式ではない訓話であるが、「エリートは選ばれし者」としてのエリート教育はここから始まっている。自分的にはそれが、「人間教育」とは思わないが、進学校にはそれなりの論理があって間違いと思わないが、問題は進学校を出たからといってどういう人間になることまでを保証するものではない。後は自己教育による自己向上しかない。

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    人間の本当の質が分かるのは壮年期以降ではないか。青春期とは何かと矛盾に富んでいる。なぜなら、500人がエリート校を目指しても400人は落ちる。そこが問題であろうし、つまりある種の悲劇はその人の人生に意味を与える。すべての欲求が満たされたとき、人は人生に無意味感を味わうこともある。「正」と「正」の衝突が人間の悲劇というなら、真の人間的な「正」とは何か?

    人間的「正」は、常に人間的「不正」を伴うし、人間的「真実」は、常に人間的「虚偽」を伴い、人間的「善」は、常に人間的「悪」を伴っている。「清濁併せ呑む」という言葉を言い得て妙と若い頃は思っていたが、今は正しいと分かるようになった。人間は善も悪も行為するし、正も不正も行為する。また人間は誰も真も虚も伴っている。それでこそ「人間賛歌」と思うこの頃だ。

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    世俗のことは書いてる側も面白い。人間がそこに生き、うごめく場であるからだろう。特に意識をせねば何となく通り過ぎていくだけの「生で」ある。だからか、意識をすれば楽しくもなる。意識することなく楽しくなることもあるにはあるが、意識をすれば、普段は気づかぬ人間の奥や裏の面白さが見えてくる。我々にとっては残された時間など、いくばくもない。

    1月19日の記事「男を振り回す女」は、男が勝手に女に振り回されているという醜態を書いたが今回は違う。自らが故意に、意図的に男を振り回して楽しむ女は、そのことを挑戦的に公言する。「気をつけた方がいいわよ。わたし、男を振り回す女だから…」。という女がいた。いわれた記憶はあるが、その女とその後にどうしたこうしたという記憶はまったく消えている。

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    自分はこんな高飛車なことをいう女にそそられる性格である。そんなに言うのなら、「飲み込ませてやろうじゃないか」といった反骨心がメキメキ湧いてくるが、「調子こいて何を生意気なことを言っていやがるんだ」と、口には出さずとも腹で思って対処する。詐欺師が、「自分は詐欺師なので騙されないように気をつけた方がいいですよ」というはずがない。

    被害にあって、「(詐欺師と)いわないから騙された」といいたいわけでもなかろうが、「そんな人には見えなかった」、「まさか詐欺とは気づかなかった」などの言い方も自己正当化の何物でない。騙されたと気づいた時に、「自分はそんなことに騙されるほど間抜けじゃない」という自尊心が自己弁護をいわせるのだろうが、何を言い訳をしたところで間抜けであろう。

    と、言い訳を嫌う自分の考えはそう解釈する。裏を返せば、言い訳を嫌うから言い訳をしなくていいように生きている。そうはいっても、失敗をしない、人から詐欺にあわない、安易に騙されたりしないというのではない。そんな完璧人間を自負するほどに思い上がってはいない。しばしばミスもするし、ドジもあるが、だからといってそこで言い訳をして自分を助けない。

    その方が本当は自分のためになるからと思っている。自尊心をカバーし、埋め合わせても何の足しになるというのか?こんなこせこせした人間でありたくもない。自分の行為は自分の責任以外に何もない。詐欺師に騙されようとも騙された自分の責任である。「騙したあいつが悪い!」と思うことで救われるなら他人のせいにすることもやぶさかではないだろう。

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    自分は、救われるとも思わないし、救われたいとも思わない。そんなことより、自分のバカさを悔いて晒して今後の教訓にと考える。その時、その場の失敗には、その時、その場に連なる何かがあると考える。それを見つけて改めない限り、同じミスや過ちは起こすだろう。根を断つことが大事である。自分はかつて人によく騙された。純粋で人を疑うことを知らなかった。

    人を疑うことすらできなかった。人を疑うのはいけないことだと思っていた。これらを含めてよく言えば「人の善さ」、悪く言えば、「無知でバカ」、一般的には、「お人よし」といわれている。お人よしとは、何事も善意にとらえる傾向があり、他人に利用されたり騙されたりしやすいこと。決していい意味で捉えられてはいない。人から、「いい人だ」といわれる以外に益はない。

    では、人から「いい人」といわれるのは益なのか?「人が悪い」といわれるよりはマシだろうが、自分はいろいろ自己変革を試みたが、「人からよく思われたい」を変えようと思ったのが、自分の最大の自己変革だった。あの時、自分に向き合い、自分に言い聞かせた。「心を鬼にせよ!」と。年代は覚えてはないが、20代後半で管理職に抜擢されたときだったかも知れない。

    同じようにバカを言い合った同僚に対し、これまでとは同じようにやっていてはダメだと認識したとき、「ちょっと偉くなったからって、偉そうにすることもなかろう」と陰口を叩かれるのが嫌だった。「心得」という言葉は理解するも、毅然とできるかの自信はなかったがやるしかなかった。仲のいい同僚に、「今までと同じようにはできない立場」と理解を求めた。

