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がんの未来に… ②

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がんの治療法といえば、外科手術、抗癌剤、放射線が三大療法とされていた。ところが近年、がんは遺伝子の異常によって起きることが分かってきた。がん発症の原因とされる遺伝子が発見されて以来、がんを遺伝子レベルで治そうとする取り組みが、今や世界レベルで行われている。さらにはがんを抑制する遺伝子が発見されたことで、がん医療は飛躍的に進歩した。

これまでの三大療法に加えて遺伝子療法は、がん抑制遺伝子を外からがん細胞の中に入れてやる治療で、最大のメリットは抗がん剤に比べて副作用が圧倒的に少ないことが挙げられる。スズメバチの巣の中にスプレー式の殺虫剤を入れて吹きまくればハチは死ぬ。抑制遺伝子は殺虫剤のような殺癌剤とはならないにしろ、抗がん剤の副作用の苦しみから解放できる。

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「毒をもって毒を制す」というが、抗がん剤はあまりに猛毒で、苦痛な闘病を強いられ身体も弱ってくる。身体に負担のかからない治療こそが、真に患者のための治療であることから、今後は遺伝子治療に大きな期待が寄せられている。人間は約60兆個の細胞でできているが、正常な細胞はそれぞれの役割に応じて決まった周期で細胞分裂を行い、また増殖を繰り返す。

そうした正常細胞がもしもDNAの損傷などによる異常が感知され、完全に修復が困難となった場合、その細胞は周りの細胞に影響を与えない(周囲の細胞を守る)ために、アポトーシスという細胞自滅機能が働く。迷惑をかけないために自死するとは、見上げた心意気である。それとは別に細胞にはがん化しないように働くがん抑制遺伝子があるのが分かっている。

人間はいつも万全な状態であるとは限らない。劣悪な生活習慣や飲酒、喫煙などの生活環境や加齢などから、細胞の最適なサイクルや分裂のスピードが崩れて遺伝子変異を起こす。それが正常細胞が本来持っているアポトーシスが機能せず、不死となる場合があるのだという。他人に迷惑をかける人間は自発的に組織から出て行けばいいのに臆することなく居座る。

これらもある意味神経が異常だろうし、「彼は組織のがん」などといわれる。正常細胞も何らかの異常で狂いが生じ、自死すべき機能が壊れたものががん細胞になることが分かってきた。さらにそのがん細胞は、無限増殖を始めるというから始末におけない。正常細胞は数週間から数か月の寿命しかないのに、がん細胞に寿命はないため、いつまでも生き続けることになる。

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その上がん細胞は自律的分裂のスピードが非常に速い。このため、普通よりも多くの栄養補給が必要で、普通の細胞の5倍以上のブドウ糖を摂る。そのためにがん細胞は自らへの栄養補給のために新たな血管を、それこそ網の目のように作ってしまうというから、これだけでもがんというのはとんでもないヤツである。さらに、さらに、がんというヤツは旅好きという。

普通の細胞(例えば肝細胞)なら肝臓内のみに留まり、膵臓なら膵臓内に留まって、出て行くことはないが、がん細胞は留まることをせず、あちこちのどんどん出て行き、人体のあらゆる領域を支配しようとする。これを増殖・浸潤というが、なんという傲慢さであろうか。さらに、さらに、さらにはがん細胞は、細胞死をしない超自己中細胞という際立った特徴を持つ。

正常細胞はちょっと異常が発生すると、周囲の細胞から、「お前、死んだほうがいいぞ、周りに迷惑かかるから…」と指摘されて素直に従うが、がん細胞はこれを完全に無視するばかりか、普通正常細胞が増えすぎると周囲から、「これ以上増やすな」という声に呼応して、増殖停止命令を働かせるが、がんはこれすら持ち合わせない。どこまでふてぶてしいヤツであろう。

がんの種類のなかでも膵臓がんほど厄介なものはない。ほんの一昔前、膵臓がんは比較的まれな病気といわれ、実際、20年くらい前には膵臓がんの患者はそれほど多くはなかった。ところが膵臓がん患者は年々増加傾向にあり、日本における死亡者数は2013年には年間3万人を突破した。増加の原因ははっきりしていないが、食生活の欧米化が一因ではといわれている。

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膵臓がんの治療が難しい理由として、症状がでにくいために進行した状態でみつかること、まわりの臓器や血管に広がったり、血管を経由して遠くの臓器に転移したりしやすいことの他に、抗がん剤や放射線などの治療効果が低いことがあげられる。膵臓がんを治癒させる唯一の治療法は外科切除だが、約8割の患者は切除手術ができないほど進行した状態で見つかる。

膵臓がんで他界したのは、九重親方、竹田圭吾、十代目坂東三津五郎、夏八木勲、山本七平、スティーブ・ジョブズらがいる。もっとも激しいがんとされる膵臓がんの5年相対生存率は、男性7.1%、女性6.9%となっている。これは他のがんに比べて著しく悪い数値である。3年前に近くの病院で血液検査を受けたある50代の女性は、後日膵臓がんのステージ4と診断された。

手術は不可能で抗がん剤治療が始まった。「すごく辛くて苦しかったです。痛いし、何を食べても吐いて吐いて10キロ以上痩せたし、もう体力的に限界と諦めていましたし、余命も3か月~半年と言われました」。主治医は、「患者さんのがんは肝臓に転移がみられ、胃、腎臓、脾臓にも浸潤していて手術もできないし、放射線もかけられない状態でした。

そこで患者さんに遺伝子治療を施したところ、がんの縮小がみられ、放射線があてられるようになりました。その後、放射線治療によって患者さんは完全によくなられました」という。現在、遺伝子治療は正式な治療ではなく治験(臨床試験)という段階につき保険の適用がない。下図はある病院の費用の内訳だが、あくまで目安であり、実際はさらにかさむという。

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遺伝子治療は、抗がん剤の問題点である、「薬剤耐性」改善の可能性があり、効果が得られなくなった抗がん剤が再度有効になることもあるが、全面的な効果が期待できるものではない。1990年にアメリカで世界初の遺伝子治療が実施されて以来、世界中で10,000名を超える患者が遺伝子治療を受けたものの、はっきりした治療効果が出ていないのが現状のようだ。

三大標準治療以外の治療法は、治験的に効果のあった患者を大々的にアピールするが、効果の見られない患者については沈黙する。少しでも効果があれば、「効果があった」となり、「全く効果がない」を打ち消すことはできるものの、0.1%であれ、0.001%であれ、それは「0」ではないというところに、患者は期待を抱くが、「効果が薄い」というのが実は正しい。

治療として認可を受けない治療技法には問題点がある。効果が見られないのも問題点の一つだが、遺伝子治療の最大の問題点は、「ベクター(遺伝子の運び屋)」にある。ベクターにはウイルスベクター(無毒化したウイルス)と非ウイルスベクター(人工化合物など)があり、人工ベクターはウイルスベクターと比較して、より安全ではあるが遺伝子を運ぶ能力が劣る。

これまでに、アデノウイルス(肺炎、結膜炎の原因ウイルス)ベクターの大量投与を受けた患者が死亡したケースや、レトロウイルス(マウスの白血病原因ウイルス)ベクターによる患者が白血病を発症するなどの重大な副作用が報告されている。従って、遺伝子治療を成功のためには、十分な遺伝子を運ぶ能力、十分な安全性を確保した、全く新しいベクター開発が必要か。

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今や大学の医学部や民間の研究機関は、ベクター技術研究を進めている。九州大学のセンダイウイルスベクター(SeV)もその一つ。これまでのベクターは、導入された遺伝子が染色体遺伝子にキズを付けるために白血病などの副作用が起こるが、SeVは染色体が存在する細胞の核とは無関係に細胞質で遺伝子を発現するため、白血病などを起こす危険性は全くない。

今後も新しいベクターの開発がなされ、遺伝子治療が加速するだろう。放射線療法とは別に、「光免疫療法」というのがある。これはオバマ大統領が一般教書演説で取り上げたほどの有効な治療法であり、開発者の日本人小林久隆氏は、アメリカ国立衛生研究所の主任研究員である。日本人の活躍は同胞として嬉しいが、何人であろうと関係ない。この際、誰が桃太郎になるか!

末期がん患者の多くが、治癒を諦めて緩和ケア(ホスピス)にシフトする現状にあって、小林氏の光免疫療法は、末期がん患者にとってもある程度希望が持てる治療になり得るという。週刊新潮7月6日号などが、「小林麻央さんは、標準治療を選んでいれば助かったのではないか」と、彼女が頼った代替治療批判を報じているが、そもそも乳がん自体は命に影響を与えない。

しかしながら、それが他の臓器などへ転移した時に生命へとかかわってくる。さんのブログでは気功のほか、マッサージ、サプリメント、温浴療法、酵素風呂などの言葉が散見されるというが、現代の科学では効果が検証できていない治療法を総称して代替療法と呼び、標準治療から遠ざかったのは事実で、その理由は定かでない。すべては後の祭りで、だから騒いでいる。

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「あの過ちを消すことができるなら…」。「あの日に引き返すことができたならば……」。これが人間の常、人間というものだろう。『あの日に帰りたい』という有名な曲がある。♪ 青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう あの頃のわたしに戻って あなたに会いたい と、この歌詞には驚いた。男の理性にはない感情であり、発想であり、女性の感性には驚かされる。

「済んだことをぐじぐじいうな!」、「過去に追い回されるな!」というのが男の性分だが、中島みゆきの『時代』にしても、過去を悔いたリ、否定したりが、女性にはないのだろうか?さだまさしがみゆきの感受性や表現力を異質とし、「到底戦えない」と言っていた。「女性としての視点、ものの捉え方、考え方は、男が生半に想像して書けるものではない」と…

確かに、男にとっては異質である。が、病気は違う。命にかかわる病については、感性もヘチマもないようだ。当初、麻央さんのブログには、≪あのとき、/もっと自分の身体を大切にすればよかった/あのとき、/もうひとつ病院に行けばよかった/あのとき、/信じなければよかった≫ などの言葉が並んでいた。「後悔」というのは、未来の選択の難しさを示している…


結果に拘らなければ積極的になれる!

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表題の多くは疑問であって決めつけや悟りではない。自分ならどうするかという命題に対する質疑応答かも知れない。回答は正しいに越したことはないが、応答というやつは、「問いに応じた答え」で正答とは限らない。人それぞれに応答がある。問題意識を持つことは、「生」への積極的な取り組みだが、それとは別に、「なるようになる」という生き方もある。

「積極的に生きる」のは良いことだろうか?「積極的」=良い、「消極的」=良くない、などと一般的にいわれるが、損得勘定でいえば、「積極的に生きる」のは得とはならないことが多い。実際問題として、打算的で用心深い人は消極的な人が多い。「消極的に生きる」人は、得々感を感じているのだろうか?じっとしていることのできない自分に消極的の良さが分からない。

積極的は得とはならないといったが、だからといって損することもない。他人から見れば「損」と思うことでも、本人は損と思わないその理由に、「後悔しない」ことがある。積極的を選ぶ人間の最大の、「損」は後悔であるからだ。したがって、自分が積極的に行動するとき、「後悔しない」ということが背中を押す。後悔という損に比べれば、それ以上の損はない。

したがって、積極的に動いて上手くいかなかった損は、やらない損に比べて何でもない。「何でもない」は正確には、「何でもないことではない」が、慣れも大きい。当初は落ち込んだりもしたし、自分の非力や無能に愕然としたし、自己否定もあった。それでも、「後悔」という前に、「失敗」は行為の、「証」として受け入れるようになった。「行為」はすべてに優先する。

消極的を選ぶ人の多くは、消極的に生きても損をしないことを肌で感じ取っているのだろう。あるいは、気弱で傷つきやすい自分を守るため、行動しないを自己正当化しているのだろうか。消極的な人間は自らの意志で、「消極」を選んではいない。多くは知らぬ間に無意識に消極的な行動をとる。それが性格となって、自身の生き方を支配することになり。

損もしない代わりに得もない。あの女に声をかけたいがかけられない。積極的な人間はそれを損だと思うが、消極的な人間は声をかけないことの、「損」より、かけて無視されることのダメージが大きい。損は、「大損」に打ち消されるのだろう。損の上に大損があるのは自分にはなく、面白い考えだ。「無視」されるのは単に結果でって、自分の意向や望みに合致しない。

相手がある以上、自分の意図した結果とはならない。それが当たり前と思えたら成長だろう。将棋をやっていればそんなことだらけ…。こっちがいい手を指しても、上手くいかないのは、指してみて分かること。勿論、上手く行く事もある。一事が万事、何でもそうではないか。人間には欲求があるが、心理学者マズローは、人間の欲求レベルについて述べている。

 ・生理的欲求…食う、寝る、出すに加えて、「やる」という性的欲求
 ・安全欲求…安全な環境、身をもまるための岩穴でないマイホーム
 ・愛と所属の欲求…人を愛したい、愛されたい、家族を持ち自分の居場所を得る
 ・社会承認欲求…社会の中で職業を持ち、人から認められたい
 ・自己実現欲求…自分らしい固有の人生を選びたい、送りたい

上から順繰り社会承認欲求までが、自分の外側に向かうものであったが、自己実現欲求では自己の内側に潜むものを実現しようとの願いに変わる。これは、諸欲求がすべて満たされたとしても、個人が自分に相応しいと思われる生き方をしていない場合、すぐに不満や不安の原因となる。画家は絵を描き、詩人が詩を作るのが、人間が究極的に平静でいられることになる。

藤井聡太四段の活躍で久々に将棋界が沸いたが、20年前に『ふたりっ子』というNHK朝ドラがあった。原作の大石静は作家であるが、脚本の仕事が多い。『ふたりっ子』は、二卵性双生児を題材に、欲望を外の世界に求める姉、自らの内に求める妹の対比を描いているが、「私の幼少期はまさに姉の麗子で、自らへのアンチテーゼとして麗子を描いた」と述べている。


世はまさに格差社会である。そうした時代背景の中で、自分らしく生きるために何をすべきであろうか?いつまでも自身の幸せを、「外的条件」の中に追い求めていることを止めるべきと思うのだが…。人との比較や皆が求める外的幸福条件ではなく、「自分」にとって内なる幸せを模索してみてはどうであろうか。確かに個人の欲求を外に求める時期はあるだろう。

それを追い求め、ある程度満たされるようになれば、自分の内側に潜むものに気づき、それを表面化していく方向に向かうが、そこまでは、「個人の生き方」のレベルに過ぎない。やがて、個人が自身の境界を越えて、他者に啓発したり、他者の豊かな生活を願う方向に向かえば、人はさらに成長し、進化を怠らない。が、若いうちはことさら自己実現に向かうことだ。

自分は若い人が何を求めているか分からない。が、現代の若者は総じて幸福であるのは内閣府の、「国民生活に関する正論調査」を見れば一目瞭然である。「満足している」、「まあ満足している」を合わせると80%弱となっており、これは高度経済成長期時代より高い数字である。かつて若者の代弁者的存在であった古市憲寿は、こんなことをいっていた。

「今の若者たちの生活はそこまで不遇であるように見えない。確かに安定雇用確保は難しくなったが、親と同居していればそこまで稼ぐ必要はないし、日本では家族の存在が最強のセーフティネットとして機能している。また、多くの製品やサービスはかつてと比べものにならないくらい安価で手にはいる。ユニクロやZARAのアイテムを身にまとい、スマホで連絡を取り合う。

クルマ離れは顕著となり、友人宅で鍋パーティーでもやれば、それほどお金もかからない。現代の若者はこのような日常のささやかな"幸せ"の中に生きている」。確かに自立心が削がれた若者が増えているのは間違いない。かつてあった、「パラサイト」という言葉は消えたのは、当たり前になったからだろう。「ひきこもり」や、「ニート」が社会現象となっている。

ひきこもり・ニートになる原因は様々だが、就職の失敗、仕事における失敗などから、社会に出るのを嫌になる例が多いとされている。が、それはどこの国でもあることだから、問題は親にある。「日本の親は口では子どもに向かって、『飛べ』と言いながら、 足首をつかんで離さない」。なぜそうまで子どもに依存するか?子どもの数が少なくて、「虎の子」であるからか?

「少なく産んで大事に育てよう」という標語はないが、社会がそういう標語を作って実践している。だらしない親からだらしない子どもが育つのは当然であろう。豊かな社会になった日本では、「家計のために早くから働く」、「親の手助けをしたい」あるいは、「しなければならない」境遇というのは特別不幸なことではなかった。多くがそうであったからであろう。

ところが、大学生になった我が子に小遣いを与え、クルマを与え、留学費用や旅行費用までも与える親は珍しくない。果たしてこれは幸せなことなのか?おそらくそうであるから、80%の若者が満足感を抱いているのかもしれない。食べる、住む、遊ぶという物理的環境を、自力で獲得するという喜びも自負心もなく、依存して手に入れるのが当たり前になっている。

今の若者はどうだかわからないが、自分で働いた給料で買ったオーディオセットほど嬉しかったものはない。なぜに自分で稼いだお金で手に入れたものがあれほど嬉しかったのだろうか?おそらく、自分自身を一人前と認識したからではないかと。自分は未だに自分のお金で食べる食事が一番おいしい。それは、満足と引き換えに代償を払うからであろう。

代償なき満足というのはあり得ない。「ただより高いものはない」という慣用句は、ただで何かをもらうと、代わり に物事を頼まれたり、お礼に費用がかかったりして、かえって高くつくという意味だが、自分は、「ただより価値のないものはない」と捉えている。価値あるものは、それ相当の代替を支払ってこそ意味がある。それを価値だと考えている。

他人の饗応はさておき、自分は物を代替するのが好きだ。Aにしか使えないものを、Bに使えるアイデアを見つけた場合、そのアイデアはお金を出す以上の価値を持つ。おそらくこれは自身のアイデアに対する褒賞であり、自己満足に浸った結果で亜郎。学費を与え、生活費を与え、遊興費まで与える親とて、自分らしく生きるためのヒントを与えてくれはしない。

お金の苦労が無いことが自分らしく生きることではないが、そのように与えすぎる親は、むしろ子どもの自分らしく生きるための知恵やアイデアを削ぎ取っているのではないか?「三食昼寝つきでもいいから、あなたは好きなゲームやテレビを観ていればいい」というのは、親の愛情であっても、子どもが社会に参画し、社会性を身につけることを削いでいる。

日本人の成人年齢は20歳だが、現在は選挙権のみ18歳だが、遠い将来成人年齢は18歳に引き下げられるであろう。それもある意味で重要だが、この国に幼稚で成人になり切れていない大人が多い現状からして、せめて40歳までに、「成人」することを目指してほしい。成人の要素は多分に、多段階的にあるが、まずは自分で自由になるお金を得ることを始めの一歩とする。

バージニア・ウルフは、「女が小説を書くには、鍵のかかる部屋と、自分の自由になるお金がなくてはならない」といった。なるほど…、人が自分らしく生きるためにも、「自分の自由になるお金と一人になれる時間」が必要ではなかろうか。そのために人間は職を得て働く。ごくわずかであれ自分が得る収入と、夫や子どもから解放された時間こそが視野をひろげる。

自己実現の素地

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元服という言葉を父から教わったのは確か中学生の頃だったろう。父の好きな、『赤穂浪士』(1961年東映)を一緒に観に行った後だった。父は、「昔は、15歳くらいになったら一人前の大人として扱われ、それが元服」というようなことだった。映画では大石内蔵助が一子松之丞に、「今宵、この場に置いて元服致せ」という場面があり、松之丞の初々しい笑顔が印象的だ。

元服とは親の保護家から脱し、対等で一人前の大人と扱われるわけだから、戦に初陣して敵を切り倒すことである。これが当時の武士の職業であるなら、昨今の成人とは自力で糧を得ることであろう。糧とは遊ぶ金を得ることではなく、生きていくためのお金である。それがこんにちにおける精神的な成人の証しではなかろうか。だから自分で働いて得たお金は価値があった。


働いた金で買ったものはあれほどに嬉しいのである。今は小学生、中学生のアルバイトは禁止だが昔は違った。新聞配達、牛乳配達は小学生でも雇ってくれた。自分は天体望遠鏡を買うために新聞配達を始めた。近所の眼鏡店のショーウィンドーに置いてある天体望遠鏡は6000円のプライス、新聞配達は1日50円だったが、頑張ってお金を貯めればきっと買えると信じた。

自分は何より天体望遠鏡で土星の輪を観たかった。土星という惑星はそれほどに好奇心を惹く天体であり、1610年に自作の望遠鏡で土星を観たガリレオは、「この惑星には耳がある」と観測記録に記している。1655年になってオランダの天文学者クホイヘンスが、これまでよりも格段に性能の良い望遠鏡を自作して観測し、土星にリングがあることを確認している。

名を失念したが、江戸時代の日本の天文学者は、土星をそろばんの玉と認識している。新聞配達を始めて一カ月くらいたったある日父が、「一緒に来い」とその眼鏡店に行って天来望遠鏡を買ってくれたあの嬉しさは忘れない。対物レンズ径6cmの屈折望遠鏡で観た土星は、天文雑誌で観るのとはまるで違って米粒のようだったが、まぎれもない本物の土星に感動した。

木星も同じ米粒だったが、金星は肉眼では光の点だが、望遠鏡で観ると半月や三日月であることに感動した。その感動とはおそらくガリレオやホイヘンスと同じ感動であったと想像する。何より感動したのはやはり月面観測だった。夜空に浮かぶ月がこんなにデコボコしているのは、やはり望遠鏡の威力であった。毎夜広場で望遠鏡を観る少年として近所の話題になった。

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近所や通りがかりのおじさんたちは、「ちょっと見せてくれんか」とよく声をかけられたが、「見せて」というおばさんが一人もいなかったのはなぜだろう。生活に追われたおばさんにとって、夜空に浮かぶ月も土星も金星もどうでもよかったのだろう。宇宙に限らず、一般的に女性は、「謎」に興味がない。少年誌といえば、謎や神秘や冒険ばかりで少女雑誌とは異質である。

子どもの頃にギネス世界記録にすっかりハマっていたというキャロライン・ポールは、消防士にしてパラグライダー乗り、 公私にわたって冒険心を発揮する女性だが、「勇敢な女の子を育てる為に冒険に挑戦させよう」と説いている。別に女の子が勇敢であるべきと思わないが、せめてははぴゃは男の子に冒険心という勇敢さや好奇心を損なう心配性やは止めるべきだ。

「怖れることは悪いことではない。人間として大事な感情であり、それが身を守ることにつながる。が、それでも問題になるのは、女の子が落ち着かない環境に陥ったとき、先ずは怖れる気持ちを抱くよう親から刷り込まれることだ」と、キャロラインはいうが、少子化で子どもに逐一目が届く、目が届かせられることが、男の子の男気を損なうことになりはしないか?

