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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    第29期竜王戦七番勝負第2局が滞りなく行われた。スマホカンニングを疑われた三浦九段は21日、出場停止処分の撤回を求める新たな声明を発表。自身のスマホと4台のパソコンの解析を調査会社に依頼する方針を明らかにし、連盟と共に調査会社を選定する意向を示している。ゆるぎないこれらの行為は、自身の潔白を明確に主張したものと受け取れる。

    他方連盟は10月24日に理事会を開催し、第三者により構成する委員会を設けて調査することを決定した。委員長には但木敬一氏(弁護士、元検事総長)を選任し、出場停止処分の妥当性、三浦九段の対局中の行動についてなどの調査を要請した。世間及び将棋ファンは、三浦九段をクロと決めつけた渡辺竜王の強引な対局拒否に動揺、三浦九段を挑戦者から降ろした連盟に批判を抱いている。

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    この件について第一人者の羽生三冠は、「シロかクロかを証明するのは難しい。よって疑わしきは罰せず」と述べたのが常識的な見解だが、処分をしてしまった現状では遅きに失すである。三浦をクロと断定した渡辺竜王にしても、最終証拠は三浦九段の自白しかなく、三浦は一貫してシロという以上、調査委員会の調査とは、今回の決定が法的にどうであったかの判断であろう。

    渡辺が三浦をクロと確信したのは、ソフトの指し手の一致率と、プロ棋士としての直感というだけで確定証拠を示していない。にも関わらず、「疑念のある棋士とは指せない。タイトルは返上してもいい」とまで強く言い切った理由は、明らかな私怨含みではないかと考えている。その理由とは、渡辺の発言に大きな矛盾が感じられるからだ。渡辺は連盟に告発した理由をこう述べている。

    「竜王戦が始まってから疑惑が公になれば、シリーズは中断される可能性が高いと考えました。それだけでなく、タイトル戦を開催する各新聞社が"不正"を理由にスポンサー料の引き下げや、タイトル戦の中止を決めたら連盟自体の存続さえも危うくなると思ったのです。そんななかで最悪のシナリオは、『疑惑を知りながら隠していたという事が発覚する事だ』と判断しました。」

    これはちょっとオカシイ。というのも、連盟は10月5日、対局中の棋士がソフトで、"カンニング"などの不正行為に及ぶのを防ぐため規則の追加を発表した。新たな規則は、(1)スマートフォンなどの電子機器は対局前にロッカーに預け、対局中の使用を禁止する。(2)対局中の外出禁止−−の2点。機器の使用が分かった場合、除名を含めた処分を検討する。という厳しいもの。

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    適用は12月14日ということになっているが、15日に開幕する竜王戦七番勝負は、金属探知機を使って手荷物などの検査を実施することで対局者双方の合意を得ている。つまり、今期の竜王戦七番勝負において、スマホ使用は厳格に禁止され、使える状況にない。でありながら渡辺の、「疑念のある棋士と指せない」というのは、今期竜王戦を問題にせず、過去の憤懣を持ち出している。

    となると、的確な連盟の対応として、「今期の竜王戦は金属探知機で事前にチェックをするので、何ら心配は無用です。あなたの疑念は、確たる証拠がない以上説得力に欠ける。過去の疑念を持ち出して対局拒否をいうなら、かまいませんよ」と強い姿勢で臨むべきであった。三浦九段のスマホ使用の疑念は、今期竜王戦に適用されないのは明らかである。

    ということからして、別の思惑から三浦九段を指したくない棋士として難癖つけたと言われても仕方あるまい。竜王戦を間近に控えた矢先の渡辺竜王の突然の恫喝に、連盟が毅然とできなかったのは、言うまでもない、谷川会長の気の弱さである。こういう人間が組織の長であることがそもそも問題であり、現実に渡辺竜王に舐められているではないか。

    渡辺のいう、「疑いのある棋士とは指せない」というクレームには、「今期の竜王戦は万全だから安堵されよ」と何故言わなかった?理由は簡単、谷川が及び腰の腑抜け会長であるからだ。リーダーの資質とは、危機的状況の時にこそ本質が見えるものだ。渡辺竜王の主張を正しく吟味、我が侭と一喝できない体たらくのリーダーはとっとと辞めるべきである。

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    「何が正しいか」を適格に見極めていれば、今回のようなお粗末な騒動はなかったはずだ。正しいこととは、今期の竜王戦を不正が起こらぬ体制で行うことであったし、なぜこんな簡単なことが分からないのか?谷川はかつて好きな棋士であったが、経営者としてはとんでもない無能さをひけらかし、連盟に対する不信感を助長させてしまったのは残念だ。

    連盟理事の中でただ一人片上理事が反対したというが、若く新参者とあっては発言力が弱い。片上は東大卒棋士であるが、何の効力にならなかったようだ。将棋連盟会長は名人経験者という村社会における暗黙の了承はいかがなものか?プロ棋士とは将棋に関してであって、経営とは関係ない。特別問題ない場合はいいが、今回は明らかに軽率な一手を指した。

    歯に衣着せぬ渡辺竜王には有名な、「三羽烏」発言が知られている。三羽烏の意味は後述するとして、三浦八段(当時)、丸山九段、深浦八段(当時)の3人を「質問三羽烏」と呼び、こうした行動をとる棋士厳しく批判しており、中でも三浦八段については、NHK杯戦準決勝の観戦記(「NHK将棋講座」2009年5月号64頁)の冒頭で鋭く批判をしている。

    「若手にメールや電話で聞くのはA級棋士としての自覚に欠けると思います。そういう人たちの将棋は並べる気もおきませんね。目新しい手を指しても、どうせ誰かに聞いたんだろ、と思ってしまいますので。こういう人には負けたくないです」。 三浦八段は、若手棋士から最新の序盤情報を入手しており、「三浦八段の得意戦法は若手の研究と言われている。(事情通)

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    渡辺が並べたくないなら勝手に並べなければいいことだが、こういう個人攻撃をするところが彼の人徳のなさである。今回の三浦おろしは直近の三浦戦3連敗が言われているが、それは本人のみ知るところ。ただ、渡辺が三浦嫌いなのは間違いない。三羽烏の一人とされた丸山九段は漁夫の利を得て挑戦者に格上げされたが、三浦の処分には真っ先に異議を表明した。

    一年がかりで竜王戦の挑戦者を得た三浦九段は挑戦を辞退するなどいうわけがないといったように、「疑われている状態では指せない」との発言を連盟が、「竜王戦を辞退する」と受け取ったのは、タイトル保有者渡辺の対局拒否に困惑したからであろう。挑戦者の代わりはいても、タイトルホルダーの代わりはいない。今回の裁定に棋士の多くは三浦に同情的であるという。

    情報源は想像がつくし、週刊文春は連盟側のご意見番のような記事を書いている。ロクなネタもないのに、しきりに三浦クロにもって行くのは連盟と結託の証であろう。この際連盟と袂を分かち、渡辺陰謀説にシフトした方が部数も伸びる。三浦がスマホ提出に応じていないかのネガキャン記事を、文春にリークするのは三浦クロを祈らんばかりの連盟と渡辺だろう。

    現実に三浦は所有のパソコンとスマホを提出しており、今さらどうのこうのは三浦クロへの印象操作である。疑惑渦中の三浦の親戚筋は彼の近況をこう明かす。「疑惑が出た直後は電話で、『俺はやっていないし、(竜王戦挑戦を)辞退するといった覚えもない』といっていた。今はまったく連絡が取れない状態で、思い詰めて変な気を起こしていないか心配です。」

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    週刊誌が取材の電話を入れても高崎市の自宅は不在という。自分の考えは三浦シロに置いているが、何事も100%はあり得ない。三浦が嘘を述べている可能性もあるあひ、スマホやパソコンにカンニングの証拠が見つかる可能性もある。もし三浦がクロで一切の言動が虚実であるなら、三浦は死を前提とした行動であろうが、そこまで捨て鉢になれるものか?

    三浦のシロを信じるもの、クロを信じるもの、いずれも、「信じる」で確証はない。三浦が提出したスマホやパソコンの解析が唯一の物的証拠となろうが、挑戦者を代えるという愚行をやった連盟として、無事に竜王戦七番勝負を終わらせることが最大課題。スマホ解析の結果は、竜王戦終了以降になろうが、連盟は31日、所属棋士を対象に報告会と意見交換会を行った。

    報告会終了後に渡辺竜王は、「三浦さんを処分してほしいとは全く言っていない」、「疑念のある人と戦えない。タイトルを剥奪されても構わない」などの発言はしていないと言ったが、これはよくある否定のパターン。言っていない言葉を持ち出し、「言っていない」いうが、その言葉通りではない別の言い方をしておきながら、「(自分はこの通りに)言っていない」と逃げる。

    子どものよく使う逃げ口上で、渡辺てその程度の精神年齢だろう。渡辺の様相は、島常務理事から伝えられたとされ、渡辺正和五段は、「渡辺竜王が島常務を脅して三浦九段を失格にするように動いたというのは報告会で島常務から聞いた話です」と暴露した。それがここに及んで、「言った、言わない」の様相を帯びてくるなど、まさにおこちゃま組織である。

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    渡辺竜王が発言を全面否定した現時点では、島常務理事が嘘を言ったことになり、島に泥をかぶせて逃げる腹づもりか?連盟は三浦問題には調査委員会を立ち上げ、会員に緘口令が敷かれていると察するが、なぜ渡辺竜王はマスコミのインタビューに答えたのか?緘口令は自主規制の注意的なものであろうし、渡辺竜王の発言は禁じ手という事でもない。

    渡辺一派と言われる橋本八段も、「(三浦九段)は1億%クロ」とツイートしておきながら、「自分はそんなことは言ってない。あれはスタッフが勝手に書いた」と、負けず劣らずの根性悪で、渡辺竜王同様、旗色が悪くなったら指した手を引っ込める。「は~?」棋士が待ったするのは禁じ手の反則だろ?ルールは将棋だけじゃないんだよ。将棋棋士ってこんなに幼稚なんか?

    関ケ原の小早川秀秋ではないが、風向きを見ながら行動しようって奴は、「ワル」か「臆病」のどちらかで、関ケ原の秀秋は18歳の若僧であり、臆病というのが定説だが、渡辺と橋本は、「何でいまさら?」である。羽生は週刊誌の記事に誤解を招くと即刻反応、訂正コメントを出している。渡辺、橋本は今さら何をいってもバカ丸出しで、それが男の世界の在り方だ。

    おしらく渡辺は、「三浦さんお指し手に疑念があり、これで竜王戦を戦えって言われても…」などの含みのある言い方をした。「対局拒否はマズイ、タイトル返上なりますよ?」とする連盟に、「それなら仕方ない」くらいの会話が想定される。連盟はそれを世間に公表する際には意を汲んだ言葉で、「渡辺竜王は三浦九段に疑念を抱き、これでは竜王戦は戦えない」と、主観的な文言を選ぶ。

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    連盟は渡辺の意を汲んだ対応をしたが、世間から非難を浴びた渡辺が、「そんなことは言っていない」と言葉ジリを捉えて逃げを図る。言葉ジリを責められた側は普通は怒る。言葉ジリで責めるのは不利側の常套手段で、渡辺に良心的対応した連盟も、渡辺の自己保身に裏切られた形。人間は醜いものよ。だからといって、逃げる渡辺を連盟が責めれば、連盟は崩壊する。


    連盟は渡辺との泥仕合を避けるが、問題は三浦九段に対する責任だ。一般企業なら、会社に詫びを入れさせ、賠償金(慰謝料)を取って別の会社に就職すればいいが、棋士はそうもいかない。我に正義あれども将棋しか取柄のない棋士は、連盟に残って将棋を指しすか道がない。連盟は渡辺を不問にし、三浦に詫びを入れ、三浦はそれを許す。渡辺と三浦は現状通り口を利かない。



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  • 11/02/16--08:21: 渡辺竜王 vs 三浦九段

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    誤解は人間社会にあっては常に生まれる。恋人のあの一言が、相手の真意とはまったく別の理解で疎遠になる。愛が終わったと判断する。これを誤解というが、世界中に誤解がもとで別れた恋人は、星の数ほど存在するのではないか?経年で再開した二人が、当時のことを話し合えば、「そうか、そういう事だったのか」と晴れて誤解が解けたりする。

    誤解は信頼関係を瓦解させる。瓦の一部が崩れると、屋根全体が崩壊するように…。今期竜王戦は本来なら渡辺明竜王に三浦弘行九段が挑戦することになっていたが、諸般の理由で、挑戦者決定3番勝負で三浦九段に敗戦した丸山九段が、規定により繰り上げで挑戦することとなった。丸山九段にすれば願ってもない、まさに「漁夫の利」挑戦となった。

    普通の神経の持ち主なら、たとえこれで竜王のタイトルを取っても、どこかしっくりしないものがついて回るだろう。規定といっても、三浦九段に病気とか事故とかのアクシデントがあったというならその限りでないが、今回のような不明瞭かつ問題のある裁定による繰り上げは、丸山九段においてもどこかしっくりしないものを感じていると想像する。

    なぜこのようなことになったのかについての結論をいえば、危機管理の甘さである。それが問題を大きくしたことになる。すべては初動にかかっているといえるほどに、「始めの一歩」が大事であるのに、連盟側はキチンとした説明もないままに、「第29期竜王戦七番勝負挑戦者の変更について」と題した以下の文面を連盟ホームページで知らせた。

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    こんなことでファンが、世間が納得するとでも思ったのだろうか?今に思えば、対局者変更理由を発表しかねる事情であったのは分かるが、それにしても理由を明記しないで事が済むわけがない。なぜ、このような事態になったかといえば、竜王戦の開幕は3日後に迫っていたからであろう。あまりにも早計な決断をしたことが、後の問題を大きくすることになった。

    キチンとした理由が発表できない段階なら、キチンとしたことが発表できるまで時間をかけるべきだが、理由も告げずに対局者変更を通知すれば事は収まると思ったところに、将棋連盟のお粗末さがある。竜王戦を主催する読売新聞社の了解を得られたからと、簡単に、安易に考えた理事会の無能さを晒してしまった。これについては的確な書き込みがある。

    新規事業開発コンサルタント後藤洋平氏は本件について、「組織のインシデント管理」という視点で今回の連盟の対応を、「あり得ない」と批判をしている。「インシデント管理」とは一般的には、何か望ましくない事象が発生したとき、組織的にそれにいかに対応するかということで、本件の対応のターゲットは、三浦九段、将棋ファン、メディアに対してである。

    後藤氏のいう連盟の、「インシデント管理」の問題点は、「だれが、何のために、なぜ一連の処置を実施しているのかという『基準』が曖昧になっている」と指摘をする。事は三浦九段への不正ソフト利用疑惑に対するそもそもの初動において、そこから発生した休場絡みのトラブルの公式発表対応が、全くなされなかったことに対し、世間の大きな反響があった。

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    連盟にはこの点の想像力が欠落していたようだ。もちろん、三浦九段に対する渡辺竜王の疑念というだけでは、彼も納得しないであろうとの認識も甘い。何にしても3日後に開幕を控えての慌てぶりが最大の問題である。「急いては事をし損じる」という慣用句通りに、急いたことで連盟は大きく事をし損じてしまった。つまり、二次災害を暴発させてしまった。

    二次災害とは、不安な心理と根拠のない噂などからもたらされ、「インシデント管理」はそういった二次災害を食い止めるためになされるものである。だからこそ、危機に直面した組織のリーダーは、確実かつ必要な情報を、迅速に発表し続けることが重要となるが、的確なリーダーがいなかったことになる。連盟は三浦九段に期日までに休場届を出すよう求めた。

    が、三浦九段が提出しなかったことで、12日に上記処分を突如発表した。一方的に出場停止を言い渡された三浦九段は、数日間無言を通していた。ファンや棋士も、もし本当に潔白なら、スマホの通信ログなりなんなり提出して、積極的に自らの疑惑を晴らすアクションをとるべきではないか。動きがないのはやはり後ろめたいことがあるのではないか、という向きもあった。

    ところが、18日になって突如三浦九段サイドから積極的な情報公開の動きがあった。文書とNHKでの単独インタビューが公開され、不正がなかったとの反論を行なった。特に、NHKによるインタビューは、「竜王戦辞退を申し出たとする連盟の主張は正しくない」との主張がなされ、これは連盟が出場停止処分とした根拠も揺らぐ内容で、騒動を予感させるものだった。

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    これに慌てたのか当初連盟は、「不正使用がなかったことについて、三浦九段側に納得できる説明がなかった」としたが、三浦九段による公式な発表があった時点で、「ヒアリングは尽くした。不正使用はなかったと考えており、来年からの対局で疑念を晴らしてほしい」と、本来なら除名に相当する姿勢を軟化させていたが、その後の三浦九段の、「不正はなかった」という主張である。

    連盟と三浦九段の言い分の違いからして、一体何が起きているのかという話となりつつあった。世間やファンは、三浦九段のインタビューや文書から、明確な証拠もないままに勝ち取った挑戦権を奪い、年内の出場停止処分を科した連盟に強い批判が向いた。 が、この時点ではまだ、連盟が明確な証拠を持っているのでは?という推測もなされていたようだ。

    その後の動きは省略するが、本件は自分なりにいくつかの問題点が感じられ、それについて考察を行う。まずは、水掛け論的な、「言った」、「言わない」がなぜ発生するかである。10月23日の記事にも書いたが、連盟は、「疑義がかかったままでは対局できない」と三浦九段が発したといい、三浦九段は、「栄誉ある竜王戦の挑戦者として対局拒否なんかするわずがない」と反論した。

    同じように渡辺竜王は、「疑念がある棋士と指すつもりはない。タイトルを剥奪されても構わない」と述べたと島理事から発表されたが、これについて渡辺竜王は、「(三浦九段を処分しないなら)竜王戦は指さない(出場しない)。タイトルを剥奪されても構わない」などと発言したとされることについても、事実ではないと、メディアのインタビューに答えている。

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    録音でもしておかねば、人間は時々の都合で発言を修正する。つまり、「言った」、「言わない」という問題が連盟と三浦九段、連盟と渡辺竜王の間で起こっている。正確な表現がどうだったかを検証はできないが、「言ったこと」を後になって、「言っていない」というのは良く起こること。その理由は、三浦九段と渡辺竜王と連盟と、言葉の齟齬があったのではないかと、自分は考えている。

    こういう問題はしばしば起こりやすいことを前提に、齟齬とは、「物事がうまくかみ合わないこと」。 「食い違うこと」。「ゆきちがい」。の意味で、人間と人間の主観のぶつかり合いから必然的に起こる。どちらかに不利状況が傾いた場合、自己を正当化したり、言葉で上手く誤魔化そうという算段を講じようとして起こる。それほどに言葉は曖昧であり、多様に解釈できる。


    三浦九段の言い分は先のブログで指摘したが、渡辺竜王の「言ってない」発言を分析する。まずはこの発言。「三浦さんを処分してほしいとは全く言っていないですし、ファンの皆さんや棋士の間にも本意とは違う形で間違って伝わってしまっています」。これは事実であろう。「三浦を処分してほしい」など言えた義理ではない、こんなキツイ言葉を…。

    ここに渡辺の打算を見る。連盟が三浦九段を処分したのは、「自分の要望ではない」と言いたいのだ。本心は要望していたとしても、それを誤魔化すために、あえて口にしていない言葉(三浦を処分してほしい)ではぐらかす。ならばどう言ったのか?らしき言葉や心情的ニュアンスは伝えてるはずだが、「三浦を処分しろ」と言っていない事実を強調することで非難をかわす。

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    次に、「(三浦九段を処分しないなら)竜王戦は指さない(出場しない)。タイトルを剥奪されても構わない」という発言。これを渡辺は事実ではないとした。「事実でない」と言ったのか、「そんな言葉は言ってない」と言ったかは分からぬが、報道では、「事実でない」となっている。「言ってない」と、「事実でない」の言い方は似て非なり、大きくニュアンスは異なる。

    自分は、「悪人だ」というのと、自分は、「善人ではない」というのとニュアンスが違うように。「言ってない」は断定である。「事実でない」は、何を事実とするのかを曖昧にする。そもそも発言したとされる語句が、一文字違っても事実でないという事になる。起こったこと、発したこと、言葉の選び方、どれが「事実でない」なのか?「言った」、「言わない」はこうしたアヤから発生する。

    例えば三浦九段は、「疑義がかかったままでは対局できない」という言葉は報道通りなら、「対局しない」とはまるで違う。前者は「できる状況にない」との意味であるが、「対局しない」と解せば後になって、「言っていない」となる。「将棋を指さない」と、「将棋を指せない」と同じように、発言者のニュアンスは異なる。普通なら、「指せない」という保険をかけた言葉を使うだろう。

    渡辺も同様、「疑念がある棋士とは指せない」と言った可能性が高い。これも、「指さない」ではなく、用心深く、「指せない」と言ったかも。他の言葉で考えてみる。「行けない」と、「行かない」の違いと同じこと。「今日は行きません」、「今日は行けません」は大きく違う。差し障りのない言葉はいうまでもない、「行けません」で、多くはこちらを使いたいだろう。噛み砕いていえば以下の通り。

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    「行けない」…自らの意思に反して事情、理由、障害などがある

    「行かない」…自らの意思。キッパリと。

    どちらも、「指さない」ではなく、「指せない」と言ったと自分は考える。そう言ったか、どうかは正確な判別できないが、そういうニュアンスであり、毅然と、「指さない」と言ってないというなら、心情は理解に及ぶ。まあ、渡辺は姑息なズル男である。三浦から丸山に変更になった時の渡辺の発したコメントを読めば、誰が見ても彼がそれを喜んでいるのが伝わってくる。

    「三浦さんを処分してくれとはいってない」とは言ってないであろう。が、処分を喜んでいる渡辺が、そういうニュアンスでいたことは誤魔化せない事実であろう。それを分かっている連盟があえて渡辺を責めることはないが、人間のズルさ、汚さ、醜さなんてこんなものよ。言葉を持たない動物に比べてはるかに不純である。「言葉は心を隠すために与えられた」という言葉どおり。


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    渡辺竜王の、「言ってない」発言を1日にネットの記事で知り、それについて所感を述べた。同日渡辺が自身のブログに、「一連のこと」、2日に、「最後に」との表題で三浦問題を述べているのを昨日知った。渡辺竜王のブログなど興味もないので伺うことはなかったが、本件については珍しくも長い文章を書いていた。一読後の感想は、「ダメだこりゃ」である。

    今は懐かしいかりや長介のセリフである。何がどうダメというのは、自己正当化に満ち満ちており、腹立たしく感じたのは、自分は連盟の危機を未然に防いだナイトを気取っているところ。彼の文面によれば、一連の行動意図をこう説明している。以下抜粋。「10月上旬の時点で放っておいても三浦九段に対する報道が出る可能性が高いことを知りました。

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    このまま竜王戦に入れば七番勝負が中断になる可能性もありますし、将棋連盟にとって最悪の展開は後に隠していたと言われることです。七番勝負が始まってから対応するのでは遅いので、この状況を常務会に報告。報道が出ることを知っていながら放置して最悪の状況を迎えるリスクを取るか、事前に三浦九段に話を聞くかのどちらかしかないわけで、後者を選ぶまでは止むを得なかった思います。」

    つまり渡辺は、「10月上旬の時点で放っておいても三浦九段に対する報道が出る可能性が高いことを知った」という。「可能性」というが、報道は渡辺が意図すればされたことでは?こういう事は社会でもままある。そういう奴は自身の事前行動を正当化するための作り話まで言い出す始末。が、起こした行動が上手くいかなかった場合の腐った言い訳など誰も信じない。

    渡辺が竜王戦の直前の急いた行動は、誰が見ても間違っている。なぜなら、今ほど将棋連盟の信用を失墜させた例は過去にない。あげくファンの信頼を落とし、組織の無能さをさらけ出した。行動しなければもっと大変な事態になっていたなどの文面は、世間知らずの稚拙な子供騙しとしか受け取れない。バカは人を甘く見るからバカであって、彼は話にならないガキである。