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    「いい人でいたい」、「いい人でいる」のか心地よいものだが、いい人でいることで他人の悪に口をつぐばねばならない。さらにいうなら、他人に口をつぐむことは、自分にもそれを望んでいるということでもある。「俺はお前に何も言わない。だからお前も俺に何もいうな」といった、心にニヒリズムを隠し持った関係である。それはいいことか?現状維持にはよかろう。

    が、それが前向きな関係か?互いが向上し合おうとする関係か?といえば「No!」。友人を描いた作品をいくつか知る。漱石の『こころ』の二人は、いかにも日本人的なネガティブな関係だった。それからすると『グッド・ウィル・ハンティング』のウィルとチャッキーはポジティブな関係だ。天才的資質を持つウィルに、「お前は俺なんかとつるんでる人間じゃない」。

    チャッキーは事あるごとにウィルに言い続ける。「ある朝、いつものように俺がお前の部屋を訪ねたとき、部屋は空っぽでお前はどこかに旅立っている。俺はそれを願っている」。そしてある朝、チャッキーのその思いは叶えられた。ウィルは自分の可能性を求めて何処へと旅立っていた。映画の副題は、「旅たち」である。青春とは保守であってはならない。可能性を信じること。


    聞き飽きた言葉であるが、物語に収められると新たな感動を呼ぶ。日本映画にもこうした突き放す友情もあるのだろうが、寡聞にして自分は知らない。そういえばミッキー安川が渡米しての高校に入学したが、テストの際にカンニングをしていた彼を教師に言いつけたのが彼の友人だった。そのことでミッキーは放校処分になるが、引っ越しの際に友人は手伝い、汗を流した。

    あっけらかんとした態度の友人に訳の分からぬミッキーは、「なぜカンニングを言いつけたのだ?」と聞いたとき、「君はこの国に語学を学びに来ているんだろう?その君が不正をするのはぼくとしても許せないこと」といったという。さらには、ベトナム還りの兵士がある村を焼き討ち、村民を虐殺したことを友人に話したところ、彼はそのことを司法省に告発した。

    宗教的バックボーンのある民族と八百万の神の日本人との違いなのか、横断歩道を皆で渡ればいいという日本人とアメリカ人の差を感じるものだった。表題からズレたが、「男を振り回す女」をお利口で良い女だと、そんな程度の女に操られる男もヘタレというしかない。そんな程度の女と、そんな程度の男がいるのは事実だから、どちらも批判する方がまだマシか。

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    「気をつけた方がいいわよ。わたし、男を振り回す女だから…」。面と向かって男にこういうセリフを吐く女は、気が強いと思いきやそうともいえない。女は心と言葉と裏腹な場合が多く、言葉で断定するのは間違い。上記の女は自尊心が高く、男に媚びないタイプの場合もあるが、感情的になって物事を見失いやすい女が、自制も兼ねての事もあり、正しい見分けが必要だ。

    男をはべらせ、振り回すのが快感という悪女気質もいる。「悪女は女の理想」というのを耳にしたことがある。「女は悪女がいい」という悪女ブームの時代は、ある時期存在した。そうした、「悪女礼賛」の世相を象徴する中島みゆきの『悪女』は1981年のヒット曲である。それが発端だったのか?その2年後、「金曜日の妻たちへ」が主婦をテレビの前に釘づけにした。

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    不倫という言葉はここから生まれた。それまでは、"よろめきドラマ"という手法で、よろめきとは、夫のある女性が他の男性に心を寄せるという意味。どちらも一度も観たことがないし、こんなものは主婦の潜在的浮気願望に他ならない。手の早い男は何に影響もされず、真似ることもなく、さっさと手も足も出すが、一応主婦なる看板を挙げた女には言い訳が必要なのだろう。

    せっかちな自分は連続ドラマという手法が好きになれない。この手のドラマを始めて観たのは、『東京ラブストーリー』であった。愛媛出身の大学生から勧められて、全編を一挙にレンタルで観たが、結構面白かった。彼女は、「赤名リカってどう思う?あれって重い愛なのかな~」と問題提起をした。物事の軽重を意識したことのない自分は、世はそういう世相かと考えさせられた。

    「重い話でごめん」とか、「重い愛」などと、自分にとって巷いわれる「重い」の感覚が分からないのは、どれも普通の認識である。したがって赤名リカは普通の愛情表現に映った。愛媛は完治の故郷で、ドラマのラストを飾る愛媛県松山市の『梅津寺駅』は観光名所となり、全国から恋に憧れる乙女たちがおとづれて、ハンカチを巻き付けて行ったという。

    愛媛の女がはまるのも無理もない。確かに面白かったし、鈴木保奈美の都会的な顔立ちと、織田裕二の泥臭い顔のギャップがトレンディドラマというにはリアル感を醸していた。このドラマで悪女とされたのは有森也実演じる関口さとみであったが、自分にはそうは思えなかった。さとみは悪女というより、こういう憶病で優柔不断な女はどこかしこにいて珍しくはない。

