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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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  • 06/27/16--17:02: 「同情」 是か非か
  • タイの保険会社のCMを見て、あらためて「同情とは何か?」を考えさせられた。困っている人、苦しんでいる人、悩んでいる人に対する同情は善いことだと思っていた子ども時代。人間が自分を一番大事に考えるのは、誰に教わることなく自然とそうなるが、ある程度の年齢になると、他人のことに目をやり、耳を貸し、手を貸すなど、心をくばせるようになる。


    学校という集団生活、社会生活環境から自己を他者の目を通して認識できるようになるからで、それ以外にも童話や児童書などを読んで、善いこと、正しいことを知識として学び、知識はまた実践へと収斂していく。自分の中にうっすらとそういう記憶は残っている。「さるかに合戦」のサルは悪い、カニは可哀想、悪いさるをやっつけるのは正しいことだと学んで行く。

    そのためにカニに力を貸したうす、蜂、栗は善い人(人ではないが)である。桃太郎の鬼退治も立派なことで、鬼退治に協力した犬、雉、猿は、善人(同)である。前者の猿は悪いが後者の猿は善く、子どもはこういう矛盾を子どもごころにどう捉えたのか?残念ながら記憶にない。子どもは社会生活のなかで、親や大人に悪い事をされたり、卑劣な言葉を浴びせられたりする。

    環境から受ける大人の言動に対し、大人を「悪」と見定めるのは、いつごろからであろう?思い出されるのが、2009年4月に発生した西淀川女児虐待死事件の被害女児松本聖香ちゃん(9)。彼女は自宅のベランダで死亡姿で発見された。彼女を衰弱死させたとして保護責任者遺棄致死と、死体遺棄の罪に問われたのが母親の松本美奈被告(35)で、内縁夫の関与もあった。


    「ここで寝る。おやすみなさい」という言葉を、鬼親に対して気を利かせて口にする聖香ちゃんの心情を思うといたたまれない。世の中には、こんな悲惨な目に合わされる子どもがいるのかと、切なくも腹立たしい。どうして親は子どもの気持ちを考えられないのだろう。子どもが一体、親に何の害を与えると言うのか?子どもの言葉にむかつく、イライラするという母親は多い。

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    手を出す虐待だけでない。意に添わないと無視するなど、心理的虐待は母親に多い。躾として罰を与えるのは絶対に反対だった。なぜなら、権力者が弱者に罰を与えるのは、簡単で手っ取り早く、都合のよい、横着な、傲慢かつ卑劣な行為で、弱い立場の人間にとってはもどかしく、反発のおそれもある。よって罰より、まずは説得する、話し合うというのが効果としても高い。

    罰を与えて反省するか?それは甘い。自分は罰を与えられて反省した記憶は一度もない。罰に反抗し、その罰がどんどんエスカレートすることで、罰を与える母親に憎しみが増すばかりであった。イタズラをしても怒らず、叱らず、ケガをさせた相手宅に詫びに参じ、罵倒される父親を見る方が辛かった。自分のした事なのに、親が詫びる姿を見るのがやるせなかった。

    ここに教育の真髄を見た気がする。長男が小6の時にドラゴンボールか何か、流行のカードを万引きし、玩具店から連絡が入ったときに、妻と姉二人を連れて謝罪に行った。「長女はなんで私が行かなければならんの?」と言ったが、「家族だからだよ」と説明し、家族総出で丁寧に詫びると恐縮されたが、長男を叱らなかった。それが父からの無言の教えである。

    「もうするな!」の言葉は必要か?言葉は言葉であり、大事なことは言葉外で伝えることはできる。それができるなら言葉に然したる意味はない。坂口安吾は、「言葉は代用の具」と言った。大事なのは行為であり、言葉はそれに変わる具材であると。何事も実践に勝るものはないと常々思っている。「具が大きい」ではないが、口ばかりで行為をしない人間を信用しない。


    口は行為の代替ではなく、口は行為の先導であるべきだ。よって、口に出す事は行為できる事で無ければならない。実践主義者の言葉に観念論などはない。自らできないことを口にする意味のなさ、そういう人間は信用できない。あくまで出来ることをいい、出来ないことは言わない。同情に話を戻すが、「同情するなら金をくれ」という言葉があった。これはかなり辛辣である。

    直接的な意味は、「言葉なんか要らない。本当に同情するなら金をくれよ」ということだが、言わんとするのは、「言葉じゃない行為だろ?」であって、同情と言う懐疑に対する辛辣さである。言葉の同情なんか誰でもできる。それで何も目減りしないなら、言葉で誰だって善人気取りでいれる。自分はニーチェの言葉から同情の宗教であるキリスト教を懐疑的にみるようになった。

    「同情してあげるから金持って来い!」と直接的に言う宗教はないが、同情されたり、親身になってくれたりすると、人は感謝の意からお返しをしたくなる。ありがたい話を聞いただけで得した気持ちになる。そこを狙った宗教が多いのは事実であろう。宗教は言葉だけで人を動かす力がある。谷中村で足尾銅山鉱毒問題と戦った田中正造は、死の直前の以下の言葉を残す。

    「人を動かすには宗教という権威に頼るしかなかったのか」。孤軍奮闘した彼の断末魔の叫びである。自分一人ならいかなる行動もできようが、正造は自分が正しいことをしているという自負と自信があったにも関わらず、多勢を煽動するに「個」はあまりに無力であった。思えばニーチェを読むきっかけとなったのは、ドイツの詩人ゴットフリート・ベンの以下の言葉である。

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    「現代人が考え、悩んでいる問題は、すでにニーチェによって検討済みである」。そういえばルソーの『エミール』を読むことになった動機も、誰だかの、「現在出版されているおよそあらゆる教育書は、すべて『エミール』に書かれてある」だった。まさに「枝葉末節」であり、大きな幹を理解すれば枝葉の事は些細なこと。確かに、ゴットフリート・ベンの言葉は誇張ではなかった。

    ニーチェに謎の言葉がある。「どのような人物であれ、三つの逸話によって、その本質を描き出すことができる」。残念ながら彼はその実例を示してはいないが、『ツァラトゥストラ』において、「羞恥心」という語句はかなり重要な意味を持つ。「まことに、私は人に同情することで、幸福感をおぼえるような慈悲深い人達を好まない。彼らはあまりに羞恥心が欠けている」。

    彼はキリスト教道徳における「同情」について、これらを牧師的偽善を排撃しているが、羞恥の欠如は、こんにちの社会の一般的傾向ではないだろうか。ニーチェは同情を絶対的に戒めているのではないのは以下の文で分かる。「同情せずにはいられないときでも、私は自分が同情しているとは、いわれたくない。たとえ同情するとしても、私は遠くからそれをしたい」。

    遠くから同情とはどういうことか。災害被災地の方々に対し、「遠くから応援しております」などというが、遠くから同情は、それとニュアンスは異なる。見せ掛けの、これ見よがしの、表立った応援を羞恥とするのだろう。人は周囲から冷酷だと言われたくないから、べたべたした人間的心情を披瀝するのが、ニーチェはその過剰を、「羞恥」と言っている。

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    のっけに提示したタイ国の保険会社のCMだが、間接的なイメージ広告であるから、何のCMだか知らないと分らない。自分が感動したように、このCMを見て多くの人が感動すると思うが、何の何処に感動するのだろうか?尤も、自分が感動したのは、物乞いをしていた母娘の子どもが、制服を着てリュックを背負い、お礼をいうでない照れくさそうな仕草が一切を物語る。

    日本ならペコリとお礼でもさせるのだろうが、ないところが自然でいい。子どもらしい。他のシュチエーションにはさほどであったが、母娘は物乞いをする理由を、「教育のため」と書かれてあったけれども、自分はそこの点は疑った。物乞いは同情を得んがために適当にウソも書くし、少女自身のためというより、母親のための物乞いかなと…。つまり食うためにである。

    だから、リュックを背負った彼女の微笑ましい顔を見たときに、「教育のため」は本当だったかと感動が増幅。タイの学校制度も日本と同じ6・3・3・4年制を採用し、義務教育ゆえにお金がなくても学校には行けるが、かつて義務教育期間は小学校の6年間であった。それが1999年に新国家教育法が制定されて移行、現在は日本と同じく9年間の義務教育期間となった。

    ユネスコによると、2005年のタイの青年識字率は98.1%であり、アジアでは日本、シンガポールと並んで高い水準となっている。日本と同じ義務教育は15歳までとなっているが、知る人ぞ知るタイは学歴社会であり、国民の就学意欲は高い。生命保険会社のCMは、情緒に訴えようとの意図がみえみえの作り物であるが、分かってはいても人間はこの手のものには弱い。

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    保険会社2作目CMにも心動かされた。日本の野暮ったいCMばかり見慣れてるせいもあってか、これほど知的水準の高いCMが作られる国に比べて、なんと日本はおバカ国であろうと、率直に感じた。父親が聾唖者であることを題材にしたストーリーだが、こんな深い内容のCMを見る限りにおいて、タイって国は日本より文化的に思えてならない。

    聾唖者を父に持つ娘が断続的なイジメの果てに、自殺未遂を起こすというショッキングな設定で、おそらく日本ではこういうCMは作れまい。弱者保護のお題目は、被差別者に対する極度の過保護意識から、むしろ逆差別では?とさえ感じることもあり、それに対する反発も起こり得る。タイのCMに驚かされるも、決して差別の助長でないのが分かる。


    「名より実」とは表層より中身であり、揺るがぬ信念から作られたCMは、聾唖者でありながら素敵な父を見せている。作り物であってウソかも知れないが、こういうストーリーを作れるというだけでも、ヘンチクリンな差別意識や、言葉刈りなどに躍起になる日本人より健全である。素敵な親を見事に描いており、こういう父を持った子どもは幸せである。

    「聾唖者で本当にすまない。他のお父さんのように話はできないが、お前には私が愛していることをわかって欲しい」と、躊躇うことなく娘と向き合う父親…。理想の親というのがあるなら、間違いなくこういう父親であろう。「完璧な父親はいない…」とナレーションはいうが、『雨にもマケズ』の宮沢賢治風にいえば、「こういう父親にわたしはなりたい」。

    数年前に東野英吾の『手紙』という映画を観て以来の感動だった。東野は犯罪被害者から犯罪加害者に視点を変えた。数日前、とある少女が朝霞の少女誘拐について、犯罪被害者の立場から意見を述べたが、東野の小説などを読み、様々な視点・観点から物事を判断したり、いろいろな考えに触れたりで、人は大きく成長すればキャパシティも変わる。

    障害などのハンディはプラスに転じて能力にもなる。聾唖者の父も人を愛する(おそらく娘以外においても)能力に長けているようである。身体的弱者に同情を…というのを、"健常者の傲慢"とまでは言わないが、我々は彼らに対して、無意識に「同情」という差別を行っている。身障者に対して、暖かな目を向けるという、"抑圧された優しさ"、もしくは偽善を内包する。

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    したがって、乙武氏のように、ひとたび化けの皮が剥がれると、堰を切ったように一丸となって襲い掛かり攻撃する。CMの父親は、「完璧な父親はいない」という自覚をもちながら、ひたむきでいれるのは、有り余る愛情を持っているからだ。乙武氏は、「完璧な障害者はいない」という自覚を持てばよかったのに、「完璧」であろうとしてギャップに潰された。

    「人間なんてそれほどすごいものでもない」との自覚があれば、変に気取らず、変な気負いも抱かず、謙虚でいれるが、完璧であろうとする人間は、自ら虚飾に苦しむだろう。人間はいつまでも嘘の自分をやっていることに疲弊し、ちょっとした弾みで本当の自分をさらしてしまう。人間が起こす多くの犯罪は、自制心という箍(たが)が外れたときに起こるのではないか。

    人にない何か(技能などの能力)を持つことは身の肥やしになるし、「芸は身を助く」ということわざも嘘ではない。が、問題なのは、人にない何かを持つことを自慢すること。「慢心」とは自慢が引き起こすといってもいい。「持たぬ者の強さ」といわれるように、人間は失うものがないときに強大な力を発揮できるが、「インテリの脆弱」というのはその反語である。

    インテリとは持ちすぎた者。舛添氏が退任の挨拶もなく、慣例である都庁での見送り式もないまま後を濁して去った。いかにも、「自分の何処が悪い?」と言わんばかりの驕ったインテリ気質、人に頭を下げることを極度に嫌う彼の特質が見える。自分は有能者であり、優れており、間違いは起こさない。自分を非難する奴こそバカでズレているという感覚のようだ。