    将棋は強くても、それ以外においては凡人である。「自分は何もしなければよかったのか、いや、そんなことはない。連盟を守るために動いたし、頑張った」を連盟が間に受けたのは情けないが、渡辺の画策を鵜呑みにした連盟は、結果的に墓穴を掘ってしまう。将棋好きの将棋ファンは連盟を応援するしかないが、渡辺や理事連中のバカは消えてくれといいたい心境だ。

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    渡辺一人に踊らされた連盟の理事の無能さもあるが、事もあろうに棋界最高位竜王保持者でもあり、そんな彼の発言や行動を無碍にできなかったことには同情する。「メディアが報道するという情報を掴んでいる。竜王戦が始まる前に手を打たなければ大変なことになる」などと、危機感を煽られたと推察するが、煽られたこと自体がそもそも無能である。

    なぜにこれほど慌てなければならなかったのか、連盟に突き付けられた最大の後悔であろうが、それが渡辺の意図するものであったことを読めなかったのだろうか?竜王位はともかくとして、渡辺明という棋士、あるいは人間性をもっと読めなかったのだろうか?その辺りが情けない。将棋の指し手を読む集団が、人の腹を読めない凡人なのを天下に示した格好だ。

    将棋という村社会に生き、雑多な社会の人間関係の機微に疎い人たちと思えば責める気も失せるが、なぜもっと早い時期に、電子機器に対する憂慮を抱かなかったのか?スマホカンニングが悪いことと知りつつ、それを防止するための対策(対局室への持ち込む禁止など)を打ち出さなかったのか?元を絶たなくとも、それでカンニングは防止できたハズである。

    連盟の、「棋士性善説」が体たらくであったということだが、この点を大平武洋六段が twitter で呟いている。「ればたらは良くないとブログに書いたばかりですが、今となっては数年前にルールが出来かかった時に、感情論やアホな理屈で反対した人達を押し切れなかったかなと思ってしまいます」。感情論やアホな理屈が何であるかを部外者は知ることもない。

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    何年も前から、「モバイル機器のチッェク態勢をつくるべきだ」と提唱していた棋士がいた。また、2013年4月20日、医学博士との対談で、「まずは対局中の電子機器を取り扱うのは禁止にしたほうがいいですね」。と答えた棋士もいた。前者は渡辺竜王、後者は三浦九段である。その疑惑を告発することになったのが渡辺竜王、相手が三浦九段とはなんという皮肉。

    前回も述べたが、今回の最大の問題は、「急いては事を仕損じる」であって、同様に今回の最善策は、竜王戦七番勝負を不正の問題もなく終えることだった。その点は悔やみきれない点だ。勝負事の格言に、「風邪は引いても後手引くな」というが、連盟の対応は何でいつもこう後手ばかりなのか?やはり将棋と経営(組織運営)は別のものということだ。

    今期の竜王戦七番勝負において、対局前に金属探知機で対局者を調査するとの了解を得ていた。この決定は急遽チェック態勢を敷かれたものではなく、対局室にスマホ持ち込み禁止案は随分前に決まっていたという。竜王戦挑戦者決定戦、「三浦弘行 vs 丸山忠久」の第二局が行われたのは8月26日で、観戦記担当は元女流の藤田麻衣子。その藤田はこう証言した。

    「それまで(三浦九段が、「ソフト指し」の不正を疑われていることは)全然知らなかったです。(第2局は大差で、盤上の変化を詳しく書く代わりに)七番勝負で金属探知機で通信機器をチェックする話を書いたりしました」。これは彼女の観戦記の一文だが、この文は土壇場になって載らないことになる。本来は10月14日の新聞紙面に掲載される予定だった。

    イメージ 4その数日前に読売新聞社から藤田宛に不掲載の連絡があり、彼女は、「いったい何が起こったのか」と訝っていたという。そこへ12日になって、挑戦者が三浦から丸山へ変更される由の連盟発表があったという。金属探知機での調査は8月の時点で決まっており、その設置を要求したのが渡辺であることも分かっている。それを受けた連盟は探知機も購入していた。
    当事者でもあり、事情を知る渡辺がなぜ、「疑念がある棋士と指すつもりはない。タイトルを剥奪されても構わない」(産経新聞 10月21日20時42分配信)という発言をした?まあ、推察はつく。もっとも渡辺は、この発言を事実でないとしたが、ならばどういう表現をしたのかについて、渡辺も島理事も語っていない。これについて渡辺はブログに以下のように記している。

    「島さんが言ったとされる自分の発言については島さんとの間での言葉のあや、解釈の違い、さらに報道を介すことで自分の本意ではない形で世に出てしまいました。これについては島さんとも確認した上で、『渡辺君の本意でないなら直したほうがいい』と言ってもらったので昨日の月例報告会と取材でその旨を伝えました。

    初動から三浦九段を呼ぶまでに時間的余裕がなかったですし、自分も島さんに行動意図を丁寧に説明しなかったこと、島さんは対局者、主催者との折衝、マスコミ対応で10月10日から寝る暇もなく動いていたことは発言を修正する上で棋士にも理解を求めました」。31日の月例報告会席上での訂正というが、棋士に理解を求めても、理解を得たかどうかは別。

    渡辺ブログを読んで、「ダメだこりゃ」と言ったが、彼の言うように、三浦不正疑惑報道が出る可能性があり(なぜ、渡辺がそれを知っていたかは謎)、「報道が出ることを知っていながら放置して最悪の状況を迎えるリスクを取るか、事前に三浦九段に話を聞くかのどちらかしかないわけで、後者を選ぶまでは止むを得なかった思います」。こんな言い分は後付けの感想戦である。

    今回彼が事前にやった行為は、彼が憂慮したことより、良い結果を得ていなければならなかった。行為したことをいかに正当化しようと、結果が悪かったなら、渡辺の行為は愚挙であったということになる。結果とは、行為の責任とは、そういうものであろう。しなかったことの悪より、したことの悪が問題となる。よって、行為者が責任を取ることが真っ当な人間である。

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    将棋でいえば、指さなかった手をどれだけ悪手呼ばわりしようと、指した手が最悪の一手なら、棋士はダメな手を指したとなる。結果がすべての世界だ。渡辺がいかなる言い訳をしようと、渡辺の愚挙を評価するファンはいない。自画自賛はみっともないし、「物言えば唇寒し秋の風」の渡辺ブログ。連盟のためなどと、気取った奴が尻に火がついて自己弁護とは笑止千万。

    嘘が綻びるのは多くの場合、その人が追い込まれたときに現れる。ここに及んで渡辺は、「自分ではブレてないつもりでも…」などというが、誰が見ても保身に躍起なのは明らか。彼が週刊誌を利用して三浦追い落とす画策をした汚い一手は明らかで、そして今、三浦告訴を意識した発言は見るも無残である。それにしてもなぜ彼は文春にリークした?この点は腑に落ちなかった。

    その理由がネットにあった。真偽はともかく、「渡辺の先輩が文春にいる」との情報は、すべてを理解させるものだった。自己の主張を裏付けるために告発週刊誌や後輩の三枚堂四段、千田五段までも三浦追撃に利用した渡辺である。その彼が、「自分は言ってない」では、島常務も事の核心をやっと理解したろう。策に溺れた策士の末路は、孤立無援と決まっている。

    調査委員会の裁定はもはや決まっているも同然。無実をいう三浦九段のスマホ、パソコンに履歴がない場合、彼をグレーとし、竜王と連盟を守る三方玉虫色決着が予測されるが、それは正義でない。履歴ナシは明らかに無実の証拠であり、声高に「無罪」を言うべきである。小癪な渡辺は責任の分散を企てているがこれもダメ。竜王防衛なら、彼はその地位にあらずで剥奪がいい。

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    日本将棋連盟は、10月24日の理事会において、第三者により構成する委員会を設けて調査を決定した。委員長には但木敬一氏(弁護士、元検事総長)を任命し、出場停止処分の妥当性、三浦九段の対局中の行動についての調査を要請した。我々はこの調査の成り行きと結果を待っているが、それとは別にさまざまな場外乱闘も起こっており、これは世の常ゆえに止められない。

    乱闘はないが自分も外野の一員だ。屁理屈をいうつもりはないが、発言は大事である。自身の知識や理屈をひけらかすための発言でなく、何かが起こった時、善悪是非について考えるのは、紛れもない自身の思考体験となる。もし自分が当事者ならどうするか、何が良くて何が良くなかったかを、「出来る」、「出来ない」立場にないなら、是非論として考えてみる。

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    人間がそれぞれに自身の考えを思索し、練り上げていくのは、己の賢さを自慢する小事ではみすぼらしい。正しい考えとか何か、そこに辿りたいという目的で思考するのである。社会には至らぬ人間がうごめいている。至らぬ人間だから至らぬことをやってしまうでは人間に明日はない。至らぬことをやらないために様々な知識を有し、それを肥やしに正しいことを決めてゆく。

    残念ながら、それでも人は正しいことをみつけられないし、決められない。連盟は今回の問題の調査に元検事総長の弁護士を任命した。彼らは世の中の悪と対峙し、何が正しいことかを常に考えている専門家である。が、そうであるからと、神の裁定がくだせられるとも思わない。1000人の人を納得させる裁定など存在しないし、何が正しいかを決めるのは難しい。

    正しいものを探ることはできても、いざ決めるとなると多くは妥協であろう。世の中に存在するすべての決定は、妥協の産物である。正しいものを見つけることを真理の探究というが、この世に唯一絶対に正しい真理が存在するとは思えない。宗教は普遍的真理を探すというが、自分は宗教とは別の方法で探りたい。それが哲学だ。信仰と違って教義に拘束されない自由さがある。

    ある考えや見方が生まれたとする。これらは自分のどこから出てきたのかを一言でいい現わすのは難しい。映画や演劇や書物から得たものなのか、経験から生まれたものか、親や周囲の誰かから身についたものか、宗教的な考えに沿ったものか、そうした何かであろう「何か」が、「何」であるか分からない。「自然に生まれた」という言葉を聞く。「自然」という言葉は便利で、後ほど考えてみたい。

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    連盟は第三者委員会を設置する前は、「三浦九段に対する再度の聴取はないし、この問題をこれ以上追求することはない」ということだった。この言葉を裏返すなら、「双方合意の元であり、一切は手打ちにして処分を確定させる」と言っているに等しい。それが急遽、第三者委員会を設置したことについては、三浦九段に対するさらなる調査をすると明言したことになる。

    こうした連盟の決定は当初の発言と矛盾するが、第三者による調査を依頼した背景は、連盟がくだした処分の是非や、伝えられる渡辺竜王の恫喝まがいの発言に対する世論を抑えきれなくなったからだろう。何事か疑惑が浮上した場合、普通であればまずは調査をし、判定をして処分という手順をたどるが、今回の連盟の対応は、処分後に調査をし、判定する格好である。

    となると、行った処分はどうなるのか?刑事事件でいえば冤罪の可能性が出てくるが、長期間獄舎に捕らわれた容疑者にどれほどの国家賠償をしたところで、失われた時間は戻らない。三浦九段が無実でありながら処分を受けたとするなら、竜王戦挑戦者並びに年内の出場停止などの物質的損失も大きいが、それ以上に人間としての名誉や尊厳を奪われたことが問題だ。

    しかし、将棋がすべての三浦にすれば、現状で将棋を失うことは死にも値する絶望と考える。弱みと言ってしまえば言えなくもないが、三浦九段にすれば、「今回のことは無実が証明されればそれでいい、今までどおりに将棋が指せればいいです」。と、一連の問題を不問にするであろう。まあ、仕方がない。将棋を奪われることを思えば、これが彼の正直な心情と察する。


    問題は無実の人間の名誉を傷つけるという過ちを連盟が犯したこと。一人の人間の口車に乗せらたのは軽率である。当該者の渡辺竜王はどの程度の罪を追うべきか?渡辺自身は、行動意図をブログで説明しているが、弁護はともかく、善悪良否を自ら判断できない。「泥棒にも三分の理」というが、殺人犯でも行為の正当化はできる。正しく裁くべく第三者委員会であろう。

    連盟の雇った弁護士なら、連盟寄りの裁定を下すと誰もが考える。元東京都知事舛添氏の問題の際も、第三者委員会とは名ばかりで、これについて元検事で弁護士の郷原信郎氏などから、「舛添氏は佐々木弁護士(依頼人)に一体何を依頼したのか?」と訝る声もあがっていた。依頼人は何を依頼されたかで調査の範囲を決めるが、連盟が自分たちの処分を頼むわけがない。

    渡辺には週刊誌にリークをした同義的な問題がある。内部で調査すべきことを、週刊誌という媒体で権威づけを狙ったのだろうが、これは渡辺正和五段が指摘するように、著しく連盟の信用を失墜させる行為に抵触する可能性がある。だとしても、連盟を処罰し、渡辺竜王を処罰するのは、連盟自らが行うしかない。勿論、顧問弁護士などと相談をするであろう。

    自分が裁定者ならどういう判断を下すか思考してみた。その前に今期竜王戦が続行されるのはオカシイ、中止(延期)にすべきと23日の記事に書いたが、これを伊藤雅浩弁護士は法律論で以下述べている。伊藤氏の御子息は現在奨励会在籍であるという。主宰新聞社とどういう話し合いがもたれたかは不明だが、両者は挑戦者を代えても中止はしないとの決定を下す。

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    主宰紙の了承は解せぬが、渡辺竜王による、「三浦クロは間違いない」との強烈な押しがあったハズだ。将棋界に巣食う偏執的な人間と違い、一般企業の常識的な人間が確たる証拠もなく挑戦権確定者の権利を剥奪などするとは思えない。これが裁判沙汰になれば証拠不十分で敗訴濃厚であるからだ。それほどに渡辺竜王の自信と確信性に賭けたと推察する。

    それとも引きづりこまれたか?非道理行使につき、「当社は関知しない」との一文も交わすであろう。将棋の虫、将棋一筋の三浦九段は、いかなる裁定にも従うという読みもあったのか?それなくして、状況証拠のみで三浦挑戦者を降ろすなどあり得ないが、主宰社側が連盟を説得・指導する立場にない。確かに将棋指しは、将棋を指せなくなると何もできないという弱みがある。

    この段階では、読売も連盟も渡辺の三浦クロ説に傾いていたと考える。渡辺明の将棋の強さだけでなく、彼の人間的な性格に負うところも大きい。物怖じせずズケズケいうところが自信と取られ、そこに頼った(誤魔化された)側が、のっぴきならぬ状況に陥っている現状である。自分は三浦シロという前提で述べているが、その理由は、証拠隠滅ができる状況にないからだ。

    前置きが長くなったが、自分なりの裁定はこうだ。①今期竜王戦で渡辺防衛の場合は剥奪。理由は、三浦が勝ち取った挑戦権を剥奪されたように、竜王位を勝ち取った渡辺も同罪である。②挑戦者に上がった丸山に罪はないが、竜王位奪取も無効とし、空位のまま新たな挑戦者を決めて戦う。③丸山敗退の場合は、奪取同様に正規の挑戦者でない以上、対局料・準優勝賞金は三浦と折半する。

    ②については次案として、丸山竜王位奪取の場合において、その労力は徒労であってはならず、栄誉を讃えてそのまま竜王とする。ただし、優勝賞金の半額を連盟に収め、残りの半分を竜王奪取の可能性があった三浦九段と折半する。というのも捨てきれない。

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    ④調査委員会という無駄な経費を使わせた渡辺には、対局料没収のペナルティを科す。が、除名や出場停止処分は行わない。理由は、渡辺の告発が独善的、恣意的であれ、三浦処分の責任は連盟にある。渡辺の恫喝は私憤的なものとの想像力も働いていない。あくまで規定どおり竜王戦を実施し、三浦の疑義については後日時間をかけて調査すべきだった。

    よって、⑤連盟会長ならびに理事は総辞職とし、向こう5年間の欠格期間(立候補を認めない)を設ける。以上が自分の考える裁定だ。過激でも何でもなく、これくらいのお灸をすえないで何が再生だ。信頼の回復さえおぼつかない。第三者委員会には、該当者を処分する権限はないが、処分に科せられた三浦九段の妥当性についての判断は盛り込まれているようだ。

    昨日、第三者調査委員会(但木敬一委員長=弁護士、元検事総長)の初会合を開催されたとの発表があった。委員には新たに永井敏雄氏(弁護士、元大阪高等裁判所長官)、奈良道博氏(弁護士、元第一東京弁護士会会長)が選任されたようだが、「三浦九段の対局中の行動について」調査という点は腑に落ちない。電子機器類の使用なくば、一手指す度に糞するのも自由だろに。

    渡辺竜王は三浦九段への過度な思い込みから名誉を傷つけたばかりか、当事者しか知らない内部情報を、三浦や連盟の了承を取らずメディアにリークした。連盟は渡辺の告発を鵜呑みにし、三浦を精査することなく処分という判定を下した。渡辺および連盟役員による前代未聞の責任は大きい。早期の信頼回復並びに、連盟の将来のためにも、各自の確固たる自浄力に期待する。

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    いろいろ思うところを論じてきた。将棋が好きで、棋界のことにも興味がつきないだけに、今回の失態はあまりに情けない。三浦九段が無実の立場でどうすべきだったかを考えたが、自分は三浦でないし、三浦も自分とは性格が違うし、三浦本人でない自分のアレコレは無意味である。が、この問題を考えていると、自分だったら、「どうした」、「こうした」がつい浮かんでくる。

    所詮は何を言っても机上の空論と思いつつも、理不尽ないいがかりや要求に屈して欲しくないが、防止という点においてすべての発端は初動にある。やってもいないことをアレコレ理由をつけて言われたときに、何が、「善」であるかは、相手の言い分を無条件に通させないこと。自分の無実は自分が分かっているのだから、いかなる難癖にもひるまないこと。以下、類似のケースで思考してみる。

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    スーパーで買い物を終えて外に出た。追いかけてきた警備員に呼び止められ、「なんですか?」と尋ねると、「あなたに万引きの疑いがあります。事務所まで御足労願えませんか?」という。一応したがって事務所に行くと、前にどっかと坐った店長らしき人物が口を開く。「申し訳ありませんが、レシートと袋の中身を擦り合わせたいのですが宜しいか?」という。

    「なぜですか?警備員から聞きましたが、ここに呼ばれた理由を再度お尋ねします」。「あなたが万引きをしたという情報を、店内を巡回する従業員から報告を受けました。確認のために調べさせていただきたいのです」。「私に万引きの容疑がかかっているんですね?ならばその前にお聞きしますが、もし違っていたら、どうなさるおつもりか?それを聞きたい」。

    「いえ、こちら側としては調査に協力してくださいとお願いしているんです」。「私は万引きなどしていません。それを申し上げておきます。それを信じないのはそちらの勝手ですが、疑われるのは心外です。疑われた私の怒りをあなたはわかりますか?こうしてここに呼ばれただけでも腹が立っています。ですから、濡れ衣だったらどう責任を取るかを聞いてるんです」。

    「責任といわれましても…」。「人を疑う以上、責任はあるでしょう?それもなくて、人を疑っていいんですか?どういう責任をとるのか、それを聞くまで中身は見せません。それが無実を疑われた人間の自尊心です」。「違っていたら当然お詫びはします」。「お詫びではダメです。腹を切るか、ここを退職するかでお願いします。ない腹を探られる今の自分に、それ以外は認められません」。

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    「そんな…、無茶な」。「人を疑うならそれくらいの覚悟でやれといいたいんです。人の自尊心を傷つける権利はないでしょう?」。「そんなことを言う人はいませんよ。皆さん、協力してくれます。あなたのような人は初めてです」。「当たり前でしょう?私は初めてここに呼ばれたんですから。私は私で人は人です。別に逃げも隠れもせず、安易に人を疑うなと申し上げているのです」。

    「…」。「無実なのになぜ自尊心を壊されなければなりません?過ちの責任も取らない人間が人を疑うなといいたいが、あなたに自信があるなら、私のいう責任を取ればいいだけで、自信がないなら私を信じる。万引きは犯罪でしょう?私は犯罪なんかしていません」。というシュミレーションである。「協力」などと都合のいい論理を持ち出すが、こちらは「心外」を突き付ける。

    「協力」などと由々しき言葉に騙されず、権利と義務を明確にする。さて、店長がどうするかは分からない。おそらく放免するであろう。自分の言葉は半ば冗談であるが、その程度の意思と責任をもって人を疑うほどの人間なのかどうか。もし相手側が、「ではあなたが万引きをしていたらどうします?」と言えば、「腹を切って詫びる」でいい。それが真実の強さである。

    自分の確たる信念は突きつければいいし、それでこそ疑う側と、疑われる側が対等となれる。なにびとたりとも、一方的に疑われて損害を受けるいわれはない。人を疑う立証責任は疑う側にあり、それを明確にしない相手に従う義務はない。三浦九段の問題においても、基本は疑う側が証拠を突き付けるべきである。何を言われても、「自分は無実、やっていない」が正しい。

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    スマホを提出してまで疑いを晴らす必要性はないし、それが手っ取り早い手段であっても、「人を疑う以上、確たる証拠を出せ」が正論なのだ。「週刊文春」の見出しに、『三浦弘行九段はやっぱりスマホ提出を拒否していた』というのがあった。読者への明らかな印象操作であり、「スマホ提出拒否をしたのは、あきらかに三浦九段はクロである」という世論喚起を狙っている。

    低俗週刊誌のこうしたキャッチコピーに怯むことも翻弄されることもない。全国誌に晒されようと明らかに情報の意図的操作と無視するべし。理知で現実的思考すれば提出拒否=容疑隠しとは言い切れないからだ。スマホカンニングを疑われ、「だったらスマホを調べてくれよ」という人もいる。が、そういう人間ばかりではないし、自分は絶対に相手の身勝手な言い分を通させない。

    自ら率先して、「スマホを調べて欲しい」などは絶対に言わない。それが無実の人間の強さではないか?よって、「見せろ」と言われても、「冗談じゃない」と拒否するし、すべきである。連盟から提出要求はなかったと三浦九段は述べているが、連盟は顧問弁護士に、「相手が自主的に出すならともかく、要求してはならない」と言われているハズだ。捜査権もない側がやると人権問題になる。

    疑う側が証拠を出せばいいし、「スマホを見せろ」は越権行為。「やってない」という事実が神聖にして侵されるべくものではなく、スマホを提出してまで疑いを晴らす必要性は被疑者側にない。誰もが人を容疑者に陥れることはできるが、無実の者にとっては侮辱である。三浦の挙動に疑義があるとはいえ、それが離席であれ、誰が無用な離席と定義できるのか?

