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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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  • 08/08/17--16:10: 自己変革は「可」

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    先に書いたことだが、自分の人生の最大の転機は中学1年の時、何気にMに突き付けられた一言だった。それまで自分という人間を客観的に見たことなどなかったが、彼の発した一言で自分がどういう人間であるかを知らされた。刃を突き付けられるほどにショックだったが、もしあの時、Mを蔑み、見下げていたなら、今の自分はない。批判を素直に受け入れる柔軟さが幸いした。

    それまで誰も言わなかったことをMが言えたのは、彼がクラス一の劣等生だったからと思う。テストはいつも0点で、それを恥じることもなく当たり前のように受け取っていたし、周囲も当たり前だと思っていた。あれくらいにバカを誇らしく思える彼には怖いものはなかったろう。だから、思ったこと感じたことを平気で口に出せる。自分への言葉もまさにそうだった。

    0点取るからバカというより、バカだから0点を取る。『さびしんぼう』という映画の、「0点おテル」を思い出す。樹木希林扮する母親テルエは、娘役の小林聡美に、「お母さんはいつもクラスで一番」と嘘をついていた。それがある日、テルエの級友藤田弓子の高校生時代の妖精(さびしんぼう)に、「0点おテル」であったのをバラされる。(下の映像57分あたりからオモシロイ)


    自分が自慢好き人間になったのは、おそらく母親の影響だろう。母は近所の親に通知表や自分がもらった賞状をわざわざ見せまくる人だった。子を自慢するのは親の特権だろうし、周囲は「親バカ」と許容する。自慢をされた側の腹の中はともかく、自慢する親を子を称えるのが、近所付き合いというものだった。今からすれば何とも素朴な時代であった。

    今でも子ども自慢する親に笑顔で対応するママ友はいるが、本心は穏やかではなかろう。「自分の子を自慢して何が悪い?」という親がいた。「悪くない」と思うからするのだろうが、自分の「善い」、「悪い」は自分のものだから他人に遠慮する必要はない。それでも自慢を控えるのは、自分のいい気持が他人のいい気持でないことを悟っているからだろう。

    「自慢」は絶対悪ではないが、社会生活の中で他人から嫌悪されるのは、世知辛い世の中であるからだ。親の子ども自慢を自分は「悪」とするのは、そのことで子どもが鼻持ちならぬ性格になり易いのを体験したからである。すべての子どもがそうとは思わないが、やはり親の影響は大きい。明晰な親というのは、子どもがする自慢を戒めるそんな親だと思っている。

    Mのこともあって自慢を悪とし、自慢を戒める自分への自己変革を試みた。そうした中で他人の自慢を嫌悪したのは言うまでもない。もし、お酒を止めようと思うなら、他人の酒好きを嫌悪するのが効果が高まるように…。過渡期には他人の自慢を批判する苦々しい自分だった。自己変革のためとはいえ、やりすぎの点はあった。当時は他人の価値観を認めない嫌な自分だった。

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    自慢を嫌悪し、排除することを誓った以降、自慢がなぜに悪いかを徹底的に洗い出し、戒めとして幾度も日記に書いた。自分を変えるということは極端に徹底してやらないとできないだろう。自分の何かを変えるためには、その何かが身についた年数だけかかるといわれている。それくらい至難な道であり、自慢の権化ともいうべき母親への毛嫌い感が当然にして増した。

    「ローマは一日にして成らず」というが、言語障害を直した友人がいた。自助努力は無理と悟った彼は、「話し方教室」というところに通ったと聞いたが、その発想も凄いと自分は思った。自分のハンデを克服した人間は、かつてのハンデが嘘だったかの如く新たな力を身につけるという。彼も言語障害が嘘のように、素晴らしい営業マンに登りつめたのは驚きである。

    努力という言葉は、真に努力をする人にとっては努力とならない。後年になって、「努力した」というのは、相手が理解しやすい言葉に過ぎず、実際に行っている最中には、努力なんて思ってやしない。適切な言葉を借りるなら、何かを変えるためにひたむきになっているだけであろう。ところで、自己変革は可能か?「難しい」が一般的だが、叶えた人間には可能と映る。

    ただし、生半可では無理、鬼神の如く徹底しなければ叶わない。人の今現在は、過去の積み重ねだろうが、過去を否定し、過去に決別した「今」を持つ人もいる。だからといって、過去の全てが決別できるなどはないが、人は自分がなろうとした自分になれるのは、多くのアスリートたちに見られる。また芸術家などの技能を有する人も、なるための研鑽を積んだ。

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    何かになろうとしてなれなかった人も沢山いる。運という要素もあろうが、何かになるんだと決して諦めず、思い続けた人の強さでもある。「夢は叶う。思い続けることで」という言葉は本当であろう。「自分を信じれば思いは叶う」という言葉も真実であろう。一日たりとも絶やさぬ思いは、まさに奇跡というしかない。思い続けて叶えた人がいる限り、「夢は叶う」の疑いはない。

    自分の生きる世について、うごめく人間について、経験も踏まえ、思考や想像も加えててあれこれ考えるのは楽しい。この世や人間について理解をしようと思うことが楽しい。理解してしまったら楽しさなんかないだろう。あれこれ推理し、洞察するから面白いのだ。哲学者がそれを止められなかったように、これでもか、と思索する一生だったのではないかと…。

    ある人がいる。彼がどのような身体的特徴を持っているか、あるいはどんな性格の人間か、また社会的にどのような役割を果たしているのか…、などの問題に答えるためには、いろいろな観察や調査が必要であり、すぐには答えられず、多くの困難を要するが、答えをどういうやり方で求めたらいいか、ということについての幾つかの方向なら最初から明らかである。

    別の言い方をするなら、問い方それ自身のなかに、答えを求めるべき方向がすでに与えられている。しかし、同じ人間について、「彼をよりよく指導していくということは、どういうことか」と尋ねられたなら、我々は一般的な定義の形でこれに答えることはできない。この場合の困難は、観察したり調査したりに時間を要する、他にも障害があるという意味の困難ではない。

    イメージ 4一体何を観察し、何を調査したらいいのかが明確でないという困難さである。言い換えれば、答えが予想されるような明確な方向が、問いそれ自身の中に示されていないことほど困難はない。他人のブログでいきなり脅したりすかしたりの人間の性格は、パターン化されているから想像は可能だが、彼にそのようなことを止めさせるための進言なり方法は至難であろう。

    何を提示しても聞かなければ意味がない。もっとも人間関係にもいろいろあるから、自発的な信頼を旨とする人間関係を理想とするなら、そうした関係ははどうすれば構築されるだろうか?「信頼」というキーワードについて大事にすべき点は、互いが多くを語らず、言葉を修飾したり躍らせることなく、しかと沈黙を大切にし、つぶさに相手を見つめ、深く相手について考える事ではないか。

    己の経験則を前提に、そういう関係を望むならば、人はしかと相手を見つめ、言葉少なく、自分と相手が自然に溶け合うプロセスの中に、「真生」なるものが生まれ出づる。人と人の良性は、黙すことの大切さ、思考することの大切さであるが、互いが邪悪な言葉によって虚飾に彩られていくプロセスを幾度か経験した。そうした人間関係にはどんでん返しもある。

    沈黙はな~んも怖れることはない。何かを発していなければ途絶える関係はその程度のもので、沈黙で結ばれる人間関係こそ、美徳と言わないまでも真正である。「黙っていては何も伝わらないのでは…?」という懸念もあるが、昔の人は、「以心伝心」を大事にした。言葉を有する人間が言葉を使わないのは、「言葉は心を隠すために与えられた」という逆の発想から追尾できる。

    いかに言葉を駆使しようと、真実だけを語り合うのは難しい。人間は誰も醜いものをことさらに突き出して生きて行くほど強靭な神経はない。我々が行っているのは、醜いものを自らにも隠して生きて行くこと。整理していえば、今我々が、他者との真正なる関係を求め結ぼうとするなら、自身の内にある好ましからざるものを、互いが突き出すことによってなし得る。

    自分が真の自分に近づこうとする過程のなかで、互いの関係も変わっていく。関係が変わることでさらには自分も変わっていく。深遠な相手といることで、人は深遠になる。軽い相手と居れば軽薄になろう。女性が恋人に求める性格では、「ノリの良さ」が、「まじめ」を圧倒するが、誠実よりは楽しさ重視のようだ。楽しいだけを望むなら、楽しくない時はどうなる?

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    人と人などは言葉があればどのようにでもやれようし、コミュニケーションとしての言葉は便利でこの上ない。が、もしも言葉を発しないで友好な関係を結ぶとなるとこれは難しい。難しいができないことはない。何が嘘で、何が本当か分からない世の中で、相手の発する言葉すべてが本当であるのが、「信頼」である。ならば、ノリの良い会話がもたらすものは信頼か?

    信頼関係を作るためには相手にすり寄らないのがいい。すり寄ってこない人間を嫌う相手なら、むしろその方が自分のためといえる。「女性は男の一方的な評価に甘んじるべきでない」と言った紫式部は、道長に「すきもの(チャーミングの意)」といわれ、「私はこれまで男になびいたことはないのに、誰がすきものなどと言いふらしのです?まことに心外です」。と返している。


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    人間は、隠匿している本心をつかれると微妙に反応するもので、つまり、それが虚栄心や自尊心が見透かされた時の反応である。『イワンのバカ』という面白い話がある。読んだ人もいようが、読んで忘れた人もいよう。中身は忘れても要旨を理解してる人もいよう。童話や寓話は細々した内容より大意が大事で、『舌きりスズメ』しかり、『桃太郎』しかり…

    『傘地蔵』、『浦島太郎』、『こぶとり爺さん』などが、西洋では、『マッチ売りの少女』、『赤頭巾』など、面白い話は山ほどある。少し年代が上がれば、ディケンズやフォークナーもいい、オーヘンリーの、『最後の一葉』などは不滅の短編名作である。『ああ、無情』や、『罪と罰』、『戦争と平和』といった長編は、中高生のときに逃すと読む時間が得られない。

    思春期には、「本を捨てて街へ出よう」となってしまいがちになる。もっとも、自分の場合であるが…。さて、『イワンのバカ』についてトルストイは、田舎人のイワンを通して、都会人的虚飾や、富や肩書き、頭の良さや学者であるという、うぬぼれを否定し、素朴で勤勉で、実直な農民で馬鹿のイワンこそ、人間として素晴らしいということを語ろうとした。

    もっとも現代的な視点で、考えれば『イワンのバカ』(1885年)にも問題はあろう。「金持ち」、「利口」、「有能」より、「嘘のつけない正直で素朴で心の温かい働き者」のほうが偉い、尊いと、トルストイの思惑どおり読んでいいのかという懸念はある。確かに実社会では後者は前者に負け、世の中で人の上にたって、世界を動かしているのは前者であるからだ。

    人間の本質についてニーチェは、「人々が神を信じ神を崇めるのは、人々が強者への怨念を隠し持ち、それを晴らしてくれる超越存在を欲しているからだ」という。そのことが、「強者は悪で、弱者は善という『子羊の思想』を生む」と解釈した。「真理」とは?「虚偽」とは?多くの寓話は虚偽、真理ではないという考えに立てば、『イワンのバカ』も虚偽である。

    寓話の凄さは、日常的人間の視点を180度転換しょうとする。通常、人間が宇宙を観照する場合、その広大無辺さ、底知れず偉大な秩序に感嘆し、我を忘れる。しかし、それは人間が自分の日常の在り方から宇宙を考察すればこそであって、あくまで日常的な「生と認識」が基準となっており、宇宙全体の進行からするなら、「認識」などは、なんら必然性をもたない。

    ばかりか、「真理」を無条件的に求める場合には、認識主体の生命すら危険にさらされかねない。とするなら、一体なんのために、「認識」というものは存在するのか?ニーチェが、『道徳外の意味における真理と虚偽』のなかで、「真偽」で設定したのはこの問題である。彼のいう「道徳外」とは何?そしてわざわざ、「道徳外」という設定を何故に必要としたのか?

    「真理と虚偽」は通常、道徳内の視点から見られているとニーチェは考え、「善悪」もまた道徳的観点から判断されるなら、「真と善」、「偽と悪」との癒着を打ち破り、真と偽を善悪とかかわりのないところで考察しようとした。であるなら、善悪という道徳的合意から引き剥がされた真と偽、それらは一体は何と結び合わされることになるのだろうか。

    ニーチェの命題を思考すると頭がおかしくなる。思考はマスターベーションであるが、マスターベーション的放出で終わってはダメだ。「人間の知性など存在していなかったような永遠というものが、これまですでにあったのである。そしてまた人間の知性が消滅してしまえば、何事も生起しなかったのと同じことになるであろう」。こういう言葉の前に挫折をする。

    ネットで人の悪口を言うのも気晴らしだが、暴言を吐いて人を脅すような人も程度は同じ。しつこい人間が大人になりそこなった人であるように、ネットで暴言を吐く人が「おこちゃま」といわれるのも、未熟さを揶揄するものだ。人間は社会に出て他人の痛みを知るなど、人間関係を構築するうえで、さまざまな体験をしながらだんだんと大人になって行く。

    そうであるのに人に暴言を吐くような他人を平気で傷つけようなどする人間は、そうした経験の少ない未熟な人間もしくは、やり場のないストレスに侵されている場合もある。あるいは自分の素性を知られていないことから、なりたい人格を演じられる。インターネット初期には、いわゆるネットオタクといわれる人間が、蓑を被って別人格になりきる者が多かった。

    自分も当初、実社会では考えられないような、初対面の相手に対する接し方や言葉遣いにかなり違和感を抱いて、マジに腹を立てたり言い合いもしたが、あるメールを機にネット内にたむろする人間の本性を告白され、納得させられたことがあった。去りゆく人間の決別の言葉であり、「ネットの多くは自己を誇大に膨らませた小心者と留め置かれた方がいいと思います。」

    そういう告白と忠告であった。当時はインターネットやパソコンに長じた人間の多くは、実社会とはつながりの希薄ないわゆるオタク人間が多かったのだろう。現実もネットも同じ人間と思い込んでいた自分は、そうした脆弱なオタク気質らが、架空の人格を作り上げていたことに驚かされた。しかし、そうせざるを得ない理由も告白者の話を聞き、理解するに至った。

    実社会では上手く立ち回れない弱者が、ネットという秘匿性の高い世界の中で、理想像に自分を演じるのは、昨今の真面目で大人しく人見知りの少女が、ネットで異性関係を求め、はたまた中年男の優しさに魅かれて行くのと同じ構造である。その意味において、インターネットというのは実社会と同じ一つの社会であり、ネット社会で自分の居場所を見つける人もいる。

    ネット社会を別の一つの社会として構築するという考えは、自分には全くないし、その必要性も感じない。つまり、ネットの自分も実社会の自分も全く同じ自分である。ネットだから少し、いいオヤジぶってというのもないし、むしろネットと現実の自分を違うように取られるのは違和感がある。自分のネットの利用は、実社会の延長で、実社会で言えることをネットでいう。

    反対にネットで言えることはそのまま実社会で言える。ところが、ネットでは別の自分でありたい人の気持ちもよく分かる。おそらく、実社会では不足や不満があるのだろう。インターネット創世期には、よく言い合いをした。喧嘩腰になる事もあった。ところが、ネット内の言い合いや喧嘩ほどバカげたことはない。罵詈雑言の羅列は何の意味ももたない、それが分かった。

    相手の電話番号を聞いて遣り合ったこともあるが、それすらバカげていた。ネットでの喧嘩は売ろうが売られようが、だからといってどうにもならないということ。他人の言い合いや喧嘩も見るが、だいたいにおいて会話になっていない。そもそも怒りや憤懣を文字にすることで萎えてしまう。「ネット上では議論にさえならない」と高名な論客がいうが、その通りだろう。

    もっともな理由は匿名性にある。それが、「大人げない」言い合いとなり、固定ハンドル活動している場合であっても、社会生活とは切り離されたキャラとして、自由に言い合えるなら、まさにやりたい放題になってしまう。それを凝縮すれば、ネットなんてのは、所詮は言いたいことを言うだけの場でしかないってのが正論であろう。社会的人格を秘している故の所業だ。

    ブログ記事に対する腹に一物であれ、一言書いていく人の多くが「通りすがり」や「匿名」である。何かを怖れて書くのだろうが、それでも書きたいのがネットである。自分はネットで不毛の言い合いをしないことにしたが、そのためにも他人の記事にコメントすることはない。それが単なる自己満足であり、自己顕示であるのさえ、「不毛」と感じるようになった。

    自分のようにそこまで考える人もいないわけだし、コメントを書いて言い合いするのも喧嘩をするのも他人の自由で、否定はしないし、同調したリ仲良くするのも、それも目的なら良い事だと思っている。自分の価値観に自身が固執しても、他人に強制や進言するなどはない。他人の記事を読めば、まさに人はいろいろであり、そのいろいろがブログという文化を作っている。

    明晰なるブログの管理人は、作法を逸脱した来訪者や、記事への批判意見をそれぞれに対処するが、それが叶わずブログを休止したり、行きづまって新たなハンドルで立ち上げたり、完全に中止した人はいずれも被害者である。ある用意周到なブロガーは、多少なりとも意見を違いを披露されただけで、「ここは掲示板ではないので控えてください」と速攻注意をする。

    この手際の良さからして、過去に悪しき体験があるのだろう。掲示板やブログに、「荒らし」という言葉も生まれたと同時に、「ネットイナゴ」という言葉も生まれた。加害側は不満やストレスを抱えており、それを晴らさんがために他人を中傷し、罵倒するようだが、平穏にブログを書いていた人にとっては、「晴天の霹靂」か、ブログは怖いなどと怯える要因にもなる。

    たかがネット、されどネット、どの程度の心境はともかく、キツイことや、ヒドイことを言われたことで、「死んでしまいたいです」などの記述もある。何を書こうが、どう受け取られようが、どのように返されようが、一切は自己責任である。というのは、言って行くところはどこにもなく、誰も助けてはくれない。よって、逃げるもよし、対処法を考えるもよし…


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    夏、盛り。気づけばセミの大合唱。うるさいけれども夏の風物詩。長いこと地中でくらし、殻を脱ぎ捨て必死で鳴くセミの声に耳を傾けることもあるが、やはりクマゼミの声に魅了される。確かに奴はカッコよかった。アブラゼミなんか自慢にならない、やはりクマゼミを採らなきゃ。トンボで言えばヤンマ、オニヤンマ、蝶で言えばキアゲハ、クロアゲハであろうか。

    子どもはなぜセミを採るのか?思い出してみた。ビギナーとしての一番の理由は、「自分にセミが採れるか?」である。やがて、何匹も採れたりすると今度は、どれだけ採れるかである。人と一緒なら人と競い、自分一人なら競う相手は自分である。食す・食さぬが別にして、釣りのようなもの。糸を垂らせば沢山釣りたい、それと一緒でアミを持っていながら収穫ゼロは情けない。

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    昆虫なら何でもそう、つまりは採ることが愉しみとなる。ただし、男の子であって、沢山採れる者には、「虫捕り名人」という栄誉ある称号が与えられる。女はともかく、昆虫嫌いの男はいなかった。セミ捕りでもっとも難しいのはツクツクホウシで、奴は警戒心が強くでおまけに体も小さく、採るのは至難であったが、採れればクマゼミ以上に鼻高であった。

    『智恵子抄』の高村光太郎は余程の蝉好きであったとみえる。蝉の造形にも関心が高かったようで、いくつも蝉の彫刻を彫っている。また、『蝉の美と造型』というエッセイも書いており、その中で蝉の魅力について熱く語っている。末尾にはこのように記している。「私は日本のセミの無邪気な力一ぱいの声が頭のしんまで貫くように響いてくるのを大変快く聞く。

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    まして蝉時雨(せみしぐれ)というような言葉で表現されている、林間のセミの競演の如きは夢のように美しい夏の贈物だと思う。セミを彫っているとそういう林間の緑したたる涼風が部屋に満ちて来るような気がする」という表現はさすがの詩人である。金子みすゞの『蝉のおべべ』は、自然の中に生を宿す小さな命への優しいまなざしは、彼女の慈しみの心の現れである。

    心ない夫に対する抵抗心が彼女を26歳にしての刹那の生であった。蝉といえば浮かぶのが俳人芭蕉である。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句は、山形県新庄の立石寺を訪れた時の句である。夕暮れ時に本堂を訪れ、周りが静まり返る中にあって、辺り一面のけたたましい蝉の鳴き声が、「閑さ」を一段と際立たせている。これは単に表現されたものではない。

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    というよりも、芭蕉一流の、「表現主体の在り方」が重視されている。つまり、表現の以前の心の持ち方の問題というべく心の艶を説いている。こうした心の在り方とは、人間として真に誠実に生きている人でなければ表せないものだろう。美しい情景とは主観的なもので、ゆえにある者にとって美しいと感じられるものも他の者には美しいと感じられない。

    これについて芭蕉は言う。「自分を客観視すれば心の平穏が得られる」。自分を客観的に見る…、これは毒にもなりやすい。たとえば、「自意識過剰」とは、「他者に映る自分」ばかり気にする人を表す言葉だが、自分のことを客観的に見すぎると自意識過剰になり、「あれをしたら恥ずかしい」「○○している自分はカッコ悪い」といった縛りに苦しむことにもなる。

    他人はそんなことなど思ってもみないのに、勝手に自分を縛っている。これが害毒でなくて何であろう。他の者からみた自分に縛られ過ぎる人、気にし過ぎる人は自我の本質を誤っている。「自我の本質」ということなら、人間は自我をどう、「定義」すべきかを考えると、少なくとも人間は、なにか一つのモノをもって、「これが自分だ」と示すことはできない。

    自分というもの、即ち自分の肉体や精神は間違いなく自分であるが、心も体もあくまでも自我の一部にすぎないということ。例えば自分を明らかにする際、私の名は山本太郎、年齢は40歳、九州福岡県生まれで、両親と兄2人の3人兄弟の家庭に生まれた。最終学歴は東大で仕事は公務員。妻と子ども2人の家庭を持ち、趣味は音楽鑑賞と釣りで、親とは離れて暮らしている。

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    こうした数々の、「自分にまつわる事柄の関係性をすべてかき集めたもの」は、自我の把握の仕方であるが、かといって、「自分という確固たる存在」は実在しないものの、あくまでほかのモノとの関係性のなかで定義することはできる。「自分は山本太郎、年齢は40歳」だけでは自分を定義していない。山本太郎は他にもいるし、40歳の年齢の人はわんさといる。

    「自分は東大卒」さえも同じで、東大卒などこの世に何万人もいる。となると、自我とは、「これは大切だと思うものを集めた関係性そのもの」ということになる。鏡に映る自分はあくまで、「自分の一部」であり、カメラや他者の目に映っている自分も、「自分の一面」でしかない。自分も含めた誰が、何時に自分の総体を知ることができよう、不可能極まりない。
     
    自我というものが単一の言葉で定義しきれない以上、自我とは複数のものとの関係のなかで成り立っているものであろう。自我というものが単一の言葉で定義しきれない以上、自我とは複数のモノとの関係のなかで成り立っている。このように自我を把握することこそが、「自分自身を客観的に見る」ことではないか。芭蕉のいう自分の客観視も以下のようなことであろう。