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    古市憲寿なる社会学者。顔は見る程度で、テレビを見ないので彼についての知識もなければ感想もないが、先の9党首討論番組の司会で、「生活の党」の小沢一郎代表に対し、番組にそぐわないぶしつけな質問をし、ちょっとした騒動になった。彼もインテリである。学問的有能者との世評はあるが、残念ながら世間は学問の優劣だけで生きられない。

    彼がいかに学問的に有能であっても、社会的にズレた人間であるのは先の一件で露になったように、それがインテリ気質からの発露なら舛添氏と何ら変わらない。つまり、賢い自分が何か間違ったことなどするハズがないという強靭な自己肯定感に支えられている。「人間は愚かで間違いを犯すもの」という認識が、まるでないのが、二人の特質である。

    社会生活のなかで、人はその言動から無意識に人を傷つけることもあるという、真っ当な社会人であるなら、相手の機嫌や態度から喜怒哀楽は察知できる。察知できるならその原因を考える。それが支障のない人間関係を行うための機微である。舛添にも古市にもそれがまったく欠けており、いかに秀才といえど、それでは世間の反発を食うであろう。

    彼らは、人が怒る理由が自分にあるなど考えもしない人間のようだ。主宰者側は小沢代表の怒りを察知、古市の非礼に対する謝罪を指示するメモが彼のところに回ってきた。普通ならばそういう裏方の指示は隠し、つまり、言われたからではなく、自らの主体的意思で謝罪を述べるように振舞う。ところが彼は、ワザとマイクに入るような声で…

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    「(回ってきたメモを前に)コレ読むの?」と、いかにも自分の自発的な謝罪ではないことを強調した。この行為だけみても、彼は普通の人間感覚を持っていないのが分かる。謝罪が強要されたものであることを示すために、ワザと棒読み風にコメントを読む姿は、呆れを超えて、ここまで人間は無機質になれるものかと憐れすら抱いた。他人の気持ちが洞察できない人間である。

    オカシイとか変人とかのレベルではない。自分の失態を認められない不遇な人間である。彼は人から叱られた経験がないまま大人になったのだろう。人は叱られて反省や謝罪を学んで行く。彼は謝罪というものの意味さえ理解していないようだ。謝罪文の棒読みをこう理解した。「彼はインテリになったことで、人間としてバカになってしまった」である。

    CMの聾唖者である父と、古市とを比べて、どちらが人間的に素晴らしいか、言うまでもないが。なぜ、この世は勉強できるとか、地位とか、学歴とか、富裕であるとかだけで人を判断するのだろう。自分が思うにそれが、人の人に対する羨望であるからだ。ようするに「名より実」に視点が行かない。人への評価は自らの欲望という基準で成されている。

    なんともバカバカしい限りだ。こういう事をいえば、「そんなにいうなら、お前は金持ちより貧乏がいいのか?」、「健常者より身障者の方がいいのか?」、「有名より無名がいいのか?」、「大卒より高卒(中卒)がいいのか?」という反論を浮かべる人間は、精神年齢的に思春期前の子どもと同等であろう。そういう時期の子どもはこういう理屈をいいたがる。

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    そうしか思わぬならそれでいい。諭す気にもならない。昨今の若者には「人間性」とくくった言い方を嫌うものもいる。嫌う理由は簡単で、人間性とは何かを理解できないからだ。そんなに難しいことではないが、考えようとしないし、耳を傾けようともしない。いろいろ定義はあるが、端的に分かりやすく定義すれば、「喜怒哀楽」を持つ人間と考える。

    自らが喜怒哀楽を持つからこそ、相手の喜怒哀楽を察知でき、共に笑い、共に喜び、共に哀しみ共に嘆く。中でも自分がもっとも重要とするのは、相手の怒りに対する洞察であろう。そんなものは誰にだってあるというが、有る無しではなく、磨くということか。それらはどうすれば養われるのか?専門家でも学者でもないから確信的な事は分らない。

    が、経験から言えることは、利他的な心を育むことではないか?そういった読書であったり、映画でも芝居でもなんでもいい。疑似体験から共感する感性を磨く。「勉強ばかりするとバカになる」との意味は、勉強は自分のためにするもので、つまり利己的なこと。利己的なことにのみ邁進すれば、利他性は養われないばかりか、無用になるのでは?

    自分のことばかりを優先すると、他人のことなど関係なくなる。というのは論理としても成り立つように、そこに勉強の弊害がある。勉強がダメというより、左脳(論理脳)の練磨と同時に右脳(感性脳)を刺激し、他者の痛みの分かる人間に育てることも親に課せられている。灘高⇒東大に惑わされず、人が人である事の大事な教育を親は努めるべきかなと…。

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    「喜・哀・楽」という「他者の中の自己認識」(共感)も大事だが、他者の怒りの察知も大事である。自分は失敗はしないし、失敗を認めない。繕う、誤魔化す、はたまた相手のせいにする。これでは他人を怒らせるが、他人の怒りなど知ったことではない。己の自尊心が傷つかぬことが何より大事。こういう人間はおそらく孤立し、孤独の生を選択するしかあるまい。


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    刺激的な表題のようだが一理ある。関連記事があるかどうか検索するとそれなりにある。「yahoo知恵袋」には、「勉強し過ぎると馬鹿になるって本当ですか?」という問いに対して勉強否定派は、「勉強をしていけば少なからずできるようになります。ただ、参考書の暗記に偏ったりすると、自分の考えがなくなってアイデンティティが欠ける可能性もある」と回答する。

    こういう意見もある。「本当です。勉強すればするほど他人の考えが入ってきてそれに支配、左右されるようになります。つまり、自分の頭で考える、ということがお留守になるのです。その典型が、マニアルに無いモノは出来ない、という人達です」。ユニークな意見は、「勉強しないと、私のように愚かな人間になる!此れは立派に証明されました」。後に続く言葉が傑作だ。

    「お利口に見える馬鹿も、馬鹿に見えるお利口も、人間、たいして違いはありません。私に馬鹿と云う女房を見てそう思います」。文は人也。記事主はユニークな人に見受けられる。答えは自分で探すのがよい。ある設問における肯定・否定意見はさまざまあり、それらを元に自分の考えを構築するが、持論とするに大事なのは論拠で、表層的な否定・肯定は無意味。

    「勉強し過ぎるとバカに…」といっても、「し過ぎる」とはどの程度の、「し過ぎる」なのか、また勉強といっても、テストで100点をとる勉強であるのか、入試や資格などの受験勉強なのか、学問を究めるための真摯な勉強をいうのか、様態はさまざまだ。また、「バカになる」の、「バカ」とはどういうバカをいうのか?それらからして、断定が難しいテーマであろう。

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    比喩的に使うのは、様々な事例もあって問題ない。「学者バカ」という言葉もある。バカを単に勉強ができない人間とするか、自分で思考するアイデンティティ能力と考えるかにもよるだろう。「そんな馬鹿なことはありませんよ!たくさん勉強してたくさんの知識を身に付けて土台を構築して参りましょう!」と考える人もいたりで、言わんとする意味も理解できる。

    これらから、「勉強し過ぎるとバカになる」、「勉強しなさ過ぎるとバカになる」という二つの考えが成立する。いずれも否定はできないかわり、いずれも肯定できるとまでいえない。いろいろな意見を目にしても自分的には、「勉強し過ぎるとバカになる」を実感する点はある。今回、古市憲寿の事例に言及したように、ああいう時のああいう態度は、誰がみてもバカである。

    「一事が万事」などというが、彼がすべてにおいてバカではないにしろ、あの日にバカをやったのは間違いないし、彼のバカな部分は露呈した。彼が勉強し過ぎたのか、普通程度の勉強量だったか、あまりしなかったのか、その点は分らない。世の多くは判然不可能なことがほとんどだから、想像したり類推するしかないが、そういう事を嫌悪する人間もいたりする。

    「分らないことをアレコレいうのはよくない」などと、クラス委員みたいなことをいう。そういう奴に、「分らないことをあれこれ考えるから脳のシワも増えるんで、気に入らないならあっち行ってろ」と、言ったことがある。社会のことに関して、的確な情報だけを元に話さなければならないなら、話すことなど何もなくなる。だからこういうう奴は嫌われ、孤立する。

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    分かったことだけ、確信あることだけを語り合うのではないことくらい分かりそうなものだが…。おそらく本人は善意のつもりだろうが、こういう善意の隣人には困ったもので、悪意の隣人の方がずっと付き合いやすい。意に添わぬことは遮断すればいいからだ。善意の人間は、善意を押し通そうとするところが迷惑。そんなのが家庭内にいたら追い出すしかないだろう。

    社会に生息する以上困る事は少なくない。ある程度自己防衛できる知恵のある人ならなんとか凌げたり、防ぐことはできるが、善意の人間にはなかなか、「NO!」がいいづらいと耳にする。随分と前だが、『NO!といえない日本人』がベストセラーになった。日本人には自己規定できない判断基準がある。他人の顔色を伺う民族であり、これを「曖昧な日本人」という。

    日本人社会は平等主義を謳っている。が、平等主義であるからには、自分自身を教育する能力があることを証明しなければならない。平等はじっとしていて他から与えられるものではなく、自ら率先して発露させる必要がある。世のバカも利口も平等である以上、バカは利口に対峙すべきで、そのために自己教育力が必要となる。それなくば対等どころか相手にされない。

    能力差がありながらの平等というのは、実体として難しい。不平等を平等とする社会は、平等を謳うあまりに個々の能力差による階級を作る必要がいる。東大出と高卒では、その能力差から必然的に階級が生まれるが、それでも平等を言い張る以上、能力のない階級は自己教育力を奮発せねばならない。しかし、それもしんどく難しいなら、平等はもういいと諦めるか?

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    平等とは階級差(学歴)も、格付けも、専門的能力差もないことを言うなら、平等であるのは大変なことだ。自分は無神論者だが、男女の性差は神が作ったものであり、男女は補完し合って人間として完成する。なのに人間の手で勝手に公平としたり、性差を無くしたりはなどは許されず、よって男女分裂を意図するジェンダーフリーや、フェミニズムが支持される道理がない。

    レディースデイや女性限定サービスはあるが、なぜにメンズデイはない?それを差別といわないのか?男は言わないが、そんなのオカシイという女性ならリベラルである。平等主義というのは、つまるところ、教育主義、能力主義にならざるを得ない。人間が社会的動物である以上、必ずや社会は分業となり、これを統御、調整する者も必要になるが、有能者を差別といわず区別という。

    有能者と無能者の区分けは、能力差であるなら差別であろう。したがって、いかなる平等社会においても組織には必ず、上・中・下がある。うるさ型には、差別を区別と言い換えて、納得してもらっている現状のようだ。上・中・下が、血統や身分や階級で決められるならともかく、「教養」や「知識」や「技能」という能力で定められていることに何ら問題は見出せない。

    学歴社会に「異」を唱える者もいれば、学歴社会の恩恵を「幸」とし、下に居るのが安泰という者も少なからずいる。管理職なんかとてもじゃない、自分には向かないという人たちだ。戦時中の士官学校のように、最初からエリート人材輩出を目的とする学校もある。優れた者が勝ち残って手厚い教育を受けないエリート教育は、広い意味での競争原理が働かない。

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    戦前の士官学校制度はエリート教育が失敗の最たる例であろう。士官学校を出ればエリートの座が約束され、とんとん拍子に出世していく。机上で学んだ作戦立案能力を実戦で向上させることもないから、何度も同じ過ちを繰り返し、責任も取る必要がなかった。これが机上で学んだ秀才の末路である。これらの教訓からか、日本の企業も現場主義でエリートを育成する。

    エリートに不足するものは多だあるが、少子化の昨今にあって、エリート教育を信奉する親は少なくない。子どもに遠慮して叱らない親も多く、叱らないというより、叱れない。つまり、子どもに服従する奴隷のような親は、子どもに高い目標を掲げ、幼少時期から子どもを勉強漬けにする。目指すはエリート、子どもの機嫌を損ねない配慮、それが叱らないこと。

    子どもに勉強をお願いするためには少々の我が侭に目をつむる親。もうひとつ、エリート教育推進を目論む際の弊害として、子どもに「負け」を経験させない配慮をする親がいる。「負け」て傷つくのは可哀想とばかりに気づかう親は、木を見て森を見ずである。以下はアメリカの教育改革レポートの事例。ニューヨークにIQ160以上の子どもばかり集めた幼稚園がある。

    そこで大事にされているのが、「負ける」ということ。負け方を教えないと、敗北感を知らないままに大人になってしまうという懸念から、教材にチェスを使って、「負け」の大事さを教えているという。失敗した時に味わう敗北感は、失敗を乗り越えることの重要性を教えてくれる。古市憲寿を見て感じたのは、失敗して怒られたりの敗北感経験がなかったのでは?

