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「ブログが怖い」という ②

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本格的、継続的にウォーキングを始めてまもなく1年になるが、有酸素運動といわれるように、歩いていると確かに脳に酸素を多く含んだ血液が流れて、頭が冴えているのがよくわかる。歩くのは無理な運動にないが、それでも疲れるという人は、心肺機能や足腰が弱いのではないか。足を使っての運動だから脚力ともいうが、決して無理をして速く歩かないことだ。

やはり、無理はストレスになろうし、記録を目指すアスリートなら無理をしても目標に近づける必要はあっても、体に良いウォーキングといいながら、体に悪いストレスを起こしてはダメだ。歩くのが楽しいという表現をする人は、おそらく脳の爽快感を感じているのではないか。ジョギングブームだったころ十数年前に読んだ本に、ジョギングは中毒性があると書かれていた。

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脳内麻薬といわれるドーパミンが放出されるからというのが理由で、麻薬なら中毒になってもおかしくない。ジョギングより軽度なウォーキングも、距離を延ばせば適度の疲労感はあり、適度の疲労感も快感とならば、中毒の一因であろう。運動のみならずブログも中毒性があるようだ。ブログが最も広がった国は日本と言われ、2002年ごろから広まってきた。

自分は2006年から始めたが、その当時はもう巷でブログ、ブログ、ブログと、煽っている感があった。調べてみたところ、当初から日本語で書かれたブログは、他の言語で書かれたブログに比べ、その増加率という点で突出していたようだ。2007年には、世界中で投稿されたブログ記事のうち37%が日本語で、英語圏を抜いて世界一であるとの調査結果もあった。

日々の個人的な日記よりも、書評ブロガーが多かったようだ。書評ブロガーが多かった理由は、本好きの日本人が、小遣いの多くを本代に費やし、本の置き場もないくらいに積み重ねているような人たちが、せっかくの知識や素養を生かす場として始めたのではないだろうか。読書家であるからにはそれなりのインテリ層であったろう。人間の質は表面的には分からない。

普通の世間話をするだけでは何も変わらぬオッサンであれ、ストックとしての知性や教養がある人は話し込むと分かる。人の知的痕跡(インテリジェンス)はひけらかさずとも自然に出てくるもの。一部のインテリ層が占めていたブログがどんどん普及し、今やサルでもネコでもブロガーの時代となった理由は、「こんなことも書いていいんだ」とのハードルの低さであろう。

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誰もが書評ブロガーや、政治や経済などについてなどの、影響力のあるブロガーでなければならない理由はない。今や、他愛もない個人の日常や育児日記がもっとも主流を占めているのではなかろうか?また、ブログを始める動機がそれであったりする。日記を公開するなどの自己顕示欲の強い人は、ブログが広まる前から自前のサイトを立ち上げて「公開日記」を投稿していた。

当時の状況でサイトで個人日記を更新し続けるのは、それなりのエネルギーはもちろんのころ、パソコンの知識や技術、それに資金も必要だった。今ほどインターネットが割安で利用できない、ニフティーなどのパソコン通信の時代などは、月の使用量が7万、8万は普通にかかっていた。携帯が普及したころ、子どもに持たせたところ、高額の使用量が社会問題になった。

「ブログ始めました」と誰もがそのように書き、その言葉だけで終わったブログをたくさん見かけるし、毎日こまめに10年以上も続ける人もいる。したがって、ブログは主に毎日更新されるブログと、ときどきしか更新されないブログの二種類に分けられる。「長いこと放置してました。すみません」というのを見ると、何の誰に謝る必要があるのか不思議である。

そういうブロガーは、ファンのために書いているのだとの意識が強いのだろう。いつも見に(読みに)来てくれるのに、すっぽかして申し訳ないということだろうが、「すみません」と謝る必要があるほど、ファンという方々に拠り所とされているのだろうか?いささか思い上がりを感じる。最初は自己顕示もあってファン拡大に躍起になったはいいが、それが負担になったりする。

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人のために何かをするということは、自分のために何かをするよりも、結構苦しいもので、それをプレッシャーともいう。「親のためにしなきゃ」、「恋人のために」、「妻子のために」などは、人間が本来弱いものであるなら、それらが「やる気」の支えになる場合もあるが、人のために何かをするという基本は依存であって、対象を喪失したときの悲哀感情に苛まれる。

あまりに依存心が強いと、対象喪失を受容できず、対象喪失を否認する行動に出る。分かり易い例でいうと、恋人といさかいを起こして、相手が去って行ったとする。3日経ち、1週間経ち、恋人への思いは募るばかりで消えることはない。それで一人ぼんやりと、明日は恋人が自分のところに「悪かった、ごめん」、そういって戻ってくる来ることを心の中で想像する。

二人で話し合って決めた破局の事実、恋人を失ったのは紛れもない事実だが、それを否認しようとし、いつまでも思いを巡らすという女性は結構多い。しかし、現実には恋人が「悪かった」と謝り、戻ってくることはない。「辛い」、「苦しい」そんな失恋の日々はいかに相手に依存していたかの現れである。それでも本人は自己の依存心ゆえに新しい体制ができあがらない。

「引きづる女」と言っている。つまり、神経質なまでに依存心の強い人間にとって、現実的なのは自分の感情だけである。そして、それは自己中心的な幼稚な感情である。自分には自分の感情があるように、人には人の感情の動きがあると、どうしても思えないし、納得できない。子どもに依存する親の多くも同じ感情である。子どもが親に依存するのは現実的である。


悪くいえば親を利用するのであって、それは生きるための現実であるが、親が子どもに依存するのは、自己実現の場合が多い。対象に自分を委ねるというのはそういうものだが、それらを親は否認する。あるいは無意識に子どもの幸せのためと思い込んでいる。自分の行為を自分のためとの意識でやるならはぐらかされ、意に反することも、収拾し納得しようとする。

が、自分の行為は子どものため、子どもへの愛情だと思い込んでる親は、子どもの反発を許せない。だから、「あなたのことを思ってるのに、なんでそうなの?」と子どもに向かって嘆いたりする。子どもが親の行為を本当に自分のためか、あるいは親の都合や周囲にたいする見栄であるか、見分けがつかないこも多いが、物事をしっかりと是々非々に考える子はそれを見抜く。

もっとも親もおろいろで、大根役者と見抜かれて当然の親もいる。自分の都合を子どもに見抜かれぬように隠し、いかにも子どものためと思わせる言動に長けた親は、スポーツ界における名コーチと同等の資質を持っている。コーチの卓越した能力というのは、"そそのかし"の技術ではないだろうか。同じように真意を隠したそそのかし上手の親はよい結果をもたらせる。

「そそのかす」には悪いそそのかしもあるが、「バカとハサミは使いよう」で、実際何事も使いようである。選手と一緒に楽しむコーチ、子どもと一緒に楽しむ子育てが理想だが、今の競争社会にそんな暢気なこと言ってられないという親もいる。善悪というよりも、そういう親にしてそういう子どもが育つ。子どもに身についたものの責任を親が取れるか?まあ「無理だ」。

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タイムリーでいうなら、世間のいう高畑裕太がそれほどにダメな男であったとして、その責任を母が取れるのか?尻ぬぐいはできても、身についた資質や性格の責任をどう親がとれというのか?まあ「無理だ」。子に依存する親なら自分の生ある限り子どものアレコレの責任を取るつもりだろうが、傍からみれば惨めな親子であり、動物に比べて何とも人間の儚さであろうか。

「子どもに一切を託すこと。それが私の人生です」。も殊勝な母として美しい言葉に聞こえる。そういう母がいてもいい。人の人生だ。それはそうだが、例外はあっても、基本親は子より長くは生きられない。だったら、子どもが人生の伴侶を見つけ、親亡きあとも楽しい人生を送ってもらわねばならない。そうあって欲しい。それを真に願うなら、親は早い時期に子離れをすべき。

それをしない、できないというのは、親不在の子どもの人生を認めてないことになる。母親は目先だけのことに躍起になるが、常に3年後、5年後のことを考えて、今の行動を決めなければダメだろう。今だけ、今がよければいいという自転車操業的子育ては、将来「〇」を貰うために今は「×」である方がいいといった、長期のスパンで子どもを考えることができない。

「子どもにしてやるすべては子どものプラスになる」ではなく、親が子どもに手を貸す多くは、子どもにマイナスとなるという思考を、強く自分に言い聞かせる。巣立ちの前の子どもに餌を与えない動物の非情さをみるとき、あの非情さに親の苦悩は感じられない。彼らはいかにもさりげないし、当たり前のようにそれをやる。それが子どものためと知っている。本能のなせる業か。

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そういう時に人間はバカだと思う。本能の壊れた動物ゆえに仕方ないというのは言いぐさであって、だったら思考があるし、知識があろう。知識で本能をカバーできるはずだが、それも簡単ではない。なぜなら感情が災いをするからだ。子育てに限らず正しいことを行う条件として、思考し、知識を得て、感情を殺し理性で行動する。それが正しい行為の条件と考える。


「ブログが怖い」という ③

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ネット内では様々なトラブルがある。自分も経験したから分かるし、別にネットに限らずとも人間関係の基本的なトラブルは言葉によるものが多い。言葉のない動物のトラブルは行動のみで派生するが、そこの点において人間は複雑である。確かに行為における誤解もあるが、言葉における誤解は行為の比ではない。まして内面に怒りを感じてもそれが表出しない場合が多い。

「あいつはすぐに顔にでるよね」などと言われる人間ともいれば、喜怒哀楽を表情に出さない人間がいる。それでも注意深く表情をみれば、あるいは口数が少なくなるなどの変異は読み取れる。リアルと違ってネットは全員が顔に表情を現さないと同じ。ビギナーのころは顔や表情が見えない部分やりにくさを感じたが、慣れてしまえばどうということはない。

が、ネットやメールの文字交流は、顔文字を巧みに使って心情を表現するという。顔文字など邪魔でしかない自分は、最初から興味もなく使うこともなく、よって顔文字が現す意味など考えたこともない。文字は言葉であり、言葉が文字なら、心も感情も文字で現したい。言葉で伝えられないものを顔文字で表現するなど、リアル会話にはない。よって自分にも顔文字は無用。

まあ、顔文字で心情表現をする楽しさを感じるなら使えばいいし、利用者への批判はない。自分は、(笑)、(汗)、(爆)なども用いない。文字会話創世期の頃、こういうやり取りを多く交わした。「(笑)をつけてはぐらかそうなんてセコくないか?」、「(笑)をつければいいってもんじゃないだろう?」確かに、(笑)をつけることは、語彙を強めないという効用はある。

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が、本来男同士の会話というのは率直であり、それで長年やって来た。したがって、相手も自分も率直を受け止めなければ会話はできない。いちいち、「その言い方キツイね~」とか、「そんな風に言うのか?」などの言葉で、行き過ぎた言葉をけん制した。だからか男は女性に対しても男同様、率直に物をいうところがあり、それでよく女性にイロイロ言われたりもした。

が、文句を言う同世代女性はそれほどいなかった。どのくらいの年齢差か分からない、男のキツイ言い方へのクレームは、ある世代から急激に増えた感がある。さらに若い世代女性が会話の最中に、「傷ついた」と言われてビックリしたことがある。言いすぎて多少相手の雲行きが変わったという体験はいくらでもあるが、それを「傷ついた」と言葉に出す女性を初体験したときは正直驚いた。

つまり、"傷つく"という情緒は、本来は隠すもの、悟られぬようにするものだったからだ。みなが傷ついても顔に出さず、情緒を立て直そうと頑張っていたはずが、平気で「傷ついた」と言える世代が出現したのだから、カルチャーショックである。「そんな言葉を出していいのか?」と、「よくそんな言葉を言えるよな?」というのが交差した感じであった。

裏返せば、「そんな言葉を出してはダメだろ?」という事だろう。そういう言葉が口に出せるようになった背景には、傷ついた自分を自浄努力で解決するのではなく、相手に促しているのは明白だ。促す理由は、責任をハッキリ明言しているということか?「その言葉、傷ついた」と言われれば、言った相手は「ごめん」などの謝罪をいう事になる。いや、言わなければならない。

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それを求めているのだろう。確かに「傷ついた」という言葉はなかったが、「そんな言い方ないだろう?」、「そこまでいうか?」などは、変わる言葉であろう。だからと言って「傷ついた」と弱音を吐いてはいない。相手の言い方に苦情を突き付けても「傷ついた」とまでは言わないし、実際傷ついていても隠そうとする。それをあっさり、「その言葉に傷ついた」である。

人間(自分)は弱いけれど、それでも頑張ろうということか?弱音を吐く、弱気を悟られるのが恥だった世代かも知れない。同じか同かはともかく、女性は生理中であることを悟られぬようにするのが、たしなみであった。母親から「絶対に気づかれないようにね」などと躾けられたというのもあった。子どものころに生理用品のCMだけは、何のことかさっぱり分からなかった。

6年生のある日、女子だけが作法室に集合するようマイク放送があった。男たちは「何だよ、一体…?」とざわめいたが、自分は幼馴染で家が隣のNに聞けば分かる、と思っていた。早速家に帰ってNに聞いた。「何の話だった?」、その時にNが話したことはさっぱり意味がわからなかった。「ゲッケー?」、「赤ちゃんのできる準備?」なことが分かるハズがない。

それで、「家庭の医学」を開き、ゲッケーを辞書でも調べた。その時に書かれてあった文字は今でも全文覚えている。「卵巣から分泌される女性ホルモンの働きによって、子宮の粘膜に出血が起こるもの」である。それが自分の調べた「月経」であった。卵巣も子宮も粘膜も女性ホルモンも、まったく意味は分からずだが、上のセンテンスは別段覚えようとしないのに暗記している。

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もし今、「月経」を説明するなら何というだろうか?「月に一度の排卵が精子と遭遇して受精卵となった場合、子宮内で着床すべく粘膜を柔らかくしておくが、受精しない卵子は子宮の内膜と一緒に剥がれて排出される」ということか。排卵⇒受精⇒着床=妊娠という何とも不思議な生命発生のメカニズムに畏敬する。人間は神が造ったというのはあまりに神秘的である。

と、何でも突っ込み過ぎるから、「表題は一体なんだ?」となろうが、逆に表題などどうでもいい。頭に浮かぶことが表現である。とはいえ、表題に戻る。ブログのコメントに無神経な罵倒や心ない非難が書き込まれた場合に、「こいつバカか?」と思えばいいのだが、思える人と、ショックを受ける人の差はなんだろうか?細かくいっても仕方がないので、一口に性格の違いとする。

怒りや悲しみに代表される感情というのは、人によって違うがそれは文化差というものだろう。「文化」というのは都合のいい言葉である。しかし、人類学的に見れば、「感情の文化差」というのは存在する。ミクロネシアのある部族には、感情語としての、「悲しみ」に相当する語はない。エスキモーのある部族に、「怒り」の感情はほとんど観察されないことが分かっている。

一般論に話を戻すが、こんなことで怒る人、こんな程度で笑える人、あんな目にあっても怒らない人、絶対にオカシイのに笑わぬ人、人から饅頭もらって大喜びする人、100万円入りの菓子折りもらっても喜ばぬ人。これらは感情の文化差であろう。他人の記事に文句を言う人間に対し、「人がどう思い、どう感じようと勝手だろ?お前の気にいるものでなければ遺憾のか?」

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と思えばいいわけだ、基本的には。まあ、自分もバカ芸能人がコメンテータ気取りのテレビ発言に文句をいうが、公人としての影響力の大きさと、皆が皆、一つことに寄って集って攻撃する土壌が性格的に許せない。テレビ人間の基本は保身であり、身の安全である。それが根底にあるから、彼らが発言することは、自分がテレビから消されない周到な発言だ。

加害者と被害者を色分けし、加害者を責め、被害者擁護というお決まりの保身術。東野圭吾のように犯罪加害者の苦悩に視点を当てる明晰な思考はない。もっとも東野がテレビにでて加害者擁護をすれば、苦情は来ようが、小説だから論理の一貫性もある。単発言葉で、「〇〇はヒドイ」、「〇〇は可愛そうだ」などのくだらない発言を、寄って集って言う意味があるのか?

女性の痴漢被害が意図的な虚偽であった例は少なくない。強姦されたと言えば男は絶対に強姦した。被害を訴えた女性は間違いなく強姦されたと信じる方がどうかしている。万が一違っていても、「容疑者」という免罪符で逃れられる。加害者には容疑があるが、被害者に(嘘をついたという)容疑はかからない。それが犯罪を嗅ぎ分け、罪人を見つけ出す警察の習性であろう。

痴漢されたと言っただけで女性は被害者。男は痴漢容疑者。なぜ被害容疑者と言わない?強姦されたと言えば男は容疑者。女性は被害者。いずれも容疑段階であるから、違っていても警察は鬩ぎを受けない。それはそれでいい。それで容疑者を行為者と確定に至ることもあるわけだ。問題なのは、バカ芸能人の容疑段階における決めつけだ。皆がそろってこき下ろす。

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誰もがこぞって、「自分以外はバカ」と言っているようなもので、だったらそういう彼らを批判する者が必要である。個々の発言は個々の文化度だからいいが、今の段階でそこまでいうのはダメだろ?それくらいの節度はないのか?お前ら何様だ?芸無し口達者のバカ芸人くらいいってもお釣りはくる。彼らは本当に節操がない。無茶苦茶な個人攻撃をやるネットイナゴと同類。

その点、橋下徹というは、自尊心や利害に蹂躙されず、是々非々に物事を考える点で好感を抱く。人間は誰も間違いは犯すし、希少な情報からの先入観で明らかに間違いを犯した時には、素直にできる限りの謝罪をする。それが発言に対する責任の取り方である。そういう時にこそ、人間の責任感が伝わる。小池都知事が豊洲移転に待ったをかけた際、橋下は痛烈に批判をした。

「改革の旗手を謳って当選したからと、パフォーマンスに偏っていると政治家として失敗する」と。小池の正しさが評価される今、橋下がどのような言葉をいうかを見ていたが、彼はこのように自分を責め、小池知事に間接的に謝罪をした。「豊洲問題を公にした小池知事の功績は認めなければならない。都民も圧倒的に支持。今のところ政治家としては大成功。

政治的に失敗すると簡単にコメントした僕は、もう無責任な小金稼ぎのコメンテーターだね」。自分も含めた一億総ブロガー時代にあって、ブログは自己主張でいいが、橋下のような影響力の高い発信者には、決して雑にならず丁寧な発言が必要となる。なぜ丁寧であるべきかは、丁寧というのは責任をとるためで。後で、「あれは深く考えずに適当に言った」などの言い訳を許さない。

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坂上忍は高畑が不起訴(事件性が無い)となったことで、以下の言い訳した。「我々だって、最初にこうだと言われたら、それを信じるし、それを元に発言しますもの」。カスだろ男として、こういう言い訳は…。「最初にこうだと言われて鵜呑みにしたのは軽率でした。申し訳ありません」ならまだしも、容疑段階であそこまでいった責任を、彼は謝罪という形でも取らない。

無責任な小遣い稼ぎコメンテータと水道橋博士を罵った橋下が、その言葉を自らに被せたのは必然で、吐いた唾は自ら飲み込むことも言論世界では起こる。それを恐れていて自己主張はできない。間違いを恐れず、間違いには誠心誠意に対応する。少ない情報の中で言論する以上、その姿勢が大事である。「分からないから言えない」より、発言して間違えば謝罪する。

「ブログが怖い」という ④

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〇〇「今、フェイスブックのコメントですごく落ち込むということはほとんどないですね。週刊誌もそうですが、特にネット上で自分に関してものすごいことが書いてあると、以前は、『なんで全然知らない人にこんなことを言われなきゃいけないんだろうな』と落ち込むことはありました。ただ、自分がどれほどの人間かというのも分かっているので、自分の実力以上に持ち上げられるほうが怖いと思っているんです。

だから、批判的なことを言ってくれる人たちは、自分の中ではバランスを取ってくれている人でもあると思っていました。こういうことを言われるとこんな気持ちになるんだ、とわかったことは、私にとっては学びです。若い人、特に子どもたちの中には、そのことで傷つき、いじめられ、自殺してしまう人もいる。実際に自分も書かれてみないとその気持ちは分からないじゃないですか。

そういう意味では学びになります。今はそれほど落ち込むことはなくなりましたけど、以前、ひどいことを書かれたのを見たときは落ち込みましたし、泣いていたこともあるし…。それをどうやって解消していたかって言われると、「うーん、どうだったんでしょう」って思いますね。主人に『ひどいことを書いている人がいる』というと、『そんなの見るからいけないんだ』って(笑)。

発言の主は安倍昭恵さん。安倍首相夫人である。ネット上の批判に落ち込み、泣いたこともあるそうで、そうした沈んだ気持ちをどうやって解消したかについては記されてないが、見ず知らずの人から批判やひどいコメントを書かれたとき、「自分がどれほどの人間かというのも分かっているので…」と彼女は言うが、人には自尊心がある。自分がどれほどの人間であっても腹は立とう。

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そういう慰めで解消できるならいいが、そうもいかないだろう。自分は言われなき誹謗・中傷コメントには、「バカかこいつは?」である。そう思うのは当たり前では?見ず知らずの人間の書いたものが気にいらないと文句を言われても、そんなの知ったことではないし、「勝手に吠えてろバカもん!」と思うのが自然ではないか?人はそのように思わないのか?