    自分の中に突如として起こる激情や悲哀感情を、もっとも起こるはずの時でさえ起こさず、その状況を他人ごとのように眺めることで心の平穏を得る。これはしばしば自分も用いる手法である。例えば先般のような、いきなり暴言を吐く来客があった場合もそうだ。人によっては怖がったり、腹が立ったりするだろうが、こういう人はあらゆるバカの要素を示している。

    イメージ 4本人がそういう様相を示しているわけだから、笑ってあげるのが正しい。芭蕉の言葉には彼一流の現実逃避が、「風流の精神」に辿り着いたことを感じさせられるが、それはきわめて強い精神力を要する理知的な現実逃避であろう。風邪を引いたり、高熱で療養できない苦しみの中にあって、そんなときでさえ芭蕉は、「風流の精神」で俳諧の素材として眺めようとした。唐突な出来事に腹を立てたり、情緒に陥って感傷的になったり、あまりの喜びに酒に酔い踊り高ぶる時でさえ、「風流の精神」で現実逃避できる達人はそうそう居まいが、芭蕉は稀有な人であった。芭蕉が武士であった事を知る人は少ない。先祖代々の武士ではないが、父・松尾与左兵衛は、「大阪夏の陣」の後に、武士となる夢をもち、伊賀上野に居を構えた人である。

    与左兵衛自身の夢を果たせなかったが、彼は三男金作を藤堂良精の嗣子・良忠の小小姓として出仕させることになる。金作(後の芭蕉)10歳の時であった。ところが金作23歳の時に藩主良忠が病で他界した。金作は、「二君に仕えず」の気持ちで藤堂家を去ったといわれている。その意味で芭蕉の俳諧は現実逃避的意味あいがある。以後、芭蕉は心と悟りの深遠な世界を旅する人となる。

    自分とは何、いかなる者か、どこから来、どこへ向かおうとするのか、これは哲学的命題としても取り上げられるが、自分が知る自分は永久に自分の一面であろう。したがって自身について、「正しい客観法」とは、「自分という確固たる存在は実在せず、あくまでも自分と関係のあるものとの関係性のなかでのみ成り立っている」という自我のあり方を自覚すること。

    人はみな自分として生まれつが、真の自分になるべく時を重ねて生きていきながら、真の自分を知らぬままに人は自分を終えてしまうことになる。運命や宿命という言葉が文字が躍る昨今だが、日本人は、仏教によって「宿命」という認識を得た。それは、「宿業」とか、「宿世」という言葉で表される。平安時代前期の仏教説話集に、『日本霊異記』というのがある。

    薬師寺の僧景戒が著したもので、仏教の教えを判りやすく具体的に語るその中に、「宿業の招く所にしてただ現報のみにはあらじ。徒に空しく飢え死なむよりは、善を行い念じむには如かじ」とある。こんにち生きている自分の生涯は、自分の過去によって決められる。自分の死後もまた、自分には分からない、"仏の世界"に導かれる。という教えである。

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    仏教の教えが正しく、真実であることもないが、「現在の状況は何らかの原因があってそうなっており、現在の状況もまた何らかの原因となって別の結果を生み出す」という「縁起」思想が根本にある。ここから、「過去の因縁によって現在は左右される」という、一種の諦めに結びつく。「宿業」という発想は、文教によって日本人が初めて手に入れたものという。

    不倫真っ盛りとおぼしき現代だが、禁断の恋などいつの時代にもあった。『源氏物語』においては、主人公の光源氏を中心に、さまざまな男女の恋が、「宿世」として捉えられている。男女が出会ったのも宿世なら、互いに求め合わずにいられないことさえも宿世であり、つまり早い話、不倫も宿世であるなら仕方ないと納得してしまうが、宿世も都合よく捉えられるものだ。

    「現在の自分の力では物事はどうにもならない」とする、「宿業」や、「宿世」という考えは、消極的でマイナス面を生む点において好まざるものだが、事実、平安時代末期には、「仏の道が衰え、悪が横行する世になる」との末法思想が流行する。これは、「どうせ自分の力では何も解決できない」という仏教的宿世観が、悪い形で現れた現象ともいえるだろう。

    宗教は矛盾に満ちている。善きこともいうからには必ず裏の面もあり、まさに表裏一体を示している。先祖崇拝や法要などについての矛盾を抱えたままの現代仏教である。親鸞は、亡き父母などの供養のために念仏せよなどと、一言もいっていない。しかるに真宗は法事を奨めるが、「仏教に耳を傾けることこそが真宗の法事の意味」というのは苦しき詭弁である。

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    男は若い時に実年齢より老けて見られたいもので、大人になりかけているときはむしろ大人として認知を得たいものだから、自身に残している幼児性や幼児的特徴を隠そうとしたりする。大人と子どもの違いは多だあるが、一例として大人は基本的に新しい情報を引き出すような質問を子どもの時ほどしなくなる。慣れないものに出くわしても冷静であったりする。

    「なぜ?」、「何のために?」、「どうすればよいのか?」などと、子どものように問うことを大人はしなくなるばかりか、慣れないことを避けたりする。おそらくこれらは無知をさらけ出したくないためか、あるいは興味深い新たな体験には本当に無関心になってしまったかのいずれかであろう。古い様式の中に新しいものを取り入れるのは、面倒に決まっている。

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    ヒトの成長は肉体ばかりではない。精神的な成長も遂げて行こうとするが、何をもって成長を完成するのかに基準がない。成長しても無知な人間はいる。幼児のようなしつこさを伴った人間が成長し損なった大人であるように、様々な点において人は成長の不完全さを露呈する。甘い言葉に騙されたり、利用されたり、いじめられたりには、少ながらず要因がある。

    ・相手が何かしてくれる、と期待するから騙される。

    ・相手の言葉を鵜呑みにする、から利用される。

    ・必要以上に関わらなければいいのに、関係を持とうとするからママ友からいじめられる。

    このように騙される側、利用される側、いじめられる側にも自身の気づかない原因がある。他人ばかりが悪く見え、自分のことはあまり見えないもので、だからすべてを他人のせいにしてみたりする。人間はなかなか物事を自身に照らして考えないものだ。いいことならそのように考えるが、よくないこと一切は他人のせいなら、人的な成長は見込めないだろう。

    他人をあれこれ考える前に、徹底的に自分を、自身を考えてみる。他人の中に原因を探り、答えを見つけるより、自分の中に必ず存在する答えを見つけるべきと思う。自分の中に見つけた答えは、自分で正していけるが、他人の中に答えを見出してみても、他人を自分が修正することはできない。他人が悪いだけでなく、自分の問題点を探り、改善することを成長という。

    このことが物事を解決するもっとも手近な方法ではないのか?「あいつがこうだったらいいのに…」、望んでみても相手はそうはなってくれない。「あいつがいなければいいのに…」、相手は簡単に消えてはくれない。それで自分が去るのか?はたまた世から消えようとするのか?そんなのおかしいし、もったいないし、死ぬ気で行動して物事が変えられないのか?

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    そのようによく言われる。「死ぬくらいなら何でもできるだろうに…」と普通は考える。自分もそのように思っていた。が、それくらいに自分を変えることは難しいということだ。「自分を変える努力をするくらいなら、死んだ方がマシ」ということのようだ。つまり、自己変革は死より難しいということだ。そういうものだろうか?そういうことだと数々の事例が示す。

    それくらいに死というものが軽いということだが、事物の軽重は人によって違うということか。自殺の名所といわれるところには、自殺を思いとどまらせる立札がある。標語調の語呂のいい文句を書いているのもあるが、効果のほどはどうなのだろう。生きるのが辛い、死ねば楽になるのは確かにそうだし間違いない。死を選ぶのは楽を望み、楽になるのを選んでいる。

    そういう人間に、「死ぬな!」は何の意味もない。自殺する者の気が知れないと思う自分は、死ぬ者の苦しみを理解していないのだろう。それも当然、死ぬ者の苦しみはその者独自のものだから、理解できるハズがない。死に行く者が楽を望む以上、死ぬ以外の楽を見つけてやるか、楽を求めるのをとりあえず止めるよう説得する以外に、死を静止することは難しい。

    死を強く思い詰めている状況だから、そのことから解放してやるのもいいが、そうすると気持ちが変わることもある。何かを買おうという購買意欲に憑りつかれている状況に似ている。一旦、頭を冷やせば気持ちが冷めると似ている。自殺の名所静岡県の樹海には、「自宅で死ね。お前の葬儀代に県民の税金がつかわれている!」というのもあるが、地元民の本音だろう。

    イメージ 3とにかく、「ここで死ぬのは止めてくれ」ということのようだ。我々も含めた人間は、なぜにこれほど多くの時間を費やして、友情や恋愛や人生や死について思考するのだろうか。それは人間の幸福を考えるとき、それらは避けては通れない大きな命題だからだろう。死は不幸なことであるが、人間にとって死は究極の目的である以上、幸福な死を摸索するのも当然である。

    中島義道の書籍が売れているらしい。彼の著作のタイトルはおそらく編集者が考えるのだろうが、いかにも中島義道らしさが感じられる。『善人ほど悪い奴はいない』の副題は、「ニーチェの人間学」であり、帯には「本当は怖いニーチェの言葉」の文字の下に小さな文字で、「弱くて卑劣で善良なニーチェから学ぼう」とあるが、「弱くて卑劣で善良」とはいささか奇異だ。

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    「強くて逞しくて狡猾で」というなら学ぶ価値もあろうというもの。現代人が病んでいるのは、信頼の砦というべき家族や家庭における欺瞞を述べた書籍が多く出版されているのを見ても分かるように、欺瞞とまでいわずとも曖昧漂う時代の様相だ。幸せな夫婦に見えても探れば不倫実行中と、芸能人の浮気ばかり追い回すことで、部数を伸ばす週刊誌である。

    税金で養われる政治家や子どもを指導する教育関係者が自堕落であってはならぬが、芸能人が一体なんだというのか?ベッキーや斎藤由貴の下半身が緩かろうが、人民裁判が如く吊し上げて、誰の何が満たされるのだろう。言行不一致でおすまし顔でCMをやるのが不謹慎というなら、違約金を払って降りるくらいのバカをやった自己責任は取る必要はある。

    不倫が露呈すれば、配偶者のある側がどうするこうするの問題で、カメラの前で「やった」といわせるのがメディアの使命でもあるまい。配偶者のある者は婚姻という法的な関係にあるのは事実であれ、夫婦関係が形骸化しているからこそ、他人に目が行き、手も出るのだろうから、冷めた夫婦の形式的な人間関係よりも、許されざる関係の方が、関係という意味においては「真」である。

    やったか、やらないかを問い詰め、問題にすべきは配偶者であって、外野は関係なかろう。「色を好むは真の情」というように、誰だって色は好きなはずだし、二人で部屋に入ればやるだろうし、「やっていない」と嘘をいうのもいいが、「ご想像にお任せします」となぜ言わない。何を言おうが言うまいが、どうせ人は想像するんだろうから、そういえばいいのよ。

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    「イエス」か、「ノー」か、答える義務はないのだし、何を言っても限りない黒なら、だから「想像に任せる」でいいと思うが、それだと肯定したことになるからか?だから否定をするが、否定すれば、「バカ」呼ばわりされるだけ。不倫というのは、許されざることを自覚的・意志的にとり結ぶ関係であり、紛れもない真の関係であろう。しかし、彼らに覚悟が足りない。

    許されざる行為であるなら覚悟をもってやる。それでこそ、実体のある関係だろう。つまり、苦悶をともなっての意志的・自覚的な自発行為であるなら、その行為こそが実在感をもって迫ってくる。見つからなければこれ幸いというゲスな火遊びならそれでもいいが、バレた時の対処くらい考えておくべきで、どう思われようとも、「想像に任せます」でいいのでは?

    性的関係と取りざたされることを極度に怖れるのは、成熟した大人とは思えぬ幼児性を感じる。どちらにせよ、覚悟もないドロボウ猫的火遊びなら、一切は自身に跳ね返ってこようし、苦しい弁解で笑いものになるがいい。不倫はどっちもどっち、共犯である。男に罪をかぶせて逃れんとする今井絵理子に男気をみせた市議の額に冷や汗たらたらはカッコ悪い。

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    女性というのはどんなに男を愛していても、自身の罪を逃れるものなら逃れようとするが、不倫にしろ別な犯罪にしろ、「共犯」ということにおいて女性はこのようである。こういうところのズルさが女の性根の悪さといわれもする。自分はその気、そのつもりであっても、「私は拒否した」、「拒んだのに」などというもので、これは避けられない女性の本性であろう。

    「彼の手が到達したとき、彼女は拒むというより、迎えるようにその部分をすぼめてみせた」。これはある有名な小説の一節だが、この程度では女に共犯意識はわかないもので、ハニートラップ確定といわれた高畑裕太事件の時も、逃れるべくは必至で嘘に走る女のしたたかさに男は呆れてしまう。あからさまな嘘を女につかれ、茫然自失の経験が過去にあった。

    醜いものを臆することなく突き出して生きる図太い神経の持ち主もいるが、男には男の矜持がある。そうした男の純性を、弱さという見方もできよう。血も涙もない冷徹・冷淡な男もいる。女もいる。前者は信長、後者には西太后が浮かぶ。悪逆非道の信長、冷酷無比の西太后などといわれるが、天下布武の野望の信長に対し、西太后は人が苦しむのを喜んだという。

    光秀の謀反に、「是非もなし」と言った信長の往生際だが、西太后は以下の遺言を残している。「以後、再び女性に国政を任せてはならない」。これをどう理解すべきか?謙虚なる自己批判か、あるいは男たちへの痛烈なる皮肉なのか。真意は彼女のみ知るが、後人には思索が求められよう。これは余談だが、以前近所のスーパーに西太后のそっくりのおばさんがいた。

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    成長することを、「大人になること」などと言ったりするが、これは正しくない。成長し損なった大人や、出来損ないの大人は沢山いるから便宜上、「大人」と「小人」を分けているに過ぎず、大人が子どもの範というわけではない。「大人になる事は難しい。親になる事はさらに難しい」などという。20歳過ぎれば大人、子どもができれば親、というなら事は簡単だ。

    子どもの頃、大人は立派に見えた。お年寄りはさらに立派に見えた。ところが実際に大人になり、65歳以上のシルバー世代になってみると、ダメな大人は多く、つまらん老人も多い。子どもに見えていたのは背の高さや体格や、白髪頭や年齢としての大人でありお年寄りだったようだ。「立派」を定義するのも難しいが、立派でなくともいいからダメな大人にはなりたくない。


    「ダメ」も定義はできないが、共通認識としての、「バカ」とか、「ダメ」とかのダメとしておく。「バカ」や、「ダメ」を挙げればきりがないくらいにあるが、共通認識として、「ダメ」のナンバーワンはなんだろうか?人にとって違うが、自分は、「ダメ大人」の一位は、「コドモ」だと考える。ようするに、大人になり切れてない人間という意味の、「コドモ」という言い方だ。

    大人の社会で、これほど迷惑で困る人間はいないのではないか。「コドモ」というのは、「子ども」を侮辱した言い方でなく、「子どもなら許せるが、大人なら許されない」、そういう意味での、「コドモ」である。早い話が成長し損なった大人ということだ。「精神年齢が低い」ともいうが、ちょっとニュアンスが違う。大人に向けて、「コドモだね~」は、完全にバカにした言い方。

    「精神年齢が低い」は、「年齢に相応していない」との意味で使うので、「コドモだね~」とも限らない。ではいい大人を見下げて、「コドモだね~」というのは何歳くらいを指しているのだろう。自分が言う場合は、学童期の小学生低学年くらいを浮かべているかも知れない。「幼児」とまでは思わないが、5歳~10歳くらいのニュアンスで言っているのだろう。

    「コドモだね~」と言った相手から、「何歳くらいの子ども?」などと聞かれたことはない。これまで、どういう場合に言ったかを考えてみたが思い出せない。ならば、コドモと大人の徹底的な違いはなんだろう。かつて、大人と子どもの違いはオモチャの値段にあるといわれた。子どもは子どものオモチャ、大人は大人のオモチャ(といっても、例のアレではない)。

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    昔の子どもはそれこそ、棒きれや河原の石ころ、ラムネの玉など、あらゆるものを想像力と身体的エネルギーで、何でもオモチャにできたが、大人はそうはいかない。彼らの心身や遊興心を支えるためには高価な道具を必要とした。「あの男は女をオモチャにした」という言い方もされるが、これは比喩であろう。昔の子どものオモチャは手作りもあり、安上がりだった。

    ところが、昨今の子どものオモチャの高価なこと。極めつけはスマホだろう。自転車もいいのに乗っている。靴とて高価なナイキやニューバランスなどは当たり前だ。ようするにこんにちにおいて、子どもと大人のオモチャには金額的な差はないということになる。ならば、「子どもと大人の差はオモチャの値段」というのは、現代においては死語になってしまっている。

    大人が単純な遊びには満足しない。と言ってみても、スマホでゲームに熱中する大人もわんさかいる。これは昔にはなかったことだ。いわゆるテレビゲームに熱中する大人は皆無とは言わずとも希少だった。この辺も現代は大人と子どもの差がなくなっている。差がないということは、どちらがどちらかに歩み寄ったことになる。自分は大人が子ども化したと考える。

    電車に乗って驚くのはほとんどの乗客がスマホをいじっている。自分は携帯すら持ち歩かないから、すごい光景に見えてしまう。個々がやりたいものが善、したくないものが悪とするなら、他人が他人の善悪を言うのはオカシイ。ただし、それほどに必要なものであることが不思議である。子どもにオモチャを与えると熱中するさまを、「子どものオモチャ」といった。

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    スマホは今や、「大人のオモチャ」である。不所持なのでゲーム以外に何をしているのか正直よく分からないが、それくらい手放さない人が多い。例えば野球中継がリアルタイム進行で表示されるようだが、携帯がない時代には電車内で経過も結果も知ることができなかった。家に帰って結果を知るが、勝てば勝ったで、負ければ負けたで、一喜一憂することになる。

    結果を後で知るのも楽しい。が、どこにいても経過を追えるのを人は便利という。便利は補えるが、その代わりに後の、「一喜一憂」は味わえない。リアルタイム情報が現代の主流のようだが、自分にいわせれば後の愉しみが奪われている。昔は時間がゆるりと進んでいた。「果報は寝て待て」ともいった。スマホを必要としない自分は、ゆるりの時間を「良し」とする。

    スマホ時代に電車で本を読む人を見ない。電子書籍の人もいるのか?というより、スマホは情報収集ツールとしての引き合いがメインである。沢山の情報を知ることはできるが、読書と違って情報は知識ではない。となると、昨今は知識より情報優先ということになるが、したいことが善である。社会構造がこれだけ変われば、長い間に人間の構造も変わっていくだろう。

    昔、本をまったく読まない女がいた。理由を聞くと、「何で読むの?」と返された。「いろいろあるが、本は知識の泉だ」というと、「何で知識がそんなに必要なの?」と怪訝な顔でいう。「人に聞くな。(知識を)欲しい自分には必要で、無用のお前にはなくていい」と、話を収束させた。そして今、「情報」も同じことで、欲しい者には必要だが、不要の者には無用也。

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    時代が巡れば人の、「要・不要」も変わってくる。だからスマホが持たれている。人は時代に合わせて変わって行くが、時代に呑まれぬ者もいる。いつの時代も若者は時流に敏感に即応するが、高齢者は、「要・不要」を見極め、自分らしい生き方を選ぶ。最近とみに感じるのは、高カロリー食を体が望まなくなった。好きだったカツ丼、うな重を食べたいと思わない。

    よく食べていた中華料理すら、何カ月食べないでも体は求めない。今、一番の御馳走といえば、おむすびかも知れない。現代人は主食・副食・間食と、カロリー過多である。それに警鐘を鳴らしてか、一汁一菜が見直されている。昔の武士や大名級はともかく、平民はおむすびと梅干で生きていた。一日で200km走るトップクラスの飛脚は、おむすび2つと漬物数枚だった。

    そんな彼らに肉を食べさせたところ、胃もたれて早く走れなかった。それを見た小泉八雲は、「日本人の食事は完成されている」と記している。あちらこちらの幼稚園で週に一回、「ノーおかずデー」と銘打ち、おむすび持参の励行がなされている。週3回の幼稚園もある。子どもは良く動く。園児はくまなく動き回る。それでも昔の子どもの運動量に比べると少ない。

    昔の子どもは園内で駆け回るし、家でも走り回る。今の園児たちは間違いなくジャンクフード漬けでオーバーカロリー間違いなし。化学調味料の蓄積などもあって、がんが発症しやすい体になっているかもしれない。それを思えばおにぎりは自然食。不純物が溜まりに溜まった高齢者は、それこそ週5日おにぎりで大丈夫のはず。始めてはいないが、やってみようかいな?