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    誰の人生においても、順風満帆だけと言うのはあり得ない。どこでどうつまづくか、つまづいたときの挫折感、敗北感をどのように処理し、次のステップに生かしていくか、こういう試練を過保護で育った子どもが学べるはずがない。そういえばSTAP細胞問題で自殺した理研の笹井芳樹氏は、過去に挫折経験がなかったのでは?彼は敗北感の鍛錬が出来ていたのか?

    想定外の問題解決に弱いエリートは打たれ弱いとされ、そういった脆弱気質は、過保護の恩恵かも知れない。常に自己保身を念頭に置いているエリートは、なにより失敗を怖れ。失敗は自己の恥とするが、人間に失敗はつきものだ。笹井は失敗から最も遠きところに逃げ、舛添は自らの失敗に気づくことなく、古市は失敗の指摘を受けてなお、平然としていられた。

    世界的に有名な成功者の多くは失敗をし、失敗を認め、失敗を謝罪し、再挑戦した。スティーブ・ジョブズをエリートと称するにはあまりに稚拙な肩書きだが、ジョブズは自らのミスを認めて信頼度を増した人でもある。彼がiPhone4の通話が切れる不具合で会見を行った際、不具合の理由を説明する前にミスであることを認めた。そして以下のメッセージを伝えた。

    「われわれは完璧ではない。電話も完璧ではない。それでも私たちは、すべてのユーザーをハッピーにしたいと思っている」。それから、iPhone4のすべてのユーザーに不具合を緩和するケースを無償で配布する対応を行った。それでも不満がある者には全額の払い戻しに応じた。ジョブズのこの対応は、iPhone4の評判を下げるどころか、さらなる信頼に繋がった。

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    情報過多の時代にあって、ニセモノは生き残れない。舛添は知事を追われ、まともな謝罪できない古市は、小沢に許された。舛添も古市も自らを完璧と自認する人間であろう。が、成功するのにも、信頼を得るのにも、完璧さはいらない。聾唖者の父親のように完璧な父もいない。大事なのは完璧さより、間違いを認める勇気、己の至らなさを告白する優しさである。


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  • 07/01/16--00:34: 散歩とウォーキング
  •     1日 10723歩    7291m   87/分
       2日 10215歩    6946m    89
        3日   22010歩   14966m    91
      4日 16685歩  11345m  86
      6日 22959歩  15612m  92
      7日 26572歩   18068m  92
        8日   24850歩   16898m   89
      9日 11504歩     7822m  87 
      10日 10520歩    7153m    86
      11日  11596歩    7885m     85   
      13日 24459歩  16632m   91
       14日 27112歩   18436m    90
      15日 10945歩   7442m  86
      16日 13233歩    8998m    86  
      17日 11693歩    7951m    88
       18日 15102歩   10269m   87
      19日  5633歩    3830m   81
       20日 26479歩   18005m    92
      21日 16726歩  11373m    90
       22日  9294歩    6319m   91
      23日  9052歩     6155m   86
      24日 16685歩  11279m   88
       25日 12853歩     8740m   87
      27日 27668歩  18814m  94   
      28日 26537歩   18045m   87
      29日  8902歩     6053m  87
       30日  23421歩   15926m    90   
        
               
         total  453428歩   308253m 

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    小学校5年、授業でのローマ字文が大哲学者カントとの出会いだった。タイトルは「イマヌエル・カントの話」だったが、イマヌエル・カントがどこの何者かなどの説明もなく、仮に哲学者と聞いても何をする人なのか、おそらく理解はできなかったろう。だからなのか、イマヌエルというのが名であることすら教わってない。思えば精彩のない横着な教師ともいえる。


    イマヌエル・カントは、「日本で山田太郎を逆にして、太郎・山田と外国ではいいます」と、それくらいは教えてくれてもいいだろうが、学習をさまざまに楽しく膨らますことのできない教師もいたりする。おかげでイマヌエルの意味をずっと知らずにいた。「今、縫える」だとするならなぜに「今、縫えるカント」なのか…?50年以上も前に抱いたそんな疑問を今も覚えている。

    子どもと言うのは世の中の不思議にたくさん出くわし、それらを知識として吸収し、収穫しながら成長していくさまは、何というドラマチックなことであろうか。別の見方をすれば、無垢な子どもがだんだんと汚れて行くさまのようでもある。「知る」というのは大事なことだが、「純真無垢」の対義語があるなら、「不純」ということか?「老齢」という言葉もよさそうだ。

    知らない頃は、知らないでも困らないが、多くを知ってしまうと、それはそれで楽しくもある。カントも同様に、多くを知る学者としての自身を自惚れていた。そして、無知の民衆を軽蔑していた。そんなカントを一変させたのがルソーであることは知られている。ルソーの書、なかでも『エミール』に出会ったカントは、自惚れた鼻っぱしらをへし折られてしまった。

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    日課の散歩さえ忘れ、すべての人間を尊敬することを教えられた。その体験をカントはこう記している。「私自身は好みからすれば学者である。私は認識に対する非常な渇望と、認識においてさらに先に進みたいという貪欲な不安を感ずるのであるが、また、認識を獲得するごとに満足を感ずる。これだけが人類の栄光となるであろうと、私が信じた時代があった。

    そして私は何も知らない民衆を軽蔑した。ルソーが私を正してくれた。この目のくらんだ驕りは消滅し、私は人間を尊敬することを学ぶ。そして、もし私がそのような考察は、他のすべての人びとに人間性の権利を回復するという価値を信じないならば、私は普通の労働者よりもはるかに役に立たぬ者であろう。」(『「美と崇高の感情」に関する覚書』)より。

    『エミール』とはここにも書いたが、子どもから大人の発達の過程を通して、教育とは何であり、人間とは何であるかを考えた書物。カントはルソーの著作に熱中するあまり、毎日の決まった時刻に行っていた散歩を忘れるほどだった。いったい何がカントを狂わせたたのか。一言でいえば、ルソーが文学性豊かに描いた生きた人間の姿、人間の限りない可能性と信頼である。

    カントは哲学者になる以前は物理学者だった。31歳のときの最初の著作は、『天体の一般自然史と理論』であり、ニュートンの力学理論を拠り所にしながら、宇宙の起源と生成といった問題を研究していた。物理学者であったカントがなぜに、どのようにして哲学者に変貌するにいたったかについて、『ハイネ詩集』でお馴染みのドイツの詩人ハイネはこう述べている。

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    「カントの生涯における経歴を書くことは難しい。カントには生活も歴史もなかったのだから…」。つまりハイネはカントが嫌いのようだ。ハイネは晩年、唯物論に深く傾倒することで、詩作者から思索者へと変貌した。彼はその著書『ドイツ古典哲学の本質』でカントを以下のように批判した。「まずい文体といえば、カントほど非難されるべき哲学者はほかにあるまい。

    ことにカントがその前(『純粋理性批判』以前)には、もっとりっぱな文体で書いていたことを思いあわせると、なおさらのことである。ところで、なぜカントは『純粋理性批判』をあんな味気ない、ひからびた包装紙のような文体で書いたのだろうか?おそらく、デカルト、ライプニッツ、ヴォルフ流の数学的形式を拒否してしまったカントは恐れを感じていたのだろう。

    もしも軽快な、やさしい明るい文体で述べられたら、哲学はその威厳をいく分損ずるだろうと。だからカントは哲学にしゃちほこばった、抽象的な形式をあたえた」などと、辛辣な表現は、「春を愛する人は心清き人、すみれの花のようなぼくの友だち。夏を愛する人は心強き人、岩をくだく波のようなぼくの父親。秋を愛する人は心深き人…」のハイネとは別人である。

    カントは雨が降っても、後から従僕に傘を持たせて散歩に出かけた。一般的にドイツ人は散歩好きといわれる。ベートーベンの散歩が好きも有名で、よほど体調が悪くない限り、雨の日でも散歩を欠かすことはなかった。散歩には必ず五線譜と筆記用具を携帯し、楽想が湧くとメモをとっていた。芸術は「自然の模倣」であり、芸術家は自然との共生で見出すものがあった。

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    『田園交響曲』の第2楽章に出てくる(といわれる)小川に沿って、"Beethovengang"(ベートーヴェンの道)という名の歩道がつけられている。ここは日蔭も多く、気持ちのいい散歩道になっている。べートーヴェンの散歩にまつわる逸話は、ゲーテとの散歩であろう。二人の出会いについてはかのロマン・ロランが、「詩と音楽の二つの星の、千年に一度の出会い」と形容している。

    ベートーベンとゲーテは、1812年の避暑先のチェコの温泉地、テプリッツで実現した。二人は何度か一緒に散歩に出かけ、多くの逸話を残した。例えば、「二人が腕を組んで、いっしょにシュロツス・ガルテンを散歩していたときのこと、ちょうど向こ
    うから皇族や廷臣たちが群れをなしてこちらにやってくるのが見えた。それを見て、べートーベンはゲーテに言う。

    『私の腕につかまったままでいらっしゃい。あの人たちの方が道をゆずるべきです。断じて我々の方からではありません』。しかし、ゲーテはべートーベンから腕をはずし、帽子を脱いで道の脇に控えた。これは、官職にある者として当然の振る舞いだ。べートーベンは、両腕をぶらつかせながら真っ直ぐ進み、貴族たちのまん中を通り抜けながら、帽子の緑にちょっと手を触れただけだった。

    そんな彼のために貴族たちは道をあけ、皆が丁寧に彼に挨拶した。一行が通り過ぎてからべートーベンは立ち止まって、ゲーテが道端で最敬礼をし終えて戻ってくるのを待っていた。そしてゲーテに向かって、容赦なく教訓をたれたという。『あなたはあの連中にうやうやしくなさりすぎましたよ』と…。うやうやしい(恭しい)とは、相手を敬い、礼儀正しく丁寧の意味。

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    ベートーベンの進言を意に介さず、自らの意思で行動したゲーテもさすがである。自分の意に従わなかったゲーテにベートーベンは「ムっ」とし、それが、「うやうやしい」の言葉に表された。さて、どちらが年上であろう?ゲーテ(1749年8月28日 - 1832年3月22日)、ベートーヴェン(1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)であるからして、ゲーテが21歳年上だ。

    ドイツ人に限らず散歩好きはいる。英国の詩人ワーズワース(1770年4月7日 - 1850年4月23日)は、著書『序曲』(1805年)のなかで、「…毎日毎日私は、さまよい歩いた。安んじてもの思いにふけることのできる道を」と散歩への愛を語っている。彼の生涯における散歩の合計距離は28万kmといわれ、これは地球7周という試算(推定)もある。なぜに散歩?理由は簡単だ。

    カントの毎日の散歩も、貴重な思索の時間であったように、ゲーテもベートーベンも、ワーズワースにとっても、思索のための散歩だった。ウォーキングという言葉が定着する前は「散歩」といった。どちらも同じ事だが、ウォーキングは思索というより、健康志向の意味合いが強い。が、歩く以外にする事がないウォーキングは、自分にとって絶好の思索の時間となる。

    込み入ったことではない、「もの思い」も思索である。確かにカントの生きた18世紀は、「理性の世紀」と呼ばれた。物事を筋道立てて、合理的、論理的に考えるのが理性であり、これによって世の中のすべてが解決できるとの期待が高まり、理性信仰が絶頂に達し、フランス革命となる。革命政府は宗教のような反理性を廃止、理性に基づく「合理的」な暦を作った。

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    しかし、革命はいつしか恐怖政治に移行し、人々は理性に疑いを抱きはじめる。カントにも同じようなことがあった。当時、スウェーデンのボルグという超能力者がいて、彼は遠方で起こる火事などを遠視した。カントは彼に関心を持ち、さまざま調べた結果、ボルグは超能力者であるとも、そうでないとも論証できた。合理的な理性がなぜ一つのことに正反対の結論を得るのか?

