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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    今回はフォントを大きくしてみよう。どういう効用があるか、ないか…

    「夫」を「オット」と表記するご時世である。女のやることに意味を求めるのも無理からぬことだからいいとしても、「妻」を、「ツマ」表記するような夫は見かけない。いないとみるがとりあえず、「妻をツマ表記する夫」で検索を入れてみたところ、「オット、ツマ表記が死ぬほど気持ち悪い。夫、妻でいいのでは」がヒットした。

    となると、「ツマ」と表記する夫がいるのだろうか?「ツマ」なんて語句は、刺身のツマくらいしかないが、妻をツマと表記することで何が満たされるのだろう。いろんな男がいるからこれとて構わんが、意味のないことを思考し、分析しても答えはなかろう。カタカナ流行に乗っかったということか?自分は目にしたことがない。

    夫による妻への呼称は妻以外に、「嫁」、「ヨメさん」、「奥さん」、「ワイフ」、「女房」、「かあちゃん」、「つれあい」、「鬼嫁」などを目にする。これらは一般的表記で抵抗はないが、「ツマ」とわざに表記する夫には理由など聞いてみたい。カタカナが多いと顰蹙を買う小池百合子であるが、男にカタカナ言葉はどうだろ?

    女性でやたらカタカナ表記が多いのは、おそらく、「才」を意識してのことだろう。女がやることの少々を自分は批判をしないが、ブログは掲示板ではないのに舌戦を挑んでくる女性も何人かいた。舌戦というには程遠いつたない発言が多く、茶化しで終わっている。女性に限らず男のくだらん書き込みにおいても無視を決めている。

    他人のブログに、「オット」と記すのを気持ち悪いと思うなら見なければいいだけのことで、強制的に見せられるわけではあるまい。それを批判たらたらとあえて記述するは、女の底意地の悪さとみる。ほっとけばいいことだろうがそれができない。書き手側に立てば、コメント欄を設けている以上、発言には対処し、処理する必要はある。

    書き手の自由、読み手の自由、返信の自由ということだ。「コメントが怖い」というブロガーがいた。ネットやブログでヘイトをまき散らす、「荒らし」には、ビビるよりも社会勉強と鷹揚に構えた方がいい。舌戦を挑む相手には、「ここは掲示板ではないので、コメントに返答はいたしません」がよかろう。それで聞かない奴は無視。

    答えない自由もあるのにせかす側が悪い。ネットユーザーの「荒らし」率は5.6%とうy数字データがあった。低い数値なので心配はいらないだろうし、変なのが来たら正月が来たくらいに思うがよかろう。つまりは、オメデタイ相手なのだと…。他人に苦痛を与えて刺激を楽しむ倒錯者は、必ずしも悪人ともいえず、適宜放って置くのがいい。

    日頃の鬱積や不満を人に絡んで晴らそうとする幼児体質だと理解しておけば、ムキになる事も腹が立つこともなかろう。相手はむしろ、こちらの困惑や狼狽を楽しんでいるようなしがない奴だと、こういう場合こそ上目線でいるから無視ができる。他人の不幸を求める人間の相手はしないこと。人間の集まるところにケンカはつきもの。

    あい変わらずネットでは、炎上や罵り合いは絶えない。悪意のない失言ひとつに大量の人間がむらがり、一方的な非難や罵声を浴びせるために殺到する。果ては、「クズ」、「ゴミ」、「死ね」といった人格否定にまで進む光景は、他人の不幸は蜜の味といわんばかりである。ここ数年のツイッターはケンカの発生率が高くなっている。

    うかつな発言を恐れて鍵アカに引きこもるユーザーも激増するなど、現代のSNSは「修羅の国」と成り下がっている。こうした時代背景にあって、こうした問題に取り組む研究者も増えてきた。ネットでケンカを起こす人たちの傾向を探り、科学的な対策を提案する機運も高まった。一例が、2016年4月に出版された『ネット炎上の研究』である。

    これとは別の、学者三人による「荒らし」の性格的研究(被験者1200人)によると、「荒らし」を好む性格特性と、「ダークテトラッド(Dark Triad)」の関連性を調査した。ダークテトラッドとは、ナルシズム、マキャヴェリズム、サイコパシーの3つの負のパーソナリティ特性の総称で、それにサディズムを加えた性格特性である。

    難しい事はさておき、「荒らし」は無視に限るが、コメント欄を開けている以上人を選べない。「荒らし」かどうか分らぬが、女性同士の罵り合いは何度か目にした。感情むき出しの女の喧嘩は面白い。女性が感情的になる要因の一つに、「自分の意見を言う=相手の意見に反対する」。これはつまり反対意見=相手を敵に回すことになる。

    それを的確に認識できるのが理性であり、「できない」、「したくない」、と突っ張るのが感情である。自身の間違いに気づいたなら素直に認識することも一つの成長である。成長しない人間というのは、自分の非を絶対に認めない。一人床に入って己の非を認めることはあっても、批判をされた相手への恨みを増幅させるのは問題だ。

    「誰にいわれた」ではなく、「何をいわれた」が大事であり、いわれた中身について思考すればいいが、「坊主憎けりゃ袈裟まで」という感情が災いすれば、相手の言葉を素直に聞けない。それが感情というものならどうにもならない。女性の感情的になりやすいという一面にフォーカスするなら、ビジネス面では相応しくないことが多い。

    ただし、感受性が高いという一面においては、女性ならではの面もたくさんあり、そこに照準をあてれば十分にビジネスで活かせることになる。仕事で大事なのは、相手を憤慨させてはならないこと。そのためには自分を抑えることで、それが必然的に相手の尊重となろう。一連のことで、林真理子は死んでも人には負けたくない女に思える。

    本来言葉は、「正論」的にいえば、読み手・聞き手があってのもの。話を聞いてくれる相手や文章を読む多くの人に、歪な表記は考えものだ。「おや?」と思わせるカタカナ言葉は再考し、不特定対象相手に違和感のない表現を用いたい。「カタカナの鎧」などという独善を排すれば、円滑でさりげないコミュニケーションが可能となる。

    20代の頃、極度に批判を嫌がる女性がいた。「批判されると辛いので、できたらナシで願えませんか」と公言するのは余程の重傷と感じた。付き合うことになったその日に、「私の至らないところ、気づいたことがあったら教えてください」という女には驚きもし、そのままの性格だったが、「批判拒否」の女性は、精神が脆弱であった。

    おそらくパニック障害のような、精神障害を持っていたと推察するが、長くは続かず自分から遠ざかっていったので不明である。批判を受け入れる理由は、長いスパンで自身を考え、向上させたいという気持ちである。批判を嫌がる人間は、その日、その瞬間が堪えられないだけであって、批判は将来的な自分にプラスになると考えない。

    そこが問題である。批判は誰であれ耳に痛いが、いわれた批判を自分なりに改善しようと努力する前向きさが欠けている。「今」だけを考えて行動するショートスパン人間は、感情の塊りであり、毎日が何事も起こらぬことを願っての生活を夢見ている。あきらかな短絡思考であるからして、「良薬口に苦し」がない人間に成長は望めない。

    自分の成長を長期的スパンで思考し、「批判は将来の肥やしになる」と自らを変えるしかないが、40、50歳になっては苦難であろう。批判を拒否する人間というのは、10代の頃に起因しているのがよくわかる。「他人の批判(注意)は素直に聞く」などは誰も耳にしたはずで、「言ってくれるうちが花」をしかと肝に命じておく必要がある。

    さて、夫は妻を、「ツマ」などと表記しないというのは男としての自分の達観であるが、な、なんと妻自らが、「ツマ」と表記するのを見つけた。夫自らが「オット」と表記するのも傑作だが、妻がツマとはさすがに女のやることだ。批判と言うより意味が解らん。ツマと妻を交互に使用しているが、本人以外には不明の理由があるのだろう。

    サレ妻という造語は、「浮気サレ妻」の意味であろう、どういう意味合いで妻とツマの用法なのかが見えてこない。やはり、「ツマ」は今の現実の自分、物体的で無機質な自分という用法か、妻は世の中の一般的で平穏で幸せな妻の総称か?それとも刺身のツマをもじったものか?あれはクッション替わりで自分は食べない、見るだけのもの。

    昔、「パセリの女」などと言った。パセリとは、料理の飾り用のミドリで、見るだけで誰も手を出さない。そういう女を隠語で「パセリ」といった。上記の女が妻を(刺身の)ツマとみたてた表記か否かは分からぬが、「ツマ」表記が異常なら、「オット」表記が普通というのは独断的な言い草である。妻でよく夫で文は自然に生える。


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    衆議院選挙が幕を閉じた。今回の選挙は、これまでにない不思議な、そして可笑しな選挙だった。民進党代表になったばかりの前原を取り込み、合流させることで華々しく存在価値を訴えた希望の党は、自民を脅かしかねない野党第一党を伺う勢いだったが、小池代表の排除の論理発言から、前原と袂を分かつ枝野前民進党代表代行の立憲民主党に風向きが変わった。

    当初、民進党は希望の党に合流ということで党員の了解を得たが、小池氏が合流の条件を付けたことで、「それはないのではないか?」と、リベラル派が立憲民主党を立ち上げたものの、「全員を合流させるなど、さらさらない」と強弁を吐いた小池氏の政治姿勢が、政治的ドミノ倒しにつながった。過去日本の政治においてこんなことはこれまでになかった政治混乱である。

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    政党としての存在意義をなくし、ゾンビ化する民進党議員にとって、小池人気で票をとれる希望の党は、民進党議員にとって願ってもない受け皿であったハズが、代表の言葉一つで有権者がそっぽを向いた。彼らは集票のためなら土下座も厭わぬ類であり、一票欲しさにいかなる人間的な醜さをも排除できる無神経さを別の言葉でいえば、メンタルの強さというのだろう。

    政治家になるためにはこれほどしたたかさが必要なのだろうか?政策を掲げて未来を打ち出すとか、舌鋒鋭い論理を展開する諸外国の政治家志望とはまるで異なり、人間としての尊厳などどこにあるのかと言わんばかりの彼らは、藁をも掴む選挙難民である。それほどの思いを掲げ、身銭を切って立つ候補者に対する小池女帝の無慈悲な対応が、傲慢と嫌悪されたのは当然であろう。

    自分の考えに賛成しないからという理由で、多くの難民議員を喝破し、拒絶した小池代表の人間性は、誰が見ても厚顔不遜で不寛容と受け取られた。これほどに党のイメージを傷つければ、結果は火をみるより明らかである。選挙戦の最中には、「都民ファーストの会」の都議2名が、小池氏は、「独裁的」として離党した。これが決定的な小池のイメージダウンとなってしまった。

    こういった不遜な人格が露呈し、あれよという間に希望の党の支持率が失速して行く。都知事でありながら国政政党の党首という二足の草鞋は無理があり、離党した音喜多都議がいうように、都知事の仕事キャンセルが相次いだという。民進党の松原仁元国家公安委員長は、9月25日に離党の記者会見後に党を除名されたが、その会見の席で小池新党への参加を表明した。

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    投票日の2日前に松原は街頭で以下のように訴えていた。「小池代表の発言で一気に支持率が下がる不安定な党ではいけない」、「日本は和をもって貴しとなす国であり、1人に頼りすぎる政党は極めて異常」などと党批判ともとれる発言である。これはもう小池不人気に裏打ちされた見境いなき発言で、自らの当選のためには党代表批判もやむなしという選挙も異常である。

    千葉1区の田嶋要氏も街頭演説で、「できたばかりの希望の党を実際に運営するのは民進出身の中堅だ」とし、「小池さんが自民党との連立や憲法9条改悪を行うようであれば、希望にはいられない」と訴えた。さらには升田世喜男氏(青森1区)も、選挙区内の街頭演説で、「希望の党が自民の補完勢力だったならば、わかり次第離党する」などと明言していた。

    希望との合流を決めた前原誠司・民進代表の側近である小川淳也氏(香川1区)は19日の街頭演説で、「この新党、第2自民党になるくらいならいらんと思う」とし、立憲民主党の名前まで挙げて、「もう一回、野党は再合流に向けて大きな固まりを作り直していかないといかん」と述べるなど、日本大学の岩井奉信教授をして、「かつてないレベルの混乱」といわしめた。

    松原仁、田嶋要、升田世喜男、小川淳也ら、希望の党の候補はいずれも小選挙区で敗退したが、升田氏を除く三人は比例復活当選した。選挙民に「NO!」を突き付けられた候補が、党員として復活するようなゾンビシステムは不評極まりないが、ダメをダメとしないこうした甘さ、姑息さが日本人的なのだろう。希望の党の支持者が離れた原因は、実現性に乏しい政策も一因だ。

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    公約には、反原発、消費増税凍結、企業団体献金ゼロ、受動喫煙ゼロ、待機児童ゼロなどが示されていたが、どれもこれもが筋の通った指導者的ビジョンというものではなく、「有権者の感情をベースに沿った、いいとこ取りになっている」という専門家の批判はまさしく正鵠を射ている。民意というのは数の集合であるから、自分の個人的な見方と異なるのは仕方がない。

    が、この国特有のイメージ選挙においては、「このハゲー」の豊田候補は2万票足らずの最下位落選、少女期の『アニー』イメージ残る山尾候補は、1000票にも満たない微差で当選した。豊田候補の落選は自分的には残念だった。イメージダウンを回避するために逃げまくった山尾と違い、キチンと記者会見をして泥にまみれるのを厭わぬ豊田候補の姿勢を評価したのだが。

    イメージと言うのはそら恐ろしいものだ。彼女の一連のヒステリックな言動は、幼少時代から親によって育まれたもので彼女は被害者である。そういう悲哀を背負って生きて来た彼女に秘かにエールを贈った自分。人間の人格はその人の環境や親によって作られるというポリシーから、豊田の当選を期待する反面、虚言で誤魔化す山尾の落選を願っていた。が、いずれも適わなかった。

    どちらも際物といえば際物だが、同じ際物ではなく長短はある。豊田落選、山尾当選の事情について、美人が得の図式は当てはまるのか。確たるデータがない以上、独断的偏見かも知れない。根拠はないが、何かと美人有利の世の中である。政治家選びに反映することもあろうし、そうした世間的事情からすれば、美人山尾の当選は、まったく根拠のない邪推とは思えぬ節ありき。

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    が、今さら何を語ろうと終わったことだ。終わったことをあれこれ言わない、言いたくないのも信念として置いている自分である。確かに結果は何も生まないが、何も生まない結果に意味を求めるのではなく、あくまで分析の領域である。それを怠ると結果重視の打算が蔓延る。結果に後生や哀願を求めぬが、一切の結果には原因が必然である以上、思考の領域とする。

    「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠んだ芭蕉である。この句に込めた芭蕉の心情は何であろう。人気の全くない寂寥感漂う地に、覆い茂る夏の青々とした草、そこに兵士たちの足跡を見る…、そんな情景が浮かぶ。かつて義経主従や藤原一族の者たちが、功名・栄華を夢見たところである。そんな奥の細道に寄せる思いが、自然(夏草)と人事(兵)という対比で見事に現されている。

    「夢の跡」のくだりには、言外の余韻が感じられる。義経や藤原一族をはじめ、頼朝や後の尊氏、信長、秀吉ら戦国大名においても、彼らは一様にその観念性に於いて、人生と言うフィクションを演じていたのだろう。それらを主観的に想い成すに過ぎない。「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」とした芭蕉の真意、その奈辺の在り処とは。

    認識と表現との両面から自らを責める、そこに新たな言葉の可能性もあり、創造もある。芭蕉と言う稀有の歌人は、表現対象に対する待遇、言葉の選び方を風雅の道の生命とした人。正確な認識に言葉をどう対置させるかをに自らを責め続けた人。そうした日本人的な、「もののあはれ」感に比べて西洋人の、「見る」という視点は、事物をロジカルに捉えてやまない。

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    事実ゲーテは、「最高の事は、一切の事実はすでに理論であるということを、理解する必要がある」と述べている。この考えに沿うなら、一切の現象も事物の本質同様に、非現実的なものといえるのではないか。人間が何かを表現する際に、「広大なる宇宙」、「宇宙シナリオ」、「宇宙的」、「宇宙規模」などの引用を見るが、そんなに簡単に宇宙を出していいものか?

    自分はかつても今もこれからも、「宇宙」とされる得体の知れぬ現象や存在は、非現実の極みとし、それゆえにか思考遺憾ともし難く追っつかない。よって、比喩として用いることすら躊躇われる。我々に宇宙の何が理解できるであろうか?非現実を遥かに凌駕する超絶的非現実世界観こそ宇宙の根源である。我々が宇宙人であることすら非現実としてみなされている。

    選挙如きに一喜一憂するつわものたちのあくなききわものどもへ、投げかけたい個人的な言葉は多だあるが、彼らがこの非現実空間をしたたかにも現実空間と捉えている以上、何をいったところで耳には入るまい。「あんな人たちでなくてよかった」という充実感だけが呼び起こされる。いつものことながら、今回に於いても、これが政治屋という人達への思いである。

    選挙というのはきわものたちの生々しい現実である。ニーチェ風にいえば、「あまりに人間的な」その空間にうんざり感を抱かせられる。こういう時はつとめて観念世界に思考を投じたい。普段はどっぷりと世俗世界の表裏を捉え、生々しく書いたりの自分だが、きわものたちの騒々しいお祭り騒ぎも終わったことだ。後は非現実的観念世界に身を投じて安らぐとしよう。

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  • 10/23/17--17:27: とある友人との会話
  • 尿路結石を自力で排出するために始めたウォーキングだが、何事も始めると面白いもので、昨年は油断もあって足裏筋膜炎を患ってしまった。油断と言うのは、シューズのソールがすり減っているにも関わらず、それを無視して一年は履いてやろうと無理をしたのが良くなかった。このこともあってか、ソールのクッションがいかに足裏に大事であるか、つくづく理解した。

    履き心地というのは試着するだけで分かる。以前はナイキのシューズのクッションがイイと思っていたが、何気にアディダスを試着した時、これはいいなと実感した。それまでアディダスは硬くて避けていただけに、ちょいとビックらという感じだったが、アディダスも品質改善に取り組んだのだろう。新採用のクラウドフォーム(cloud foam)でクッション性が一変した。

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    その名のとおり雲(cloud)の上を歩くようなふわふわ感である。それプラス足裏筋膜炎防止用のインソールを併用している。このインソールは歩く際に最も重量のかかる踵部にシリコンのを採用しているので、衝撃が緩和される。ちょいと足が痛いなと思いながらも炎症を防いでくれている気がする。元マラソンランナー有森裕子は、足裏筋膜炎に苦しんだことを記していた。

    アディダスのクラウドフォームに筋膜炎防止のインソールという二重のセーフティガードは、備えあればの用心である。近年のウォーキングブームもあって、街中でウォーカーに出会い、すれ違うことしばしばで、彼らはコスチュームに「力」が入っている。ワザとらしい形重視的取り組みを嫌う自分だから、スエットの短パンにポロシャツといういでたちで歩いている。

    前記したような理由で靴だけは高価なものでなくとも、足に良いクッション性重視で選んでいる。10月初旬のある日、ウォーキング仲間が来宅した。仲間といっても一緒に歩いたこともないし、同じことをやっているというだけで、彼は「歩こう会」のような団体に所属して数人で歩いているという。自分は何の制約ナシを好むので、団体さんより孤独に自由に一人でやる。

    仲間に入れと誘われるがそんな気はまるでない。仲間同士、和気藹々と歩くのを好む人もいれば、一人黙々と歩くのが性に合う人もいる。後者は集中したい派であろうが、前者は歩くことはオマケであり、人的交流が主体であろう。団体でつるむのを好む人、煩わしさを避けて自由にやる人に分かれる。「どんな格好で歩いてるんだい?」と聞かれて、こう答えた。

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    「体操服に体操ズボンだよ」。冗談交じりに答えたものの相手は、「体操服って?」と真面目に受け取るので、常用のポロシャツを見せてやる。「へ~、白ばかりなんだ」というので、「昔から体操服は白、ブルーマは黒と決まっているだろ?」などと、これまた冗談うぃいえば、「ブルーマって紺だろ?ブルーっていうから…」と思わぬ発言にちょいとビックらこいた。

    おもしろついでに、「ブルーマがブルーのマなら、マとはどういう意味だ?」と言ってみた。本当はブルーマではなく、ブルマー(bloomers)という品名であるが、それをもじってブルーマという知識はあったので、ブルーマをブルーというのは分かるが、知識をひけらかせ、「ブルマーが正しいのよ」と教えて喜んだりするタイプではない。それで、「ブルーマのマとは何?」と聞いてみた。

    「マはたぶん麻のことではないかね~」というので、「そうかもしれんな」と合わせて置く。彼の言うまでもなく、ウォーキング用ポロシャツは白がほとんどで、それにはちゃんと理由がある。汗のにじみが一番目立たないのが白だからで、グレーや青、赤、黄はどうしても目立つ。「白は脇の下とか汗で黄ばまないか?」と聞くので、「大丈夫!自分の脇の下は高級品よ」。

    と、これも冗談。根が真面目な彼は冗談に反応しない。確かに白いTシャツなどは、汗をかいたままで洗濯機に放り込んでいると、黄ばむし、白い点状のカビがついたりする。過去に自分も経験した。かつての彼女が脇の下の発汗でブラウスの黄ばみに苦労していたのを思い出す。制汗剤などでは効かない強い分泌液で脇の下は、有臭でカチカチ状態になったりする。

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    自分はウォーキングから帰ると、衣類一切を60度の温水につけ置きする。これで黄ばみもカビも防止できる。自分のものは自分でキチンと管理して、綺麗を保ちたい。白は清潔さもあっていいが、汚れに注意がいる。数日前、思わぬ失敗をやらかした。ウォーキング途中で、鈴なりのザクロの木を見つけた。実を食べようと取ったはいいが、これが大失敗だった。

    割れていないザクロの実を半分に割ろうと、両手に力を込めてばっくりと割ったのはいいが、赤いしぶきを胸全体に浴びてしまった。かなりの広範囲にである。なんともバカなことをやらかしたと、これでシャツが台無しになったと悔やむやら責めるやら、そんな事は予期はしなかったと、誰に言い訳もできぬ自己責任である。点状のしぶきは滲んでどんどん広がっていくばかり。

    バカなことをしたのなら、バカでない自分を証明せねばならんと、歩きながらシミを抜く方法をあれこれ考えた。昔の彼女がお気に入のパンツを血で汚し、「大丈夫!血はおちるから…」といい、お湯を沸かして汚れの部分に液体洗剤の原液をつくてごしごしと手で揉んでいたのを思い出した。ザクロの赤は血しぶきではないが、血が落ちるならこれも落ちるだろう。

    さらには、以前テレビで観た、「シミ抜きの達人」の方法が浮かんだ。その方法とは、高温スチームの出るハンディ機器の蒸気をシミ部分に充て、アルカリ性剤で中和させたシミを別の白いタオル地の布に移し替えさせる。裏側からごしごしとこすっていた。シミは取るではなく、移すのかと。それらを思い出し、歩きながらあれこれ考えていると自信も湧いて来た。

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    自宅に帰るなり、やかんを沸騰させて口からでる高温の蒸気をシミにあてる。理科の実験ではないが熱は化学変化を促進させる。乾いて面状なったザクロのしぶきに化学反応を起こさせ、液体洗剤の原液を綿棒につけて、しぶきにつける。シミを移す白いタオルを上からかぶせ、裏から歯ブラシでごしごし・とんとんこする。そうしてた作業後、温水の中に全体を浸す。

    2時間くらい浸したろうか、濡れているせいでうっすらシミ跡は見えたが、乾燥機で乾かすとあら不思議!シミのシの字も見えないほどに跡形もなくなった。これは望外の結果であり、お前もなかなかやるもんだと自画自賛が沸いて出る。これほど跡形なくとれるとは思ってもいなかった。しぶきを浴びた時の、「なんというバカ者だ!」を返上することができた。

    ザクロなんてスーパーの軒先に並んでいることもなく、子どもの頃にはよく盗って食べたものだ。口に含んだ種を散弾銃のように相手の顔に飛ばし合いが懐かしい。久々に食べたザクロはいかにもザクロの味だった。しぶきを浴びたのは誤算だったが、シミが取れれば、"gotcha"である。白は汚れやすい、確かに…。しかし、キチンと管理をすれば綺麗なままで着ていれる。

    依存心のない自分である。何においても自分でやることを厭わない。"Do It Yourself"の考えは日本にも浸透してきたが、人を頼らず、お金も節約できるまさに合理的思考である。自分が何でもできるようになったのは、母に寵愛されなかったからでもあり、弁当のおかずを毎日同じ一種類という人だった。趣味というより、料理は好きだ。卵焼きは子どもの頃に腕をあげた。

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    作ってもくれないのに、自分が作ると気に入らないのか叱る母。学生ズボンを必死で手縫いで細くしたのも懐かしい。母は絶対に自分の価値に合わぬことはやってくれない。どこの親もそうであろうか?子どもの希望を素直に聞いてくれる親は少数か?親がやってくれないからと女の子が、手縫いでスカートを短くする。こういう事を経て親離れし、自立していくのだろう。

    つまりは、親子は価値観が対立し、ぶつかり合う方が双方にとって良いのかも知れない。何でも子どもの願いを聞くような親、あるいは親に妄信するような子、これは生物生態学的見地からみても自立を損なう。なにもしてくれなかった親で良かったと、つくづく感じるこの頃だ。子どもはなんでもやろうとするし、できるものだが、親がそれを邪魔をしてはいないか?

