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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    リッジウェイの提案を受けたマッカーサーは、このままでは撤退の可能性ありとワシントンに増員派遣要請するも拒否された。ワシントンの方針に不満を抱くマッカーサーは、中国の本土爆撃も視野に原爆使用を提案する。戦線が拡大を見せる中、カナダなどは国連政治委員会に次の提案をする。①現状での即時停戦。②休戦期間中の朝鮮問題の政治的解決。

    ③外国軍隊の段階的撤退。④台湾問題と中国国連加盟問題の米英ソ中四か国による協議。現状国連軍は37度付近にまで後退し、ソウルは北の支配下という戦線状況のなか、上記提案は、米国にとっては屈辱的であるが、朝鮮半島での軍事行為に敗退の危険を感じていたアメリカは停戦案に同意するも、中国は国連加盟を強硬に推し進めたことで交渉は決裂した。

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    2月1日、国連総会は中国を侵略者とする非難決議案を採択したこともあって、国連軍は浮足立つ中朝軍の2月攻勢を撃破、3月7日に再びソウルを奪還した。わずか9カ月間にソウルの支配は4たび変わったことになる。戦いはその後も止むことなく激しさを増した。北側は大量の兵士を国連軍陣地に肉弾攻撃を展開したことで、中朝軍の死体は累々横たわっていた。

    米軍は日本の基地から中朝軍陣地と補給拠点に猛爆撃を開始、主要都市を破壊する。マッカーサーは中国本土爆撃を柱とする強硬策をワシントンに要求したが、休戦を呼びかける声明文まで用意していたトルーマンと対立する。マッカーサーは、中国本土爆撃などの強硬策の必要説いた声明を日本で独断発表したことで、トルーマン声明は発表の機会を失った。

    マッカーサーは、共和党議員からの書簡の返書で、トルーマン政権の政策は勝利の機会を失わせるものだと激しく非難したが、野党共和党が議会でトルーマン攻撃に使われた。1951年4月11日、トルーマンはマッカーサーを解任、後任にリッジウェイが任命された。第二次大戦後、日本の事実上の最高権力者であったマッカーサーは、4月16日に日本を離れた。

    当時、米本土には共産主義への憎悪が充満していたが、対日戦の英雄でありながら反共の先鋒マッカーサーは、議会からも国民からも熱烈な歓迎を受けた。4月19日、米国上下両院合同会議に出席したマッカーサーは、「全人類の運命は党派などの方法でなく、国家の利害の最高段階によって決定されるべきものである」という冒頭の言葉から演説に入った。

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    最期に有名な、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の文言で締めくくった。「私はいま52年にわたる軍人生活を閉じようとしている。しかし私は若いころ兵営で友人達と歌った、『兵隊の歌』の一節をいまもよく覚えている。それは、『老兵士は静かにただ消えていく。しかし彼は永久に死ぬことがない』という意味のことを、誇らかに歌ったものであった。

    この歌の老兵士と同じように、私はいま軍人生活を閉じ、ただ静かに消えていくのである。神により託された義務を果すべく努めた一老兵は、いまただ消えていくのである。諸君よ、さらばさようなら」。マッカーサーの後任となったリッジウェイは、トルーマンの意志を具現化すべく、南朝鮮防衛体制を構築したうえで、休戦交渉に持ち込むという任を負っていた。

    そんな矢先、中朝軍は4月に大攻勢を仕掛ける。国連軍は40~50キロ押し返されたがソウルは守り抜く。無数の死体を置いて中朝軍は後退した。5月には東部山地で中朝軍の攻撃が再開され、国連軍は危機に陥るも応援部隊を増員して撃退する。4~5月の2か月間で中朝軍側の死者は20万人と推定されている。6月23日、ソ連のマリク国連代表が停戦交渉を呼びかけた。

    6月30日、リッジウェイも金日成と中国軍を指揮する彭徳懐に休戦会談を提案し、7月1日、金日成が同意を表明。李承晩はアメリカの休戦会談提案が南朝鮮の、「頭越し」に行われたことに憤慨し、強硬に停戦交渉に反対する。李承晩の本音は、休戦後の南側の政治基盤の弱さや安全保障に不安を抱き、アメリカ軍の強硬路線による勝利を期待していた。

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    アメリカ側は李承晩の意に反して交渉を推進する。7月10日、開城付近で休戦会談が行われ、以下の4項目が議題となる。①軍事境界線確定と非武装地帯設置。②休戦監視機関の構成・権限・機能と休戦の具体的取り決め。③捕虜に関する取り決め。④関係諸国に対する勧告。軍事境界について国連軍側は現状維持を主張したが、北側は38度線を主張した。

    現時点での接触戦を境界線とする国連軍側に北が合意した。最大の難問は捕虜問題である。国連軍側は、人権尊重のため捕虜の一人一人に自由な意思を確かめ、各人が望む国へ送るべきと主張。これに北側が反対、もとの国に全員送還すべきと主張した。公表された捕虜の数は、国連軍側の中朝合計12万2474人、中朝側の米韓その他を合わせ1万1559人であった。

    1952年4月19日、北側は捕虜の自由意思にもとづく送還に同意した。ところが、個人面接の結果、中朝軍捕虜数の半数に近い6万人余りが帰国を拒否したことで、北側は母国強制送還に変更する。共産国家でのリンチや処刑などの重罰を危惧したものと思われる。1952年のアメリカ大統領選で、朝鮮休戦実現を公約に掲げた共和党のアイゼンハワーが勝利した。

    アメリカ国民は当初マッカーサーの北進を支持したが、戦線膠着で犠牲が増えると早急な休戦を望んだ。1953年、ソ連のスターリンが死去。新しく首相となったマレンコフは3月15日、ソ連最高会議の演説で朝鮮紛争の平和的解決を説いた。最終段階で休戦に強く抵抗したのは李承晩だが、捕虜問題で中国が折れ、7月27日に板門店で休戦協定が調印された。

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    朝鮮戦争は第二次大戦後最初の大戦争である。戦闘地域は局地的だが、規模は国際的であり、兵員、兵器、弾薬の使用量や犠牲者の多さ、犠牲の大きさは世界大戦と比肩しうるものであった。休戦時の国連軍側地上兵力は、アメリカ軍30万、韓国軍59万、その他国連軍4万の合計93万と、空軍・非戦闘員などを加えた動員総数は、117万人と発表されている。

    米軍戦死者3万3629人、負傷者10万3284人、捕虜・行方不明者5178人。韓国軍戦死者41万5000人、負傷・行方不明42万9000人と発表されている。米韓以外の国連軍死傷者1万7000人でうち英連邦諸国が7000人。北側は戦果は挙げるも自国側の損害を公表していない。米軍側の推定では、中国軍殺傷者数約90万、北朝鮮側のそれが約52万、合計142万とされている。

    朝鮮半島の全土が戦場となり、多くの民間人が犠牲になった朝鮮戦争である。その数は正確には分からないが、韓国側の民間人犠牲者は死者・行方不明者合計76万、負傷者23万、北朝鮮側の民間人の喪失は、南への難民68万、死傷者200万人といわれ、双方合わせて凄まじい犠牲者数だが、驚くべきはこの戦争で米軍は太平洋戦争を上回る弾薬を投入している。

    北側の政策決定過程を知ることはできないが、侵攻の動機はある程度の推理は可能だ。とにかく共産主義者たちは、朝鮮民族の統一を最終的には実力で達成するという戦略をもっていること。彼らの戦略によれば、戦争は侵略ではなく革命であり、内戦という考えである。「目的は手段を正当化する」という考えは正しいのか、正しくないのか。それは目的にもよろう。

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    マキャヴェリズムとは、どんな手段や非道徳的な行為も、国家の利益を増進させるのであれば肯定されるという思想で、ルネサンス期の政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリの著書『君主論』の内容に由来するが、目的のためには手段を選ばないマキャヴェリズム信奉者をマキャベリストと呼ぶが、「出世のためなら他人を蹴落としてでも…」と公言する人間は何人かいた。

    高度経済成長期には自己充溢や幸福を求めたモーレツ人間はいたろうし、卒業式で歌われる『仰げば尊し』にも、「身を立て、名をあげ、やよ励めよ」などと、これは立身出世を遂げろと言っている。侵略されたら戦わずに捕虜になるのか、それとも武器を手にして戦うのか。前者を無抵抗主義というなら、後者を戦争と呼ぶ。共産党の野坂参三はこんなことを言っていた。

    「侵略された国が自国を奪い返すための戦争は正しい戦争だ」。歴史の現実を見れば、国家としての自衛権と必要最小限の兵備を考えるのは、国民の生命と財産を守る義務のある国家として当然であり、これを憲法において放棄し、無抵抗主義を採用するなど、無責任国家である。「正しい戦争などない」。「正当化される戦争はない」とふやけたことをいう人がいる。

    「美辞麗句」が好きな人なのだろう。確かに戦争放棄条項をうたった憲法草案は理想主義によって彩られてはいるが、これが実は日本を腑抜けにするための戦略であったというのを、当時の帝国議会の議員たちはしらなかったろう。国民の多数は、戦争の惨禍を目の当たりにした直後であるだけに、そうしたプロパガンダに酔わされた部分もあったのだろう。

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    敗戦国日本がアメリカ軍によって占領された期間は、1945年8月下旬から1952年4月下旬まで実に6年8カ月の及んだ。これは外国を支配して植民地化することを当初から意図した戦争の場合とは別にして、近代の大国間における戦争の後始末としては異例ともいえる長期占領だった。なぜ、このような事態が続いたのだろうか?温故知新…、日本人なら知っておきたいことだ。

    占領軍最高司令長官マッカーサーは1947年2月、米国議会へのメッセージで以下のように述べている。「歴史は軍事占領というのが一定期間以上は効果を上げ得ないことを教えている」。というように、彼は占領開始直後から一貫して早期講和論を唱えていたが、にも関わらず日本占領が長期化した理由は、以下に言われている。第一は日本の、「戦後改革の遂行」である。


    アメリカは第二次大戦中から民主主義、自由主義の旗手として、これらと経済的諸制度の改革を理念的戦争の目的と掲げ、戦後は全体主義国家であった敗戦枢軸国に対し、上記の戦争目的に沿う改革を要求した。タテマエとしては、敗戦国国民の自由なる意思による、自由主義、民主主義体制を選択させるというものだが、実態と思惑は違って別の意図でなされていた。

    つまり、占領軍が改革をするにあたって、それを阻害する社会主義勢力を排除し、制度変更を強制する画策であった。そもそも日本の社会主義運動は、自由民権運動からの急進的なグループからの派生であり、1920年代から30年代にかけてのマルクス主義も、多分に大正デモクラシーからの発展であった。したがって、社会主義・共産主義は、破壊と窮乏の民衆の抗議であった。

    日本における人権・自由・民主主義を求める思想、政治、社会、文化運動の歴史はマルクス主義を背景にした、「戦後民主主義」のもっとも強力な追求者であった。占領政策を仕切るアメリカが日本政府に共産主義者取り締まりを強化したのは当然である。共産主義を警戒するために組織された特高警察は、明治期の、「高等警察」が発展した社会運動抑圧機関であった。

    ところが、1945年8月17日、組閣を終えたばかりの東久邇宮首相は、ラジオ放送で、「今後、建設的な言論の展開を促し、健全なる結社の自由を認めたい」と語った。つまり、結社や自由は認めるが、「建設的」、「健全な」という理由をつけるという。さらに東久邇宮首相は8月27日の会見で、「特別高等警察」の行き過ぎを徹底的に改めさせると発言している。

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    東久邇宮内閣は、戦前に思想犯や政治犯弾圧のために制定された、治安維持法を破棄する考えを持たず、「国体の変革」、「私有財産制度の否定」を目指す運動(治安維持法によって禁止されていた)は、引き続き取り締まるとの方針を示した。東久邇宮内閣は、占領の意味を過小評価していたのは明らかで、その後に実施されることになる大改革すら予想し得なかった。

    ばかりか、進駐するアメリカ軍司令部を横浜に留まらせ、「帝都(東京)」に入れないよう画策を試みたりした。GHQは、とりあえず言われるままに横浜でその仕事を始めたが、9月15日以降は皇居を目前に見る東京・日比谷の第一生命ビルに移る。占領終了までここが日本統治の独裁権力の本拠となった。9月2日、GHQは武装解除、連合国捕虜の釈放など相次いで指令を発した。

    結論を言うなら東久邇宮内閣は、日本の内閣の中で最短命の54日間となっている。2位の羽田内閣より10日短い。戦後初の内閣という事でGHQから少しばかり飴をしゃぶらせてもらっていたが、舐めたら容赦しないと牙をむかれた。問題にされたのは、東久邇宮内閣の、「自由への指令」の、「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」への対処である。

    アメリカ人の多くは共産主義を嫌っているが、日本の、「治安維持法」が政府批判を圧殺して戦争への道を容易にしたことも理解しており、このような体制をいつまでも維持することは許されないと考えた。マッカーサーはすぐさま手を打ち10月4日、GHQは政治的・民事的・宗教的自由に対する制限の撤廃を求める、「政治警察廃止に関する覚書」を日本政府に手交した。

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    ①天皇及び皇室に関する自由な討議を含む思想・宗教・集会・言論の自由を保障する事。

    ②治安維持法をはじめ、自由を奪う一連の法律・勅令。省令・命令・規則を廃止する事とし、その効力を即時停止する事。

    ③右の法令などによって拘禁されている人々を釈放する事。

    ④秘密警察や言論統制機関などの一切を禁止する事。

    ⑤内務大臣、警察関係首脳部、全国の思想警察及び弾圧活動に関係する官吏を罷免する事。

    東久邇宮内閣はこの覚書を拒否し、翌10月5日、内閣総辞職を行った。内大臣木戸幸一は近衛文麿らと協議し、蓼原喜重郎を後任に推挙することにし、外相吉田茂を通じてGHQの了解を得た。10月9日、蓼原内閣が発足し、10月15日には、「治安維持法」などの政治犯・思想犯取り締まり法規が、「勅令」で廃止された。自由と民主主義を国是とするアメリカは日本を変革させていく。

    アメリカの日本占領が長引いた第二の理由は冷戦であろう。枢軸側の敗戦国のなかでもドイツは東西に分裂されたため、戦後処理は一層困難になったが、アメリカの日本占領目的は、日本の非軍事化・民主主義化から対共産主義戦略を重点とする日本再建で、そのための対日政策として、日本自身の共産主義化の防止、極東における対共産圏戦略としての日本の位置づけである。

    朝鮮戦争におけるアメリカ軍の軍事拠点としての日本の重要性は不可欠のものとなった。それらから日本の基地が自由に使用できるという条件なしに、対日講和は認められないという考えになって行く。終戦から6年後の1951年9月8日、日本と連合諸国はサンフランシスコにおいて講和条約を締結、ここに第二次世界大戦における戦争状態が終結となった。

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    この条約によって日本は政治および経済条項で特別の義務や責任が課せらることはなかった。また、賠償についても日本の弁済能力が不十分なことを認めて、役務賠償や連合諸国による在外資産の管理や処分を明記したものの、連合諸国は条約に特に定めがない限り賠償請求権を放棄すると規定されていた。しかし、領土問題に関してはいくつかの遺恨を残すことになった。

    沖縄などの諸島は米国信託統治下とされたが、千島列島・南樺太に関しては帰属する国家を明記しなかった。講和条約にさきがけた1950年3月、対日講和の担当者に国務省顧問ダレスが就任する。6月に来日したダレスは、マッカーサーを説得して新戦略構想を提案した。これは日本全土を潜在的な軍事基地と考え、自由に使用できるようにするというものであった。

    以後この構想の下に米政府の対日講和が推進されていく。またこの時期、朝鮮戦争が勃発したこともあって、ダレスは日本を同盟国としておく必要があるとしてトルーマンに対日講和を推進した。ところが、12月には中国軍介入で朝鮮戦争の戦況は米軍不利になり、ダレスは再び対日講和に反対する統合参謀本部を説得、講和を進めるも、翌1951年1月~2月再び悪化する。

    在日米軍の殆どすべてを朝鮮半島に投入した場合に備えての予備兵力として、日本軍の再軍備を迫る。結果講和条約の前提条件として再軍備が決定。当時の総理大臣 吉田茂はこれを受け、警察予備隊(後の自衛隊)を発足させているが、これはマッカーサーが吉田茂に書簡で進言したもので、「民主主義社会の安全を守るために警察力の増強が必要である」と述べている。

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    朝鮮戦争が勃発した二週間後のことであった。日本再軍備は直接にはマッカーサーの指示で開始されたが、日本側にも再軍備の必要性を認める意見は広く存在していた。敗戦・占領と同時に旧陸海軍は武装解除され解散させられたが、日本側の関係者の大多数は、この事態は一時的なものとの認識であった。このように、占領下における武装解除から自衛隊の創設を記してみた。

    今や、観念の政党といわれた社会党は消滅し、共産党に於いても自衛隊を軍隊だから憲法違反と声たかだかの声は聞かなくなった。特に北朝鮮問題が、戦争の現実味を帯びた昨今、「竹やりで戦えばいい」などという声は皆無である。観念話が好きな人は多いが、彼らが現実的な対処が苦手とするのは自明の理であって、雲を掴むような手で実態を掴むことはできない。

    一発、「ドカン!」と北朝鮮の打った核爆弾が、日本や韓国の都市部やアメリカ領内の海岸部で破裂したらどうなるのだろうか?「バカに金と力を与えるなかれ」といわれるが、バカはお金を使うことしか、あるいは力を誇示することしか、他にやることはないのだろうか。今に思えば金正恩よりは父の金正日が、金正日より父の金成日の方が立派(?)に見えるのはなぜ?

    三代目にして国は亡ぶという。初代の苦労を二代目は現状維持がやっと、三代目になれば先代の苦労も先々代の苦労など、どこ吹く風の勝手なふるまいで自爆であるなら、北朝鮮そのままである。未来予想図は誰にも見えないが、自国民を飢えさせる金正恩を常人でないとするなら、さらなる動向は予測できない。今となっては、アメリカもクリントン女史を選ぶべきだったか…

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    この際本気で軍拡しないと舐められっぱなしになる。北朝鮮のような貧乏国が国民を飢えさせてまで軍拡に走るのも、それしか生きる道がないからだが、日本は中立国ではないし、武器を持たなければ攻撃されないなど甘美な幻想だ。自国を自力で守ってこそ独立国の証しだが、憲法が障害になるというなら憲法を変えるしかない。万が一の急場は超法規的措置で対応すればいい。

    昨日、北朝鮮は国際社会の意表を突くかのように核実験を行った。北朝鮮は水爆実験が成功したと報じている。これに対して、トランプ大統領は核実験後8時間、黙したままで不気味さを感じた。ようやくツイッターで投稿した内容は、「北朝鮮は、ならず者国家であり、中国にとってもやっかい者である」。これで北朝鮮の核実験への避難は、日米中ロ韓となったが…


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    日米開戦は1941年12月1日の御前会議で決断された。昭和天皇は米英との開戦に最も躊躇した一人であったが、開戦を求める軍部の強い圧力もあり、米国側の根強い対日不信もあって日米両国の妥協はならず、開戦を止めることができなかったといわれている。1941年7月18日に組織されたばかりの第三次近衛内閣は3か月で総辞職し、10月18日、東条英機が内閣を組織した。

    11月26日、アメリカ国務長官コーデル・ハルが野村吉三郎と来栖三郎両大使に手交した新提案は、中国の蒋介石やイギリスのチャーチルなどの対日強硬意見を背景に、事実上の最後通告に近いものになった。「ハル・ノート」と呼ばれる交渉文書は、中国とインドシナから日本の撤兵、中国における蒋介石以外の一切の政権の否認、日独伊三国同盟の否認要などがあった。

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    日本の軍部にとって多年にわたる国民を総動員、多数の戦死者を出して獲得した中国大陸の支配を放棄するなどあり得ない。首相兼陸軍大将であった東条はハル・ノートを日本への最後通牒とするも、「我国として受諾は出来ない。米国は日本が受諾しないことを知って通知している」。「米国側においては既に対日戦争を決意しているものの如くである」とした。

    昭和天皇は27日午後1時27分、東条首相から日米交渉について奏上を受け、翌28日午前11時30分、東郷外相からハル・ノートの説明を受けた。和平派東郷は、ハル・ノートに失望、外交解決を断念した。「自分は眼もくらむばかりの失望に撃たれた」、「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」と述べている。

    日本の関係者の多くがハル・ノートを事実上の最後通牒、または宣戦布告と受け取った。12月1日の御前会議において東条首相は、「帝国は現下の危局を打開し、自存在自衛を全うする為、米英蘭に対し開戦の已むなきに立ち至りましたる次第であります」と説明した。会議の結果、対米英蘭開戦が決議される。開戦の真実は、ハル・ノートの解釈だったろう。

    最大の危機に直面して、政策の大転換を遂行する力量は日本政府にはなかったろう。日本人が日本という国家を維持するために立ち上がった戦争に対し、裁判官の中で唯一の国際法専門家であるパール判事はこう擁護した。「もし、ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルグ(のような小国)でも、矛をとってアメリカに立ち向かうだろう」。

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    12月8日早朝、日本海軍航空隊は、ハワイのオアフ島の真珠湾を奇襲した。日本の対米最後通牒はハワイ奇襲前に手交されるはずであったが、ワシントンの日本大使館の不手際で攻撃後になったが、ルーズベルトはこの不手際をアメリカ国民の反日感情の扇動のために最大限利用した。日本軍のハワイ奇襲は成功し、アメリカ太平洋艦隊はこの時点においては大打撃を受けた。

    ボクシングで言えば12ラウンドの闘いの1ラウンドにパンチを受けてダウンしたようなもの。当時の日本も工業化は進んでいたが、アメリカとの格差はあまりにも大きかった。1940年代のアメリカは、すでに自動車や電器製品などの耐久消費財の大量生産を実現しており、機械工業の日米格差はいっそう大きかった。大恐慌前のアメリカの自動車販売台数は560万台である。

    日本の自動車生産は、戦前・戦中のピークである1941年に、4万6000台(乗用車のピークは1938年で1850台)であった。そうした日米格差について日本の軍人や官僚、その他の知識層のなかに認識者はいて、彼らは対米開戦の無謀さを説いていた。特に海軍関係者に英米の実情を知る幹部はいたが、「米国は物質文明であるが精神力は日本に及ばない」という議論も横行した。

    真珠湾の打撃と屈辱は、「Remember Pearl Harbor」の合言葉とともにアメリカ国民を奮起させ、報復の気持ちを燃え上がらせた。ルーズベルト政府は、「この戦争はドイツや日本の全体主義、軍国主義ならびに侵略行動を打破し、自由と民主主義を守り、恒久平和を確立する正義の戦いなのだ」という大宣伝を展開した。アメリカ人の士気は日本人の予想以上に高かった。

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    第二次大戦にアメリカが派兵を決めたことで、日本、ドイツ、イタリアの敗北は決定的になったばかりでなく、この戦争が、全体主義vs民主主義、独裁か自由か、文明か野蛮かといった、社会体制や文明のあり方を賭けた戦争という装いが強くなって行く。ドイツも日本も第二次大戦初期において、それぞれの戦線において目覚ましい戦果を挙げ、領土を拡大して行った。

