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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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  • 10/07/16--18:28: 妥協の下手な日本人
  • 「寿退社」という言葉は、今の時代は死語であろうか。それだけ共働きが当たり前になっている。が、しかし、「結婚してどこに住むのか」、「家事分担はどうするのか」という課題がなくなったわけではない。夫婦で働き続けるためには話し合いと譲り合いは不可欠であり、意見が異なる以上は話し合いが妥当である。民主主義といえども、公益と私益の妥協である。

    東京のある大学で講師をしているA子(39歳)は、3年間付き合っていた恋人と30歳になる直前に別れ、それ以後恋人はいなかった。大学では任期付の講師の職にある彼女は、次の職が地方の大学で見つかった場合、東京を離れるかもしれないと口にしたことが別れのきっかけだったという。A子は大学の博士課程を終えて社会に出たときには27歳になっていた。

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    好きな研究の仕事を続けるために大事な時期でもあり、こちらも都内の企業で忙しく働く恋人との生活を優先する考えは自身にはなかった。「任期付の講師は常に不安定な立場なので、辞めて専業主婦になろうかと考えたことはあります。でも、結婚を逃げ場にすると後悔すると思ったからです」。そんな彼女も仕事が落ち着いた33歳あたりで結婚を考え始める。

    その後、A子は関西地方の大学で3年間働いた。実際に東京を離れることになったことを思えば、恋人とは早めに別れておいて正解だったかもしれない。そして、33歳のときに再び東京の大学で職を得た。A子は仕事にも慣れ、自信もつき、「そろそろ結婚したい。子どもも欲しい」と思い始める。その頃、同じバンドのファン仲間である女性が婚活を進めていた。

    「私は人の影響を受けやすいんです。友だちに教えてもらうままに婚活パーティや合コンに参加しました。そこで出会った男性と何度かデートしたこともありますが、1年近くお付き合いをしても先に進むことはありあせんでした。先の長い20代の頃ならそれで構わなかったと思いますが、30代の今の私にはこうしたゆっくりペースでは無理だと思いました。」

    反対にこちらの気持ちが盛り上がらないうちに、「先」に進むことを求められ、連絡を絶った相手もいた。結婚に焦りがあるとはいえ、一緒に食事をして楽しくない男性との恋愛や結婚は考えられなかった。A子のように会話や食事の相性を重視する女性は少なくない。女性たちは、「男性と食事しながらどんな会話を求めているのか?」、A子に聞いてみた。

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    「聞き上手であればいいというわけではないんです。話を聞いてくれるのは嬉しいけれど、私の話に対してどんな感想や意見を持ったのかも知りたい。賛成してくれなくても構いません。うまく言えませんが、いろんな意見を返してしてくれる男性は好きになりやすいです」。なるほど。話をきく限りは知的で好奇心の強い、芯のある女性のように感じられる。

    大学の講師をするくらいだからか、自分の考え以外は興味がないし、別の考えや意見を返されたら対処できない。ばかりか気分も悪くなるという女性に比べて、頭もよさそうだ。というのも、頭のよいの中には、"幅広い考えを求め、思考する"ということもある。自身の考えに固執して異論を嫌がり、反論にヒステリーを起こす女性は脳細胞が未熟で欠陥もあろう。

    自分は母親のようなこのタイプの女性は絶対にダメ。「可逆性」という言葉がある。可逆性とは、ある変化を考えたとき、条件を変えるとその変化と逆の方向に変化が起こってもとの状態に戻ることだが、この考えを応用したのが、「可逆性テスト」であり、自分がその行為によって悪影響を受ける立場であったとしても、 自分はその決定を支持するか。など、人間の心の広さを問う狙いがある。

    自分が行為主から行為対象へ、行為対象から行為主へ変わっても、行為の正当性を支持し続けられるかどうか。世の中には「理」に合わないことが多い。特に女性と話していると、「自分の好き(好み)=正しい」、「嫌いなもの=間違い」、というように、善悪の主たる基準が自身の感情によって決まるというのは典型である。善悪は自分の感情とは別のところにあり、理性で決定されるもの。

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    同じ行為でも我が子なら「善」、他人の子どもなら「悪」という考えは、どこから派生するのか理解に苦しむ。男にもそういう考えの人間がいるが、まったくお話にならない、話の余地すらない。我が子がいじめられるのは許さないが、人をいじめるのは関心がないというのも顕著な事例である。世間には子の親殺し、親の子殺しは後を絶たないが、こういう考えも成り立つ。

    「子どもが親を殺すなんかとんでもない。絶対に認められない」という人間がいる。「殺す」に至る行為は非難されるべきだが、子どもに対して非人間的行為をする親はいる。そういう親に殺意を抱く、あるいは言葉一切を黙殺するというのは、自分はよくわかるし、認める立場をとる。殺すのはよくないし、殺せとはいわないが、そういう親は殺されて然りの親であるのを否定はしない。

    むしろ、感情を抑えられなくなって、殺してしまった子どもを憐れに思うし、殺された親に同情を感じない。これに、「可逆性」を当て嵌めて考えると、自分がそういう無慈悲で非人間的な親であれば、殺されても仕方がないという考えになる。したがって、「いかなる理由があろうと、子が親を殺すなどあってはならない」という考えの人間こそ、むしろ殺されてしかるべき親であるかもと考える。

    親が子を作る(育てるの意も含めて)のであって、子が親を作るのではない。であるから、子が親を殺すのと、親が子を殺すのと、単純にどちらに罪が重いかといえば、親の子殺しである。子の責任は親にあっても、親の責任は子どもにない。親が人殺しをしようが、強盗しようが、子どもに何の責任もないが、子どもの非行や不良の責任は親にある。よって、親の子殺しは責任放棄ではないかと。

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    アラフォー女性を対象とした結婚相談所は、パーティー形式のお見合いが主流だが、女性の理想の高さにいささか辟易しているという。若き乙女が夢を見るのは分からなくもないが、おばさんと言われる年代になっても少女気質が抜けない、だからこそ結婚に踏み切れなかったという事情もある。仕事のためとかなんとかいいながら、結婚したものはいるんだし。

    チャットや出会い系掲示板を覗くと、見えない相手に真剣に恋人探しをする女性のほとんどが、アレコレ一方的に要望を出しまくっている。自分の顔の見えぬをいいことになんという欲かと笑ってしまうが、ネット内の男女比率は10:1と圧倒的に男が多い。だから、女性は男を選び放題、我がまま言い放題である。男も選ばれて当然とばかり、文句も言わずしたがっているのだろう。

    女性も男に不足しないのをいいことに、ちょっとばかり気が合わないとかですぐに相手を切ってしまう。リアルの出会いは月に1人もないこともあるが、ネットだと1日数十人と新規の出会いが可能だ。女性にとってはまさに笑いの飛ばない売り手市場で、その分、1人1人の出会いを大事にしない。そもそも、出会いや交際って、女の希望だけで上手く行くのか?

    選ぶことだけしか頭になく、選ばれるなどという男の要求などまるでない、そんな交際が上手く行くのか?あり得ないと思うが、よほど男に主体性がなく、女の奴隷と化した状態ならさもありなんだろう。今どき、そういう貧弱・軟弱男が多いのかどうか、現状については把握していない。双方が民主的に妥協し合っていくのが、男女ならずも人間関係だ。

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    自分の要望に合致し、我がまま一切を受け入れてくれる男との出会いを望んでいるというなら、バカというしかない。そんなバカの言いなりになることは、輪をかけたバカであろう。大学の講師の女性が、「話を聞いてくれるのは嬉しいけれど、私の話に対してどんな感想や意見を持ったのかも知りたい。賛成してくれなくても構いません」と、この言葉に好感を抱く。

    個人の趣味や道楽ならともかく、相手のいる場合は何事も一人でははかどらないし、自分の好き勝手で物事は決まらないということが分かっている点において明晰である。自分が何を言っても受け入れてくれて、したがってくれる男なら、女として幸せであろうなどと、男女関係を夢や幻想でなく、現実として考えるなら、村上春樹の小説の男はクールである。

    「一緒に死んでくれるの?」と緑は目をかがやかせて言った。

    「まさか。危なくなったら僕は逃げるよ。死にたいんなら君が一人で死ねばいいさ」

    「冷たいのね」

    「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ…」

    女はそんな言葉で男の腹を探ろうとする。チャラい男なら気の利いた言葉を返すのだろうが、それならそれで、「何よ。心にもないチャラいこと抜かすんじゃないよ、このタコ!」と思うのがまた女である。どっちにしても、女は暇つぶしの会話を好むし、男はそんな無駄話に無駄口合わせて付き合ってなんかいられない。男の現実感覚を理解しないと、女は男に行き詰る。

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    「〇〇をどう思いますか?」などのアンケートは頻繁にテレビでもやるが、「アンケート (enquête) 」なる言葉はフランス語である。英語では、「サーベイ (survey) 」もしくは、「クエッショネア (questionnaire) 」という。複数の人に対して、同じ質問をすることによって比較できる意見を集める。さらに回答も定型化することで、意見を明確化するという目的がある。

    アンケートは誰でも簡単にできる反面、集計した数字の解釈を正しく理解するためには、世論調査や統計学などの知識が必要になる場合も多いが、マーケティングのプロに言わせると、雑多な人からアンケートで平均値をNPSでとって、それをどのように分析し、反映させるかというのは実は大変なことであり、ただ、取るだけのアンケートに何の意味もないという。

    よって、アンケート調査は、手抜きの調査方法と言えなくもない。手抜きの中身は、①予算がない、②時間がない、③他の調査は手間がかかるし面倒。だから手っ取り早いアンケートに頼るというのが、マーケットリサーチャーのマスターの見方である。近年はお手軽・安価なネットアンケートが普及したこともあって、猫も杓子もアンケート。素人でさえそんな気がする。

    アンケート結果を一般大衆が鵜呑みにしてしまうのは、まあ、一般大衆だからいいとして、以前女性誌などで定番だったのが、「夫婦のSEXは週何回?」というやつで、主婦の井戸端会議の恰好の話題となった。少ないサンプリング、もしくは作為的に作られた嘘のアンケート結果に、色めき立つ主婦に罪はないが、理解すべきは、個々の能力は人によって異なるということ。

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    あるいは、環境や趣向などの背景もあって、単に人と人との行為の数字だけではないということだ。民主主義と同じく、一夫一婦制は妥協から生まれた制度である。そもそも人間というのは、さまざまな矛盾を抱えた動物であるが、しかし人間は、自分が納得できる価値が社会に存在してるうちは、そうしたものを抑圧できる。それを人間性ともいえるだろう。

    もし、変革期のような価値が混乱していたり、あるいは価値が不在の時代において、人間は矛盾を抑圧できない。なぜなら、価値が不在であるのに、抑圧だけに慣れてしまった人々は、自分が一体何を望み、何を求めているのかが分からなくなってしまうだろう。やさしさというのは、実は自分の欲求を激しくもっている人間に有される情感である。

    分かり易くいうと、自分の欲求を激しく持たない現代人にあっては、やさしさが欠如する。つまり、人間のやさしさの本質とは、その人が激しく抱いた欲求が満足されないとき、もしくは、その欲求を断念しなければならないときに出てくるものだとしたら、人間のやさしさというのは、決して美しく評価されるものではないはずだ。掘り下げて考えるとやさしさとはその程度のものであったりする。

    「ああ、人生とはこんなにも淋しいものなのか…」、「人間とはこんなにも悲しいものなのか…」。そうであることを自覚し、納得したときに、その人にはどことなく優しさが漂っている。物事を美化するのを好まぬ自分である。「美化」の裏には、「欺瞞」が働いているからだが、人間がどうしようもない生き物である以上、美化や欺瞞が必要なのは承知している。

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    分かってはいるが、それらを差っ引いてなお欺瞞は心に引っかかり、羞恥を抱かせる。それが自分の童心というもの。「あなたはやさしいですか?」、「とんもない!」。「あなたは頭がいいですか?」、「とんでもない!」。「人間として立派ですか?」、「とんでもない!」。肯定はできないが目指すものである。しっかり物を考え、それに近づきたいし、そうなりたいと努力する。

    努力という言葉を使ったが、目的に対する必然的行為である。「努力」が自分を強いる行為なら、努力しない程度に物事を推し進めたい派である。横着というなかれ、実際これまで努力を強いて、続いたためしがない。ただ、努力を楽しさに変換する技術というのか、そういうものは努力嫌いの人間であるからこそ、見つけてきた。さて、上の話の続きである。

    「人生は儚く淋しい」、「人間は斯くも悲しいもの」というのを、若い人の自殺の度に感じることがある。なぜにそんなに死に急ぐのか?また、若くして不治の病に罹患し、死を強制される人たちにも生の虚しさを感じたりするが、もし自分が同じ境遇にあったなら、何をどう思うか想像もできない。自分が健常者であるがゆえ、他人の不条理に共感する。果たしてそれがいいことか?

    「他人事」という言葉は好きではない。他人とは本人にとっては自身。自身のことを他人から見て他人事というが、本人からすれば「自分事」である。他人への想像力は欲求であろう。他人の悲しさや儚さを味わうためには、淋しさ、苦しさを生み出す激しい想像力が必要となるが、現代人は欲求を失い、風俗、伝統などの歴史的拘束力に縛られて生きている。

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    あるいは、自身にとっても他人にとっても差し障りのない「観念世界」に逃避する人もいる。現実的思考の対極である観念的思考は、薬になれど毒にはならないし、毒に踏み込まんとする勇気がないからか?観念思考もいいが、なぜに現実を思考する欲求をもたないのか?自分自身に嘘をついている、もしくは社会や観念世界に飼いならされているからか?

    他人のことは分からないが、たまに自分を戒めることがある。自分が社会に飼いならされているなら、昔の野卑な自分はどこにいったのか?成熟といえば聞こえはいいが、体制に自らを繕っているのではないか?体制に迎合し、心の奥底では納得できない生き方をしていないか?いつも本当の自分を見つめようとしているか?などと自問してみるのである。

    差し障りのあり過ぎる自分の記事は、"えぐい"と自ら思っている。が、本当の自分を見つめようとすれば自然とそうなる。自己を見つめ、自己に挑戦的でなければ書けないし、若き自分なら批判を気にして書かない。本当の自分を見つめるのは勇気がいる、よって人は自分の嘘の中で生きる。自分の嘘は他人への嘘となるが、おだやかにいえば服を来て外出するようなもの。

    子どもの教育や躾についての主観、夫婦や男女の在り方についての主観、社会の理不尽な事象についての主観は非難を伴う。主観を恐れないのは、内なる己の真実を恐れたくないからだ。自分は本当は、「こう思う」し、このように、「考える」。そうした真の姿を偽ってしまう人には、溌溂としたエネルギー感がない。と、たまに他人のブログを読んで感じる。

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    自らの勇気を喧伝したいわけではなく、正直に書くのはある意味、「バカ」さ加減である。主観的に書いた、自分の真の思いを相手にぶつけた、それでどうなる?結果は起こってからのこと。妻は夫、夫は妻、親は子ども、子どもは親に己の真の姿をぶつけるのは、激しいぶつかり合いの過程にある。結果、何が生まれるのか?行為から何かが生まれるのは必然だ。

    何事も結果の前にはプロセスありきが物事の道理。対立を避けることは対話を避けること。日本人的「和」の精神が充満する場において、「対話」は死んでしまっている。観念的対話を好む人に現実感がないのは、生の実在感が薄いと感じるが、隠すというのも人間の良心である。若い時分には観念論的対話ばかりしていたが、経験を積めば観念論など不要である。

    今はそういう事はしたくない。やれば観念論好き論客も舞い込み煩わしい。ロジックの向上に寄与はするが、この年でそこに逃避することもない。人はいろいろだ。ひと年とっても、「自己の楽しみは他人の不愉快に支えられている」という人もいる。隠匿はすれどそんなものは言葉に表される。人をやり込めて満足する人間にやさしさなど微塵もないが、それが楽しいという人なら結構なこと。

    話は変わるが、結婚は文化である。性欲は文化ではないが、婚姻が性欲の発露に寄与した点においても結婚は文化である。一夫一婦制も文化である。一夫多婦性に比して男の性欲発露は抑制されるが、社会を平安に導く点において前者は文化、後者にも文化と定義できる利点がある。食欲は文化ではないが、食欲を三度の食事にしたのは文化であろう。

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    しかるに文化は抑圧的である。その文化を抑圧足らしめているのは平凡礼賛である。平凡は常に日向である。ゆえに加害者でもある。キリスト教はユダヤ教という民族宗教から興ったユダヤ人に背を向けた宗教であり、実はこのことが大切である。なぜキリスト教は大きな影響力をもったか?それはユダヤ教という一民族宗教の自己否定の上に成立したからだ。

    自己否定は大切、自己否定が真の自己を造る。キリスト教は初めから人類に恵みを与える宗教ではなかった。なぜなら、ユダヤ教はユダヤ民族の宗教であり、彼らは歴史の終焉に栄光の座にすわるのはユダヤ人というユダヤ教を信じた。どこまで行けど選ばれし民としてのユダヤ人。そのユダヤ人を否定してキリスト教が生まれた。知識の浅い自分にとっては謎。

    調べる気もないが、有体にいえば特殊性の否定の上に普遍性が生まれた。そうした普遍性こそが真の普遍性であろう。最初から普遍性を謳う宗教などインチキに決まっている。すべての道は特殊を経て普遍に至るものと考える。科学の大発見も、すべて最初は特殊とみなされたように…。皆と同じであるという平凡も、やはり特殊な自己を通じて到達する。

    したがって、己の特殊性という自覚無しに到達する平凡な生活者こそ被害であろう。自分が他人と違うことを怖れる必要はない。付和雷同を嫌う根拠はそこに見出すべきで、自分という存在が、他人と違うのだという特殊性の苦しみに慄くことはない。艱難辛苦を通過した人たちは、そういうプロセスのない平凡な生活者に存在する加害者意識は、決して持たないはずだ。

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    身障者を特殊と見、そう位置づけるのは事実だから構わない。彼らは自分という存在は他人とは違うという特殊性を感じている。したがって、無用な同情や、過度な庇護はすべきでない。彼ら自身が、斯くの人間に直感的な何かを感じるという。自分という特殊性に苦しんだ人たちこそ許される平凡な生活者である。健常者を歪んだ視点で見ない彼らは加害者とならない。

    以前、身障者に供与される駐車禁止免除のカードを持っているにかかわらず、それを使いたくないという女性がいた。なぜ使わないという素朴な疑問だったが、いろいろ聞いてわかったのは、障害を持たぬ他の兄弟とわけ隔てなく育てたいという父親の存在である。彼女は足に障害があるが、まあ普通に歩けている。よって、クルマをどこにおいても許されることにはならない。

    と、これは彼女の言い分である。言われてみて初めて気づかされたが、「むやみな利益供与を望むな!」はおそらく父親の信念であろう。与えられた制度は利用であって、悪用ではないが、普通の人と同じでいたいという気持ちの彼女にとっては悪用なのである。「罪の減免」という罪を負いたくないという彼女から、親の教育的態度と、人間の振幅というものを教わることになった。

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    「妥協が下手な日本人」という表題を置きながら、そのことを説明してないではないか?という向きの人もいるかもだが、間接的に書いたつもりでいる。つまり、欧米人が「妥協」を悪としない代わりに日本人は「妥協」をネガティブに考える。自分も含めて「妥協」を良い意味に考えない日本人が多いのではないか?妥協するというのは譲るということ。

    譲るは我慢すること。と考えてはいないか?今は違うが、若いころは妥協なんか死んでもしたくなかった。妥協するのは敗北という気持ちが強かった。相手が自分を騙し、騙したことを納得せよと一方的に押し付けられたことが多かった。これらはすべて親から強いられたことで、こういう親の意向・動向が、妥協を嫌う自分の性格を作りあげたのかもしれない。

    母親は約束を守らぬ人だった。その時は守らぬ理由を考えなかったが、今はそれがよくわかる。つまり母親は、子どもを自分の支配者と定めて見くびっていたのである。だから、約束したことは何があっても履行すべきだという考えはまるでなかった。子どもからすると舐められていることになる。「この嘘つきばばぁ!」と、母には何度も悪態をついたし、罵ったことか。

    「約束は守るべきもの」、「嘘をつくのは信頼関係をなくす」と、こういった人間の基本的なあり方を親が教えずして誰が教えるものがいる?それに比べて叔父貴(母の弟)は京都に居住していたが、中学や高校入学時には欲しいものを買ってやるといい、自分は高校入学前のお正月に、「エレキギターとアンプ」と叔父貴に伝えたら、本当にそれが送られてきた。

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    欲しいものを手にした感動もあったが、3か月前に交わした約束がちゃんと守られていたというのは、子どもにとってサプライズな出来事である。ギターなんか弾いたこともないし、当時エレキギターというのは、不良の代名詞でもあり、エレキ追放運動の最中であった。当然ながら母親はエレキギターに腹に据えかね、「勉強の邪魔」と何度も隠したりした。

    どうして親は子どもが大事にするものを取り上げたりできるのだろう?それほどに親は自分の都合によって子どもを苦しめ、追い詰めなければならないのか?親の都合など子どもに関係あるか?そんな自立心が反抗心ととともに増幅されていった。今でも携帯やスマホを取り上げる親は多いが、こういう行為は子どもを一個人として尊重しない親の傲慢と認識する。

    叔父貴が世間的に悪いと言われるものを何を躊躇うことなく与えてくれるのは、叔父貴がかつて不良であったからである。子どもの頃から札付きの悪であった話はいろいろ耳にした。理由は親(自分からみて祖父)が厳しい人だったからだと推察する。中学を卒業した叔父は、大阪に家出したという。飯場で食いつなぎながら高度経済成長の波に乗っかった典型である。

    叔父貴がどういう経緯で建設会社の社長に上り詰めたかを知ることはないが、結果がそれを示していた。また叔父貴のスゴイところは、自分がクルマの免許証を取るには取ったが、未だ発行されてないのをおそらく知りつつ、確認もせず、クルマに乗りたいと懇願する自分を茨木市の建設現場に連れて行き、バン(商用車)の前で「これに乗って京都まで帰れ!」という。

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    クルマの免許を取り立ちの頃はどれだけクルマに乗りたいか、そういう気持ちを忘れた人も多いだろうが、自分なんかは客観的に見てモロにそうであったと推察する。叔父貴はおそらくその気持ちを感じ取ったのであろう。どうして茨木から京都の自宅まで帰れたのか、そんなに地勢感があるはずがないが、乗りたい一心で「大丈夫」と言い切ったのだろう。

    叔父貴の行為を時々思い出すが、まさに危険極まりない自殺行為である。もし、交通事故でも起こそうものなら叔父貴の責任は言わずもがなである。叔父貴自身が無鉄砲な行為をしてきた人間だからできるのだろうが、18歳の自分は、クルマに乗れる喜びで満ち溢れていた。何とか京都の自宅に辿り着いた自分だが、あとわずかというところで事故をした。

    90度の狭い直角コーナーを右折するところが、そこに電柱が邪魔をしてアレコレ挌闘したものの、半クラッチを処理できず激突してしまった。叔父貴宅からほんの数十メートルという油断もあったかもしれないが、このことから実に多くを自分は学んだ。信じるということの素晴らしさ、その一語に尽きる。広島に帰って叔父貴に正直に詫びと感謝の手紙を出した。

    免許証を持っていないと分かっていながら、ゆえに追及もせず、甥の切なる願いを叶えてやろうとの叔父貴の思いである。当然にして違法であるが、「何かあったら自分が責任を取ればいいのだ」と、そういう強い気持ちは、18歳の若僧に充分に伝わったし、なぜにそれが出来たかといえば、若き頃の叔父貴が手に負えない札付きのゴロツキであったからだろう。