    『純粋理性批判』を書くにあたって、カントの念頭にあったのはこのことだった。理性万能主義への懐疑と疑問を出発点とし、理性の限界を明らかにするのが目的だった。カントは理性の限界に関連し、「二律背反」を発見する。「二律背反」はもとは法律用語で、法律のある条文が他の条文と矛盾する状態で、このようなことが起こらぬよう、細心の注意を立法者は払う。
     
    ボルグの経験から、人間の理性にはそういうことがあり得ることを承知していたカントは、「二律背反」の四つのテーマを発見したのは散歩中であった。詳細は略すが、「正命題」と矛盾する「反命題」を共に証明する四つのエレメント。夜は決まって十時に就寝、朝は五時に起床、そして決まった時間に散歩という一定不変の習慣のカントに、散歩は「発見の母」となる。


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    勉強し過ぎで学力は向上するが、学力外がおろそかになる。当たり前の図式だが、こういうのは親の意向反映か。社会は学力だけで成り立ってないし、勉強できる人間が人間関係をうまくやれる保障はない。学校は勉強の出来不出来で人間を評価するが、「なぜ学校は学力だけで人を評価する?」と、元教師の友人に聞くと、「そうではない」と彼は言った。

    確かに学力評価は数字に出るが、点数に置きかえれない人物評価もちゃんとするという。「教師の主観だろ?」と言うと、「客観基準はある」という。数字は具体的だが、果たしてテストの点数で子ども個々の絶対学力を量れるのか?たとえば、同じ問題でテストをする。賢い子が多い学校の平均点は90点。バカが多い学校の平均点が60点とし、自分の点数は75点。

    さて、自分は賢いのだろうか、それともバカなのか、どっちだ?答えは、「賢い子の多い学校での評価は下(バカ)。バカな学校だったら上(賢い)」というしかない。絶対評価のようで相対評価となるのが学力。賢い学校の先生は、「お前はダメだ。もっと頑張らなきゃ!」という。バカな学校の先生は、「いいぞ、よく頑張ってる。この調子でもっと上を目指そう」という。

    どちらの教師が正しい?答えは「それぞれの学校の、それぞれの教師は正しい」というしかない。賢い学校で平均点以下でも、本人は十分賢く、バカな学校で天狗になっていても社会にでると結構バカだったりする。こういう矛盾を解消するためには、学校間での評価を一定にすればいいが土台無理なこと。数字は具体的といっても、環境が変われば数字の意味も変わる。

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    「絶対評価」、「相対評価」というのも実は怪しい。絶対評価は、「目標に対する達成度による評価」。相対評価は、「集団内での相対的な位置による評価」。絶対評価=結果重視。相対評価=過程重視。例えば資格試験は絶対評価である。なぜなら、社会は結果がすべてだから。世間で相対評価の例といえば、現在セ球団のトップを走る我ら広島カープ、ミラクルカープ!

    12球団中にあって親会社不在の貧乏球団広島カープがトップを走るのは、絶対的に強いのではなく相対的な結果であり、これら、プロ野球の順位などは相対評価の代表的なものといえる。また、選挙の当落結果も相対評価。現在の公立小学校は絶対評価を取っているが、以前は相対評価だった。「学力とは他人と比べるものではない」ということから、絶対評価となった。

    親が気になる子どもの学力だが、個々の子どもの学力差の背後には、親が原因(家庭環境)であるのが分かっている。どんな親でも大事なことは、わが子が将来、どんな高校に入り、そこからどんな大学に入り、どんな会社に入ってどんな仕事に就けるかであろう。ゆとり教育が残したものは、子どもの学力低下という数字を楯にとった、ヒステリックな論争があった。

    学力低下論者vsゆとり教育派という構図の論争はしばらく続いた。「ゆとり」の意味は、物事に余裕があり窮屈でないこと。「ゆとり教育」の「ゆとり」は言葉的に適切だったのか?思うところがある。「ゆとり教育」はつめ込み教育の弊害から生まれたもので、詰め込んで分かったふりより、どうしてそうなるかという過程を理解させることが狙いだった。

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    つまり、「どうしてそうなったか」を分かって答える子と、機械的に答える子と、同じ答案であっても、賢さという点では前者に分があるが、そういう子は当然にして膨大な過去問訓練をやれるはずがない。機械的に覚える子は意味理解をしない分、多くの問題を経験できる。どちらが「勉強」というものかは、前者であるのは分かっていても、それでは受験の役に立たない。

    本当の勉強をし、学力を高めているにも関わらず、試験の結果は芳しくない。受験学力というのは、今、その場で考えて問題を解くというより、経験済みの過去問をこなしているほうが有利である。日本の受験制度というのは、どうしてこうなのか?いつまでこういう制度で、バカを量産するのか?受験制度改革は、なぜに制度を改革できないのか?

    国が制度に固執するなら、親が理想を持つしかない。少年犯罪を起こした者の多くは、札付きの不良とか、勉強のできない頭の悪いバカではなく、早くから塾などに行ってそれなりの優秀な成績を取った子が多いのではないか?端的にいえば、したくない事を無理やりやらされたことによる、ストレスの構築ではないのかと、自分はそのように考えている。

    勉強すればそれなりに目的も近づくし、勉強して悪い事などあるはずはないと思うが、秋葉原無差別殺人、長崎高1刺殺事件、福岡予備校生刺殺事件、名古屋大女生徒殺人事件、朝霞少女誘拐事件など、他にもあるが、多くは優秀な子どもたちが起こしているのに驚かされる。勉強すれば優秀になり、優秀な人間は殺人などの愚かな犯罪を起こさないハズでは?

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    と思いたいが、どこかに歪みがでてくるのか?あまりに勉強というジャンルに傾倒すれば、他のジャンルがおろそかになるのは当然かもしれない。今回、舛添要一における一連の対応で、どれだけ頭が良くてもああいう人間は尊敬はできない。金銭問題で途中退任した猪瀬前知事の後任として、颯爽と登場したまではいいが、他人の金を平気で使う人間であった。

    もうひとり、勉強ばかりして他の面で弊害の見える人物として、若者の代表が古市憲寿である。社会学者が、社会的オンチではシャレにならないが、学者というのは勉強さえ出来たら成れる職業である。勉強ばかりでは会社で偉くなれるなら、これほど楽なことはないだろう。勉強オタク古市の今回の失態を見て思ったのは、とてもじゃないが彼は企業人には不向きである。

    会社に役に立たないばかりか、害を及ぼす人間であろう。だから学者をやっているのは身の程を知ってのことだからいいものを、アレが学者でいいのか?という気もないではない。もっとも学者に変人が多いというのは世間の常識である。そういえば舛添氏も東大助教授という学者であったが、政界進出前から彼をよく知るビートたけしは、彼の上昇志向を以下述べている。

    「あの人は、最初から権力者になりたくて、人の上に立ちたくて、政治家になるために政治学者になったような人だからね」。吐き捨てるような冷たい口調が物語るように、TVタックルで共演していた二人には溝ができているのだろう。「舛添はテレビで名を馳せた人」と田原総一郎はいったが、ここにいたって舛添は、田原、たけしという二人の恩人にも見捨てられた。

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    「高い地位を得たり、偉くなった途端に人(性格)が変わる」という人間はよく聞くことだが、そう言う風に見えるだけで、「変わる」のではなく、それまで抑えていたものを出せるチャンスを得たということだ。「クルマのハンドルを握ると人が変わる」と同じ論理。都庁を退任する姿を見ながら、かつて北九州一の秀才少年の末路を、我々も彼の周囲と共有する。

    「勉強し過ぎてバカになる」という表題について、勉強することでバカにならない多くの人を揶揄するのではない。勉強し過ぎてもバカにならないように育てる親も多い。また、そういう風にならないよう自ら手綱を引き締める人も大勢いる。勉強ばかりに多くを取られ過ぎて、人間として備えておくべき大切な点がおろそかになったということだ。勉強がよくないのではない。

    好きな物ばかりを食べ、嫌いな物は一切食べないで、身体に良い訳がないのと同じこと。美味しいものと身体に必要なものは別である。同じように勉強ばかりやっていてはダメで、人間として必要なものは身につけなければならない。人と自分が言葉で触れ合う目的は、心で触れ合うためである。心で触れ合えない関係というのは、自分もしくは相手のいずれかに理由がある。

    双方の場合もあるが、いずれかにある場合はもどかしい。こちらが心を開いているのに相手が開かない、相手が開いているのにこちらが開けない。こういうのは、勉強が出来る、出来ない以上に大事なことに思う。所詮、人間関係は学問の出来、不出来で成り立つものではないからだ。学問が必要なところでは発揮し、人間関係に必要なものは同様に習得すべし。

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    人と自分が触れ合えないのは、心に歪みがあるからで、会話は言葉を使うが、相手の心に触れるためには、言葉を超えたハートで話すことが重要。なのに、それが出来ないタイプがいる。古市憲寿を見たときに、どうしてこれほど虚無的になれるのか、自分には驚きだった。彼は、言葉だけで会話をする人に思えた。情緒がない、つまり心の琴線に触れるものがない。

    学問で身につけることのできない「人間性」という暖かい心は、どのように身につけるのだろうか?何十年も前にしきりに言われた「情操教育」という言葉を、近年はほとんど耳にする事がなくなった。その原因は学習塾の乱立にあるように思う。かつて隆盛を極めた、ピアノ教室・エレクトーン教室の看板が少なくなったのに気づく。少なく産んで大事に育てるという少子化の影響か。

    いつだったか「ヤマハ音楽教室」の看板に、「ヤマハ英語教室」という文字が加えられていた。公文教室や幼児英語教室という流れに、ヤマハやカワイという楽器メーカーもシフトを余儀なくされたのだろう。ピアノは情操教育によいとされていたが、そもそも情操教育とは、感情や情緒を育み、創造的で個性的な心の働きを豊かにする教育、道徳意識や価値観を養う目的もある。

    と記されているが、自分はもっと単純に、「美しいものを美しいと感じる心」と捉えていた。「美しいものを美しい、ブサイクなものはブサイク」も素直な感じ方だが、口に出さないのが道徳意識であり、感じる事は悪いことではない。公民館で将棋をする6年生が、公文で高校の英語をやっているという。他にも微分・積分が出来る小学生が週刊誌で話題になることもあった。

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    学問には答えがある。それを探すのが勉強であるが、世の中で起こる答えのない問題に正答を出していけるのか?小学生が高校の数学を解いたからと言って、彼がどうして世の中で正しい答えを出せるんだ?先日の古市の失態を見ながら、社会で正しい答えを出せない人間は、早くから公文などで勉強し過ぎて、バカになったのではないか?自分はそう実感した。


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    二人の女性を表題にしたのは、比較対象としてではなく、時事的にタイムリーであったこと、それぞれに印象深いものがあったことに起因す。女性と言う動物において、また人間の資質においても、二人には差異が感じられた。二人とも特に注視していた人物でもないので、方や夫の覚醒剤所持、方や都知事選出馬表明という一件から受けた印象について述べる。

    小池百合子は1952年(昭和27年)7月15日生まれの政治家。カイロ大学卒業後はアラビア語の通訳として活動した後、1979年から日本テレビ『竹村健一の世相講談』でアシスタントキャスターを務めたが、1988年よりテレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代メインキャスターを務めた。残念ながらキャスター時代の小池の印象というか、記憶はほとんど残っていない。

    同番組は現在も続いており、2014年の時点で、民放各局の最終ニュース番組の中では最長寿番組となっている。また、東京キー局制作の報道番組で、かつ番組名を変えずに現在も放映されているケースにおいても2014年5月の時点で、フジテレビの『FNNスピーク』に次いで2番目に長い。『ワールドビジネスサテライト』は、小谷真生子が16年間勤めた看板番組だった。

    小谷は2014年3月28日をもってBSジャパン「BSニュース 日経プラス10」のメインキャスターを担当することになり、変わって2014年3月31日より新メインキャスターとして大江麻理子が就任し大幅にリニューアルされた。番組のエンディング時、初代の小池から先代の小谷まで「ごめんくださいませ」と挨拶していたが、大江は「それでは、また明日お目にかかります」と変えた。

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    小谷のキャスターとしての一家言は、「ニュース番組の娯楽化」を懸念している点で、彼女はこのように言う。「私にとって、娯楽とは人々を笑わせ、楽しませるものです。でも、ニュース番組は人々の死や悲しみといった事実と向き合い、真剣に取り組むべきものです」。近年のニュース番組は娯楽と報道の中間の傾向があり、娯楽番組の司会者がニュースに行ったりする。

    その逆もある。ニューステの久米や古館のことを指している様でもあるが、小谷も局側からそういう要請を受けたこともあるという。彼女はキッパリ断っており、「一旦どちらかに行ってしまったら、もうニュースに戻ることができないと思った」と述べている。小谷は元NHKのアナウンサーであり、父もまたNHKのアナウンサーだったが、今なお小谷はNHK的である。

    彼女の以下の言葉は好きだ。「ジャーナリズムは、人の命を守り、権利を守るためにこそ存在していると思います。人を驚かすだけのショッキングな報道をジャーナリズムと言えるのでしょうか。その点において、マスコミで仕事をしている人は、本当に志を高く掲げて仕事をしているのか、常に問われなければならないず、仕事で最も大切なのは志だと思っています。」