    やがて戦局は枢軸国側に不利に展開し始める。ドイツはモスクワ占領を果たせず、ソ連の反撃と、「冬将軍」の到来で後退を余儀なくされた。ロシア南部のスターリングラードではドイツの大軍がソ連に包囲され、1943年1月31日~2月2日に降伏した。これにてロシア戦線の作戦は壊滅となる。日本は開戦6カ月後の1942年6月5日、ミッドウェー沖海戦で連合艦隊が大打撃を受けた。

    同年8月7日、日本が守備していたガダルカナル島にアメリカ軍が上陸、両軍による凄惨な死闘が展開された。アメリカ軍は島の主要部を制圧、建設機械を使って一挙に飛行場を造成する。日本にはブルトーザーなるものはなく、誰も見たこともなかったろう。地慣らしといえば、「おかーちゃんのためなら、えーんやこーら」などとと悠長なことをやっていた時代である。

    これで戦争に勝てるワケもない。物資、物量、先進性、ともに圧倒的劣勢である。太平洋の小島の守備隊は孤立し、弾薬や食料の補給もないままに見捨てられ、多くの兵士が疫病にかかったり餓死したりした。日本は制空権を失い、アメリカ軍は太平洋の諸島を、「飛び石づたい」に北上して行く。同盟国イタリアでは、1943年7月のクーデターにてムッソリーニが失脚。

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    9月8日にはバドリオの新政権がすでにシシリー島に進出していた連合軍に無条件降伏した。徹底抗戦の構えを見せたドイツと日本に対し、連合軍も徹底的に戦う方針でいた。1944年6月6日、アメリカ、イギリス、カナダなどの連合軍は、フランス西北部のノルマンディに大規模な上陸作戦を敢行。8月24日、パリが連合軍に解放され、9月2日にはブリュッセルに侵攻する。

    9月12日、連合軍はアーヘン付近からドイツに侵入、ソ連軍も10月11日に東から旧ドイツ国境を超えた。1945年3月7日、西側連合軍はライン川を越え、東から進撃したソ連軍戦車隊はベルリン市外に突入した。25日、米ソ両軍はエルベ河畔のトルゴウで出会う。27日ムッソリーニがスイス国境に近いコモ湖畔でバルチザンに逮捕され、翌日銃殺されたあげく逆さに吊るされた。

    4月30日、ソ連軍包囲下のベルリンでヒトラーが愛人とともに自殺、他のナチス幹部は自殺、逃亡、連合軍に逮捕となる。5月7日・8日、ドイツ軍代表がフランス東北部のランスとベルリンで連合軍への無条件降伏文書に署名した。その頃日本では各地の主要都市が焼夷弾で焼野原になりつつあった。1944年、サイパン島上陸したアメリカ軍は、7月7日に日本軍を玉砕させる。

    この時、日本人居留民約1万人も自決する。多くの婦人や子どもが崖から海に身を投げた。8月10日には、グアム島が占領され、10月20日、勢いアメリカ軍はフィリピン群島中部のレイテ島に上陸する。マリアナ諸島の基地からはB29が連日日本に来襲し、その数は多い時で500機もの大編隊で日本を焦土にしていく様は、戦争というより虐殺に値する鬼畜の振る舞いである。

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    1945年硫黄島守備隊が玉砕、4月1日、沖縄本島に上陸した。6月23日、沖縄本島守備の日本軍主力が全滅した。沖縄での死者はアメリカ軍1万2520人、日本軍側の戦死者は、軍人9万4136人、沖縄県民の戦闘協力者の死者5万5246人、住民9万4754人とされている。日本軍以外の県民の死者総数は15万人に及んだ。また、地方出身兵・防衛隊員を含めると17万8228人となる。

    日本軍の首脳部は本土決戦辞さずを叫び、国民に覚悟と準備を要求した。明らかに無謀な発令だが、これが全体主義的思考である。藩主が死んで追い腹という発想は日本独自のものだろう。国民の老若男女に竹槍を持たせる指導者の狂気性を、今なら笑い話ろ一笑できるが、当時にそれはない。批判すれば非国民として牢獄だ。皆が同じ色に染まることこそ美徳であった。

    とはいうものの、明晰なる政府首脳は、終戦への模索を始める。サイパン玉砕後の1944年7月18日、東条内閣は閣内不一致で総辞職、7月22日、小磯国昭(陸軍大将)内閣が成立、かつて日独伊三国同盟に反対した米内光政が海軍大臣として入閣。1945年、近衛文麿は終戦を急ぐよう単独で天皇に上奏した。4月5日、小磯内閣が総辞職、4月7日、鈴木貫太郎内閣発足。

    鈴木は外相東郷茂徳にソ連への和平仲介を打診させた。7月10日、最高戦争指導会議は、近衛を終戦斡旋依頼特使としてソ連派遣を決定、ソ連に伝えたが拒否の回答を得る。というのも、スターリンは2月のヤルタ会談で対独戦終了後の対日参戦を密約していた。日本政府が米英との直接交渉を避け、ソ連に仲介を求めて拘泥したことが、結果的に終戦を遅らせ犠牲を拡大した。

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    現在起こることはリアルタイムで知ることになるが、過去は記録で知るしかない。幸い、過去の記録がさまざま残されており、戦前はおろか、戦国時代や飛鳥時代にを辿ることもできる。中国・漢代の文学者司馬遷が書き上げた『史記』は、百三十巻に及ぶ膨大な著作である。紀元前のことが記録されていて、数千年を経てそれを我々が目にできる至福の喜びであろう。

    知らずとも困らない、知らずとも日々の飯にありつけるわけだが、我々が同じ人間である先代の悲哀や喜怒を知ることは、少なくとも人間理解につながろう。自分の周囲の人間関係や出来事にしか興味がない人もいようが、それも人の生き方である。もっとも聖書なる書物を生き方の規範とする人もいるわけだし、自分のように聖書を『史記』と同じ文学作品と見る者もいる。

    歴史を紐解くことで知る真実に驚嘆もし、嘆きもするが、記録という真実に背くことはできない。さらには、歴史の中にある大きな誤解や信じ込んでいた虚実さえ正すことはできる。「正すことで何が得れるのか?」と問う者には分からない何かを得ることになる。自己満足といえばそうであるが、人は誰も食べたいものを食べ、乗りたい車にのり、着たいものを着る。

    これら一切が自己満足であるなら、他人の自己満足に無用な口出すをするものではなかろう。「ガラスの家に住む者は、他人に石を投げるな」という西洋の諺があるが、個人主義というのは、他者を尊重することである。しかるに集団主義とは、他者との違いを見つけてあげつらうことである。皆が一緒であるべきという考えは、一緒であるはずのない人間を朱に染めんとする。

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    染まる者もいれば染まらぬ者もいる。膨大なあらゆることを知ることなどできないが、1000あることの例え100でも200でも知ることは、時間と気力と知識欲があれば可能だ。個々が自身の余暇を何に使おうが、それが人の人生である。人は死んでないなら生きていることになるが、そうも言えない。生きながら死んでいる人もいるように、死んでなお生き続ける人もいる。

    われわれ凡人は、死んで生き続けることは出来ないが、せめて生きながら死んでいる人間にならないことは出来る。過去を生きることはもはやできないが、歴史を俯瞰することで歴史の中に存在することはできる。それが歴史を紐解く楽しさ、面白さであろうか。所詮100年足らずの人間の生を楽しむということは、やりたいことをやり、好きなことに生きることではないかと。

    100年、いや80年かも60年かも知れぬ人の生は非常に短い。しかも、その中の静かなる時間というのはあまりに少ない。どんな本でも興味のあるものなら、じっくりと、丁寧に、繰り返し読むのがいいと10代の頃に教わった。暇つぶしに手当たりしだいの読書は、頭をつかわない気晴らしである。それが講じて、頭を使わない気晴らしだけのものしか読めなくなってしまう。

    そのうち、読む力も失せることになる。「若い時は、理解しずらく面白さを感じられなくても、良書を選んで読みとおす癖をつけた方がいい」といわれたのは正しい事であるのが分かった。漱石は、「文学は人生そのもの」といったが、この言葉は誤解を招きやすい。文学作品に現れた人生は作者が心に描いた可能性としての、こうあって欲しい、あって欲しくない人生である。

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    文学は実人生というものではない。が、人間社会にはこんなこともあるのかと、今まで知ることもなく、気づかされなかったことに出会う。歴史も同じこと、文学はフィクション、歴史は真実という違いにある。歴史の体現者はその中に生き、文学に触れる者は、その作品を自身の人生そのものが如く取り組む作者の誠実さを見るなら、それは素晴らしい文学作品であろう。

    そうした条件を備えた文学作品を読むとき、我々はどういう影響をうけるのか?一言でいうなら、「生」に対する限りない渇望、興味、関心、利害感などをもつことになる。今がどんなに幸福な生活であれ、どんなに苦しく惨めな実生活にあえいでいる人であれ、今とは違う人生を生きんとする期待と気力を与えてくれるだろう。そのような本に結構巡り合った気がする。

    「女工哀史」や、「からゆきさん」など、生きている最後の瞬間まで生の好奇心を保ち、生きることに誠実なる女性の、人としての生き方の大切さ、立派さに心を奪われる人もいるだろう。実在とは球のようなもので、いたるところが中心である。南朝時代といえば古いが、その時代の学者北畠親房は、「天地の始まりは今日が始まり」といった。何とも象徴的な言葉である。

    今日がなければ明日はないのだから、我々の生きる1日1日を中心にとして、我々の過去と未来が闘っている。自分という人間が、過去にどれほど醜い行為をしたとし、どんなに惨めな欠点に満ちていたとしても、そんなことはなんでもないこと。実際はなんでもなくはないが、その過去を足がかり、手がかりに材料とし、深き心を持つ人間になろうと努力するならば、である。

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    そうした欠点を、「悪い」という意味はなくなり、むしろ「善い」意味となろう。事実は変わらなくても意味が変わる。意味が変わればおのずと考え方も生き方も変わる。歴史にもそういうものは当てはまる。過去の日本の悪しき材料を、あらため再利用することで、明るく住みよい日本にすることは、ひとえに政治家の仕事ではない。ろくな政治家がいないのも分かっている。

    われわれは、われわれの真理をもって邁進することだ。歴史を通じて様々な考えを宿し、良い社会を目指すことはできる。歴史に登場する非道なる悪人の成敗方法を学ぶこともできるのだ。項羽と劉邦などの歴史の中の人物に心を奪われたり、感銘を受けたり、しかるに歴史の証言者はみな同じ人間である。武に秀でる者が孤立し、情に厚き者が力を束ねるものかと…

    誰にでも危機はあろうし、誰にでも条件の悪い条件はある。が、全ては自分の人生である。種を撒こうが、撒かぬ種が降りかかろうが、己の責任と言い難いことに見舞われることもある。いかに理不尽とはいえ、それとて自分に降りかかる人生には変わりない。そうした悪条件を言い訳にし、前進と向上への努力を捨てる人間も少なくないが、それで人生が良くなるのか?

    歪んだ生活に陥った己に同情し、癒すだけなら、自分を尊敬などできないだろう。いかに辛い状況であれ、自らを大切にし、励まし、素直に粘り強くいれば、自らのその姿に尊敬の心を向けることができる。どんな人生であれ自らが背負うものだからであり、自分の人生すべてについて、自らが責任を取らねばと考えることが、人間の成熟さを示すものと考える。

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    人は成熟すべきである。言い訳で自身を免罪し、癒すのは子どもである。学生時代の秀才の愚かさを目の当たりにさせられた好例が、橋本健神戸市議の辞職願郵送である。彼が人前に出て堂々(?)会見したのは、嘘を言うためにであり、もはや嘘をいう必要も、嘘を嘘だと正される状況と悟ると逃げ惑う。学問はなぜに人間の「徳性」に寄与しないのだろうか?

    巷言われる、「挫折を知らないエリートは挫折に脆い」というが、ただの一度の失敗で鬱になるものもいる。それならまだしも、死を選択する者もいる。それくらいに他人の視線が自身に刺さるのだろう。成績という評価で生きてきた人間にとって、社会人としての評価は別の尺度でされるということに気づき、シフトさせなければならないのに、過去の栄光にしがらむ。

    8月29日、文科省の有識者会議は、国立大学の付属校が、「エリート化」し、本来の役割を十分に果たせていないとして、学力テストではなく、抽選で選ぶことなどを求める報告書をまとめた。報告書では、入学の際に学力テストを課さず、研究・実験校であることについて保護者の同意を得て、抽選で選考することや、学力テストが選考に占める割合を下げることを提案。

    さらには同じ国立大の付属校間で、これまで無試験で進学できる仕組みにも見直しの検討を求めた。文科省によると、国立大付属学校は現在、幼稚園49、小学校70、中学校71、高校15など計256校あり、約9万人が通っている。提言にいわれる、「本来の役割を果たせていない」とは具体的にどういうことをいうのか?これは付属校への批判から浮き彫りにされている。

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    エリート志向の親が我が子を国立大附属校に入れる目的がそのように定着したことに、そろそろメスを入れる必要に迫られているという、こんにちの附属校の現状である。医学部の附属病院が廃止等で取り沙汰されることはないが、それは高度専門職業人の育成に欠かせないからである。ところが、国立大教育学部の附属校には縮小や廃止の論議が出てくるようになった。

    批判の要因は種々あるが、識者会議で上がった一例として、「優秀な子どもを集めて行う進学受験校であるならば、あえて国立で行わなくても私学でできるのではないか」。ここの点は、私学と国立大附属校とは、明確に差別化をすべきである。我が子に入れ込む親を変革するのはできない以上、私学がそれを受け入れ、国立の附属校はエリート化を特価すべきでない。

    人が潜在的な力を発揮できるための要素として、「目的」というのは魔物であろう。その目的が本来の目的と乖離していることが国立大附属校の問題点である。歴史を辿れば国立大附属校は、明治期に設立された師範学校である。初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関とされ、教員養成機関の一つで、その原点に立ち返るという提言である。

    あらゆるジャンルにあらゆる歴史が存在する。附属校はあくまで教員養成校で、エリート養成校であってはならない。こんにちの複雑な子どもの社会に対応できる優秀な教員は、エリートである必要はない。いや、エリート先生は子どものパワーに押し潰されて休職を余儀なくされるといった脆弱教師が多い。抽選でも何でもいい、真に教職に向き合う人材が必要だ。

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    われわれは空腹の時も、満腹の時も苦しい。それならいつが楽しいのか?貧乏母さんが自分の分を切り詰めても我が子に盛る。そうした子育てにおいて、巣立ちの安心感は継続中の充実感には到底及ばぬと回想するようにである。やってるときこそ至福であるからやれるのだ。不思議な気もするが、それが「目的」という魔物であろう。確かに目的は人に力を与える。

    言い訳というのは面白いもので、言うのが癖の人はとことんいうが、言い訳をしない人は、言い訳をしないのが癖になっている。だから、口先まで出かかることもなくなる。(言い訳を)いってなんとかなると思うか、言い訳などいっても何の意味もない、足しにもならないと思うかの違いと分析する。言い訳に頼るか、頼らないか、この違いは人間の大きさにも寄与する。

    狭く低く小さな目標、近くて安全な目的(地)しかない人間は、遠く険しく危険の多いものは持ちたく無かろう。つまり、それが自身の能力を鍛え、発揮することにならず、何事も貧弱なままで止まっている。負けて言い訳するより、強くなろうと思うことがどれだけ大事かだが、おそらくそれがないからだ。強くなろう、なりたい人間に、言い訳はまったく必要性がない。

    自分を慰めて強くはならないと知る、それがプロ棋士の棋士たる所以である。彼らは永遠に強くなりたいと願うものだが、努力するかしないかは個々の差がある。高みを求めて厳しい暑さ寒さのなかで猛練習を重ねる運動部員やアスリートに思いを寄せるとき、彼らは彼らなりの辛さの中に幸福や喜びを感じ取ろうとしているようだ。それが彼らの一つの目的であるからだ。

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    安倍晋三首相は3日午前、トランプ米大統領と電話協議を行った。弾道ミサイルの発射や地下核実験を行った北朝鮮の情勢分析を行い、対応を協議した。北海道上空を通過する弾道ミサイルが発射された先月29日以降、30日に続く短期間での異例の電話協議となったが、「安倍ちゃん、ワシもう我慢できん。北を攻撃するで!」などと言い含められているなら由々しき事態だ。

    広島・長崎と二度の原爆被災した日本は、8月14日の御前会議においてポツダム宣言受諾が決定された。まもなく日本占領の連合軍最高司令長官に任命されたマッカーサーからの停戦指示が、スイス経由で日本に伝えられた。8月15日正午、天皇の声がラジオ放送を通じて全国に流されたが、録音や受信状態も悪いうえに独特な文体と音声から内容を理解できた国民は多くなかった。

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    8月16日午後4時、大本営の陸軍部と海軍部はそれぞれ全軍へ停戦命令を発した。軍人や国家主義者の一部には自決もあったが、全体的に大きな混乱や破壊行為はなかった。大多数の国民は、生命を投げうって戦うことを要求されていたが、突然の終戦に直面して茫然とするのみであった。天皇の裁断を得て降伏を決めた鈴木貫太郎内閣は、15日午後3時に総辞職した。

    8月17日、東久邇宮稔彦王の内閣が発足したが、皇族に組閣させたのは、降伏及び占領に対する軍の抵抗を抑える配慮であったろう。8月28日、アメリカ軍先発部隊150人が厚木の海軍航空隊基地に到着。8月30日、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの乗機が、沖縄の嘉手納飛行場から厚木へ飛来した。9月2日、横須賀沖の戦艦ミズーリの甲板で降伏文書署名が行われた。

    日本側は外相重光葵と陸軍参謀総長梅津美治郎、連合国側はマッカーサーの他、アメリカ、中国(国民党政権)、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表が署名した。高校で日本史を選択していた自分は、連合軍でありながら日本がアメリカ一国に単独占領されたことに疑問を抱くも、関係する書物を読むことはなかった。

    連合国といっても実質日本を打倒したのは直接にはアメリカ軍であった。中国国民は大戦前の日中戦争で日本の侵略を行き詰まらせたが、中国戦線自体では決着をつけられなかった。イギリス・英連邦諸国は初期大敗で戦力を失い、アジア戦線ではインド以西とオーストラリア、ニュージーランドを保持したに過ぎず、ソ連は日本の降伏直前に参戦したに過ぎない。

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    など、日本と戦ったのはアメリカ以外に、中国、英国、オランダ、オーストラリア、ソ連などだが、日本と戦って勝利を収めたのは100%アメリカの力であり、日本をアメリカだけが統治するとしても文句を言える国はなかったといえる。また、日本をソ連と分割統治するなどとトルーマンが言おうものなら、多くの血を流したアメリカ国民から袋叩きに合っていただろう。

    マッカーサーは戦後、ソ連が進駐するのを断固拒否していたが、日本の分割統治計画は存在した。第二次世界大戦でドイツが降伏後に、米・英・ソ・仏 4 カ国に分割統治されたように本土決戦後の日本も、北海道・本州・九州・四国を連合国それぞれが統治する計画である。日本が明治以降、「暴力的に獲得した地域」を連合国によって分割する方針は大戦中から打ち出していた。

    これら占領地域には日本が内地とした地域もあり、その点で言えば、日本領土は史実的に分割されている。しかし、本土決戦が回避されたことで、上記以外の日本本土を構成する、北海道・本州・四国・九州及び付属の島々は、連合国軍最高司令官総司令部(通称GHQ、 実質は米国)によって、 1952年まで統一した占領統治下におかれて分割されることはなかった。

    日本分割占領案については戦時中の早い段階から連合軍将兵にも伝わっており、中華民国軍兵士の証言では、ルーズベルトが中国軍を日本占領統治に参加させることを決定したとの話が兵士たちの間に伝わると、多くの中国軍兵士がこれを喜び、日本に上陸した際にどのような行動をとるかについて話し合っていた。中国領土を侵略していた日本へのただならぬ憎悪であろう。

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    結果をいえば、日本はアメリカ一国の単独占領で良かったことになる。第二次大戦後に分断国家となった国は、東西ドイツ、韓国北朝鮮、南北ベトナムの三地域がある。ベトナムは共産主義者のホーチミンが独立を宣言したが、フランスがそれを認めず南北に分断された。朝鮮半島もソ連寄りの金日成と米国内で反日運動を行っていた李承晩の対立が解けず分断国家となる。

    ドイツは、ソ連と英米軍が東西から挟み撃ちにして占領した。両軍とも占領地を自分達が統治することを主張できるだけの十分な血を流していたからである。日本降伏直前に参戦したソ連の弱みもあって、日本占領の主導権をアメリカが掌握するのは当然であった。が、連合国全体が対日戦争の当事者とされたなら、アメリカは日本の戦後処理の調整問題に直面したであろう。

    ソ連政府は対日参戦後戦勝国の自負としてアメリカに対し、日本占領連合軍最高司令官をアメリカとソ連の2国から選出とすることを求めており、領土問題としては、南樺太、千島列島、北海道の北半分をソ連軍に占領させることを要求した。それらもあってか、統合参謀本部が8月16日に策定した日本分割占領計画案では、北海道と東北地方がソ連占領地区に予定されていた。

    日本分割占領が実行されていたら、北海道・東北および、中国支配の四国地域は共産圏となっていたろうし、返す返すもアメリカ一国占領で正解であった。実際ドイツにおいては1945年5月の降伏後、米英仏ソの分割占領が実施されたが、すでに、米英仏三国とソ連の対立は深刻化しつつあった。そうした苦い経験もあってか、アメリカ政府は日本占領計画を急遽手直しした。

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    トルーマン大統領は8月18日の段階でロシア案を黙殺、日本占領をアメリカ人のみの連合国軍最高司令官のもとで一括占領とすることを承認し、この方針はソ連にも通告された。それによってアメリカ側は、日本全土は勿論、千島列島主要地域はアメリカ軍が進駐して日本軍の武装解除に当たる方針であったが、スターリンはすぐに手を打ち、千島列島全域にソ連軍を進駐させた。

    さらにソ連は、満州、朝鮮の北緯38度線以北、南樺太、千島列島を占領してしまい、これらの地域で武装解除された日本人兵士たちはシベリアへ連れ去られ、長期にわたる過酷な強制労働を強いられ、数万人が死亡した。終戦前の1943年に開かれたカイロ会談ではアメリカの F.ルーズベルト、イギリスのチャーチルおよび中華民国の蒋介石は最終日に、「カイロ宣言」に署名した。

    これによると、日本降伏後の挑戦独立を約束しているが、手順は何も決められていなかった。満州の日本軍が崩壊した後、ソ連軍が容易に朝鮮全土を占領する可能性があったことで、アメリカ軍はソ連軍の行動を阻止するため、38度線以南をアメリカ軍が占領し、以北をソ連軍に委ねる方針を急遽決定した。戦後のどさくさにまぎれた大国の虚々実々の応酬である。