    子に入り浸る親は、子どもの主体性を奪っている。他人に依存しないで何でもできるのは、能力以前に心の在り処の問題で、それが人生を楽しくできる。何にもできない夫がいる。その方が、妻のしがいを感じるという女性は昔は多かった。男と女の仕事が分断された時代には、家事裁縫育児などは女の領域であり、「男子厨房に入るべからず」と、妻の仕事を奪う夫もいなかった。

    子育てに熱を入れていた頃の自分は、「こんな面白い事を妻になどやらせておくのは勿体ない」と感じていた。子どもらに、「お父さんの作る料理は美味しい」といわれながら、嫉妬もせずに、「美味しい」と妻はいう。育児とはいえど、4人の子どもを一度もお風呂に入れたこともない、おむつを取り替えたこともない自分だから、「よくやった」と、妻には尊敬しかない。

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  • 10/24/17--19:04: Rhapsody in election

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    選挙という日本国一円の祭り騒動も、お祭りの後の静けさ、寂しさはいつものことである。落選すれば言い訳たらたら、恨み節の一つも言いたい中で、男らしい潔さは馬淵澄夫であった。「大きな塊を作るという前原代表の言葉を受けて、全会一致で決めたことです。私もその決定(希望の党)に参加したわけですから、それをもってこの結果だということはできない」。

    日本新党で小池の元同僚の円より子は東京8区で無所属で戦ったが、恨み節はさすがに女性。「『ゆりことよりこ』という本を書き上げたばかり。書き足さなきゃ…」。「小池氏は安倍政治を倒すならいいが、踏み絵で排除した。細川さんも激怒している」。自分がイイ子の女は何かと人を引き合いに出す。この場で細川を出す必要はなく、自分が激怒と言えばいい。

    最低の醜態なのが東京7区から鞍替え出馬した元熊本県議の荒木章博氏。彼の次女は、「都民ファーストの会」代表で東京都議の荒木千陽。7月の都議選で千陽氏が自民の都議会議長らを破った中野区を拠点にし、柳の下の二匹目のドジョウを狙ったはいいが落選。体調が悪いからと事務所に姿をみせず、支持者へ挨拶もない。小池はこういう奴こそ排除すべきだろ。

    豊田真由子の敗戦の弁は、「一所懸命に私なんかのために働いてくださった方に本当に感謝しているし、人生で大事なことを教えていただいたと思います」。彼女の敗戦をあざ笑う者ばかりだが、「豊田さんは負けてもいいから、やったことに対して審判を仰ぎたいとの気持ちか、逃げもせず、きっちり民意を問うために選挙にでた」、と東国原英夫だけは評価をした。

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    一方、愛知7区の山尾志桜里は834票の微差で当選した。元民進党で今回は無所属出馬で、彼女の当選を訝るものは多かったが、愛知県は多くの民主党系無所属や希望の党当選者を出している。理由は簡単でトヨタ労組系連合組織票が多い所で、山尾は多大に恩恵を受けている。全15区割のなかで非自民系当選者は、6区、8区、14区以外は議席を占めている。

    13区の大西健介議員(元民進党)は国会での発言を巡り、高須クリニックの高須克弥院長から名誉棄損で提訴されたにも関わらず、ツイッターのアカウントに鍵をかけ非公開とし、有権者の声から逃亡した。謝罪もせず逃げていることに批判の声が高まったことに耐えられなくなったのだろうが、公人としてお粗末極まりない。それでも希望から立候補してトップ当選した。

    「山尾の当選は不正」、「7区の有権者は狂ってる」、「子どもと旦那をほっといて、週4回とはお盛ん」などの批判が乱舞するなか、愛知県選管には午前6時ごろから真偽の確認や「やり直せ!」という抗議の電話が殺到した。選挙運動中、山尾は選挙民との路上の会話で、「離婚したらダメよ」とたしなめる老婆の手を握り、「大丈夫!仲良くしてますよ」と言っていた。

    にも関わらず当選後、「なぜ指輪をしていないのか?」の問いには憮然と、「答える必要はない」と返してたが、なぜ老婆に言ったと同じことをいわないのか?老婆を騙したということになろう。自らの不倫疑惑にしっかり説明責任を果たさないままで選挙にでて、運動中と終わった後と言動がまるで変る人間ゆえに、批判が殺到することを本人は何とも思ってはいない。

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    こうしたダブルスタンダード所有人間は、もっとも国会議員に相応しくない。愛知7区の無効票が一万票を超えていることも、再集計の声が高い。旦那に裏切られた新潟4区の金子恵美は落選した。当選した対抗馬の菊田真紀子は、野党共闘態勢の下で共産の支援も得たことから形勢有利、無所属で比例復活もないという背水の陣の様相が支持をえたようだ。

    金子は対抗馬候補の野党共闘について、「イデオロギーも何もない野合に打ち勝つことが真の民主主義、正義と良識を示すことができると考えたが、全ては有権者の判断。私の力不足、実力不足以外のなにものでもない」と悔しさを隠さなかった。涙をみせることもなく、きっぱり、気丈に敗戦の弁を語っていた。短期決戦の勝敗は分からない。カープも負けたではないか。

    金子は純白の衣装と同様に何の落ち度もない潔白でありながら夫の不始末と、組織票の重圧で落選となる。それに引き換え様々な問題を抱える山尾が当選してることに、普通の日本人なら誰もが疑問に思うはずだ。金子と同じ自民で北海道11区から出馬した故中川昭一財務相の妻中川郁子(58)は、2012、14年と連続当選を果たしたが、路上キス報道以後、有権者の心は離れ落選。

    今回一騎打ちの相手となった立憲民主党の石川香織(33)は、09年に昭一氏の9選を阻んだ石川知裕元衆院議員の妻である。いわば因縁の対決となったが、亡き夫の"仇討ち"もならなかったのは。「路チュー」の代償であろう。中川郁子の交際相手と報じられた自民党で和歌山1区から出馬した門博文氏(52)も、選挙区では敗退したが、比例で復活当選した。58歳にしてお盛んというが…

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    30させごろ、40でしごろ、50は御座つかみという女性の性についての例えがある。「女は灰になるまで」という言葉もあり、その元になったのが大岡越前守の逸話である。不貞の罪で男女を裁いた際、女の誘いにのっただけとの男の言い訳に越前守は疑問を抱いたという。理由は女が男より30歳も年上だったからだが、そこで大岡は母親に、「女は幾つまで…?」と質問したという。

    その時母親は、黙って火鉢の灰をかきまわした。それで越前守は理解を得たといわれている。火鉢のある御時世ならではの逸話であるが、江戸時代期の怪談話では、この世に未練を残し化けて出てくるのは、ほとんど女と猫であった。ゆえに、「女は灰になるまで…」とは、女と猫は可愛がるべしという男へのメッセージであろう。ただし、充て木で支えにゃなるまいが…

    勃起を英語でエレクションという。若さの証明は、「morning erection」であるが、選挙を英語でエレクションという。何でじゃ?選挙は勃起で勃起は選挙なのか?と決めるのは早漏で、勃起は、「erection」、選挙は、「election」だから、日本人的には同じ、「ラリルレロ」であれ、「ra ri ru re ro」と、「la li lu le lo」 は全く違う。この違いが日本人の普遍的課題である。

    こういう笑い話な逸話がある。時は第二次大戦終戦後、GHQ総司令官マッカーサーが日本に駐留する中、総選挙選挙が執り行われることになった。そこで銀座の大通りの真ん中に、親米派日本人が垂れ幕を掲げて、『マッカーサー元帥のためにさあ皆で選挙に参加しよう!』と、英語で書いたつもりが、『マッカーサー元帥のためにさあ皆で勃起しよう!』になっていた。

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    これは有名な実話もしくは都市伝説か。いずれにせよ日本人が、「L」と、「R」の違いに弱い、という話だけは世界的にも有名だ。発音だけではない、「L」と、「R」が違えばコメがシラミにもなる (rice / lice)。祈りが遊びにもなる (pray / play)。愛するがこするになる (rub / love)。昔、キャビンアテンダントが、「Have a nice fright!」と言ってしまったという。

    もちろん、「Have a nice flight!」と言ったつもりが、「fright!」(恐怖)となってしまった。自由市場は、「フリーマーケット(free market)」で、「flea market」、「蚤の市」となる。実際に、「蚤の市」という名称で行っているフリーマーケットもあるが、パリのモンマルトル地区北部,ポルト・ド・クリニャンクールの中古品の市は、19世紀ころからこの名でいわれている。

    土〜月曜日に開催されているが、こちらの名の由来は、「ノミが湧くほどの古着が主な商品」もしくは、「ノミのようにどこからともなく人や物がわき出てくる様子を表現した」などといわれているが、語源は定かでない。もっとも現在のイギリスやフランスでは、人や動物に寄生する昆虫のノミとは関係なく、汚らしい、みすぼらしいといった意味に捉えられている。

    さて表題の、「Rhapsody in election」は、「選挙狂詩曲」ということ。ジョージ・ガーシュインの、「Rhapsody in blue」は有名で、blueとは、blue noteで、「ジャズの語法によるラプソディ」の意。ジャズをなぜblue noteというかについて技法については、ドレミファソラシド、の「ミ」、「シ」を半音下げた音がblue note。短調風の哀しい(ブリーな)音であるのが判る。

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    ラプソディが狂詩曲なら、狂詩曲とは、リストの『ハンガリー狂詩曲』、ブラームスの『2つのラプソディ』が有名だが、異なる曲調をメドレーのようにつなげたり、既成のメロディを引用したりするなど、クラシックのソナタ形式やロンド形式にこだわらない、自由奔放な形式で民族的または叙事的な内容を表現した楽曲をいう。クラシック以外の曲にも多くの名がついている。

    その中ではクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』が有名だ。「これは現実か、それとも空想か、地滑りに巻き込まれた現実からは逃げようがない」というイントロから壮大なオペラ風のドラマチックな楽曲となるが、「何があったってどうでもいいんだ。誰でも分かっているさ。何があったってどうでもいいんだ、関係ない、僕にはどんな風が吹いたって…」で終焉する。

    最後のフレーズ、「Any way the wind blows...」の「風」という語句、「風」の意味に思考を充てる。「Any wey the wind blows...」を、「どっちにしたって風は吹くのだから…」とする訳は多いが、「nothing really matters to me. Any way the wind blows...」を上記の訳ならしっくりくる。選挙には風がつきものだが、今回の選挙はこれまでにない様々な風に煽られた。

    立憲民主党には追い風が、希望の党には逆風が、なぜにそういう風になったのかについて、様々分析されている。前原がゾンビ政党の民進党から脱却を意図したとき、新しい風は彼と小池に向かって吹くと予想されていた。ところが、小池代表の思わぬ発言で風は止まった。止まっただけならいいが、逆風に煽られ、その風は枝野新党に向かって方向を変えた。

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    誰が予想したろう?誰も予想し得なかった。枝野はまさに桶屋となった。風によって大きな利益を得た桶屋。前原の今後の行く末は、人気ガタ落ちの希望の党と会派を組むしかなく、もはや小池も前原も死に体である。生きる屍である。小池の直参といわれた若狭は落選、細野豪志や松原仁、樽床伸二ら、元民主党の実力者はいるが、代表が人気を落とした政党に未来はない。

    小池は代表を続けることが責任だというが、維新の会の松井は責任を取って代表を辞めるだろう。権力者というのは、責任を取らされるのではなく、自らが取るしかない。でなければ裸の王様となる。小池代表がこれほど厚顔無恥なのは、厚化粧のせいではあるまいが、彼女が事の善悪を好き嫌いで判断する女性気質からみて、上に立つ人間としての資質に欠ける。

    今後の展開として、小池の神輿を担ぐ人間は不幸に見舞われるだろう。自分の秘書を次々と、「都民ファーストの会」の代表に据えたリ、気の合う樽床を比例代表候補に推して選挙対策事務局長に据え、選挙が終わればいつの間に代表代行となっている。視野が狭く、心も狭い、発展性のない同族経営の中小企業のような、お友達人事を止めない限り希望は破綻する。


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    全国農業協同組合連合会兵庫県本部(JA全農兵庫、神戸市中央区)は23日、神戸・三宮の直営レストラン「神戸プレジール本店」で、メニューに表示した「神戸牛フィレ肉」を注文した顧客の一部に、格付けが低い「但馬牛フィレ肉」を提供していたと発表した。判明した偽装は2016年4月から今年10月15日までの1年半も続けていたといい、顧客総数にして約3200食分という。

    JA全農兵庫によると、10月16日に内部通報があり、料理長への聞き取りで判明した。JA全農兵庫県本部の曽輪佳彦本部長は、「神戸牛が恒常的に不足し、在庫がない場合は注文を断っていたが、近年の来店者の増加に対し、要望になんとか応えたいという意思が働いたと考えられる」と話しているが、こんな言い訳ってあるか?善意を働かせてあくどいことをやる。

    但馬牛のフィレ肉は、神戸牛より3000円ほど安く、偽装による正規料金との差額は1000万円程度に上る。料理長が、「神戸牛は品薄で在庫がなくなることが多く、客のがっかりした顔を見たくなかった」と不正を認めたという報道だが、詳細は後で書くがJAの言い分は信用できない。JA全農兵庫は、利用客への返金に応じるとし、「神戸プレジール」を当面休業する。

    さらには弁護士らを交えた第三者委員会を立ち上げ、原因の究明と再発防止に取り組むとしている。第三者委員会というこれ見よがしの我田引水でとりあえず体面を装い、誠実さという猿芝居を打つのは困った企業がとる一つの方策のようだが、これで何かと煙に巻くことが出来るという魂胆であろう。企業側とすれば刑事告発や捜査の介入だけは何としても避けたい。

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    料理長といっても、彼は自営店の経営者ではなく、JA全農兵庫の雇われ料理人に過ぎない。さらにいうなら、料理長が仕入れを統括するなどあり得ず、JA直営店でそんな権限はないだろう。したがって、「客のがっかりした顔を見たくなかった」など、繕った方便であって、トップの責任回避のために言わされたと推察する。なぜなら神戸牛の不足は料理長の責任ではないからだ。

    料理人の発言はおそらく顧問弁護士の入れ知恵だろうが、「顧客をがっかりさせたくなかった」などは、いかにも良心的な言葉に聞こえるが、言葉の裏で客を騙していることからしても本心ではない。顧客に配慮といいながら、安物肉を提供してお金をふんだくる行為をする人間が、「顧客をがっかりさせたくなかった」などと、どの面下げていっているのかと指摘したい。

    大体において言い訳というのはほとんどが嘘である。櫻井翔のCMで、「寝坊した朝、説得力のある言い訳は10秒では思いつきませんが…」というのがある。言い訳を10秒以内に考える必要はなく、たっぷり時間はあるが、10秒に拘るのはCM商品の兼ね合いである。人を納得させられる言い訳は相手が余程マヌケでない限り絶対にない。だから、言い訳をする人間はバカである。

    言い訳が通用すると思っているところがバカである。言い訳が嘘である以上、どんな言い訳も真実には及ばない。自分はそんなバカでいたくない、だから言い訳をしない。バカの言い訳が通用するようなバカもいるが、ちょいと利口な人間なら通じない。通じる相手には言い訳をし、通じない相手にはしないという態度も面倒くさい。だから自分は誰にも言い訳をしない。

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    言い訳をしないことで何も困らないからだ。言い訳レベルの差は確かにあるが、もっとも下等でくだらない言い訳は、子どもの言い訳であろう。大人が聞くと堪えられないが、子どもであるがゆえに許せる。大人は子どもに寛大であるべきだが、同じことを大人がいうなら、大人として認められない。顕著な例として、「君は何でそんなことをする?」といったとする。

    「〇〇がそうしたらと言ったから…」と、これが子どもが常用する言い訳だろう。が、大人が言えば成長してない子どもである。普通子どもがこういう言い訳をした時、「だったらお前は〇〇が死ねといったら死ぬのか?」というのがよく使われる定番言葉で、これをいう教師は普通にいるが、自分が信頼する立派な教師は、この言い訳が如何に無意味かをとことん話してくれた。

    最初にこう言われて上気した。「君は頭がいいからちゃんと話そう。だからちゃんと聞いてくれ」と改まっていわれ、二人は向き合った。中一の時だった。「〇〇君がやれと言ったからやった」というのは、「やらない」でおく選択もあるだろう?命令されたわけでもないし、「〇〇君がこうしたら?」という助言であれ、それを実行したのは君だろ?だから、やったのは君だ。

    だから、「〇〇君がやれと言ったから」というのは言ってはダメ。言葉には不思議な説得力があった。なぜなら、当たり前のことだからである。つまり、「〇〇君が…」と人のせいにしたつもりでも、人のせいにはならず、紛れもなく自分がやった行為である。慈愛に満ち、かつ論理的で、正面から生徒に向き合う教師。以後も以前も彼を超える教師はいなかった。

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    あれが教育であろう。「学びとは自分が変わる事。変わらなければそれを学びと言わない」これは、林竹二の言葉。「学び」を、「教え(教育)」に変えると、「教育とは何かを変えさせること」となる。子どもは窮地に立ったら人のせいにする。成長し損ないの大人でさえそういう人は多い。人のせいにしたところで、そうはなっていないと、なぜに気づかないのか?

    人からの助言を受けた行為は、自分の行為であって人の行為でない。こんな当たり前で簡単なことが分からないのかを突き詰めると、当たり前のことを思考しないからである。だから、言い訳をする人間はバカというのが結論となる。が、自分は人のする言い訳を責めないのは、責めても直らないのが解っている。「言い訳をするな」と、1000回言われても直らないだろう。

    自分で気づかない限り…。人間は一朝一夕に何かが変わるものでない。残念なことだが、言い訳のヒドイ人間は適当にあしらうしか付き合う方法はない。もしくは他の良い点を探すことになるが、言い訳を嫌う人間は他人の執拗な言い訳を聞くとむなしくなる。そういう場合は無視をし、鷹揚に構える。自分の身近では嘘を言わない、言い訳をしないのが妻である。

    信頼という点においては申し分ない。嘘や言い訳というものを40年前から言わないから、今も言わないものだろう。急に言わなくなるものでもない。50年、60年前の彼女を知らないが、その時からそうだったのではないかという気もする。女性でその二点を所有するのは財産であろう。探せばいるだろうが、40年、50年の長期間、一人の女性と居ることもそうそうない。

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    JA全農兵庫の幹部は、災いが大きくならぬよう、そのことに躍起になっているだろうし、そうまでして守らねばならぬ「JA」の看板だろうが、そういうところが不誠実であって、自分なら二度と足を踏み入れない。看板を利用して詐欺をするというのは、名もない小さな店主が小銭稼ぎにやるのとは違う。料理長に責任を押し付け、名を汚さぬというのが卑怯者のやる事。

    彼がこうした詐欺罪にもあたる行為をする理由が、「客のがっかりした顔を見たくない」だと?嘘をつくんじゃないよ。昨年の4月から今年の10月半ばまで1年半にもわたって但馬牛を神戸牛として出しながら、がっかりした客がいたというのか?そうではないから1年半も続けられたのに、「客のがっかりした顔を見たくなかった」の意味はまったく辻褄が合わない。

    仮にもし、上意下達の組織ぐるみではなく、料理長一人の独断で行われた行為であるなら、料理長は問答無用の懲戒解雇であろう。信用遺失という会社に与えた損害が計り知れないからで、「お前は何という事をしでかしたのだ、バカ者!」どころでは済まないだろう。こうした矛盾と子ども騙しの作り話でJA兵庫は、顧問弁護士に相談して苦肉の策としたと考える。

    トップが指示をしておきながら、内部調査で嘘が判明したように装っているが、それ以外に社名を汚す方策はない。料理長が仕入れ全般の経営に関わっているなどあり得ないが、建前上は故意ではなく、顧客に返金に応じるという姿勢から、捜査の介入はなかろう。ブランド肉と偽って提供したなら詐欺罪の立件もあり得るが、JA直営店という信用を利用したとみなされたらの話。

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    JA全中不要論に続いて、昨今は農林中金不要論もでているが、JA解体は早急に進めるべきかと。30年くらい前に立花隆の著『農協』を読んだが、農業協同組合はあまりにも複雑な組織である。一般的な農協のイメージは、農家から農産物を買い取り、それを全国の市場や小売店に販売して利ざやを得ているというものだが、それはほんの一部の仕事でしかない。

    JA全農兵庫の醜態を書いたが、意図するところは企業の不埒な行為というのではなく、いい大人が子供騙しの言い訳をするのが腹立たしい。どんなに怒ったところで、言い訳をする側が羞恥で惨めな言い訳だと感じない限りはダメだろう。言い訳というやつは、聞く側にとってはバカの放言でしかないが、いう側にとってはまともであると、このすれ違いこそが悲劇である。