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    捜査権を持つ警察の刑事事件性の捜査協力はやぶさかでないが、捜査と調査の線引きは明確に区別されるべきであろう。三浦にはそうした社会的知識がなかった。諸外国ならそうした社会的弱者庇護のために、すぐに弁護士がつく。日本の刑事事件は、容疑者をしょっ引いて、缶詰にしてあれこれ尋問し、泥を吐かせるやり方であり、これは人権無視も甚だしい。

    低俗週刊誌もスマホを見せない三浦をクロと煽る。今回は文春の記者が渡辺からのリークで記事を書いており、一切が渡辺寄りになっていることも問題だ。三浦九段は真面目で誠実な人間であり、それ以上に純粋で無知であり、気弱であり、村社会の一員との認識もある。それらを加味して思考したが、こういう場合は真実より、疑義を人は怖れるのだろう。

    真実が揺らぐことはないが、周囲から責められることでの孤立は辛く、強い気持ちがくじかれやすくなる。真実という強い味方はあっても、物言わぬ真実だけを拠り所とするのは辛い。村の掟の中で孤立状態の三浦が、テレビカメラの前で思いを述べたのは、反撃というより支えを求めたと察する。三浦の代理人は法廷闘争を視野に、「個別の問いには答えない」と黙している。

    「自分ならこうした」は、三浦九段には関係ないが、知るべきは、「人を疑うなら、疑う側が根拠を示すべき」である。三浦はなぜそのように突っぱねなかったのか?上記のような理知的対応を取らなかったのか?三浦自身が頭が悪いとするより、朴訥で純粋であったからだろう。上記の行動をとり自分が、"頭がいい"のではなく、こういう対処経験があるからだ。

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    渡辺のように、「プロの勘」、「不自然な離席が多い」、「指し手の一致率が基準を超えている」などが彼の疑惑の根拠というのが、自分から見るとバカなのである。それを真に受けて拙速な処分をした連盟も同様のバカである。このように初動の時点で、相手がバカに思えるなら、勝負は戦わずして勝利したことになる。これが孫子のいう戦の最善である。

    相手の愚行をことごとく論破し、抑えつければいいわけだから、当然に不戦の勝利となる。上記のスーパーの例の如く、渡辺にも連盟にも、こちらが無実であった場合の、責任を確約させ、そこから話をスタートさせればよかった。「真実とは神聖にして侵されない。それを侵そうとするなら、それ相当の責任と覚悟でやるべきでしょう」と、三浦が言えば相手は手も足もでまい。

    「疑念がある棋士と指すつもりはない。タイトルを剥奪されても構わない」との渡辺発言も、事前に確約をとって、文書に明記すなどして三浦が問題の処理を行っていれば、後になって「言った」、「言わない」なども起らない。自らの首をかけて人を疑うという渡辺の心がけは尊重すべきものだ。スーパーの店長とは大違いである。疑念を持たれた側はキチンと念書をとる。

    そういう自己防衛の元に立ち向かえば、傷つくことはなかろう。三浦九段は、「瓜田に履を納れず」であったという非難は、オカド違いも甚だしい。疑いに屈する気弱な人間はそうすればいいが、自分の持ち時間内にどこで何をしようが、規則の範囲を逸脱してはいず、自分の持ち時間が減るというのは、むしろ戦う相手にとっては好ましいことのはずである。

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    スマホカンニングという先入観が、離席を問題にしているだけのことで、対局者がそのように思うのは勝手である。渡辺というバカがでっちあげ、それを連盟のバカな幹部が鵜呑みにしたことで問題になった。三浦が正攻法の対処ができなかったことを、バカ呼ばわりはしたくない。無知であることで人から鬩ぎを受ける人間は世に五万といる。それを思うと無知は悲しい。

    この問題は解決していないが、上記の行動をとることで防止はできたのではないか。バカには知性で対処するしかないということだ。今回のことを機に、棋士は頭がいいと思っていたことが根拠を得ないものとなった。それが事実なら悪いことではないが、棋士は頭がいいという先入観を抱いた背景には、心当たりもある。余興ながらそれらを次回に記してみたい。


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    三浦弘行九段が7日、改めて疑惑を否定する内容の文書を報道各社に寄せた。自身のスマートフォンの調査を解析会社に依頼し、将棋ソフトを使用した形跡がないことが裏付けられたなどと主張する内容で、疑惑を、「単なる憶測に基づく誤った事実」として、出場停止などの処分の撤回を求めている。今の時期に取った三浦九段の行動に正直驚いた。

    同時に、「これはどうだったのか?」という疑問も沸いた。三浦九段の問題を彼自身がどのように行動しようとも(おそらく代理人と協議の上でのことと推察する)、それらは三浦九段の利益に適うという前提であろうが、一般社会で考えた時に、調査は相手(今回の場合は日本将棋連盟)に委ねて結果が出るまでじっと待機すべきもので、これが代理人の戦略なら意外である。

    「金持ち(真実保有者)喧嘩せず」ではないが、三浦九段側はとりあえず連盟の選任した第三者委員会の調査を待つべきである。そうして、委員会の調査結果に疑義があった場合に、改めて異議を申し立てる。別の実例でいうなら、裁判所が調べを行っている最中に、容疑者の代理人が事件の独自調査結果を提示するというのと似ており、これには疑問符がつく。

    「ペンは剣より強い」というが、真実は強く、動かしがたく、怖れる必要はない。三浦は第三者委員会の裁定を待てばいいんだし、自身の調査で潔白を事前に証明した焦りとも受け取れる。自身の調査は第三者委員会の結果がクロと裁定された以後でもでき、効果的にはそちらが高い。なぜなら、委員会が連盟に沿った裁定を下すのでは?との疑念は衆目の一致するところ。

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    にも関わらず、事前に潔白証明は、第三者委員会に対し、間接的に「潔白」を促そうと受け取れ、批判も出るだろう。自身が無実であるなら、すべては善い方向に流れていくわけだから、何を焦ってこのような行動をとるのか分からない。穿った見方をするなら、「本当はクロではなかったのか」さえ感じられる。真実は強いが、真実をより真実らしく見せる行動には嘘が混じる。

    なぜ彼が今の時点で彼が動いたかをイロイロ推測した。分からないから推測し、推測すれども真実は分からない。が、推測しない事に頭は、「ぽっか~ん」で冴えないままである。現代文の教師が口を酸っぱく言った。「とにかく読め、何度も読め、分かったようで、実はその答えは違っている」といったが、深く読み込まないでとにかく、答えを出そうとするものだ。

    「読み込む」という意味が正直分からなかったし、それ以上に何度も読むのが面倒くさいのだ。だから、「文中の、『それら』とは何を指しているか」という設問の、『それら』を安易に見つけようとする。これでは学問の深みに至れない。文中の、「それら」が何を指しているかを解ったところで、何の役に立つのか?これは、学童期の子どもの共通の疑問であろう。

    「子どもに、『こんなこと勉強して何の役に立つの?』と言われた時、『こんなことも出来ないお前は何の役に立つの?と返すのが最強』とかいうのを聞いて、心底アホかと思った。まさか親や教育者が本気にはしないと思うが、こういう一言は容易に知性を殺す」。と、批判した人がいた。「知性を殺す」というより、上記の返答は筋違いであるのは間違いない。

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    勉強(知識)は将来、どんな風に自分に生かされるのかは、その知識を必要とするときに始めて実感する。398円の20%引きという値札を、いくら割り引かれているのか考えないで購入する現役の大学生がいた。「なぜ?」と聞くと、「レジで分かるから」という。「それはそうだが、購入する前にいくら得なのかを頭で考えないのか?得得感みたいなものを…」


    なぜ考えないのだろうか?そんな素朴な疑問であったが、追及して分かったことは、398円の20%引きを、実は計算できなかったというのを知り、「得得感を考えないで買う」そのこと以上に驚いた。この現実は一体何だ?「80円は400円の何パーセントですか?」という百分率って、小学校で習うハズだ。が、いろいろ考えると、そんなことを知らないで何も困らない。

    友人たちと楽しく会話し、素敵な彼氏と熱い恋愛もできる。「百分率もできない女は彼女にできない」とは言わないし、彼女が将来レジ打ちのパートを始めても何にも困らない。自分はそのように考え、自らを納得させた。モー娘やAKBがどんなにバカ女でも多くの人から愛される。現代社会はそれでいい、それでやっていける、すべては機械がやってくれる。

    人間よりも正確に、しかもより速く計算をしてくれる機械。なんという便利な時代であろう。そんな時代に生を受けた人間に、「そんなこともできないんか?」と、咎める方がどうかしてる。と、さらなる納得を強めた。これが現代人と共生する老人のたしなみであろう。「398円の20%引き」などの計算どころではない、社会の到来はもう目の真ん前に来ている。

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    囲碁・将棋などの複雑なゲームの計算までしてくれる時代。それが今回の、「棋士がソフトで次の一手をカンニングしている」という問題だ。オフィスがOA化の時代になった時、工場が産業ロボットを使いだしたころ、人は不要になると言われた。一家に子ども4人、5人の時代から、少子化に移行したことで、企業の人員不要はさほど問題ではない。

    産業構造と社会のバランスが取れているのかもしれない。動物界の弱肉強食の実態が自然淘汰の原則にマッチしているのと、どこか似ている。アレはアレで、コレはコレでいいのかもしれない。将来は囲碁・将棋棋士もコンピュータと遜色なく対戦できる、強い棋士だけ以外は不要になるかもしれない。ソフトを使ったと文句をを言い出す最高位のタイトル保持者。

    ソフトは使用禁止という問題以前に、棋界最強がソフトに慄く時代という図式である。気が変わった。書いていて気が変わってしまった。最初は三浦九段のソフト使用潔白問題について、彼の新たな、「処分撤回声明文」について所感を述べるつもりだったが、止めた。気が変わったのは、398円の20%引きが出来なくても困らない時代を肯定したようにである。

    我々はこんにちよりも、もっと機械と人間の対局を切望するようになるのではないか?これも新しい時代の将棋の楽しみ方である。人間対人間も魅力だが、力の衰えた棋士の棋譜はほとんど見ないが、彼らは将棋連盟から食い扶持を得ている。が、人が人を気に食わないから、相性が悪いからと蹴落とすなどの愚行見聞きするのもうんざりだ。機械は人を選ばない。

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    遅刻しない。欠勤もない。就労時間に文句も言わず、失敗を咎められて立腹しない。もっとも機械の失敗は人間の入力ミス。徒党も組まないから労働組合を作って団体交渉もしない。まさに機械はいいとこずくめである。人間である以上、人間の集団である以上、さまざま問題や軋轢はあるだろう。が、事の善悪は厳しく問われなければならない。それが人間の決めたルール。

    ルール以外にもモラルという問題もある。森雞二九段(70)がA級に昇級したその年、名人挑戦者になった。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの彼は、若気の至りもあってか、口も達者で放言も半端でなかった。「(将棋)の弱い奴でも食えてるってのがおかしい。将棋界はぬるま湯で、甘い。敗者には一銭もやらなくていい」と発言し、古豪先輩棋士たちから顰蹙を買った。

    あのとき森九段は、心から反省しなかったろう。発言は心の吐露であって、言葉は訂正しても心は変わらない。こんにち彼の成績は、2014年度、26戦5勝21敗(勝率 0.192)、2015年度、23戦4勝19敗(勝率 0.174)である。先の発言は、1976年度、51戦38勝13敗(勝率0.745)当時である。「騏も老いては駑馬に劣る」。「騏」とは、一日千里も走るすばらしい馬である。

    「駑馬」とは、足ののろい駄馬。転じて、平凡な馬・愚かな馬のことをいう。勝率2割を切ったかつての騏も、今は連盟互助会の一員として食い扶持を得ているありさまだ。現状に感謝をしつつ、かつての驕った発言も反省しているだろうし、古豪諸先輩から叱責された意味も理解を得ているはずだ。何手も先を読む棋士も、我が人生の先は読めないもののようだ。



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  • 11/08/16--16:46: 題が浮かばん
  • いつもながらのムダ話をしよう。ある女性の悩みについてである。それについて自分とのやりとりについて喋ろう。文章で喋るといえば書く、聞く側は読む。書けば喋り、読めば聞くとの言い方は、便宜的だがそういうものだ。公然と知らない人の話をするのはムダ話である。ムダ話を漢字で書くなら、無駄話より閑話がよいだろう。「閑話休題」というように。

    こういう相談である。「友達がカラオケとか飲みにとか、いつも私を誘うんだけど、断るとすごく不機嫌になるので断れません。休日まで拘束してくるので、一度用事があると断ったら、どんな用事かしつこく聞かれ、嘘はつけないし、どうしたらいいでしょうか?」。ややこしい女性関係はいろいろ聞いた。断ると、「もういい!」などと露骨に態度に出す。

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    あるいは、無視したようにしばらく口をきかなかったり、わざとそういう態度で相手にプレッシャーを与えるなど、性悪女というしかない。よくもまあ、そういう相手と友達を続けられるものかと、そのことが凄い。断るなどは簡単だが、「No!」がいえない、いいづらいという人の深層は、嫌われるのが怖いわけで、そこの問題を人に聞いてどうするんだろう。

    男的にいえば、こういう相手は速攻縁を切る。縁を切りたくないなら、従うしかあるまい。よって、「その人と縁を切るかどうか」、「切ってもいいのかダメなのか」、その辺りを聞かないことには無用なアドバイスとなる。それより、なぜこういう性格なのかという疑問である。幼少から親のロボットで、目立った反抗期もなく、己の意思を殺していたのか?

    自らの可能性を犠牲にし、他人(親)の人生を生きてきたと言い替えられる。生きることが、他人の期待に応えることになった人の悲劇とは、いつも他人に怯えていること。相談者をA子とし、A子の友人をB子とすれば、A子はいつもB子に振り回され、あげく怯えていることになる。それでも関係を続けたいのは、現実が変わるのが怖いのか、変えられないのか?

    自:「あなたは人の期待に応える自分が好きなんですか?」

    A:「よくわかりませんが、断って不機嫌な相手を見るのが嫌かもしれません」

    自:「でしょうね。相手におもねる自分しかないように感じます?」

    A:「相手におもねる、自分…」

    自:「自分の意思で判断し、自分の意思をハッキリ伝えるより、顔色を窺う…」

    A:「だと思います」

    自:「それって苦痛ではありません?」

    A:「苦痛というより、ずっとそうして来て、そういうものだと思っているのかも」

    自:「でも、時たま辛いこともあるんですね」

    A:「はい。人とのことは、そういう風に悩むものだと思っています」

    自:「なるほど。そういうものだと思っているか。そうではないんだけどね」

    A:「それ以外の人間関係は頭にないです。考えたこともありません」

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    「ハっ」とさせられる言葉だった。これまで相手が普通だと思ってきた生き方を、今この時点で否定することも、否定されても、訳が分からないのではないか?ようするに、幼児期からの習慣が内面化されてしまっている人に、別の価値観が理解できるのか?20年間アメリカで暮らした人が、いきなり日本に住む。あるいは、その逆と同じくらいの違和感があろう。

    聖書を捨ててコーランを持ちなさい。コーランを捨てて教行信証を読みなさいというようなものかと。他人の悩み、苦しみに同化することの難しさを実感する。親に反抗して生きてきた自分と、親に従って生きてきた人とは、まるで生き方の根底が違うのだから、話が噛み合うハズがない。「人の誘いに断れない」どうしたらいい?というのは単に表層である。

    根本を解決しない限り、「断るのが正しい。そうするとストレスや苦悩が解決される」と口でいくら言っても、それを実行するためには、かつての自分を捨てるくらいの勇気とパワーがいるだろう。自己変革の難しさはそこにある。まずは、過去に遡って原因を知る。それを確実なものと信じる。そのことの善悪を問う。それから自分を変える行動を起こす。これは自我との格闘である。

    そういうプロセスがないと、かつての自分に寄り添って生きるしかなくなる。自己変革の基本は自己否定であろう。これに類する書や映画は多くある。中でも、『グッドウィル・ハンティング』が印象的だった。この映画のレビューを書いたときに、真面目な中高校生風のゲストから、「稀に見るゲスなレビュー」と指摘されたのを思い出す。まあ、仕方あるまい。


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    彼は自身の都合で読み、自分は自分の都合でアレコレ書いた。読み手が書き手の意思や事情を理解しない限り、批判は当然に起こる。ピカソやキューブリックの芸術が分からないのもそういうこと。あれほどの天才の資質や意図に同化することは凡人には無理であろう。それを思えば、自分の駄文に同化は簡単だが、それをしないのも自由であり、批判を恐る理由はない。

    『グッド・ウィル・ハンティング』は秀逸な作品である。「旅立ち」という副題があるように、まさに人間の新たな旅立ちである。脚本は今を時めく大俳優のマット・デイモン、ベン・アフレックの共作だが、いずれも当時は無名だった。脚本の評価は高く「アカデミー脚本賞」に輝いた。アルバイト清掃員のウィル・ハンティングが、数学の天才だったという奇異な設定だ。

    が、それは物語の本質ではない。ショーンという心理学者によって、ウィルは自己変革に至る。毎日連れ添っていた心の友(いわゆる悪友)と、袂を分かち、新たな世界に向けて旅立っていくウィル。最高の友人として彼を認め、お前は自分たちなんかとつるんでいてはダメだと言い続けていたチャッキーは、自分たちの前から消えたウィルに心からエールを贈った。

    真の友人とは、場合によっては相手を突き放すこと。ここのところが胸を打つ。真の親は子を突き放す。自分の都合で依存するのではなく、相手の心を尊重して依存を解く。自ら離れようとする。これが真の愛情と考える。自分は子どもを持った時から、「与える愛情」と同等の、「与えない愛情」を考えていた。与えない愛情というのは、与えたい側には苦しいもの。

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    その苦しみの中に真実があると考えていた。真実は自分の好都合の中にはないということ。生きてる以上は様々な苦しみや悲しみがある。がしかし、その中に自分が生きる意味の真実が隠されていると思う事だ。それに耐え、乗り越えること、即ちそれも真実であろう。苦しみから逃れ、死に至るものは、そこを考えない、考えることも及ばないのだろう。

    それを教えるのが教育ではないのか?親も教師も、そして自分のようなそこいらのおっさんも、そういう事を考えている人は、臆面なく発すればいい。それを恥さらしと嘲笑する人はいようと、そんなことは問題ではない。そんなマヌケ人間に屈する方が怒マヌケである。自分にはそれなりの情熱があるのが分かっているので、何を偉そうにという批判は百も承知。

    少年、少女が苦しさのあまり、自殺を企てたとして、その自殺を留めさせる彼らの苦しみを共有できる、そんな親や教師や、そしてそこいらのおっさんが多くなればと考える。そのことで何を考え、何を書いたところで、一日24時間のいかばかりかである。それくらいの時間はどうでも捻出できる。「なぜこんなことで人は苦しむのか」の原因は、遠くの彼方にあると考えている。

    今の苦しみを解決するのは、「今」でしかないが、もっと遡ったところに核心がある。誰も親になれるし、そうして親になった時に、子どもの10年後、20年後を予測する。「今」は未来への懸け橋と言われるが、「今」は地獄の未来の切符を作ることも可能だ。子どもの未来について、上のどちらも親は選ぶことができる。もはや学歴などに振り回される時代ではない。

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    慶応や東大に入学するのは決して悪いことではないが、つまらん人間が行ってはダメだろう。いい大学に入れば、良かれし人間になるのではなく、かつてのように、一部の良かれし人間がそれに見合った学歴を得る方が、社会の為でもある。また、良かれし人間は、学歴に依存せず、社会のどのような場にあっても、善く生きているから、ない物ねだりは必要ない。

    学歴社会について徹底的に考えたことがある。電通のような超優良企業は、有名大卒の管理しやすい無個性エリートを入社させ、会社の命を忠実に守らせようという魂胆丸出しに彼らをコキ使う。「お前ら、こんなイイ会社入れてやってるんだぞ。文句を言わずに黙々と働かんか!」などと、人間扱いしない。残業を誤魔化し、法順守もへったくれもないとんでも有名企業。

    ブルーカラーの仕事はキツく、エリートは楽をできるってのは上辺だけ。今や前者がほどほどに楽しく生活し、後者のエリートたちが窮している時代である。ホワイトカラーとブルーカラーの給与差の変遷を眺めると面白い。大正五年のデータでみると、大卒初任給が50円、ブルーカラーの平均給与か23.5円だが、確かに年齢とともに差は開いていく。

    即ち、日本社会は経済的格差が学歴という能力によって決められているというが、そのレースに参加できる者は限られていた。親の学歴や職業、資産などから受け継いだ能力差という生まれながらの体裁を格差として受け取り、受け継いだ者が、選抜システムのなかで、それをロンダリング(浄化)し、さも実力差であるふりをする。それが学歴社会である。

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    1991年8月にあった「電通事件」は、入社2年目の24歳男性社員が自宅で自殺した。電通では、「月別上限残業時間」(60~80時間)が設けられていたが、実質は名ばかり。遺族は会社に損害賠償請求を起こし、2000年に同社が1億6800万円の賠償金を支払うことで結審した。奇しくも25年後、同社で入社9ヶ月の女性社員が過労自殺した。世間は「電通事件再び」と非難をする。


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  • 11/09/16--17:27: トランプマジック
  • 子どもが小学生の頃、トランプマジックや様々な手品をやって見せたのが懐かしい。絶対に種は明かさなかったし、手品は種を明かせばバカの骨頂だ。インチキのおかげで、「お父さんは凄い!」という肩書も得ることになったが、子ども騙しで得た肩書は長くは続かない。もっとも人気のあった手品は、皮をむいてない綺麗なバナナを念力をかけるとあら不思議…

    子どもに皮を剝かせると、念力をかけた二か所が切れているという技。これは大人でも驚くマジックだから、何人かにやって見せた。当たり前だが、大人はそんな念力などだれも信じない。信じないが念力をかけるとバナナの中身が切れている現実を見る。誰も念力で切ったとは思わないが、その現実を否定することもできず、受け入れるしかない。

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    こういう心理状態を、「悔しい」という。子どもは「悔しい」などとは思わない。念力を信じているかどうか分からないが、そうでなければ絶対にあり得ないことだし、どういう心理状態か分からない。ならば、自分が子どものときに見たさまざまな手品を見たが、その時にどう思った?手品師は凄いと思った。理由は「凄いことができるから」である。

    種があるんだろうと思いながらも、「種も仕掛けもありませんよ」という手品師の言葉をつい鵜呑みにしてしまう。なんという純真さ、純情さであろうか。純真というのはこの世の何よりも美しく、まさに子どもは天使である。情緒的な見方でいうならそういう感動もやぶさかでないが、科学的見地でいえば、幼年期は生物学的に条件づけられた時期に過ぎない。

    人間に特化すれば、「性格の構造や人格形成のうえで、とりわけ重要な時期であるというのがこんにちの知見である。幼年期の想像力のエコロジーである。エコロジーは、狭義には生物学の一分野としての生態学のことを指すが、広義には生態 学的な知見を反映しようとする文化的・社会的・経済的な思想や活動の一部または全部を指す言葉として使われる。

    我々は「大人はそうでなければならない」と、どこかで教え込まれているはずだ。中でも身近な大人の影響を受けよう、それが親である。親の教える「大人像」になろうと動物が、懸命に親を見、親を真似るように、人間も親を見、親を真似る。が、動物と違って人間には知性がある。親を正しいとし、疑わない動物に比べ、人間はその点が違っている。

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    草原のライオンが親を真似て狩りを覚えるのは、生きるためであり、動物にとって生きること即ち本能である。数度の狩りに失敗し、挫折し、自らの命を絶つライオンはいないが、なぜ人間は生きるを本能としないのか?する人もいるが、これほど多くの人間が、生を止めて死を選ぶのは、生きることがあくなき本能欲求でないからであろう。ならば人間の「生」の目的は?