    初代キャスター小池の記憶はまるでないが、小谷はキャスターとして人気を得ていた2007年、自由民主党から参議院議員選挙への立候補要請を打診されたが、固辞している。小池は、1992年の第16回参議院議員通常選挙を前に、複数の政党から立候補の誘いを受けていたが、前熊本県知事の細川護煕が結党した日本新党に入党し、比例区から出馬して参議院議員に初当選した。

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    「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」との理由というが、目立ちたがり屋の小池の当然ともいうべき選択であろう。女性はなりふり構わず目だってこそ女性としての本性であるなら、今回の都知事選を前にしたスタンドプレーも、その後で都議会や都連幹部からクレームがつくのを見越した彼女の採算であるのが分かる。

    都知事選に出馬の意思があるなら、立候補の前に協力体制を得るために都連や都議会に強力を仰ぐための意思表明並びに、立候補の挨拶をするのは常識中の常識である。それを無視してなぜ彼女は勝手に立候補したのか?推測するに、まだコレといった候補者の選定が決まらぬ段階にあって、誰でも良いというなら、鳴り物入りで自分を担ぎ出して欲しい!というのがホンネであろう。

    いかにも目立ちたがり屋の小池らしい、目立ちたがり屋的な行動である。あのような仁義に劣る行為を男は最も嫌がるという事を知ってか知らずでか、いや、おそらく知ってはいるのだろうが、だから「崖から飛び降りる覚悟!」という比喩で、自身の非礼に免罪符を与えている。話し合いを好まず、話し合いを苦手とするジコチュウ性格にありがちな女のヒステリーと見る。

    誰にも相談することなき身勝手行動をしておきながら、「私は自民党員なので自民党から出る」などとよくもいえたものだが、表立っては出ないが裏では、「バカな女の勝手を許すわけには遺憾!」と叱りを受けたようだ。それなら都民を後ろ盾に、「無所属でも出馬する」とここまでは予定の行動であろう。ようするに彼女は、自分が人気があるのを分かった上での採算だ。

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    とにかく知事になればいい、後は何とかなるという考えで、議会軽視のこうしたスタンドプレーは狭い社会で許されない。日本はまだまだそういった長いものには巻かれろ的な社会である。自由主義的な考えに立てば、誰にお伺いを立てる必要もなく、自分の責任において誰でも立候補をしていいわけだが、話し合いで事を決める寄り合い社会が今なお幅を利かす。

    都連が次期候補として櫻井俊氏に奔走している最中に、突然の出馬表明は都連の反対はともかく、都民を味方につけて知事になったとしても、青島知事のように議会からそっぽを向かれて何もできないが、青島と違ってそこは女性である。あまりの女性イジメが表立つとマスコミ叩かれる。彼女はそういう計算も視野に入れた議会運営を模索しているかも…。

    男ならビシバシ叩けるが、女性は腫れ物に触らねばならず、男と同じようにはやれない。この点が逆差別的やりにくさである。小保方氏ではないが、女性の涙に世の男は弱い。女の涙を男は許すが、男が男を許すなら、佐村河内のような言い訳ナシの全面謝罪であろう。障害者の彼には失うものもなく、取立て守らねばならぬ自尊心もない。だから出来たのかと。

    とかく男は言い訳を嫌うところがある。それで共感を得たのが高知東生の覚醒剤所持で会見に臨んだ高島礼子である。相方の不始末において、アレだけ正直に、且つ明晰に、何かを隠そうともせず、心を露にして話をした人を初めて見たような気がする。以前、勝慎太郎の大麻事件のとき、妻の中村玉緒がやはり同じように、妻としての夫を詫びた会見以来ではないか?

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    夫は夫、私は私というように、妻と夫は言わずもがな他人である。親と息子(娘)というような血のつながりはない。夫婦が子どもの不祥事で、「お前が甘やかすから」、「あなたが子どもに何かしたの?」という無様な言い合いは耳目にした。責任回避のためのくだらない擦り合いと、目くそが鼻くそを笑うようなくだらない言い合いを公然と人前でするバカ夫婦としかいいようがない。

    それに比べて夫の責任を妻が、妻の不祥事を夫が(事例は少ないが)、我が事のように感じるのは見ていて気持ちがいい。擦り合いがそれほどに醜く見苦しいということだ。いろいろな見方、感じ方はできるが、高島の言葉の端々から見える、夫婦関係の実体の無さ。記者が、「最近東生氏にいつ会われました?」と利かれた高島は、「思い出せません」と述べた。

    これが何を意味するかは、実体として夫婦関係は成り立っていない。別の言い方でいえば、生活の中に相手が不在であるのが、双方にとっての日常である。籍は抜いていないだけでお互いが独身という事でもある。高島は夫について隠すこともないというほどに、夫のことに無知であったということ。もちろん、庇う事柄もない。アレがあの会見の実体であったといえる。

    つまり、実体のない夫婦が、夫婦の実体についても、実態についても語りようがない。実体の無いままで何ら支障がなかったものの、脱法行為で逮捕とあきらかに不倫と言う不法行為があからさまになった以上、夫婦関係をどうにかしなければならないという社会問題が浮上してきた。それさえなければ、互いが自由に野放しでいれた夫婦である。それについて高島は…

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    「今後はそういうこと(離婚)についても考えなければ…」という言葉を発せざるをえなかったようだ。夫婦関係が破綻していても、顔を合わさねばとりたてどういうこともない。ストレスもない。腹の立つこともない。そういう夫婦も夫婦である。そんなの夫婦じゃない、一緒にいる意味がない。というが、一緒に居ないのだから問題がない。別に夫婦に限らずである。

    どうしようもない不詳の息子(娘)でも、離れて暮らし、会う機会もないならどうということはない。嫌な友人でも会わなければいいしそれと同じこと。それでも親子であり、それでも友人である。同じように、それでも夫婦である。かつては共に力を合わせて子育てもし、お金を貯めて家も建ち、そういう過去も立派な夫婦の履歴である。今は空気のような存在にあってもだ…

    外国人の言う「愛」の表現は、「空気のような夫婦」を否定するが、日本人の理想とされる経年夫的婦観は「空気」である。50歳、60歳になって、いちゃいちゃべったりを好まぬ日本人文化とも定義できよう。と、そのように考えれば、高島夫婦は理想の夫婦であった。「そんなの嫌」という夫婦には理想とならないが、「それでいい」という他人に口を挟むのはお節介と言える。

    とかく日本人は他人の生活には口を挟むのが多いが、周囲を見て暮らさず、自分を見つめて暮らせばいいだろに。高島礼子が、薄化粧で美しかったのと、記者連中をまるで知人、友人と会話するように、それこそ肌と肌が触れ合うような至近距離で、切実に自分の思いを語ったのは素敵だった。こういう質問にはこう答えるのがいいとか、そういう作為は微塵も感じられなかった。

    イメージ 7小池百合子と高島礼子の最も大きな違いは厚化粧&薄化粧である。女性の化粧は、化けるといわれるように、顔の印象を良い風に変えるし、自身の魅力度や美人度を上げることもできる。エレガントなイメージ、デキる女、可愛い女のイメージを纏うことによって、本人の意識にも多かれ少なかれ変わるし、自信を与え、気持ちが強くなるといった影響を与えるといわれる。
    男の化粧の意味は分らないが、ブサイクで劣等感を持った男は女性など顔負けのメークをするようだ。男が化粧を施して美しくなるためには、オカマでいるほうが自然、という観点であろう。つまり、男の容姿や身なりで派手な化粧をするには限界があり、それほど派手な化粧を施さないことには、ブサイク男を変えられないという苦心の判断ではないかと感じる。

    カルチャークラブのボーイ・ジョージを始めて観たとき、「こいつはデカイ顔のブサイク男だろう」と感じた。Ⅹjapanのメンバーもそう見えた。昔、容姿コンプレックスの男はサングラスが必須であり、野末陳平、寺尾聡、井上陽水、宇崎竜童、鈴木雅之などが初期にサングラスで顔を隠していた。グラスを取った宇崎竜童の違い過ぎるイメージに引いたのを覚えている。

    唯一グラスを離さない浜田省吾は、棺おけで眠るときもつけたまま?さて、女性の薄化粧派、厚化粧派の性格的特質も言われるが、小池氏は目立ちたがり屋、高島は素朴で飾らない派という一面は覗けた。高島の言葉や返答には頭の良さを感じたが、人間は創らず飾らず、臆することなく、自らに正直になれたら、誰でも知的になれるのでは?そういう感慨もあった。


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    一人の人間の書くものはそれなりの指向性を持ち、同じ傾向になりやすい。なるのが自然で当然ともいえる。書くたびに主張がバラバラでは、一貫性に欠ける。果たして「一貫性」が自慢できるものか?そうも思わない。人間は長いスパンの中で変わって行くものだからだ。変わるといっても10日前と昨日で言う事が違うと、チグハグと非難もされよう。

    思えば母親はいう事がコロコロ変わった。日単位どころか、時間単位で変わるのでやってられない。しまいには、バカ女と見下すしかなくなった。「修身教育」を受けた昔の人間だから、「親を敬わぬ者はろくでなし」とヌケヌケという。「修身」には尊敬できない親でも敬えという直接的な記述はないが、「親孝行」、「長幼の序」は「修身教育」(儒家思想)の根本である。

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    戦国時代を武力で統一した徳川家康は、近世儒学の祖と称される藤原惺窩(せいか)の講義を受け、儒学(朱子学)を新時代の官学としたが、その惺窩と激しく論争したのが林羅山。惺窩は羅山の英明さに驚き、自身は仕官を好まなかったため、1605年に羅山を徳川家康に推薦した。羅山の学識の高さを大いに評価した家康は、23歳の若き羅山を幕府の相談役として召抱えた。

    羅山は、家康居城の駿府城で儒学を教える傍ら、駿府の書物庫をあずかって、のちの紅葉山文庫の整理をした。1616年、家康が死去すると、2代将軍秀忠に仕えた羅山は、学問ばかりでなく、政治にも参加をする。「色を好むは真の情」は、羅山の言葉。歴史に名を残す英雄も、長屋住まいの庶民においても、「真の情」。経営の神様と言われた松下幸之助には7人の妾がいたという。

    近年、「妾の子」という差別用語はなくなった。昭和17年民法改正前までは、「非嫡出子」といわず、認知されているか否かで「私生子」、「庶子」と分類されていた。婚姻外の子どもで、父親に認知されない子どもを「私生子」、認知された子は「庶子」と民法上分類されていた。しかし、差別の原因になったために民法改正で、「非嫡出子」に統一された。

    田嶋陽子などは、妾(愛人)そのものが女性差別というが、庶民の娘がお殿様に気にいられて大奥で寵愛を受けることは玉の輿であった。資産家の愛人となれば、庶民家庭よりはるかに良い暮らしができた。山崎豊子の『華麗なる一族』では、手切れ金で屋敷から追い出される愛人を映し出しているが、同じ屋敷内に本妻と愛人同居は社会的にも問題がある。

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    NHK朝ドラ、「あさが来た」においても、史実通りに物語を作る気はなかったようで、新次郎と妾との間に子が生まれる件は隠されている。「妾を持つ」こと自体が視聴者の反発を招きかねないのに、「妻妾同居」というのはタブー中のタブー。時代設定云々いえども、穏健な国民放送局制作の視聴者向け朝ドラにあって、畜生の仕業としか思われかねない。

    映画監督マキノ雅弘が憤慨して吐き捨てた言葉を思い出す。「やくざ映画が遺憾いうて、なんで信長や秀吉ならええのや。NHKはあんなもんばかりやっとるが、アレらの方が余っ程ようけ人を殺してるんや。アホやで、ほんま!」。また、城山三郎によって描かれた(『粗にして野だが卑ではない』)元国鉄元総裁の石田禮助は、勝新太郎の座頭市を好んで観たという。


    「勧善懲悪だし、最後には必ず勝って、死なないからいい」としたが、同じ筋立ての水戸黄門は、「最後に印籠を出して威張る。権威を振り回すのが好きになれない」といっているところは、いかにも禮助らしい。男はヒーロー物、勧善懲悪物、女は恋愛物が昔も今も好まれている。韓流ドラマは一時のブームは去ったものの、いまだに主婦のハートを焦がしているようだ。

    「差別は永遠になくならない」と野坂昭如が生放送(「朝まで生テレビ」1989年7月28日放送)で発言したのには驚いた。彼は、「人間は差別されるのは嫌いだが、差別するのは大好きだから」と持論を唱えた。確かに彼の言う通りかも知れない。差別撤廃が目指すものは、「人を差別するのは大嫌い」という人間を、教育によって作ることだが、おそらく不可能だろう。