    なぜ、言い訳はバカげているのか?なぜ、バカげた言い訳をするのか?この命題の答えは簡単である。言い訳をバカげていると思わない。バカげた言い訳ではない。と思っているから、というのが幾度考えても導かれる答え。だから反転させるとこういうことになる。言い訳をするからバカではなく、バカが言い訳を好むのだと。どうしてもっと賢くなろうとしないのか。


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    「神戸プレジール本店」における神戸牛偽装問題は内部告発というが、誰がどこに内部告発を行ったのかなどが明らかにされていないし、JA全農兵庫の発表だけでは信用できない点が多い。JA全農兵庫は、「神戸プレジール本店」と、「神戸プレジール銀座」の2店舗を直営しているが、どちらの店舗も食肉業者から一括仕入れをしているはずで、その方がコストダウンとなる。

    JA全農兵庫は、偽装は神戸本店のみで銀座店では行われていないとしたが疑問点はいくつかある。①神戸牛の不足はなぜ神戸本店だけで、銀座店は足りているのか?②偽装した総顧客数は3200食というが、提供したのがすべて但馬牛というなら、神戸牛は仕入れていなかったことになる。仕入れ担当者が1年半も神戸牛を仕入れしていないなど、経営的にあり得ない。

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    神戸牛を提供していないということは、神戸牛を仕入れていないことではないか。一年半もの長期にわたり、料理長が独断でやっていたなどあり得ない。③内部告発というが、内部情報をどこのメディアに告発したのか?それとも警察なのか?もし、後者であれば警察は内偵捜査というより、JA兵庫に連絡をして自主調査をさせるだろう。これを別の言い方で癒着という。

    こうした刑事犯罪を立件するにはややこしい案件に対して警察は、すぐに事情聴取をするなどはせず、なるべく事件にならぬように自主規制、自主解決をさせたい。今回のような偽装詐欺というのは、被害者が警察に被害届を出したわけではないし、刑事事件として立件し、慶事告訴にする犯罪は、詐欺と決定づける証拠が必要となるが、被害届のない犯罪を警察は渋る。

    刑事告訴の場合、加害者を訴えるのは被害者ではなく検察官で、その流れは、「警察が捜査を行い、その結果を書類送検し、担当の検察官(検事)が起訴するか不起訴とするかを決める。不起訴の場合はお咎めなし、起訴の場合は裁判で求刑し、その裁判によって刑が確定したり、無罪となる」。食品偽装表示における刑事処分の運用例は過去にあったが、本件は偽装表示と異なる。

    食品表示は一般消費者が食品の品質を正しく理解した上で選択し、飲食するために重要な情報を提供するものであり、その表示を偽ることは一般 消費者の食品の選択の自由を侵害するだけでなく、特定原材料等の健康に関わる情報を偽った場合は、一般消費者の身体・生命への侵害を引き起こすこととなるが、但馬牛を食べたからといっても病気になるわけではない。

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    食品偽装表示に対しては、様々な法令により罰則規定が設けられており、産地偽装などは刑罰・微罰ということで、やったもん勝ちというところがある。今回のJA兵庫はレシートを条件に返金するというが、誰が1年前のレシートなどを持っていようか。余程の悪質な食品偽装表示事件に対しては刑事罰が科されてきたが、古くは昭和35年の、「ニセ牛缶事件」というのがあった。

    近時では平成13年、雪印食品牛肉偽装事件⇒(詐欺罪)、平成14年もは全農チキンフーズ鶏肉偽装事件⇒(不正競争防止法違反)、平成16年にハンナン牛肉偽装事件(詐欺罪・補助金適正化法違反)などの検挙例があった。これら偽装事件がきっかけとなり、食品偽装表示の実態が次々と明るみとなるが、微罰の偽装事件は後を絶たない。今回の事件も警察沙汰にはならないだろう。

    あくまで想像だが、本件は内部告発というより、食肉納入業者からのタレこみかと自分は考える。それだとJA兵庫のいう、「神戸プレジール銀座」店は偽装がされていないといいながら、調査を兼ねて休業するというのは腑に落ちないが、仕入れが同じなら神戸に不足なら東京も不足であろう。仕入伝票などは誰も見る立場になく、JA兵庫の見解を信じるしかない。

    文春や新潮も、不倫の待ちぶせばかりしていないで、取材に行くべきだろう。部数がでるからと私的なことばかりでなく、公的ごとにシフトせよ。取材力に期待したい。食肉業者は横のつながりがあり、神戸牛や但馬牛そのたブランド牛のキロ当たりの仕入れ値などは、扱い業者によってそれほど格差はないと思うが、その辺は知識も素養もないので、よく分からない。

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    ただし、本場の神戸をはじめとする全国の神戸牛を扱うレストランで提供する価格設定と、JA直営店のそれとがあまりに開きがある場合、他店の神戸牛専門業者は、JAに敵対心を抱くはずだ。今回のように、偽装が公になり、信用失墜となれば、「ザマ~みろ」である。したがって、神戸牛を扱う業者にとって、JAに仕入れがないというのは、大きな疑念であろう。

    そういう事は業者間のつながりや情報から明らかになると推察する。いずれにしても注文を頂ける間はお得意様であるから、目をつむることもあろうが、神戸牛の仕入れもなされずに営業するということで、告発がなされた可能性もある。1年半も偽装しながらすっとぼけるJAには呆れるというより、強制捜査がない以上、誤魔化す方が得策だ。文春砲の炸裂を期待する。

    農協の米以外の農産物の販売事業はすべて赤字であり、利益は別のところであげている。先ずもって農協が世界一の飼料メーカーであることを知る者は少ない。ばかりか、農協は日本一の肥料メーカーであり、不動産事業や金融に積極的に取り組むなど多角的経営を柱とする。扱っていない事業は風俗とパチンコくらいと言われるが、所詮農協は農家にとっては拠り所である。

    ジャーナリスト立花隆は多くの農家を取材したが、その過程の中である農家の声が、農業の現状を言い表している。「建前ではみんな、まだ行政の保護が不十分だといってるけど、ほんとは保護が手厚すぎて、現状維持が制度的に温存されたのが失敗だの。農協の指導も、だれでも600キロの反収をあげられるようにしたのは、一面では成功かもしらんが、一面では失敗だの。

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    だれでもできるから、職業としての競争原理が働かなくなっちまった。そして農民を他力本願にしちまった」。実際、農業従事者は、農家の自立能力について言及するが、「自立能力がない農民に早く離農してもらわないことには、ほんとうは自立能力がある農民まで、いつまでたっても政府の保護を離れられないという状況がつづく」。跡継ぎの問題も含め、魅力ある農業はやる気である。

    確かに日本政府の保護農政は失敗であったろう。上限と下限とかなり幅がある価格支持政策に切り替えて競争原理を導入すべきであったが、あの時点においては、農家と政府とで利害の一致があった。識者の見解は、農家が農協に依存するのは危険としたが、農協依存体質から抜け出す試みをしていくためには、自らが販路を切り開き、拡大して行く以外になかった。

    親から先祖代々受け継いできた田畑を、しかたなく耕し、種を植えるというネガティブな農業従事者に、販路拡大などできるハズもない。そこには農協と農家の利害が一致したのである。積極的な気持ちが前に出てさえいれば、農協ではなくとも、身内や近所の人相手に商売はできたはずだ。こんにちは、インターネットという販路拡大ツールがあるが、30年前にはなかった。

    作る人は売ることが苦手なのは、どこの企業でも同じ事。製造部から営業部への配転は難しい。思い出すのはマツダの危機と再建である。、第1次オイルショックの後、アメリカ市場を中心にロータリーエンジン車の販売が急激に落ち込み経営危機に陥った東洋工業(現:マツダ)が、主力銀行である住友銀行(現:三井住友銀行)の主導によって再建に取り組んだ。

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    あの時は、工場の工員たちが作業服をスーツに換えて全国の販売店に配属されて行った。自動車業界の販売競争は熾烈で、メーカーはディーラーに対し、新車拡販に強い圧力をかけていた。ある県を担当する東洋工業ロードマンは、ディーラー社内に深く入り込み、新車拡販の旗を振り、檄をとばしたという。その甲斐あってディーラーは連月販売新記録を更新していた。

    話を農協に戻すが、農協は本来的には農家の自発的な相互扶助的な運動体として始まったが、いつしか巨大組織となり、農家の上にあぐらをかいて農家の人たちを口車で丸め込んでカネ儲けに走っているとか、農業補助金を食い物にして既得権益化しているなどの批判は根強くあり、政府の規制改革会議は、2014年にすでに農協法に基づくJA中央会制度を廃止案を打ち出した。

    地域の農協活動を自由化し、農産物販売などを担っている全農を株式会社化するなど、JAグループ解体に等しい改革案を提起するなど、政府による農協改革は岩盤規制改革の象徴の一つとされていたが、全中の反対が強く進展しなかった。2015年2月、全国農業協同組合中央会(JA全中)は、監査・指導権をなくし、2019年3月末までに一般社団法人に転換すること決定した。

    1954年の発足以来60年ぶりの大改革で、農村票を武器に発言力を持つ全中の権限が縮小されることとなる。戦後の農政は食糧難に対応するため、コメの増産を最優先にしてきた。コメの集荷を一手に引き受けたのが地域農協で、その頂点に立って指導・監督・統制してきたJA全中が指導権廃止を受諾したことで、地域農協などから集めている年約80億円の負担金もなくなる。

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    以後全中は運営費を任意の会費で賄うことになる。農産物の集荷・販売を担う全国農業協同組合連合会(JA全農)は、株式会社に転換できるようにする。一方、下部組織の都道府県中央会は、指導の権限がない、「連合会」とするが、農協法上の位置づけは残すことにする。これは統一地方選や参院選のこともあり、農業票離れを懸念する与党内の慎重論に配慮した。


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                   「神戸プレジール本店」 厚澤宏行料理長

    JA全農兵庫への腹立ちは行為よりも処理の仕方にある。故意にやったことを、「内部調査で発覚した」と嘘をつくのは、故意では言い訳ができないからである。悪事をしておきながら悪事を隠そうとするのが人間で、そこの点は、犬猫に劣る動物である。神戸牛のブランドを守り、美味しさを広めなければならないJAのやることか!信頼失墜の責任は非常に重い。

    料理長の独断とJAはいうが、クビにならない限りは嘘とみていい。それにしても嘘というのは何と醜いものであろうか。JAが純朴なお百姓さんたちを手玉にとってきたのは今に言われることではないが、農家を仕切り、君臨・支配してきたことで多大な既得権益も生んだ。そのむかし、農協というところは農家を支える善意な協同組合だと思っていたが立花の本で一変した。

    農協に限らず、信用という暖簾を勝ち得た大企業は、驕り高ぶることでモラルを失って行く。未だ耳に新しい三菱自動車のデータ改ざんや、東芝の不正経理、商工中金のの不正融資に神戸製鋼である。神鋼悪辣なデータ改ざんでボロボロ、言い訳するもできない。言い訳が出来るうちはまだいいという錯覚させられる。決してそうではないが、神鋼はあまりにひどい。

    神戸牛に神戸製鋼…。神戸という名は1800年の歴史を有する古社生田神社の神を守る神戸(かんべ)に由来する。その程度の知識くらいしかなうし、神戸には実際に行ったこともないし、神戸牛を食べた記憶もおそらくない。神戸牛は等級にもよるが、通販でグラム2000円も出せば購入できるが、JA全農兵庫が偽装をやったのは、安い値段で確保できなかったからだろう。

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          庶民にとって垂涎の神戸牛は、これまでも今後も一度も口にすることはなかろう

    安く仕入れて提供するのは商売の原点であり、「安かろう=悪かろう」という言葉にあるように、安いが粗悪品であってはかえって信用をなくす。むかしのユニクロがそうで、ボタンの糸はすぐにほつれてくる。同じように、無印良品も粗悪品が多かった。同じものなら安い商品が喜ばれるが、JAというのは産直のイメージがあり、安い事はむしろ信頼感であった。

    それがインチキであったのは罪が重い。信用や信頼は得るまでに時間を要すが、JA(農協)は協同組合として地域を支えるために生まれ、地域社会に貢献してきたことで確かな信頼と信用を得ていたが、バカはどこの世界にもいるように、今回のJA全農兵庫は信頼を逆手にとり、利益を上げるための悪事といえる。本物の神戸牛を仕入れれば安い価格設定ができない。

    いいものを安く提供するJAの本分が損なわれることになる。カーライルはこんな言葉を置いている。「レストランで不味い料理をだされても、文句を言わない方がよい。料理を残して即座に店を出て、二度と行かないことだ」。英国人らしい皮肉に満ちた行為と見受けるが、彼の多くの名言には頷かされても、それを実行することこそカーライルの遺産となる。

    「雄弁は銀、沈黙は金」もカーライルの言葉であるが、上の行為はまさにそれである。彼の言葉は心に響くが実践してこそである。上の言葉は誰にも経験があろうし、人間はできることを速攻でやらねば、しないで終わること多し、ディランは食事中に浮かんだ詞を紙ナプキンの裏に書いた。「いつかやる」、「いつかできる」という先延ばしは、「できない」を意味する。

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               ナプキンに伝言?とはいえ、ここまでやるとさすがにバカ!

    信頼と信用を得た企業であっても、それを動かす人間が変わればバカなことをやるのは歴史が示す。再建の土光さんが、石川島造船から東芝に迎えられて立て直したが、後の歴代バカ社長によって、名を失ってしまった。暖簾を持つのはいいが、暖簾の上には驕りがあり、謙遜の下には卑屈がある。自信に墜ちることなく、謙遜に満ちない。経営者はかくあるべし。

    これは普通の人間にも言えることで、誤った自己肯定が人間をダメにする。「ネガティブよりポジティブ」、「自己否定より自己肯定」なる言葉を金科玉条如く信奉するのはいいが、ポジティブ思考で状況を変えていった成功者の発想法というものは、「ネガティブよりポジティブ」となどの標語的単純なものではない。お題目だけ捉えるのは、「しない」より危険が潜む。

    自己肯定に生きる人は、自己否定が生み出す幾多のマイナス面をどんどんと変革し、積み上げ、あげくに肯定に至るのであって、バカがバカのままで何も取り入れようともせず、変革もせず、自己肯定をすれば、何もしない時以上のバカになってしまう。自分の知る限り、お題目を唱え、信奉する人間にこのタイプが多い。真の自己変革者は自己肯定の在り処を疑っている。

    誰もがポジティブシンキングを、「良」とする時代であるが、こうしたお題目に隠された裏の面の危険性には気づいていないようだ。人間なら誰にでも備わる感情には、「正」の感情、「負」の感情がある。前者は、「嬉しい、楽しい、幸せ、安心、好感」などで、後者は、「悲しい、怒り、不安、苦しい、嫌悪」などがある。つまり、ネガティブな感情もあってこその人間といえる。

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        最近の精神学ではポジティブシンキングすぎる人は成長ができないと言われている

    単純にポジを楽観的、ネガを悲観的とし、楽観的を善とするにしても楽観的であることのマイナス面もあり、逆に悲観的であることのメリットもある。巷いわれることに、「計画を立てる時は悲観的に」、「計画を実行する時は楽観的に」というのがある。未知においては何が起こるか分からないことから言えば、多少は悲観的に考えたほうが、「備えあれば」の準備となる。

    こうした事前の想定をリスク管理といい、楽観派にはあまりない。代わりに悪い結果であれあまり気にせず、再度トライをする。将棋棋士が悲観的なのは、局面を楽観視するとミスが出やすいからで、逆説的に言えば、悲観的思考の人間は、決して悲観人間ではない。なぜなら、悲観的に考える利点は何もないし、いかなる状況であれ、悲観的に考えるメリットはない。

    という思考は悲観的とは言えない。したがって、悲観的な思考をする人間は悲観的というより、冷静・沈着だったりする。悲観的思考もいろいろあって、物事を常に悪い方に考えるというのを悲観的というなら、その根底には、「良くしたい」という心の強さが見える。そういう強い気持ちや信念もなく、ただ単に臆病であったり、自信のなさだったりの悲観人間もいる。

    何事も一筋縄では行かないように、お題目にも様々な動態がある。自分は楽観的人間であるといったが、好きな小説・ドラマ・映画のジャンルは苦しくも哀しい悲観的なものばかりである。「寅次郎シリーズ」などは観る気も起らない。当ブログの映画書庫で取り上げた作品をみても、バルザック的人間喜劇より、シェークスピア的な悲劇こそ人間的と感じるからだ。

    イメージ 5人間のネガティブな内面を深く写し描く作品から多くを学ぶことが多い。『スター・ウォーズ』などの痛快活劇映画は、まさにスポーツと同じ世界で、心に残像として残らないその場限りのものである。人には好き嫌いがあり、自分は学びたい派。坂口安吾は『FARCEに就て』の中で、悲喜劇にくらべてFARCE(笑劇)を低くみるべきでないという。彼は事物を肯定する人間であるのは知られている。以下は同作品の一節。「ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。(中略) ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、なにいってやんでいを肯定し、と言ったようなもんだを肯定し…

    つまり全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない」。という面白い文章であるが、「道化」は人間の本来的性質として人智と共にその歴史は古く、決して軽蔑すべきではない芸術のジャンルとして賞賛すべきと彼は述べている。

    道化といえば道化師。サーカスのピエロがは猛獣や危険な芸の幕間を癒してくれている。レオンカヴァッロのオペラ『道化師』は、マスカーニの、『カヴァレリア・ルスティカーナ』と並び、ヴェリズモ文学に刺激を受けたヴェリズモオペラの代表作である。フェリーニの代表作『道』は、至高の作品であろう。映画がここまで人間を描くなどは、まさに奇跡である。

    道化役を演じるジェルソミーナと彼女を捨てるザンパノ。あのラストシーンこそが映画の奇跡である。絶望的な孤独感と男の嗚咽に、勝手気ままな男の自戒が感じられる。映画を観終わった率直な感想は、女の幸せは男によってもたらされる。なぜに男は女を古びて欠けた茶碗のように捨てるのか?骨董価値を持つ古い家具のように大事にすべきという問題提起を抱く。

    女という生態の悲哀は、『道』のジェルソミーナであり、少女の悲哀なら、『禁じられた遊び』のポーレットだと思っている。『禁じられた遊び』という邦題は映画の内容にそぐわないようだが、実は映画の原題名『Jeux Interdits(ジュ・アンテルディ)』を直訳したとものであってやむを得ない。ジェルソミーナやポーレットに共感を抱くのは、彼女たちのリアルな演技による。

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         「ミシェール」の声に心揺り動かされたポーレットが雑踏の中に消えて行くラストは映画史に残る


    珍しく表題を記して書く記事であるが、気づけば中身は映画である。無意識に心に惹かれるものがあるからだろうが、惹かれるのはつい感情的になるからだ。喜怒哀楽は感情の世界である。但馬牛を神戸牛として食した人は、「現実が仮想であった」との思いが深めている。騙され、余計な金額を支払わされた憤りを、「レジのレシートを持って来い」では到底収まるまい。


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    姑が息子を、「ちゃん」づけで呼ぶってどうよ?「どうよ?」といっても、誰にどうかはイロイロだ。考えられる対象は、①嫁、②孫、③本人、④舅、⑤親戚縁者、⑥他人などなど。先ずは⑥として自分の主観をいう。自分の母親がそんなことを言おうものなら、激しい嫌悪感に見舞われるだろうし、「止めんかそういうの」と、最初に一撃食らわせて止めさせる。

    それでもしつこく止めないようなら、柱にしばって猿ぐつわでもしておくか。それは冗談としても、父が昔、母を紐で縛り上げていたのを思い出す。平然と、「ちゃん」づけで呼ばせる息子がいるらしい。この目で聴いたことはないが、いるらしい。「ちゃん」と呼びたい母親、「ちゃん」と呼ばれて嫌ではない息子が存在する。息子が本当に嫌かどうかは分からない。

    が、それを拒否せず許している以上誰も嫌とはみなせない。そういうものか?そういうものだ。こんな母子関係を嫁はどう思うだろう?、孫はどう思うだろう?舅はいいにしても、誰からも何も言われない姑は、「ちゃん」のどこが悪いの気持ちで続けるだろう。誰かが言うべきか、放って置くべきか?言うなら誰が言うべきか?舅か息子か、それとも嫁か?まさかの孫か?