    これが哲学的命題であるほどに、複雑怪奇である。動物の「生」の目的は、「生きて子孫を残すため」と極めて単純である。だから動物であり、複雑怪奇であるゆえに人間である。よって、人間は親の望む、あるいは押し付ける「大人像」を素直に受け入れることをしない。親子とは言え、子と親は別の個体故、親の考えに背くのは当たり前のことだ。

    背かぬ子を「いい子」、背く子は「悪い子」と親は子に教える。自分もそういう事ばかり聞かされた。「親に逆らう子が本当のいい子」などと親がいうはずがない。が、自分はあえてそれを言ってみた。なぜなら、親にとって都合のいい子は、親の為であっても、子どもの為とは思わなかった。「親のいう事をハイハイ聞いてるようではダメだ」という言い方をした。

    ペットは飼い主の言いなりになるよう躾けられるが、人間の子どもに飼い主はいない。親は飼い主ではなく、きもちいいことをした結果に、授かった子どもの法的養育者である。だから、「誰に育ててもらったと思ってる」など恫喝する親はバカであり、卑怯者である。口には出さずとも、「親には感謝をして欲しい」とこに要求する親も、自分に言わせればバカである。

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    「バカ」は手っ取り早い言葉を使ったまでで、「傲慢」とか「無知」とか「勝手」とか、「思い上がり」などの言葉が馳せられるが、自身でこういう親は、「バカ」と思っていた。実際に、子どもは、"成長"する生き物として、楽しげに自らを実現しようと努めるものだ。そこに製造者の傲慢が反映されると、少なからず問題が起こる。問題の起こらぬ親子もあるのではという異論。

    もちろん少なくない。おそらくそういう親子は、緊張感のない、どっぷりぬるま湯につかった親子、あるいは、どちらかが眠っている親子で、世代的にも対立して当然のハズだ。人はその時代にしか生きられないという論理からすれば、少なくとも親子には30年近い世代格差があるはずだ。対立がない親子はどちらが嘘をついている欺瞞親子と自分はみる。

    あらゆる生物は成長するが、成長こそが生物と無生物の違いである。職人によって作られた椅子は成長しない。軋み、傷むのは成長というより劣化である。また、人間以外の知覚をもった生物では、成長がある程度の発達段階で止まってしまう。人間だけが、ほとんど例外なく、生において、行動的にも、精神的にも、成長することができるのだ。

    精神的とは宗教的な意味ではない。それは、人と、その人を取り囲む世界に対する、その人の心構えを作りあげることで、成熟ともいう、その糧として宗教に頼る人はいようし、外界のあらゆるものが精神的成長に寄与する。人を愛したいも成長であり、好奇心、詮索好き、知的欲、性的欲、学習欲、想像力、創造性、ユーモア、歓び、遊興心、誠実、思いやり…

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    どれもこれも成長がもたらす人間の情念だ。それらを妨げる親であってはならないし、助長はいいにしても、親自身の偏見的価値観と、子どもの抱く価値観に差異が出た時、親はどうすべきかを、親自身が問うべきである。問わない親なら、子どもは反発すべきである。文化的に踏襲されるものもあるが、どうしても自分に向かないと思うなら仕方なかろう。

    池畑慎之介は上方舞吉村流四世家元で、人間国宝吉村雄輝の長男として生を受けた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれたが、5歳の時に両親が離婚、「好きな方を選べ」と言われ、舞の稽古で鬼のように怖い父を捨て、母の池畑清子との暮らしを選択、小学2年の時に祖父・祖母のいる鹿児島市で少年時代を過ごし、後にピーターと称す。

    これは奇異な例であるが、自らの意思で親の跡を継がなかった例は多い。自分も両親の経営する商売の跡を継がなかった。父は「継げ」なる言葉を一度も発しなかったが、母は朝から晩までそのことばかり口にした。どちらの方が継いで欲しかったかは、口に出さぬ父であったのは分かっていた。こういう話がある。先祖代々の菓子製造に従事している父親がいた。

    父は息子が暖簾を受け継いでくれるものと思い、息子も幼少から父の仕事に興味を持っていた。ところが、息子は大学受験に際し、法学部に進んで官僚になると言い出した。「そんな馬鹿な!」と、父親は大反対したが、結局息子に同意してしまった。息子の言葉が印象にある。「父は先祖代々の名誉ある仕事と口では偉そうに言いながらも、内実は違った。

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    税金が高い、原料が高騰した、これは政治が悪い、などと愚痴が多かった。それは真から自身の仕事に誇りを持っていないからでは?」と、息子は父をやり込めた。父親は唖然としたが、そういう言葉を吐いていたのは事実である。吐いた唾は飲み込むしかないし、息子の変節の責任は自身にあることを悟るしかなかった。斯くの事例は社会的に「父親殺し」と言う。

    子どもの成長に伴う象徴的な、「親殺し」は必要なことだが、「それがいかになされたか」によって、大きな「差」となって現れる。息子を諦めた父親は、姉に婿養子を迎える算段を息子に言い渡す。息子は法学部に入学して勉強を続けたが、法律の勉強は思うほどに面白くなく、自分に向いていないと思い始めたが、今さら家業を継ぎたいとも言えずに思い悩む。

    こういう問題には事前の正解はなく、客観的に見て、「何が良くて」、「何が問題か」という問題ではない。結果の前に物事は起こるわけで、結果を見て論じても意味はない。双方ともが下した決断を「了」とするしかすべはない。本日の表題は「トランプマジック」。アメリカ大統領のドナルド・トランプについて書こうとしたが、またしても表題と中身が一致しない。

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    頭の中がまとまっていないというよりまとめない。何事も「自然」の成り行きに抗わない自分を好む。トランプ勝利の要因はメディアが論じるし、ど素人が知ったかぶりをすることもない。が、ふとトランプのこわもて、暴言ばかりを目に耳にした人は、自分も含めて多かったろう。アメリカ在住の野沢直子が日本のテレビに出演し、「アメリカ人はバカ」と言った。

    「トランプが大統領になったら国は終わり。ブラジルに引っ越します」とまでいったが、その理由が、「髪形が嫌い、生理的に受け付けない」だそうだ。野沢がいうなら何でも許そう。が、「トランプが勝利の要因は髪型だ!」というユニークな分析がオモシロイ。人気テレビ番組に出演し、髪型をからかわれたり、くしゃくしゃにされたり、それでもニコニコ笑顔のトランプ氏である。

    彼の広いキャパをアメリカ国民は見たろうし、自分も、こわもてトランプのこれまでにない別の一面を見た。司会は、「ヒラリーに勝利して大統領になったら、こんなふしだらなお願いはできないので、是非とも最後の願いを」と前置きし、「あなたの髪をくしゃくしゃにしていいか?」。トランプは、「答えはイエスだ!」と笑顔で快諾。なんともユーモアが絶やさないお国である。



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    女性初の大統領は幻に終わった。アメリカ人のほとんどが、日本人の多くが、世界の大多数が、ヒラリー・クリントン大統領を予感していた。故に、アメリカ人も日本人も世界の国の多くの人間も、トランプ勝利に驚いた。事前に州毎の選挙人獲得予想を明らかにしたアメリカの主要メディアは10社以上あったが、殆どがヒラリー氏の勝利を予想していた。

    過去の大統領選で驚異的な的中率が注目された、「ファイブサーティエイト」のネイト・シルバー氏の予想が外れると、誰が考えただろう。ネイト氏は、現職のオバマ大統領がロムニー候補に勝利した2012年の前回大統領選では全選挙区の勝者を的中させ、その前の、オバマvsマケインの2008年大統領選でも、1州を除き勝者を的中させたことで注目を浴びた。

    その後彼が開設したWebメディア、「ファイブサーティエイト」の名前は、まさにその大統領選の選挙人の総数「538人」に因んだもの。そのファイブサーティエイトの最終予測では、70人近い差でヒラリー氏が勝利するとしていた。そして、同サイトが開票前最後に公開した、「ヒラリー氏が勝利する確率」は実に71.4%に達した。対するトランプ氏は28.6%に過ぎなかった。  

    まさにアメリカ国内も世界も驚きの声を上げた。喜んだ人も、ほくそ笑んだ人も多いだろうが、アメリカに喧嘩を売ったフィリピンのドゥテルテ大統領は9日、訪問先のマレーシアで、米大統領選に勝利した共和党のドナルド・トランプ氏を祝福し、米国との喧嘩をやめる意向を示した。理由は、「我々2人は、些細な問題でも汚い言葉を使う似たもの同士さ」だという。

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    ヒラリーが当選すれば女性初の大統領として歴史が生まれた。オバマも初の黒人大統領という歴史を作った。トランプも米国史上初の公職経験のない大統領となり、これも歴史的快挙であろう。彼は経済人だから、決められた予算を上手く執行するのは、むしろ政治家よりも適任かもしれないが、とかく暴言の目立つトランプ大統領で、アメリカはどうなるのか?

    先行きの懸念や予想は専門家に委ねるとして、今回生まれたかもしれない、生まれなかった初の女性大統領。女性が大統領候補になる時代というのも、黒人大統領と同じくらいに凄い時代である。日本も女性が総理大臣に立候補する時代はくるのだろうか?これまで総理候補と言われた女性政治家は何人かいたが、ただの候補と立候補するとでは大違い。

    総理候補と言われた女性は、田中真紀子、野田聖子、稲田朋美、蓮舫などが浮かぶ。小池百合子も名が挙がったこともあるが、今や彼女も首都の初女性知事として歴史を作った。この人たちはなぜ、総理候補といわれたのか?田中真紀子は父のこともあって、国民的人気が高かったからでもあろうが、外相に就任するやトラブルの連続で9か月で更迭された。

    また、02年には秘書給与問題のスキャンダルが発覚し、説明・弁明ができず、議員辞職に追い込まれた。翌年の衆院選で復帰(無所属)したものの、院内会派「民主党・無所属クラブ」に加入し、返報感情が収まらぬ自民党に対して、厳しい批判を繰り返すようになり、ついには夫の直紀と連れだって民主党に入党するも、2012年第46回衆議院議員総選挙で落選。

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    野田聖子が総理候補の理由はワカランが、目先を変えて人気取りを目論む自民党が、「初の女性…」と、ちょっとばかりの美人を仕立てれば、ちやほやするアホな民も増えようとのAKB作戦的思惑か?稲田朋美は弁護士ということで、その論客ぶりが言われている。まだまだ当選4回の新参政治家であり、もっと経験を積み、重要閣僚ポストを積んだ暁にどうなっているか?

    蓮舫はどうか?東京都知事に立候補しなかった理由は、総理になりたいからとの声も聞くが、民主党にいる限り総理はない。自民党に戻ればさらになくなろうし、どちらにしてもない。小池百合子は、いつまで都知事をやるかは未定だが、その後に国政には戻らないだろう。総理になりたいがために橋下人気にあやかった石原慎太郎は、晩節を汚してしまった。

    長いこと女性は政治に向かないとされていた。その理由として、女性だけの社会を作り、男性を虐げたアマゾネスの結末がそれを示している、という内容の本を読んだことがある。フェミニズム運動を支持しない女性は多く、一部に尖った女性もいるにはいるが、女性の本質はその性器の構造からみてもパッシブであり、男に依存を良しとする女性は少なくない。

    舛添要一はこのように述べている。「女は政治に向かない。生理のときは異常で、そんなときに国政の重要な決定、戦争をやるかどうかなんてことを判断されてはたまらない」。「自分は男であるが、明らかに政治に向いてなかった」と言うなら彼もバカではないが、男でも女でも、向く人は向く、向かない人は向かない。ハゲる男もハゲない男もいるように…

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    女性であろうが、男性であろうが、目指すものが政治家であれ、トラックの運転手であれ、「自分の生き方を自分の責任で決める」のは、職業に限らずとも大切な要素である。近年、職業選択に性別はない。看護婦は看護士となり女性の聖域ではなくなったし、女医も珍しくない。日本初の女医といえば、荻野吟子(1851年4月4日- 1913年6月23日)である。

    彼女が女医になろうとした動機が素晴らしい。1870年(明治3年)、遊び人の夫から淋病をうつされたことで吟子は離婚した。上京して順天堂医院に入院、婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、医師となって同じ羞恥に苦しむ女性を救いたいとの決意から女医を志した。

    いかにも時代が生んだ職業動機である。こんにち男性婦人科医が嫌だという女性は少ない。それでも女医に越したことはないと、それが女性である。医師になる決心をした吟子は、埼玉・熊谷から上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀に師事するが、頼圀より後妻に望まれる。東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学したのは24歳だった。

    首席で卒業後、軍医監で子爵の石黒忠悳を介して、典薬寮出身で侍医の高階経徳が経営する下谷練塀町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。吟子は、男子学生からの好奇な目線やいじめに耐え、3年間で優秀な成績で修了するも、国内に女医の前例がないことから、東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。

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    埼玉県にも提出したが同じ結果だった。私立医学校卒業から二年後の1884年(明治17年)9月、ようやく医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験したが、吟子1人のみ合格であった。翌年3月、後期試験を受験し合格。同年5月、文京区湯島に診療所、「産婦人科荻野医院」を開業する。34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して15年が経過していた。

    吟子はキリスト教に入信、1890年(明治23年)11月25日、39歳時に13歳年下の同志社の学生だった新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善と周囲の反対を押し切り再婚する。新島襄の妻は、NHK大河ドラマ『八重の桜』でおなじみ、新島八重である。医術試験の願書を受け付けてもらえない吟子は、産婆になるしかないと諦めかけたこともあった。

    が、吟子のひたむきな姿に感動し、彼女を応援する人たちも現れ、遂に念願の医術開業試験を受けられるという告示が出されたのだった。当時の試験科目は、物理、化学、解剖、生理、病理、内外科、薬学の7科目に合格する必要があったが、前期、後期の試験に一回で合格した頑張り屋であった。伝道師である夫のために財をなげ打ち開拓者ろして北海道に渡る。

    共に寒さと戦いながら二人で力を合わせて伝道と医療に励んだ末に、やっと軌道に乗り、これからという時に、夫の志方は病気になって42歳でこの世を去ってしまう。吟子は一人で3年間ほど北海道で暮らしたが、58歳になって彼女は東京に帰ってくる。本所に荻野医院を開き、近所の人たちのために尽力するも、吟子は1913年(大正2年)、63歳で天に召される。

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    40歳の吟子は、14歳年下のキリスト教伝道師である青年と周囲の大反対を押し切って再婚したが、直後に夫の之善は、キリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意を吟子に告げる。北海道の密林と原野を開拓して理想郷を創造するというこの仕事は、実際には困難を極めた。その後も、紆余曲折を経て、結果的に之善の試みは挫折に終る。

    夫が渡道した5年後、吟子は北海道に渡るが、すぐに医院は開業はせず、一年後に海辺の瀬棚の会津町で診療所を開業する。現在、開業の地に、「荻野吟子開業の地碑」が建立されている。若き理想を抱く夫に従い、支え続けた吟子の人生は、現世の栄達を顧みることもなく、決して成功とはいえないが、彼女の献身と奉仕の生涯を知る人の心に深く刻まれている。


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    荻野吟子が医師を目指す動機となったのは、「羞恥」と「屈辱」であった。医師は口腔や耳の穴、鼻の穴を器官として診察するが、女性のとって産道を男性に診察されるのは耐え難い羞恥であろう。「女医がいれば女性の悩みも消える、私が女医になろう」などと、、今の時代には考えられない動機である。なぜ、本人の意思より親は子を医師にしたがるのか?

    塾や予備校で偏差値が高い学生に、塾側が医学部受験を勧めるのは、本人のためより、むしろ塾の功績との要素が強い。職業選択をみて思うに、「生」の価値基準がまったく変わってしまった。かつて、「医は仁術」、今や、「医は算術」である。三人の息子を東大医学部に入れたという母親の子どもらに、「どういう理由で医学部に?」と聞いたら、「母が勧めるので」というしかない。

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    ならば、母親は何と答える?「お金儲かるでしょ?」、「社会的地位が高いでしょ?」というホンネでなく、「社会のため」と言えば、立派な行為と評価を得る。学歴が就職のための時代にあって、金で学歴を買う。ある大学教授が今の学生を、「今の若い人はなんだか不幸。結局、先の見えないところを、一度も通ったことがないからだと思う」。と言っていたが、誰だって先は見えない。

    見えないことを不幸などと思ったことはない。先が見えないということは、どうなるか分からないという事だから、「やってみよう」となる。そういう気持ちが新鮮なのに、「失敗するのでは?」などと慄いているなどあり得なかった。上手く行こうが、行くまいが、やることが楽しいのだ。今の若者が不幸だというのは、失敗を怖れるあまり、「やる事」を躊躇うのではないか?

    「失敗することより、失敗を怖れる」という事が問題である。そういう臆病さがどうして培われるかを想像するに、母親が家庭で教育の中心となり、「あれはいけません」、「これは危ないからやめた方がいい」などと、女の保守さ、臆病さが子どもに伝染するのでは、と愚考する。子どもを伸び伸び育てるには、何より親が伸び伸びであるべきだが、近所の子ども会で驚きの体験をした。

    子どもたちが小学生のころ、アスレチックにハイキングに行った時のこと。自分は初めてのアスレチックでもある、設置してある器具を見た途端、子ども心が沸き上がった。親が感動すれば、その様子は黙っていても子どもに伝わり、逆に親がビビッているなら、その様子は子どもが察知する。「ようし、全部トライしよう、それ行け~!」と先陣を切った。

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    自分はいたずらっ子だったせいか、大人になってもいたずらは大好き人間である。アスレチックなんか、いたずら遊びの器具だし、他に何の意味があろう。体力測定具ではあるまいに。娘と同級生の歯科医の息子は、親が何もさせなかった。「何でやらんの?」、「危ないから」と母の意向で父親もバツの悪そうにいう。我が家のハツラツぶりをどう見かたは分からない。

    「いい」と思い、子どもはああでなければ…と思ったらやらせたと思うが、させなかったのは「いい」と思わなかったのだろう。親を見ながらそんな風に考えていた。歯科医の息子がどうであれ知ったことではないが、うろうろな育て方があるものだと納得した。その話はともかく、女性の道を切り拓いた先進的な女性の行動力は、目を見張るものがある。

    女性は夫に仕えて家事をし、子を生み育てるを使命とされた時代に、女性が医師になるというそのこと自体がいばらの道であった。医の分野に限らず、男の聖域に立ち向かった女性の存在は歴史が示している。日本初の公許女医荻野吟子を足掛かりに、日本で初めて女医養成機関を設立するなど、女性医師の教育に生涯を捧げた吉岡彌生という女性もその一人である。

    参政権すらなかった時代の女性は、まだまだ社会的立場が弱い時代であった。女性に参政権が与えられたのは、1925(大正14)年であり、そこに至る明治の終わりから大正の半ばにかけて、 女性参政権を求める声が大きくなっって行った。「女性などに医療を委ねるなどとんでもない。そんなことをされたら国が滅びる」などと、まことしやかに言われた時代である。

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    「女が精神的にも肉体的にも偉大な仕事をするのに適してないことは、その体つきを見ればわかる」と言ったのはショーペンハウエルで、彼はこうも言っている。「背の低い、肩幅のせまい、尻の大きい、足の短い女を、美しいなどと呼ぶことができるのは、ただ性欲でボケている男の知性だけであり、女の美しさというものは、男の性欲の中に潜んでいる」。

    前にもかいたが、母親の彼に対する様々なことが、ショーペンハウエルをこれほど女嫌いにしたようだ。彼が不幸であるのはそういう母親を持ったことではなく、母親以外に女性を見出そうとしなかったことだろう。吉岡彌生という女性も、母から別の意味の啓示を受けている。家から外に出ず、朝から晩まで家事に追われる母の姿が、彼女の心に「澱」をもたらせた。

    13歳で小学校を卒業した彌生は、当時の一般的な女性と同じように裁縫や機織りなどの仕事を始めたものの、そうした日々の暮らしの中で女性のありふれた日常の澱が消えることはなかった。そんな折、彌生は1つの新聞記事に目を奪われる。それは、医術開業試験に2人の女性が合格し、医師として正式に認められたという内容であった。「すごい」と彌生は思った。

    同時に、「これだ」と思ったことが、彼女を行動へと走らせた。彌生の父は漢方医、兄二人は医師を目指して東京で勉学に励んでいた。それらの影響もあって、彌生はこのときはじめて「自分も医師になりたい」という明確な夢を持った。ところが医学校を希望する彌生に父は真向反対したのは、「女性は家を守るべき」という考えに娘が背くことへの強い抵抗感。

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    仕方なく彌生は父に従うが、夢を諦めることができないままに、独学で医学の勉強を始めた。それから二年間、黙々と勉学に励む彌生の意志の強さに負けてか、ついに父は娘の上京を許可。兄の在籍する医学校「済生学舎」に入学することになった。この時代、医者を目指す人々は、「内務省医術開業試験」という国家試験に合格することが条件であった。

    多くの人は大学で勉強して国家試験を目指したが、地方出身者にとって、経済的な理由や学力不足のため、大学に入ること自体が困難だった。1876年(明治9年)、長岡藩出身の長谷川泰は、大学に行かなくても医者になれるルートを確保するために、東京本郷に「済生学舎」を設立した。が、彌生を待ち受けていたのは、独学では未経験な高度な授業であった。

    それだけではない。荻野吟子が体験したと同じような、女子学生に対する、いたずらや嫌がらせ、冷やかしを受ける。男子学生たちの心ない行動のせいで、彌生をはじめとする男子に混じるごく少数の女子学生たちは、満足に勉強することができなかったという。「女のくせに医者になるなんて生意気だ」と、そんな言葉を投げつける男子学生も多く、耐える日々である。

    勉学は苦しいがゆえにやり甲斐はある。21歳の1892年、彌生は医術開業試験の合格を勝ち取り、日本で27番目の女性医師と認められた。荻野吟子に遅れること8年である。それまで小学校でしか教育を受けたことがない彌生が、たった3年の勉強で医師となったことを想像するに、一体どれだけの努力をしたのだろうかと。一心不乱の彼女の姿が思い浮かぶのだった。

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    臨床経験を積んだ彼女は故郷の遠江国城東郡土方村(静岡県掛川市)へ帰り、父が営む病院の分院で開業した。彌生は産科の医師だが、内科、外科、歯科を問わず、あらゆる患者の診察をこなしたといい、病院は大盛況だった。3年後の1895年に再上京し、昼間は開業、夜はドイツ語を教える私塾・東京至誠学院に通学。同年10月、同学院院長の吉岡荒太と結婚する。

    ところが1900年、母校の済生学舎が女性の入学を禁止した。「女子がいることで風紀が乱れる」が理由で、それを知った彌生の中にかつて停滞していた澱が姿を現す。ならば自分が養成機関を作ろうと彌生は、「東京女子医学校(後の東京女子医科大学)」を設立。開校当初の生徒はわずか4人。自宅の一室に粗末な机と椅子を並べただけの質素な学校である。

    夫のと父の助力もあり、学校はどんどんその体をなして行き、生徒の数も増加した。そして1908年、ついに東京女子医学校から医師を誕生させるに至る。ところが、規制の強化と医師法が改正され、「医学専門学校」を卒業しなければ医師になれないどころか、受験も許されなくなった彌生の私学校は、廃校の危機に直面したが、決して彼女は諦めなかった。

    専門学校認可に奔走し、吉岡家の全財産を投げ打って新校舎建築や附属病院開設が行われ、申請から2年半後の1912年、東京女子医学校は、「東京女子医学専門学校」へと昇格を果たす。その後、彌生の夢は専門学校の認可から医科大学への昇格へと変わる。関東大震災による被災や大戦を乗り越え、1952年、ついに「東京女子医科大学」を発足させ、7年間学頭に就く。

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    現在も世界で唯一の女子医科大学を創設した吉岡彌生は、1959年自宅で永遠の眠りにつく。88歳の生涯だった。彌生は生前、東京女子医学校の設立について、「当時低かった婦人の社会的地位を向上せしめようとしたのが動機であります」と振り返ったうえで、次の言葉を残している。「終戦後の困難な時期にもついに初志をまげませんでした。(中略)

    その結果、ついに女子医科大学が認められることになったわけであります」。初志貫徹という言葉に相応しい女性である。時代に抗い、傷付けられながらも、決して折れず、女子の医学教育体制を確立した。「女性でも自立できる、社会で活躍できる」という、幼き日に抱いた想いの貫徹の結果であろう。吉岡彌生の信念の強さと行動力に敬服する。


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    小池百合子都知事を、「日本のジャンヌ・ダルク」と指摘するが、どうだろう?確かに彼女は女性初の東京都知事となった。驚いたのは0.1%の開票で当確のテロップが出た。その時点で小池500票、増田350票、鳥越100票で、これで当確というのは、期日前投票で小池は170万8195票を既に獲っていたし、出口調査においても圧倒的優勢だったこともある。

    小池候補は、自分を裏切った自民党の推薦や支援を全て断り、緑色を旗印に都民の先頭に立ち、東京都政改革の旗手として独り立ち上がって戦ったのは、まさに母国フランス王国軍の先頭に立ち、フランスに侵攻したイングランド王国軍と戦う百年戦争のヒロインで救世主ジャンヌ・ダルクそのものであり、彼女はフランス国王に裏切られても挫けなかった。

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    確かに小池百合子は「日本のジャンヌ・ダルク」といっていい。石原から舛添に連なる悪しき都政ならびに、腐敗した都議会と意を決して戦う気概も伝わってくる。小池新党はこの際、「ジャンヌ・ダルク党」と名付け、腐りきった首都東京をクリーンな街に変えてもらいたい。「日本のジャンヌ・ダルク」といえば、福田英子を忘れてはならない。