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    叔父と甥の関係であったが、もし親が我が子を大きな人間にしたいなら、親は大きな気持ちをもち、また実行して見せるべきであろう。「あれはいけません」、「これはダメです」という親は、臆病な子どもを育てているようなものだ。自分が知ったのは、叔父貴の無鉄砲な行為の中に、言葉には出さない男が男を「信じる」というとてつもない輝きであった。

    人を信頼するというのは、そのことで何があっても自分が責任を取るという事である。仮に甥に何かがあったとしても、叔父貴という人は「免許を持っていないのは知らなかった」などという人ではない。免許証は取得はしたが、発行されるまでは所持とはならないし、この場合の刑事罰については、「免許不携帯」ではなく、「無免許運転」となる。

    こんにちでは免許証は即日交付となるが、4~50年前はなんやかんやで、自動車教習所の卒業証書を持参して、自動車運転試験場に出向き、学科は免除で実地試験を行う。そこで合格すれば県知事に免許証交付申請をする。して、手元に免許証がとどくまで、正確な記憶ではないが、約2週間くらいのタイムラグがあった。今はコンピュータ処理で簡単である。

    叔父貴の人間的大きさは叔父貴の息子にそのまま受け継がれている。残念ながら自分がこの一度限りの事柄で大きな人間になったなどはないが、この時の叔父貴の人間的な大きさは鏡として頭にしまってある。叔父貴は1932年(昭和7年)生まれで、同世代には、小田実(同7年)、大島渚(7年)、五木寛之(7年)、野坂昭如(5年)ら、焼け跡派と呼ばれている。

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    戦中派世代でもあるが、今後、こういう太っ腹な人は出てこないだろうな。子どもを取り巻く環境も育て方もまるで変っている。昔が良くて今が悪いというのではないが、男の子を、「太く、強く、逞しく」育ててみたい、なんていうのが実際に言われてるのだろうか?「芸能なんてのは実業じゃない。我々は虚業でおまんま食っている」と、これは小沢昭一。

    これはこういう問題提起もしている。「人間がみんなで一緒に豊になるのがいいことなのか、それとも、豊かな人と、そうでない人がいる矛盾した世の中を、だから創造力が生まれるんだと肯定するのか。あるいは、一転、みんながそろって適当に貧しくなるという第三者の道を、今こそ考えてみる必要はないのか」。小沢の問題提起の意味を探ってみた。

    右を向いても左を見ても同じ人間の集団にあっては、一見貧富の差がなくていいように思うが、それだと上をみたり下をみたりの必要がなく、様々な違いから生まれる創造力は起こらないということだ。貧富の差を矛盾とするなら、「なぜ?」は必然であり、発想力も湧いてくる。みんなそろって適当に貧しくなるというが、社会や国家はそれを目的としない。

    ならなぜ小沢はそれを「第三の道」と思考すべしとしたかといえば、焼け跡派世代特有の考えとして、皆が貧乏であった時代はみなが心豊かであったといわれている。例えば以下の光景はどこにもあるものだった。育ちざかりの幾人の子どもが「ごちそうさま!」と手を合わせるまで、母親は自分の茶碗にご飯をよそわない。なぜか、考えればわかろう。

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    6人兄弟の一番上のお兄ちゃんは、米を研ぐのが仕事だった。かまどで炊くのは火加減が難しいので、男の子の仕事は米研ぎまでだが、米がないという事情を知る立場にいる。だから、妹・弟たちのことを考え、お兄ちゃんは食べないでいる。貧しさは、人をこんなに変えるのだ。貧しいからお互いに助け合って生きる。近所で味噌や醤油の貸し借りもあった。

    ご馳走を自分だけで独り占めするようなことはしない。よそ様のところでお菓子を頂戴すると、紙に包んで家に持ち帰る。みんなで食べようと…。お母さんにも食べてもらおうと…。生活は貧しくても温かい心をもって皆が生きていた。「生活は貧しくとも、心が貧しくない」といわれた時代。今の子どもたちに、「心の貧しさってなに?」と、問うても答えは浮かばないのでは?

    ならば、皆が貧しかった時代の子どもは、「心の貧しさってなに?」について答えられるのか?答えは「NO!」だと思う。自分たちの行為や心豊であるなどと誰も思わないし、当たり前の、自然の行為であるからだ。元来、「心の豊さ」なんて自覚できるものではない。同様に、「心の貧しさ」もである。自覚しなくても豊かであり、自覚しなくても、「貧しい」。だから怖いのだ。

    人の行為の多くは無意識になされる。無意識は内面においては意識下されている。だから怖いのだ。意識化の指導者は親であることを、親さえも意識していない。だから怖いのだ。どうすればいい?小沢の言うように、皆がある程度の貧困を体現しない限りは、人間には分からないだろうと、ある種の諦観である。観念で分かるというのは、真に分かってはない。

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    「戦争はよくない」、「人殺しはよくない」と、観念で分かっていても、本当に分かることは「戦争をしない」、「人を殺さない」ことであるように。我々は行動しなければならない。行動は、「決断」によって生まれる。よって、行動をするためには、観念支配を捨てる、観念の具現化を強く感じれば、行動は必然となる。行動は、「決断」であり、決断は、「捨てる」ことでなされる。


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  • 10/12/16--16:37: ケツがいてぇ

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    さて、本日もムダ話をしよう。「ケツがいてぇ」。丁寧にいえば、「尻がいたい」。上品にいうと、「お尻がいたい」。おデキではない。子どものころ、近所に変なおばさんがいて、上品な言葉づかいを周囲は茶化していた。例えばこんな風に…。「何でも"お"をつけりゃいいってもんじゃないだろう、あのおばはん、バケツを"おバケツ"っていってるんだよ。おバケツって変だよな~」

    てな感じで、ついたあだ名は、「東京弁かぶれ」だった。まさかそのおばはんは、「ケツがいてぇ」を、「お尻がいたいでございますわ。おほほほ」というのだろうか?「おほほほ」は余計にしても、「ケツがいたいわ」の方がどこか人間的な気がする。人間的の意味は、しょせん人間は屁もかませば、糞もたれるという意味で、女性が屁をおならというのは上品でいい。


    「わたしはおならなんかしません」という顔をするのもいい。ある意味女性のたしなみかもしれんし、男には分からないところが女性にはままある。ある女性が、「男と女は別の生き物です」といったが、確かに差異はあってもTOTAL的にどうなのだろう?たとえばライオンに代表される雄雌がまるで違う動物はいる。確かに性質も違うようだ。飼って確かめてはいないが…。

    犬や猫は飼ってみたが、さほどオスとメスに差があるようには見えない。顔も体型もまるで一緒で、違いはアレのあるなし。が、達人は分かるという。人間の男女差は、その根幹となる脳の働きがまるで違うから、基本的な部分で違うのだろう。理解し得ない代わりに、愛し合える能力を与えられている。違いを認め合って仲良くやっていく知恵も有している。ならば同類であろう。

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    そんなに違いを主張するなら、一人として性質の同じ人間がいるのか?何を持って違うといい、何をもって同じというのか、定義が難しい。「何で彼は私のことを分かってくれないの?」、「何で彼はあんなことが面白いの?」。これらはよく耳にするが、「何で外にでたら人の洋服やバッグばかりみてる?」、「何でこんなことが分からないのか?」。男がみりゃ女はこうだ。

    男と女がいろいろ違っても、違わなくても、同じ人間ということであまり深くは考えない。分からないなら分からせる、あるいは黙らせる。そういう方法を考える方がよいだろう。時にどうにもならないバカなことを言う場合もある。例えば、「私のどこが好き?」だの、「仕事と私どっちが大事?」などと言われて困る男はいるんじゃないか?自分は困ったことがない。

    どんなことを問われても瞬時に答えを出すクセをつけている。国会答弁のようにだ。が、答えが相手にどう思われる、こう思われると、いらんことを考えるから困るのだろう。自分は問いに対して誠実に自身の考えをいうから困らない。つまり、自分の考えこそが自分であって、それを他者がどう思おうが、どう受け取ろうが、真の自分を受け取ればいい、というスタンスである。

    答えに不満を述べる女にはこんな風に言っていた。「お前は真実より、嘘でもお世辞を言ってもらいたいのか?」などと問うと、「見え透いたお世辞は嫌だけど…」と、こんな風に返す。「見え透かないお世辞ってないんだよ。お世辞をいう時って、半分腹で笑ってる自分をごまかすのが大変だけどね。だから言いたくないんだよ」と、このようにいっても、女は求める答えを期待してる。

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    ということは、これを彼に問えば自分の望み通りの答えを期待してるってことだ。そんなことを期待して言うんじゃないよ。まるで一人芝居じゃないか?と若いころは思ったりした。このように、女性の問いというのは、純粋な問いというより、あらかじめ自分が望む答えを言ってほしい、言わせたいところがある。村上春樹の『ノルウェーの森』での会話を再掲する。

    「一緒に死んでくれるの?」と緑は目をかがやかせて言った。

    「まさか。危なくなったら僕は逃げるよ。死にたいんなら君が一人で死ねばいいさ」

    「冷たいのね」

    「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ…」

    女というのは、「相手からいただく愛情と、同量の愛を相手に与えればいい」としたもので、その辺りは男とはまるで違っておぞましい。「ねえ、私のことどう思ってる?」などと聞く女は多いが、聞いて量りにかけているのだろう。相手がどうであれ、自分が絶対的な愛を築き、与えればいいと思うが…、それは単純な男の考えでしかない。しかし、たま~に誠実な女もいる。

    性分として考えれば、打算的な女を非難しても仕方ないが、ゆえに正直な心を持った女は価値が高い。反面、男に利用されやすいが、誠実な男に巡り合ったらまことに幸せなカップルになろう。なにより、自分の心を正直に提示できるというのがいい。人を信頼できる最大の要素である。「腹に一物」とは、隠してはいるが企みを持った人間のことをいう。

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    心に隠匿することと、言葉にでてくることのあまりの違いに人間不信に陥ったこともあった。どう解決したかといえば、「なぜ、そういう風になる、なぜなんだ?」などと、しこたま考えた。ある奴から、「お前は脇が甘いのだ」といわれた。脇の下を舐めて甘い女はいたが、自分の脇が甘いのはなぜだろう?簡単に気を許すな、人の言葉を信じるなというふうに理解した。

    そうすれば脇は甘くならないのだろうが、おそらく自分にはできない。明らかに嘘だとわかる文言は営業トークなどいくらでもあるが、気を許した人間と人間が、お互い脇を絞めてどうするのか?などと考えたが、気を許した人間と思うことが早いのではないかと気づく。相手の動向を見ながら少しづつ距離感を縮めていくのが、すかされないコツだろう。

    やろうとしたことも、やったこともない。自分には無理だとわかっている。互いに尊敬し合える人間がよい友であるのは分かる。どんなことでも気軽に話せ、どんなことでも気軽に行いを共にできる、が、これだけでは真のよき友とはいえない。安心して付き合える相手、自分の心が何のわだかまりもなく清められるような、そういう相手でなければならない。

    そのためにはまずは自分が無防備であるのがいい。無防備な自分に相手がどう対処するかをみればいい。足をすくうならすくわれた時に分かる。が、すくわれる前にその判断はできない。武田鉄矢の『贈る言葉』に、「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つくほうがいい」という歌詞がある。傷つくのが嫌だから人を信じないという人間がいる。それはその人の生き方だ。

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    が、それを良いと思わないなら、信じてみるしかない。自分は詐欺商法や騙しの商売には、絶対に引っかからない自信はあるが、理由は最初から構えるからだ。よって、構えない相手から足をすくわれるなどは多かった。しかし、それで困ったことはない。その時点で完全見切っておさらばするし、相手を見誤ったというお土産付きである。事前に人を知るというのは難しい。

    最初から騙そうとするビジネスは100%分かるが、世俗の人間関係で、最初から相手を騙す利益がどこにあるんだろう?心を触れ合う以外の目的で近づいてきたのなら、そういうのは分かったりする。自分はまず人に金は貸さない。どんなに上手く擦り寄って来ようが、「金を貸してくれ」の一発で相手の腹の底を見る。キケロの『友情について』の一篇を自分は踏襲する。

    「友情においては次の掟を守るべし。恥知らずな事柄を要求せず、また要求されし場合においても、これをせざること」

    マルクス・トゥッリウス・キケロ(B.C106年1月3日 - B.C43年12月7日)は、紀元前の政治家、哲学者である。その時代の彼がこんな良いことを言っているわけだ。人間の本性なんてのは2000年たっても同じもの。キケロには次の言葉もある。「知恵とは、求めるべきもの及び、避けるべきものについての知識なり」。「う~ん」、現代に生かして置きたい一人である。

    そういえば…、ケツが痛いの理由を書き忘れた。ウォーキング足を痛めたので歩きを自粛しているが、ならば自転車という手がある。自転車で足の裏は痛まない。まして徒歩では行けない遠方場所に行くことができる。ところが終わってみると、「ケツがいてぇ」。何事も挑戦するのは、「自分はまだまだやれる」との意識があるからだ。今回は子どもの頃の夢を実現させてみた。

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    夢とは、県境に足を延ばすこと。そんなのはクルマで何度も往来したが、それはそれ。歩いて行くことに価値がある。県境いには境界線のようなラインが引いてあるのか?の疑問。それを確かめに自転車で山口県まで行った。さてとこの辺りのはずだが…?周囲をキョロキョロ看板が目に入る。「よう、おいでました。山口へ」。県境にラインはないが、昔でいう塚があった。

    子どものころにしたかったことを50年以上かかってできた。ハレー彗星を見るのも夢だった。見えなかったが…。県境に線が引かれてないのも分かった。後は赤道に赤い線が引いてあるのかを確かめたいが、おそらくないであろうとの知識を信じ、実行しないことにする。川の上流の最初の一滴も何度も挫折した。で、沢を登るのがどれだけ至難であるかは理解した。

    人は年をとると子どもに戻る。子どもの頃に買えなかった高価な楽器などを購入した人も多い。あの頃、眺めるだけだったメロンもパイナップルも食べてみた。あとはどういう夢があったか?忘れ物も多くなったが、おいおい思い出して可能な限りトライしたい。そういえばこんな長いタイトルの映画があった。『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』。

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    「人はどう生きるべきか?」についての正しい答えはない。ならば、「自分はどう生きるべきか?」について選択が必要だが、正しい選択というのも難しい。その選択が正しいと思っても結果は無常という場合もある。「正しい」選択はどうすれば可能か?行為の前に「正しい」、「正しくない」を見分けることはできるのか?残念だがその答えは「無理」。

    予知能力があれば可能だが、それは小説、漫画の話。「正しい」を見つけることはできないが、「正しい」と信じることは可能である。信じて正しくなかった場合にどうするか?これはもはや結果を受け入れるしかない。結果は起こった事実であるから、否定はできない。喜べない結果なら、落ち込んだり、ガッカリすればいいんだし、それも人間の常であろう。

    上手くいかなかった時、ガッカリや、落ち込んだりが決して悪いことと思わない。普通に生じる感情である。正しいと信じた選択そのものが間違いということもあるが、上手くいかなかったからといって、選択そのものは間違ってなかった場合もある。また、選択は正しく、行為や手順を間違うこともある。その辺りを分析・検証し、見極めるのも大事かも。

    どこに問題があったかを探り、選択が正しいなら新たな手順で再度トライもできる。失敗は行為の常、いつまでもくよくよしていいことは何もない。「Don't Think Twice, It's All Right」は好きな曲である。ボブ・ディランによる1963年の作品で、直訳すると「考えすぎるな、大丈夫」であり、これを邦題は「くよくよするな」とした。この曲は以下多くのカバーがある。

    1960年代
    ボビー・ダーリン、ザ・シーカーズ、ジャッキー・デシャノン、ジョーン・バエズ、ブライアン・ハイランド、トリニ・ロペス、ジョニー・キャッシュ、シェール、ウェイロン・ジェニングス、オデッタ、フォー・シーズンズ、ホセ・フェリシアーノ、チャド&ジェレミー、ボビー・ゴールズボロ、ランブリン・ジャック・エリオット、ビリー・ポールなど。

    1970年代
    ブルック・ベントン、ヒューゴ・モンテネグロ、ジェリー・リード、エルヴィス・プレスリー、ピート・シーガー、アーロ・ガスリー、メラニー、ニック・ドレイク、チェット・アトキンス、エルビス・プレスリーなど。

    1980年代以降
    エリック・クラプトン、ジョン・メイヤー、スーザン・テデスキ、ブライアン・フェリー、ドリー・パートン、ロリー・ギャラガー、ザ・ブロークン・サークル・ブレイクダウン、マール・ハガード&ウィリー・ネルソン、ミルキー・チャンス、ランディ・トラヴィス、高橋幸宏など。

    トリニ・ロペスやジョニー・キャッシュ、ピーター、ポール&マリーなら、なるほどにして分からなくもないが、クラプトンやメイヤー、ロリー・ギャラガーにまで取り上げられるほどの名曲である。本曲はP・P・Mのカバー聴いたのが最初で、来日の際にテレビ(「ミュージックフェア」)で視聴したの覚えている。また、P・P・Mとアンディ・ウィリアムスの共演も楽しい。

    人間は考える動物であるがゆえに、ついつい考えすぎてしまいがちで、頭が真っ白で何も考えられないこともあるし、考え過ぎて苦しむのも人間だ。自殺に行き着くのは、「考えない」、「考えすぎる」のどちらだろう?後先考えたら死ねない気もするし、考えたら死ぬしか道はないと追い込むように思うし、死ぬ直前は何も考えない飛んだ状態であるように思える。

    後悔・悲痛・呵責・自責など、そうした人間の一切の精神的苦悩は、思考がもたらすものだが、妄想も思考から生まれ、脳に映し出される映像である幻影も、思考からもたらされる。「何でなんだろう?」、「なぜだ?」と自らに問いかけ、そんな自分を追い詰めることなく、励まそうとするのが、「Don’t Think Twice, It’s All Right」の歌詞の内容である。

     It ain't no use to sit and wonder why, babe
     It don't matter, anyhow
     An' it ain't no use to sit and wonder why, babe
     If you don't know by now
     When your rooster crows at the break of dawn
     Look out your window and I'll be gone
     You're the reason I'm trav'lin' on
     Don't think twice, it's all right

     「なんでだろう?」と考え込んでも仕方ないよ
     そんなの意味ないよ、とにかくね
     そう、じっと考え込んでも、何の意味もないんだ
     たとえ今は分からないとしても
     夜が明けて目が覚めたら
     窓の外を見てごらん もう僕はいないだろう
     僕は旅を続けるよ 全部きみのせいさ
     考えすぎなくていい、大丈夫

    長い歌詞なので全文は省略するが恋愛の歌。最後は、「僕は歩いていくよ長くて孤独な道のりを。行き先なんてわからない。でも「さよなら」って言葉はベタだから、「元気でいてよ」とだけ言っておく。きみが優しくなかったとは言わない、もっと優しくはできただろうけど、もういいんだ。貴重な時間をむだにしてしまったかな。でもいいんだ、くよくよせずいこう」

    男と女が別れる多くの場合は悲恋となるが、双方の貴重な時間を無駄にしたことになるのか?そんな風に思うものか?上手くいったものだけが価値があり、そうでないものは無価値なのか?そうは思わない。人間の体験の一切は価値があり、無駄なものなどない。言い方を変えるなら、無駄も大事である。若いときの無駄というのは、すべての肥やしになる。

    曲中の、「I give her my heart but she wanted my soul」というのが、気になるところで、ここにお別れの理由が見える。「僕は彼女に心を捧げたが、彼女は僕の魂まで欲しがった」と訳される。心を捧げたのに、魂までも欲しがられては、男もやってられん。赤名リカと永尾カンチの、『東京ラブストーリー』を思い出す。世間はリカを「重い愛」と責めた。

    天真爛漫でありながらも一途な性格のリカという女は、自分は好きなタイプだったが、カンチは彼女の愛を受け止めるだけのキャパがなかった。無論それも若さであり、それが若さである。リカは、「わたしだけを見てて、わたしはカンチだけを見てる」としきりにいった。おそらく本心であろう。が、男にとっては束縛となる。これを「重い愛」というのか。

    ディランの詞の内容が事実か否かは分からないが、やはり、「わたしと音楽のどちらを取るの?」みたいなことを言われたのかも知れない。詞の感じ方は様々だろうが、「Don't think twice, it's all right」というのは、自らに言い聞かせる言葉である。女の重い愛を振り切って、自身の女々しさにケリをつけて前に進もう、そんな旅立つ男を歌ったものだ。

    財津和夫のチューリップ時代の作品『青春の影』は、「Don't think twice, it's all right」のアンサーソングと言えなくもない。「自分の大きな夢を追うことが、今までの僕の仕事だったけれど、君を幸せにすることがこれからの僕の生きるしるし」で終わっている。あくまでも想像だが、財津の歌詞は、「Don't think twice, it's all right」がヒントになったのかも知れない。

    20代のころに、いなせな先輩がこう教えてくれた。「男のカッコよさってのは、すがる女を振り切って去ることだ。女の美しさとは、去りゆく男の後ろ姿をひざまづいて追うところ」。印象的な言葉だった。男の美学は、「去る者は追わずというより、追うものを振り切って去る」。当時、日活映画の風来坊小林旭が、いつも浅丘ルリ子を置いて去っていく。

    先輩の言葉はまさに映画そのものである。股旅風来坊「木枯らし紋次郎」は、日活映画の江戸時代版である。「風来坊」とは現代においては完璧なる死語、耳にすることもない。先輩の蘊蓄に感化された約10年後、浅田彰の『逃走論』を読んだ。副題は、「スキゾキッズの冒険」である。当時はスキゾとパラノという言葉がしきりに言われていた時代である。

    「人間はスキゾとパラノに分類でき、パラノ型の行動といえば、《住む》ってこと。一家を構え、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同時に、家財を蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子供の尻を叩いて一家の発展をめざす。このゲームは途中で降りると負け。《やめられない、とまらない》でもって、どうしてもパラノ型になる」と浅田はいう。

    パラノに代わるのがスキゾ型。「コイツは何かあったら逃げる。ふみとどまったりせず、とにかく逃げる。そのためには身軽じゃないといけない。家というセンターをもたず、たえずボーダーに身をおく。家財をためこんだり、家長として妻子に君臨したりはしてられないから、そのつどありあわせのもので用を足し、子種も適当にバラまいておいてあとは運まかせ。

    たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ。とくると、これはまさしくスキゾ型、というワケね」(『逃走論』より)。当時は丸ごと意味を理解できなかったが、今ならわかる。二つに分けるといっても、自分はどちらにも当てはまらない。どちらも兼ね備えているが、多少スキゾ傾向である。まあ、使い分けも必要だろう。

    偏執的パラノはやめて分裂的スキゾになろうよっていう話。彼の気持ちは男の本来的性質であるがゆえわからなくもない。1983年時点で浅田はそのように言ったが、2010年代の現在でスキゾ型の人が増えたかというとどうなのか?一つだけいえるのは、その場限り的な犯罪が多発している。自身の後先を考えたら、到底行えないような犯罪、がである。

    スキゾ・キッズはその場その場でルールを決めるから、既存のルールに縛らない。その場その場でルールを決めるというのは、言葉を変えると確たるルールがないということだ。確たるルールの代表は「法」である。近年は、あまりに法を無視、軽視するような凶悪事件が多い。殺人はいうまでもない凶悪事件である。これが浅田が望んだ社会なのか?