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    政治家や官僚の収賄をなくすために、政治倫理をいくら叫んでも贈収賄が無くなるとはとても思えない。橋本龍太郎が総理だったころ、政治家のスキャンダルが相次ぎ、国会は政治家の倫理を巡って紛糾し、「倫理国会」などと言われた。これを中曽根康弘元首相が、「リンリ、リンリと夏の鈴虫じゃあるまいし」と茶化したことがあったように、政治家に倫理を求めるのはムダ。

    倫理は政治家にではなく、人間に備わるもので、そういう人が政治家になるしかない。そうはいっても人に倫理観のあるなしは分らない。だったら、倫理に関する規正法は厳罰にすればいいことだが、自分達の旨みを変えようとしない政治屋が国をダメにする。もっとも、倫理云々を言う前に、政治家には、「お金が嫌いな人を選んだ方がいい」ということになるのだが。

    果たしてお金の嫌いな人間が世の中にいるのだろうか?お金好きよりも、「志」を持った人間こそ政治家を天職といえる。先に仕事を「志」といったキャスター小谷真生子が、ニュース番組の娯楽化を憂えるように、志とは情熱であろう。情熱を失わないから志と言える。そういう人間がある仕事において、「天職」といえるのではないか。また、天職だから情熱を傾けられる。

    どちらが先でも後でも、情熱と天職は表裏である。その仕事に惜しみなく努力をし続けられる人の事でもある。政治にも理想が大事なように、教育もまた理想を欠かさない。理想を掲げるからこそ高みに到達する。それをいうなら野球人としてのイチローもその部類であろう。教育界に林竹二という巨人がいた。彼の伝記を『天の仕事』というタイトルで著したのが日向康。

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    彼の、「生の意味は制作ではなく(目的獲得のものではなく)、行為にある」という独自の哲学。つまるところ、「すべては結果ではなく、行為の過程にある」というのは、結果重視社会に対する警鐘である。林は、人間の「生」を自己に課された任務の遂行と受け止め、片時も、それを実行するための、「行為」から離れることがなかった。日向は林を、『天の仕事』の従事者と解す。

    長らく宮城教育大学学長にあった林は、その在任期間を振り返り、「結局、何もやれなかった、否、やらなかった」、「何もできなかったというよりは、何もやらなかったというほかない」と振り返っている。「しなかった」ことを、「できなかった」と言い訳する人間の多い中において、「できなかった」を、「しなかった」と受け止める人間の歴然とした責任感である。

    「できなかった」は、「できなかった」と結論したいのだろうが、「できなかった」は、「できるであろう種々の方法を見つけられ得なかった」という、真摯な自己責任感である。もっと、「できる」何かがあったのではないのか?「できなかった」のは自分が無能であったからだと、言い訳を排して悔いる自己肯定感。自分を信じ、信頼するから辿り着く考えであろう。

    己に自信のないがゆえに、「最善の努力をしたが、及ばなかった」と自らを慰める。これではイチローのようにはなれない。さっさと自己の能力を見切って諦めているからだ。「もっと何かないのか?きっと何かがあるはずだ!」こういう姿勢の人は、いつまでも向上し続けられるだろう。自分を信じることは、たとえ上手く行かない時でも、投げ出さないでいれる。

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    「こんなに頑張ったのに…でもできなかった」という言葉で自分を慰めたいだろうが、自分を慰めて何になる?それで自分が生かされるのか?昨今は、「癒し」の時代といわれる。人間は自分を癒すものを求めて躍起になる。何と言う脆弱さであろう。自分を癒さなければ身がもたないのか?誰がそんなに人を弱く教育し、自分もそれに嵌まってしまったのか?

    ニーチェの言葉にはほとばしる男らしさが現れている。だから、彼を好きだし、同じように坂口安吾もである。ニーチェは他人に同情なんかしては、自らの足で立ち上がれなくするといった。「彼にとっての居心地のいい柔らかいベッドよりも、固いベッドになれ!」と諌めた。同じく安吾も、「他人に親切にして裏切られたと文句をいうくらいなら、最初から親切などするな!」と言った。

    「親切とは相手から裏切られ、殺されてもいいつもりでやれ!」といった。これを理解できる人間は、軟弱な親切とは、相手のためと言いながら所詮は見返りを求めた利己的な行為であることに気づく。「人のため」と言いながら、「自分のため」にするのが悪いと思わない。なぜなら、それも人のためになっている。問題なのは「人のため」という詭弁である。いわずに黙ってやればいい。

    自分は相手のために何かをしたい衝動に囚われたとき、それでも自分のためだと言い聞かす。これをやる事は自分の何がしかにプラスになると思って行為する。相手のためなどは、そうであってもなくても自分にとって意味はない。自分の行為は自分のためにやればいい。だから理屈抜きに突き詰められる。イチローを見ていて感じるのは、他者の評価を意に介さぬこと。

    イメージ 6礼としてのお辞儀などの対応をするが、それは形式的なものである。彼は自分のために何かをし、目指す何かがある。そしてそれは自分を誇るためというより、あくなき自分への挑戦であろう。目先の評価に殉じているよりは、常に可能性を求めてやまない。評価も喝采に興じないのは、それらを目的としていないからで、そういうものが自身の枷になっていない。

    すごいモチベーションの持ち主である。確かに他者の評価や喝采を拠り所とするなら、人間はある時点において自らを驕るだけだが、イチローは猛烈なる求道者である。自分と他者を相対評価をしないところがそれを感じさせる。将棋が多少指せる人がよく言うのは、「あいつは弱い」。もしくは「あいつより自分の方が強い」。こういう言葉を聞くだけで器の小ささを感じる。

    向上心の強い人は他者から、「強いですね」と言われても意に介さない。「ありがとうございます」という社交辞令、もしくは、「そんなことはないです」という嫌味にならない程度の謙遜。後者は人間関係の中で大事なもので、本心でいってるかどうかは意外と察知される。だから、こういう言葉を本心で言わないなら、言わぬ方がいい。自分を驕っている人は態度に現れる。

    そもそも自分を「強い」といい、他者を「弱い」という人は、強い人への敬愛心や視点がない。自分より弱い者とだけ比較し、「自分は強い」と言っている。批判はしないが、そういう人だと思って付き合える情報になれば、それでいいこと。いわゆる、「お山の大将」だから、そのように接してあげるといい。人はいろいろの、分かりて此の世、楽しきにありていとをかし…


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    離婚については度々書いてきた。離婚肯定派というより、夫婦は何が何でも我慢し、頑張って添いとげというのが数十年前の美徳であった。考えてみるに、何の、誰に対する美徳なのか?夫婦愛という美徳、時代背景における社会的美徳、プラス双方の両親や肉親、親戚などへの配慮もあったろう。それほどに離婚と言うのは、羞恥の極み、人生の落伍者であった。


    イメージ 1周囲への配慮、実より名、中身より表層を大事にした時代であったろう。「美徳」とは字の如く"美しい徳"、「徳」は宗教的意味を排せば、道徳と言う言葉にあるよう、ゆがみのない真っ直ぐな心、道にかなった行いとの意味あり。夫婦はいつまでも仲睦まじくと誰もが認める夫婦の美徳といわれる。また日本人においては、「もったいない」に代表される節約の美徳がある。さらには「我慢」、「辛抱」、「忍耐」と、同じような意味の言葉があり、これも日本人的美意識である。近代になって価値観が大きく変貌した時代にあって、果たして「節約」や「我慢」が美徳なのだろうか?どちらも欲望を抑えるということから派生する言葉であり、美徳とされるが、「節約」、「我慢」いずれも内向きのエネルギーを生じさせており、いわばネガティブな美徳であろう。

    美徳にはさまざまある。強い怒りが湧き出るときに、事を荒立てず、静に怒りが去るのをじっと耐えるのも美徳だが、行為する美徳もある。分かりやすい例でいえば、君父の仇を討った赤穂四十七士は美徳に生きた人たちであり、儒学者がまとめた礼に関する書物『礼記』にある「不倶戴天」の美学である。父を殺した人間とは同じ世を生きない、生かしてはならないと諭す。

    そうした英雄達をなぜに幕府は切腹を命じたか?これには林大学頭、 荻生徂徠ら幕府お抱えの儒学者の間においても見解が割れた。「主君の仇はとるというのが人の道の大原則であったにも関わらず、「忠義だけでは時世を知らずこれ御政道にあらず」などの解釈から浪士には死罪を降した。子どもの頃には納得できかねたが、後年は山本七平らの解釈に触れることとなった。

    山本はこのように述べている。「浅野長矩は法を犯して処刑された。そのことを否定している者はいない。…違法行為をした、しかしそれが未遂であった。そこでそれを既遂にしようとしたのが赤穂浪士の行動だから、法の適用が正しいというのなら、赤穂浪士の行動も否定しなければ論理があわない。現代でも『殺人未遂で逮捕され処刑された。その判決は正しく、誤判ではない。従ってそれは怨まない。

    しかし未遂で処刑されては死んでも死にきれまい。ではその相手を殺して犯行を完遂しよう』などということは、それを正論とする者はいないであろう。こうなれば結局、…理屈はどうであれ、私心なく亡君と心情的に一体化してその遺志を遂行したのは立派だという以外にはない。これでは動機が純粋ならば、法を犯しても倫理的には立派だという事になる。」(『現人神の創作者たち』)

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    美徳から赤穂義士にながれたが、「節約」、「我慢」といったネガティブな美徳とは別に、「別居婚」という新しい行動学がある。「美徳」という形式に比べ、現実的行動スタイルを「美徳」とはいえぬが、籍だけ入れて住まいは別という「別居婚」夫婦は増えている。コレは夫婦がいがみ合い、互いを遠ざける別居と違い、双方のライフスタイルを守るために行われているようだ。


    子どもが成長し、自立して家を出たなら、子育てという夫婦にとっての一大事業は終ったと見る。子どもと親が別居するのはいがみ合いからでないように、夫婦が別居して相手に気がねなく好きな生活をするのは何らおかしくない。そのようにすべきであるとは思わないが、そのような別居は夫婦にとってあるまじき形態といえようし、何も「美徳」などと現を抜かすこともない。

    働く女性が増え、互いのライフスタイルを崩さないために別居婚を選択するという理由も多く、互いが望むなら新しい夫婦の形である。大人としての互いの自由を認め合うのを、放任というのとは違う。空気のような夫婦関係は、「何をやっていても気にならない」というのを、「それって愛がないし、離婚の前兆では?」と訝る仲良し夫婦もいるが、そういう事ではないだろう。

    人の事は、気にすればキリがないし、気にしない努力を続けていたら、気にならなくなったと言うこともある。何にしてもお互いがそれでいいならいいのであって、他人が心配することではない。夫婦喧嘩でもつまらんことで言い合いするくらいなら妻の言い分に従ったほうがいいという夫もいる。口を閉ざしたことで言い合いを避けることで主導権を妻に取られたという夫も多い。

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    感情でたたみ掛けられ、ヒステリーを起こされたらたまったものじゃないが、どっちにしても女一人に手を焼くなどは男の分際からしてへタレである。そういう夫は、「何をいってもダメだから諦めた」と決まっていう。諦めたなら文句をいわぬことだが、言いたい文句があるなら、鍋の一つくらい飛んできても砦を守ることだ。女は鍋を投げるが、叩かれると「暴力、暴力」と叫ぶ動物。

    恐妻家で妻の気の強さに手を焼く中川一郎元農水省に、兄貴と慕った金丸信元副総理が、「女房は思いきり殴りつけてやれ。そしたら亭主の言うことに従うようになる。」と伝授したというが、中川は自殺をしてしまう。自分の近所でも立て続けに夫の首吊り自殺が2件あった。いずれも恐妻家で、仏のようなやさしい夫であった。中川のあだ名は「北海の熊」であったのに…

    文句が面倒だからと黙って従った最初に問題があり夫の責任だろう。そういえば若き頃の父も母を縛ったり、柱にくくりつけたり(SMプレイではない)していたが、後年は何をいわれてもダンマリを通した。エネルギーが喪失したのか、達観したのか、その両方だろう。若き日の父は女遊びが過ぎたる人で、親の喧嘩の理由は分からぬが、おそらくそれも火種と察する。

    女遊びも何事も、やり尽くせば飽きも来ようし、男として理解する。そういえば高島礼子と高知東生夫妻も放任夫婦だったようだが、これだけ騒ぎになると、然したる離婚理由はないにしろ、体面的に考えざるを得なくなる。覗かれなくても良かった私生活を覗かれてしまったようだ。離婚経験者に言わせると、離婚とは結婚以上にエネルギーを要するものらしい。