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    園児や学童期だけではない。飽食の時代でありながら、皆が楽をし始めて動かなくなった。家事はこれ以上ないほどに楽になり、タワシとマケンでせっせと浴室掃除をしなくとも、お風呂掃除の機械がある。極めつけはお掃除ロボット。まるで動かないことを得したような気になる主婦が、電柱体型になるのも分からぬでもない。ちょっとそこまで行くにも、「足がいる」という。

    現代人のいう、「足」とはクルマ。本来足といえば、「二本足」だが、今はそれを足といわない。生活家電や文明の利器に囲まれた、「健康で文化的な生活」は、どこか嘘の臭いがする。真に、「健康で文化的な生活」とは動き回ることではないのか?日常生活で散々楽してダイエットに苦労するはいかにも滑稽である。「楽は苦の種」と昔人はいったが、今は、「楽は肥の種」であろう。

    人生の物差しは自分で作る。我々がやることは、単にみんながやっているというだけで決めることはない。だから、自分はスマホを持たない、携帯も持ち歩かない。自分に本当に大切なものを大切にしているだけだ。何が自分の人生にとってかけがえのないことかを考えて、自分のやることを決めているに過ぎない。別に人と違ったこと、変わったことをしたい訳でもない。

    人のやれないことをやって自慢するのも可笑しい。自分にとって必要ないこと、大切でないことには挑戦する意味もない。自分にとって大切なことは、誰もができようができまいが大切なことなのだ。これを自分の物差しという。これが周囲を見ないで、自分を大事にする。これが案外自信につながる。なぜなら、どんな人間にも自分にしかやれない役割というものがある。

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    その役割に早く気づくこと。それが自信につながっていく。その役割を全力を出してこなし切るときにこそ、強い自信が生まれる。そのためには、「他人は他人」、「自分は自分」をおさらいする。くだらないと分かりつつ、それでも人間は自分と他人を比較するが、つまらぬ虚栄心はさっぱり捨てて、真の自分を見つめることで味わえる人生もあるようだ。


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    信頼とは真実の関係の中で生まれる。真実を価値とするのは嘘を無価値とするからで、そもそも真実そのものに価値があるというのではない。真実はふつうに当たり前に存在するものだが、世に嘘が蔓延する昨今においては真実が価値を持つ。道徳的価値も同じようなものだが、誤解を怖れずいうなら、道徳を守るとは、自立できない人間の弱さを現わすにすぎない。

    未成年者や子どもを道徳的に厳しく躾けるのは、未成年者や子どもが未熟であるからに過ぎない。したがって、道徳とは守るべきものというのではなく、自分が弱く、自立できないから仕方なく従わせるものと自分は考えている。人間は強くなると他人に冷淡になれるように、道徳にさえ冷淡になれる。道徳を守るだけの面白味のない生き方より、自らを範として生きることができる。

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    倫理や道徳は固い殻の中にあるもの。それを打ち破ってその中にある栄養分だけを吸収すればいい。それが大人だろ?まあ、自由を愛する革新的な人間であるなら、道徳や倫理に埋もれた生活は退屈だ。「そんな勝手な自由は許されない!」という自由とは、そういう生きる人達の自由であって、自由が一つだけでないとしたら、本当の自由が何かを摸索してもいい。

    思うに我がままで勝手気ままな自由などは真の自由ではなく、はた迷惑な自由である。自分のたてた掟、自分が従うべき掟をどう作り、どう守るかは人によって異なる。昔ある奴が、「自由とは、決まり(法)や道徳を守ったうえでの自由」と言った。それは彼の思う自由であって、もし、反社会的な自由が認められないなら、ピカソもビートルズも出現しなかったろう。

    自由とは自分に沿った生き方をすること。当然ながら人間は社会的な動物だから、勝手気ままは許されない。社会の決まりを守るよう自らに制約をかけるのは当然である。暴走族や人に迷惑をかけるのが自由などと、バカもいいとこで、自由が何かを知らぬ者の戯言である。人の後ろをついていくのではなく、「自分だけの歩き方」を見つけのが自由なる精神である。

    劣等感は自分と他人を比べるから起こるのであって、比較して劣等感に悩むより、良いところを磨けばいい。人間がみな同じでなければならないと決めているのは、案外自分であったりする。だとすれば劣等感の原因は、物事に対する独善的解釈でもある。己の解釈や考え方を変えれば、劣等感も消え、自分と他人を比較しなくなる。劣等感は一人相撲に過ぎない。

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    だから幸福になろうと思えば簡単、すぐにでもなれる。他人と自分を比較せず、自分は自分と思えばそれが幸福ではないかと。人と比較して励みにする人もいるが、そういう人はポジティブな人であり、そうした志向の無い人は、いつも人と自分を比べてネガティブになっている。人はお金持ちで自分は貧乏でも、自分のいいところを見つけて愛せば幸せでは?

    ネガティブな人は、「自分なんか…」という言葉を口癖のようにいう。「自分なんか…」という言葉を多用する人は、ネガティブ以前に自分に甘えている。「自分なんか…」と思ったところで、よくなるものでもないし、言葉に甘えて現状維持でいようとするところがだらしない。マンネリ自己批判ばかりの人間は、向上心もなければ他人の批判を嫌うところもある。

    自己批判は甘美なもので傷つくこともない。傷つくことのない自己批判を何度したところで成長するハズがない。比べて他人の批判は辛辣で傷つく、だから価値がある。「自分は(将棋)が弱い」。「ここで一番弱い」と、顔を合わす度にその言葉をいう人がいた。うっとうしいので自分は言ってみた。「その言葉、もう何百回も聞いた。もう、言うの止めたら?」。

    うじうじした男の自己保身なのか、「あんたとはやらん、勝てないから」というので、「いいんじゃないか?ここで一番弱いなら負けたって普通だろ?」と皮肉を言ってみた。すると、「ちょっと強いからって、威張ることないだろ?」と、卑屈さ丸出しである。「だったら二枚落ち(飛車よ角を落とす)でやったら、勝つんじゃないか?」。こんな風に言ってみると、こう返してきた。

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    「そんなんで勝っても意味ないし、負けたら笑いものだからやらん」と、自尊心は一人前だ。60歳過ぎてこうなっていてはつける薬はない。二枚落ちで鍛えれば棋力は上がると思うから言ってみたが、自尊心が向上心を妨げる。「弱い」と先手をうっておけば、「弱いね~」と言われないための防御心であるのは分かっている。よほど傷ついた人生を送って来たのだろうか。

    誰もが傷ついた人生を送っているのに、耐性をつけようとせず、自身を誤魔化すことばかり考えているから成長がおぼつかない。彼の人生だから批判はしないが、人間関係を持とうとすれば、もう少し前向きに生きてみてはどうかくらいの老婆心も沸くが、自分の殻に閉じこもった人との対等な人間関係はできない。以後は彼に合わせた対処をするしかなくなる。

    非難のための批判は持つべきでないが、人を導くのは難しく、その義務も負ってない。愚痴や不満ばかりの人間にせめて、「それは止めたら?」を進言する者がいてもよかろう。嫌われことになっても、好かれたいがなければいい。「人にできて自分にできない」が劣等感の根源になっている人に対しては、「できることがそれほど大切か?」を説いてあげるといい。

    「将棋が強いことがそんなに凄いことか?」を、正直な気持ちとして持っているなら、「自分は強い」などと自慢することもないが、弱い人は卑屈になる。劣等感と優越感は表裏にあるから、こういう性格の人が、強くなると自慢をするのだろう。たまたま弱いから卑屈になっており、たまたま強い人であったなら優越感に浸ることになる。人間は案外単純かもしれない。

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    ある人は負けてこんな風に言った。「今日は眼鏡がないから調子がでない」。言い訳好きはこちらが想像しないことをいって笑わせてくれる。「眼鏡があったら手が見えるってこともないでしょ?」とは口には出さず、「そうですね、眼鏡があったら違うでしょうね」と合わせる。勝者は敗者をいたわるのが惻隠の情というが、ユニークな言い訳は聞く楽しさもある。

    遅刻の言い訳すら言わなかった自分。言い訳にどういう効用があるにせよ、自らを辱めるものでしかない。昨今は不倫の言い訳が、これまた子どもじみていて面白い。不倫という行為その事よりも、言い訳の方が圧倒的に羞恥と思うが、言い訳で何かを守ろうとする人間の悲哀が見える。悪事を行う際の覚悟の無さが伝わってくる。見つかる前提で悪事をやれないものか?

    善人づらして悪事をやるのが人間と思うが、悪事をやるのは悪人に決まっているのに、なぜかその覚悟がない。だから、腹をくくって堂々としてられない。すべてを棒に振るくらいの潔さもなければ覚悟もなく、見つからないで上手く凌げればとあれこれ画策する。見つからなければ、「やり得」との誘惑に負けるのは分かるが、見つかってしまえばそれは負けでは?

    日本人の、「恥の文化」はいつごろから消滅したのか。「恥の文化」は、武士の高い倫理観と志に支えられ、彼らは常に恥を重んじていた。これが一般的な、「恥の文化」と自分も思っていたが、これが曲解であるのが分かった。日本人の恥の文化について鋭い考察をしたとされるルース・ベネディクト著の『菊と刀』のどこにも武士たちを褒めちぎった記述はない。

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    西洋社会は罪の文化といわれる。これは、人間は自分たちの行為は常に神の監視下にあることで正しい行いに務めんとする。ゆえに、誰かに悪行が知られることがなくても罪悪感を感じる。日本人は誰かに自分の悪行が知られたら、非常に恥ずかしさを感じ、その結果死さえ厭わない。しかし、自分がやっていることが他人にばれなければ、自分の行為を悪いとは感じない。

    これこそがベネディクトの言う、「恥の文化」であり、決して日本人の倫理観の高さを述べべているのではない。バレようが悪いことは悪いことの欧米人に対し、バレなければたとえ悪いことでもやったもん勝ちという日本人。善悪はどちらというより、どちらが大人であろうか?不倫や悪事が露呈した時の日本人の言い訳を聞けば分かろう。まるで子どもの言い訳である。

    「遅刻の言い訳はした方がいい」と同僚がいう。「遅刻に羞恥を感じない言い訳があるのか?」と問う。「ないけど、言い訳はそんなものよ」という。納得しなかった。稚拙な嘘など誰が信じるだろう。嘘をついて得る評価より、「騙す」ことで失う信頼が大きい。自分はその場限りを繕うための嘘の必要性をまるで感じなかったし、しみったれた人間こそ羞恥である。

    同僚は、「遅刻は欠勤より評価が悪い」などと分かったようなことを親切面でいうが、問題は現実に遅刻をしたことであって、「遅刻は欠勤より評価が悪い」というのは、遅刻を戒める言葉なら理解もできようが、やったことの責任を逃れるわけにはいかないだろう。これが当たり前でなくて、何が正しいことになる。評価を下げられてもその程度の人間なら仕方ない。

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    バカげていると感じるのは、遅刻した社員の言い訳など、上司は飽きるほど聞かされているハズ。どれもこれもつまらん言い訳をいう奴ばかりで、腹の中では「ゴチャゴチャ言う暇があったらさっさと仕事しろ!」だろう。それにも関わらず、くだらん言い訳を言う人間のバカさでしかない。何事もそうだが、自分が不利な時の理屈はみすぼらしい。事実をいう方が健康的である。

    評価を得たいなら、得るべく人間になるしかない。物事を自然に捉えて、あるがままに生きて行こうとする自分にとって、評価や他人の目より、自分を騙すこと以上の羞恥はない。無能な人間ほど周囲に有能如き振る舞うが、無いものを有るように見せることではなく、有能となろうと思う気持ちであり、そのための努力であって、斯くの人間はそれをやりたくないのだろう。


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    当たり前のことだが、自分以外は他人である。祖父母や親兄弟や、息子や娘であれ他人である。ここでいう他人とは、肉親と肉親外の意味ではなく、自己と他者という意味での他人だから、肉親は他人ではないのでは?とならない。したがって、社会というのは自分と他人でできており、そうした他人と自分との関係を人間関係という。が、他者と関わらなければそれにあらず。

    職場の人間関係、近隣やサークルや趣味、夫婦や恋人や親子、不倫相手も人間関係である。人間は他人とあらゆる関係の場にあって、あらゆる関係を持っている。維持しているともいうが、他人と自分は常に壊れやすい状況にある。振り返ってみればそうした様々な人間関係を、崩壊と蘇生を繰り返しながら生き、現在も続行しながら生きている。それを人生という。

    親子関係や兄弟のように自分の力によらず、生まれる前から決められている関係もあれば、ある日どこかでふとしたことで派生する関係もある。狙った獲物を落とそうと意図して芽生えた関係もある。人はよく、「自然に出会った」などというが、自然に出会うとは、街に出て通り過ぎる人をいい、それが立ち止まって話をした時点で、何らかの意図が発生している。

    立ち話から、「良かったらお茶でも…」という時点では関係は樹立しておらず、一方的でしかないが、相手が承諾してついていくことになれば、それはもう双方の意志である。知らない者同士が偶然に会ったことは自然であっても、以後のすべては意志によって進行する。この時点で二人は無知と無責任で行動しているか、責任を持って行動しているか、の場合がある。

    声をかけられた側が、「この人カッコイイ、ついていってもいい」と思う場合もあれば、何の考えもなく、夢遊病者が如く暇だからついていく場合もあれば、相手の積極さ、強引さに、「No」がいえびについていく場合もある。意志があれば自己責任、意志がないので自己責任ではないと言いたいものもいるが、深い考えなしについていくのも立派な自己責任である。

    「あんまり深く考えなかったから」、「(意志はなかったし)相手のいうようにしただけ」などと自己責任回避を主張するズルい女はいるが、そんなものは通らない。先般の高畑裕太事件の時の被害者の言い分を聞きながら腹も立ったが、声をかけられてついて行ったことが自己責任であって、「そんなつもりはなかった」は、情緒未発達の18歳未満なら認められる場合もあろう。

    法は力のない弱者を保護するためにある。高畑事件は裁判にすべき案件であったが、著名芸能人ということもあり、事実関係よりも有名税を支払う(事を荒立てないことを選択した)ことで解決したのは、仕掛けた側の思う壺であった。有名人は看板商売だから、そこに目をつけられてユスリやタカリの事例はしばしばある。こういう事例がある。山道で強姦された女がいた。

    誰も見ていない、当人同士しか知らない現場のことを、それぞれが、「強姦だ」、「和姦だ」と食い違った場合、現場が人が通行できる山道より、下った斜面にあるか、登った斜面であるかが、判断の要素とされた。これを状況証拠とするが、事実であってもなくても、状況によって推理して判断するしかない。つまり、事実を第三者が知ることは絶対にないからだ。

    いうまでもない登り斜面であれば和姦、下り斜面の場合は強姦とみなされる要素になる。知らない人も多いが、裁判は事実を争うものではないということ。法廷において、検察と弁護士があらゆる法廷戦術を用いて、事件を客観的に証明してみせることで、所詮事実は当事者以外は誰も知り得ない。したがって常識知らずで世間音痴の裁判官が下す判例に、「?」は多い。

    「裁判員制度」は、そうした硬直した司法従事者に国民的・世間的な目線を反映させるために始まったもの。されど、法律に関心のない、あったく無知の国民が事件を裁くというのも問題がある。あっても問題、なくても問題なら、あるべきか、ないのがいいのかを、取り沙汰されている。現段階では、身に降りかかってきたことに最善を尽くすのは当然である。

    クイズ番組の常連でない限り、何でもかんでも知っていればいいというものでもない。少なくとも多少なりの知識や教養がある人たちが裁判員に選ばれるわけでもない。そもそも、「教養」とは何?「精神文化一般に対する理解と知識をもち、人間的諸能力が全体的、調和的に発達している状態」。と、これは、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の記述である。

    いかにも抽象的だが、教養ある人、ない人はその話の内容で判断できる。細々したことはともかく、教養の大意とは最近流行の、「〇〇力」になぞられるわけではないが、「物語力」・「仮説力」であろう。あるちょっとした体験でさえ、他人に話すとき、それをどれだけ分かり易く、主観を交えながら客観的に興味深く語ることができるかであり、これを、「物語力」とする。

    さらには、その出来事はどの程度のダメージ、あるいはメリットを自分にもたらし、話す相手の好奇心をどれほど満足させるかを推し測る。これが仮説力。こういう場面に教養が現れるが、そういう人間でありたいという切なる願望が、自分に熱心にブログを書かせている。これも一つの手段であって、何もしないよりは、「する」が勝る、自分の「行動」持論である。

    そのためには、「今日、何があった」というのは、自分にとって意味をなさない。「関係」についての考えを進める。関係における初期にあっては、「無知と無関心」であるのは少しの例外を除いて、多く当てはまるものだろう。「人は自らの欲望の対象を求めて他者と関係して行く」と、これはフロイトの言葉であり、凡人が考えてみても疑いの余地はない。

    例えば、「性的関係」という言葉。今井絵理子が誰の入れ知恵か、親密な関係やホテルでの逢瀬をしておきながら、「一線を越えていない」などと発言した。いかにも一線を超えなければ純愛であるかの如く、ズルく卑怯な物言いであるが、所詮は言葉のお遊びである。二人の関係は状況的にも親密であり、したがって、言葉通りの言い分は裁判では通用しない。

    相手の男は必至で女性を庇うが、庇うことで女性を不法行為という罪から救おうとするが、こんなことは男の妻が訴訟を起こせば何ら無意味である。政治家も芸能人も看板商売であるからか、雨あがりの宮迫も、「こっちが迫ってもやらせてくれなかった」と女性を持ち上げるが、今どきの女がどれほど貞操が硬いのか。事前に宮迫が、「そういうから」と承諾を取ったのだろう。

    この言葉によって、女の品格が向上したと本人は思ったかも知れぬが、結局女をズルくさせるのが男であるのがよく分かる。おそらく宮迫は妻には真実を話す羽目になったろうが、宮迫の妻も離婚を前提にしないなら、事を荒立てて夫が社会的に葬られるのは得策でない。島尾敏雄の『死の棘』状態に、妻から一言一句を問い詰められ、告白されられたのではと邪推する。

    ヒステリー女の狂乱さに男の人格も崩壊するおぞましさは、乙武洋匡を訴えた妻にも現れている。一たび狂えば夫婦は他人だが、「俺の面倒を見ないというなら、障害者虐待で訴えるぞ」と乙武は妻にいったというが、結局は、障害を持つ相手故に、いわれなき従順を強いられた妻の逆襲であろう。「どうして私はここまで夫の奴隷にならなければならないのか?」その思いが告訴では?

    障害者は障害者らしく大人しくしておけというのではなく、社会的弱者なのだから、何をやっても免罪されるという乙武の障害者であることの特権意識が問題である。障害者も普通の人間という意識は本人も周囲も大事だが、男尊女卑を嫌悪し、男女平等を訴えるなら、都合のいい時だけ、「女」を出すべきではなく、障害者も同様にそういう自覚を持たなければならない。

    乙武は断罪されるべきであろう。これまで障害者という特権意識三昧の陰で耐え忍び、不自由を強いられた妻の反乱を自分は理解したい。乙武の5人の愛人を妻は容認していたと身勝手な自負は告訴によってそうではないと証明された。健常者で5人の愛人が許されないと同様に、障害者なら許される道理がない。障害者に生まれ、障害者に育った乙武が抱く勝手な厚遇感である。

    彼にはパスカルのこの言葉を贈りたい。「他人の観念のなかで一つの架空な生活を生きようと欲し、そのために目立つことをしようとする。我々は絶えず自己の架空な存在を飾り、それを保とうと努め、真の存在をなおざりにする。」

    おそらく、人間は真の存在に気づいていく過程で、他人のなかにある自分の架空の存在に、興味をなくすにちがいない。「誰とでも仲良く」など、無理なことは諭さない。好きな人を嫌いになることも、嫌いな人を好きになることも、所詮は感情であるがゆえにできない。「わたしは嫌いな人でも付き合うようにする」みたいなことを真顔でいう女性はいる。

    いかにも自己正当化の言葉。ようは、そういう人間を排除しきれる強さがないのを、虚飾の自己肯定感がそれを言わせている。誰が好き好んで嫌な人間と付き合いたいものか。女性は生まれてこの方嘘をつく資質に長けているのだろう。嘘つき母に苦しんだ自分からすれば、女の嘘はある種の病的という認識だが、嫌なものは嫌、許せないものは許せない。


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  • 08/17/17--16:28: 嘘から出た真

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    嘘をつくのは実は難しい。場当たり的嘘ならなおのことで、ボロが出るのはついた嘘を忘れているからだ。矛盾を指摘されて、「そんなこと言ったっけ?」などはバカのつく嘘で、利口な人間はついた嘘をしっかり覚えている。もっとも、矛盾を指摘せず追い詰めたりもせず、「こいつは嘘をついているな」と腹の中で即断し、黙っているケースの場合が実は多い。

    コロコロ変わる嘘をいちいち指摘していてもしょーがない。年端もいかぬ子ども時分に母のつく嘘にやるせない日々だった。昨日言ったことが今日で違うのなどはいい方で、つい先ほどと数分後では違うありさま。そういう体験もあってか、本能的に嘘つき女を見分ける技術が身についた。技術というのも変だが能力ではおこがましい。幸い妻は嘘にまったく無縁の女。

    これまで一度たりとも自分に嘘はついたこともなければ、誰にも嘘をつかない女である。おそらく嘘のつき方を知らないのだろう。自らに嘘のつけない彼女に顕著なのは、「できないことをできない」と、正直にいえること。姑はその必要がない時に、「下の世話を頼むことになるかもしれない…」などと財産をちらつかせ、意地汚く嫁の腹を探ろうなどは頻繁だった。

    そんなときに、「私は下の世話はできませんので…」と、ハッキリ姑に言っていた。もっとも姑自身、嫁と人間関係が円滑でないことは分かっていることもあり、嫁に赤子の如き下の世話を望む気持ちはなく、単に腹を探っているに過ぎない。底意地の悪い人間は、相手の腹を探ることをあからさまにやる。人の腹を探るような物言いほど気分の悪いことはない。

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    高尚なる人間同士の腹の探り合いは、相手に気づかれずにやるが、バカがやると見え透いて滑稽である。おそらく妻もその辺りを嗅ぎ取っていたのだろうが、人間関係が樹立していない同士が相手に身を預けらるほどバカにはなりたくない。そういう理性が母にあるかどうかは不明だが、姑が慈悲をもって妻に優しく接していれば、嫁とて下の世話は厭わないだろう。

    人と人の関係(情)とはそういうものだ。昨今は身内といえども、そうした心労を回避できるよき時代にある。お金という負担は必要だが、金銭には代えられない心労負担を専門家に任せるのは社会の先進性である。人の嫌がる仕事を業とするのは昔も今もある。「親を養老院にいれるなどは恩知らずの親不孝者」などという硬直した考えが廃れたのは時代の流れであろう。

    優しくしてくれた人への下の世話が、恩返しの意味を持つように、自分を虐げる人には御免被るというのは偽りなき人間の心情である。自己を偽ることに長けた人間は、いかなる不満も自らの良心に変換できるが、妻にはそうした器用さはない。無理をすればストレスとなり自身を破綻させる。よって嫁と姑の関係は、「姑も姑なら嫁も嫁」という、相互批判で丁度いい。

    そのように言い合うことで、互いの不満のバランスを保っている。何事も無理をすると卑屈になる。大学が遊び目的なら中退者も増える。猫も杓子も大学ではなく、真に学びたいものだけに国費で援助しても国家の利益となる。大学の授業料無償化案も現実味を帯びてきた昨今である。しかるに小中学校は無料なのに、大学はなぜに有料なのか?考えてみると面白い。

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    義務教育がなぜに義務なのか、小中学校へ行かないと社会生活に不都合が生じるからだ。読み書きが出来ない大人は、「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることが難しい。「進入禁止」という文字も読めない意味も理解できないなら大変だ。高校進学率も義務教育化という現状だ。ところが大学教育は、受けなくても、「健康で文化的な最低限度の生活」には支障がない。

    「小中学校へ行くか否か」の差と比べれば、「大学へ行くか否か」の差は小さい。そう考えると、大学進学を義務化して無償にする意味は何なのか?確かに真面目に勉強する大学生もいるが、そうでない人がむしろ多い。大学生に勉強を強要する義務は大学側にも教授にもなく、勉強しない学生が卒業できないリスクを考えて自己責任でサボることができるという現状である。

    ならば授業料無償化案が議論される背景はどのような理由であろう。これは有能な学生に照準を当てたもので、例えば、「センター試験の得点が平均以上であった者については、授業料を貸与する。5年以内に卒業した場合には返済を免除する」となるなら、真に学ぼうとするものにとって朗報となる。優秀な学生を大学に無償で行かせても日本経済への貢献度は高い。

    これに対し、「大卒は生涯所得が高いから自分で学費を払わせるべき」という反対意見がある。大卒は高卒より生涯所得が数千万円高いとなっている。ゆえに、「大学生に奨学金を貸与し、将来の所得で返済させれば良い。卒業時に免除する必要はない」という二つの考えについてだが、「大卒が生涯所得が高いのは、それだけ日本経済に貢献しているからなのか?」