思わないから落ち込み、傷つくのではないのか?口に出して言わなくとも、腹で思えないのか?自分は争うのが好きではないが、腹で思うのも口に出すのも同じことだと思うから言葉にする。人の意見に対してキチンとした言葉で異論をいうならともかく、「バカ」、「死ね」の発言は普通じゃないだろう。普通じゃないからイカレてるし、それを率直に言えば「バカ」である。

人に「バカ」というのは躊躇われるというが、確かに乱発はよくないし、滅多なことでしか言うべきではないが、それでも言わないという人を別段立派とは思わないし、そういう立派な自分でいたくない。「バカを言うな!」、「何をバカなこと言ってるんだ!」という言葉があるように、「バカかお前は!」というのは、「何バカいってるんだ!」を省略したもの。

そのくらいに呆れたということだから、いいんではないかと自分で思っている。「バカ」は呆れの言葉。「インターネット上の匿名コメントに傷ついたことはありますか?」というアンケート調査がある。30代の男女限定で300人に問い、21.3%が「傷ついたことがある」と回答した。男女別に分けると、男性は12.7%、女性は8.7%と、男性がやや多い結果となった。

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が、どんなコメントに傷ついたのかの質問には、女性の方が悲惨であるのは、感情的になる女性は悪口上手かも知れん。女性の場合は特にQ&Aサイトのようなところで被害を受けやすいようで、確かに、発言小町の質問はしばしば炎上しているという。被害の例は、「質問自体を否定されるような回答を書かれた」、「"こんなこともわからないの!"と、バカにしたような回答」。

さらに女性の場合は匿名をいいことに、コメントで言いがかりをつけられる傾向がある。「ブログに“こいつは犯罪行為をした”というコメントをつけられた」、「イラストサイトを公開していたとき、パクリだと言いがかりをつけられた」など、いずれのケースも事実無根。インターネットという誰でも見られる環境で、このような書き込みをされるとブログを止めたくなろう。

男性の場合でもっとも多かったのが誹謗中傷。中でも「“死ね”と書かれた」という回答が多い。他には、「婚活していることを書いたら“おまえには無理”と書かれた」、また、「真正面から傷つけられるより、関心なさそうなコメントに傷ついた」というのもある。そんなんで傷つくのか?だが、人が傷つく度合いは分からない。女性の粘着度に比べ、男の方がサッパリしている。

安倍昭恵さんは首相から、「そんなの見るからいけないんだ」とたしなめられたが、政治家にしろ公人というのは、悪口なんか気にして勤まる仕事ではないだろう。したがって気にしないコツというのは、「見ない」ということで、これに限る。人間いかに強い精神力の持ち主といえど、延々悪口ばかりを垂れ流されるってのは耐えられるものではないし、嫌なものだろう。

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そうなるると、もう面倒くさいからかかわらないでおこう、いちいち批判に反論なんかしないでおこう、相手にしてもしょうがないからと、大人ほどそういうスタンスを取るが、これも一種の諦めであり、逃げでもあろうが、決して逃げるのが卑怯でも悪いことでもない。『君子危うきに近よらず』というように、これが大人の振る舞いってやつかもしれない。

ブログの悪口コメントなどは、延々とではなく、一過性、一時的のものだから、それくらいやり過ごすのも、大人のたしなみである。「大人なんだから」、「大人だから…」、「そうとも、自分は大人なんだし」などと、呪文のように言い聞かせるのもいいかも知れない。自分のように、「バカかこいつは」などと思えるならいいが、それも多分に年代的なものもあろう。

思う、思えるのではなく、「そうしか見えない」わけだから相手も惨め。何度もいうように基本は、「自分は自分の書きたいことを書く。人にとやかく言われる筋合いはない。真っ当な批判意見ならまだしも、誹謗や暴言の類は真っ当なバカである」。これは正論だろう。子どもっぽい罵りもあれば、笑えるコメントもあるから、それはそれで楽しめばいいかと。

まあ、「バカ」というのは、決めつけというより、「バカに見える」であるから、気にせずに使っていいのではないか。相手の醜態を「バカにみえる」のは、正直な視点だし、自分を偽ることもないだろ。「バカ(に見える)」とは、学歴やら老若男女やら、富裕などには何の関係もない。一流大学でて、一流企業に勤めて、法外な収入を貰っていても、バカに見えれば仕方がない。

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ま、ネットはその辺が分からぬから誰にも公平という点でよい。何も好んでバカを探してるわけでもないし、バカを探すのはそれこそ大変だが、突如現れ出でたるバカを眺めるはサプライズか?他人を見下して悦にいる者、他人をコケおとして自尊心を満たす者、そんな風に生きて面白いのか、なんなのか。バカに遭遇したときのなんとも溜息交じりのやるせなさ。

橋下氏もやるせない気持ちで相手を、「バカ」と言っている。他人をバカ呼ばわりして自分を持ち上げるなどと、下等でくだらん行為など望まぬ人間にとって、バカに出会うことはやるせなさである。他人を軽視する性向の人もいれば、他人に敬意を払って交流を図る人もいる。どのような態度で他人と接するかに正解はなく、各々が自分なりの接し方でやっている。

「人にバカと言わない理由が自分が何ほど?」と思うなら結構だ。が、「人にバカという時は、少なくともその問題について自分の思考が勝る」と思うのは驕りでも何でもない。「バカ」という言葉を封印するのはひとつの考え、ひとつの生き方で、絶対的に正しいということもない。基本は他人軽視で人と接する人間が、「バカ」と言わないのは、常時思ってるからだ。

それを「軽視」という。「何でお前はこうもバカなんだ?」そういうやるせなさが伝わるとき、その人は人間らしく映って見える。将来なり得る自分を「可能自己」というが、通常、可能自己にはポジティブな面、ネガティブな面がある。批判は自分を作るゆえに、批判精神は必要だが、協調も必要で、一方だけに偏るのを「クセ」といい、「ひと癖ある」などと代名詞がついたり…

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他者軽視の基本心理とは、自己肯定感を求めようとも求められないことから派生する。自分にそれなりの自信を持つなら、他人を見下したりの必要はない。本当にホンモノの自己肯定というのは、長い年月をかけた本人の努力の賜物であって、ゆえに安定したものであろう。自分の確固たる経験に基づかない弱い自己肯定感は、主観的だし、不安定なものであろう。

世の中にはホンモノとニセモノが同居している。美味しくて味わいのある料理は手間暇かけてつくるが、最近は便利さもあって、レトルト主婦が多い。本当に美味しいものが好きな人は、必然的に料理好きになろう。好奇心の塊が学問好きになるように、アスリートの子ども時代は飛んだり跳ねたりが好きだったように、絵本やマンガ大好き少年がマンガ家になるように…

ウォーキングの問題点

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朝起きて、左足の着地第一歩の痛みが、ズッキ~ンとするここ2、3日である。「う~む」これはウォーキングによるもので、こうなってみるとやはり無理をしていたのだろう。精神的な無理とか負担というより、体を酷使していたことになる。それまでちょくちょく歩いてはいたが、尿管結石のこともあって、昨年10月から本格的にウォーキングとやらを始めたものの…

9月13日現在の総歩行距離は、3427.099kmに達している。これがどのくらいの距離かといえば、一般的に日本列島は最西端の与那国島から北海道の最北宗谷岬まで3000kmといわれるが、それは直線距離であって、くねり型の日本列島は、弓条の島の連なりゆえに500km長い。総延長約は3500kmなら、11.5か月の歩行距離はほぼ日本列島縦断となる。

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などと言われても実際に日本列島を歩いたわけではないからピンとはこない。実際にあるいた伊能忠敬は、15年かけて延べ40000kmといわれている。これも数字的にはピンとこない。人にもよるが、30歳代男性の一日の平均歩数は8200歩だそうだ。1日10000歩、1歩が0.5mとして約5km歩いていることになる。それで40000kmなら(5km × 365日) で22年ということだ。

自分の月平均294.8kmは無理をして得た数字ではないが、結果的に体を痛めてはやり過ぎということになる。それで気になり、「かかとの痛み」をちょいと調べてみた。検索入れるとあるわあるわ、「ウオーキングを2カ月程していたら右足かかとが痛くなった」、「ウォーキングの後、踵、足首が痛い」、「単なる疲労?若くても油断できないかかと痛みさまざま…」など。

「足の裏が痛い、踵が痛い、足をつくと激痛で歩けないという方の中に、最近靴を変えた、最近体重が増えた、最近久しぶりに急激な運動をした、長距離のマラソンやウォーキングする」という方いませんか?」という接骨院の見出しがあり、それによると「足底筋膜炎」という診断を述べている。専門用語なのであまり聴きなれない言葉でもあり、実際初めて耳にした。

足底筋膜炎とは、足底筋膜と呼ばれる踵の骨と足の指の付け根(母指球)をつないでいる筋組織が炎症を起こした状態。原因は様々で、使いすぎ、偏平足、外反母趾、何とさらには骨盤の歪みが原因で起こる方もいるようだ。つまり、足底筋膜に繰り返し負荷がかかることで起こる。過度の負荷がかかると足底筋膜に小さな断裂が生じ、この断裂によって炎症が起き痛みを感じる。

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足を引きずって来院した40代の男性は、歩くたびに足の裏に激痛が走り、仕事で歩くのに困ったとのこと。事情を聞くと男性は、1ヶ月前からウォーキングを週3回しているとの事。ウォーキングを始めた日からなんとなく右足のハリがあり、何日か後には右の足の裏に少し痛みを感じるようになったが、筋肉痛だと思い放置したままウォーキングを続けていたという。

自分も足の底の違和感はまったくないことはなく、足底を地面につける回数が多ければ当然のことと考えていた。それが約1週間前くらいから、違和感が痛みに代わったようで、歩いているときは特に感じないが、寝起きの初めの1歩に激痛が走り、3日前も今朝も歩けないくらいに痛かった。ところが、数十分もすれば痛みはほとんど解消するのだが、そうはいっても気になる症状だ。

上の男性については、2週間ウォーキングを我慢してもらい、週に3~4回の施術をしたところ、2週後には80%程度痛みが消えて歩行も気にならなくなり、3週間後には痛みが取れて日常生活や運動が気にせずできるようになったそうだ。 完治に近い状態で男性は、「さっそくウォーキングを始めたいと思います」と帰られたという。酷使が原因なら、使わなければよくなるようだ。

バレーやバスケの選手には"ジャンパー膝故障"といって、文字通りジャンプするスポーツによる膝の痛みが知られている。野球のピッチャーの肘の故障もそうだし、酷使による故障は当然であろう。自分もそうだが、無理をしても平気な人間ほど無理をするもので、気づいたときはもはや手遅れというくらいに体に障害が出たりする。つまり、無理は精神なのか肉体なのか?

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肉体的な無理を精神で完治しない「無理」というのが怖いといえる。体がへとへとになるような労働や運動なら、文句なしに精神がそれを感知するが、歩くなんてのは運動からすると超楽な部類である。が、例えウォーキングといえど踵には体重の1.1倍から1.5倍程度の衝撃がかかる。近年は衝撃を吸収するシューズも研究開発されているが、すり減った靴では効果が低減する。

自分のシューズも頑張ってくれた。底はすり減り、穴も開いた状態は、破損とか損耗というより、もはや残骸である。何とか1年履いてやろうの思いで人目も気にせず履いていた。大きな穴に人は、「この人は靴を買うカネもないのか」と思っているだろうなと思いながら、何とか9月末まで履いて供養してやるつもりでいた。が、情緒よりも健康の害が問題と気づいた。

元々27.5~28cmの靴サイズで、最初のシューズは27cmときつめだったが、たくさん歩くしゆるくなるのを懸念、27cmにした。半年くらいして、左右の足先の小指あたりに亀裂ができた。やはり無理をしていたのだろうが、亀裂ができると逆にきつさが軽減され、楽になったという経緯がある。寝起きにかかとに痛みが出るという症状は、足底筋膜炎に間違いなかろう。

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寝ている間は体もリラックスしており、筋肉も休息できるが、足底筋膜炎の場合は起き上がって歩こうとした時、足裏にかかる負担のあまりの大きさから痛みが発生する。治療については「安静」とある。当然のこと、患部に刺激を与えないようにする。さらに、入浴後は土踏まずやかかとを入念にマッサージを丁寧にじっくり時間をかけて行うが、ズボラな自分はこれは自信がない。

ふと思い出したのが、1960年ローマオリンピックのマラソンを裸足で駆け抜けて優勝した、エチオピアのアベベである。裸足の理由を、練習でも裸足で野山を駆けているといったが、草原なら雑草がクッションになってはいるが、アスファルト上を裸足で駆けるのは超人である。アベベは4年後の東京オリンピックでも優勝し、マラソン二連覇を達成したが、東京では靴を履いていた。


子ども心に裸足でないのを残念に思った記憶がある。足底筋膜炎という症状は、罹患する人も多いが、そのほとんどは自然治癒していくようで、痛みが消える場合は特に治療しなくてもいいと考えられている。どちらかと言えば冷やさず温めるのが効果的だから、冷たい水につけるよりも適度な温浴がいい。足なので使わないのは難しいが、一にも二にも安静が効果的とされる。

スポーツ選手は、無理な練習を積み重ねて向上していくので、不断の練習が大切ではあるが、それだけ故障も多いのだろうな。本人以外にはわからない、苦しみ、辛さは、観戦者には伝わらない。足底腱膜炎を発症は40~50歳代の人が多い。理由は、加齢によって足底腱膜の柔軟性が失われ、硬くなってくるからだ。確かに年を取った人の足の裏は角質化して硬くなるようだ。

積もり積もった足の裏の疲労が、足底腱膜炎という症状として出てきたということだろう。若くても骨盤が歪んでいる、左右の足の長さが違うなどの人は、そうした体の歪みが足裏に不自然に重心がかかるため、足底腱膜炎になりやすい。多くの人が自分と同じように、朝起きて歩き出す最初の一歩の着地が一番痛みを感じるのは、動きに合わせて腱が引っ張られるからだ。

体が出したサインであろうし、それまで考えもしなかった足底腱膜炎に、今後は留意しながらやっていく。肉体の無理を精神が感知しなくとも、痛みという感知がサインである。あらためてスポーツマン、アスリートたちの精神・肉体的な大変さを感じられるし、健康のために運動をする自分たちと、そうでない人たちの違いというのは、いかばかりであろうか。

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難しいができ、簡単はできない

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「忙しい」、「面倒くさい」、「疲れた」この3つを禁句にしていることは何度か書いた。なぜ禁句にしているかの理由はいろいろだが、最大の理由は、この3つの言葉を言いたくないからで、言いたくないなら(他人からも)聞きたくないことになる。夏に「暑いな」、冬に「寒い、寒い」と、思わず口に出ることがある。独り言であっても、これはまあ条件反射だろう。

熱いものや冷たいものに触れて、子どものころ、「熱い!」、「冷たい!」がとっさに出るように、独り言は自然なこと。歩きながらなぜ「暑い」「寒い」を感じるのかなどの科学的思考をするが、前提として知っておくべきことは、人間は発熱体であるということ。人間も動物も、生きていくためにエネルギーは必要で、歩いたり走ったり、動いたり、跳んだり、跳ねたり、食物を摂取し燃焼することで得る。

人間は生ある限り、体から熱を出し続ける。一つ所に人間がたくさん集まっている状態を、「人がむんむん…」などと表現するが、暖房をつけているわけでもないのに、次第に暑さで熱気を帯びてくるのは、みんなが発熱しているからだ。熱はエネルギー源となり、水を熱して沸騰させれば蒸気機関車の原理となる。他にも、運動エネルギー、位置エネルギー、電気エネルギー、化学エネルギーなどがある。

子どものころに見た『鉄腕アトム』のマンガで、エネルギーを尻から注入する場面がある。アトムは最大出力10万馬力であるが、始終10万馬力を出している訳ではなく、ふつうの日常生活をしている分には、人間並のエネルギー消費ですんでいる。これは人間が平時に消費する基礎代謝程度のもので、人間もいざとなればスゴイ力を出したり、速く駆けたり高く跳んだりする。

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アトムのエネルギー源は原子力である。原子力の「げ」の字もわからぬ子ども時代だが、アトムの家にはエネルギーの補給装置があり、アトムのお母さんがお尻の部分にホースにノズルがついた(ガソリンスタンドの給油ホースのような)もので、「さあ、エネルギーをつめてあげますよ」などといいながら、食事をするようにエネルギーを補給するシーンがある。

お父さんが怒って、「もう寝なさい。エネルギーはやらん」と言ったりの場面もあるが、これは人間が、「今晩は晩メシ抜きだ!」と言ってるようなものだ。が、アトムに「空腹感」はなく、エネルギー切れはほとんどゼロに近づくまで起こらず、アトムが胸のフタの内側にあるエネルギー計をみて、「しまった!エネルギーを使い過ぎた!」と狼狽する場面もあったりする。

そんな場面からエネルギーというのはガソリンのようなものを注入すると思っていた。正確にいうならクルマのガソリンはエネルギー源であり、それをエンジンの燃焼室で燃やし、爆発させて高い出力を得る。エンジンは内側を燃やすことから内燃機関という。アトムの内部構造を見ながら、訳のわからない機械が詰まっていて、その複雑さがリアルでスゴイと思っていた。

やがて中学生くらいになると、「人間の体は、なんであんなに細かくできているのか?」、また「どうやってあんな形になったのか?」などの疑問が沸くようになり、「生物」や「科学」はそれを知る学問である。つまり、学問は、「それを知りたいと思うか?」が何より基本であって、知りたくもないものを教科書を与えて無理やり押し付けるのは、学を問うより勉を強いる。

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学問と勉強の違いだろう。だからと強いて勉めさせねば、1+1=2さえも分からない大人になってしまう。最低中学程度の知識はいるが、以後は必修科目、選択科目に分離する。人間の体は細かくできているが、これは人間に限ったことではなく、すべての生き物が精密で複雑な器官をもっているのは、調べれば調べるほど生物の不思議さ、すごさがわかってくる。

細かいのは生物に限らず、政治や経済、歴史や文化などの社会構造も実に精密。それらを知りたいと思う好奇心こそが、上記した学問の要であろう。文化とは何?と問われても答えに窮すが、文化とは学問的知識を得ない限りは、土着的なものである。つまり、日本人は一般的な日本文化をある程度知るが、欧米などの西洋の文化を知るのは学問以外にない。

その土地に住み着けば知ることになるが、居ながらの学問が手っ取り早い。日本文化と西洋文化の違いをいろいろ知るだけで、個々に生まれ、個々で育つ子どもに大きな違いが出るのは当然のこと。例えば、「自立精神」が強い欧米では、生後数ヶ月の赤ちゃんを別室で一人で寝かせるなど、家族の中にあっても、夫婦は夫婦、子どもは子どもと厳しいラインを引く。

その理由は、少しでも早く子どもを自立した大人にさせたいという親の願望である。自立を促すなら離すというのは、動物界にも見られる当たり前の原則で、日本人は家族揃って、「川の字」で寝る習慣というか、これを文化という。果たして斯くの環境で育つ日本人の子どもは、自立しにくいというが、本当にそうなのか。文化は家庭内にあれば、その元である家屋形態にもある。

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欧米の寝台文化に比べ、日本の伝統的な寝室の風景といえば、押し入れから布団を出して敷いて眠り、朝起きたら布団をしまって生活をするというものだった。今は西洋文化が押されてベッド利用者が多いが、本来日本人社会は布団文化である。布団を使った眠り方の良い点は、生活空間を無駄なく使える点にあり、狭く少ない部屋数でも十分な生活ができるということ。

広い部屋を使うことが当たり前の西洋人にとって、布団を使った眠り方は相当珍しいものだった。部屋数の多い西洋では、食べる場所である「ダイニング」、眠るための「寝室」、団欒のための「リビング」となるが、狭い日本型長屋家屋では、それらが一緒の空間となる。布団文化のお陰で、日本人は狭い部屋で暮らす生活にそれほど抵抗がないのかもしれない。

近年は、ワンルームマンションという独居生活方式は多く、布団を上げ下げして床で寝るということは若い人を中心にあまり好まれず、6畳程度の広さのマンションでもあえて部屋の半分の面積を占めるベッドを置く。これは畳がフローリングに代わったこともあろうが、畳式であっても上に全面カーペットを敷いてベッドを置く生活様式は、日本的布団文化の潮流にない。

布団文化が衰退すれば、当然ながら部屋の使い方に対する意識の変化する。若い人はベッドを椅子代わりに腰かけたりする。昔は部屋に彼女が来て、「抱くまでと、抱かれる前の無駄話」という川柳ではないが、早く布団を敷きたいのに、そのタイミングが図りずらい経験は誰にもあった。が、二人がベッドに腰かけて話すなら、いつでもそのまま倒れ込むことができる。

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このベッドという家具の便利さ、有用性は、押し入れから布団出して敷くなどという、シラけた間を要しない。そういう便利さからベッドが発案されたのではないか?と下世話な想像を抱かせる。クルマの中でキスをし、体をまさぐりながら、そのまま部屋の玄関から、直行でベッドに倒れ込むという洋画にみる、外国人の性的せっかちさだが、別の言い方で情熱的と言う。

布団時代だったころには、行為を一時中断し、押し入れから布団を出すというしぐさが、なんというか、表現しがたい「間」であったのは事実である。ベッドを購入したときに、いかにもそこにベッドがあるという居室は、男の仕事が早く行えた。部屋に入るなり、女性が「わーい」と言いながらベッドに腰を掛ける、それだけで一種の誘惑であり、女性にとっては口実となる。

布団文化の衰退が望外な利点を生んだが、もう一つ、押し入れがなくなった。日本古来の押し入れは、真ん中に板を挟んだ上下2段に天袋という形状であった。これが、洋風クローゼットに変化したことで特別な変化はないが、布団の入れ場所が洋服になったことで、奥行きが半分で済み、その分部屋が広くなったという、コレも利点である。布団という奴は結構な荷物だった。

思うに親の子に対するもっとも重要な躾というのが、「布団をあげなさい!」ではなかったか?万年床というのは、男やもめ、ズボラの代名詞であり、女の子がせっせと布団をあげることを習慣化させられるのは、多少の偏見もあろうが、女子を女子たらしめた一つではなかったか?布団上げは毎日のことだから習慣になるし、万年床とい戒める女子教育に最適だ。

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自分は斯様に考える。男は(万年床で)よくても、女子の万年床は羞恥の極みとされ、蔑まされた時代である。習慣というものは怖ろしい。いかに面倒くさいことでも、習慣なら当たり前と内面化されるのだ。そうであるなら、親は女子にはうるさく言って、決して言い過ぎということはない。なぜなら、男からみて自堕落な女性というのは、下品の極みである。

「清潔」と「整理・整頓」をキチンとできる女性は、やはり親の躾、口うるささの賜物であろう。勉強以外は掃除も片づけも一切させなかった。身の回りのことは大人になってからでもできるが、勉強は今しかできない。との信念で子ども三人を灘高~東大にいれた母がそのように言ったが、自分は危惧する。習慣は怖ろしいもので、いつでもできるなど方便を超えた無知である。

どんなに難しいことがやれても、誰でもできる簡単なことができない現実を知らなさすぎる。東大入試の勉強はやれて、なぜ掃除や片づけのような簡単なことができないかは疑問でもなんでもない。しないでいいと育ったからに尽きる。自分はリンゴの皮をナイフで剥けない。裁縫の最後の糸留めができない。理由は母親が、「男の子はそんなことしなくていい」と、その言葉に感化された。

"そんなものは女がやるからいい"、が染みついた。だからか、リンゴの皮をきれいに剥く女性に強い、「女」を感じさせられた。掃除や片づけなど親がするもの、自分は勉強さえすればいい、という観念に支配された人間が、大人になってできるはずがない。決して難易度の問題ではなく、見下して身についた観念を変えるには、三つ子時代に戻るしかない。

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勉強はできるが躾がなってない。教育されていない。親の顔が見たい。と社会人となって言われがちな言葉。親は勉強さえできたら、他はできなくてもいいと思ってるからか?それとも、身の回りのこと、生活習慣は大人になればできると思っているからか?人によるだろうが、勉強できる子に「親の顔が見たい」はないが、それ以外の一切は親の責任だから、「親の顔が見たい」となる。

「おカネあげます掲示板」

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表題なるものがあるというので覗いてみた。何でもありの昨今といえ、人におカネをあげようなどは嘘に決まってる。見ず知らずの相手におカネをあげるメリットはないし、これが事実なら精神異常者、もしくは釣り行為と考えるのが自然だ、「絶対」という言葉は存在しない。善意な行為と間に受ける人はいるかも知れんが、いるかも知れん=いてもいい、という事ではない。

見ず知らずの人に、「おカネをあげよう」という行為も、見ず知らずの人から、「おカネをもらおう」という人も居るべきでないというのが、自分ならずとも道徳的・常識的な考えだろう。おカネを供与したいなら対象をキチンと選ぶなり、本当に困ってる人を対象とするなら立派である。それを慈善といい寄付という。それにしても、「おカネあげます掲示板」の意図はなにか?

意図は相手のことだから「探る」として、その前に人は見ず知らずの人から、「おカネをあげます」と言われて信じるのだろうか?信じたとして、本当に相手からおカネを渡されて素直に喜ぶものだろうか?額にもよるが、例えば100円、1000円を何の理由もなく道歩く人に呼び止められて、「あげます」と差し出され、「ありがとうございます」と受け取るものなのか?

こんなことは自分で実験してみるといいが、そんなバカなことはドッキリカメラなら許されようし、やる気が起こらない。想像でいえば受け取る人はいるだろう。例えば100円硬貨であるなら、渡し方にもよるが小学生に、「君はイイ子みたいだからこれあげる」と渡せば素直に受け取るのではないか?小学生といえど6歳の開きがあり、さすがに高学年になると受け取らない子もいよう。


アメリカの社会実験映像で、道路端に座るホームレスが前を通る人に声をかけ、「お金をあげます」と申し出る映像が公開されている。「未だかつて与えることで貧しくなった者はいない」と書いたボードを持ち、声をかけるが、多くの人は一瞬、お金を要求されていると勘違いするが、その申し出に、「てめえの金なんかいらねえ、馬鹿野郎!」とお金を投げ返す人。

「俺がお前の金なんか必要としてるように見えるか?消え失せろ!」と言って立ち去る人。ホームレスに悪態の限りをつきながらお金を受け取る人。「俺はCクラスのベンツに乗ってるんだぞ」、「ブラックカードを持っているんだ」という人。ここまで言われるとホームレス役も頭に来、一触即発のモード。逆に「これで朝食を食べなさい」とお金を差し出す人、などなど。

物質的に豊かな人が、決して心の豊かさと一致はしないというのがこの実験から伝わってくる。人は豊かになると驕り高ぶるものだとの傾向もみえるが、あまりのホームレスとの乖離がそのような態度に現れるのは仕方のないことなのだろうか?差別意識が生まれる土壌そのものに罪はないが、「実るほどに頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という言葉がもたがってくる。

子どもは素直で雑念がない。そこに付け込んだ誘拐や監禁、あるいは婦女子を暴行するなどの事件があった。善意な子どもを騙す大人は卑劣というしかないが、善意だから「騙される」という事でもある。したがって、「善」だけしか知らない、「悪」を知らない人間は、「悪」に対する想像力も感受性もなく、だから、「悪」の餌食になる。これを哲学者はどう考えるのか?