男から見、男親から見れば、どうしてそんなことを怖れるのか?という女、そして母親、そういう時は目をつむらさせるしかなかったし、勇気を持てとは言わぬが、せめて文句を言わずに従う母親である。女の子はお人形さんで遊んでもいいが(キャロラインはそうは言わぬが)、せめて男の子に対しては、少々の冒険には目をつむり、男気や逞しさを育む母親でいるべき。

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まあ、このようなことを1000回述べても、今しか見えない将来的志向のない母親には無理であろう。どこの世界のどの母親が、息子の勉強に口うるさく言わないでいられようか。父親が、「何もそんなにガミガミおしつけなくとも…」などと言おうと耳に入らない。それがなぜなのかは男には分からないが、心理学的分析によれば、女が人との比較に敏感で躍起になるからである。

女の子は他人の進度を気にするとピアノ教師もいうように、人と自分の相対性から自己認識する女性と、絶対的自分を求める男の違い。ひきこもりを許すのは母親的感性だと思う。父親はそんな箸にも棒にもかからぬ男など認められないが、腹を痛めて産んだ我が子への母の思いは、殺人犯とて可愛い息子。とはいえ、子どもを避難させるのはほどほどにすべき。

確かに人間の本能は、辛いことから避難しようとする。ダメとわかると逃げることで自分を癒そうとする。外で辛い思いするのは嫌だと、そうした一時避難から家に引きこもるのは、あくまで一時の避難であって、避難場所にずっといることはあり得ないし、本来的には間違っている。災害時の一時避難も同様である。それが一時でなくなったのが引きこもりである。

引きこもりを容認する親は、一時避難という認識がないのだろう。夫と喧嘩して一時的に実家に帰って来た娘に対し、日が経つにつれてそわそわするのが父親である。ついには、「いつまで家にいる気なんだ!」と、追い出しにかかるのが父親である。そういう母もいるにはいるが、道理の分かる明晰な女であろう。ひきこもりには、「自分がこうしたい」という意志がない。

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そういう道ではなく、「一番楽そうな」道を選んで逃げ込んでいるし、それを許す親もまた、「息子はこうすべき」、「こうさせるべき」という考えがない。あっても、納得させたり説き伏せたりする能力がない。それも親だが、そういう親から彼らが生まれる。緊急避難はあってもいいが、「いつまでもそうしてはいられない」と思わない子どもを作っている親。

「しなやか」という言葉がある。しなやかさとは何?しなやかさの意味を具体的に言葉にするのは難しいが、「老子76章」にはこのような記述がある。「人は生きているときは柔らかで、しなやかである。しかし、死んだらこちこちになりかさかさになる。草にしり木にしろ、何もかも生きているときは柔らかで、しなやかであるが、死んだらひからびてかさかさになる。

こちこちして堅いものは死の仲間であり、柔らかくしなやかなのは生の仲間である。それゆえ暴力は真の勝利を収めえない。木がこちこちに堅くなるときは、枯れて死ぬときである。強いもの、大きなものは、下になり、優しく柔らかなものが上になるのである」。しなやかさをどう表現すべきかについて、柔軟性や弾力性という表現を借り、つつましさを説いている。

「つつましさ」も表現的には難しいが、つつましさをここではしなやかさ、柔らかさと表されるなら、つつましさはしなやかと同義のようだ。はて…、男と女のしなやかな関係など、20代、30代の頃は考えもしなかった。しなやかな家庭というのも、あまり考えてはこなかった。進行形途中の実践段階にあっては、そうしたゆとりもなく、一歩引いてみた時に浮かぶもの。

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それが、「しなやかさ」、「つつましさ」かも知れない。客観的なしなやかさでなく、主観的なしなやかさはどう身につけるべきか。しなやかさを柔軟さとするなら、どのように思考すべきか。マズローのいうところの自己実現を果たした人間とは、一人でいること、孤独を愛することも好み、一方では、人とのかかわり合いも楽しめる人間という柔軟性を示している。

それらから、究極ともいえる自己実現とは、「己の欲することをするとそれが人のためになる」人間であろう。真のセレブはお金を貯め込むことはせず、いかに吐き出すかを考える。それが世の為、人の為になるからだろう。苦痛を感じ、我慢しながら他人のために尽くすではなく、賞賛が欲しくて人生を送っているのではなく、自分がしたいことをしているに過ぎない。

それが自然に他人の為になってるということであって、他人から見れば大変なことでも本人にとってはごく普通のことである。したがって、ご褒美が欲しい、賞賛が欲しい、そういう人に自己実現は難しいが、自己実現はしばしば誤解されている。お金が欲しいから頑張って努力して資産家になるのは悪いことなのか?悪くはない。それを自己実現と言わないのか?自己実現である。

綺麗ごと抜きに自問し、自答すれば、上記の答えは必然だ。が、ジョブズやゲイツの生きざまをみるに、真の自己実現者は身を粉にしてあくせく働くが、決して蓄財目的ではなかったこと。自分の造った物がいかに便利であり、人から愛されるかという物作りの理想を追い求めた結果、お金があとからついて来た。よって、自己実現というのは金を生み、金を作るとは違うかなと。

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マズローの自己実現

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人生を楽しむためにある程度のお金はあった方がいい。食うや食わずの生活では、気持ちの上でも余裕がなくなってしまう。極貧であれ、人生を楽しむことができるならそれに越したことはないが、なかなかそうもいかないだろう。これも道徳家でない現実的思考だが、これだけは言える。「一生かかっても使いきれない財産を蓄えたところで、どうなるものでもない」。

しかるに、こんな言葉も浮かんでくる。「富者は身を苦しめて疾作し、多くの財を積むも、ことごとくは用うるを得ず」。難しい言葉ではないので意味の理解はできよう。お金はいくらあっても困らないというが、持たざる者には金持ちの苦労など知る由もないが、投資詐欺や好利回り商品などと口車に騙され、財産を失った人間を観るに、お金はあったで悩みはつきない。

自分は20代のころに同じビルにいた銀行の行員から多くを教わった。サラ金に勤務する知人の付き合いで金を借りていたことも、「消費者金融に名を残すのは絶対に止めた方がいい」との指摘を受けた。もっとも納得させられたのは、「お金は増やすよりも減らさないこと」という言葉だった。「定期預金の利息が少なくとも、預けていれば元本は減らないだろう?」

この言葉に納得し、利回りの良い金融商品などにまったく興味は沸かなくなった。お金を増やせないのは能がないという言葉も聞くが、そんな言葉に動じなくなった。家に来た友人が、ザルいっぱいではみ出す100円硬貨、500硬貨をみて、「国債とか金融商品を買った方がいい」といった。が、腹では、(それでどれだけ利息が得れるんだ?)所詮はハシタ金である。

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チリも積もるがコインも積もる。どこまで積もるかを楽しんでいる。人はそれぞれだから、彼はお金を増やすことに長ける有能者、自分はコインが硬貨に見えない享楽人。最近欲しいものは、5リットルの焼酎ボトルで、酒を飲まない自分があれを手に入れるのが難しい。近所のリカーショップで、「5リットルの空ボトルないですか?」と聞いたら、「ないです」とあっさり返された。

何とか手に入れ、5リットルをいっぱいにしてみたいが、最近はWAONなどの電子マネーを利用するせいか、お釣りが出なくてペースが落ちてきたし、小市民の小市民的楽しみを奪われ兼ねない。これも時代の反映か。自分はどんなことでも楽しみに変える才能を持っており、自ら考え、自らやり、自ら楽しみ、自ら評価する。人の手になど委ねない。これが愉しく生きるコツ。

何でも自己が実現すれば自己実現である。自己が自己を実現しなくて何が面白いのか。自己実現の欲求というのがあれば、あるなら、あってしかりでやればよい。マズローは自己実現を、自分の持つ能力、可能性、それらを最大限発揮し、具現化し、自分がなり得るものにならなければならないという欲求といったが、そういう自己実現者には以下の特徴がある。

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①「現実をより有効に知覚し、それと快適な関係を保っている」。つまり、社会生活や現実に適応していること。狂気性と紙一重の天才や、周囲と問題を起こす天才はこの範疇には入らない。

②「自己、他者、自然に対する受容的態度」。自分に満足し、他人も受け入れられる。自然を愛し、自然に寛容があるから毛皮のコートなどは着ない。

③「自発的な行動」。とは、素直であり、素朴である。

④「自己中心的でなく、問題(課題)中心的」。課題には真摯な思考で取り組む。

⑤「孤独、プライバシーを好み、欠乏や不運に対して超然的」。一人でいられる人間。いつも淋しく誰かと行動をしなければ不安ということはない。

⑥「文化や環境からの自律性」。周囲・流行・時代の価値観と距離を置くことができる。

⑦「認識が絶えず新鮮で、無邪気に畏敬や喜びをもって味わうことができる」。

⑧「神秘経験や至高体験がある」。

⑨「共同社会感情」。人類に対し、怒りもし、腹も立て、嫌気がさすこともあるが、同一視や同情や愛情をもっている。

⑩「深くて広い対人関係」。人と距離を置く、孤独に耐えるが人と深く関わる」。

⑪「民主主義的な性格構造」。自分も他人も人間として平等な価値や権利をもつことを認められる。

⑫「手段と目的の区別」。例えば、お金は生活の手段で、それ自体目的ではない。

⑬「哲学的で悪意のないユーモアセンス」。

⑭「創造性」。

⑮「文化に組み込まれることに対する抵抗」。独自の視点で見、付和雷同を嫌う。

⑯「確固とした価値体系を有す」。周囲に流され、妥協することがない。

⑰「対立性・二分性の解決、欲望と理性の調和」。最期の項目は、マズロー心理学の要と言えるので、ピックアップして考えてみる。

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マズローは、「人間は自分のなりうるものにならなければならない。このような欲求を、自己実現の欲求と呼べるだろう」と明示する。実現不可能なものを求めても不幸になるだけで、なりうる自分を目指すことが大事である。人間が行きづまって疲弊し、満足感を得られないのは、方向性を外にばかりに向けて、「なりうるもの」を達成していないからである。

方向性を内に向けるためには、「結果を手放し、過程に目を向ける」こと。さらに噛み砕いていうなら、他者からの承認・賞賛、金銭、地位、名誉といった、「結果」や、「成果」でなくあくまで、「プロセス」に目を向ける。プロセスとは、それを行っている途中経過にあって目には見えないが、そこに目を向けた時に自分の無意識の、「なりうるもの」が浮かび上がる。

一時流行った、「勝ち組」という言葉がある。くだらないと思って使わない、認めないでいた。というのも、「外的条件」や、「結果」という意識部分だけを注視して自己の目標に設定し、しかもそれが手に入ってしまうから、「プロセス」になど目が向かない。そうした表面的な部分において、「勝ち組」と自己満にひたり、外的条件を追い求めるベクトルを、内に向ける事をしていない。

「勝ち組」、「負け組」などと騒ぎ立てる人間の底の浅さ、いやらしさをマスコミやメディアは早期段階から煽り、一緒になって囃し立てていたのがいかにもこの国らしい。何を基準に、「勝ち組」なのか、「負け組」なのか?こういう言葉を聞くだけで虫唾が走った自分であるが、最近はあまり言われなくなったところをみると、これも一過性であったようだ。

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これまで言われた事には、社会的地位、給与や能力、美しさ、既婚・未婚、子どもの有無などがある。小泉内閣による明らかな失政が格差社会を生み、それを象徴するかのような、「勝ち組」、「負け組」という語句である。欧米的個人主義社会には、「自分らしさ」という規範としての価値基準があるが、日本的お手盛り社会には、曖昧な社会的価値基準に翻弄される。

「自分らしさ」という言葉を離合集散型の日本人はどのように受け止めているのか?政治色の強い日本のとある宗教に入信すると家族が離散するといわれている。実際にそういうケースを知るが、その原因として、①同宗教こそが第一の生活スタイルとなり家族団欒がなくなる。②財務と称する寄付が多額で生活に困るようになる。③子どもに合理的な躾ができない。

自分の母も関西に本部のある躍る宗教に入れ込んで、幼児期にはいつもそこに連れられ、習わぬ経を復唱する自分に周囲の信者は、「賢いね~」、「頭のよい子だ」などと群がり、それを真に受けた母の得意満面な顔を今でも覚えている。自分の孫を本部で行われる年に一度の大祭に連れて行こうとする母に、「子どもを宗教に関わらせるつもりはない」と強く言い渡す。

怒り心頭の自分に母は、「奈良には鹿がいるし、旅行に行こうというのが何が悪いんか!信者は本部にタダで泊まれるのに…」と、言い訳をしたが、そういう問題か?「宗教には絶対に染まらせないので、行きたけりゃあんたが一人で行けばいい」と念を押す。何が旅行だ、味噌も糞も一緒にするなである。子どもは親や祖父母のすることを良いと妄信しがちである。

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西洋人のアイデンティティである「自分らしさ」をはき違える日本人は多い。「自分らしさ」を、いい加減で努力もせず自分の好きなことをしていればいい、という事だと考える人間もいるようだが、マズローが提唱する自己実現とは、セルフエスティーム ( self-esteem ) とは、その人が自分本来の到達する理想、究極の自分象、それらとは甚だしくかけ離れている。

日本人は欧米文化の何事もデフォルメする特徴を持つゆえに、本来の概念から別物になって一人歩きするパターンである。カレーが日本に入れば日本式カレーライスになり、ラーメンも中華料理ではない。天津丼、中華丼、ちゃんぽん、海老チリ、焼き餃子(あちらは水餃子)などはいずれも日本人の創作料理で、このように日本人はアレンジメントに長けている。

もし、「自分らしさ」とは何?と聞かれたら、それぞれの人たちはどんなことを想像するだろうか?人のことゆえに想像がつかないが、「あなたはネガティブ?ポジティブ?」などと聞かれることもある。かつて聞かれたこともある。以前は、「断然ポジティブですよ」と答えていたが、昨今、思うことは、ネガティブ、ポジティブなどは、ものの見方の結果でしかない。

したがって、重要なことはネガティブと思える要素を、いかにポジティブに持って行けるか、生かせられるかというのが、自分の土俵を作ることになる。自分の思う、「自分らしさ」の原点はそこにあって、規制の枠組みのなかで思考するだけではつまらないし、刺激が無さすぎる。「自分らしさ」という言葉を分解すれば、「人にはない自分の独自性」と考えることもできる。

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こうしたブログを書くときに最も留意するのは、人が書くようなこと、書いているようなこと、書きそうな判断や理解よりも、誰もが書けないような、あるいは書くのを躊躇われるようなものを書きたい。そのためには視点をどこに置くか、自分の利害にも染まらず、誤解も怖れず、誹謗や中傷の類は他人の戯言と無視をする。かといって独善でいいかと言えばそうもない。

自分の考えを述べるのと、「独善」は異なるし、考えを述べただけで独善とは言われないようにだ。当たり前だが、自分の考えこそが、「自分らしさ」に他ならない。他人が噛みつくのは仕方がないが、噛みつく人間もまた自分らしさを主張している。そうした噛みつく人間を、「独善(独尊)」といい、それは他人の自分らしさを認めるだけのキャパがないということ。

持論は自論であってさらりというべき。自論が異論であるのは当然として、さりとて自論を相手に押し付けるのは傲慢であろう。対話の中で、相手が他人の論なり、考えなりに、主体的に影響されるのは何ら問題のないこと。「自分らしく」の中には、「男らしく」の要素もあるが、「男らしく」の鎖に年代差はなく、成育過程で何かや誰かの影響を受けたものだろう。

「楽しいこと」は探さない

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「人生とは、勝ち組、負け組にあらず。楽しんだ組、楽しめなかった組である」としたが、楽しむと簡単にいうがどういうことであろう。その前に、「何をしても楽しくない」というような人間がいた。「楽しい」を考える前に、「楽しくない」とはどういうことであろうか。思い出すは子どもの頃に、旅行の名目で親にあちこち引き廻されて、楽しくなかったの記憶がある。

すべて一切が親の楽しい時間で、子どもが楽しめる要素がなかったからか?もし、子どもに楽しい時間を与えるなら、親は子どもに行き先を尋ねればよい。動物園、遊園地、水族館、海水浴、プールなどいろいろあるだろう。名所旧跡や菊人形展など何にも楽しくなかった。「生きてて楽しくない」という奴もいた。遺書には、「生きて行くのが辛いです」と記してある。

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楽しくないならまだしも、「辛い」となると死にたくもなろう。「楽しくない」は、「楽しい」に気持ちを変えていけるが、「辛い」を、「楽しい」に持って行くのは至難であろう。「生きてて楽しくない」という奴に対し、「何か楽しいことを見つけたら?」くらいは誰でもいえる。自分は人生を楽しんでいるが、あえて、「楽しい」ことを自らに問い、探すようなことはしなかった。

そんなことをせずとも、何かを始めたらそのことを、「楽しい」ことにもっていく。いつもこうした気持ちで取り組んでいるから必然的に楽しくなる。最初から、「楽しい」、最初から、「良い」と思うものもあるが、楽しくしよう、良くしようとしていく方が手っ取り早い。「いい女」(容姿ではなく)を探すよりも、自分が手を加えていい女にもっていく方が、プロセスにおいて楽しい。

昔から男は、女を女にする過程が楽しいといったもの。こういう風に自分は楽しんでいる。料理も工作も作っている過程が楽しい。結果だけを求めるなら外食派だろうが、1000円の料理を300円で作る楽しさ。近ごろお好み焼きが800円~1000円の時代だが、粉が5円、豚バラ肉100円、キャベツ10円、卵20円、天かす、ソースで15円、そば玉50円という一人前の概算だ。

200円あればできる。外でお好み焼きを5~6年食べていない。作るのが面倒だから食べに行くか…というのはない。自分は26cmのフライパンを2つ使って器用に作る。最期は平皿をフライパンにかぶせて180度ひっくり返して皿の上に盛るが、こういうこと一切が楽しい時間である。「鉄板がなくても美味しく作ってやる!」の意気込みから、色々考えた自分流である。

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味もそこいらの三流店など比較にならない。キャベツをレンジでしっとりさせ、そばを幾分カリカリにするなどの下ごしらえも時間短縮の要件だ。料理に限らず、プラモ工作やちょっとした日曜大工も、合理的精神を軸に楽しく前向きに何度も繰り返してやれば上達する。あれこれと試行錯誤しながら、工夫が生み出される。「習うよりは慣れろ」とはいったものだ。

どう生きても長くて80年。それ以上は余禄だろうが、この世に未練なきよう、何でもやって、思うことは言う。それが凡人の生涯よ。人がいろいろ、同じことを言っても受け取り方が違うし、何気に言ったことでも自慢話と受け取る者もいる。それも仕方ないが、どちらかといえば、自分は額面通りに受け取られることが多かった。だからか、人間関係の苦労はない。

「あなたが言うと自慢に聞こえない」と言われて笑った。自慢話に聞こえなくて当然かと。されど自慢話をする人は多いのだろう。人間は自尊心の塊りだから、自慢話をしたい気持ちは分かるが、あることをあるがままにいうだけなのに、捻じ曲げて取る人に問題がある。自然に受け取れないそこに何かがある。正しく受け取らなくとも、自然に受け取ってくれたらそれでいい…

誇張することもなく、自然に話すことを自然に受け取るのが自然というもの。あからさまな自慢話ならそのように受け取られよう。自分は人の自慢話は何ともない。代わりに無用な相槌などもしない。自慢したいものがあるならすればいいし、気に障る理由がない。また、自分の発言を捻じ曲げてとられても腹も立たず、気にならない。昔から母親で慣らされたのかも…

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若いということ自体は責められないものだ。物事の理解力も判断力もないだろうし、それで友人関係が壊れたり、愛が終焉したりの波乱はあるが、フロムはその著作『愛するということ』のなかで、「異性愛はもっとも誤解されやすい愛の形」と書いている。彼はその理由を、「異性愛は排他的で普遍的でない」とした。普遍性はないが排他的というものなのか。

「異性愛は、一人の人間としか完全に融合することはできないという意味においてのみ」排他的ということらしい。確かに、多くの異性と融合できる人間は、誤解されない技をもっている。誤解という感情の裏には、嫉妬や羨望が根差していることもあろうし、簡単、一筋縄では行かない要素を含んでいる。誤解は別れだけではなく、誤解が結婚を実らせることもある。

実際問題として、結婚後に相手を誤解していたと感じる夫婦は多いはずだ。もっとも、誤解という以前に相手に無知過ぎたというのが正しいだろうが、程度の差はあれ、人間と人間のつながりは誤解の上に成立している。人間というのは互いが自分でも分からぬ謎をもって生きている以上当然のこと。善意の誤解の上に恋愛や友情は成立しているものと思っている。

どうして人が人を正しく認識できよう。ならば上記したように、相手に自分を正しく理解されたいと欲張る前に、自分の発する言葉を自然に受け止めて欲しい。その場合の自分の言葉は、嘘・偽りのない自然な言葉であらねばならない。相手の発する言葉を歪めて受け取る人間に問題があるとするなら、彼には歪んだ人間と触れ合った環境が災いしたのではないか。

イメージ 5「言葉は自分の心を隠すために与えられた」という名言がある。人が嘘をつくから自分も嘘をつくのか。自分が嘘をつくから相手も嘘をつくのか。いや、人間は言葉の動物ゆえに誰でも嘘とは友達である。人間という愚か者がどう考えたことろで、自分の描く理想の人生は送り得ない。それすら忘れて、法外な要求をするところにそもそも誤謬がある。結婚は現実なのに、夢を抱くから失望する。「結婚は現実である」という年代での結婚はむしろ少ない。春樹の『ノルウェイの森』にこんな会話がある。「ねえ、私、悪く言ってるんじゃないのよ。私ね、うまく感情を言葉で表すことができないのよ。だからしょっちゅう誤解されるの。私が言いたいのは、あなたのことが好きだってこと。これさっき言ったかしら?」

感情を言葉で上手く現わせたらヒステリーはいなくなる。感情を上手く言葉で現わせないから相手に嫌悪感を与える。腹が立つと黙り込む女がいた。彼女がそんな女だとわからないとき、彼女の友人が、「○子は機嫌が悪いと黙るから、すぐにわかるんだよね~」と彼女の前でいった。有意義な情報だったが、女がこんなことを人前で言われても平気な事に驚いた。