    福田英子は、「東洋のジャンヌ・ダルク」ともいわれたが、彼女を知らぬ日本人は多い。史実は多くを語らぬが、ジャンヌも福田も伝説の人ではなく、実在の人物である。福田英子とはどういう女性であった?最近、彼女をテレビで観た。最近といっても、2014年1月18日、25日と2回に渡って放映された、『足尾から来た女』というタイトルのドラマである。


    数々の賞を獲った名作誉れ高い作品で、広島出身の脚本家池端俊策によって史実を元に描かれたオリジナル作品。今秋放送された『夏目漱石の妻』も彼の脚本だ。基本はテレビの人だが、『復讐するは我にあり』(1979年)、『楢山節考』(1983年)、『優駿 ORACIÓN』(1988年)などの映画の脚本もある。三作とも緒形拳が出演するが、ふたりは昵懇であった。

    2008年、緒方の死去に際して、追悼ドキュメンタリー番組、『俳優~脚本家・池端俊策が見つめた緒形拳~』(NHK)が放送された。『足尾から来た女』は、足尾銅山の精製現場から発する鉱毒により、環境汚染で不毛となった栃木県の谷中村で、父とともに家業の畑仕事に打ち込む新田サチ(尾野真千子)が、上京して家政婦として働くという明治39年の設定。

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    サチが家政婦として働くことになった福田英子(鈴木保奈美)宅だが、サチを福田に紹介したのが国会議員で足尾鉱毒事件で名高い田中正造であり、サチの兄は田中に師事していた。政治的なことには無知で文字の読み書きもできないサチは、社会主義活動家として警視庁からマークされていた英子を、警察官僚の日下部から危険人物であることを吹き込まれる。

    英子宅に集う社会主義者を横目に、サチは忙しく働いていたが、日下部に家の様子を密告することを指示されていた。自分の行動に戸惑いを感じる日々のなかでサチは、字を読めないながらも物語や詩に興味を持つようになる。無知で教養もない少女を巧みに利用し、スパイもどき密告を要求する公安との間で葛藤するサチは、次第に英子宅に居づらくなっていく。

    前にも書いたが尾野真千子は好きな女優である。彼女以外に好感を抱く女優は今のところ見当たらない。彼女の魅力を考えてみたが、彼女演じる役柄にはいずれも尾野真千子という自己主張が感じられる。不自然なほどに美形でないところにもリアルさが感じられ、さらには尾野の内に隠し立てできない知性が滲んでいる。デビューのきっかけがユニーク。

    国立奈良女子大学附属中等教育学校の3年生の時、学校の靴箱当番の掃除をする彼女は女性映画監督河瀬直美の目に止まった。「一生懸命掃除に取り組む尾野の姿が印象だった」と河瀬は述べている。「掃除はまじめにやると良い事があるんですね~」と尾野はいうが、それが女優になるきっかけとなった。彼女は中学3年で河瀬監督の映画『萌の朱雀』に主演する。

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    尾野真千子はさておき、福田英子に戻す。福田は慶応元年(1865年)岡山・備前藩士景山確(かげやまかたし)の次女として生まれる。景山英子は当時、女性にとって大切な黒髪を16歳まで耳たぶあたりでバッサリ切り落していたことで、学童らに、「マガイもの」というあだ名で呼ばれていた。行きかう大人たちも短い髪をジロジロ眺めては、侮蔑の表情を露骨に表わした。

    年頃の娘たちはみな一様に、艶やかに結いあげた自身の桃割れや島田の髷に着飾っていたが、英子は一見して男か女か分からない、そんな風情であった。「マガイ」とは「紛い」、つまりニセモノで、それでいて本物に似ているとの意味。つまり、女のくせに男のマネをするアホという嘲笑の意味があった。彼女が短髪だった理由は、単に面倒くさいからである。

    髪を梳かしたり、結ったりする時間があれば本を読みたいという熱心な、別の言い方をすれば、「変わった」少女であった。英子は後年、『妾(わらわ)の半生涯』という自伝を書いているがその中に、「私は八、九歳のときに屋敷内で賢い娘と褒めそやされ、十一、二歳のときには、県令学務委員などの臨席した試験場で、大人相手に講義をした」と記している。

    講義内容は中国の歴史小説『十八史略』や、頼山陽の『日本外史』で、それを今でいう小学5~6年生の少女が、大人に講義するとは畏れ入ったる才媛である。英子自身、「世に私ほど賢い者はあるまいなどと、心秘かに郷党(郷里のなかま)に誇っていた」と書いている。英子の頭の良さを見抜いていた母の楳子は、彼女の陰になり日向になって励まし続けた。

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    もっとも楳子自身は私塾を経営し、明治五年(1872年)に県の命で女子訓練所が出来たときに、教授に任命されるほど秀才で気丈な女性であった。自伝にもあるように英子は自尊心も強く、男っぽい性格であった。英子は月々の生理も22歳までなかったといい、このことは精神的だけでなく、女性として肉体的にも晩生だったようだ。彼女は自伝にこう述べている。

    「普通は15歳前後からあるそうだが私は女らしさ、しおらしい風情など露ほどもなく、男の中にまじって何をしてもちっとも恥ずかしいと思わなかった」。そんな英子であるが、16歳の暮れに二人の求婚者が現れた。一人は後に首相となる犬養毅、もう一人は海軍大将になった藤井較一である。いずれも岡山藩士もしくは、備中・郡奉行を務めた家計である。

    両親はこの良縁を喜ぶも、英子はニべもなく断っている。父母は説得を試みたが英子の気持ちは動かなかった。この時のことを自伝に述べている。「ああ、世の中にはこのような父母に威圧されて、ただ儀式的に機械的に愛もない男と結婚するものが多いだろうに。なんとかしてこのような不幸な婦人に独立自営の道を得させたい。私の心に深く刻みつけられた願いとなった。

    当時の世相は、男女の婚前の交際などはなく、釣書を交換しただけでお見合いをすることもなく、結婚させられるのが普通であった。が、男女ともに一目惚れということもあり、一概に愛のない男ととか、そういう婚姻を不幸な女性と決めつけてしまうのは少なからず短絡的であろう。が、英子のいう、「女にも独立自営の道を得させたい」というのは卓見である。

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    英子が縁談を断った理由はもう一つあった。小学校を卒業するや、すぐに同校の助教に任命された英子は、昨日の生徒が今日は先生ということだが、初任給3円という高給であった。現在の大卒初任給が20万とするなら、50~60万ほどになろう。彼女はどこに出ても自活する自信はあったが、母に家において欲しいと頼んだ。英子の言葉に母の楳子は手を取り涙ぐむ。

    「お嫁に行くのが嫌なら出ていけと言われても困らないけど、お母様のそばに長く置いて欲しい。お給料はそのままさしあげます」と言われた母が涙ぐむ。縁談が一つのきっかけとなり、英子は髪を伸ばすことにした。母も英子の心の変化を読み取り、茶の湯、生け花、裁縫などを習わせた、さらに女性らしい情操を養うためにと、月琴うぃ習わせたりもした。

    明治15年(1882年)、英子は18歳になっていたが、この年を彼女は、「生涯忘れることにできない年」と自伝に記しているように、英子は家出をするのだから、この世はまさに「一寸先は闇」である。大好きだった母を捨て、なぜ突然の家出を慣行したのか?英子は友人の兄、小林樟雄(くすお)から一冊の本を借りた。それは、「ジャンヌ・ダルク」の伝記であった。

    小林樟雄は、板垣退助らの自由民権運動に参加し、岡山で「実行社」、「公衆社」などの政治結社を組織、国会開設の請願を行っている。1881年(明治14年)、国会開設の詔を受けて自由党が結成されると、「山陽自由党」を結成した。小林は英子にこのように言った。「英ちゃんも日本のジャンヌ・ダルクにおなりよ。そして天下国家のために尽くすんだね」。

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    福田英子は生涯忘れることができない明治15年と言ったのは、岸田俊子の講演を傍聴したこと。演題は、「政府は人民の天、男は女の天」、「岡山県女子に告ぐ」。岸田は美貌の上に弁舌さわやか、要旨も明晰にて澄んだ声がよく透る。艶やかに結いあげた島田に上品な白襟三枚重ねをさりげなく着こなす壇上の麗人であり、英子はそんな島田に圧倒された。

    岸田俊子(後の中島湘烟(しょうえん))は、女権拡張運動家である。文久3年(1864年)、現在の京都府に生まれ、京都府女子師範学校(現京都教育大学)に入学するも病気のために退学した。その後、1879年に山岡鉄舟らの推挙により、宮中に文事御用掛として出仕し、皇后(後の昭憲皇太后)に漢学を進講するも、1881年秋に御用係を辞め、各地を遊歴する。

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    「天」は人の上にある存在だが、女権拡張運動家の岸田が、「男は女の天」としたのはその意味にあらず。「天男地女」といい、天は男性に配し、地は女性に配し、天が地を覆うのが本来の陰陽の道で、「夫唱婦随」は天(陽)地(陰)の法則に合致する。女性上位の家庭は地が天を覆う形となり、天地の法則に反す。こういう家庭は、何かとトラブルが絶えない。

    いつ頃からか、「かかあ天下は夫婦円満の秘訣」などと言われるようになった。おそらく給与が銀行振り込み全盛になった頃か?あるいは、他にも理由があるのかも知れない。亭主関白の家庭はうまくいかないわけでもないが、かかあ殿下を望む男が増えた気もする。「その方が楽だ」という男はいる。が、女が上位になって離婚が多くなったのでは?との懸念もある。

    物事の最終決断を女性が決めるのはダメとは言わぬが、決定権を持つなら責任を取る覚悟がいるし、それが男の覚悟であるが、「女の責任逃れ」はどこにでもあるが、「女の覚悟」というのはあまり聞かない、似合わない。自分は女の責任逃れを認めている。なぜなら、これを認めない限り、女を追い込み、攻め倒すことになる。逆に、「男の責任逃れ」は絶対に認めない。

    男の言い訳や弁解は聞かないし、耳に入れない。男に責任逃れなど許されるものではなく、いかようにも攻め倒すが、女にそれはできないし、したくない。なぜなら、女は自らを追い詰めると涙を出す。そういう時の女の涙は、男の自分にはさっぱり理解できないが、ある女は演技といった。が、何にしても女の涙は許すしかなく、男なら社会的に許容されることはないだろう。

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    直近の例でいうと、浅田真央がGPフランス杯で自己ワーストの9位に終わった。ジャンプに精彩もなく、スピード感もなく、明らかに力が落ちたということだ。1年間の休養後に再びリンクに上がる際に佐藤コーチが、「そんなに甘いものじゃない」といったようだが、浅田は聞き入れず、トリプルアクセスを反対するコーチに反抗するなど、折り合わなさが伝わった。

    左膝痛など体はボロボロなどとメディアはいうが、負傷を推してやると浅田が自分で決めたことなら理由にならない。女の涙の理由はどうであれ、男なら恥ずかしくて見せられない。綺麗に選手生活を終える選択はあった。「夢をもう一度」の挑戦は結構だが、夢が上手く行く保証はなく、リスクはリスクとして受け止めるべきである。泣くほど辛いなら止めたらいいのよ。

    男のこうした批判を厳しいという女性はいるが、男はこういう考えで社会を生きている。自分に甘えず、他人に甘えずが基本であろう。甘えは言葉を変えれば依存である。「一匹狼」はまこと男に似合う言葉で、男を「狼」に例えるなら、女は何であろうか?何であろう?狐くらいしか思い浮かばないので、検索してみたところ、好き勝手な言葉が並ぶ。「ブタ」、「ハイエナ」…

    「羊」や、「カマキリ」など。「狼」も決して良い言葉ではない。『かまきり夫人の告白』という映画があった。主演が五月みどりで、交尾の後でオスを食い殺すカマキリを例えたもの。「エマニエル夫人」の公開にあやかったタイトルらしいが、「一匹狼」に匹敵する言葉は女性にない。一匹狼とは群れから離れて単独で放浪する狼をいい、そういう男を指している。

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    と思いきや、「女子同士で群れない、『一匹狼女子』が魅力的な理由9パターン」などという記事があったが読むのは止めた。最近はこういう記事ネタは多く、情報過多時代には正しい情報の取捨選択が必要となる。寂しがり屋の依存女は多いが、孤独を好むなら自然なことで、取り立てて取り上げることでもあるまい。福田英子はそんな強い女性であったろう。

    好むと好まざるとに関わらず彼女の生涯というのは、婦人解放運動の先駆的実践者であり、「東洋のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた英子も、実は孤独と、経済的困難、末子千秋の死など、晩年は為すすべもなく恵まれなかった。身体は晩生だが精神早熟にして、18歳で上記岸田俊子(中島湘煙)の演説に触れたことで、自由民権運動に参加した。彼女はこう記している。

    「世に罪深き人を問はゞ、妾は實に其随一ならん、世に愚鈍なる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。齢人生の六分に達し、今にして過ぎ來し方を顧みれば、行ひし事として罪悪ならぬはなく、謀慮りし事として誤謬ならぬはなきぞかし。羞悪懺悔、次ぐに苦悶懊悩を以てす、妾が、回顧を充たすものは唯々是のみ、鳴呼實に唯是れのみ也。

    懺悔の苦悶、之れを愈すの道は唯已れを改むるより他にはあらじ。されど如何にしてか其己れを改むべきか、是れ将た一の苫悶なり。苦悶の上の苦悶なり。苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上又苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、生憎に他の苦悶來り、妾や今實に苦悶の合圍の内にあるなり。(中略)

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    顧へば女性の身の自から揣らず、年少くして民権自由の聲に狂し、行途の蹉跌再三再四、漸く後の半生を家庭に托するを得たりしかど、一家の計未だ成らざるに、身は早く寡となりぬ。人の世のあぢきなさ、しみじみと骨にも透るばかりなり。若し妾のために同情の一掬を注がるゝものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。」

    逮捕、投獄、結婚、夫の死別などを経て、社会主義者と交わり、「世界婦人」を創刊、「婦人解放」の論陣を張って生涯反権力の姿勢を貫いた、「東洋のジャンヌ・ダルク」福田英子。昭和2年4月初旬、日本橋三越へ買い物に出かけ、帰宅後に行水をしたのが悪かった。風邪を患ったうえに、生来の心臓病を併発し、5月2日午後6時5分、女性解放に捧げた生涯を閉じた。享年63歳。

    小林に借りたジャンヌの伝記を英子はあっという間に読了。再読、三読した。樟雄への敬慕から婚約を交わす。英子は、「大阪事件」で4年間の投獄を経て、獄中で知り合った40代半ばの大井憲太郎に恋心を抱き、媒酌人を立てた小林との正式な婚約を破棄する。「これがあなたへの最後のお手紙です。(中略) 一方的ですが、あなたとの婚約を破棄、絶縁する」という文面である。

    英子の後の窮乏生活はドラマにも描かれている。与謝野晶子宅にサチを伴に着物を売りに行くが、「出版物の売れ行きが悪くて毎月赤字なんですよ」と言って断られるも、「お値段はおまかせするので、お弟子さんでどなたか御入り用の方にでも…」としつこく食い下がる。サチはその様子を、「いつもの英子にあらず、彼女は小さく縮んで見えた」と回想する。

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    ジャンヌは国王の裏切りにより、火あぶりの刑で生涯を閉じた。英子も岸田俊子が男爵で神奈川県県令中島信行の後妻になったと聞き、強い裏切り感を抱く。「私は今、たったひとり、八方塞がりである。どう生きていけばいいのか、私の生き方は間違っていたのか?そんなはずはない。彼女が堕落したのだ。岸田俊子が堕落、堕落したのだ」。苦悩の記述が痛々しい。

    英子は、清の朝鮮支配に反対する民権グループに参画し、爆弾の運び屋を務めたとして懲役刑を食った、「青鞜の女」だが、婚約を破棄してまで愛した大井憲太郎は根っからの遊び人で、方々の女に手を出し、隠し子まで発覚した。情熱的な恋文に裏切られた思いを自伝に綴っている。彼女の男遍歴は止まず、その後も12歳も年下の書生、石川三四郎と同棲を始める。

    お忍びの男女関係であった。晩生女というのは、一端火がつくと止まらないと言われるが、そうした恋多き女の一面が、斯くも石川三四郎というたぐいまれな大物人徳者を、歴史の彼方から呼び戻してくれた。そんな石川も英子宅に一時寄宿していた十代の娘を妊娠させている。娘は海外留学中の婚約者の帰りを待つ身であった。男も男なら女も女である。

    如何に徳あれど、下半身に人格はない。その石川も、「外国へ行く」と言い残し、彼女のもとを去る。英子と石川の間には一子がいたとされる。英子は晩年、縁の切れていた石川に、「末子に名を継がせてほしい」と頼み、石川が快諾したという逸話が伝わっているのを見ても、英子は石川を愛していたようだが、男に魅せる女の何かが、英子に不足していたのだろう。

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    「男というものに懲りたはずの自分がどうしたのだろう。この男こそ自分の半生を不幸不運に陥れたヤツだったのに、返す返すも不覚、我が一生の過誤であった。」

    この男とは小林樟雄との婚約を破棄してまで飛び込んだ大井憲太郎である。この告白は女性の責任転嫁のようでもあり、才媛としての理知(自己責任感)ともいえる。人を責めらば心は軽い、自己を追い詰めれば心苦しい。どちらを選ぶも女の自由な感性なら、男の理知に責任転嫁の文字はない。自ら思考し、行為の結果がどうであれ、他人に責任があるハズがない。


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    管野スガという女性を、荻野吟子や福田英子ほどに知る人は少ないだろう。彼女は1911年(明治44年)1月25日午前8時28分、東京市市ヶ谷富久町にあった東京監獄構内処刑場の絞首台にて処刑された。前日は幸徳秋水ら11名が同場所で処刑されたが、彼女一人は翌日に執行された。スガはキリスト教徒であったが、生前の遺言により火葬され、仏式で葬られた。

    明治14年6月7日、大阪・絹笠町に鉱山事業家の管野義秀の長女として生を受け、わずか29歳と7か月の命であった。ありし日のスガは豊かな髪をひさし髪に結い、まるでつけまつげのような長いまつ毛に覆われた涼しい目で、じっと人を見すえる、そんな女性であったという。彼女の罪名は、大日本帝国憲法下の刑法第七十三条に規定された「大逆罪」である。

    「天皇、大皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」

    というのが大逆罪の論旨である。また、大逆罪を裁くことができるのは大陪審のみで、大陪審とは現在の最高裁判所にあたる。よってここでの裁判は、「第一審ニシテ終審」となる。ただの一回だけの裁判ゆえに、不服があろうとも上告への道はない。大逆罪の判決は、明治24年1月18日に行われ、被告合計26名のうち、懲役刑二名を除き二十四名が死刑となる。

    ところが翌日19日、死刑判決を待っていたかのように、半数十二名の特赦が発表された。特赦とは、「天皇陛下の特別のおめぐみ」による恩赦で、岡林寅松他十一名の死刑囚が、「無期懲役ニ減刑ス」という特赦状が伝達された。特赦のない幸徳ら十一名らの死刑は、判決から10日も立たない1月24日執行されたが、紅一点の管野スガのみ翌25日の刑執行となる。

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    死刑執行に立ち会った看守によると、スガは終始落ち着き、絞首台の上から、「われ主義のために死す、万歳!」と叫んだ直後絞首となる。スガの獄中日記は、「死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上がるまでの己を飾らず偽らず自ら欺かず極めて率直に記し置かんとするものこれ 明治44年1月18日 須賀子(於東京監獄女監)」という序文で始まっている。

    処刑の前日の24日で終わるスガの日記の書き出しは、「死刑は元より覚悟の私」である。彼女の言葉が嘘でなく、強がりでもなかったことは、死を面前にした態度にも、また、誰にも何ものにも怖れぬ大胆率直な日記に現れている。『死出の道艸(みちくさ)』と題された彼女の獄中日記は、管野スガの自画像であり、あまたの獄中文学の傑作とされている。

    死を前にした一人の女性がこれほど心情と真実味を込めて書き上げた文章は、まさに奇蹟的であり稀有な存在であり、女性文学の白眉というべきものでもある。スガは19歳の年に東京深川の裕福な商人小宮福太郎と結婚したが、花柳界に入り浸る横暴な夫と性格が合わず、家を飛び出して大阪に帰り、海軍に身を置くこととなったことを理由として離婚した。

    離婚後は、文士の宇田川文海に師事して文学を学び、1902年『大阪朝報』に入社して記者となっており、これらの経歴から文才はあったようだ。1903年(明治36年)11月に日本組合天満教会で洗礼を受けてキリスト教に改宗した。大逆事件は1910年(明治43年)だが、その2年前に「赤旗事件」が起こっており、この時、大杉栄らに混じってスガら4人の女性が検挙された。

    イメージ 36月に発生した赤旗事件だが、スガは8月末に神川マツ子と共に無罪放免となるも、以後は執拗に警察の尾行がつき、勤務先の『毎日電報』を解雇される。生活に困窮したスガはアナキズムに共鳴したことから幸徳秋水の経済的援助を受け、2人で『自由思想』を創刊して赤旗事件を糾弾すべく内に、秋水とは恋愛関係になって平民社内で同棲するようになる。

    当時秋水には妻子がいたし、スガにも禁固1年で獄中の、荒畑寒村と内縁関係にあった。二人は新聞雑誌に重婚と騒がれ、スキャンダルと批判されたことで、スガは寒村に一方的な離縁状を送りつける。女性の側から三行半をたたきつけられた格好の寒村は激怒し、出獄するやピストルを入手してスガを射殺しようと湯河原に向かったが、行き違いから果たせなかった。

    この当時の男女関係は今にも劣らずふしだらであり、同士愛と言いながらも結局男女の関係に発展する。秋水も妻の千代子に離縁状を出してはいるが、離縁後も愛情を持ち続けていたことは、秋水の手紙などから明らかになっている。優柔不断というのか、何というのか、こういう男はいつの時代にもいるようで、どちらかといえば、つまらん男の部類である。

    スガと同棲することで、同志たちは秋水に離反し、彼から離れていった。秋水と寒村は思想上の同士であり、寒村が入獄中に彼の妻を奪うなど、卑劣漢以外の何者であろうか。「見損なったぞ秋水、男なら恥を知れ!」という批判は当然である。スガの心には秋水しかなかったが、寒村の心中にはかつてないスガへの未練と執着が、彼の自伝に記されている。

    秋水はスガがアナキズムに共鳴したことで生活援助をしたことになっているが、それだけではないだろう。目鼻立ちのハッキリした現代人的美人のスガに下心があったのは推察する。アナキズムとは無政府・無秩序のことだが、アナキズム信奉者は男女のことにおいてもアナーキーである。確かに獄中の同士の妻に手を出すという行為は、男として許すべからず。

    どっちが燃え上がったなどは関係ない。男は手を出さず、女は貞淑にして心をなびかせないが、こういう場合のモラルであるが、アナーキーにモラルもクソもないようだ。スガは路上で脳出血を起こして入院するが、「神経衰弱から来た激烈なヒステリー」と医者から診断され、日毎に容態は悪化するばかり。秋水はその費用を捻出するために、郷里の屋敷を手放すことになった。

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    下世話な事はともかくとして、天皇暗殺計画とは、爆裂弾を製造し、それを天皇に投げる計画であった。爆裂弾製造は、愛知県亀崎工場の機械工、宮下太吉が受け持つことになっていた。彼は製法を研究し、1909年(明治42年)、明科の山奥、会田川沿いで、爆発実験に成功していた。それもあって、宮下、新村、管野ら同士は、実行時期を1910年の秋と決定した。

    この年の五月、スガは発刊した雑誌「自由思想」第一号が発売禁止、即日差し押さえ、第二号も同じ発禁となる。編集兼発行人のスガは、新聞紙法違反で告発され、両号ともに有罪で七百円もの罰金刑を受ける。スガの肉体は衰弱しきっていたが、政府や官憲への憎しみに燃え立っていた。スガは病床で、「仇を討つ、天皇を殺す」とうわごとのように口走る。