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    もしくは、「大学卒の肩書きがあると就職活動で有利であることが、生涯所得の高い仕事に就ける」理由なのか?一体どちらであろう。大学の在り方の問題としては全社であるべきだが、後者の理由で大学進学者も多いのが現実である。こういった議論が乱舞しているようだが、現実と理想の狭間にあって、大学の存在意義について考えるなら前者の方向性が理想である。

    大学の話はさておき、人間関係に於いての興味は尽きない。何歳になっても自己を偽って生きる人は、どこかの時点で自身の実在感を求めなかったからだろう。誰でも自分は「そうだ」、あるいは、「こうだ」と思っている。が、それは真の自分ではなく、嘘の自分であったり、自分がそうありたいと願っている姿であったりする。そこに本人が気づこうとしない。

    人間が自己の深みに至れないのは、自分に嘘をついているからである。その嘘をつき詰めて崩壊させるのが怖いのだろう。確かに宗教的バックボーンもなく、付和雷同型の日本人が自己を偽ることに関しては得意のようだし、まら、偽ることが許される環境の中で育ってきた。これが、「性善説」である。人間はみんないい人なる説は、確かに人間の一面であろう。

    もう一つの面は、人間はみんな悪いんだということ。だから教育しなければならない。朝鮮半島が火種になっているが、「誰もが平和を願っているはずなのに、なぜ戦争の危機が起きるのか」というのは木を見て森をもない疑問である。ようするに、誰もが平和を願ってはいず、誰もが戦争をしたくないなどと思っていないのだ。平和を願うのは人間の本音であろう。

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    が、本音は決して一つだけではない。平和を望まないのも人によっては本音である。その国民がどういう国民であるかを見るためには、国民の選んだリーダーを見るのも方法だが、国民によって選出されない非民主的世襲国家も存在する。世界が一つにまとまろうとすれども、一筋縄でいかない国の問題もある。政治家は社会を動かすには、「性善説」がいいのを知っている。

    が、真の政治理論は必ず性悪説をとるとも言われている。性善説は支配階級には都合がよく、庶民にとっては都合が悪い。したがって、性悪説をとることは庶民を生かすことになる。社会は政治によって動かされるが、社会によって政治が動かされるのは革命である。政治主導の社会は、これだけが人生だと言わんばかりの人生を作りがちになる。学歴社会しかり…

    そうしてそれらを社会的圧力によって集団の成員に強制してくる。国民しかり…。しかも、その圧力はやがては国民に内面化され、内側から人間を規制してくる。危険なことだが付和雷同日本人には、「右に習え」の資質がある。規制や束縛とは、失うもので、ゆえに自分は、規制や束縛を嫌っている。学歴社会に絶望感を抱くものは、絶望を通してしか物事を見なくなる。

    すべての、「関係」というものは進行形である。決して固定されていない流動的なもの。愛する者同士は憎しみ合い、信頼関係は不信に、昨日までの平和が一変して対立に、一挙にして変わる。そうした変化をもたらせながら人間は強者になっていく。敵を作れるか、作れないかも人間の行動の真価がかかっている。敵を作る行動に出られないものは何事もなし得ない。

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    黙っていさえすれば立派で道徳的と奉られるのに、あえて不道徳のかぎりを尽くせる人間は魅力的であり、彼こそ真に道徳的な人間であろう。世間が偽善に固まっているというなら、世間が抹殺しようとする人間こそ道徳的である。こうした逆説的論理は結構存在する。誰もが遅刻の言い訳を考える中で、「寝坊しました」とあえて言える人間こそが道徳的であると信じていた。

    何事も、「右へ習え」が正しいとは思わない。自分が新しいものを作って見せようとする人間の意気込みこそバイタリティーである。他人から尊敬や感謝が欲しいなどの人間はそれだけの人間であって、そんなものを振り捨ててでもあえて行動できる人間にこそ魅力的である。他人に、「わかる」、「わかる」などと言われてご満悦では、どこか人間として小さすぎないか?

    分かり合うことが最大の徳ではなかろう。他人から見て、「わかる」、「わかる」の行動よりも、「分からない」、「理解不能」という行動こそ魅力的と感ずる。というのも、「わかる」、「わかる」という行動に生の緊迫感というものが足りない。かかる行動によって、周囲が一変することこそ行動足り得るし、やりがいある人生であろう。何をおいても人生は楽しむためのもの。


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    言い訳とは、「何らかの事情で窮地に追い込まれたときに思わず発してしまう言葉、表現」 のこと。 大企業であれ、中堅中小企業であれ、どのような業界であろうが、 営業担当者はやたらと言い訳を口にするが、彼らには自由裁量が与えられている分、言い訳の発生する余地はある。言い訳は所詮言い訳であり、言わない方がいいに決まっていると思うが…

    言い訳をする要因は山ほどあるが、あまり物事を考えない人間が深い思考ナシに行動してしまった時になど、言い訳の世話になる。もし、素直に自分の非を認めるとどうなるか?上司からは無能の烙印を押されてしまい、昇進や出世に影響する。それが怖いのか?将棋の弱い奴が負けた言い訳をどのように言おうと、相手から見れば弱い以外のなにもない。

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    自分を弱いと認められないのは自尊心が災いしているのだろうが、だったら相手に、「強いですね~」と言えばよいのに、それすらいえない。人によっては臆面なく実力の違いを認める人もいる。勝った側にすれば、実力伯仲の相手かどうかは指して見れば分かること。相手に謙虚になって欲しいのではなく、実力差のある者がなんだかんだ言い訳されても言葉を失う。

    薄氷を踏む勝利なら相手を称えもするが、圧倒的棋力差のある相手に負け惜しみや言い訳をされても、本音は返せないものだ。自分の弱さを正確に認識するのも力量だから、負けて言い訳三昧というのは弱い以前の問題である。営業マンの言い訳も似たようなもので、上司からすれば能力のあるナシは把握しているゆえ、無能者の言い訳は聞くに堪えない。

    有能者なら…というより、有能者は無様な言い訳はしないもので、そうなると逆に上司の方が事情を聞きたくもなろう。「一体、どうしたんだ?流れを話してくれんか?」と、これは言い訳ではなく説明を求める。無能者の言い訳に対し、有能者は説明となる。「言い訳」を聞きたくないものなどいないが、下部社員の上司への説明(報告)は重要である。

    自分も言い訳はまるで聞かない派だ。言い訳をしそうな人間は分かっているから、する前から、「またか」となる。いつも思うことながら、言い訳大好き人間という種は、相手は聞いていないなくらい分かりそうなものだが、それにもめげずになぜ言い訳をするのだろう?言い訳の惨めさ、愚かさに気づかないのか?それ以上に言い訳は自身のためなのか?

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    自分の利益以上にみっともないが先立つから自分は言い訳が嫌いだが、言い訳をする人間はそこを考えないのだろう。上司や周囲から、「言い訳なんかするんじゃない!」と叱られたり、言われたりしても「言い訳」を拠り所にするのか?確かに管理職は言い訳を聞くのも仕事の内というが、言い訳をご法度にしたら下部社員はやるせないことになるのか?

    自分も甘ったれていた年代には言い訳をしたかも知れない。自らにきつく戒めていたからあまり記憶にないが、どう考えても言い訳のくだらなさは実感させられる。それでも聞いてもらえると気持ちが癒されるから言うのだろうが、バカ丸出しとしか思えないから自分にはできない。他人の言い訳はその人の問題であるから、他人の「善」に批判はない。

    が、男の言い訳は女々しく、言い訳のない人間関係は信頼に満ちている。言い訳という自己救済をせず、じっと内に秘めているときの人の気持ちに心を寄せてしまう。切羽詰まったときに、他人さえも自分の弾除けにする人間に、心を許せるはずがない。どう考えても自分が悪いにも関わらず、他人に罪をかぶせたり、逃れる算段をするなどは卑怯者である。

    過去、言い訳を多発する人間に好意を持ったことはない。が、女は別だ。女の言い訳を咎めないと決めている。「女性は言い訳するもの。モテる男の恋愛はそこを乗り越える」というが、許容するのはモテたいからではない。言い訳も嘘の内と分類するが、嘘は大きく分けて以下の3つに限定される。①幻想的な嘘。②社会的承認を求めるための嘘。③自衛上の嘘。

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    ①は男には理解しがたい女の感性であり、本やアニメで見たことを現実が如く錯覚して喋る女は珍しくない。②は自分を良く見せたいという虚栄心や背伸びであり、嘘の程度としては①よりもレベルが高い。③は非力な女性の防御策である。自分が失敗したり、窮地に追い込まれたりした際、その責任や苦境から脱しようとしてつく嘘だから罪と言えば罪であるが…

    ただし、人を陥れるような嘘をつく女は絶対に許さない。嘘にはついていい嘘とそうでない嘘があるが、人を陥れるような嘘はその極め付けであろう。こういう人間は傍に置けないから、追い出すか自分が去る。自衛上の嘘は本能の絡みもあるから、男女の識別なくこういう嘘は男でもつくが、自分の失敗を咎める言葉は存在しないと自分は思っている。

    また、恋愛においてはその時、その場にあって気持ちを高揚させるための嘘は許される範疇であろう。人間は言葉によって情緒さえも変動する特権を与えられている。ついていい嘘を許容しなければ人間の生活はあまりに無味で乾燥したものになろう。「嘘」の媚薬効果は誰もが知っているが、あまりに多用すると、人は嘘になれてしまい、効果も半減する。

    男も女も嘘をつくが、男の嘘を許容できないのは、自分が男であるからだ。異性は分からない部分が多だあり、ゆえに許容する。忘れられない女がいた。彼女は、「ノー」が言えない典型的なタイプで、勤務先退社を公言した際、仕事上(証券会社)の大口顧客から慰労食事会に誘われた。ところが好事魔多しというか、そのままクルマでモーテルに突っ込まれたという。

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    こうした男の行為は、同じ男として批判できない。女の態度遺憾によって犯罪か同意か決まる。女もいろいろで、予期せぬ事態にあって蛇に睨まれた蛙が如く何もできない女がいる。顧客であれ、食事をご馳走になったとしても、ザックリ抵抗する勝ち気な女もいるが、彼女は言葉を発せないタイプである。数日後、その時のこと一部始終を告白したのだった。

    当時は週に一度会う程度であったから、彼女が告白したのは事があって後のデートの日であった。デートといっても親と同居の彼女が自分の部屋に来て食事を作ったり、音楽を聴いたりであった。彼女は余程の決心があったようで、言葉少なに淡々と話し始めた。終始説明に徹し、言い訳の類はなかった。20代の若い自分は、彼女の告白にただ驚くしかなく聞き入った。

    黙っておけば分からぬことをあえて口にする彼女の良心を受け入れるキャパもなければ、自分という恋人がいながら、貞操を死守する義務感の無さに腹がたった。出会って2か月で数回程度しか会ってない自分と、数年来の顔見知り客とでは、自分の方が遠慮はあったと察する。自分は彼女を責め、彼女は許しを乞う言葉はなく、告白の結果にわが身を託していたのかも知れない。

    彼女の涙は作り芝居でもなければ、自身の不甲斐なさを責めるものだった。本来、責任の取り方とはこういうものかも知れない。彼女の愚行を自分は許せなかった。その日を境に二人は会うことはなかった。これが男の矜持であり、それを遵守したまでだ。そして数年が経って、自分が成熟した暁になって、彼女は自分のその後における女性観の規範の女性となった。

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    自分にとって忘れることのできない範とする女性は3人いる。一人はデートの際の彼女の支払い分をメモして、貯金箱に入れていたM、そして彼女と、さらには、私が灰皿を持って歩くからタバコのポイ捨てをしないでと懇願したYである。自分の人間観に影響を与えたこれらの女性は、自分の考える人間というものを遥かに超えた存在として頭に焼き付いている。

    それぞれは、道徳心というのか、良心というのか、善意とでもいうのか、さらには人間としての行動の起点というべきなのか、いずれも自分の人間観を超えていた。我々は人に許しを乞うという偽善をあまりに軽率に行っている。許しを乞うことで、他人に自分の存在を認めてもらおうという意図が隠されている。詫びて、謝って、なんとか自分を認めてもらおうと…

    さまざまな謝罪というものを目にしたが、上記の彼女ほど誠実な謝罪をそれ以前も以後も体験したことがない。なぜなら、彼女は謝罪の言葉を一言も発しなかったからだ。女なら誰でも大好きな、「ごめんなさい」、「許して」などをまったく口にしなかった。犯した罪の制裁というのは、相手が自分を憎み殺そうという怒りを受け入れることだと、それを彼女から見て取った。

    詫びることで相手が自分を抹殺しようとする怒りをくじき、それによって自分の罪を免罪するという狡さ、卑怯さが微塵もないところに偽善が感じられなかった。人間は徳を身につけた者が立派ではなく、純粋で素直な人こそが自然に満ちている。なぜなら、人為で徳など身につけなくても自然であることが素晴らしい。彼女の自然さは身につけないことで備わったもの。

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    謝って受け入れられようととする弱者の偽善に比べて、その自然さの根拠は分からないが、自然の美というものは美を意識することなく、勝手に存在していると考えられる。それを我々が勝ってに、「自然は美しい」と言っているだけで、決して美的に存在してはいない。したがって人間は、自らの罪の許しを乞うという偽善を犯すかぎり、生の実在感を手に入れることはできない。

    謝ることで、この世のいったい何が変わるのか。相手にかけた迷惑が取り返せるものではなかろう。変わることがあるとするなら、謝罪によって相手の憎しみがやわらぎ、自分の存在を相手に認めてもらえることになる。これを意図して我々はあらゆる偽善を犯している。善良そうな顔や行動の裏にあるものは、弱々しく相手にとりいって生きようとするしたたかさである。

    こうした思索を与えてくれたのが彼女である。黙ってさえいれば敵も作らないし、非難もされずにすむのに、あえて敵をつくり、非難される行動に出られる人間を真に道徳的といったのはこういう意味。真実というのは、言う側も聞く側も双方が傷つく。だからこそ真実は価値を持つ。それを教えてくれた彼女は今どこに?決して消え去ることのない一期一会の奇縁である。


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  • 08/20/17--23:29: 人間理解の難しさ…
  • およそ人間について、どれだけの思考を持って推し測ろうとも、人間を理解することは至難である。ゆえに人間は偉大であり、反面愚かな生き物でもある。人間は、人間が人間であるという尊厳を、いったいどこで保てばいいのだろうか。神が人間を苦しめるのか、人間が人間を追い詰め、苦しめているのか…。無神論者の自分にとっては、いうまでもない後者である。

    人と人はいい出会いもあり、よくない出会いもある。いい相手、よくない相手の見極めができない時に、いいも悪いもない。そこを思うと、いい相手、よくない相手はひとえに自分の力量にあるとするなら、精神が幼い時分にいい相手に出会ってもダメに決まっている。時期が煮詰まった時に巡り合うのが理想であるが。人の出会いはそんな都合よくは行かない。

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    沢山のいい相手にも恵まれ、同じように悪い相手にも遭遇したが、スルーもあったろう。が、大事なことはそれらを通じて、規範意識を完成させること。であるなら、全ての出会いは自分の肥やしになる。「いい出会いがない」、「男運が悪い」などの言葉を耳目にするが、人間はそういうものだ。自身が深遠なる目を持たずして、あれこれ勝手気ままをいうもの。

    人を正しく見るためには、自らも熟成されていなければならない。「自分を客観視すれば心の平穏が…」という芭蕉の言葉(「茶や与次兵衛宛て書翰」)から派生したものだが、自分を客観視するための方法は以下のようなものがあるのではないか。①1人になる。②他人の意見に耳を傾ける。③普段会わない人と会う。④電車の中で携帯に夢中にならず夢想する。

    ④は多少の皮肉も入っている。人間は動き始めると立ち止まるのは容易でないと書いたが、自分がしかと自分を見つめ、自分の人生を変えていくために一度や二度は立ち止まる必要がある。ただがむしゃらに、ひたすらに走るだけなら、過去の延長でしかなかろう。過ぎ去った自分であるが、あの時の自分に何が必要だったか、そのために立ち止まり自分を客観視する。

    「温故知新」という慣用句も、この場合には適切だ。言い訳は薬味があるようで、実は自分のためにはならない。さまざまな事柄から言い訳を排して生きる自分だが、あの時の彼女の真摯な心の美しさに自分は、まだまだ到底足りていないかも知れない。当時は、「何でだ?」と、訳の分からぬ錯乱状態であったことが、今にして、いい場面に対峙できたと思っている。

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    こうした書き込みも自分自身を立ち止めているのだろう。巷いわれることだが、いいことも悪いことも肥しになるというが、肥しにするからなるのであって、記憶の中から捨て去られたことも多い。真理を説く聖人もいれば、真理を説く宗教もある。真理という高尚なものは、なかなか手にするのは至難だが、真実というのは日々の暮らしのなかにいくらでもある。

    自分にも他人にも嘘をつかず、他人を思いやることこそ理想の生き方。通俗的な発想だがこれがなかなか難しい。自分の利害を超え、さらには自らを賭す気持ちがなければ真実は語れない。近ごろは、「文春砲」という言葉も生まれ、取材合戦が社会現象になっているが、陰でこそこそとよろしくやってるつもりが、余程上手くやらないと暴かれてしまうご時世だ。

    暴かれた者たちは腹の中で、「クソったれ文春めが!」と憤っていると思うが、誰にに怒ったところでそれが事実であるなら認めるしかない。ところが、何故にかあらたまった謝罪会見なるものを開き、鏡の前で何度も練習したであろう繕い顔で謝罪とお辞儀を披露する。「謝罪会見」という名前よろしく謝罪がメインとなるが、バレて腹が立っているのに謝罪とは疑わしい。

    世間がどう思おうと、謝罪のふりをしてみせる。いわゆるポーズという奴。正しくは、「クソったれ会見」というのが相応しいが、そうもいかない。それにしてもだ、こそこそやっていながらそれがバレて謝罪ってのは可笑しな話。いっそ本音で、「文春のクズ週刊誌め、分からないと思ってやっているのものを、人のプライバシー暴いて稼ぐなよ!」と言えば立派だが。

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    何の謝罪で何を謝っているのかさっぱり分からん。例えば、万引きで捕まって、「ごめんなさい」というのも、どういうごめんなさいなのか?悪い事したからごめんなさいなのか?それとも、悪い事をしたのがバレたからごめんなさいなのか?どっちもどっちとしか言いようがない。ようするに、「ごめんなさい」というのは、いかにも便利な言葉として使われている。

    見つからなくてとも悪い事ではないのか?子どもじゃないならそんなことは分かっている。であるなら、見つかったことで、「ごめんなさい」をいう機会を与えてもらったということになるが、そんなごめんなさいのどこが謝罪であるのか?バレたことで自己保身に及んでいる不甲斐ない人たちである。とりあえず、「ごめんなさい」を言っておけばということだ。

    なんというくだらなさであろう。バレなければいいものを、バレたから謝るということなら、バラされた文春に怒れよ。どこに向いて頭をさげている?体裁を繕っているバカどもである。本当の謝罪とは見つかる前に、「自分は悪いことをしました」と、それなら分からなくもない。見つかった謝罪のどこが謝罪か?謝罪言葉を言わされる羽目になっただけではないか。

    前回書いたように、自分の罪を自身で認めてそのことを謝罪することよりも、あった事実を相手に伝える必要性がある感じたのは、義務感だろうと思われる。なぜに義務を感じたのかは彼女の気持ちだから分からないが、推察は可能だ。告白することで何の得もなく、黙っていれば知られることもないことを正直に述べようとするのは、如何に正直な子どもでもできない。

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    あのときなぜ彼女がなぜ告白したかについては、折を見ては考えたりしたが、彼女自身が自らに対する愚かさ、不甲斐なさが許せなかったのだと結論した。ホテルに行くことを了承したのではなく、いきなり車で突っ込まれた時の明晰な対応ができなかったことへの後悔。相手が上得意顧客ということもあったのかも知れないし、危機管理意識の欠如だったかもしれない。

    それでも黙っていれば素知らぬ顔でいられるが、自分に嘘をつくのが耐えられないというほどに、その時の自分を強く責めたのではないか。自らを責め、自らを恥じ、自らの人格を罵倒されようと、事実を告げるべきと決断した。これはもう、「自分はいい人なんかではない」という告白も兼ねている。人は誰でもいい人ぶるが、こうまで自身の屈辱を披露できるものだろうか?