二人はそれくらいに気心が知れた仲だったのだろう。腹が立ったら黙る人間は心を抑えているより、葛藤しているのだろう。本当は喚き、暴れたいが、してはいけないことだと頑張っている。ところが、慣れ合ってくると遠慮なく表に出す。これも人間関係のイロハでいえば当然か。村上春樹には、「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」という持論がある。

著書『スプートニクの恋人』や、別の短編にも登場し、村上自身ホームページにも、「理解とは誤解の総和である、というのが僕の基本的な考え方」と述べているように、彼の世界観のようだ。そうであるなら本当の理解とは何?春樹は、それが誤解であると言いたいようで、まるで理解したように思い込んでいる状態こそが本当の理解だと…。なるほど、そうかもしれん。

自分が人に、「正しく受け取らなくていい、自然に受け取ってくれたら…」というのも、人は人を正しく理解できないというのが根底にある。勿論、自分も過去において人を正しく理解していないし、それも前提だ。多くは推測や抽象や、少しばかりの客観を交えた主観であり、時に実験(体験)から導き出した可能性に過ぎず、理解とはこうした誤解の総体かと…。


信じていたものが実は単なる誤魔化しだと気づいたとき、人は強烈な自己嫌悪に襲われようし、その矛先として相手を責める人が多い。近藤医師を選んだ米原万里も川島なお美も、最期は彼を責めた。「女々しい」とは、振舞いが女性的の意だから、女が女々しいのは普通である。人を信頼するというのは、信頼する側の責任だが、女のこういうところは浅ましい。

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男にもいないわけではない。「信頼」とは騙されないこととは思わない。騙されることも、相手が間違っていることもあろうし、一切を含めての信頼である。「走れメロス」は約束を果たした話に過ぎない。「騙された」、「裏切られた」と、自分が正義の塊りであるかの言い草を自分は好まない。自分に於いてもそうした判断はないし、騙された側には何がしか非が存在する。

「迂闊」、「無知」、「欲」、これらはすべて自分の責任である。それを差し置いて、人が悪い、社会が悪いなどと永遠に言い続ける人間は、何にも成長をしないで一生を終える。「迂闊を悔い、無知を悟り、欲を恥じる」という気持ちが、人を高めるのではないのか?人もいろいろだから答えはないが、もしも自分を高めたいと思うなら、自己責任は必然であろう。

良くも悪くもネット社会

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小林麻央さんが亡くなって今日で丁度一カ月。日が経つのは本当に早いものだが、遺族の心中は察してもあまりあるもので、もっと時間を要することだろう。家族・親族のことはなにぶん遺族のことであるがゆえに、我々はただ見守ること以外にない。しかし、心ならずも心情を逆なでするような書き込みもなされている。少し前にはこうしたやり取りがあった。

海老蔵:「今日は2人の願いを叶えました。すこし遊びに、子供達が笑顔になる事が今の私達の幸せです。」

コメント:「昨日ディズニーで見かけましたが、海老蔵さん、麻耶さん、れいかちゃん、かんげんくん、お付きの男性の五人でいました。かんげんくんはベビーカーに乗っていてお付きの人が押していました。海老蔵と麻耶さんが仲良く話していましたよ。」(原文ママ)

コメント:「喪があけないうちからディズニーランドとか、あり得ないから…」

コメント:「ディズニー、本当なのか… ドン引きだわ」

海老:「声優が休養中にゲームしてるだけで炎上。 妻を亡くした歌舞伎役者が子供を気分転換させるためにディズニーに連れてって炎上。 やっぱり『辛い状況がある中で他人が楽しい思いをする』のが気に食わないのかな? お前らとはなんの関係もない赤の他人じゃん。」(原文ママ)

思うに、海老蔵が何の目的でツイッターをやっているのかについて、いかなる動機であっても彼の自由である。が、記事を公開することは、書き手一人に対して読み手は膨大な人数となる。本記事については、55083リツイート、57179を超える「いいね」がついていたという。であるなら、海老蔵は読み手にどのような対応するかについても彼の手腕ということになる。

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元アナウンサーの長谷川豊が、リツイート炎上を狙った確信犯と名指し批判を受けたように、金儲け主体でやるとこういうこともあり得る。おそらく海老蔵にも金銭的な目的もないとはいえないのでは?そうでなければ、まったくプライベートな、特段記事にしなくていいようなことも、ネタとして提供しなければならない。日記を書いて稼げるのも有名人の特権である。

そのことに批判も妬みもないが、不労所得を妬む人間がいるのは当たり前で、その対応はされるべきである。無視が最善と思うが、反応すればリツイート数は増えるメリットもあり、それすら個人の自由と思うは、是非とはともかくその事実は動かない。メディアやマスコミによる煽りに於いても、これらも含めて本人が対処しなければならない。一切が有名税である。

自分が取り上げてどうなるものでもないが、こういう場合の問題についてどう思うか?を考えたついでに、自らの思いを書いてみたわけで、芸能人周辺のことは、取り立て事件性がない限り、問題にすべきことではないと思っている。芸能人自らが記事にせずともそっとしておけばいいプライベートを、あえて公にするなら、そこに食いつくイナゴは出ては来るだろう。

いずれにしても、有名人が私的なことやプライベートを晒しておきながら、「お前らとはなんの関係もない赤の他人じゃん」という書き込みも、あえて火に油を注ぐことにもあろう。本来なら、腹にしまっておけばいいことだが、ネットでプライベートを晒してお金になる時代である。以前は本にして出すという手法で、ゴーストライターであっても売れればお金は入る。

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ネット時代にあっては、有名人や芸能人が本を書くなどの手間いらずで、リアルタイムで発信でき、多くのフォロワーを獲得すれば莫大なお金が手に入る仕組みであり、有名人が有名税というリスクをしょっても、こういう事に勤しむ人もいる。少し前に有名芸能人といえば、ベールに覆われたミステリアスな人たちだったが、自らのプライバシーをお金にする時代のようだ。

即物的という時代は、ネット時代になってさらに即物度を増している。あちらでは大統領がSNSをやり、日本では政治家や閣僚が政治活動報告以外の、ほんのプライベートなことをSNSで晒すのも、名を売り、庶民派を気取るなどの売名政略と化している。市街に顔入りのプラカードを建てる必要がない。政治家がSNSを頻繁に更新して有権者にアピールするのはどうなのか?

政治家が熱くなるべきは公的なものであるべきで、自分もブログをやる身としていえば、私的な書き込みでそれほど熱心に、公益性というと、何が公益性かの判断もあって、口にするのも烏滸がましいが、プライベートを告白して有権者と身近な一体感を模索するような政治家は、チャラいと感じられる。あくまで自分の好き嫌いの問題であり、自己中心に述べている。

「政治家がSNSを頻繁に更新して有権者にアピールすることについてどう思う?」という問いがあった。サンプル数は少ないが、賛成派:14人、反対派:12人、どちらでもない:1人と、数字的には拮抗している。反対派の意見は、「政治活動の報告とか、「今日は議会でした」ならいい、というようにやはり公性擁護にあるが、どちらかといえば賛成派の方が柔軟性がある。

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例えば、「政治に興味のない人が政治家の私生活に触れ、政治に興味を持つきっかけにもなる!」とある。詭弁に思うが、そういうものか?歌舞伎役者の私生活に触れて、歌舞伎に興味を抱くのか?興味の中身や度合いにもよるから、なまじ全否定はできない。よしんば政治家のSNSが、政治に関心を持つ切っ掛けになったとしても、気を抜かず責任をもってやって欲しい。

SNSを真摯な議論・討論の場とするものもあるが、人の考えに食いつき、楽しむ輩もいるが、人間の類が多岐にわたる以上仕方がない。「スッポンが噛みつくと、雷が鳴るまで離さない」というが、人の意見に噛みつく人間は、スッポンと同様にしつこい性格である。気に入らない投稿記事に対し、「お前は間違っている!」とわざわざコメントするのも自己顕示要素もある。

発信側も自己顕示なら読み手が自己顕示であって悪いいわれはない。書き手のみに専念を決めている自分は、書き手の反論は心で行う。文字にし、コメントで反論しても、相手も困ることもあろうかと。人の記事にへの違和感は、日と場所を変えて自身の記事で問題意識として取り上げることにする。人の「良い」が自分の「悪い」であれど、指摘の必要を感じない。

「お前は間違っとる!」と人にいう人は、自信のない人である。何故かというと、いちいち自分の正しさや意見を相手に向けて主張しないと、「自分の考えに自信がない」からだ。自分と違う考えに遭遇するのも怖い、それ程に自信のない人間である。いろいろな人間と付き合って、それがよくわかると、聞き流す、無視するという対処が本人のためだと分かる。


自分の正しさを主張するために相手に噛みつく必要はないが、噛みつく人は自信がないということだ。若いころは、「信念とは自己主張」と思っていたが、そうではない。主張しなくとも、自分の考えが揺らがない、曲がらない人である。当然ながら、主張を是認される場では忌憚なく発言するが、そうではない場合においては、やんわり流せばよいこと。

むしろ、相手の考えを肯定してやるのもありだ。その場合に気を付けるべきは、相手を見下さないこと。「他人を他人を生きている」とし、他人の生き方に責任を持たぬことで可能になる。「正しい・間違いは、人の数ほどあり、自分はその一員にすぎない」。どうしても正しさに拘ると、そこには間違いが発生することになる。正しいも間違いも共有できればいいが…

人の考えについて、「そういう考えもあるよね」と受け入れる。どうしても、正したい思いに駆られたら、それで人間関係が壊れてもいいとの覚悟を持ち、捨て身となる。関係が終わってもこれだけは理解させたい、これも慈愛だ。それほどの相手かどうかで判断する。自信の無さからの押し付けでなく、自信あっての押し付けでもなく、身を焦がす気持ちなら尊い。

人々の様々な考えや意見の中の一つとして自分のものがある。それをことさらに主張したいのが若さであった。人間が円熟すると、自己主張をしなくとも生きていけることを知る。「切った、はった(平手で叩く)は男の世界」というが、若者らしくていい。若者が聞き分けのよいいい子で姑息であるよりは、「切った、はった」の世界観のほうがわかりやすいかと。

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若者がヤンチャであるのは好ましいが、昔の男の子に比べて近年のヤンチャ坊主は、どうもネット内でヤンチャ志向に思えてならない。同じように女の子にもネット社会の弊害が強く感じられる。いい例が、ネットで知り合った男に性被害にあうような子は、実生活では活発で、男関係の派手な子では決してないところにネット社会の闇があり、性被害が多発する原因がある。

つまり、インターネットの普及が、本来なら大人しく、おめかしして外に出るようなこともなく、異性の友達もなく、異性関係に無縁の少女が、ネットを通して社会とつながりを持つということにある。ネットで気の強い発言をするのが、小心で気弱な男の子であり、ネットで派手な異性交遊する女の子が、実生活ではまじめで地味であったりの逆説を生んでしまった。

「何かいいことない?」

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などと口癖のようにいうやつがいる。「何か面白いことない?」、「楽しいことないか?」などといったりもする。毎度お決まりの言葉を、「決まり文句」というが、思うにこういう言い方をする輩には決まった特徴がある。あくまで自分の印象だが、お調子者、軽薄、利口でない、受動的、依存などで、本人は悪気はないが、もう少しマシな言い方もあろうと思わずにいられない。

自分はこういう言い方はしないし、頭の隅にもない。「楽しいこと」、「面白いこと」を人に聞くというのがどうにも理解できないからだ。「いいこと」、「楽しいこと」ってのは、個々の見方、感じ方次第で、人に聞くことではないだろうと我ながらに思う。だから、こういう言い方をするやつには、「ないね~」というしかないが、あまりに度を超すと答えることすら億劫になる。

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あまりにしつこいと黙っていたり、「そんなこと人に聞かなくても自分で探せよ」と、ピシャリといっておくこともあった。こういう言い方をしないやつには人間としての安定感というものが感じられるが、性格的には真摯、真面目、信頼、能動性、落ち着き、賢明、理性的などを感じる。楽しいことは個々の価値基準という道理が分かっていれば言わない言葉であろう。

いう人間といわない人間、二者の性格は対照的である。「何かいいことない?」とすり寄ってくる人間は実は面倒くさい。言っても仕方がないからいいもしないが、「自分の楽しみを人から与えてもらおうとするなよ」と腹では思っている。人は誰でも意識的、あるいは無意識に人をいろいろ判断するが、なぜそうするのか?「正しい人付き合いをするため」か?

そういうこともあるだろうが、基本的には自己防衛と考えられる。自分にとって害を及ぼす相手か、差し障りない相手か、癒しの対象として相応しい相手か、などの判断は、意識、無意識にかかわらずする。したがって、人を見定めて付き合うのは当然かなと。人は必ず嘘をつく。嘘の中には仮面を被ることも含んでいるが、人が仮面を被るのも実は自己防衛でもある。

「自分をいい人だと思わせたい」。「こうすれば嫌われない」いずれも列記とした自己防衛である。一口に仮面と言っても、「会社用の自分」、「友達用の自分」、「家族用の自分」など、色々なバージョンがあったりするが、気にすることはない。隠したい自分などは誰でも持っていて、それが短所とは限らない。人は長所さえも隠すというのを体験として知った。

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短所は自己嫌悪であったりするが、実は長所も自己嫌悪になり得るということだ。ただし、長所といっても他人が見た長所であり、本人が長所と思っていない場合もある。たとえば、可愛く美人の女は幼少時期に周囲から、「かわいいね」、「きれいね」などと褒められることが多い。自分でも嬉しいと思っていたが、思春期くらいになると周りからの嫉妬を買う。

それで意地悪されたり、嫌味をいわれたり、陰口を言われたりですごく傷ついてしまった女性がいた。最初は、「わたしはかわいくない」などと言い返したが、それがまた嫌味にとらわれたり…。だから、言葉を返さないようにした。すると今度は、「思い上がってる」、「いい子ぶってる」などと言われる。女の世界は、妬みと陰口で成り立つ世界であるのに驚いた。

彼女は自分を出せないばかりか隠すこともままならない。どうにか凌いで生きるためには仮面を被るしかなかった。自分が自分で居れないという苦痛が、彼女に仮面の効用をもたらせたと、そんな告白だった。仮面といえば、「悪」に思われるが、そうばかりでもない。相手の気持ちを考えれば考えるほど、「仮面」を被る必要があった。それは自分を守るためでもあった。

屈折した生き方ではあるが、美人に生まれていいことばかりではないのを知った。こういう仮面もあるという理解もした。とりあえず何らかのメリット、長所を生み出してくれている。その後彼女は心が成熟し、他人のやっかみなどに適切な対応を得るようになるまで仮面を離さなかったという。美人は妬まれ、ブスは虐げられるという世界は言葉は違うが男にはない。

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いい男やイケメンをやっかむ心理は男にないわけではないが、妬んでどうなるものでもないという理性が働くと思われる。それが感情をコントロールするが、女はそれができないのだろう。「ないものねだり」をしてもしょうがない、というのが自己抑制となればいいのだが…。一般的に、「仮面」という言葉はネガティブに捉えられている。その代表的なのは、「仮面夫婦」という言葉であろう。

「仮面夫婦」があって、「仮面恋人」がないのはなぜかを考えてみたことがある。「仮面」の意味はどちらも同じだが、夫婦と恋人という重みの違いであろう。人間が仮面を被るものなら、仮面恋人も存在するだろうが、あえてそういう言葉を使わないのは、恋人が流動的な関係であるからで、今日出会って、明日は別離というカップルだって珍しくはない。

婚姻という重み…、夫婦とはそうもいかない。昨今は離婚が多いといえども、恋人たちの別離とは違う。それが夫婦は仮面であってはならないという教訓的意味も含めて、「仮面夫婦」という批判が生まれたと理解する。恋はゲームとの一面があるが、婚姻をゲームと考えるものはいない。♪恋はゲームじゃない、生きることね、答えて、愛しいひと…という歌がある。

曲も歌詞も好きだったが、しばたはつみの太い声も好きだった。詞は来生悦子になり、「答えて、愛しいひと」と男に問う。男は、「そうじゃない」と答えるだろうが、その時、その場はそうであっても、違う雌に惹かれるのが男の現実である。男だけではない、女だって別の男に魅せられる。しかし、女の生態が、「保守」、「安定」志向であることが幸いするのか…。


愛とは永続性とマズローは言ったが、同時に、「異性愛はもっとも誤解されやすい愛の形」」という言葉も残している。誤解にしろ、衝突にしろ、すぐに終わる恋はゲームであったという他ない。恋がすぐに終焉する理由を、自分は女の仮面度の大きさと見たことがある。それが大きすぎると愕然とし、そうまでして、「虚」に殉じる女を恐ろしいと感じることになる。

仮面は読んで字のごとし、「仮(かり)の面(つら)」である。仮が本当でないという意味なら、良い事ではない。上記したようなやむを得ぬ事由において、仮面を長所にする以外は…。仮面を被り、体の一部をこわばらせて鎧を纏うことは、「自分らしさ」の死化といえる。仮面女に対し、ある不安が不満となり、あげくは不信に移行してしまうという体験をしたことがある。

仮面を取ることに抵抗感を抱く女性は多い。察するに女性は幼少期から、地を出さぬよう、抑えるよう、躾され、教育されるからだろうが、それらが慢性化し、仮面を被ることが当たり前になっていくのかも知れない。若いころ、絶世の美人女優について友人と、「○○さんは、うんちをするのだろうか?」、「そりゃするよ、人間だから」、「でも想像できるか?」、「できないけど」。

こんな他愛もない会話をしたものだ。同じことは小学生時にもあった。クラスの飛び切りの可愛い子がマッチ箱に入れた検便のうんちを提出するのが信じられず、教壇の机の上に各自が名入りで置きに行く際、自分はその子が席を立って検便を置いて席に戻る一部始終を観察していたが、何気ない顔の中に彼女のどこか不自然な羞恥の影を見、同情せずにいられなかった。

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彼女にそんなことを強いる検便というものが邪悪に感じられた。どういう精神状態であったにせよ、可愛い少女は天使であって検便など無用である。自分たちと同類のくそを垂れる種とは別という願望があった。男の子のああした気持ちが女の子を守る、守りたいに連なったし、そんな彼女に意地悪をし、ちょっかいを出す男をボコボコに遣り合った記憶もある。

彼女がそれを喜んでくれたかどうか分からない。身を呈して何かを守るのが男気なら、昨今の、「女子ギライ男子が増加中」との風潮は理解し難いが、女子を嫌う男の子の理由を聞くと分からなくもない。ボキャブラリーの発達した女子には言葉で圧倒され、煙に巻かれるところが恨みの要因で、それが嫌悪に繋がっている。この年齢の男の子に女子の詭弁は厄介のようだ。

あくまで想像だが、今どき検便提出を恥じる女子がいるのだろうか?女性のそういう羞恥、そうした弱さが反動的に男を逞しさに誘う部分もあったが、昨今の股を開いた自転車を漕ぐ女性をみながら、あれが現代の男が捉える普通の女子なのだろう。自分たちの青春期には絶対に見なかった光景だけに、努力して馴染まなければならない思いに駆られるのだ。

正体を現さないミステリアスの女性もいたが、感情をあからさまにさらけ出す女性もいることはいた。おそらく親からの抑圧に反発して生きた結果であろうし、そういう女性が男勝りであるのは想像できる。あけっぴろげで男としては付き合いやすいが、それはそれで欠点もある。女性的なミステリアスな部分があまりにないのは、男にとっても削がれた魅力といえる。

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女にも我がままで独善的な一面はあるが、男にも少年的でナイーブな側面がある。そうした感情抑圧において、外からの刺激と内からの衝動に対して厚い保護壁をつくり、それを「鎧」と称し、男らしさの美学とするが、感情発露の否定というべき、「鎧」は、人間らしさを縛ることでもある。そうした葛藤が、女性に対して求めるもの、求めぬものという出方をすることになる。

女は感情の出ずっぱりで男にあれこれ求め、肴にするが、男は抑制という部分の苦悩もあるのだろう。したがって男が人間的であろうとするなら、感情面においては、抑圧か、さらけ出しかという二者択一的な反応は止めて、感情こそ、上手く相手に伝える、表現するという姿勢が重要だ。これは成熟した男にあっては考えなければならないスタンスであろう。

仮面女に鎧男

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かつて、「仮面」といえば正義の使者の変装スタイルだった。古いところで、『月光仮面』、『七色仮面』、『太陽仮面』、比較的新しいのが、『仮面ライダー』シリーズだが、最新では、『変態仮面』というのもある。正義の使者が変態とは時代も変わったものだ。彼らは顔を隠して正義の味方として悪と闘う。仮面といってもターバンにサングラス姿の月光仮面。

同じくターバンにサングラスなしの太陽仮面らは布切れ一つで安上がりだが、七色仮面のゴージャスなマスクは高級品で、コストもかかっている。自分で作るわけにもいかず、どこかに発注するのだろうが、受注業者にすれば七色仮面のマスクを作っているとの誇りはあったろう。特注オーダー品で数万円はするだろうが、必要経費として確定申告をすればよい。

仮面ライダーも同様で、どこかの業者に秘密裏に作らせているのだろうが、あれも結構値段は張るだろう。それにしても変態仮面だが、彼のコスチュームはもっとも安上がりである。むきむきマッチョボディに女性のパンティを頭にかぶっているが、我々の世代からみるとあの様相はマヌケとしていいようがない。これが現代のヒーローというのに驚くばかり。

プロフィールを調べてみると、刑事の父とSM嬢の母の血を受け継ぐ高校生がパンティを顔にかぶって変態仮面に変身し、悪人を懲らしめるというが、時代はまさに新しいものを生んでいる。ヒーローが仮面を被る理由は、何処の誰か分からなくするためだが、パンティを被る理由は何だ?彼らは驕らず、手柄にもせず、仕事を終えればどこかに帰っていく奥床しさがある。

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そうしたヒーローものの仮面はさて置き、現代における仮面というのは、心理的な別人格を現わす仮面である。女性がいわゆる、「女らしく」あることに縛られ、「ノー」といえずに引き受けてしまったりが多いように、男は、「男らしく」という鎖に縛られ、苦痛や悲哀を表せずに心にしまうことを当然とし、それを、「男らしい」と評価され、自分もそのように育ってきた。

そうしたかつての、「女らしさ」は廃り、「男らしさ」も廃れていると思われるのは、中性的人間や、オカマや女装愛好家が際立っている現代である。「男らしさ」という価値観に縛られ、それを目的として自己啓発した者にとっては、オカマや女装などはどうにも受け入れられない。あれは芸能界という特殊世界御用達で、一般社会であの手のものが受け入れられる道理がない。