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人間は善のみであってはならない。悪の素養も大事であると思うが、カントは当然にしてそこは理解している。「人間が"私"という言葉を使って語り始めるその日から、彼はそのいとしい自己を許されさえする限り押し出し、こうしてエゴイズムは前進してとどまることを知らなくなる」。と、このように述べている。どんなに抑圧しても人間のエゴイズムは前進すると定義する。

したがってカントは、「人間は教育されなくてはならない唯一の被造物」と言う。人はみなエゴイストであるからして、どうすればエゴを緩和できるかについて端的にいえば、「愛」という答えが導かれる。いろいろ付き合ったり見たりで分かることだが、エゴイスティックな人は、それだけで人を遠ざけてしまうようだ。エゴイスティックな人は以下のような場合もある。

何人かが集まって会話したり、それが酒宴の席であっても、冗談っぽく非難したり、茶化したりできないばかりか、誰が自分のことをどのように見ているか、また、どのように言うかなど、全身で身構えているし、だからそういう人のそばでは居心地が悪い。小学生時代のことを茶化したら、「そんな昔のことを持ち出して俺をバカにするんか?」とマジギレしたやつがいた。

「なんで笑い話にできないんだ?」と、言おうとしたが止めた。そんな言葉で納得し、「そういえばそうだな、ガキのころだしな~」という人間とは思えなかった。諭した言葉が余計相手をかたくなにさせることもあるし、人前ならなおさらそうなる。だから言わなかったし、気をつけて物をいえばそれで済むこと。それができないわけじゃないが、和気藹々でなくなる。

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和気藹々の中にこんな人間がいるということは、次から呼ばれなくなる。人間はバカであるより、バカになることが大事だろうな。人間がみなエゴイストなら、してエゴイストが良くないとするなら、自身のエゴを戒める方法はたくさんある。例えばバイトでも給与職者でも、与えられた仕事は不平を言わずにキチンとこなす。自分に与えられた仕事になぜ文句をいうのか?

自分で選んで仕事をするわけではないだろうに?秀吉が信長の草鞋取りだった時代、誰にも考えが及ばない素晴らしい草鞋取りであったことが、後の秀吉を生んだ。自分はこの逸話が好きで、誰が考えても秀吉は素晴らしいと感じるはずだ。牛の糞にも段々があるように、その場、その時の仕事をやって、評価を受ければいいわけだから、いきなり高望みは愚の骨頂だろう。

そういう事が分からない人間は、秀吉の素晴らしさも分からないということだ。同じようにすれば同じようになる、出世をするというのではなく、要は秀吉の行為が素晴らしいと思えばいいだけのこと。分からない結果を期待するのではなく、今自分が何をやればいいか、そのことで自分らしさとしての何ができるか、そういう他者との差異を打ち出せば、おのずと目に止まる。

他者より自分の方が秀でている(優れているは他人の見方)という自信で事にあたるよう常に考えているべきだ。それが人間の能力差というもので、不満をいう事のどこが能力差であろう。やりたくない仕事を我慢し、不平を言わずにやるのではなく、不平が沸きあがる原因は何か?を自問し、つまらない不平の原因を解決する。解決というのは、根本を思考すれば見つかる。

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自分は子どもであれ、友人であれ、何事においても、「お前(あなた)のためにやってやってる」という言葉を絶対的禁句とした。理由は、人のためと言いながら実は自分の都合や利害が反映されているからで、子どものころから母親に、「お前のため、お前のために」としつこく言われたことを、本当に自分のためにという風にはまったく感じなかったことも、影響している。

そもそも、人が人のために何かをするというのがあり得るのだろうか?カントがいうように、人間はみなエゴイストであるわけで、愛情をもって人のためというならともかく、しかしその愛情もどれほどのものなのか?だったら、他人にする一つの行為にあっては、自分のプラスになると思う方が判りやすく、自己欺瞞を排除することにもなる。親が本当に子どものためか?

ならばこどもの何のためか?将来の幸せだと?それを子どもが望んでいるならいい。自ら目的を持ち、それを達成するために努力するのは、幸せに向かってばく進することになる。親が勝手に子どもの幸せを決め、勝手に子どもを従えさせるのが、どうして子どものためなのか?全否定はしない。親の意図にはまることが幸せだったと感じる子どももいないことはない。

が、それはすべてが親の意図どおり、順調に行った場合であって、そんなことは脱サラの成功率より少ないであろう。本年8月、名古屋で息子の受験勉強にイライラが募った父親が、息子を包丁で刺し殺した事件があった。実はこの父親自身がエリートであったことも一因だ。佐竹憲吾容疑者(48)は、現在はトラック運転手に従事していたが名古屋大工学部卒であった。

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名古屋市内の中高一貫校東海学園から名古屋大に進み、卒業後トヨタ自動車に就職したというなら、愛知県では絵に描いたようなエリートであり、表沙汰にはならなかったものの破廉恥事件を起こして会社をクビになり、不本意ながらトラックの運転手で食いつないでいたという想像もなされるが、そんな親の経歴、親の都合よりも、勉強のできるできないも好き好きもあろう。

「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」という慣用句が浮かぶが、この子は勉強しないから殺されたというなら、こんな理不尽な「生」はないな。今さら、「バカな親」、「つまらん親」といっても子どもは帰ってはこない。勉強できなくとも、普通の中学~高校に行ったとしても、楽しい人生はあったわけだし、やるせない事件というしかない。

「おカネあげます掲示板」から子どもの子どになると急に変貌するのが当ブログだが、自分は子どもが好きだし、子どもを虐げる親が腹の底から許せない。子どもはどこに生まれ、どのような容姿で生まれ、何に興味を持ち、何に興味をもたなくとも、一切の責任は子どもにない。表題から反れて人間のエゴについて論考したが、「おカネあげます掲示板」の真意・考察は次回。

「おカネあげます掲示板」 ②

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掲示板ではないが、「おカネをあげます」という迷惑メールを受け取った人はいるだろう。金額も多いもので5000万、少ないもので数百万と尋常でない。これを信じる人も世の中にはいるだろうし、こういうメールをスパムとして大量発信すれば、信じる割合が0.1%であっても10万人に出せば100人となる。中身を読まずに無視してさっさと削除するのが一般的良識であろう。

呆れて関わる気もないが、体験の顛末を記事にしてる人がいるので引用して記してみた。「【お金当選第59回現金1000万円】現金1000万円の確認お願いします。自宅へのお届けと銀行振込はどちらがよろしいでしょうか?」(原文ママ)に対し、「銀行振込でお願いします」と返信したらしい。間もなく、iPhoneの「メッセージ」アイコンに、新着メールの表示が出ていた。

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確認すると、先ほどの迷惑メールとは違うアドレスなので、また新たな迷惑メールが来たかと思いきや、新たなアドレスメールに以下の文章が記されてある。(顔文字はすべて省略)「Re:松●優子です。実はいま、オーストラリアのシドニーにいます。来月帰国するんだけど孤独とか不安な気持ちに押しつぶされちゃいそうで辛くて…お話出来ないかなってずっと思ってたんです。

このメール以外にも何通かメールしてたんだけど、お返事もらえないから忘れられてるのかなってヘコんでました。ちなみに1000万の件ですけど、全部読んでもらえましたか? 実はあれ…間違えて転送しちゃっただけなんです。あのメールは私宛に届いたものなんだけど、今ちょっと事情あってお金が欲しいというよりは処分したい状況でして。

それに今はオーストラリアのシドニーに居て来月まで帰国出来ないので…辞退メールを入れようとしてました。それで話が変わるのですが…今ちょうど800万を処分したいなって思ってて、でもどうしようかなって悩んでました。あのメールにお返事くれたって事は金が必要っていう事ですよね?それなら詳しい事情を次のメールで説明するので受け取ってもらえないですか?

もちろん変なお金では有りません 。個人的な事情なので迷惑とか面倒が掛かる事も 有りません。説明を読んだらきっと安心して受け取って貰えると思います」。――なんと先ほどの「1000万円当たったメール」は、「間違えて転送した」とのことで、「それとは関係なく、自分の800万円を処分したい」と申しているのだ、シドニー在住の松●優子とは何者なんだ?

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事情は複雑であれ、800万円をくれるのであれば遠慮なく頂戴したい。ということで、私は優子に以下のシンプルな文章を即レスした。「800万円ですか!まかせてください。説明よろしくお願い申し上げます」。すると今度はまたも違うアドレスでメールが届く。確認すると「優子」とある。優子はなぜか、"メールを返信するごとにアドレスを変えている"のだった。

ちなみにメールアドレスは、偽装に偽装を重ねたと思しき実に複雑なアドレス、メチャクチャなドメインであるが、ともかく、メールの内容は凝っている。ストーリーが凝っている。偽装の仕方も凝っている。優子はなにげに凝り性だ。以下が、新たなメールアドレスを使う優子から送られてきた、「800万円を処分したい理由」である。長文なので3行にまとめてみた。

「Re:優子です。現状では『どういう事?』っていう心境だと思います。でもこれから話す事はありのままの事実なので最後まで読んでもらえたら嬉しいです。とにかく事情を説明するので読んだ後に判断して下さい。私は日本でアンティーク楽器の輸入・販売をする会社を経営しています。元々は父と叔母夫婦でやってて、父が亡くなった時に私が後を継ぎました。

(中略) それで今はオーストラリアに買い付け兼休暇っていう形で来てます。アンティーク楽器っていうとヨーロッパのほうがイメージとして浮かぶと思うんですけど、ヴィンテージギターとかはこっちにも素敵なものが沢山あるんです。ちょっと話がそれましたが、お金を処分したいのは一緒に経営をしてる叔父が原因です。事情を書ききれないので、続きのメールします」。

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2通目は長文だが要約すればこうだ。父と叔母で始めたアンティーク楽器商を父の死後、優子、叔母、叔父の3人で引き継いだ。会社の倉庫から800万円相当のバイオリンを発見、現金化したが、金使いが荒い叔父に見つかつとアホなことするから、800万円を私に処分してほしい…。『こち亀』の両さんが聞くと喜びそうなウマイ話。私はシンプルな短文を3連発で返送した。

「なんだかよくわかりませんが、お金はまかせてください。」
「返事はオーケーです。」
「わたしはどうすればよいか。」

これに対して優子から以下の返信があった。「Re:優子です。800万なんですけど、私はすぐには帰国出来ないから振り込みで800万受け取って下さい。帰国してから手渡しが一番良いのは分かってるんですけど、仕事次第でもあるので…かといってのんびりもしてられなくて…。(中略) 流れとしては案内に沿って口座情報を入力してもらったら振り込み完了です。

振り込みが終わったらまた普通の話とかで盛り上がりたいです。このメールの後すぐにもう1通送るので、そちら確認してもらったら一度お返事待ってます」。もう一通の内容は以下。「Re:優子です。ちゃんと届くと良いんだけど…。800万の振り込みなんですけどお互い安心して終わらせたいし、だからセキュリティがしっかりしてる所で簡単に終わらせたいなって思ってます。

色々調べ、以下のURLが安心な受け取り先リンクです。http://sa●e-s●curity.jp ここに口座情報を送ってもらったらすぐに振り込みます。金額が金額だし緊張してますが、受け取り対応宜しくお願いします。以後もメールはやり取り出来るので安心して下さいね。このメールが届いたらお返事もらえますか?」。怪しげなURLへのさりげない誘導に対し、私は4連発のメールを送る。

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「振込先を入力すれば800万円が振り込まれるのですね?」
「サイトがありませんと出ます」
「どうすればいいですか?」
「メールで口座番号をお知らせするという方法ではダメですか?」

優子が指定してきたサイトにアクセスすると、何もない。が、Google検索で調べてみると、1枚の「会社紹介ページ」がヒットした。誰でも無料で作ることができる、「自社紹介サービスサイト」のページである。「http://sa●e-s●curity.jp」の会社の内容を確認すると、“スペアキーや、また盗聴対策などセキュリティーのプロフェッショナル” を掲げている「カギ屋」である。

場所は群馬県伊勢崎市のとある町。あ海外でアンティーク楽器の輸入販売を経営している優子がイチオシするサイトが群馬県の住宅街にある「カギ屋」。自社ページすらない町の小さなカギ屋。ドメインを調べると、ドメイン所有者の住所は群馬県ではなく東京の吉祥寺。しかも、ドメインが登録されたのはつい最近の2013年10月中旬。ますます怪しい。なんだかキナ臭くなってきた!

「サイトが表示されない。どうすればいいのか?」、「メールで口座番号を教えちゃダメか?」という質問に対しまたしても別アドレスから優子の返信の要旨は、「メールは海外の転送サービスを使っているので、メールに口座情報などを記すと流出の怖れもアリ、伝えた受け取り先で話を進めたい。それでセキュリティー万全な群馬のカギ屋を推す」というものだった。

懸念をもって上記サイトにはパソコンでアクセスしたのが、サイトが見れなかった原因とわかった。どうやら、「sa●e-s●curity.jp」は、パソコンからはアクセスできないスマホ専用のサイトだった。経過が長いので結論をいうと、「1000万円当たりました」だとか、「800万円もらってください」、「大儲けの話がある」みたいな迷惑メールの行き着く先は有料出会い系サイト。

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有料だから、メールの受送信で課金されるシステムである。料金はあまりに法外すぎるし、だから、こんな手の凝った勧誘方法で顧客を集める。書き手は、どうせいかがわしい目的であるのを分かっていて、自らの実体験をもとに善意な人への注意を喚起しているようだ。「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」という諺がある。蛇(じゃ)とは大蛇のような大きな蛇、蛇(へび)とは小さな蛇。

同じ漢字で読み方を違えて意味が違うので紛らわしいが、由来は、大蛇の通る道は小蛇がよく知っているからという説と、蛇の通る道は他の蛇もよくわかるからという説がある。それらから、同類の者のすることは、同じ仲間なら容易に推測ができるということのたとえ。また、その道の専門家は、その道をよく知っているということのたとえ。として使われる。

善人が悪に引っかかったり、利用されるのは、善人が悪人でないからか?おかしな言い方だが、悪を行為しない善人といえども、悪の道を知るのは大人のたしなみだ。映画や小説、先人の教え、他人の体験談などに耳を貸して、悪の論法について知ることは有用である。まったくの悪に縁のない純粋な善人がいるとも思えないのは、上手い話に引っかかる善人は欲であるからだ。

つまり、悪を行為しない善人といえど、悪を行為されるのは、実は善人に悪の心があるからだろう。詐欺にかかって老後のたくわえを騙し取られたと嘆く善人に、「あわよくば」という欲がなかったと言えるのか? 相手の口車に乗せられてとか、息子と勘違いして大金をせしめられた人はあくまで善意の塊で、悪人と呼ぶにはいかがなものかと言う考えもあろう。

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が、一切を拡大解釈するに、そういう人にも悪の心はあったとみるべきだ。つまり、息子に頼まれて簡単にカネを用立てするのが、本当に善意であるかと言えばそうは言えない。自分ならいかに我が子に頼まれようと、即座にカネを出すなどあり得ない。それを即座に必要だというなら、「ふざけるな!」と叱り飛ばすだろう。善意というのは間違えば悪の行為となりかねない。

子どもにとって悪のとなる行為を親がやって言い訳はないだろう。だから、「親バカでしてね」などと、子どもに良くない行為を「親ばか」を免罪符にしての行為は、こと自分にはあり得ない。「親バカ」は「バカ親」であって、そんな親で居たくはないからだ。「何で子どもに数千万の大金をすぐに用立てる?こういう親ってバカじゃないか?」といった人は多い。

それにしてもなぜ、息子や孫だといった声色で振込め詐欺にかかるのだろうか?いろいろ理由はあれども、一言でいえば子どもに甘いということ。子どもに甘い親は自分にも甘いのよ。逆もまた真なりでいうと、自分に甘いから子どもにも甘いとなる。判断力が鈍いとかの問題ではない。「甘い」にもいろいろあるが、金ですべてが解決できる、解決しようという甘さもある。

他人の行為だから客観的に見えるし批判もできよう。が、実際に自分がその場に立ったら同じ穴のムジナかも。他人を批判するということは、すべてを自分に置き換えての批判でなければならない。そうはいえど、「他人に厳しく自分に甘い」のが人間というもの。人間は誰もかれも一人残らずエゴイストと認識し、それとどう戦うかを思考するしかない。

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「おカネあげます掲示板」 ③

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人が言ったこと、書かれてあること、などを無批判に、額面通り受け取る人がいる。強姦致傷と報道された高畑裕也の内容を、テレビでは芸能人コメンテータが尾ひれをつけて非難する図式が目立った。報道が事実ではないらしいと分かったとき、高畑をクソミソに言った奴らは誰一人として謝らなかった。坂上忍は、「だって報道を信じるでしょう?」と言い逃れする。

「報道を信じた自分が迂闊だった。高畑敦子さんにも祐太さんにも申し訳なかった」となぜ謝罪しない?「悪いのは報道で、信じた自分に罪はない」という事だろうが、「それを軽率というんだ、バカモン!」。奴らは批判の本質を知らないようで、だから被害者を庇い、加害者を責めるという無難に終始する。批判とは否定することではなく吟味すること。

被害者といえども腑に落ちない点があれば批判は向くが、被害者を擁護していれば世間を敵に回すことがないと、高畑ばかりを攻撃するバカ芸能人ども。何度もいうが、批判は吟味であって、たとえ報道であっても、額面通りに受け取らないことが大事。芸能人コメンテータが保身で糧を得ているし、それが分かっている以上彼らを責めても仕方がないが。

したがって彼らの発言は、耳に入れても仕方がないし、真に受けるべきでないし、テレビは観ない方がバカにならないで済む。坂上や東国原の品性なき発言の醜悪さ、また炎上を意図したかの如き発言は、テレビ局側の利害からすれば大歓迎であろう。テレビ媒体というのは、良くても悪くても視聴率がとれる。可もなし、不可もなしというのがダメなのは業界の常識である。

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批判は吟味でも、発言は事実であるからして、間違いの責任は謝罪という形で取らなければならない。人を叩く前に、疑問を見つけてそれを問題にすべきだが、所詮は同じ穴のムジナである。「他人の不幸は蜜の味」といわんばかりか、疑問段階から誹謗・中傷の嵐は、子どものイジメである。埼玉・朝霞の中2少女の行方不明事件においても、彼女の行動は不可解であった。

が、批判怖さにだれもが被害者擁護のみに終始するが、芸能人なら許されよう。大雑把にいうなら、人間は大体次の3タイプに分けられる。①ものごとを無批判に、額面通りに受け取る人。②額面通りに受け取らない人。③人(発信者)や周囲状況によって受け取り方を変える人。基本はいずれも自己保身であろうが、学術論文などは、批判的に読む種のものだが、これも他者批判という類の自己保身である。

上記した人間の分類について、ダニエル・カーネマン著、『ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?』は、人間がどのように意思決定し、どのように間違えるか、のメカニズムが解明されている。人間の脳には2つの思考モードがあり、一つが、「速い(ファスト)な思考」、もう一つが、「遅い(スロー)思考」。著者は前者を、「システム1」、後者を、「システム2」と名づける。

たとえば、「1+1=」という数式だが、義務教育を終えた人であれば、瞬間的に答えが分かる。これが、「9×8=」になると、瞬間的に分からない人が芸能界にいるようだ。芸能人がバカというのではなく、「おバカ」代表としての芸能人は珍しくない。キャラであれ、「おバカ」をやるための「おバカキャラ」を自負する芸能人は、頭の悪さを競う業界トップであろう。

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「34×12=」となると、普通の人でも瞬間的には分らないし、暗算でやれといわれたら、じっくりと頭を使うことになる。ソロバン経験のある人は別にして…。このとき、前者で働いているのが、「システム1」後者で働いているのが、「システム2」であるという。これらのことを踏まえて、人が言ったことや、書かれてあることについて上記した3つのパターンの人のタイプ別詳細を考えてみる。

1.無批判に、額面通りに受け取る人。
言われたことをただ行う人は、いわゆるシステム1で大半を処理しようとする人ではないだろうか?大部分の人はこれに当たる。

2.額面通りに受け取らない人。
何かにつけ一言物申す人。思考をしている分立派であるが、こじらせるて、批判のための批判を繰り返している、というタイプもいる。

3.人や状況で受け取り方を変える人。
いわゆるツボを押さえる感度のいい人が多く、これを悪用して「いじめ」を行うこともしばしば。思考をしないのを、「馬鹿への道」だとすると、人間はちょっとでも馬鹿でいたい(楽をしたい)と思いがちだが、このちょっとずつの、「馬鹿の積み重ね」がとんでもないことを引き起こすこともあるようだ。日本人は空気で動く、という側面もあるようだが責任の主体が無い。分類はしてみても、どれがいいとは言い難い。

道を歩いていたら見知らぬ人が、「10万円あげるから黙ってついてきない。」というので、信じてついて行ったら、本当に10万円くれた。という確率はゼロに近い数字ではないか?これはまあ、自分の推測だが、ゼロと思う人間はついて行かないが、多少確率が上がる人ならついて行くかも。自分のことは分かるが他人のことは分からないので、ついて行く確率は不明。

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人からおカネを貰うメリットについては思考は無用だろうが、人が人におカネをあげる理由やそのメリットついて思考はするだろう。相手が述べるなりでちゃんと理解できれば不思議ではなくなるかも知れない。が、「タダより高い物はない」という故事を知る人、用心深い人、おカネが余ってかえる人なら、やろうと言っても貰わないのでは?道行く人がいきなり、10円上げます、100円上げますなら貰っとく。

欲しくはないが、変わった人だなと、相手の顔を立てる意味もあって、川やゴミ箱に捨てはしない。ところが、1000円、10000円となると受け取らない。理由は変わった人を超えて気持ち悪い。最近、この手のスパムメールは、ほとんど毎日来る。「作業ナシで毎月130万稼げる」、「あなたの口座に200万、300万振り込まれます」などもある。そんなうまい話は人に勧めず自分でやれよ」と速攻削除する。

当たり前だろ、こんなのを読む時間が惜しい。しかし、手を変え品を変えてはいるが、この手のメールが増えるという現状は、呼応して返信したり、話しを聞きたい人が少なくないと推察する。「溺れるものは藁をもつかむ」といった心境か、収入がすくなく生活に困っている人が"ダメ元気分"で反応するのではないか?常識的に考えてあり得ないが、金銭的に困っている人は、常識よりも信じる方に傾くのだろう。

人は「ゆとり」がないと常識の基準値がだんだんと下がってくるようだ。固定電話時代に、電話帳から無作為に選んだ顧客に、営業マンから投資の勧誘電話があった。「絶対、儲かります。あなたにとってこんないい話はないです」などと、お決まりの言葉で誘う。忙しいときは無造作にガチャンと切るが、からかい半分に相手をすることもある。例えば、「そんなにいい話なら自分でやれば?」にどう答えるのか?