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    にもかかわらず、日本の離婚率は上昇気味だ。厚労省発表データによると、2000年代の離婚率は高度経済成長期の約2倍。自分の周辺を見渡しても、離婚経験者はゴロゴロいる。かつては珍しく、世間は白い目で見たものだが、昨今の離婚経験者は、離婚歴を隠そうともせず、どこか堂々としている。女性が虐げられた時代に比べ、離婚は恥ではなくなった。

    他にも離婚を恥と感じない人が増えたのは、「離婚が必ずしも悪とは限らない」と考えになったことも一因。確かに事情と経緯によっては、「離婚やむなし」の場合もあれば、離婚したほうが互いにとって最善と肯定的に考えるケースもある。「バツイチ」ならぬ「プライチ」という言葉までいわれている。「プライチ」とは、離婚によって人生経験がプラスされたとの意味。

    離婚に至った理由は個々によるが、近年は意外な理由で離婚する夫婦もいる。最も裁判所が扱う離婚理由のダントツは、「性格の不一致」である。これは夫にも妻にも多い理由となっている。抽象的だが、恋人期間中は分からなかったこと、見えなかった部分が、結婚生活を続けていくうちに、考え方や価値観などの違いが見え、我慢できなくなったということだ。

    当初は食べ物や洋服、音楽やレジャーの好みや、ちょっとした習慣など、どちらかが譲ることで離婚は避けられる可能性はあったが、根底の性格が合わないと、互いに共感できることが少なくなる。「合わない」と感じながら夫婦を続けていくことは困難と考える夫婦は多い。親子関係は止められないが、断絶親子はある。断絶夫婦は止めることが可能で、その方がいいと考える。

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    断絶親子も夫婦の離婚もあるのが普通。反抗のエネルギーも離婚のエネルギーも甚大であれど、日々ストレスを溜めながらの生活よりはマシである。会社に嫌な同僚や上司がいるのも相当に辛いらしい。折り合いをつける方法を模索し、試してみるのもいいが、あっさり辞めたほうがスッキリの場合がある。会社には能力差という歴然とした差別がある。

    が、これは業務上区別と分類されるもので仕方がない。いや、能力差による区別は、差別と捉えるべきではないが、当事者は「差別感」を抱いている。区別を差別と感じれば差別となり、差別と区別は人間が生身である以上、普遍的な命題である。家庭内における親子の差別感を感じる子も多いが、最も多いのが兄弟・姉妹を差別する親。これは子どもにとって耐え難い。

    兄弟を比較するのを親は絶対やってはいけない。如何に能力に差があろうと、同じ親を持つ身として同じ質と量の愛情を授からなければならないし、それなくば差別である。「姉に比べてお前はダメだ」と言われてどう思うか?「お前はダメ」と言わないように親は配慮するも、姉を褒めるだけで、下は貶されていると同じ気持ちを抱く。親はその微妙さに気づかない。

    AとBを比べ、単純にAを褒めただけなのに、Bは貶されていると感じる。一人っ子を褒めるのは何も問題ないが、二人兄弟の一方だけを褒めるのはダメである。BよりAのある部分を褒めるなら、AにはないBのいい部分を褒めることを忘れないように。ところが親が勉強だけ、スポーツだけ、芸事などに特化した価値観を持つような場合、兄弟間の嫉妬が起こりやすい。

    イメージ 6嫉妬はやがて軋轢に移行する可能性も大きい。以前、妹が万引きで捕まり、親から厳しく叱られたことを苦悩した妹思いの姉が、ワザと万引きをして捕まったという。この話を聞いたとき、妹を思う姉の苦悩は心情としては理解できるが、実際に行動に移したというのは凄いことだと感じた。親に叱られる妹の心に同化しないでは、とても出来ることではない。なんという優しい姉であろうか?

    不出来な妹を親が叱るのを、「いい気味だ」と姉は思ったのは聞いた事があるが、それとは真逆。妹の心痛に同化するあまり、自ら悪い子になろうとした姉の心理理解は並大抵ではなかった。妹には長年の姉に対する嫉妬はあったろうし、姉もそれを感じたはずだ。そんな姉が同じように万引きで捕まったとき、妹はどう思ったろうか?故意にとは絶対に思ってない。

    「姉だってやってることは同じじゃない」と気持ちが晴れたのか、差別する親に対し腹いせ感を抱いたか、その辺判らないし、聞いていない。利口な姉は故意である事を妹につげなかった。もし、口に出したとしたら妹はさらに侮辱感を抱いたろう。「万引きした私に同情してしたっていうの?そういうのって正義ぶってない?バカにしないで!」と思って可笑しくない。

    姉の行為の真実は分らないが、感傷的な同情なら故意を妹に告げたかもしれない。それによってますます姉妹の距離感は遠のいた。姉は「妹が可哀想だったから」ということだったが、姉妹を差別する親に対し、水平感を訴えたいとの捨て身の行動と自分は理解したが、こういうことが出来るものなのか?との疑念は消えなかった。姉妹にしかわからない関係であろう。


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    人は誰も自分を知らない。社会にいても目に映るのは他人の顔ばかり。善も悪も影響を受けるのは他人からだけ。自分が自分に寄与したり影響を与えたりはしない。本で得る知識もすべて他人のもの。人間が知るべきはおろそかにしている自分のことだが、それを教えてくれるのは他人しかいない。自分で知る自分の部分は結構甘いし、鏡に映る自分も左右が反転している。

    「結構辛辣なことをいう」と、他人の自分評だが、他人の目は結構的を得ている。なぜなら、他人はいつもこちらばかりを見て生きているし、自分はあまり自分を見ていない。よって、人と付き合う最大のメリットは、自分を知る事にある。そうはいっても、他人から指摘されて傷つく人がいるのは何故?相手は傷つけようと思ってないのに傷つくのは何故なのか?

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    君とオレはどうも相性が良くないねと言っただけで傷つく。これは信頼していた(と勝手に思っていた)相手に、裏切られたからだ。人が傷つく理由はいろいろあるが、人権を侵された、尊厳が守られなかった、人として尊重されなったなどなど、自己肯定感や自己重要感を侵された場合も傷つく。考えようによっては子どものようだが、誰にでもナイーブな心はある。

    少々のことをいわれても傷つかないおばちゃんもいるし、おっさんもいるが、それでもおばちゃんやおっさんを傷つける言葉はある。いくつになっても傷つくというのは、人間がまだまだ成長の過程にあるということで、それはそれで必要なこと。人は傷を乗り越えて内面が成長し、大人になって行く。「大人気ない大人」という言い方をするし、傍観することもある。

    が、無防備な自分に不意に何かを言われ、傷つかないほうが稀だろうが、そういう場にあっても常に自尊心を平常に保てるのも経験と言う訓練である。「嫌だな」という事が起こるのも同じ理屈で、できるなら傷ついた経験を多く持った方がいい。傷つくことで内面が成長すれば、弱い人を許し、未熟(子供含む)な人を許し、粘り強く、動じないで受け入れられるようになる。

    信じられぬと嘆くより、人を信じて傷つく方がいい、人は悲しみが多いほど人にやさしくなれる…というのは『贈る言葉』の一節だが、これは親からみると「可愛い子には旅をさせよ」に繋がる。目先のことばかりに目が行き、我が子に苦労をさせたくない、辛い思いをさせたくないという親の過保護が弱い子どもを作っている。なぜ、そんなことが分からぬ親が多いのだろう。

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    売ってはいないが、「苦労は買ってでもせよ」という言葉を知らないのか?ダメな親だと思う。ダメな子どもを作るという点において…。そういう親には、勉強さえ出来れば世の中苦労しないで生きて行けるという信念があるのだろう。信念を疑わぬならそれでいい、突き進んだらいいことだ。もっとも、過保護、溺愛に陥りやすい少子化という社会形態にも問題はある。

    「少なく産んで大事に育てたい」は分らないでもない。子どもが3人いれば親の目は3分されるが、1人だと我が子の頭から足のつま先まで100%となろう。極端に過保護、極度に放任、どちらもいいハズがないが、加減がなかなか難しい。「中庸は徳の至れるものなり」というように、両極に陥らない正しい育児をするからには、親の自己洞察能力が不完全であっては無理だ。

    相手を知るのも至難だが、自分を知るのはさらに難義。だから、人は人から自分について教わる。「客観性」という言葉にあっても、他人から見た視点や忠告に傷ついたり、悪意にとったりの人間である。動物の基本は主観的な「生」である以上、人間もまた主観的な生き物だ。それが誤りのもと、誤った育児のもとであるのを知る人間は、誤まらない育児の努力をしてきた。

    主観的な人間が陥りやすい育児の盲点から、「三つ子の魂百まで」、「子どもは風の子」、「子は親を映す鏡」、「(背に)負うた子に教えられ」、「可愛い子には旅を」、「一つ叱れば三つ褒めよ」、「三分の寒さ、三分の飢えで逞しく」、「総領の甚六」などの慣用句が生まれ、これらから育児の失敗を戒めた。これらをカルタなどにして生活に密着・浸透させた。

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    「総領の甚六」などはカルタをしない現在にあって、耳にしない大人が多い。言葉の意味は、「総領」とは長男(長女)のこと、「甚六」とは「甚 (はなはだ) しく六でなし」の意。つまり、跡取り息子は弟や妹に比べて大事に育てられるので、得てして、おっとり・鈍い者が多いという慣用句。家康はなぜ三男秀忠を世継ぎにしたのか?正確には分かってはいない。

    ある学者が「家康は『総領の甚六』を描いていた」と説を述べていた。学者の説は学者のもので、家康がこのことを述べた記述はない。長男信康は正室築山の子であったが、信長によって謀叛の嫌疑をかけられ切腹させられた。次男秀康は秀吉に養子に出された後、関東の名家結城家の跡取り養子となった。二人とも実質世継ぎの資格はないが、秀忠世継ぎは謎というのが定説。

    さて、一人っ子の自分は総領であるが、総領でもない。実は早逝した兄がいた。子ども用の布団がなく、重い布団によって窒息したと聞いた。もちろん、親の不注意であろう。墓に長男年秋の名が彫られている。それもあってか、大事に育てられたのかも知れない。一子を不注意でなくした親の気持ちは分かるが、だからと言って大事にされ過ぎるのも迷惑であった。

    親子の相性というのはあるのか?好き嫌いはあるかもしれぬが、それを相性といっていいものか?夫婦や恋人に相性はあろう。「君とは相性が合わないから、互いに無理し合うより、無理をしない相手を見つけた方がいい」と女に言ったことがある。相性を否定しただけなのに、「どうしてそんな人を傷つけることしかいえないの」と言われたのにはビックリだった。

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    付き合ってみて相性が合わないからと、別れるカップルもいれば、結婚した後に、「性格の不一致」という理由で別れる夫婦もいる。それを思えば、付き合う前に相性が合わないと感じたわけだから、「とりあえずやってみるか」よりは誠実と思うのだが、相手は嫌われた、非難されたと思ったようだ。早期発見は互いのためと思うが、「やってみなければわからない」という。

    相性が合わないと、片方だけ思ってもそれはダメではないかと。もし相手が、「わたしは相性が悪いとは思わないけど…」と言って見ても、こちらが悪いと思えばうまくは行かない。相手は納得行かないだろうが、合わないものは仕方がないし、別に相手の罪ではない。相手と相性の合う人間はきっといるだろうし、自分が合わないというだけだから悲観することもない。

    強引にそのようないったら、「それって差別よ!」と言われて驚く。「何で差別なのか?」、「男の差別。女性に対する…」。言ってる意味も中身もさっぱり分からなかったが、男の一方的な言い分を彼女は差別と感じたのだろう。世の中にはいろいろな差別があるものだ。と、そう思うしか理解はできず。何事か、勝手に決め付ける女は多く、その意味で相性は悪い。

    「君とは相性が合わない」といえば、「あなたの気にいるような女になる、がんばる…」と言う女もいた。そんなことができるのか?"主体性のない無害のバカ女こそかわいい"、という時代の申し子である。「あなた好みの女になりたい」という歌があったが、そういう性向をもつ女はいる。主体性はなくすべてが依存体質。まるで依存するために生まれてきたような女。


    吉田拓郎の「外は白い雪の夜」に次の歌詞がある。「女はいつでもふた通りさ 男を縛る強い女と 男にすがる弱虫と」と、これは松本隆の詩である。男にすがる女を弱虫という男もナイーブである。女は基本は受身で、依存性向を旨とするが、昨今は男を縛る女がいるらしく、男がそれでいいなら問題ないが、それを嫌う男なら絶対そうならないようにするだろう。