クルマのディーラーに行ったら、店内にオカマがいたり、スカートを履いた営業マンがおネぇ言葉で応対するなどあり得ん。女性も気配りのあるタイプは接客面において評価も高いように、「女らしさ」や、「男らしさ」が決して過去の遺物というのではない。して女が別の自分を装うことを、「仮面」を被るといい、男が虚勢を張って逞しく見せたり、自己を固めるのを、「鎧」を纏うという。

どちらも本当の自分を生きてはいない。鎧や仮面と一体化した人生は、「自分らしさ」が表出する隙間もなく、別の自分を生きて行くことになるが、結局、仮面を取れない、鎧を脱げない人は、自分の心の中を見せることを怖れているからである。心を開くことで相手に嫌われたり、見下されたり笑われたりバカにされたりを怖れているのだろう。が、必要な場合もある。

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社会生活を営む上でのある場面では、適応のために仮面や鎧は必要である。ただし、それを取ったり脱いだりの場がないと、感情を抑圧しただけでは「自分らしさ」を現わせない。いかなる悲しみにも耐え、何があっても平静を装う男は、むしろ小物かもしれない。辛いときには涙し、楽しい時には笑える男が魅力的だ。我慢も必要だが、バカもやれる男がいい。

竹田圭吾は自身の臨終に当たり、我が息子に、「泣くこと」と戒めていた。彼の理想とする息子象は、たとい父の死にあっても歯を食いしばって泣かぬ男であったと推察する。自分のために泣いてくれる息子を望んではいなかったようで、土壇場においても父のこういう教えの真髄は、将来においてどこかの場面で、教訓として花開くのではないだろうか。

(あの時の父の言葉)というのが、脳裏に浮かび、歯を食いしばる場面というのは必ずやあるだろう。自分も経験があるが、父の教えというのは、「今」ではなく、いつしか先を見据えているものかも知れない。母親は目の前のこと、目先のことに注意を与えるが、父親はいつも遠くを見据えている。男親、女親の子育てのバランスというものは斯くのものかも知れない。

子どもに「泣くな」という教えもあれば、こういう話もある。プロ野球横浜DeNAベイスターズの本拠地横浜スタジアム取締役会長、横浜エフエム放送取締役社長ほか、多くの企業を経営統括する藤木幸夫氏はその著書『ミナトのせがれ―The digest of my life』の中で以下のエピソードを紹介する。藤木氏の父親は横浜港湾荷役のフロンティアの成功者の一人であった。

イメージ 5その父が藤木氏の母の葬式で人前を憚らず号泣したという。普段は強く、逞しく、人前で涙を見せるなどあり得ない父の号泣に触れ、共に涙を流した藤木氏の心の痛みが、父の涙で癒されたと、以下のように記している。「あのとき、涙を堪えて泰然としていられるような父親だったら、父幸太郎を成功者としてしか見なかったかも知れない。――(中略)
一個の人間として、男とはかくあるべしの姿を私に見せてくれた。私のかけがえのない母のために、みっともないほどあられもなく悲しんで、とどまることを知らぬげに、実に惜しげもなく涙を流してくれた」。藤木のエピソードは人間が、「鎧」を脱ぐことの大切さを述べている。企業人としてビジネス上の戦略や、人間関係の機微などの点から鎧は必要であろうが、脱ぐときに脱げるなら人間的である。

女が簡単に仮面を取れないように、鎧を脱ぐことに抵抗感を感じる男は多い。仮面を被ったままだと本当の自分の顔を出せないし、自分が相手に、「こう思われたい」という理想にしがみつくためにか、自分から仮面を脱ぐことができない。鎧をつけたままでは自分らしさを忘れ、感情が鈍くなるし、楽しさにも喜びにも鈍くなる。面白い事があっても笑わず反応しない。

人からこう思われたいと思う人は、そう思われるための虚しい努力はしても、人はそれを素だと思っている。自分に自信がないから人に媚びるが、人によく思われるための努力は疲れよう。例えば自分が冷たい人間か、温かい心を持った人間か、自分でもよく分からない。それを無理に温かい人間であるように思わせようとすると、いい人を演じねばならない。

「いい人」でない人間が、「いい人」だと思わせようとすればしんどいはずだ。自分が「いい人」であるハズはないと思っていればぜんぜん楽。そのように思って自然に行動していても、「あなたはいい人」などと思う人もいたりする。反対に自分が、「いい人」を演じているときに、「あなたは人間としてだめだね」と言われたりもする。所詮、他人は正しく相手を見ることはできない。

自分も他人を正しく見れないように…。時々の恣意的な思いが時々であれこれ変わったりするのが人間である。ありのままの自分を出し、人に好き勝手な捉えられ方を楽しむ自分には、自身の中で起こる作り事や作為に対し、自らが嫌悪を抱いたりする。そこで導き出されるのは、「ありのまま」という自然さ。人はいろいろだから、お好きなように自分を捉えてもらえばいい。

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「いい人演じ」などは所詮は無意味。演じていてもそうは取らない人もいる。自分などは演じることには敏感だから、つい反対だと思ってしまう。演じ切るのは難しい。騙せる相手もいるが、騙せない相手を見極めることはできない。そこを考えても、無理せず自然に生きる方がよい。「あなたって冷たいのね」と言われれば、「そうかも知れないね」という。

「あなたって優しいのね」といわれれば、「そう見えるんか?」という。相手の腹の中は見えないから、否定には同意し、評価には疑問で丁度よい。よくない対応は、「あなたって冷たいのね」、「そんなことはないよ」といい、「あなたって優しいのね」には、「そうだと思うよ」などと答える。前者は弁解ととられ、後者は単純とされる。人間は複雑だからそう思わせる方がいい。

近いものほど見えにくい。もっとも近い自分が見えないようにである。だから、他人に決めてもらえば、その人なりの自分が一丁上がり。相手が10人いれば10通りの自分が存在しよう。時に相手は都合のいいように接してくる。「あなたっていい人ね。だからアレ買って!」と、露骨にはいわないにしろ、褒めれば心が緩み、相手を批判できなくなるのを知っている。

軽薄な人間関係とは利用し、利用される関係だ。「今、困っているんだけど、お金かしてくれない?」、「どうしたの急に?」、「どうしても来週までにお金が必要なのよ。お願い! 必ず返すから」、「分かった。来週、返してね」ということにもなり兼ねない。本当は貸したくないけど、自分は相手に好かれている(と思わされている)。だから、貸してあげないと嫌われてしまう…

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人に嫌われたくないという前提で行動すると、人生なんか人のためにあると同然となり、場合によってはめちゃめちゃになる。自分が自分らしい行動をとって、それで嫌われるなら嫌われてやればいい。試されるのは自分であって、人のためになんか生きてはいない。嫌われてもな~んも困らんよ。と、自己実現してる人間は他人に媚びず、強く生きていける。


他人への助言は無用 ①

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「毎日よく書くことがあるね~」といわれたりする。が、一つの記事を書くと次が頭の中で生まれている。一つのことを思考すれば別のことが派生するのは必然で、毎日変わったことが起こる必要はない。思えば小学校の夏休みの、「絵日記」は、何かが起こらないと書くのは大変だった。だから無理やり何かを、「起こす」のだが、無理やり起こす何かの不自然さである。

無理やり何かを起こしてまで宿題と称し、小学生に日記を書かせる意味はなんだろうか?朝顔の観察なんかしないで嘘っぱちを書いた。ラジオ体操もあまり行かなくてゆっくり寝た。どちらも子どもを朝早く起こさせようという意図が見え見えだからで、その点において自分はのっぴきならぬガキだった。ハンコを自慢する奴もいて、それはそれで子どもの可愛さだろうが…。

作文を嫌がる子どもは多く、特に男の子は元気で快活で、走り回る方が彼らの理に適っていた。女子はそれほど嫌がってはなかったが、400字詰め原稿用紙が恐怖に感じる奴もいた。作文を嫌がる子どもに革新的な作文授業を指導する教師がいた。まず、生徒全員を校庭に引率、一回りして教室に戻ってくる。さあ、「外に出て感じたこと何でもいいから書きなさい」と教師。

ところが各自に渡される原稿用紙はなんと一行である。原稿用紙一行は20字のマスだが、教師は前もって切って用意し、それを生徒に配るのだ。「えええ、たったのこれだけ?」、「少なすぎる~」、などと騒ぎだす子どもたちに教師は、「みんなは作文がきらいなんだろう?一行だったら嬉しいんじゃないのか?」などという。これは何というか、逆転の発想である。

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子どもの作文を見ると、無理やりマス目を埋めるために、「今日は…」とか、「僕は…」とか、「楽しかったです」といった不必要な文字、言葉が散見される。孫の作文を見ながら、「書き出しの、『今日は』と、『ぼくは』と、『楽しかったです』は絶対に書くな、書かないようにしろ」と言ったことがある。「今日の日付なのに、『今日は』なんかいらんだろ?」

「人が書いてるんじゃない、お前が書いてるのだからわざわざ『ぼくは…』なんか必要ない」。「大して楽しくもない普通のことなのに、『楽しかったです』と書いても、全然楽しそうなのが伝わってこないけどな」などと、指導というよりも茶化しだが、爺の言葉を真に受けたのか、言われた手前、それらの言葉は見えなくなった。男の子は分からせ、納得させるのがコツ。

山本五十六海軍大将には、「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めめてやらねば、人は動かじ」という有名な名言がある。母親がギャーギャーと喚くだけで、いうことを聞き、動く男の子がいたら彼の将来はヘタレだろう。男の子には論理的に、納得いく説明が必要だし、「自分ができないのにうるさいよ」に対する正しい論法を母親は用意しておくことだ。

さて、人の人生はその人だけのもので、他人がどういういうべきものではない。この当たり前のことが解るまでに50年を要したろう。他人のことにあれこれ口出ししたことが今に思えば懐かしい。悔やまれるというほどのことでもないから、懐かしいということになるが、「俺は他人の干渉は受けない」、「余計なお世話だほっといてくれ!」と言い張る人間もいた。

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それすらも懐かしい。思うにそうした奴はどこか不幸だった気がする。本人も自覚していたし、だから頑なに助言を拒んでいた。助言になるかどうかも分からないのに、人の心配をするから言いたくなるのだろうが、彼が拒むようになったということは、迷惑な助言だったのだろう。他人のことなのに、放っていけないと友人づらをするところも若気の至りだったろう。

不幸のどん底状態にありながら、他人の助言が救いになることなど、全くないともいえないが、そうそうあることでもなかろう。あの時の彼は、「なぜか自分は人に嫌われるし、誰からも好かれない」ということでだった。数日前に恋人から、「あなたとはやっていけそうもないのでお別れします」と言われたという。女は別れにそんな言葉をいうものなのかと驚いた。

事実なのだろうが、あまりに率直であり、あまりに配慮のない言葉である。そんなことを面と向かって言われたらそれはショックだろう。彼は同性にも好かれないというし、確かに彼が好かれないところはなんとなく分かっていたが、自分は彼のそういうところを理解していたから、付き合いは続いていた。彼の性格を一言でいうと、何でも自分一人でやろうとする。

相談することはなくてもいいが、他人と助け合おう、支え合おうというところが彼にはない。そういう方法を学ぶなり習得するなりすれば、誰からも好かれると思うが、彼はいつも自分が一番、自分が正しいと思わなければ不満であり、さらには自分の思考を基準に人間関係を考えるところがある。であるから、他人のちょっとしたことでも自分と違えばすぐに不満が沸く。

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他人への不満をよくこぼしていた。例えば、彼も将棋をするが、終盤で必敗の局面になったときに、優勢を意識した相手が無理をすることなく、ゆっくり勝ちを楽しんで指すのが気に入らないらしい。腹に据えかねると、「こっちは首を差し出してるんだから、さっさと詰ましたらどうなんだ!」というようなこともいう。あげく自分にも水を向けて不満や悪口をいう。

「こんなに大差になっているのに、ゆっくり駒を取ったり、普通はそんなことするか?」と、そういう性格だから嫌われるのに、そこが彼には分かっていない。何度も言い含めたリするが、自分の考えを変えられない憐れな奴。相手が盤上の駒をどうしようが、どういう手を指そうが全くの自由なのに、自分の考え通りにやってくれないと気が済まないし、腹も立つという。

必「敗で勝てる見込みがないなら、投了すればいいだろ?それをしないで、じわじわ指そうとする相手に文句をいうなど、自己中も甚だしい。相手は悪くないのに、お前が気に入らないだけだろが」と、これほどの正論を言っても頭に入らない。「苦情だけはいうな、逆転の見込みがなくても指したいなら、どんな目にあっても文句はいうべきでない」などと言えば…

「そういうものではないだろう。自分ならさっさと詰まして終わりにするけど」と、自分のこと以外に頭が回らない。彼には何を言っても耳に入らないと知りつつ、それでも耳に入れるかも知れないという期待を込めて彼にはいうが、言った後は、「やっぱり、言わなければよかった」となる。その繰り返しだが、いつか分かる日を期待している自分だった。

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恋人に、「あなたとはやっていけない」と言われて、同情する気もないし、そんな言葉をかけることもない。何を言ったか覚えてはないが、「自分の性格を直すべき…」という無駄なことは言わず、「去る者は追うべからず。自分から去っていく女に未練など抱くな」くらいいったのではなかろうか。ところが、彼の心情からすれば、火に油を注いだのかも知れない。

今まではなかった、「ほっといてくれ」という言い方をされたとき、もう彼には関わるのは止めようと思ったが、耳に入れるつもりはないにしろ、助言をいう自分を彼は重宝しているのは分かっていた。もう誰も彼には口を開かないし、それは彼がそうさせたのだが、これで自分までもが無視をするなら、彼は社会の只中に彼の居場所はまるでなくなってしまう。

それは明らかだったが、「ほっといてくれ」というのは、最後通告の言葉とすべきか否かを考えた末、しばらく取り合わないことにした。彼がどうするかを見て、それで最終決定をするつもりでいた。たった一度の人生を、周囲に嫌われていきるのも不幸過ぎる。とっつきにくい性格だが、全てに見放なされたらそれこそ孤立無援の彼である。が、性格は直らないだろう。

直そうとしないから直らないし、それに尽きる。「あなたとはやっていけそうもない」の言葉を置いて女は去っていったが、自分が彼から去るというのは、言葉こそ置かないものの、同じ言葉と彼は受け取るだろう。「やっていけないわけではないが、(そんな彼と)やって行く必要はない」そんな心境だった。友人にしろカップルにしろ、続くにはそれなりの理由がある。

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ひと言でいえば、相手の価値観や考え方をどれだけ受け入れているか、あるいはそれに付き合っていけるかということに尽きる。人はそれぞれが考えが違う。その違いをどこまで理解し、どこまで受け入れるかだろう。受け入れられるかどうかで、二人の関係は決まる。自分の価値観を相手に押し付けるのではなく、相手の望む自分である方が、相手は居心地がいい。

が、自分のことだけで相手のことなど考えない、考える余裕もない不器用な人間もいる。見方を変えれば、そういう人間は不幸であろう。相手の価値観を受け入れる、相手のことを考えるとはいっても、相手のわがままに付き合うというのではない。相手の価値観を理解し、その考え方に自分の価値観を乗せて行くのであって、わがままは価値観でも何でもない。

わがままに対しては、「それはわがままというもの」と、遠慮なく指摘すればいい。わがままなんか聞くこともなければ、受け入れる必要もない。人と対等に付き合うためには毅然とした強さもなければ、わがまま女に振り回されてしまうだろう。好きな相手とはいっても、媚びへつらう人間に強さはない。強さとは克己心であると、自分には言い聞かせている。

他人への助言は無用 ②

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「優しいんですね。そういう男の人好きです」とおだてられ、女に手なづけられる男。「優しさとは逞しさ」という認識を男が持っていれば事情も違ってくるが、近年の男の優しさはヘタレに見える。母親が過保護に、「ぼくちゃん」風に育てるからか?しかるにすべての母親が息子を、「ぼくちゃん」に育てるとは思わないが、ならば弱い男はどう作られる?

強さが克己心なら弱さはなんだろうか。脆く壊れやすいものではないかと。したがって弱きものは支え合い、助け合わねばならないが、そうした相手の弱さにつけこんだり利用したりするものは少なくない。そういう人間は強いのではなく、ズルいのであって、ズルいが強いわけがない。頑丈で屈強であるのも強さとするが、そういう人間はズルさとは無縁である。

弱さは時にズルさに移行するが、それをズル賢いというのはある面で評価になっている。「狡猾」という言葉がある。ズルく悪賢いの意味だが、「彼は狡猾だ」といえば、評価となる場合が多い。狡猾の代表といえば頭に浮かぶのが戦国時代の真田昌幸か。彼は、「表裏比興の者」と言われた。比興は卑怯のことで狡猾に近いが、「表裏比興」は誉め言葉である。

ズルいが誉め言葉なら、ズルい女は誉められたものかといえばどうだろう。ところが、「狡猾」という言葉は女性にはない。なぜだろうか?自分が思うに女に深遠なる狡猾さはあり得ない。女のズルさは小ズルいといわれる。「女の浅知恵」というように、戦国時代の国盗り物語はのるかそるかの大変な事業である。もっというなら、三国志や水滸伝の狡猾さは背筋が凍る。

大陸のスケールの大きさは、その広さにも起因する。尾張を盗った、遠江を盗ったに比べて広大さがまるで違う。中国には俗にこのような言い方がされている。「老人に、『三国志演義』を読ませるな。子どもに、『水滸伝』を読ませるな。男に、『西遊記』を読ませるな。女に、『紅楼夢』を読ませるな」と…。なぜかといえば、中国人の虚々実々さを描いた古典である。

中国には「四大奇書」というのがあって、『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』に『金瓶梅』である。「奇書」とは、「世に希なほど卓越した書物」の意味。これを定めたのが明代末期の文学家で戯曲家の馮夢龍(ふう・ぼうりゅう)とされている。ところが清代に入ると『金瓶梅』が『紅楼夢』に変わった。理由は、『金瓶梅』が何度も発禁になったからだろう。

「四大名著」と呼び名も変わった。『三国志演義』の武、『水滸伝』の侠、『紅楼夢』は情の文学とされている。昔から中国の大御所たちは、『紅楼夢』をいつもカバンに入れ、数百回も繰り返し読んでいたという。同書は最初は非常に読みづらく、最後までまともに読める人がいない。二回目はやや面白くなるが二回目くらいではあまり熱中する人はいない。

第三回を読み始めると中毒状態になり、仕事や学習をさぼってでも読むようになると形容されている。『源氏物語』が(日本統治時代も含め)台湾で全く流行しなかったのも、『紅楼夢』が原因とされているが、毛沢東も紅楼夢を愛読していたという。残念ながら『紅楼夢』を読む機会を逸した自分だが、その変わりという言い方は適切でないが、『紅夢』という映画を観た。

チャン・イーモウ監督とコン・リーのタッグで1991年ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞、第64回アカデミー賞外国語映画賞を取っている。「死ぬまでにこれだけは観ておけ」というサイトにも紹介されているが、あまりに悲劇的なる圧倒的パワーに身が固まった。中世ヨーロッパの騎士社会、日本の武家社会はいずれも男尊女卑であるが、中国の男尊女卑思想は凄まじい。

新中国成立後の1950年代に起こった、「紅楼夢論争」(紅楼夢研究批判)では、マルクス主義文学者の間では、『紅楼夢』を男尊女卑の封建主義に反抗する階級闘争文学であるとする見方が一般的となった。文化大革命で古典の多くが、「毒草」として迫害された中で、毛沢東の公式発表では、『紅楼夢』について、「歴史小説」として読むように勧め、以後は版を重ねた。

「弱きもの、汝は女なり」は、ハムレットが母親をなじった言葉であったが、誤訳されて、「女は弱い」ということに誤用されている。女が強いのは生命体として当然に強く作られているわけだが、「うちの嫁が怖い」という亭主は、嫁に遠慮もあってか躾られず、気づいたら強くのし上がっていたということだ。勝手に強くなったではなく、夫が強くしてしまったのだ。


何も言わないでブタ小屋状態さえも我慢をし、言われないのをいいことに、どんどんのさばって行った妻に、忍耐の緒が切れて捨て鉢な表現しかできない、そんな夫の物言いに妻が切れた。黙って我慢をし続けると、唐突な言い方になるのだろうが、それを自分の罪の一端であると考えない妻である。以後はギクシャクするしかなかった。覆水は盆に返らず…

喧嘩別れをした恋人や離婚に至った夫婦が、ここぞといわんばかりに相手の悪口ばかりいうのはバカである。他に相応しい言葉はあるが、端的に、「バカ」といっておけばよい。相手には言わないし、いう必要も感じないから、「バカ」を贈っておく。他人と一緒に(過ごして)いて、相手ばかりしか見えず、自分が見えない人間は差別用語的に言えば「めくら」であろう。

そういえば先日ソフトバンク社長の孫氏が、つい、「めくら」と言ってしまい、後で謝罪したばかり。「目の不自由な人」もしくは、「視覚障害者」というのが差別的でないとされている。「耳の不自由な人」もかつては、「つんぼ」であった。いけないものは、その理由を説明することなく、「いけない」と九九の暗唱のように機械的に教え込むのが良いとは思わない。

障害者に障害者というのは差別ではないが、視覚障害者に「めくら」というのは差別とされる。孫さんも差別意図はまったくないが、言葉と意識の問題はまるで別である。人の腹の中は見えない以上、言葉で判断するしかないというの滑稽である。「内」が見えない以上、物事は「外」で判断するしかない。正しかろうがどうだろうが、それが共通認識であろう。

差別意識がある時は、どのように言っても差別意図である。吉田拓郎の『ペニーレーンでバーボンを』が曲中の、「つんぼ桟敷」という表現で発売禁止になったことがある。「桟敷」とは、相撲や芝居などで一段高く作られた見物席(桟敷席)のことだが、「つんぼ桟敷」は遠くて舞台の声がよく聞こえない席のことをいう。放送禁止用語に指定されている。

法送禁止用語を使えば放送禁止、つまり発禁となるのは仕方がない。「めくら」、「つんぼ」、「おし」という言葉が差別用語にされたのは、好きでそうなったわけではない人たちへのささやかな愛情だろう。が、それによって、「おい、そこに居るめくらの八つぁん、聞こえてるか?」などの古典落語ができなくなった。弱者保護なら文化の後退も仕方がない。