    1910年(明治43年)3月、秋水とスガは東京の家を引き払って、伊豆湯河原温泉の天野や旅館に向かう。療養方々『通俗日本戦国史』の編纂のためだ。スガは罰金の工面が出来ず、迷った末に秋水に言った。「私、監獄に入ります」。労役なら百日の換金刑である。秋水に頼ったが工面はおぼつかず、実現できずに今日に至っていた。入獄は罰金以外にも目的があった。

    秋水は爆弾による天皇暗殺計画に背を向けていたが、それでも妻のスガがこれから犯すであろう罪によって、自分は死刑になる身だからいいが、秋水には多大な迷惑が生じる。それもあって5月に1人で東京に戻り、とある場所に実行犯のスガ、古河、新村、宮下の4人が結集し、誰が先に爆裂弾を投げるかのくじ引きをした。結果、管野、古河、新村、宮下となる。

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    5月の半ばにスガは入獄した。以後、彼女はシャバに戻ることはなかった。宮下の身辺を探っていた信州松本署のスパイ活動で宮下、新村を検挙した。発覚理由は、宮下が姦通していた女の夫に爆弾を預けていたというお粗末さである。6月初旬、湯河原に定宿中の秋水が検挙される。検挙網は全国に広がり、無政府主義者、急進的社会主義者数百名が検挙される。

    「大逆事件」について神崎清は以下の見解を示している。「ことさら幸徳秋水を首領にまつりあげ、その指揮下の24名の決死隊員が、明治天皇暗殺計画に参加していたと構想して、頭から大逆罪を適用するような過ちを犯し、大量24名の死刑宣告を行った大陪審の判決書の中に真実はない。

    大逆事件の真実は、むしろ爆裂弾を開発した自信を持ち、明治天皇暗殺を一身に引き受け、単独計画のような形で実行するつもりでいた革命的労働者宮下太吉の『発覚当時ハ心が替リ、川ヘデモ流サント思ヘリという動揺と解体の告白のなかに見出されるのである」。

    爆裂弾製造を請け負った宮下太吉は予備調書で以下述べている。「爆裂弾ヲ造リ、天子ニ投付ケテ、天子モ我我ト同ジク血ノ出ル人間デアル事ヲ知ラシメ、人民ノ迷信ヲ破ラネバナラヌ」。管野スガは『死出の道艸』の中で、死刑囚の半数が恩赦で助かった感想を以下のように記している。「欲にはそうか私達三四人を除いた総べてを助けてもらいたいものである。

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    其代りになる事なら、私はもう逆磔刑の火あぶりにされやうと背を割いて鉛の熱湯を注ぎ込まれやうと、どんな酷い刑でも喜んで受ける」。なんという表現であろうか?これほど率直な嘘は、そうそう書けるものではないだろう。管野スガという女性は、極限において聖女であった。与謝野晶子の歌を好んだという彼女は、『死出の道艸』にいくつかの歌を置いている。

     やがて来む終の日思ひ限りなき 生命を思ひほゝ笑みて居ぬ


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    大逆事件で死刑判決を受けた管野スガは、処刑前に大杉栄夫妻に手紙を書いているが、社会主義の同士たちが刑場に消えるとき、大杉は赤旗事件で二年半の刑を受けて千葉刑務所に服役中で、連座を免れることになった。その年大杉は千葉刑務所から東京監獄に移され、大逆事件に関連した取調べを受けるが検挙は免れるものの、獄外にいたら無事では済まなかったろう。

    こんにち「大逆事件」は、明治政府が社会主義者を全滅させようとしてデッチあげた弾圧事件という解釈を共産党などは声高にいうが、どちらともいえない。ただし、大逆事件というのは大陪審が裁くしかなく、関与の程度に関わらず、死刑しかないという点は問題がある。アメリカの社会活動家エマ・ゴールドマンは抗議集会を行い、桂首相宛てに抗議電文を送った。

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    幸徳らの処刑された後、日本のアナキストたちはことごとく逼塞し社会主義者たちの「冬の時代」と言われる空白の時がくる。当時、日本のアナキズムの指導者であった大杉は、管野スガの内縁夫だった荒畑寒村とともに1912年(大正元年)10月『近代思想』、1914年(大正3年)10月『平民新聞』を発刊し、定例の研究会を開き社会主義運動を広げようと画策する。

    その大杉を支えたのが伊藤野枝で、二人の共通点は自由恋愛者である。大杉は居候中に堺利彦の義妹堀保子を強引に犯して結婚する。当時、保子には婚約者がいたが破棄された。栄は保子を入籍させず、神近市子という女にも手を出し、さらには伊藤野枝と愛人関係になる。野枝は長女魔子(後の真子)を身ごもる。栄は保子と離別し、市子は入獄したので野枝と家庭を持つ。

    依然として入籍はせず、次女エマ(後の幸子)、三女エマ(同笑子)、四女ルイズ(同留意子)、長男ネストル(同栄)をもうけたが、野枝と入籍はしていない。大杉はフリーラブを提唱し、保子、市子、野枝たち三人は、互いに経済的独立を行い、大杉と別居しながら自由な愛の生活を彼と持とうというのである。野枝は大杉の思想を実行するため、小説を書き始める。

    野枝という女性の本性は淫乱、今でいうヤリマンである。不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤を捨てて大杉栄の妻、愛人と四角関係を演じた。世評にわがまま、奔放と言われた反面、現代女性の奔放な自我精神を50年以上先取りし、妊娠中絶、売買春、貞操など、今日でも問題となる課題を題材とした評論や小説を発表した。

    イメージ 2「習俗への反発」という、こうした彼女の性格は抑圧から生まれたものと推察する。福岡県今宿村(現・福岡市西区今宿)に、7人兄妹の三番目の長女として生まれる。伊藤家は「萬屋」という海産物問屋だったが没落したため、父は鬼瓦職人となったが、放蕩者で気位が高くろくに仕事をせず、母が塩田の日雇いや農家の手伝いなどをして暮しを立てた。野枝は口減らしのため8歳で長崎の叔母の元に引き取られる。「幼児期から冷たい人の手から手にうつされ、違う土地の違った風習でと各々の違った方針で教育された私は、いろいろなことから自我の強い子でした。そして無意識ながら、習俗に対する反抗は12~3歳くらいから恵んでいた。生家の両親や兄弟にも親しむことのできない感情を持っていた」と野枝は回想する。

    彼女の並外れた向上心と自負が、常に現状に満足を得ず、孤独心の強い少女にさせたのだろう。叔母の一家が上京するので野枝は実家に戻る。小学校を卒業するやすぐに村の郵便局にて働く。当時、女性の職はなく、勤めるなどは稀な時代だが、郵便局の事務職員は界隈ではエリート的存在だった。このころ野枝は『女学世界』を愛読、投稿して度々賞を貰っている。

    明治34年に創刊された雑誌『女学世界』では、創刊当時から読者の投稿を呼びかけ、34年3月の定期増刊号『壺すみれ』で、初めて投稿小説の入選作が発表されている。特賞に選ばれたのは田中ハル「無情」であった。『女学世界』は積極的に投稿作品を募ったが、だからといって投稿者をプロの物書きに育成しようとしていたわけではなかったようだ。

    当時の時代背景もあり、小説投稿には様々な制約が課せられていた。『女学世界』の懸賞文募集要項には、「政治的時事論に渉らざること、亦小説は可成優美なるを佳とす」とある。「政治」という男性の領域に入ることは拒まれ、「優美」という女性性をまとった文章のみ要求され、審査基準も、「良妻賢母思想」に則った作品に高い評価を与えている。

    これらは生身の女性の視点からの女性を描いていず、読者投稿小説の多くが、男性作家の家庭小説の焼き直しゆえに、ヒロインは夫に貞節を尽くし、両親をいたわる理想的な女性として造形されている。家庭小説の登場は、女性を文学へと招き入れた反面、女性の本心を「描く」行為を奪っている。世は良妻賢母を強制したわけではないが、女性自ら積極的にそれを望んだ。

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    小説投稿での受賞もあって、向学心に目覚めた野枝は、上京した叔母宅宛に、「上京して女学校に入学させて欲しい」と数通の懇願の手紙を送る。「卒業後にはひとかどの人物となり恩返しをする」と記した。野枝の熱意に叔母一家は彼女を東京に迎えた。上京の翌年、猛勉強のすえ上野高等女学校に1年飛び級で4年編入試験に合格。作文に抜群の成績をあげる。

    そんな野枝は、現在にあっても地元福岡県では逆賊扱いである。十数年前、伊藤野枝のテレビ取材に関わった人によれば、彼女と同年代で存命の老婦が、「地元の恥をさらすのか~」と大声でいきり立ち、「淫乱、淫乱、淫乱女」と叫んでいたというのだから穏やかでない。歴史の中の伊藤野枝は、淫乱、逆賊にくくられても否定できない一面はある。

    決められた縁組みを破棄せんと逃亡し、女学校の恩師の家に転がり込んだり、その恩師を捨て自ら大杉栄との四角関係に身を投じ、平塚らいてうには、「あんた仕事しないなら、私に雑誌ちょうだい」と迫ったりもした。大杉が拘束されると、内務大臣後藤新平宛に四メートルにも及ぶ抗議文を送るなど、僅か28年の生涯とは思えぬほどに波乱に満ちている。

    野枝の筆書きの抗議文は、「私は一無政府主義者です。私はあなたをその最高の責任者として、今回大杉栄を拘禁された不法に就いて、その理由を糺したいと思ひました。それについての詳細な報告が、あなたの許に届いてはゐることゝと思ひますが…若しもあなたがそれをそのまゝ受け容れてお出になるなら、それは大間違ひです」。という文面で始まり…

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    「ねえ、私は今年廿四になつたんですから、あなたの娘さん位の年でせう?でもあなたよりは私の方がずつと強味をもつてゐます。そうして少くともその強味は或る場合にはあなたの体中の血を逆行さす位のことは出来ますよ、もつと手強いことだつてーー。あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」。で結ばれている。後藤がこの手紙を見たか否かは定かでない。

    また、野枝は後藤の娘に言及しているが、おそらく調べた上でか、後藤の長女は野枝と同じ1895年(明治28年年)生まれだった。この日の午後、大杉は、「証拠不十分」で起訴されることなく、釈放され帰宅した。現代の女性は強いと言われ、強くなったと言われるが、昔のような、「芯の強さ」ではなく、子どもを人質にとったり、贅沢をしたり、その程度の我儘三昧ではないか?

    絞首台の上で、「われ主義のために死す、万歳!」という肝っ玉が昨今の女性にあるだろうか?現代女性はいわゆる、「内弁慶」的な強さであろう。女性が虐げられた時代に、真の女性の在り方を求めた女性には、なりふり構わない芯の強さを見る。男の強さというのは、理性を纏った武装した強さであるが、女性の真の強さとは、一糸纏わぬ裸身の強さであろう。

    イメージ 5野枝が一面強い女性を見せつけるエピソードがある。それを彼女が高等女学校を飛び級で4年に編入となった経緯に見る。片田舎の小学校卒の学力など知れたものだ。英語や数学が遅れて、いかに才媛といえども2年編入がいいところ。ところが彼女は叔母宅の従妹千代子と同じ4年に入るときかない。叔母宅の代準介は呆れ果て、「受からなかったらトットと九州へ帰れ」と怒鳴ったという。

    自ら公言したこともあって、野枝は徹夜につぐ徹夜の勉強で難関を突破した。神経が図太く、情熱を有し、時に他人に迷惑をかけようと、自らの思いを全うする彼女の性格は、若き日からのものだった。身なりも映えず、小太りで小柄、鳩胸で出っ尻の野枝は、学校の授業を頭から軽蔑したことで、女教師や同級生に歓迎されなかった。が、彼女の才能に期待を寄せる二人の教師がいた。

    国語教師で担任の西原和治と、英語教師の辻潤である。野枝が5年の夏休み、準介や実家の父の手で、同郷の青年と仮の祝言をさせられた。青年の父はアメリカで成功した実業家で、息子の嫁探しに帰国して東京の女学校を出るという野枝の話に大乗り気となる。卒業までの学費を肩代わりする約定で、縁談は野枝の知らぬところで進み、準介らの説得を了承する。

    野枝は挙式を済ませ、婚家に泊まって新婚初夜のはずだった。が、野枝は新郎に指一本触れさせなかった。理由は、新郎が低級に見えたこと。こんな男に自分の未来を委ね、縛られてなるものかの一念である。卒業後には帰郷し、夫の元で妻として尽くさねばと思えば、体が裂けるばかりの惑乱状態である。野枝は苦悩の末にある決心をし、慣行を企てていた。


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    野枝には想い焦がれる男がいた。その人は女学校の英語教師辻潤である。心中慕う辻に野枝は自分の苦しい立場を打ち明けずにいられなかった。郷里に旅立つ朝、野枝はすべてをふり捨てて、辻とともに上野竹の台で開かれていた青木繁の遺作展に出かけた時、上野の森で辻から骨も砕けんばかりの抱擁を受ける。それが野枝の奥に潜む女に火をつけることとなる。

    野枝は沸き立つ血を抑えることはできず、一端郷里に帰ったものの、夫を捨てて東京に奔った。そうして染井の辻の上に転がり込む。あからさまな野枝の行動は、女学校に波紋を起こす。学校長は辻に、「伊藤に尽くしたいのなら、辞表を出してやってもらいたい」と迫り、辻は学校を辞職、野枝との恋愛を選ぶ。辻は後にこのころを回想してこう述べている。

    「昼夜の隔てなく二人は情炎の中に浸った。初めて自分は生きた。あの時、僕が情死していたら、如何に幸福であり得たことか」。男と女の欲情、繁殖外情交というのは、大脳前頭葉の異常発達が生んだ。生殖のためならず、結合力としての性を獲得した人間に、動物のような繁殖のための交尾期がない。この点において動物と人間は交尾目的を異にした。

    姦通罪が存在した旧憲法下にあって、夫のある野枝は収監覚悟の行動である。辻は29歳、野枝は17歳であった。姦通罪は必要的共犯として夫のある妻と、その姦通の相手方である男性の双方に成立する。また、姦通罪は夫を告訴権者とする親告罪だが、告訴権者である夫が姦通を容認していた場合には、告訴は無効とされ、罰せられないものとされた。

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    二人は「姦通罪」で摘発されそうになるが、野枝の叔父の取りなしにより、籍を抜いて事なきを得る。二人の間に子どもが2人生まれたが籍はいれていない。後に辻は野枝の従妹と浮気をし、一時は関係が悪化するが、辻との関係を繋ぐために籍を入れる。結婚制度を否定する野枝は、不倫だ愛人だの叩かれて動じぬばかりか、「姦通罪」に憤慨する女であろう。

    1912年(明治45年)上野高等女学校卒業して、郷里に帰るも夫を拒んで上京し、辻潤と同棲を始めた野枝は、10月に青鞜社員となり編集に参加する。『青鞜』は、生田長江が平塚明(後のらいてう。当時25歳)に女性だけの文芸誌の発行を勧め、日本女子大学校の同窓、保持研子、中野初子、木内錠子、物集和子が発起人となり、1911年(明治44年)9月創刊した。

    『青鞜』と野枝の結びつきは、らいてうに送った身の上相談がきっかけだった。野枝はペン字でびっしり、切手三枚もの分量の手紙をらいてうに送る。生い立ちから始まり、性質、境遇、強制結婚の苦悩を訴え、最後は肉親に反抗しても自らに忠実な行動をとるとの決心を述べ、近日中に是非らいてうに会いたいと結んだ。数日後、らいてうは野枝を自宅に招いた。

    この時の事をらいてうは自伝に書いている。「その黒目がちの大きな澄んだ目は、教養や聡明さに輝くというより、野生の動物のそれのように、生まれたままの自然さで見開かれていました。話につれて丸い鼻孔を膨らませる独特の表情や、薄く大きい唇が波打つように歪んで動くが、人口で装ったものとは反対の、実に自然なものを身辺から発散させています」。

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    野枝はらいてうに励まされ郷里へ引き返す。が、またも周囲から攻め立てられて家出を繰り返すしかなかった。らいてうは野枝に旅費を送るなどし、援助を惜しまなかった。野枝は夫方に野枝の学費を弁済することで離婚を認められる。以後野枝は、らいてうの編集補佐として辻宅から、「青鞜社」に通うことになり、らいてうは野枝に月10円の手当を支給した。

    野枝は『青鞜』誌上に発表した作品で一躍スターに昇りつめ、ジャーナリズムは、「新しい女」の称号を『青鞜』同人に奉じ、既成道徳の破壊者などと悪意に満ちた記事を書き立て、これに便乗した女性教育家どもが『青鞜』を攻撃する。らいてうは、『中央公論』誌に、「私は新しい女である」を執筆し逆襲する。新人の野枝も、「新しき女の道」を執筆する。

    1912年(明治45年)4月の第4号は、姦通を扱った荒木郁の小説『手紙』のゆえに発禁となり、女子英学塾(後の津田塾)の津田梅子は、塾生が青鞜に関わることを禁じ、らいてうの母校である日本女子大学校(後の日本女子大)の成瀬仁蔵も、「新しい女」を批判した。1913年(大正2年)2月号附録中の福田英子の所論が、社会主義的であるとしてこれも発禁にされた。

    『青鞜』を攻撃する世論を受けて立つらいてうのこうした姿勢は、「青鞜社」社則の改定につながった。第一条にある、「女流文学の発達を計り」という文字が、「女子の覚醒を促し」という文言に代わる。これは、今後『青鞜』が、婦人問題研究の方向を目指すことをハッキリと宣言したことになる。『青鞜』の流れは野枝をますます奮い立つできごとだった。

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    小説で自己表現したいという女性たちの欲求、女性による女性のための文学雑誌として登場した『青鞜』が、女性開放思想雑誌として展開した後も原動力となったのは、5人の女子出身者による小説で自己表現したいという欲求であった。おりしも経営難を知って発行元を買って出た岩波茂雄(岩波書店の創業者)の好意をよそに、らいてうは戸惑いもあった。

    それが立ち消えたのは、「新しい女」嫌いの岩波の妻の反対であったという。女を敵にするようなフェミニズム運動は成就しないが、フェミニストが救済するのは、実は「女性」ではないのである。女性という動物は、「目標」でまとまれず、即物的な利益によって団結すると言われる。男は社会全体の秩序を好むが、女性は自分とその周辺の平和を望む。

    辻家では姑から嫌味を言われ、夫からも小言が多くなる。習俗に反抗して辻と結婚したはずだったが、いつの間に家庭の妻という習俗の奴隷になったと野枝は感じ始めていた。ひと回りも下の野枝の肉体に溺れ貪り、情死も厭わぬとの辻の思いはどこに行ったのか、飽きてくればただの女でしかない。野枝はそんな家庭内の鬱憤を晴らすかのように、『青鞜』にのめり込む。

    大正三年ころには実質上の編集責任者であった。そうして翌年ついに、らいてうからもぎとるように『青鞜』を譲り受ける。『青鞜』はらいてうの母の資金援助で始めたが、もはや創刊時の5人の発起人全員が去り、あげく、「全部委せるならやるが、忙しい時だけのピンチヒッターは断る」などとのぼせあがった野枝に、嫌気がさしたらいてうは、『青鞜』から離れる決心を固める。

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    後にらいてうは、「野枝は野心まる出し」と、このときの事を批判している。かつては身の上相談にも乗るなど、野枝を気づかい、援助もしたが、そんな9歳年下の小娘に、『青鞜』を乗っ取られた心境はいかばかりであろうか。野枝はそういう女である。編集者としてすべてを仕切ることとなった野枝の『青鞜』だが、あてにしたらいてうの原稿がもらえず、部数は下降するばかり。

    野上弥生子や山田わからが執筆者として奮ったが、経営は苦しかった。それでも果敢に貞操問題や堕胎、売娼制度など女性を巡る社会問題を論争し、自身のプライベートや事件を小説や編集後記に書きこんでいた。1915年(大正4年)6月号は、原田皐月の「堕胎論」が発禁となる。現在、堕胎は罪ではないが、「堕胎を罰することは不条理」とした原田の思考は先進的すぎた。

    中絶は己の心身回復のための医療行為で、なぜ女性だけが処罰を受けるのか?妊娠のもう一方の責任者たる男はなぜに処罰されない?これに正しい答えを述べる者が存在するのか?確かに、男を処罰をするということの問題はなくはないが、処罰を模索するより、女性を処罰しないのが妥当である。そんな折、『新潮』6月号に中村弧月による、「伊藤野枝論」が掲載される。

    「私は生まれてからあなたのような優れた人を見たことが有りません」。という言葉ではじまる思い切った讃美論である。が、弧月よりもっと以前に野枝に注目していた人間が大杉栄である。大杉は自ら主宰する雑誌『近代思想』で、弧月より1年も前にエマ著『婦人解放の悲劇』を訳した野枝評がある。大杉はその中で、野枝とらいてうを比較してこう述べている。

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    「らいてう氏の思想は、既にぼんやりした或所で固定してしまった観がある。僕は氏の将来よりも寧ろ野枝氏の将来の上に余程嘱目すべきものがあるやうに思う」。大杉は大逆事件後の2年後の1912年(大正元年)、管野スガの内縁夫荒畑寒村とともに『近代思想』を創刊したが、これは文芸批判や文明論の陰に隠れて、社会主義の拡販・宣伝を狙ったものだった。

    大杉が若き野枝に近づいたのは、社会主義「冬の時代」を突破すべく日本のエマ・ゴールドマンを必要としたからである。野枝は辻との結婚生活の退屈さを癒すためにエマを読み漁っていた。エマ・ゴールドマンは、ロシア生まれのユダヤ人女性で、早くから新思想に目覚め、17歳でアメリカに渡るも、自由と平等の新天地と夢想したアメリカの現実に落胆。

    労働者を圧迫し、女性には従属と自己抹殺を強いるアメリカの現実に辟易したエマは、アナキズムに奔る。自ら労働に従事し、過激な雄弁でアジテータとして活躍、運動に加わる。迫害や病気に耐え、結婚と離婚、投獄の劫火を幾度もくぐり抜け、それでもエマは一筋の道を貫き通した強靭な女性である。エマは野枝の理想であり、大杉も野枝にエマを重ねていた。


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    荻野吟子、福田英子、管野スガと来て、伊藤野枝で少し立ち止まってしまった。スガも野枝も30に満たない年齢で世を去ったが、「短くも燃えた」野枝らに関心を抱いていた。されど樋口一葉も24歳の短命だが、どちらが美人?どちらが秀才?どちらが淫乱?などと下世話な比較はともかく、生き方の差において伊藤野枝の魅力は、お札の肖像になど選ばれない奔放さである。

    あらためて、野枝の魅力とはなんだろう?長年思うことだが、一言では言えない。男目線でいうなら多情淫奔なところ?遊び好き女は、遊び好き男と同じように、そぞろ魅力に長けている。遊び女の魅力一切が遊びからもたらせるものであるなら、貞淑な女というのは、男が女を性的独占する上で、単に都合のいいということに過ぎず、斯くの女を魅力的と言わない。

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    家事・育児に精を出し、求めば脚を開く。これがかつての定番女。坂口安吾は、「悪妻論」でこう述べる。「思うに多情淫奔な細君はいうまでもなく亭主を困らせる。困らせるけれども、困らせられる部分で魅力を感じている亭主の方が多いので、浮気な細君と別れた亭主は、浮気な亭主と別れた女房同様に、概ね別れた人に未練を残しているものだ。」

    20代では分からない文意。さらに、「しからば悪妻は良妻なりやといえば、必ずしもそうではない。知性なき悪妻は、これはほんとの悪妻だ。多情淫奔、ただの動物の本能だけの悪妻は始末におえない。(中略) 才媛というタイプがある。数学ができるのだか、語学ができるのだか、物理ができるのだか知らないが、人間性というものへの省察に就いてはゼロなのだ。

    つまり学問はあるかも知れぬが、知性がゼロだ。人間性の省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異らぬ。まことの知性あるものに悪妻はない。そして、知性ある女は、悪妻ではないか、常に亭主を苦しめ悩まし憎ませ、めったに平安などは与えることがないだろう。」と、まるで伊藤野枝のことを言っているようだ。