    人間はここまで正直になれるものだろうか?自らの意志で行為したことを問い詰めても嘘で誤魔化し、逃げ回るのが本来の人間だが、自分より2歳下で当時23歳の彼女の人間性レベルは自分を遥かに超えていた。これらの考えは数十年後を経た思考であり、当時はバカな女だと思っていた。同じ話ではないが、「なぜだ?」と感じたのは『レ・ミゼラブル』のなかにもあった。

    自分と間違えられて逮捕された男を救うために、一切を投げ出したジャン・バルジャンの利害を超えた人間の尊さをユゴーは描いていた。仏教やキリスト教には、「懺悔」という行いがある。中国には、「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉がある。懺悔は、自分が犯した罪や過ちを反省し、神仏や他人に許しを請い、心身の苦悩からの解放を求める宗教行為。

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    キリスト教で懺悔(ざんげ)というが、仏教では懺悔(さんげ)という。「天網恢恢~」の語句は、老子第73章にあり、「天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰を被る」ということ。これらの言葉はあっても、人の意識にそのまま内在することはないが、自身の良心と闘う人はいるだろう。

    自分の意に反することは、いかなる状況であっても拒否は可能と、自分の照らして他人を考えなかった若い時代に、「あなたに好意があったからあなたの営業成績に尽くした」(彼女の言葉)などと言われたというが、卑怯者はやるためには何でもいうものだ。告白を聞きながら、その場の状況を考える余裕もなく、ただ裏切ったくらいにしか思わなかった当時の自分。

    善人というのは、善人であるがゆえに悪人さえも許容してしまう。そこのところが善人であることの問題点で、悪人はまた善人を手玉に取りやすいということもある。嘘を嘘として認めないで生きるのが、嘘つきにとって楽な生き方であるように、真実を隠して生きるのは、善人にとっては心苦しいこと。今ならそうした道理も理解するが、あまりに自分は若く無知だった。

    男と女がプラスの世界を築き上げるためには犠牲を少なくすることだが、人間にとってもっとも難しい踏み絵とは、その人のために今までの自分を壊すことができるかということか。彼女は自分の知らない世界で生きていた。それゆえに自分の意志ではどうにもならない世界であり、そうした中で彼女と自分の関係を迫られるが、これは人と自分の対決という言い方もできる。

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    「共生」、「共存」というのは綺麗な言い方だが、その境地に至るまで人間同士は闘いである。当面は彼女の表面的な、「木」ばかりを見るが、やがて互いが心の奥の、「森」を見ることになったとき、さらには何の覆いもなく、自分の存在にその森が触れてくるとき、相手と自分の世界が構築されることになる。それまで互いはまさに、未開の地、奥まった森である。

    若さというのは自分の目に映る相手ばかりで、相手の目に映る(であろう)自分の姿など考えもしない。主観ばかりが鍛えられ、増幅されるが、客観というのはたまに、申し訳程度に顔を覗ける。「若さとは無知である」。これで言い得ている。ならば若者には若者好みというものが備わっている。今の自分に、「若者好み」なるものは逆立ちしても備えがない。


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    「集中講座」とは、ある期間限定的・集中的に何かについて考えたり、学んだりすることをいい、短期集中講座ともいう。人間の思考はさまざまに分散されているので、集中することで集中力が呼び起こされ、効果を高めることになる。ドイツ文学者でながらく早大教授を務めた子安美智子が、先月2日83歳にて他界した。子安は日本にシュタイナー教育を紹介したことで知られている。


    当ブログにも書いたが、シュタイナー教育を実践するシュタイナー学校はエポック授業で知られている。エポック授業とは、毎朝、最初の2時限(100分間)同じ教科を3~4週間にわたり集中的に学ぶ。このことで子どもたちは、「次の時間は算数、その次は社会…」と、絶え間なく別の領域に放り込まれることなく、落ち着いて一つの教科を集中的に学び、深めることができる。

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    エポック授業で扱われた教科はしばらく間をおいたのち、再び授業で取り上げられる。こうすることで学んだことが休んでいる期間に子どもの内面で消化され、深く受け止められることになる。シュタイナー学校は12年一貫教育だが、最初の8年間を一人の教師が日本でいう中2までずっと持ち上がりで受け持つ。どの授業にも教科書がなく、テストもなければ通信簿には点数がつけられない。

    とまあ、シュタイナー教育はともかくとして、集中力を養うには集中するのが良いと言いたかったわけだが、話は変わって、「この世は一体何でできているのか?」についてはさまざまに言われるが、「物質は原子、社会は人間関係」ともいえるし、「無と有でできてる」というのも一つの答え。釈迦は「この世は無常」といった。無常とは、常ならぬということだから、常に変化を止めない。

    仏教語の、「色即是空・空即是色」という言葉は決して難しい意味ではなく、全てのものは色がついて見ることができるが、空気に色はなく見ることはできない。「色即是空」の色とは見えるもの、空は見えないものを表す。それが同じであるというのは、見えるものは見えないものからできている。つまり、形あるものは必ずその形を作っており、現代人は原子といい、釈迦は空といった。

    「色褪せる」という言葉がある。「色」つまり、「物質」は、「褪せ」てしまうもの、つまりは無常なるもの、消えて無くなるもの、といっている。したがって、「色」は、つまり物質は、実在するものではないということだ。「この世は何でできている?」について自分の考えは、この世は、「嘘」と、「真実」でできているとした。同じ記述を探したが、そのように述べるものは誰もいない。

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    いてもよさそうと思うが、それほど特異な考えでもあるまいに…。だから、嘘と真実について思いの限りを集中的に書いた。「言い訳」も嘘が多いのではないか?嘘をついてまで自分を正当化しようとする人間の浅ましさ、どこが偉大であろう。「言い訳」に対して、「説明」は真実の場合が多い。起こった事実を(自らの都合で)否定するのが言い訳、あった事実の誤解を説明で晴らす。

    これが一般的な、「言い訳」と、「説明」の用法だろう。自分の経験でいえば、ここにも書いたことがあるが、探すのも大変なので改めて書くが、入社後数か月の女子社員が自分と関係を持ったと流布していた。当人(自分)の耳には全く入ってこなかったが、ある日上司に呼ばれて正された。「君は〇〇と関係を持ったと耳にしたが本当か?」といわれた時の驚きは今でも忘れていない。

    「ない」ものを、「ある」といわれた時、人間は驚くしかない。特に性的関係を持ったなどといわれなき風評には驚きとその後に笑止となろう。文春の記者が宮迫に突撃取材をしたのが映像で流されたが、自分は宮迫のアクションのワザとらしさに笑えてしまった。とぼけて否定するさまが「マンガ」である。自分の場合はまったくの虚偽であったから、言われた時は、「えーー?」の声しかなかった。

    その次にどう言ったかは忘れたが、「誤解」という言葉は言ってない。ようするに、誤解も糞もないし、誤解を受けるような行為は何もしていない。ただ、彼女がなぜそのような嘘を言うことになったかに心当たりはあった。自分を陥れるためというのではなく、誘いを断った返報感情であるなら理解はするが、その程度のことを根に持って、関係したなどと言いふらすのは理解不能。

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    上司に説明するもなにも説明のしようがない。説明する材料がない。だから、「あり得ない、大嘘です」というしかない。「ホテルには行ったけでやってません。潔白です」などの状況すらないが、もし肉体関係が事実であったなら、言い訳をしたのだろうか?自分の性格ならそれはない。「バレましたか?本人がそうだと言ってるなら反論の余地もないですね~」という。

    別に社員規則違反をしたわけでもない。あった事実を自分の利害に結び付けて否定するなど、キン玉のない人間だろう。上司は自分の言葉というより、表情や反応から虚偽と読み取ったに違いないが、「なぜ女子社員がそんな嘘を?」というのは自分と共通の疑問である?おそらくその言葉は言われた気もするし、「さあ、分かりません」と答えたような気もする。そういうしか言葉はない。

    余りのバカバカしさに女子社員をとっちめるとか、意図を聞く気も起らず以後は無視した。確定している嘘を問い詰める必要はどこにもない。周囲がそれを信じていようが、自分の何に影響もない。自分は交際している女から何かを疑われたりした際、否定をしないことが多かった。「お前がそう思うならそれでいい」で終わる。勝ち気な女は面倒くさいから、それでは収まらない。

    「何でよ!違うなら違うっていえばいいじゃない。何よ、その言い方!」と、小うるさい。以前は、ないことは、「ない」とか、「違う」とか言ったりもしたが、「嘘でしょう?」、「下手な言い訳しないで!」とか、言われると腹が立つ。自分の平安のためにも、「勝手に思ってろ!」と相手にしない。相手の言い方にもよるが、品のない一方的な言い方には反論する気すら起こらない。

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    「そんな言い方ないんじゃない?」という女にこう言って口を封じたことがある。「人はお前の望んでるような返答をするとは限らないんだよ。言い方が気にいらないというのは、人を自分の思い通りにしたいという傲慢さの現れ。悪いけど、俺はお前の自由にはならん」。他人の返す言葉にいちいち文句を言うではなく、それに対する反論をすればいいことではないか?

    「そんな言い方はしないで」は余計なセリフだろう。こういう小うるさい女は、母親のこともあって気持ちが萎える。気持ちが萎えればナニも萎える。プラスの人間関係とはいえない。話の途中でいきなり感情的になる女に、男は心を塞ぐだろう。話が感情的になった時点で火に油を注いでも仕方がないと考える。こちらが冷静になって、相手もそうなることを望むしかあるまい。

    人間関係は二人で作るべきもの。性格が合う、合わないと即断するより、合わせようとすることも必要だから、ヒステリー性向の女が、「私に合わせてよ!」といわれたとしても、それは無理というもの。女が怒りまくっているとき、男が冷静であることが余計に腹が立つというなら、どっちに問題があるか考えさせるしかない。互いが茶碗やコップを投げ合って、そんなに怪我をしたいのか?

    近年はキレる男というのか、DV問題が言われているが、冷静であることに不満であるなら、荷物まとめて出て行ってもらうしかないだろう。「感情的になるためにはどうすればいい?」そんな本は出回っていない。感情的な人間、普段から大口叩く人間は、ここぞという時に弱腰が多く、普段から冷静な人間は、ここぞという時に力を発揮する。「あの人は怒ったら怖い」というように。

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    冷静でいるということは、冷静にものを考えているということで、冷静に考えない人は拙速であったり感情的になって事を仕損じる。「孫子の兵法」でいう、相手を知り、自分を知ることが望まれる。小うるさい女相手にゴチャゴチャ言い合いする男もタマ無しである。キャンキャン吠えるスピッツを相手にしないシェパードでなければ、頭からがっぷり噛みつかれたらシャレにならん。

    お盆に久々実家に帰り、母と二十年ぶりくらいに顔を合わせた。「あんた、元気そうだね」と、自分の方から声をかけたら、いきなりこう返された。「なんなら、その顔は?」。主語も述語もない、投げやりな物の言い方は相変わらずだが、一体何を言おうとしているのか不明。喧嘩腰の物言いはいつものことだが、「一体、その顔は何だ?」と正しく言われても意味がわからない。

    しばらくして、「まるで土人じゃないか!」でやっと意味が分かった。日焼けして顔が黒い事をつっけんどに言ったようだ。20年ぶりに会う我が子への第一声がこれか?あらたな感慨に襲われる。「あらあら、随分と日焼けしているけど、どうしたこと?」、そんな母をいつも夢見ていた自分である。それなら話も弾もうというものだが、いきなり喧嘩を売られ、20年ぶりに気分を悪くした。

    話をする気も失せ、積もる話もないのは目に見えていると、僅か10分足らずの実家を後にした。家を出た時の、「この人と居るだけで精神がかき乱される」という、あの時のまんまが再びよみがえる。優しい心を持ち合わせない人間は、永遠に優しい言葉を口にすることはできないのだろう。同様に優しい心の持ち主は、人をないがしろにする言葉を永遠に口にすることはない…

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    世に偉大な人間はいる。実存する人間にも架空の人間にも偉大な人は存在するが、狭い社会で生きる我々にとって、そうした人物を伝記で読み、小説で知ることになる。子どもが、「尊敬するのは両親です」というのも他愛ない子どもらしい感性だが、入社試験の面接でこれを言うのは羞恥とされるだろう。決して両親が悪いというのではなく、思考があまりに狭隘である。

    インターネット創世期ころ(当時はパソコン通信といった)に、「実在のヒーローと架空のヒーローと、どっちがいいか」という熱い議論が懐かしく思い出される。 歯科医師の彼は実父を尊敬しているらしく、断固として実在のヒーローと言い張った。あの頃は、黒白決着つけなければ収まらない感性に蹂躙されていたのだろう。それぞれに拠り所があればそれでいい。

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    そういうものがまるでなかった。今に思えば若かったのだろうし、若さとは熱さであろう。今はそれに自己批判も含めた、「バカさ」もプラスされている。ユゴーの『レ・ミゼラブル』に共感する人は多い。ジャン=バル・ジャンは、数ある小説の中でもっとも有名な主人公であろう、それくらいにインパクトがある。彼の人徳を一言でいうなら、人間としての誠実さである。

    それプラス彼は、「他人に対して許された存在」という自分を排除している。これはつき詰めると、「甘えの排除」ということか。彼のその思いは一時期の、「許されない」ではなく、生涯にわたって自分が許されることはないのだという自覚は、恐ろしく強靭な精神力にちがいない。普通の人間が、「自分は他人に許されたかたちで存在し得ない」となると鬱になろう。

    一時期もホッとできず、許されざる存在として生涯疎外されつづけるのは大変なことだが、それも執拗に彼を追うジャベールの存在がある。ならばいっそ許された存在として生き、人間としての誠実さを捨てればいいのでは?と考えるが、これは理論的・現実的に不可能である。なぜなら、人間としての誠実さを捨てることは、他者にとって許されざる存在に転落するからだ。

    逆説的な言い方になるが、「人間としての誠実さ」と、「他人に対して許された存在」という二つを両立させるのはまさに敵対関係の如きである。しかるに二つの命題を両立させる努力は、何ら傷つくことなく人生の問題を処理するが如きの徒労であろう。人間というのは、こうした二つの命題に敵対することでしか救われない存在なのかも知れない。

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    人間と人間の真の人間関係というのは、信頼と尊敬である。が、それらは互いが人間としての惨めさや貴さや苦しさなどを、なんとか感じとっているという相手への感情である。そうであるなら、人間が人間としての誠実さを失ったとき、尊敬や信頼は消滅してしまうだろう。森村誠一に『人間の証明』という作品がある。何が人間であることの証明であるというのか?

    著名なファッションデザイナー八杉恭子には、黒人兵との間に私生児を産んだ過去がある。彼はジョニーといい、ニューヨークのハーレムに住んでいたが、恭子を頼って日本にくる。恭子は自分の過去を抹殺するため、ジョニーを殺害し、同時に自身の過去を知る関係者も殺害する。よくある手法だが、松本清張『砂の器』の天才ピアニスト和賀英良も同じ轍を踏む。

    清張も森村も『レ・ミゼラブル』は必読であろう。バル・ジャンも受刑者という過去を持ちながら実業家兼市長という名声を得ている。ところが自分と似た別人が誤認逮捕をされ、そのことで追われ身であったバル・ジャンの容疑が晴れ、危機回避となるはずであった。しかし、無実の罪で他人が身代わりとなろうとすることに苦悶したバル・ジャンは意を決して法廷に向かう。

    何ということであろう?地位も名誉も一切をなげうっての行為に誰もが唖然としたはずだ。果たしてこれだけのことができる人間がこの世にいるだろうか?確かに人間としてこれ以上はない崇高な行為であるが、清張や森村はバル・ジャンの否定するかの如く、あからさまな人間の真実を描いた。人間とはこういうものだ、これこそが、「人間の証明」であるとしたのだろう。

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    正義に殉じることは美しい。人間としてこの上ない行為であろう。が、雪印食品の牛肉偽装を告発した西宮冷蔵はどういう結末にいたったか?いわゆる、「雪印食品偽装事件」である。西宮冷蔵水谷洋一社長の正義感は、雪印食品株式会社を倒産に追い込んだものの、西宮冷蔵自体も取引中止が頻発し、休業を余儀なくされた。これが社会正義を行使した顛末である。

    正義は悪にとっては害悪である。となると、告発以降、取引を中止した企業は、「悪」ということになる。悪の意味は企業の論理からすれば複雑な意味を含んでおり、雪印食品以外の他の業者は、雪印を敵に回した形の行政まで潰しにかかっている図式が見え隠れする。官から営業停止を受けたのも、会社と取引をしてて巻き込まれたくない他の業者の本音が浮き彫りになる。

    水谷社長の行為は国民に対する、「人間としての誠実さ」を示したものの、「他人(企業論理)に対して許された存在」とはならなかったということだ。上記したように、この二つを両立させるのは至難ということになる。水谷社長は企業側から許されたかたちでで存在し得ないという絶望感を抱いた。反面、国民から許されたい思いがカンパという形となっている。

    正義を貫いた代償とがこうした悲惨な結果となるなら、誰も正義を行使しなくなるだろう。いや、正義は代償を求めるものではなく、たとえ野垂れ死にしても悔いを残さずといえば聞こえはいいが、水谷社長は、善悪はともかく正義の代償を国民に求めてしまっている。決して物乞いではない。あくまで善意を…、ということなのだろうが、物乞いというのは善意を拠り所にしている。

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    水谷社長には同情とか、お気の毒とか、そういう言葉は相応しくないのかも知れぬが、さりとて彼は英雄というでもなく、適当な言葉が見当たらない。「正義」とは、"物事の正しい道理"であるが、企業というのは組織である。個人個人が働いているが、社員といわれる人間のほとんどが組織に埋没してしまってる以上、個人の倫理は腐敗していると言っていい。

    組織の人間は組織の命によって動く以上、水谷社長の正義は企業にとって迷惑以外のなにものでもなかった。結局企業の論理(正義)とは、我々にとって多勢に無勢ということだ。企業は利益を上げなければならない宿命を負うが、さりとて世知辛い世の中を実感させられる。世知辛いとは勘定高いの意で、反語が何かを思いつかないが、「質素・倹約」なんかどうだろう。

    世知辛いが勘定高いなら、打算と同義となる。打算の反語は、「無私」となろう。武士を捨てた芭蕉は、現実逃避から風流の精神に辿り着いたと書いたが、風流という言葉を今の時代で使うのは難しい。きらびやかで成金趣味と対照的な、そんな風流な時代もあったろう。風流の精神、風流な時代というのは、世知辛い世とは隔絶の感があったでは?そんなイメージが湧いてくる。

    「自分を客観視すれば心の平穏が得られる」と説いた芭蕉であるが、200年以上も経てば違った思想も生まれる。西田幾多郎といえば、日本を代表とする哲学者である。『善の研究』を著したが、これは難解であることでも有名だ。自分も人並みに読んだが、理解できない本は読んだとはいえない。したがって、読んだふりをした。岩波版は解説もなく気合をいれない理解は大変だ。


    近年は平易に噛み砕いた解説付き版もあり、『まんがで読破 善の研究』なるものまで至れり尽くせりである。もはや脳みそに汗し、気力と執念で読むべく本も今となってはない。幸いにしてYouTubeなどで偉い学者や評論家が、難解な本について語るゼミナールを見聞きすれば、他人の主観であるけれどもこれを、「受け売り」の芸という。年を重ねればそれも十分也。

    芭蕉の対比としての西田だが、彼は、「主観客観を意識しない状況こそ真実である」という思想を確立させた。「純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである」。(『善の研究』より)

    我々は普通、「主観」、「客観」という立場から物事をとらえ、考えようとする。「主観」は個人的な感情や価値基準、「客観」とは、個人の感情を抜きに物事の性質をとらえること。さらに注釈をいえば、「主観」は、これを好む、あるいは嫌う、自己の心の存在という自我の意識。対して、「客観」は、自己の好き嫌いに関係なく物事は存在するという、絶対性である。

    自我の意識に拘れば、「この世に確かなものはない。確かなのは、この世を自分なりに感じとる己の心」となるが、これを唯心論という。他方、物質の絶対性に拘れば、「この世は物質のみで動いている。見えないものは真実ではない」となり、これを唯物論という。西田はこうした、「主観と客観の対立」の図式に疑問を投げかけ、独自の思想展開で両者を一つにした。

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    京都・東山の麓にある、「哲学の道」は、銀閣寺橋から若王子橋までの疏水沿道で、約2km続く散策路である。哲学者の西田幾多郎らが好んだことから、「思索の小径」と呼ばれていたのがいつしか、「哲学の道」と呼ばれるようになった。そこには西田幾多郎の歌碑があり、「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり」という西田の人生哲学が刻まれている。

    これは西田の名言とされているが、このような当たり前の言葉でも西田が言えば名言となる。まあ、こういう考え方はいささか、「権威主義的」で自分は好きではない。誰が言ったかではなく、何を言ったかが重要と思っている。さりとて偉人や賢人の名言に耳を傾くことは多い。が、ルンペンであれ、年端のいかぬ子どもであれ、心を打つ言葉は誰彼なく素直に感じている。

    自分は自分、他人は他人と西田が述べているのは、「自分と他人はそれぞれ解釈は異なってもいいから、それぞれが自分のスタイルで貫けばいいと聞こえる。影響は受けても最後は自分であるということ。自分のことを人に決めさせるな、我が道は吾が決めよ。という風に聞こえる。とかく自分のことを他人に委ねるのは、自分にらず、自己にあらずとも言っているようだ。

    確かに主観と客観は対立する。主観が強いと客観的になれと言われたり、その逆もしかり。ならば、うまく使い分けるに越したことはないが、西田は主観客観を意識しなければいい、そういう状況こそが真実であるとした。西田はこの、「真実の世界」の具体例として以下の例えを述べている。今この場で素晴らしい音楽を聴いてうっとりしている状況があるとする。


    聴くものはうっとり聞きほれていて、一体この音楽はどの位置からどの程度のボリュームで鳴っているとか、今この場所に音楽を聴く自分が存在しているとか、音楽を聴いている自分は、この音楽のどの部分を好きであるとか、などなどと主観も客観も含めたそういう判断を意識しているだろうか?そんなものは何もない。ただうっとり聴き惚れているだけに過ぎない。

    「この状況こそが主観客観を超え、心と物事が一つになっている状況であり、さらにはこれこそが真実の世界である」と、西田は定義する。また、美しい花を見て、その花の美しさに心をうばわれているとき、「この花は形がこうでおおきさがこうで…」などの分析もない。それについ自覚や分析や判断という、「心の意識」がなく、目の前の物事ろ自分が一体になっている状態。

    「見る自分」と、「見られる物事」が区別されず、ひとまとまりになっている瞬間。自分と物質・物事は本当は区別するべきではないのではないか。自分の心と物事の展開は、両者を合わせて一つとするべきではないか。そもそも、「私は私だ」、「目の前の物事は、私から切り離されたものだ」という認識自体、人間の思い込みであり、区別なくひとまとまりにすべきではないか。

    真実の世界とはそういう世界ではないのか。 西田はこうした唯心論と唯物論の解放を、「純粋経験」と呼んだ。そして、「純粋経験」こそがヨーロッパ哲学的な主観客観を超えた、人間にとっての真実であると説明した。西田は、この思想をまとめた著書に、『善の研究』というタイトルをつけた。したがって、主観客観を超えた純粋経験こそ、「善」という西田の主張である。

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    なぜ、「善」であるのかについて、西田はこう述べている。「この書のテーマは人生の問題であり、人生にとって本当の善とは何かを説いている」。さらに西田は、「善とは自分の心の要求に応え、満足な気持ちになることであり、人間にとって最高の満足とは、ちっぽけな思い込みを超えて、宇宙との一体感を得、自分の無限性を感じ取ること」。意味は分かるが理解は難しい。

    つまり、西田の説く、「純粋経験」を得ることが、人間にとっての最高の「善」ということになる。これは社会のルールである、「法律を守る」といった客観的善でもなければ、「己の欲望を満たす」といった主観的善でもない。「純粋経験」とはそれらを超越した素晴らしい経験である。と、西田のこうした壮大さ、スケール感が凡人には分かりづらいものとなる。

    さらに西田はこうした、「善」があらゆる宗教の根本だとする。即ち、「純粋経験」を得るとは宇宙と心が結ばれること。そして宇宙こそがあらゆる宗教の神の根本であると説いている。「純粋経験」をさらに煮詰めていえばこの世に存在する対立の図式、「主観と客観」、「自分と相手」などという区別や対立以前の、名づけや言葉にならない状態といえば解るだろう。

    西田自身は、「純粋経験」を、主客未分の状態における直接的な経験と説明するが、これも分かりづらいなら、彼のいう具体例を思い起こせばいい。音楽を聴いて純粋にうっとりした状態そのものをいい、あることを判断したり、犯した失敗を反省したり以前の素因の状態にあるひとかたまりの、「何か」というものである。西田は禅思想に傾倒していたという。

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    よって、西田幾多郎いうところの、「純粋経験」という概念は、東洋思想のなかでも大乗仏教思想の禅仏教の世界解釈・認識論的解釈と非常によく似ているといわれる。前回のYouTube、「西部邁ゼミナール」のなかで、西部と佐伯が仏教思想について述べている。「『生』ががなくなって、『無』になってしまうというが、財布のお金が無くなってしまうというか、「空」になってしまう。

    その話を、「逆転」させることもできますよね?「財布はもともと空っぽだった」と。なんか、「いつの間にかお金が入ってた」と。それで、買い物に行っただけで、また「元に戻っただけ」の話。そうも言えますよね」。確かに、生けるものにとって死は辛いものだが、生があるからこそ死があるともいえる。仏教の無常観とは、全てのものはとどまらず、移り変わるものとする。

    佐伯はこのようにいう。「だから、『生』というものが、最初にあるというふうに言ってもよいけども、最初に何もない、『無』があって、無の中から、『生』がたまたま生み出されたと。私という生命体が生み出された。まずはね、その程度だというふうに、どこか考えておきましょうと…」。これを体系的にしたのが、「色即是空」であって、生をつき詰めれば空っぽとある。

    空っぽであっても決して無意味ということではなく、所詮人間は、無常観のなかに、「生」を漂わせているに過ぎない。西部は面白いことをいう。、「女性は日本列島に6000万人いるが、僕の前に現れる女性はごく限られていて、ゼロの時もあるけども大体一か二。この人とどうするか。婚姻関係を結ぶか、あるいは離縁するかといった選択問題、決断問題がいつもつきまとうじゃない?