    イソップ物語の、「猫につける鈴」を思い出す。「あるとき、ねずみたちが敵の猫から自由になる方法を話し合った。少なくともねずみたちは猫がいつやって来ても、逃げる時間があればいい、その方法を話し合った。いろんな案がでたが、どれも十分とは言い難い。「やはり、ダメか」と暗礁にのりあげていたそのとき、若いねずみが立ちあがってこう言った。

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    「とても単純なかんがえだけどうまくいくと思うんだ。猫の首に鈴をつるせばいい。鈴が鳴っているのが聞こえたら、猫がやってくるとすぐにわかる」。ねずみたちは思いつかなかったその考えにとても驚き、感心し、納得もした。「それはいい考えだ」と、みなでいいことを思いついてよかったと大喜びしている最中、年寄りのねずみが立ちあがって言った。

    「確かにいい考えだ。だが、一つ聞きた…。一体、誰が猫に鈴をつけるのかね?」この話は、「こうすべき」という考えと、「実際に行うことは別だ」という教えである。どこの国にも同じ諺はある。「It is one thing to say that something should be done, but quite a different matter to do it.」我々はこの話から論理を学ぶが、行動しなければ絵に描いた餅。

    どんないいことを沢山知っていても、できなければ意味がない。果たして猫に鈴をつけられるねずみがいるとしたら、おそらくジェリーであろう。ジェリーは頭がよくて勇気もバイタリティもある。さて、現実的な話に戻すが、誰が思慮ない姑を分からせられるだろうか?舅か?息子か?嫁か?孫か?架空の話だが、自分は誰でも可能だと考える。強い意志があればだが…

    自分が舅ならこういう。「いい歳とった息子に子どものような呼び方なんか止めんか。お前はいいかも知れんが、家の恥だ!」。自分が息子ならこういう。「そういう言い方は絶対に止めてくれ。妻にも子どもに自分の威厳がなくなる。どうしても止めないなら別居する」。自分が嫁ならこういう。「………」と、残念ながら嫁としてのリアルな想像力は浮かばない。

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    自分が孫ならこういう。「おばあちゃん、お父さんにそんな呼び方せんといて!気持ち悪くてもどしそうになるから」。一つの例だが、姑の人間性や性格によって言い方は千差万別である。言い方が他種あるというのは、その人に物事を分からせるという意味での他種であって、ただ言えばよいではなく、どういえば実行してくれるかでなければ言う意味はない。

    したがって、物事はいろいろ考えた方がいい。考え、考えて、考え抜いて次の一手を放つべきである。言うことを効かない子ども、部下や生徒はいよう。無能人間は必ずこういう。「言ってもダメなんだよ、聞いてくれない」。何とも虚しい言葉であろう。自分はこういう言葉は死んでも吐きたくないが、言っても無駄と思う相手には、分からせようなどの考えは起こさない。

    何もいわないでおく。勿論そういう相手は、自分の生徒でも子どもでも部下でも友人でもないという関係であるがゆえに、まったくいう必要を感じないが、中でも愛情を抱き、言えば解りそうだなという相手はその限りにない。が、過去の経験においても、善意が仇になる事はままあった。人は、自分で気づいていることを他人からとやかく言われたくない自尊心を有す。

    自分が相手に苛立つとかではなく、相手のそんな言動であっては、多くの人が嫌悪するだろう、迷惑を抱くだろう、ましてや本人のためにならない。捨て身で自分が鈴をつける役を買って出る。と。そういう意識が高かった。「捨て身でもいい」というある種の思い上がりが、自分が公益性と感じて行為を生む原動力だった。鉄腕アトムや月光仮面世代の名残かもしれない。

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    一としとると、そういう考えから離れるようになったのは、いろいろな理由がある。決して臆病風が吹き纏うのではなく、人の人生はどう転んでもその人のものだから、時々に乗じて土足で入り込むのはよくないと感じるようになった。人が人にどのように関わろうとも限界があり、責任も取れない。我が子のように、責任の一端が自分にあるというのと、他人は違う。

    相手にどう思われても、思う気持ちがあれば嫌われることは苦にはならなかったのは、それが愛情や正義と過信していたこともある。言葉でいう愛情・正義がどれほどのものかと考えるようにもなった。若い頃はどうしても美辞麗句に惑わされる。そういう若さも純粋であるが、物が解り過ぎる年齢になると、行為の純粋性は希薄になっていく。そういう年齢ならそれでいい。

    落ち着いてどんな言葉にも動じないさまをあらわす、「泰然自若」という言葉ほど経年者に相応しい言葉はなかろう。人に影響を与えられるなら、路傍に石でさえ価値があるものだが、若い事はそういう気持ちが充満する。利己的より、利他的という行為に心を奪われるものだが、よくよく考えてみれば、人のためも自己満足の世界であるのに、欺瞞を隠している。

    利他的という利己に気づかぬ人は多いが、それに気づいた人はむしろ他人に冷たくなれる。いい子ぶらないという正直さが自らに反映されるからだろう。人がどれほど人のために尽くせるであろうという疑念にも気づかされる。20代の頃、「ヒューマニズムは欺瞞である」という言葉を疑っていた。その言葉が許せなかった。が、今は言葉の意味はよく分かる。

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    人は自分さえよければいい」とは思わず、それが正しいとは露とも思わぬが、結果的に人は自分のために生きればいいのであって、そのために大切なのは、決して自分の殻に閉じこもらず、広く門戸を開放し、沢山の何かを得ようとする気持ちが大事かなと。それなくして、無能・無知のままに自己肯定すると、何も学ばない幼稚な人間のままでいることになる。

    「冬彦さん」現象という言葉が、あるドラマをきっかけに生まれた。自分は一回も見ていないが、社会問題化すれば自然と耳にも入ってくる。いわゆる、「マザコン現象」であるが、根底にあるのは、「依存心」である。子は生まれながらに親に依存するもので、そうでなくば生きてはいけない。ところが、自我の発達とともに、「自己」を作っていく。そのために必要なのが親離れ。

    動物は本能でそれがなされるが、いつまでも子に餌を捕って与えるのはむしろ人間である。それがまたニートや引きこもりを生む。親の使命とは先ずは、子の親への依存心を立つことに傾注すべきだが、それが本能でない以上、意識をしなければ叶わない。よって、親は意識的に子離れして共依存から脱することだが、マザコンとは子離れできない母親の醜態である。

    親が息子を、「ちゃん」づけで呼ぶということの悪害を様々な例えで記したが、普通なら分かりそうなものだが、それすら分からない盲目的な母親がいるということは末恐ろしい。経済が発展し、先進国型社会になると、人間形成の崩壊を来しやすいという、「経済成長と人間崩壊の因果関係」は納得させられる。何事も便利になると子どもに手をかけないで楽をしようとする。

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    子育ては、「力仕事」という基本が損なわれていく。動物の親は、本能の定めによって、我が子にプラスとなることしか行為しないが、人間の親の、「我が子にプラス」というのは、実は、親の見栄や欲であったりする。それらを含めて人間は、我が子にとってかえってマイナスな、ダメにしてしまう愛情をもっている。それも愛情か?持ち主は、「親バカ」と肯定する。

    確かに、「発達心理学」では、親の愛情を受けないで育った子は問題を抱えることになる。が、そうした愛情は、「育児」と呼べる期間のものであって、育児という言葉は、中学~高校になった子には適用しない。子どもとしての大事にすべき時期と、大人の準備をすべき時期とでは、必然的に親の子への対応や愛情のかけ方は変わってくる。そこに気づかぬ親が問題である。

    端的な言い方で、「成長しない親」である。子どもはどんどん成長するのに、親が成長しないで、どうして子どもが成熟するだろう。親は子とともに成長し、成熟すべきだが、こと成熟という面において親は、「地」というものが災いして難しい。子どもの成長過渡期にはまだ、「地」というものがないが、親にはこれまでの成長過程で育んだ固有の、「地」がともなっている。

    その、「地」の善悪によって、子どもの性格が左右されるのはとても怖い事である。したがって、自分は自分のつたない、「地」を捨てて、自分が親として理想の掲げ、親を演じることにした。それで幾分成功した部分もあるが、それをしないで、「地」のままの自分が親であったら、「この親にしてこの子あり」。つまりはヒドイ子どもに育ったかも知れない。

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    指導的立場に必要な自制心なら、「親は親を演じるべき」が持論。役者になって役目に徹する利点は、演じることで客観的な理想の親像を描いて行為できる。従って自分には、「親バカ」という考えはまるでなく、「親バカ」は戒めるべくことでしかなかった。ましてや、「バカ親」とあっては、子どもが哀れとしかいいようがない。バカ教師が担任なら教師は文句をいうだろうし、同じこと。

    教師も、「地」を捨てて理想をもち、良い教師の理想を演じればバカな自分をカバーできる。客観的な視点とはそういうものであろう。政治家も医師も宗教の教祖も経営者も野球のコーチも監督も、人の上に立つ人はそれがいい。もちろんこれは凡人に向けたもので、人間的有能さやな美徳を持った人もいる。そういう人は演じる必要はなく、「地」でやってよい人たちである。


    どうなんだろうか?教師がいろいろな不祥事で警察沙汰になっらりするが…。児童買春(含淫らな行為)あり、万引きあり、不倫あり、生徒への暴力(暴言)行為などなど…。この中でもっとも多いのが買春事例のようで、もっともこれは男性教師だが、そうした教師は後に生徒や親の評判がいいことが多い。逮捕されて驚きもし、「あの先生が…」などと言い合う。

    だれもが言行不一致の二重人格教師と思うだろう。が、よくよく考えてみるに、二重人格だからよい教師であったのでは?よい教師を演じていれたのでは?買春教師とは言え、生徒を手籠めにするわけではなく、プライベートにおける気晴らしであり、ストレスの発散である。脱法行為である以上誉められたものではないが、我々部外者は報道でエロ教師と判断するしかない。

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    実際に会って話してみると、案外と好感のもてるさわやかな教師かもしれぬが、やったことからすればスケベ教師と批判される。確かに教師の児童買春事件は多いが、おそらくそれは教師がロリコン趣味というわけでもないだろう。教師は毎日子どもと生活を共にする。学校という閉鎖社会で、同世代の一般女性と口を利き、交流する機会は、残念ながらない。

    皆無といっていい。そういう教師がどこかのサークルなどに入って活動する時間もなければ、かりにそうであっても女性を口説けるような素養をもった教師は少ないだろう。学校関係者なら教師同士の校内不倫の多さを知っている。噂も含めてだが、蛸壺教師といわれるように、狭い社会の中で異性といえば、同僚教師、もしくは保護者、あるいは生徒となる。

    同僚教師であれ保護者であれ、不倫はいけないと断ずるなら別だが、教師が子どもにも人気があり、しっかりした教育理念をもった良い教師は、そんな不倫などするはずがないという考えは味噌も糞も一緒の考えで、まったく別である。自分もそれはそれ、これはこれという視野を広げた考えをする。友人に高校の事務長がいたが、教師同士の不倫は多いと聞いた。

    狭い社会だからの必然と、狭い社会であるがゆえにすぐにバレてしまう。自分の知る教師は、大学の教職課程から新採で中学の英語教師として赴任した学校で、新任教諭の指導を担当する主任教諭と不倫関係になった。逐一相談を受けていたので詳細を知るが、相手の妻にバレた時に日々の嫌がらせ電話に困憊していたが、律義に電話に出て、妻の腹いせを聴くしかなかった。

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    内容はほとんど脅迫に近いものだったが、女の逆恨みだから仕方がない。男は妻の浮気相手よりも、妻自身に矛先をむけるが、女はむしろ夫の浮気相手の女性に恨みを晴らそうとする。なぜかを考えたことがある。いくら男の誘いがあったとしても、妻に貞操観念がしっかりあればそうはならないと男は考えるからだろう。ところが、女は口説くのは男の習性と見るのか?

    妻子持ちと知りながら、男(夫)の口車に乗った女を恨みのターゲットとする。他にも理由はあろうが、女は女を許せない、男は妻を許せない。が思考した持論である。「女の敵は女なり」、「男の敵は(妻)の貞操観念なり」。昨今はどこの学校も女性教師が多い。特に初等教育には顕著である。採用試験の勉強は女性の方がマメにやるからとある校長が言っていた。

    詳細は控えるが、教職関係者には知人が多かったこともあり、以下の事が女性教師の合言葉となっていた。初等過程を目指す女性教師志望は、赴任したら何より早く独身男性教師に目星をつけなければハイミスになる。これが先輩から後輩へとまことしやかに伝わっていた。まあ、先輩の助言ということもあるのだろうが、結婚以前に性を持て余す独身教師が不倫の餌食になる。

    学校の事務方職員にはそれが手に取るほど分かるのだ。女性教師はその立場もあってか、先生らしくしておかねばならず、大学時代は緩い下半身を教授から戒められる。教師たるや自制、自制とばかりに、目立たず派手にならずと、それが教師たる本分と大学で植えつけられる。そうした品行方正さも教職課程に企てられているが、自制心を要求させる職業ゆえに仕方がない。

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    下半身と行い(仕事や諸活動)は別である。先般の選挙で、豊田候補を秘かに応援し、山尾候補の落選を願ったと書いたのも、山尾の不倫(疑惑)を問題にはしていない。問題は事後処理であって、誰一人として完璧な人間などいない。だから、過ちを犯したときの処理の仕方で人間の本質が見える。自分はそこを重視する。腹を割るか、誤魔化すか、信用できるのは前者である。



    「色を好むは真の情」は江戸時代の儒学者林羅山の言葉であり、疑う余地は微塵もない。ただ、あまりに肯定的発言を控えるのも人間のたしなみだが、昨今の若い女性にそれは希薄のようだ。虐げられていた女性の性が解放されてどのくらいになるか、自分には定義できないが、アバウトで30年近くなるのではないか。インターネットの普及が女性に頭から頬被りをさせてしまった。

    SNSは不倫の温床となっている。テレクラが生まれたころは、「いかにも」といった抵抗はあったが、SNSを通じてなら既婚であれ、自然に不倫相手を探せるという。不倫が目的というより、潜在意識程度にでもあれば、目出度く(?) ゴールは可能だ。ウォーキング中でも坂や階段を買い物袋をもって歩いている奥様に声をかけても立ち話から、公園に誘導くらいはできる。

    後は、男の腕次第ということだ。近ごろの浮いた世情のせいもあってか、初対面の女性でも、「不倫するならエッチの相性が合う人がいい」などと臆することなく口に出す。男が躊躇っているようではむしろ非礼である。極めつけのナンパ師が、「女性に声をかけない方が失礼というもの」というが、声をかけるのはまさに善意であって、内心喜ばぬ女性はいない。

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    「取って付けたような優しはなくとも、話が面白くても、気が合ったとしても、体の相性が合わなければ恋の終わりも早い」。女性がこういう品定めをする時代になったのは、男などいくらでも見つけられる時代だからで、出会う切っ掛けの少ない時代には、つまらん男でも後生大事にしたものである。『すべて男は消耗品である』を村上龍が書いたのは1990年だった。

    面白いと思ったが以下の意見に似たのは聞いた。「こんなエッセイを読んで他人を批判しても、自分は何もしていないことに気づくからだ。何のリスクも負わずに、安全地帯からブーブー言っているだけで、村上のような実績も無い。最後の山田詠美の解説で、ボロクソに批判されているのを読んで、はあと落ち込んでしまう弱い心を持ち主がこの本の読者なのだろう」。

    自信もなくメンタルの弱い男は批判への耐性がない。いつだか将棋仲間に気に障ることをあえていい、おそらく彼は自分を嫌っていると感じていたので、ある時、「ぼくはね、たとえ〇〇さんが顔もみたくないほど嫌いと思っていても、〇〇さんは嫌いじゃないから」と言ってみた。「うるせー、気持ち悪い事いうな!」と、彼は言ったが、最近、「飲む?」と缶コーヒーを差し出された。

    〇〇さんの事は批判はしたが、批判は愛情から出たもの。〇〇さんが、心無い他人からバカにされてはいけないと思ったから、つい言ってしまった。普通は言わないところだが、余計な一言を自分に言わせたのも、彼の人柄である。男と男は、遠慮をせず、しかと向き合えば分かり合えるが、女は違った。批判した相手は生涯許さないなどと顔には出さないで根に持つ。

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    「自分を批判する人は敵。話したくない。関わりたくない」という女性を山ほど体験したのは、批判を憎悪と感じるからだろう。彼女たちが敵と味方をキッチリと色分けするのは自己愛からで、女の本能的ナルシズムである。何気ない言葉が心の琴線に触れると、些細なことで情緒が乱れる。男には理解できない部分だが、そこの点は女に生まれなくてよかったである。

    反面、さっぱり感があって、根に持たず、大らか(のように見せるではなく本当に)な女性もいる。棘がないので安心して会話ができる。根に持つ女性は自らに自信がないのが一般的だが、大らかな女性が特別自信アリとは見えない。そうした物事に拘らない大らかな性格は育ちなのか?大らかな両親の家庭の中で、自然に大らかさが育まれたのでは?と推理する。


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    親が子どもを可愛がろうとしたり、大事にしてくれるのを子どもは信頼という意識で感じるが、それも自我が芽生えてくるころになると、指示や命令されることを嫌がるようになる。「くたびれる」は漢字で、「草臥れる」と書くが、『詩経』にある、「疲れて草に臥す」を慣用したもの。息子の大学受験で、「草臥れた」という母親がいた。草臥れるのは息子のはずだろ?

    なのに母親が草臥れた理由は、息子を常時督戦していたからだ。息子がその大学に入ることで、息子の幸せが保障されるかの錯覚はどの親も同じだろうが、それとは別の親自身の中にある潜在意識的な心(威張りたい・見栄を張りたい)が満足を覚えることになる。頭もよくなければ勉強嫌いな子どもを、塾に通わせて無理をしてでも大学に行かせることから始まっている。

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    全ては子どもの将来のためと、子どもの実力以上のものを口実にして、親が一生懸命になってしまう。20歳少し前の子どもを学校に入れるのに親が一生懸命になるなんて、本当はおかしい事であるが、誰もおかしいなどと思わない。「〇〇ちゃんもがんばってね。ママも頑張るから…」などと、受験の苦しみを共有しようとする母ですら、角度を変えてみればおかしいことなのだ。

    ママが何を頑張るというのか?せっせと食事や栄養の心配や、おやつには何がいいかなどの心配なのか?誰もおかしいと思わないのは、誰にも同じ心があるからだろう。自分のように、「ない」人間のみがおかしいと感じる。それほど骨を折って入学しても、元来勉強嫌いな子どもが授業に耐えられるだろうか?あるいは、「もっと勉強しようという意識を持つだろうか?

    そんなことは、先のことは、誰も考えない。子どもも親も考えない。すべては入学することだ先決なのだからと、疑問に思わないのは、誰もが同じ心を共有しているからだ。人間に限らず、すべての動物は成長してある年齢に達すると、独立の要求が起こる。まずは6歳くらいでそういう芽生えがあるが、早い子なら4~5歳から始まる。そうなると親がいつも傍についてくることに恥辱を感じるようになる。

    ピアニストの辻井信行は目が不自由だが、いつも母親が寄り添って支え、励まし、世話をしていた。全盲者への介助は当然であり、過保護とは誰も思わない。その辻井氏のドキュメントがテレビで放送された。「伸行は、私がずっと傍にいなければ生きていけないのか。彼は私の顔も一生見ることができないのか」と思うと、泣き崩れたこともあったという母のいつ子さん。


    伸行氏は20歳頃から、母親から距離を置いているのが映像でも捉えられるようになった。本人にその辺りの事を尋ねるとハッキリした口調で、「だんだんと親離れした方がいいのかなと思ってきました」。この言葉には驚いた。「親離れ」という言葉を彼はどこで知ったのだろう。そういう点字の本を読んだとも思えない。ましてや彼にとって親離れとは、介助者を離すということになる。

    乳幼児期から彼にとってかけがえのない介助者である母を、なぜ離そうとするのか、普通一般の親離れとはまさに事情が違うではないか。それでも彼は知識としてではなく、意識として親離れを望み、実行しようとしているのを見て、これはもう本能のなせるワザだと感じた。全盲者を特別視してはならない。彼らも自立をしたいのだと…。心にわだかまるものを言葉にしたのだと…

    伸行氏の絶縁宣言を聴いていた母は、「独り立ちしてもらいますかね」と言って笑ったが、言葉に寂しさは隠せていなかった。彼はどうして母を離そうとしたのか?何が不満だったのか?他人の介助者を雇うより、世話ということなら誰より母に勝る者はいない。これは単に外野の考えである。それくらいに彼が自ら毅然と親離れを望んでいるのが、やはり奇異に思えた。

    何を細々小言をいったのか、無用な指図をしたのか、その辺はまるで分からないが、貴重な介助者を拒む伸行氏の心情は理解できなかった。が、それが正真正銘本能から出ることなら、人間も捨てたものではないなと感じもした。全盲者が絶対的に必要な介助者を母ではダメだと烙印を押された母のいつ子さんが、もっともショックだったのではないだろうか。

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    子どものころは、彼は母親をママと呼んでいたが、いつごろからママを止めたのだろうか。子どもが幼児期頃に母を、「ママ」と呼ぶのはいいが、いつしか、「ママ」を返上する時はくる。同じように母親もいつまでも、「〇〇ちゃん」は止めるべきである。ママと呼びたくない思いが成長であるなら、「ちゃん」付けを変えたくない母は、成長していないことになる。

    これはおかしいだろう。を返上すべきである。子どもが成長したなら、同じように母親も成長すべきである。子どもが、「ママ」を止めたと同時に、ママは自分を、「ママ」と呼ぶのは止めた方がよかろう。同時に、「パパ」の呼び方も変えた方がとかろう。子どもにとって「ママ」、「パパ」という呼称が存在しなくなったなら、親は気を効かせて呼称を返上すべきである。

    子どもに対し、「ママでちゅよ~、ベロベロバー」はこの時点で終わったのだと。子どもがある時期から何でもカンでも自分でやろうとするのは自立という主張である。子どもを見くびっている親は信じないかもしれないが、子どもというのは結構早い時期に親の欠点をちゃんと見抜いている。つまり、ここでゴネて大声だせば、必ず買ってくれる…、これもそういうことだ。

    ここで大声張り上げゴネたら、放って行かれるというのを見抜いている子はそれをしない。どちらも利口な子どもである。ただし、欠点を子どもに見抜かれていない親でなければ、真っ当な教育はできない。舐められ、見下され、腹の底を読まれていて、何の躾ができようか。自分も小学生で母を見切った以降、母の言うことなど聞く気も起らず、それほどバカに感じられた。

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    これらは生き物としての反抗である。丁寧にいえば、自然の生きものとしての独立の要求である。子どもはオギャーと生まれたときから、独立に向かって一歩一歩進んでいるのだ。「自分で出来る!」というのに、危ないからやってはいけないという親は多い。子ども自身がリスクに挑戦しようとしているにも関わらず、親が自身のリスクを怖がって、させないようにする。

    いちいち、あれこれ指図をする親が良くないのは、その子はいちいち他人の視線を伺う子になる。「三つ子の魂百まで」というのはそういうことの例え。よい意味での放任が、子どもに生きる知恵をつけることになる。依存しない悦びもあれば、依存が楽でいいという考えにもなる。この辺りも明確に決めておかないと、躾や教育というのはまさにノンポリシーとなろう。

    どういう子どもにしたいのか、なって欲しいのか、に殉じた教育があるということだ。ある親はいう。「子どもは親の愛情で守ってやるべきです」。立派な意見である。立派に聞こえるが、言葉は言葉でしかなく、こういう事をいう親は、案外と偏った過保護志向が多いのが、自分の経験則である。愛情とは守ることだけではないが、過保護と愛情を混同している。

    立派なお母さんとは、単に弁の立つ人、もしくはキチンとした論理や理念に精通する人、言行不一致な人、リスク回避を愛情と信じる人、我が子を宝物のように感じている人など、様々である。「愛情」という言葉の要素や含みが多いのを知る親は、簡単に愛情などとは言えないだろう。それを簡単に口に出すのは羞恥であり、親が子に愛情をかけるとはとても難しい。

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    子の自立心、独立心を喜べないのは父親よりも母親に多いが、子どもが育って独立しようとすることを、見捨てられると感じるからだ。親に冷淡な子どもに育ったなら、それが育てる側から言えば成功である。「教育の目的は子の自立にある」を知る親と、知らぬ親はここで区別される。いつまでも後を振り返って親を大事にしたりなどの習慣は生き物にはないのである。

    それでも自分の親を大切にするのは決して悪い事ではないが、そこで大事なことは、自分の子が親を足蹴りにし、粗末に扱おうと文句も言わず、嘆かぬことだ。つまり、子どもがそうである原因の大半は、親自らにあるからであろう。我が子に老後を大事にしてもらおうとの目論見で子を育てている親もいるから驚く。恥ずかしげもなく公言する思慮のなさ。

    ようするに、人間の意識的な教育の結果というのは、自然の摂理に逸脱していることからして、良くならないことが多い。親の欲目や子を宛てにし過ぎることが、子どもを束縛しているという時点で不自然な教育となり、だから裏切られるなどと感じてしまう。不自然を認識できない親の無知だろう。自然の独立の要求を無理に抑えつけていることが親としての間違いだと。

    親の愛情で守られた子どもは、そこから飛び出せない不具者かもしれない。「娘がなかなか腰を上げて嫁にいかないんだよ」といいながら内心は喜ぶ父親がいる。親子の諍いで結構多いのが、子どもの独立要求を親が阻止しようとする。あまりに独立の要求を抑えると反抗のエネルギーが増長され、喧嘩だけでは収まらなくなる。これが巷にある親子の殺し合いだろう。


    事情や経緯はいろいろあるが、根本は自身の妨げになるものをなくしたいに尽きる。破壊の要求にまで達していることを双方が気づかぬことが悲劇であり、行為なされた後では遅すぎる。人間は過ちを犯すものだ、タカをくくってはいけない。親子喧嘩にしろ、夫婦喧嘩にしろ、皿や食器をガチャンと割るのは粗暴であるが、それでエネルギーが発散できるうちは救いである。


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    最近、ブログの記事を後で読み返すことが多くなった。理由の一つに間違い探しがある。書いた後にチェックをしないのはなぜだろうか?自分のことなのに分からない。チェックが嫌でなければするだろうが、書き終わった後にすぐに読み返すのが嫌なのか、それともせっかちなのか、その辺も分からない。確かに書いた直後に読み返しをせず時間が経って読んでみる。

    あるわあるわ、誤字・脱にへんちくりんな文体の数々…。一応はそれらがないように書いてはいるつもりでも、人間というのはミスをする生き物のようだ。自己過信はないのに最近とみに誤字ミスが多い。これが老化現象か?知らず知らずのうちに人は老いていくのをこうした形で発見する。ミスの少ない自信はいつしか遠くに去り、ミスの山を築いているこの頃だ。

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    誰もそうだろうが、文を書くときは主観で書いている。客観的な視点という主観で書いている。が、書いたものを読む時は客観的でいる。主観で書いて客観で読む、その対比が面白い。まるで自分で書いた文でないような気持ちで読んでいる。すると、書いているときの主観的個所に異論が湧いてくる。面白いもので、主観は客観であり、客観的というのも主観である。

    あることを、「客観的に見た」などというが、これは自分の見方という主観であって、客観的というのは嘘、もしくは間違っている。「利他的も利己的のうち」なら、「客観的も主観のうち」と捉えられる。だから、「的」を使うことになる。多くの客観は、客観的であろう。「意識」とは何なのか?「考える」とは何なのか?それらの具体的説明とは何であるのか?