    ソ連に占領された千島とアメリカの軍政下におかれた沖縄、奄美、小笠原を別として、日本本土の分割占領は回避されたのは幸便である。アメリカは当初日本本土にも軍政を予定していたが、日本の要請を受け入れてGHQの間接統治方式を変更した理由は、日本が天皇制を破壊されることを怖れ、東久邇宮内閣の重光外務大臣が先頭になって軍政撤回を求めた結果である。

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    天皇を温存するというマッカーサーの判断は賢明で、日本国民はおとなしく指示に従い、復興に汗を流した。軍隊は解散させられたが日本の国内統治機構は完璧で、手間を掛けて新たな組織で直接統治する必要はなく、国内統治機構のトップを押さえていればよかった。アメリカ軍は日本で流通させる軍票を用意していたが、日銀券が引き続き通貨として使用された。

    アメリカ政府はアメリカ軍による一括占領体制を確定したうえで、他の連合国にも日本国内へ軍隊派遣を要請したがソ連は拒否を回答した。中国の国民党政府は、共産党勢力との内戦を推進する構えであり、日本へ派兵どころではなかった。そうした事情もあって、日本に進駐したのは英連邦軍(オーストラリア軍)のみであったが、兵力は少なく形だけといえるものだった。

    アメリカ軍は占領初期に約40万もの兵力を日本に進駐させたが、終戦とともにアメリカ国内や軍内部で復員要求が高まり、占領軍兵力の削減を強いられるのは在日米軍幹部にとって占領体制維持に不安があった。日本占領は事実上アメリカ単独となったが、他の連合軍の要求をまったく無視するわけにもいかず、英ソ中三国に対し、「極東諮問委員会」の設置を提案する。

    諮問では不服とばかりに政策委員会としての、「極東委員会」を1945年12月、モスクワの米英ソ三国外相会談で決定を見る。参加はアメリカ、イギリス、ソ連、中国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、オランダ、フィリピンの11か国で構成されワシントンに設置された。ただし当委員会は他国が異議を唱えても、アメリカは拒否権を行使できる仕組みになっていた。

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    極東の戦後処理に関して連合国の間には考えの相違が存在した。太平洋戦争を主導し、日本占領を実行したアメリカ政府の政策は、当初はあまりに理想主義的であり、楽観的であったのは否めない。連合国の行動に示された一つの大きな動きは何より秩序の回復であり、これを巡って連合国の対立および抗争の激化に直面したアメリカは、大きな修正をする必要があった。

    というのも、ヨーロッパにおけるドイツと同様、アジアにおける日本は旧秩序の破壊者という認識であり、連合国の対日戦争は破壊行動をとった日本を処罰して、旧秩序を再建するという性格をもっていたが、アメリカとヨーロッパ諸国の旧秩序の再建というのは性格が違った。旧植民地を日本に奪われた英・仏・蘭にとって旧秩序の回復とは、植民地体制の復活を意味した。

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    戦後、チャーチルは『大西洋憲章』でルーズベルトに、「既存の利益の尊重」の一句を挿入させたのも、植民地帝国の存続を図る意図からである。アメリカもスペイン戦争の結果としてフィリピンを買い取って領有していたが、マクダフィー法によって1946年にフィリピンを独立させる約束をしたように、アメリカは植民地支配体制は高コスト低利益を感じ取っていた。

    フィリピンは1946年7月4日に独立を果たす。インドネシアではオランダ支配復活反対の義勇兵らによる独立戦争を経て1949年12月27日、独立が承認された。インドシナ半島ではフランス支配反対の独立戦争が起こり、ベトナムでは共産主義者ホー・チ・ミン指導のベトナム独立同盟が抗仏戦争を展開した。植民地体制に批判的なアメリカも民族が共産主義下に組み入れられるのを警戒した。

    戦後のアメリカによる対日政策は周到に準備されていたが、上記したように現実には多くの不備を免れなかった最大の理由はアメリカで極東のことはよく知られておらず、専門家も少なかったこと。日本の降伏が予想よりも早く、準備が不十分のまま占領の局面を迎えたことが原因である。さらには、政府や軍の首脳部の関心は、ヨーロッパとくにドイツの処理に集中したこともある。

    日本の戦後処理を託されGHQは独自の動きを示し、必ずしもワシントンの思うようには行動していなかった。マッカーサーや彼の参謀たちは極東委員会や対日理事会の介入を嫌い、他の連合国の意向を考慮せざるを得ないアメリカ国務省の介入すら嫌った。日本に関する有知識者の意見も分かれており、現場で様々な日本人と接触するマッカーサーにも独自の日本人観が芽生えた。

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    無条件降伏をした日本を敗北させ、戦禍をもたらした責任者としての天皇を処罰すべきという強硬な世論がアメリカ国民や一部の知識者にあったが、勤勉で素朴で良心的な日本人に直に触れ、天皇と直に向き合ったマッカーサーをして親日家にならざるを得ない天皇の言葉があった。9月27日、昭和天皇はマッカーサーに会うために通訳一人だけを連れてアメリカ大使館公邸を訪れた。

    昭和天皇からの訪問の意向を聞いたマッカーサーの脳裏には、彼が第一大戦直後に占領軍として父に伴ってドイツへ進駐した時に、敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が占領軍の元を訪れていたときのことなどが過っていた。その時カイゼル皇帝は、「戦争は国民が勝手にやったことで自分には責任がない。したがって自分の命だけは助けてほしい。」と命乞いを申し出たのだった。

    昭和天皇からも同じような命乞いを予想していたマッカーサーは、パイプを口にくわえたままソファーから立とうともしなかった。椅子に座って背もたれに体を預け、足を組み、マドロスパイプを咥えた横柄な姿は、あからさまに昭和天皇を見下していた。そんなマッカーサーの前に歩み出た昭和天皇は、直立不動のまま国際儀礼としての挨拶をした後に自身の進退について述べた。

    「日本国天皇は私であります。この度の戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろん、いかなる極刑に処されても応ずる覚悟があります。しかしながら、罪なき8000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。

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    温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますよう」。昭和天皇から発せられた誠実な言葉にマッカーサーは驚いた。彼は、昭和天皇が命乞いにくると考えていたからだろう。自らの命と引き換えに自国民を救おうとした国王など、世界の歴史上に存在しただろうかと…。マッカーサーは咥えていたマドロスパイプを机に置き、椅子から立ち上がった。

    マッカーサーは一転し、まるで一臣下のように掛けて昭和天皇の前に立ち、そこで直立不動の姿勢をとったという。マッカーサーは後にこの時の感動を、『回想記』にこう記している。「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士であると思った」。

    この2日前の9月25日、ワシントン発AP電は次のように述べていた。「日本国民による民主主義革命の可能性は期待薄であり、少なくとも最初のうちは、真の変革への最初の原動力がマッカーサー元帥によって与えられねばならぬことを明蝶にしている」。GHQは9月11日、リストアップしていた、「戦争犯罪人容疑者」の最初の発表を行い、A級戦犯容疑者38人の逮捕を命じた。

    ソ連やオーストラリアは天皇を有罪と主張したが、アメリカは国務次官であり、元駐日大使であったジョゼフ・C・グルーの政府への説得があった。グルーは、天皇やその側近たちが英国風民主的立憲政治を希望していたにもかかわらず、軍部の暴走により挫折したと考えており、天皇制の存続を認め資本主義経済の復興と発展を目指す方がアメリカにも好ましいと主張した。

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    マッカーサーの天皇観とアメリカの国益は、天皇を戦争犯罪人とすることではなかった。大日本帝国憲法下にあって、「勅令」は緊急事態その他の理由にもとづき、議会で成立した法律にはやらず、天皇の命令として公布・施行されるもので、御前会議席上において、「空気」という日本人的なものに抗えなかった天皇に、戦争責任の有無は見解の相違といわざるを得ない。

    日本人は押しなべて、「あの時は反対できなかった空気であった」とか、「あの時はあのように言わざるを得なかった」という言葉を好むが、孤立を避けて敵を作らずの処世術であり、他人を見て暮らすという、いかにも日本的なもの。天皇には主体性がなかったのではなく、軍部の、「空気」を読むことで使命を果たしていた。それが日本破壊の根本原因であることにせよ…

    「周囲とズレている」と名指しされる発言が正しい場合は、周囲がズレているのであって、そういう事は山ほど経験したが、「空気を読めよ!」という言い方で全体の和を図ろうとするズレた日本人は多い。誰が誰に与するとか、しないとか、市井の様々な場においてもそれらが人間関係の重要なファクターになる。日本人の思索とはそういうところから生まれるものである。

    が、それが思索といえるのか?神や天皇をどのように絶対化しようとも、いかに絶対化しているように見える言葉であろうとも、一切は相対化されうるものであり、相対化されねばならない。人間が口にする言葉には、「絶対」といえる言葉は皆無であることを前提にするなら、人が口にする命題はすべて対立概念で把握でき、また把握しなければならないと自分は考える。

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    人は言葉を支配できず、逆に言葉に支配されて自由を失うことになる。意志を大事にすることは言葉を大事にすることであり、その逆もまたしかり。自分が決めて言い聞かせていることはたとえいかなることがあっても、「あのときはああ言わざるを得なかった」、「あの状況では自分の本心は言えなかった」という言葉は絶対に口にしない。たとえ空気に与したとしてもである。

    空気に与したということは、それが自分の意思の反映でなくとも、意思とみなすことだから、卑怯にも後になって、「あの時はああ言わざるを得なかった」とは、口が裂けても言わない。戦前の天皇制とは責任論の及ぶ、及ばないを超えた、まさに、「空気支配」の体制である。象徴天皇になった憲法下においては、御前会議もなく重要案件を天皇に問うことはない。

    昭和天皇とマッカーサーの35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇を見る目も応対する態度は変わっていた。わさわざ予定を変更して自ら昭和天皇を玄関まで送った。これは最大の敬意の表れであろう。アメリカ政府はマッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請したが、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」とマッカーサーは回答している。

    その後マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、11回に渡って会談した。1964年、84歳で他界したマッカーサーであるが、昭和天皇は後に戦争について語る時も、マッカーサーとの会談について、「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と、生涯語ることはなかった。



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    「故きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」とある。他人の師ならずとも自を自の師とすればいいこと。「温ねる」の、「温」には、「温める」の意味もあり、「故きを温めて」と読む説もあるが、「温ねて」が一般化している。太平洋戦争が始まったのは、真珠湾攻撃という奇襲を仕掛けた日本が加害者。そうした自国を過度に悪くみなす歴史観を自虐史観という。

    日本の歴史教育の自虐史観は、いわゆる、「東京裁判史観」に一致を見るが、明治~昭和30年ころまでの戦前・戦中・戦後までの歴史観は、完全にアメリカによる洗脳教育が混入し、「日本人は世界の汚物」的な内容になってる。「負ければ賊軍」は致し方ないにしても、マッカーサーのように日本に駐在し、日本人と触れ合い、日本人を理解した明晰な人間もいた。

    歴史的事実は、「正確」に後世に伝え、日本人としての愛国心とか道徳心を育てなければならないが、我が国の歴史教育というのは、学問的検証に堪え得る歴史事実を教えるのではなく、我が国が戦前近隣諸国に行った、加害行為を教えることで子どもたちに贖罪意識を植え付け、彼らが我が国の立場でなく、近隣諸国の立場にたった政治判断を行うための、政治教育と化した。

    教科書記述の主導権が近隣諸国に握られることになったのは、1980年の鈴木善幸内閣に問題があった。それが1982年の、「教科書誤報事件」。同年6月下旬、文部省の検定によって日本の華北への、「侵略」が、「進出」に書き換えられたとマスコミが一斉に報じた。中国と韓国はこの報道をもとに抗議をしてきたが、「侵略」を、「進出」に換えた事実はなかった。

    ようするにマスコミの誤報であった。時の鈴木内閣官房長官宮沢喜一は、9月に鈴木首相の訪中を控えていることもあって、「政府の責任で教科書の記述を是正する」、「献呈基準を改め、近隣諸国との友好・親善に配慮する」との談話を発表する。そしてこの宮沢談話に基づいて同年11月、教科書検定基準に新たな項目が追加された。これが、「近隣諸国条項」である。

    そこには、「近隣諸国のアジア諸国との間の近現代史の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から、必要な配慮がなされていること」と規定されることになった。この一見穏当な検定基準こそ、我が国の検定教科書執筆の主導権を、近隣諸国に譲り渡すものであった。これはもう、近隣諸国の言い分に唯々諾々従うということ以外のなにものでない。

    中国以上に露骨なのは韓国に関わる記述についての検定基準であった。詳細は省くが、「韓国側からの意見に関わる具体的事項についての検定方針」として、これまで検定意見を付してきた事項について7項目あったものすべてが、「検定意見を付さない」とすることを押し付けてきた。これは重要なことであるが、これも韓国の言い分に同意したのである。

    「検定意見を付さない」とされた記述はどういうことであるかといえば、こんにちの歴史学における学問水準からすれば、「事実」として明らかに間違いであるものも含まれるということで、もはやこれは歴史観の相違というレベルの問題ではなかろう。中国・韓国に関する教科書の記述は、両国から意を受けた執筆者にとって、まったくもって好きなように書き放題となる。

    こうして日本の学校教育における自虐史観教育というのは、他国から強制されたものに等しく、一度たりともそれを容認した以上、今後も未来永劫変わることなく続いていくことになる。戦国時代も幕末も良いが、個々の日本人は学校教育のみに囚われることなく、近代史について独自の認識を持つべきである。そうした気持ちもあって、「日本の戦中・戦後」を書き始めた。

    一昨日トランプ大統領が、「韓国は物乞いのようだ」と発したが、それを一番感じているのが日本だろう。が、「韓国人はしつこい乞食」など誰もいわない。日本人は韓国と事を荒立てないよう気を遣い遠慮をするが、それが韓国人にとってはヘタレにみえるのだろう。韓国人に下手にでてもバカ見るだけなのは分かっているはずだがどうしてもいい人を演じてしまう。

    「教科書誤報事件」のときに鈴木内閣は、報道の精査に努めたり、同じ歴史事象であれ、国によって見方が異なるという当然と言えば当然、当たり前といえばこれほど当たり前の歴史観を疎かにし、もっぱら、「近隣諸国との友好・親善」に配慮したことが問題だった。何とも情けないが、これも日本がアジアの一員であるとの自画像の錯誤が招いた悲劇であろう。

    相手が謙れば胸を反らすが如く旧三国人どもは、「新しい歴史教科書」検定合格本について35項目の修正要求をした韓国、8項目要求の中国、北朝鮮当局も22項目に批判要求を突き付けた。問題の根本は、「教科書誤報事件」以前の長きにわたって教科書記述の主導権を近隣諸国に譲り渡していたことだが、鈴木内閣の中韓朝の修正要求に対する対応の不味さもあった。

    というのも中韓朝の修正要求項目は、とても学問的批判には程遠い稚拙のものであって、検定に合格した教科書であるからと毅然と無視をすればいいものを、中韓朝に配慮して政府が各自治体に本教科書採択を抑えるよう、「行政指導」を行ったのではないかとされている。「新しい歴史教科書を作る会」の前会長西尾幹二氏は、『文藝春秋』12月特別号で以下述べている。

    「不思議なのは当教科書の採択がほぼゼロパーセントとなった8月半ばに、中韓両国政府から、『日本国民の良識の表れ』と満足とお褒めの言葉がかけられたことである。あれほど激しく燃え上がっていた反日キャンペーンのえげつない行動は、この頃を境にたちまち鳴りをひそめた。両国政府との間に手打ちのための外交ルートを通じた何らかの黙約、秘密の妥協策が図られていたと考える。

    日本政府は教科書の修正は(検定が通っているので)もはやできないが、その代わりに採択させないよう方策を講じるから、その結果を見て欲しいと…」。西尾氏は、「あくまで推察」と断りを入れながらの論文であるが、いくつかの納得のいく根拠を挙げながら、「扶桑社版の採択を抑えるようにとの日本政府の『行政指導』があったと信じている」とやるせなき無念を記す。

    本音と建前を信条とする日本人ならやりかねないことだ。150人にも及ぶ我が同胞を拉致し、我が領空に向けてミサイルを撃ち放つような正真正銘のテロ国家北朝鮮との対テロ戦争についても、アメリカの同盟国として対米支援を行うことはもちろんであるけれども、それはアメリカのためではなく、あくまで我が国の国益の立場から行うという思考がこの国にあるのか?

    日本はアメリカ軍駐留に多大な経費を支出しており、アメリカが日本に役立っている間はともかく同盟の絆は大事にすべきである。またアメリカの要求による自衛隊派遣などの国際貢献においても、これらはアメリカに身を委ねるためではない。一方では対米協力はするが、他方で我が国は自らの力で自国の安全を守ることができる体制を整えて行く必要があろう。

    頼っている以上は足元を見られるのは当たり前だし、歴史教科書問題にしろ中韓朝に対して臣従すれば足元を見られてしまうのは自明。依存や従属を止めて真の独立国家に生まれ変わるためには、強いリーダーが必要だが、そうした逞しい人間が出現すると罠をかけられ、潰されてしまう。日中国交回復を独断でやった田中角栄が、ロッキード事件で失脚したように。

    角栄の娘の眞紀子は、父の功績もあって表向きは中国の功労者扱いだが、実態は中国の犬であった。小泉内閣外相時代、ハノイで行われた日中外相会議の席で唐家璇外相から、「靖国神社参拝は止めなさい」と厳命されて反論するどころか、小泉首相にも参拝を止めるよう説得すると述べたという。彼女は過去の人だが美人でないことで不倫などの浮いた話はなかった。

    多少ジョークを交えていえば、政治家の美人立候補者は票が集まり当選しやすいが止めた方がよい。不細工立候補者の方が、仕事に汗を流し不倫はやらない。「不倫の需要がない」が正しい。現職議員の誰とはいわぬが、美人議員は下半身の需要があるから困る。醜い女にはハンカチをかぶせて…という方法もあるが、尻軽美人女ならそれに越したことはなかろう。

    下世話な話だが、最近は政治家にしろ芸能人にしろ不倫が目立つようだが、そうではなくて実は週刊誌の功績(?)であって、男女の下半身話は一年中発情期の人間にとって何ら珍しいことではなく、表沙汰にならなかっただけである。「隣の芝は青い」という。人さまのものはなんでも良く見えるから、つい覗いてみたくもなろう。自制しなければ当たり前の感情である。

    だから陰にかくれてコソコソやるが、それを暴きたてる商売がのし上がってきたということだ。「隣は何をする人ぞ」という。つい覗いてみたくもなろうし、これも当たり前の人間心理である。自制心があるからしないだけで、商売とはいえやって見せてくれるメディアがあるわけだ。こうしたものは当初は批判もあったが、緩んだ人間の自制心を引き締めるという公益性はあろう。

    有能とされたな国会議員が下半身ごときで職を失う下世話な事実も歴史である。曽根崎心中も坂田山心中も列記とした男女の歴史であるように、一国の政党幹事長候補が不倫疑惑で即日離党するなど、信じがたいほどにマヌケな話だが、若いツバメに入れ込む元検事の才媛議員の実態が、斯くも白日に晒されたのは真実のむごさとはいえ、歴史に汚名を刻むことになる。


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    1945年10月4日、マッカーサーは東久邇宮内閣の国務相近衛文麿と面接、次の2点を強調した。①憲法を改正して自由主義的要素を取り入れる必要がある。②現在の反動的な議会を一新するために婦人の参政権を認め、労働者の権利を認める。東久邇宮内閣は翌日5日総辞職し、近衛は閣僚ではなくなったが、マッカーサーは近衛個人に憲法改正気運を抱かせるように働きかけた。

    近衛は内大臣木戸幸一と相談し、自分を内大臣付誤用係に任命させ、京都帝国大学名誉教授佐々木惣一らに憲法改正案の起草を委嘱した。しかし近衛は12月6日、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定した。近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、青酸カリを服毒して自殺した。

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    自殺の前日、近衛は次男の通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残したが、この遺書は翌日にGHQにより没収された。近衛が戦犯で裁かれることになったことで、GHQはマッカーサーが近衛に憲法改正に尽力を求めたという事実を公式に否認した。

    マッカーサーは憲法改正を急がなければならない理由があった。オーストラリア、ソ連、中国などを中心に天皇の戦争責任追及の動きがあり、それはアメリカ国内にもあったからだ。GHQは近衛や幣原首相らに憲法改正の必要を示唆した後、動向を見守っていたが、近衛の作業を幣原内閣は認めず、近衛が戦犯となった際にGHQは近衛と無関係を装わざるを得なかった。

    幣原内閣は国務相の松本烝治を主務大臣とした「憲法問題調査委員会」を発足させ1945年10月27日から46年2月2日までの間に22回の会合を重ね、2月4日にGHQ宛に英訳の要綱の提出をするもGHQ側は満足のいくものではなく、松本委員会に改正案を督促で命じたが、秘かに自らの手になる新憲法草案を、2月3日より書き上げに着手、2月10日には草案を完成させたていた。

    松本委員会試案の要綱の提出は2月8日であったから、その時はすでにGHQはまったく別の、独自の新憲法草案を用意していたことになる。1946年2月13日、弁護士で法学博士のホイットニー准将、法律家のケーデス大佐らGHQ民生局のスタッフは、外相官邸で吉田外相、松本国務相らと会見した。この様子はNHKの『日本の戦後』と題する番組で1977年5月29日に放映された。


    「サンルームの二時間 憲法GHQ案の衝撃」と題された番組は衝撃的で、発売されたばかりの家庭用ホームビデオで初めて録画した番組であった。ありし日の父と何度か観たことを懐かしく思い出す。ホイットニーらは、マッカーサーが松本試案は承認できないと語ったと述べ、GHQ側の草案を手渡した。まったく予期もしていず、吉田茂も松本蒸一の衝撃はいかばかり…

    このときGHQ側は、有無を言わせぬ強い姿勢で迫り、日本側の憲法改正案はこの草案を土台に作成すべしと日本側に伝えた。幣原内閣はGHQ草案を閣議決定し、折衝後に若干の修正を加えただけで3月6日に、「憲法改正案要綱」として発表された。文体がいかにも翻訳調であり、前回の松本試案と大きく異なることから、米側の押し付けという疑惑が避けられなかった。

    日本政府は自主的提案と面子を保ち、真相は秘匿された。草案は、旧憲法の改正手続きに従い、枢密院の審議・可決(6月8日)を経て、6月20日に衆議院に提出された。衆議院では翻訳調の文言に修正を加え、8月24日に可決後貴族院に送られた。貴族院でも語句が修正され再び衆議院に戻され10月7日の帝国議会で可決・成立した。枢密院本会議が10月29日にそれを可決、11月3日に公布となる。

    新憲法は1947年5月3日に施行となり、これを記念として翌1948年に公布・施行された祝日法により、5月3日を憲法記念日と制定された。参議院では公布日の、「11月3日」とする意見が多かったが、日本国憲法の公布日である11月3日は、文化の日とされている。自国の憲法は自国民によって制定されるべきものであるが、日本国憲法は他国による押し付けなのか、どうなのか?