    安吾は1906年(明治39年)生まれ。野枝は1895年(明治28年)生まれ。ひと回りの差があり、安吾は野枝を知っている。野枝が殺害された1923年(大正12年)、坂口は17歳の多感な青年期。辻潤は野枝に捨てられ、浮浪みだれ、酒みだれ、女食みだれ、半狂みだれをしてたのしむことで、彼にとってはもっとも生きにくい戦時をゆうゆうと生きていたようである。

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    と、これは潤と野枝の子であり、詩人で画家の辻まことの言葉。女に棄てられた男の惨めさ、精彩のなさ、そういう男を幾人知ってはいるが、なぜに男は女に棄てられるとガタガタになるか?女は切り替えが早いが、その先男はこの世の地獄を全うする。いつまでも引きずる女もいるにはいるが、これは恋愛依存体質であるから、SEX依存に切り替えるべし。

    さて、1916年(大正5年)4月に野枝が大杉栄の許へ走り、『青鞜』は無期休刊となる。再び刊行される事はなかった。大杉という男は、「いっぺん会えばどんな女でも参ってしまう」との噂が絶えず、敵をもなつかせる天成の社交家だったようだ。吃音でありながら、それすら魅力だった。大杉には妻がいた。神近市子という愛人もいた。市子は青鞜社社員である。

    当初、野枝は大杉と恋愛関係になるのは控えるつもりでいたが、市子の挑戦的な態度に気変わりし、辻との間にできた次男流二を連れて大杉の胸へ飛び込んだ。辻は自分の役割はとっくに終わったと止めなかった。大杉と野枝は、姦夫姦婦として世間の非難を浴びた。それまで同士から人望も厚かった大杉だったが、この事件を契機に誰も寄り付かなくなった。

    野枝は流二を里子に出し、大杉と水いらずの同棲を始める。が、困窮する大杉を経済的に支えていたのは市子であった。そこに若い野枝が割り込み、大杉もご熱心とあっては市子もたまらない。市子は二人の後を追い、神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷、首に重傷を負わせる。市子は殺人未遂で有罪となり、懲役2年の刑にて服役する。

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    くそマジメな男より女たらしがモテるのは、女を口説くに長け、女の心を上手く弄ぶからであろう。吃音という障害がありながら、「どんな女もひと目でまいる」との異名を有する大杉である。平塚らいてうが心中事件を起こした森田草平も負けてない。第四高校時代に女子学生と問題を起こして退学、文学講座の講師でありながら生徒のらいてうと関係を持つ。

    日本女子大を卒業したばかりの熱心な禅の修行者であり、美人で真面目なお嬢さんが何故に妻子ある男と心中逃避行を…?誰にも分からぬ謎に俗な答えを馳せるなら、「目覚めた」ということだ。目覚めた女には怖いもの知らずの怖さがある。どこまでも堕ちる女ゆえに、女子教育は必要とされた。良家、上品、才媛、美貌、いずれも感情の歯止めにならない。

    『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』の著者栗原康は、「恋愛やセックスにルールなんてない」というが、もう一つ、「人格」も付け加えておきたい。互いが纏った衣を剥ぎ取って動物となる。動物は人にあらずで、よって人格はない。することをした後でなら、人に戻って裸身を恥じる。かくして交尾期のない人間は、動物よりもスケベになった。

    スケベを恥じることはない。逃避行などは自ら世間に淫乱を公言しているようなもので、それが男にはなぜか魅力女に映る。「英雄色を好む」という言葉はあれども、「才媛色を好む」という言葉はないが、抑圧の強い女ほど反動が強いのは、その筋の男なら誰でも知っている。女性解放家は男に例えると「英雄」の部類であるなら、実際は「色」を好むハズ。

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    田嶋陽子も、上野千鶴子もおそらくそうであろうハズだが、不細工な上に高邁な自尊心をひけらかして男が寄り付くハズもない。彼女らは自身に素直に、下半身に素直になって男に依存するのが許せなかったのだろう。「男はやる」、「女はやられる」という言葉は、覆すことのできない性器の物理的構造上から生まれた言葉である。それを認めず女性解放だと?

    有名どころをあげれば、福田英子、管野スガ、伊藤野枝、平塚らいてう、与謝野晶子、宇野千代、瀬戸内晴美など…。瀬戸内は、「自分が天性の淫乱であったら、51歳で出家などしていない」との自己弁護が彼女らしい。51歳で男を断って、「淫乱じゃない」には笑えるが、彼女にとって男絶ちはキツかったにしろ、自由主義者でない彼女の弁解であろう。


    スガも野枝も淫乱女と罵られた。彼女たちは多感な20代で世を去っている。瀬戸内が20代で出家し、淫乱でないと胸を張るなら理解もできようが、他人には詭弁として聞こえる言葉も彼女にとっては50代で衰えぬ性欲は切実だったようだ。人の本心は詭弁に解されたり、あるいは人の詭弁も本心ではと穿ったりする。仕方がない、人の心は見えないゆえに。

    言葉や文章は、「言う」、「書く」がすべてで、それを表現という。さらには、表現されたものを介して、「表現されなかったもの」、「表現できないもの」を発見し、創造するのが聞き手や読み手の享受作業ということになろう。あえて、「作業」といったように、「文学」といわれる類は、読み手の創造的参加によって、意味の実現がなされて始めて作品は完成する。

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    大学の文学部においては、表現論としてこうした操作を学ぶ。手記や自伝やエッセイや記事も広義の文学だが、高尚な文学作品と同列の創造的参加すべきものとは思わない。むしろ、表現主体としての実践に意義を見出す社会学部的操作であろう。他者はともかく自分にとってのブログとは、書く活動をとおして自己の内面の可能性を現象化する時間である。

    自身の心の中を、意思を、客観的に眺め、提示することによる、自己対話である。それがまた時間を経ると、書いてる時、即ち「今」とは思いが異なる。それがまた新鮮さを感じる。自分という人間の多面性を実感もする。ポール・ゴーギャンに、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という作品があるが、我々を一人称に変えて、まさに「自分は?」である。

    「まとめる」もない、「まとまらない」も意に関さない、感じることを感じるままに書きなぐる乱文だが、自分は挨拶原稿など書いた事がない。恥、失敗、体裁とかはどうでもよい人種である。理由は、そういう自分が好きだから。書式は硬いが、心は開けっぴろげの自由闊達。だからか、自由に生きた人を好む。瀬戸内のような後で体裁を整えるのはダメだ。

    野枝と大杉は自由がたたって抹殺された。あげく、証拠隠しのために井戸に投げ込まれた。ひどいことをするが、当時はひどいことをしたという程でもなかった時代である。「自由とは個々の好みの問題ではなく、それがなければ人間として生まれた意味がない」という程に重要かつ、切羽詰まったテーマを、あの時代に言葉と行動で示した二人である。

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    大杉の、「美は乱調にある、諧調は偽りだ」という言葉を敬愛する。「自由」という言葉に全身が焦げ付くほどの憧れを抱いていた青少年期の遺物は、今なお健在である。思想家としての大杉や野枝は、「自身が自由になるためには、社会全体が自由にならなければならない」と実践した。そうした先人の「大志」に畏敬を抱きながら、ちまちまブログを書いている。


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    平塚らいてうが1911年(明治44年)に『青鞜』を起こしたのは、生田長江の強い勧めがあった。東京帝大卒で成美女子英語学校の教師時代に、当校に通うらいてうと生田は出会う。らいてうは1906年(明治39年)に日本女子大学校を卒業後、二松学舎(現在の二松學舍大学)、女子英学塾(同津田塾大学)で漢文や英語を学び、1907年(明治40年)、成美女子英語学校に入学する。

    成美英語学校には生田を中心にした若い女性たちの文学研究会「閨秀文学会」があり、与謝野晶子、馬場孤蝶、島崎藤村、森田草平らが教えた。同会の回覧誌に発表したらいてうの処女作小説『愛の末日』が森田の関心を呼び、1908年(明治41年)、奥塩原温泉尾花峠でらいてうは森田と心中未遂事件を起こす。なんでそうなるの?のっけはこの事件から…

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    閨秀文学会の生徒であるらいてうにぞっこん惚れた森田は、らいてうに迫り強引に交際を申し込む。当時らいてうは、浅草の海禅寺で禅の修行に通っていたが、若い住職にいたずらっぽくキスをしたりしていたという。長い坐禅をした後、夜になって青年僧に出口まで送ってもらったときに、「チューっ」と、挨拶がわりに接吻したという程度のことらしいが…。

    それでもこんにち、寺の玄関で青年僧に、「チュー」する女性修行者などいないし、なんともたばかった女である。若き美女にこんなことをされた秀嶽が、舞い上がり、真剣になるのは無理からぬこと。師と仰ぐ僧に相談に行き、求婚を決意した。これに驚いたのはらいてうである。彼女は男女の性的なことへの関心度は薄く、いわゆる晩生であったというが、秀嶽は真剣であった。

    「結婚して欲しい。自分が僧であることが嫌なら止めてもいい」などと言いだす始末。困り果てたらいてうを助け、なんとか秀嶽の燃えさかる情熱をなだめてくれたのが、親友の木村政子であった。晩生の女性は、とかくこのような、男に誤解を与えるような言動をやるが、男女の機微というものがまったく分からない無知女ゆえの所業である。しかるに男は単純だ。

    時代は日露戦争さなかの明治39年である。いかに晩生とはいえ、勉強ばかりの文学少女の他愛ない行為を責められない。向学心は結構なことだが、当時22歳の女性が玄関で若僧に、「チュー」はあまりに無垢、あまりに幼い。そんならいてうが心中事件を起こす。上記したらいてうの処女作小説、『愛の末日』に感化された森田が、らいてうに言い寄ってきたのだ。

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    森田は文学者としての批評も兼ねた手紙をらいてうに送り、褒められてご満悦のらいてうをデートに誘っている。一週間後のことだ。ゼミの講師が生徒を誘ってついて行く女もいる。嫌悪する女もいる。善悪はない、女次第だろう。らいてうは前者だった。朝の九時から夜の九時までのデートだが、その日に二人はキスをする。森田にとって念の入ったデープなキスであった。

    らいてうはデープキス初体験にかなり上気した。そうだろう、そりゃ。さらに森田はらいてうの袴の上越しに接吻をすると、「そんな真似事みたいなことは嫌です」とらいてうはいった。「遠慮せずにもっとしっかりやってください」と、こんな言葉で森田をけしかけた。やんわり、おっとり進めているのに、「しっかりやってください」という女は、さすがに記憶にない。一体、どういうこと?

    「しっかりやって…」などは今どきの言葉にない。言われたら吹き出すかも知れん。が、森田の性欲に火をつけたようだ。上野の森で袴の裾を上げるわけにもいかず、森田は思い切ってらいてうを、富士見町花街の「待合」に誘っている。「しっかりやるため…」にである。火鉢一つしかない殺風景な部屋だが、襖の陰には布団が用意されており、事はそれで充分であった。

    いわゆる昔のラブホテル。とりあえず二人は、"なんじゃら、かんじゃら"で、コレという話もないままのいわゆる、「抱く前と 抱かれる前の 無駄話」状態である。森田はやおら立ち上がり、引きずり出した布団の上に体を横たえ、「ここにいらっしゃい」と誘った。さすがに未通女の要領は悪く、それも魅力と言えば魅力であり、一度だけのかけがえない魅力である。

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    男女関係の無知もあってか、らいてうは拒否の言葉を知らない。了承の言葉も見つからない。そんなときに、「私は女じゃない」といった。さらに「男でもない」といった。そして、「それ以前のものです」といった。上気の為か、緊張感か、支離滅裂な言葉を言わせる。こういう場合にもっとも親切なのは、了承を取らずにかぶさるべきである。美人局ではないのだから。

    高畑事件のように、後で怖いおっさんが出てくることもない。「恋愛や性欲のない人生はどこにもないんです。それじゃ無のようなものじゃないですか」などと、森田は懸命に諭すもらいてうは、「無で結構です」と真面目に返す。「むむむむ…」などと、面白可笑しく、場を和ませる才覚は森田にない。本来なら、「そうですか。分かりました」と、尻込みせざるを得ない状況にある。

    が、そうはならなかったのは、らいてうがまんざらではなかったからであろう。女の性欲を沸き立たせるるような男の言葉はないが、好奇心という別の情緒もある。案の定、らいてうの開通式は滞りなく行われた。性欲はなくとも、好奇心で初体験を終えた女性は、この世にゴマンといる。なんでもいいのよ、チャンスはチャンス、チャンスを逃した婦女子もいるわけだ。

    らいてうという女を現代に当て嵌めてみるに、無知からくる素直さ、不用心さ、スレてない純真さ、帰り際に若僧にチューをするなどの屈託のなさ、そういう女は男として放っておけないところがある。恋人としての対象にならない女性であれ、男女関係のみの継続は可能だ。どっちのみち、森田には妻子がいるわけだ。らいてうにしろ、森田にしろ、行き場のない恋である。

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    恋というより、「お遊び」の様相だから、心中などという遊び半分な言葉もでよう。その気がなくとも、演じるくらいはできる。その辺は女の方が演出に長け、らいてうは懐剣を用意していた。森田は、「わたくしはあなたなら殺せると思う。殺すよりほか、あなたを愛する道がない」などと気取ってみても、所詮は、「心中ごっこ」のおままごと。らいてうは森田の覚悟のなさを見抜いていた。

    その日の朝、二人は海禅寺で待ち合わせ、汽車で北をめざすと、雪の塩原温泉の尾頭峠を彷徨したあげくに死にそこなった。死ねなかったという心中もあるが、死ぬ気はなかった、死ぬふりをした心中も少なくない。二人には追い詰められたものが何もなく、どちらともなく言い出したことに引っ込みがつかず、とりあえず芝居の限りを尽くしたと自分には映る。

    精神年齢の低さ、幼稚さが引き起こした茶番劇であろう。二人には捜索届けが出ており、近くの旅館にいるところを発見された。二人の心中未遂事件はあっという間に世間を駆け巡る。らいてうを嫌う人々は、好奇な耳目をそばだて、新聞は連日書きたてた。森田のことは話題にもならず、らいてうばかりを話題にするが、総じて結論は、らいてうが色情狂の淫乱女で収まる。

    「紳士淑女の情死未遂」、「情夫は文学士・小説家、情婦は女子大卒業生」、「いやはや呆れ返つた禅学令嬢といふべし」、「蜜の如き恋学の研究中なりしこそあさましき限りなり」などなど、新聞各社の嘲笑的な見出しが、主人公の顛末を物語っている。雑誌『女学世界』は、三宅雪嶺、内田魯庵、二葉亭四迷、三輪田元道に、「緊急・謎の解明」にあたらせた。

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    魯庵は、森田が事件の朝の新聞を読んでいたらしいことをとりあげ、「こんな事でとても死ぬる訳のものでない」と批判した。四迷は、二人がダヌンツィオの『死の勝利』に酔ったのであろうという説を披露し、らいてうが本気で禅に心酔していたなら、「死ぬの生きるのと騒ぐはずはなかった」と切り捨てる。森田の師漱石は、「君らがやったのは恋愛ではない」と蔑む。

    森田は漱石の弟子であった。東京帝国大学英文科を卒業後、岐阜に帰郷するが漱石の『草枕』に感銘を受け妻子を置いて上京した。事件後に森田は、「明は不可思議な女」と漱石に話すと、「ああいうのを無意識の偽善者というのだ」。漱石は森田をたしなめた。森田は事件を元にした小説『煤煙』を、「東京朝日」に連載を始めたが、これは漱石の差し金であった。

    「柳の下の泥鰌」か、森田はこれを機に文壇デビューを果たす。特異体験が人を物書きに押し上げることがあるが、「閨秀文学会」の講師として森田の同僚であった馬場孤蝶は、心中未遂事件のあらましを知っていただけに、森田の連載を、「よくもあんなに綺麗事に仕上げたものだ」と、半ばあきれ顔で青山菊栄にもらした。『煤煙』の記述を世間は嘘だ、事実だと騒然となる。

    イメージ 6時事新報はらいてうの父定二郎の、「涙の談話」を掲載したが、らいてうは恥ずることもなく、ゆるぐこともなかった。男は社会の目を気にするが、女はいたって気丈である。親友の木村政子に宛てた手紙で、「自己のシステムを全うせんがためなり」などと書きつけ、事件後の森田への手紙には、「今回私のいたしましたことは何処迄も私の所有である。他人の所有を許さない」と書いている。
    森田はこの一件を、「恋愛以上のものを求め、人格と人格との接触によって霊と霊の結合を期待した」などと御託を並べて気取ってみたが、森田の詭弁を見抜いた漱石に、「結局、遊びだ」と一蹴されている。人はみな自分の行為に都合のよい理屈をつけたがるが、他人の目からみれば茶番であることが多い。こういう美辞麗句を好む森田ゆえにか、同僚の馬場孤蝶らから失笑される。


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    らいてうが1908年(明治41年)に起こした心中未遂事件は、塩原温泉という土地から「塩原事件」ともいい、森田の小説から「煤煙事件」ともいうが、大杉栄の愛人神近市子が野枝に嫉妬し、短刀でもって大杉の咽喉を刺した、「日陰の茶屋事件」に比べればおままごとであろう。らいてうの行動は思慮浅く、脳ミソは幼児的なのかも知れない。本能の赴くまま行動する女に似ている。

    1903年(明治36年)らいてうは、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて、日本女子大学校家政学部に父を説得して入学した。そんならいてうが22歳で起こした心中事件は、観念的女性の事実認識の甘さという特質が、如何に足元をすくわれ易いかを示している。事件の後、禅寺の若僧秀嶽と肉体関係を持つなど、らいてうは世評通りの淫乱女性である。

    彼女が立ち上げた『青鞜』運動も、晴れがましい一面を持つ運動にはちがいないが、言ってれば観念的女性の認識の甘さに当初は推薦者たちも気づいてはなかった。が、より現実的で実践家には耐え難い行動に映ってしまう。彼女の内的衝動の強さは自身も認めているが、他者からの目で見直そうとしない(客観的自己変革がなされない)のは、社会的存在としての自覚の弱さであろう。

    らいていが拠り所にした市川房枝の言葉を思い出す。話は戦後に飛ぶが、戦後の女性運動の大きな目標に、「我が子を戦場に行かせない」という平和運動があった。らいてうは、「非武装の日本」をアメリカに訴えたいと、野上弥生子、市川房枝らを誘い、自筆草稿文書をダレス国務長官あてに提出した。にも関わらず、日米はサンフランシスコで単独講和条約とともに安保条約を結ぶ。

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    しかし、らいていの平和運動はおさまらず、「再軍備反対婦人委員会」委員長、「日本婦人団体連合会」会長、「国際民主婦人連盟」副会長を次々に立ち上げた。昭和30年代から晩年のらいてうの活動はみなぎる信念と思われていたが、古くからの同士市川は、「平塚さんは本物じゃないですね。彼女はイデオロギーは持っていませんでした」と、批判と受け取れる言葉を発していた。

    市川はらいてうを派手好きのノンポリ女と見抜いていたようだ。話が前後するが、らいてうは、1919年(大正8年)、奥むめおや市川房枝らの協力を得て、「新婦人協会」を結成し、同年協会の機関誌『女性同盟』を発行する。創刊号にはらいてうの、「社会改造に対する婦人の使命」は、『青鞜』創刊号の、「元始女性は太陽であった」と並ぶ、彼女の代表的な論文といえる。

    「新婦人協会」の発起人は後の主婦連会長を務めた奥むめおで、上野の静養軒で行われた発会式には、大山郁夫・堺利彦・嶋中雄作・秋田雨雀らが駆けつけた。らいてうは賛助員に森鴎外の名を連ねたく手紙を出す。その中で、「市川さんが訪問した有名婦人の中には賛成はおろか、らいてうは不道徳な女で、社会的信用がゼロだから、そんな女が計画しても成功する筈がない。

    あなたもおやめなさいなど逆説法されたりして、わたくしをまだ深く知らなかった市川さんはいささか心の動揺をしていた時でしたから」。市川の離反を周囲のそそのかしと言わんばかりである。男性中心の、「新婦人協会」をみても、らいてうは女性に嫌われていた。婦人活動の担い手山川菊栄は、「労して益なき議会運動」、「ブルジョア婦人の慈善道楽」と協会活動を批判した。

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    らいてうと母性保護論争を繰り広げていた与謝野晶子も、雑誌『太陽』にて、「新婦人協会」の活動目標を、「全く異様の感を持たずにいられなかった」と舌鋒鋭く批判した。日本社会の底辺に、「労働者」という新たな階層が生じた時期、らいてうは本質的にどう転んでもブルジョア的である。市川も悩んだ末に、らいてうといるかぎり「新婦人協会」はうまくいかないと去った。


    何かと誤解されやすいが、物事を観念的・抽象的に見るということは、物事に対して高踏的になることではない。個別の特殊な物事に対し、単に感性のみで反応するのではなく、特殊なことを他のものとの共通性において、一般化しながら、そうすることで特殊たる本質を見ようとする態度であろう。あれこれの結論より、感性で此の世に繋がるより、観念的な自己主張で生きる。

    その方がより自然の「生」であろうとする女が出現したのが明治だった。女の論文、女の評論には先走った感情論が見え、疑問符もつくが、そんな不備をカバーすべく熱気を明治の女性は備えていた。当時、『青鞜』、『婦人公論』、『女性同盟』などに発表されたらいてうら婦人運動家の記述には、論の是非とは別の、女性ならではの多くの問題提起があったのは事実である。

    『女性同盟』はわずか3年の短命であったが、その後らいてうは、多くの組織を立ち上げている。再軍備反対婦人委員会委員、国際民主婦人連盟副会長、世界連邦建設同盟顧問、原水爆禁止日本協議会代表委員、世界平和アピール七人委員会委員、新日本婦人の会代表委員などがある。ベトナム戦争勃発時には、「ベトナム話し合いの会」や、「ベトナム母と子保健センター」を設立する。

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    イデオロギーがないのを市川に看破されたらいてう、喧嘩は好きなようで、青鞜社を、「病的狂的現象」と批判した母校日本女子大創立者で校長の成瀬仁蔵にも、「ジャーナリズムの非難、攻撃、揶揄と同調して、軽率にも、無責任にも、ジャーナリズムの描くところの青鞜社なるものを目の敵にして騒いだのは、当時の女子教育家連中でした」などと反撃するなど、返報感情はいたって強い。

    当時は女が、特定の価値観を体系的に表明すること自体、画期的なことだが、らいてうはさらに異なった価値観を持つ人にも論争を吹っ掛けた。与謝野晶子との、「母性保護」論争も、論争を超えた喧嘩の域をでない。晶子は、「妊娠・分娩期の女性が国家に経済上の保護を求め、国家に寄食するのは、労働能力の老衰者や廃人が、養育院の世話になると同じ」とした。

    対するらいてうは、「母性の保護は国家の当然の義務である国庫補助によって、妊娠・分娩・育児期における母体生活の安定をはかられるべき」と主張。晶子が反対するのは母性保護自体というよりも、「国家利益としての子育て」という主張と、「女=母=子育て」という等号で、働く力がありながら、「国に手当てをもらう国の妾」という自立心の低さである。

    貧窮にもめげず11人の子を育てながら、夫の鉄幹の身勝手にも後ずさりをすることもなく、あらゆる文芸活動や社会活動をしていた晶子は、経済的独立をあくまで自力で獲得するべきだと説いた、「徹底した女の独立」という主張であった。それに対するらいてうの反論は、育児とを天職化、美化するような論調で、「女性解放は自立自尊から」の原則からして中途半端は否めないとした。

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    そこに割って入り、らいてうを揺さぶったのが、社会主義者山川均の妻で女性運動家の山川菊栄である。彼女はたいてう、晶子両者の主張を分析し、問題の根本的解決を、「資本主義社会の矛盾」と喝破して、ひとまず論争に終止符を打つ。三者三様といいながら、観念的思考に脆弱な女性の、論者としての限界が、ただ一人においてよりも強調され、拡大される結果となっている。