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「いい話」、「うまい話」と、これらは興味をひかせるための導入言葉であって、そんなものが世の中にあるはずがない。仮にあったとしてもリスクは伴う種のものだが、世の中にはそうしたものにクビを突っ込む人が多いのもまた事実である。純粋な「投資」ありが、「投資詐欺」も多い。もちろん「投資詐欺」であって、「ちょっとおかしいんじゃない?投資詐欺じゃないの?」と問われて認めるバカはいないだろう。

大嘘で顧客を丸め込むセールスマンの口説き文句が、「私が嘘をいう人間に見えますか?」で騙されたと聞いたことがあった。確かに顧客に嘘をつきながら、「私が嘘をつく人間に見えるか?」は、嘘を嘘でなくする良い言葉である。顧客が「そう見えるね」と言わないのを見越した、また顧客が嘘ではないか?と訝る気持ちを逆用した言葉である。セールスが何を言おうが、嘘をつくものだと思っておけばいい。

セールスマンてのは、自分のことしか考えない職種だろう。異論はあるかも知れんが、ある意味必要ないものを無理やり売りつける仕事だから、顧客の身になったらそりゃあ売れるものも売れんだろう。だから顧客は自己防衛をしなければならない。「No!」が言えない、「断るのが苦手」という人は、最初から話をしないことだが、「買わなくてもいい。話だけ聞いて欲しい」というセールスマンもいるから要注意。

「まあ、話だけでも聞いてあげよう」という善意が相手の術中にはまる。話を聞くだけのつもりがいつの間に、「自分のことを思って言ってくれてり」となればしめたもの。彼らは、話すことで人間関係を作るし、情に訴える話術を得意とする。悪辣なセールスマンでなくとも、「あなたのためにこんなに時間を費やした」などと、恩着せがましい言葉で恩を売る。

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断りにくい原因は様々あるが、①いい人と思われたい、②相手の身になってしまう、③断った時の相手の反応が怖い、④お金がないと思われたくない、⑤なんとなく相手を喜ばせたいなどなど、一般的な人間関係の機微と大差がない。逆に断るためには、「人間関係を作らない」、「相手の都合を無視、自分の都合だけで判断する」。相手もこちらの都合を考えないのだから…

断って気まずい雰囲気になろうが、その代償として金銭を用意すべきでない。気まずかろうがなんだろうが、こいつらはあちこちでそれを味わっているし、セールスという職業に身を投じているなら、煮え湯を飲まされるのも勉強であり、嫌な思いも味わって当然で、顧客に責任はない。そのように論理的に考えてみるのもいい。とにかくいい人ぶらない事。それが最重要。


「おカネください掲示板」

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というのもあって、ちょっと覗いてみたが、ネット乞食か労働意欲のないバカなのか、書いてあることがバカバカしくて取り上げる気にもならない。それにしても、見知らぬ他人に、「おカネください」ってよくも言えたものだが、別に藁をも掴む気持ちで言ってるのではなく、恥ずかしい気もなく、普通に、当たり前にいう人間のようだ。一体どのような生育をしたのか?

そっちの方に興味が行く。「おカネください掲示板」と表題にしたが、「おカネください掲示板」のことなど書く気は毛頭ない。表題と記事の中身が違うのは得意とするところだから気にはしないが、「さて、何を書くべ」という気負いもないままにいつもの如く"脳からでまかせ"を書くことにする。そういえば「口からでまかせ」という言葉の"でまかせ"という語は何だ?


分からないから調べてみると、①「口から出るにまかせて、いいかげんなことを言うこと。また、その言葉。出放題。「口から―を言う」② 出るままにしておくこと。などであった。なるほど。確かに「出るにまかせる」から「でまかせ」というのはそのまんまである。ちょっと考えたが「出るにまかせる」はまったく思考の外だった。ならば、"脳からでまかせ"はいいのか?

今の今、即興で作った造語だが、イイもワルいもなかろう。文字(文章)はしゃべらない、よって口が脳に代わってもいいではないか。ただし、いい加減なことを書くというのは躊躇われるが、いい加減であってもでたらめではない。いい加減とでたらめは同じ意味のようであって、多少違うようだ。多少がどの程度か知らぬが、「多少」という加減を言葉でいうのは難しい。

お料理番組で「お塩少々…」の少々も同じく人によって違う。同じように、「たくさん」や「ちょっと」も同様だ。以前にも書いたが、「適当」や「いい加減」が悪い意味に使われるようになったのは、それなりの理由がある。「適当」とは「適した」ものに「当たる」と書く。犬も歩けば棒に当たる。宝くじが当たる。など、「当たる」には運・不運の要素が含まれる。

「あいつは幸運ばかりに頼っている。適当なやつだな~」などと悪い意味になってしまう。したがって良い意味に使いたいなら「適切」がよかろう。次に「いい加減」は、①仕事を最後までやり遂げずに途中で投げ出すさま。投げやり。おざなり。無責任。などの意味があり、したがって言葉の用法としては、 相当な程度に達しているので、ほどほどのところで終わってほしいさま。[副]かなり。相当。

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[連語] 程よい程度。手ごろ。 「適当な湯加減」、「これを入れる適当な大きさの箱はないか」など使い、良い悪いどちらにもとれる。良い例なら「お風呂がいい加減」だ。悪い例なら、「お前は俺を舐めてるんか?いい加減にしろよ」などという。「適当」にも良い意味、悪い意味があり、良い意味は、「ある状態・目的・要求などにぴったり合っているこ と、ふさわしいこと、また、そのさま、相当」と言う意味で使われる。

一方悪い意味と しては、「その場を何とかつくろう程度であること、いい加減なこと、また、そのさ ま」として使われる。それにしても日本語はややこしい、難しい、日本人でよかったよ。「いい加減の湯だった」、「いい加減な対応だった」などなど、モロに違いが分かる。これを「適当な湯加減だった」、「適当な対応だった」だとどうだ?同じじゃないかという人もいれば、いや、確かにニュアンスが違うという人もいる。

「適当なことをいうコメンテータだな」に対し、「いい加減なことをいうコメンテータだな」は、「適当」が柔らかく、「いい加減」がややきつくないか?自分は後者である。まあ、微妙だし大した差はないけれども…。日本人の脳はデリケートで情緒的と言われるが、日本人の内向的性格とデリケートな脳には深い関係があり、日本文学の鍵概念でもある「もののあはれ」もまた、デリケート脳なしに生まれることはない。

アメリカ人が、「日本の夏は大変にウルサイ」と蝉の声を指して言う。ウルサイにはウルサイが、幼児期から夏の蝉の声、慣れかもしれない。日本人的情緒だと言われるとそうだろう。芭蕉は岩にしみ入るほどの蝉の声を、「閑かさや」と謳った。どちらかといえばアングロ・サクソンは危機に瀕してなおユーモアを忘れない精神が美意識にあり、「もののあはれ」は皆無である。

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さて、自分は日本人であり、である以上日本的な考えに収まっているはずだ。デリケートであるもののあはれ的な情緒を携えているであろう。「花鳥風月」、「草木虫魚」の自然観を体内に宿せば、そこに、日本人特有の「細部に対する繊細な目配り」もできるであろう。実際、できるか、できているのかについての実態は分からないにしても、微細な領域に分け入ろうとする精神性、小動物を愛しむ精神性は有する。

これらが「もののあはれ」、「わび・さび・いき」という、「どの国とも異なる美意識」の流れを生み出している。老いてなお日本人として、老いてなお人生を楽しむための基本とは何だろうか?巷言われるところの、「あせらない」、「無理しない」はいうまでもないが、若者にも増して劣らぬ「好奇心」を絶やさないこと。若者の好奇心が、「女湯のぞき」であるなら、老人は、「知的好奇心」であらねばならない。

「脳力」という言葉があるなら、それは「知的好奇心」に支えられよう。米国ラッシュ大学医療センターの研究チームは、294人の高齢者を対象に、思考や記憶の活性化に関するテストを行った。 脳に刺激を与える活動は、▽読書をする、▽音楽を聴く、演奏する、▽書き物をする、▽チェスのようなゲームをする、▽劇場や美術館、博物館を訪問する、▽子供と遊ぶなど、さまざまなものがあるという。

イメージ 3調査対象者の死亡年齢は平均89歳、対象者が亡くなるまで調査は続けられ、追跡期間の平均年数は5.8年だった。 対象者の幼児期から現在に至るまで、「脳の訓練」を行う頻度を訊ねた。その結果、脳に刺激を与える活動を行う頻度に比例して、記憶力や思考力の衰えが抑えられることが分かった。 特に人生後半に、「脳の訓練」頻度が高かった人には、普通程度の人に比べて32%記憶力低下が抑えられていた。一方で、ほとんど行わない人は普通程度の人に比べ、記憶力低下の速度は48%速くなっていた。 「生活スタイルの活性化は、身体の健康の視点から重要とみられることが多いのですが、実は脳の健康に対しても重要な意味をもっています。人生の全般において、脳に適度な刺激を送り続けることは、認知能力の低下を防ぐために大切です」と、ラッシュ大学のロバート・ウィルソン氏(神経学)は話している。

アルツハイマー病などの認知症の予防と治療の鍵を握るのは、「アミロイドβ」というタンパク質だ。アミロイドβが脳内で凝集するとともに、アルツハイマー病が進行していく。高齢者の認知能力の低下のおよそ3分の1は、脳卒中などの脳血管障害や、アミロイドβの蓄積によるアルツハイマー病が原因となるようで、ウィルソン氏は以下のアドバイスをしている。

「知的な活動をして、脳に適度な刺激を送り続けることは、年齢がいくつであっても、あなたが誰であっても、一生のあいだに継続できることです。いつまでも活動的であることが、認知能力の低下だけでなく、認知症の予防にもつながります」。ガンや脳卒中も嫌だが、アルツハイマー病に罹患するのは、それ以上に嫌である。アルツになるなら死んだ方がましかも知れん。

と、これはアルツに罹患した患者を愚弄するものではなく、自分自身に照らしてのこと。人がアルツになっていようがどうであれ、自身のアルツの醜態を想像すると寒気がする。最近は「認知症」という言葉をやたら聞くが、「認知症」は病名ではなく、認識したり、記憶したり、判断したりする力が障害を受け、社会生活に支障をきたす状態のことで、さまざまな原因がある。

「アルツハイマー病(アルツハイマー型認知症)」もその一つ。現在日本では認知症を引き起こす原因のうち、もっとも割合の多い疾患で、6割以上がアルツハイマー病と言われている。他の原因疾患には、血管性認知症やレビー小体型認知症、前頭側頭型認知症などがある。アルツハイマー病は脳の神経細胞が減少するが、記憶を司る「海馬」を中心に脳全体が萎縮する。

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脳に「老人斑」というシミが広がる、脳の神経細胞に糸くず状の「神経原線維変化」が見つかる、といった変化が現れることが分かっている。脳の中にβアミロイドと呼ばれるタンパク質がたまり出すことが原因の一つとされていて、βアミロイドが脳全体に蓄積することで、健全な神経細胞を変化・脱落させて、脳の働きを低下させ、脳萎縮を進行させると言われている。

認知症者の傾向としては極度のわがままがあげられる。介護を拒否したり、デイサービスに行きたがらなかったり、来宅のホームヘルパーにきつく当たったりはよくある。これらは認知症にかかった本人が、これまで当たり前のようにできていたことができなくなったり、家族や周囲の人から聞かれたごく簡単なことに答えられなかったりするため、大変不安を感じている。

このため、好ましくない状況に自分が立たされていると感じると、自分を守るために強い拒否反応を示す。これらは防衛反応の一つで、介護にあたる者はこうした防衛反応があることを知っておき、認知症の人を安心させるよう努めるのが大事。また、認知症患者に対する介護者や周囲の人の何気ない一言が、防衛反応に結びつくこともあるので注意が必要となる。

マツダ社員寮殺人事件

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広島カープが25年ぶりの優勝を決めたのが9月10日の東京ドームだった。監督も選手もファンも一様に地元のマツダスタジアムで決めて欲しかったが、そんなに上手く行くはずもないし、他球場で決まっても地元ファンのために胴上げはしない、胴上げは15日のマツダスタジアムまで取って置き、選手同士によるビールかけのみと前もって球団より発表されていた。ところが…

優勝の瞬間、中心選手の黒田や新井の感極まる涙に象徴されるように、それほどに優勝の感激を皆が感じていた。そして、選手が緒方監督を囲むと監督は宙に舞ったのだ。やはりというか、胴上げのない優勝は考えられないし、球団は他球場での胴上げを規制したのではなく、カープファンに最初の胴上げを見せたいとの親心であった。しかし、そんな制約が現場の選手には通じない。

緒方監督に続いて黒田が、黒田に続いて新井が、宙に舞ったのをカープファンの多くが涙を流して喜んだ。直後に知人らから電話やメールが舞い込む。第一声はいずれも、「おめでとうございます」。やはり、「おめでとうございます」という言葉が自然でふさわしいのだろう。そういえばコアなファンである三女の夫も電話で、「おめでとうございます」であった。

緒方監督は東京ドームのカープファンに向けて、「おめでとうございます!」と口上を述べていた。監督がファンに「おめでとうございます」は変でもあり、変ともいえず、なぜ緒方が「おめでとう」といったのかを考えてみた。やはりというか、産みの苦しみに耐えて子どもを産んだ女性にかける第一声が、「おめでとう」であるように、カープの優勝も産みの苦しみであった。

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難産の末の優勝である。緒方監督は、「本当に25年間、長い間お待たせしました。ファンの皆さま、おめでとうございま~す!」の言葉で両手をあげた。「ファンの皆さま、ついにやりました!」との誇った言葉より、「おめでとうございます」の方が謙虚に感じられる。ファンが選手に、「おめでとう」は普通だが、選手がファンに、「おめでとう」は、緒方ならではの言葉である。

これまで数々の監督の優勝後の言葉を聞いたが、ファンに、「おめでとう」の言葉は初めてであり新鮮だった。15日には地元マツダスタジアムで優勝セレモニーが行われたが、その前日の14日にマツダ社員寮殺人事件が発生した。広島カープは正式名称を広島東洋カープといい、その理由は1968年、東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となりオーナーに就任したことによる。

球団の苦しい台所を、県民の募金などでまかなってきた広島カープが、広島東洋カープとなったのは違和感があったものの、市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとする松田家私有の同族経営球団となる。現在マツダはカープの34.2%の株式を保有する筆頭株主でメインスポンサーだが、経営にはタッチしていない。残りはマツダ創業家一族が保有する。

マツダに関連する事件として、2010年(平成22年)6月22日には、マツダ本社工場で乗用車の暴走による通り魔事件が発生した。これによって、1人が死亡、11人が重軽傷を負うという悲惨な事件となった。加害者は6ヶ月契約の期間社員としてマツダに入社、同年4月1日から同工場でバンパー製造業務に当たっていたが、2週間後の14日になって自己都合退職した。

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仕事上の恨みからマツダに復讐しようとしたと供述している。前置きが長くなったが、今回の事件は9月14日午後、マツダ社員寮内で発生した。社員の菅野恭平さん(19)が消化器などで殴打されて殺害された。広島県警広島南署捜査本部は24日未明、菅野さんを殺害し現金約120万円などを奪ったとして、強盗殺人容疑で同じ寮に住む同僚の、上川傑(すぐる)容疑者(20)を逮捕した。

上川容疑者は菅野さんと同期入社で、いずれも同じ寮建物の7階に住んでいた。勤務する部署は異なるが、事件当日は2人とも夜勤明けだった。菅野さんはこの日、3カ所のATMを廻り、計約120万円を口座から引き出したが、いずれも上川容疑者の車に同乗しており、寮に戻った後に殺害されたようだ。殺害に使用された消火器は寮内の備え付けの備品で、血痕や傷が残っていた。

広島カープ優勝に沸き立つ県民は、マツダの社員寮内の同僚殺人事件に驚いた。捜査本部によると、同日午後2~3時ごろ、寮近くで菅野さんが上川容疑者の車から降り、コンビニのATMに向かう姿が防犯カメラに映っていた。上川容疑者は事件後も通常通り勤務していた。捜査本部が23日朝から任意で事情を聴いたところ、菅野さんを殺害して現金や携帯電話を奪ったことを認めた。

ネットには、「広島は怖いところだ」の声もあるが、こういうバカはどこにでもいる。それにしても同じ寮内の二人が、同じクルマに同乗してATM巡りをした直後の殺害なら容疑者はすぐに特定される。殺して金を奪って逃げ隠れする種の事件ではなく、金目当に殺したというより、もめ事か何かがあったとみるのが妥当ではないか。金はついでにもらっておいたのだろう。

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事件発生は14日、逮捕が24日というのは、捜査に時間を要したというより、広島カープ優勝に沸き立つ県民を思って報道操作をしたのではないか?各所に設置の防犯カメラや聞き込みなどから、容疑者はすぐに特定したはずで、あとは容疑者に逃亡されないよう厳重にマークしていたハズだ。マツダはカープの筆頭スポンサー、犯行場所がマツダ社員寮内、加害者はマツダの社員である。

上川容疑者は容疑を認めており、菅野さんと会話をしている途中で、「腹を立てた」などの供述をしている。事件後、上川容疑者は多額の現金を自分の口座に入金していたというが、こういう犯罪者の頭の具合というのか、自分の口座に現金を入金するという厚かましさもそうだが、捜査の手が自分に及ばないとタカをくくっているのか、それすらも考えないのか、信じられないバカである。

人を殺して県外に逃げても(国外となると司法権が及ばない)捜査の網にかかるほどに優秀な日本の警察である。同じ寮内、同じフロア、事件前にクルマに同乗していた、これで捕まえられない警察は勤務中にパチンコや昼寝でもしているんだろうが、分かってもいいと見越した犯罪というより、無思考で判断力のないバカというしかない。上川容疑者はどうやら妻子もちのようだ。

出身は愛媛県で、相当にクルマ好きということもあって、広島の自動車製造メーカーに単身の寮生活と見受けられる。交通違反であれ万引きであれ立小便であれ覗きであれ自転車泥棒であれ、犯罪を行使する際は、まずは見つからないことが大前提である。見つかればやばいし、しょっ引かれてアレコレ面倒なことになるわけだし、わざわざそんな面倒を好むものはいないだろう。

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妻子持ちならなおさらの事。こんな風にすぐにキレる人間は周囲の状況がどうであれ、キレたら頭が真っ白になるから盲目である。1990年代の後半だったか、中学生によるナイフ殺傷事件が頻発、"キレる中学生"が社会問題化したことがあった。これは学校性ストレスに回収しきれない深甚さを有していたが、報道が事件連鎖を誘発する部分は間違いなくあったろう。

が、もっとも根本的な要因は、共同体社会で成り立っていた日本において、その三本柱であった、「家族共同体」、「学校共同体」、「地域共同体」が空洞化し、自分を肯定してくれる「居場所」がどこにもなく、失われたことであろう。1997年に発生した酒鬼薔薇事件(神戸連続児童殺傷事件)の少年Aは、自身を≪透明な存在≫と表現した。彼の居場所は家庭・学校・地域になかった。

人間は大抵において、他人との社会的交流の中で、肯定され、承認されて、自尊心や尊厳を獲得する。ところが、社会の中で一度も他人に承認された経験がない不幸な少年たちにあって、彼らには二つの選択肢がある。一つは、まだ得たことのない承認を得ようと、他人の期待に過剰適応するタイプで、当時人気のあったアニメ「エバンゲリオン」を支えたアダルトチャイルドたち。

もう一つは、「承認なんてイラネーよ」とばかりに、他人との社会的交流から完全離脱するタイプだ。前者は「社会的」で無害であるが、後者は、「非社会的(脱社会的)」で有害であろう。子どもに充分な承認を与えられない社会は、「脱社会的」な人間を生む。子どもを承認せずに批判し、非難するだけの親は、絶対に子どもに承認されることはない。それが反動というものだ。

イメージ 5そうして時代はネット社会へと移行する。ネットという共同体は得意な人間関係を生み出している。家庭でも学校でも地域でもないインターネットを支える仮想共同体が、子どもたちに新たな承認を与えてくれる場であるのは間違いない。人に誰でもある「承認欲求」を知らないどこかの人が与えてくれるのである。与える側の意図は言うまでもない。「ブタもおだてりゃ木に上る」。
家庭や学校や人間関係から承認を得れず、浮いた少年・少女たちが、ネットという身近な場で様々な被害に合うのは、その子だけの罪ではないが、親も教師も自分たちの問題と気づかない。かつてのような共同体が崩壊し、頼れなくなった社会にあっては、個人が個人として、他人を承認し、承認される時代になっている。子どもたちはどこからも得れない承認欲を満たされ心地いい。

ブサイク女がネットではちやほやされるのも、容姿が見えないからである。ちやほやしたい側の男は、これまたリアルで女を口説く自信も度胸もないわけで、こうした男女の利害が一致し、新たな出会いの場を生んでいる。ネットで女性はリアルほど選別されないのは、女に無縁のしがない男が多かったり、もしくはネットの尻軽女をこますネットナンパ師であったりする。

いくらでも引き合いのあるネットの女は、10人でも20人でも男とメールやその他のSNSでつながりを持とうとするが、ネットに参じる必要のないモテる女性は、逆に10人の男から一人に絞ろうとする。リアルにおいては日々交際対象の異性と出会い、すぐに仲良くなることなどあり得ないが、ネットでは毎日でも異性をゲットできる。それが高じて男を選別するわがまま女性が多くなる。

出会いの少ないリアルでは、何とか一人の相手を大事にしようとするが、苦労もいらずに相手を見つけられるネットで女はつけあがる。引き合いが多いと誰もが自分がいい女だという錯覚をしてしまう。よって、リアルからネットに居場所を映した女は、誰でも女王様気分を味わえる。便利な社会であり、一生懸命に女を口説いた男にとっては斯くも不思議な世界である。

「人が人を承認しあう社会」においてネットは有益であろう。が、その反動として女性がわがままになるという「負」の要素もある。これはまあ、リアルでモテすぎる女もわがままなのがいるから仕方あるまい。掲示板やチャットの常連の多くは無職やプーやモテないくんであったり、特にチャット中毒者は、他にすることが何もなく、つまらない実社会の不満のはけ口になっている。

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マツダ社員寮殺人事件 ②

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本件はどう考えても数日間で容疑者特定可能な犯罪である。加害者は場当たり的で知能の低い人間のようだ。菅野さんを殺害して自身に容疑がかかると思わないなら、バカ・アホとかでは言い足りないが、本人が言うように「腹の立つことを言われた」でキレたのか、金目当てかどっちなのか?数か所で120万もの預金を引き出す同僚を、「すごいな、そんなに貯めてるんか?」

と言うだろう。相手から、「お前みたいにクルマや洋服やブランドに金をかけて、貯まらないだろうな?少しは考えたみたら?」くらい言われても不思議はない。そんな言葉に、「むっ」と来てキレる男もいるだろう。(人が褒めてやってるのに、なんだ、その言い方は?)と思ったとしても、それで消化器でガツンはやり過ぎである。殺す目的でなかったといえ消火器だろ?