    今回、ボブ・ディランのノーベル文学賞に多くの人が驚いた。彼の才能に驚いたのではない、ミュージシャンの詞がノーベル賞に選考されたことに驚いた。ノーベル賞はガチガチのお堅い賞ではないということに驚いた。ボブ・ディランの本名はロバート・アレン・ジマーマン。英ウェールズ出身の詩人ディラン・トーマスに傾倒、自らディランと名乗った。

    そうはいってもノーベル賞は権威の象徴である。文壇界は、驚きを「衝撃」に置き換え批判が噴出した。フランスの小説家ピエール・アスリーヌ氏は、「ディラン氏の名はここ数年頻繁に取り沙汰されてはいたが、私たちは冗談だと思っていた」と、選考委員会への憤りの言葉を述べた。「今回の決定は、作家を侮辱するようなものだ。私もディランは好きだ。

    だが(文学)作品はどこにある? スウェーデン・アカデミーは自分たちに恥をかかせたと思う」。スコットランドの小説家アービン・ウェルシュ氏も、ディラン氏の選出を酷評。「私はディランのファンだが、これは耄碌してわめくヒッピーらの悪臭を放つ前立腺が捻り出した検討不足で懐古趣味な賞だ」とツイッターに投稿した。文句を言いたい奴は、好きに喚いてよろしい。


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    いつ頃から決めたはともかく、「忙しい」、「めんどう」、「疲れた」の3つを禁句にしてるのはここに書いた。「忙しい=無能」、「めんどう=横着」、「疲れた=弱音」と自覚し、自己暗示的に戒めたことでもあるし、これらの言葉は人から聞くのも煩わしかった。「忙しい、忙しい、ああ忙しい」などという奴は、「無能だ、無能、自分は無能なんだ」と言ってるように聞こえた。

    「めんどうくさい」が口癖の奴もいた。口には出さないが、なんという横着なやつと批判した。「疲れた~」の言葉を、「暑いね~」、「寒いね~」などと同じように無意識加減にいう人間に罪はないが、意識的に口に出し、人に同情してもらいたいかの如くいう奴には無視して反応しないようにする。「そうか、疲れたんか?」と言ってどうなるものでもない。

    それもコミュニケーションなら否定はしないが、批判に迎合するより無視した方が罪がない。頻繁にいう周囲に嫌気もあってか、「自分は死んでも言わんぞ!」と批判を強めた。批判が自分を作ると考えれば、批判を怖れることはない。いわんや、「罪を憎んで人を憎まず」で、自分の嫌いな言葉を発する人間が憎いのではない。彼らは自分に甘え、人にも甘えて癒しを求めている。

    ニーチェの、「友人には堅いベッドでいるべきだ」の言葉に共感する自分であり、親密度によっては、「弱音を吐くなよ」ということもあるが、大概は聞き流す。大事なことは批判が自分を作ることである。最近の芸能人は、例えば有吉や坂上やマツコや、批判に重きをおいた毒舌キャラが受けているようだが、日本人の毒舌は、悪口と同等の低次元でしかない。

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    では、毒舌と悪口はどう違うのか?個々で違うし定義はないが、自分はこう考える。毒舌とは、直接相手に向けて辛辣に物を言うこと。悪口は本人に遠慮したり、聞かれたくないとか、だから陰でこそこそ言ったりする。私情を挟む(場合もあるが)よりも、事象について躊躇わず批判する毒舌は、上記した、「罪を憎んで人を憎まず」というキャパが必要となる。

    どうも日本人は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」感が強いようだ。まあ、自称毒舌家といっても、権力者に媚びた保身家もいたりするし、利害関係が表立つようでは似非毒舌家であろう。自称俳優と犬好きの坂上なんてのは、子役の子どもと犬にだけ偉そうに語っておけばいいんだよ。と、これは悪口に聞こえるが、本人の前でも躊躇わずいえる毒言葉である。

    もっとも、有吉、マツコの番組を観ない自分は、最近は坂上も加えている。まあ、彼は昼の番組ご用達なのでついつい見かけるが、他の人間の発言の邪魔をするなと思いながら観てはいる。ジャンルが狭いのに、広げすぎだろう。こんにち毒舌の代表といえば橋下徹らしいが、自分はそうは思わない。彼は毒舌というより、自己責任で是々非々に語っている。

    ワイドショーなどに出演して、紋切り型の発言をするタイプではないし、大阪府知事になる前はたかじん委員会などにもでていたが、首長経験などで一層知識と素養を高めて以降、かれはワイドショー番組の端の方に座るべきでない。社会人としての真っ当な知識量が希薄で、ただただ五月蠅いだけの悪口芸能人と橋下では、まあ人間の質がまるで違うよ。

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    また毒舌は、好き嫌いのレッテルを外し、あるいは観点を変えれば、本当のことだと思わせる内容であるべきだろう。例えば、ボブ・ディランのノーベル賞批判についてで、「私もディランは好きだが、彼のどこに(文学)作品がある?」とか、「耄碌してわめくヒッピーらの悪臭を放つ前立腺が捻り出した検討不足で懐古趣味」などの辛辣な批判は毒舌要素を孕んでいる。

    これだけのことを言える芸能人の茶の間コメンテータはいないだろう。ディランの受賞についての自分の考えだが、ノーベル文学賞の選考基準としてこれまで言われてきたことと大きくかけ離れているのは事実で、例えば小説家であっても、ドキュメンタリー作品も選考には不可欠とされた。ゆえにか、村上春樹の『アンダー・グラウンド』も賞を意識といわれた。

    ディランの文学賞受賞は、その意味で今後の文学賞の幅を広げるものであり、真に優れたもの、普遍的なもの、社会に与えた影響力などを考慮すれば、何の問題もなかろう。さらにもっとも価値のある点は、多くの作家がノーベル賞を意識、もしくは目標に作品を書くというなら、ディランの場合はそれがまったくない。予期せぬ評価をいただいたということ。

    「初めに賞ありき」ではなく、後からついてくるものとするなら、ディランの文学賞は一石を投じたことになる。もちろん、池に小石を投じればその波紋はどんどん広がっていくのは当然だ。同じ意味で頭に浮かんだのが、ピアニストの内田光子の言葉である。「ピアノを買って子どもの尻をひっぱたく前に、まず初めにその子の心に音楽ありきでしょう?」

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    行為と目的のズレを指摘した言葉。勉強嫌いが学歴欲しさに大学に行くのも同じことだ。ノーベル賞を学者や研究者が目的として励みにしてもかまわないし、かまわないけれども、やはり後からついてくるものというのが、賞の純粋性に思える。賞が純粋でなくなるこんにち社会において、金で買った、選考委員を買収した、などのいかがわしい噂もついて回る。

    結論をいうなら、ディランのノーベル文学賞は予期せぬものであっただけに価値があったと、そういう別の観点から自分は評価したい。研究が研究者自身を、作品が文学者個人の評価になるように、ディランの詞はディランの評価となる。ミュージシャンとしてのディランを、アカデミーがジャンルを超えて評価したことも、時代の流れ、時代の変化であろう。

    ディランには、『時代は変わる』という作品があるが、ミュージシャンの彼がアカデミーで評価されるなど、ディラン自身も予測もしていなかったことであろう。ミュージシャンを評価するグラミー賞も名誉なことだが、ノーベルアカデミーが、「音楽」という垣根を超えて、一ミュージシャンに視点を宛てたそのことこそ、「The Times They Are a-Changin'」である。

    幸いにして我々は時代の変節の目撃者となったが、時に時代の変化は、四季の移り変わりのように感じられるものではないし、様々なものを眺めたり、受け入れたりしながらじっと目を凝らし、耳をそばだてて時代の音を聞けば、変わろうとする時代に気づくものとの認識だ。四季の境には移行期のようなものを感じるように、時代の境目にもそうしたものがある。

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    フォークの旗手と言われたディランが、ある日突然フェンダーのストラトキャスターに持ち替えた時、ファンの怒りは収まらなかった。ファンはディランの『時代は変わる』を口ずさんでも、ディランが変わることを認めようとしなかった。そんなファンにディランは辟易した。「おれはファンのためのディランじゃない」。その強烈な自我が、ディランを成長させていく。

    ファンはディランのためファンであるべきだろう。注意しなくても季節の変わり目はわかるが、時代の節目は分りにくい。ふと気づいたとき、フォークとロックを融合した新しいフォーク・ロックというジャンルが確立されていた。遠く海を隔てた自分も、『ライク・ア・ローリング・ストーン』を初めて耳にしたとき、ディランはバカでないかと思った。こんなのがディランであるはずなかろう。彼はバカだと…

    高校生の正直な感想である。「プロテストソングばっか、やってられるか!」、おそらくディランはぶっきらぼうに言い放ったであろう。優れた曲を書き、文学的な歌詞も高く評価されるディランだが、決して美声とは言えず、歌い方にしても、「ほんまにまじめにやっとんか!」、「やる気あるんか!」と思わせるほどに、ぶっきらぼうに聞こえる。が、それがディランである。

    それがディランらしい音楽表現である。音楽をきれいに、美しく飾るということをしない、そのことがディランの音楽への畏敬であろう。ディランを聴いていると、音楽は美しくなければいけないのか?そんな疑問を奮起させられる。「音楽が美しいものといえるだろうか?」これはシューベルトの言葉である。チャイコフスキーも、ある自作曲を以下のように批判した。

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    「この曲にはこしらえ物の不誠実さがある」。音楽が作り物でないなら、何だというのか?長年疑問に思ったことだが、「綺麗」、「汚い」の二元論で音楽を語ることこそ虚妄であろう。我々は音楽を、「美しい調べ」などと表現するが、天才の目に音楽はそのようなものではないのだろう。「音楽とは何か?」。音楽とは音であり、聴き手は音そのものを聴いている。

    したがって、音楽とは自分の耳が聴いているものに気付けばよいということになる。が、感じるという点においては人それぞれだ。確かに音楽は音を聴くという簡単なことだが、そこに感性が絡むと音楽は一層深みを増す。さらに音楽とは、作り手にとっては別次元のものであろう。再現すれば音の高低・振動であるが、作っているときは精神の挌闘ではないか?

    よって、音楽や文学などの表現行為は、人間個々の精神活動である。聞き手がそれを感じ取る高みにあるかどうかは分からない。ディランはノーベル賞受賞のコメントを発していない。もし、これが元ビートルズのポールであったなら、即座に律儀なコメントを発表するし、それがポールである。ディランの思いは想像するしかないが、とりあえずそれがディランと言っておこう。


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  • 10/16/16--16:41: 「ぬれぎぬです」
  • 日本将棋連盟は12日、三浦弘行九段(42)を年内の公式戦出場停止処分にしたと発表した。直接の処分理由は、提出を求めた休場届が期限までに届かなかったためとするもの。三浦九段は対局中に不自然な形で離席することが多いと、対戦した棋士から指摘があり、将棋ソフトを不正利用しているという疑惑が浮上。連盟側は三浦九段から聞き取り調査を始めた。

    三浦九段は棋士の中でもトップ10のA級所属の棋士で、今月15日、京都市の天龍寺で開幕する第29期竜王戦七番勝負の挑戦者に決まっていた。そんな彼がカンニングの疑義をかけられ、聞き取り調査を受けることになったという。これらの疑義がまったく身に覚えのないことなら、三浦九段の屈辱ならびに名誉失墜はあきらかで、連盟側の落ち度では済ませられない。

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    今回の件は、三浦九段と対局した棋士5名からの告発があったようだが、本人に聞き取り調査をすべきだったのか?これは早計のなにものでもないと思う。理由は、ソフトを利用したという明確な証拠があれば、連盟側が調査をするのはその限りでないが、疑惑というだけなら三浦九段と対局した棋士が、直接三浦九段に疑義なりのアクションを起こすべきでは?

    疑惑を抱いた者が直接本人に正すべきで、それなら個人間の問題で済むことだ。「そんなこといたって、本人に聞くわけにはいかないじゃないですか?」というのは、確証なき疑惑だからであろう。万が一違っていたら、疑いをかけた側の立場はなく、謝罪は当然である。だから連盟に告発して調べてもらった方が人間関係の気まずさも起らないということか?

    違反の確証がない疑義の段階で、連盟に告発するのは、された側にとっても侮辱行為ではないだろうか。「スマホで調べてません?」と聞きづらいから告発ってのも心外と思うが。例えばこういうケースは実際にある。会社の中で5名の金品が盗まれる被害があった。犯人は分からないが、どうやらAという人物が怪しい。5名は連名で会社に調査願いを出し、会社は本人に聞き取りをした。

    会社は疑いをかけられた本人に対して、「5名の金品が紛失したと言ってるが、君は関知していないか?」というしかない。個人を特定した根拠は何だ?当然にして、「何の根拠に私が…」と問い返すべきであろうし、そう返されて会社は理由を説明できるのか?「彼らがそういってるから…」ではダメだ。「そういうことなら、彼らをここに呼んで欲しい」と、自分ならいう。

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    つまりは全員に聞き取りをすべきで、曖昧な根拠での個人の狙い撃ちは間違っている。よって今回の連盟の対応は間違っている。三浦九段への疑惑について、まずは疑惑の深度を調査すべきだ。「対局終盤での不自然な離席が多い」というのは、疑惑の根拠として曖昧である。ソフトを利用した不正行為については、「ソフトとの指し手一致率」について調べる方法がある。

    「ソフト指し」は、ネットの道場などで禁止されており、不正行為を摘発するために、ユーザーとソフトとの指し手一致率をチェックし、統計的に一致率が不当に高い場合、不正行為を行っていると見なし、アカウントを停止するなどの措置が取られている。連盟は告発後の、「ソフト指し」調査の有無に言及していないし、証拠らしい証拠を発表していない。

    真相が明確でない疑義の段階で処分したなら、人権問題が発生し、当然にして違法である。仮にも三浦九段はA級棋士である。万が一彼の指し手が、ソフトとの指し手一致率として、他の棋士と比べて格段に高かったとして、だからといって不正を行っている根拠となり得るか?Aの物品がなくなったとし、Bが怪しいといえど、ただちにBに疑惑を向けていいのか?

    複数の対局者が連盟宛に嫌疑を表明するなら、まずは連盟が主体的にソフトとの指し手一致率などの調査をすべきである。「七度探して人を疑え」というように、疑惑段階の犯罪容疑者を警察が用心深く内定し、確実な裏を取るためにやるのは、冤罪防止と人権に配慮するなら当然のこと。もっとも現行犯なら無用である。当然ながら三浦九段は現行犯でない。

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    連盟の変人棋士橋本崇載八段は、以下のツイートをした。「数週間か1か月ほど前に、奴と対戦した人が不正行為をやられたと憤慨していると聞いた。恐らく、その後に決定的にクロ断定できるものを掴んで、踏み切ったのだろう。将棋連盟はタイトル戦開催まで数日というギリギリのタイミングでよく英断したと思う。始まってからでは、より取り返しがつかない。」

    「ファンには酷な知らせと思うが、個人的にも1億%クロだと思っている。奴が除名になるかどうかは知らないけど、俺は二度と戦う気しない。以前からソフト指し、モラル、カンニング、再三警鐘を鳴らしてきたつもりだが、最悪の形になりただただ残念だ。これでも潔白を信じるという人はどうぞご自由に」。なんだこの書き込みは?同僚を「奴」だのと…。

    これは疑惑を超えた罪人扱い発言で、その後、早まったことに気づいたのか、同日発言を取り下げた。その理由が、「取材の依頼とかきてたくさんきてこまってるんでツイート消します。この件の取材は一切NG。ちなみに言っとくけど、この件は僕ちゃん激おこだかんね」。なんだこの幼稚な言い訳は?発言の強さ、重みというわきまえがないタダのガキじゃないのか?

    「奴と対戦した人が不正行為をやられたと憤慨…」これって聞いた話で、それで1億%クロと断定か?かの発言に取材がくるのは当たり前だろ?「これでも潔白を信じるひとはお好きにどうぞ」。などと威勢はいいが、風呂敷を広げすぎて墓穴掘ったのでは?個人が軽々に発言することではないし、列記とした人権問題ということも分からないのか?棋士ってのは。

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    連盟が確実な証拠を持ってやったことなら分かるし、そう思いたい。でなければ三浦九段への聴取は常識を逸脱しており、日本将棋連盟は社会的バカ集団ということになる。厳格にルールを設定してこなかった連盟の責任も大きいが、ファンは「“黒”にしては軽すぎる、“白”にしては重すぎる」であろう。連盟側の調査に対し、三浦九段は以下の説明をした。

    三浦九段が、「離席時は別室で体を休ませていただけです。不正についてはまったくのぬれぎぬであり、やましいことは何もしていない」。「これではとても(将棋を)指せないので休場する」と竜王戦を含む今後の対局の休場発言をしたという。連盟は12日午後3時を期限とし、休場届を待ったが提出がなかったため、連盟は12月31日まで公式戦出場停止処分を課した。

    将棋界というところは、「村社会」である。村には村の論理があり、村の掟(規約)に乗っ取って行動しなければ、「村八分」の憂き目にあう。村で生きるものにとって何より怖れることだ。村という内輪社会にあって、陰口などは増幅されやすく、外部の者が冷静かつ中立的な視点抜きに、内輪の証言で物事を決めたりするのは公平性に欠けるだろう。

    三浦九段がまったくの無実なら、ありもしない嫌疑に対して法的手段で対抗することも可能だが、それは村社会の掟に反した治安を乱す行為となろう。身分の保全と名誉棄損の訴訟を起こすとして、連盟が確たる証拠を提示しないかぎり、連盟側に分が悪い。が、訴訟に勝っても連盟内で孤立し、この一件は三浦九段と連盟にしこりを残す。これが村社会というところだ。

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    連盟は13日、今後新たに三浦九段への追加調査を行わないことを発表した。処分は既に下っており、連盟側から三浦九段に連絡することはないとのことだが、連盟の対応は村落共同体論理であっても、社会的に見ればオカシイ。将棋連盟の理事らちは、三浦九段だけがスマホでカンニング可能な環境にあるわけではないことをどう考えているのか?

    全員が等しくスマホを使える環境にある状況にあって、誰かが誰かを名指しで怪しいと告発したとしても、それを鵜呑みにするってのは、級友をチクった子どもの肩を持つ担任と同レベルである。告発された側が悪いなら、泥棒本人が、「あいつは泥棒だから捕まえてくれ」と警察にいえば、言った側は泥棒でなくなるのか?連盟の対応はどこか偏っており差別的だ。

    三浦九段を擁護する声の多くは、「三浦九段はそんな人間ではない」という、単に情緒的な意見であるが、元「週刊将棋」編集長で、大阪商業大アミューズメント産業研究所主任研究員の古作登氏はこのように言う。「そもそも、プロを負かすレベルの将棋ソフトを使うには、高性能のパソコンが必要です。スマホ程度(の処理能力)では対応できません。

    スマホの将棋ソフトは、せいぜい一般人の遊びレベル。離席してのぞき見たところで、プラスになるとは思えません」。体制側は、トカゲの尻尾を切って体制を死守するだろうが、三浦九段のいう「ぬれぎぬ」なら、名誉回復の方法は司法に委ねるしかない。それならやるべきであろう。周囲の村人の視線がどうあれ、天に恥じぬなら何も怖れることはない。

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    トカゲの尻尾を切られても頭が残ってるわけだから、強く行動すべきである。「三浦九段とは将棋の本の出版で一緒に仕事をしたことがありますが、とてもまじめで、仕事も丁寧でした。将棋に関しては人一倍練習熱心な人で、不正など考えられません。出場停止処分にしながら、連盟から疑惑に関する詳しい説明がない方が問題でしょう」と、古作氏も憤る。

    自分も三浦九段の無実を信じる。「ぬれぎぬといいながら、対局拒否したのはおかしいのでは?」との声もあるが、むしろ性格的に言葉少なく、朴訥とした三浦九段らしいのではないか。昔、武士は無実ゆえに腹を切った。死んで無実を証明してみせた。屈折した倒錯心理だが、言い分けを「善し」としない人間は、こういう抗議を「善し」とする場合もある。

    三浦九段が無実を主張し、訴訟となった場合に連盟側は、「ソフト使用の疑いで年内の公式戦出場停止処分したのではない。本人が休場するといったが、休場届を提出さなかった事に対する処分」というだろう。事情聴取についても、「数人の棋士から三浦九段の対局中の挙動がおかしいと告発があったからヒアリングしただけ」と逃げを用意している。

    とはいいつつ、連盟側は訴訟を怖れているのではないか?というのも、三浦九段に対する疑義は対局者からの密告であり、連盟が密告を鵜呑みにしたことが軽率と自分は考えるが、あとは有能な弁護士の腕の見せどころであろう。さて、前代未聞の一大事といえる本件、今後はどう展開し、どのような幕引きがなされるだろうか…。

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    昨日のコメント来訪者、期待に反して再コメはなかった。この手の人間は、他人の意見に文句をつけて自身の気分を晴らすということだろうし、それに対して気分を害するようなことを返すのはよくない。まあ、結論はそういうことだが、ちょっと言葉で遊んでみたということだ。しつこく言い合いを続けるブログもあるが、ひと年とったならエネルギーの無駄な浪費は避けるがよい。

    あしらうというより、文句をいいたい心理を上記のように理解すればいいこと。ならば、「お前の方がもっとくだらない」みたいな言葉を吐かれて癇に障ることもない。来訪者の素性はわからないが、文章から年齢その他何がしかの推察はできるようになる。まさに、「文は人なり」といったものだが、他人の書き込みに文句をいって、ストレスを発散するネット社会ならではだ。

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    羽生氏は勝負師。松尾氏は音楽家。と、書き手の意図は想像に及ぶ。自分の考えを強調するためであろうが、自分の考えを強めるための一元論は説得力がない。たとえば、羽生を勝負師と限定して、寝癖など関係ないだろうといってみても、彼は社会人でもあるわけだ。松尾を音楽家と言いたいのも同様、音楽家には一流もいれば三流、五流もいるわけだ。

    周到さのない独善論は言い返す余地が多く、簡単に論駁されるであろう。それに立腹し、意固地になり、後は屁理屈合戦となるを、バカげていると思わない当事者ども、バカげてると思う自分はやらない。議論は相手の意をくみ取り、真摯に冷静にやるものだが、熱くなるのが若さである。若さはバカさと自身を顧みて、つくづくそうである。が、誰にも若さがあって仕方がないことだ。

    自我は大切といっても、何事も自我を中心に据えていては、「生」の意味が表層的になり過ぎる。そもそもそれでは、「死」ということの位置づけができなくなる。自我は死によって消滅しまうものであるなら、生きていることにどれだけ価値があるのか?となり兼ねない。新聞や報道などから、我々は様々な、「事件」に触れるが、事件は「体験」ではない。

    事件には自我の関与はなく、所詮は他人事でしかない。が、自分に関係のない事件であれど、それを自我と魂間の葛藤として思考し、人間の存在全体を揺さぶるものとなるとき、その事件はその人にとって、「体験」となるであろう。「どうでもいい」とか、「他人事」とかの言葉を自分が嫌う理由は、他人の深みについて思考することで、他人を体験したいからである。

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    人間が生きている間に体験することなど微々たるもの。したがって、文学や演劇、映画などでする疑似体験に感情移入すれば、まさに自分のこととして考えられる。事件も同様にして深く考察して体験に至れば、自身の体験は一つ増えることになる。他人の体験の収拾を知恵をだして図れば、己に降りかかるとも知れぬ同じ事件を、予習体験したことになる。

    あれだけ言われているのに、「振込め詐欺」がなくならないのも、所詮は他人事として深く思考しないからであろう。人は自分を生きるが、また同時に他人を生きなければならない。傷害事件も殺人事件も、男女の不倫や離婚も、災害や交通事故も、政治家や芸能人の失言についても、それらを自分なりに思考するのを、他人からどうのこうの言われることではない。

    ところが、他人も自己中心であるから、気に食わない論や発言に文句をつけたがる。得てしてこういう人間は、他人のことの前に自分が考え、行動することはいくらでもあるはずなのに、それをしないのだろう。他人に文句を言って自分がどう良くなるだろうか?何かにつけて他人にチャチ入れるだけの人は、もっともっと自分について考え、自分にチャチをいれるべきかと。

    それを差し置いて、他人の些細なことに言及するなど、自分に言わせると、「バカ丸出し」である。大きなテーマを掲げて他人を思考するのは、自分のことと同等に大事である。孔子は、「四十にして惑わず」といった。そうはいえど、孔子時代の四十は現代の七十歳くらいかと考える。人生50年の時代の四十歳と、80年超の時代とでは四十歳の意味がまるで違うはずだ。

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    年齢はともかく中年も老齢に差し掛かると、あらためて自分という存在に目をむけることになる。一体、自分とは何なのか?何であったのか?も含めてである。それだけ過去の年数が多くなるから、「何だったのか?」との過去形になる。が、「何だったのか?」は、結論を求めているようだ。ということは、今後はさしたる変化はないと読み切っているのか?