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    GHQに憲法案を作成する権限はなく、権限は極東委員会にある。極東委員会の定款第2項に、「極東委員会及び連合国日本理事会」とあり、「合衆国政府の任務の第3節」には、「但し日本の憲政機構、若くは管理制度の根本的変更を規定し、又は全体としての日本政府の変更を規定する指令は、極東委員会の協議及び合意の達成のあった後に於てのみ発せられるべきである」とある。

    マッカーサーが、なりふり構わず短期間に憲法案作成を急がせ日本政府に提示したのは、2月26日の極東委員会第1回会議までになんとか既成事実を作りたかったからであった。昭和天皇を裁判にかけて天皇制を廃止すべしとする国々を含む極東委員会が、昭和天皇を裁判にかけて、「天皇制」の廃止が決定となれば、マッカーサーといえども従わざるを得ない。

    マッカーサーは、「天皇制」を残すべきと判断していたから、極東委員会が上記決定がなされる前に、「象徴天皇」という形をとり、民主主義の憲法案を急いでつくらせ、それを日本政府に受け入れるよう迫ったのが正確な歴史認識であるが、介入があったのは事実であり、しかもこの時の介入自体が押し付けと言わないというのは、いかなる事由にしても無理がある。

    日本の国会などで憲法改正が審議されている間、ワシントンの極東委員会では予想どおり、他の連合国代表が東京における情勢に疑念を表明し、調査のための係官の派遣を決議し、憲法改正の再検討を要求したりした。これに対してマッカーサーとGHQは、日本の自主的選択であると主張しつづけ、平和と民主主義と自由を選んだ日本国民を歓迎するとの態度を表明した。

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    新しい、「日本国憲法」の最大の特徴は、象徴天皇制と戦争放棄であろう。天皇は、「日本国の象徴」、「日本国民統合の象徴」とされ、その地位は主権たる日本国民の総意にもとづくと規定された。天皇は国家行事としての儀式に関与するだけで、実質的な政治権力は何ももたないことが明確にされた。旧憲法下では立憲君主性が志向されたが、統治権は天皇にあるとされた。

    したがって内閣は議会にではなく天皇に責任を負い、軍に対する統帥権は内閣からさえ独立にして天皇が保有する形式になっていた。こうした統帥権の規定は1930年代に、軍が政府を揺さぶる道具に使われることになった。新憲法では形式上は君主制だが、実質は共和制に近い政治形態を採用し、国家権力の最高機関は立法府の国会であることが規定されている。

    天皇制を残すことで大統領制の提案は採用されず、行政府の組織として議院内閣制を採用した。新憲法の第二の目玉は、戦争放棄と非武装宣言である。第9条は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と述べ、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と規定した。

    独立国においてこのような大胆な非武装規定は、1946年2月2日のマッカーサー・ノートによって指示されたが、そのアイデアはそれに先立つ1月24日のマッカーサー・幣原会談で生まれたとされる。どちら側からの発想であるか不明だが、深刻な戦争を体験した日本側の反省と、日本軍国主義再起の可能性を完全に除去したいアメリカ側の要求がアイデアに結晶したとみる。

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    ただし、第9条の規定には審議の過程で重要な修正が加えられた。憲法草案を審議した衆議院特別委員会は、芦田委員長の発案で第9条第2項に、「前項の目的を達するため」という文句を挿入した。この部分は一般的に、「戦争放棄いう方針を堅持するため武力は持たない」という意味に読まれる。が、無理をすれば、「国際紛争解決の手段として用いる武力は持たないと読める。

    裏返せば、「この目的以外の武力は持ちうる」と読めないことはない。提案者の芦田の胸中は、「自衛のための戦争と武力行使は放棄されたのではない」という事を暗に表現する意図であったとされている。GHQのスタッフは当然に修正の意図をそのように理解し、将来の日本再軍備を可能にするかもしれないということを感じ取り、しかもそれを黙認した恰好である。

    彼らは、すでに日本の永久非武装は現実的でないと判断しつつも、大人の対応をしたのである。分かっていながらも、子どもをあやせるのが真の大人であるということだ。ところが極東委員会は、新たな日本側の修正による、日本再軍備の可能性を問題とし、ソ連、中国、オーストラリアの代表がアメリカ代表を追及したことで、GHQは憲法草案に新たな文章を挿入させた。

    「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」(第66条第2項)という規定で、これにより極東委員会は右の修正を含む憲法草案を承認した。難産といえば難産だがGHQの手際の良さも見事である。芦田の意図がどうであれ、国防軍を持つことを合憲と公言するのは法文として無理があり、第9条を非武装規定と理解し受容した国民感情は無視はできなかった。

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    新憲法の第三の特徴は、「人権と自由」の理念の確立であろう。旧憲法は、天皇主権の原則と民権の主張の折衷であり、「信教」、「表現」、「集会」、「結社」の自由をどのようにうたったとしても、「法律ノ範囲内ニ於テ」とか、「臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」とかの条件が付せられた。よって現実には、これらの自由は著しく制限されていたことになる。

    警察官あるいは特高警察による人権の侵害や逮捕・監禁・拷問などが日常的に行われ、共産主義者などの体制批判者は激しく処罰されたり迫害を受けた。なお、戦時体制下における抑制と弾圧はうつにも増して極度に達していた。さらには、華族制度という名の身分制度が維持され、家父長制が法制上も守られるなど、男尊女卑思想などや男女差別も大きいものだった。

    新憲法ははじめて、「基本的人権は、侵すことのできない永久の権利」であると繰り替えし宣言し(第1条、第97条)、その保障の方法を詳細に規定することによって、戦前の体制の再現を防ごうとした意味において、1776年のアメリカ独立革命や1789年のフランス革命でうたわれた人権の保障を、ようやく20世紀の半ばになって日本に持ち込んだものといえるだろう。

    さらには人権と自由という一般的保障に加えて、あらたな社会的権利の保障を盛り込んだことも特徴である。さらには財閥解体と独占禁止政策、農地解放、教育制度にもGHQの意向が反映された。こうして日本はアメリカを手本にして、近代民主主義政策へと移行し、こんにちの繁栄と安全を手にした。といえばアメリカ様様のようだが、互いの利害の一致もあった。

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    物事は良くも悪くも解釈できる。どちらが正しいかというより、どちらも正しく、どちらも間違いである。ボブ・ディランの『時代は変わる』の歌詞に示されているように、時間の流れによって物事は変えられて行く。マッカーサーが我々にかけた催眠術は、「日本が独立を自らの手で守ろうなどは余計なこと。お前の国のほどほどの幸せはアメリカが保障してやる」であった。

    アメリカげの他者信頼と他者依存を理想とする精神から、「この国」の歴史を見てしまうから、戦後の日本では、「自力」と「独立」と「生存」を維持しようとした戦前の、「わが国」の歴史は野蛮なものだとなってしまう。実は日本が明治開国後に、国際社会において主張し続けたのは、「人種平等」であった。しかも、白人優位主義に対して決して諦めることはなかった。

    先の戦争はその口火を切り、大きな災いとしてのは日本人であるということ。白人の時代を終わらせたのは、日本人単独の力であったということ。その意味で人種平等の戦いは20世紀最大の事件である。白人絶対時代は、有色人種の誰かが立ち上がって、「実力」で打ち破る以外になく、白人側から譲歩するなどあり得ない。考えてみるがいい。西洋列強の有色人種支配を…

    ポルトガルによるティモール島支配を挙げてみる。彼らは原住民には文字すら教えず、農耕用鉄製品の所有さえ制限した。反乱の武器に転用されるからである。さらには白人絶対の教育を徹底した。白人は日常生活でも絶対的威厳を持って上に立ち、平等意識の芽を摘んだ。反抗する住民は処罰し投獄した。オランダ人、フランス人、イギリス人、みな同じことだった。

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    植民地では使用人に何かを与えるとき、手渡すことはなく床に投げ捨てて拾わせた。日本人はそうした様を見、危機感を覚え、大いに発奮したのである。インドネシアの例もある。日本にとってインドネシアはもとは敵国ではなく、インドネシアはオランダの支配下にあったが、オランダ軍と日本軍の戦いの犠牲となって、多くの住民が被害を受けたのである。

    このまま日本軍が引き揚げれば再びオランダの植民地になるのは明らかで、それを見捨てて帰国するわけにはいかないと立ち上がった日本兵が千人ほどいたという。千人のうち7百人がインドネシア独立戦争に参加し、戦死したといわれている。乙戸昇はその生き残りだった。彼は早稲田大学専門部出身で、1943年に近衛兵三連隊に入隊ジャワ南方軍予備士官学校卒の少尉である。

    本来なら日本の敗戦と同時に復員すべきであったが、日本が戦時中、「戦争に勝ったら必ず独立に協力するから」と義勇軍の士気を鼓舞してのであった。日本は負けたが独立を目指して戦う義勇軍を見捨てることができず、現地に残って独立戦争を共に戦った。そうい義に殉じた日本人もいたということだ。先の話の続きだが、大東亜戦争はその根底において義戦である。

    「白人帝国主義諸列強のアジア侵略に対する予防的先制」であった。後年、マッカーサーもそのように捉えていた通り、大東亜戦争の根底には日本国家としての、「自存自衛」の契機がはたらいていた。そのことを真っ向否定したのが、「東京裁判」という名の、「みせしめ政治的儀式」であった。多くの場合において、歴史は正しく変わっていくものだ。

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    真実とは違う方向に変わっていくなら、それは歴史とはいわない。中国や韓国があの戦争を全面肯定せよ、謝罪を続行せよ、靖国参拝を停止せよとしつこく要求することに屈することなく、日本国家は自らの「歴史認識」を明らかにするほかなかろう。経済界の一部の反日分子が、「経済のことを考えて中韓の要求に従うべし」という亡国意見などに怯むこともなかろう。

    日米同盟などは虚名の代物である。いつまでもすがり切っていては、「主権国家」の称号は得られない。実践的にかかわるしかないものとしての状況は、常にナショナリズム的性格を持っている。今の日本も今後の日本も、歴史的実体としての自国慣習に執着する体制は、親米的であるのが当然のごとくであるが、この体制は未来永劫に続く。といってもあと数十年の命の自分。

    日本は唯一の被爆国だが、原爆の語り部たちも随分少なくなった。被爆の年に10歳だった少年は現在82歳と男子の平均寿命を超えている。核戦争の脅威とは、核を使用された側が、「ごめんなさい、降参します」という時代ではなくなっている。落とされた側が落とした側に核を落とし、また落とされた側が核を落とす。これまで朝鮮戦争やキューバ危機という核の脅威はあった。

    人類が最終兵器を使わないのは、使えないものだからである。あれは持っているだけのもので、使ってはならないものである。核の脅威を理解し、原子力安全保障への包括的なアプローチを探ることは、努力をムダにしたり、焦点をぼかしたりはしない。むしろ、受け入れがたい未来が現実となるリスクを軽減する手段を排除しないよう注意することを意味している。

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    8月14日に金正恩は、「アメリカの動向をしばらく見守る」と述べ、グアム沖への弾道ミサイル発射を一時見送る考えを示したが、これは中国が北朝鮮に発した警告にあるという見方が大勢と思いきや、地下核実験をしたことでその予想は外れた。8月10日、中国共産党機関紙「人民日報」の姉妹版「環球時報」は社説として以下の警告を米朝両国に対して表明した。

     (1)北朝鮮に対する警告:もし北朝鮮がアメリカ領を先制攻撃し、アメリカが報復として北朝鮮を武力攻撃した場合、中国は中立を保つ。(筆者注:中朝軍事同盟は無視する。)

    (2)アメリカに対する警告:もしアメリカが米韓同盟の下、北朝鮮を先制攻撃すれば、中国は絶対にそれを阻止する。中国は決してその結果描かれる「政治的版図」を座視しない。

    (3)中国は朝鮮半島の核化には絶対に反対するが、しかし朝鮮半島で戦争が起きることにも同時に反対する。(米韓、朝)どちら側の武力的挑戦にも反対する。この立場において、中国はロシアとの協力を強化する。

    (1)と(3)は、北朝鮮にとって存亡の危機に関わる脅威で、もし北朝鮮がグアムなどのアメリカ領を先制攻撃してアメリカから報復攻撃を受けた場合、中国は北朝鮮側に立たないとし、ロシアも中国と同じ立場を取ることを意味する。中国は北朝鮮が唯一軍事同盟を結んでいる国でその中国が、「中朝軍事同盟を無視する」と宣言したとなれば、北朝鮮は孤立無援となる。

    北朝鮮の軍事力は、「核とミサイルと暴走」以外は脆弱なもの。韓国や日本にとっては大きな犠牲を招くだろうが、アメリカと一国で戦えば国が全滅する。したがって14日、グアム沖合攻撃は延期(実際上放棄)することを表明した。日本は、北朝鮮の軍事同盟国である中国が最後のカードを切ったことを認識していないと思っていたが、その矢先の地下核実験である。

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    9月3日のNHK日曜討論で、「(8月14日に)北朝鮮がグアムへのミサイル発射を抑制したのはなぜだと思うか」という趣旨の質問に対して河野外務大臣は、(正確には記憶していないが)概ね、「おそらくアメリカが強く出たことを気にしたのではないか」という見方を示しただけで、「中国側が中朝軍事同盟を持ち出して北朝鮮を威嚇・牽制したから」という話は出なかった。 

    トランプ大統領の私的な気まぐれツイートはともかく、マティス国防長官は、「軍事行動を排除しない」と述べている。 「排除しない」とか、「すべての選択肢はテーブルの上に載っている」と言いながら、結局、「犠牲があまりに大きすぎるから…」と言って実行を躊躇っては、北朝鮮を勇気づけるだけではないか。北朝鮮はとにかくアメリカ側に先制攻撃をかけさせたい。

    それなら中国との軍事同盟も稼働する。中国が北の援軍として参入することになれば、まさに百人力で朝鮮戦争と同じ状況となる。あの時中国が国を挙げての、「抗米援朝」のキャンペーンは凄まじく、マッカーサーは中国への本土爆撃を含む、核使用をトルーマンに願い出たほどである。朝鮮戦争は休戦協定を結んでいるだけの日米朝韓中の戦争である。


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    近年テレビ番組で、「クイズ王」なんたら…という番組があるが、出演した東大生が難問を回答するにつけ、「天才」などと呼ばれたりする。知識を沢山詰め込んで天才というなら、天才の価値も下落したものだ。自分が思う天才というのは、無から有を生み出すこと、この世に存在しないものあるいは、隠れていて発見できないものを見つけたり作ったりではないか。

    東大生が難問クイズをしこたま答えようが、学業に秀でて首席で卒業しようが、この世に存在する何かのお決まりの答えを答案用紙に書くのがなぜに天才か。天才とは、「天賦の才」のことを言い、天賦の才とは生まれながらにして持っている才能、天から与えられし才能を言う。したがって、学術・芸術・スポーツなどの分野にそれぞれ天才と称する人物がいる。

    東大が日本の学術分野における最高位の大学というなら、東大生の学術的価値はクイズの回答という雑学ではなく、大学の学問の成績で量ることになるが、それも兼ねて一人に人間を挙げてみる。東京帝国大学を史上最高の得点率で主席で卒業。しかもその記録は未だに更新されていない人物といえば、東大生のクイズマニアならおそらく答えられるその人は若槻礼次郎。

    若槻 禮次(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。栄典は正二位勲一等男爵。旧姓は奥村。幼名は源之丞。号は克堂。新字体にて若槻 礼次郎と表記されることもある。貴族院議員、大蔵大臣(第18・20代)、内務大臣(第41・42代)、内閣総理大臣(第25・28代)、拓務大臣(第4代)などを歴任した。

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    東京帝大を歴代トップの最高点で首席で卒業ということで天才と称される若槻である。確かに事務能力に卓越したものはあったが、リーダーとして人を束ねるとか、明晰な決断力に関しては天賦の才どころか凡人並みといわれている。頭はいいが、対応が弱腰で消極的で、何が何でもやり遂げるという行動力はない。権力欲は人一倍あるが、泥を被るのを怖れる小心者。

    以下の二つのエピソードは有名だ。若槻内閣は少数与党政権で、野党の反対で予算案が通らない。この時、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という内容の文書を野党首脳と交わすが、「深甚なる考慮」を予算成立後の総辞職と捉えた野党側は予算成立に協力するも、その後一向に辞職をしなかったため、ついたあだ名が「嘘つき礼次郎」である。

    こうした頭のよさは認められる。もう一つは、関東大震災後の金融危機で、当時の大企業鈴木商店に大量の融資を行っていた台湾銀行の経営が悪化した。若槻は枢密院に台湾銀行を救済する勅令を願い出るも枢密院にこれを否決され、若槻は辞職する。枢密院が内閣の提案を否決しても、辞職の必要性は全くないはずだが、泥を被ろうとしない若槻の性格を現している。

    総理大臣は力を持っているなら、精一杯の努力をすべきであろう。秀才であることが舵取りに秀でたものではないということを示している。東大首席の若槻と小学校卒の田中角栄を政治家として、首相として対比すればとてもじゃないが田中優位は動かない。鈴木商店を題材とした小説『お家さん』は、2014年読売テレビ開局55年を記念してテレビドラマ化された。

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    若槻には『古風庵回顧録』という自伝があり、「明治・大正・昭和政界秘史」と題され、1983年に講談社学術文庫として現代仮名使い版にて出版された。巻末には歴史学者伊藤隆による73ページに及ぶ解説がある。伊藤は西尾幹二、藤岡信勝らと『新しい歴史教科書を作る会』に発足させたが、内紛続きの会に嫌気がさして理事を辞任、メンバーの一人藤岡を激しく批判した。

    藤岡は湾岸戦争以前は共産党員であったが、新たな日本近代史確立の必要性から、旧来の左右イデオロギーに組しない独自の、「自由主義史観」の構築を提唱した。これが大きな反響を呼び、1996年12月に西尾幹二ら有志と、「新しい歴史教科書をつくる会」を結成することになる。しかし、会はメンバーの路線対立等が原因で幾度となく離合集散を繰り返す。

    若槻の『古風庵回顧録』は、日本の首相経験者クラスの政治家にあって、このような自伝や回想録を書く残した人物は外国にはあっても、日本では若槻を除いて海部俊樹の『自我作古』くらいであろうか。本書は昭和25年に刊行されたが、若槻は前年に死去しており、本人は世に出るものとの意図はなかったろうが、政治の内側からの貴重な資料であるのは言うまでもない。

    回顧録は抑揚のない淡々とした文章で、間違いも少なく、冷静・沈着という評判を得ているように、若槻が実直な人間であったかが偲ばれる。政治家というより真面目な官僚としての印象を持つが、権力欲はあったようで後に憲政会総裁になっている。そんな沈着気味の若槻も信奉する桂公の話になると熱がこもる。若槻は第三次桂内閣の大蔵大臣に就任した。

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    冷静で好嫌の感情に左右されない若槻が、唯一後藤新平に対してのみ敵愾心を抱くのは、桂公を絡めたライバル意識であろう。どんな人間にも嫌な相手はいるもので、いかに誤魔化そうとも潜在意識は言葉や文に現れる。姑を姑さんと呼べずか、ちゃん付け呼ばわりで気晴らしする嫁もいれば、年下や格下相手を、「さん」で呼ばず、「くん」呼ばわりする男もいる。

    気持ちは分からなくはないが、これだけで性格が推し測れる。あまりに露骨なので、からかい半分に聞いてみた。「意識してやってるんだろうが、さん付けで呼ぶと相手を尊ぶことになるそれが嫌なのか?」といえば、「別に意識してない…」と言うが、顔が嘘をついていた。こうした不自然な態度は誰の目にも露骨に映るが、精神の未熟さなのか当人は気づかない。

    さて、慶応2年(1866年)生まれの若槻である。大政奉還が慶応3年、明治維新は慶応4年でなく改元で明治元年(1968年)となった。明治25年7月東京帝大を98.5点という驚異的な成績で首席卒業した若槻は大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。大正元年(1912年)、第3次桂内閣で大蔵大臣、大正3年(1914年)から同4年まで第2次大隈内閣で再度蔵相を務めている。

    大正5年(1916年)、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924年)、加藤内閣で内務大臣となり、翌年、普通選挙法と治安維持法を成立させるが、大正15年に加藤高明が首相在職中死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し若槻内閣を組閣する。彼の内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な、「無産政党」が数多く結成された。

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    新装版『古風庵回顧録』の本題は、『明治・大正・昭和政界秘史』で、『古風庵回顧録』が副題というのも、政治家としての若槻禮次郎の研究もほとんどされてなく、『古風庵回顧録』さえ周知されていなかったこともある。『明治・大正・昭和政界秘史』と背表紙にあれば手に取りやすい。それにしても、明治についての記述は学生時代、官僚時代に割かれている。

    『古風庵回顧録』の第一章・第一節は、「『ばんざい』の由来」と題され、日本で初めて、「万歳」が執り行われた様子が書かれている。それによると、日本では天皇陛下が出御されるとき、これを歓呼する言葉がなく、ただ最敬礼と言って丁寧にお辞儀するばかりであった。フランス語でいう、「ヴィヴ・ラ・フランス」とか、「ブラボー」とかの言葉はない。

    英語なら、「セーヴ・ザ・キング」や、「ロング・ライフ」などと唱和する言葉は日本にはない。心に尊敬と親愛の情を表現しようにも言葉がなく、ただお辞儀するだけでは物足りない。それで大学の先生たちの間に、当日二重橋で陛下に対して歓呼の声を挙げ、それを将来の日本の歓呼の形式にしようとの議が持ち上がった。しからば、どういう言葉が適切か…

    いろいろ討議されたが経済学の和田垣謙三教授が、「万歳、万歳、万々歳」なる言葉を提議、これを唱えることとなった。学校の方はこれで決まったが、生徒が一斉に大きな声を出して歓呼することで御馬車の馬を驚かせてはいけないと、前もって宮内省へその旨申し込んでおいたといい、宮内省ではあらかじめ用意して馬を訓練して馴らしていたのだろう。

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    その時の様子を若槻はこう書いていている。「さて第一公式の立派な御馬車が二重橋を出て来た。高らかに、「ばんざい」の声があがった。これが我国で万歳を唱えた第一声であった。ところが、豈図(あにはか)らんや、この突然の歓呼の声に怯えて御馬車の馬が驚いて棒立ちになり、足をバタバタやりだした。定めし陛下もお驚きになったことであろう。

    自然に一同は遠慮する気持ちになって、第二声の、「ばんざい」は小さな声になり、第三声の、「万々歳」と唱えず、それきりになってしまった。だから、聞いていた人は、ことに和田垣案の、「万歳、万歳、万々歳」ということを承知していない人は、初めから「万歳」を再唱したものと思ったに違いない」。以後、「万歳」は、メデタイときの国民の歓呼となっている。


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    100メートル歩けば不倫行為者にぶつかる時代に、普通に10キロウォークの自分ならサイテーでも100人会っていることになるが、誰もそんな顔をしていない。当たり前だが、すれ違う人の名前も居住場所も人生の中身もナ~んにも知らない同士である。不倫していようが、一億持っていようが、掘立小屋に住んでいようが、ガンの手術をしていようが、互いに関係ない。

    テレビ露出の多いある芸能人がこう言った。「不倫について世間は叩きすぎ。人生を終わらせてしまうくらいやってる」。発言主はマツコ・デラックスだが、おいおい、いつのまに人の悪口を叩く身分になったのか?マツコといえば悪口大好きの大食らいオヤジではないのか?オカマや女装男を嫌悪する自分は彼の出演番組は見ないから変身ぶりはわからないが…

    多少売れてくると心の身だしなみをを整えるようになるのも、「地位は人を変える」と同意であろう。世の中を整理したり、静止する発言は良い事であろうが、悪口好きが他人の悪口を静止しても、説得力はなかろう。しかし、マツコの発言に多くの人がひれ伏しているのを見て、彼はまさに時代の旬であろうし、それが露出の多さに現れているのかと感じられた。

    斎藤由貴の不倫相手の医師が頭からパンツを被った写真も、確かに面白い絵であるが、これについても周囲は、「やってることがアホ」、「正気の沙汰ではない」などというが、まあ、そんなことは自分は絶対にしない、してもいない、する気もないと聖人もどき言葉を飛ばしたい。ただ、パンツを頭からかぶって面白がっているだけのことをそこまで言えばお利口に見える。

    2人だけの部屋でパンツを被ろうが、麻縄で縛ってくすぐりまくろうが、カンチョーしようが、屁こき合戦しようが、何がいけないんだ?たとえそれが表に出ようと、「好き合ってる同士はおふざけも含めて、いろいろ楽しいことをやっているんだにゃ~」くらいにしか思わないが、どいつもこいつも鬼の首でもとったかのような、自分は屁もこかないような言い草である。

    まあ、悪いがそんな言い方をする人間を自分は信用していない。人をバカと呼んだ人間をバカでないようには自分には見えないし、自分が人をバカと言う際は自分もバカではあるけれどと口には出さないだけ…。理性は感情を制御するものだが、他人のパンツ被りを笑っても、私生活で理性を制御できない人間なんか、山ほどいるだろう。それに比べればおふざけの方がマシだ。

    どちらが人格を疑うかといえばヒステリーの方であるが、これも病の範疇なら仕方がない。自分は母親の怒級ヒステリーを間近でみてきているので、少々のヒステリーに驚くことはないと思っていたが、それでも女のヒステリーには驚かされた。ある女は道路の歩道の上に横になり、大の字になって泣き叫ぶ。どうして人の往来する道路上でそんなことがやれるのか?