ハゲ、デブ、ブス、チビは障害ではないので許されているが、政治家の、「このハゲ~~~」には笑ってしまった。「ハゲ」に笑ったのではなく、「そんな風に言われた自分は被害者です~」に笑えたのだ。「ハゲ~」と言われたら、「じゃかましいわ、北向きの鬼瓦みたいなドブスが!」くらい言えばいいのよ。売り言葉に買い言葉、下品には下品がバランスだ。

自分が良いと思う女を人はブスだといった。ブス好きを近年は「B専」というらしいが、「ブスが好き」と、「ブスも好き」は根本が違う。ブスが好きという趣向は分からぬが、容姿ありきでないなら、ブスも好きというのは普通にあり得るし、変わったことではない。究極の選択でいう、「美人で性悪」と「ブスでいい子」…、さあどっちなら、迷わず後者である。

「余計なことかも知れないが、あの女は止めた方がいいよ」と言われたことがある。そういうのはなぜか女がいうし、「あの子は男をダメにする」というのもあった。そんなの余計なことだろう。いわれて、「ああそう、分かった。じゃ、止めとく」なんてあり得んだろう。女関係で悪い噂があっても、それは男に関係ないし、「忠告どうも」と言っておけばいい。

なぜかこういう余計なことを言いたがる女はいる。言ってくる女は親切な忠告のつもりだろうが、人の見方はあてにならない。感じ方も人と自分とではまるで違い。したがって、他人の忠告は相手の脳が判断したもので、自分は他人の脳を持ち歩いていない。あの女はダメよと言われてダメな女がいたためしがない。あの女はダメという奴が、おそらくダメではなのだろう。

他人の一挙一動すべて助言しようと待ち構えているような人はたまにいる。「暇人の極め付け」とでもいえるこういう人の意見は、特別な何かというより、一般的なことを並べているだけで、さほど重要でないこと多し。本人は助言や忠告のつもりだろうが、知ったかぶりのお節介焼きである。人に助言をしようとの意図で、自分が構われたいの動機は論外である。

同じ穴の貉(むじな)というけれど…

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秘書をすごい口調で罵る音声が発覚した豊田真由子衆院議員(42才)。中高は女子御三家の一角を占める東京・桜蔭を卒業し、東大法学部を経て厚生労働省の官僚となる。名門ハーバード大学への留学経験もある彼女は、2012年に自民党の公認を経て衆院選に出馬して当選。国交省で働く夫との間に2人の子どもをもうけている。しかし、今回の騒動で自民党を離党した。

罵倒音声発覚後は、心身症により入院中である。豊田議員の怒りを炸裂させたのは、バースデーカードの送付ミスだった。これについてナインティナインの岡村隆史は暴言を浴びせられていた元秘書に対し、「なかなかちゃうかな」と、元秘書にも問題があったのではないかと話した。同様の意見は多い。44才の女性は豊田議員の気持ちが少し理解できると話す。

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「47人分の宛先とカードの中身を間違えるなどあり得ないミス。なぜそんなことが起きたのかと怒りたくなる気持ちもわかります」。などといい、罪を憎んで人を憎まずというが、問題にされたのはミスをした相手のしかり方であって、豊田議員の罵声に耳をすますと、「頼むから私の評判を下げるな」などと言い、恥をかかされたことに怒り心頭が、「このハゲ~」である。

 「彼女はプライズコレクターですね、きっと」。そう指摘するのは、豊田議員と同じく東大卒の国際政治学研究者のしゃべくり瑠麗こと三浦瑠麗氏。「自分の中にやりがいがなくて、外から与えられる賞や名誉を集めたいのでしょう。バースデーカードも彼女にとっては、心からの気持ちではなく、大量のカードを支援者にきちんと送っている自分を愛するための道具にすぎません。

おそらく、彼女は東大に頑張って入った人。それに今も、自分の能力が仕事に追いついていないのでしょう。だから余裕がなくて怒鳴ったり殴ったりするのかもしれません」。などとしゃべくる(いや、分析する)。“努力”していい学校を出て官僚になり、“努力”して政治家になった豊田議員は、その栄光を秘書のミスによって台なしにされたと感じているのだろうか。

だとしたら、東大とは無縁の凡人には到底理解できない心の痛みに違いない。『すぐ感情的になる人』の著者で精神科医の片田珠美氏は、「傲慢症候群」の特徴を以下指摘する。「彼女の言動には強い特権意識、そして想像力と共感の欠如が認められます。豊田さんと同じく東大法学部を出て議員になった務台俊介議員も、被災地の視察で長靴を忘れておんぶさせた。

イメージ 2あの行動も、エリートだから少々のことは許されるという特権意識からくるものでしょう。また、エリートはあまり痛い思いをしたことがない人がほとんど。だからエリートなんですが、それゆえ他人の痛みが想像できないことも大きいと思いますね」と指摘、「傲慢症候群」だけでなく、衝動制御障害の一種である、「間欠爆発症」の可能性もあると片田氏はいう。

 「衝動制御障害の場合、怒りと攻撃衝動を自分ではコントロールできません。きっかけは些細なものであっても、それに釣り合わないくらい激しく爆発してしまうのです。この症状の人は、飲食店でけんかになって相手に怪我をさせるとか、職場でちょっとしたことでキレて上司を殴るといった、『そこまで怒るか』という怒り方をするんですよね」ということらしい。

ただし本人が自覚していないことが多く、余程のことがない限り病院に行くことはないという。別の意見として、脳画像診断医で医学博士の加藤俊徳氏は以下のように分析する。「そもそも豊田さんには怒り癖があり、怒らずに済ませることを知らないのではないか。洗濯をしていても何をしても、頭の中でいつも怒りを持って、それは自分に対してもあるのでしょう」。
 
果たしてこれが個人の特性として片付けられるかというと、「実は感情に鈍感である方が、勉強ができるんです」と、加藤氏はいう。「その理由は脳にあります。頭がいいのに、相手の表情や空気感をつかめず、商談や交渉事で相手を怒らせるタイプの人がいますが、こうした人の脳をMRIで見てみると、扁桃体とその周囲が発達していないことが多いんです。

扁桃体は感情の記憶や情報の処理に関与している部位で、例えば近しい人が亡くなったとか愛している人にフラれたとかの悲しかった記憶や、親が怒っている様子などはここで処理するんです」。なるほど、高学歴の人は扁桃体とその周りが発達していないために、喜怒哀楽など感情の機微が乏しくなる。身の周りの才女の感情欠落に心当たりがある人も多いのでは?

たび重なる失言で辞任を迫られ、内閣改造まであと1週間というタイミングで昨日辞意を固めた稲田朋美防衛大臣だが、彼女も早稲田大卒の弁護士である。少し風変わりなファッションやメイクを好み、国際会議の席では自らを、「グッドルッキング(美人)」と称したこともニュースになった。ナルシストでありながら、どこまでも他人事のようにふるまう資質である。

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豊田氏、稲田氏、ともに周りからどう思われてるかなんてまるでカンケーないと言わんばかりの不敵さである。よほどの強心臓と思われているが、実はこれ、頭がよすぎることに起因するという。「凡人は、勉強を始める前に、『これは難しいなぁ』、『今日は気分が悪いし』と、感情によって意志が影響を受けつが、感情が鈍感だとそう思う間もなく勉強をする。

行動が感情に邪魔されないんです。だから知的な人は周囲とうまくいかない場合がある。頭がいいのに表情や空気感をつかめないんです」と、加藤医師はいう。つまり、極端に頭がよければ、遠慮して怒りを抑え込んだり、こんなことを書いたらかえって迷惑かな…などと忖度したりすることなく、気に入らないことがあれば豊田議員のように当たり散らして怒りをぶつける。

桜蔭、東大で豊田議員の同級生だった田中絵里緒さんが、フェイスブックに、「豊田真由子さんと私の関わり」というあまりに赤裸々な、8000字もの文章を綴っている。二人はともに1993年4月入学、同法学部を1997年3月卒業した。中1、中2のときは別のクラスで、互いが知らない存在だったが、中3で同じクラスになったところから交流が始まったという。

「いくらなんでも暴露しすぎでは。ホントに親友なの?」などの批判も寄せられていたが、スーパーエリートたちからすれば、他人のことをいちいち気にして、あれこれ感情をぶつけるなどはナンセンス。田中氏の発言を炎上させている人たちこそ凡人に他ならない、というエリート至上的な見方もあるが、読んでみると決してそうではない目から鱗の内容だった。

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「女の敵は女」などという言葉は、2流~3流女に比べて、優秀なるエリートほど顕著かもしれない。ともあれ、豊田議員の暴言と暴力は国民の支持を得、範たる側面を有す政治家に許されるものではない。ただ、一連の言動が明らかになった裏に、「学びがあった」と三浦氏は指摘するが、田中氏の文にも受験勉強の裏で、社会オンチであった東大生を余すことなく書いている。

「最初は、なんてひどいことを言う人なんだろうとしか思えなかったのですが、彼女のおそらく無理をしてきたであろう半生を知ると、お受験で東大に入れるような仕組みをはじめとした日本社会、それから人の育て方を変えないとならないと思うようになりました。大事なのは人間力、そして、それに深みを与えてくれる教養だと思います」と、これは真摯な自己批判である。

巷で言われるほどに、豊田議員を肴にした自己顕示の発露とは受け取れない内容であり、友人の悪口を書き漁る意図で書いたとは思えない、友人を配慮する一面も感じる素直な文章である。あからさまな批判は読解力の欠落であるが、確かに、「キレると人の迷惑だし、嫌われる…。頭のいい私達はそんなことは分かり切っています」などは誤解を受けるかも知れない。

こういう書き込みは自身に驕りがある場合、あえて控えて書かないものだが、「頭のいい私達」は、東大生という世間的な価値基準から相対的に表現していると思われる。だからと言って、東大生だからと言って、自分で頭がいいというか?」という批判は沸くが、それを怖れぬ客観的視点で書く文章も大事である。やっかみの多くは、底の浅さと言えることが多い。

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曽野綾子に、『善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか』なる著書があるが、田中氏の一文も、『エリートが平気で他人を困らせる理由』に言及されている。最高学府出身者にあって、こうした辛辣な自己批判こそが内なる人間性に挑み、さらには高めようとするものであって、そうした信念を前にする誹謗や抽象などの批判については、むしろ微笑ましく感じるもの。

「同じ穴の貉(むじな)」とはいったものだが、同じ穴で育っても、穴から巣立ってどういう価値基準を見出すかによって人間はまるで変る。先日取り上げた大石静の、『ふたりっ子』ではないが、双子の姉は幸せを外的条件に求めて虚飾に生きるが、妹はプロ将棋の世界で地道な努力と研鑽の上に、内面的幸せを積み上げて行く。選択一つで人生はまるで別ものとなる。

今井絵理子はなぜ国会議員なのか?

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その前に、今井絵理子は政治家なのか?政治家とは、「政治に携わる人」をいい、ならば国会議員はまさしく政治家であとう。政治家は政治活動をすることで報酬を得るが、寝転んでいても国会議員身分として歳費を得ることができる。政治家の仕事は難しいのか?政治家としての功績を残すべく一生懸命に政治活動をしようとするなら、知識も勉強も必要だ。

が、たいして頭のよくないタレント政治家も多く、彼らでもできる仕事なら誰が国会議員になっても問題ない。ただし、国会議員になるためには、色々な方法があるが、タレントであるのは重要な要素であり得る。国会議員になるためには国政選挙に立候補して当選しなければならず、そのためには知名度のあるタレントは、集票力の点では有利であるのは間違いない。

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政治家になるための方法をあげると、①秘書になる(公設・私設)、②党員になり青年局などに入る、③政治塾(政党または民間主催)を経る、④公募に応募する、⑤タレント候補になる、⑥官僚・公務員からの転身、➆首長から転身、⑧単独で立候補などがあるが、それぞれに有利・不利はある。なかでも無所属の新人候補が当選するなどあり得ないといっていい。

漢の高祖劉邦に仕えた陸賈(りくか)は、若い頃に儒学を修め、論客として外交を担当した。劉邦が項羽を破って天下統一した後、儒家嫌いで知られた劉邦に対して、儒教の教典である、『詩経』や、『書経』を盛んに引用し、様々な進言をした。そんな陸賈を目障りと感じる劉邦はある日、「私は馬上で天下を取ったのだ。詩経や書経にかまっておられるか」と叱り飛ばす。

それに対して陸賈はこう放つ。「馬上で天下をお取りになっても、馬上で天下をお治めになれましょうか」。良薬はまさに口に苦し。ついには劉邦も陸賈の言い分の正しさを認め、『新語』の編纂を命じる。これを現代のタレント議員に当て嵌めると、「人気や容姿で政治家になっても、人気や容姿で政治が行えるのか」である。タレント議員の使命は人数合わせに過ぎない。

党がタレント候補に白羽の矢を立てるのも、政治手腕を期待してのことではないが、だからと言って下半身の緩さまでは掌握しきれない。当選して政治家にはなったが、「当選することと、政治の実務を行うのは別」である。醜聞が露呈した時点で対処するしかないが、例えば今井絵理子に票を入れた選挙民でさえ、彼女の政治手腕に期待したわけでもあるまい。

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「衆愚政治」とは、古代ギリシャ時代から言われていた言葉で、民衆をうまく利用する扇動政治家によって行われる政治のことをいう。アリストテレスが政治理論の中で、民主政治を「堕落した大衆による政治」として非難したのが「衆愚政治」である。とはいえ、完全なる民主的な選挙というのは、「ド素人がド素人を選ぶこと」でもあるから、問題は個々の資質による。

今井絵理子が可愛いから投票した人ばかりではなく、期待して票を投じた人の信頼を裏切った事にもなろう。そもそも今井絵理子に限らず、政治のど素人が国会議員になりたい理由は、歳費や議員年金による生活の安定であろうくらいは、誰でも想像できる。今井は2015年に同じSPEEDの島袋寛子と結成した新ユニット「ERIHIRO」がサッパリ話題にならなかった。

9月に発売された新曲『Stars』(avex trax)は発売1週間での推定セールスが約4,400枚程度と惨敗もあって、柳の下にやすやすとドジョウは泳いでいないと自覚したようだ。島袋は絶対に音楽一本でやっていくと、沖縄音楽からテクノやジャズにまでチャレンジしたが、今井はSPEED時代と変わらず稼ぐ手段にしか見てなかったようで、あっさりERIHIROの活動から降りてしまった。

その当時彼女が周囲に対し、『国会議員に当選すれば年収1億円だって!』などと政治家転身を喜々として話していたという。動機はどうであれ、口に出す出さないにかかわらず、カワイ子ちゃんタレントを当選させるのは選挙民である。だから、今井が金銭目的で政治家を要望すること自体が悪いとは思わない。彼女に限らず、そういう動機での立候補者はいるだろう。

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元芸能人のカワイ子ちゃんが、一生懸命に声を枯らして選挙演説をし、忌憚なく握手攻めにでれば、一票いれてやろうかいなと、これが衆愚政治そのものである。候補選びの党でさえ、「彼女が政治家に向いてるわけはなかろう」などと、「×」を挙げるわけもない。とにかく受かりそうな候補を立てて党員が増えればいいと、これこそが衆議政治である。

選ぶ側もバカなら、立候補するのもバカ、支持する人もバカ、と全方位丸く収まっており、責任の所在はどこにもないない。ある種の使命感を持って政治家になったはいいが、寝食を賭して勉強し、知識も増やせど、所詮は十把一絡げの党員、一山なんぼの党員に過ぎないというなら楽をして、必要な時にだけ挙手をしておけばいいと、それが政治家の実体かもしれない。

どこぞの法務大臣ではないが、「法相とはいいですね。二つ覚えておけばいいんですから。『個別の事案についてはお答えを差し控えます』と。これはいい文句ですよ。これを使う、これがいいんです。分からなかったらこれを言う。これで、だいぶ切り抜けて参りましたけど、実際の問題なんですよ。しゃべれない。『法と証拠に基づいて、適切にやっております』。

この二つなんですよ。まあ、何回使ったことか。使うたびに、野党からは責められ。政治家としての答えじゃないとさんざん怒られている。ただ、法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話。法を守って私は答弁している」。大臣をしてこの体たらく。これを地元の選挙民の前で堂々としゃべるわけだから、いかにも選挙民と一蓮托生であることか。

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「大臣の政治報告会にいったら、こんなくだらないことを恥ずかしげもなく話やがった。がっかりだし、うんざりだ。もうあいつには票を入れない」という骨のある人間がいたのか?政治家も舐めたものだし、選挙民も舐められたものだが、どちらも舐め合ってそれで成り立つ関係だ。今井絵理子の不倫疑惑はやりたいお年頃とはいえ、国会議員である。脇も甘いが股も緩い。

速度違反取り締まりと同じで、まさかのつもりが見つかってしまった。慌てて対処するが、どんな言い訳を弄したところで信憑性はない。「一線を越えてない清い関係です」だと?清い関係とは言わないまでも、一線を越えてないなら清い関係だ。現場を見たものはいないが、信じるか信じないかの問題だが、こそこそ逢引を週刊誌にスッパ抜かれた後での発言とあっては…。

信じろという方が土台無理。相手は離婚係争中とはいえ妻帯者、それでも好きなら、「現段階では一線を超えることなく、清く、愛を深めるために交際している」と、事前に発表するなら信じてやってもいい。それなら公言した手前、清い関係を堅持したかもしれない。が、それでも新幹線の中でお手てつないであの寝方、あげくホテルから出てくるようではダメだ。

ホテルに泊まって七並べでもするのか?もうちょっとイイコトあるだろ?いい年こいて純潔を主張しようと弁護士の菊地幸夫氏は、「裁判ではその言い訳は通りません」とにべもない。何もない関係なら、堂々と行き来すればいいが、こそこそがバレて何もなかったなどは羞恥千万。誰もいない一人の部屋で、いかに美人と言えども、屁を我慢する女はいない。

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同じことではないか?誰もいないところで、誰にも分からないであろうとの前提の元で、やらないことが美しいのだ?やっても分からない、やらなくてもわからない、なら一人で部屋で屁をコクのと一緒でやってしまう。我慢して音を出さないよう、括約筋を調節するより、ぶっ放した方がスッキリする。キスもしない、乳は揉んだが、一線は超えてないだと?笑うしかない。

笑われようがどう思われようが、政治家の不倫となると辞職ものだ。前例もある。だから、一生懸命に口裏を合わせ、男にとっては酷な嘘を額に汗をしながらも頑張る姿は辛いだろうな?男は、こういう見え透いた嘘をつけないもので、あえてそれを通すことで女を守る。ベッキーではないが女の嘘など屁でもない。どう思われようと恥じないしたたかさこそが女。

自分は男だから、今井を守る市議の辛さは心苦しく同情する。誰も信じない嘘をRつかねばならぬのは男にとって拷問である。嘘をつくくらいなら死んだ方がマシというくらいに、世間の非難がかぶさる。男は憐れ、可哀相な生き物だ。狡猾で大嘘つきくらいが、自民党の総裁や幹部にうようよいるが、こういう奴も腹立たしいが、「悪人は世に憚る」ということか…

それより今井が自民党から立候補した時点で疑問を抱く沖縄県民。当選直後に沖縄米軍問題について意見を求められ、「これから勉強します」と答えたが、彼女のようなノンポリにとっては、何処の党でもいい当選すればであろう。歌手でありながら歌に熱のなかった彼女には政治への熱もあるまい。比例代表制の御利益とはいえ、何で今井絵理子が国会議員なのか?

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歩くことのいろいろ

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「犬も歩けば棒に当たる」というのがカルタにあった。意味は、「犬が歩いていたら棒に当たる」。説明など不要だが、どうしてこんなことがカルタにあるのか、子ども時には分からなかった。カルタには慣用句や諺が多く、説明をされると、「なるほど…」と思えるような深い意味の語句が多いが、「犬も歩けば~」はいかにも変だった。ずっと疑問に思っていたのを覚えている。

犬が歩いていたら棒に当たった。だから、何だというのか?素朴な疑問としては妥当だが、「家でじっとしていれば交通事故に遭わないだろ?飛行機に乗らなければ落ちることもないだろ?」と説明してくれたオッサンがいた。小学生の高学年だったか、自分はそれに納得した。確かに、そういわれればそうである。だから家にじっとしていろってことか?