    「もう棺桶に片足突っ込んでる年齢だから…」などの言い方をするが、どの年齢でそうなるのかは人にもよろう。もちろん、若いときに、「自分とは何だ?」というのは誰にでもある。自分を大切に思い、自分を生かしていきたいと誰もが思っている。やりたい仕事、結婚したい相手、そうした中で自分を確立して行くことになるが、老齢に手がかかるとどうなる?

    これも十人十色であろう。まだまだ、自分の力を試してみたいという気持ちも湧いたりする。それで無理をして死んでしまっては何もならないが、何かを始めることは死ぬためではないから、アクシデントであろう。険しい登山も、激しい運動も、死ぬためにやるわけではない。若者は社会からの評価を得たいが、高齢者は自身で自身の評価を得たいものだ。

    こういう考えの便利な点は、他と比較することが容易なことである。運動能力や体力測定などの数値は、「この年で自分も大したものだ」、「よくやれていると思う」といった自己評価、自己満足にすぎないが、それらの尺度はどこにも適用できるからして、普遍性を持つ。ところが人間が、「私」について思考するとき、数値に現れる簡単なものではない。

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    街が一望できる小高い山のてっぺんに登って、遠く瀬戸の内海を見たり、行きかう船舶を見ながら、それで十分であったりする。そこの場所の空気を吸い、それが自分の体の状況などと渾然一体となり、「私」の感覚を呼び起こし、支えたりもする。人が高い山に登って眺望を好む理由はわかる気がする。大げさに言うと、「神」に近い心境である。

    神を知らないから言える言葉であるが…。ある場所で、ある時に、「うん?これが私なのだ」と感じるのは、他との比較を超えた独自の自分である。他者との比較の上での、「私」もあるが、そうした別の観点からの絶対的な、「私」も、老齢に差し掛かる者にとっての、「私」の発見であろう。もはや他人との比較で成り立つ、「私」などは無用であろうと…。

    ともすれば老人が頑固になるのは、そこに起因するのかも知れない。善悪は分からないが、絶対的な自分を持つのは必要であるように思う。他者からの評価、他人の尺度からみた、「私」ではなく、自らの尺度で自分を決定するのは、やはり必要である。改めていうまでもないが、「現実」は極めて多層であり、それを知ることで人生が豊かになり、意味深くなる。

    若いときのように、「こうだ!」、「ああだ!」、「そうだ!」、「それっきゃない!」という短絡さから、「これもある」、「あれも、それもある」など、思考が柔軟になる。自分を通してだけでなく、他人を通して事物を見る目が養われるからだが、それでも時に、どちらが正しいか?を判断しようとする。自らの内で判断すればいいこともあれば、相手を説得しにかかることもある。

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    上記の場合、その必要性がある場合に限ってで、むやみに他人を自分の考えに誘導し、説得する必要もない。人は人を生きたらいいわけだし、己の生き方が正しいなどと喧伝する必要はない。が、問われれば答えるであろう。自身の正しいと思うことについて…。中年が子どもについて背負う課題を多く持ち、悩むのは知っている。子が親の自由にならないのは当然である。

    そういう意識に改めることを出発点にしないと、親が苦しむのは当然だ。登校しない。成績があがらない。いじめられる。盗みをする。など多くの問題がある。が、これらの問題の多くは親の生き方、育て方そのものが問題であることが多い。そこに気づかないで、「悪い子」というのだからどうにもならない。が、それを言ったところで物事は解決しない。

    心理学者はこの手の相談に、「親が変わらなきゃダメです」と口をそろえるが、親がそうそう簡単に変わるはずがない。『ザ・中学教師』という映画で、母子家庭の母が息子と一緒にお風呂に入ったりする。そうした共依存関係から息子を自立させたいと相談に訪れ、「息子を自立させたいなら、あなたが家出することです」と言われて、本当に家出してしまう。

    自分の考えや信念が土台になく、言われたことを鵜呑みにする天然の母らしい行動だろう。多様化の時代といわれつつも、この国では子どもをみる視点が、学業優先という唯一の尺度で評価するのは変わりようがない。個性という尺度で子どもを見る親はなぜか日本人の親に少ない。「苦労をさせずに」と親は思うが、そのことが異種の苦労を生むのである。

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    穂積隆信の『積木くずし』、本間洋平の『家族ゲーム』には、過保護と暴力という共通点がある。過保護というのは、三田佳子や高畑敦子などの例もあるように、忙しくて放任しがちな芸能人の子どもに起こりがちで、彼女らの、「過保護」の意味とは、実は愛情不足の代償である。『家族ゲーム』の慎一は、砂場で遊んだことも、女の子に興味を持つこともない。

    三十分単位で一週間、一か月の予定を立て、それに従って生きる高校生で、ノルマをこなし、そのノルマの達成を親が喜ぶという家庭である。出来の良い慎一に比べて弟の茂之は勉強が苦手。父親は家庭教師の吉本に、茂之が英語で60点とると5万円、10点上がるごとに2万円の契約を交わす。金で買えないものを子どもに費やす親はいいとされる現代の構図。

    別に昨今の親が悪く、昔の親がよかったと言いたいのではなく、昔の親は子どもに金をかけたくとも、金がなかったに過ぎない。吉本のような暴力を用いた強引な家庭教師がもたらせたもの、それが親の描いた構図に寄与したからといっても、目に入るのは表側だけである。サーカスで調教されたライオンや象の芸を見ながら、象の顔は泣いているようだった。

    本年8月群馬県のサファリパークで、同園従業員女性が施設内のツキノワグマ(5歳、オス)に襲われ死亡した。今月15日には、長野県では自宅で飼育していたクマに嚙み殺された。動物をあなどってはいけないというが、まこと人間には人を噛み殺す牙も爪もないが、金属バットがある。親の殺害に斧やカマを使った事件も過去にあった。子どももあなどれない。

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    涼しそうな切れ長の目、年齢不相応な色っぽい口が印象的な少女。これで13歳なら将来有望、いい女になるのはマチガイないが、残念なことに彼女は死んでしまった。なぜ?わずか13歳の命って短かすぎない?13歳で死んでたらとっくに自分はいない。13歳で死んだ人は、13歳まで生きたと思うのだろうか?彼女は、「13年間ありがとう」の言葉を置いている。

    その5倍も生きた自分からすれば、「13歳まで」などとと思えない。彼女は13年間の命と引き換えに、何を得たのか?真っ赤に開いた傘を背に、笑顔はじける津軽手踊りの少女――。今夏の黒石よされ写真コンテストで、最高賞の黒石市長賞に内定していた作品で、撮影された10日後に自殺した青森市の浪岡中学校2年の女子生徒(13)と、審査後に判明したものの名は不詳だった。


    ところが、主催した黒石よされ実行委員会が一転、内定を取り消していた。が、遺族は17日、撮影者から提供を受けていた作品を本紙に公開した。葛西りまと氏名も公表した。写真は8月15日、黒石市の日本三大流し踊り・黒石よされで、青森市の男性が偶然撮影したもので、男性は、「表情の明るさ、漂う熱気、精いっぱい楽しむ姿に魅かれた」という。

    りまさんは幼少期から手踊りをたしなみ、小学6年で仲間と日本一に。だが、今年の全国大会が近づいていた同25日、命を絶った。遺書があった。彼女の記した一句一句は読むものにとって切実である。遺書が切実なのは、遺書に切実な想いが込められてるからだろう。遺書を書いたことはないが、遺書がどういう気持ちで書かれたのかを洞察できるだろうか?

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    これから死ぬと決めた人間が、辞世にどんな言葉を残すのか?おそらく経験することはなかろう遺書について考える。遺書とは自死に限られ、これを経験するためには死ななければならないが、遺書を書いてみたいがために死ぬことはできない。死に臨んで人は何を望み、何を伝えるのか?人間は自分の死を経験できないゆえに、遺書の反響を知ることはできない。

    人間にとっての「死」体験とは己の死ではない。死後の反響さえもわからないそれが人の死だ。悲しむであろう肉親や友人を思いを浮かべながら死ぬのだろうか?自死とはカタルシスなのか?人生では誰もがまったく思いがけないことにぶち当たる経験をする。りまさんの自殺は遺族にとって、悲しい死の体験であるが、りまさんは体験ではなく、ただ世から消えた。

    「8月25日に青森県南津軽郡藤崎町のJR奥羽線・北常盤駅で起きた人身事故で、死亡した女性が青森市の浪岡中学校2年生の女子生徒であるのが27日分かった。それがりまさんだった。自殺の可能性が高いという。事故前日の24日は2学期の始業式。りまさんの周辺から、いじめに遭っていたことを示唆する記述が見つかり、学校側はいじめについて調査を始めた。

    遺書のない自殺も多く、だからといって突発的ということでもない。遺書を置いて死ぬもの、何も告げずに死ぬもの、それぞれの死の選択である。りまさんは遺書をスマホのメモアプリに残していた。いじめた生徒の実名も書かれ、「もう生きていけそうにない」、「耐えられません」など悲痛な訴えがつづられており、父親は遺書の一部を公開した。

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    遺書

    突然でごめんなさい。ストレスでもう生きていけそうにないです。●が弱いのは自分自身でも分かってるし、●が悪い所もあったのは知ってるけど、流石にもう耐えられません。東京いって全国でまた皆で優勝したかったけど、行けなくてごめんなさい。だから7人で、優勝してください。●も頑張ってね。

    学校生活も散々だし、それでストレスたまって起立性なったのに、仮病とかいう人が沢山いて、説明しても、あまり信じてくれなかった。1、2年の時で●の噂流したりそれを信じたりいじめてきたやつら、自分でわかると思います。もう、二度といじめたりしないでください。(中略) 家族へ。先立つ不幸を許してください。もう無理です。特別虐待があったわけでもない(中略)

    文章めちゃくちゃでごめんなさい。みんなに迷惑かけるし、悲しむ人も居ないかもしれないくらい生きる価値本当にないし、綺麗な死に方すらできないけど、楽しい時もありました。本当に13年間ありがとうございました。いつか、来世ででも●が幸せな生活をおくれる人になれるまで、さようなら。 また、会おうね。
    2016年8月25日木曜日

    りまさんは事故前日の24日、東京で開催される伝統芸能の全国大会に向けて、夜9時ごろまで「津軽手踊り」の練習をした。三味線を担当するりまさんの祖父が、「頑張れよ」と声をかけると、「うん」と返事をした。翌25日朝、「具合が悪い」と訴え、両親が出勤後も1人自宅に残った。そして、当日午前10時過ぎ、JR奥羽線北常盤駅で電車にはねられた。

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    りまさんの父親と祖父は、昨年6月ごろ、りまさんが他の生徒から、「LINE」で中傷を受けていることを知り、「その年頃の女子に対して使う言葉としてはキツイ」と、父親が担任に相談していた。父親はいじめの生徒や親に、「もう関わらないようにしてください」と声をかけたという。クラス替えの配慮がなされたことで、りまさんは、「大丈夫」と話すようになった。

    ところが、昨秋ごろから朝起きられなくなり、「起立性低血圧」と診断された。原因はストレスによるものだった。いじめはおさまったかに見えたが、おそらく親にチクったことでより陰湿になって行ったのだろう。女の女に対する陰険さはいろいろ聞いたが、よくもこれほど露骨にといえるほどに凄まじい。ハラワタが腐っているのかと見まがう陰湿さである。

    男なら、「お前のその陰険な性格何とかならんのか?」と、逆に攻め倒すこともできるが、受け身の女性にとってはたまらない。キャパを超えた非情さを受けきれるものではなく、教師に相談していじめっ子に注意をしたり、叱ってもらってもいじめは解決しない。親に話せば、「よくぞ言ってくれた」とばかりに、いじめ相手やその親に通告しても、いじめは簡単には止めない。

    教師や親にいうことをチクるといい、大人が叱りつけたり、諭したりの仲裁に出てきたところで、子どもの傷は深まるばかりである。いじめられっ子は心に傷を負った子が多いが、いじめっ子も心が傷ついた子どもが多い。育ってくる過程のなかにあって、無意識の苦しみがあるから人をいじめる。強がってはいるが、それでも心の中は辛く重い物を背負う。

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    子ども同士の問題に大人が出てくればそれが心が傷つける。だから大人が出てくるのをいじめ側は許さない。親・教師が対応したときは解決したように見えても、いじめ側の恨みは以前にもまして増幅するのだろう。したがって、いじめを増幅させないための基本的なことは、子どもにとっての、「目上の人」は干渉せず、子ども同士で解決するのがいい。

    しかし、子ども同士でいじめっ子にいじめを止めさせる、あるいは自然に止むようにできるのか?いじめっ子はいじめられる側が何もしないのをいいことにいじめるわけだから、突然怒りを表し、向かっていくなりのアクションを起こすのがいじめを止めさせる特効薬となる。刃向かう勇気はいるが、親と意思の疎通があれば、そのあたりは子に伝授できよう。

    何もしてこないからカモにされるわけで、突如襲ってきたらいじめる側も恐れ戦く。弱い者いじめをする人間の本質は臆病者と相場は決まっている。そうした事実、本質を子どもに諭すのが親の力量であり、保護者の任務であろう。突如、刃向かってくる恐怖にいじめっ子も、「こういう事はするもんじゃないな」を学ぶ。また、親の過保護がいじめられる子を作る要素はある。

    なぜなら、過保護は逞しさを考慮に入れない。女の子であっても、物事の道理として、「逞しさ」とは何かについて語り合いはできる。逞しさ=強さとは限らない。いじめは自殺をともなう場合もあるが、どんなにいじめられても死なない子はいる。いじめで死ぬ子と死なない子の区別は近視眼の親には見えてこないし、自殺を弱さと見るのは違うだろう。

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    耐えれば強く、耐えねば弱いというのは安易な論理で、優秀な人間が自分の能力がさがったことで自殺をする例は少なくない。いじめ回避には4つの方法がある。先にあげた対抗するが最善だが、②耐える、③自殺する、④逃げる(転校)など。どんなに知識や教養があり、しっかりした人物、温厚な人間でも、孤立した状況で追い詰められると異常な行動をとる。

    殺し合いか、自殺か、発狂したり精神を病む。自殺は精神を病んでいる状態で、そうそう命を投げ出せるものではない。上の4つに加えるなら、どこか脱出口を見つけるのも方法だ。脱出口とは何か?昔いじめられた人がこのように言っていた。いじめを癒してくれるのは銭湯だった。あるいは近所の神社のお祭りだった。どちらも華やかな空間である。

    そういう中に身を置きながら、誰とも口を利かずともいい。「自分は群衆の中の孤独が好きだった。そこに安心という逃避を求めていたのかも知れない」。脱出口を見つけるべきだ。脱出口は未来につながっている。りまさんの祭りのショットが、なぜにこれほど魅かれるか、彼女の刹那な人生の最後を写し出していることもあるが、それは幾分先入観もある。

    撮った人には伺い知れぬことで、「表情の明るさ、漂う熱気、精いっぱい楽しむ姿に魅かれた」と撮影者は述べている。まさにその通りで、彼女のあの笑顔の裏に潜む苦痛や哀しみなどは感じられない。が、そのことを思うとあの一枚はいたたまれない。数日後に命を絶つ苦しみが、あの笑顔に隠されていると思うと…、こんなに苦しむ少女がいるのかと思うと…

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    りまさんは、「他校の男子とやりまくっている」など、事実でないことを言いふらされたりした。こういう嘘には甚だ怒りを覚える。人を苦しめ、窮地に追い込むような子どもを育てた親に無性に腹が立つ。そんな子育てをして欲しい。自分の満足や幸福が他人の不幸の上に乗っかるというのは、存在する資格のない人間である。腹立たしさが先行して情緒的な文が書けなかった。

    りまさんの写真をめぐる体制側の判断はオカシイ。「自殺した少女が祭りにふさわしくない」と、そんな論理がどこにある?写真コンテストに試写体云々など関係ないはずだが、こういう大人がいじめに加担している。どの面下げて、言い訳を考え、発するのか?子どものいじめがなくならないのは、心無い形式主義の大人たちが社会を牛耳っているからで、こちらにも腹が立つ!


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  • 10/19/16--17:55: いじめ好きの馬鹿
  • かるたが懐かしい。お正月には家族や親せきが集い、和やかにかるたをしたが、それも晦日に、「紅白歌合戦」を見るのが恒例だった時代の遺物である。昨今はもう「かるたってなに?」という子どもも増えている、そんな時代かもしれない。羽根つきも、凧揚げも、コマ回しもお正月の風物詩ではなくなった。「時代は変わる」のだからそのことはいいとして。

    絶滅寸前のこれらの遊びはかるたも同じである。子どものころ、かるたの語句は自然と覚えた。いろはかるたには、「江戸かるた」、「上方かるた」、「尾張かるた」があり、「いろは」の最初の、「い」の語句もそれぞれがちがった。自分がやったのは、「江戸かるた」である。「ちりも積もれば山となる」の意味を親に問い、その言葉を好きになったのを覚えている。

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    「江戸かるた」の最初の語句は、「犬も歩けば棒に当たる」であり、犬もあるけば棒に当たるのか?と、言葉どおりに受け取り、言葉の持つ真の意味を知らないでいた。「犬も歩けば棒に当たる」の原義は、「犬がふらふら出歩くと、棒で殴られるような災難に遭ったりする。じっとしていれば良い。余計な行動を起こすべきでない」という戒めとなっている。

    また、これは俗用として、「行動を起こすことで、幸運なことでも、災難なことでも、何らかの経験をすることができる。じっとしていると、そのようなことはできないので、積極的に行動すべきである」。という教訓になる。どちらがいいというより好みであろう。こういう好みが、その人の人生観となり、親となったときに、子どもに対する教育観となるのではないか。

    人生観は大事、親としての教育観も大事である。そんなことを考えながら、かるたの用語は現実に自分の人生観に寄与し、そんな言葉がいくつもあることに気づいた。かるたはゲームである。しりとりもゲームである。家族がほんのり楽しむゲームであるが、実はその裏には隠された教育的効果が潜んでいる。かるたやしりとりは、子どもに語句を覚えさせるものでもある。

     さらにいうなら、好奇心の強い子なら、言葉の意味を知ろうとする。自分で考えるにしろ、親に聞くにしろ、即ち、「花より団子」という語句にしても、自分の記憶でいっても、子どもにとって不思議な言葉であった。小学校の中~高学年になると語句の不思議さはどんどん増す。子どもの疑問は親の学習に寄与する。親に資格はいらないが、実は資格がいると思う。

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    親は子どもと共に成長するというが、まさにその通り。「お父さん、『花より団子』ってどういうこと?」と聞かれたらしめたものだが、「『論より証拠』って聞かれたらこまっちゃう?」、そんな親は多い。難しいことは答えられないが、子どもは親がゴマカスのをちゃ~んとみている。我が家のように、「お父さんに聞きなさい」という母親なら、父親は使命感にご満悦である。

    好奇心の強い親であればこそ、感受性の高い子どもの好奇心に向き合える。自分が知りたかったと同じように、この子も知りたいだろうなという気持ちになれる。「親に聞いてもめんどうくさがって教えてくれない」という子どもはおそらくいる。子ども時代を振り返って、「うちの親はそうだった」という大人もいよう。親は子どもに真摯に向き合いたいものだ。

    そういう積極的な親の態度が、人をいじめるような子に育てないと言い切るのは決めつけかも知れぬが、情操の欠落した子どもの親には何らかの要因は間違いなく存在するハズだ。今回、葛西りまさんの自殺に触れて、一向に減らぬいじめ問題に腹が立つばかりである。のっけに、「いろはかるた」について述べたのは、表題こそ現代のかるたの語句であると。

    それが、「いじめ好きの馬鹿」である。他人の親子の問題を想像するのは至難だが、「これでいいんだ」という親は間違いなく危険である。己を過信するあまり、己の行為を自身で正当化する、そのことが危険であろう。物事を多角的に捉え、善悪の幅を自身の視点と子どもの視点から総合的に判断しない親は傲慢であろう。教育には理想が必要で理念も大事である。

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    が、疑問や批判なくして正しいものは見つからない。いじめっ子の親は、間違いなく子どもにストレスを与える親であると考える。たしかにストレスの発散はいろいろあるが、それをいじめに向ける子どももいるからだ。自信たっぷりの人間がしっぺ返しを食らう光景は多く見た。そういう親もしかりである。自信はどう身につける?「そんなの簡単よ」という女性がいた。

    「信念でしょう?こうと思ったらやればそれが自信になる」。などと言葉はいかにも便利である。人間は言葉の生き物、美辞麗句に酔う人間は多い。プロ棋士は当然の一手に時間をかけるが、自分の手に酔わぬ疑念と周到さがある。取り返しのつかぬ行為の前なら、さまざまに思考できる。「こうと思ったら」の、「こう」の種類は10も50もあることを知るべきである。

    人間は自分の予測どおりにいかない。予測はするが予測の範囲を超えた思考こそ他人の神髄である。分かったことをいう人間は、実は何も分かっていない。子どもを解っているという親はメデタイ親である。洞察し尽くしても他人を理解できない、それが他人の証明である。自信と過信は似ているようで違う。短絡的自信家に遭遇する度、思いを強める昨今だ。

    いじめっ子を持つ親は、自分のせいでそうなったとは思ってはいないだろう。なぜなら、親が子にストレスを与えたなどまったく感じていないからだ。ストレスを与えるのが大事という親もいる。それを跳ねのける訓練になるという。論理としては間違いではないが、他人が自分の意図通りにならないことを知るべきである。ストレスを与えていいことなど何もない。

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    発散法を間違うと大変な失態になるからで、「いじめなんか愚の骨頂」、「バカの愚行」、「そんな子どもは蹴とばす」との強い思いを抱く親にいじめっ子は育つまい。つまり、危機感が行為の端々に現れる。いい親の定義は難しいが、悪い親はいくつも上がる。まず、ホンネとタテマエをむき出しにする親。子どもは自分の親を案外見抜いているものだ。親が気づいてないだけ。

    であるのに「地」を出さないで、決まりきったこと、道徳的、常識的、世間体ばかりいう親は子どもはうんざりである。親の「地」というものは実は育て方(教育)にも大きく影響する。自分なりに考える良い親の定義は、「親が自分の"地"を出せて、それが子どもが見抜いている親の実像と合致したときにこそ、教育が成立し、子どもの生涯に残るものとなる」。

    こんな話がある。「小学校のある教師は怠け者で、各科の得意な生徒に、"お前が説明したほうがいい"などと、代わりに授業はさせるし、前日のお酒の匂いはするし、それでも子どもに人気のある教師だった。ある日、全校朝礼で当時流行っていたベーゴマが摘発された。ベーゴマをやり取りする賭けの部分がよろしくないということで、禁止されていた。

    何人かの悪ガキが前に呼び出され、全校生徒のまえで吊し上げを食う。息の荒い若い教師が、大声で怒鳴り続けていた。講堂の肋木にもたれていた怠け先生が、「聞こえませ~ん」と突然大声を上げた。満座はシーンとなった。そのときぼくらは分かった。ぼくらがこの怠け先生に親しみを感じていた理由が…。これなんだというのがやっとわかった。

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    男の子の多くは、「ベーゴマ如きでなんでそんなに怒鳴られなきゃいけないんだ?」と思っていたから、そのことをぼくらと同じに理解してくれる先生がいたのがうれしかった。ぼくらのそんな疑問に賛同だけでなく、行動で訴える先生であった。こういう教師はテレビドラマなどで出てくるが、職員室で孤立するのは間違いない。が、学校という村社会で信念を通せる逞しさが男らしい。