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手で殴り、足で蹴るでも怒りは表明できるが、消火器ともなれば死ぬ可能性は大。本人は、「殺すつもりはなかった」といいい、実際そうであるなら、想像力が希薄ということになる。頭に血が上って見境なく消化器というなら、そういう人間はを、「危ない人間」と言うしかない。加減を知らないという意味で危険すぎる類であり、思考が回らぬというのもバカの一種であろう。

街中でちょっとしたことでキレ、諍いを起こすのはこういう人間だ。人ごみで肩がぶつかった、クルマで追い越しされた、電車が遅れているのに駅員が謝らない、店員の口の利き方が生意気だったなど、些細なことで激しく怒り、暴力沙汰に発展することも珍しくない。昨今はこの手のキレる人間が職場で仕事中に多発するという。少し遡って「キレる」子どもを思考してみる。

小学生まではそれほどでもないが、中学に入るとキレる子どもは、高校になっても爆発感情を内在し、社会人になっても引き継ぐのは当然であろう。どこかの時期で治るというものではなく、もし治るということなら何らかの契機を境に、本人が治す努力をしたのだろう。したがって「治る」は自らの意志で「治した」と考える。それなくば子どもの負債は大人に引き継がれる。

学校でキレる奴は職場でもキレる。仕事が思い通りにいかない、同僚と意見がちょっとくい違った、上司に注意されてもキレるなど、自分にとって気に入らないことがあるとヒステリーを起こしたり、暴言を吐く。他人の言動に対して過剰に反応し、物に当たり散らしたり、大声で怒鳴るなどを繰り返す――。真っ当な社会人にあらず彼らは、社会教育を家庭でされていない。

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「キレる中学生」が社会問題になったのは1990年代の後半だった。識者は「学校性ストレス」をあげたが、確かに子どもの大部分は学校が日常であって、学校での人間関係が大きくかかわっていたようだ。が、「キレる中学生」の問題は、家庭におけるストレスも大きく起因する。「勉強、勉強」と口うるさい親への苛立ちである。「キレる中学生」は、当時社会問題となった。

少年のナイフを使った凶悪事件の続発に対し、国は何かをすべき対策に追い立てられた。文部省(当時)はその一環として、学校が所持品検査を行うことを容認する姿勢を打ち出した。しかし、教育現場では反対も多く、「本来は家庭が管理すべき問題」、所持品検査は生徒と教師の不信感を生む」などの戸惑いもあった事で、実施に踏み切る、実施しないの二つに分かれた。

中学生の段階では、理性と感情が一致しない生徒もいるし、一方的な所持品検査はまさに検閲であって、不信感を抱く生徒もいるだろう。人間に不信感を抱かせるなどはあってはならない教育権の放棄であり、教育そのものの敗北である。自分は多感時期に母親に様々な不信感を抱き、決して信頼を得れることにはならなかったが、子ども心にそういう親はダメな親だと感じていた。

自分にどういう影響があったか以前に、「ダメな親」と見下したことで実害は受けなかったろう。ダメな親=ダメ教育である。ダメをダメと認識できたことが幸いしたのであり、ダメをダメと思わぬ子どもが被害者となる。教育者として知られる灰谷健次郎の『兎の眼』に触発されて教師になったという友人がいた。彼は子どもに恵まれてないが、多くの犬を自宅で飼っている。

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すべて捨て犬、譲り受けた行き場のない犬である。灰谷の『兎の眼』は部落解放同盟より糾弾を受けた。前作の短編『笑いの影』でも灰谷は解放同盟より糾弾をうけたていたが、当時は解放同盟の行き過ぎた言葉狩りが横行した。『兎の眼』の問題になった箇所は、登場人物「鉄ツン」の愛犬キチが、野犬狩りに遭ったのを子どもたちの知恵で奪い返すくだりにおける以下の台詞である。

「落ちつけ鉄ツン。おまえひとりで犬とりのところへいったって、どうするんや。相手は小谷先生とちゃうねんぞ。かみついたって泣いてくれる相手とちゃうねんぞ。お前の方がぶんなぐられて、キチといっしょにと殺場行きじゃ」。これのどこがいけないであるが、「『屠場は怖い』という差別意識を利用したもの」という解放同盟の考えで、増刷版からは削除となる。

『兎の眼』は何を意味するかについて、小説の文中に以下の一文がある。「あいかわらず善財童子は美しい眼をしていた。人の眼というより、兎の眼だった。それは祈りをこめたように、もの思うかのように、静かな光をたたえてやさしかった」。善財童子とは、奈良県桜井市にある安倍文殊院に置かれている、国宝「渡海文殊」の善財童子像のことを述べている。

所持品検査は、「承諾を得て」というが、生徒は「自分たちが拒否すれば教師は何もできない」という事を習得することになる。これはあらゆる教育活動に支障が出ようし、「見せろ」、「見せない」などの押し問答から、教師と生徒、保護者を交えた喧嘩の種にもなりかねない。「承諾」する生徒に違反がないのは分かり切ったことで、「承諾」しない生徒を教師はどう見るか?

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銀行の財務省監査が事前連絡があるように、抜き打ちでなければ何も出ては来ない。文部省は「毅然とした対応も必要」としたが、現場の教師との乖離は大きく、これまで所持品検査は教育上よくないとされてきたのに、いきなり「やっていい」というのでは一貫性がない。確かに学校の安全性からいえば所持品検査は必要だろうが、カバンでなくてもナイフは衣服に隠せるもの。

そうなると身体検査の必要性も出てくる。以前と比べて甘い親に育てられた子どもは、自己中・短絡的になりやすく、指導の仕方によっては反発を招いてしまう。何でも子どもの言いなり、子どもからすれば何でも自分の思い通りになるという体験をしてきた子どもだから、少しでも認められないと感情的に走る。したがって、キレる子どもは無責任な親の態度の産物であろう。

そういう親は子どもに遠慮して叱ることもできず、すべてを学校に押し付ける。学校に躾け一切を期待しない親こそ、自己責任感の強い親であろう。そもそも、子どもと寝食を共にするからこそできる躾であって、学校に委ねる方がどうかしている。国も学校も受け皿になるのではなく、家庭教育や親の責任を強く求めて行くべきではないか。古い話ではない、今でもそうあるべき。

何事も責任を取らない、責任逃れをするのが好きな日本人体質は、これほど醜いことはない。石原前都知事などは、「判を押せといわれたら、押しますよそりゃ」こんな都知事ならバカでもできるじゃないか。押せと言われた判を押さない長こそが頭のいい、有能な長ではないのか?よくもあんな恥知らずなことが言えたものだ。人のことを厚化粧という己こそが厚顔無恥である。

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イイことはみんな自分の手柄、悪いことはみんな部下の責任、こんな上司(長)をサイテー人間と呼ぶくらいの知識や素養はあるんだろうが、今回の小池都知事の神をも畏れぬ対応に、戦々恐々するバカ男には甚だうんざりである。男同士なら分かりあえる部分もあろうから、して男を追い詰めるのは異性が相応しいのだろう。ならば女を追い詰めるのは男が相応しい?

男は女に甘いから、女に厳しいのは実は女かもしれない。何かにつけて今回は男の甘さ、バカさが露呈したことで、小池知事という前に、男に物怖じしない女性の強さはこういうものだと思いを新たにさせられた。男の甘ちゃんというのは、まさにヘタレではないか。東京五輪における利権においても、森喜朗はぷんぷん臭いまくる。叩けば埃どころか、札束が出てきそうだ。

マツダ社員寮殺人事件に話を戻す。戻すといっても、捜査的に難しい事件でもないし、容疑者はその日のうちに特定される無防備な犯罪である。バレないように犯罪を行いたいとの知能もなく、奪った携帯を川に捨てるというのが容疑者なりの隠匿だったのだろう。まあ、バカだけが犯罪を起こすのではないし、利口な人間も法を犯すが、捕まった時点においてはどちらもバカである。

キレる人間の脳の科学的分析からして、「大脳前頭前野が未発達であること」と語る聖路加国際病院精神腫瘍科部長の保坂隆氏。同じく脳科学コメンテーターの黒川伊保子氏も、「前頭前野が不活性であること、最悪は未発達の状態にある」のが原因だと指摘する。未発達を分かり易くいうと、成長していない。さらには、大人になり切れていない、子どものままであるといえる。

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大脳前頭前野は物事全体を把握し、欲望や感情を抑える働きをする。腹が立つことがあっても、大人の対応をしようなどの判断を下す部分で、食欲や睡眠欲など動物的な本能を司る大脳辺縁系などが先に発達するのに比べ、前頭前野は脳の中でも最後に成長し、十代の終わりまで発達し続ける。「大人気ない行為」というのは、実際問題、大人になり切れていない人間である。

塵も積もってゴミ屋敷

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“ゴミ屋敷”や“汚部屋”。その単語を聞いたことはあっても、実際、中を見たことがある人は少ないのではないだろうか。また、その住人がどんな人か、想像したことはあるだろうか。「ゴミ屋敷、汚部屋の住人に外で会ったとしても気づきません。彼らの外での顔は、ごくごく普通なんです」そう語るのは、数々の汚部屋に潜入取材したライターの村田らむさん。

村田さんによると、汚部屋の住人は女性が多く、そのほとんどはごく普通の生活を送っているという。きちんとしたメイクと身なりで、仕事も有能。そんな女性が、実はゴミだめのような部屋で、腐った生ゴミや得体の知れない虫の中で暮らしている。われわれの想像を絶する“汚部屋オンナ”たち。その人物像に迫った。「汚部屋」と聞くとアナタはどんな部屋を想像するだろう? 

おそらくニュースなどで取り上げられるゴミ屋敷などは、お茶の間に流れても許されるレベルのものだ。本当の汚部屋・ゴミ屋敷とはそんな生半可なレベルではない。片づけ専門の清掃業者に潜入し、実際にいくつもの現場に足を踏み入れた村田さんに話を聞いた。「僕が実際に働いたのは約2年間。雑誌の企画として持ち込み、ゴミ屋敷取材のために清掃業者に同行取材をお願いしたのが始まり。

その後はスタッフ登録をして、数々の現場を見ることになりました。汚部屋の住人は女性が多いと言われていますが、僕の感覚値でも6:4くらいの割合で女性が多め。看護師さん率が高いですね。実際に清掃業者を頼むのは安くない。彼女たちは高給取りのうえ、多忙。なので、そうなりがちなのかもしれませんね。汚部屋の傾向として、女の人の場合は“強烈に汚い”人が多い。

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食べ物を腐らせたり、使用ずみの生理用品をそこここに貼ったりしたりね。男性の場合は本などを集めてしまう“コレクター系”が多い。汚部屋、ゴミ屋敷になるきっかけはいろいろあると思いますが、女の人だとゴミ出しをしたときに、分別について近所から怒られたりして、それからゴミが出せなくなって…という話も聞きます。どちらかというと内向的でナイーブな方も多い。

孤独だったり、病的に片づけが苦手だったり…。確かにだらしない人も多いのですが、誰かが叱ってあげたり、寄り添っていたら汚部屋にならなかったケースもあるかな、と感じます。また高齢化が進んで、認知症の老人が自宅をゴミ屋敷にしてしまうケースも増えています。汚部屋を片づけていると、最初は暗かった住人も次第に明るい表情になっていくんですよ。それが一番うれしいですね。

部屋が片づけられないことは欠点だけど、片づけられないことで人格すべてが否定されるわけではないのです。これを読んでいる人の中にも、実は部屋がスゴイことになっている人もいるのでは? すでに自分でなんとかできない人は、業者に頼ってみてもいいと思いますよ!」と、まあ片づけ専門の清掃業者に潜入したライターのレポートであるが、現象を実体験するのもいいけれど。

こんな人がいるということよりも、自分の場合、「なぜ、そんな人間になるのか?」と、こちらの方に思考が行ってしまう。例えば、「性善説」、「性悪説」なる言葉がまことしやかに流布されている。「性善説」は孟子、「性悪説」は荀子が唱えた思想である。思想は人の考えであって、正しいという根拠はない。その場でその人が考えたことが、受け継がれているに過ぎない。

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思想と哲学は根本が違う。思想はその人の考えだけで完結させてそれで良いが、哲学はそうはいかない。今までいろいろな人がいて、その人たちがいろいろ考えたことがあって、その流れを受けての、その人の考えたことまで全部であり、背景も含めた一切を知らないとダメなのが哲学。つまり哲学は学問であり、学問とは体系である。体系は以下のように説明される。

①個々別々の認識を一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体。② 個々の部分が相互に連関して全体としてまとまった機能を果たす組織体。さて、人の本性は善であり人を信じるべきだという性善説、人の本性は悪であり人は疑ってかかるべきだという性悪説。というのが一般的な考えのようだが、孟子や荀子はそんな程度のことを言ったのか?

正しい理解のために辞書を引く。「人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、 悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こる。正統的儒学の人間観」の性善説に対し、「人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によってのみ可能」とする性悪説。要約すれば、「人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ」という性善説。

 「人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ」というのが性悪説。これなら正しい理解となるが、どちらの見解においても、「人は善行も悪行も行いうる」となり、人を信じるかどうかは関係のない話。以下の例はどうであろうか?「今まで君を信じていたのに見損なったよ」などの言い方を人はする。これはオカシイ。信じるに値する人間か否かに関係なく相手を信じた。

イメージ 2よって、信じた側の勝手な言い分である。AはBを勝手に信じただけなのに、BがAの思いに相応しくない言動をしたことが、なぜBに責任がある?このように考えると、AがBに、「君を見損なった」というのは、まことに身勝手であり、羞恥の言葉である。なのにこのような言い方をする人間は、相手に責任を転嫁し、自らを慰めているにすぎない。なんともズルく見苦しい限りではないか。

もし、BがAの思ったようなBでないと分かったとき、とてもじゃない、Aのメガネに適うBでないを知ったとき、Aは自己責任において自ら反省すればいいし、Bに向けていう言葉でない。裏切られた思いで悔しいだろうが、BはAを裏切ったではなく、Aが勝手にBを信頼しただけの事。ダメ亭主であれ、不作女房であれ、自分が選んだのである。よって、「見損なった」は自分の判断ミスである。

「だって、そんなの最初に分かるわけないじゃない?」という言い訳は正しいか?言い訳に正しいもへちまもなく、言い訳は言い訳である。そのように思う自分は、言い訳をした時点で自分が醜いと思ってしまう。だから、言わない。言い訳のように見えるが、相手が誤解していたり、間違った判断をしている場合は、事実を述べるが、それすら相手にとっては言い訳となる。

だから、真意が伝わりそうな人間かどうかを判断して事実を言う、言わないを決める。何を言っても、「言い訳してる~」という奴にはそれ以後、誤解に対する弁解をしない。「勝手に誤解してろ!」でオワリ。言い訳と弁解は根本的に違うし、言い訳は作り事でいいが、弁解は真実でなければダメだ。したがって、「その弁解は言い訳か?」というのはあり得る。

弁解を必要とすべき相手にはしなければならないが、それすら人を見てすべきだろう。嘘の言い訳に整合性はないが、真実である弁解は整合性に満ちている。が、それすら信じてもらえないこともある。有名なのは、「ソクラテスの弁明」であり、彼は一切の詭弁を廃し、「真実のみ」を語る決意だった。「ソクラテスの弁明」の中で語られる、死と哲学についての言葉は必読であろう。

我々は自分に最大の贈り物をするとしたら、それは何であろうか?また、他人にそれをするとしたら、何をするだろうか?今、お前は必ず死ぬのだと宣告されたら何を考えるだろうか?お前には死と交換して惜しくないものがあるか?と聞かれたら何と答えるだろうか?こういう問題は、実際に自分がそういう境遇に置かれないかぎり、正しい答えとならないだろう。

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あらゆる角度から、あらゆる可能性を思考し、想像はするが残念ながら想像の域をでない。ソクラテスはこれらの問いに明確な答えを出している。それを単に言葉で言ったのではなく、自らの行動で示している。「ソクラテスは殺されてしまったではないか?死が答えであったと言われても理解できなければ、納得もできない」と現代人は納得しないだろう。

逃げられるのに逃げなかった、みすみす死刑になった。しかも無罪の罪だというではないか、確かにその通り。しかし、逃げなかったがゆえに殺されたソクラテスの行動に、多くの人は戸惑いながらも魅き付けられた。性善説などは思想といったが、哲学者カントは以下のように述べている。「ところで、人間はうまれつき善であるか、悪であるのか?そのどちらでもない。

なぜなら、人間は生まれつき決して道徳的存在者ではないからである。人間はその理性が義務と法則の概念にまで高められるときだけに、道徳的存在者になる」。幼児は無邪気であるが、無邪気が道徳的であるはずがないとカントは言う。「無邪気であることは素晴らしいことである。ただ、他方において甚だ困ることは、それがよく保護されず、容易に誘惑されることである」。

つまり、三歳児は無邪気であるが、彼らが道徳的でないのは、積極的に悪をなさず、善もなさない。男遊びや淫らな性欲を改めさせるため、あるいは過度の飲酒や喫煙を改めさせるために修道院内に軟禁された少女は、決して欲望の克服したのではない。覚せい剤を止めさせるために病院に隔離しても、それが自律的克服とはいいがたい。再犯率が高いのは、精神の弱さである。

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外形的、物理的に様々な欲望を除去、あるいは遠ざけ、あるいは消去するという方法は、幼児の状態を再現することに他ならず、真の意味での欲望の克服とならない。戸塚ヨットスクールに見られた強制的修練も、感化院(少年院)などの規律正しいプログラムも、見方によっては道徳的とはいえない。どうすれば荒れた精神を自愛に持っていけるかは、本来は隔離であってはならない。

が、しかし、指導者の都合を考えるとそうした方法が手っ取り早いのだろう。のっけに書いたゴミ屋敷の問題も、なぜ自分の部屋がゴミ屋敷になるのか?は、ゴミ屋敷にするからなるのであって、ではなぜゴミ屋敷に平気で住めるのか?ゴミ屋敷に住むのが苦痛でないのか、嫌でないのかの分析をすれば、苦痛でない、嫌でないということになる。だからゴミ屋敷に住めるのだ。

問題はゴミ屋敷の存在ではなく、そういうところに住むことが苦痛である人間を作ることだが、おそらく親自身が部屋を汚くしていたのだろう。そういう環境が子どもの精神を荒んでいったのだ。皆が競って部屋をきれいにし、きれいな部屋に住もう、住みたいということが教育であると思わぬ親が多い。神経質な親ではなく、キレイを遊び心で子どもに植え付ける親がいい。

勉強出来る子、常時100点取れる子なら、部屋など豚小屋でもいいという親の価値基準を悪いとは思わない。その子が豚小屋に平気で居住できる感性になろうと、将来ゴミ屋敷の住人になろうと、一切は親の責任であろう。「塵も積もれば山」というのは、1円玉も100万枚で100万円になるということだが、「塵も積もってゴミ屋敷」の住人は、本人より親の顔が見たい。

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男はブサイクでいい

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「男はブサイクでいい」。自分が男だから思う部分も確かにある。即ち男から見た男観であって、残念ながら女性から見た男観を述べることは男の自分にできない。が、そこは長年の経験や様々シュチなどから、ある程度女の男観を眺めることは可能である。「見る」は「知る」であり、見ないで知ることはできない。「見る」というのは、「聞く」も含めた現状把握のことだ。

確か24歳のころと記憶する。自分にとって驚いた事件があった。事件といっても警察沙汰になるような、そういう事件ではなく、「事件だ、事件!」などと巷でいうところの事件。つまり人々が関心を引く出来事である。当時付き合っていた女性の同僚で、彼女が急きょ結婚をするということで退職の運びとなった。その女性には長年付き合っていた彼氏がいたのは聞いていた。

ところが、結婚相手は彼女より14~5歳上の中年男であるという。男は大変な資産家でベンツの高級タイプを乗り回してた。現在のような並行輸入やディーラーが整備されたの時代とは異なり、当時ベンツを乗るのは巨人の長嶋や力道山や石原裕次郎、それにヤクザの組長くらいしかいなかった(多分に比喩だが)時代である。点検や車検費用などの維持費もバカにならない。

現在でもBMWの純正オイルで3万円近くかかったという事例もある。彼女はハーフフ系美人(おそらくハーフ)で、顔の皮下脂肪ゼロと言えるくらいに小顔でモデルのような容姿だった。そんな彼女であるだけに資産家に見染められたのだろうが、結婚式に参列した自分の彼女に披露宴の写真を見せてもらって一言、「なんでこんな男なわけ?」と思わず口にでる。

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30代半ばにしてこのメタボ、毎日フォアグラ食ってるとしか言いようがない。まあ、当時メタボという言葉はなかったが、まさに百貫デブであった。顔もデブ特有のまんまる顔に、探さなければ分からないような、申し訳程度についている細い目が今でも脳に焼き付いている。「木村さんって、そういう子なんだ」と自分。「そういう子」とは結婚のためなら彼氏を捨てるの意味。

彼女も自分も若かったせいか、「花より団子」の意味も分かり得ず、女が玉の輿婚を夢見る心情など考えてもなかった。あまりの心変わりというか、変質ぶりに二人は呆れ、交わすのは批判の言葉ばかり。「結婚は日常であり、現実的なもの」という言葉を知ることもなく、理解もできない当時の自分であって、彼氏を捨て、お金持ちを選んだ女を大層醜いと感じていた。

ふとテレビでハーフ系タレントを見て彼女のことを思い出したが、彼女似のショートカットの似合うそのタレントの名は知らない。セシルカット、ショートヘアの似合う女性は、髪型の恩恵を受けない部分、地美人系が多い。近年はやたらロングヘヤーが目立ち、確かにロングだとブスも普通に格上げなるが、「シャンプーもドライも大変だろうな?」と、思わずにいられない。

美女があんなブサイクな男でもいいのか?という現実に触れた一件だった。確かに美人とブサ面のカップルは普通に存在するが、「美人はブサ面(変わった顔も含む)を好み、ブスはイケメンを好む」の法則を自分は信じている。理由は心理学的に解析されており、変わった顔の中には、「才能」も含まれており、容姿に恵まれた美人は、才能に惹かれる部分はあるのだろう。

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遺伝子レベル解析でいっても、自分に無いものを求めるという点において、ブスのイケメン好きもまったく同様である。昨日は日本ハムが11.5ゲームあった差を逆転して優勝を決めたが、その立役者は何といっても投打に活躍した大谷翔平の功が大きい。恒例のビールかけには社会問題にもなったハンカチ王子こと斎藤佑樹投手が、一軍登録抹消のまま、「ひっそり」と参じていたという。

「ひっそりと」の形容詞が板につくほどの無活躍ぶりのイケメン斎藤と、イケメンというほどではないが、変わった顔の大谷の対比が強く感じられた。斎藤といえば、元楽天のエース田中将大と甲子園時代から比較されたが、月とスッポンとなった昨今においては比較の対象にもならない。同僚だったダルビッシュや大谷と比べても差が開くばかりのハンカチ王子くん。

ハンカチ乞食と揶揄されたほどに、先般高級外車を一ファンから提供されていたことが発覚した。400勝投手の金田正一は、「グラウンドに金が落ちている」といったが、実績も何もない(人気はあるのか)斎藤が、ポルシェで練習場通勤するのを、誰が評価する同僚がいよう。グラウンドで金を拾えない彼の屈折した自尊心が、「おねだり」となる。「腐っても鯛」という慣用句がある。

斎藤は週刊文春の、「ポルシェおねだり」報道以後、報道陣やファンの目を警戒してか、都内の自宅から千葉・鎌ヶ谷の二軍練習場へのポルシェ通勤を止めている。報道陣やファンの目ではなく、同僚に気づかいすべきだろうが、彼の高慢な自尊心がそこに気づかない。同じプロ野球の早大OBも、「野球以外の"おねだり"の記事では大学に泥を塗る」と辛い。

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辛いというより当然。早実高で全国制覇、大学時代も1年からエースとして活躍、早稲田を日本一に導いた。OBは、「持ってる選手」と評したこともあったが、今となっては遠い昔話。2010年のドラフトで一位指名を受けた早大三羽烏の一人、広島の福井優也投手は27勝。斎藤は1年目こそ6勝で計14勝。どんどん下降し今期は0勝。そんな彼にポルシェは、"Bull shit"

彼は高卒の田中、ダルビッシュ、大谷を見下すような発言が取り上げられたことがあったが、「腐っても大卒」といった自負心か。実力社会に学歴などは屁のツッパリにもならないが、自慢するものは学歴しかない斎藤は、懸命に屁をツッパリにしようとする。素晴らしい実績の田中、ダルビッシュ、大谷を決して評価せず、「自分は自分」という強がりが憐れに響く。


同じように感じるのはプロゴルファーの石川遼と松山英樹。こちらの場合は石川の親父の出しゃばりぶりが影響しているかなと自分は感じている。現に松山の親父の顔など見たこともない、知らないという人は多いし、まったく父親の影のない自立心が松山の強い精神力を作っている。今後石川がどのくらい松山に近づくのか、それとも離されるばかりか。

斎藤に対する田中、石川に対する松山、容姿では圧倒的に前者が秀逸だが、色男に金と力がないという言葉通り、実力は圧倒的に後者が勝っている。「美人はブサメンが好きと」いうのは、ブスのイケメン好きに比べてそれほど信憑性はないが、ようするにブサメン男に能力があるならともかく、それ以外にもブサメンがモテる秘密というのか、秘訣がないわけではない。

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美人がブサメンに母性愛的同情心を持つことは考えられる。イケメンなんか放っておいても女性が絶えることはないし、その意味でブサメンの方が女にモテない分、安心という保守性思考もあろうか。実際、イケメンの浮気に苦労させられた女性は、イケメン嫌いになることもある。まあ、どんなに泣かされようとも、イケメン好きを止めれない女性もいたりする。