    病気だからである。精神の病というのは、理性をかなぐり捨てられる。だから状人ではあり得ないこと、なし得ないことができる。一般に、人間というのは理性的な判断に基づいて行為する存在と考えられる。だから、理性的な判断能力を持つ者が、明確な意図や目的をもって殺人を行えば刑事罰の対象となるが、心神耗弱や精神に異常のある者の犯罪は免除される。

    だから、あまりにも唐突な行為に対して精神鑑定を行う。「キチガイだから罰せないのはおかしい」という声は多いが、キチガイは裁く対象にはならないが、もっともキチガイを野に放っていることに責任が及ぶことになる。現代社会に限らず人間は壊れやすい弱さを持っている。犬にも狂犬病、牛にも狂牛病があるように、狂人が街をうろついていてもおかしくはない。

    理性をもっていても、感情が先走れば誰でも加害者になれる。そうした突発性の事件は用心しようにも用心のしようがない。同じように、誰でも被害者になれる。加害者ではないのに加害者と名指しされ、痴漢に仕立てられた人も気の毒としか言いようがない。「被害者」という肩書を手に入れたいなら、「私はこんな被害を受けた」と声高に叫べばいいだけでいとも簡単。

    自分も経験があるが、やってもいないことを、「やられた」と吹聴するだけで、刑事事件にはならないから無視していたが、警察が絡んだ場合には無罪を立証するのは大変だろう。こういう虚言癖の女は一種の情緒障害だと思っているので、まともに話す気にもなれない。口に出したことが嘘でも、嘘を本当と信じ込む人間にとっては、嘘でなくなっているわけだ。

    これが自分の母親の得意芸であった。強烈な自己顕示欲保有者というのは、自分自身を大きく見せるために噓をつく。自分自身を嫌が応でも正しい人間と喧伝したいがために嘘をつく。返報感情が相俟って、相手を陥れるために嘘をつく。この3つのパターンはいずれも経験した。こういう人間をスイスの精神科医アントン・デルブリュックは「空想虚言者」と名付けている。

    「空想虚言者」の特徴は自分がついた嘘を自身が信じ込んでしまい、周りの人を騙していく。根底にあるのは、「自分が被害者であるという意識」であろう。実母は思い通りにならない息子を持つことで、自分は憐れな母親という被害意識だけが助長されていったと考える。これが明晰な人間なら、強く逞しく生きて行く我が子に安堵すべきだろうが、そうしたキャパはない。

    子どもが持って困る母親の類は、何でも自分の思い通りにしようとする親である。そこには、自分が産んだ=自分の所有物という傲慢があり、そんなことはとんでもない、冗談じゃない、自分は自分で誰のものでもないと、強く決別することだ。それさえできれば怖れるものはない。自分を本当に愛してくれるゆえの言葉か、単なるエゴかを見切る判断力も必要だ。

    本当に自分のために思って言ってくれた人を、数十年を経て気づいたり、心に突き刺さるものだが、そうではない場合の言葉は、何十年経とうが憎しみ以外のなにものでない。自分の真っ当なる人生の障害になる親は、「見切る」ことが大事と考える。潜在的な親への依存心がある限りそれはなし得ない。自分に正直に向き合って潜在的な依存心をあぶり出すことが先決だ。

    話を不倫問題に戻す。マツコのお行儀のいい言葉は知性ある道徳者専用とし、マツコも一介の世俗人なら、ネットの怒号と同類とみなすべきだろう。芸能人というのは、自分の知らない多くの不安に愛されている。その数や何万、何十万と、多ければ多いほど人気のバロメータということになる。政治家も同様で、多くの支持者に愛されるから当選をするわけだ。

    それだけ人気もあり、それほどに支持される人たちは、その数と同じくらいのしっぺ返しを食らうことを常に頭に入れておくことだ。誰も不倫をするような人間を政治家として支持し、送り出したわけではあるまい。マツコが大勢で叩き過ぎというのは、それだけ大勢の人たちに支持されたことの裏返しで、誰だって一言いっておきたいだろう。マツコだけ許されるわけではない。

    マツコが発言すると同様に、世の中の人間一人一人に発言権がある。「私が代表して言ってあげるから、あなたたちはお黙りなさい」という権限はなかろう。誰もが自分の考えを述べたいことを、上から仕切る立場にない。いい事は「いい」の大合唱があるように、よくないことは、「ダメ」の大合唱がある。人の悪口は快感と受け取るのは同じ気持ちいるからだ。

    ダメを「ダメ」と怒号するのは成熟した社会であり、それは悪事はバレなければいい、選挙民やファンを裏切ってもカンケーナイ。自分は自分ですきなことをやればいいという公人に対する贈り物である。怒号の数はファンの数の裏返しである。それで初めて自分の罪深さを認識しないで、それこそ蜜の味如き自己批判では、同じ轍を繰り返すであろう。

    批判にさらされ、傷ついて初めて分かることもある。それはそれで遅きに失すということもあるが、自分の経験でいえば、若ければ若いほど後の人生に生かされる。やり直しは若さの特権である。自身が自分に甘え、ファンや有権者をないがしろにした行為に同情の言葉をかけるのが悪いとは思わぬが、それも人による。ダメ人間は、同情の言葉を拠り所にするだろう。

    1000の批判はあれど、1つの同情を拠り所に自分に甘えてしまう人間もいる。本当に自身に厳しく反省もし、改悛せんとするなら、「同情の言葉はいらない」という気持ちになる。人間は弱いもので、人に甘え、自らに甘えるところがある。斎藤由貴などは、どれだけ痛い思いをすれば分かるのだろう。自己に甘い彼女は、子どものために離婚は避けたいといっていた。

    そんなことを発言する前に、先ずは子どもに対して「必要な母であるかどうか」を問い、確かめてからではないのか?それもせず、子どもは自分を必要としているという思い上がった発言とみる。こういう親に限って、「あんたなんかイランわ。家から出て行け」と子どもに言われて、「お願い、家に置いて」と泣いて頼み込む。自分はそういう事例を知っている。

    男にも女にもいる。浮気や不倫や好き勝手なことしておいて、いざ破局になって家に帰ろうとし、息子に「出て行けよ」と言われた母親。こういうこともあるとの想像力もなく、子どもを見くびったことの付けであろうが、自己責任の欠片もない人間は時にこういう醜態を見せる。ある映画で、たまに家に帰ってくるだけのぐーたら親父を思い余って刺し殺す息子。

    「母さんが可哀相…」から出た義憤であるが、子どもの一生を台無しにする親の好例である。悪事が露呈したなら、泥を被り、唾を吐きかけられようと、忍び、耐える人間であるかないかは、その後の行動で見える。何事も自己責任を完遂せんという気持ちに満ちた人間は、立ち直るだけでなく、二度と同じ過ちをしないだろう。批判をバネにするとはそういうことだ。

    他人からの批判を嫌がる人間は少なくない。「自己批判するから、他人にあれこれ言われたくない」という。自己批判を糧に頑張れるほど己に厳しくできない自分である。あの時友人は、「お前に批判されなくても、自己批判するからいい」と言った。他人はなかなか他人を批判できないもので、そのための自己批判である。してくれる他人がいるなら、それは有難いもの。

    そういう風に考えない人間が、「自己批判」という美名に酔う。辛辣で研ぎ澄まされた他人の批判は耳に痛いが、それこそ、「良薬」である。斯く言う自分も自己批判を幾度もしたが、他人からされる批判ほどに身についたという気はない。本当に性根を入れた自己批判というものがあるなら、冬の寒空に滝に打たれるくらいしか思いつかぬが、確かに厳しく自分を諫めている。


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  • 09/14/17--23:12: 秋の気配
  • 歴史書を読むと色々考えさせられる。読んで知識を得るだけではつまらないし、いろいろ考えることが歴史の面白さであろう。例えば聖徳太子は、現在の紙幣がでるまで長く、「紙幣の顔」であった。それを知っている世代人にとって太子は、カリスマ的な存在であり人気もあった。その太子は、「この世はむなしく仏だけが真実でである」といったのは何故だろうか?

    これは太子が妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)に言い残した言葉で、太子の没後、橘大郎女は夫はきっと仏の世界に行ったと考えた。しかし、仏の世界がどんなものか想像もつかない。そこで推古天皇に、仏の世界を絵にして見せて欲しいと頼み込んだ。そうして、推古天皇が女官に織らせて完成した織物が、「天寿国緞帳(てんじゅこくしゅうちょう)」である。

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    「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すものと考証される。太子の思想的遺産ともいわれる仏教信仰であるが、太子は最後まで在家信者に徹し、僧にはならなかった。日本の仏教の特徴に、「在家信仰の重視」があげられるのは、太子から始まったといえよう。仏教ではこの世は仮の世界であり、「この世での自分一代の生涯がすべてではない」と教える。

    西郷隆盛や大久保利通はどうか。司馬遼太郎の小説、『翔ぶが如く』よりも、海音寺潮五郎の、『西郷と大久保』や、NHK大河などの作り変えられたストーリーを、西郷と大久保の友情物語よろしくそのままに信じるのは歴史的史実と言わず、フィクションである。永井路子も歴史小説家であり、『北条政子』や、『一豊の妻』、『流星 お市の方』などの作品がある。

    永井は小学館入社後、『女学生の友』や、『マドモアゼル』等の編集に携わりながら歴史小説を書き始めたが、編集者としても有能だった。1964年、源頼朝の伊豆挙兵から鎌倉幕府創世期前後を描いた、『炎環』で直木賞を受賞、これはNHK大河、『草燃える』の原作となった。その後、吉川英治賞受賞した後、『山霧 毛利元就の妻』が、大河ドラマ『毛利元就』の原作となる。

    「頼朝は一尺の領地も所有していなかったことが幸いして東国の棟梁になれた」と、永井は分析する。土地を持たないがゆえに誰にたいしても利害関係がなく、三浦氏や北条氏に対する親しみはあれど、自分の領地や手勢がなうことで東国武士は安心したのだと。そんな頼朝を永井は、「無色透明の人」として東国武士たちに接していたというユニークな表現をする。

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    歩きながら考える時間は、歩く以上に楽しい。電車などに乗ってじっと考えるのも同様。近年は多くの人がスマホを覗き込んだりいじったりが多いが、沈思黙考の時間は不要なのだろうか…。「我思う故に我あり」が、「我スマホ故に我あり」という時代になっている。9月初旬のある日、早朝から太陽がのぞき、気温も上がって空はやけに蒼く、高く、秋晴れであった。

    そういえば、「日本晴れ」という言葉は、いつの季節を指すのだろうか。辞書では、「雲一つない晴れた日」とあるから、季節限定はなく一年中使えそうだが、どこか秋空の印象がある。気象台はその理由について、「ほとんど雲のない晴れの状態は秋がなりやすい」という見解である。1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックの開会式は10月10日だった。

    夏季オリンピックとしては時節的に遅い開幕だが、これは東京の夏は気温と湿度が高く、10月上旬までは秋雨前線が停滞するなどを考慮して決められた日程であり、10月10日は過去の統計をみても晴れの多い日であった。運動会や遠足の前日にてるてる坊主を作ったのが懐かしい。オリンピック開会式当日も、前日の雨模様の天気が一転、朝から絶好の天気に恵まれた。

    気象庁の統計によれば、東京で、「体育の日」に1mm以上の雨が降った回数は、昭和41年(1966年)から平成11年(1999年)までの34年間でわずか5回というから驚きである。何度か秋の台風に見舞われたこともあるが、本年も秋の台風がすぐそこまで迫ってきている。季節の変わり目というのは分かりにくいこともあるが、今年の場合、暦が9月になった途端、秋の風が吹いたようだ。

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    変わり目が分かり易い感じだった。オフコースに、『秋の気配』という曲がある。鈴木と小田のオフコース時代の曲で、自分はこの曲が一番好きかも知れん。抒情的なガットギターのイントロに続き、あれはあなたの好きな場所と歌われるが、歌詞全体を眺めて思ったのは、これがどうして、『秋の気配』という題名になるのかが不思議でならず、何度も何度も歌詞を追った。

    ♪あれがあなたの好きな場所 港が見下ろせるこだかい公園
      あなたの声が小さくなる ぼくは黙って外を見てる 
      目を閉じて 息を止めて さかのぼる ほんのひととき
      こんなことは今までなかった ぼくがあなたから離れてゆく
      ぼくがあなたから離れてゆく

    小田は秋を非恋と結び付けた、これは男が女から去っていく様子である。この曲について小田はなが~い注釈をつけている。「女にふられたみたいな経験がなかったから書けた。もし、女に捨てられたような経験があったとしたら、あんなに傲慢にはならんでしょう。"嘘でもいいから ほほえむふりをして"みたいな、そんな都合のいい話はないわけでさ。(中略)

    こんなに冷たい男なのに、どこがいいんだ?って、いつも思ったもんね。この男の正体を君たちはわかってないなって」。「“ぼくがあなたから離れてゆく”って歌うと、まるでとてもやさしい人で、やむを得ず離れていくような…。“別々の生き方を見つけよう”とかって、よく映画の別れの場面であるじゃない?“いつの間にかすれ違った”、とか。

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    でも、本当に好きだったら、別れないもんね。別れるのは、“好き度”が低下したからなんだし、もっといい相手が出てきて“こっちのほうがいいなあ”と思ったからかもしれないんで。そういう傲慢な気持ちを横浜の風景の中に隠したのが、あの曲だったんだ。でも、書いたときは必死だったんだよ、言葉さがして。

    本当はそんなつもりなかったんだけど、あとで考えたらひどい男だな、と」「とはいっても、“ぼくのせいいっぱいのやさしさを あなたは受けとめる筈もない”っていうとこは、悪いのは自分だっていうのを認めてもいるわけで。あそこは大事なところで、きっかけにはなったかもしれないな」

    長々語っているが、リリースされた時の小田は30歳。彼のニヒルで陰険そうな性格が言葉に現れている。端的にいえばナイーブさ丸出しで、女性に無知は否めない小田和正である。そこまで言わなくても、所詮はフィクションなのだから…。でも言いたいのだろうし、その辺がいかにも子どもっぽい。大人げないではなくて、子どもっぽい。この程度の男は、「悪」じゃない。

    その意味で…。音楽三昧で世間音痴で生きて来たとしても、小田はもう70歳だから、今このインタビュー記事を読むとさすがに気恥しいだろう。誰でも青少年時期の発言なり文章なりを経年になって読み返せば羞恥に堪えない。が、過去が笑えるということは、それだけ成長した証しということになる。ならば過去の一切は、笑い話として楽しむしかない。


    『4月になれば彼女は』は、サイモン&ガーファンクルの名曲。『4月になれば』のタイトルだが、歌詞は9月で終わっている。曲もいいが、日本人には分かりずらいが、4月から9月までのすべて月名に韻を踏んでいて、韻を踏むために単語が選ばれているところは、詩人サイモン流の味付けである。また、"come she will"、"die she must"などの倒置も韻のためであろう。

     「April」と"will"
     「May」と"stay"
     「June」と"tune"
     「July」と"fly"
     「August」と"must"
     「September」と"remember"



     April, come she will
     When streams are ripe and swelled with rain

     May, she will stay
     Resting in my arms again

     June, she'll change her tune
     In restless walks, she’ll prowl the night

     July, she will fly
     And give no warning of her flight

     August, die she must
     The autumn winds blow chilly and cold

     September, I'll remember
     A love once new has now grown old

    この詩はどういう物語を示しているのだろうかと歌詞を追ってみる。四月に彼女と会い、五月には傍にいてくれたが六月に様子が変わり、七月に彼女は予告もなく去って行った。八月、彼女は遠い世界にいったのか。そして九月…、思い出すのはあの時の恋、それは枯葉のようだった。これは女性の心変わりを季節の移り変わりにかけた純愛の歌であり悲恋の歌でもある。

    日本には、「女心と秋の空」という慣用句があるが、この詩から「女心」は世界共通のようであり、まさに情緒たる生き物である。「男心と秋の空」というのも否定はできない。ただし、意味は違う。男は愛情の対象、好きな女性に対する恋心が変化しやすいということで浮気をしやすい。女性の場合は、感情の起伏が激しく、場面や時期でコロコロ気分が変わる。

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    司馬遼太郎は数多くの歴史小説を書いている日本の国民的作家である。『徳川家康』の山岡荘八、『宮本武蔵』の吉川英治、『真田太平記』の池波正太郎らが代表作品とするなら、司馬遼太郎の代表小説は何であろう。坂本竜馬を描いた、『竜馬がゆく』、高杉晋作を描いた、『世に棲む日々』、西郷と大久保を中心人物とする、『翔ぶが如く』、大村益次郎を描いた『花神』。

    それとも日露戦争を描いた、『坂の上の雲』なども人気の代表作といっていい。歴史作家に共通して言えるのは、歴史学者の著述よりも偉大な作家による作品の方が歴史を彩り、形づくるものかも知れない。フランス国民がリシュリー時代を思い出すのは、デュマの、『三銃士』であり、アメリカ人が南北戦争を思い浮かべるのは、ミッチェルの、『風と共に去りぬ』であるように…

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    作家の描く歴史というのは想像力もさることながら、学問として学ぶ歴史教科書とはまったく別の視点や考え方があることに気づかされ、また酔わされてしまうところが歴史小説の魅力である。司馬遼太郎などは、印税のほとんどを古文書などの貴重な資料の購入に充てたといっているが、その意味で歴史作家というのは半分は学者であろう。『下天は夢か』という作品がある。

    信長を描いた津本陽の作品だが、ここに描かれた信長像は従来の悪逆非道のイメージをまったく払拭する実に人間的な信長だった。小説に魅了されると、これが本当の信長のように思えてしまうのだ。司馬には、『国盗り物語』という斎藤道三を描いた作品があるが、ここに映る信長像は、明智光秀という知的で優秀でまともな守旧的教養人物から捉えたものである。

    最期まで尾張弁の抜けない信長というのも、これまた人間的あった。昨日、明智光秀の密書の原本が発見された。書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています」とあった。

    京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元の勢力下にある鞆の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。書状の手書きの写しは東京大史料編纂所に残っていたが、原本は縦11.4センチ、横56.8センチで、細かな折り目がついていた。

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    畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられている。光秀が謀反を起こした理由については定説が存在せず、「日本史の謎」、「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表しているようにまさに歴史のロマンであろう。さて、司馬遼太郎に話を戻すが、日露戦争で日本が大国に勝利したのは何故か。

    この戦争は日本とロシア双方からみて紛れもない帝国主義戦争であり、日清戦争に次ぐ日本の大陸侵略の魁となった大戦である。『坂の上の雲』では、日露戦争の国家指導者の良い部分が渾身の力を込めて描かれてうる所も人気の要因であろう。司馬はこれ以降の時代小説を書いていないが、彼にとっては日露戦争以後の日本のトップ指導者はあまりに情けなかったのだろう。

    明治という国家について司馬はこう述べている。「明治維新は日本が先進文明国から滅ぼされるという危機感から起こった。危機回避の方法は日本も文明国になることだった。つまり、十九世紀の世界史段階でいえば富国強兵。イギリスのような大きな工場を持ち、精錬な海軍を持ち、フランスのような大陸軍部隊を持つ。それができれば併合されることを免れる。

    富国強兵だけが救日本の唯一の概念であった」。これは太平洋戦争開戦するに至った日本と同じであり、昨今の北朝鮮の国家的立場にも通ずる部分がある。つまるところ明治維新は、国民国家を成立させて日本を植民地化の危険から救い出すという目的のために、一挙に封建社会を否定したまさに革命であった明治国家、明治という時代は希望に満ちた明るい時代だった。

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    「明治末年から日本は変質した。戦勝によってロシアの満州における権益を相続し、がらにもなく、植民地を持つことによって、それに見合う規模の陸海軍を持たざるを得なくなった。領土という分相応の大柄な軍隊を持ったために、政治までが変質していった」。と、これが司馬史観というものの見方である。つまり、日本の変質は日露戦争直後に始まっているのだと。

    明治憲法は今の憲法と同様、三権分立の憲法だったが、昭和になると、統帥権が次第に独立し、ついには三権分立の上に立った。そうした統帥権の番人たる参謀本部は、統帥権を自らが所有していると信じていたのは、中国の宦官が権力を手中して行ったことと似ている。イデオロギーを日本語に訳せば、「正義の体系」となろう。したがって、イデオロギーによる正義には嘘がある。