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    そう簡単に、『空』とか、『無』とか言っておれん、というのが、『色(色即是空における「色」)』の段階。しかし、「どうしてこの女を選んだんだ?」と考えたら、根も葉もない理由でありまして説明しきれません、という意味においては、『空』となる。それに応えて佐伯は、「ある女性と結婚してみたが、どうもうまくいかなかった。で、取り替えてBという女性と結婚したい。

    それもどうもうまくいかない。じゃあ、もう結婚やめて、あちこちでB~Fと遊びましょうという話になってくる。これはまぁ、『自由主義の原理』であり、あるいは、『資本主義の原理』と言ってもいい」。というように、自由主義社会においては、離婚や浮気や不倫は避けられない。なぜなら、全てのものが自由意思で行為され、自由意思で選択されるからだ。

    西田の思想は、仏教の禅思想が出発点となっているのは間違いない。が、西田が参禅していたのは哲学のためと言うより、むしろ自身の個人的生活の上の苦悩からであろう。彼の個人的生活の上の苦悩は、芥川龍之介と似ており、そうした苦悩をエネルギーに変えて、西田は哲学を、芥川は小説に投じた。西田は苦悩から思索を完成したが、芥川は思索の果てに自殺を選ぶ。

    自殺の理由は種々あるが、芥川のいう、「ぼんやりした不安」というのも衝撃である。縁側にぼんやり佇む人が、その数分後に自殺をするものか?そういうことでも人は死ぬと考えれば不思議ではない。自殺寸前の彼はキリストの生涯に興味を持ち、死の床には聖書があった。人間が何かの崇高を抱き、それを人生の中心とするなら、自分を中心とする危険性も孕む。

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    芥川は西洋に憧れながらも日本の旧き美を残そうと格闘していた。芥川を尊敬していた三島由紀夫も同じ志を持った作家である。だから最後に自死し、自分の文学というものを永遠に留めようとした。人間はつき詰めて物事を考えたら、解決のためには自殺する意外に手はないかも知れない。そうした罪深い存在であり、批判的にいうなら、意地汚らしい存在ともいえる。


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    誤解を招く言い方だが(という前置きの要不要はともかく)、日本人の頭の悪さの要因はどこにあるのだろうか?ノーベル賞を授与された日本人も沢山いるではないか?彼らは頭のいい人たちでは?といわれれば、もちろんバカにノーベル賞が取れるものではないが、科学者というのはそれ以上に地道な研究態度が評価されることになる。頭が良くても情熱がなければただの人。

    「天才とは99%の努力」といったエジソンの言葉を思い出すが、寝食を忘れて本当に努力した人にとって天才の称号など、「そんなもん要らん」となるのだろう。井上陽水の歌詞に、「いつかノーベル賞でももらうつもりでガンバッてるんじゃないか」というのがある。フォークソングの歌詞にノーベル賞は驚いたが、陽水の歌詞に深い意味はない事は知られている。

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    この曲の冒頭は、「窓の外ではリンゴ売り、声をからしてリンゴ売り、きっと誰かがふざけて、リンゴ売りのまねをしているだけなんだろ」ではじまる。誰がふざけてリンゴ売りのまねなんかするだろうか?意味など不要、何でもいいから曲に歌詞がついていればいいという陽水の着想のようだが、素晴らしくも深遠な歌詞でノーベル賞を獲ったボブ・ディランとは違う。

    別に陽水を批判しているわけではないが、ミュージシャンの楽曲の歌詞がノーベル賞というのは、歌詞が文学として認められたということになる。これはディランの才能もさることながら、手を抜くことなくひたむきに楽曲に取り組んだことも評価されたのだろう。ディランは晩餐会のスピーチ原稿に、「信じられない。素晴らしい、夢にも思わなかった」の一文を寄せた。

    ノーベル文学賞選考委員であるソーダトン大学教授サラ・ダニアス氏は、「ディラン氏は賞にふさわしい人で、それでこの賞を獲ったのです。英語文化の伝統の中でも偉大な詩人です」と語っている。しかしディランの受賞に対して、欧米では是非をめぐる議論が巻き起こっているという。特に疑問の声を上げているのは、文学を本業としている小説家たちであるという。

    ある小説家は、「ノスタルジー優先の良くない受賞だ」とし、別の小説家は、「だったら私でもグラミーもらえるのかしら?」と皮肉った。ミュージシャンの書く詩、つまり『歌詞』を文学とされてしまうことに、文筆家を本業とする彼らが違和感を抱くのは分からぬでもない。が、あるイギリスの詩人は、「最も良い言葉が最も良い順序で配列されている」と称賛した。

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    ニューヨークタイムズは、「音楽界の象徴というべきディランの受賞により、賞に新しい文化的価値を加え、若い世代に身近に感じてもらいたかたのでは」というスウェーデン・アカデミーの狙いを分析した。ディランの代表作に『風に吹かれて』がある。当時のレコードには訳詞がなく、辞書を片手に必死で詩の意味を探ったが、ビートルズの愛や恋の楽曲とは異質であった。

    『時代は変わる』の歌詞にもどれほど勇気とパワーをもらったことか。中島みゆきにも『時代』という楽曲があり、♪ 時代はめぐると似た内容であるが、比べる必要はないけれども、チープであるのは否めない。ディランの頭が明晰で、陽水やみゆきがバカという事ではなく、彼らにも深遠な歌詞はあるだろう。が、ディランのノーベル賞には頷かざるを得ない。

    日本人の頭の悪さを感じるのは、日本人である自分が日本人を見聞きして感じるのではなく、西洋人の話の内容や語彙などから、日本人とは思考回路が大きく違うのを感じさせられる。例えば日本人コメディアンで代表的な人物は誰であろうか? 志村けん、萩本欽一、ビートたけし、古いところでは三木のり平や森繁久彌、植木等、小松政夫、伊東四朗などが浮かぶ。

    イギリスにモンテ・パイソンというコメディグループがある。ケンブリッジ大学、オックスフォード大学のコメディサークル出身者が、知的で皮肉と痴性あふれる不条理な芸風で人気を博した。片や、アメリカにジョージ・カーリンというコメディアンがいた。彼は自国アメリカの政治・経済や社会を痛烈に、しかも汚い言葉で批判することで人気を得たが、2008年に他界した。


    知らない人もいるだろうが、YouTubeに彼の映像がある。これを見ると、日本のコメディアンがいかにチープで中身も内容もないのが分かろう。カーリンもバカを言うが、彼のようにバカを演じる理性は日本のコメディアンにはない。近年はコメディアンからコメンテータに鞍替えする芸人が多く、我々は元バカ芸人から、バカ発言を聞かされているということになるのだろう。

    あくまでカーリンと比較してのことなので他意はない。しかし、日本人でカーリンのようなユーモアとペーソスに溢れ、しかも個性的で観衆を魅了させる芸人が、これまでもこの先も育つ土壌はあるのか?カーリンが冒頭に指摘するように、学校教育の問題が大きい。右向け右と言わんばかりの号令で、同じ種類の人間ばかりを造ろうとする日本の初等教育の使命である。

    アメリカは違うだろうと思いきや、学校教育をはじめとするこの国の真のオーナーとは、巨大に富んだ商業利権のオーナーたちだという。彼らがもっとも忌避するのは、情報に通じ、教養もあり、批評的な思考回路を持つ市民たちだと、まさにカーリン自身を名指ししているかのようだ。企業の利益に媚びるな、反する人間であれと、後人を発奮・扇動させるような物言いをする。

    数日前、雪印食品を廃社に追い込んだ西宮冷蔵の告発を取り上げたが、社長の水谷洋一氏の動機は、「これで自分は英雄になれる」という目論みがあったという。不正を告発した正義感は立派であるが、そんな動機であったことを聞くと、何ともチープな正義であろう。ある所に多額の寄付をして銅像を建てられてご満悦の資産家を、篤志家といわないようにである。

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    「善とは善意志で行うもの」とニーチェは言ったが、善行の目的が自身の名誉欲とあっては本末転倒か。善意に見返りを求める人間の浅ましさは批判されてしかり。「人に親切にするということは、見返りを求めるどころか、親切にした相手に殺されても文句を言わない、という気持ちでやるべきもの」という安吾の言葉に触れ、普段の親切という偽善に心砕かれたことがあった。

    それもあってか水谷社長の、「これで英雄になれる」という動機には違和感を持った。どうして英雄になれるかは、マスコミやメディアが彼の善行を取り上げるさまを描いたからであろう。企業をあのような告発をすることで、果たして他の企業から、「西宮冷蔵の社長は、悪事を告発する素晴らしい会社だ。我が社も何とか力になりたい」と、賛同されるだろうか?

    企業側から見て、信頼・信用を抱かれるというのは、企業の不正告発なのだろうか?残念ながら水谷社長には企業の論理と市民の利益は隔絶するものという認識がなかったように思う。自分は、衣料品店で注文していないものを、注文したとこじつけられ、押し付けられた。普通ならばそんな会社はあり得ないが、現実にそういうあり得ない店もあるという事実。

    こういう事例もあった。メロンの行商が飛び込みで自宅に来たのはいいが、味見をさせておいて、断ると凄んで見せ、捨て台詞を吐いて出て行った。これも社会である。昔でいう押し売りの類は未だ存在するのも、人間が感情で人と接するからであり、キチンと社員教育を施された営業マンなら、断った顧客に笑顔を絶やさないのは、バックに企業の暖簾を背負っているからだ。

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    それすら忘れて感情的になれば、会社の信用を落とすことになり、そういう社員は会社にとって不利益でしかない。とかく人間は自己中で感情的になるもの、だから教育によって理性を植えつける。西宮冷蔵の水谷社長は、自身の正義感を旗を振って主張したものの、他社から倉庫の契約解除をされたことで行き詰まったが、英雄気取りを画策した見通しの甘さと感じた。

    安吾の論法でいうなら、廃業する覚悟を持って市民の利益を優先したというなら、鏡にしたい人物であるが、正義の行使だけでは生きてはいけない現実もある。だからといって、悪に目をつむり、悪に加担するのも間違っている。その見極めと、覚悟の行動であるべきだった。「英雄になれる」という思惑への反動は、自分なら予想できたし、世の中そんなに甘くない。

    道行く人にカンパを求める水谷社長にカーリンのような真の反骨精神があるなら、テレビで毒舌を振りまくなど新境地開拓もあった。カーリンのユニークさは以下の言葉にも言える。「宗教は常にありえない物語を説いている。考えてもみてくれ。見えもしない奴が空に住み、そいつが毎日毎分の全てをお見通しで、さらにその見えない奴が、10個のしてはいけないことを並べている。

    そしてしちゃいけないことをしたときには特別な場所へ追いやられ、そこには永遠に続く火や煙や拷問や激痛が用意されている。そこでこの世の終りまで焼かれ、叫び、苦しみ続けるのである。だが、そいつには愛があり、そして愛があり、さらに愛があり、金を必要としている」。同じ無神論者としてカーリンの毒のある言葉には、太刀打ちできない教養が滲んでいる。

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    新潟市の女性が約2億2000万円をだまし取られる特殊詐欺事件があった。新潟県内の特殊詐欺事件としては過去最高の被害額。被害にあったのは新潟市に住む70歳代の女性。警察によると去年12月、「個人情報センター」を名乗る男から「個人情報が流出した」という電話があり、混乱した女性は相手の求めに応じてキャッシュカード12枚を渡し、暗証番号を教えた。

    口座からは約2億2440万円が引き出され、これは新潟県内の特殊詐欺事件としては過去最高の被害額という。手口は、「個人情報が流出した」を被害者が真に受けたもので、想像するに、「個人情報が流出したことで暗証番号が洩れました。預金を引き出される可能性があるので、早急に引き出して当方で管理致します」という感じだったのでは?被害者はまさか虚偽とは思っていない。

    だから、一日でも早く対処しなければ預金を引き出されてしまう。と、そのことで頭がいっぱいになったのだろう。なぜ、そんなことを信じたのかなどはもはや愚問だ。信じたのだから後の一切は預金の防御策ということになる。他人が被害者をどう罵ろうと、本人が残念がっているだろう。バカだのアホだの言ってみても何の足しにもならんし、同情とて同じこと。

    それでも同情したいなら被害者にお金をあげた方がいい。詐欺というのは引っかかる時は嘘だと思っていないし、だから引っかかる。釣り糸から垂れるエサと同じで、魚はまさかである。人間も魚を騙すが、魚も騙してエサを捕まえる。これはあらゆる生物の進化的な話であり、他者を騙すというのは自己利益で生きるための手段であるが、人間社会も生きるために人を騙す。

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    粗悪品を良品、外国産を国内産、農薬まみれの食品、この程度の嘘はまだしも、他人の金品を騙し取ることもあり、それには防御策を講じるしか手立てはない。「この世は嘘と真実でできている」といった。確かに人の言葉は嘘か真実かで、中間というものはないが、人間は知能が高いゆえ、嘘とも真実とも言えぬ紛らわしい嘘もつくし、どちらを信じるかを相手に委ねる。

    「人はなぜ騙されるのか?」について問えば、いろいろな返答が予想されるだろうが、手品やマジックは人を騙すためのもので、あれは騙して感激される嘘である。手先の器用さや素早さといったテクニックもあるが、マジックには必ず騙すための仕掛けがある。詐欺師が人を騙すのも仕掛けが必要だろうが、何の仕掛けもナシに言葉だけで騙したりの場合もある。

    仕掛けのある詐欺で騙されるのは、仕掛けの存在に気づいてない場合であり、人には二種類いる。疑い深い人と、すぐに信じる人であり、中間はなくとも、どちらかには決められないが、どちらかの傾向性を示す人はいる。人は何かを信じないで生きることはできない弱い生き物だ。ゆえに宗教も生まれ、我々は信じるものに従って生きる。人は何を信じるかで人生は変わるだろう。

    ・いいといわれたものだけを信じる人。
    ・ダメといわれたものを信じる人。
    ・悪いといわれたものでも信じようとする人。

    こうした前提で世の中を眺めて生きている。「あいつは悪いやつだ」と人から耳打ちされて信じる人もいる。全面的に信じなくとも、不安で気にする人はいる。所詮は人の見方で、自分の視点とは違うと意に介さない人もいる。自分はそのタイプで、これは経験的にも確証を得た。「いい」、「悪い」は人の事情であり、感性であって、他人のいう、「悪い」は自分に当てはまらない。

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    「先人の教え」についても言える。ネガティブな先人はこのようにいう。「おれたちがどんなに努力してもダメだったんだ。だから絶対に〇〇はやらない方がいい」。それにに対して、ポジティブな先人はこういうだろう。「おれたちが何度トライしてもダメだった。何とかお前たちがやってみせてくれ」。同じ、「先人」とはいえ、この違いである。よって人を、「先人」でくくることはできない。

    「あの娘とは付き合わない方がいいわよ」などという女にしばしば出会うが、間違いなく利害関係がある。他人の利害関係を押し付けるなといいたいが、自分でみてよければ、「いい女」である。「あの男は気をつけろよ。すぐに金を貸してくれというから…」というのもあった。そんな忠告は無用で、貸したくないなら断ればいいが、断れない奴がそのように言ってるに過ぎない。

    自分ができないから人もできないだろうと人は考えるものだ。大人の世界に余計な節介は無用。いろんな人間と付き合うことでいろんな体験をする。人間の育つ環境というのは、それぞれの家庭によって大きく異なるし、他人と付き合うだけで異文化体験である。日本の多くの家庭には必ず箸と茶碗は自分専用がある。習慣なのか、会社にも自分専用のコップや湯飲みを置く。

    外国には自分専用の皿もフォークもないが、自分専用の湯飲みや箸や茶碗があるのは良し悪しである。若いころにこういうことがあった。彼女が二人のマグカップを買おうと提案してきた。買ったことで自他用を決めていたが、自分は区別も拘りもなく、フランクにどちらも使う。ある日彼女が、「私のカップ使ったでしょう。何で私のを使うの?自分のがあるでしょう?」という。

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    いわれて気づいたが、「それが何なんだ」と感じた。何も言わない女に比べて、ここまで細かく線引きしている女をうっとうしいと感じた。やはりというか、こういうタイプは一事が万事であった。どうしてここまでなるのかを想像をしてみた。茶碗が決められている家庭で年頃の娘に、「お父さんの茶碗で食べなさい」といったとする。おそらく、「いやだ」というだろう。決められているからである。

    父がその理由を聞くと、「だって、汚いもん」というかも知れない。あくまで想像だがあり得る理由だ。「パパのパンツと一緒に洗うの止めて!」そんなことが社会問題化したこともあった。文化の違いというなら、自分専用の皿やフォークのない帰国子女にはあり得ない話で、文化だけの問題というよりも、父が家庭で虐げられ、粗大ゴミ扱いされているからではないか?

    粗大ゴミ扱いするのは言わずと知れた妻、そういうものが以心伝心子どもに伝わる。家庭内の問題は、妻(母親)が主導権を持つことが多く、思慮の乏しき女はよい家庭環境をつくれないのではないか?夫唱婦随の時代から対等な時代に移行したのは、良きこともある反面、父親の威厳が喪失したとも言われている。夫婦不協和の原因は、互いの短所のあげつらいだろう。

    「隣の花は赤い」という諺があるが、これはある意味正しく、ある意味間違っている。というのは、我々は自分の選んだ花の方を、隣の花より赤いと思い込もうとするが、「人間は自分の選んだものをよく見ようとする」というのは心理学傾向にいわれている。結婚数年後の夫の欠点というのは、恋愛から結婚に移行した自分の判断と矛盾していることに気づかずに虐げる。

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    こんなことがあっていいものかと思うが、現実には各人各所に存在する。夫は夫で不作の妻に後悔はするも、心に押しとどめている。浮気や不倫は人間が新しい物好きなゆえに、必然的に起こることだが、それを抑止するのは愛情であったり、理性であったり、あるいは恐怖であったりする。ならばカミさんが怖いという恐妻家は浮気をしないのか?そんなことはない。

    なぜなら、隣の花は赤く見えるというように、恐妻ならなおのこと他の女はよく見えるだろう。浮気の要因は複合的な場合も多く、たとえば二人で協調し合えば互いが得になるのに、ある場面においてどちらか裏切った方が、もっと得をする場面において人は裏切り合い、共倒れの結果を招いたりする。折角口説いた女、相手も了承を得た。そのとき頭の中に嫁の顔はない。

    どんなに怖い嫁であれ、いや、怖い嫁であるからこそ消したくもなろう。話を戻そう。「"自分だけは詐欺なんかに引っかからない"と思っている人ほど騙されやすい」と、悪徳商法の被害者心理に詳しいある大学教授はいう。それを証明するかのように、内閣府が’16年に行った世論調査では、「自分は被害に遭わないと思う」と答えた人の割合は80・7%と高い。

    大学教授が言おうが、内閣府の調査であろうが、自分には納得できない。そもそも世論調査で、「自分は被害に遭わないと思う」という数字が多いのは当たり前で、「自分は被害に遭うと思う」などという呑気な人間いるのか?いても少数だろうが、不安の要因は何だろう?外に出て交通事故にあうかもとか、飛行機に乗る前に落ちるかもとか、そういう一抹の不安だろうか?

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    「自分は被害に遭わないと思う」と答えた人の割合は80・7%であるからといって、「"自分だけは詐欺なんかに引っかからない"と思っている人ほど騙されやすい」というのは論理の飛躍というもので、こんなデータは信じない。自分は詐欺に引っかからないと思うから気持ちが緩んで詐欺にあいやすい、引っかかるを懸念する人は用心深いから詐欺にかかりにくい。

    いかにも取って付けたかの論理で、詐欺に絶対に引っかからないと思っている自分は、「あなたは危ないです」などと、寝ぼけたことを言うなである。引っかからないのは、見ず知らずの人間の出まかせを信じないからで、信用や信頼というのは軽いものではなく、同様に「責任」も重い。したがって、信用、信頼、責任をそのように感じていたら詐欺とは無縁だろう。

    電話の相手が何を名乗り何を語ろうが、見ず知らずの相手を信用・信頼するのが軽率。奴らはあらゆる手立てで信用させようとするが、神とてそうであるように、信じる前には疑う。本当に信じたいなら、まずは疑う。この被害者は身内は?いても信頼できないのか?数億の財産すべてを自分名義で分散というのも、事情は分からないが資産管理に問題はなかったのか?