「女が重視するのは男の顔じゃない!」などという言葉は、確かに耳にするが、ホンネを言えば女は大なり小なり男の顔を重視する。これは生物の優勢の法則に照らしてもそうである。鳥や哺乳動物でもオスを選ぶ基準に強さやカッコよさがあるのが分かっている。人間であっても同じ性格でブサイクとイケメンだったら、イケメンをとるのは当たり前だろう。

だれが好んでブサイクをとるだろうか。ただ、"同じ性格であったら"の但し書きがあるように、まったく同じ性格のイケとブサがいるはずがなく、顔よりも性格の好みや相性の良さを重視して、ブサメンを選んだ事情はあろう。女性は男に比べて情緒の不安定な、いわゆるブルーな日が多く、そういう時はオモシロイことを言って、楽しませ、和ませてくれる男はあり難い。

それがブサであっても、笑いに包まれる魅力には屈しがたく、男のそういう性向は十分にモテる要素になり得る。カネはもっていても、いいマンションに住み、いいクルマに乗っていたとしても、癒されない尖った男の性向はブサメン、イケメンに限らずモテない。近年世間を賑わせた、「ヒルズ族」のホリエモンが良い例で、彼は同性からみても楽しい一面はないようだ。

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どんだけカネを持っていてもモテる部類には入らない男である。つまり、モテるブサイク男には、ブサイクなりのモテる要素があるということだ。清潔感があるとか、オシャレであるとか、相手を抑えつけない包容力があるとか、多少のわがままが言えそうとか、一面、「かわいい」などの愛嬌も必要かもしれない。それよりも大事な要素は、「女心」がわかるという事だろう。

女心がわかれば、女の扱いに長ける。そんな素養はどこで身につけるのだろう。自分には多少そういった素養がある。洞察力というのか、あえていえば自分を相手に重ねられ、それで相手の立場や気持ちになって考えられる。そういうものが無意識に会話に出れば、女性はそれを優しさと感じる。モテるとは思わないが、相手をいたわる気持ちは常に欠かさない。

スーツの袖から出る白いワイシャツにも気を使い、オシャレとはそういいものである。黒ずんだワイシャツの袖は、同性でもキモチ悪し。さて、文字数的に結論をいうが、カントはこう言っている。「男性の場合、その顔が皮膚の色やあばたのために醜くされ、好ましからぬものになっていても、それが女性の判断においてさえ、おのれの不利になるものではない。」

「男は醜くてもよい」と言い切ったカントだが、西洋人にして157cmの身長、胸部はほとんど曲がり込んでいるくらい甚だしく扁平であり、右の肩甲骨はやや後ろへ張り出していた。これは他人が書いているカントの風袋で、実はカントは自分の容姿をかなり気にしていたようだ。したがって、彼の記述は自身のコンプレックスの裏返しとみていいのではないか。

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「うちはデブでブスでキモイよ」と公言する女性がいる。どうせ相手が心で思っているなら、最終的にそのことで破局し、傷つくのなら、最初に提示した方が楽…という心理の女性もいれば、そうしたコンプレックスを克服しようと試みる時には、あえてそれを隠匿せず、好んで語るというポジティヴな心理背景もある。どの女性がどうなのかは、会話で探るしかない。

自分の身体を言葉にするとき、人間は綿密な計算をする。カントは自らの先天的コンプレックスに、学者として拘りを捨てるべく一抹の努力をしたのかもしれない。それが、「男は醜くてもよい」との自己肯定感であり、自らが欠点を発することで、誰にも言わせないようにしていたのだろう。人間は他者からの批判は耐えがたくとも、自己批判なら受け入れられる。

言われて驚く言葉

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「それって皮肉ですか?」

と言われてマズ驚く。皮肉なんて頭の隅にもないし、ズバっというのは思ったことそのまんまだが、なぜ相手には皮肉と映るのだろう。「皮肉じゃないよ」と答えるのもバカバカしい。なぜなら言い訳にとられるとかえって逆効果。「男は皮肉なんか言わないと思った方がいいよ。皮肉をいう男はつまらん男だよ」と返したことがあるが、どう相手に伝わったか?

少なくとも、「皮肉じゃない」よりは、根本否定になっている気はするが、相手がどう感じたかは次の言葉で判断するしかない。皮肉とか嫌味とか、どういう時に出され、またどういう気分で口にするのか、「皮肉」に縁のない自分にはわからないが、皮肉でないにかかわらず他人にそう受け取られるのは、受け取る相手が皮肉を言う人間だから、自分はそう受け取る。

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皮肉を言わない自分は、相手の言葉を皮肉と受け取ることはないが、それでも発した言葉がいかにも皮肉に満ち足り、明らかに嫌味という言い方であれば、さすがにバカでも分かる。「男のくせに女の腐ったような言い方するんじゃないよ」などと言ってやりたいほどに、つまらん人間だよ。皮肉なんか言ってないで、なんでハッキリ自己主張しないのか?

そのように思うが、皮肉や嫌味という人間は、ハッキリと直接的に物が言えない人間の心の弱さがもたらす攻撃的心理ではないかと考える。強く言えないゆえのあたりさわりのない言い方で相手を批判するから攻撃的になる。批判を悪と考えるからではないか?それプラス陰険な性格も皮肉すきになるのかも知れん。批判を悪と捉えなければ、皮肉より堂々批判をする。

批判は攻撃ではないが、ただ、相手によれば攻撃と取る人もいる。そういう人は批判=否定=攻撃という三段論法的解釈をするのではないか?いうまでもない、曲解であるが、人が事を曲解する責任はこちらにはない。さらには自分を攻撃してくる人と仲良くしたいと思う人はいないし、円滑な人間関係の多くは言葉の誤解や曲解から生まれ出るのだろう。

嫌味や皮肉が人間関係を悪くすることがあるが、嫌味や皮肉でなくても悪くなってしまうだろう。本当に伝えたいことを伝えることができるようになり、また伝え方も相手の心を害しようなどがないなら、当然にして言い方に配慮がなされるはずだ。若いことならそういった配慮は身につかないにしろ、感じたことを率直にいう訓練から身につくものだと思う。

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「訓練」としたが、やはり思うことを率直に述べるのは訓練であろう。なぜなら、「思ったことを直接的に述べるのはよくないこと」というまことしやかな考えが、「和を以て尊しとなす」の日本人社会の底流に存在するからであろう。だから差し障りのない表現や、奥歯に物がつっかえたような、本音を抑えた回りくどい表現が日本人の文化になったのか。

批判は悪ではない。異論・反論も悪ではないが好まぬ人がいる。人間関係の基本を融和と考える人は、異論・反論を嫌がるようだ。よって異論や反論に免疫がなく、驚き、怖気づいてしまう。それによって委縮し、批判する相手を攻撃的な人とし、自分には合わないと避ける。こういう状況をどれだけ経験したことか。経験を通して身につけることは人を選ぶことしかない。

避けられる、厭われるのは、相手の都合だから受け入れるしかないが、問題はそういう風に相手を追い込むことにある。真っ当な批判でさえも攻撃と感じる人は、その人がこれまでの平穏無事な生き方に反することだろうし、他人の平穏無事な人生を荒らすのは罪なことである。「なに事・かに事」に問題意識を抱く人間は、口を開けば他人を攻撃している。

物事を相手の目線において思考すると、そういう事が見えてくる。それならどうするかであるが、相手から吹っ掛けられない限り問題提起しないことに行き着いた。いかなることにさえ問題提起し、語ることを厭わない自分ゆえに、されど自己中心主義は理解されない。ソクラテスが道行く人にあれこれ問いかけたのは、彼が人間を卑下しなかったからだ。

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だから誰に対しても臆面なく話しかけられる。ソクラテスを真似るわけではないが、人を卑下しない対等さを旨とする人間は、純粋にソクラテスのようになり得る。決して彼は奇人でもなく、才人ぶりをひけらかしていたわけではない。生涯にわたって真実を愛し求めた彼は、どんな時でも真実を基準に行動するという人間愛に燃えていた人である。

人間が自由の境地に向かおうとするなら、他人には誠実となり、策略や計略は「おろか、嫌味や皮肉を言って誰かを攻撃しなくてすむようになるし、良い人間関係を構築ないし改善していくことができる。自由は素朴な美の愛に通じているからであろう。それはさらに知の愛へと昇華していく。人間は富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らないで済む。

身の貧しさを認めて何の恥であろうかとなる。さらに人間が社会的動物である以上、公私いずれの活動に関与しないことを、"閑暇を楽しむ"というのは間違いで、それは無益な人であろう。無知な時には腕を奮い、勇を奮うけれども、いざ理詰めにあうと勇気を失う人間がいる。「徳」とは人から受けるものではなく、むしろ人に施すものであろう。

人は自分にさえ分からぬこと、それを他者から教えてもらうこともできない問題に遭遇する。これを苦悩の生まれ出る時期という。どうすべきであろう。聖人なら答えを出せるだろうが、否、自分はどうしてきたのだろうか?快適な生活を文明の力とし、その施しを受けた人間に比べ、動物は厳寒に立ち、猛暑に耐え、食糧難に彷徨うなど自然の理力で生きている。

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人間は苦しみに耐えきれず、自らの命を投げ出すからして脆弱である。苦悩は生命力で持ちこたえるしかあるまい。よって何かを信じることは大したことである。それは宗教においても言える。イスラム教徒のあの、神によって生かされているかのような絶大なる信仰心は、大したことに思える。自分は神と無縁の生を選択し、これは何ら大したことではない。

子どもの頃は神を盲信していたかもしれない。「神様お願い」と手を合わせたこともあった。が、信じたものと自分との間に距離が出来、それについて自身の内面にあって眠っていたものが呼びさまれていった。神託よりも人間力に目覚めていったようだ。「人間力」などと、いつごろ生まれた言葉であろうか?漠然と定義はできるが、Wikiでは以下の説明がなされている。

「人間力」とは、社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力とある。しかるに、「人間力」という語そのものは、通俗的に使われ始めたようだ。ま、自分は人間の力、即ち、人間ならあらゆる場において、その力を発揮せよと捉えている。負けたくない、自分に、自分という人間に押し潰されたくない。

自分が自分をコントロールできずして、何の自分であろう。したがって神託を廃すとの考えに至った。神は人間をコントロールできないのだと。神は強大にして絶対善であり、人間はその過ちや脆弱性において神に適うはずがない。だからといって神に自らを託すなど考えも及ばない。間違えど、苦しめど、人間は人間の力で生きて行くべきであろう。

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 神の皮肉

 人はみな名誉と権力と地位を求め
 バベルの塔を天高く積み上げる
 ただ天を見上げ上昇しようとする人々
 できるだけ上へ上へとのぼりつめようとする  

 ああしかし、皮肉なことに
 神は低きにくだりたもうた
 しかも、十字架という底の底まで
 上昇しようとする人々 

 低きにくだりたもう神
 ああ、この神の皮肉


さらには皮肉や嫌味の多い人間は、陰湿で陰険という性格の悪さを如実に感じるし、心の健康な人間はそんな言葉は浮かばないと思うのだが…。皮肉・嫌味は相手の心を害す健康的な言葉ではないし、健康的な言葉でないならおそらく精神が健康的でないのだろう。皮肉や嫌味についていろいろ調べたり思考をしてみたが、このような記事が見つかった。

名誉と権力と地位を求める愚か者への神の鉄槌。鉄槌という語句が皮肉と替えられたのは、神の慈悲であろうか。どちらでもよい、我には関係のないことだ。神の皮肉などより、問題にし、思考すべきは人間の生む皮肉や嫌味の存在だ。というところで以下の記事が目に入った。「皮肉」を学者の領域として研究した東フィンランド大学の脳神経学者である。

アンナ・マイヤ・トルパネン博士率いる研究チームが、平均年齢71歳の1449人を対象に、世間や他人に対する皮肉・批判度を測る質問をして、同時に認知症のテストしてみた。質問の内容は、「出世するためにみな嘘をついている」、「人は信用できない」、「人は自分の利益になることにしか積極的に動かない。」などの項目から脳に与える影響である。

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その結果、人は利己的な関心だけでしか動かない、誰も信用できない、と強く信じている人は、それほどでもない人に比べて、約3倍も認知症になるリスクが高いことがわかった。この数値は高血圧、高コレステロール、喫煙などの認知症に影響を与えるものを調整した後のものであるが、この結果についてトルパネン博士は、このように述べている。

「皮肉な性格と認知症を結びつける科学的な証拠はまだはっきりしないが、この結果から、個人の性格や世の中の見方が、その人の健康、さらには脳にまで、なんらかの影響を与えているというある程度の証拠を示している」。人間には様々な自己防御本能がある。嫌味や皮肉もそれに該当するが、他人を攻撃しない人間は、情緒が安定しているからであろう。

以下は女性がよく言う言葉である。「私なんて、どうせみんなから嫌われているし、誰も助けてなんてくれないだろし、誰も私のことなんてわかってなんてくれないだろうし…」などは明らかに情緒不安定に見受けられ、そこから派生する卑屈な物言いが嫌味や皮肉を生む。「助けてほしい」、「大切に扱ってほしい」、「判ってほしい」、「認めてほしい」…

これらはまだ素直な段階だが、長期間改善なきままに続くと、人は疲れ、素直さも消滅し、上記の皮肉言葉が顔をだす。卑屈な人間に陥ると、相手からすれば、「助けたい」、「励ましてあげたい」、「力を貸してあげたい」などの善意が後退する。人の力を宛にしたいなら、「誰も何もしてくれない」などの自尊心を捨て、乞食のように素直に道端に座して頭を下げるべき。

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女はブサイクでいい

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「女はブサイクでいい」というのは、ブサイクを奨励しているのではない。それは男も同じこと。実は、「女はブサイクでいい」の中に、省略された言葉があり、全文を記すと以下のようになる。「自分が願う容姿に生まれてくることはできないし、生まれ持った容姿を怨んでもしょうがない。容姿が悪いことを根に持たず生きて行くのが大事なことではないか。

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美人を羨むよりも、美人に負けない何か、美人が持ちえない何かを女として掴めば、きっといいことはある。女はブサイクでいいは、負け惜しみでなく、評価する人に出会えば間違いなく輝く女となろう」。男が女を恋人として選ぶ基準は、「一に容姿、二に容姿、三、四がなくて五に容姿」。という男がいても何らおかしくない。そんなのはそれぞれ男の勝手であろう。

「美人に生まれた女性は得をする」というのは巷で言われているし、誰もが簡単に納得する言葉であろうが、そこでちょっと考えてみる必要がある。「そんなこと考える必要がどこにある?美人は得だし、ブスは損なのよ」というのは、まあ小学生なら仕方がないが、成熟した脳を持つオトナなら考えて損するものはない。何事も盲信はよくないのだから。

盲信がなぜよくないかは、他人の意見に右向け右に過ぎないからだが、自分にも頭があるなら人の価値観に染まって生きることもあるまい。日本人の非個性は付和雷同に殉じることである。他人の考えに無批判に同調したり、迎合したり、そういう人間は、「考える葦」とは言えない種の人間だろう。なぜそうなるか?なぜそうするのか?自分の考えに自信がないからだ。

だから金魚のうんちのように本体にくっついたまま浮遊している。あれってオカシイと思わないか?現象的に視覚野に入らないからといって、金魚のうんち人間はオカシイに決まっている。「こころ」とは思考だ。思考は脳に宿っている。記憶、感覚、意識、情緒、これらはみんな脳の中の出来事だ。女性を美人と思うのもブサイクと思うのも脳が判断する。

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判断するのは構わんが、少し幅を広げた思考をすべきと自分はいいたいのだ。「お前の脳は、女性を美人かブスかの判断しかできない、イカレた脳なのか?」と、これは実際に友人に言ったことがある。その時なんて答えたか覚えてないが、美人かブスかが女性の価値を決める絶対基準ではないと言いたかった。バカか利口かが人間の絶対基準でないようにだ。

高学歴の有無が人間を判断する絶対的基準ではないようにだ。お金持ちか貧乏かが同じくそうでないようにだ。まだまだ沢山あるが、そんな風に、一面=全面とするような人間は正直いって間口の狭い人間だろう。間口というのは玄関の入り口のこと。狭い間口から大きな家具は入らないように、間口の狭い人間が大きなものを収納できるわけがない。

様々な体験をした自分は、彼女を結婚相手に見初めた友人の言葉に衝撃を受けたことがある。見初めた女性は美人ではない。自分も美人でない女性と割と多く付き合ったが、友人から、「何であんなんがいいのかさっぱりわからん」などと言われた。男は率直に物を言うし、だから言われて憤慨していたら男なんかやってられんし、率直を別段何とも思わない。

「何であんな女がいい?」は、実は率直ではない。率直なら、「何であんなブサイクな女がいい?」というべきだが、同じ意味を感じるなら率直である。「俺がいいと思うからいいのよ。顔しか見ないお前には分からんだろうな?」と、これは自信たっぷりの自分の思いである。普通こういうことを言われて、つまり自分の彼女を貶されて、頭にくるやつもいようが、人はそれぞれだ。

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何で自分が気にいってるものを他人が同じようにいいと思ったり、気にいらねばならんのだ?と、これが自分という人間の思考の本流である。この考えはおそらく小学生時代から根づいていったのではないか。よく言われたのが、「親をそんな風にいってはダメだろう?」、「一人しかいない親は大事にしなきゃ」と、この儒教的な文言は腐るほど聞かされてきた。

どうして自分の糞母親のことがこいつらには分からないのだ?と思っても、ほとんど同調する友人はいなかった。成人になって小学校のある同級生が、「お前とオカンは一生争うだろうな」といったのは覚えている。唯一肯定的な考えだったからだ。彼は親が子への過去の軋轢の謝罪をしない限り、親子は和解しないという考えをもっていたが、ほとんどの親は子に謝罪などしない。

なぜなら、「何を謝罪することがあろう、自分は子のためを思ってしたことだ」そういう考えにしかならないからあ。子どもが自分から乖離していくのを、親のせいと反省し、謝罪するには、子どもが殺人など社会的犯罪を起こさない限り、親は分からないない。どんなバカ親でも、子育てに正しいという認識を持っているが、自分を客観的にみれないで何を気づくであろう。

親が子どもに、過去の許されざる行為を謝罪すれば、子どもの心は晴れる。どんなことでさえ許せる。それが血を分けた親子というものだ。他人は許せじとも肉親は許せる。親子という関係は永遠だし、逆転することはないが、自分などはとっくに精神的逆転している。子どもを育てる時は親の思考が中心だが、今は多くが子どもの考えを規範にする。

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「多く」であって、「一切」でないのは、まだまだ親からみれば若輩として甘い部分があるからで、そういう時は身を乗り出すも、些細なことはヒレ従っている。彼らは別の所帯を持つ親離れした一個人である。親子関係といえども、20歳過ぎれば人間関係を基本とすべきである。少し脱線したが、友人が恋人を結婚相手に選んだ理由に驚いたと書いた。

それは、「料理の味付けが母親の味だった」といった事である。そんなテレビドラマのようなことが実際あるのか?「おふくろの味」って本当にあるのか?我が身に置き換えて回想すれば、母親の味ってのは、お正月の「お雑煮」くらいしか思い立たない。醤油味ベースにアナゴ、大根、人参、牛蒡を入れてごった煮の濃ゆい味の雑煮は、唯一母の味として継承している。

母子関係といっても、自分の親、自分の子のことしかわからない。自分の場合、親を大事にし、気づかいし、やさしい言葉をかけあう母と息子は、児童文学や小説でしか見たことがない。よって、「母の味を醸す女性」には驚くしかなかった。彼女は料理がすきで、太刀魚やサバの煮つけを食べたことがある。醤油ベースに生姜の味がピリリ、甘み加減はまさにプロ級であった。

改めていうが、彼女はブサイクな女である。が、彼はそんなことはどうでもよかった。結婚式の来賓祝辞に、「新婦にお願いがあります。旦那様の三つの袋を大事にしてください」というのはしばしば耳にした。一つは「お袋」、一つは「胃袋」、そして「玉袋」。お袋、胃袋はともかく、玉袋が宴席を湧かせる。今どきこんな祝辞を述べる時代ではないが、かつては定番だった。

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お袋(姑)をいたわる優しい女、まあ、これは言葉通りにはいかないことが多いが、そこは祝辞である。胃袋を大事にとは、美味しい料理を堪能させるとの意味。玉袋はしっかりと頬ずりをし、哀願し、よき子宝にめぐまれんために…。そんな意味だが、注釈がないので人それぞれに受け取るだろう。女の優しさは姑を大事にするなど、自分の場合は夢にも思わない。

姑とは格闘してもいいから支配されないようにして欲しいとの思いが強かった。女の家庭料理は、確かに男を虜にする。料理上手を貶す男はまずいないし、男は女性の手料理に心を動かされることが少なくないが、果たして現代女性がそういう意識を持っているかは疑問である。おそらく少数派であろう。美しく着飾って男に取り入れられたい、あるいは性技などを重視したり。

それが離婚の多さに反映すると言い切れないが、手料理に対する女性の意識の低下は間違いない。未婚女性の4人に1人は料理をしないと言われており、これについて、「旭化成ホームプロダクツ株式会社」が、20~30代の有職者女性500名を対象に行った、「料理」に関する意識調査で、夕食を自炊する頻度がゼロと回答した女性は全体の25%にのぼった。

この現状を母親が憂えることもなく、社会が啓蒙していくということもなく、企業はこの現状を利潤に直結させんと、レトルト食品の開発に勤しむだけだ。企業の社会的責任などは死語、唯一料理学校のみが、「お料理上手は女性を救う」と頑張っている。本当は、「お料理上手はブサイク女性を救う」というコピーにすべきだが、それでは反発を買うであろう。

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何事も正直・本音がいいとは限らない。「あなたはブサイクだからエステに来た方がいい」という勧誘方法は女性向きではなく、「あなたは美しい。もっと美しくなりませんか?」でなければならない。男なら、「来たれ!デブにおさらばしたい男!」でいいのだろうが…。実際、料理が女性を救ってきたように、ブサイク女性もなにか特技や技能を持てば、十分美人に対抗できる。

なにも技能でなくとも、やさしさ、愛嬌、といった部分であれ、近年の甘え男への癒しに寄与するかもしれない。美人は「勝ち組」、ブスは「負け組」などと勝手な思い込みをせず、親もブサイクな娘に対しては何か暗示のようなものをかけるとかも大事である。田中希代子(1932年2月5日 - 1996年2月26日)という伝説ピアニストがいた。彼女の父は娘にこういったという。

「お前は一般女性と比べても決して器量がいいとはいえない。社会で自立して生きて行くためには、何か技能を持った方がいい」。父は厳寒の冬でさえ誰よりも早く起き、ピアノの部屋の暖をとって娘を起こす。希代子は父の言葉を素直に受け入れ、ピアノの研鑽に努力した。その甲斐あってピアニストとしての登竜門である3大コンクールに入賞する。

ジュネーヴ国際音楽コンクール(第14回1952年)、ロン=ティボー国際コンクール(第5回1953年)、ショパン国際ピアノコンクール(第5回1955年)入賞は、日本人初入賞者として知られる。不幸にも彼女は30歳代後半に難病により引退したが、その後は後進の育成に努めた。現役時代から当時の皇太子妃(現美智子皇后)から慕われたピアニストとしても知られている。

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スーパーな男

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10月   425974歩  291133m 
11月   468475歩  322635m
 2月   458508歩  311674m
 1月   427959歩  295002m
 2月   396480歩  269597m
 3月   441295歩  300095m
 4月   549318歩  373403m
 5月   567095歩   381612m
 6月   453428歩   308253m
 7月  481400歩   327338m 
 8月   488053歩  331877m 
 9月  374830歩  313886m 
               
 TOTAL  5,533,175歩  3,826.5km

歩きも歩いた1年間。何事も区切りをつけた方がひと段落する。したがって、1年間ご苦労様のアルキメデス。いや、アルキメデタシである。初めの一歩は積もり積もって5,533,175歩、総歩行距離は3,826.5kmは、日本列島縦断である。これだけ歩いて何かご利益があったのか?自覚がないのでわからない。足の裏の筋の負傷だけが、確実に起こった事だ。

アスリートに故障はつきものだが、一般人ウォーキング愛好家でも過度の運動がたたれば故障はする。結果的に過度な運動だったというしかない。残念だが無理をせず、養生して治すしかない。「ウォーキング」なんてのは何の変哲もない、「歩く」という日常動作である。ランニングなどに比べると運動強度が低く、高齢者でも無理なく始められる。

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それが油断となるのだが、ネット検索すると、あるわあるわ、ウォーキングにおける様々な事故やトラブルの多さからして、ウォーキングはれっきとしたスポーツであり、正しく行わなければトラブルも生じる。回避するための注意点も書かれてあるが、自分は回避も何もしなかったようだ。筋肉の炎症程度で症状も軽く、少しの期間安静にして置けばいい。

実施前の注意点としては、①当日の体調を留意、②足にフィットした靴、③(可能であれば)通気性・伸縮性の高い服装。実施中の注意点として、①低血糖(朝食前の歩きは注意)、②水分補給、③靴ずれ、水ぶくれ。実施後の注意点は、①ストレッチ(筋肉を伸ばす)、②身体的トラブルのケア、③汗を拭き、着替えを、④バスタイムケア(筋肉をほぐす)。

やはり継続するためにはトラブル回避である。身体に良いと言われているウォーキングでも、身体を壊してしまっては論外である。たかがウォーキングはされどウォーキングであり、決してあなどってはいけない。罹患した足底筋膜炎は、正しく治療をおこなうと早期に回復するようで、今後は自らへの暗黙の挑戦心を止め、気楽な歩きを心掛ける。

また、こじらせないためにも正しい治療を心掛け、できるだけ早期の回復を望みたい。足底筋膜炎完治の基準は、①どんなに歩いても痛みがない、②足の裏を指で押しても痛くない、③足の裏のつっぱり感もない、④足を地面につく時に痛くなりそうな怖さもない。ということで、現在の足の状況は酷使がたたってか、上記のすべてに合致している。

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で、今回は1年区切りということで、ウォーキング自体は中止はないが、歩数や歩行距離をカウントするブログ記事は止める。数字はやりがいに寄与するが、数字以外にもやりがいはある。偏差値世代が数字の魔力に縛られるように、おそらく自分も、無意識の数字奴隷になっていたのかも知れん。確かに、数字というのは具体的であるし、あるがゆえに魔力となる。
 
何においても、自分を客観的・冷静に眺めることは必要であり、それを促すようにと足底筋膜炎が機会を与えてくれたのだと。罹患した足底筋膜炎は、突然痛みが起きたわけではなく、毎日のケアがなかった事も大きく関係している。足の裏は毎日使い続ける場所であり、その分、疲労が溜まりやすい。完治した後もケアは続けるようにと記されている。

「継続は力」というが、治癒も力である。肉体的、精神的な力が合わさってこそ、真の「力」となる。自らに問い続けるのも力、答えを見つけるのも力、見つけた答えを実行するのも力である。思考力、判断力、実行力、意志力、精神力などの言葉は、誰が考えたのか、上手いことつけられている。それらどれも持ち合わせておきたい人間の能力である。

さて、表題に書いたように自分は、「スーパーな男」である。「スーパー」とは、凄まじく、とてつもない能力を持った人間との意味だ。アメコミの、「スーパーマン」は、その自信と自負に満ち、だからわざわざTシャツに「S」を入れている。言うまでもないあれは、「スーパーマン」の頭文字のイニシャルとみる。が、スーパーマンと自負するってナルシなのか?