    それすらもないままに漠然とその概念を捉えているだけの状態で、「意識」、「考える」などの概念を形式論理によって分析しているだけである。したがって、結果的に事実に基づかない宙に浮いた論理となってしまっていることが多い。論理とは何なのか?すぐに頭に浮かぶのが、「三段論法」である。が、これはカビの生えたいささか古びた論理学といえる。

    論理とか論理学とかを日本では使い分けるが、外国ではロジック(logic)という言葉一つで両方の意味をあらわしている。これは即ち、人間の思考の法則のようなものといわれてきた。法則である以上、そこには、「力学」的基本法則のように、常に、不動とする法則もあるが、物理法則や自然淘汰法とはちがう、論理の法則や道徳法則は、我々の努力目標としての法則は存在する。

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    論理や道徳法則は、明らかに現在そのままで機能するではなく、我々の努力なしにはそのとおりいかないということだが、これら二つの違いは、単に一つの「程度の差」に過ぎないようでもある。四季というのは自然の摂理、自然法則であるが、四季のある国においてであって、厳寒の国も常夏の国もある。ならば、四季が自然法則なのは一部の国であって、普遍的共通性はない。

    自然法則と言われるものであっても、力学の法則どおりの事が実際に行われているわけではなく、空気の抵抗であるとか、その他の物理的な影響が加わり、それこそ教科書に書いてあるような法則どおりに事象が生起するようにするためには、ノイズの排除が必要となる。自然法則には、ノイズの少ない事象とそうではない、確率的、統計的な法則にしたがうものがある。

    ノイズを考えるとき、人間社会や人間の思考という領域を例にとればいい。これも自然のなかの一つの現象と考えられるが、人間社会や人間の領域には非常に複雑な雑音が多く存在する以上、明晰に論理的に思考すればするほどノイズに悩まされる。様々な問題からくる影響、あるいは感情の起伏などから生ずる妨害を排除し、純粋に、論理的に考える努力は必要だ。

    難しいがそこを求めるのは、「論理」である。語には「語の論理」、文には「文の論理」、記号には「記号の論理」が存在するが、いずれも目に見えない思考の法則を目に見える、あるいは耳で聞くことのできる、つまりは我々が観察可能に、言葉というものを通して、その言葉のなかで捉えて行こうとするするのが、アリストテレスによって生まれた最初の形式論理学である。

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    さするに形式論理学の欠陥は、人間の言葉の中に現れたすべての思考法則を掴むには狭い見方でしかなく、やがて廃れ、現代の新しい論理学へと移行して行く。論理学の事ゆえに難しくなるが、近代論理学の始祖たるデカルトは、自らの思考の方法論として有名なコギト・エルゴ・スム、「我思う、ゆえに我あり」という、疑おうにも疑いえない明晰判明な公理を生み出した。

    「我思う、ゆえに我あり」は、言葉の意味としては平易である。いろんな人にこの意味を問うと誰もが一様に、「思考するから人間だ」、「人間は思考すべきである」などという。窓に見る風景一つとっても人によって変わるし、世の中で、「こうだ」という絶対を証明する存在はないとするも、そのことを考える自分という、「絶対的な存在」という事実をデカルトは提起した。

    パスカルは『パンセ』の中で、「人間は考える葦である」とした。人間なんて、クマやライオンと闘えば一たまりもない。だから武器を発明した。ウィルスや結核菌という目に見えないバクテリアにさえやられる。だから、抗生物質やワクチンを発見した。 パスカルは、自然の中における存在としての人間のか弱さであるが、思考する存在としての偉大さを言い表した 。

    ニーチェは、「真実などない。あるのは解釈のみ」とした。真理を求める宗教者と哲学者の対比が現れている。彼はまた、「人間は考えなくとも、黙って神に従属していればいい」というキリスト教を批判している。自分の宗教批判は、死んであの世や極楽浄土という考えが発端だった。現世的幸福を求めない教えは、貧農や下層階級者に生きる希望を見出したのは事実。

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    彼らにとって生きる希望とは死ぬことの賛美でもあった。が、自分は来世を信じない。現世を生きる以上、現世的幸福であるべきである。現世とは現実そのものであり、現実を受け入れることこそ「悟り」である。確かにこういう考えは快楽思想・享楽思想につながりかねない。現実の肯定は、「修行の軽視や否定」になり、人は堕落するという批判から江戸期に廃れた。

    現実一切を受け入れなくて、何を受け入れろというのか?善くも悪くも現実であり、現実意外に人の居場所はない。悟りというのは、現実の意味を知り、現実を受け入れるという考えを進めればいいのであって、現実逃避が観念世界に足を向けると考える。現実逃避はまた、死という安寧の世界への旅立ちでもある。社会生活には、社会集団の一員としての苦悩もあるのだ。

    例えば、「ルールが先か、自身の生活優先か」について考えてみる。我々が実生活の中で遵守するルールとは、「生活が起こる前にルールがあった」なのか、「まずは生活があり、その中にルールが出来て行ったのか」、これのどちらが正しいのかという疑問が湧く。江戸時代に貝原益軒なる朱子学者がいた。彼は朱子学に疑問を提示した妙な朱子学者であった。

    朱子学では、「すべての物質に貫かれている大宇宙の秩序法則である「理」を、本体形のない「無声無臭」の存在と説明するが、形のないものゆえに、「無極にして太極(大きさも形もない存在)」である。益軒は、「そんなものがあるのだろうか?」と疑問を呈す。この世の事物は「気」が集まり、「気」が働いている。これは事実だが、朱子学は違っている。

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    「気は理に支配されている」と説く。「この世の事物を支配するのは、無極にして太極の理である」と朱子学はいう。ところが益軒は、「事物(気)の動きそのものに理があるとするのが正しいのではないか。"理が上位で気が下"ということではなく、"気の中に理"というのが正しいのではないか…」と考えた。これは朱子学の根底を成す「理気二元論」の否定といえる。

    益軒がこういう考えに至ったのは、彼が理系肌であるからだ。医学や植物などに詳しく、即物的、実証的に目の前にある事物を中心に思考する。であるがゆえに、「目に見えない理というものがすべてに最優先」という、朱子学の観念的思想を素直に受け入れられなかった。こうした益軒の疑問こそが、ルールと実生活の関係に似てはいないだろうかと考えた。

    益軒の批判からすれば、生活が先であり、ルールは後であり。生活を無視したルール作り、絶対的なルール厳守は主体性を損ね、人間社会を集団主義化する恐れがある。しかし、組織を統制する現場では画一的なルールを用いる方が指導を行い易い。あくまで、「行い易い」であって、指導側にとっては楽であろう。欧米などではしょぼい校則などなくとも教師は対応している。

    吉田松陰は、「松下村塾」を創設した際に、塾則を書くには書いたが、机の引き出しにしまったまま陽の目を見ることはなかった。ルールを守る人は正しく、守らぬ人は変人である。スティーブ・ジョブズはまさに変人であったが、ルールをきちんと守るひとより、素晴らしい仕事をした。クリエイティブな仕事に旧態依然として保守的で踏襲的な人間は不要である。



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  • 11/03/17--17:28: 花王の緑茶を買おう
  • と、花王は言っていない。が、花王の記事広(専門用語で記事広告のこと。近年はPR広告という)ではヘルシア緑茶を売ろうとする。花王のヘルシア緑茶は一度も飲んではいないが、結構売れているらしい。ビックリしたのは量販店で2ケースをレジに持ってきたメタボのおっさんである。そんなに効くのか?「特定保健用食品」に選定されてはいるが、信じる者は救われる?

    一度も飲んだことのない自分は、数年来水出し緑茶を愛飲するが、これに勝るものはない。ヘルシアの有効成分ともいえる高濃度茶カテキンが原因と疑われる肝臓障害がカナダで報告された。フランス、スペインでも12件の肝臓障害が報告され、販売禁止措置もとられているが、日本でトクホに許可した厚労省は、審議の議事録さえ十分に取らない杜撰な審査であるのが判明した。

    「もし飲むのなら、肝臓検査の数値に注意したほうが良い」とする専門家もいる。偽装のデパートとされる「発掘!あるある大事典2」を、単独スポンサーとして支援し続けてきた花王は、2007年1月、同番組スポンサー降板にあたり、「広告主として信頼性のある番組作りを要望していただけに極めて遺憾」とコメントしたというが、問題の捏造番組は1月7日に放送された。


    納豆によるダイエット効果を取り上げた、「食べてヤセる!食材Xの新事実」と題する番組で、放送が終了するや否、全国各地の小売業店の店頭で納豆が売り切れ、入荷時期も全くの未定といった大騒動となった。しっかりした考えがなく、他人の言動にすぐ同調する付和雷同性は日本人には珍しくないが、余りの不自然過ぎる現象に注目した週刊朝日が独自取材を開始した。

    結果、捏造個所が随所に発見されたため同誌は1月26日号で、「納豆ダイエットは本当に効くの?」という記事を掲載、関西テレビに質問状を送ったところ、関西テレビは2007年1月20日に社内調査の結果として、実際には血液検査を行っていないにもかかわらず虚偽のデータを放映したと発表、合わせて翌日21日の放送中止を発表し、同社社長の千草宗一郎らが謝罪した。

    社長の記者会見後、番組の根拠となるコメントを寄せた昭和女子大学中津川研一教授は、「捏造データの裏付けに自分の話が利用され驚いている」などと関西テレビに抗議したとされる。中津川氏は、花王の公式サイトでも紹介された食用油、「エコナ」に関わる研究者である。「エコナ」は、「健康エコナクッキングオイル」という商品名で2009年まで発売された。

    「他の食用油に比べて体脂肪が付きにくい」という効果を謳い、1999年食用油として初のトクホを獲得したエコナであるが、2009年の夏、TVや新聞といったマスメディアが、「花王の食用油エコナに高濃度の発がん性物質が含まれている?」という報道により一部消費者がパニックを起こした。これが『健康エコナクッキングオイル騒動』で、花王は即刻エコナの販売を中止した。

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    「エコナをいつか復活させたい」。2012年4月に退任した花王の尾崎元規会長は、悔しさをにじませながら発言したが、そうした思いとは裏腹に、再発売の見通しはまったくたっていない。発がん可能性成分が多量に含有されたことで問題になったエコナだが、同社は、「発がん性の懸念はない」としており、公的に安全性が確認された上で再発売するもくろみであった。

    花王は、欧州食品安全機関(EFSA)に対し、エコナの主要成分であるジアシルグリセロール(DAG)油を摂取することで、体重が減少するという健康機能表示を行いたいと申請した。日本での再発売に向けて、まずは海外で効果の高い機能性についてお墨付きをもらおうという狙いだった。ところがEFSA側は、体重減少の効果は認められないという結論を出してしまった。

    花王は、「栄養学的に見て、十分に体重減少との関係が証明されている」と強弁するが、効能なしの烙印を押されてしまっては説得力はない。エコナは日本ではトクホとして認められ、体に脂肪がつきにくい効果の表示を認められていたが、EFSAが認めなかったのは、審査基準が厳しいからである。食品でありながら、「医薬品並みの厳格な審査」(業界関係者)といわれている。

    とはいうが、EFSAが特別に厳しいわけではない。食品による健康機能表示は、世界的に厳格化されている。日本のトクホもエコナ問題で信頼性が揺らぎ、誇大広告が蔓延していることから、審査や運用の厳格化が望まれる。エコナはピーク時には数百億円の売上高を誇っただけに、環境を整えてから、再発売するもくろみだったが、自らの失策で再発売は消滅してしまった。

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    エコナの次は同じ花王のトクホ商品ヘルシアである。飽食の時代にあって、ダイエット商品開発に着目するのは花王だけではあるまいが、懲りない花王に腹立たたしさを感じるのは、自社製品の安全試験のデータを隠そうとする会社である。データ捏造は、三菱自動車、スズキ自動車、神戸製鋼などの大企業でも行われているが、花王は以下の問題をどう考えているのか?

     ◎肝臓移植まで必要とした高濃度茶カテキンの被害
     ◎フランス、スペインでは発売中止になっていた
     ◎トクホの審議でも発ガン促進が示唆されていた
     ◎「議事録なんかとっていません」厚生労働省
     ◎花王「ファクスで回答します」

    花王は自社製品が問題にされるのを不公平といわんばかりに、高リノレン酸、高オレイン酸、中鎖脂肪酸など他の油も試験をしている。発ガン促進作用が指摘されていないこれらの油でも、なぜか腫瘍が増えている。つまり花王は、「エコナが問題にされるとすれば、他社の製品も道連れだ」との言い分だろうが、エコナは「健康に良い」という宣伝が許可されている。

    それが特定保健用食品(トクホ)であって、他の油は中鎖脂肪酸以外はトクホではない。我々が注意喚起すべきは、何か特定の成分を高濃度にしたものには気をつけたほうがいいという程度であろう。濃度が高い=効果が高い=害も高いという認識を持つべきで。これで「安全」といわれても困ってしまう沢山使用した後に、害があったといわれて言って行くところはない。

    イメージ 3厚労省の外郭団体である食品安全員会も官民癒着の疑義がある。企業が委員に研究費を援助するなどの手を回すことはなきにしもあらずで、その意味で魂をうる不埒な科学者も存在する時代である。食品安全委員会というところは、データの閲覧は可能だが、コピーや写真撮影などは禁止というのだ。その理由が「著作権の侵害になるから」というのには笑ってしまう。

    エコナについて調査するジャーナリストにはニベもない対応である。企業というのは都合の悪いものを隠匿しようとするが、マスコミやメディアと言ったジャーナリズムは、企業や不正の監視であろう。それを番組の視聴率の高さをスポンサーに喜ばれたいから不正や偽装をする。一体何を、誰を信頼すべきなのか?先日の、「JA」偽装についてもメディアは調査すべきだろ。

    情報は出さないが、正確に報道しろといっても、そりゃあ無理というもので、正確な報道をしてもらっては困るというように聞こえてしまう。それが商売といえばそれまでだが、消費者はむしろトクホには気をつけた方がよい。ダイエットの基本は節制であり、掃き出し(運動)であるが、それができない人が、普通に使用できる油や緑茶に効果を求めようとする。

    ヘルシアはエコナに次ぐメガヒット商品である。納豆は少々食べ過ぎても、とりあえず痩せないだけで病気になることは無いが、特定成分を濃縮した健康食品は、一歩間違うと病気になってしまうではないか。どちらが重大な問題か、消費者は考える必要がある。「信じる者は救われる」という気持ちが購入に向かわせるのだろうが、信じても救われぬばかりか、害の蓄積かも知れない。

    花王のPR広告は、【「代謝が落ちると太りやすい」──そのメカニズムとは? 研究で見つけたメタボ予防のカギ 】という表題で注意を喚起させ、なんやかんやと、くどくどとまるで自分のブログのような記法で貫き、最期の最後に、「緑茶がいいですよ~!」と、ヘルシアの「へ」の字も出さないが、自然にトクホ緑茶への誘導がなされているが、「運動も忘れずに!」が笑えた。


    江戸時代の書物で、緑茶は、「人をして痩せしむ」というのを殺し文句にしているが、これは、栄西という禅僧が1191年に中国から持ち帰った茶であるが、茶というのは、緑茶、紅茶、烏龍茶、プ―アール茶のいずれもが同じ原料の茶を製法を変えている。油を多用する中華料理でも中国人には美人でデブがいないのは、烏龍茶、プ―アール茶のおかげという宣伝効果があった。

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    上に記した肝移植被害についての実話は、ヘルシアと同程度の量のカテキ(600mg)が入ったサプリメントを、6ヶ月とり続けて肝臓障害を起こしたカナダの女性のケースで、以下のようなもの。「42歳の女性が、黄疸と腹部の痛みを訴え入院。肝機能検査の結果は異常な値を示した。入院後も患者の状態は悪化し、錯乱と脳症を起こして入院後9日目で昏睡状態になった。

    検査の結果、中毒性肝炎と診断され入院17日目に肝臓移植が行われた。患者は入院6ヶ月前から、カフェインを抜いた緑茶から抽出したカテキンのサプリメントを1日6カプセル(カテキン量で600mg)飲んでいた。同サプリメントはダイエットに使用されており、カナダでは販売禁止」。同様の被害事例は、フランスとスペインで1999年から2003年の間に13件の副作用が報告されている。

    ほとんどのケースは軽い症状ですみ、問題と疑われる商品の摂取をやめると改善した。しかし1件だけは症状は改善せず、肝臓移植まで行なったのだという。原因として疑われたのは、フランスのアルコファーマ社の「Exolise」という緑茶抽出物のカプセル錠である。 一方、日本でヘルシア緑茶がトクホとして認められたのは2003年3月である。エコナ騒動後、花王嫌いの主婦は少なくない。

    比べてみればやはりお茶は生がいい。生といっても「生茶」ではなく、茶葉を見ず出しにしてPETボトルで冷やして飲む。温かいのがいいなら、レンジでチン。ただし水出しの場合、茶葉は深蒸しであることだが、p.h値が高いと緑茶がやや茶に変色するので、ミネラルウォーターにも注意がいる。いろいろ試したが、「六甲の水」と、三國屋善五郎の「葵のしずく」を飲んでいる。

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  • 11/05/17--16:09: 悲喜こもごも…
  • 波乱含みの総選挙も終わって2週間。台風の目ともくされた希望の党代表小池百合子氏の話題も75日も経たぬうちに翳る。都知事でありながら未だ国政政党党首の肩書を持つ彼女。一般的に肩書が複数ある場合上位職を使うとされるが、我々一般人が彼女をどう呼ぼうが咎めはない。小池氏、小池、百合ちゃん、小池ちゃん、小池ババぁなどなど、好きに呼べばいい。

    なぜ彼女の人気は失速したかについては、人気であるが故の失速であり、実力であるならこれほど急激な凋落はなかったろう。政治家も選挙という洗礼を受ける以上、人気商売的要素はあるだろうが、公明党の学会票や旧民進党候補者は無所属であっても、労組という組織票を確保できている。民主主義社会の一票というのはどういう一票も同じ一票なのである。

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    政治を分かった人も、分かっていない人も、老人も若者も男も女も同列の一票である。義理や血縁で集めた票も一票である。民主主義社会が選挙によって代表者を選び、その代表者によって政治を行っていこうとする限り、上記したようないかなる票であれも同列の一票である。親族・血縁や義理で集めた票も一票であって、政治の分かる人の価値が高いこともない。

    したがって、民主主義社会の中で政治を行っていく以上、言ってはならないのは、有権者を見下したりバカにする発言だが、そうとは知りつつ今回の山尾志桜里の当選には選挙区の有権者に対する当てつけがあった。山尾氏は12万8163票を獲得。敗れた自民候補との差は僅か834票で、「1万票を超える無効票は異常」といった根拠のない反発の声がネットで上がっていた。

    こうした結果に納得がいかなかったのか、ランサーズには10月23日、「愛知7区の無効票が多すぎ!山尾志桜里の選挙区に何が起こったか!?」というタイトルの記事を作成する依頼が掲載された。報酬は800円。発注主である都内に住む40代前半の男性の自己紹介欄によると、会社員を辞め、個人事業主としてブログの運営やYouTube動画投稿をしているといい、子どももいる。

    仕事依頼では、記事の構成について以下の細かい指定があり、全部で1500文字。

     1.愛知7区の無効票が多すぎる!(400文字以上)
     2.山尾志桜里の選挙区の当落結果(500文字以上)
     3.愛知7区で無効票が多かった理由を考察(500文字以上)
     4.記事の感想をまとめる(100字以上)

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    誰でも書くことができるようになっているが、先月26日までに削除され、現在は見れない。内容が内容だけに、政治的な思惑があって記事を発注した可能性もあるが、単純にその時々で話題のテーマを取り上げ、アクセス数を稼いでいる可能性も高い。今回の件について、山尾志桜里事務所の担当者は、「何らかの対応をする状況ではありません」とのことだった。

    ランサーズには本年9月24日においても、「政治系サイトのコメント欄への書き込み。保守系の思想を持っている方」という限定で、依頼が1件30円で掲載されていた。クラウドワークスにも、「政治系の記事作成。保守系の思想を持っている方限定」といった限定依頼が1本800円で出されていたことがあるが、依頼人は20代の男性である。条件指定は以下の内容であった。

     1.「安倍政治を応援している方」
     2.「テレビや新聞の左翼的な偏向報道が許せない方」
     3.「産経新聞の論調に好感を持っている方」

    クラウドワークスへの記事依頼は、保守系のブログ記事が1件800円で発注されていて話題になったが、どうやらクラウドソーシングのサイトで、思想のステマ(ステルスマーケティング: Stealth Marketing)とも呼べるような仕事依頼が相次いでいるようだ。消費者に宣伝と気づかれない記事形式広告(PR広告もしくは記事広告という)の場合「PR」が義務付けられている。

    媒体がお金をもらっているなら、「広告」、「PR」表示を出すのは当然だが、それを意図的に隠すが、「ステマ」である。確かにPR記事はメーカーの宣伝広告というより、取材記事という誤認を抱きやすく、そうした効果を狙っている。義務付けられているとはいえ、「PR」の文字は目立たない。広告掲載枠に掲載される広告は、一般に広告が表示されることが明確である。

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    意識の低い消費者は「広告」であることに気づかない。「PR」表示に気づきにくい程に、広告が手練れてきた社会である。「PR」とは、「Public Relations」の略で、パブリックリレーションズとは20世紀初頭からアメリカで発展した、組織とその組織を取り巻く人間(個人・集団・社会)との望ましい関係をつくり出すための考え方、および行動のあり方である。

    日本には第2次世界大戦後の1940年代後半に米国から導入された。行政では、「広報」と訳されたのに対して民間企業では、「PR」という略語が使われてきた。しかしその後、「PR」は、「宣伝」とほとんど同じ意味で使われるようになり、本来持っていた意味から離れてしまった。そのため多くの組織では、その職務を、「広報」と呼ぶことが多くなっている。