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    国会議員や県議、市議、自治体の首長になるための国家試験のような筆記試験も実技試験はない。よって、誰でも選挙に当選すれば政治家という肩書がつく。元ヤクザであれ、プロレスラーであれ、落語家であれ、寺の坊主であれ、前職が政治に関係なくとも選挙に受かってバッヂをつけたらその日から政治家である。元アイドルグループ今井絵理子も政治家である。

    今井絵理子は本当に政治家なのか?自分はそうは思わない。志がなくとも立候補はでき、選挙で票を集めれば議員にはなれるが、それだけで政治家といえない。銀行員と銀行家が違うように、議員と政治家も違うだろう。今井のことは歌手であったことくらいを週刊誌の記事で知る程度だが、一連の騒動で今井をよく知る地元沖縄のある人物から痛烈に批判された。

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    その人物とは、SPEEDデビュー前の今井を親身になって面倒を見たり、歌や踊りのレッスンをした、「沖縄アクターズスクール」のマキノ社長である。同社長は、今回の不倫騒動を厳しく断罪し、国会議員としての彼女の資質にダメだしするなどした。マキノ氏はいう。「今井は子どもの頃は、良い子でがんばり屋で、強い意志をもっていましたが、勉強を怠った子です」。

    勉強嫌いで芸能人になる人間は山ほどいるから、それはそれでいいにしても、政治家となるとそうもいかない。ただし、どんなバカでも国会議員資格試験がないから議員になることに不利とならない。マキノ氏はそういうことではなく、「自分でモノを考えて、他人のために尽くす。そういう点で今井は国会議員になるレベルじゃない。人気だけで選ばれた子です」という。

    こんなことはマキノ氏が言わずとも誰もが思うこと、あえて身内に近い人の批判発言は、今井に辞職を迫ったものだろう。これまでのケースから考えても、このような不倫スキャンダルで党のイメージを失墜された議員は、離党や辞職勧告を受けてもおかしくないが、今井にお咎めがないのは政権への逆風続きという党内事情から、問題にしたくないという本音が見える。

    「一線を越えてません」で世間を納得させられるなど、子ども騙しにも程があるが、女性ということでもあり、今井が党内における客寄せパンダの1年生議員であるからだろうと永田町関係者はいう。鎮静化するのを待てば、このような人物を党公認で立候補させた執行部の責任も免れる。よって、何かあると雲隠れしたり、病院に行く議員たちだが、マキノ氏は続ける。

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    「(議員辞職について)僕があれこれいう必要はないが、今井に政治の世界は無理だというのは誰もが分かっている。今まで多くの議員が不倫で名を汚したが、あそこまで無防備な議員はいないでしょう。彼女のそうした恋愛体質が芸能界にいて、よくバレなかったよね。それが不思議でならない」と述べる。マキノ氏が自身でスカウトしたのは安室奈美恵だけだという。

    「今井は10歳のころ、ちびっ子のど自慢で活躍していた安室を見て、なんてすごい子なんだろうという憧れを持ってスクールに入って来た子ですが、安室でもSPEEDの他のメンバーでも政治家は無理です」とマキノ氏はいうが、今井が仮に芸能界に戻ってきたとしても、「あの子はプロダクションと曲の力で売れただけ、大衆の評価のレベルではやっていけない」と念を押す。

    今井は26日雲隠れから約一カ月ぶりに公務に復帰したが、自民党の部会終了後にマスコミの質問にはだんまりを貫いた。少しの間の風当たりを凌げば数年間は税金で食っていけると踏んでいるのだろう。辞職というのは党の執行部が勧告しない限り安泰でいられる。仮に本人が辞職を希望しても、執行部の判断に従うものだが、組織の力学とは個人の倫理観より優先する。

    もっとも今井にそうした倫理観はなかろう。今では珍しくないタレント候補だが、タレント議員第一号は1946年、戦後初の衆議院議員選挙に東京1区から立候補して当選した吉本興業(東京吉本)所属の演歌師・石田一松と言われている。ただし当時は芸能人等を指して、「タレント」と表現する用法はまだ存在しておらず、石田は在職中、「芸能人代議士」と形容されていた。

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    その後、NHKの「私の秘密」にレギュラー回答者として出演していた藤原あきが、1962年7月の第6回参議院議員通常選挙全国区において116万票の大量得票でトップ当選した際、「タレント議員」という呼称が初めて使われた。さらに、1974年参議院選挙で全国区から出馬した女優でテレビタレントの山東昭子は、日立グループからの全面支援を受けて当選した。

    続いて、NHKアナウンサーの宮田輝、同じく高橋圭三らが参議院全国区で高得票で当選することで、参議院は、「芸能院」と揶揄された。石原慎太郎が1971年に東京都知事の推薦候補として名が挙がったとき、参議院全国区ならともかく、彼は首都の知事に相応しくないと自民党から共産党に至る政治家は口々に、「彼はタレントではないか」と見下した発言をした。

    有力な都議会議員さえも、「日本の首都でおふざけ選挙はすべきでない」と述べ、多くの議員もまた、「何百万票集めたところで、それらはタレント人気の票ではないか」と、そんな時代であった。これに意を唱えたのが当時早大教授だった加藤諦三である。彼は、「こんな政治家の発言は許されるべきでないし、これほど東京都民をバカにした発言はない」と批判した。

    「自らの票は政治を分かった人の票であるが、タレントの票はそうではないといいたいようだが、金や血縁や義理で集めた票が、タレント票より良質だなどは断じてあり得ない」と加藤氏。民主主義社会が選挙によって代表者を選び、その代表者によって政治を行う限り、その選挙民をバカにしていたのでは政治家は勤まらないと、石原氏の都知事立候補を擁護した。

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    誰が出ようが、誰に投票しようが、それが民主主義であり、批判はすべきでないとの主張である。そもそも民主主義とは、一人一人の人間に同じ一票を与えようとする、そのことに意味がある。もっとも40年以上も前のことで、10年ひと昔というように、時代は流れ、変わって行く。加藤氏が友人石原氏を擁護するのは分かるが、参議院なら誰でもいいという事でもないだろう。

    指原莉乃でも自民党は公認するだろうか?民主主義の最大の欠点は衆愚政治に陥りやすい危険性を孕んでいる。知的訓練を受けていない有権者が、有能でないものをリーダーに選んだところで民主主義である。小説家の石原慎太郎はタレントに属するが、タレント票で都政はマズイという当時の風評に異を唱えた加藤氏であるが、今井絵理子を容認するとは思えない。

    自分はこう考える。誰が出るにしても、結局は本人の志と努力とやる気の問題である。執行部が誰を推薦するのも構わないが、当選した議員には勉強会に参加させるなどして責任を取るべきで、これすらなく、議員の不倫や汚職ばかりが表沙汰になっては、公務の廉潔がなりたたない。政治家の出処進退は個人の決断というが、言葉の裏には公認という責任逃れが見える。

    自分党が今井に辞職勧告をしないのは、先に述べた客寄せパンダであるからで、それこそ国民を舐めたものだろう。マスコミも自民党と裏で結託してか、矛先を不倫相手の橋本市議に変えて今井議員の鎮静化を図っているようだ。ジャーナリズムとは権力の監視であるが、その点において、日本にジャーナリズムはない。文春も新潮も部数を伸ばすだけの三流誌となった。

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    橋本市議のついた嘘は羞恥は超えている。穴があったら入りたいという気持ちだろうが、今や今井の穴は蓋をされ、二人は仲は終焉模様。常々思うが人間の謝罪というのは屁にも劣る。自分が謝罪を信じないのは、真実を提示しない謝罪の一体どこが謝罪であるか。ほとんどは嘘の謝罪である。本当の謝罪とは、先ずは真実を正直に述べる。それで頭をさげるなら分かる。

    謝罪の言葉はなくとも真実を述べることで、迷惑をかけた相手に誠実に向き合うこと。それが本当の謝罪である。後は一切を相手に委ねる。したがって、真実を述べない謝罪は嘘の謝罪である。相手を騙し、それが謝罪といえるのか?臭い芝居をしているだけだろ。今井を立候補時から応援した山東昭子は、今井が、「離党でも辞職でも…」と号泣したとマスコミに公表した。

    自分を支持してくれる相手に、「離党でも辞職でも…」といったところで、「さっさと辞めろ」といわれることもない。その上での泣きの演技は、女のしたたかさという他ない。人間は卑怯でズルく虫のいい生き物である。それでも、人の嘘八百の謝罪に同情し、許し、共感する人間がいる限り、人には都合という恩典が与えられる。日本人は、「水に流す」というのを好むようだ。

    如何に怠け者でも謝罪をしたら許してやれとなる。嘘の謝罪の怠け者を許すとどうなるかも考えないヒトの良さ、無責任さで、「水に流せ」というように、日本人にとって美徳であるようだ。だからか、罪を犯すなりした人間は、少しの間病院に逃げ込んだり、雲隠れしたり、じっとしていれば収まると見切っている。こういうところに、日本人の真摯な謝罪というものが生まれない。

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    早朝からカラスがけたたましく鳴いていた。カラスが鳴くと、「イヤな気分」、「イヤな予感」がするのはなぜだろう。とりあえず6時半頃に起床、テレビのニュースで驚いた。北朝鮮が、日本時間29日午前5時57分ごろ、平壌の順安付近から日本海に向けて飛翔体を発射したとのことで、その後、飛翔体は弾道ミサイルで日本の上空を通過したことが明らかになる。

    発射されたミサイルは29日午前6時12分頃、3つに分離し、いずれも襟裳岬の東約1180キロの太平洋上に落下したものと推定されている。北海道の各地では直後に防災無線で国民に知らせ、JR東日本では新幹線の発着が一時ストップし、現在でも数分の遅れが出ているという。菅官房長官は日本国にこれまでにない深刻かつ重大な脅威として北朝鮮に厳重抗議した。

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    北朝鮮が弾道ミサイルの飛行ルートを日本に予告なしに発射するのは極めて異例で、政府はその意図にや目的について国家安全会議を開いて対策を協議しているが、アメリカのトランプ政権への対決姿勢を強める北朝鮮に変更がないことを示している。今回のミサイルルートは韓国上空を通らず、グァム方向を避けたことで、韓国やアメリカを刺激しない意図が考えられる。

    日本上空を横断して太平洋上に着弾したのは、日本を始めとする韓国・アメリカの反応を探る目的と予測されるが、今回ミサイルが3000km弱を飛んだことは、北朝鮮のミサイルが軍事仕様目的のメドが着いたということにもなろう。が、日本側は発射段階から軌道も含めたミサイルの動きをすべて把握し、監視していたと発表したが、迎撃用ミサイルは発射していない。

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    おそらくこれは総理⇒防衛大臣⇒防衛省の総合的判断であろうが、こうした最大危険行為への対処の善悪については日本的というしかないが、北朝鮮側も日本上空を飛来させて迎撃行為の有無を掌握する目的もあったはずだ。日本が迎撃を行うのは日本領空圏内前でなければならない。日本上空で撃ち落とすことを行えば、当然ながら落下物による二次被害が発生する。

    政府は発射時点から追尾していたというが、事前の通告・予告なしに発射された弾道ミサイルを日本領空前に自衛隊の迎撃システムを稼働させなかった理由を日本的というしか理解のしようがないが、さらなる領空を侵犯する可能性のミサイルがあれば迎撃すべきで、そうでなければ平和ボケ国家と笑われよう。北朝鮮に舐められないためにも断固稼働させるべきと考える。

    元首相の羽田孜が28日午前7時6分、老衰のため都内の自宅で死去した。82歳だった。羽田氏といえば小沢一郎の盟友であり、共に自民党を離れるなど同志として行動し、新生党の党首だった1994年に連立政権下で第80代首相に就任したが、現憲法下では最短となる僅か64日間の短命政権に終わった。「ミスター政治改革」の異名もあった羽田氏には様々な思いが過る。

    その羽田新首相は、94年4月28日の初の総理就任記者会見で、当時、核開発が取りざたされていた北朝鮮の対応についてこう答えている。「一般論からいうと、国連がひとつの方向を出せば、わが国も憲法の許される中で協力したい」と語っている(朝日新聞:4月29日朝刊)。穏やかで自分を高く売ろうとしない性格の羽田氏であるが、それがこの発言にも現れている。

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    隣国北朝鮮の核開発問題について憲法の問題はあるにせよ、どこか遠くの国で紛争が起こり、「国連が方向を出せば日本も従う」と、これまで通りの他人事のような対応そのままであった。北朝鮮が昨今のように、日本国民の生命と財産が直に脅かすようになって慌てふためくのは、戦略的な対処をしなかった結果である。日本人拉致という国家犯罪を行った国である。

    この期に及んでも北朝鮮問題は、アメリカがなんとかしてくれるだろうとの依存体質そのままであるが、拉致被害も含めて北朝鮮問題が、もとよりアメリカの問題ではないはずだ。その北朝鮮が核開発を講じていると外国から日本に警告があったのは1989年に遡るが、危惧する声は日本の新聞各紙をはじめとするNHKや他局のマスコミはまったく報じなかったという。

    そんな矢先の90年9月、金丸信を団長とする無党派訪朝団が結成され、核査察など念頭にもおかず、北朝鮮に経済補償をしようということだった。さすがに米国はこれを押さえたというが、平和ボケ日本政府にはどうにも軍事的頭脳中枢が欠けていた。羽田は当時外相であったが、「金日成主席とひざを突き合わせ、じっくり話し合って分かってもらうことが大切」と発言した。

    核開発問題がクローズアップされたことで、国連は北朝鮮への経済制裁を決議したが、94年3月に北朝鮮は査察団受け入れを表明、経済制裁の実効は当面回避されることとなる。しかし、北朝鮮は二か所の未申告施設への特別査察を認めていないことで、核疑惑を残すことになった。北朝鮮に於いて核疑惑を残し続けることが、自国に与えられた唯一の交渉カードゆえに必死であった。

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    北朝鮮という貧乏国家にとって、世界に物を言うための一大戦略でもあった。冷戦終結後、豊かで自由な先進国にくらべて貧しくも不自由な国家は、深刻なダメージを蒙ってきた。日本と北朝鮮との関係はこんにちのような危機的状況になって、日米韓という包囲網ができているようだが、米国が日本の安全のために流血の犠牲を払うとは信じがたいものだった。

    極東有事の際に米国がかつてのように、世界の警察官として再び起ち上がってくれるだろうというのは、日本人の妄想、勝手な思い込みであろう。それが金正恩体制となり、米国も腰抜けオバマからトランプ政権となり、北朝鮮が明確に米国への対決姿勢を現すことになって、米国にとっても北朝鮮は靴の中に入った石ころのような存在になって来たようだ。

    クリントンやオバマ時代は北朝鮮に、「隔靴掻痒」であった。こんにち日本列島は地球上から消滅しても、白人至上主義者トランプにしてみれば痛くも痒くもないはずだ。自国の被害が及ばないと明確な判断をすれば、トランプは北朝鮮への軍事行為を起こすかも知れない。米国は北朝鮮の弾道ミサイル技術が自国への脅威であるか否かの情報収集に余念がない。

    日本人をお人好しとするのは世界の見方であろう。なぜなら、日本人は自身の中に「悪」の可能性など計算に入れず、したがって、他人の悪の可能性に疎いところがある。自分が悪人という意識があれば、「振り込み詐欺」などの、特殊詐欺はもっと減少するはずと思われる。自分が善意であれば、相手も善意と思って思ってしまう日本人をバカでメデタイと自分は断罪する。

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    それは単に同胞を見下して悦に入りたいからではなく、少なくとも自分はそういうバカではいたくないという自己啓発である。正当で真っ当な批判は自分を作るし、批判を良しとしない日本人はなぜか、「みんな仲良く」を美徳とする。しかるに、日本が善意で、善良で、無害で、ただ経済的に有害というだけなら、明日がどうなろうと、どの国も心配はしないだろう。

    お人好しの日本人の代表いうべき政治家が河野洋平である。あの有名な、「河野談話」の発信者である。日本人が謝罪を美徳する国民であるのは先にも書いたが、幼児期から親に謝罪を植えつけられるからだろう。自分は、「謝罪」を否定はしない。自分が悪いと思ったことは素直に謝ることで人間関係を、「良好」にする。「ごめなさい」の一言は相手の気持ちを鎮めることにもなる。

    地域や周囲の人間関係ならそれもよかろうが、こと世界的な視野に立って、異国と交渉やお付き合いをするにおいて、絶対に謝罪してはならないことがある。それは、戦争に関してである。それは、戦争とは一体何かという根本問題に触れてくるからで、そこをないがしろにしていい人ぶっていては、諸外国と国益重視の交渉はできない。その先鞭をつけたのが河野洋平だ。

    戦争がなぜ起こるか、言葉で言い尽くし、双方が正しいと主張し、納得も得れず、言葉によく解決策が見いだせない、そこで戦争となる。したがって戦争は人倫を別にすれば、国際法的にも国際情理においても犯罪とはならない。言葉がダメだから武力でケリをつけるという手段、それが戦争である。したがって、日本のやったことが戦争犯罪というなら、米国も欧州列強も同じことだ。

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    広島・長崎は言うに及ばず、1944年11月から終戦間際にかけて100回以上にわたって執拗に繰り返された「東京大空襲」。最大の被害をもたらした3月10日には、囲い込み絨緞爆撃により、わずか1日で10万人が命を奪われた。日本側にはすでに防空体制はなく、日本軍は完全に黙秘状態であり、まったく抵抗もしない人間をただ殺すだけのためという爆撃の目的であった。

    「同じ敗戦国のドイツは謝罪したではないか?」という人はすくなくないが、それは間違いであって、ドイツは謝罪していない。「悪いのはナチスであってドイツではない」というのが、ドイツ国民の一貫した主張である。「だからドイツは戦後ナチスから解放されたのだ」と、ヴァイツゼッガー前大統領もコール首相も述べているが、これはまあ、ハッキリ言えば詭弁である。

    「日本が悪いのではなく、軍部が勝手に独走した」といってるようなもの。 もっとも、日本のファシズムは軍部によって担われていて、軍部が独走することに歯止めをかけられなかったことが戦争の原因た。ドイツがなぜそこまで詭弁をいい、「ドイツ国民ははナチスの被害者」とまでいうのか。「国家として悪を犯した」と認めてしまっては、ドイツ国家そのものが成り立たなくなる。

    ドイツ民族さえも生きてはいけない。それほどの凄まじい犯罪の自覚が彼らにある。あれほどの犯罪を犯したドイツ国民が、「自分たちに非はない」といっている。国家や国民に罪はないが、政治的に責任はある。つまり、ドイツ国家は、ナチスという悪辣集団のやった責任は、政治的にとるということだった。ドイツ国民は深い謝罪をしたというのは誤った認識である。

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    遅寝・遅起きは若さの特権か。気づけば日付を超えて、2時、3時でも目はらんらんとしていたし、床に入れば火事で身が燃えても目が覚めないくらいの爆睡である。朝はといえば、たとえ1分、1秒たりとて長く床に入っているなど、人の「若い」というエネルギーは、何をも怖れぬバイタリティを感じる。『若いってすばらしい』という歌は若さの息吹に溢れている。

    年をとると早起きは苦痛でなくなるどことか、6時には当たり前に目が覚めてしまう。自分が年齢を感じる一番の点が早起きだろうか。かつて遅刻王と自負(?)した頃が嘘のような早起きだが、通常言われる老人の早起きの要因は、加齢とともに必要睡眠量が減少することにあるという。つまり、眠りを維持する力が低下するようになり、早朝覚醒が起こりやすくなる。

    ということで、日中が暑い夏場の早朝ウォーキングは心地いい。今日もカンカン日照りだが、早朝ウォーキングで汗をかき、脳内に酸素を沢山含んだ血液を循環させながら、いろいろなことを考える。この世には賢者と愚者しかいないが、賢者でなければ愚者、愚者でなければ賢者というわけではない。どちらにも組せぬ中庸なる人間がもっとも多いのではないか。

    しかし、中庸なる人間は賢者にもなれるが愚者の素質もある。何をもって賢者、何をもって愚者というのか。ディランは、いかなる答えも吹かれる風の中にあるという。人類全体に向かって訴える彼の言葉。「blowin’in the wind」の和訳は、「風に吹かれている」と直訳されるが、いろいろ解釈は可能だ。この部分の和訳の解釈一つで、歌の意味はだいぶ変わってくる。

    「神のみぞ知る」という意味あいか、それとも、「すぐそこにあるのに…」 といった意味あいなのか。せめて、「答えは風の中にある」というなら、身近に感じられるが、風に吹かれて飛んでいってしまうという意味あいにも受け取れる。「近くにあるのに、手にすることができないもどかしさ…」。(正しい答え)というものは、そうしたもどかしいものなのかも知れない。

    Yes, and how many times must a man look up
    人は何度見上げれば

    Before he can see the sky?
    空を見ることができるのだろう

    Yes, and how many ears must one man have
    人はどれくらいの耳があれば

    Before he can hear people cry?
    人々の悲しみが聞こえるのだろう

    Yes, and how many deaths will it take 'till he knows
    どれくらいの人が死ねば

    That too many people have died?
    あまりに多くの人々が死んだことに気づくのだろう

    Yes, and how many times must the cannon balls fly
    どれだけの砲弾が飛び交えば

    Before they're forever banned?
    撃つことを止めることができるのだろう

    The answer, my friend, is blowin' in the wind
    友よ 「答え」は風に吹かれている

    The answer is blowin' in the wind
    「答え」は風に吹かれている

    「砲弾は…」、「どれだけ死ねば…」の言葉にみる、戦争への嘆き。いつの世も戦争をしたい人は現れる。ディランのそういう嘆きである。彼自身が、その答えを提示できないのは、人間の多様さ、複雑さに、時代背景という要因がある。それがディランをして、「答えはとどまらない」、「常に風に吹かれて流れている」としたのだろうか。平和は簡単なことなのにそうもいかない。

    今や、砲弾が数百メートル飛ぶ時代ではない。パックした火薬を数千キロもロケットで飛ばすことができる。関ケ原合戦も、ワーテルローの戦いも、上から重爆撃機による爆弾攻撃で瞬時に片が付うてしまう、恐ろしい時代となった。重火器を持った人間など、所詮は残務整理に駆り出されるようなもの。そういう都市破壊戦争を北朝鮮は、そしてアメリカはやろうとするのか?