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多少は不満もあったが、意味に疑いはなかった。ところが、オッサンの教えてくれた意味は正しくなかった。おそらくオッサンは自分で考えたのだろう。正しい意味は、①でしゃばると思わぬ災難にあう、余計な行動を起こすべきでないとの戒め。②じっとしていないで何でもいいからやってみれば思わぬ幸運にあうことのたとえ。①はともかく、②はオッサンの意味とは真逆。

それにしても、②の意味は本当か?棒に当たるは不幸というより、幸運のような言い草だ。①の棒に当たるは、人間に棒で叩かれるの意味で、犬にとって明らかに不幸。ところが、②の棒に当たるを、幸運に当たるという解釈が近年なされるようになった。近年がいつだかは定かでないが、20年、30年前にはなかったのではないか?とにかく、動けば幸運がくるという例え。

ふと、頭を過ったのが、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』(1967年)である。知識を貯めこんで学に寄せれば偉くなって出世できるという時代に、このタイトルは衝撃だった。が、どことなく説得力もあり、若者が部屋の中にくすんでいてはダメだと背中を押されているようだった。思うに自分は内省的なところがあったが、思春期には異性を求めることに躊躇いはなかった。

「犬も歩けば棒に当たる」が幸せを意味すると、50年前から言われ始めたということは決してないが、朴訥でナイーブで感傷的な東北人気質の寺山だが、実は行動の人でもあった。劇団『天井桟敷』を主宰し、アバンギャルドな面を持っていた。肩書の中にも前衛詩人がある。ヨーロッパの前衛芸術と、出身地である青森県の土着文化の混合的な影響を多分に持っていた。

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さて、犬が外で歩いていたら、棒で叩かれる時代は現実にあった。理由はかつて犬は食肉であったからで、江戸時代には犬を使った料理を載せた料理本も発売されていた。武士階級では犬食は禁止されていたが、町民には許されていたので食されていたし、家畜という扱いが強かった。それプラス野犬の被害も多かったことで、犬は棒や刀で追い回されていたようだ。

「犬が歩けば棒に当たる」が、幸せを意味するというのはどうにも馴染めないが、最近の社会は、ネガティブな表現や、乱暴言葉が規制される風潮があり、その影響かも知れない。少なくとも寺山の『書を捨てよ、町へ出よう』の時代に言われ始まったことは断じてない。ところで、ウォーキングを再開してもう4か月になろう。気持ち的には4~5年は歩くぞの意気込みである。

そのためにスニーカーをまとめ買いした。ナイキフリークだった自分がどういうわけか、アディダスである。理由は簡単、試着した際にクッションが良かったことで、とりあえず一足買ったが、実際に歩いてみるとこれがまた良かった。ナイキよりも、少しばかりソールに厚みが増し、それがアディダスに変更となる。以前のアディダスはソールが硬かった。

自分のペースだと一年間もてばいいので、ソールが減り具合を気にし、気をつけなければ、足裏筋膜炎で歩けなくなる。それにしても2015年10月から2016年9月にかけて、総歩数5,533,175歩、距離にして 3,826.5kmは、北海道の択捉島の端っこから与那国島の端っこまでの、3328kmを500kmも超えた。自分は、「塵も積もれば山…」の格言が好きだが、まさに数字の魔力。

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子どものころお金持ちのことを、「百万長者」と言ったが、いつの間に、「億万長者」になったのか。「毎日1円貯金したら1年で365円になる」などと言い合ったのを覚えているが、365円が大金だったのだろう。当時のラーメンが50円だから7杯分になるが、現在のラーメンが700円とすると、約5000円か。先日、中1女子が20万円もの詐欺被害に遭ったのには驚いた。

彼女の携帯電話に、「短時間でお金を稼ぐことができる」などといった内容のメールが届き、何やかんやで20万の現金をATMで振り込んだという。事件の一報を聞いたときは詳細がなく、女生徒が20万の現金を持っていたことに驚いたが、実は少女は自宅にあった現金に手を付けてしまったらしい。20万送金後、犯人は再び金銭要求をし、今度は祖母にお金の無心をした。

それで発覚したというが、これは少女が悪いというより、親の管理責任の一語に尽きる。自分たちが中一の頃、金儲けなんか興味もなく、考えもしなかったが、昨今はこのような誘惑、魔の手が携帯に着信されるのだという。着信されても、お金が用意できなければ被害には合わないが、少女は家のどこかに大金があるのを知っており、それを無断で持ち出す躾も問題だ。

そういえばウォーキング途中に生徒手帳を拾った。真新しい中学一年生の男子のもので、在籍の中学に届けたが、中身を見て意外だったのは、生徒の心得の最初に、インターネットについての注意や規制が書かれていた。項目だけで詳しくは読まなかったが、出会い系サイトなどのアクセスを禁止していた。最初は驚いたが、こういう時代であることを実感した。

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歩いているといろいろある。棒には当たらないが、飛来物が顔に突撃されたのには驚いた。その飛来物は自分に激突したあと急カーブして木に止まった。何かと思って近づくとタガメだった。タガメは子どもの頃に川や池で掴まえた。田んぼに棲むカメだからタガメというんだろう、くらいの想像はあったが、非常に堅い甲羅に覆われ、当たった時はそりゃ~痛い。

直後に思ったのは、数センチ上だと眼球である。まさか刺さって失明したかも…、と不幸中の幸いと安堵したが、そうであるなら、棒に当たるどころではない。それにしても、タガメが飛ぶのは初めて見た。数日前は側溝に落ちた。なんでまた側溝に…。その日は猛暑で、歩きながら顔をタオルで覆い、タオルが落ちないよう顔を真上に上げ、数歩歩いたところで、ドスン!

まさかのドッキリカメラの落とし穴に落ちたようなもので、予期もしていないので驚く。その時に、瞬間的に右手で体を支えた。なぜか両手ではなく右手一本で70kgの巨体を支えたことで、体は溝に落ちたが顔をカバーできたのだった。右の手の平は毛細血管が破れ、内出血をしたが、よくぞ瞬時に顔を守ったものかと、自身の俊敏さを改めて誉め称えたのだった。

どんくさい高齢者なら、腕をつけずに顎か頬を強打下であろう。側溝の底よりも約30cm上が道路だから、そこに顔が着くのは側溝の底に着地するより速い。「なかなか自分も大したもんだ、まだまだ捨てたものではない」という、安堵と自慢に浸っていた。よくもコンマ0秒で人間の脳は、体を守る指令が出せるものかと、人体のメカニズムの凄さにも感嘆させられた。

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危ない、危ない、ちょっとした油断が危機に直結する。二度とこの失敗はないだろうと、いい経験だった。危険な目に遭ったのはこの二点だが、こういう面白い体験もあった。自分は歩くスピードが速い。前方に誰かいると、障害物とみなして速度が上がる。ある人物を追い越したのだが、しばらくすると後方から足早に歩く音が大きくなる。振り向いたりはしないが気になった。

その音は近距離になり、自分の横に来たのを見ると先ほど追い越した男だった。男は自分に声をかけた。「歩くの速いんですね」、「普通ですよ」とさりげなく返す。すると男は、「普通なのに、息遣いが荒いじゃないですか?」という。何なんだこの男は…。強がりか?皮肉か?負け惜しみか?くだらん事を言う奴だ。そんな言い方する男に返答する気も起らない。

無視して歩いていたら、ずっと横についてくる。男は早歩きができないのだろうから、駆け足気味で並走してくる。うざいと思いながらも無視していたが、数キロ先で下がっていった。張り合うつもりだったようだが、「普通なのに、息が荒いじゃないですか?」というようなことをいう人間である。面白いというか、変わってるというか、これも新たな人間の発見である。

言葉一つで、好かれない人間の類というのは分かる。本人には分からないことだろうが、初対面の相手にはそれ相応の物の言い方はあろう。「頑張ってますね、ついて行けるか分からないけど、ご一緒いいですか?」というなら、「いいですよ、一緒に歩きましょう」などと和やかな会話にもなろうが、いきなり皮肉とは何とも偏屈人間であり、相手になどしていられない。

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歩くことのいろいろ ②

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「人も歩けばタガメに当たる」というのも貴重な体験だ。最初はセミかと思ったが、それにしてもタガメとは珍しい。日本最大の水性昆虫のタガメは昆虫の図鑑に、「水のギャング」と書いてあるのを知っていた。そのタガメが空中を舞い、飛ぶだけならいいが、人間に激突するというのは珍しい。「どこ見て飛んでやがるんだ、こら!」と注意をしたくもなる。

珍しいことと思いつつも、同じような被害者がいるかと検索すると、いたいた、やはりいるんだ、日本は狭いようだが広い。自分と同じタガメと激突被害者がいたのにビックリする。ま、貴重な経験ということで許そう。ところで国民に、「ウォーキング」を奨励されるようになったのはいつ頃か?メタボリック・シンドロームや肥満指数が国家的課題になった以降か…。

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巷には物があふれ、品種改良や温室栽培などがなされ、季節野菜という垣根が払われて年中スーパーの店頭に並んでいる。さらに文明の進歩は、自動車やバイクや自転車が人から歩くことを奪ってしまった。最近は中高生までがモーター付き自転車に乗り、坂を立ち漕ぎすることもなくすいすい登っていたりするが、人間がいかに労力を使わないで済むかが競われている。

生活が便利になるにつれ、人間の基礎体力はどんどん衰えていく。便利を横着と考える人はむしろ少ないようだが、先日歯科医院で衛生士がこんなことを言っていた。「近所のスーパーは歩いても5分くらいなのに、クルマで行くのが当たり前になっていて、駐車するのも絶対に入口に近いところに止めますよ」。当たり前の発想かもしれぬが、「そこまでする?」と自分は驚いた。

功利主義というのも人間の知恵である。だから入口に近いところが便利に違いない。こう考えるとやはり、「便利」は、「横着」の賜物と、自分には思えてしまう。それが悪いといわないが、無意識に歩く事を少なくしようとすると、知らず知らずの内に身体もなまり、体力が落ちて行く。宇宙飛行士は数日の無重力体験で、地上で立てないほどに脚の筋肉が衰えるという。

人間は、「歩く」という原始的な基本動作をますます避けるようになってきた。寒ければ寒いで、暑ければ暑いと体を動かさない。日常的に体をあまり動かさない人は運動不足になり、それが蓄積されれば、骨も弱くなり筋肉もスカスカになってしまう。畑で野良仕事を欠かさない高齢者が元気であるように、「歩行」という無意識の筋トレは意識がないと便利に逃げてしまう。

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人が年を取っても健康維持するには、脳と動脈と筋肉をどう若返らせるかがキーポイントであり、それに大きな役割を果たすのが有酸素運動と筋トレである。「若返らせる」というのは大変だから、老化の促進を遮断するだけで、十分に若返り効果は望めよう。「老化の促進を遮断」を別の言い方で現状維持といい、これが立派な若返りと、プラス思考で考える。

60歳が55歳、50歳に若返ろうではなく、黙っていても年に一つ年を取るわけだから、60歳が62歳、65歳になっても60歳の肉体のままということになる。不死は予防できないが、不老は逃亡で可能となる。女性は顔のしわばかり気にするが、血管や細胞を健康に保てば、シワも予防できるのでは?コラーゲンを飲むというのが、まったく効果がないと立証されている。

さらには、膝関節予防にとうたわれる、グルコサミンやコンドロイチンのサプリもまったく効果がないのが分かっている。マイナスイオン効果に始まった一連の健康ブームは、還元水、水素水から始まり、今や数多のサプリメントブームを生んだが、多くのサプリにも効果がないのが立証され始めている。すべては、手軽に効果をという人間の横着姿勢が基本にある。

さまざまな効用をうたった多くのサプリメントにあって、高齢者保護のためにとやり玉に上がったのが、現在最も売れているといわれるグルコサミンとコンドロイチン配合サプリであろう。階段の昇り降りの際に膝がズキッと痛む。そんな変形性膝関節症を抱える中高年を対象に、「関節痛を和らげる」、「擦り減った軟骨が再生する」と喧伝され、支持されている。

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ところが医師の見解は、「グルコサミン、コンドロイチンが軟骨の成分なのは事実ですが、サプリメントとして経口摂取しても軟骨は再生しません。グルコサミンやコンドロイチンは、糖やアミノ酸からできて体内に入ると分解されるが、再びグルコサミンやコンドロイチンに再合成され、膝の軟骨になることはない。これは髪の毛の成分を飲んでも髪が生えないのと同じ事です。」

軟骨の成分を飲んだからといって軟骨は再生されない。こうした医学的根拠のない当たり前の事実が、似非科学として猛威を振るっている。口に入れたサプリの成分が届いて欲しい部位に届くのか?という疑問をよそに、サプリは効果を論理的に述べているに過ぎない。血管が成分を運ぶが、膝などの軟骨部分には血管が少なく、果たしてそこに成分が届くのは疑わしい。

2010年9月には、英国医師会誌『BMJ』に、「グルコサミン、コンドロイチンが関節や股関節の痛みに効くという明確な結果は得られなかった」という研究報告が掲載された。世界的権威のある医学総合誌『ニューイングランド・ジャーナル』でも、コンドロイチン単体、グルコサミン単体などを6ヵ月間投与したが、「はっきりとした差は出なかった」との報告が発表された。

本当にその症状に効くというデータが実証されれば、医薬品として承認されるはずだが、グルコサミンやコンドロイチンのサプリにそんな気配はまったくない。サプリは健康食品と考える人がどのくらいいるのか?同時に健康食品の定義を理解することも重要だ。特に高価なサプリは家計に影響するだろう。サプリについては後日記すとして、体を動かす効用について書く。

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人が日々老化をたどるということであるなら、健康管理の基本は、現状維持を目指すことではないか。日本人の高齢者が寝たきりになる原因は、認知症、脳卒中、転倒・骨折の3つが大きな比率を占めている。認知症にかかわるのが脳、脳卒中には動脈硬化、筋肉が衰えれば転倒したりで骨折の恐れも高まる。これらの改善が寝たきり予防にも役立つことになろう。

誰でも寝たきりは嫌だろうし、街中で出くわすよぼよぼ爺さんの歩きをみていると、自分もあんなになるのだろうか?できることならなりたくないと思いながら眺めている。よぼよぼ歩きという言い方をするが、明らかに歩行障害である。原因はいうまでもない、筋肉の衰えであったり、膝や腰の関節の異常であったり、血行障害を起こしていたり、などなど…。

足腰が弱るのは老化現象だからしかたがないと、普通なら考えがちだが、早い時期からそんな風にはなりたくないと意識をもち、意識だけではなく筋肉が衰えないような行動(運動)をすれば、違ってくるのは間違いない。筋力の衰えは、「老化だ」と決めつけるのがよくない。それでなくとも高齢者は歩きたがらなくなるわけだから、それすら打破して体を動かすことだ。

人間は歩かなくなるとどうなるか?歩けなくなる。寝たきり老人の足は細々であるが、これは栄養状態が悪いのではなく、筋肉は使わないとどんどん落ちて役目を果たさなくなる。定年を迎えたあたりから、家にくすぶってないで、はつらつ爺さんを目標に心機一転頑張るのもよいことだ。男の真ん中の足も筋肉だから、使わなければ細るというが、そちらはお役目返上でいい。

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大事なのは左右の二本足である。ただし、足腰だけ鍛えようとも、心肺機能が弱ったままでは運動が継続できないし、億劫になるので、心肺も並行して鍛えることが必要だ。それらからウォーキングの効果を増すために、坂と階段のあるルートに変更した。ただ歩くだけよりも心肺機能をあげるためには、楽に歩いていたのでは相応の効果がないということのようだ。

以前は割と平坦路を歩いていたが、最近は20000歩前後のコースでも、坂・坂・坂である。これは嫌が応でも心肺機能が鍛えられる。途中二か所に階段がある。最初の階段は68段と毛の生えたようなもので難なく登るが、坂を上り切った中間点の階段は238段。これを途中で止まらずに登ると息も切れ切れだが、最近は回復力も早まった。心肺機能が鍛えられているのだろう。

238段というと自宅マンションの1階~2階が16段なので、14階を上ることになる。坂・坂・坂に階段となると、通常のウォーキングでは使わない筋肉を使う。目指すは238段を一気に駆け足で登ることだが、現在は駆け足だと100段で息切れ、おまけに休息がいる。徒歩だとノンストップで上がれるが、そのうち駆け足で行けるだろう。ささやかだがそうした目標も楽しみとなる。

筋肉トレーニングは、これといってやってないが、10リットルのポリ容器に水を入れた重さ12kgを直立不動で胸まで上げる。これを左右で30回づつ。それとプランクという自重トーニング3分を1日に3回くらい時間を空けて行う。これだけで腕立てとか他のことは一切やらない。インナーマッスルを鍛えるプランクだが、腹筋や背中の多裂筋などの部位にも効果がある。

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歩くことのいろいろ ③

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数日前だったか、「歩くことの効用は、座っていないこと。これに尽きる」と書いた。そうはいっても、「これに尽きる」の意味や理由を書くのも自身への学習の意味もある。理屈より行動をすればいい、それもそうだが知識をもって行為するのは、「知らない」に勝る。ジムの会員になったり、ビジターとして行くのもいいが、たまに行っただけでは効果はない。

少しばかりのカロリー消費をした程度の効果はあろうが、筋肉を鍛えるのは負荷を与えるだけではダメ、継続しなければ意味がない。さらにいうなら、筋肉にはさまざまな種類があることを知っておくのもいい。それによると残念ながら日本人の筋肉は、欧米人や黒人とはちがっており、ダンベルやマシンを使った機械トレーニングだけでは筋肉がつきにくい体質である。

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一般的に、「筋トレをして基礎代謝を上げれば痩せる」と言われるが、痩せるということに於いて筋トレは日本人の体質に照らして効果的とは言えない。人の筋肉は筋線維という細い線維が集まってできている。赤い筋線維を、「赤筋(遅筋)」といい、ゆっくり長い時間にわたって働く。白い筋線維は、「白筋(速筋)」と呼ばれ、瞬間的に大きな力を発揮する特徴がある。

赤白どちらの筋線維が多いかは、人種ごとの違いがはっきり出る。アフリカ系人種は筋肉全体の約70%が白筋で、短距離走で爆発的な力が出せる。欧米白人も50~60%が白筋であるが、日本人を含む黄色人種は白筋がたったの30%しかない。筋トレで太くなる大部分が白筋であり、日本人は元々少ない白筋を集中的に鍛えることになるが、これはあまりにも効率が悪い。

「苦労して筋肉を1kg増やしても、基礎代謝量の増加は1日あたりせいぜい20kcal程度で、これはキャラメル1粒分のカロリーに過ぎません。日本人が筋トレだけで基礎代謝を高めるのは難しいのです」というのは、『日本人の「体質」』の著者奥田昌子氏である。基礎代謝には意外な側面もある。実は筋肉だけでなく脂肪組織もエネルギーを消費しているというのだ。

脂肪を減らすのがダイエットとばかりに、脂肪、脂肪、脂肪…と、呪文のように脂肪減らしに格闘するも、実は脂肪が1kg減ると基礎代謝が1日あたり5kcal下がるという。自分がこの年齢で多少の筋トレをやるのは、10代の頃の腹筋の割れ目を作ることと、同じく10代時のウェスト68cmに近づけたいとのロマンである。そうであるから根をつめずに、「楽観的」にやっている。

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体重も71kg~73kgあたりで推移し、22%内外の体脂肪率が10%台になればと思うが、目標値にして頑張るとか深刻には考えていない。一切は楽観的にであって、楽しむ要素を失わない。自分を強いるのが好きではないので、いつかなればいいが、ならないならそれもよし。何が何でも細マッチョを志向するのではない。『冷静と情熱のあいだに』という本の表題が如く…

食生活については、朝の食事はリンゴ1/2、キウィ1個に旬の果物、甘酒コップ1杯。以前はオレンジジュースだったが甘酒を試している。炭酸系のスパークリンクが、ウォーキング後の一杯は必須だったが、今はゼロカロリーの炭酸水にポッカレモンを数滴落とす。菓子類は口にせず、おやつ代わりに枝豆か豆腐を食べるなど、たんぱく質摂取に重点を置いている。

菓子を食べる欲求はあっても、身体的メリットはないと見切っている。昨今の「減塩志向」、「減塩ブーム」に対する感受性も特にない。日本人は昔から血圧が高く、1965年には脳出血による死亡率が世界一だったが、味噌、醤油、漬物などは日本人の食卓には欠かせないものだった。昨今は減塩商品などの開発もあってか脳出血は激減、日本人の塩分摂取量も減少した。

塩は摂ってもいい代わりに、腎臓から食塩を排出しやすくするカリウム食品をとればいいのである。日本人には代々受け継がれてきた伝統食=和食があり、それが日本人の長寿を支えてきた。中でも『味噌』は素晴らしい食材だ。麹入り食品や漬物など、発酵食品を摂ることはガン予防になるといわれるが、近年若い人の食卓に漬物がない。これも幼児期の慣習だろう。

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また、塩分の多い味噌は身体によくないと、誤った風評も幅を利かせている。味噌の原材料である大豆には、カリウムが豊富に含まれている。したがって減塩志向で味噌汁を控えるなどは、むしろ逆効果といわざるをえない。さらには極め付けともいわれるのが、パンや米などの炭水化物=糖質を摂らない、「糖質制限ダイエット」である。これは日本人の体質に合っているのか?

日本人は欧米人に比べて糖尿病になりやすい体質とされ、特に2型はその90%以上を占めている。この体質は生活習慣や食生活によってさらに悪化するが、糖尿病の最大の要因は運動不足といわれるている。糖尿病に運動療法があるように、運動を行う事で糖がエネルギーに利用され、インスリンの分泌も促されて膵臓への負担を軽減でき、高血糖状態も改善されていく。

ウォーキングなどの有酸素運動を指示する病院もある。肥満が問題なのは、体重が多いと血液中の中性脂肪や悪玉コレステロールが多くなり易く、中性脂肪や悪玉コレステロールを減少させることで血液の流れも改善される。血管が強くなれば心臓にかかる負担も少なく、必要な栄養素が必要な部分に回る事で、合併症リスクが軽減される。糖尿病で危険なのは合併症である。

炭水化物が魔物のように言われるが、グラムあたりのカロリーはたんぱく質とほぼ同じ。が、炊飯器の釜を茶碗代わりに食べていたマツコのように、炭水化物は量を摂ることが問題なだけで、欠かせない栄養素である。自分も若いころ、ご飯はどんぶりに3杯は軽く平らげものだが、太ることはなかった。40代からの中年太りの原因は、人間の老化現象といわれている。

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決して食べ過ぎや運動不足だけではなく、白髪や老眼と同様に、「老化」によって、体の中のさまざまな細胞や器官が衰え、本来の役割ができなくなって太りやすい体になる。したがって肥満を簡単に言えば、「摂取エネルギー」が、「消費エネルギー」を上回って起こる。それに加えてじっとしているときの、エネルギーを消費する基礎代謝量低下も要因である。

老化を引き起こすのは体内で起きる、「酸化」、「糖化」、「ホルモンの変化」といわれている。これらは若い体にも起こるが、40代以降は老化に直結する。これらが、細胞やホルモンの機能低下を招き、老化を加速させる。また、動脈硬化や糖尿病などの生活習慣病、がんや鬱といった病気、シミ、シワ、タルミといった美容的な問題すべてが運動能力低下の原因による。

これら3つの大敵は、食事や運動、ストレス対策など生活習慣を少しだけ見直すことで抑制することができる。だから食事、だから運動、だから、ストレス防止が大事である。自分がウォーキングのルートを変えた最大の理由は、ミトコンドリアを増やすためで、近年、ミトコンドリアの重要性がいわれている。ミトコンドリアは普通に細胞内に存在するが、問題はその数。

1つの細胞に数百から3000個あると言われているが、数百と3000?この数の違いは大きいが、その違いが何を意味するのか?ミトコンドリアが細胞内に少ない人はスタミナが少なく、逆に多い人はスタミナがある元気な人となる。ミトコンドリアは食事によって獲得した糖質・脂肪などの栄養素、呼吸によって取り入れた酸素を合成して、「ATP」という物質を生成する。

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ATPはすべての活動のエネルギーになるもので、ミトコンドリアが作るATPは50kgにもなるが、体重に影響しないのはどんどん消費されていくからだ。しかし、残念なことにミトコンドリアは加齢とともに減少する。「ためしてガッテン!」がミトコンドリアを特集していたが、ミトコンドリアを増やすには、「ちょっと身体に負荷をかける」だけでいいのだという。

ミトコン(糸コンではない)を増やす方法はさまざまあり、①インターバル歩行(例えば3分間普通に歩いて3分間早歩き)、②姿勢を良くするだけでも増える、③階段を一段抜かしで昇るとか、スクワット、④食事のカロリー制限(何かを食べるより、食べない方が増える)、⑤ミトコンドリアを増やすスタミナ食がある。などが紹介された。番組では週1の断食なども勧めている。

ちなみに⑤の食品は、タウリン(イカ・タコ・魚介類など)、ビタミンB群(うなぎ・豚肉・玄米など)、鉄分(レバー・卵黄・あさりなど)が挙げられている。よくよく見れば、昔からスタミナ食といわれるものだ。なるほど、ヨガ行者の断食の効用もこれなら理解できる。ようするに、ミトコンドリアは身体にストレスや制限を与えることで応答的に増えることが解っている。

これは早歩きや登板路で負荷をかける、カロリーを抑えた食事(粗食)を摂ることで、長寿遺伝子にスイッチが入り、ミトコンドリアが増えると同じ原理。カロリーが足りないとエネルギーが足りないと感じて分裂を始めて増えるということ。これらのことを頭に置きながら生活するなら、そうしないより目には見えない御利益がある。運動とはそういうものであろう。



しつこい人間への最善は無視 ①

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「ブログが怖い」というのは結構耳にした。ブログを書くのは生きていること。生きるということは社会に生息すること。ならば、自分以外の人間はみな不可解といえる。他人と自分とが理解し得ることもあれば、まるで理解できないことも少なくない。自分以外の他人が理解できないことを当然とし、そこをどのように考え、どう対処し、どう処理するかがためされる。

 
理解できない人間を撥ねつけるのは簡単だ。面倒を好まぬ人はおそらくそうするだろうが、自分は面倒を好むところがある。好むとは御幣があるが、面倒と思ってしまう自分が嫌なのだ。なぜ人間は面倒と思うのだろうか?何かを起こしたり、始めたりはできるが、続かないのは面倒と感じるようになるからで、別の言葉で飽きっぽいといい、それだけが答えではない。

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飽きっぽい性格だから面倒になるではなく、面倒になる理由は他にも何かがあるについて考えたことがある。面倒になるさまざまな理由…、身近な例でいうと、ブログの更新、夏休みの宿題、ダイエット、家事、筋トレ、ウォーキングなどが周辺から浮かぶが、それら面倒くさいと感じる共通点とは、始めたころに比べて、新しい刺激がなくなるからではないだろうか?