    隠せないという信頼感である。要領のいい人は隠すこともできるが、隠さないでいる人は先ずは自身に正直なのだ。「いい先生」と思われようとしないのが、実はいい先生であったりするように、「いい親」である必要はない。生徒が思う、「いい先生」、子どもが思う、「いい親」と教師や親自身のギャップである。いい教師、いい親の神髄は、「いい人間」かも知れない。

    なぜなら、子どもは教師や親の視点でとらえていないからだ。自分たちは子どもであるが、大人を同じ人間としてとらえている。だから、非人間的な言葉や行為に鋭く反発するし、しなやかで人間的な心に同調する。まずは信頼が先で、それなくしての切は彼らの心に沁みて伝わらない。だいたいにおいて親の過ちは、「勉強できればいい子」という短絡である。

    今回、一枚の写真がきっかけで、一人の少女の自殺がクローズアップされた。そのことがいじめ問題に寄与してみても、時間とともに忘れられて行く。いじめを風化させないのは、いじめがもとで世を捨てた子どもたちの親であろう。我々は他人事でしかない。被害者に同情しても帰らぬ人だし、被害遺族に同情しても、慰めにもならない。自分はりまさんの遺書を何度も読み返した。

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    原因を究明したからではなく、追い詰められた少女の苦しみが、どのようなものかを解ろうとした。が、人の腹痛はこちらが元気な時には分からないものだ。だから、自分が辞世の遺書を書く境地はいかなる場合かを想像すれど、見当もつかなかった。「いじめは止めましょう」、「STOP!THE いじめ」こんな標語は、いじめ側にとっては単なる落書きであろう。

    「いじめ好きの馬鹿」というかるたで啓蒙できる時代でもない。いじめをなくすためには、親が子どもの幼少時期から、ストレスを与えぬよう、留意して育てることしか思い浮かばない。「万引きは犯罪です!」の標語が虚しいほどに、万引きはなくならない。いじめに刑事罰はなく、よって刑事犯罪とならない。体に傷を与えれば障害事件だが、心の傷に罰則はない。

    ならば、いじめはどんどん陰湿へと下降していく。昨日の記事でいじめ回避手段とした、①対抗する、②耐える、③自殺する、④逃げる(転校)のなか、③は起こった事象であって、回避策として適切でない。正しくもない。したがって、りまさんの取ったいじめ撲滅法は、我々からみれば間違いである。ただし、彼女がなぜそれを選択したかを遺書から探るのだが…


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    東京で開催された手踊りコンクール会場の舞台袖には、出場しなかった葛西りまさんの扇子や傘、衣装が飾られていたという。「娘は手踊りが好きで、仲間と幸せな時間を過ごしてきた。写真のような笑顔が本来の表情です。かわいそうなだけの子どもではない」と父親。さらに、「いじめをなくしたいという訴えの力になると信じている」と、写真と氏名を公表した理由を語った。

    父親は、「いじめた生徒は大変なことをしたということを深く反省してほしい」と、学校側にいじめの有無を調査要請している。りまさんは、「もう、二度といじめたりしないでください」。と書き残しているが、いじめられた辛さを他の人たちに味わせたくないのか、自らの命を犠牲にしていじめ抑止を願い出ているような文言がある。いつも思う不思議なことがある。

    いじめを受けて自殺をする子は、いじめた奴らの名を挙げても、恨みつらみの気持ちがいじめっ子らに向けられてるのを見たことがない。なぜ言葉で仇を討とうとしないのか?以下は一例だが、「このままで済むと思うなよ。お前らの人生を粉々にしてやる。背後からじっと見ている。寝床にも毎日現れてやる。安眠できると思うな、最後は呪い殺してやる」くらい書いたっていい。

    これくらい書けば、どんなバカでも恐怖感を抱くのではないだろうか?自殺して、「ざま~見ろ」とせせら笑うバカどもには、効き目のある罰を与えないかぎりいじめを止めないだろう。怖い目に遭遇してみてやっと何かを理解したという人間を見ても、それはそれで効果があったということだが、自殺する子は復讐のために死ぬのではないようだ。いろいろ思考し考えもまとまってきた。

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    いじめ自殺者は、「これでもう苦しみから解放される」という至福感を先取りして頭に描くのではないか?つまり、それくらいに苦しいということだ。別の心理としては、やはり自分が死ぬことによっていじめっ子のハナを明かしてやりたい、おそらく少しは悔いいるのではないか?そういう気持ちを抱くかも知れない。どちらも自殺者の独善的な論理であるが、解決策として選ばれる。

    悲しく、辛く、苦しいとき、人はどうするのだろう。どうすべきだろう。10代の時の自分の苦しみは母から受けたもので、いじめの苦しみとは違う。りまさんは中学入学後にいじめを受け、ストレス性起立障害で登校できないとき、「なにズル休みしてんだよ」と言われる。それがまたいやで、呼び戻されるように学校に行けば、ズル休みと罵られる。前にも進めず後にも引けない無間地獄状態だ。

    いじめには加害者が存在するが、担任教師の他人事感覚が被害者の希望を奪う。今回のように当該者の人数が多く、クラスを超えて部活にまたがったりすると、教師間同士の確認や話し合いも必要だ。いじめは社会でもまれた経験のないお利口教師が引き受けられる問題ではなく、いじめをきちんと解決に向けられる教師は、教育カリキュラムという学問よりも原体験がものをいうだろ。

    人間関係の込み入った問題における問題解決能力を教師が持っているハズがない。学問能力が長けていても、一流大学をでていても、屁のツッパリにもなるまい。クラスにいじめがある、誰かがいじめを受けて苦しんでいる、そうした想像力を発揮し、子どもの苦しみを解決し、害悪を及ぼす人間の更生に取り組むのが教育であって、そんなことを自負する教師がどこにいるかである。

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    いじめにあうのは、本人の資質に問題ありと放置する。そこに手を入れようとしないなら、そういう性格の子はなすすべがない。いじめを受けても死なない子がいるように、いじめ自殺する子には、育ってくる過程のなかで、深く傷ついた何かがあるのかもしれない。強く逞しい親に育てられるのがいいに決まっているが、傷ついた親に育てられた子どもは死を選びやすい。

    なぜか?死への傾きを暗黙に親から授かるのではないか?逞しい親は逞しい子どもの性格に寄与するが、病的で脆弱な親は病的な子をつくり出す可能性はある。性格の弱さが歯向かう勇気を与えない子どもは、いじめに対抗できず、耐えるか死ぬしかないのだろうか?逃げる(転校)という方策をもっと前向きに考えるべきと思うが、本人の都合で転校できない理由があったりするようだ。 

    いじめが問題なのは、いじめに刑事罰は科せられず、よっていじめは刑事犯罪とならない。いじめによる自殺は間接的な他殺と言われるが、自殺をさせるためにいじめてるわけでもないし、だから厄介なのだ。当事者が自殺後の調査するとなるが、「いじめはあった」で収束する。こんな当たり前のことを、発表しようがすまいが、形式的な準拠以外のなにものでない。

    男子による傷害を含むいじめは、暴力事件として扱われるが、心に傷を負わせる陰湿ないじめを罰しようがない。よって、そんなカスな人間にならぬよう細心の注意をして取り組む教育的課題だ。親が身を乗り出し、強い口調で、「いじめなんか絶対にゆるさん!人をいじめる卑怯者は家からたたき出す!」など、そういう親の日々態度が、人をいじめる不健康な子どもを作らない。

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    真綿でじわじわ首を絞めるような陰湿な女子のいじめは、被害者に傷一つ与えない言葉の暴力であろう。いっそ死んだほうがマシと思うほどの酷い苦痛を受けてるのに、親も教師も誰も何もできないのは、相談しても解決できないと子どもが知っているからだ。ましてや、「ちくりのりま」、「ちくるしかできないバカりま」などと、助けを閉ざされる言葉をかけられたりする。

    全ての扉は遮断され、それがいじめを継続するために都合がよい。確かにいじめは究極的には自分自身の問題だから、自分が八方塞がり状態からどう光明を見出すかを考えなければならない。考えられる子もいれば、考えられない子もいる。後者のタイプにどういうサポートを用意すべきかは親が考えること。親は保護者であり、その名の通り子どもを保護の役目を負う。

    「いい子になりなさい」、「勉強しなさい」というだけでそのようになる子もいるが、それは特段問題のない子で、友達などの弊害で悪の道に入り、いじめの共謀に加担するような子どもでないか、親は時々チェックを入れるべき。常時監視はできないが、チェックは可能である。これらは危機感と周到さを持つ親なら可能だが、のんべんだらりの親は、子どもに何が起こっているか気づかない。

    保護の要件とは状況の把握であり、そのために情報を取り、チェックする。親は子どもにとっての心理学者であるべきだし、自分のような問題意識を持った親ばかりではない。「自分のような」は自負というより当たり前のことで、特別な資質ではない。ある目的を達成する場合に、状況の把握は当然のこと。そのために必要なチェック、大切な洞察、子どもの把握こそが親の務め。

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    子どもの苦しみを親に相談しやすいような、環境を上手く作ること。悲しみ、辛さ、苦しみを、親に相談できない子どもは間違っているという認識を親は持つこと。世間のいう、「ちくり」は、卑怯者が卑怯行為を継続するための言葉で、そんなことを気にし、怖れたら社会悪と対峙できない。悪の論理に順応するのは悪に利用され潰される。こうした親の価値観を常時子どもに発信することも必要かと。

    ある日突然、子どもは強くならない。100日言い続けてやっと踏み出す子もいれば、300日かかる子もいる。とにかく、社会悪に対抗する心を育てるのも親の力量かと。自殺する子の親は傷ついた親かも知れない。ならば、子どもの自殺はそういう親の代理死かも知れない。言い過ぎかもしれぬが、「子は親を映す鏡」という論理になぞらえば、そういう想像は当然に沸く。

    子どもを完全孤立状態にした親は責められるべきで、責められるはいうまでもない自分という愚か者に対してである。自殺を遂げた子の親は、そういう気持ちに苛まれるであろう。子は親の宿命であり、親は子にとって宿命である。だから親の責任は大きい。子どもが浮かぬ顔をしているとき、根ほり葉ほり聞くのではなく、心を同化し、子どもの目線に立とうと努める。

    うるさく聞かれてもわずらわしく、学校のことは親に関係ないと思うだろうし、だから親は、「お前の日常はいいことも悪いことも親に関係ある。順番でいえば一番だ…」。そういう態度で子どもに接するなら、「親は自分のことなんか考えてない」と、子どもにそっぽを向かれることはないかも知れない。「かも?」、「では?」が多いが、物事は分からないから熱心になれる。

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    いじめ自殺した親が、学校を責め、県や市の教委を責め、市や県に損害賠償訴訟を起こしたりするが、自分からみると責任をどこに持っていこうとしているのか?何をしたところでそれぞれの親の自由だが、子どもが死んだ後の真相究明に意味などない。「自分の息子(娘)はなぜ死んだか、真相を知りたい」というが、身近な子どもの口から真相を聞けなかった不甲斐ない親である。

    真相を知る子どもと寝食をするのが親であろう。その親が無視されるのは、子どもに頼られていないからで、だから、そういう親の子どもが自殺をするのでは?教育の問題の核心は親と子の問題である。先生や学校や教委や市長や知事や文科相の問題ではない。文科大臣が、「命を大切に」といったところで、我が子にとって何の意味がある?そういう気概が親に欲しい。

    イメージ 7「自分の命は自分で守る」。「親は子の命を守る」。人間ならずとも当たり前の生命原則だ。そりゃ~世の中、完璧な教育をする親などいない。だから子どもにも正直にそれを言えばいい。子どもを愛し、正しく導き、苦労はともに共有し、喜びは分かち合う。子どものことを知らずしてできないことだ。「言うんじゃなかった」、「親に言って失敗だった」、これだけは親は避けるべきと。

    子どもにそう言おう。真正面から向き合えてこそ親子。親を不在にして苦しむなど、子どもに無能な親と見切りをつけられたも同然という危機感を持つ。そういう親でありたくなかろう?子どもを傷つけずに育てられたか、という問いは常に親に課せられる。でなければ、自分と母のように断絶となる。親が他界しても子どもは育つが、親がいても子は育つ。無力な親は子にとって無用なのだ。


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  • 10/22/16--22:04: 冤罪の責任

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    三浦九段の不正疑惑問題は将棋界を超えた社会問題になっている。さまざまに報道されているとおり、確たる証拠もない疑惑段階で、棋界最高棋戦「竜王戦」の挑戦者でありながら、出場を奪われたばかりか、年度内の対局の出場停止処分を受けた。挑戦権剥奪という連盟の裁定はなぜ決まったのか?「竜王戦」開幕を数日後に控えてのあわただしい動きは腑に落ちなかった。

    挑戦者でもある「竜王戦」は電子機器持ち込みを厳しく制限して三浦九段には対局してもらい、終了後に彼に覆いかぶさる疑惑解明を本腰を入れてやればよいのに、なぜこうまでも拙速な処分を行わなければならなかったのかは、大きな疑問であったが、そのことが連盟の発表でハッキリと分かった。なんと、対局拒否も辞さない構えで訴えたのが渡辺竜王だったのである。

    連盟のこの発表は目を疑ったが、この事実を隠しておけなくなった連盟の意図が見えるようだった。組織としてはあまり公にしたくないことも種々あろうが、これだけ問題が大きくなり、連盟会長や理事の責任が棋士や将棋ファンや一般人にもに問われる事態になった以上、問題の核心である渡辺竜王の態度を発表すべきとの判断に至ったのだろう。

    苦しい胸の内であろうが、晒さずしては連盟の拙速さだけが問題になる。が、渡辺竜王の主張を鵜呑みにした連盟の責任は大きいが、竜王戦直前にタイトル保持者が子どものようにゴネてしまっては竜王戦の開幕も危ぶまれる。挑戦者変更などは主催する読売新聞社などと協議の上で決定されたと思うが、渡辺竜王個人の我がままを鵜呑みにしたのはやはりオカシイ。

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    わがままとあえて言ったのは、スマホ使用が竜王の強い思い込みの可能性が高くなったからだ。渡辺竜王は連盟にこういった。「疑念がある棋士と指すつもりはない。タイトルを剥奪されても構わない」。棋士だから高飛車な発言というのか、これは挑戦者が三浦九段であるかぎり、対局はしないと恫喝している。それが、「タイトル剥奪でもいい」という文言の意味である。

    「挑戦者を変えて欲しい」などの直接的な文言ではないが、彼とは指さないということは、対局拒否ということになる。連盟はこの申し出に苦慮したろう。主催紙や理事を交えて検討した結果、三浦九段から聴取をすることにした。三浦九段は否定し、「疑義がかかったままでは対局できない」といったと報じられたが、この言葉は二つの意味に受け取れる。

    一つは、「疑義がかかったままでは対局できない」という対局拒否。もう一つは、「疑義がかかったままでは対局できないので、疑義を解いてもらいたい」という意味にも受け取れる。後に三浦九段は、「栄誉ある竜王戦の挑戦者として対局拒否なんかするわずがない」といったことからして、「疑義を解いて欲しい、そのためには全面協力したい」との意味であろう。

    ところが、渡辺竜王の意向を知る連盟としては、三浦九段の疑義を晴らすことは日数的に無理がある。しかも、「疑念のある棋士とは指さない」という渡辺竜王の言葉は、過去にあった疑念を問題にしているわけだから、三浦九段の、「やってません」、「ぬれぎぬだ」という言葉は、彼には何の意味もない。となると、連盟は挑戦者を代えるしか打つ手がない。

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    これは渡辺竜王の意向を尊重するために、最初から、「結論ありき」の裁定であった。挑戦者が丸山九段に差し替えられた時、渡辺竜王は以下のしらじらしいコメントをしている。「残念です。(将棋ソフト問題で)疑わしい要素がいくつか出ている状況で、やむを得ない措置ではないかと思う」。と、これが、「三浦挑戦者なら対局拒否も辞さない」とした竜王の言葉である。

    連盟も、主催の読売新聞社も、竜王戦を円滑に進めたい、そのために三浦九段を疑惑のままで処分したのである。我々も含めた将棋ファン、あるいは連盟の棋士たちも、このまま一件落着するのだろうか?三浦九段の心中や如何にであった。三浦九段は弁護士と相談して対応をしたいとの言葉を残しているなか、連盟は本件への二度目の会見を行う。

     1.三浦九段は対局中の離席頻度が高かったことに加え、その時間も長かった。通常5分程度のところ20分、30分と離席していた。

     2.過去に三浦九段と対戦した5人前後の棋士から、調査依頼があった。

     3.連盟は本件に関する調査を終了し、三浦九段に改めて事情を聞く予定はない。

    上記は会見内容の主旨で、処分に至った理由を述べたものだが、いずれも状況証拠のみで、三浦九段をクロと認定するものではない。疑惑段階で処分したのか、それとも発表しない確たる証拠をもってのことかについて、どうやら疑惑段階で処分したのがこれで分かる。それにしても軽率であり拙速であり、連盟は頭脳集団であるが社会的バカが露呈してしまった。

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    その日の、「報道ステーション」では、将棋ファンに馴染み深い村瀬信也記者(朝日新聞文化くらし報道部)が以下のコメントをする。「終盤戦で、1手毎に離席をしていたことが不自然と思われたようだ。三浦九段の手がソフトと似ていたという指摘が一部の棋士からあった」。「ソフトと似ている」とは、ソフトの指し手との、「一致率」に言及したもので、以下も新たな報道である。

     1.三浦九段の聴取は、渡辺竜王が同席して行われた11日の常務会の場で、聴取時間は約2時間。

     2.島朗理事は復帰した後の三浦九段について、「疑念を抱かれない対局姿勢で望んでくれると思う」。

     3.三浦九段と親交のある棋士は、「将棋界の大きな汚点、一人の棋士の人生が変わるような話を、なぜこんなに早く決めたのか。今回のやり方は賛同できない」。

     4.三浦九段の担当弁護士は、「状況証拠しかない中で一方的に決められた処分で、撤回を求めたい」。

    棋界の長老田丸昇九段も自身のブログで、「三浦九段の名誉と棋士生命に関わる重大なことを、常務会がわずか1日で決定したことについては、少し疑問に思います。結果的に将棋界と棋士のイメージが悪くなりました。今後は真相の究明が大事だと思います」と記している。棋士の連盟批判というよりも、連盟の愚行を指摘した、ただしたというべきだ。

    野月七段も、「棋士の名誉に関わる一件。証拠があるのか、どんな証拠なのか?
    例えば一致率100%だけを根拠にしてるのか、それが本当に100%%なのか、何局も続いているのか、どこからの一致率を見て判断するのか」と疑義を呈す。大平六段は、「クロなら引退、シロなら大変。しかも、新規定が執行される前の出来事ですから味が悪い」。と書いている。

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    連盟の情報が適切とはいいがたいなか、さまざまな憶測が流れ、ついには羽生三冠までもが妻のツイッターで、「疑わしきは罰せず」と、刑法の主旨となる発言をする。彼は自身のツイッターを開設しておらず、過去、妻のツイッターを使って何かを言ったこともなく、異例の発言と世間は驚いた。週刊誌が、「羽生はクロに近いグレーと言っている」発言を誤解と言っている。

    渡辺竜王は週刊文春に、「竜王戦が始まってから疑惑が公になれば、シリーズは中断される可能性が高いと考えました。それだけでなく、タイトル戦を開催する各新聞社が“不正”を理由にスポンサー料の引き下げや、タイトル戦の中止を決めたら連盟自体の存続さえも危うくなると思ったのです。そんななかで最悪のシナリオは、『疑惑を知りながら隠していたという事が発覚する事だ』と判断しました」と語った。

    彼の独善論は、一方的で幼稚である。三浦の挑戦者変更が、連盟にとっての最善であったという偏見に満ちている。この辺で彼が挑戦者変更をほくそ笑んでる感じがしたが、「渡辺竜王からの猛烈なる対応要請が連盟にあった」という発表で、すべては彼の起こしたことだと認識できた。これについて三浦九段の態度は、「何もやましいことはない」と毅然としている。

    自分の所有するパソコン、スマホ一切合切キチンと調べて欲しいと自らが要請した。これらの行為から伺えるのは、足がつくような事、すぐにばれるような調査をあえてするだろうか?クロであるなら…。やってないのは彼のみが知ることで、実際に無実なら何をされても痛くも痒くもない。三浦九段の態度はそのように感じられる。したがって、もしシロであったなら…

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    渡辺竜王の勝手な思い込みから、三浦九段の挑戦権を剥奪し、年度内の出場禁止処分を科した連盟はどのように責任を取るのだろうか?その前に、まずもって渡辺竜王は竜王を防衛しようが、失おうが茶番である。彼があのようなダダをこねた言い方で、己の我を通そうとしたこと自体が幼稚であり、社会人としてクズである。渡辺竜王が三浦に疑念を抱くのは勝手だ。

    連盟に訴えるのも勝手だ。が、渡辺が傲慢なのは竜王保持者という立場をいいことに、「疑念のある三浦とは指せない、それが適わぬならタイトル返上する」と、これは恫喝である。なぜ連盟はこんな我が侭棋士を制止できなかったのか?米長前会長なら、断固許さないだろう。「無理を通せば道理引っ込む」という慣用句そのままだ。まあ、済んだことは仕方がない。

    問題は三浦に嫌疑事実がないと立証されたときだ。渡辺はどの面下げて世間や三浦九段や連盟に詫びるのか?竜王位を防衛したなら当然にしてタイトル返上である。もちろん、対局料・賞金も含めてで、それくらいのペナルティは率先して課すべきだ。さらに渡辺は地べたに這いつくばって三浦に詫びることだな。連盟の理事は総辞職し、新たな役員を選定すべきだろう。

    自己過信で人の名誉を傷つけるなど許されないけどな。とにかく今期のインチキ竜王戦は直ちに休止すべきだ。もはや興味も湧かない。幼稚な竜王とアホな理事が結託して巻き起こした一連のバカげた顛末を笑わずにいられない。あまりに連盟の判断は情けなう。羽生も言ったように、「灰色である以上処分は不可能」 と、なぜ谷川はこの一手を指さなかったのだろう…

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    りまさんが13年の短い命を閉じて、今日でちょうど60日となる。「人の噂も75日」というように、命を賭して訴えたいじめであったが、りまさんのいた中学校でも忘れ去られようとしているのだろうか?われわれは現場のことはわからないが、りまさんの日常に関わっていた教師や生徒、手踊りの指導者や保護者たちが、彼女の死をどれほどに受け止めたかもわからない。想像するしかない。

    「教育とは何か?」を追い続けた林竹二がこんな言葉を残している。「学問というのは、カタルシスであり、吟味を必要とする」。子どもが変わるのは、吟味し真の否定が行なわれた時である。学べることは無限にある。その中で何を学ぶか?それが「吟味」である。吟味とは、何かを教えることではなく、問題をつきつけて、子ども自身にこれでいいのかということを考えさせる作業である。

    学ぶことは、生きものが自身を更新し、生きようとする力に動機づけられている。りまさんの死を悼み、多くの人がそれを契機に新しい何かに向けて再生を始めなければならない。「真の否定が行われる」という言葉、その視点が重要であろう。「いじめ」について真の否定が行われるために教師も保護者も汗をかかねばならない。「学んだことの唯一の証しは、なにかが変わること」だ。

    物事がそんなに簡単に変えられないのは分かる。人の意識なんか急激に変えられるものではない。「いじめ」が良くないことをどうしたら分からせられるか?あれこれ考えてみたが、一人や二人の人間なら相手の性格をよく理解し、そこにぐいぐいと入り込めばいいと思うが、教師一人に30人の性格も育ちも環境も違う子どもに、能書き垂れて現実的に何を変えることができる?