    ありもしない、「絶対」を、ロジックとレトリックで正義の体系化したイデオロギーが過ぎ去った暁には、古新聞よりも無価値になるのは、「嘘」である証拠を示している。日本人は二十世紀において、こうした左右両翼のイデオロギーの被害を被ってきた。大正末期にまずは、「左翼」が生まれ、その反作用として、「右翼」が生まれ、社会党浅沼委員長は右翼少年の刃に散った。

    子どもというのは純粋で正直で無知である故にか、子どもの頃に浅沼委員長を指した山口乙矢という17歳の少年がトラウマとなり、山口という苗字の人間は悪人に思えたのを覚えている。おそらくあの時代、山口姓の人たちは肩身の狭い思いをしたろう。公衆の面前で、しかも全国放送のテレビ中継の只中で、人が人を刺し殺すという事件はあまりに生々しいものだった。


    左翼による反安保闘争の激化に右翼は苛立ち、一部はテロに走った。1960年10月12日の浅沼委員長刺殺事件は、同年6月の河上議員刺傷事件、7月の岸首相刺傷事件に続く凶行だった。犯人の山口は11月2日、東京少年鑑別所内で首を吊って自殺した。翌61年2月1日のは、同じ右翼で17歳の少年が中央公論社社長嶋中鵬二宅を襲い、居合わせた女中を刺殺、社長夫人に重傷を負わせた。

    事件は、『中央公論』誌に掲載された作家深沢七郎の、「風流夢譚」に、天皇一家処刑の場面が問題になり、編集長が宮内庁に陳謝する一件があった。社長宅襲撃の少年は翌日警視庁に自首をしたが、警視庁は大日本愛国党総裁赤尾敏を殺人教唆容疑で逮捕した。若槻禮次郎の回顧録の最後は、昭和23年10月、東京裁判首席検事キーナンから食事の招待を受けたことを最後に終る。

    キーナンが招待したのは若槻以外に、岡田啓介、宇垣一成、米内光政らで、「戦前を代表する平和主義者」と称えてパーティーに招待している。その場でキーナンはこのように述べたという。「アメリカ人はリンカーンを尊敬しているが、そのリンカーンは戦争の嫌いな平和主義者である。しかし、彼の大統領時代に南北戦争が起こって、4年間も戦争は続いた。

    日本の天皇も戦争を好まれなかったが、とうとうこういう事になった」。若槻はキーナンの感想を記している。「リンカーンとの比較はとにかくとして、キーナンも陛下の立場に好感を寄せて、裁判所には連合国の寄り合い所帯であり、陛下を被告扱いにしようとする者さえある中で、この問題の確定的ピリオドを打ったことは、我々としては何としても感謝に堪えないところであった。」

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    日米開戦が起こった年、若槻は重臣という立場・肩書であった。日米交渉が暗礁に乗り上げたまま第三次近衛内閣は昭和16年10月総辞職をするが、そのわずか2か月後に日本は真珠湾攻撃をした。近衛内閣辞職を受け、後任総理大臣を誰にするか重臣会議の席上で若槻は、時世に鑑みて後任総理は軍人が適当であるとしながらも、宇垣陸軍大将を最適任者と意見を述べた。

    周囲は東条陸軍大臣に固まっている中、あえて東条陸相に反対した。若槻の反対理由は、陸軍大臣を総理大臣に推せば、米国をして日本はいよいよ戦争を決意したととられかねない。これに反対した木戸内大臣は、「東条に大命が降っても、大命降下の際、特に米国と平和を維持するような政策をせよと陛下の御言葉があるかもしれないから、米国と戦争を起こすことはしない」。

    東条は総理となり東条内閣が組閣された矢先に、米国より最後通牒(ハル・ノート)が来たため参内せよとの通知がくる。席上、東条は首相は、「米国の通牒は受諾できない。この上は開戦の他はない」と息巻いた。若槻はハル・ノートを一読したが、「政府は米国の通牒を仔細に検討精査することをせず、開戦は当然であるかの如き説明であった」と記している。

    戦争を継続するには資材を必要とする。資材中最も必要なのが石油である。国内の備蓄ではとても足りず、戦争が長引けば欠乏は明らかである。若槻は東条に、「戦争半ばに石油が不足した場合どう戦争を遂行するのか」と正した。東条は、「石油は決して不足していない、心配に及ばず」と弁明したが、東条の意図は植民地を攻撃して石油を強奪することであった。

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    陛下を交えて昼食の時刻となったが、議論は収束を見ないままに侍従が来て、「陪食の時刻に頓着せず、十分議論を尽くすようにとの陛下の御旨を伝えに来た。問答はさらに続くが、政府はのらりくらりの説明に終始するばかり。若槻は陛下との陪食の時間を遅らせることは恐懼に堪えず、問答を中止して一同御陪食の席につき、陛下出御の下に再問答することになる。


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    第三次近衛内閣 が総辞職に至ったのも陸軍の干渉が一因であり、 責任の大半は陸軍大臣東条に帰するものだが、 後継首班に指名されたのは意外にも東条その人であった。外交上の危局を打開し、 対米戦争を回避しようとする、昭和天皇及び天皇を取り巻く重臣層の苦渋の決断によるものだった。陸軍の指導的人物であり、 開戦論の急先鋒である東条に敢えて組閣を命ずる。

    その際、戦争回避の意向を昭和天皇から直々に申し伝える事で、真正なる尊皇家としての東条に開戦を翻意させ、 陸軍全体を抑え込もうとする狙いであったが、 矛盾を更に深める結果しかもたらさなかった。憲政下の畸態として成立した東条内閣 は、 結果的に日本を国力の限界を超える戦争へ導くことになる。若槻は石油などの資材不足から戦争継続は至難と考えていた。

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    日米開戦の是非を判断する陛下の御前会議席上で若槻と東条は遣り合ったが、とうとう東条はこのようなことを言い放つ。「陸軍では十分調査して、戦争資材には不足のないとも公算を得ている。ただ若槻をしてこれを了解せしむるためには、3、4時間の時間が要ります」。こうまで言われては若槻のいうことは妄言に近い、若槻はいたく自尊心を傷つけられたろう。

    このように述べている。「東条のこの発言は暗に私の御前における陳述を食い止める態度を示したから、私もこれは始末に遺憾と思い、陳述を中止した。首相に質問する等午後4時ごろまで続いたが、いかさまと納得のゆくまでに至らずして、めいめい退下した。これが日米開戦のときの重臣会議の真相である。この場面はいろいろな戦争映画などで表現されている。

    東条のいう最後通牒とはいわゆるハル・ノートだが、「ハル・ノートのようなものを突きつけられれば、モナコでもルクセンブルグでも立ち上がっただろう」と言わしめたパール判事は、東京裁判で唯一日本の肩入れした親日派だ。歴史は時間とともに展開して行くが、「ハル・ノート」を書いたのは、ハル国務長官ではなく、財務省特別補佐官ハリー・ホワイトであった。

    実はハリー・ホワイトはソ連のスパイだった。なんと、ルーズベルト政権には300人のコミンテルンのスパイがいたというが、となると、ハル・ノートはソ連が日米開戦に持ち込むように仕組んだ罠だったのか…。というのは、ハル・ノートが日米開戦の引き金になったという解釈ならそのように考えられるが、日米交渉が決裂したのはハル・ノートのせいではないようだ。

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    そうはいってもハル・ノートのせいでもあるが、実はアメリカは「基礎案」としてのハル・ノートと一緒に、「暫定協定案」 を日本に手渡す予定であった。もし、この「暫定協定案」 を日本が受け取っていたら、日米交渉が継続した可能性は高かったとされている。ところが日本側へ手渡す直前に、「暫定協定案」が外され、「基礎案」のみが日本に手渡されたのだった。

    これが日米開戦を決定的にしたことになる。なぜなら、「暫定協定案」はかなり突っ込んだ内容で、これが提示されていれば開戦はなかったというのが学者の一致した見解である。それがなぜ日本側に提示されなかったのか?ハル長官は「暫定協定案」を手渡すつもりで、事前に英国・オランダ、支那(中国)・オーストラリアの各大使を呼び、暫定案への意見を求めている。

    ところが、支那が猛烈に抗議したことと、他国もまた代表者らが本国から何ら訓令を受けて来ているわけでもなく、また戦争になった時は米国が軍事行動を準備し、全地域の防衛に指導的役割を担うことを期待していることにハルは失望し、呆れもした。蒋介石のヒステリックなまでの反対は英首相チャーチルまでも動かし、チャーチルはルーズベルト宛てに電報を打つ。

    暫定案は支那を不利に追い込むと批判する内容であった。そうしたルーズベルトの進言もあり、ハルは暫定案の提示を取りやめ、「基礎案」と、オーラル・ステートメントが26日に野村・来栖両大使に渡された。ルーズベルトもハルも日本がこんな要求を呑むはずがないのは最初から分かっていたことだった。近年、ルーズベルトの戦争責任が言われはじめている。

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    ハル・ノートは、「日本は仏領インドシナばかりでなく、中国全土から撤兵せよ」であった。ハル・ノートを実行すれば日本が明治以来、日清、日露戦争から中国で得た権益を一挙に捨てる事となる。ハル・ノートを直接手渡され、その場で読んだ来栖大使は驚きのあまり、「本当にこれが我が国の暫定協定締結の望みに対する回答なのか」と念を押している。

    一夜のうちに暫定案を放棄して日米決戦を選んだルーズベルトは11月25日、ハルに言った。「暫定案を承服しない日本は、12月1日にでも攻撃を仕掛けてくるだろう。日本は警告ナシで攻撃する事では悪名高いからだ。問題は、攻撃されるとわかっていて、如何するべきかである。向うに最初の一発撃たせ、こちらの危害を最小にするにはどうすべきか。実に難しい問題だ」。

    第二次大戦の舞台裏を身近で目撃した米国政界の重鎮ハミルトン・フィッシュの著書『ルーズベルトの開戦責任』は、腹黒で二枚舌のルーズベルトを浮き彫りにした。何はともあれルーズベルト大統領は国民に向けて、「アメリカの若者をヨーロッパの戦争に送るようなことは絶対にない」と言ってはいたものの、実はヒトラーと戦争をしたくてたまらなかったという。

    さて、ハル・ノートを受け取った東条首相の開戦意思は固く、軍閥内閣を推しとどめる重臣は若槻をしても不可能であった。東条は自分が答えられない内容の質問には、企画院の鈴木貞一総裁らに答えさせる。若槻は鈴木を奇妙な答弁をする男と表現している。例えば、「石油はどうする?」などの答えを、「日本国民に愛国心ある以上、必ず出来る」などという答えをする。

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    忠義な国民がおりさえすれば、なんでも出来るような答弁をするからだ。「こんな男とは問答する気も失せる」と若槻はいうが、確かに頓珍漢なことをいう相手との会話というのは会話にならない。どんな頭の構造をしているかはともかく、答えられない問いに論理や理屈で誤魔化そうとするなら突破口もあるが、あさってのような物言いをする人間には呆れるばかり。

    頭のいい若槻が問答する気になれないというのも理解できる。若槻はまた、東条首相や政府がしきりに、「英米撃滅」を唱えて国民を鼓舞し、激励することについて、「英米を撃滅するには、我が軍がロンドンまたはワシントンに乗り込んで城下の敵を討つことだが、制海権、航空権をもたないで、どうして「英米撃滅」などができるであろうか」。などと現実思考である。

    開戦後東条首相は、月に一度に重臣を招いて戦況報告をしていたが、「その戦況たるや、新聞に公表せられたものとほとんど大差のないものであった」と若槻がいっているように、東京裁判の審理で暴露されたように、戦局の真相は重臣も国民も同じように久しく政府の欺瞞とするところであった。敗戦のミッドウェーも戦勝ごときで、無人島のキスカ上陸も誇大報告された。

    東条にすれば自分で挑んだ戦争であるがゆえ、そのような虚偽の報告になったのだろう。戦局が長引くにつれ、如何に政府が欺瞞しようとしても、国民の不満と不信は昂まっていった。東条内閣もいよいよ行き詰まり、国家の政務を任せられる状況ではなくなりつつあった。内閣改造で人気を得ようとすれども、上辺を換えただけで中身が疎かとあってはどうにもならない。

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    「私は最初から戦争に反対していた。戦争が始まってからは、なるべく早く戦争を終わらせることを念願した。吉田茂ら2、3の同志も、度々私のところへ来ては、相共に悲憤慷慨した。しかし、痩浪人がいかに切歯扼腕したとて何の効能もない。世間からよく、「お前は重臣でありながら、なぜ直接陛下にい勧め申し上げて、戦争にならないようにしないと」いわれたが、そうはいかない。

    国政について意見を奏上するのは、輔弼の責任のある国務大臣でなければならない。(中略)ところが近衛などのなると、そこが違う。近衛なら理屈なしに拝謁できる。また近衛は直接拝謁しなくとも、内大臣を通して申し上げることもできるし、陛下の思し召しが内大臣を通して近衛に伝わる。他の者にはないが、雲の上近くにはそういう一種の流れがあった。

    昭和という時代は、「陸軍の謀略と共に始まった」と言われている。昭和3年6月の張作寮爆殺事件にはじまり、昭和6年9月18日の夜、奉天郊外で日本が経営する南満州鉄道会社、満鉄の線路が爆破された事を切っ掛けに満州事変が勃発する。「乱暴な支那を懲らしめよ」。国民の声に押され、関東軍は電光石火、3か月半後には全満州を占領した。これは日本本土の三倍半に当たる面積。

    時の内閣は、民政党の第二次若槻内閣。右翼の凶弾に倒れた浜口雄幸首相の後を引き継いだが、外務大臣は平和外交、国際協調主義の幣原喜重郎が留任し、陸軍大臣には宇垣に代わって南次郎が就任していた。満州事変を食い止めるチャンスはいくらもあった。若槻首相が毅然とした姿勢を見せていたら、拡大の芽だけは摘むことが出来た。おそらく浜口首相ならそうしたはずだ。

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    決して無理をしない若槻は、押しの利かない人間ということになる。早くから頭脳明晰で優秀な大蔵官僚と言われた若槻だが、平和時ならそれなりの実績をあげていたろうが、時代は激動の昭和である。指導力のある強力な首相を欲していたが、誠実で善意な若槻は自ら率先して嵐の中に飛び込み解決するという気迫に欠けた。それゆえに陸軍の謀略に翻弄されてしまう。


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    東条内閣総辞職当時(昭和19年7月)の重臣会議のメンバーは、若槻以下、岡田啓介元首相、広田弘毅元首相、近衛文麿元首相、阿部信行元首相、米内光政元首相、原嘉道枢密院議長、木戸幸一元内大臣、小磯國昭元首相となっていた。重臣とは、「内閣総理大臣の前官礼遇を賜りたる者及び枢密院議長」であったが、1940年に単純に「首相経験者及び枢密院議長」に改正された。

    若槻は昭和9年に創設された当時からのメンバーで、自身の重臣会議の立場についてこう述べている。「東条内閣総辞職後、例によって重臣会議が招集された。前々回私が近衛公を発議し、みなこれに賛成して第二次近衛内閣ができた。しかしそれ以降、若槻が先に発言すると、どうしても若槻の思想に近いものがでるようになる。それでは遺憾とどこかで考えたらしい。

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    だからその後の会議では古参の私に先にものを言わせないで、こういう会議では、下の者から発言するのが大体の順序だそうですということで、阿部信行辺りに発議させる。若槻に先に発言させちゃ遺憾という空気がよくわかる。私としても、強いて発言して、この人に限る、この人を出さなきゃ日本が滅びるというような人もいない」。といささか臍を曲げているように感じる。

    さらには、「比較的これがいいということだけだから、強く人を制してまで発言することもない」。と発言を制されたことで負け惜しみのようなことを書いている。ところが若槻が発言する段になり、彼は次期総理に再度宇垣陸軍大将を推したところ、「宇垣は陸軍の反対が強いから」という異論が出た。その際、若槻は以下のように述べ、以後は積極的に人選を推さぬようにした。

    「今日の時局に適任だと思って自分の推薦したものが、常に排斥されるというならば、自分はそう沢山の人を知っているわけでもなし、今日のごとき会合で意見を述べるほどの知識がないものといわなければならない。従ってお召しを被る資格の無いものと思うから、どうかこういう会合にはお召しにならんように…」と述べている。この言い方から彼の気性が推察できる。

    自分は誰よりも頭がよく、明晰でありながら、斯くの意見を無視されることに憤っているようである。感情を表に出さない若槻であるが、それゆえにこうした言い方になるのだろう。現代の会社の役員会議でこんなような発言をすれば、卑屈な人間と一笑に臥されるだろう。それほどに若槻は自分の意見が無視され、登用されないのが堪えられなかったと見受けられる。

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    リーダーが卑屈であってはどうしようもない。やはりというか、こういう若槻の性格ではリーダーたる資質には到底及ばない。この一件について、『木戸日記』に、「若槻は辞職を申し出た」と書いている。それについても若槻は無用の反論を試みる。「木戸は誤りで、重臣という職はないし、私は何も職を拝したのでないから、従って辞職なぞということはあり得ない」。

    こんなあからさまな屁理屈を書いている。木戸が、「職を辞した」と書いてることに、「職ではないのだから辞職ではない」など、ガキの言い分である。もし木戸が、「若槻は重臣を辞した」と書いていたら、辞職ではなく辞意となり、よって反論はできなかったとう。若槻は学問に長けていたからなのか応用が利かず、既定の問題に対し既定の答えを答案用紙に書く人のよう。

    本当に頭のいい人間は、機転が利き、応用に長けているからして、東大最高点の若槻は学問という答えのある問題に長けた秀才に過ぎない。若林は以後は重臣会議ですねた人間となってしまったが、小磯国昭に決まった。小磯も陸軍軍人で当時は朝鮮総督の地位にあったが、サイパン失陥によって重臣たちの倒閣に斃れた東条内閣の後を受けた小磯内閣が誕生した。

    事実上は小磯内閣であったが、近衛の発案で元首相で海軍の重鎮である米内光政と連立させることになった。昭和天皇は重臣とも話した上で、小磯・米内の両名に、「協力して内閣の組織を命ずる。」と大命降下した。何はともあれ天皇の下知であるが、これについて若槻は了解を取りに私邸に赴いた内大臣秘書官に以下のように答えたと書いている。

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    「自分に異議はありませんが、総理大臣は一人でなければならん、二人に大命が降るということでは、先年、大隈と板垣に大命が降って統一がとれず、変てこな内閣が出来て困ったことがある。ああいう事になっては遺憾がそれはどうか」。秘書官は答えた。「大命は小磯大将に降され、米内大将は総理を助けて共同して内閣を作り、戦時に必要な施策をやれとの御趣意だそうです」。

    若槻と同じく宇垣陸軍大将首相待望を願った人物がいた。東条内閣の農商大臣内田信也である。首班は小磯に決まったものの、内田はひそかに小磯の後は宇垣を推すのが最善と考えていた。宇垣を総理にという声は何度かあったが、ことごとく陸軍の反対にあう。宇垣は東京裁判を主導した主席検察官のキーナンから、米内・若槻・岡田啓介と夕食に招待された一人である。

    キーナンは宇垣を、「ファシズムに抵抗した平和主義者」と賞賛している。小磯首相は、就任早々に戦争継続を強調、檄を飛ばす。「大東亜戦争はこれからが天王山!」。小磯首相の天王山は何を指すのかは不明。サイパン島守備隊が玉砕したのが1944年7月9日。以降日本は敗戦に向かうが、小磯は米軍に一撃を加えた上で対米講和を図ることを意図し、レイテ決戦へと向かった。

    客観的にみても日米の兵力差は懸絶しており、米軍に決戦して勝利を収め、その後に講和に持ち込むのがもっとも理想的と小磯は考えた。しかし、陸海軍の意見不一致で作戦がまとまらず、10月23~25日のレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅し、10月12日には台湾が空襲され、2月8日、マニラが陥落したことでレイテ決戦は断念せざるを得ず、持久戦方針へと転換された。

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    折しも、北方国境も徐々にあやしくなりつつあった。小磯は蒋介石政権との単独和平工作を企図し、緒方竹虎情報局総裁と共に同政権国防部長何応欽と繋がっているとされた繆斌に接触した(繆斌工作)。陸海軍首脳部も一時はこの工作に賛同したが重光外相が猛反対。木戸内大臣、梅津参謀総長、昭和天皇も同工作に反対し、小磯は繆斌工作を断念せざるを得なくなった。

    昭和天皇は木戸内相とあいはかって、重臣を一人一人引見し、その時局に対する見方を徴した。老人である重臣たちにはほとんどこれといった有効な意見がはけない中、参内した近衛の上奏文は日本赤化の危惧という、近衛の持論を展開したもので興味深い。小磯内閣は在任8カ月半、昭和20年4月7日に総辞職した。統帥府と権限について意見の不一致という理由であった。

    若槻は小磯が大命を拝した時、「御苦労ですがどうぞ十分やってもらいたい。我々は自分の力で叶うことならば、何でもして御援助するから、難儀な時だけれども、どうか御苦労願いたい」と激励した。ところが小磯は進んで講和をしなかった。後継内閣についての重臣会議では、戦局がここまでくれば誰が出るにしても平和に向かって進むより仕方がない状況である。

    それには枢密院議長の鈴木貫太郎が良いとなり、全員一致して鈴木を推薦した。『古風庵回顧録』の締めくくりはこういう書き出しである。「以上で、政治に関する私の『回顧録』は大体お仕舞であるが、最期に一つ、東京裁判のことを付け加えて置こう」。回顧録の引用は省くが、「東京裁判史観」について元海軍軍人で東京裁判研究家の富士信夫はこう記している。

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    東京裁判史観とは、「東京裁判法廷が下した本判決の内容をすべて真実とみなし、日本が行った戦争は国際法、条約、協定等を侵犯した『侵略戦争』であって、過去における日本の行為・行動はすべて犯罪的であり、「悪」であったとする歴史観」をいう。明治時代を賛美する司馬史観からみた戦前の昭和は燦燦たるもので、彼が日本国家を嫌う理由も分からぬでもない。

    司馬は1991年(平成3年)、文化功労賞受賞の会見でこう述べている。「どうして日本人はこんなにバカになったのだろうというのが22歳の時の感想でした。昔は違ったと…」。1923年生まれの司馬は43年、20歳の時に学徒出陣で戦車隊に入隊、22歳の時に本土決戦に備えていた。上記の言葉はその時の上官の言葉から実感したものである。どうしてこんなバカな国に生まれたのか?