新しい刺激がなくなると、なぜ面倒になるのか?おそらく始めた動機が、「刺激を求めて」だからではないか?たとえば恋人や夫婦などの人間関係においても、刺激がなくなる理由は、「慣れ」であろう。慣れ親しんだ人と、慣れ親しんだところで、慣れ親しんだことをしているからである。したがって、夫婦に新しい刺激を用意するために旅行などがいいとされる。

年代にもよるが、手短かなところでラブホテルに行くのも良いとされる。別の相手との不倫や浮気もリスクは高いが、所詮は刺激を求めてであるから、分からないだろうとの思いでこれをやる人間もいる。人間は慣れたことなら何でもない。他人から見て、「神技」と思えることをやってのける人間であれ、慣れてしまった本人にとっては何でもないことだ。

そう考えると、慣れるか、慣れないか、これは恐ろしいことである。慣れないことは何でもないことでも難しく感じるものだ。知らない相手との知らない世界もそうであるように、自分の知らない世界ゆえに、自分の意志ではどうにもならない世界であって、初めての物と自分や、初めての相手と自分との関係を迫られる。つまり物(人)と自分が対決してくるのである。

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見慣れた海ではなく、異国の雪の森景色を目にした時、その森と自分との緊張した、あるいは生き生きとした、関係が生まれるようにである。知らない人と自分も同様の気持ちに誘われる。気心のある知人といると、知人と自分の間に一つの世界ができており、異国の森のようにひしひしと自分に迫ってはこない。人が刺激を求めるのは、生きる証といっていい。

こんなことは当たり前だが、当たり前なことであっても、してはいけないことがある。その最たるものが脱法行為である。その下に、不道徳や倫理観の欠如とされる行為・行動がある。数日前にも述べたように、真実とは常識や倫理の向こう側にあるものであり、さりとて真実を排しても守らねばならぬものがある。でなければ、世は無法地帯になってしまうだろう。

倫理や道徳を守る人がいる代わりに、倫理や常識などに無頓着な人もいる。自分は後者であるからして、自制心や高いモラルを要求されるような地位や職種は、ハナっから選ばないし、向いてないと決めつけている。そういう考えにあることを逆説的にいえば、モラルや自制心は重要と言い聞かせることになる。よって、好まずとも立場に置かれれば遵守するであろう。

政治や教育に携わる人は強い自制心が求められるが、公務の廉潔を維持するためにである。金銭的欲望や性的欲望を自制できなくて、なぜに政治家や教育者や官僚が務まろう。自身のイメージアップか、楽をして税金で養われたいからか、タレントと言われる候補が比例区に立候補するが、そんなつもりでの立候補なら、当選しても長くは続かず失敗するだろう。

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タレント候補が政治家に立候補し、最期まで全うし乗り切るために忘れてはならないことがある。それは自分を支持してくれた人は一体誰なのかと、そのことを肝に命じて忘れない人たちである。支持してくれた人たちあってこそ議員でいれようし、それを忘れたり、裏切ったりするようなタレントは、この先、長い将来やっていけるハズがない。これが自制心である。

したがって、「私は参議院議員で、あなたたちとは違う」というような顔をした時点で、そのタレントは見離される。ある学者が、少年院を調査した後にこう述べている。「最近の少年たちは、これまでの非行少年とはまったく違っている。従来のサイエンスからすれば、精神異常でも何でもない普通の少年が、精神異常者的な非行をする」そのことを指して述べた。

従来の犯罪心理学ではとらえきれない犯罪が多発し、それが従来の犯罪心理学ではとらえきれない非行少年・少女を生んでしまった。75日も過ぎれば忘れられる犯罪もあるが、心に留め置く犯罪もある。先に今井絵理子議員の醜態を書いたが、彼女についてはさまざまな芸能人らが、口々にコメントを出している。それらと同じことを言う気はなく、書く必要性も感じない。

他人が考えない自分なりの視点を常に思考し、摸索をするが、交通違反を犯せば罰金刑もしくは反則金という制裁を受けるように、今井も相手の男も何らかの制裁を受けるべきである。疚しいことはない、略奪愛ではない、友人関係だとほざいても、信頼を疑わせるような行為・行動をしておきながら弁解は無用で、辞意表明がないなら選挙で落とすしかない。

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政治家が嘘をつくのはもっとも戒められることであるが、政治家には大嘘つきが多い。残念なことに、その嘘を嘘だと咎められない限り、嘘は効力を発揮するが、平和の世にある嘘に人は慣れてしまっている。人間は誰しも嘘に慣れるが、その嘘を告発する人間は、満身創痍となって斃ることを覚悟しなければならない。社会個々の人の心にはギャップのあること多し。

ならば、「お前は嘘をついている」と勇気をもって言える人間こそ必要である。本当に勇気ある人間は、自らが率先して自身の内にある嘘を告発し、同時に社会の嘘を告発し得る人間こそ、真に革新的な人間だろう。近年は保守思考の人間が目立つが、昔は骨のある政治家がいた。「三賢人」といわれた政治家である。彼らの名を知る者も少なくなったが、三賢人とは誰?

椎名悦三郎(1898年1月16日 - 1979年9月30日)、前尾繁三郎(1905年12月10日 - 1981年7月23日)、灘尾弘吉(1899年12月21日 - 1994年1月22日)である。彼らが何ゆえ三賢人なのかに興味ある人は、城山三郎の『賢人たちの世』をお薦めする。自らを賢者と称する者もいるが、三賢人は自ら発したものではない。彼らはこぞって政界の浄化に腐心した政治家である。

政界を浄化するためには自らが清廉でなければならならず、なればこそ浄化を望むということになる。三人は月に一度、それぞれの気に入りの料亭を輪番で回って会っていた。三人だけの内輪の集いであり、その場からは秘書たちも締め出された。後に三人はそれぞれ総裁へと取り沙汰されるようになり、マスコミは会合に注目していた。会は普通は二時間だった。

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時には四時間にも及んだが、何とか様子を探ろうとする記者たちに椎名は、「バカ話だよ」。前尾は、「ふつうの話。別に何もない」。灘尾は、「君らが話題にする問題は何もない」と、申し合わせたように取り合わなかったという。あまりの面倒臭そうな物言いにマスコミは追撃しかねたという。彼らはわざと面倒な素振りをしていたが、それなら、「面倒」も策略である。

「面倒くさい」、「忙しい」、「疲れた」の三禁句を長いあいだ実行している自分だが、時に策略的に、「面倒くさい」を使うことがある。本当は面倒くさくないのに、何かを断る際に、「面倒くさい」というのは案外便利である。が、「忙しい」、「疲れた」を作為や方便に使うことはない。彼女に、「ね~、もう一回」とせがまれて、「疲れた」という男、は本当は疲れてなどいない。

本心は面倒だが、「面倒」よりも、「疲れた」が方便としては良い。女は欲張りだが、男は一期一会でいい。そうではなくて、確かに面倒臭い人間はいる。その最たるものは、「しつこい」人間で、ネチネチ、ぐちぐちのしつこさはどこからくるかといえば、気性の激しさを隠さなければならない状況、もしくは強い劣等感を有すがために、相手を大声で罵倒したりする。

「お前より自分が上」、「優秀なのだ」という思い込みが、相手を裁かずに入られず、「許せない」などの言葉を吐く。それで優越感に浸り自己を満たす。まさに極めつけの自慰行為であり、憐れな人間と同情もするが、しつこさへの対処としては相手にせず無視すること。自分が上との思いが講じ、くだらないことを言ってくるが、一切かかわらないのが利口である。

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「無視」は、哲学的・心理学的発想というより、「神の御心を無視することは、神への最大の侮辱である」と聖書にある言葉を逆用したものだ。バカに、バカといっても反論を与えるなら、黙して無視するのが最善である。ブログが怖いという人には、バカを怖がるなといっておく。無視は相手に一人相撲をさせる事になり、一人で相撲を取るほど侘しきことはない。

しつこい人間への最善は無視 ②

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世の中、善人ぶった悪人と悪ぶった善人がいる。コミュニケーション技術に修練度を重ねることで、善人・悪人どちらであるかを、簡単に見抜けるようになる。修練とはどういうものかといえば修行である。奥山に籠り、滝に打たれるなどの修行でなく、人間関係を忌避することなくブチ当たることで得る。面倒くさい人間もいるが、良い機会と捉えて向かっていく。

逃げるのは何時だって可能だから、人間関係の修養と見据えてブチ当たって行くが、自分は人間好きの一面を否定しない。「人間好き」とは、好き嫌いに関わらず人間そのものへの興味であり、害悪な人間こそが重要である。「汝の敵を愛せよ」というが、敵は痛いところを攻めてくる。「痛さ」即ち自身の欠点であり、「逃げたら負け」を常に言い聞かせていた。

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敵は自分の短所攻略のヒントを与えてくれる貴重な存在で、嫌だと思う人間を避けていては自分にプラスにならない。相手のどこを嫌だと感じるのか、どう対処すればいいのか、そうしたことを考え悪人を定義付ける。何が悪人、何を善人とするかの定義は人それぞれだが、例えば卑怯者、欲な奴、無責任な奴を悪とし、正直、誠実、嘘がないのを善とした。

洞察力が向上すると上記したような、「善人ぶった悪人」や、「悪人ぶった善人」という複雑な種別ができる。表面外の裏の面が見えてくるようになるのは、場数を踏むことと感受性の高さが物を言うが、何より人間に対する好奇心がなせるワザであろう。確かに人間はそれぞれ違うが、全く違うというのではなく、個々の性向には傾向性があるのが見えてくる。

そこの部分が人間観察の面白さでもある。しばしば人間を善人・悪人などというが、定義し、断定するまえに判断移行の時期というものがある。つまり様子見の伺う段階と考えればいい。人間は奥深く多面的だから、早計に決めつけたり、分かった気になるのは危険である。人を見誤ると取り返しのつかないことになったりするが、そういう経験も少なからずあった。

されど人間が好きというのは人生の楽しさに繋がる。人間嫌いという人間もいるが、彼らの人生は苦痛であろうし、克服すべき年代をサボったように思う。人間には幸福と不幸が時々に存在するが、永続的な幸福や不幸よりも人間は、そうした時々の幸福を考えるときに絶対に避けられないのが、出会いと別離である。出会いよりも真剣に考えるべきは別離であろう。

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人間は人生の中で様々な試練や訓練をするが、別離に十分耐え得る人間になることも、重要な訓練と思われるが、別れに耐え得るというのは、互いが敬愛心を抱いていなければならない。同情を良しとする人もいるが、決して同情は美徳ではなく、時と場合によっては悪徳であったりする。可哀相と思うことは、時に軽蔑につながっていることを知るべきである。

別れのときに善い人ぶるのは好きではない。どうせお別れするなら、嫌われてやるのが優しさというものだ。このことも友人などからあまり理解はされなかったが、自分なりの信念である。「別れても友達でいたい」はアリと思うが、友達でいる必要を感じないなら、嫌われてやるのが人情かと。恋人が離別し、新たに友達と関係するなど不器用な自分にはできない。

「別れても友達でいよう」は、差しさわりのない別れに際して、差しさわりのない言い方だが、それをやりたい人はやったらいい。寝食を共にし、すべてを知り尽くした同士が何の目的で友達でいるのか?それについて、「いいじゃない。それのどこが悪いの?」と、答える女がいた。女の常套的ズルい言い方で、「じゃあ聞くが、いいと思う理由は何?」と問う。

「悪くないからいいんじゃないの」というが、悪くない=良いではない。これは差し障りないを良しとする女の思考である。「別れた恋人と友達に戻るっていかなる心境か?」と、これが男の考えといえる。「私には、恋愛でなければ一緒にいられない関係というのがよく分からない。恋愛でなくても、友人として側にいてほしい人はいる」というのは男には迷惑な話。

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恋愛関係を返上したことは、傷を舐め合うこと止める事だから、それをフラットに友達に戻るというのは、何かどこかを誤魔化すことになる。そういう相手と友達でいずとも、キッパリ疎遠となり、新しい友人を作る方が健全だ。そもそも腐れ縁などという関係は、視野を広げないで、手っ取り早い相手に固執する非社交的な人間ではないか?自分にはそうしか思えない。

別れ際に、「これからは友達として」という女がいるが、続いた試しがないのは、続ける意志がなかったからだ。相手がそうであっても、こちらにその気がないなら絵に描いた餅。友人関係を解消するのと、恋人を解消するのは根本が違っており、友人関係を解消したら残るのは、「無」であるように、恋人を解消したら、「友人」が残るなどの綺麗事は自分にとってはり得ない。

友人が進展して恋人になるとするなら、恋人が破綻して友人に戻るは不可解千万で、女の要望はあっても御免被りたい。「別れても友達でいよう」というのは、のは別れの際の定番である。現実的にそれを求めるというより、一種の方便であろう。「肉体関係にあった男女が普通の友達に戻れる事はあり得ない」という女の方が、綺麗ごとより現実的であろう。

否定し非難するわけではないから、別れた恋人と友人でいたい女は、そういう相手を見つけることだ。もっとも自分は相手に、「明日を見つめた方がいい」とにべもなくいう。何事にも答えはない。あるのは解釈と選択だ。「別れ」という選択においては、善人ぶった悪人でいるより、悪人ぶった善人でいたい。この場合の善人とは、自身に正直という意味をいう。

イメージ 4ある女はこういった。「女のズルさなのよ。友達に戻るなんて別れた時のダメージを癒す口実と、新しい彼ができるまでの一時のキープみたいなものだと思います」。こういう直言を吐ける女は信用できる。「互いが色々と知ってる分、友達に戻っても何でも相談できる仲…」というのも理論上のことで、互いが互いを知り合っているということが思い込みである。

人が人に何らかの相談をした時、相談に対する正しい回答は、相談相手の性格に基づくものであるべきだが、それほどに相手の性格や状況を知りながら、的確な回答を出せるなどあり得ないと自分は考える。所詮は、自分ならこうするという答えるにとどまるから、他人に相談する意味は、本質的には無意味である。もっとも多くの相談は、気休めであるのが実情だ。

人間関係をこのように深く取り沙汰すれば、究極的に人間は人を頼ることなく、一人で生きて行くものだ。差し障りのない程度や範囲で他人と手を取り合うべきで、究極の選択は自己の責任の上で、自己判断でなされるべきである。よしんば他人に答えを貰う場合が、結果の良否にかかわらず、自らが責任をとるという覚悟が欲しい。相談は罪を作る場合が多い。

タイムリーな話題でいえば、数日前にコメントを寄せた人物は、いかにも悪ぶった善人である。「よくも、背広やの悪口を書き込んだな!」と荒っぽい口ぶりに始まり、「覚悟しとけ!」と凄んでいるが、こうした露骨で攻撃的な物言いは、ムシも殺せないような善人が多いのが経験則である。真の悪人はこうした露骨な言い方を避け、相手を怖がらせたりするもの。

こうまでセビロ屋批判に立腹するのは、常連客というより身内関係者という推察もできるが、自分の推理はセビロ屋とは無縁の人物とみた。「プリントした。郵送する」の記述に笑ったが、文面からセビロ屋にゆかりの人物とは思えない。昵懇というなら、電話をするなり店に伺うだろうし、「損害賠償するように言うから」という文言は不自然であること極まりない。

「プリント郵送」はセビロ屋のある広島在住というより、遠方居住者の可能性が高いとの感じを抱く。あげく、「セビロ屋」を、「背広や」と誤記するなどは、セビロ屋を知る人間らしからない。これらの理由からこの人物をプロファイリングすると、自分の書き込みをクレーマーと即断して腹に据えかね、文句を言うべくセビロ屋とは近縁であるが如く振る舞っている。

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「損害賠償するように言う」などの不可解さからして、ネットで苦情を書き込む消費者に嫌悪感を抱く輩か?もしくはアル中患者の戯言か?はたまたネット徘徊を楽しみとする暇人のいずれかであろう。クレーマーに怒り感情を抱く、商店主の可能性もある。いずれにしろ、心優しき善人風情が、自らに箔をつけるために凄んで見せるのが後の書き込みから明々白々である。

自分の返答で当初の目論見は外れ、「500万の訴訟の始まり」などの記述は支離滅裂な児戯ごとき振舞いで、ここまでになると笑い話というしかない。ネット内にはお店に対する消費者の憤懣やるせない記述も見るが、消費者が泣き寝入りした時代に比べ、情報交換を行えるようなったことで、悪辣な企業や店舗は名指しで批判され、敬遠されることになる。

セビロ屋の蛮行を、「あり得ない」としたのは憤懣の発露というより、商売の根本を逸脱した悪行の断罪である。今回の人物は、注文とは異なる商品を押し付けられようと、文句も言えずに代金払う奇特な人物か。であるなら、こうした気弱な善人が、物言う消費者を嫌悪し企業に加担する。あからさまな暴言は無理を承知としつつ、己が不甲斐なさの憂さ晴らしであろう。

自分にとって最大の恩人は、劣等生のⅯ

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自分のことは性格も含めた一切を、相手に委ねる、決めさせる、というのが自分の考えだが、「自分のことを自分で決めないでどうする」などの反論はあった。が、それらの反論は無知だと思っていた。なぜならその考えは、熟慮の中から生まれたものだった。他人に決めさせるというのは、①他人を尊重してやる、②自分は自分のことを分からない、という前提から得たもの。

ならば、他人は自分のことを理解できるのか?少なくとも自分よりは、分かっている部分が多い。なぜなら人間関係とは、他人と自分の関係であって、自分に置き換えてみると、他人といるとき自分は相手ばかり見たり考えていることがほとんどだし、相手もこちらのことばかりを見、同じように考えている。主観・客観というが、物の見方の多くはこれに該当する。

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主観とは、自分の見方や意見のこと。客観とは、他人の身になって自身の意見を考えたり、物事を見ること。どちらが正しいか?というより、主観的な度合いが強いと、客観的な視点が欠落し、客観的すぎても主観的な見方が損なわれる。善悪というより、バランスが大事だろう。主観的な人間は自信家であったり、独善的な思考傾向が強く、客観的人間はその反対となる。

さらには客観的な意見というのは、多数(誰から見てもそうである)意見と考えられる。主観的な意見は自身の判断による意見であるゆえ独善になり易いが、愚者ではなく賢者の主観は正しさにおいて勝る。つまり賢者の主観は単に、「我思う」ではなく、様々な要素や広い視野から導き出されたものであるからして、そうした思考の元に決められた考えは深遠である。

「思想」もそうである。話を戻すが、自分の物の見方は正しい、自分は優秀だ、少なくとも他人よりは秀でているなどとご満悦な人間は、自分のことを他人に好き勝手判断されるのを嫌がる傾向にある。自分のことを他人に決められるのは不愉快という裏には、自尊心や独尊性が大きく関係している。そうした人間を冷やかし半分に、「神を気取った奴」などといったもの。

それが講じ、だんだん自分が見えなくなる。自分は自分を見えているようで、実は見えている自分は勝手な思い込みの自分であったりする。自分を正しく見ることがどれだけ難しいかの事例は沢山ある。自分の多くを他人から教わったが、過去、最もショックで耳が痛かったのは中学一年のときのクラス委員の選挙のときで、自分は代表に選ばれるという確信があった。

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確信とは慢心であろうし、子ども心にではあるが、周囲の誰より自分が優秀と思っていたのかも知れない。科学や地理や天文や歴史などに長けていたかからか…。小学校の休憩時間には知識の宝庫である図書室に入り浸っていたし、科学図鑑、昆虫図鑑、人体、宇宙、星座、探検、地球や世界の国々に加えて、時代劇映画や伝記や未知えの好奇心が人一倍強かった。

そうした知識を勉強や学習としてでなく、遊びとして得、身につけていた。だから、「物知り博士」というあだ名があり、それがまた物知りであるべき、ありたいという相乗効果も生んだ。人からも一目置かれていたそんな自分が、クラスの代表委員になるのは当然である。ところが、自分は選出されなかった。自尊心が音を立てて崩れる、とてつもない羞恥に追いやられた。

そんな時、クラスで最もバカ(成績も悪く、知能も低い)と言われていた、Mの一言が自分を硬直させた。「○○を代表にすると威張るからな~」という、一言だった。この一言が後の自分を大きく変えたと思っている。彼の言葉を聞くまでは、そうした自覚もなければ、認識もなく、「自慢」という言葉さえ、頭に置いたこともなかっただけにショックだった。人は自分をそう見ていたのかと…

家に帰って父にそのことを話す。「自慢するって言われた…」みたいなことを言ったのだろう。記憶にないが、父が自分に言った言葉だけはハッキリと記憶している。「自慢はよくない。でも自信はもたなきゃダメだ」。子どもだから、なぜに自慢が良くないその理由は分からない。自信は持てといっても自信は自慢と違う?この二つの言葉に悩み考え続けた。