    一人、二人ならば…、というならやはり親である。「いっとくけどな、人をいじめるような卑怯者は大嫌いだし、絶対に許さんからその気でいろよ」と熱く、強く、オヤジが取り組む。勉強重視もいい、そういう青白い勉強向きの子どもなら…。元気が良くてエネルギーが充満した子どもには、生活や思考の乱れを気にすべきである。親ならそれくらい分かろう?我が子が勉強向きか否か。

    もっと簡単な方法は、幼少時期から、「人をいじめて喜ぶ奴はバカだ、アホだ、マヌケだ、クソだ、クズだ!そんな人間いる価値ナシ!」と、事あるごとに家庭で唱和する。それくらいに真剣でいて何も悪いことはない。「いじめはオモシロイ」、「人の不幸は蜜の味」そういう人間の根源的本能を助長しないように、親が率先したらいいよ。親自身がそうあるべきなのは言うまでもない。

    自分は人をいじめる奴はクソ野郎だと思う。が、正直いうと女は分からない。女の世界で生きたことがないから、男に感じるものとはずいぶん違う。女がいじめの好きになる理由は、家庭教育というより資質かなと、分からないから多少偏見も入っている。それくらいにおんなの世界で耳にすることは、男では理解できない。口でいって分かるとも正直思っていない。できたら母親に委ねたい。

    残念だが、分からないものにアレコレ言う自信がないのだ。以下はクラスの生徒らが書き綴った葛西りまさんへのいじめの報告であるが、何でそんなことができるのか?どうしてこういう事をしたいのか?思いつくのか?悪く言えばゲスの極みというのか、こういう時には理性的に見て、女がとてつもなくバカに見えてしまう。バカの発想が常人に分かるはずがなかろう。

    イメージ 1◎いじめリーダー C・K (葛西りまさんに自殺を決意させた張本人)
     ・りまさんを自殺に追い込んだいじめグループのリーダー格。女子バスケ部の部長を務める女子生徒ですが、一番初めに葛西りまさんをいじめると宣言し、「お前を見ると目が腐る」など口汚く罵ってりなさんに自殺を決意させる暴言を放った張本人です。姉が一人いるそうですが、そちらも他の人間をいじめている根っからのいじめっ子なんだそう。

    ◎いじめ副リーダー S・A
     ・同じくいじめグループの副リーダー的存在。女子陸上部部長を務めていますが性悪な生徒だとしてグループ以外の人間には嫌われており、母親からもネグレクト気味なのだそう。LINEなどで嫌がらせを受ける葛西りまさんを見て大喜びしていました。

    ◎M・U(テレビで再現されたいじめの実行犯)
     ・C・Kと同じくバスケ部所属。りまさんの机を蹴り上げたり、LINEで積極的に「オカメ、見捨てられて当然、目が腐る、嫌なら早く死ね」と罵るなどテレビで再現されたいじめは彼女の仕業だそう。このLINEをM・Uは、C・Kと、S・Aに見せ、こんな事を書いてやったと大いに自慢していたとか。画像の一番右(C・K 以外の3人のどれかだと推察されています。

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    ◎暴行犯 R・Y(ネット以外の直接攻撃が多数)
     ・りまさんと同じバレー部所属。りまさんを1年生の頃からいじめており、トイレ内の暴行などネットでの攻撃以外の直接攻撃をダントツに多く行っていたそう。普段から人の悪口ばかりであり、S・Aと同じくグループの人間以外からは嫌われていたんだとか。

    ◎R・Yと共にいじめ H・Y (父親は陸上自衛隊幹部)
     ・りまさんと同じバレー部所属。校内ではR・Yの腰巾着と言われており、共に暴力行為を行っていた。H・Y の父親は陸上自衛隊の幹部であり、いじめ自殺の説明会の際、この父親は自分の娘の実名が加害者として書かれている事も知らずに、「遺書の内容を公開しろ!」と強く主張していた。正義感が強そうな父親であるだけに娘の所業を知った時の衝撃は計り知れないものだったろう。

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    ◎嘘の噂を流した M・Y (自殺後爆笑)
     ・女子バレー部の部長。自分の元彼が葛西りまさんと付き合い始めたのが気に食わず、『葛西りまは浮気者・ビッチ』などLINEに嘘の噂を流し始めた張本人なんだとか。りまさんが自殺した後も友人たちと、「あんなんで死ぬんだ~」と大笑いをしながら死者を罵り続けていたそうです。

    ◎親友なのにいじめに参加 R・N(自殺後は無関係をアピール)
     ・陸上部所属の女子生徒。元々りまさんとは幼馴染で親友だったそうですが、相談に乗るフリをしていじめに参加していたんだそうです。りまさんが自殺後は無関係アピールをし自己保身に走ったそうですが、外から見ていた生徒にはバレバレで名前と顔写真をリークされました。右はC・K。

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    経験のないこと、情報のみに頼ることは、「おそらく…」という前提で言うしかないが、自殺で死んだ子の親は、子どもに裏切られたという気持ちを持つのだろうか?「何で親に相談してくれなかったのか」、「何も告げずに死んでしまったのか」という思いに苛まれるはずだ。それは親にとって悔いであるが、子どもへの思いが強い親であればあるほど、「裏切られた」感を抱く。

    彼氏に尽くしたのに裏切られた、彼女に尽くしたのに裏切られた。そういう思いに人間が至るのは、尽くしてると思うこと自体が、実は独善的な自己満足感であったりするからだ。「尽くす」は実は、「依存」であったり、あるいは、「利用」であったりだが、自分の中にはそれはなく、「尽くす」となる。自分の、「思う」は正しい認識とは限らない。単に、「思う」だけだったりする。

    自分は誰が好きで、誰が嫌いか、こんなことは良く分かっている。と、思うだろうが、実際はこれすらも難しい問題である。多くの悩みを抱えている人にとっては、実はそれさえも正しく理解し得ていない。好きだと思っている相手を、実際は嫌悪していたりするが、そうであるのに、好きだと思い込もうとする。嫌いな相手をなぜそうするか、そこには「依存」という問題が絡むからだ。

    依存の対象が好意の相手とは限らないし、だから屈折した心理が生まれる。亭主をボロカスにいう専業主婦が、夫を愛してると思い込もうとするのも、他に変わりがいないからということもあり、愛していない、好意も抱いてない相手に依存する自分は何なのだという心理もあれば、自分はそれほどまでの悪女ではない、といった様々な自己正当化や事情に人には反映されている。

    つまり、自分の気持ちと直面するのが怖い、もしくは嫌だという屈折した心理が人には働いている。自分が感じているように感じる人は心の強い人だが、心の弱い人には難しい。だから自分を偽ったりする。心の強い人は、そんな必要がまったくない。したがって、正直に生きる人はバカか強い心の持ち主かどちらかである。バカが強いのはそういうことだと考えると理解にいたる。

    心の強い人はある面、他人からみたらバカに思えたりする。これは自分ができないことをやってのける人を認めたくない心理。正直のあまり他人を傷つけたという失敗は多く、いろいろ分かってくると正直も使い分けるようになる。正直を善とするなら、人は経年でズルくなって行くべきかも知れない。なぜなら、人を傷つけてまで正直であるのがいいのか、ということになるからだ。

    自分はかつて、「自分が正直で人が勝手に傷つくのは仕方ない」と思っていた。正直でいる方が自分にとっては楽だったこともあるが、嘘をついてまで相手に好かれたいというのがなかった。むしろ、「正直な自分を評価してくれ」る人を望んでいたフシがある。しかし、経年で得たことは、正直でいるよりも、「黙る」方がいいということ。「沈黙は金」の意味を理解したようだ。

    「沈黙は金」という慣用句を、どう理解したかといえば、「黙る」度合を広げたこと。つまらぬ主張をするより、相手を立てて自分は押し黙る。然したる問題でない場合に反論を持ち出さない。いちいち自分と違う意見に絡んでいても、どちらにも得にならないし、どうしても譲れないという若さゆえのバカさがなくなったし、押し黙ることも正直であることに変わりない。


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    「いじめ」という言葉自体は、誰が聞いても「悪」であるが、「いじめ」がなくならない原因は、個対個より多数が個をいじめる場合が多いからだ。つまり、集団の論理が反映され、多数が個を圧する快楽の方がより大きいからだろう。快楽とは欲望の満足だが、幸福は快楽ではない。幸福とは主観的であり、快楽は客観的である。主観は個々で異なるように、幸福の価値も変わる。

    快楽は人間の本能である。いじめが快楽となるのは、「人より優位に立つ」、「人をひざまづかせられる」という快感であろう。人に苦痛を与える快感は、人間の誰にも潜んでいる。可愛い子がいじめられるケースは妬みである。可愛く生まれたというだけで自分とは根源的な差異となり、ならば相手をいじめること、苦しめることで気分を晴らす。これを妬みという。

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    人を妬む女を悪女と言っていいが、世間で言われるところの「悪女」というのはどこか違っている。例えば、中島みゆきの歌の歌詞にあるような「悪女」は、「男を惑わせる女」のイメージがある。頭がいい、謎めいている、決然とした、などの意味合いも悪女に含まれている。実際に、「悪女」を辞書で調べると、「性格の悪い女」、「容貌の醜い女」とある。世間に生きる自分もこれには驚いた。

    前者はともかく、「容貌の悪い女」をかつては悪女といったようだ。他にも、「残忍」、「冷酷」、「意地悪」という要素もある。歴史上にも、「悪女」と言われる女は多く、西太后は真っ先に思いつく。映画『ラスト・エンペラー』でジョン・ローンが中国最後の皇帝溥儀を演じたが、彼を皇帝に任命したのが西太后である。彼女は50年に渡って清を支配し、あげく滅亡へと導いた。

    確かに西太后は横暴な専制君主だったが、男社会に敢然と立ち向かった勇気ある女性でもあった。「以後、再び女性に国政を任せてはならない」という彼女の遺言は、男どもへの痛烈な皮肉であった。日本には、「三大悪女」と呼ばれる歴史上で有名な悪女が存在する。源頼朝の妻北条政子、八代将軍足利義政の妻日野富子、豊臣秀吉の側室淀殿とされている。

    頼朝に強い執着心を持つ政子は、頼朝に愛人がいるとわかったときは嫉妬に狂い、部下を使って愛人の家を破壊した。権力欲も強く、頼朝死後は尼将軍として幕府を支えた。日野富子は、色恋沙汰ではなくお金の面で、「悪女」と言われている。応仁の乱の際、多額の金銭を貸し付けた他、米の投機で現在の価値で70億円ほどの資産があったと言われている。

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    たくさんの側室を持った秀吉は子を得ることができず、「種なしでは」と言われていた。ところが淀殿は2人も秀吉の子どもを産んでおり、鑑定法のない時代だけにこれはいかにも怪しい。第一子であった鶴松が亡くなり、世継ぎがないため甥の秀次が養嗣子となるが、淀殿が第二子を出産したため、邪魔になった秀次は無理やり出家させられ、最後には切腹させられた。

    これには淀殿の意思があったという説もあり、事実ならとんだ悪女である。世の中には実にいろいろな女性がいるが、悪女とは出会いたくないし、関わりたくもない。葛西りまさんが受けた壮絶ないじめの内容を知り、今は中学生というガキであるけれど、こいつら将来どんな悪女になるのか?である。相手の容姿の悪さを寄って集ってで責めるなど、いかにも女らしい。

    りまさんは手踊りで日本一になったが、「ブサイクなあんたがそんなことで自慢してるんじゃないよ」と、そのことをターゲットにされた。自分以下の人間が目立つことが癪にさわるということだろうが、他人の優れた何かを認められない、認めようとしない性格は、家庭で培われたと推察する。こういう家庭の親は、他人の悪口ばかり言ってるのではないだろうかと…。

    他人の悪口大好き家庭に育つ子どもが、悪口好きになるのは自然なことで、嫉妬深く、他人の優れた資質を認めない、金持ちを妬むなどの多くの価値観が親の主導のもと、家庭の中で共有されていくのではないか。心の健康でない親から、その不健康さが子どもに感染するのも分かる。いじめの解決方法は、「反抗する」、「耐える」、「逃げる」の三つではないか。

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    「死ぬ」は「逃げる」であるが、究極の逃げは何としても避けたい。解決方法を見いだせない子どもにとって、絶対的味方の親を引き出せない理由は、いじめ側が、「ちくり」といわれる行為を阻止をするからであろう。苦しみを誰かに相談する、それが教師や親であるのがなぜいけない?「ちくる」という言葉には抵抗があるが、「ちくり」奨励社会は、健全な社会であると考える。


    いじめがなくならない大きな理由は、喧嘩を解決する際に第三者の仲裁が必要であるように、当事者間では難しい。二人の力関係が1:1であっても、いじめ側が味方を一人増やすと2:1、さらに一人加えると3:1、さらには4:1と、これでは勝ち目はない。いじめられる側も味方が欲しいが、多勢のいじめっ子に対抗して助太刀に立ち上がる友はいない。

    路上の喧嘩においても、見知らぬ第三者の仲介が入ると、喧嘩を吹っ掛けた側の怒りが仲裁に入った第三者に行くことがある。「何だよお前は、カンケーねぇだろが!」と、ボコボコにされたり、あおりを食うが、誰も好んであおりなど食いたくはない。いじめられっ子の味方であった友達が、なぜかいじめ側に加担するのは女子によくある事例である。

    「あんた、なんであんな子の友達なわけ?」などと、友人を剝がして孤立させる。いじめは傍観者であっても、いじめ加担者といわれるが、いじめっ子に加担する勇気をどこで身につける?いじめに強い関心を抱く親が、生活のなかで時間をかけて子どもに啓発していく。そうまでしないでも、いじめ好きにならない子はいるが、手は打っておく方がいい。

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    「あおり」を怖れて傍観するのは情けないが、「触らぬ神に祟りなし」というのは、宗教的バックボーンのない日本人的人間観というのか、「風見鶏」傾向が強い。関ケ原の戦いを傍観しながら、どちらについた方が得か、それが人間であろう。正義感の強い人はいるが、やはり利害を考える。そんな大人が子どもに「義」を教えられるハズもない。

    我々の時代には「勧善懲悪」をうたった漫画や小説などが多く、子どもたちはそういうヒーローに憧れ、勇気を授かった。時にやせ我慢をしながら悪に対抗するが、足はがくがく武者震いである。が、なんにしても「やってみた」ことで自信を得たものはある。近年は多様な価値観が蔓延し、ヒューマニズムや勧善懲悪が欺瞞であることを見抜く時代になった。

    悪に埋もれず、悪におもねず、正しいことを堂々主張する時代に、「ちくり」などの言葉はなかった。それが、「何をいい子ぶってんだ?」、「だから優等生ってのは困るんだよ」という時代に移行した原因はいろいろ考えられる。上にあげたヒューマニズムが欺瞞として捉えられたのも要因である。理性は決定の後に生まれる。ならば行為はすべきである。

    それによって確信を得るが、行為しないで理性を標榜する人間が多くなった。これは、社会及び人間関係が複雑になって来たからであろう。戦後になって民主主義が導入され、過渡期を経て根付いてきたことを示している。複雑な社会とは、国家統制時代から自由主義社会への変貌を言う。自分らの時代、いじめは級友が監視し、すぐに教師に告げられた。

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    これが健全な社会であったと考える。孤立した子は親とか教師とかに助けを求めようとするが、「ちくり」が助けを制止させられる。「ちくり」が個々にとっての共有悪となっているからだ。当事者同士で解決すべき問題を、第三者(それも被害側の全面的味方)に要請は卑怯となる。いたぶる相手を孤立させ、第三者に助けを求められたのでは都合が悪い。

    これがいじめる側の論理である。悪は制されるべきだが、いじめを悪と思わぬいじめっ子は、制される理由すら分からない。他人を苦痛に陥れる「いじめ」は悪であるが、いじめは楽しいという人間には、何らかの病理が存在するはずだ。子どもを病気にする一番の原因は親である。それ以外には浮かばない。原因がハッキリした病気の治療は簡単では…


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    人の諍いの仲裁をする場合に大事なことは、どちらにも肩入れしない、「善意の第三者」であることが要求される。夫婦に離婚話が持ち上がったときに、娘の親が夫憎しで物をいえば夫はたまらない。夫は男として自分の親を出させないようはからうならなおさらだ。娘可愛さか、妻の親がしゃしゃり出て一方的に娘を庇い、夫を非難ケースを見たことがある。

    以下はあまりに娘の父親が介入した離婚事例である。離婚が決まり、届も出し終えたが、家財道具の争奪で民事調停を起こした父親。娘は調停を反対したが、自分の気持ちが収まらない父親の独断行為に娘は怒り、父との仲をたがえて海外に行ってしまった。嫁ぎ先相手を貶し、調停で勝利したと自慢する親をバカな人だと思いながら、娘に同情を寄せた。

    離婚で娘が傷ついていることを察することもできず、相手憎しの怒りにかまけた行為は、さらに娘を傷つけることとなった。嫁入り道具の争奪など、今さら娘にとってどれほどくだらないことか、怒り心頭の父親が気づくこともない。女性にとって、せいせいする離婚もあれば、傷つく離婚もある。が、離婚は自立した人間だけが持つ輝きであることを心に刻むべきである。

    親や周囲が出てきて混ぜ繰り返して、それが本人のためにならないことが多い。娘可愛さのあまり、相手憎さがつのるのはわかるが、子離れできない親の典型であろう。我が子がいじめにあって、それが原因で自殺をした場合、親はいじめ相手を憎むだろう。管理者たり学校を憎むだろう。保護者としてのいじめ相手の親を憎むであろう。が、親自身の責任は?

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    いじめ自殺の責任を取れと学校や相手の親に損害賠償を起こすのは、報復手段としてこれ以外にないからだが、裁判所は親の責任をどのように勘案するのだろうか?裁判を起こすのは権利として自由であるが、客観的な親の責任も断罪されるべきである。「自分は子どもを抜かりなく、一生懸命に育てた。なのになぜ死んでしまったのか?」と思うだろう。

    が、「一生懸命」と、「正しく」は残念ながら整合性はない。人は自身を客観的に見れないがゆえに、「一生懸命」という言葉を使いたがる。あるアスリートは、「結果の伴わない"一生懸命"とか、"努力したとか"は、言うべきでない」と言ったが、それには同感である。結果のあとにこういうことをいうのは、所詮は慰め言葉であり、高い向上心を抱く者は絶対にいわない。

    最近耳にしなくなったが、かつて、「駆け込み寺」という言葉があった。正しくは、「縁切寺」(えんきりでら)というが、女性の側からの離婚が困難であった江戸時代、夫との離縁を達成するために妻が駆け込んだ寺のこと。寺は夫に内済離縁(示談)を薦め、調停がうまく行かない場合、妻は寺入りとなり足掛け3年(実質満2年)経つと寺法にて離婚が成立する。

    弱者である女性にとって、どうにもならない救済措置であって、近年は、「駆け込み寺」の意味は広範囲に使われる。自殺を食い止める、「命の電話」もそうで、いじめ被害の当事者が、教師や親に相談するのも広義の駆け込み寺である。が、それを「ちくる」と批判するのは、許しがたき悪の論法である。「お前が解決しろよ!」。それにこしたことはない。

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    が、社会がそれで収まるなら弁護士も警察も不要である。自らで解決できないことは決して問題ではなく、悪人にとっては迷惑な話に過ぎないだけだ。いじめる側に、「理」はないが、どこに持っていこうが、誰に相談しようが、自らに「理」ありと自信があればどうということはない。「あの野郎、ちくりやがって」と言葉に出すのは、「悪」の可能性が高い行為である。

    「駆け込み寺」は絶対に必要で、「ちくり」と非難すべきものではない。行動するのが本人である以上、本人が考える解決策がいいに決まってるが、そういうことができないから困るし、苦しむわけだし、そういう人のために何とか良い解決方法を識者であれ、そこいらのおっさんであれ、おばさんであれ、考えたり、発信したりが、何かに寄与するかもしれない。

    これだけ社会問題になっているいじめなら、様々な解決方法を誰かが提起しているはずだろうし、一体どのようなことが述べられているのか?それが本当に現実的に可能であるのか?心の弱い子どもに啓示を与えるものなのか?気になったので検索してみた。検索ワードは、「いじめにあったら」である。最初に目を引いたのが、元いじめられっ子の提言だ。

    「元いじめられっ子が教える、いじめに遭う子供を救える真の大人象」という見出しだが、「いじめられっ子」よりも、「いじめっ子」がいじめの回避方法を知るのでは?と考えたが、それに該当する記事はなかった。いじめられっ子だった元ボクシング世界チャンピオンの内藤大助の言葉は耳にしたことはあるが…。では、元いじめられっ子の言葉を聞いてみる。

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    「一見すると、周りには助けてくれそうな大人はたくさんいますが、イジメを受けていると告白して大丈夫そうな大人は非常に少ないんです。本当に少ない。よく、気軽に相談なんていう言葉がありますが、いじめ問題は気軽に相談できる内容でもなく、相談者を選ぶ必要があります。そこらの大人が、真剣に助けてくれる感じがするように見えないのです。
     
    救いを求めたところで、解決どころか問題が悪化するかもしれない。イジメっ子の報復に遭うかもしれない。真剣に取り合ってくれないかもしれない。話を聞いても貰えないかもしれない。気のせいでは?と言われたり、心配されるだけで終わるかもしれない。これらの理由から、余程の信頼がなければいじめを受けている子どもから直接相談は少ないでしょう。

     
    親には心配をかけたくないこともあって、もっと相談の機会は減ります。では、どういった大人が適格な相談者であるかを、イジメを受けた当事者の考えでいえば、「イジメられた事が無い」、「イジメられた過去があっても体験を語らない」、「イジメに限らず嫌な思いを人からされたという経験がない」。これらに該当する人は除外すべきと思います。

    どんな問題にも言える事ですが、相談するなら同じ境遇を体験した人に勝るものはありません」という結論である。抜粋、削除、文章の編集をしているが、「海のことは漁師に聞け」ということのようだ。「蛇の道は蛇」、「餅は餅屋」も同義である。以前、同和教育の聴講で、「結局、差別は差別を受けた者にしか分からないんですね」と言った言葉に腹が立った。

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    「そんな言い方ってないのでは?だったらなんで我々をここに集めてるんです?そういう事をいうなら、我々はここにいる意味がないし、帰りますよ。そういう言葉は思っていても言ってはダメでしょう?」とマジ切れし、被差別部落出身者の言葉に、逆差別意識を抱いた。上のいじめ被害者の言葉もしかりである。自分はいじめを受けた経験はないが、いじめを行った事がある。

    上記いじめ被験者の言葉は、いささか情緒的に感じられる。いじめを受けた者に相談したいのは分かるし、それを否定はしないが、「どうすべきか」という問題をいじめ被験者が解決できるのか?そうは思わない。共感し、同情しあうならそれもいいが、情緒では解決しないだろう。まあ、自分は親からいじめ以上の苦しみを味わったから、弱者の気持ちはよく分かる。

    いじめをした時にも、いじめた相手の子の、あの時の顔は今でも心に残っている。いじめがあれほど自分の心を突き刺すものとは、思いもしなかった。今でも申し訳なかったと思っている。つまり、いじめを悪と感じる感受性の問題である。他人を苦しみに突き落とし、それが楽しいなど、子どもを育てた親の問題である。自分は別の問題で父と詫びに行った。


    投げた石が頭に当たって大けがをした同級生の宅である。相手の父親から罵倒され、床に額を擦り付けて詫びる父を見ながら、どうして無関係の父がこんな目に合わねばならぬのか?二度と父のこんな姿は見たくないと痛切に感じた。そういう自分の思いや態度を見切ったのか、父はそのことを前も後も、一切口に出さなかった。自分を叱らなかった。