    ただし、広報という言葉は組織と社会あるいは公衆(パブリック)とのよい関係づくりという意味が失われ、組織の一方的な情報発信と受け取られがちである。パブリックリレーションズが本来持っていた、「よい関係づくり」という点を忘れてはならないのだが、人間は本質より功利に走る。米国有数のPR会社の創業者ハロルド・バーソンは次のように語っている。

    「PRという仕事はその初めにおいては、『いかに社会に語るべきか』だったが、次第に、『何を社会に語るべきか』に変わってきて、こんにちでは、『何をなすべきか』になってきてしまっている」。社会との接点を広くもつべく「広報・PR」とは、表現の方法やテクニックではなく、企業は何をなすべきかまで考えることを期待されるようになっていくべきであろう。


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    クラウドワークスでは2月にも、「マスコミに関する風刺絵の作成をお願いしたい」という依頼があった。「新聞に載っているような風刺絵の絵柄」とし、絵の内容は、「マスコミや人権活動家や左翼が安倍総理やトランプ大統領を独裁者(危険人物)と批判しているけれども、そのマスコミたちは真の独裁者(危険人物)である中国の習近平に操られている」とし、報酬は5000円~1万円。

    クラウドソーシング掘ると、こうしたいろいろなものが散見されるが、こんなのは氷山の一角で実際にはクローズドな場所でこういう『仕事』が大量に発注される時代となっている。よくいえば、学者や専門家やマスコミ主導で社会を動かすというより、あらゆる人間が民主主義を実践できることになる。日本国内における規制条項は今のところはないようだ。

    アメリカではFTC(連邦取引委員会)が2009年に、「広告における推奨及び証言の利用に関する指導を改定し、明確にステマを規制しており、イギリスでも2008年に、「不公正取引からの消費者保護に関する規正法」を施行しており、ステマを違法と取り締まっている。明確な基準がない日本においても、専門機関や専門家の見解では概ね法律違反という方向で一致している。

    ただ、医薬品医療機器等法と医療法に至っては、広告自体が禁止されているが、医療法については、医療機関と提携していない口コミサイトなどで、ユーザーが実体験に基づいて記載した口コミは、「誘因性」の要件を満たさず、医療広告に該当しないとされている。なかにし礼や、樹木希林が、ガンの陽子線治療を推奨しているが、「誘因性」が皆無とは言えないだろう。

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    このような法律の微妙な抜け目が、日本におけるステマ根絶がままならない一因になっているのかも知れない。のっけの小池百合子から山尾志桜里に言及したが、確かに二人は厚化粧の厚顔女であるが、男の厚顔とはどこか違う印象がある。選挙というのは誰であれ、自分を嫌っているであろうと思われる人にさえ臆面なく近づき、笑顔振りまき握手を求めようとする。

    相手から握手を拒否されようと、何をいわれようと、候補者は選挙期間中は石になっている。あの必死感はまさに悲壮感たる感じを抱くが、自分にはあの人たちが政治家を志す信念や情熱にはとても見えないのだ。「信念は岩をも砕く」という言葉もあるから、プライドを捨てて石地蔵になるくらい屁でもないのだろうが、ああした信念・情熱が眉唾に見える自分である。

    それより、「ああまでして政治家になりたい」理由の本質が何であるかを多くの者はしっている。政治家は楽して食っていけるからである。議員など魅力を感じないと橋下徹のように、中身はともかく言いたいことを言える人間の自由さには心地よい。「政治家になりたい」動機と、「政治を行いたい」という動機は、単純にいえば、「なる」と、「する」である。

    イメージ 6野球やサッカーの選手や、プロゴルファーに、「なる」というが、彼らの場合の、「なる」は、野球をし、サッカーをし、ゴルフをすることである。政治家になるといっても、ただなっているだけの政治家は多い。「なる」は、「する」であるべきだが、旨味のある商売の典型が政治家であろう。大学生に、「なる」、「なりたい」といっても、学問を、「する」とは別である。

    「なる」と、「する」は社会に存在するが、何かに、「なる」ことを目指す状態が最も端的に表れているのが、「肩書」であり、近年は大学も肩書である。が、「肩書」でやっていけるものと、スポーツ選手のように、「実力」がものをいう、「なる」に大別される。「大きくなったら何になるの?」などの造作無い質問をする大人に対し、明晰な子どもは、「大人になる」と言えばいい。


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    愛知第7選挙区で834票という僅差で辛くも当選した山尾志桜里。当選者の多くは、「選挙民から支持を得た」というが、支持を得て落選した候補者もいるわけで、この程度の差で大手を振って支持を得たというのははしゃぎすぎというもの。山尾は選挙前と当選後でまるで顔が変わった。実質トヨタ系労組の後押しが功を奏したが、一般人の批判票が僅差という形になった。

    「疑惑にさらされ、抗弁しきれずにいったん身を引く。だが、選挙で当選すれば禊(みそぎ)は済んだと強弁し、あとは昔話。そんな政治文化をいつまでも残していては、恥ずべき不祥事はなくならない」。という新聞記事は固有名こそ伏せているが、自民党の甘利朗(神奈川13区)のことを取り上げた発言であるが、これはそのまま山尾志桜里にも当て嵌まる。

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    当選後のはちきれんばかりの笑顔に釈然としない国民は多いだろうし、自分がもっとも嫌う点は以下、民進党幹事長の内定を受けたその日、祝杯を挙げる相手は夫でもなければ後援会長でもなければ、いわゆる不倫疑惑のあったその人であり、最も喜び合いたい特別の相手とホテルに宿泊しながえら、政策の打ち合わせをしていたなどと、見え透いた嘘を押し通す。

    選挙は禊にあらずという評価もあるが、彼女の倫理観の欠如を支持されたわけではなかろう。地元密着型の小選挙区では、「政治家」というのは、かつての、「おらが村の先生」に代表される、利益誘導や善悪利害に蹂躙されたまことに不思議な人種としか言いようがなく、地元とか基盤とか呼ばれる地域共同体が、"こうした"政治家を育てていることになるのだろう。

    この世から消えてしまった愛すべき人物は多いが、野坂昭如もその一人である。『火垂るの墓』の原作者といえば若い人にも伝わろうが、昭和20年の敗戦前から、戦後の22年、23年あたりにかけて食糧難時代には、主として生物的に弱い、子どもや年寄りが食いもの不足で飢え死にした。飢えというのは、空腹なんて生易しいものではなく、生きるか死ぬかである。

    『火垂るの墓』という実体験を持つ野坂には、『農を棄てたこの国に明日はない』という著書がある。「昭和十六年、ぼくは十歳。この年の四月から主食、砂糖、マッチなどが配給となる。(中略)配給のはじめは米。それまでは各家庭に米屋が配達していたのだが、やがて配給通帳が作られ、その帳面を持って、米屋に買いに行く。1人1日2合3勺。当時の日本人には少ない量。

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    食糧不足が進み、買い物するのに行列が当たり前となっていく。中学一年で授業がなくなり、勤労奉仕が登場。弁当を持って現場に向かうのだが、おかずは貧しいものの、皆の弁当もまだ白いご飯だった。勤労奉仕は田おこしや、麦刈りに始まり、疎開荷物運び、家屋解体など。この解体作業がぼくは最も嫌だった。_____終了後はコッペパンが一つ支給された。」

    大正10年頃から昭和15年頃まで、安城を中心とする碧海郡一帯は「日本デンマーク」と呼ばれていた。その理由として、①明治30年中頃、町農会、農林高校、農事試験場が相次いで開設され、農都としての発展の基礎が築かれた事。②山崎延吉をはじめ良き指導者と明治用水の豊富な水資源に恵まれ、米麦を中心に畜産、そ菜、園芸など典型的な多角経営農業が行われた事。

    ③農民の協同意識が強く、農産物の販売や肥料などの購入を共同で行うなど、産業組合の普及&活動が特に盛んだった事。④零細貧困状態の農業を何とか引き上げようとする勤勉な精神を持っていた事。などなど…、それにちなんで造られたのがデンパーク。5歳程度の子どもにはいいが、それ以上になると見向きもされないしょぼさだが、どこの地域にもそういう施設はある。

    野坂は参議院議員だった1983年12月、議員を辞職して第37回衆院選に金権政治を批判する意味で田中角栄元首相と同じ新潟3区から出馬する。ところが、選挙運動中に暴漢に刃物で斬りつけられるなどの被害に遭い、以後の選挙運動を見送らざるを得ない状態となる。当時の新潟3区は現在は廃止された中選挙区制で、定数5であったが、野坂は次点で落選する。

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    参議院バッヂにマッチで火をつけて燃やし、田中角栄の後援会である越山会幹部を訪ね、200万円の現金を机の上に置き、「これで選挙事務所を開いてくれませんか」と申し出る。腰を抜かし気味の幹部は、「越山会のおらたちが、そんなことできないこっつぉ、先生、勘弁してくださいよ」というのがやっとで、野坂人間は、どこかしこ、「物議を醸す」人間だった。

    別の表現を借りれば、やる事なす事、「いかがわしさのカリスマ」で、誰もできないことを平然とやる肝が据わっていた。まだまだたくさんあるが、自分にとっての、「選挙随想」においては、野坂の新潟3区からの立候補がもっとも印象に残る。さて、今回山尾のことを書くに至ったのは、彼女が自身の政策顧問に弁護士の倉持麟太郎が就任するという記事である。

    これについて外野の反応はけたたましい。彼女の裏読みはおそらくこうであろう。「疚しいことがない故の人選である」しかし、これは真っ当のようで子供騙しでである。誰が彼女の思惑通りに理解するだろうか?とりあえず外野のことはいいとしても、普通なら互いの配偶者や子どもへの配慮として、たとえ疚しさがなくても避けるのが、人間のとる態度と思われる。

    こうした一連の行動も含めた全体的な一貫性から抉ると、彼女が何をいおうが行動しようが、1点の曇りのない潔白な関係なら、民進党離党する必要はなく、「ざっけんじゃないよ、ありもしないことを書きやがって文春のバカタレどもめが」と火花を散らして闘うべきである。それができなかったのは、誤解を受ける行動を押さえられたからであろう。そして今回の行動だ。

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    自分の読みは、彼女は自分にかけられた、「誤解を受ける行動」についての汚名を晴らすためだと思われる。というのも。「なぜ倉持氏?」という世間への挑戦態度からうかがえるのは、「疑惑」は勝手な推察で、我々はこうして同じ相手を避けることもせず、正々堂々しているのだと。疑惑があったからと尻込みするより、疑惑などは所詮取るに足りないものと茶化している。

    以前も今後もお好きなように、「疑惑」と言って結構です。と言いたいのだろう。こういう態度は強気で気丈な性格がもたらすが、真っ向挑む姿勢には謙虚さの無さがありあり。社内で上司との不倫を噂された女子社員が、根も葉もない無言の圧力に耐えかねて辞めて行くケースがある。それとは別に、実際に関係のある場合には、開き直って退社をしないケースがある。

    事実でないことを証明するのは難しく、事実であった場合は隠すことに躍起になる。どちらも噂の類であっても、耐えると隠すという対応の違いから精神的な負担は違ってくる。事実でない場合に立つ噂は男には屁でもないが、女性は辛かろう。事実であった場合でも噂は苦痛という女性もいようが、事実を隠して開き直る方が断然楽かも知れない。当然、山尾は後者であろう。

    山尾はあった事実をなかったように見せるかに躍起になり、説明責任を果たさなかった。あげく今回の、政策顧問登用という挑戦的な態度は、さらなる疑惑隠しと、自己を強靭にするめのバネに利用しようとの魂胆み見える。軟な人間にはとても出来兼ねるしたたかさだが、政治家にはこの程度のしたたかさは当然で、彼女はそれをさらに磨き上げることに邁進する。

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    転んでもただでは起きない資質を見込んだのか、AKBと同様単なるミーハーなのか、「山尾志桜里を総理にする会」を立ち上げ、神輿を担ぐ小林よしのりはこのようにいう。「政治家だから問題なわけで、幹事長を降ろされたり、重要な役職をすべて避けられたりして、出世できなくなる。しかも現在の世相は恋愛スキャンダルより、不倫スキャンダルの方が厳しい。

    貧困層が増えているから、不倫なんて既得権益者の特権と見られるのだ。わしにはその特権があって当然だと開き直れるが、政治家は違う。中間層の下位部分と、貧困層の支持を失ってしまう。山尾志桜里は、"事実無根"を決め込むしかない。認めたら家庭が崩壊してしまう」。男なら誤魔化しは通じないから、小林は、「事実」を、「無根」とせよと言っている。

    その理由が家族が崩壊するからと、その程度の理由で彼女を総理候補に立てているところが小林のミーハー度であろう。彼はAKB熱が冷めたのか、今度は年増に鞍替えしたのは、年齢的に賢明であろう。いつまでも小便くちゃい女の子を追い回して、それがおっさんのノルタルジーなどは晩節の問題かなと。もっとも、少女は若さの買い戻しであろうが…。

    今回の山尾の行動は、事務所内にベッドを持ち込めばホテルに行く必要がないなどと、下世話な想像をする者もいないではないが、かつて山尾が、「疑惑」で出世を閉ざされた事への恨み辛みを、「疑惑」に挑戦することで晴らしたい、その執念深さと読む。男はカラッとしたある種の潔さがあるが、「女の意地」というように、女の返報感情の凄まじさを自分は理解する。

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    表題の、「感覚指数」には、「多」、「少」もあれば、「虚」、「実」もある。人間が人から受けた被害指数の落差について、山尾如き優等生タイプは、一番が二番である屈辱が耐えられず、エネルギーに変換される。勉強ができるタイプは、勉強が好きという以前に、こうした二番煎じ的屈辱感が、途方もないエネルギーに変換される。それに加えて彼女は女性である。

    女性に特有の思考様式は、現実を無視して議論を展開することで、これが昇華すると、本人すら訳の分からぬ事、ありったけの事、思いつく限りを速射砲のように言いまくるが、こうした言動をヒステリーと自分は捉えており、女のヒステリーには耐性と対応を所持している。世間があっと驚く今回の疑惑弁護士のブレーン登用も、ヒステリー的反動症状と自分は見る。

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    日本の置かれた政治状況というのは、二大政党を目指すとはいうものの、実現する運びにならないのは、誰もが一番が好きで一番になりたいからだろう。自民党議員にも同じ思いを抱くものがいるが、政権与党にあっては大臣というポスト、政務次官というポストがある。誰もが総理になれるわけでも、大臣になれるわけでもないなら、各種委員会の委員長とてトップである。

    それでも自民党に内紛がなかったわけではない。昔のことを引き合いに出すのは、回顧主義というより、現在との比較で思索するためであるが、政界・財界・芸能・文化・スポーツなどのジャンルにおいて、昔と今を比較して違いを最も感じるのは、昔の人には顔があった。顔は誰にでもあるが、その程度の顔ではなく、ちゃんとした、組織などを代表する顔である。

    安倍総理がこの国で大きな顔をもてはやされるのも、他に対抗馬という顔が育たないからで、このまま神輿を担がれる続けても全然おかしくない。対抗馬と目された小池百合子は立ち消え、石破茂は相変わらずも鈍牛のごときで党内の支持基盤を増やそうという気概がない。現幹事長でかつて小沢一郎の盟友であった二階俊博は、総理の器でない自負が二番煎じで満足を得る。

    小泉進次郎が親父もどきに党内批判をするが、手練れもなければ36歳という年齢では小僧である。「小僧の神様」は小説の話で、一匹狼で総理になった純一郎の例はあれども、柳の下に泥鰌はそうそういない。与野党も含めて、顔を持つ政治家は誰なのか?元民主党の岡田、前原、枝野ら実力者は、それぞれが別の道を歩み始め、三番手だった枝野が漁夫の利から勢いづいた。

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    岡田には存在感の、「そ」の字もなく、前原は頭はいいが先の見通しがなく、小池の軍門にひれ伏した。三人で唯一「顔」を所有するのは枝野である。党内抗争に明け暮れていた頃の自民党には、三角大福(三木、田中、大平、福田)という顔があった。三角大福は語呂であって、首相の順序でいえば角三福大であり、それぞれが、それぞれなりの内閣を組織した。

    田中角栄は1972年7月7日から74年12月9日まで総理をつとめたが、自身の金脈問題がマスコミに激しく追及され、政局の混乱を招いたとして辞任。田中退陣後、椎名裁定で総理となった最小派閥の三木武夫は、1974年12月9日から76年12月24日まで747日の在任期間は田中の886日に次ぐが、ロッキード事件で田中逮捕を容認したことで、「三木おろし」という退陣攻めにあう。

    三木退陣後の総裁選では福田赳夫以外に立候補がなく、両議院総会で福田は総理に選出される。在任期間は1976年12月24日~78年12月7日までの714日。長期政権を目論む福田は総裁再選の流れを作るため、衆議院を解散して民意を問う考えでいたが、田中派の金丸信が、「大義名分のない解散には反対する。解散が閣議で諮られたら署名を拒否する」と、釘を刺される。

    福田は金丸を注意するも解散できぬままに総裁選に臨んだが、敗退して内閣総辞職となる。この一件は、日本国憲法下で与党党首選での敗北により退陣した内閣は唯一であった。満を持して登場したのが大平正芳である。「アーウー宰相」、「讃岐の鈍牛」の異名がある大平は、1978年12月7日~1980年6月12日の通算554日。政権基盤も弱いことで、「角影内閣」とも呼ばれた。

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    大平内閣当時、自民党は四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し、分裂状態になった。要因は、1979年の衆院選において、大平の増税発言が響いたことで、自民党が過半数を割り込む結果を招くことになり、大平を支える田中派と、三木・福田の反主流派が激突。選挙責任を問うべく大平退陣を要求に対して大平は、「辞めろということは死ねということか」としてこれを拒否。

    即座に大平は総辞職でなく解散する旨を表明、閣議で衆議院解散を決定し、3日後の5月19日に本会議を開かず議長応接室に各会派の代表を集め、解散詔書を朗読した。前回の選挙からわずか7ヶ月余で衆議院は解散。内閣不信任決議可決当日に衆議院を解散しなかった初の事例である。内閣は6月22日の参院選と同時に衆院選の投票を実施を決め、史上初の衆参同日選挙となった。

    総選挙が公示された5月30日、大平は新宿での街頭演説で第一声を挙げた直後に気分が悪くなり、虎の門病院に緊急入院した。大平の入院に対して反主流派の中川一郎は、この状態では6月22日から予定されているヴェネツィアサミット出席が難しいことを理由に進退すべきと発言する。一時は記者団代表3人を病室に招き談笑するも、6月12日午前5時過ぎ容態が急変、5時45分に死去。

    大平は総理を辞めなかったが、死んでしまった。辞めていたら命は長らえた?じは、「たら」であろう。大平の急逝よって形的には党の一致団結を見せたものの、鈴木善幸を時期内閣に推すこととなったが、その間、伊東正義が80年6月12日~同年7月17日まで内閣総理大臣臨時代理を担う。鈴木は80年7月17日から82年11月27日までの864日は、これまでより長期政権となる。

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    鈴木の後を受けた中曽根康弘は、通算で1806日の長期安定政権を担ったが、これは吉田茂内閣(通算2984日)、佐藤栄作内閣(通算2798日)、小泉純一郎(通算1980日)に次ぐもので、それを破る勢いで長期政権を目指すのが安倍晋三内閣(11月8日現在で2150日)であるが、党内抗争もない無風状態では2018年の総裁選にも出馬し、選ばれるのは間違いのない情勢である。

    これまでの自民党党則によると、自民党総裁は3年で任期満了となり、同じ総裁が2期6年までとなっていた。しかし、昨年2016年3月、連続3期9年改訂された。本来なら安倍総裁は2018年の総裁選に立候補できなかったが、長期政権が続けば、憲法改正や外交課題に長期的視野で臨める体制となろう。前回2015年の総裁選は立候補者もなく、安倍総裁が無投票で再選された。

    民主主義の基本は選挙であるがゆえに、無投票はあってはならずと次回は雄姿の立候補が予想される。具体的な候補者を挙げてみれば、岸田文雄、石破茂に加えて、無いとは思いつつおまけで、林芳正、野田聖子、石原伸晃、小泉新次郎…。但し、林は岸田派なので、岸田立候補なら消える。紅一点野田聖子は、以前ほどの人気はないようだが、立候補だけでも名誉というPRもある。

    昔の政治家には顔があったと書いたが、財界人とて同じように顔があった。松下電器(現パナソニック)の顔といえば松下幸之助、ソニーと言えば井深大・盛田昭夫、ホンダといえば本田宗一郎、東芝の土光、日清の安藤などなどだ浮かぶが、現在のパナソニックやホンダやソニーの社長など知る者は少ない。日本にマーガレット・サッチャーやヒラリー・クリントンは生まれるのか?