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いろんな本を読むようになってその違いが理解できた。自慢というのは他人のためにあるが、自信とは自分のためにあるもの。「自・他」という点において、二つは根本から違っていた。自分自身を生きるなら自慢はまったく無意味で必要ないことが分かった。が、自分を生きて行くために自信が必要なのも分かった。このように、「自慢」と「自信」の区分は簡単明瞭だ。

子どもの自慢は他愛のないもの、悪いことではないと思っていたのは、「おくにじまん」という児童書だった。「おくにじまん」の意味すら分からない年長か小一くらいに叔父が買ってくれた本で、それこそ毎日毎日読んでいた。世界の国々の子どもが自国の名産や建造物や出身有名人などを自慢する本で、あらゆるジャンルに精通する面白くも名著であったようだ。

エッフェル塔やオランダの木靴や広大なナイアガラや、知らない場所の知らない言葉がたくさん出てきてたが、食に飢えた当時の自分に強く印象に残ったのは、南国の子どもと日本人のやり取りである。南国の少年はいう。「ぼくの国にはマンゴスチンというおいしいくだものがあるんだ。マンゴスチンはくだものの王様といわれているんだよ」と、センテンスまで覚えている。

以後、自分にとってマンゴスチンは、果物の王様としてインプットされ、どんなものかと頭は巡るばかりだった。マンゴスチンなど当時のどこの果物店にも置いていないし、見たこともなかった。やっと巡り合えたのは40年くらい後である。「これがマンゴスチンというものか」、初めて目にしたマンゴスチンに、そのことだけに満足し、買うことも食べることもしなかった。


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それまでは果物店に出回っていたマンゴーをマンゴスチンだと思っていたが、実際に本物のマンゴスチンという果実を目にしたときに、これまでの誤りに気づかされた。以後しばらく経ってマンゴスチンを味わうことになるが、後にも先にもその一度だけで以後は手にすることもなかった。5歳頃に初めて知ったマンゴスチンを後年で目にし、味わう感動はあったろう。

「おくにじまん」の意味も、随分後になって理解した。子どもの知能というのは、書籍の中身・内容に追いつくものでないのだろうが、それでも本を読んで様々な知識を子どもは得、積んでいく。「おくにじまん」という言葉の意味は分からずとも、世界の子どもたちが自国の何かを自慢していることは理解できた。やがて、「おくにじまん」は、「お国自慢」であるのを知った。

「三つ子の魂は百まで」というが、子どもの頃のことを自分はあれこれ覚えている。友人などに話すと驚かれるくらいに覚えているらしく、「子どもの頃のことはほとんど覚えていない」と友人はいう。この点を自分は特別に感受性が高かった子どもと分析するが定かでない。むしろ、覚えてないという友人が不思議だった。みんなかつては子どもだったはずなのに。

あった事、起こった事だけでなく、その時自分がどう思った、何を考えた、ということまで覚えているのは、それほど奇異なことだろうか?これについては、しっかりと自分を見つめていたと自らを分析してみるが、それすら定かでない。すべては感受性の高さがなせるワザであろう。楽しかったことの記憶はほとんどない。傷ついたこと、打ちひしがれたことばかりである。

イメージ 5近所のおばさんにはヒドイことを言われた。一緒に遊んでいた友人がある時からまったく出てこなくなり、誘いに行くとおばさん(母親)から、「もう遊べないから誘いにこないで!」と叱られた。下級生を連れて遠出すれば、「うちの子と遊ばないように…」とキツク言われたり、自分は悪い子なのかと、悲しくも傷つきやすい少年だったが、行動が萎えることはなかった。
幼年期に受けた哀しい体験の記憶が自分の支えになっている。自分という感性の高い人間は、結局一人が向いてるのかも知れない。自分の普通が周囲の異常で、周囲の普通は自分には物足りなかった。哀れと悲しみで打ちひしがれたことは多かったが、それでも屈託のない性格が、今でいうオタク風情になることはなく、快活的・行動的に生きてこれた。

親から指示された言葉や、躾や環境から身につけた習慣にしがみついて生きる者は、たとえそれがどのような習慣であっても保守的な人間だろう。固定しないこと、常に流動的であること、そういう自分だった。止まらずに歩き続ける自分であるが、歩いているときに止まれる人間も、止まっているときに歩き出せる人間も、それもまた革新に満ちた人間であろう。

人間というのは一旦歩きだしたら、歩き続けることが楽であり、一旦止まってしまったなら、動かないでいることが楽なのかもしれない。嘘をついて、その嘘を嘘だと認めないで生きるのが楽なのと同じように。根源的に今まで作り上げられてきた自分を壊すべく必要性を感じたとき、壊すことは勇気がいるが、壊す勇気、始める勇気、それに続ける努力も欠かせない。

社会の一員としての自分

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他人が見た自分の顔と、自分が鏡で見る顔は違っている。右手にリンゴを持って鏡に向かうと鏡に映る自分は左手でリンゴを持っている。鏡の世界では現実とは全く真逆である。これが鏡の仕組み。声だって自分で聴く声は違っている。自分の声は録音して聴き、本当の自分の顔をみたけりゃ、リバースミラーを買えばよい。何か新たな魅力や発見があるかもしれない。

顔はともかく、自分を他人がどう見ているかを知ることはできない。したがって、普段相手が自分についてあれこれ口にするのが、相手から見た自分である。ネガティブな人はそのことを気にし、怖気づいたり動揺したりする。誰でも他人の言葉は気になるものだが、気にすべき場合と、気にすべきでない場合がある。ただし、自分以上に人は自分を見ているのは間違いない。

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この考えに同調する奴は、「そうそう、人は目ざといよね」などというが、批判的な奴は、「人の見方なんか気にしないようにする。いちいち気にしてたらやってらんない」とにべもない。さて、どちらが正しいのか?正しいとか、違うとかの問題ではなく、紛れもない事実であって、自分が人を見るように相手も自分を見ている。ならば、「人の見方なんか気にしない」などは…

自分の見方を否定されることになる。もし口に出して、「あなたはこんなところがあるよね?」と言った時、「だから何だというんだ?お前のいうことなんか気にしてられない」と返されたらどうであろう?思いは人それぞれだろうが、そんな相手と人間関係なんか樹立できるはずがない。それでも関係を続けるなら、二度と相手のことを言葉にしないのではないか?

もっとも自分が上記のような言い方をされたら、それで終わったも同然だ。人生を強く生きるためのあれやこれやの言葉がある。そうしたあれやこれやの言葉を正しく理解する者、そうでない者がいる。たとえば、「信じるのは自分のみ。他人の言葉に惑わされないように…」、「他人はあなたについて適当なことしかいわないもの。気にしない方がいい…」などは代表的。

これはある意味正しく、ある意味間違っている。そこの判断が的確でないと、言葉だけを鵜呑みにし、間違った生き方をすることになる。自分のことは自分以上に他人が知っていると考える自分だが、だからと言って他人の言葉や見方を無視することは結構ある。どういう場合かを説明すると、長ったらしくなるし、上手く説明しきれないので簡単に言おう。

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相手の発言が、「バカげている」と判断したり、明らかなる誹謗や抽象、あるいは妬みや露骨な蔑みみしくは返報感情丸出しの気晴らしや追い落としなどなど。まだまだたくさんあるが、率直・明確にいうなら、バカなことをいうのをバカと判断した場合である。バカという言葉は便利であり、実際世の中にはバカがいるし、バカに遭遇することは時としてある。

そういう時に、相手の言葉を気にしてどうなる?気にする人は、「どうなる?」と言っても答えられないかも知れぬが、先にも言ったように、バカの言葉を気にすること自体、自分もバカになっている。そういう場合は、キチンと相手を見定め、気にし合いどころか、まったく無視できるような自分を作っておくことが大事で、それらは子どものいじめ事件に感じることだ。

例えば、「死ね」。例えば、「ブス」。例えば、「なんじゃらかんじゃら…」。言われて自殺する子はどうしたものかと考えさせられる。言われたくないこと、言ってほしくないことを言われるのは確かに辛いことだが、小学生や中学生や高校生であっても、心無い言葉や仕打ちを受けて死に急ぐのを防げないものかと、いじめ自殺の報に触れるたびに考えさせられる。

「自分の身を守るためにどうすればいいか」を…。自分なら、傷つかないためにはどうするかではなく、傷ついてどうするかを考えるが、彼らはそこをしないのか?すれば頑張れると思うのだが…。いつもいうように人をいじめる奴は、「バカ」だと見下している。バカだから人をいじめて喜んでいる、としかいいようがない。だったらなぜにバカの言葉を気にする?

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いつもいつも、堂々巡りのように考えてしまう。彼らにバカの言葉を無視できない何があるのか?ここにいじめ自殺を防ぐヒントがあるように思うが、いじめられて死なない子と死を選ぶ子の違いは、精神力の差ではないだろうか?精神力とは複合的なもので、「死ぬは絶対に嫌」、「生への渇望」という素朴な思いは精神力とは言わないまでも、弱さではないだろう。

「死ね!」と言われたから死ぬではなく、「死ね!」などという奴を、「バカじゃないのか?」と見下げてやったらいい。ブスだの何だの悪口をいわれて腹を立てる子は死ぬことはないが、素直で正直な子どには、「聞き流す」という手法が身についていないのは理解できなくない。何かを言われたら言い返すのが子ども…。それが子どもの自衛手段というものだ。

自分達が子どものころ、「ば~か」と言われたら、「か~ば」。その後に、「まぬけ」、「ほいと」、「チンドン屋」と続く。さらには、「お前のとおちゃんでーべーそ」というのが定番だった。「ほいと」とは当地の方言で「乞食」のこと。これが子ども御用達の謗り言葉である。ボキャのある子はさらに延々と続くが、ない子は言葉を返せない時点で敗北となる。

他愛ない子どもの口喧嘩である。喧嘩の効用が言われた始めたのは少子化時代になってからで、歳の似かよった兄弟の、明けど暮れども繰り返す執拗で過激な喧嘩は人間として成長していくための、最高の教材である。人間がお団子のように丸ければ互いに傷つけ合うこともないが、人は所詮は角砂糖であって、自分の角には気づかないが他人の角には敏感だ。

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仲良しも大事だが喧嘩も大事、兄弟喧嘩で鍛えられた子どもは社会で逞しい。自分は一人っ子だったが、母親とは食うや食われるかの喧嘩の日々であった。大人に向かっていくためには知恵も必要だったから、悔し紛れにか、『議論に絶対負けない法』などの本をそのために買ったりした。人の感情の起伏にどう対処し、自分をどう主張するか、社会の構造はこれに尽きる。

幼いころからの喧嘩の経験がないと、他人の怒りや意地悪をされたときなどの、悪意への対処の仕方が分らず、パニくってしまう。そういう人間が、自己矛盾をきたし、引きこもりという事態に至るのではないか。自他を知るのは至難だが、喧嘩の時は、普段は抑さえている自分をさらけ出すなど、心情を露わにすることになり、相手の本心を理解する絶好のチャンス。

喧嘩の効用は山ほどあるが、自制しているときの人間と、怒りをぶちまけるときの人間の違いを知ることは大事である。人間の豹変に驚いているよりも、人の本質を知っておくほうが人間対処は楽である。人間に対して人並み以上に好奇心を抱く自はさらに、人が講じる様々な言動に対し、その奥に隠される動機や理由を考える。それが人間理解に寄与することとなる。

喜怒哀楽の発散より、人間を考えることが面白い。人間とは基本的に愛すべき存在と思っている。愛されるに値しない人間もいて、そういう人間を無理に愛する必要はない。神は分け隔てなく愛するかというが、本当かどうか疑わしい。神は自分を崇め、ついてくる人間には慈悲深いらしい。神や宗教に詳しくはないが、「神を崇めよ」そんな言葉が聖書にあったように思う。

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人を理解すれば、どんなことでも許せるなんかあり得ない。人を理解することの一義的目的は、己の精神の安定である。人はどうでも自分の場合はそういうことだ。奴があのような言動をする裏には、どういう精神状態であるか?彼に何が起こっているのか?何に不満なのか?どう育ったのか?短絡的な怒りの前に、こちらを考える自分にとっての、これが人間理解である。

あることを自分はこうでも人は違う。自分のちょっとした言動に対して怒る人、それも人間だ。そういう人はそのように生きているわけで、一触即発である。「なんという短気な奴だろう」と思えど言えども、改善することはない。「瞬間湯沸かし器」をあだ名に持つ人間にもそれなりの理由はあろう。あるけれども、いきなり「ドーン」では迷惑が先に立つ。

人間は生身の生き物だ。その日、その時のムシの居所もある。いきなり感情を露わにされては許容できないこともある。ただし、すぐに怒る人の中には怒ってしまったことで自己嫌悪に陥る人もいる。その時に、「つい感情的になって悪かった」、と言える人は善意で良心的ある。彼らは、自らの怒りを上手くとは言えないまでも、コントロールできている。

悪いと分かっていてもすぐに謝罪できない人がいる。悪くないからと謝らない人もいる。前者はプライドが高く、謝ったら負けくらいに思っている。競争心が強く、人間関係を勝ち負けや損得で判断するが、斯くの人は頑固な人間が多い。自分が悪くないのにすぐに謝る人は、依存心の強い人だろう。頑固な人は他人より上にいたいからか、依存心は希薄である。

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これらのことを踏まえて人を見る。判断はそれを前提にしたあとで総合的でなければ、見込み違いもある。若いころは多彩な人間に困惑したが、それらの経験を基に、今は人を楽しんで眺めている。この世の面白さは、雑多な人間の存在と思えるようになった。それぞれが、「我は、我は」とひしめき合って生きている。立派な人もダメな奴も入り混じって、それが社会。

ところで自分はどうなのか?社会でどう受け入れられ、人にどう受け取られているのだろう。そんなの分かるわきゃなかろう。すべては人が決めることだ。自分が自分をどうだか決めても、人には人の見方がある。よって、自分がどうだかなどは関係ない。それが自分が導き出した、自分という存在についての解釈である。自分はひたすら向上すればいいのと。

個人は社会の一員でもあるが…

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表題如き命題を人は感じるようになるが、それを教えるのは家庭でなく学校という集団生活の場であろう。人間は社会的動物であるというのを学校教育の場で植えつけられるが、どうしてもそうした集団主義に馴染めない者がいる。学校はクラス単位で運営される以上、学校に馴染めない人はクラスに馴染めないことになる。それは個人の特質として起こることなのか。

学校に行きたくない症候群(不登校)にはさまざまな理由がある。そうした集団生活に馴染めず、引きこもりや登校拒否になってしまった子どもたちのことを、「発達障害ですね」とくくってしまう医師もいる。彼らは本当に、「障害」なのか?日本で発達障害という名前が広まり始めたのは1995年頃くらいからで、子どもをそう認定された親は、「障害」の文言に困惑する。

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確かに発達に偏りがある子どもたちは、人に合わせることが苦手である。しかし、誰よりも優れた、「ひらめき」と、「こだわり」、「豊かな五感力」を持っている子どもが多いという。なのに集団生活に馴染めないというだけで、「障害」と言われなければならないのか?彼らには学校以外に彼らに即した学びの場があってしかりで、それが通信高校だったりする。

軽度の発達障害、身体障害、知的障害などの事情を抱える子、勉強についていけない、いじめを受けている、先生が苦手、学校が嫌い…など、さまざまな理由から学校に行かなくなったり、ひきこもりになる子どもたちをサポートしてくれる教育機関はたくさんあるが、そうした機関の中で特に小中校生の学びの場となっているフリースクールの存在がある。

個人経営、NPO法人やボランティア団体などが運営する民間の教育機関になり、それぞれの方針や教育理念の違いによって形態もさまざまで、かかる費用も一様ではないが、共通点としては、子どもたちの主体性を尊重しているところで、学習面に力を置くというよりは、生活面や精神面の支援を行う場所と言える。したがって、基本的に入学資格は設けられていない。

そうした自由な場であっても社会とのつながりは重要で、学校に行けない・行かないことで他人と接する機会が少なくなると、社会から取り残された感覚に陥ることにもなり兼ねない。それでますます自分の殻に閉じこもったり、ひきこもり状態が長引くことも考えられる。フリースクールに登校することは、学校復帰や学習意欲向上に直結しない場合もないとはいえない。

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それでも自宅以外の場所で家族以外の人とつながっていられる環境は、社会との接点となり、子どもにとっては目には見えにくい不安や焦りや心の負担を和らげてくれている。義務教育が終わる中学生の場合、普通高校への進学をはじめ、通信制高校や定時制高校や高卒認定試験合格を目指すなど、一人ひとりの状況や希望に応じて情報を提供しているので安心感もある。

もともと集団生活が苦手な子どもゆえにか、フリースクールから通信制高校に進学し、高卒資格を目指すというケースが多い。過日話題になった中学生将棋棋士の藤井聡太四段も発達障害では?と言われているが、国立の中高一貫教育校に在籍しながらも、高校進学を迷っているというが、7冠制覇した囲碁棋士井山裕太のこともあり、高校進学はしない可能性が高い。

藤井四段の逸材からして、高校や大学が彼の将来に何らかの寄与することはなく、羽生善治も普通高校から通信高校に転籍した。一般的な子どもを有す保護者がなぜに偏差値教育に逆らえないのか、という問題で必ず浮かび上がるのが「歩留まり」論である。我が子に出世を望むとまではいわずとも、例えば就職や転職の時、昇進や結婚の時に必要なのが良い大学である。

子どもを早くから塾に入れ、成績が思ったほど上がらないと小言をいう。高偏差値大学に入りさえすれば、後はなんとか人並みに生きていけるだろうというのが親の安心であり、これが本当の子どもの成長に寄与し、親が努力しているといえるかどうか、自分は甚だ疑問である。今の親は、子どもが、「自然に育つ」過程での干渉があまりに多すぎるのではないだろうか。

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子どもの数が少なくなり、経済的にも豊かになったことがこうした傾向に拍車をかけているが、その反面、個性に乏しい貧弱な大人に育とうとしている。ともすれば近視眼になり易い母親に任せきりでなく、父親が人間という全体像を通して子どもが、「育つ」ことに関心を持つべきである。「子育て」ほどに面白い事業を妻にやらせるなどとんでもないという自分だった。

広い社会の中で、人間だけが狭隘な考えでいてはあまりに侘しすぎないか?どんなものにも表裏があり、その表裏を発見し、両面から眺め、考えることができるなら、その人間は大きな人間と言えという。「人は個人だが、社会の一員でもある」という表題はあまりにもっともで、これに固執するなら、集団主義・組織主義を信奉することになり、それも実は問題だ。

「人とは何か」、「社会とは何か」。この二つの問いかけは、我々にとって根幹をなす問題である。例えば近代ヨーロッパ思想の基本は、「個人主義」といえる。つまり、個人の自我、善性、幸福を捉え、求めることこそ個人主義思想の意義であり、目的であった。確かに個人主義思想は魅力であり、賛同するが、そこには社会が無視されているという側面がある。

なぜなら個人主義の考えは、「個人とは、社会から切り離された一個の独立した存在であり、社会とは、個人の独立性を認めない全体優先の共同体」である。トヨタ生産方式と呼ばれる無駄のない合理精神は、日本の民族や風土にあったものとして喧伝されてきたが、こうした考えが生まれた背景について司馬遼太郎は、愛知三河人の滅私奉公気質にあると書いている。

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極端な農民型で律儀で篤実で義理に厚く、戦場では労を惜しまずに働き、三河兵は徳川への忠誠心のみで統一されていた。同時に極めて統制的性格を持ち、売名的な豪傑もおらず、自分の能力を世間に誇示することなく徳川家のために埋没した。三河で生まれたトヨタは、まさに三河兵のようなお家のために労を惜しまぬ律義者企業軍団を擁し、世界まで登りつめた。

トヨタは資本・人的関係をもつデンソーのような譜代企業と、資本・人的関係のない外様部品会社を傘下にもち、それらを合算した運命共同体的な信頼関係を醸成し、漸進的に強さを構築してきた。また、司馬は隣の尾張人気質にも言及している。「尾張の気質は、土地にしがみつく保守的な生き方より、外に出て利を稼ぐ進取的、時には投機的な生き方を取るという。

貧農の出自である秀吉は、当時の下克上の論理と、個人の能力主義に支配されていた戦国時代にあって、忠誠心を植えつけることに知恵を絞ったという。あれこれと注釈つけずとも、日々の暮らしの中にこそ真実がある。が、真実を見極めるためには一元的な考えでは見つからない。「○○が正しい」は思い込みであり、それが正しいと勝手に信じているだけである。

「人は個人だが、社会の一員でもある」が真実なら、「人間は個人だけでもない、社会の一員だけでもない」と、こういう考えもまた真実である。真実は一つしかないと考えるから否定をするわけだから、ニーチェの言うように、「真実などはない。あるのは解釈だけ」と考える方が柔軟である。個人は大切でも、個人を社会から切り離したら、個人の心など成立しない。

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なぜなら、人は決して一人では生きていけないからだ。個人の自我は大切であるけれども、個人は社会に埋没してはならず、「周りに関係なく、自分は自分」という考え(精神)を持つべきだろう。しかし、社会なくして人は生きられない。だから、自分の心をしっかりと掴んだ後に、今度は自分への拘りを捨て、社会の一員としての自覚を持つべきではないだろうか。

つまり、まずは社会を否定して自分の心をしっかり掴む。そして次に、「社会を否定した自分」を否定して、自分を社会に戻す。これが、「人間は個人だけでもない、社会の一員だけでもない」という意味となる。要するに、自分を社会の中に埋没させないで、社会の一員として機能させるということだ。さらに言えば、主体性を失うことなく、客観的に自分を眺める。

さほど難しいことは言ってないが、端的にいうと、「安易はダメ」、「何事も安易は禁物」ということ。「片方肯定、片方否定」でなく、「相互否定」の精神が人間を成り立たせる。要するに人間が安易であるというの事は、横着でズルいと自分は見る。何事も、「個人だけの状況」、「社会だけの状況」というのは悪であるとするのが人の健全な生き方ではないか。

個人優先、組織優先とするのは簡単であるが、組織の中で個人をどう生かすか、個人の中に組織をどう反映させるかを考えるのは、決して横着で安易な生き方ではない。正しい、正しくないというのも主観であるから、何が正しく、何が正しくないという疑問を常に持ち続けることが柔軟思考であり、固定と違って柔軟であることは、時代のニーズや変化に対応できよう。

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