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    もし女に振り回される男がいるなら、それが完治であり、リカは実際にはあり得ないようなぶっ飛んだ女であったようだ。保守的で真面目な完治はリカについていくことができず、類は友を呼ぶの論理で保守的なさとみを選んだに過ぎない。それほどに完治は、みていイライラするがごとくリカに振り回されっぱなしだった。そういう設定だからイライラするのだろうが…

    完治とリカの愛を望む視聴者は、「さとみなんかクソ女だし、マジで邪魔!なんだい、あの電話!ふざけんな!」などと苛ついていたというが、自分にはさとみのおどおどしさと、完治に取り入れられる女の本能性を理解した女に見えた。一方のリカはそうした恋愛のテクはまったく使わず、いつも真正面から自身の気持ちに正直に素直に生きている女である。

    それで恋愛の敗者になるなら望んでそうなろうという女の不器用さは、かえって誠実に感じられもした。ドラマの最終回、リカが完治の故郷を訪れ電車の中で過ぎ去った日々を思い浮かべて泣くシーンは、恋愛の敗者ではあるが、彼女は人間としての真っ当な生の勝利者である。「忘却とは忘れ去ること」。愛媛の旅路は一切を忘却とするための行為であった。

    そうして、我々は新たな赤名リカを目の当たりにすることになるが、この清々しさこそが、リカが過分な代償を払って得た大きな心である。彼女はどこまでも大きい女を目指していたに過ぎない。恋愛というのは、人間の生の目的において、ほんの矮小なる一分野にしか過ぎない。その部分にだけに釘付けになっていたのでは、木を見ても森を見ることのできない人間になろう。

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    赤名リカも決して男を振り回す女ではなく、鈍い完治がリカの気持ちを理解できずに翻弄されていたに過ぎない。あのまま彼はリカと結ばれたなら、生涯彼女に翻弄され続けたであろうから、さとみと結ばれたのはまさに適材適所の良縁である。人には相性というものがある。相性はまた、合わせていくよう努力も大切だが、翻弄されるなら相性的には悲劇である。

    人を理解するというが、どうしても理解できぬこともあり、「理解できないことを知る」という理解の仕方もあるわけだ。であるならば、「翻弄」という宙ぶらりんな状態は決して良いことではない。「恋の成就」という言葉ほど理解できぬものはない。何をもって恋の成就とするのだろう。「結婚」という考えもあり、「両想いになった」ことを成就という人もいよう。

    そうであろうか?みんなに祝福され、心のどこを探しても翳りのないほどに晴れがましい恋など、持続するわけがない。そんな恋には永続的に二人を結びつけるものなど何もない。むしろ悲恋には、ともに悲しい運命に耐えているという連帯がある。不倫の恋には、互いが罪を犯してしまったという共犯者としての連帯がある。結び付きの根拠という点では得恋に勝る。

    なぜに人は遂げられぬ恋に対して悲観的な見方をするのだろう。他人の不倫に対してなぜ関係のない他人が批判するのだろう。軽犯罪である立小便を批判するなら分かるが、不倫に何の罪はない。批判の裏には羨望があり、そうした妬みなどの屈折感が批判となっている。渡辺淳一の『失楽園』が日経に連載され、がんじがらめに家庭に縛られた金融・証券マンの心を潤した。

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    羨望とは、自分がしたくてもできない事をやってのける人に抱く心情である。不倫の恋も恋である。性の部分だけ取沙汰されるが、不倫という言葉があまりに情緒がなさすぎる。昔は「道ならぬ恋」といった。誰が誰を愛したところで、その愛自体に罪はない。『シリウスの伝説』という作品がある。水の国のシリウスが火の国の少女マルタに恋をし、二人は親の目を盗んで愛し合う。

    かつてこの地上には、真っ赤に燃える火と、もうもうと立ち込める水煙が一かたまりに渦巻いていた。火の女王テミスと水の王グラウコスはとても仲がよい姉弟だった。それを嫉んだ風の神アルゴンが、二人に互いの陰口を吹き込む。裏切られた思いの二人は激しく怒り憎しみ、テミスは陸に炎の宮殿を、グラウコスは海に水の城を築き、一族同士も決して見えることはなかった。

    火と水はもともと共存し、繁栄していたのだが、あることを契機に袂を分かつ。親同士が姉弟ならマルタとシリウスは従兄弟となり、それを知る親たちは許されぬ恋と二人を幽閉する。二人は愛を誓い、火と水がともに暮らせる星に旅立つため、90年に一度だけその星へと胞子が飛び立つクライン草の咲く、メビウスの丘へと向かうのだが…、シリウスは力尽き死んでしまう。

    遂げられぬ恋は文学や演劇などでさまざまに語られているが、なぜにこうも美しいのだろう。人間の精神が純粋であるなら、悲恋であるか、互いが罪の意識におびえて格闘する以外に恋の永続はない。ところが、昨今は蓋を開けられた途端に、不倫を告発され自己防衛のために離別する。純真な「道ならぬ恋」どころか、つまみ食い的な性の連帯といわずしてなんであろう。

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