    「そんな22歳の自分の思いに手紙を書くために小説を書いた」と司馬は言っている。司馬が日本を論ずるにあたって、「この国のかたち」と言ったとき、多くの日本人は疑問を持った。「なぜ、わが国といわないのだろう」と…。司馬の、「この国」という言い方は、自らはそこから距離を置き、一体になっていない。明治以降の日本を司馬が書かぬ理由がそれである。

    昭和前半期日本国家の訳の分からぬ非合理な振る舞いを、司馬は以下のようにいう。「常識ではとても理解できないような精神の持ち主が、国中の冷静を欠いた状態にある時には出てくるものである。また、権力の実際的な中枢にいる者(具体的には陸軍参謀本部の参謀)の頭も変になり、変にならねばその要職につけない」。真に司馬のいうイカレタ日本人たちであった。

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    慶応大の金子勝教授(65)がツイッターに、「安倍首相が北朝鮮を煽り、森友・加計の腐敗を隠そうとしている」という趣旨の投稿をした。これまでも金子教授は、「(ミサイルを発射する)北朝鮮も怖いが、『戦時放送』を流す安倍政権も怖い」とツイートするなど安倍政権を批判するあまり、極端な意見を披瀝することがあり、今回も3千件超のリツイートがあった。

    金子教授の、「戦争屋」と題された15日のツイッターは以下の内容。「また北朝鮮の軍事政権がミサイルを飛ばし、また国営放送でJアラート一色。森友・加計の腐敗を隠そうと北朝鮮を煽り、疑惑だらけのトランプをけしかけ武器を買うアベ。NPT批准拒否のインドにまで核技術を輸出する。目指す改憲のために日本を北朝鮮のターゲットにし戦時体制にしたいのか」

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    これに対し、以下の批判的なツイートが殺到した。「もりかけ(森友・加計)は国内問題、北朝鮮とは関係ないだろ。なぜミサイルを撃つ方を批判しない。無茶苦茶な批判をする前に、大学教授なら安倍と漢字で書け!」。「安倍政権は北朝鮮のミサイルを自由にコントロールすることが出来ると言う事ですな。なら安倍政権一択しか選択肢はないことになりますなぁ」

    「安倍さんが一人でトランプや北朝鮮を自分一人に都合のいいように操ってるとおっしゃるんですか?逆にそこまでできる宰相ってすげぇ有能な気がしますが」。金子教授は、安倍首相がインドで歓待を受けたのも気に入らないのか、「今、核軍拡の最も危険なのはインドとパキスタン」。「北朝鮮の意図は核配備だ。それに対峙する最も有効な道は核兵器禁止条約だ。

    なのに条約に反対するインドに原子力技術を提供する」(要旨)。「世界に原爆燃料をばらまき、インドで原発事故も税金で補償する。外交無能で戦争を煽るだけ煽る」などと核開発に突き進む北朝鮮をそっちのけに、安倍首相の訪印を非難する。金子教授は日本のマルクス経済学者。東大経済学部卒業、東大大学院経済研究科中退。専門は、制度経済学、財政学、地方財政論。

    金子教授は13日にも東京新聞記者の菅義偉官房長官への質問に関してもツイート。「スガ悪代官が東京新聞の望月記者をターゲットにして東京新聞に『圧力』の抗議をした。さらに、官邸記者会見での質問回数を制限する動きがあるようだ。もし、そうした動きが本当で、記者会が受け入れたら、もう御用メディアだと大ぴらに認めることになります」と持論を展開した。

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    金子は反日・左翼学者であり、知る人は知るが、共産党のポスターなどには、「アベ政治を許すな!」など、例によってカタカナ表記が多い。理由の根底にあるのは特権意識や根クラ差別主義であろう。社会主義や共産主義は人種差別に反対する、一見リベラル派にみえるがとんでもない。カタカナ表記は露骨な表現をしない替わりに相手をバカにする姑息な表現法と見る。

    普通に漢字でいいのにあえて意図的に使わないのは誰の目にも不自然だが、カタカナ表記にはそのように相手に思わせたい意図もある。要するに、「漢字を使って正しく書く価値もない奴」という意味でカタカナを使うところに陰険さがある。これがいわゆる差別主義者の根っこに存在する腹黒さ、しかるにマルクス主義の歴史を紐解けば見えてくるものもある。

    共産主義はユートピア思想として誕生した。したがって全世界を共産化することで究極的ユートピア世界の再現を狙った。根底にあるのはアダムとイブの失楽園以来の堕落を、正道に戻すというマルクスのヘブライ的発想であり、「異教徒」=ブルジョワジーを根絶すれば永遠の安息が得られるという概念である。カール・マルクスは1818年、ドイツのトリールに生まれた。

    世界が動乱の時代に入りつつあった頃で、1789年に開始されたフランス大革命は、フランスにおける封建的領主体制を一時的に終わらせ、全ヨーロッパを戦争と占領で覆った革命の波乱の中から、フランスの新しい支配者が出現した。ナポレオン・ポナパルトである。ナポレオンはフランス革命後の混乱を収拾して、軍事独裁政権を樹立、国民投票で皇帝となる。

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    結果的にナポレオンはプロシア、イギリス、ロシアの同盟個に打ち破られたが、ドイツを支配した王朝の不安は終わっていなかったし、ナポレオンたちに対する解放戦争の間に自由主義的・民主主義的な諸勢力が次第に力を得ていった。こうした中で支配者層たち、とりわけプロシア王国の支配者たちは、自由主義思想の台頭に対して弾圧を強めていった。

    このような政治的、社会的不安を背に、「産業革命」が進行していた。18世紀に上気機関が実用化し、織物工業が機械化するなど、変わることなく数世紀に渡って支配されていた手工業生産様式が終焉した。技術的進歩という変化が一つの基本法則となり、「プロレタリアート」という勤労階級が生まれた。資本主義の初期段階における彼らの生活は実に悲惨であった。

    工場は、「恐怖の家」と呼ばれ、1日の労働時間は12時間以上に及び、多くの子どもたちが工場や鉱山で働いた。マルクスの両親はユダヤ人で、祖先は長きにわたってユダヤ教のラビを務めたが、マルクスの父親は公務職の法的地位を得るため、キリスト教プロテスタント派に宗旨替えをしている。マルクスは父の後を継ぐため、ボン大学とベルリン大学で法律を学ぶ。


    法学に興味を持てなかった彼はほとんど講義には出ず、病気になるほど熱情的に哲学研究に打ち込んだ。彼はヘーゲルに読み耽り、ヘーゲルに心酔し論文を書いたりした。マルクスはその主著『資本論』のあとがきで、自らヘーゲルの弟子であった事を告白している。それほどヘーゲルにつかれていたマルクスだが、やがてヘーゲルを批判し、決別して行くことになる。

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    ヘーゲルといえば、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」といった。現実のみが真に理性的・合理的であるとするなら、それは現実の無条件の肯定である。立ち遅れ、歪められた現実への無条件の妥協でもある。立ち遅れて封建的なものを残すドイツ社会、保守反動的なこの国の現実を哲学は理性によって徹底批判すべきとマルクスは考える。

    それがマルクスのヘーゲル批判の核になって行く。近代哲学の祖デカルトは、「我思う故に我あり」と言った。「疑っても疑っても疑い得ないのは、疑っている(考えている)我がある」ということ。デカルトはこういう、「我」を基にいろいろな問題を考えた。それに反してヘーゲルは、不合理で非理性的で反人間的なもの、保守や反動や弾圧や不自由なものを存する現状に妥協した。

    マルクスは、啓蒙主義的・自由主義的な、自己意識・人間主義・類的存在といった考え方を拠り所にヘーゲル批判を行った。自由主義の理念は各大学を支配し、時代は新しい思想の夜明けを孕んでいた。マルクスも急進的自由主義の指導的な学生団体に加わる。その中でマルクスは発想や行動力から傑出した存在となる。そんな彼を周囲は、"当代最高の哲学者"と礼賛したという。

    短気で怒りっぽく、自信過剰で傲慢不遜で、神にさえ挑戦しようと試みたマルクスは、古代ギリシャの神プロメテウスを信奉した。マルクスの急進的ヒューマニズムは、1841年の博士論文に表現されている。論文を書いた翌年マルクスはジャーナリズムに転じ、ライン州ケルンの町の、「ライン新聞」の主幹におさまる。マルクスはこの町で生涯の友エンゲルスと出会う。

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    エンゲルスはライン州バルトン市の裕福な工業経営者の息子であり、彼もイギリスのマンチェスターに綿糸工場をもっていた。ところがマルクスはケルンに来てから1年後、プロシア政府の厳しい追及に嫌気がさしてか町を去り、当時もっとも自由主義的な都会であるパリに赴く。失業者であったがそこでマルクスは共産主義に転向する。そのとき彼は25歳であった。

    マルクス以前にも共産主義思想や共産主義グループはあったが、多くは労働者階級の悲惨な生活から生まれた。それらはマルクスの興味対象ではなく、彼にとっての共産主義とは、念入りに仕上げられた自らの哲学研究であり、宗教批判の必然的な帰結であった。マルクスの宗教批判は、「人間にとって最高の存在は人間自身である」という結論によって完了する。

    彼の著作にはプロメテウス的主題が散見されるが、次の言葉は代表的なもの。「何者も、人間より上に立つことはできない」。しかし、どのようにすれば、人間は威厳をもって生きて行くことができるのか?それには哲学が不十分であることをマルクスは知っていた。哲学はあらゆる非人間的環境を打ち壊す事はできない。そのような変革に必要なものは強力で社会的な、「力」であり。

    彼はその、「力」を悲惨なプロレタリアートに見出し、"指導理念としての哲学とプロレタリアートの連携"が、以後マルクスの目標となる。マルクスが労働者階級に振り当てた、「救世主としての役割」が任務として形成され、全人類の解放を意味した。万国の労働者たるプロレタリアートは、完全に対等で、敵の胸壁である国家を解体するという戦略であった。

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    1980年代の中頃から、世界の社会主義諸国は音を立てて崩れた。封建主義⇒資本主義⇒社会主義⇒共産主義の移行をマルクスは歴史の必然であるとした。つまり、資本主義社会の抱える矛盾は、必然的に社会主義社会を生み出すことになる。と、これが社会主義国家を支えたマルクス理論の確信に満ちた予言だったはずなのに、なぜこのような時代の大変革が起こったのだろう。

    マルクスによって発展させられ、レーニンやスターリンらによって仕上げられたこの理論にはさまざまな名がついている。「マルクス主義」、「マルクス=レーニン主義」、「科学的社会主義」、「史的唯物論」等は、現代社会に広く流布された理論に相応しいい名である。「世界の本質は物質である」とするマルクス理論が、「史的唯物論」と言われる所以である。

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    社会主義国家の崩壊は歴史が示している。共産主義国家という定義は曖昧であり、厳密にいえば共産主義国家というのは、現在も過去も出現していない。すべては社会主義国家である。中国もかつては社会主義を目指してういた。国家の制度も社会主義に沿うように組み立てましたが、他の社会主義国が軒並み崩壊したので危機感を強め、資本主義国家に移行しようとした。

    それでは甘い汁を吸っていた共産党が困る。中国人はまとまりが悪いので資本主義でやれる自信もない。そこで折衷案として共産党独裁のまま、経済だけを資本主義化した。もっとも中国が取り入れたのは資本主義体制というより自由経済である。したがって、中国は共産主義国家でも社会主義国家でも資本主義国家でもない。共産党独裁による独自の政治体制を敷く国家。

    1845年、マルクスはあらゆる共産主義グループの全ヨーロッパ的ネットワークである、「共産主義者同盟」に参加した後の1848年2月、「共産党宣言」をエンゲルスと共に発表する。これは、「共産主義者同盟」におけるプロレタリアートの役割を明確化した、いわばマルクス思想のそれこそ基本文献といえる。30ページほどの小冊子で、わずか1000部しか印刷されなかった。

    19世紀にたびたび改版をし、世界各国語に訳されている。「こんにちまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」。との有名な序文に続いて4章からなっている。この宣言は、世界中のあらゆるプロレタリア運動の指針となり、19世紀後半から20世紀末までの人類史を最大級に動かすテキストであった。「万国のプロレタリア、団結せよ!」最後の一文はこう述べている。

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    社会変革のためには物質的利害関係の基礎をなす経済への理解の必要性を認識し、マルクスは経済学研究に没頭していった。1849年、ロンドンに亡命したマルクスは、大英図書館に入り浸って経済学研究を続ける。共産主義者同盟の組織活動は止め、経済学批判に関する執筆にとりかかったのは、将来、あまりにも有名になる著書『資本論』を書くためであった。


    当初は5週間で書き上げる予定だったが、マルクスが生きている間に出版されたのは『資本論』第1巻のいくつかの部分にすぎない。しばしば病に襲われた事と、執筆計画が複雑だったことが仕事の進捗を妨げた。他の部分の断片的原稿は、マルクスが1883年に他界したあと、エンゲルスによって編集され、刊行された。一般的に『資本論』はマルクスの主著とされている。

    大著『資本論』は、経済学研究の成果であり、市民社会ないし資本主義の構造を分析し、その必然的な法則を明らかにすることであった。資本主義の構造の解明は、同時に資本主義の矛盾や資本主義の墓堀人を明らかにすることになる。とはいえ『資本論』は、ところどころ内容の理解が困難なためか、ごく少数の専門家しか読もうとせず、理解もしていない。

    改めてマルクス理論を要約すれば、①マルクス主義の世界観は唯物論のそれである。彼のもっとも主張するのは、「人間の存在を決定するのは人間の意識ではない。人間の存在がその意識を決定する」と、この言葉である。『資本論』はまさにプロレタリアを、人間を解放するための科学であり、理論である。その意味において、『資本論』そのものが科学的社会主義である。

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    ②唯物論的な世界観は、それが歴史学に応用されると、「歴史の客観法則を発見した」と宣言することになる。③これまで存在したすべての社会の歴史は、階級闘争の歴史であり、この階級という概念こそマルクス主義の決定的理論といえる。階級間の対立は歴史の駆動力とみなされ、かくて進歩的階級と反動的階級とが存在し、前者は歴史の進歩を推し進め、後者は妨げる。

    資本主義社会において進歩的役割を演ずるのは、何も所有していないプロレタリアート勤労階級となる。したがって、プロレタリアートは、「失うべき何物」も所有していないゆえに、歴史的使命を与えられている。彼らは、「生産能力」を資本家の掌握下から解き放つことによって、彼ら自身のみならず、全人類を解放する。かくてプロレタリアートは、「全人類の解放者」となる。

    これが『資本論』が人間解放のための理論であり科学であることを示している。そうした科学的社会主義、社会主義社会こそが近代的産業社会を運用するうえで最も優れているというマルクス主義の約束は、なぜ果たされることがなかったのだろうか。ばかりか、社会主義的な計画経済の崩壊によって、資本主義的な市場経済が絶対的に勝利を収めたかのようなこんにちである。

    ベルリンの壁が壊れ、東ドイツから西ドイツにに来た人々は、これまで彼らの目に隠されていた西側の富に驚いた。公害もほとんどなしに清潔で輝いている街並み、消費財で溢れる商店や雑誌広告、全世界から送られた果物や野菜、誰にでも手に入る最新式の自家用車。すべての点において西は東を上回っていた。ばかりか、東ドイツは荒廃した灰色が支配的な色彩だった。

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    建物や街路を覆う埃の灰色、古い工場や石炭を燃やす住居からの煙で汚染された灰色の空気、時代遅れでお粗末な乗用車から出る排気ガスの灰色、社会主義社会の澱んだ全体主義支配で窒息させられた人々の心や魂の内面的灰色などなど。「本当に機能する唯一のものは、明らかに自由市場経済である」。1990年初頭の西ドイツ駐在アメリカ大使が誇らしく言った。

    歴史を作るのは人間である。各人が意識的に意欲された自らの目的を追う事によって、結果はどうあれその歴史を作る。個人なら人生という歴史、社会なら時代という歴史である。様々な方向に働いているこうした多数の意志と、外界に加えられるこうした意志の多様な作用との合成された力が、まさに歴史である。したがって、個人が何を意欲するかが大切となる。

    意志は、熱情や思慮に規定される。さらには熱情や思慮を直接に規定する物には様々ある。観念的な動機もあれば、外的諸事物や、名誉心、真理や正義感、個人的憎悪、さらにはあらゆる種類の、まったく個人的な気まぐれであれ、立派な動機となる。人間の動機というのは実に様々で、ならば、このような様々な動機を生み出すものはなんであろうか?

    様々な動機を生み出す、「推進力」がある。「推進力」は何か?このように考えてみる。歴史のうちで行為をしている人間の動機の背後に、意識されてか意識されないでか、しかも大抵の場合は意識されないで…あって、歴史の真の究極の推進力となっている原動力を探求する事であるとすれば、それが私益動機であるのか公益動機であるのかの問題に突き当たる。

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    ひとりひとりの異なった意欲を生む動機ではなく、多くの人々を共通の意志に駆り立てるような動機を見つけだし、行動する人は優れたリーダーとなろう。今の日本で、社会主義体制か資本主義体制か、どちらかを選ぶ国民投票があったなら、圧倒的に資本主義体制を選ぶだろう。進歩的と思われる労働組合の幹部であれ、社会主義が良いと答えるものは少ないのではないか。

    日本に限らずどこの国でも社会主義のイメージは芳しくない。理由の一つに社会主義国家は独裁になり易いからだろう。現にこれまでの社会主義国家は独裁政権であった。社会主義国家でなくとも、第二次大戦後のフィリピンのマルコス体制、インドネシアのスハルト体制も、反共を国是としていたが、国家主導の経済建設と政治的自由の抑圧という点では社会主義国家に近い。

    上記のように、資本主義か社会主義かの問題は、どちらを選ぶかという選択の問題ではなく、歴史的発展の必然にかかわるものだというマルクス理論であるが、本来の必然とは、資本主義がそのまま社会主義に自然に発展するということではなく、資本主義の矛盾に基づく階級闘争が、その闘いの結果として、社会主義を生み出すのだということを意味している。

    1989年5月15日、ゴルバチョフが中国を訪問した。中ソ両国・両党関係の正常化は懸案であり、多くの人々が歓迎した。両国の接近が実現した背景には、両国首脳が、「脱イデオロギー化」を唱えていたという事実がある。一体、イデオロギーとは何か?それは斯くも容易に抜け出すことができるものなのか?いうまでもないが、中ソのイデオロギーとはマルクス主義である。

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    「人の話」とは人が物をいうその内容で、それを意見ともいうが、「意見」とは、ある問題に対する主張であり、考えであるなら、意見とは言えないものもある。ただ単に思っていること、思ったことをいうのも意見とし、意見であるを否定しないなら、「つまらぬ意見」も存在する。他人の意見をつまらないといった時に、「お前の意見はつまるのか?」とムキになる者もいる。

    だからか、ダメなもの、つまらぬものを批判しないで黙っている人は多い。キチンとした反論ならまだしも、批判されたから言い返す的なものもあるわけだ。誰とて批判は望まないし、好まないが、藪から棒の批判はしない方がいい場合は確かにある。ようするに、人間関係が樹立していない相手に対する批判は、有意義な批判とはならない。ならば、有意義な批判とは?

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    人間は感情の動物だから批判されればㇺッとくるだろうから、有意義な批判とはそうはならずに、相手が耳に入れて思考するような批判をいうのだろうか?正当的にいえばそれが有意義な批判のように見える。が、別の観点もある。有意義な批判とは、「公」的なものだと思っている。相手がそれを耳に入れるとか、無視するとか、怒るとかは単に様態でしかない。

    つまり、人間個々によって受け取り方が違うもので、自分の批判意見に対して相手がどう反応するかは予測できない範疇である。相互に人間関係が確立されているといえど、こちらの一方的な思い込みもあるし、相手にすれば自分はそういう対象と見ていない場合もあれば、人間関係が樹立している場合でも、事によっては気分を害するような批判もあるからだ。

    誰にたいしても普通に言えるようなことでも、人によっては気に障ったというケースを経験した人は多いだろうから、99人が許容できても1人はそうでない場合もある。「言わぬが花」、「沈黙は金」、「触らぬ神に祟りなし」などの言葉は人間関係の難しさを示している。ならば、これらの慣用句を世渡り術と心得、それを踏襲するか?それとも批判を怖れないか、これも選択である。

    何も言わないのが良いという選択は、反動を怖れてのことだろうが、批判を怖れないなら、言わぬが花の世渡り術など姑息であろう。存在感のある人間、周囲に影響力を与える人間は、確たる持論を公言し、相手と意見を交換し、あるいは闘わせることで勝ち得るものであるからだが、そういう人間は性格的に向き・不向きもある。「向き」となら行動し、「不向き」なら動かない。

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    「自分は人の上には立ちたくない」という人間は、「立てるような人間でない」と正直に告白するものもいるが、自信の無さを隠していろいろと理屈や言い訳をする者もいる。人間は自分が出来ないことを、「したくない」と言い換える自尊心を持っている。「別に勝ちたいと思ってやってるんじゃないよ」。将棋をやっていると、必ずやこういう言葉を吐く人間に出会う。

    言葉に本音は見えず、つまらぬ自尊心が言わせる言葉である。以前は、「勝ちたいからやっていないという言葉は、勝とうと思えばいつでも勝てる力のある人間がいうことだろ?勝とうと思ったら勝てるのか?」などと言ったりした。なぜ、そうまでして相手の自尊心を壊すようなことをいうのか?意地悪ではなく、「そんな言い方するもんじゃない」を突き付けるためだ。

    「何でそんな言い方をする必要があるのか?」である。「勝者を侮辱するような人間でありたいのか?」という問題提起である。「勝とうと思わない」などいう人間は嫌われ、周囲からも敬遠されるが、本人はそうであるを知ってか知らずか、どちらにしても、自分の自尊心が崩壊しないことの方が重要なのだ。大体において、憎まれ口を叩く人間は得てしてそういうもの。

    憎まれ口を叩けば嫌われると分かっていても叩いてしまう。叩かなければ生きていけない。オーバーにいうとだが、それくらいに傷つきやすい性格である。つまり、自尊心の高い人間というのは、そうした弱い人間であるということ。「このハゲ---!」で一躍有名になった豊田真由子議員だが、一時期雲隠れをしていた彼女であったが、数日前に謝罪会見をした。

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    批判ばかりが渦巻く会見だったが、泥を被った彼女を自分は評価する。少なくとも山尾志桜里よりは人間的だ。豊田を批判する人間は、なぜ山尾批判をしないのか。自分は豊田議員が何の謝罪会見をすべきなのかがいまいち分からなかった。秘書を罵倒したというが、罵倒だけで刑事罰が科せられるわけでもない。暴力を振るったというが勢い余った程度で、謝罪の主旨は暴力ではない。

    豊田の醜態をあらかじめ録音していたように、被害者には誰でもなれる。被害は往々にしてオーバーであり、でっち上げの部分もある。内出血程度の打撲でも、アオジが消えるまで1~2週間かかるなら、医師の診断書は、「全治10日」。秘書の気持ちも分からなくもないが、この秘書はつまらぬ男よ。やることが確信犯的で姑息で汚い。まさに女の腐ったような男である。

    いや…、こういう男を女の腐ったというなら、腐った女に悪い。時間を限定せず記者会見に臨む姿は、そこでの発言がどうであれ、行為自体が十分に謝罪に値するもの。「これが会見か!逆切れする豊田議員」などの見出しもあるが、記者は何とか彼女を怒らせるような、琴線に触れるような質問をあえてする。外国人なら我慢をせずに、感情むき出しに怒鳴りつけよう。