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    彼女たちは、女性の顔を持っていた。日本の政界でかつて総理候補と言われたのは、土井たか子、田中眞紀子、小池百合子、野田聖子、蓮舫、稲田朋美くらいか?そもそも何をもって女性の総理候補なのかは分からぬが、上記の人選でみるに、各々違いが見受けられる。この中で、「ヒドイ」の言葉が当てはまらぬのは、土井氏一人というのが自分の考えである。

    土井氏といえば、「ダメなものはダメ」が有名だが、これは竹下内閣が導入した消費税に反対し、1989年の参議院選挙で改選22議席を上回る26議席当選させ参議院で、与野党が逆転したのが思い出される。女性の登用がないのを男社会だからというのは違う。リーダーシップと能力ある女性が出てくれば評は入るが、田中も小池も稲田も化けの皮が剥がれてしまった。

    組織学でいえば、確かに女性は組織運営が得意ではないかも知れない(有能な人物は別として)。これを逆説的にいえば、組織のまとめ方、運営が堪能な女性を有能といえるのだろう。古代ギリシャ時代、コーカサス地方にアマゾンと呼ばれる部族がいた。アマゾンは女性だけの国で、子どもを産むために他国の男と交わるが、生まれた子どもは男なら殺す、もしくは不具にする。

    女はみな右の乳房を切り取った。アマゾンの女(アマゾネス)は、戦闘と狩猟を糧と死、主として弓を武器としたが、右の乳房は弓を引く邪魔になる。アマゾネスは古代中世にかけては現存していたとみなす根拠がある。文化人類学者の報告によれば、アマゾネスとはいかないまでも、現代に女性上位社会は存在するが、地球の大部分の社会は男性上位となっている。

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    これに不満の一部の女性が、「ウーマンリブ運動」を始めた、彼女らの主張は、「今の社会は一夫一婦制をもとにして、家が、社会が成立してる。一夫一婦制とは、一人の女性が一人の男性と一生涯生活すること。これって、女性の性欲求の封じ込めでしょ?」日本人の女性解放化はここまで露骨に言わないが、「抱かれる女から抱く女へ」くらいは言うのだろう。

    「ウーマンリブ運動」の初期で名を馳せた「中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)」のスローガンは、①女性を見せ者扱いしない事。②女性をセックスの対象としか見ない風潮を改める事。良妻賢母を押し付けない事。などがある。女性解放運動は禁煙運動と同じくらいに昔からポピュラーで、成功率の低さも同じくらいというもののようだ。

    なぜなら、禁酒を望む酒飲みと同じ程度の比率でしか、「解放」されたいと願う女性は少ないからである。男をリスペクトせず、独身で息巻いている田嶋陽子や上野千鶴子は、独身を貫いているがゆえに真の女性解放者であるが、女性に理解されないのは気の毒だ。隠れ女性解放者も多い。下重暁子の著書に、「主人というおかしな文化は止めてもらいたい」とあった。

    イメージ 7主人が悪いなら主婦はどうなのだ?主人に対して従婦という言葉はない、それとも主婦に対して従夫を望むのか?女性の発言が女性の視点であるのは仕方がない。自分も男であるがゆえに男の目線で発言するが、「主婦という文化がおかしい」など考えたこともない。世の中の多くの男が、「男らしくありたい」と願うように、「女らしくありたい」のが女性の本音だ。

    ウーマンリブは女性の独善的な情緒集団であるように、ある日男らしくない男が団結して、「男は男らしくあらねばならないのか!」とデモり始めたらどうであろうか?残飯を与えられて太らせる豚が突然知恵がつき、人間の意図に気づいてそれに反抗し、「豚らしさ」を返上とばかり、絶食をはじめたらどうなるだろうか?人間の偏った知恵を増長させるべきではなかろう。


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    子どもの世界は他愛もない嘘や作り話や言い訳にまみれている。天体望遠鏡の接眼レンズを級友に貸したら、便所に落としたから返せないといわれた。当時の言いようのない喪失感を今も忘れることはできない。自分に出来ることは、以後そいつと口を効かないことくらいしかなかった。高価なものであり、自分の親から彼の親に話を伝えて弁済してもらえばよかった。


    そんな考えはまるで浮かばなかった。「便所に落とした」と言われて、しょげるしかなかった自分だ。そんなことで奪い取るなど、相当タチの悪い性格である。中学~高校になっても、あの場面をもう一度再現できないかなど悔し紛れに考えた。人間は経年で成長すれば知恵もつくし、利口にもなる。小学3年生の無知で純朴で哀れなあのときの自分に光を当てたかった。

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    司馬遼太郎は晩年このように言った。「22歳の自分に言いたいことがあった。22歳の年齢の自分に手紙を書いたのが自分の作品である」。そうした忸怩たる思いもあって、司馬は「21世紀に生きる君たちへ」という言葉を置いて逝った。「君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。自分に厳しく、相手には優しいという自己を。

    そして…、素直で賢いという自己を。優しさや思いやりは訓練して得られるもの。本能ではない」。訓練の場は人生という人間関係の中にあるが、そこには何らかの基準と言う自身の規範がなければ、何を訓練していいのかが見えてこない。「理想と言う規範を持たない日本人は、恰好悪いですよ」と、優しさにあふれた言葉こそ、まさしく司馬遼太郎その人である。

    的確な言い訳というのは自分の頭で思考する限り、見つけ出すことはなかった。頭を必要とする言い訳でなくとも、相手の頭のレベルによっては通用することもあろうが、その場合に通用する、「言い訳」ならとりあえず、「理由」として担保されるが、そういう頓珍漢人間ばかりではない。ゆえに凡人の言い分けレベルは、聞く側のレベル如何によってはみすぼらしい。

    言葉は相対的なものである。ありきたりの言葉もバカには心地よく響くが、「名言」と言われるものは人を選ぶことのない普遍的価値を持つ。将棋を強いと自慢する人間は、自分より弱い相手と指すからであって、仮に負けようものなら言い訳たらたら人間である。人は自分のレベルでしか人を捉えないが、唯一の救いは自分のレベルを下に置いておけば恥をかかない。

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    上位の相手を自分と同等と見下し、あるいは錯覚して言い訳をするほど羞恥はない。それらを加味して総合的思考の上で、言い訳は封印すべきとなった。通用する相手には言い訳をし、通用しそうにない相手にはしないという選択も、「通用する」との思い込みの上になされる。小中学生の子どもに言い訳をする親が、しっかり見透かされていることもあり得る。

    「親を騙すなどちょろいもの」という子どもは多い。親は子どもを見くびっているようで、実は見くびられている。どちらにしても、「言い訳」は己の』品位を落とすものだから、己に素直になれず、自信もなく、ゆえに言い訳に寄り掛かる人は死ぬまで言い訳とお友達。司馬は、「優しさ・思いやりは訓練」といったが、言い訳をしない人ほど優しい人間であろう。

    優しいフリをする人間は話せば分かる。斯くの人間は自己中だから自己正当化の言い訳を多用する。本質的に優しい人間が言い訳をしないのは、イライラしない、人を憎まないからろう。優しさは顔に現れるというが、それは言葉にも現れる。人間は多面的で細部の微妙な心の動きの理解は難しいが、優しい心の持ち主はすべてに現れる。優しいフリが現れるようにだ。

    ずっと、ずっと、ず~っと、優しい女を探し続けて来た自分であった。優しさは弱さと混同されるが、弱い人を優しいと錯覚したり、見間違えるが、本当の優しさは、強さ、逞しさから出るもので、甘え、依存、過保護、言い訳から脱却できているからだろう。料理や裁縫や洗濯や掃除が何の苦にもならないのは、親がしてくれなかったからで、頼むのもいやだった。

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    何かを頼んで恩着せがましい態度や、交換条件を突き付けられるくらいなら、いっそ自分でやった方が断然よかった。親が何もしないと、子どもは自分でするようになる。学童期にはよそんちの母親が羨ましかったが、今となってはそういう親のおかげと言うしかない。「這えば立て、立てば歩めの親心」というのは心情を謳ったもので、決して手を貸すということではない。

    彼女のアパートに泊ったはいいが、徹夜の励みもあってか朝寝坊した女が困って言う。「ね~、何かいい遅刻の言い訳ない?」。「あるよ、こう言ったらいい」、「なになに…?」、「絶対に上司が信じる。間違いないよ」、「だからなに?」、「すみません、寝坊しました!」。「……」。「くだらない言い訳より間違いなく信じてもらえる」。「まじめに考えてよ」。

    「まじめじゃん、大まじめ」、「あーあ!もういい、今日は休むから」、「何で?遅刻で休むなんてもったいない!」という現場の会話だが、寝坊で目覚めたとき、誰も言い訳を考えるらしい。それが不可解である。なぜに寝坊が悪いのか?まじめに友人や同僚に聞いたことがある。自分とでガキではないのだから、言い訳を考える心理は、当然にして分かっている。

    ある同僚は自分にこういった。「寝坊なんか、サイテーじゃんか。100%自己責任だし、不可抗力的なものがなにもない」。「だから何?」。そんなことは当たりのマエ過ぎる。言い訳は自己責任の回避のためだろうが、「なぜ、自己責任を怖れるのか?」というのは、昔も今も自分の素朴な疑問である。これについてはさまざまな答えがあったが、正確には覚えていない。

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    覚えていないが、どれも似たり寄ったりのありきたりの答えであった。もっとも問いに対する答えの一切は想定内であり。ならば、なぜ聞くのか?自分にない想定外の答えを期待しているからだが、遅刻の言い訳を考えるような小人に、そんな期待を求めたところで知れたもの。とにかく、自己責任だけは免れたいという一心で、そのためにはいかなる嘘・方便を用いる。

    「逆命利君」について書いたのを思い出した。「逆命利君」とは、住友商事元常務・鈴木朗夫のことをいい、佐高信の著書である。それより「言い訳」について沢山の記事を書いた記憶もあり、「死ぬまで生きよう 言い訳」で検索をかけてみたところ、以下ヒットした。「言い訳」の表題で①~⑨、言い訳は「嘘」・説明は「真」、まともな「言い訳」などない 。

    自己向上に言い訳不要、たらされ女の言い訳。これ以外にも書いていると思うが、上記の記事は表題に「言い訳」が挿入されたもの。そうして今回の、成立する言い訳などないである。2017年8月19日の「まともな言い訳などない」の記事である。今回は、「成立する言い訳はない」という表題を考えたが、両者の意味は違う。たとえまともでなくても、成立する場合がある。

    言い訳というのは櫻井翔のCMでないが、説得力のある言い訳を摸索すれば見つかるかもしれない。では、説得力のある言い訳とは何かといえば、バカではない相手、単純・単調ではない相手を説得する言い訳と解釈できる。端的に言えば一筋縄でいかない相手を上手く説得できる言い訳ということだ。果たして言い訳の類でそれほど高尚なものがあるのか?

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    自分の出す答えは、「ない」。そう断言する理由は、確たる事実が存在するとして、言い訳というのは事実でない虚実、捻じ曲げられたものとするなら、事実でない以上どこかに綻びは出る。では、「事実は小説より奇なり」といい、いかなる作為に満ちた虚実の小説よりも、事実の方が以て不可解であり、奇なりであったとしても、事実に於いて奇なりで、虚実ではない。

    反対に、どれほど完璧に練り上げられた事実に匹敵する虚実であっても、虚実は虚実である。他人に、「これは真実だ」と言って虚実を語り、納得してもらったとしても、それは虚実でしかない。分かり易くいうなら、虚実を事実と信ずるにそれは事実なのか?と問うならそれは虚実に違いない。人が介在して信じる・信じないに関わらず、虚実は虚実、事実は事実であろう。

    つまり、虚実を事実として提示するのは、対象を騙したことになる。人間が自らを偽り、相手を偽ることがあっても、神を偽ることは許されない。それが神と人間の契約であろう。したがって、「懺悔」という行為で神の許しを乞わねばならない。犯した罪は告白(懺悔)をすることで許されるというが、心から悔い改めれば、いかなる罪も神は許すのだという。

    御子であるイエス・キリストは我々の罪の身代わりとなって、死後3日目に蘇った。何でもとはいっても、法治国家にあっては司法の裁きを受けねばならないが…。と、まあ宗教的懺悔を無神論者は信じない。神が許したという証文や捺印を授与されるわけでもなく、あくまでも見えない神に対する想像上の取引だが、これを宗教というなら、それが宗教である。

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    懺悔といっても、カトリックは神父になされるが、プロテスタントは直接神に自分の罪を言い表して許しを請うのだという。前者は、神父が神は許されたといい、後者は、自分が勝手に許されたと思い込む。信仰とは心で神と対話するものである以上、人間の心の問題であろう。心のどこを探せど神などいない自分にとって、まったくもって未知の世界である。


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    「策士、策に溺れる」と山尾議員を評したが、自分のやったことを棚にあげて、メディア批判をする山尾と噂の弁護士を見ていると、まさに類は友を呼ぶである。「バカに権力を持たせるな」というように、ああした国民を舐めた態度は、国会議員などに最も腹の立つことでもある。宮城生まれで東京育ちの山尾が、愛知七区というのは、当時の上司小沢一郎の発案だ。

    心情的には、「なぜ?」であるが、これが被選挙民の第一歩である。選挙をやった者にしか分からない人間の虚しさというのは塑像できる部分もあるが、人気商売というのは愛想を振り向くものと知りつつ、思いつつも、自分には絶対にできないこと、したくないことだ。かつて自分は嫌な教師に廊下で会っても挨拶などしなかった。それで注意を受けたこともあった。

    中3の時、ある教師が自分を職員室に呼んでこういった。「君は私と学校内や学校外で会ったときに目をそらすが、そういう態度はよくない」と、ここまでは覚えているが、あとのゴチャゴチャは聞いてなかった。生徒は教師に挨拶するのが当然と思っていた節もあるが、だからと言って、そんなことでワザに呼んで注意をする教師もどうかと思うとの気持ちもあった。

    「お前がきらいだからだよ」という意志表示であるのに、それに気づかず嫌みったらしくも陰険な物言いをする教師であり、今の大人の目でその教師を捉えると、気持ちのわるい性格だなと思ってしまう。「仰げば尊し」ではないが、昔の教師は生徒に尊敬を強要していたのかも知れない。それだけでも、人間的に心の狭い、世間知らずの無知人間であると今なら思う。


    嫌っているなら嫌われたってしょうがなかろう。教師も人気商売なら嫌われることも許容しなければならない。おそらくこの教師は、自分が生徒に嫌われることが我慢ならなかったのだろうが、生徒を呼びつけて陰険な皮肉を言える教師というのは、あるなじき教育者であって、教師という肩書を取り除いて、普通に人間としてみればつまらん教師も結構いたようだ。

    当時は13~15歳程度の子どもだから、正当的批判のできる資質も素養もなかったが、当時、20代~50代の教師を、今の自分の年齢からみれば人間的に未熟であるのが手に取るように解る。当時はできなくとも、後になってこういう見方ができることを考えれば、つまらぬ教師を信頼し、尊敬した生徒は多かった。ただ、救いなのは彼らとは長くて2年程度の付き合いである。

    それに比べ、親との付き合いは結構長い。中学もしくは高校卒業で住み慣れた家を出て自活するにしても、15年~18年の長きにわたって親の影響を受けている。先の教師ではないが、その親がほとんど未熟なダメ親ってこともあろうし、それを言うなら、「親の意見に千に一つのあだはない」というのは、実に間違った言葉である。こんなのは所詮は儒家の言葉であろう。

    「親の意見と冷や酒は後で利く」も同じ意味の言葉である。こういうまやかし言葉はある意味危険で、親も教師も是々非々で考える子は、利発と言えるかも知れない。子どもの視点から眺めて、親は正しい、教師は正しいからとして妄信はあるかもしれないが、何らかの批判意見を持つ子どもであるべきかなと。これを嫌の側からみると言うことをきかない子となる。

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    ということは、親の視点からは、「親は絶対に正しい」、「間違っていない」ということになる。もしくはそんなこと以前の、「傲慢」、「思い上がり」なのかも知れない。あるいは、本当に正しい親とて存在するだろう。この違い、この混濁、要は子どもが親の正しい言動を見つけられるか否かとはなりはしないか?しかし、親が子から、「あんたは間違っている」と言われたら…

    おそらくむかつくだろう。これが世の中の一般的な親子の形である。しかし、子どもから、「あんたは間違っている」と指摘され、「ほほ~、どこがどう間違っているのか、ちゃんと意見を聞こうじゃないか」と向き合える親子がいたなら、それは素敵な親子であろう。「子は神からの授かり物」という考えの諸外国にあっては、こういう親子の冷静な対話は普通にある。

    子どもの投げたボールを受けるキャッチャーであるべきという考えの親は諸外国では珍しくないが、日本では案外となされていない。対話という基本条件は、話し合いが一方通行であってはならないが、日本的な支配的親子関係からすると、親は子を無条件に従わせようとする。よほど反抗心のない子どもでないかぎり、子どもが親の価値観に染まってくれるのを喜ぶ。

    「忙しい」、「疲れた」が口癖で、面倒くさがり屋の父、思慮浅く拙速な母は、子どもとの会話はまだるっこくと感じるだけで、結論を急ぎたい大人にすればイライラさせられるのか、理解もしていないのに、「もう、わかったから何もいうな」とか、「親に反抗するのはよくない」などと子どもを悲観的にさせてしまう。これでは学校でいじめを受けても親には話さないだろう。

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    自分はいつでも誰とでも話し合おうという姿勢でいる。「面倒くさい」も、「忙しい」も、「疲れた」などは自分の辞書にはない言葉。信頼できそうな女と付き合う最初にはこのように言っておく。「自分の前ではいつも正直でいて欲しい。何でも包み隠さずに…」といった後に、「はい」という返事を期待するのではなくて、相手の返答する時の態度や雰囲気を見る。

    「はい」という言葉などはどうでもよく、「はい」というに決まっている。だから、その言葉を発する時の相手の態度、仕草、言葉の雰囲気から心の中を覗いているのだ。そういう時には不思議と心が見えるのだ。のっけに小池百合子を出したが、小池という女の正体は、案外と見える。自民党の石破茂元幹事長は、10月の初旬に小池氏について以下のように述べている。

    「なめたら大変なことになる。怖いとかそういうもんじゃない。小池百合子という人を侮ったら大変な目に遭うということは言っておく」と、これは看破した表現なのか、一目置いたいい方だったのかは不明だが、自分の見る小池評をいえば、「物事の善悪を自身の好き嫌いという情緒で決めるところは、いかにも女性らしい」と、そのことが何より小池である。

    男の自分からみた、もっとも男女の顕著な性差(違い)は、女性は自分を批判する相手、異なる意見を向ける相手にを敵視するところがある。が、敵視や敵対を言葉や表情には出さず、腹の中で行うところがタチが悪い。敵を敵と識別させないところが、女のズルさであるから男は嵌められる。天が女に与えた武器であろうが、手練れた男にはその辺りは重々承知の上だ。

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    さらには間違った知識をかざしてつまらんことをいうのも少なくない。「Beware of false knowledge; it is more dangerous than ignorance.(間違った知識には注意せよ。それは無知よりも危険である)」と、これはバーナード・ショーの言葉である。間違いを信じる奴ほど厄介な人間である。指揮者で作曲家のレナード・バーンスタインはかつて、皮肉を込めてこういった。

    「偉大なことを成し遂げるには、2つのことが必要だ。それは、計画と、あまり十分でない時間である。」

    長らくこの意味が自分には理解できなかったが、ある日その意味を説くヒントになったのが、ショーの以下の言葉。「時間が十分にあれば、すべてのことが遅かれ早かれ誰のもとにも起こりうる」。なるほど、十分な時間が誰にも公平に授けられるなら、偉大なことをやる人間とは、十分な時間を必要としない」ということだ。有り余る時間の中で、凡人は凡人を生きる。

    バースタインのもう一つのエレメント、「計画」とは指揮者ならではの楽譜に書かれた多くの注意事項や指示などのエッセンスであろう。それらもなく、その場、その時のの感性に乗じて交響曲を指揮すれば、演奏は理性的なものとはならない。バーンスタインの弟子である小澤征爾もこのように言った。「棒振りは感情的になってはダメなんだ」。彼らの仕事の意味がよく分かる。

    偉大なるピアニストがこう述べた。「我々は天才作曲家の前にひれ伏さねばならない」。これはつまり、ベートーベンやショパンの楽譜を正確に余すところなく明示することであって、凡人のつまらぬ解釈などは無用であると言っている。偉大な音楽家ほど、作曲家を天才と仰ぎ崇拝する。これは宗教信仰と似ている。人間が神を絶対的なものと仰ぐと同じ理由であろう。

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    世俗社会には人間の優劣というのは存在するが、いかに優秀と言えども選挙の洗礼を受けてこそ認められる。が、選挙で支持を得たから優秀と言うわけではない。選挙で選ばれたことで公人たる資格を得たに過ぎない。事もあろうに、何を驕り高ぶってか山尾のように、「公私のラインは引かせていただく」という発言は、いかにもヒステリー色の強いバカ発言である。

    これには山尾の地元後援会調ですら、「公私の線なんて自分の気持ちで引いただけであって、世の中に対して引いたことにはならない。もっと極端に言うとすべてが公」と指摘した。選挙で選ばれた人間を、「公人」というその意味すら分からない山尾のバカ加減を伝えている。「物言えば唇寒し秋の空」というが、時節は晩秋。山尾議員には再度ショーの言葉を贈る。

    Beware of false knowledge; it is more dangerous than ignorance.(間違った知識には注意せよ。それは無知よりも危険である)。」


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  • 11/10/17--15:22: 土ふまずで土を踏む
  • 石畳の歩道ばかりを歩いていると、雑草繁る側道に出くわせば土の心地よさを体感する。伸びた雑草ものともせず、踏みつけながら歩いていたはいいが、ふと目を下にやると、なんとなんと、ひっつきもっつき(方言?)が膝から下にこびりついて密集状態。何かの種子であろうが、人に運ばせようとの魂胆で、その数や数百はあろう。で、こまめに採るのに1時間程度かかった。

    今に言われたことではないが、子どもたちが外で遊ばなくなった。田んぼや野山の広大な自然の中で日が暮れるまで遊んだ少年時代を思えば、今の子どもたちは自然との共生が少ない。都会の子どもに限らず、目の前に田んぼや小川もあり、家の裏山には竹林という自然に恵まれた田舎の子どもたちさえ野山で遊ばない。時代とともに遊びの質が変わってしまった。

    こんにちの遊びの主流が携帯やゲームであるのなら、今の子どもたちには遊ぶ技術の伝承というものはなくなっている。「遊びの伝承」とは、近所の原っぱに子どもの集団がいた時代にあって、そこでは大きい子から小さい子へと遊びの技術が伝承されていった。自然の中で遊ぶことで得るものは多かった。自然と自分との一体感を意識することもなく感じとって遊んでいた。

    自然相手の中では一瞬一瞬の判断が求められ、失敗すると手厳しい罰が待っているどころか、ちょっと間違えば命の危険もあって、瞬時の知恵が常に求められていた。野山や川辺や海で遊ぶことは知恵の鍛錬につながったともいえる。夏になると子どもたちの水の事故を耳にするとき、昔と今の子どもには自然という場における、空間認識能力に違いがあるのでは?