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いや、事実であろう。彼の能力は常人に比べて半端でない。だから、謙遜することもなくナルシズムに酔うこともなく、自慢するでもなく、事実として、「スーパーマン」を自負している。日本にも月光仮面や七色仮面、まぼろし探偵、ナショナル・キッドなどのスーパーヒーローがいた。が、彼らは一様に日本人としての奥床しさか、マスクで顔を覆っていた。

となると、同じように顔を覆うバットマンやスパイダーマンも外国人にしては奥床しいということか。ならば顔を隠さないスーパーマンの堂々ぶりは特筆ものだ。あれくらいの能力と利他性を有するスーパーマンなら誰もが喝采である。さて、自分のことをスーパーマンと自称できる人間がいるのか?いや、ここにいるではないか、と言いたいが実は違う。

思わせぶりに、「スーパーな男」と表題したのは遊び心であって、本当は、「スーパーの男」が正しい。「スーパーな男」と、「スーパーの男」の意味の違いは誰でもわかろう。で、「スーパーの男」とはなんぞや?「スーパーの女」という映画はあったし、観たし、あれは、「スーパー(に勤めている)女」を描いたものだ。「スーパーの男」もそれに近い意味である。

略さずにいうと、「スーパー(大好きな)の男」が正しい。ということで、スーパーマンではなく、ただのスーパー大好き男。おそらく、同じ感性・趣向を有する同士は、老若男女を問わずいるハズだ。以下は戴いたメール。「よその土地に行くとスーパーに行ったりするのが楽しみです。そこに住んでる人たちが日常使っているしょうゆとか味噌とか買うことが多いです。」

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「みそ」、「しょうゆ」とは「料理の鉄人」か。自分はさすがに調味料は見ないが、スーパー好きの理由は、ところ狭しと置かれた商品類。まるで子ども時分の、「おもちゃ屋さん」を思い出す。必要なものだけを買いに行っても、「何か(珍しいものは)ないかな」と、ついつい時間を食ってしまう。スーパーとは己の童心をワクワクさせる、バラエティーに満ちた楽しい場所である。

男の遊び心というのは、ノーベル賞学者であれ、脳科学者であれ、高名な文学者であれ、そこいらのオッサンであれ、人を選ばないし、留まらない好奇心の賜物である。寺山修二が民家の家屋を覗いて、「住居不法侵入」捕まったことがあった。別にいいではないか、浴室を覗いたわけでもあるまい。脱法行為ではあるが、作家の好奇心と公表は控えてもよかった。

警察というところも、今回の高畑逮捕は甚だしく勇み足である。任意同行で双方から詳しく事情を聞くべきであったろう。しかるに警察というところは、有名人、著名人の逮捕で名を挙げたいというところでもある。「悪いことをして謝って済むなら、警察はいらないんじゃ!」という慣用句があるが、「警察はいらない」をソックリ群馬県警は持って行け。

少しばかりの嫌疑で、詳しく事情も聴かず、不当逮捕で人の一生を棒に振っても警察は「お上」の傲慢さか、それなのに謝罪することはない。警察というのは、上から目線の典型であろう。自分も、「上から目線」と言われることもあったが、下から目線でスカート覗くのが好きだというのを知らない輩どもの無知と一笑に附していた。上から目線で得るものなどない。

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「上を向いて歩こう」という歌は、悲しみの涙をこぼさないためで、まあ、二階から目薬を入れるようなもの。下を向いて歩けばおカネを拾う確率は高く、上を向いて歩くより実利はある。先日歩いているときに、スーパーの駐車場にせんべーのように潰された1円玉が落ちていた。可哀想に押し潰されたアルミの硬貨が、自分を見つめているではないか。

拾って汚れをはたいてポッケにしまって、交番には届けない。届けたらなんていうだろな~、などと想像するが、こういう場合、警官の第一声は想像できない。こういう場合は逆に考えるといいのよ。自分が警官ならなんていうだろうか?「一円ですか?犯罪とならないので、どうぞお持ち帰りください」というかもしれない。どうせ相手も冗談で届けているんだろうし…。

ところで自分はいくらなら警察に届けるのだろう?ちょっくら想像してみた。財布でなくナマ札として、千円かなら「No!」。1万円も「No!」。だいたいそんなお札が単独で落ちているなどあり得ないから、適当に答えている。ただし、財布なら金額にかかわらず迷わず届ける。財布にはキャッシュカード、クレジットカード、免許証などあり、これらはおカネより大事である。

別に千円、一万円、届けてもいいが、ネコババしたいというより面倒くさい。子どもなら拾ってうれしいおカネだろうが、1万円拾って得した気もなければ、いい気分になることもない。まあ、ちょっぴり罪悪感を抱きながら使うだろうが、行きたくない理由は警察が好きじゃないこともある。自分は、「面倒くさい」という言葉を禁句にしているが、こういう場合は正直面倒くさい。

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さて、近所のスーパーで最も近いのがイオン系、「Max Value」で徒歩10分。同じくらいに行くのが徒歩2000歩の、「Aruk」と、2500歩の、「アルパーク天満屋」。同じくウォーキング的に適度な距離の、「ゆめタウン廿日市店」が徒歩で7000歩。いずれもアバウトの歩数。「ゆめタウン五日市店」は頻度が少ない。「Aruk」以外はポイントカードを作っている。

Max Valur」においてはお馴染みの、「waon」カード。「アルパーク」は天満屋カード。「Aruk」でカードを作らないのは面倒だから。天満屋カードは1000円のポイント券が発行されるまで半年要すが、「ゆめタウン」ポイント券(一枚500円)は、現在60枚ほど貯まってる。有効期間2年間なので、間際になるまで使わない。理由は単純、貯めるのがオモシロイから。

男は単純である。おカネは使うためにあるがせっせと貯める人がいて、聞けば、「貯めて使う」といい、最終目的はやはり「使う」にある。自分はコイン(百円硬貨・五百円硬貨)を収集(貯めて)している。いずれは使うのだろうが、目視でどんどん増えていくのは、高層ビルが作られるのを眺めるようにオモシロイ。同様にポイント券も、どれだけ貯まるかを楽しんでいる。

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相性合わぬとゴタゴタいう前に…

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相性とは、二人ないし複数の人間が各々持つ性質や性格が合うかどうかのことである。と、これが単純明快な考えであるが、「人間同士の性格の類似や適応を判断する現象」との説明もある。なるほど相性においても「現象」という語句を使うのか?「超常現象」は別にして、一般的に現象とは、「人間の知覚できる、すべてのものごと」と理解していい。

「相性のいい夫婦」、「相性のいい友人」などが一般的な言われ方で、「親子の相性」というように相性は親子にも使われる。ということは親子にだって相性ってあるんだ?血が繋がっているからと言って、相性が合う、相性がいい、とは限らない。4人の子を設けた自分は、子どもに対して相性がどうのなど考えたことがない。贔屓しないよう気を使ったのはあった。

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以下はとある相談実例だ。「実の親子でも相性が悪いってあるのでしょうか?3人姉妹ですが、小さい時から私だけ可愛がってもらえなかった。母は、他の姉妹の事は心配したり、話を聞いてあげたりしていましたが、私だけ違いました。父も、私だけ今思えば虐待に近い事されてました。ベルトで叩かれたり、タバコの火を手の甲に押し付けられたりしました。

現在は母と私の家族と同居です。母とは、今でも良く言い合いをします。同居解消したいですが、新しく家を建てているのでムリです。性格が合わないのは、もう諦めるしかないのでしょうか?」。これって相性という現象なのか?親がこの子だけをのけ者にしたのは、単に嫌っていたからなのか?では嫌った原因がその子と親の相性の悪さであるのか?

相性が悪いから嫌うのか、嫌うから相性が悪いというのか、どちらもあり得る気がする。自分の経験でいうと、30代のころ、相性が悪いと感じる同僚がいた。口の利き方がどこかしこ冷徹で人間味がなく、話していて面白くない。面白くないから仕事上の有用な話以外はしないし、避けるし、相手は自分を疎ましく思っていないのか、よく話をしてくる。

同僚は自分と特段相性が悪いと感じてないようだったが、自分は彼との相性の悪さを認識した。思うに口の利き方、物言いにおいての、相性の悪さを実感した事例である。上の親子の相談事例は、他人のことゆえに的確な判断には及ばないが、本人が相性の悪さを認識しつつ、「血の繋がった親子でも相性の良し悪しはあるのか?」と疑問を呈している。

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なぜ両姉に比べて自分は親から疎まれていたのかが、判別できないようで、それを相性と結びつけようとしたようだ。現在彼女が同居中の母親を疎ましく思うのは、子どもの頃に虐げられたことが原因でもあるようだし、同居を解消したいくらいに母親を嫌っている。相性の悪さといえばそうとも言えるし、幼児期の体験が要因であるかどうかは他人には分からない。

今となっては相性がどうこうでなく、嫌いな母親ならそれでいい。親を嫌ってはならない法律も法則もないのだから。自分の精神を害する人間を無理に好きになろうとすると、ストレスになり、精神を病むからやめた方がいい。ある女性がこんなことを言った。「私は自分の嫌いな相手でも、なんとか良いところを見つけて、嫌わないように努力します」。

一見、良い子の法則みたいなことをいう彼女に自分はいった。「あなたが彼女を嫌う原因はあなたにないでしょう?彼女にあるとしたら、あなたは彼女の嫌なところを指摘できるんですか?しようと思うんですか?そんなことできないでしょう?だから、自分が耐えて、何とか険悪な関係にならぬよう、嫌いな相手を我慢して好きになろうとしてるんでしょう?

人は嫌いなものを好きになれるほど強い心をもっていないと思うけど…。嫌いを嫌いと言えないからそうしてるんじゃないの?それが人間の弱さだし、あなたのようなガンバリ屋さんは鬱などの精神疾患になりやすい典型だな。嫌な相手に無理に合わせていい子ぶって付き合ったらストレス溜まりまくりだろ?」。聞き終わるや否、彼女はこのようにいった。

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顔は半泣きである。「そうなんです。実はわたし、前の会社で精神が壊れました。もう辞めるしかないくらいに追い込まれ、いい会社だったんですが退職して今はパートです。いい人になってはいけないんですね?」。「まあ、そういうことです。あなたのようないい人でありたい人は、自分を追い詰めるから自我が壊れて、だから最後は逃避するしかない」。

自分はこの手の「いい子」の病理をよく理解できる。相手の無神経さや、思慮の無さや、激しい情緒の起伏などの責任を自分が取る必要はないのだし、飲みに行こうと誘われて断って、それで相手が機嫌悪くなる責任を、何でこちらが取らねばならない?そうできない人、責任を感じたり、悪いから嫌でも付き合うということをする人間が心の病にかかる。

男と男の世界は底に対立がある。女性は融和・同調で、そこが男と違うところ。男は嫌なことを嫌といっても、相手は理解しようとするが、同調型の女性は理解よりも怨みとなる。女の付き合いの難しさは話に聞くだけだが、いろいろ聞くに男ならやってられん陰湿さがある。女性と話をしていると、「うん、判る判る」、「それすごく分かる」などと言う。

つまり女性の「分かる」、「判る」というのは、私とあなたとは一緒との意味のようだ。もし、「分かる」ということが、考え方が同じになる、気持ちが同じになるというなら、必ずしもそうではない。一般的には、いろいろと話し合っているうちに相手と同じ考えや同じ気持ちになる事もあるが、そうなれることのみを、「分かる」というのなら、何とも視野の狭さであろう。

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学校の授業や講義を受講して、「分かる」というのとは違うし、人間関係における、「分かる」ということ、つまり、人間が誰かを深く理解するということは、その人と交わりを増し、いろいろと話し合う中で、相手と自分は本当に違うということを思い知らされること。それも、「分かる」である。相性が合わない、悪いとゴタゴタいうのではなく、違いを知って、さてどうするかに進む。

自分と相手は同じように考え、感じていると思っていたのに、 一つ一つ具体的に詰めながら時間をかけて話していると、ここの部分は相手もこう考えると思っていたのに、微妙に違うことを知ることになる。それが、「分かる」の大切さであり、それが真の相手理解だと考える。異なる環境で育ち、背景もまるで異なる。そんな相手と自分はこんなに違うものなのかと…

同じものを見てもまるで別の感じ方をし、受け止め方をするものだというのが分かってくる。ならば、それを相性が合わないことだが、だからといって、「二人はダメ」なのか?別々の色が集まり混ざって一つの光になるように、違うもの、別々のものが混ざって一つに価値にすべきである。離婚原因の多くは、「価値観の相違」、「性格の不一致」などの理由が言われている。

おそらくキレイごとに殉じたキレイ言葉だろうが、きれいごとに真の意味はない。二人の喧嘩を収めることができなかった、至らなかった。互いが突っ張りあえば物事は平行線だ。性格は不一致が当たり前だと思うのだが、後は価値観については双方がよくよく話し合って、子育てなり、将来の展望について、現実的な目線で解決することだ。婚姻は夢物語では決してない。

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親が子に夢を託すこと、それは親の「性」かも知れぬが、親の身勝手な都合で子どもを親の自己満足の手段にしていいはずがない。子どもの「夢」なら協力すべきだが、子どもにとっての親の夢など何の関係もないし、親の夢の実現のために努力するいわれもない。そのようなことをシビアに語り合って、真に子どものための価値観を発見するのが親の務め。

いかに女が視野が狭くとも、事実に素直に向き合い、「私はこんな時にこんな風に考える癖があるし、思い込みもあるけれど、この考えに沿って何かを実行すると、うまくいかないことが多い。あなたの言うような、もっと別の大事な視点があるのに気づかされました」というようなこともあり得る。ようするに、深く、厳密に、さらに厳正に考えるべきである。

思慮の浅さは、浅い行動に現れる。気 持ちが一緒になるとか、考えが一緒になるというような理解は決して幅の広いものではなく、相手がウルサイ、聞く耳もたぬという判断による妥協の産物は真剣な子育てとは程遠い。子どもの責任を果たして親が取れるのか?失った時間の責任をどのように取るというのか?と、子どもの話になるとつい熱くなってしまう。

また、相性の良さというのは、"合意が簡単にできるこということ"でもない。そんなに簡単な合意などであってはならないはずだ。相性の良さとは、真剣に話し合える時間を持てる同士であることではないか。そこから生まれる結論は意義深く、意味のあるものに違いない。したがって、大事なことは夫婦の真剣な会話で、ああだ、こうだと時間をかけて話しあうことである。

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そのことで、他人にとって当たり前のことでも、自分たちにとっては当たり前でないとか、自分たちにとって大したことではないのに、他の人にとっては、「スゴイ」などと言われるとか、自分と周囲の関係性も含めたさまざまなことが分かってくる。これらのことが広い視野で判断したということになる。最後に常々思うのは、親の狭い視点や価値観に育った子は憐れである。

当たり前といえば、人は己の容姿を選んで生まれないことも、親を選べない、環境も選べない、そんなことは当たり前である。「女はブサイクでいい」と書いても、「そんなの慰めよ。いいわけないでしょ?」と承服しない女性もいるだろうが、慰めではない、当たり前のこと。自分の努力でどうなるものでもない容姿なら、どう生きるべきかを提示し、書いている。

当たり前に承服できないなら、好きに生きたらいい。物事がわからぬ人間とは、そういう人間をいう。相性が合う合わないと簡単に言うが、それで物事が解決するか?解決する気がないからいうのだろう。台風・地震などの天災は回避できないが、相性の不適合は人災である。よって、人と人の相性とは、「ある」、「ない」を問題にするより、適合努力すべきだろう。

もっと気楽に…

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             「こうするのが絶対にいい!」と、思っていても、実はそうでなかったりする。それが思考から


10月に入り2度のウォーキングを行った。足の調子を見ながらだが、歩行記録アプリ入り携帯を持参しかなかった。理由は、「気楽に…」である。歩数、距離数を記録しないことで得たものは?問われれば、思いの通りに、「お気楽さ」であった。数値は結果で、結果は認識としての楽しみであった。決して目的ではなく、あくまでもフランクな結果把握である。

無理を強いてやるウォーキングではなく、主体性をもってやっていた。家に帰って今日の結果を見る楽しみもあって、数値はモチベーションに寄与していたと思うが、携帯を持参すまいと思ったのは、足を負傷したことも大きかった。足を気づかい、配慮しなければならない現状にあって、自分の意図するような結果も得られず、ならば数値の意味はないと感じた。

ならばいっそ、数値なしで気楽にやるべしの思いにいたった。携帯を持参しないで歩いてみて感じたことは、どのような理由であれ、自分が数値に依存していたのがよく分かったし、分かったことで新たな考えに至る。数値を決して目的とするのではなく、単に行為の結果と思っていたが、数値を放棄して感じたのは、思った以上に気楽に歩けたことである。

数値は無意識に自分を縛っていたのだろう。数値を解き放ってこれほど自由な気持ちに至れることが、どうにも不思議な感慨である。自由に生きることは「依存」からの解放であり、そのことは知っていた。人間はあらゆる依存から解放されることはできないが、できるだけ多くの、可能なかぎりの、不要な依存から解放される生き方をすべきとの考えでいた。

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      これはもはや対策である。このようになるであろうことを予測して、対処しておくのが教育だ。


「不要な依存」というのは可笑しな言葉だ。不要でないから依存するが、これは都合のいい思い込みである。必要が真に必要かの疑問を呈し不要を是正する。つまり、価値の序列を変える。こういう話がある。会社の中枢にいたインテリが精神を病み、精神病院に入院した。治りかけの頃に母親が見舞いにいくと、彼は雑巾片手に部屋中雑巾がけをしていた。

雑巾がけがエリートの仕事であるはずがない。パートの掃除おばちゃんの仕事である。が、彼は医師にもいい、母にもいった。「雑巾がけが楽しいんです」。彼の気持ちを主治医は理解したが、あまりの惨めさに母親は、「可哀想で見ていられない」と言って泣いた。そして先生に、「お願いだからやめさせてください」と頼んだという。誰より息子を理解すべき母親がである。

母親は息子の心など理解するどころか、虚飾の世界を息子に強いていたのである。なぜか?親の見栄がそうさせた。息子は母親の求めに呼応し、それが自我を破綻させた。母親よりも精神科医の方が、息子の心を正しく捉えているなら、息子は病院にいた方が良いということになる。つまり、そういう母の元で一緒に暮らすことが、息子によくないということになる。

「病院より家がいいに決まってる」ではない現実を、この話から知るべきだ。もっとも、母親には永遠に分かるまい。彼女には息子の心より大事にしたい見栄や欲がある。確かに、本音として職業に貴賤があるからこそ、「職業に貴賤なし」と言うのだろう。医師や弁護士が社会的地位が高いのを誰もが知っている。会社で平社員より役職者が偉いのは誰もが知っている。

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         オッカちゃんのためなら、「エ~んやこら!」、もひとつおまけに、「エ~んやこら!」


そうであるなら我々は、自分が本当にやりたい仕事、つまり、生きがいを感じる職業を選択する他に、社会的評価としての仕事を考えるであろう。つまりこれは職業によって自我を支えるということ。自分の職業を明かすのがつらい人、率先して明かす人、とりわけ普通に明かす人がいる。自分は対人関係で職業を聞くことをしないが、自主的に言う人はいる。

言いたくても言いたくなくても、聞かないのが自分のスタンスである。打ち解けていろいろなことが分かるまでは、根ほり葉ほりプライベートは聞かないのは、礼儀というより、先入観を捨てて人と接したいからだ。「聞いても変わらない」と言葉に出すが、自身の無意識の深層は分からない、だから聞かない。人が好きな仕事に従事しているとは限らない。

好きなことだから上手くいくとは限らないのが仕事で、かつてある楽器店の経営者が言った。「自分は音楽に興味ないし、何一つ楽器も弾けない。この仕事は親がやっていたからで、趣味や仕事で楽器を必要とする人のサポートをできればいいと思っている」。この言葉をビックリして聞いたのが10代の後半で、若輩の自分はこのことを理解できなかった。

音楽好きの自分は、楽器店やレコード店経営は、毎日音楽に囲まれて幸せ気分に思えた。「美」に強い興味を抱く美人の同級生が、銀行勤務を止めてノエビアを始めたときに、彼女は成功するという予感はあった。彼女の美貌がなにより説得力になるだろうと。資生堂やカネボウなど、大手化粧品を扱う商店と比べて、対面販売のノウハウで彼女は成功した。

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         ノエビアで随分儲けてカネを貯めたらしいとは周囲の評。儲かるらしい、確かに…


どういう理由か知らない、経営が下降したのかどうかも分からないが、突然彼女はノエビアを辞め、イタリア料理店の経営を始めた。あまりの突然の変貌と、まったく畑違いの業種転換に誰もが驚いた。誰も「なぜ」を聞かないし、自分も聞かなかった。彼女には当てはまらないが、人は職業的偏見で人を見る。物事の真実は社会的評価に関係なく存在する。

結婚という形式をとらない麗しきカップルがいる。結婚していてながら破綻カップルもいる。突き詰めて考えると社会的評とか、結婚とか、およそ形式というものは、世間的評価を得るものであるが、真実を得られることがなかったことの代償に過ぎない。と、そういう見方も可能である。本当のものに巡り合えない人間の満足感が、「形式」であったりする。

日本人が形式好きであるのは、ホンネよりタテマエを重視するからであろう。これらは結婚式のバカバカしい演出に強く現れる。形式か真実かの択一でいうなら、自分は形式打破を好む。なぜか?人間は真実に触れてはじめて強くなるし、身をもってそのことを実感した。だからか体系としての宗教には何の興味もない。宗教者の良い言葉は是々非々に素直に受け入れる。

強くなるとは一人で生きていけることでもある。言葉を変えるなら、「依存」しないで生きて行く。地位やおカネに依存、親に依存、子に依存、あるいは神に依存…。異論もあろうが、依存が人間をダメにすることはある。「不要な依存」といったが、アレも必要、コレも必要ではキリがない。何が必要で、何を不要とするかの決断は大変というが、執着心なき人は簡単だ。

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          幽霊さんだって、この世の誰かに恨みがある。執着を捨てて成仏いたしましょう!