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    親というのは、細かいことは注意すべきである。なぜならその善悪良否を子どもが分からないから、キチンと教えるのがいい。が、とてつもなく大きな失敗は、あえて言わずとも子ども自身が感じ、反省もしている。それをくどくどいうから、子どもは(そんなこと言われなくても分かってる!)と反発する。言う場合と言わない方がよい場合の吟味は親がすべきである。

    上記の事象はいじめというより喧嘩であるが、心を傷つけるいじめというのは、やはり本人の感受性と、赤信号を集団で渡れば悪とならない、そんな付和雷同主義に埋没しない考えを持つことではないか、自分の経験でそう考える。だから、人をいじめて楽しむというのを分かり易くいえば、「バカの道楽」としか言いようがない。して、バカな親がバカを作る。


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    「突然でごめんなさい。ストレスでもう生きていけそうにないです。りまが弱いのは自分自身でも分かってるし、りまが悪い所もあったのは知ってるけど、流石にもう耐えられません。東京いって全国でまた皆で優勝したかったけど、行けなくてごめんなさい。だから7人で、優勝してください。」


    これは葛西りまさんの遺書の書き出しである。りまさんをいじめた加害者は数人で、名前も特定されている。彼女らが今後新たないじめをやるのか否か、教師だけでなく学校全体が鋭い監視体制で臨まなければ、犯罪者を野に放っているようなものだ。教師が舐められているのか、その辺は分からないが、個々に呼びつけて面談し、注意を促すのは当然のこと。

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    市教委や警察もしくは法曹関係者などと相談し、「誓約書」を書かせる是非について話し合うべきと思うのだが。加害者がりまさんに行為したいじめは、「無視」以外にも「暴力や恐喝」、「万引きの強要」や「自殺の練習」までやらされていたという。警察が本気で事件にすべく動いたなら、逮捕はともかく補導すべき事案だが、学校の要請がなかったのだろう。

    いつもながら被害者の人権よりも加害者の人権が重視されることが多く、特に被害者が死んでしまったケースではその傾向が強いのは、さまざまな理由がある。確かに加害者は悪い。がしかし、加害者にも家族がいる。加害者を大々的にメディア報道でオープンにすれば、何も悪いことをしていない加害者の家族が、社会から被害を受けることが予想される。

    加害者憎しという世間の波が加害家族に及ぶことは避けなければならない。あくまで家族には関係のないことである。諸外国とは違って、日本人は陰湿傾向にあるということもあるのではないか。そういう偏りがなければ外国のように加害者をオープンにさせることが出来る。英国は精神疾患の患者でも犯罪者は犯罪者として扱うし、それが出来る社会である。

    日本人の人権に対する意識レベルが他の先進国までに至っていないのが一番の問題である。「心神耗弱で責任能力がないので無罪」というのも実は問題である。年端もいかない子どもに責任能力は問えないというのは分かるが、「心神耗弱で責任能力がない」人間が、普通に生活していいものか?まあ、犯罪が起こった後に分かることと言われるなら仕方がない。

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    が、そういう人間が野放しにされている雑多な社会であるのは事実である。中学生のいじめ事件は、逆に子どもであることが問題となるくらいに凄惨である。大人には思いもつかないような卑劣な言動がある。万引きの強要、自殺の練習などは未成熟な人間の愚かさというしかないが、未成熟だからと対応せず、処置もせずに放っておくのは大人の責任である。

    いじめ自殺に思うことは、殺され者損という気がしてならない。言い替えるなら、殺したもの勝ちということ。これは暴力が正当化されたことになる。こんにち社会においては、精神的暴力は肉体的暴力以上の暴力と見なされている。大人社会における職場には、「セクシャルハラスメント」や「パワーハラスメント」といったいじめや嫌がらせがある。

    「セクハラ」、「パワハラ」というのは、それに準じた「嫌がらせ」を定義づけた言葉であり、刑事罰として法制化されたものではない。が、パワハラを受けたことが原因で、さらに無視や仲間はずれなどの職場いじめに発展する場合もある。仕事場において、「あの上司はむかつく、腹が立つ、いっそ告訴でもしてやろうか?」と思う人間は少なくないだろう。

    しかし、結論から言うと、パワハラを刑事告訴するには余程の強い覚悟が必要である。そもそも、パワハラ行為の全てが刑法上の犯罪に当たるわけではないため、立証すること自体が難しいからだ。セクハラも同様である。さらには、刑事告訴の立証の程度は、民事訴訟と比べると格段にシビアであり、法律専門家の協力ナシに戦うのは困難極まりない。

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    が、無理というのではなく、刑法に抵触するパワハラ行為もあるがゆえに、専門家の協力がいる。大人社会のいじめも子ども社会のいじめも対象に苦痛を与えるという基本は同じであるが、大人には子どもにはない我慢や許容量というものがある。りまさんは、「他校の男子とやっている」、「ブスのくせに軽い女」などと嘘の風評をまかれたという。

    自分もかつて、関係していない女に「関係を持った」と広められたことがあり、それを知ったときは一瞬驚いたのは事実。しかし、彼女がなぜありもしないことを触れ回ったのかを考えれば、その意図は単純に理解できた。露骨にいえば、女が誘ったが男がそれを受けなかったことへの意趣返しである。「バカな女よ。こっちにだって選ぶ自由はある」である。

    そんなことは口には出さないし、もっとも会社の女に手を出すような安易さは自分にはない。スカートを履いていれば入れ歯女でもいいという男はいるが、人は人であって、非難はしない。嘘を広めた女に事情を聞かずとも洞察すれば理解はでき、だから放って置いたが、13歳のりまさんがそういう屈辱的な虚実に対し、金持ち喧嘩せずのキャパはないであろう。

    とかく子どもは、嘘のことにムキになりやすい。聞き流すこともできない純粋さが若さであろう。「あいつがそんな嘘を振りまいている?バカだね、あいつも…」などは腰の据わった大人であろう。事実、大人でも「ない」ことを、「ある」といわれてムキになる者もいる。「ない」ことを、「ある」という奴に弁解するのは、言い訳と取られる場合が多く、だから自分は無視する。

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    「お前がそう思うなら思っておけ」という対応で済ませる。否定も肯定もしない立場をとることで、相手はいっそしつこくクロ、シロを知ろうとするが、「だから、好きに思えって」その言葉以外関わらないようにする。裏を返せば、自分を疑う人間と自分との間には成熟した人間関係がないということだ。否定して、「わかった」という奴なら、そんな疑いなど最初から持たない。

    いかなる噂や風評であっても、相手を信頼する人間はそれに惑わされない。それが、自分の理想とする人間関係である。一言で済めばいいのであって、それを信じれば疑いはないという信頼関係である。それを安易と曲解して騙そうとする人間もいるが、こちらから払い下げだ。ハナっから人を利用しようとする人間は、安易で騙しやすい人間をターゲットにする。

    自分は騙しやすい人間に見えるようで、実はそういう姿勢で相手の本質を見る。すると誠実な人間と人を利用する人間がくっきり見えてくる。むかし、身内のいない金持ちばあさんが、財産を捧げるに相応しい相手を探すのに、わざと身なりの貧しい乞食を演じる話が合った。「舌切りスズメ」の欲な婆さんもそうだが、相手の貧富で態度を変える人間がいる。

    これを人間の浅ましさというしかない。「1万円の客より、1000円の客を大事に」という商売の鉄則を耳にした時も、「なるほど」と感じ入った。心汚い、薄汚れた人間を知ろうと思ったら、人に付け入ろうとする人間を見つけたらいい。その点だけで人の違いはハッキリする。バーゲンに群がる人、ゆったりとした気分で買い物をしたい人、それも人の差である。

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    それなくして、お体裁の話ばかりしたところで、子どもの心に深く浸透しない。子どもが感じていて、どうしようもない問題を先取りして話し合う、その真剣さが親になければダメだろう。さらにいうなら、自殺についての話もすべきである。我が子が自殺などすると思わないでなく、いじめで自殺などは、逃避であって実は死んでも後悔するものであると。

    とにかく、作り話でも何でもいい、様々な仮想問題を掲げて子どもと話し合う、そんな親であるべきだ。どの友達よりも最も頼りになる友達で親はあるべきだ。そのくらいの情熱と気概が親にほしい。熱い親が子どもの心を熱くさせるのだと信じたらいい。子どもにとって親は「幻想」であってはならない。熱く語り掛ける、熱く話し合える身近な存在であるべき。

    いじめで人生を閉じた人がいるのは大変に悲しい。こんな死が人の死であるなど、虚し過ぎる。「流石にもう耐えられません」の言葉は、いじめ側にはしてやったりであろう。つまらん人間がいるというしかないが、そんなつまらん人間に防御策を講じるのは本人であり、周囲である。人が死ぬのは誰の予測にない。予測は予測であっても、死んで現実である。

    だから、予測に対して並々ならぬ危機感を持つべきだが、それが親や周辺の「熱い思い」である。予測できない自殺の防止ではなく、「熱い思い」が自殺を思いとどまらせるかも知れない。結果は未知だから、その過程において全力を出せるか否かである。子どもがいじめを受けている現状では「熱い思い」が全てであろう。学校がなんだというのか。

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    共同体としての学校が、子どもにとってすべてというのは改めるべきである。一つの共同体だけに所属している人間などいない。りまさんは、手踊りをやっていた。彼女の踊りを何度も見た。今まで知ることすらなかった手踊りが、こんなに面白いモノであるのを知った。葛西りまという少女がいなければ、生涯知ることのなかった「手踊り」の面白さである。

    りまさんは「手踊り」という得意分野で、自らの価値を高められなかったのか?一心不乱に熱中するものを人は支えにできるはずだが、りまさんはどうだったのか。毎日踊っているでない普段は普通の中学生である。こうして自分が書いていることも、どうにもならない後の祭りでしかない。が、一人の少女の死が悔しくも腹立たしく、書かずにはいれない。


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    2月18日午後9時すぎ、相模原市南区の団地の一室で、この部屋に住むパート従業員の母親(47歳)と15歳で中学3年生の長男が首を吊って死んでいるのを帰宅した父親が見つけ、警察に通報した。父親によると、「長男は前日の高校受験がうまくいかず悩んでいた」という。 警察は、長男が自殺を図り、その後、母親も自殺を図った可能性があるとみて調べている。 
     
    高校受験に失敗して自殺?母親も後追い自殺?何というバカげた…と思うが、当事者たちには深刻だったのだろうが、高校受験に失敗で死ぬほどのことか?死ぬほどのことだったのだろう、そうしか言いようがない。母親もだ。息子が死んだから母親の人生は終わるのか?終えたのだから、この母親にはそうだったのだろう。夫なんか屁みたいな存在だ。

    息子の首を切って、追い詰められて飛び降り自殺する母親に比べると、やさしい心を持った母であろうが、果たしてやさしいだけでいいのか?子は育つのか?などと思ってしまう。たかだか高校受験に失敗して自殺するような息子が、母親のやさしさが原因とは言い切れないけれども、父親には相談したのか?適切なアドバイスや励ましの言葉を与えたのか?

    与えるだろう、普通…。人の一生が高校受験失敗で終わるほどのモノではないくらい、誰にでもわかることだ。息子は分からなかったし、親は分からせられなかったというふうにしか言いようがない。現に自殺をしたのだから。この際、母親の後追い自殺のことはいい。「息子命」であったと思えば、そういう母親は存在するし、女の情緒を責めても仕方がない。

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    結果的に高校受験失敗で死ぬような子だった。そうならない子にするのが親の力、そうするしかなかった。というのも、死んでしまった後の結果論といえばそうだ。が、後手を引く教育を教育とはいわず、そんなのは対策である。受験失敗くらいで死ぬなど誰も予測もし得ない。が、それが現実である。「結果にコミットする」というCMがある。コミットとは、コミッション、コミッショナーの名詞形。

      ・委託、委任
      ・言質、約束、公約
      ・義務
      ・関わりあい

    などの意味があり、ライザップは、約束・公約という意味合いだろう。親は子が生まれた以降、関わる存在だが、親は子の結果にコミットすべきか否か、これは難しい。息子を殺して自殺した母親も、息子の自殺に同化して自殺した母親も、いずれも息子にコミットし過ぎた結果である。思春期の子どもが、望んだとおりに育たなかったことの絶望感であろう。

    子どもが自分の思い通りに育たなかったことくらいで絶望するような親でいいはずがない。「わかる!母親の気持ちがよくわかる!」と、賛同というか、理解する母親もいるんだろうが、他人の事とはいえダメじゃないのか?親がそんなでは…。親がそんなでは、というのは親自身だけの意味ではないし、そういう親はは必ずも子どもによくない影響を与えている。

    世の荒波に向かって力強く生きる姿勢を見せるべきであろう。標語のような言い方だが、「弱く」て困ることはあっても、「強く」で困ることは何もない。ただし、人が弱くなるのは簡単だが、強くなるのは難しい。性格だけではない。勝敗を争うあらゆるスポーツやゲームなどにおいても、強くなるために努力し研鑽するが、それでも強くなれない場合もある。

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    人間は弱い生き物だ。精神も弱い、肉体も弱い。厳しい環境にさらされて生きる動物の強さに圧倒される。だから強くなるために「鍛錬」をする。先の記事で、いじめっ子は親にも問題があると書いたが、いじめられっ子も、問題のある親に育てられたのではないか。いじめ自殺をした子の親が、「学校はまるで家庭に問題ありという言い方をする」と怒っていた。

    問題はあると自分は考える。いじめっ子、いじめられっ子の親にどういう問題がある?結果には必ず理由があり、何事も原因なくして結果はないという考えにいる。「結果にコミット」するとのうたい文句のCMで成長した企業があるが、科学的なカリキュラムを打ち出し、指示通り行えば必ず結果にコミットできるというが、デブには明らかに原因があるからだ。

    人も植物も良い環境で育てば良くはなるだろう。三人の息子を東大に入れたとはしゃぐ母親がいたが、是非はともかくとして、間違いないライザップ効果であろう。まったく楽器を弾けなくても指示どおり行えば弾けるように人をいじめるような子に育てないカリキュラムはあったと考えるし、いじめられる子に育ったカリキュラムもあったということだ。

    同様にいじめられないように育つカリキュラムもある。弱い者いじめをする人間は心の弱い子である。強さというのは、権威や権力に立ち向かうものであろうし、どちらの子どもも、それなりの家庭環境はあったと考える。親がすべて環境がすべてでないにしろ、大きな要因である。いじめっ子の親、いじめられっ子の親は科学的に見ても傷ついた親である。

    イメージ 4親や家庭環境の影響を否定するものは何もない。特に母親の子どもへの影響はあり過ぎるくらいにある。赤ん坊は、感覚器でできあがる胎児期の終わりから、授乳期の一歳くらいまでは、母親の無意識から、実は大きな影響を受けているのだ。胎児は文字どおり母親と一体で、抱っこされての授乳も、排泄処理という赤ん坊にとっての快感も母親がする。

    父親がする家庭もあるが母親がいい。こうした人間教育の基本的要素が胎児期、授乳期などの母親との接触において確立される。井深大氏の名著『0歳からの母親作戦』の副題は、「子どもの人柄・能力は、母親にしかつくれない」とある。始めての子を持った時、これを読んで目から鱗が剥がれ落ち、ここにあることはむしろ父親でなければできないと悟った。

    確かに生まれてからでは遅すぎる面は多いが、これは父親の範疇でないし、せめて妊娠中が妻にストレスを与える言い合いや喧嘩は慎むことくらい。ソニー創業者である井深氏が、物づくりの原点を子ども作りに見立てたのはよくわかる。そういうした熱心さが、「一歳までに母親が子どもにどう接したかで、その子の人格形成の核は決まるとわかったようだ。

    「母原病」という言葉を生み出した元愛知医科大教授で、精神科医の久徳重盛氏も、多くの著書で子と母親の関連性を述べている。氏は、「人間という生物は、もともと、正しい育児が分からない"変な生物"という特徴を持つという前提で、子育てを行わねばならない」とあり、「母原病」は、育児に間違いを犯す典型的症例(実際は病気ではないが)とした。

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    上記の母子心中2例は母原病ではないだろうか。男には考えられない。昨日の「NEWS23」では、自室で首を吊って自殺した15歳の少女について母親がいろいろ語っていた。少女にはピアノの才能があり、ビデオで実際の演奏を聴いたショパンのエチュードは、半端ない腕前だった。自宅のピアノの黒鍵はすり減っているのを見て、膨大な練習の量が伺えた。

    少女は昨年11月、家族との夕食を終えて自室に戻り、首を吊って自ら命を絶った。部屋に残された日記にはいじめへの苦しみが綴られ、母親は青天の霹靂だったという。両親は学校側にいじめ調査を求めるも、学校側はいじめの事実は把握できなかったと報告。両親は同級生から、娘が「死ね」、「うざい」、「臭いからくさや」などと言われていたことを知った。

    母親は思い当たる節があったという。娘は臭いに敏感で、部屋用のフレグランスまで吹きかけて登校していたことを述べた。体臭が強く、「くさや」とあだ名されたのは、おそらく腋臭(わきが)ではと推察した。自分が高校時代、そう言われていた女子がいた。なりたくてなった病気ではないが、本人はどういう気持ちで、どういう防護をしていたか、まで気は回らなかった。

    学校は3年生全員の面談の結果、「いじめは把握できなかった」としたが、いじめは隠匿すべきもの、またいじめの認識は加害者にないのが一般的。学校から家庭での悩みを聞かれ、この両親は自殺の原因が家庭にあったと言いたいのかと不信感を募らせたという。娘の自殺の原因を学校にあるとし、自殺の原因を知りたいのは分からなくもないが、娘は帰らない。

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    子どもが自殺した原因を知るのは残った遺族の慰めである。そこにやり場を求めなければ親はあまりに苦しい。自殺は苦しみの末に選んだ死という選択だが、死に行くものの悲哀はあれど、残されたものの苦しみは計り知れない。死に至った原因を知ったところで子どもは還らない。死なない子どもをどう作るか、死んだ後にではなく、生きてるときに考えることかと。

    葛西りまさんは、ホームの上で何度も後ろを振り向いては泣いていたという。これから死ぬという決意と、この世にお別れする悲しさとで、心が揺れていたのだろう。これが列車に飛び込む直前の、防犯カメラに映っていたりまさんの最後の姿である。お気に入りの洋服と靴を履いていた。「綺麗な死に方すらできないけど」の言葉を残した彼女は、綺麗に飾って逝った…


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    匿名(15/04/03 10:28)
    息子が学校でいじめをして相手を不登校に追い込んだと学校から連絡がありました。学校へ行くと、校長・教頭・学年主任が揃っていていました。もう一人呼び出されていて、散々お説教されました。息子は先生達に叱られて、相手の子に謝罪をしました。翌日相手の家にも私ともう一人のママと一緒に謝罪に行きました。これで終わったと思っていたのですが、私と息子に関する悪い噂が広まっていると聞きました。

    息子は問題児。授業妨害にいじめを毎年繰り返している。校長室に呼び出されるのも1度や2度ではない。クラス替えで同じクラスになりなくない「NO.1」等々…。なぜこの噂の事を知っているかというと、近所の子がうちの前で遊んでいて夜勤明けの主人が「うるさい」とクレームをつけた所、近所のママから「自分達が受けた迷惑行為はこんなものではない」と逆切れされ色々言われたからです。

    もう恥ずかしくて学校には行けません。懇談会も行きたくない。確かに校長から電話や手紙をもらって注意されたことは何度かあります。幼稚園の頃からやんちゃな子で何度も注意しても聞かないんです。周囲のママにも、『うちの子注意しても聞かなくて~』と注意しているアピールはしてきました。これ以上何をすべきなのでしょうか?」

    という投稿である。いじめ加害者の生々しい親の声を耳目にするのは少ない。結婚し、子どもを産み、普通に育てて、それがある日、「オタクの子どもさんはいじめの加害者です。学校に来てください」と言われて親は従うだけ。別段いじめっ子になるよう育てたわけでなく、いじめられっ子を望んでいたわけでもない。ごく普通に育てていたら、いじめっ子ですといわれて驚く。


    そういう親の心境であろう。今さら親が反省したところで、悔やんだところで、どうなるものでもない。「何度も注意しても聞かない」との自負心のある親にすれば、何をどう施していいかもわからない。ただただ、いじめた子に謝るしかないということのようだ。この親は、「恥ずかしくて学校に行きたくない」と追い詰められている。同じ親としての自分も、他人の親の言葉に驚くばかり。

    今までいろいろ言ってきたが、何を言っても聞かない子どもである以上、今後の対策も浮かばない。こういう八方塞がり的な親って多いのだろうか?ならば、こういう親は今後もこういう親であり続けるしかない。子どもがどうなっても、何の対策も打ち出せぬ親でしかない。子どもを作り育てた親である以上、子どもの成長に対応していくべきだが、こういう親は傍観するしかない。

    私見をいえば、こういう親にならないように、親には様々な、「親としての存在感」とでもいうのか、それを身につけることを、「親学」というなら、親がコントロールできない子どもを持たないために、身につけることは多い。子どもが周囲や人や社会に迷惑をかけぬよう、親は子をコントロールする時期はあるが、それができないとならば、親はもはや親ではない。

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    子どもがいじめをする側の親です。 2007年2月5日 14:34
    「ひとり親家庭で子ども(小3・男)を育てています。小学3年生になってから2回(A君への集団での言葉の暴力、B君へ軽い怪我を負わせる)、いじめの件で学校から連絡がありました。1回目は先方の親御さんには子どもを連れきちんと謝罪し、本人も謝りました。その後は学校での出来事などを極力聞くように意識をしてきたつもりでした。

    "いじめは絶対してはならい卑怯卑劣な行為"であることを折を見ては話をしてきました。ですが最近2回目の報告を受けたときは、もう何をどうしていいのかも分からなくなり、涙しか出ませんでした。本当にショックでした。逃げ出したい気持ちを抑え、気力を振り絞り、B君の家族の元へ謝罪のため伺いました。"いじめはいじめる側が100%悪い"と思います。

    いじめにあったお子さんの親御さんの経験談はネットでも目にしますが、いじめっ子の親を経験された方のお話を目にすることがありません。自分の子どもとどう向き合い、どう乗り越えたかお話を聞かせていただける方がいらっしゃれば、と思い投稿してみました」。こういう親もいる。「いじめはよくない」と言い聞かせてきただけにショックは大きいようだ。

    それで、「もう何をどうしていいのかも分からなくなり、涙しか出ませんでした」と苦しんでいる。この方は冒頭で母子家庭を公言している。世間はいろいろ、子どもについて相談や一緒に知恵を絞って考える夫もいれば、居ても居なくても一緒、そんな子どもに無関心な夫もいる。それでも父親という肩書であるが、こういう夫ならいない方がマシである。

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    母子家庭だから一人で悩むしかないこともないし、母子家庭が子育てにマイナスになることなど、母親の自覚一つでむしろプラスに変えられる。つまり、夫と子育てについての考えや価値観が異なり、喧嘩の原因にならないというメリットもあるわけだ。マイナスはプラスにできるし、プラスはマイナスにもなるということなら、母子家庭に利点はある。

    「"いじめは絶対してはならい卑怯卑劣な行為"であることを折を見ては話をしてきた」と相談者はいうが、それが功を奏する場合もある。また、いじめに問題意識を抱いた親であっても、子どもがいじめっ子になるケースもある。問題は、そういう子どもはなぜそうなのか?を知ることではないか。「いじめは楽しい」と思う子と違って「いじめは悪」と認識しているなら…

    こどもに聞いてみればいい。まだまだ、打つ手がないなどと言うことはオカシイ。「お母さんはいじめはダメ、卑怯な行為と言ってきたけど、なぜあなたはいじめをするの?お母さんのいう事が伝わらなかったの?それとも"悪"と分かっていても、人をいじめるのは楽しいからやっているの?そこが聞きたい。どっちか教えて欲しい」と、これが導入となる。

    いじめの躾をしたからいじめがなくなると思いきや、そうはならなかった。それで愕然とするではなく、「なぜ」があって、それから次の対策を練るべきである。とにかく、こうした冷静かつ論理的な会話で、問題を解決していく機会を持つことだ。子どもの返事をちゃんと聞いて、いろいろ話し合うしかない。道徳を学んだから道徳的になるわけではない。

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    「あれ程言ってきたのに、何であなたは!」と怒るのも逆効果で、言われたことを守らなければならない義務は子どもにないのだから。言われたことに賛同し、親の考えに同化してこそ親の意が伝わったということ。何でもカンでも口で言ったことを子どもが守ると考える方がまともな親ではない。子どもとは、躾とはそんな簡単な、そんな便利なものじゃないよ。

    親の財布からお金を抜き取る子どもがいる。コッソリ、分からないようにやるのは、その行為が悪いと知ってるわけだから、「何でそのような、悪いとしって泥棒みたいなことをするの?」と、こういう現象を捉えた言い方は何の意味もない。実際、泥棒は悪いと知ってて行為をするのだし、そこには泥棒の論理があると、そのことを親は理解すべきである。

    要するに、親の財布から金を抜き取るのは、お金が欲しいからである。それが大前提で、なぜお金が、どういう理由で必要なのか、今の小遣いではなぜ不足なのか?そのことが行為に怒って叱るよりも大事である。叱る前に、何事も「なぜ」、「なぜ」で、子どもを理解する姿勢を持つ。叱って止めるなんざ、甘いと思った方がいい。親は手抜きで叱って事を収める。

    こんなのは「手抜きの躾」である。レトルトや手抜き料理は不味いだろうし、手間暇かけなければいいものはできないように。上の相談に対し、「"いじめはいじめる側が100%悪いと思います"と、親の側で、こういう風に考えておられるケースは珍しいような気がしました」との回答があったが、先ずはこういう姿勢でなければ、いじめっ子問題解決の糸口はない。

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    ちなみに上の投稿は、葛西りまさんに名指しされたいじめっ子の親の発言を投じた人がいて、それに対して憤慨する言葉は多かった。「こんな母親が馬鹿みたいに子供ポンポン産んでまともな教育しないからこんな事件が起きたんだろうね。投稿主が言ってる様に、子は親を見て育つからほんとこんな馬鹿な女は、子供産まないでほしい。マジで胸糞悪い!