    詩人は詩人、政治家は政治家。ノーベル賞詩人が何を言おうと、聞く耳持たぬ政治家は、なにゆえに戦争をしたいのか、戦争を起こさんと待ち構えているようだ。昨日、麻生副総理のヒトラー発言が飛び出し、即刻謝罪したが、以前にも憲法改正論をめぐって、以下のような発言をした。「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。

    誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうか」。この発言には米国のユダヤ人人権団体、「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が批判声明を出したほか、中国、韓国両外務省も批判するコメントを発表。ドイツ紙ツァイト(電子版)も、「ナチス時代を肯定的にとらえる発言をして、国際的な怒りを買った」と報じるなど、海外にも波紋が広がった。

    昨日の発言は自身が率いる自民党麻生派(志公会)の研修会でのこと。「(政治家に)動機は問わない。結果が大事だ。いくら動機が正しくても何百万人殺しちゃったヒトラーはやっぱり駄目だ」とした。麻生氏は、『我が闘争』に影響を受けた隠れヒトラーフリークではないか?発言の是非よりも潜在的なヒトラー崇拝がなくて、こういう言葉が出るとは思わない。

    開戦後のヒトラーのことはともかく、彼の開戦動機は将校たちに語った以下の言葉である。「血を流すことなくこれ以上の成果をあげることはできぬ。ダンツィヒが当面の目標ではない。我々の関心は東方における生存権の拡大であり、食糧の確保である。つまりポーランドに攻撃を加える決心をするだけのことである。この際、正義、不正、条約など、どうでもいい」。

    戦争はそうした国際間の縛りを解くことで始められる。ナチスドイツは、「独ソ不可侵条約」を破ってソ連への侵攻を開始したが、この条約の実態は、ヒトラーのポーランド侵攻を可能にするためであった。なぜなら、「独ソ不可侵条約」の秘密の付属議定書には、占領目前のポーランド分割についての規定が記されており、当時のソ連指導者はこのことを承知していた。

    ソ連もまた、「日ソ不可侵条約」を反故にし、日本のポツダム宣言受諾後も侵攻を行った。日本は表向きソ連を非難をするが、実は、「日ソ中立条約締結」からわずか3ヶ月の時点で、明白な条約違反を承知のうえで対ソ戦準備を進めていた。第二次世界大戦は、ドイツのポーランド侵攻に始まり、そのことを可能にしたのが、「独ソ条約」であるなどは、歴史の事実である。

    ヴァイツゼッガー前大統領は、1985年5月8日のドイツ降伏の日、戦後40年記念スピーチを行っている。「この戦いの間、多くの民族がナチズム統治の下に苦しみ、汚辱にまみれた。苦しめられ、隷属させられ、汚辱にまみれた民族が最後に一つだけ残った。それがドイツ民族である」という表現で、ナチズムの最大の被害者はドイツ民族であると述べている。

    「この戦いに勝利を収める力のないドイツ民族など、滅びてしまうがいい」と鼓舞したヒトラーの発言を拠り所に、ドイツ民族はヒトラーの犠牲となったが、その前に他民族をも犠牲にしたという論法で、あえて、ドイツ人=加害者という言い方をしない。ヴァイツゼッガー前大統領は、1995年8月、戦後50年記念の年に来日し、「ドイツと日本の戦後50年」と題して講演した。

    NHKはこの講演を数度にわたって放映し、自分も録画をしていたが、全てのビデオテープは湿気とカビで破棄してしまった。ヴァイツゼッガー講演の要旨は、十数年に及ぶナチスの支配は、ドイツの長い歴史における、「異常な一時期」だが、日本の歴史には戦前から戦後にかけて連続性があるとし、ドイツ史には断絶があるが、日本史にはそれがないと比較をした。

    ナチスドイツというのは、歴史上においてかつてない党主導による独裁国家であり、いわばテロ国家とも、全体主義的革命国家という側面もあった。これは日本の軍国主義とは事を異にするもので、日本がナチスのようなテロ国家にならずに済んだのは、天皇制があったからではないか。いかに常軌を逸した人間であれ、軍部の暴発であれ、天皇の権威には逆らえない。

    確かに戦前、戦後において天皇が統治する日本の歴史には連続性がある。これが日本とドイツの体制の質的相違であるのは事実である。ヴァイツゼッガーは戦後40年スピーチで5月8日のいわゆる終戦記念日を、「ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制から、ドイツ民族が解放された記念すべき日」という表現をしたが、これは上手い言葉のレトリックである。

    ドイツは好まざる悪魔に12年間だけ支配されるにいたったが、それ以前のドイツ史にも以後のドイツ史にも悪魔はいない。ポーランドやフランスがこのナチスという悪魔から解放されたと同じように、1945年5月8日をもってドイツも悪魔から解放されたのだった。この日を境に綺麗さっぱり浄化をされたと言わんばかりの含みを臆面なく述べるヴァイツゼッガーである。

    天皇制という日本の歴史の連続性は非難するが、ドイツは戦後にナチスから解放された民主国家になったが、日本は飛躍的な経済発展が多少の制度変革はあったにせよ、いまだに天皇制などの古い体制を引きずっているという言辞は、招かれた国にたいしてあまりに厚顔無恥といえるが、ヨイショも愛想もしないところが、いかにも実直ドイツ人らしいといえる。

    同じ敗戦国でありながら、日本とドイツをこのような比較で論じるドイツ人というのも、厚顔無恥といわざるをえない。ドイツ国民がヒトラーを信奉していたのはどこ吹く風、そうした過去には一切言及せず、ヒトラーが悪の枢軸とならば踵を返し、ナチズムという暴力集団に歴史が占領されたドイツは被害者であると。まあ、それが国家、国家利益というものだ。

    日本人政治家はそこまで頭が回らないバカが多すぎるとしか言いようがない。米国の正義と善意を信奉し、主人に従順なるポチが如く使い走りに勤しむ。「米国は日本のために有難い何かを言ってくれる、してくれる、だから日本は米国に譲歩すべきである」という依存が根本にある。譲歩が悪い、妥協がよくないではなく、国家意思がないところが問題なりきかと…


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    20代OL200人アンケート結果にみるダントツは、やはり、「優しさ」である。3高(高学歴、高身長、高収入)は昔話になってしまった。やはりあれはバブル時代の遺物だったのか?明確な年月は規定できないが、1992年頃からバブル経済は終焉した。それによって物事に対する価値観も変わったことで、女性の男選びの基準も変わったようだが、「優しさ」上位は動かない。

    ついで、「共通の趣味」、「将来性」と続く。「学歴」や、「身長」に関しては、ほとんどの女性が気にしておらず、「収入」に関しても必要と思っている人は49人である。とはいえ、「将来性」に得票した人が101人ということを考えると、「現在は収入が低くても、将来は高収入に…」というのは願望というのか、欲望というべきか、 やはり女性はそういうものだろう。

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    それにしても女性のいう、「優しさ」とは何だろうか?「優しさ」という言葉のなかには様々な「優しさ」があるように思うが、まさか暴力を振らないのが優しさということではないだろう。いや、案外それもあるのかも…。とはいっても、暴力を振らない男なら優しいというわけでもないだろう。何を優しさというか調べる前に、自分なりに考えたのが以下の3つかなと。

    ・どんなときでも車で送り迎えをしてくれる

    ・欲しいものは何でも買ってくれる

    ・我がままは何でも聞いてほしい

    特徴的な資質をと思いつつ挙げてみたが、これを優しさと思う女性は多少なり頭の中身が軽い女だろう。というのは、こんなものは優しさどころか、便利屋である。便利屋というのはお金をとるので、同じように払うというなら分からぬでもないが、彼氏も「業」ではないので金を貰っても、「冗談じゃない!」という男もいよう。こんな都合のいい男が出世などあり得ん。

    したがって、将来的に高収入の男を望むなら奴隷は求めないこと。家庭でこうでは、部下など持たせられないと判断されるよ。バカな女は別として、一般的に女性の求める優しさとは何だろうか?それが分からないので、検索してみたところ、男が女よりも上位にくることが大前提であり、ご機嫌伺いや媚びる男は女性から見ても男の価値無し、恋愛対象にもならないとある。

    本当なのか?自分の知る範囲でいうと、確かに今の40代くらいの女性は、「今頃の若い男の子って頼りないよね」などという。30代、20代の女性の声は聞いたことがないのでわからない。年代的な違いはあるかも知れぬが、「女性が求める男の優しさ」は、男性が女性より上位を形成してこそ女性が感じるものだと記されている。自分がよく分からないのは婦唱夫随の家庭。

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    これが多いということだが、夫唱婦随に照らしていうなら、婦唱夫随は妻が力関係で上位にあるのではないか?して、それは自然になるのか、止むにやまれずにそうなるのか?夫が望んでなのか?妻が強くて夫が太刀打ちできないからなのか、自分には分からない。夫唱婦随ならわかる。結婚した当初から、それが当たり前だと思っていたし、いわゆる必然性ということ。

    それと同じ事なら、婦唱夫随の夫婦も必然であったのか?話は戻るが、男の優しさは、男が上位にあるからこそ光るもので、だからそれを女性は望んでいるという。確かに、立場の上の人間がふとした時に見せる優しさは、下のものにとっては嬉しいものだ。論理としては確かに成り立つが、男が上でいて欲しいというより、夫婦は対等と声高にいう女性は結構いる。

    男を立てて自分は引く女性もいるが、対等と声高に叫ぶ女は先ず尻に敷くだろう。若い時は対等感が見えても、なぜか女のケツが重くのしかかってくるケースは沢山見聞きした。もっとも、男がそれを許すからだろう。許すならそれでいいが、妻に主導権を持たせるなら、一切の責任も妻がとるなら問題ない。権利と義務、義務と責任の論法からしてもそういうもの。

    近年は、「こうすれば女性にモテる」なるHOW TO本も多くでていて、そこには当然優しさについて多く書かれているだろう。まさか、「ハンドバッグを持ってあげること」などと書かれてはいないだろうが、そうしたHOW TO本に書かれてあるような優しさなら、本を読んだ人間ならやれるだろう。我々の世代観が有す男の優しさというのは、いざという時に女を守るであった。

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    だからか男の優しさなどというのは、なにか事が起こるまでは裏に隠れているのが普通であって、いかにも外見上やさしそうに見える、そうした表面的なやさしさは、突如とした危難に出あえば、そそくさと逃げたりの可能性もなきにしもあらずで、かの3.11東北大地震の大津波のさい、妻子を置いて我先に逃げた夫のことがいわれた。それが「震災離婚」という言葉を生んでいる。

    いざというとき、女・子どもを守るという優しさが、本に書かれてはいないだろう。女性にモテるためのマニュアルとしての優しさには、どういう記述があるのかを知らないが、本で身につける優しさってのは、上辺で本当ではなかろう。本に書かれてあるような、「こうしたら」、「ああしたら」などのみかけの優しさ・誠実さは、男としてどうにも救いようのない弱さの表れではないか。

    優しさはマニュアル本で身につけるものなのか?身につけられるものなのか?そんな優しさは所詮は猿芝居に過ぎない。女性が男に真の優しさを求めるのなら、その思いは心にしまっておき、付き合う男の芝居臭い、演出丸出しの優しさなどには目もくれないことだ。ある日、どこかでふと感じる男の優しさ、普段は逞しい彼氏のちょっとした優しい仕草を観察するのがいい。

    優しい男がいいなどと言えば、バカな男は優しさを演出しまくるだろう。だから、黙って観察するのがいい。「理想の女性は?」、「好きなタイプは?」と聞かれても、そういうものを持っていなかった自分は、「イイと思った女が理想」、「好きになった女がタイプ」と答えていた。「理想」は現実的ではあり得ない。よって、その時、その都度、現実的に相手を眺めたりで捉える。

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    「絵に描いた餅」を掲げるよりも、現実的なちょっとした仕草や、優しさ、女性らしさ魅かれるものであって、「理想」という固定的な何かを求めたりはない。他人はあれこれ言ったりするが、現実をしかと見、しかと感じ、捉えることができるなら、理想は無用である。男が女を駄目にしてはいけないように、男の見かけの、「優しさ」、「誠実さ」を求める女も同様である。

    本当の、「優しさ」は、強さ、逞しさであるが、一般的な女性の求める優しさというのは、「弱さ」ではないだろうか。実はこれは女性の策略であり、弱い男を意のままに動かし、その上に君臨しようとの意図であるならそれもよかろう。もっとも、人の風下に立つことを好まず、ぐいぐいと引っ張るような男は、あれこれ細かい指示を嫌うし、女の我がままにひれ伏すことはない。


    男を騙そうとみせかけのやさしい行為をする女がいる。それで何を得るのかというより、相手を自分に取り込むのだろう。女を騙そうとみせかけの優しさを繕う男もいる。同じように女性に自分を気に入ってもらうためである。こういう男女の先にあるものは、嘘で固めたものが剥がれる現実である。本当の、「優しさ」を見分けるものは、「心」ではないだろうか。

    つまり、「優しい人」と、「優しい行動をする人」は実は違っている。勇敢に見えて実は臆病であるように、見せていると実際は違うということ。「優しい人」が、「優しい行動をする」とは限らない。「優しい行動をする人」が、「優しい人」である。そこの見極めができるかどうか。「行動」といったように、「行為」ではない。「行為」と、「行動」は似て非なりである。

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    「行為」には意図や目的があるが、「行動」というのは無意識の場合もある。つまり、意図や作為を忘れた無意識の行動の中にある優しさは、真の優しさであろう。人間は利口だし、ズルい生き物だから、無意識の行動の中に真正なものが潜んでいたり、現れたりするものだ。「優しさ」を意識しているときは優しくできるが、無意識の中で優しさを醸す人こそ真に優しい人である。

    隠された本性や本音を無意識の中に見つけることができる。感受性と注意力があればの話だが、一般的に言われていることなどを鵜呑みにして誤った先入観を抱くより、自分の目を信じる方がいい。例えば、目を見て話す人は信用できる、嘘はつかないとか、声が小さい人は自信がないとか、早口の人は頭の回転がいいとかは、根拠のない人の見方といえる。

    今井絵理子と不倫疑惑の橋本健氏のインタビューを聞いたある女性が、「この人は人の目を見て嘘をつく人」といったように、自分を信頼させるテクニックに利用されたりする。人を信用させるために早口になる場合もある。自信ある人は声が大きいが、ない人は小さいというのを単純に信じるのも間違い。自分の母は大嘘つきだが、1里先まで届くバカでかい声だった。

    もっともヒステリー系や感情が高揚すれば声は大きくなろう。人の本心や本音は、むしろ相手の心理を巧みに突いた視点を持つことで読めるものだから、多くの人間体験が重要となる。とくに本心を隠そうとする人をとかく見誤りがちになるので、切磋琢磨された人生経験がものをいう。先日、こういう会話を仕掛けてみたが、相手が面食らっているのが手に取るようにわかる。

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    「〇〇さんは、僕のことを嫌っているようだけど、嫌う相手からは嫌われているように思うものなんか?」

    いきなりの言われ方に顔が焦り、言葉につまっている。「別に嫌ってはいないよ」と返すだろうと予想したが、〇〇さんはそういう嘘がつけない気弱な善人である。

    間があって、「自分が嫌う相手は自分を嫌ってるというよね」と、口を開く。

    「そうもいうけど、僕は〇〇さんに嫌われても嫌ってない、嫌う理由がないからで、相手が自分を嫌ってるから、こっちも嫌いになるって理由にならない。そういう人間もいるってことで、頭に入れておいてよ。〇〇さんはいい人だから…」

    こんな言い方をする人間は、相手も初めてだったろう。心の奥にしまってあるものをえぐり、吐き出す会話は生きて行くうえでプラスになる。他愛もない会話より面白さでも勝る。幸せに生きる方法はいろいろあるが、人間関係を無意味なものから有意義にするためにも、この人は屈託のない人だと思われたい。腹に一物抱えた関係は陰湿で、どうにも気がすすまない。


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    北朝鮮にとって韓国という国はない。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府は、自国や自民族の呼称として、「朝鮮」を用いており、韓国を主権国家として正式に承認していないため、韓国政府が実効支配している地域の名称を用いて南朝鮮と呼んでいる。一方韓国は、1948年8月13日、李承晩の大韓民国政府樹立宣言まで、自国や自民族の呼称として「朝鮮」が用いられていた。

    韓国にとって敵対する北朝鮮が半島全土の呼称として、「朝鮮」を用いていることや韓国を、「南朝鮮」と呼称すること、歴史的に芳しくない日本統治時代や李氏朝鮮を想起させることを背景として、「朝鮮」という呼称が忌避される傾向にある。したがって、「朝鮮民族」、「朝鮮語」などの言葉が日常使われることはほとんどなく、「韓民族」、「韓国語」などと呼ばれている。

    南朝鮮単独で大韓民国が建国された翌月の1948年9月9日、大韓民国の実効支配が及ばなかった朝鮮半島北部は金日成首相の下で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)として独立した。互いに朝鮮半島全土を領土であると主張する分断国家は、それぞれの朝鮮統一論を掲げ、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は建国翌日の9月10日に最高人民会議の演説で、「国土完整」を訴えた。

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    他方大韓民国(南朝鮮)の李承晩大統領は軍事力の行使をも視野に入れた、「北進統一」を唱えた。互いを併呑しようとする両政府は1950年に勃発した朝鮮戦争によって、実際に干戈を交える事になる。朝鮮戦争とはなぜ起こったか?1950年6月25日午前4時、北朝鮮軍は韓国への全面攻撃を開始した。30分にも及ぶ一斉砲撃の後、ソ連製T34型戦車を先頭に5方面から38度線を超えた。

    攻撃に先立って北朝鮮側からの外交姿勢はあった。6月7日以後、平壌放送は南北平和統一提案を繰り返し、韓国滞在中の国連臨時朝鮮委員と南朝鮮の政党指導者に、統一方式案を手交したいと述べた。国連委員会はこの提案に応じ、6月10日に38度線開城付近で北朝鮮代表から文書を受け取る。が、北の代表は南の政党指導者に直接会うと38度線を超えて韓国警察に逮捕された。

    平壌放送は釈放を激しく要求したが、韓国軍は、北側代表越境事件後、不測の事態を怖れて非常警戒令を発動するも、6月23日に解除してしまった。6月25日の侵攻は緊張が続いた後の最初の日曜日で、農繁期であったことから、農村出身兵士に休暇を与えた部隊も多く、北は完全な奇襲に成功した。開戦当時の韓国軍の戦闘能力は、北朝鮮軍にはるかに及ばなかった。

    地上軍兵力は北の18万2000人に対し、南は9万5千人と約半分であった。戦車車両も北側のソ連製T34型242両、装甲車54両に対し、南側は戦車ゼロ、装甲車はわずか27両であった(村上薫著『朝鮮戦争』)。ばかりか、北側の軍隊はソ連の援助と指導を受けており、十分に訓練されていた。この時南側の統治勢力の中心には、亡命先のアメリカから帰国した李承晩らが着任した。

    イメージ 26月25日の戦闘開始とともに韓国軍は大打撃を受けた。ソウル正面の平野部は戦車を先頭ととする北の精鋭主力部隊の強襲にあい、瞬く間に突破された。この時北朝鮮軍は、韓国政府関係者、政党人、資本家、軍人、警官、地主に至るまで逮捕し、処刑したり北へ連行した。北側との協議推進派の政治家らは政治宣伝に利用できると連れ去られたが、すべて消息不明となる。
    勢いをます北朝鮮軍は、土地の無償没収を強行し、「民族反逆者」の粛清と称し多数を処刑した。韓国政府はソウルの南方に逃げ、8月18日には朝鮮半島南端の釜山に退却・移動した。アメリカ国務省に駐韓大使から北朝鮮侵攻公電を受けたアチソン国務長官から報を受けたトルーマン大統領は地元に帰省中であったが、25日夜に国家安全保障会議を召集し、次の処置を命じた。

    ①マッカーサーに在韓米国人を引き揚げさせる。その為に米海軍の使用を認める。

    ②同じくマッカーサーに、急遽韓国軍に対する武器弾薬の補給をさせる。

    ③第七艦隊を台湾海峡に派遣する。

    というものだが、第七艦隊派遣は、中国の台湾攻撃と蒋介石政権の大陸反抗抑止のためだった。26日にマッカーサーから、「韓国軍は崩壊寸前」の報を受けたトルーマンは、2度目の国家安全保障会議を召集し、「朝鮮半島の事態は、より大規模な『ベルリン封鎖』と同じと述べ、韓国支援のために米海空軍の使用を38度線以南に限って認めることをマッカーサーに指令。

    翌27日、国連安保理事会も二回目の会議を開き、「北朝鮮の武力攻撃を撃退して平和と安全を回復するため、韓国援助を加盟国に建議する」などをアメリカの提案により決議した。29日、ワシントンはソ連国境から十分に離れた北朝鮮を目標とする米海空軍のよる攻撃と米地上軍二個師団を日本から派遣することを承認したが、占領維持目的のため小規模で装備も貧弱であった。

    さたには訓練不足の新兵がほとんどであったため、最初に投入された米軍部隊は、北朝鮮軍から手痛い打撃を受ける。7月7日、マッカーサーはワシントンに増援部隊を要請したが、ワシントンは、全世界に展開している米軍にはその余裕がないと応じなかった。米韓軍は朝鮮半島島南部の、「釜山橋頭堡」に追い詰められるも、第八軍司令官ウォーカー中将は死守を命じた。

    「釜山橋頭堡の戦い」として歴史に残す戦闘である。ウォーカー司令官による、「死守」の厳命は、民主国家にとってあるまじき軍人と後の米国議会で批判されている。韓国全土から300万人ともいわれる避難民が釜山橋頭堡に殺到したが、それらにゲリラが混じり込み、北側が総攻撃をかけたことで民間人と兵士の区別もつかない凄惨な戦闘がこの地で繰り返された。

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    9月15日、マッカーサーは本国から増援を得た新編成の第十軍部隊を朝鮮半島西海岸仁川に上陸させた。遠浅で潮の干満の差の激しい海岸での上陸作戦というマッカーサーの奇策は成功、9月26日、米軍はソウルを奪還。合わせて釜山橋頭堡からウォーカー率いる第八軍が北上、退路を断たれた北朝鮮軍は崩壊に向かうが、国連軍の38度線を超える進軍を巡って意見が対立する。

    イギリスには北の侵攻撃退と平和回復が国連軍の目的であり、38度線を超える追撃は止めるべきと主張した。38度線を超える北進は、ソ連や中国の介入を招き、第三次世界大戦を誘発する危険も大きいとの理由で、アメリカ政府内部にも慎重論があったが、強硬派は慎重論を無視した。総司令官マッカーサーの頭には、満州を爆撃してもソ連は参戦しないという考えがあった。

    当時アメリカ国民の大多数は、国家の威信にかけて北を徹底的に叩きのめすべきで、北を温存すれば再び侵略は繰り返されると考えた。北朝鮮軍は壊滅状態にあり、一気に北進することで朝鮮統一は容易な情勢であった。9月27日、トルーマンはマッカーサーに北進を許可するも、陸海空軍ともに満州・ソ連との国境を超えないこと、国境地帯では韓国軍以外は使わぬ条件とした。

    10月7日、国連総会が、「朝鮮全土の安全確保と統一朝鮮民主国家樹立」のための国連軍北進を承認、米軍も38度線を超えた。トルーマンはしばしばワシントンの指示を無視するマッカーサーを牽制目的で、10月14日、ウェーク島でマッカーサーと会談した。その席でマッカーサーは中国とソ連の介入はあり得ないと自論を主張した。勢い国連軍は、10月20日に平壌を占領した。

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    マッカーサーは韓国軍だけでは弱体と読み、米韓全軍を鴨緑江を進撃させた。この頃中国では、「抗米援朝」キャンペーンが展開され、10月1日、周恩来首相は中国建国一周年の国慶節に北京駐在インド大使に、「米軍が38度線を超えれば中国は戦争に介入するが、韓国軍だけなら派兵しない」と語った。この警告はインド政府からワシントンにも伝えられたが無視された。

    10月25日、韓国軍部隊が正体不明の軍隊に包囲されて大打撃を受ける事件があった。さらには各地で米韓軍が強敵に遭遇したが、これは中国軍の大挙介入であることが判明した。名目は「義勇軍」だが、当初は林彪率いる精鋭部隊の参戦に、国連軍は壊滅寸前の大苦戦を強いられ、敗走を余儀なくされる。退却する国連軍に乗じて多数の民衆が南へ移動し始めた。

    中国軍介入と米軍史上始まって以来の大敗走は、ワシントンに衝撃を与えた。11月30日、トルーマンは、「原爆使用も辞さない」と発言して同盟国を驚かせた。12月初旬、英首相アトリーはワシントンに飛び、トルーマンと会談し、「戦争を朝鮮半島に局限する」原則を改めて確認した。12月14日、国連総会は、インド、イラン、カナダの三国による停戦三人委員会を決議。

    三人委員会は、台湾問題討議のため国連安保理事会の招聘でニューヨークに来た中国代表と接触、「現状での停戦」を打診した。「現状」を意味するものは、この時すでに国連軍は38度線まで後退しているという、「現状」を指す。中国は、①外国軍隊の即時完全撤退、②アメリカ軍の台湾からの撤退、③中国の国連加盟という厳しい条件を示したことで、停戦は遠のいた。

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    国連軍を指揮していた第八軍司令官ウォーカーが、12月23日に車両事故で死亡し、後任に第二次大戦中イタリア戦線で名をあげたリッジウェイ中将が任命されたが、中朝軍は、翌年1月1日、38度線を超えて南進し、ソウルを再占領した。リッジウェイは国連軍の士気高揚と防衛線構築に傾注するも、南朝鮮防衛は困難と判断、日本への撤退計画を内密にマッカーサーに提案した。


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