とあらば、問題は執着心で、これなき人が自由人と言われる所以である。自由とは、何かにとらわれないことが一義である。人は人とし、自らの考えを主体にする人がいる。別に悟っているわけではない。自分と他人を比較してどうのこうの、人との比較で幸せ不幸せもなく、自身の絶対的価値を持つ。持つとは作っていくこと。いい言葉でいえば創造である。

何でもいい、何かを始めたら自分の形を作る。例えば恋愛、例えば夫婦、例えば子育て、例えばブログ、例えばウォーキング…、やるものすべてに既存の価値観を組み込まない。踏襲もしない。自分で考え自分で作って行けば、それが自分のものだ。前にも書いたが、ブログを始めたときに、手取り足取り、「ブログはこうした方がいいよ」と親切な人がいた。

その方は大学の教員だから、人に物を教えるのが沁みついているのだろう。よく言えば教えたがり、悪く言えばおせっかい。助けを求む人には幸便だが、自分には無用の節介だった。折角の教え、折角のアドバイスを一切無視した。彼には彼の、「良い」があるように、自分には自分の、「良い」がある。「コメント」の数や、「ナイス」に依存するって違うだろう?

なにかをやるにおいては、本質を見つけることだと思っている。そういうものがないから依存にぶら下がる。別の言い方をするなら、自分を規定できれば依存は無用となる。ならば、「人は人、自分は自分」の考えは必然的に生まれてくる。創造者は人のマネをしないし、さらに有能なる創造者は人の先導に立つ。自分はそこいらの普通のオッサンなので先導は無理。

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    まさか、ちちを出して扇動したとは思いたくはないが、それなら何でしまわないんだ?
 
素朴に自分のものを定義して生きれたらいい。確かに、自分のものを見つけるのは大変かも知れないが、大変でない者には何でもない。昨日今日、始めたのなら大変かもだが、半世紀も前からやって来たことである。他人と同じ自分を見つけて安心するのではなく、むしろ他人と違う自分を誇りたい。「ワシはワシよ。文句あるか!」声にはしないがそれが自分。

こういう事を声にすると付和雷同人が、「上から目線」と批判する。そんなに金魚のポンポンの居心地がいいのか?自分には理解できない。基本、人が右なら左に行くが、左が危険なら止める。人が〇なら×を挙げたいが、偏屈というより、少数意見に理を見出そうとする。「多勢に無勢」という考えはすきではないが、長谷川豊の考えは持論というより下衆の煽り。

彼をバカと見据えて以降、彼の発言に一切反応しないと決めた。「しない」と言ったらテコでもしないところがある自分。アレ以降もいろいろ耳に障ったが、反応するのは、彼の煽りに踊らされたことになり、その手は桑名の焼ハマグリ。煽りバカの彼はマスコミ人として不適格で、それに踊らされる人間は彼のファンならご自由にだが、そうではない人は批判すべしだ。


ファンとは是々非々であるべきで、信者こそファンとの考えもあるが、羽生名人の寝癖に賛同するファンの怖さを感じた。カープのある選手は言った。「いい時は喝采くれるが、悪いときはひどく野次られる。辛いけれどあれが本当のファンでしょう」。「悪いとき野次を言わないファンが有難い」という選手もいる。ファンもいろいろ、選手もいろいろだ。

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      「ああ、勉強せんといかん!」、「なぬ!勉強するくらいなら外走ってこい」と、誠也の父だった

乳がんは難しい

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亡くなった圓楽師匠がかつて言った。「何かをやろうとする人はまず健康でなければダメです。ですから体だけは大事にしないと…」当たり前だが、当時50代の自分にこの言葉はピンとこなかった。当たり前の言葉が差し迫って聞こえないのは、自分に差し迫った感がないからだが、圓楽の「死神」は名演の誉高い。「死神」はイタリアオペラが素材の古典落語。

医者が道を歩いていたら財布が落ちていた。医者といえども落ちてる財布は拾うが、周囲は人がいる。医者は諦めて素通りした。そこに坊主が通りがかり、躊躇いなく財布を拾った。見ていた医者は駆け寄って坊主に言った。「ご住職、私が諦めたものを何であなたが拾うんです?」。坊主は言った。「医者が諦めたものは坊主のもの」というオチ。

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粋な語りと豊かな表現の圓楽は、長いこと「笑点」の司会を務め、まさに「笑点」と言えば圓楽、歴代司会者の中で最長の23年である。圓楽の前は三波伸介、圓楽の後は柳亭小痴楽(のちの春風亭梅橋)であった。「笑点」はたまに観る程度だったが、噺家による即興大喜利にはほとほと感心させられた。彼ら頭の構造は東大生より断然上と感じていた。

圓楽もがんを患い、晩年は激やせだったが、がんで逝った有名人は多い。今井雅之、愛川欽也、渥美清、緒方拳、勝新太郎、松田優作、筑紫哲也、阿久悠、千代の富士、仰木彬、大橋巨泉、夏目雅子、堀江しのぶ、 田中好子、川島なお美、中村紘子…。2人に1人ががんになるといわれるが、早期発見、早期治療が功を奏してか、不治の病でもなくなった。

歌舞伎俳優市川海老蔵の妻で、乳がんで闘病中の小林麻央の記事が毎日取り上げられるのは、夫も彼女も有名人であり、また美人でもあるからと思うが、ブログは毎日更新されてうるにしろ、マスコミの取り上げ方は多くないか?どうしても関心の強い記事を主体にするのだろうが、世の中には同じくがんや難病と格闘する多くの「無名の人」がたくさんいる。

女優で舞台や写真集のキャスティングプロデューサーとしても活躍した小栗香織(45)も、現在乳がんで闘病中である。本年2月に告知され、都内の病院で5月18日に摘出手術を受けた。退院した小栗は、「一人では乗り越えられない病気」と家族への感謝を口にした。岩井俊二監督の「Love Letter」に出演したという女優だが、あまり知らない人だった。

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元気そのものだった母親が昨年6月20日に腎細胞がんのため死去し、一周忌を終えたばかりの小栗だが、悪性の腫瘍が見つかったときは手遅れの状態だったという。小栗も40歳を過ぎてからは毎年婦人科検診を受けてきたが、母のことがあったため昨年末に再検査を受けると、左胸に影が見つかったという。年明け2月に精密検査を受け「初期の乳がん」と告知された。

医師から病名を告げられたときは、「涙も出ないほどショックでした」と振り返る。「手術した方がいい」との医師の言葉を信じて5月に手術を受けた。同様に乳房の全摘手術を受けた北斗晶の例もあるが、小林麻央はステージ4ということで手術はできないという。2人に1人ががんという時代にしろ、このところ有名人のがん告白が増えているように思う。

乳がんといえば、キャンディーズのスーちゃんこと田中好子も55歳で逝ったし、声優で、「ちびまる子ちゃん」のお姉ちゃん役だった水谷優子(51歳)も、5月17日に亡くなった。田中好子は19年間の闘病の末だった。田中が始めて乳がんの宣告を受けたのが1992年で36歳の時で、再発を繰り返しながら治療を続けていたのだが、2010年に十二指腸潰瘍を患う。

その治療のために絶食をおこなったことで、免疫力が低下し、乳がんが再発するきっかけになったといわれている。翌年2月には、がん細胞が急激に増殖し、肺や肝臓に転移。それから2ヶ月という早さで、4月に亡くなった。多くの人が驚いたのは、「発症から20年近く経ってまだ再発するの?」ということ、そして、「転移から2ヶ月で亡くなることがあるの?」である。

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乳がんは一般的には、「最初の治療後、10年何もなければ完治」というのが定説である。小栗香織の場合も初期がんにもかかわらず、「完治には5年~10年かかる」と述べている。普通のがんの場合、治癒したかどうかを判断する尺度は通常5年です。5年間の間に再発等の問題がなければ、そのがんは治癒したと見なされるのが、乳がんはそうはいかない。

大腸がんや胃がんは5年目以降の生存率がほぼ横ばいになのに対して、乳がんや肝がんは5年後以降も生存率が下がり続ける。つまり、乳がんの場合は5年間再発がなくても安心できず、10年近く経過を観察する必要がある。乳がんの闘病が長期化するもう一つの理由として、抗がん剤治療の他に、ホルモン療法、分子標的薬などの化学療法が行わる点も挙げられる。

乳がんはがんの大きさや広がりの度合いを示すステージよりも、むしろどのようなタイプの乳がんなのかによって、予後や治療方針が左右される。ステージは初期でも、全身にがんが広がってしまっているケースもある。化学療法は基本的に、特定の腫瘍をターゲットにするのではなく、全身に広がっている可能性のある腫瘍をターゲットとするもの。

確認できている腫瘍を切除した後も、現段階で確認できてはいないが、どこかにあるかもしれない腫瘍への治療を継続するという。乳がんの中には女性ホルモンによって増殖するタイプ、HER2過剰発現によって増殖するタイプなどがあり、そうしたタイプに該当する場合においては、手術後の化学療法の種類も増えるし、そのことで治療期間も長くなる。

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しかし、これは治療の手立てがそれだけ多いということであって、乳がんの治癒にとっては良いことだ。むしろ、どのタイプにも当てはまらず、有効な治療の手立てがない場合の方が問題となる。小林麻央の場合は、有効な治療手段を選択できない、「トリプルネガティブ」ではないかと推測されている。「トリプルネガティブ」について、以下に詳しく説明する。

乳がんを増殖させる要因の代表的なものが3種類(エストロゲン受容体、プロゲステロン受容体、HER2)あり、それぞれに対応した治療薬があるが、「トリプルネガティブ」は3種類のいずれにも属さない乳がん。ぴったり合った治療薬がなく、乳がんをコントロールしずらい。国立がん研究センターは、「核酸医薬」という乳がんの新しい治療薬の治験を開始した。

この新治療薬治験の1人目の対象者は、鎖骨下リンパ節転移(局所腫瘤)のあるトリプルネガティブの乳がん患者で、2015年6月30日に最初の投与を行ったとされる。もし小林麻央が「トリプルネガティブ」の局所進行乳がんだとすれば、治験がはじまったばかりの新しい治療薬の対象となり、彼女がこの治験に参加したのではという予想は考えられる。

彼女はブログでがんの痛みについて語ったことがある。これまで痛み止めを飲むことに抵抗を感じていたけれど、今は無理をして我慢する必要がない思っているという内容で、「そのときの痛みから解放されていく"和らぎ"が今でも忘れられません」と9月4日に書かれている。自分も尿管結石の痛みを経験したが、これは、「痛みの王様」と言われている。

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その時に「ボルタメンサポ」錠という座薬を挿入するのだが、これがまた何とも言えない痛みの解放感がある。爽快感といってもいい、脳や精神がハッカのように爽やかに洗われるという表現が近い。痛みが起こらない場合でも試したいそんな感じになる。9月20日のブログで彼女は肺と骨に転移のある、ステージ4のいわゆる末期がんであることを公表した。

一般的にがんが骨に転移した痛みは想像を絶すると言われる。したがって、使用した痛み止めはおそらくはモルヒネだった可能性が高いく、これは彼女が抵抗を感じていたことからも想像できる。また、骨転移が最も多いのは乳がんと肺がんともいわれている。小林麻央の経過報告を読むのは忍びなない。人が死と闘っているのを我々はタダ見るしかすべがない。

「美人薄明」という言葉はどうして生まれたのだろう?語源的には、「美しい人は、とかく病弱であったり、数奇な運命にもてあそばれたりして、短命な者が多い」といわれるが、それが事実なら言葉は必然的に生まれたものだが、自分はそうした統計的な事実とは別の、美人の短命はあまりに悔やまれる、儚さが一層強く感じられるという意味もあるのではないか?

自殺した美人の顔を見て、「なんでこんな美女が…、もったいない。どうせ死ぬのなら、死ぬ前に一度…」みたいなことをいう男は多い。確かに美人の死はそのような、希少価値としての思いを抱かせるのだろう。「ブスが死んでも何とも思わんのか?」と突っ込めば、「思わんね~。思うわけないだろが」と、にべもない。「お前も同じだろう?」と…

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振られると正直に答えるしかない。女優は観賞用としての美人であり、観賞するもの。人の命は美人もブサイクもかけがえないが、「こんな美人が、なんで自殺を…、その前に…」は、男の好む下世話な話ということ。2014年1月20にがんで他界した元四人囃子で、音楽プロデューサーの佐久間正英も、13年4月にスキルス胃がんと診断された後、僅か10か月の生であった。


死に直面した時の人の言葉は、凝縮されたその人の生き様に例えられる。小林麻央は、「私はステージ4だって治したいです!!! 5年後も10年後も生きたいのだーっ!あわよくば30年!いや、40年!50年は求めませんから」と、強い思いを吐露していたが、男である佐久間はそのような言葉はいわなかった。言わなくても生きたい思いは、ひしひし伝わってくる。

同じ人間だからである。小林のように口にする人にも、内に秘めて言葉に出さぬ人であれ、我々は何もできない。声に対しても、声なき声に対しても、一様に念じるしかすべはない。自分の意志とは無関係に死を強要されるというのは、「運」というしかすべはない。運で命を左右される、だから「運命」と言う。念じても「無」であるからして、だから、「無念」という。

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乳がんとミニー・リパートン

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ミニー・リパートン(Minnie Riperton, 1947年11月8日 - 1979年7月12日)といえば、誰もが思いうかべる曲がある。それが、「Lovin' You」。8人兄弟の末っ子としてシカゴの黒人の多いサウスサイドに生まれたミニーは、歌好きな母の影響で幼少の頃からダンスレッスンや、ボイストレーニングを受けていたといい、兄もプロのミュージシャンとして活躍している。

ミニーも幼少の頃から歌手としての才能を認められていた。本来なら教会で聖歌隊でゴスペルソングで歌唱を磨くが、彼女はオペラ歌手のもとで声楽の基本を勉強した。コロラトゥーラ・ソプラノ歌手になるための訓練のおかげで、5オクターブ超の音域を出せるようにもなった。しかし、彼女の居住するシカゴのサイスサイドはソウルミュージックのメッカである。

南部からシカゴに移住した黒人たちが生み出した文化がシカゴ・ブルース。ミニーは10代初頭からシカゴ・ブルースアーチストによるレコーディングのバックコーラスをしていたが、14歳でグループ、「ジェムス」に加入、19歳でアンドレア・デイヴィスという芸名でソロデビューするも、ヒット曲には恵まれなかった。その間プロデューサーのリチャード・ルドルフと結婚する。

当時は黒人女性と白人男性の結婚は理解されなかった。「周りから変だと思われても、僕たちはごく自然なことだったし、周りが変なだけと気にもしなかった」と、リチャードは回想する。おそらく強い愛で結ばれたのだろうし、いろいろな面において周囲を気にする人は、彼ら夫婦のように、「お前らの方が変なんだよ」と思って強く生きるのもいい。

イメージ 2自分などは、「他人の人生(生き方)に口出しする前に、自分のことを心配しろよ」とすぐに思ってしまう。1960年代は黒人の公民権運動が盛んな時期で、様々な抑圧もあってか、ミニー夫妻は大都市シカゴを離れ、気候も温暖で自由な空気にあふれたフロリダへと移住する。二人は新しい土地で子どもを育てながら、思う存分自分たちの作品を書き始めたのだ。

ミニーの大ヒット曲「Lovin' You」は、この地で形になったという。愛にあふれた二人の生活から生み出されたやさしいメロディーの、「Lovin' You」であるが、実はこの曲は子守歌の要素があると、作曲者のリチャードは述べている。曲はメロディーと歌詞でできてはいるが、それがそのまま世にでるというものではない。楽曲の大事な要素に曲調というのがある。

どういう曲調、どういうアレンジが相応しいか、そこがプロデューサーのセンスと言われるもので、「Lovin' You」も3つの異なるアレンジでレコーディングされている。もとはこの曲は、アルバムの中の一曲で、リチャードとミニーは、アルバムのプロデュースをスティーヴィー・ワンダーに依頼している。スティーヴィーは自分の所属するレコード会社との契約があり、夫妻の申し出を一度は断った。

ところが、以前からミニーの才能を評価していたスティービーは、二人からの強い要請もあって、匿名を条件でプロデュースを引き受けることにした。そのため、ジャケット裏面のプロデュース名は、「PRODUCED BY SCORBU PRODUCTIONS」となっているが、「SCORBU」は、リチャードがさそり座(Scorpio)、スティービーが牡牛座(Bull)に由来する造語である。

Lovin' You」を聴くとわかるが、この曲はこれ以上はあり得ないくらいにシンプルであり、ベースやドラム、パーカッション系のリズムセクション楽器がない。3人はこれで行くつもりであったが、レコード会社は大反対であった。「ベースとドラムが無い曲など、どのラジオ局も掛けない」という理由。リチャードはコンサートなどで評判がいいと食い下がる。

シングルリリースも拒否の姿勢であったレコード会社も、説得に折れてアレンジを変更することなくシングル化された。シングル化以降はみるみるチャートを上がり、世界的な大ヒットとなった。イントロの小鳥のさえずりが特徴的な「Lovin' You」だが、マイアミの自宅でこの曲を作っている時に、この曲を聞かせると子どもがすやすやと寝るという。

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それで子守唄としてもこの曲をテープに録音したそうで、そのテープを聞いたスティービーは、自宅録音されたことで曲の途中に入っている窓の外の小鳥の声を大変気に入り、是非ともレコードにも入れたいとアイデアを出す。そして、小鳥を探しに公園に行き、スティービー自ら持参したテープレコーダーで録音し、曲の効果音に使ったという。

こうした様々なエピソードに彩られた、「Lovin' You」であり、それらを思い浮かべながらこの曲を聴くと、また違った楽しみ方が可能である。ところが、人生は何が起こるか分からない。まさに一寸先は闇。順調に人気シンガーの道を歩んでいたミニーの胸に腫瘍がみつかり、検査の結果ガンだった。「Lovin' You」がリリースされた1年後の1976年の事。

「とにかく進行が速かった。彼女は若かったし、一夜のうちに悪化したという感じだった。ミニーは迷うことなく直ちに乳房除去手術を行った。回復期に入ったミニーに周囲は、ガンや乳房除去手術のことは、秘密にした方がいい。歌手としてのキャリアに傷がつくといったが。ミニーは違った。秘密にしておくのは良くないこと思っていた」とリチャードはいう。

「ガンになったのは私が悪いからじゃない。なぜ隠す必要があるの?」このミニーの言葉を当たり前に感じる人もいるだろうし、虚飾の世界で自分を保とうとする人もいる。自分も前者だから隠す理由はさっぱりわからないし、キャリアに傷つくという論理も理解できない。さらにミニーはガン公表に際し、リチャードに以下のようにいって理解を求めた。

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「公表することで私自身の気持ちも楽になれるし、同じような境遇の女性や、がんと闘っている人たちを勇気づけられるかも知れない」、彼女はそう述べた。その後まもなくして、彼女はジョニー・カーソンが司会を務めるNBCの、「ザ・トゥナイト・ショー」に出演、乳がんの手術を受けたことを話した。番組終了後、多くの支援の声がミニーのもとへ寄せられた。

1977年には当時のカーター大統領から、「勇気ある女性」の一人として表彰され、1978年には全米ガン協会(American Cancer Society)の教育会長に任命される。全米ガン協会のCMに出演したミニーは、「わたしはガンになって胸は失ったけれど、命は助かったわ。わたしは今、健康に生活し、走ることも、愛することも、歌うことだってできるのよ」と述べる。

彼女は協会のために奔走し、歌と同様に多くの時間を費やした。「わたしは音楽と人生を愛し、人生を楽しんでいる。みんなの前で歌い、歌を聴かせてあげられるなんて、なんて運のいいことでしょう。わたしは、コップに水が半分しかないと思うより、半分も入っているんだと思える人間なのね」。彼女はステージの上でいつもこのように語っていた。

コップの水の比喩を日本語的にいうなら、「足るを知る」ということであろう。ガンで乳房一つを失ったことにかけて、「もう一つあるじゃない」と言っているようにも感じる。満ち足りた人間というのは、何事もポジティブに受け取るが、何においても不満の多い人は、多くをネガティブに受け取る。が、そんなミニーの心の裏で、彼女の命の炎は燃えつきようとしていた。


ガンが再発し、右腕に転移しているのがわかった。ミニーは入退院を繰り返しながら、新しいレコーディングを行った。偽名で、「Lovin' You」のプロデュースを引き受けてくれたスティービー・ワンダーはミニーの友人として、アルバムに曲も提供してくれたし、何度もミニーを見舞い、励まし続けた。スティービーはミニーの臨終の場にも立ち会っていた。

1979年7月12日、ミニーは帰らぬ人となった。31歳という短い人生であったが、きっとこれも彼女にとっては満ち足りたものであったろう。細く長く生きる人と、太くも短き人生を生きる人がいる。その善悪はそれぞれの人の思いであろう。ミニーの死後、彼女を慕う多くのアーチストが集まり、未発表作品にオーバーダビングし、一枚のアルバムを完成させた。

アルバムのタイトルは、『 Love Lives Forever (愛・生命 (いのち)・永遠 )』と題された。アルバムに参加したロバータ・フラックは、「充ち足りた午後」を歌い、「ミニーの内なる光は今なお輝いている」の言葉を捧げた。マイケル・ジャクソンは、「アイム・イン・ラブ・アゲイン」で、「ミニーはとてつもなく…、そしてその歌声は信じがたいほど素晴らしい」と述べている。

また、ミニーの最大の友人であるスティービーは、「この命尽きるまで」を歌い、「もう君に触れることができないのが寂しい。だけど一方でまた触れることができるとも思う。なぜなら君が僕の心に触れているから…愛は永遠に生きている」という言葉を贈っている。ミニーの代表曲である、「Lovin' You」は、日本人も含めた数多くのアーチストにカバーされている。

人の心に優しく歌いかける、「Lovin' You」は、シンプルでピュア、汚れを感じさせない曲。「この曲を聴くと、ミニーがこの世に戻ってくるように感じるんだ」とリチャードはいうが、これは聴く人みなの思いであろう。余談だが、ミニーの夫リチャード・ルドルフは、日本人のジャズシンガー笠井紀美子と再婚している。笠井は1998年、30年にわたる音楽活動から引退した。



 「Lovin' You」

 Lovin' you is easy cause you're beautiful
 Makin' love with you is all I wanna do
 Lovin' you is more than just a dream come true
 And everything that I do is out of lovin' you
 La la la la la...
 Doot-n-doot-n do doo
 Ah...

 No one else can make me feel
 The colors that you bring
 Stay with me while we grow old

 And we will live each day in the springtime
 Cause lovin' you has made my life so beautiful
 And every day my life is filled with lovin' you

 Lovin' you I see your soul come shinin' through
 And every time that we oooooh
 I'm more in love with you
 La la la la la...
 Doot-n-doot-n do doo
 Ah...

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