    また、下の記事は葛西りまさんのいじめ自殺が全国に報じられた後、浪岡中学校を擁護する投稿である。自分たちの共同体を守ろうという動きは分からなくはないが、そこには死に行く者を嘲笑する空気が充満しているからだ。いわゆる村の論理であり、「場」の空気というのはこういうものであり、自己規定もできないで鎧を着る人の存在は驚くものではない。

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    自己を正義の基準で規定する人間と、善悪を利害で規定する人間の受容と排除には天地の差がある。青森県の浪岡という田舎町が、はからずも少女のいじめ自殺という形で全国的に有名になろうと、浪岡中の現状がどうであろうとも、自分たちの町の、自分たちの子どもが通学する学校について、とやかく言われたくない、ガタガタいうなという発想である。

    したがって、自殺した葛西りまさんも、その両親さえも、平穏な町を荒らす加害者という認識である。自分たちは自分たちなのだという局地的存在にあっては、そこで起こる特別な事象は、例外的存在なのだといわんばかりの人たちである。局地に例外などあってはならず、りまさんの自殺は身勝手な行為と責める。彼女の死を悼み、事の是非を思考する発想はない。

    加害者もいない以上被害者もいない。りまさんは彼女の都合で勝手に死んだだけなのだと。それが村落共同体の論理である。日本社会に民族紛争はないが、仮にあったとしても一切は悪となる。民族紛争も民族戦争経験もない日本人の、日本人的普遍主義からすれば、あり得べかざることが起こっているに過ぎない。つまり、単色とは多色を認めないことである。

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    役者が簡単に様々な人間になれるよう、意識をすれば自分もできるのではないか?そういう命題を自らに課したことが有った。二度や三度ではないが、自分以外の自分をやるというのは実社会では無理だと分かった。脚本や台本のある映画や舞台ならさもあらんと思いきや、役者にいわせると役に徹するのは簡単ではないらしい。そういうものか?そういうものだろう。

    役者自身がいうのだから納得せざるを得ない。役に徹するあまりの苦労話などは訊いたことがある。歌手であれ、歌(詞)の世界に埋没し、表現するのは大変のようだ。いしだあゆみが『ブルー・ライト・ヨコハマ』をヒットさせたのは知られるところだが、実はこの曲を当初いしだあゆみは好きでなかったらしい。今までの彼女を根本から変える曲であったからだ。

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    確かに聴く側にしてもそれまでのポップなアップテンポのいしだとはまるで様相が違っていた。いしだは、『ブルー・ライト・ヨコハマ』をこのように回想する。「『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、好きじゃないっていうか、この曲にいい思い出ないんですよ。だって、レコーディングに丸二日かかったんです。わたしが歌うのがいやで、怒られて、下手だといわれて…

    ここがよくないとかじゃないんですよ。全部です。全部ダメっていわれたんです。わたし、マイクの部屋にこもって、ストを起こし、その部屋から動かなかったんですよ」。今だから笑い話だが、当時の苦しさは十分に伝わってくる。したくないことを他人から強要されるってのは、本当につらいことであろう。同曲の版権管理会社日音の及川光昭氏は言う。

    「あれは橋本先生(作詞者の橋本淳)がいじめたんだよ。歌入れの前に歌詞のシーンが分かるようにと、いしだを横浜の街に連れて行ったらしいんだよね。にもかかわらず、『分かってな~い!違うだろう!』って。うわ、こわ~いと思って一緒にいて思いましたよ」。その後いしだは歌謡ショーで共演の加山雄三に凄く褒められたことで、やっとこ自信をもったという。

    作詞家なかにし礼も、『ブルー・ライト・ヨコハマ』を世界で類をみない、日本の歌謡曲のベストワンと評価するくらいの名曲らしい。いしだも簡単に曲の世界に入ってはいけなかったと回想した。同じように演歌歌手の水前寺清子も『三百六十五歩のマーチ』という曲を与えられて苦労したらしい。が、結果的にどちらの曲も、ミリオンセラーの大ヒットとなった。

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    ことに水前寺は、演歌歌手としてヒット曲を連発したプライドから英語の、「ワンツー」という歌詞がある本曲に、「冗談じゃない。わざとイメージに合わない曲で私を辞めさせる気だ」と疑心暗鬼になったというが、作詞の星野哲郎は、「息の長い歌手でいるためには、違うタイプの歌も歌えなくてはいけない」との思いもあって、このような曲を書いたという。

    漫画家の平田弘史も、雑誌の連載のため資料を渡され、仕事として向かう作品は気が乗らないとこぼしていた。月刊少年誌に連載するということは、そういうものだと、自分で描きたいものを選んで書くわけにはいかないものだと、腹をくくったという。こうして多くのアーチストや芸術家も、しばし商業主義の波にのまれて行く。そのことは良くも悪くもであろう。

    楽しみながら、かつ自由さは素人の利得で、プロはプレッシャーに苛まれる。毎年ノーベル文学賞候補にあがる村上春樹は、「小説を書いているとき、『文章を書いている』というよりはむしろ『音楽を演奏している』というのに近い感覚がありました。僕はその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くということかもしれません。

    リズムを確保し、素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること」。なるほどである。自分も書き物をするときは、リズムが生まれ、そのリズムに合わせることが有る。そういう時は、書く内容はリズムが主体でリズムに合わせたりし、歌を歌うように書いている。音楽に限らず人間にとってはリズムというのは大切なものとされ、生活のリズムなどという。

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    こうした長いスパンのリズムについての把握はしかねるが、おそらくあるのかも知れない。彼が書いたものを読み返すかどうかわからないが、得てして作家は読み返さないという。直したいところが見つかって羞恥な気分になるというのも、自分と似ている。そういえば前出の平田弘史も、「描いた作品は二度と見ない」といっていた。理由はやはり嫌になるからと。

    文体を変えたいと思ったことは何度もあるし、何度も意向をブログに書いたが、5000字書こうと長らくやって来て、その当時は段落を33~35段にであったものを、意を決して20段程度に削減したのは昨年の10月30日だった。記事の最後、「今回から幾分少なく、スッキリ書くことにした。書き足りないなら翌日、翌々日に書けばいいこと」。と記している。


    年明けに、「文と欲望」なる表題で書いているが、過ぎし日の文を読むのも面白い。この日の考えは記録しておかぬと、消えてなくなるが、こうして記録をしているから懐かしい。中学になって小学生時代の日記や作文を読み返し、くだらんことよう書いてると思えるなら成長しているということだ。高校時分に中学時代の文を読んで笑えるなら、それも成長の跡。

    人はスーパーマンじゃない。どんなに頑張ろうとできないことはあるが、一般的に、「できない」は、「したくない」場合が多い。ブログの文など、行間の余白をあける人がいる。見る側に素敵に見えるが、自分には真似ができない。「できない」は、「しない」といったが、「したくない」という気持ちの強い場合もある。大学ノートに切り詰めて書いた我々の世代の貧乏臭さであろう。

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    余白が生む詩情性は、美しくモ効果的であるが、やろうとしたことはない。自費で購入するノートでなく、タダで与えられる余白でさえも、勿体ないと感じるのだからどうにもならない。お金持老ちがお金を使うのが勿体ないからと、日々一汁一菜で生活すると同じことか。人は世代に蹂躙されている。善悪抜きに無意識に観念として内に蓄えられているようだ。

    「いい」と思ったことを行為できない人がいる。それぞれが背負う観念というものがある。無意識に近い観念を捨てるのは大変だが、捨ててよきものと捨てないでよきものがある。他人から見てオカシイと思うこともその人の観念であり、指摘は善意とならないばかりか、余計なことであろう。宗教を信仰する人に対して、アレコレいっても余計なお世話であるように…。

    その時代に生を受け、その時代の影響を受けることを、「その時代を生きた」という。その時代の、「その」とは、生の実在感を強く受けた時期のこと。それが青春時代であったりする。青春期の圧倒的バイタリティーは自分自身に気づいていなかったりする。地中深く眠る休火山のマグマにように、一触即発的であり、それが親子間の悲劇をもたらせる。

    「ワイルドネス wildness 」という英語の語句は、日本語で「荒々しさ」、「野生」と訳される。親とはいえども、子どもの心情や動向を予測したりコントロールはできない。それがワイルドネス。親はワイルドネスを子どもの中に認めることは、子を持つ親に与えられた課題であろう。もちろん、自身の中にあるワイルドネスに留意し、自らがその対策を講じる必要がある。

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    「備えあれば…」の慣用句は、的を得ている。本能が退化、しかも壊れている人間には動物に存在する予知能力といえるものはない。ゆえに、「備え」という知恵を働かせる必要がある。結果に驚き、結果にうろたえるより、知恵で心の準備を怠らない。事あるごとに、「そんなことが起こるなど予想だにしなかった」と、いったところで罪の軽減にはならない。

    自身の内面的成長というのは、背丈の成長ほどには分からなものだ。若き日を振りかえり、笑い話が多いほどに人にとっての成長の証である。笑い話が笑い話でないなら悲劇というしかない。だから死ぬのはダメだ。死んだことは後の笑い話すらにもならず、悲劇という意識すらもないが、実行したことが客観的な悲劇である。死人に主観も客観もないけれど…

    死は人の未来を消すが、積み重ねてきた過去さのすべてを消滅させる。つたない10年前を笑い、30年前を笑えるのが生きてる証である。もしも自殺をした人が、「ちくしょー、何であの時自殺なんかしたんだろう。今となっては凄く後悔しかない」と思える、「今」さえもない。すべてが「無」、それが死だ。死んでいいことがあるのかないのか、死んでない者には分からない。

    が、おそらく、「いいことはない」という想像力が死を阻む。過去も未来もすべて奪う死の、なんという勿体なさである。自殺の多くは抗議である。自分の経験でもそうだった。死ぬことで親は嘆き悲しむ、そういう抗議である。親を変えさせたいという、究極の選択である。子どもにとって、「悪の権化」というべき親は、子どもの心に重くのしかかる。

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    葛西りまさんも苦しい状況を変える唯一の方法が自殺であった。耐えるか死ぬかの選択しかなかったと察する。「孤独は人生の花」と安吾はいった。孤独はともかく孤立は辛い。人間を孤立させぬためには様々な方策があるが、その場の環境で異なり、あれこれ論じてみても外野に現場を把握できない。唯一の救いは親であり、親はすべてを投げ出す覚悟がいる。

    りまさんの母親は、上記のようにいった。子どもを失った親の率直な気持ちであろう。「悔い」という言葉では言い表せない苦悩と後悔。他人の子がなぜ寄って集って我が子を苦しめるのかという怒り、これらやり場のない悲しみに襲われる。他者は何が面白くて我が子をいじめるのか?他人の親や子に対する憤りを、どう処理すればいい?悔しい現実であろう。

    自分も悔しい。他人の子であっても…。りまさんの父親は、「いじめがなくなるように…」との願いを込めて、娘の氏名や姿を世に知らしめた。小1で強姦殺害された広島の木下あいりちゃんの父も、匿名報道という配慮に異を唱えた。親として、父として、理解に及ぶ。が、それでいじめや幼女強姦がなくなるとも思えない。りまさんやあいりちゃんに共感しなければ…

    美しいものを美しいと感じ、悲しいことを悲しいと感じる。怒りや不正にも強く憤る、そうした感受性を子どもに育てるのは親でしかない。そのためには、「明日は我が身」、「情けは人の為ならず」という想像力が欠かせない。見ず知らずの他人の子が理不尽ないじめで死のうが関係ない。そうならそうでいいが、共感し、奮い立つ親多き社会を望みたい。

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    文の最後は今日も、「いじめ」になった。りまさんのこと、いつまで頭に滞っているのだろう。まあ、自分のブログだ、頭にあることを書けばいい。理不尽や腹立たしい経験は少なくなかった、世の中で…。許せないのはいじめである。人が人をいじめるという、悪辣さを我が子に想像するのはあり得ないし、許さない。どれほどの時間やエネルギーを費やしても止めさせる。


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    ノーベル文学賞受賞の発表後、沈黙を続けてたボブ・ディランが賞を受け入れる意向を発表したと、選考委員会のスウェーデン・アカデミーが発表した。アカデミーによるとディランは、「私が賞を受け取るかって?もちろんだよ」と答え、「ノーベル文学賞受賞のニュースを聞いて言葉を失った」、「とても栄誉なことで光栄に思う」と受賞の意向を示したという。

    受賞決定から2週間も沈黙を守ったことで、周囲を、いや、世界をヤキモキさせたディランだが、彼なりに必要な時間であったようだ。すぐに反応してコメントを出すのが、世界的な賞に対する敬意というものだろうが、多少遅くなったからといっても敬意は敬意である。沈黙していた理由をディランは、「でも、今はここにいるだろう?」とだけ答えている。

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    あるファンの一人は、「沈黙には、何か特別の理由があったと思っていただけに拍子抜けした」の記事は、天才への偏見であろう。以前、こういう記事を見た。羽生善治に森内俊之が挑んだ、2004年の名人戦のことだ。第6局の2日目。対局者から昼食の注文を取る際の品書きの中に、天ざるそばがあった。羽生名人はそれを示し、「天ぷら抜きで」と注文した。

    そのまま素直に記せば、「昼食の注文は、天ざるそばの天ぷら抜き」となる。これについて、「さすがに名人の注文は哲学的だ。凡人には、意味がわからない」。という記事に加え、「食べない分は、最初から注文しない。それもまた、現代の名人の、品のよさを伝えるものか」と、ここまで将棋の天才に遜るものなのか?と、呆れるやら、滑稽やら…

    こういうのは変人としたもので、哲学的とか意識高いとか上品だとかで表現することではなかろう。変人と考えたくないなら、「メニユーに"盛りそば"がないからそういう表現をした」と思えばいい。羽生は「盛りそばはないんですか?」と聞くのが面倒だから、天ぷら抜きの天ざる」と言ったのかも知れないわけだが、何かにつけて天才としたがる凡人だ。

    羽生もディランも間違いなく天才であろう。それは将棋において、音楽においてである。過去のノーベル賞受賞者もその業績において天才である。ノーベル賞を取れなかった天才、辞退した天才もいる。『La Nausée  嘔吐』などの作品で知られるサルトルは、ノーベル賞を拒否した一人だが、彼はスウェーデンのノーベル財団に手紙を出し、以下のように述べている。


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    上記とは別にフランス国内向けの別の説明もあるが、彼は、「ノーベル文学賞の後では、すべてがつまらぬものになってしまう。なぜならば、すべてが回顧的な価値を認めるだけのものになってしまうからだ」。と述べている。「目的はすべての手段を正当化する」という昨今の傾向からは程遠いサルトルの言葉であり、行為であって、その点は評価したい。

    ただし、別の見方をするなら、賞を受賞しようが、名誉に押し上げられようとも、「自分の人生としてやるべきことをやる」ということはできたであろう。サルトルは、「全てを変えてしまうだけの自由と力」を自らに保存するために受賞しないと決めたが、サルトルのいう自由の哲学とは、「賞ごときに自分の自由が左右されるものだった」との批判がある。

    人は人を自由に批判していいし、批判にムキになることもないのだが、そこは生身の人間である。批判に対して反論バトルはしばしば目にするが、気心の知れぬ他人から頭ごなしに押さえつけられれば、自尊心を守ろうとするのは自然であろう。が、その際に言葉を汚く罵る人間が、尊敬されることはない。ホリエモンのように「尊敬などいらない」という考えはある。

    それはそれでいいが、それなら「すぐに頭に血が昇る小心者」とバカにされるだろう。まあ、それでも自分は自分なら、最終的には人は自我を守る戦いとなる。強い自尊心にかられる人間は、「それはできないでしょう」と他人から言われること、あるいは自ら「できない」と悟るのが嫌なのだ。そういう人は、「可能か不可か」というカードを隠しているものだ。

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    「可能か不可能」かをそれほど隠すこともなく、自身で分かりそうなものなのに、自尊心がそれを許さない。よって、「是か非か」との抽象論に持っていこうとする。「是非論」であるなら、己の主体的な判断によって事を決めたことにならない。ゆえに自尊心も守られる、決して傷つくこともなければ、自身を慰めることにもなる。こういう人は困ったものだ。

    さらに困った人は、全知全能宇宙の審判者のつもりの物の言い方をする人。自身の判断によって、すべていいか悪いか、是非善悪を決めていくという絶対者の立場に立つ人だ。実母はこういう困り者であった。ようするに、知恵も浅く、視野も狭いからできることなのだが、本人がそう思わない以上、誰の言葉も聞かない。斯くの人間とは話さないに限る。

    いじめ問題は、まずは、「相手に非があるのかないのか」が先決であり、「非」があったとするなら、その、「非」を追求することが「可能か」、「不可能か」に収斂していくべきである。それを、「是非論」に転化し、小中学生の、「いじめ」は悪ふざけの延長であり、加害者を追及したり排除(転校)するなどは、人権問題である。などということがいじめがなくならない要因だ。

    いじめを「悪」とする以上、「悪」に罰がなくて何で、「悪」であるのか?観念論や保護意識の前に現実的対応という日本人の甘さがある。「万引きは犯罪です」と謳っておきながら、「次からしないように」と注意のみで帰す。罰を与えられないよう本人は反省した演技をみせて逃れようとする。「厳罰主義」の功罪はないとはいわぬが、ならば、「保護主義」の功罪もある。

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    罰を罰として実施しようとする、「厳罰主義」、罰を本来の意義から離して犯罪者の再教育装置として機能させようとする、「保護主義」、被害者・無辜(むこ)の市民の権利を守る「厳罰主義」、加害者の権利を守る、「保護主義」、どちらがいいのか悪いのかを臨機応変に判断するものがいないという問題が浮かぶ。つまり、いじめ加害者に対する的確な判断をしない。

    「しない」は、「できない」と言った方がいい。あまりにヒドイいじめ加害者という認識を教師も校長も強く持たないのは、保護者を怖れるからである。これが現代のサラリーマン教師であり、強い教育的信念がない似非教育者である。「人権教育」を謳いながら、死者の人権は反故にされ、生きる者の人権を確保する。自己保身者の学校に、「厳罰主義」は望めない。

    「厳罰主義」の判断は、利害なき教育理念を持った教師や学校管理職及び県教委・市教委が判断すべきだが、これらが機能していない現状ではいかんともし難い。こういう構造的な問題がいじめという「悪」を排斥できない彼らに誰が、「教育的指導」を与えればいい?害悪生徒を害悪と指摘できず、生ぬるい言葉でしか指導できない学校が教育現場であるはずがない。

    命令ができないリーダーはリーダーではないが、そういう人間がリーダーである時代。先日、妙な張り紙がメディアで公開されたのを見て驚いた。これを相撲界の珍事と自分は見た。大相撲の秋巡業は28日、岡山県倉敷市で行われたが、三役以下の力士の支度部屋前に一風変わった「注意書き」が張り出されていた。「一風変わった」とメディアも指摘する。

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    確かに変わった張り紙である。直接的な言葉で注意、指導するではなく、巡業部長の元横綱貴乃花がつぶやいている形式の、やんわりとした、「注意書き」が、玉ノ井巡業副部長(元大関栃東)の名前で張り出されていた。「横綱や大関が稽古場にいるとき、稽古しなくともせめて土俵回りに来るのは基本。分かってもらえれば」と意図を明かした玉ノ井親方。

    親が子に、教師が生徒に、師匠が弟子に遠慮する時代なのかと…。これがディランの望んだ、"時代の変遷"か?おそらく彼は答えない。確実に時代は悪しき方向に向いている。時代は文明の加護を受け、影響されるが、良い方向に変わるとはいえ、何が良く、何が良くないのかは時代が決めるのか?人は各々がその時代に生きるように、人が時代を作っていく。

    変化というが、人が時代を変えるのか、時代が人を変えていくのか、複雑に絡んだ両輪を判断するのは難しい。時代は強いリーダーを求めず、合議によって進んでおり、これを民主社会という。封建時代の将軍には決定権があったのか?その辺も定かではない。将軍以下の衆議によって、将軍の指令を返上することもあり、決定権が将軍か衆議か明白でない。

    自民党の安倍総裁のリーダーシップは?民進党の蓮舫代表はマスコットではなく、リーダー足り得るのか?見るところ彼女が党を動かす実力者と思えない。小池都知事はいつ頃までリーダーシップを発揮できるのか?強いリーダーシップを発揮した橋下徹も頑張ってはいたが、集団主義という「見えざる規範」が、各人の行動原則と主張される現代社会である。

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    かつての田中角栄ような、強力なリーダーが生まれ、育たない時代にどんどん移行している。会社というのは機能集団であるから、社長命令や専務の指令は下まで届くが、世の中でもっとも憐れな類は、学校長、大学の学長である。すべては職員会議、教授会に諮らねばならない。今後は相撲協会も将棋連盟も、強いリーダー不在の下で変質していくことになろう。

    今の時代だからこそ、田中角栄の人気再燃、ブームが起こるのも分かる。大蔵官僚が支配した日本という国家を、小学校卒の土建屋のおっさんがブルトーザーに乗って大きく変えて行ったが、金権政治という手法が一人のジャーナリストに総理の座を引きずり降ろされた。「あのレポートが田中を倒したのではない、時代が彼を倒した」と、立花は謙虚に語っていた。

    こんにち田中のような巨象は政界にいない。吠えるライオンもいなければ、カピバラのようなのっぺらい政治家が目立つ。巨象はともかく、ライオンを再び呼び起こさねばならない時節は、とっくに到来しているハズである。が、一時流行った物言う市民運動家が立ち上がり、草原の清掃に乗り出す時代が来る?それにしても、大麻ばばぁが立候補するようでは…


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