    と思ってしまう。空間認識能力とは、「物体の位置・方向・姿勢・大きさ・形状・間隔など、物体が三次元空間に占めている状態や関係を、すばやく正確に把握、認識する能力のこと」とある。空間認識能力はまた、視覚・聴覚などの協力で成立し、主に右脳によってコントロールされる。空間把握能力ともいい、この能力が高い人はIQも高い傾向にあるという。

    つまり、ものごとの全体像をぱっと把握し、本質を見抜くことに長けているからであろう。一般的に男性のほうが空間把握能力が高いといわれ、女性に多い方向音痴は空間把握能力が低いことで起こる。何でもない川や池や海、ハゲ山の斜面といったところの危険度レベルを、瞬時に判断するのも空間認識能力であり、リーダーたるガキ大将には必須の条件だった。

    今の子どもたちの遊びの空間が屋内でゲームということなら、彼らに空間認識能力が育たないのはむしろ当然である。リーダーシップを発揮する点において、空間認識能力は必須要件となるが、近年の子どもたちはそれらを身につける手段を失っている。日常の何気ない遊びの中から自然に身につくものだが、今どきの子どもはこれらを遊びの中から身につけられない。

    どう転んでも今の子が自然の中で集団遊びをする機会はないだろう。人は子ども時代、青春時代にそれぞれ学ぶことはが、一つだけ、あらゆる人に共通するのは、「自分に対する自信」を学ぶことだろう。今の子どもたちもおそらく何かの形でそれを学んでいるハズだが、そうした自信というのは、ここぞという勝負どころで、自らの力を発揮できることでもある。

    そのためには、その人がこれまでに自分のありったけのエネルギーを、ぶつけたことがあったかどうかにかかってくる。たとえその時、それが失敗だったとしても、「自分は思い切りやったのだ」という心の充実感はいつまでも残るだろう。その経験さえあれば、ベストを尽くすことができる。人はいきなり大きなことはできない。まずは小さなことから始めるといい。

    高校の古文で習った、「先ず隗より始めよ」のそれである。二つの意味があり、①大事を始めるならその前に小さきことから始める。②事を始めるなら自ら率先してやる。故事にはよいもの、身につまされるものなどが多くあるが、嫌いな故事も少なくない。嫌いな故事の代表は、「苦しい時の神頼み」という奴。気持ちは分かるが、ムシが良すぎないか?という点に於いて嫌い。

    そこらの愚者の願いを神が聞くはずもなかろうという現実思考もあるが、「神頼みをしない」というのは、無神論者としての自身の矜持でもある。たまに電車やバスで遠出をするが、目の前に入る光景にうんざりさせられるのは、多くの日本人がスマホ中毒であることだ。好きでそれをやっている人に、何もうんざりすることも無かろうが、理由はともかくうんざりする。

    スマホや携帯のない時代もあった。そういう時代に乗客が何をしていたかと言えば、何もしていないか本を読んでいた。それが良くてスマホが悪いというのではなく、自身の偏見であったとしても、スマホのない時代の方が健全であったように思う。人が何をやろうが基本的にはお構いなしの自分であるが、5人のうち3人、4人までもがスマホをいじる光景は異常に思う。

    眼下に座していた60代とおぼしき女性は、ゲームに熱中していた。実に楽しそうに真剣であった。多くの人たちが一斉に同じことをする光景はどこか異様だ。自分の嫌悪の矛先はどうやらそこにある。日本人の付和雷同性をこれでもかと実感させられるそのさまが異様である。金次郎は薪を背負い本を読んでいたというが、昨今は歩きスマホでの衝突事故も増えている。

    アメリカハワイ州の市議会は、本年7月27日に歩きスマホを根絶する目的の条例を可決した。「Distracted Walking Law(注意散漫歩行条例)」と呼ばれるもので、これには罰金もあり、違反の回数に応じて15〜99ドル(1650円から1万円相当)が科される。電車やバスの乗客やレストランで食事客や糞を垂れる人、入浴中の湯船の中でのスマホはともかく、歩行中は止めるべきだ。

    歩きながらの読書もスマホも自然なことなのか?江戸時代に三浦梅園という思想家がいた。彼は、「自然には法則が備わっている」とし、世のすべては、「陰・陽」二つの要素が絡み合って成立していると説いた。彼は、「陰陽二気」の発想から、「自然の仕組みをどう捉えるべきか」という方法論を編み出した。この手の話をする人の多くは、梅園説を述べている。

    梅園は中国哲学の、「陰陽」を基軸にした。「明中、思い暗に致す。その暗を以て能く我の在る所の明を知る。暗中、思いを明に致す。その明を以て、能く我の在る所の暗を知る。これを反観という」。明るい所で暗闇について考えるなら、「暗闇は明るい世界の逆」と知る。その理解を元に、「明るい世界は何か」を考えるなら暗闇の逆となり、現状世界の理解に及ぶ。

    分かり易くいうなら、「無をもって有を理解する」ということになるが、梅園は、「火と水でさえ、両者は互いが互いを支えあっている」という。なぜに、「火」と、「水」が支え合っているかは普通の解釈では理解に及ばぬが、梅園は以下のような理屈を述べている。「炭を見ればよい。炭は空気が湿っているときの方が、空気が乾いているときより、長く燃え続けられる」のだと。

    確かに水に濡れた石炭は良く燃えるというが、だからといって梅園の火と水の融合は極端である。後人は梅園の思想にあきらかにタオイズムを見るが、彼は中国哲学の、「陰陽」と自説は異なると躍起になっていた。要は、「目の前の事実を深く観察することで、その反対の事象を想像せよ」というのが主旨のようだが、どう考えようと、「陰陽」は、「陰陽」である。

    「老子」第14章に、「有の以て利をなすは、無の以て用をなせばなり」とある。これは、「有」が、「有」として成り立つのは、その裏に、「無」の働きがあるからで、容器に無の空間があるからこそ、容器としての役割を果たすようにである。容器の何もないのは空っぽと我々は、「有」の価値にのみ心を奪われるが、「無」という価値にも目を向ける必要がある。

    昔ある女に、「お前が美人といわれるのは、ブスがいるおかげだぞ!」と言ったら、「美しいモノって、汚いモノがなくても美しいんじゃない?」と問い返された。「確かに…。決めつけかもしれんな」と考えを新たにしたのを覚えている。自分の言ってるのはおもしろおかしい、「比喩」であり、「美」は絶対的なものか、相対的なものかの議論はあろうはずだ。

    金閣寺の隣に汚いあばら家がなくても金閣寺は美しい。あばら家は、隣に金閣寺がなくても小汚い。「絶対美」、「相対美」についての意見は乱舞するが、どちらかに決めようとするから対立するのであって、「美」が主観である以上、いずれの場合もある得るという考え方の方が柔軟性がある。正解は一つにあらず、何事も正解を求めんとすれば無理が生じるようだ。

    生け簀の中の魚のように、がんじがらめに生きる人もいれば、広々とした世界の中で自由に生きる人もいる。善に縛られて生きる人もいれば、悪の世界でしたたかに生きる人もいる。「善・悪」というが、善も悪も幅がある。「勧善懲悪」に生きるのは窮屈すぎるし、さりとて、「善悪を超越して生きろ」と言われても簡単ではない。ある時、こんな言葉を目にした。

    ・賢者はものを扱うとき、自分の考えをしっかりと持っているが、鋭くはない。
    ・彼は純粋であるが、害を及ぼすことはない。
    ・彼は真っすぐであるが、激することはない。
    ・彼には光があるが、きらびやかではない。

    大人は子どもの全般を受け持たなければならないが、そうはいっても、子どもに自由を供与するのも大人の重要な役目である。子どもが外で遊ばなくなったなら、子どもは家の中にいることが多く、ともあれ専業主婦が子どもに過保護になり易いという弊害が生まれるが、子どもが外に出ない時代は、逆に母親が外に働きに出るということでバランスが取れているかなと。


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    ウォーキングやランニングにシューズが重要なのは言うまでもないが、ウォーキングとランニングのシューズは微妙に異なるらしい。理由は、足の接地から蹴り出しまでの体重移動に違いがあるからだで、一般的にランニングは、踵の外側から接地し親指の付け根へと体重移動するが、ウォーキングの場合、踵から爪先まで足の中心部を真っ直ぐ体重移動をすることになる。

    したがってウォーキングシューズは、体重移動をスムーズに導く独創的なアウトソール構造を採用することで、自然で心地よい歩きをサポートするというのが、ニューバランス社の考えのようだ。「ウォーキングシューズなんて、ランニングシューズと一緒だろ?」という人もいるだろうが、運動強度が別ものである以上、用途にあった靴選びをするのが理に適っている。

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    ニューバランス社は、「ウォーキングストライクパス」という、独自の運動生理学に基づいた体重移動の軌跡を解析して開発されたアウトソール構造を採用している。ニューバランス社のシューズは、足の解剖学的な知識うや整形外科や運動生理学への深い理解から製作された矯正靴ということもあって評判がいいが、何度も試着をしてみたが、どうも自分には合わないようだ。

    自分の足に合わない靴は履かない。ウォーキングとランニングに上記の違いはあれども理論よりも実際ということで、履き心地の点から現在はアディダスが気に入っている。ちなみにアディダス社にはランニングシューズはあっても、ウォーキングシューズというのはないが、歩行時に最も体重のかかる踵の骨の負担が大きくなってしまうので、クッション性は大事である。

    クッション性といってもあまりに靴底がクッション良すぎてふわふわだと、足が不安定になって転びそうになるなど、柔らかすぎる靴底は沈み込みすぎるために逆に余計な負担をかける。そこで選ぶ基準でいうなら、踵部のクッションが内側に行くにつれて柔らかくなっているかどうかで、こうすることで余分な沈み込みを防ぎ、足への負担を軽減できるようになっている。

    ニューバランス、MIZUNO、asicsにはウォーキングシューズという名のシューズはあるが、アディダス、ナイキはランニングシューズのみ。そうはいってもアウトソールやヒールカウンターなどは、それなりに考えられているし、自分はウォーキング中であれ、軽いランニングもするので拘りがない。足の負担を抑えられて故障もせずに楽しくやるのがなによりであろう。

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    以前はナイキのスニーカーの美観に憧れがあった。普通に履くタイプでウォーキング用ではないが、歩くようになって、ウォーキングシューズを買うようになったのは当然だろうが、ふと自分はシューズマニアか?との疑問を持ったが、履くだけの靴を集めて眺めて自己満足というならマニアかも知れぬが、少なくとも自分はシューズマニアではないなと自覚している。

    それにしても買う量が半端でなく、ラフな服装を好むスニーカータイプ(含ランニングシューズ)は現在57足となっている。置き場所がないので室内に40足用のシューズボックスを置いている。洋服も多く、マンションに備え付けのクローゼットでは足りず、6畳一部屋全体をクローゼットとし、シューズボックスも置いている。使用していない空き部屋なので、衣裳部屋のようなもの。

    アディダスのランニングシューズを履くようになってからというもの、足裏筋膜炎が防止できている感じがする。7月31日の記事でアディダスのクッション性の良さを披露したが、最近新たに4足のシューズを購入した。改めてシューズマニアではないし、日課としてのウォーキングに対する意識の高さが靴を購入させるようだ。意識の高さ=楽しみの増大ということになる。

    あることを楽しくするためには、あることに対する意識を高めて行けばいいわけだ。楽しいに勝るものはなく、シューズ選びもまた楽しということか。世の中にはそれこそ本当に、様々な人がいるもので、自分のウウォーキングコースに238段の階段がある。そこが関門ということもないが、超えると気持ち的に一段落する。ところが毎週土曜日朝、そこに通い詰める人がいる。

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    62歳の男性で、彼は238段の階段を10往復すると決めているという。ノートを持参して、「正」の字を几帳面につけて、なおかつ1時間以内という目標を掲げている。初めてそのことを聞いた自分は、「この階段を10往復ですか?」と驚いて問うた。そのバイタリティと情熱たるや凄まじい。「毎週土曜日は欠かしません。一回空けるとちょっとしんどいし苦しいので…」

    どういう経緯でここを10往復することになったのかを聞いたところ、心筋梗塞で病院に運ばれて、運よく死なないで生還できたということだった。「テレビか何かで観たんですか?」と聞いたところ、「そうそう、『ためしてガッテン!』を観てから奮起して始めたんです」という。その番組のタイトルは「目指せ強い心臓!」といい、たまたま自分分も観たので納得した。

    50代後半と60代前半に二度にわたる心筋梗塞から生還した主人公の男性の心臓をみた国立循環器病センター研究所臨床研究部長の北風氏は、「二度の心筋梗塞から生還したにも関わらず、心臓の機能が落ちていない。まさにスーパーマン化した心臓の持ち主です」という。心筋梗塞は心臓に酸素を送る血管がつまって、心筋が低酸素状態になって壊死するという症状である。

    が、スーパー心臓と言われるF氏は、心臓の太い血管がつまり、救急車で搬送されて緊急手術で幸いにも生還したという。医師も驚くF氏のスーパー心臓は、あるきっかけがあってそのような低酸素状態に耐える心臓になったという。それは何か?実はF氏の心臓の細胞内のミトコンドリアは、量も増えて活性化していたという。それが低酸素状態でも細胞が壊死しなかった。

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    ではなぜF氏のミトコンドリアは、低酸素状態でも効率よく長い時間動き続けるスーパーになったのか?F氏は心筋梗塞が起こる少し前に胸の発作があったというが、これは心筋梗塞の前の狭心症という状態である。つまり、突然心筋梗塞になるより、少し前に狭心症の発作を起こした場合の方が、心筋梗塞の治りが良いというデータが医師側に把握されているという。

    これを数値的なデータでみると、心筋梗塞で入院した患者の死亡率は、事前に狭心症の発作ナシの患者で14%、狭心症発作アリの患者で6%となっている。これは明らかに何らかの理由があるとされ、研究の結果、「酸欠状態に陥った心臓では、一時的にミトコンドリアがパワーアップされて頑張ったり、血管のう回路などで生き延びる力が上昇することが分かった。

    年齢とともに数も減っていくミトコンドリアを活性化するための心臓をどうすれば得ることができるか?というのが番組のテーマであった。方法としての秘策は、やはり運動で心臓を強化することである。ミトコンドリアは細胞内に存在するが、1つの細胞に数百から3000個あると言われ、数百と3000の数の違いは大きい。多い人はスタミナがある元気な人ということになる。

    ミトコンドリアは食事から得た糖質・脂肪などの栄養素、呼吸によって取り入れた酸素を合成して「ATP」というを生成する。ATPはすべての活動のエネルギーになるもので、一日にミトコンドリアが作るATPはなんと50kgといわれる。自分の体重なみの重さに驚くしかないが、体重には換算されないほどドンドン消費されているので体感はできないというが、体感できたら大変だ。

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    番組によるとミトコンドリアを増やすにはただ運動すればよいというのではなく、ミトコンドリアを増やすスイッチを作動させるとし、そのスイッチとは、「ちょっと身体に負荷をかける」ことだという。実例としては、「インターバル速歩」で、3分間普通に歩いて3分間早歩きという方法だ。後は階段を上るとか、姿勢を正すだけでもミトコンドリアは増えるという。

    その理由として、姿勢を保つ筋肉、いわゆる姿勢筋にはミトコンドリアが多くいるからだそうで、その筋肉に力が入っている状態を保っていれば自然とミトコンドリアが増えるのだという。背筋をピーンと1分以上保っていれば増えるということのようだが、そりゃ~早歩きの方が増えるだろうが、大事なのは上記したように、運動強度ではなくスイッチを入れる回数である。

    さらには食事でミトコンドリアを増やせることもできる。といっても、肉やニンニクなどのスタミナ食ではなくて、「カロリー制限」によってミトコンドリアが増えるというのだ。カロリーを抑えた食事を摂ると、細胞内の長寿遺伝子にスイッチが入り、それでミトコンドリアが増える。つまり、カロリーが足りないとエネルギーが足りないと感じて、分裂を始めるという。

    上記したインターバル歩行と理屈は同じで、これによってミトコンドリアはエネルギーが足りなくなってきたぞと感じて増やすためのスイッチが入る。歩くことは良いとはいえ、普通に楽なペースでいくら歩いても血圧も下がらず、スタミナ(持久力)も増えない。早歩きをしなければ効果は上がらない。つまり、ミトコンドリアは危機時に増えるという性質を頭に入れておく。

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    早歩きでエネルギー不足にし、カロリー制限でエネルギー不足にするというが、疑問として、ミトコンドリアは糖や脂肪を栄養源としているのに、カロリー制限だと逆にミトコンドリアが減ってしまうのではないか?と思ってしまうが、制限食でも活動に十分な栄養を得ているので心配はない。ただし、制限すれば増えるわけではないので、極端なダイエットは禁物という。


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    有酸素運動の利点とされるものにはさまざまあるが、②心肺機能を高める、③減少しやすい足腰などの筋肉を維持、④健康維持や美容、ダイエットなど得られる効果が幅広いなどがあげられるが、何といっても、①脳を鍛えるということではないか。終わった後の気持ちのよい爽快感も、脳に質の良い酸素が沢山取り入れられたからだが、欠点というものもそれなりにある。

    ウォーキングについて欠点をいえば、①雨天など天候の影響を受けやすい、②他の運動に比べてダイエット効果は弱い、③習慣になるまで、それなりにハードルがあるなども言われていることだ。確かにウォーキングは、スポーツジムに比べてお金はかからないし、ジョギングほど激しい運動ではなく、中高年諸氏においてもそれだけ取り組みやすい運動といえる。

    したがって現実的な利点と言えば、時間も場所も選ばない、お金がかからない、体への負担が少ない、年齢や性別に関係なくできる、簡単にできるなど、わざわざお金を払って決まった時間に特別な技術を使わないとできない運動とウォーキングは違、その気にさえなれば通勤や買物の途中でもやれるという特徴がある。かと言って全くお金がかからない訳でもない。

    「水と空気はタダ」という比喩的理解に対して昔友人が、「水道代がかかるじゃないか」と絡んできた。「公園の水はタダだろ?川で洗濯するのもタダ」というと、「いちいち公園で水を汲んで生活するのか?」という。彼の言い分は合理の問題であって理屈である。乞食や浮浪者はタダで水にありつけ、「汲みに行くのが面倒くさい」は、タダの打ち消しでない。


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    宮本輝の『泥の河』では、母子3人河を往来する船上生活を描いているが、学校に通わない小学生の姉弟は、公園で水を汲んで船に持ち帰るのが日課だった。母は船内で売春を営むも、時代設定は昭和31年であって、2年後に施行される、「売春禁止条例」前のお話。その後の母子はどうなったのか、気になるところだが、穴のあいた靴にツギハギズボンの男の子が印象深い。

    そうした貧困家庭であるが、物語に出てくる庶民は善意に満ち、ガサツでもなく強引さもない。みんなが貧乏だった時代には、誰もが素直で上品な思いやりを寄せ合って生きていた。どういう境遇にあれ、どういう心を人が抱いているかを見せつけられる。小栗康平の監督で映画にもなり、作品を観たスピルバーグ監督が、「子役に対する演出が素晴しい」と絶賛したという。

    自分が心を打たれた数本中の1作品である。父親役の田村高廣は実父を彷彿させられるシーンがいくつもあり、最後の場面で信雄の心情に思いを馳せる父の表情が印象的だ。息子の内面を探らんと、心の糸を手繰り寄せる場面に心を奪われる。主人公の子たちは、演技とは思えぬ言葉や目線や心の動きはまさに映画の奇跡であり、「これが作り物なのか」である。

    ラスト、信雄たちから去って行く船がすべての窓を閉め切って、あたかも無人船がごとく無機的造形物として河を上る。その船を一心不乱に追いかける信雄と、そして彼と喜一たちのつかの間の出会いと別れの、何とも切なくいたたまれない情景である。『E.T.』のプロモーションで来日したスピルバーグが、監督の小栗に直接面会に行ったと云うのも分かる気がする。


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    「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思い込んでいる」とは、イザヤ・ベンダサンこと山本七平の著書『日本人とユダヤ人』のなかの言葉。ここに空気はないが、空気は元々あるものであり、空気があるからこそ人間が発生したわけであるがゆえにこれはもう、「タダ」以前の問題である。斯くの自分は水道料金を払いながら、10年以上ミネラルウォーターを愛飲する。

    ミネラルウォーターを飲む理由はいろいろあるが、とっかかりはマンションの水道水を飲むことの抵抗だったが、10年も経てば、「特に理由はない」に近い。健康にいいなどの意識も希薄で、それでも水を買うのは健康への潜在意識だろう。検査基準の厳しい日本の水道水からピロリ菌感染はないと思うが、今のミネラルウォーターの値段なら、まあタダも同然かなと…。

    上流気分はないから、小市民のささやかな自己満足。こういう話を読んだ。「大手出版社の社長I氏は、郊外の邸宅を息子に譲り、老夫人と二人で神田の社屋の三階で起居をすることにした。送られた案内状には、「"千畳敷も寝るは一畳"という江戸庶民の気概をもって…」と書かれていた。創業時と同じ自社の狭い一室で生活し、働きつつ老後を送る旨、記されていた。

    同時にI氏は自社を三分割し、自らは年齢に応じた道楽的小部門をとり、利潤は少ないが自分の趣味と体力・気力の相応する仕事を自らに割り当てた。何とも見事な老後処理であろう。隠居して仕事から離れれば老い込む、かといって大手出版社を経営する体力も気力ももはやない。広すぎる家も老人には維持も面倒で余計な労力がいる。たとえ車と言えども通勤も重荷だ。

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    等々の問題をI氏は一挙に処理・解決したのである。そのI氏は知人に対し、「特別老後を考えたわけではない」とし、本音を次のように語った。「ある晩、ふと人間の生活に本当に必要なものはどれだけあろうかと考えた。老夫婦の生活スペースはホテルの一室に台所で十分、着るものは夏冬用が各2着、靴は2足十分足りる。外出は無線でタクシーを呼べば自家用車はいらない。

    結局、それ以上は何もいらず、それ以外のものは一切不要であることに気づいた。広大な邸宅に住まおうが、何十着の服を持とうが、運転手付きのベンツに乗ろうが、結果的に同じこと。ならばなぜ、こんな繁雑なことをし、その繁雑さを支えるために働いているのか、問えば問うほど訳が分からない」という事態に思考が至ったというのだ。斎藤茂太も同じことを述べている。

    茂太の父はあの斎藤茂吉である。精神科医にして歌人、伊藤佐千夫門下である父を受け継いでは茂太も精神科医にして随筆家であり、北杜夫は弟にあたる。茂太にはたくさんのエッセイ本があり、大体において同じ理念に連なっている。それはそうだ、一人の人間の理念などは変わるものではないとしつつ、そろそろ自分にも理念らしきものが備わって行く年齢であろう。

    「平凡こそが尊い」という茂太の言葉を実践すれば、無駄を省きつつと思いながらも、どれが無駄でどれが無駄でないか、どういう行いがバカげていて、どういう行いがそうではないのか、現段階ではまだまだ見定めつかず。先日、トレーニング兼用の服を買った。娘が、「それいいね、8000円はしたでしょ」というので、「その3倍」というと、「たっか~~」と呆れていた。

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    その表情を見ながら、「なんとまあ、自分はバカなお金を使ったのかもしれない」と考えさせられた。8000円には(そんなんで買えるわけないだろと)ビックリしたが、25000円にはあちらもビックリである。人間のこのビックリの相対性が面白い。その服を買う前に先にシューズを買い、たまたまそのシューズに合う服を見つけたことで、「これはいい」と迷うことなく即買いした。

    少し前は高価な駒を買ったが、折角買ったのにと躊躇いながらその駒で人と指したとき、盤も駒もいっぱいあるけど、死んだらどうなるんだろ?」と、他人の死後の心配までしてくれたので、「死んだ後の事は考えられんし、わっしゃ知らん」と言っておいた。余分な服を持つと洋服ダンスが必要になる。靴も50足を超えれば下駄箱では足りず、新たに購入して部屋に置く。

    履いていない靴は多く、機会も少ない。それ以前に、常時履く靴などせいぜい5足程度。こういう風に物は増えて行くのだ。結局お金の使い道がないから、広大な土地を購入し、大邸宅を建てるようなもので、家や土地の大部分のスペースも、ほとんど使わないままで人生を終える。あれがいるからこれもいるという図式なわけで、これを逆を考えてみるとどうなるか。

    「これもいらない。だからあれもいらない」となる。合理的だし、考え方の基本として優れている。ではなぜ、人は(無駄?)なお金を使うのだろうか?「無駄と思っていないから?」これは自身の欲望を満たすことだからそう思う。あるいは、「無駄と思いつつ使ってしまう」と、稼いだ金は自らが使おうという考え方にあって、女房、子どもに残すものではないというもの。

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    どちらも、「快楽主義」思想であろう。自分を利するという意味で…。ストイックの目的は何だ?ストイックに生きる目的や意味は何であろうか?ストイシズム(ストイックともいう)とは、実践道徳において、喜悦や悲哀の感情を圧伏し、平静に無関心な態度で運命を甘受する人世観をいう。が、禁欲主義は人間に別なる、「生」の意味をもたらすのであろう。

    決して道徳的でない自分に、「禁欲主義」的理想はよく分からない。シェークスピアの劇に以下の一節がある。「ただ、ねえ、旦那さま、その、美徳とか、道徳の修行とかいうことは結構とは存じますが、どうか、ま、ストイックだの、丸太棒(ストツク)だのには成りたくないものでございます」と、これは明らかにストア学派の、「無感情」を皮肉ったものである。


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