    豊田議員のそうした醜態を煽ろうという記者に対し、彼女は精一杯の我慢をしていたようだ。女性が私生活でブチ切れ、乱暴な言葉を吐くのが、そんなに異常なことなのか?国会議員と言えども、委員会や議場での不規則発言はあろう。かつて吉田茂首相は議場で、「バカやろう」と言った。神聖な議場というが、人間が神聖なのではない。仮面を被っているだけのこと。

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    時に、仮面を脱ぐこともあろうが、そのことを一事が万事が如く、面白可笑しく記事にして売ろうとするのが下種な週刊誌。何もしない卑怯者の山尾議員に比べ、行為をした豊田議員は男(?)らしい。山尾議員は美貌で得をしている部分もあるが、選挙民は不倫を誤魔化す嘘つき山尾は落選させるべきである。豊田議員はこれを糧に今後もハツラツ(?)と議員活動してもらいたい。

    秘書はハゲでもデブでもよかろう。エリート意識が強い人間は、こんなに泥を被ることをあえてしないものだが、そういうズルい人間でなかった点において信頼できる。これが自分の豊田観である。宮根がインタビューした彼女の発言を聞くに、進学塾を経営する親の犠牲になった感が否めない。警察官や教師の子どもがぐれるのは、親の締め付けが厳しいからだろう。

    教師の子、警察官の子ということなら、世間的に良い子であらねばならず、だから子どもを締め付ける。子どものためにではなく、親のメンツのためにである。そこを子どもが嗅ぎ取った場合、子どもは親のメンツの犠牲になど冗談じゃないとばかり、反抗を始める。豊田は進学塾経営者の子ゆえに高偏差値であらねばならなかった。彼女は親に抗わず、自らを犠牲に親の顔を立てた。

    人間は愛されて育てば人を信じられるようになる。子どもは安心感のなかで、はじめて心理的に成長していける。安心感とは即ち、「自分は愛されている」という実感である。子どもから見た親の姿勢が、自分のために尽くしてくれていると感じるか、親の都合のために自分を利用していると悟るかは大事なこと。自らを犠牲にして得た東大卒は彼女にとって何であったか。

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    こうした家庭環境の子どもは、その道を進まされた以上、得た境遇を良しとするしか生きるすべはない。親の期待に応える努力はしたとはいうが、大半はスパルタ的強制であって、好きな野球やゴルフなどの自らの意志で叶えた夢とはまるで違う。人は人が決めた道では幸せにはなれない。が、自分の意志で掴んだ幸福でなくとも周囲はそれを誉めそやす。

    人間に与えられた唯一本当の可能性とは、自分が自分のためによかれと思う幸福を実験すべきである。自分のために生きるべきであるはずなのに、親のご機嫌取りで生きる子どもの多き哉。自分がやりたかった事はあったはずなのに、親がそれを許さなかった子どもは、どんな高い地位にあろうと葛藤のままに人生を生きて行く。あげく、現状を良しとして生きていく哀れな人間だろう。

    多くの子どもは飼い慣らされた犬と同じよう。それが楽でいいと友人から聞いた自分は驚いた。親の言いなりが楽だという人間の存在を知った驚きだった。人間が抱える問題と言うのは、人間にとって究極の問題である。つまり、生き甲斐とは?幸福とは?という問題。飼い慣らされた犬にとって、飼われている事は抑圧ではない。楽と言う人間もおそらくそうだ。

    飼い慣らされた犬はエサの心配をすることはないが、野生の犬と同じだけの喜びを味わうことができるだろうか?飼い主の都合で避妊手術もなされ、種族保存本能さえも奪われる。これみな飼い主の自己満足のため。飼い主の機嫌を拠り所とするようになった犬は、本能を奪われ屈曲であることさえ気づかない。それが家畜の生涯である。肉にされないだけましか…

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    中国と旧ソ連はもっとも長い陸地の国境を有する隣国であり、中ソ関係は紆余曲折な発展の過程を経てきた。1950年代は中ソの友好協力関係の発展時期であったが、蜜月は長く続かず中ソ関係は徐々に悪化し、朝鮮戦争時にはきしみ始め、ついに武力衝突に発展した。対立の争点はイデオロギー問題にあり、フルシチョフは社会主義体制優位の上に西側と平和共存は可能とした。

    対する毛沢東は、現在を革命と戦争の時代と捉え、双方の主張は譲り合いを見なかった。スターリンの全面批判から始まったソ連、いくつか過ちはあれどスターリンは偉大なるマルクス・レーニン主義者とする毛沢東の対立が深まるにつれ、中国はソ連の社会主義を無理に中国に持ち込むのは誤りとし、中国の建設に必要なものだけを学ぼうという姿勢に転換して行く。

    中ソ両国にとって、「脱イデオロギー」とは、マルクス主義=科学的社会主義を放棄するということになるが、両国首脳がそんな単純な言い方を言い方をしたわけではない。両国はこれまで以上にアメリカと上手くやって行くと述べているが、日本については日米安保条約の問題を無視している。このときの首脳の主なやり取りが、1989年5月17日付朝日新聞に掲載されていた。

    ゴルバチョフ:「私達はマルクス・レーニン主義への信仰を減少させたわけではない。各国の具体的条件に基づいて、マルクス・レーニン主義を実生活に根づかせようとしている。」

    小平:「その通り。真のマルクス・レーニン主義者は現在の状況を理解することから始める。既成のモデルや固定したモデルは存在しないしあり得ない。世界情勢は、科学技術の発展を含め、日進月歩の勢いでダイナミックに進んでいる。新しい思考を採り入れない者は真のマルクス・レーニン主義者ではありません。」

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    共産主義への批判が高まる中、両氏ともマルクス主義者を自認し、一歩も引かない構えである。社会主義国家のリーダーたるものはマルクス主義者であるのは当然であるにしても、そうしたイデオロギーが国民に支持されないとするなら、リーダーたるは柔軟になるべきか、それとも暴力なども含めた力で思想統一をするのか、個の自由を制限する社会主義国家には難しい選択だ。

    マルクス主義者=科学的社会主義者を継承するのはいいが、問題はそれを各国別に、また、現状に即して発展させることにあるかの如くであるなら、とりたて言うこともない。少なくとも社会主義国家における国民の不満は、自由を制限されることにあるのは、「民主化を!」と叫ぶデモから判断できる。ゴルバチョフが中国を訪問した翌月、天安門事件が起こった。

    中国の学生を中心とした民主化要求デモは、4年前の1985年3月にゴルバチョフがソビエト連邦共産党書記長に就任したのを契機に始まっていた。ソビエト共産党による一党独裁制が続く中で、言論の自由への弾圧や思想・良心の自由が阻害されたことや、官僚腐敗が進み、硬直化した国家運営を立て直すため、「ペレストロイカ」を表明して同国の民主化を進めようとした。

    1949年の建国以後の中国も中国共産党の一党独裁下にあった。1986年5月、中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦は、「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し、国民からは、「開明の指導者」として支持を集め始めた。「百花斉放」とは、いろいろの花が一斉に咲き開くことから、「学問・科学・ 文化・芸術活動などが自由に活発に行われること」。

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    「百家争鳴」とは、「いろいろな立場にある人(学者も専門家も民衆も)が、自由に議論を戦わせること」 。建国後の社会主義改造の過程で、胡風(魯迅と親交のあった中国の反共主義者で1955年に逮捕され、1979年まで投獄された詩人・評論家)ら、ブルジョア思想批判キャンペーンのために、萎縮していた知識人の活動を積極化させようとのスローガンのもとに打ち出された。

    ベルリンの壁崩壊は1989年11月9日だが、東欧の社会主義国が民主化の動きをみせ始めたことで混乱が続いていた。契機になったのは、1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソ連国内のみならず影響圏にある東欧諸国でも民主化を求める声が高まり、他の東欧諸国や東ドイツ国内でも民主化推進の声が高まっていた。

    1989年3月3日、民主化を進めていたハンガリーのネーメト首相とゴルバチョフ書記長が、モスクワのクレムリン宮殿で会談した。この時にネーメトが切り出したのが、ハンガリーとオーストリアの国境300キロに及ぶ有刺鉄線の撤去であった。この国境柵は長きに渡って腐食し、低圧電流を流す鉄条網は故障が多く、維持費がハンガリーの財政に重くのしかかっていた。

    ネーメトはゴルバチョフに、「国境柵の有用性は尽き、違法に西側に脱出しようとする東ドイツとルーマニアの市民を押しとどめるだけに役立っている」と説明した。ヨーロッパには、「鉄のカーテン」なるものが在った。これは冷戦時代のヨーロッパにおいて、東西両陣営の緊張状態を表すために用いられた比喩であり、ベルリンの壁のような物理的な構造物ではない。

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    あらためてイデオロギーを問う。実際の社会の仕組みは、その社会の経済的構造が土台となり、その上に、政治、法律、芸術、宗教、思想などがあり、それらは上部構造と呼ばれた。このうち思想、宗教、芸術などは原始社会にも存在しており、人間の生活に大きな影響をもち、自然や人間そのものについての知識が貧しかった時代には、神話や呪術が人間の行動基準になった。

    そうした時代が長く続いたために、さまざまな形の宗教となり、人間の思想に大きな役割を占めて来た。こんにちでも、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教、道教などは、その起源を遡ることはできる。今では洗練された教義を持つ宗教も、もとは原始的な当時の経済状況に即した、未熟で素朴な考えであった。にも関わらず、多くの人に共通した考え方であり得た。

    社会そのものが未熟で階級社会に分裂しておらず、個々の狭い共同体にあっては、共有するものが同じであることは自然なことだった。人間の長い歴史のなかで、生産力が上がり、発展もし、一人の人間が生きて行く以上の生活資料が生産できるようになれば、生産に携わる人と生産から離れて生産者から生産物を搾取し、社会全体の共通の仕事に専念する人に分離した。

    つまり、搾取と被搾取、支配と被支配の関係が生まれることになり、これが階級対立の始まりである。搾取側はより以上に搾取しようとし、搾取される側は何とか搾取を抑えたい、あるいは搾取そのものをなくしたいと考えるようになる。これが対立の原因である。こうした階級対立をやわらげ、被支配者を支配者の思うがままに従わせるがために国家が生まれた。

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    搾取側と被搾取側という立場(階級)の違いや考え方の違いから対立が生まれるのは必然であり、つまりは経済上の対立というのは、思想対立が根幹にある。現状維持の思想と現状打破の思想と、これを放置すれば現状打破(働き手)側が多い事からして、階級闘争はますます激しくなり、社会は変革されることになりかねない。これは搾取側にとっては真に都合の悪い。

    なんとかして、被支配者、被搾取側の思想を抑え込み、双方に共通・対等のようなものに見せかけねばならない。本当は支配者に都合の良いものでありながら、被支配者に納得させるものならいいが、これは難しい仕事だ。ところが、社会が未発達時代には事実に関する知識が被支配者側になく、宗教の力が大きいとなれば納得は難しいとはいえ不可能ではなかった。

    しかし、このような思想の練り上げは、そのことに専門にかかりきりでなければできない。それを知識人と呼ぼうが、哲学者・思想家と呼ぼうが、呼び名などはどうでもよく、とりあえずそういう人間が生まれてくる背景も必然であった。虐げられることで発奮し、最初に立ち上がった人は歴史が示しており、そういう人物はまさに知性と行動力に溢れた人々であった。

    儒教は人をまとめることに寄与するも、道教は人間個人の自由を旨とする思想である。宗教も思想の一つでもあるが、教団と言う組織や様々な施設を持つことで、より強力なものとなり、国家はそれらを大いに援助しようとする。宗教思想の底辺には、多くの人々の従来から引き継いだ考え方、生得のもので無意識的なものの考え方が、矛盾を内包したまま存在する。

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    人間は生きることに脆弱であるがゆえに宗教や思想に依存しがちであるのを見切ったかの如く、知識人や思想家や宗教家といえる一群の人間が大きな役割を果たすことになる。これらは支配階級にとって都合のよい、現状肯定的な考え方の体系によって包み込まれていることを人間は気づかない。ばかりか、宗教者にとって都合の良い事を、「有難いお言葉」とひれ伏す。

    会社の経営者から誉め言葉をかけられると誰もが嬉しく悪い気はしない。自分が会社の役に立てている喜びが一つの誉め言葉で済んでしまうなら、経営者にとってこれほど安上がりなものはない。これは支配側と被支配側が対等な関係でないことから、必然的に起こること。したがって、多くの経営者たちは被支配者である従業員に対し、飴と鞭を上手く使っていく。

    まあ、少し頭のよい人間はそんな綺麗ごとで支配者の意のままになるを良しとしない。人間はそれほどバカではないゆえに、「誠意とは金である」といった現実思考が物を云う。人間が言葉で心を搾取されることを良しとしない強さであり、知恵であろう。腹の痛まぬ言葉は安上がりだが、経営者がもっとも出したくないものを出すのが、「誠意」であるを疑う余地はない。

    利口な働き手を所有する利口な経営者は正しく誠意を実行するが、言葉や勲章で人間の自尊心が満たされるのも事実である。「同情するなら金をくれ」という言葉は浮かれた社会を斬った。人間は同情心さえあれば簡単に、「いい人」を実現できるが、他人への同情もまた腹の痛まぬ自己満足的なもの。人間は自己満足を得るため、いとも簡単に自己欺瞞をやってのける。

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    世の中には綺麗ごとが蔓延り、それが現実を乖離させている。美辞麗句を並べる思想家より、本音を突き付けるそこいらのおっさんの方が現実的であり、信頼もおけるが、綺麗ごとが好きなのも人間である。資本家すべてが搾取するのではなく、搾取しがちな資本家に階級闘争を挑むのがマルクスの理論だが、マルクスの唱えるユートピアは逆に特権階級を蔓延らせてしまう。


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    そもそも、マルクスが資本主義社会の中にその萌芽を発見した共産主義社会というのは、実のところ国家なき社会であった。理論が現実を生み出すわけではないし、現実がその現実を正当化する理論を生み出すとするなら、独裁体制が独裁体制を正当化する理論を既存の理論を素材にして生み出すことになり、同じ素材から全然違う現実を正当化する理論も生まれ出る。

    似たような体制が違う理論で正当化されることもある。イランはイスラム教を国是とし、聖職者が法解釈の最終決定権を握る独裁国家であるが、ミャンマーは仏教社会主義を掲げる軍事独裁国家である。北朝鮮はマルクス主義を朝鮮の現実に適用した、「チュチェ(主体)思想」を国是とする。これは思想というより、「金一族」支配体制を絶対化する宗教のようなもの。

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    理論(理屈)はどのようにでも後付けできる。したがって、自己正当化のための理論は股座膏薬的なものであっても理論となる。ただし重要な点は、どのような独裁体制を正当化する理論であれ、その素材となったオリジナルの理論と比べてみると、どれもこれも著しく捻じ曲げられていたりする。人間は本質を見失うことで、非本質的なものを過大視する傾向がある。

    人間にとって重要なことは、「人間である」ということが自覚されることで、今までつまらぬことに浮かれていたこと、気を使っていたことをなくすること。そこに気づき、どう改め、いかに実行していくかである。この世界に矛盾なき場所がどこにあろう。人は「真」に目をつむり、「美」を求めようとするが、真を見ない臆病者は「美」を生きることなどできない。

    自己責任や信念を失った人間が、「美学」を失っているようにである。世の中には、経済や政治などのような実際に社会を動かす仕組みの他に、人間社会全体を動かす触媒作用のような力をもつ、「真・善・美」への希求があるはずだが、「真」について綺麗ごときは、屁をこきながらでもいえる。一例を挙げるなら、「人間は生まれながらに自由であり、平等である」。

    これは「真」か?そんな言葉が当てはまらない国には世界のどこにもないと知ってのことなのか。今夜食べるものにもありつけず、人間としての尊厳とも無縁の国の人々はいないとでもいうのではなかろう。体や衣服を洗うこともままならず、病気の治癒さえもできない。病院はあっても薬もなければ熟達した医師もいない。そこでまともな医療は受けられるハズがない。

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    そうした途上国、未開発国は別にして、先進諸国では、「人間は平等」と教えられる。日本人もそのように教えられるが、こんなことは言わずもがな、「嘘」である。およそ地球上に存在する総てのものは、決して平等の運命にあずかれるようになっていない。例えば電車や飛行機事故で、なぜに誰かが命を落とし、誰かが助かるのか?我々はそれを、「運命」などという。

    運命が正しいのではなく、運命という言葉で分からぬものを誤魔化しているに過ぎない。「運命」という言葉は便利であるが、どこか胡散臭いし、だから使わない。起こることを必然とする運命論者には違和感がある。起こった事実を運命とするなら納得する。30歳で病死する人、90歳を超えてなお元気な人、これは前世から決まっているというのは宗教観であろう。

    「全てのことは起こるべくして起こる」という理屈は、宗教的思想以外に何の根拠があるというのか?「一切のことは、たまたま起こった」という考えには「嘘」は見出せない。「運命は前世の仕業である」といってもいいが、それで心が満たされる人を否定する気はない。神や地獄や極楽も同様にである。「死後の世界はない」は、確信と言うより「思う」である。

    「宿命」と、「運命」の相違についていうなら、「宿命」の意味は前世から決められた運命をいい、「運命」とは読んで字の如し、「運ぶ命」である。人間の意志に関係なく巡ってくる、「幸」、「不幸」のことで、「巡り合わせ」という意味が混同される場合が多い。人は誰の下に生まれ出るのか分からない。どのような環境、いかなる容姿で生まれるのかも選べない。

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    巷で言うところの、「運命論者」という言い方は、「宿命論者」と言うべきかもしれない。自らの意志で生まれ場所を選べない替わりに、生まれながらにして不平等たる命運に立ち向かうことはできる。オリンピックのモットーは、「より速く より高く より遠く」であるが、生まれた境遇を呪わず、よりよくしようと頑張る人は美しく、本人に至っては楽しいことだろう。

    しかし、戦時中の兵士たちのように、自らに課された運命に抗えない不幸な若者もいた。 彼らは人生の中途で死以外に選択の余地がなかったというのは、国家犯罪である。国家が国家としての体をなさない場合もあろうし、愚か者が上に立てば悲劇が起こる。司馬遼太郎は学徒で従軍した際に、上官の愚かさを身をもって感じたようだが、自分も愚かな親を感じていた。

    司馬はその悔いもあって22歳の自分への手紙を送るために小説を書いたというが、斯く言う自分も思春期時の凄惨な自分に呼びかけをする意味でブログを始めた。家庭環境に限らず、無知から起こった数々の失態も含めて、若き日の自分である。もう一度あの頃に戻ったとしても同じようなことをするだろうし、残念であるが人は経年になってこそ人格が備わるものである。

    マルクス思想に戻る。彼の理論が宗教批判から始まったのは理解できる。オイルランプの陰惨な光の中で幾夜も徹し、病になるほど読み耽ったヘーゲル哲学も知り尽くした暁にはヘーゲル批判に到達したマルクス。新しい何かを生むためには古い何かを壊さねばならない。フロイトの、「精神分析学」を批判した弟子のユングが、「分析心理学」を著したように…

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    マルクス経済学の要旨は、「生産諸力」が発展段階に達すれば、「生産諸関係」と衝突して対立を生み、「生産諸関係」は、「生産諸力」の足かせになる。2つの要素の対立が社会革命である。革命がなぜ起こるかを遠きフランス革命から文献で知ることはできるが、1989年の天安門事件はつい先日のことのように我々の記憶にある。あれは、「血の日曜日」であった。

    学生・市民の要求や動向については不明な部分もあるが、平和的な人民の行動に戦車や武力で立ち向かう政府や中国共産党の人民解放軍の行動に、「社会主義を見たり!」という怒りを禁じえなかった世界の潮流である。そんななか、「反革命暴乱」という決めつけがグサリろ胸を刺す。一体、「暴」とはどちらをいうのか。「反革命」とはどちらのことか。

    革命とは何なのか?マルクスは社会革命の要因を、「経済の土台の変化すれば、それがそのまま経済の変化となるのではなく、その変化の信仰にもとづいて、上部構造が覆るとし、それが社会革命が始まる時期という。つまり、経済の矛盾が人々の意識にのぼり、その矛盾を解決しようと人間が努力し、そうした経済の矛盾に決着をつける社会革命を行うといっている。

    ロシアや中国、東欧諸国やベトナム、キューバで社会主義革命が起きた理由は、それらの国々は資本主義経済発展が遅れ、社会資本が未熟であるうえに、封建的束縛が強固であった。では、その逆に、アメリカや西欧、日本などの先進資本主義国で社会主義革命が起こらなかったのはなぜか?マルクスやエンゲルスは当初、革命は発展した資本主義国の必然と言い切っている。

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    エンゲルスはその晩年、ロシアに革命が早いと考えていたが、帝政ロシアに革命が起こったのは、1917年、レーニン指導のもとに2度にわたって起こった3月革命と11月革命を、ロシア革命という。ロシアはおくれた国だから、革命は成功しない、たとえ成功しても持ちこたえることはできないという意見が強く出されていた。これに対してレーニンは以下のように答えた。

    「確かにロシアはおくれている。しかし、権力が弱まり、国民が革命を求めているとき、そして革命を断乎として指導しうる党が存在しているとき、どうして政治権力を握ってはならぬのか、革命を遠慮しなければならないのか」。事態はレーニンの主張した方向に進んでいく。レーニンはロシア革命が成功の後、こうした革命が一般的な世界法則になるとは考えなかった。

    レーニンの考える社会主義の前進とは、先進資本主義国の革命の成功を待って初めて確固たるものになると考え続けていた。中国の事態に立ち返ってみれば、天安門事件の本質は中国の憲法の規定に忠実な平和的な学生・市民の当然とされる民主主義的行動に対し、人民解放軍が無法に武力攻撃を加え、多数の死傷者を出したという点にある。あの時小平は人民を殺せと命じた。

    軍隊を握っている者こそが国の支配者というのが小平の一環した考えであったし、彼らは、「これぞ革命だ!」とうそぶいているが、こんな考えが是認されるのか?果たして武力は人民の意志を押しとどめられるのか?答えは、「No!」で、アメリカのベトナム戦争の敗北、ソ連のアフガン侵略の失敗が示している。ハンガリーやポーランドの事態とて同様である。

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    ロシア革命は今ではまったく評価されないが、フランス革命ですらひどい革命だった。日本で革命は起こっていない。明治維新というのは、世の中の仕組みを変えたと言う点においては信じがたいほどの大改革であるが、大きな戦争もなしに、成し遂げられた。これは支配階級であった武士、が自主的に自分たちの権利・権力並びに特権を返上してしまったからだ。

    武士たちは一斉に失業となるが、自分たちの食う心配もあったろうが、そうした私利私欲を抑えて公のことを考える知性と誇りを持ったサムライが、日本には数多く日本いたと言うことであろうが、王政復古の大号令が発せられたとはいえ旧幕府勢力はなお温存され、会津や桑名藩兵などは大阪から北上して京に入り、薩摩・長州藩に対抗したため、鳥羽・伏見の役が起こった。


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