    少し後にらいてうは市川房枝に出会う。「いままでの日本女性にまったくない活動性と実務性を感じた」、「いづれこの人の力を借りたい」と、市川を評価するなど印象を述べている。房江に引きずられるようにらいてうは、名古屋地域の工場を見て廻り、さらには東京モスリン工場に入り、女工の山内みなを知ると、「国民新聞」に10回にわたる「女工見聞記」を書くようになっていた。

    綿ぼこり舞う地獄のような紡績工場を見学したらいてうは、女子労働者というのは、俗な婦人論のいうところの、家庭における婦人の余力や、経済的独立の欲求の結果では無く、家族の生計の足しに働きに出ていることを認識する。こんなことは労働者階級にとっては当たり前のことだが、当時のらいていにはそれがなかった。そういうところが山川の指摘する、「ブルジョワ的」であろう。

    らいてうは、「私から見れば、今日は一般婦人に向って労働を奨励すべき時ではなく、むしろ反対せねばならぬ」と、「わが国における女工問題」と題する論文を、「婦人公論」1919年6月号に書いている。また、同年9月の国民新聞には、「いったい日本の産業界は幼児を抱いた母からその幼児を奪ってまでも産業に従事せしめねばならぬやうな実際状態にあるのでせうか。

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    婦人が工場で働くといふことは、幼児から母の柔らかい腕とその温い胸とを奪はねばならぬほど人生において絶対の価値あるものでせうか。人間そのものを創造する母の仕事と人間が消費する物品を製造する労働者の仕事といづれが大切なことでせうかと」と、問題提起をした。らいてうは市川房枝から多くを触発されたが、らいてうと自分の人間の質差を実感した房江はらいてうから去る。

    実務に長けた市川を失ったらいてう、彼女は実務能力ゼロ、政治センスもない(料理も裁縫もできない)らいてうが、社会運動から離れることになった。労働運動に疲弊もあったが、実は質屋に通うほどにお金にも困っていた。大正10年(1921)、らいてうは画家の奥村博と信州に転地する。奥村と出会ったのは1912年の夏で、同棲を始めた直後、野枝に『青鞜』を譲った。

    農家を借りうけ、「村の生活」をするようになる。らいてうの新たな生活実験だったのだが、世間はそうは見なかった。らいてうが明(はる)という本名かららいてう(雷鳥)に変えたのは、心中未遂事件での激しいバッシングから逃れて長野県の友人宅に身を隠していた時である。雷鳥が冬に羽毛を白色に変えることを知り、自らの脱皮を願ってらいてう(雷鳥)とした。

    イメージ 7らいてうの昌子批判は延々続いた。彼女は与謝野晶子を、「着くたびれた、しわだらけの着物」などとあざとく評す。山川菊栄についても、「娘らしさというものがみじんも感じられない」、福田英子には、「血ばしったような大きな出目」、伊藤野枝を、「料理下手(略)汚いことも、まずいことも平気」など言いたい放題。こうした女の感情的悪口は、男から見るとバカ丸出しである。
    言わなければバカに見えないが、言いたいのが女なんだろうか。今回、「女性の道を切り拓いた人たち」の表題で上げた女性解放者、先駆者としての女性たちの中で、他人の悪口が過ぎる平塚らいてうがバカにみえてしまうのだ。行為や行動についての批判、主義・主張の批判ならともかく、「お前の父ちゃんデべソ」的な悪口好き女は見苦しい。情緒未発達のバカ女と常々思っている。

    「男女平等」、「男女同権」と声高に叫ばれているが、それが本当の女の幸せなのだろうか?どのように考えても質的差のあきらかなる男女同権論は、間違いなく女性に不利ではないだろうか?自分は、女には許せても男なら許せないものがたくさんある。また、男には敵わない女性の優れている面を知り、上記のような感情的悪口など、女性の嫌な面も知っている。

    画一的な男女同等・同権は、人類の大きな損失を招くものだとも思っている。男には男の、女性には女性としての、特殊な権利というものが間違いなく存在する以上、それぞれの長所や利点を尊重し合う、真のアダルトな感性を身につける教育ができないものか?戦後、日教組が誤った男女平等思想を持ち込んだことが、教育の荒廃を招いたのは明らかであろう。


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    「私たちはいまだ、最も高く、硬い『ガラスの天井』を破ることができていません」。米大統領選で敗北したヒラリー・クリントン氏は、初の女性大統領誕生が幻となったことをこう表現した。「硝子の少年」ならぬ、「ガラスの天井」とは、こんにち社会用語というほどに認知はなく、人事労務用語の範疇にある英語の、「グラスシーリング」( glass ceiling )の訳である。

    組織内で昇進に値する人材が、性別や人種などを理由に低い地位に甘んじることを強いられている不当な状態を、キャリアアップを阻む、"見えない天井"になぞらえた比喩表現で、1984年あたりからの使用例がある。「ガラスの天井」というのは、女性の社会進出を阻む言葉である。「女性の道を切り拓いた人たち」というタイトルで幾人かの女性を挙げた。

    「ガラスの天井」という言葉はなかった。なかったが、女性にたいする抑圧は現代とは比べ物にならなかった。女医第一号となった荻野吟子は、当時の医学校はどこも女人禁制であり、医学界の有力者に嘆願し入学を許されたものの、一人女性であったことで、男子学生いじめを受けたが、ならばと女を捨てた吟子は、髪を切り、袴に高下駄という男装で対抗した。

    医学校を首席で卒業した吟子は34歳にして難関の試験に見事合格し、晴れて国家資格の女医となったが、メディアからは、「女は医者に適さず」とこき下ろされる。しかし、医師になると決めてから15年も要した吟子に、そんな非難は取るに足らない。「産婦人科 荻野医院」を東京で開業した吟子は、社会の女医に対する偏見を打破せんがために、反論に努め戦った。

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    「医は女子に適せり、ただ適すといふのみにあらず、むしろ女子特有の天職なり」、「特に婦人科と小児科に女医は必要である」などの言葉を残している。また、16歳で嫁いだ先の遊び人の夫から性病をうつされたこともあり、男の身勝手さから性病が蔓延していることに憤慨した吟子は、風紀を正すべく廃娼運動や、衛生知識の普及活動に力を注いだ。

    同じく女医を目指した吉岡彌生も、男子学生から、「ここは女の来るところじゃない」など、露骨ないじめにあいながら女医になる。彼女は後進の育成のための東京女医学校を設立した。自由民権運動に飛び込んだ福田英子も、牢獄に入れられたが、警察の取り調べ官には、「この国賊めが、味噌汁で面を洗って出直して来い!」などと突き飛ばされた (福田英子自伝より)。

    管野スガ、伊藤野枝、平塚雷鳥ら女性解放の魁となった時代の女性は、封建的因習が強く存在する時代にあって、人がやらないことを初めてやろうとする女性にとって、偏見と戦うのは勿論であり、様々な妨害も乗り越えなければならなかった。こんにちではごく当たり前の女流作家だが、明治初頭にあって女性の職業は、看護婦と産婆しかなかった時代である。

    どれだけ頭がよくて学校の成績が良くても、女性に学業は不要だと考える人が多く、女性にとって作家という職業は未開のものだった。そんな社会環境の中で、樋口一葉は近代以降では最初の職業女流作家となった。1871年(明治4年)11月12日、岩倉使節団がアメリカに向けて出発したが、このとき59人の留学生が岩倉らと一緒に横浜港を出帆している。

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    その中には5人の女性留学生が含まれており、当時6歳の津田梅子は最年少であった。5人の少女は、それぞれアメリカの家庭にホームステイの形で預けられ学校に通ったが、年長の吉益亮子と上田悌子(渡米の際はともに15歳)の二人は健康を害し、早々に帰国する。梅子のホームステイ先は、アメリカ東部ジョージタウンのチャールズ・ランメン宅であった。

    梅子は足掛け12年間にわたって寄留し、ランメン夫妻は彼女を実の娘のようにかわいがったという。梅子はアーチャー・インスティチュートに在学し、10年目に帰国期限がきたとき、卒業まであと一年あったので、留学延長を申し出、結局帰国したのは1882年(明治15年)のことだった。梅子は19歳になっていた。梅子は後に女子英学塾(現・津田塾大学)を創立する。

    矢嶋楫子(やじまかじこ、天保4年4月24日(1833年6月11日) - 大正14年(1925年)6月16日) は、9人兄弟の8番目として熊本県上益城郡治山津手長木山町で生まれた。姉たちが5人も続いたあともあって歓迎されなかった。封建時代に女は厄介者であり、特に熊本は俗に、「男威張り」というほどに女性の幅の利かぬ地域であり、楫子は生まれながらに、「余り者」として扱われた。

    姉たちは次々と結婚したが、3歳上の姉は47歳の相手のところに後妻で入るも妾扱いだった。6歳上の姉久子が、婚家先の徳富家から大きなお腹をして実家に戻ってきたが、生まれたのが男の子であった事で帰っていく。楫子はこうした時代の現実にショックを受ける。男が大事、男が必要なのは分かる。が、なぜその責任を女だけが負わねばならない?楫子は母に尋ねた。

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    「しょうがなか。女じゃもん」。答えになっていないが、当時にあっては疑問の余地のない答えだ。26歳で晩婚の楫子は、夫の暴力に耐えかね実家に舞い戻る。その後、東京在住の兄が病気になり、楫子に上京を求めてきた。楫子は幼子を妹に預け、単身上京する。兄は大参事(副知事)兼務の左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いの女中らを雇っていた。

    楫子は生来の向学心もあって学問に励む。小学校の教師などをしながら、楫子の後半生に多大な影響を受ける米国の宣教師で、教育者のマリア・ツルー夫人と出会う。夫人の影響でキリスト教に入信し、洗礼を受けた楫子は、1881年(明治14年)櫻井女学校の校主代理に就任する。1890年(明治23年)、櫻井女学校と新栄女学校が合併して女子学院となり、初代院長に推される。

    現在、女子学院は、桜蔭、雙葉とともに多くの東大合格者を出す、女子御三家と言われる進学校である。そんな難関入試をくぐり抜けてきた才女達は、将来どんな女性になるのか?日本初の、「塾ソムリエ」として活躍中の西村則康氏は、「研究職」、「キャリア」、「教養のある婦人」としたが、テレビなどで見る有名人を拾ってみた。膳場貴子、辛酸なめ子が女子学院。

    菊川怜、響奈美・白石みゆき・八ッ橋さい子 (以上3人共にAV女優) が櫻陰、川上弘美、いとうあさこ、高橋真麻が雙葉。AV女優もいたりと華やかである。何にしても学歴はついて回るものだ。中学、高校より先の人生もあるし、女子校御三家を出ただけで、「教養ある婦人」は言い過ぎではと、異論を挟んでおく。さて、ヒラリー・クリントンは、「ガラスの天井」を破れなかった。

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    理由はいろいろ言われているが、落胆を隠せない民進党の蓮舫代表はこう述べた。「ヒラリーは最も、『ガラスの天井』を壊す可能性の高い方だと思っていました。多くの米国の女性たちの応援も見ていましたので、この結果によって今後 (大統領選に) 手を挙げる女性が少なくならないことを願います。わが国でも女性リーダーの誕生は、まだまだと認識しています。」

    日本をはじめとする多くの国々で女性たちは戦いを通し、さまざまな女性の権利を獲得してきた。そうした歴史の中からフェミニズム(女性解放)運動が始まったが、もっとも活発だったアメリカで、フェミニズム運動に関わった60代、70代の女性にとって初の女性大統領の誕生は、運動の最終的目標のひとつである。その夢を実現する理想の女性がクリントン候補だった。

    今回の選挙をつぶさに観察し続けた中岡望氏は、現地アメリカでは、女性大統領が誕生するかもしれないという熱狂ではなく、女性の間にある妙に冷めた雰囲気であった。むしろ女性が女性の大統領を選ぶべきという雰囲気や状況は影を潜めていたという。これに対してジャーナリストのペグ・タイヤは、「そもそも女性票というものは存在しない」と指摘する。

    女性だから、男性だからといって投票行動が異なるわけではないとし、女性だから女性候補に投票すると考えるのは、神話であると言い切る。アメリカの女性有権者の多くは、ジェンダーではなく、党派や、宗教により忠実で、すべての女性が、女性大統領を選ぶことを重要と思っていない。現実に白人女性の53%が女性蔑視論者トランプ候補に投票している。

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    なるほど、数字は具体的である。トランプ候補を支持した層の多くは、高卒以下の労働者であったし、民主党の大統領予備選挙でサンダース候補を支持したのは、巨額の学生ローンを抱え、アメリカンドリームを夢見ることさえできなくなった若者たちであった。いずれも格差の急激な拡大の犠牲者であり、ワシントンのエリートには忘れ去られた存在であった。

    このことから中岡望氏は、今回の選挙の争点は、「エスタブリッシュメント」対「忘れられた人々」であったと分析する。アウトサイダーのトランプ候補は、既得権を壊し、既存の秩序を、「変革」すると主張したのに対し、インサイダーであるクリントン候補は、既得権を擁護し、社会を変革するのではなく、「進化」させると主張した。この時点で既に勝負はついていた。

    トランプ氏支持者に多い専業主婦。トランプ氏を支持した白人中間層男性の妻。さらにはシングルマザー。そうした女性にとって、「ガラスの天井」は、「上から目線」、「鼻につく」、そんな象徴に映ったのではないか。クリントン候補を支持する超セレブ層を嫌った、非セレブ女性層。クリントン敗北には、そうした女性の分断があったのではとの分析もある。

    クリントンは、「ガラスの天井」を破れなかったと発言したが、「ガラスの天井」ゆえに大統領選挙で敗北したわけではないと考えるのが現実的である。クリントンのような優れた女性をして達せなかった大統領だが、そう遠くないうちに、アメリカで女性大統領が誕生するだろう。その女性は、「ガラスの天井」を壊すべく巧みな戦略をひっさげた人ではないか…

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    矢嶋楫子について全然書き足りていない、ゆえにもう一稿。彼女はあの時代に異常なほどの健康と、過剰ともいえるエネルギーを持ち、負けず嫌いで、強情っぱりで、命尽きるまで働いた、"頑張り屋婆さん"であった。NHK連続テレビ小説『花子とアン』の主人公村岡花子は、「矯風会」を通じて楫子とつながりがあり、荻野吟子も、「矯風会」の会員だった。

    「矯風会」は、1886年(明治19年)12月、東京婦人矯風会が結成され、日本における婦人解放運動ののろしがあがった。楫子は初代会長となったが、時に54歳であった。1982年(明治25年)には全国的な組織と発展し、「日本基督教婦人矯風会」となり、楫子は初代会頭の推された。最初に手掛けた運動として、1890年(明治23年)に開設された国会に二大請願を提出。

    一つは、「一夫一婦制の確立」、もう一つは、「海外醜業婦の取締」である。海外醜業婦とは「からゆきさん」をいい、海軍大軍医の石神亨が軍艦で欧州に往復する途中、シンガポール、東南アジアの諸都市に「からゆきさん」と称す、騙され売られた賤業婦の多くは、日本に帰りたくても帰れず苦悩する者、病と貧で死ぬのを待つばかりの女性を見聞し報告した。

    矯風会は、この問題に取り組み、1916年(大正5年)に、「海外醜業婦防止会」作り、林歌子ら3名を海外派遣して醜業婦の現地調査を行い、国内においては、醜業婦の出身地天草、島原地方の調査も行っている。さらに矯風会は、足尾銅山鉱毒事件の時には、田中正造や木下尚江らとともに、被害者の惨状を世間に訴えた。また、日露戦争の際、6万個の慰問袋を作った。

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    廃娼運動も続けられ、1917年(大正6年)、大阪の北新地遊郭が全焼したのを契機に、矯風会は消失遊郭の復活阻止運動を展開したが、翌年飛田に2万坪の遊郭地が指定され、強力に続けられた運動は敗北に終わる。楫子は1914年(大正3年)に女子学院を辞し、その老躯を矯風会事務所に移すと、遊郭廃止運動に東奔西走の活躍を見せる。1920年(大正9年)、楫子が欧州に赴く。

    第10回万国矯風会大会出席のためだが、このとき88歳であった。翌年も89歳の身を以て、四国・九州を経て満鮮に赴き、40日間の日程をこなす。さらに翌年には渡米の途に着くなど90歳にして八面六臂の活躍であったが、さすがの楫子も以後は病床に伏せる。「私は誰もいない静かな時に死にます。皆がいて騒がれてはたまらない」と口にする楫子であった。

    1925年(大正14年)6月16日、楫子は93歳の長き人生を終えたが、甥の徳富蘇峰をして、「精力絶倫」といわしめた。その言葉を表題にし、村岡花子は、「矯風会」機関誌『婦人新報』に、弔文を記した。蘇峰は青山会館で行われた楫子の告別式に、以下の追悼の言葉を述べている。「…私は如何なる具合であったか、幼少より此の叔母さんは嫌ひでありました。

    而して長き歳月の間、厳正なる批評家の態度を持って、其の一切を観察して居りました。(略) 併しながら如何に峻厳なる批評者として之を観察しましても、一切を乗除して、矢嶋楫子は、明治大正の御代に於て、偉大なる婦人の一つであることを、否定するわけには参りませぬ」。彼女の性格の全貌をこう伝え、さらに蘇峰は楫子の墓碑銘の中に「精力絶倫」と記す。

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    「精力絶倫」は男に向いた言葉と思いきや、女性に向けられたのは稀有であろう。楫子にそれに代わる適切な言葉は見当たらない。同じ甥で蘇峰の弟である蘆花も、「あんな嫌な婆さんはいない」と言ってたというが、二人の甥に嫌われるところに、楫子の人間的本質があったろう。88歳でロンドンで開催の万国矯風会会場で、名物婆さんと言われ楫子である。

    蘇峰も蘆花も楫子の6歳上の姉久子の子である。二人は楫子を嫌ったが、反面楫子に辛辣であった。楫子にはぬぐい難き過ちがあり、そのことは、蘇峰も蘆花も知っていた。過ちとは、楫子が兄の看病のために上京、兄宅で奉職中に書生の鈴木要介と肉体関係を結んだ。人目を忍んで4年間も関係を続けたが43歳で妊娠。楫子は堕胎しようとするが、要介の希望で産むことになる。

    東北出身で妻子がいた要介は、「ともに故郷に帰り、妾として戸籍登録をする」と申し出るも楫子は断わり、仮病を使って学校を休み、練馬村で出産する。楫子は子どもを農家に預けて教師を続けた。ごく親しい近親者以外はこの事実を知らない。数年後、楫子は、可愛そうな孤児がいると嘘をついて女児を連れて来、実の娘を養女と偽り、矢嶋妙子と名乗らせた。

    人々は楫子の慈善心の深さに感銘を受けていたという。楫子は妙子を自身が院長をしていた女子学院を卒業させたが、最後まで秘密を明かさなかった。やがて妙子は、矢嶋・徳富両家の親類つづきである牧師と結婚するが、親の因果が子に…ではないが、妙子は夫以外の男と不倫関係となり、夫を捨てて男の元へ走る。悲嘆にくれた楫子は運命のいたずらを実感する。

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    要介とのことがあった翌年の1879年(明治12年)、それまでキリスト教に不快感を抱いていた楫子だが、ミセス・ツルーの影響もあって、築地新栄教会でタムソン牧師から洗礼を受ける。当時17歳でキリスト教徒であった甥の蘇峰は、楫子の洗礼に際し、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと  2.妻子ある男の子を産んだこと)」を告白すべきとの手紙を送っている。

    蘇峰の弟である蘆花も、老叔母楫子の死の直前まで、楫子の過去の秘密(過ち)を告白せよと追求した。若く純粋だった二人の甥は、罪の懺悔もないままに教育者という偽善を侵す楫子が許せなかった。楫子は終ぞ死ぬまで告白しなかったが、蘆花は楫子が亡くなるやすぐに、「二つの秘密を残して死んだ叔母の霊前に捧ぐ」という文章を『婦人公論』に発表したのだった。

    亡くなってすぐに故人の、それも身内の暴露話や批判をするなど、非礼という言葉では済まないが、蘆花にとっては楫子が告白を拒んだ不誠実な態度がよほど腹に据えかねていたようだが、事実は違った。蘆花夫婦に懺悔の説得を促されていた楫子は、意を決して矯風会の幹部であり、のちに会頭に就任することになる久布白落実に依頼して、懺悔録を口述筆記させていた。

    楫子とて生身の人間である。蘆花が病床で懺悔を厳しく迫った時、楫子自身、善悪の狭間で大いに悩んでいた。そうして遂に、蘆花の姪であり、楫子にとっても姪の娘である矯風会の若き幹部である久布白落実に口頭筆記をさせていた。落実は掲載を悩んでいた。ところが、蘆花が暴露したことで、落実は1925年(大正14年)9月、矯風会機関誌『婦人新報』第331号に掲載する。

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    これまでの楫子の虚妄人生は、クリスチャンである久布白落実にとっても許しがたい欺瞞であったが、懺悔録が公になれば、楫子の評価は地に堕ちるばかりか、「矯風会」はキリスト教の慈善団体どころか、偽善団体として世間の批判にさらされる。落実はそう考え、楫子からの口頭懺悔録を隠蔽するつもりでいた。もし、蘆花が暴露をしなければ公にならなかった。

    楫子の過去にあった2つの大罪は、落実さえ黙っていれば永遠に隠し通せると思っていたようだ。それが、まさかの親族である蘆花が、それも楫子の死の直後に暴露するなど、予想もしていなかった。それについて蘆花はこう述べている。「私が大正11年の秋、夫婦で十年ぶりに訪ねて行ったとき、『叔母さんは死ぬ前に一切の秘密を告白しなければならない』と迫りました。

    そのとき叔母は非常に落ちつかぬらしかった。しばらく考えた後に、『私の過去の秘密を知ってくれて感謝しますが、私のことは私で処理します』と言い切ったので、そのまま帰って来ました。早く懺悔をしてもらいたかったのです。懺悔の一日も早からんことを願って、毎日胸が躍るのでありました。が、叔母はついに、懺悔しないで死んでしまいました。

    知らない人を叔母が懺悔しないで導いたのは大きな罪悪であると私は思います。過去の秘密を隠していながら、叔母は人を導いたり、人に教えたりするところに嘘がある。」盧花はこの文章を発表して、大いに社会からの反発を買ってしまう。何十年も前の若き日に犯した過失を、かくも執拗に告白せよと迫られては、楫子も迷惑に思ったことだろう。

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    が、叔母の欺瞞が許せなかった蘆花の純真な気持ちも判らなくはない。子どもを捨てたこと、不倫の子を産んだことを隠すために、楫子は無数のウソをつき続けなければならなかった。嘘に嘘を重ねる行為は、もはや罪の意識など微塵もない、嘘の技術と化してしまう。嘘をつくことより、嘘の上塗りが問題。そこに歯止めをかけなければ人は嘘つきとなる。

    「真実」というのは、なんと恐ろしいものであろうか。どうあがいても、真実は本人も他人も傷つかずには実行できないからだ。自分も他人も傷つくがゆえに真実は偉大であり、真実は美しいと思っている。なぜ傷つくことが美しい?人間が耐える姿がそこにあるからだ。人間の耐える姿はいかにも美しく、「頑張る」という情緒の極致ではないか?

    ところが、真実を求めていく過程で、真実の圧迫に負けてしまうことがある。真実に耐えられる人間を真に強いといい、これとて美しい。人は嘘をつきながら、嘘をついている自分を認めるだけの強さがないために、やれ道徳だ、良心だのと無意識に誤魔化してしまう。自分の弱さを弱さと認められないのなら、人間の偉大さは何処に行ってしまうのか。

    嘘を嘘だと認める、醜いことを醜いと認めることは勇気がいる。が、嘘を真実といい、醜いことを美しいと思い込むのを欺瞞という。「他人を傷つけたくなかったから、嘘を嘘だと認めたくなかった」という言葉を口にする人はいる。一見、思いやり、慈悲のこころのようだがダメだ。真実を実行するとき、人は傷ついてもいい。それ以上に自分が傷つくことになるから…。

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