    恋人であれ夫婦であれ、二人の関係の中で協力(協調)すべき点はたくさんあるし、これは譲れない部分もある。協力行動は組織にあって大事な要素だから、家族内や集団間で必要になる。協調すべきはし、個(自身)を大切にすべきところはする。このバランスさえ行っていれば集団生活は問題ない。柔軟性こそ知的であり、人間を自然界の中で独自な存在にしている。

    「この部分は協力できるが、○○については譲れない」とハッキリ言えばいい。自分のスタンスや方針を表す言葉に遠慮してはダメだ。それはむしろ双方の関係を続ける要因であって、我慢は限度を超えると折れて崩壊する。恋人との関係を上手く長くやろうと思ったら、調子がいい時だけを選んで会い、気分が乗らないときは会わなければいい。夫婦と違ってそれができる。

    が、しつこく誘われ、断るとすねる。相手の気持ちを汲まない幼児気質か、女のわがままか、そういう場合に無理に同意して会っても負担を残す。無理を強要され、無理をし、無理がたたれば気持ちは離れていく。愛情とは相手の気持ちを優先することだが、自分を優先させたいエゴ女。もちろん、男にもそういうのはいるだろうが、聞き分けないのは感情気質の女に多い。

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    「自分のわがままを聞いてくれる男は、自分を愛してくれている」。などの勝手な判断をする。それで遣り合ったこともある。「相手の事情や気持ちを汲むのが愛情だろう?」、「…わかってるんだけど、ダメなの」。「それを分かっているとは言わないんだな」。「でもダメなの」。感情重視、感情主体生きるのはいいが、相手を自身の感情の虜にするなら、人は去る。

    傷を乗り越え、内面が成長することで大人になるなら、内面が成長することで傷つかない大人になって行く。人から言われた言葉が、「自分が傷つくに価しない」と思えるようになれば、なんにも傷つかない。少しくらい傷ついたからと自殺するのは、将来成長して傷つかぬ自分にはお目にかかれない。可能性を求め、可能性に期待して、人間は大いに傷つけばいいよ。


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    妻のいう事がいつも正しく、また、夫のいうことがいつも正しいわけではないのに、どちらからどちらかに従えば、慣れかストレスかいずれかになろう。夫口喧嘩の苦手な夫の場合、我慢が蓄積されているのである日突然爆発し、言葉が滞っていた分手も出たりするのが男の性分で、これを機に数カ月後に離婚に至った夫婦がいた。男は元々短期で気の荒い性格だった。

    男は自分の運転するクルマを無謀に追い越すクルマを追っかけ、止めて謝罪させたりの性格である。正当防衛で相手を殴って拳の骨を折ったこともある。そういう男が、慣れない女と一緒に生活をし、減らず口でたたみ掛けてくる妻に、当初は怒る気持ちを何とか鎮めていたが、あまりに傲慢な言い方についにキレてしまう。部屋を片付けないブタ小屋に我慢できなくなったという。

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         「おんどれはオレのクルマを抜いただろ?ザケんじゃね~、ちょいこっちへ来いよ!」


    ある日、仕事から疲れて帰って、散らかった部屋のままでテレビを観てる妻に頭に来たという。いつもそんな状態であったようだが、何度いっても改善しなかったといい、その日は遂に爆発したという。「何だ、このブタ小屋は!いい加減にしろよ!」みたいな喧嘩ごしの言葉しか出なかったという。やさしく言ってダメだから、そのようになる。夫はもう我慢できなかったようだ。

    妻が反論したから殴ったという。中学生の子どもの前での行状である。それ以後は会話がなくなり、陰険でどんよりした空気の中、夫は家に帰りたくないからとやったこともないゴルフ練習場に通うようになったという。それから約半年後、夫は離婚の意思を伝えた。妻も一つ返事だったという。そんなことで離婚になるのか?と思うが、ずっと無言の生活が続けば修復はできない。

    言葉に出さず、溜め込む夫は口に出すときは最後と腹をくくったようだ。短気で喧嘩っぱたい性格を知ってる彼は、結婚生活にガマンという努力を掲げていたようだが、離婚の相談を受けたときに、彼はレストランで人目も憚らず泣き出したのには驚いた。まだ若いんだし、いい女はいるよ」と言ったとき、「○○(妻の名)で上手く行かないんだから、誰とやってもダメでしょう」。

    そういって嗚咽をする彼が、結婚生活でずっと抱えていた複雑な思いが理解できた。妻は一言いえば二言、三言返す性格で、それが嫌だから黙っていたのだろう。自分がキレてこうなった、手を出したのも悪かったと後になって反省はし、「女性に対しては不器用だし、付き合った経験も少ないし…」というが、妻23歳、夫22歳のデキ婚で、結婚12年目の破局であった。

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               普通に見る「ゴミのある風景」であって、誰が見てもゴミなのだが… 

    掃除をしない、部屋がブタ小屋に夫は慣れることができず、仕事で疲れて帰った我が住処に癒されない、落ち着かない、あげくイライラのストレスを溜め込んではどうにも解決の余地はない。あげく、「掃除は妻がしなきゃいけない決まりはないでしょ!」と、こんな言葉を返されたら、蹴飛ばしたくもなる。彼が気に入って購入したマンションがブタ小屋と化すのは耐えられない。

    玄関からのアプローチ廊下を、フローリングから大理石オプションにするくらいに拘ったものの、その廊下に衣類や物が散乱しているだけで、疲れが倍増するだろう。夫が求める最大の癒しは、部屋をキレイにしてあることと、この一点だけ守っていれば、離婚はなかったはずだ。妻のほうは「夫は家族連れ立って何処かへ行く」という人ではなかったといっていた。

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          実はこれが家の中…、室内であったら問題であるが、問題でない住人もいる

    離婚なんていくら後出しじゃんけんを出したところで、勝利はないし、すべては後の祭り。「掃除は妻がしなきゃいけない決まりはない」という言い方は、掃除が好き、部屋をキレイにして生活したい女からは出てこない言葉である。自分がしたくないこと、嫌なことをこのように理屈をつけて正当化するのは、止めるべきだ。もしくはそれを許してくれる相手を探す。

    そんな言葉を吐いて、キレイ好きの夫を丸め込めると思ったら悲惨な結果になる。人は変えられないし、自分が変わるほうが手っ取り早い。自分を変えたくないなら、相手をストレスに追い込むだけど、そのガマンがいつまで続くか、という綱渡り状態である。どうせ言っても何も変わらないと思っていても、その日の虫の居所が悪いときに、爆発することもあり得る。

    キレイとキタナイとどちらがいいと、誰に聞いても答えは同じだ。何も部屋のキレイ・キタナイに限定せずとも、世の中のあらゆるもので、キタナイが好まれることはない。となると、汚い部屋を好む妻は、汚い部屋を好む夫以外の全てに害悪ということになる。それをどのように正当化しようと、無理があるということ。子どもがいうように、「掃除はお父さんがする」。

    というように、我慢ならないから自分でするのだろう。なのに妻は片っ端から散らかしていく。夫がブタ小屋好きに変わるか、妻がブタ小屋好きを止めないかぎり、離婚は避けられない。こんなバカみたいなことが離婚になるという者はいても、自分は十分すぎる離婚の原因と見る。「妻を変えれば夫は幸せになれるか?」ではない。ストレスをきたす妻なら一人がいい。それが離婚だ。

    同じように「夫を変えれば妻は幸せになれるのか?」。この妻はブタ小屋好きの夫を見つけることが何よりである。「恋愛感情など長くて4年」という愛情方程式が科学的に立証されているなら、結婚は愛情というより、日常である。日常=日情という字に変換してもいい。成熟した女性になることが、離婚を回避できるのは、実際離婚した女性の後悔から感じとれる。

    コレといった原因がない夫から婚姻解消を告げられた妻の多くが、「子どもだった」、「自分勝手だった」などという。どちらも選んだ相手である。どちらも成熟した大人であるべきだが、こと離婚に及ぶ夫婦は非成熟な言動多し。理想の王子もいなければ、できた妻などそうそういない。妻を貶すのは選んだ自分を貶すし、夫を貶すのも同じ事。罵り合いに意味はない。

    互いが自分にはない相手の良さを見つけることはしばしばある。が、問題なのは欠点をどうするか…。部屋がすぐにブタ小屋状態にな片付けられないという欠点をもった相手をどうするか?何事も始まりが大事で、最初から気になる事は提示するべき。決して罵り合うのではなく、看過できない重要なことは最初から我慢せずに指摘しておかないと、我慢は許したことになる。

    言われなければ相手は許されていると感じる。数年後に突如問題にしても、ギクシャク感が漂うだけ。人間関係のコツは最初にあるが、経年になると人間関係の機微がいろいろ判るし、後に災いを残さぬために最初から芽を摘むのが「善」となる。そのためには相手を知り、自分を誤魔化さない。このブログも最初から無理をせず、惑わされることなくやっている。

    我慢の限度にもよるが、我慢できそうにないことは最初から我慢しない。最初は好きで後に嫌いになる物もあるが、最初は嫌いで後々好きになるのはいいが、概ね最初から嫌いな物は最初に提示しておくのが後の災いを防ぐことになる。人は変わることもしばしばあるが、変わらないこともある。いい方向に変わるのはいいが、悪く変わる原因を早めに摘んでおく。

    刈り取るのは大変だが、早い段階で新芽を摘み取れる。大火も最初はボヤから始まっている。確かに、明らかに間違った婚姻もある。これも見極めである。昨日の孔子の言葉、「上知と下愚とは移らず」ではないが、最高の知者も最低のバカも、変わらないならどちらも同じで、「変えることが不可能ではなく、自分が変えようとしないかぎり、事は変わらない。」

    「これくらいはいいか」という小さいことも、積もり積もれば許せなくなるからだ。「女だけが掃除をするのは差別、夫もやればいい」という女は、自身ではもっともな言い分だと思っている。差別だの区別だので言い合いになったり、喧嘩になったりは、そもそも人格に欠損がある。こういういい方は奇麗好きでない女の言い分で、汚いのが嫌な女はさっさと奇麗にする。

    奇麗好きな男は最初から奇麗好きの女を見初めた方がいいだろうし、それも相性だ。恋愛と奇麗好きは関係ないかもしれぬが、結婚は大いに関係する。恋愛はいいが、結婚となるとどこまで許容できるかを吟味、判断するしかない。一般的に男女とも自殺者の部屋は汚いというが、何故なのか?特殊清掃人という仕事は、孤独死や自殺した部屋の後始末をするのが彼の職業である。

    ある37歳の女性が自殺した室内はゴミ屋敷であった。自殺をする人の特徴は部屋が汚い。奇麗に整頓された部屋に比べて、汚い部屋だと心も荒む。また、人を招くことも控えるから一人考える時間が増えてしまう。外にも出ないから、深く考え過ぎて自殺を選んでしまう場合が多いとの分析もある。人間は概ね孤独だから人と集う。孤独な人間が一人いるのはよくない。

    整然とされた部屋で自殺するだろうか?そういう部屋で投げやりな気持ちにはなれない気がする。明るく清潔な生活環境が明日への希望を生み出すのではないだろうか?ブタ小屋を奇麗にすると肉が美味しくなるという。実はブタは奇麗好きだが、人間が所詮はブタと勝手に見下している。ブタ小屋を人間が奇麗にすれば、今後、汚い部屋=ブタ小屋といわなくなるだろう。

    夫婦間、男女間で、何かにつけて「差別だ~」という女はいる。女だから役得もあろうが、そういう逆差別的なことに頓着はしない。ネガティブで消極的な人間は、何かにつけて後ろ向きだから、行動そのものを見ていて溌剌感がない。差別だの区別だのと利を漁る人間や、楽をするのが得とばかりの人間は、地域住民の奉仕作業などにも現れ、見てる方がバカげている。


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    小池百合子が突然都知事選に出馬表明した6月29日。寝耳に水の自民党都連関係者は、「奇襲だ」、「驚いた」など困惑が広がり、萩生田光一官房副長官は、「これはテロだ」と語気を強め、安倍首相も激怒したという。無所属なら誰が出馬するも自由だが、政党としての組織票のバックアップを期待する以上、自民党員の小池氏は党にお伺いを立てるのが筋といえる。

    都知事選を受け、都連は17日の会合で候補者の選定を都連執行部に一任することを確認、「これ以上、都民の期待を裏切れない」と、選定は慎重に行うことを決めたばかりだった。都選出の国会議員は、「全員がびっくりだ。自民の議員として出馬するといわれても違和感を覚える、筋も通っていない。信用も信頼も失ったし、自民が応援する流れはなくなった」と語る。

    自治体首長はいえど、党員選挙ではあり得ない今回の出馬表明は一体なぜ?小池氏が出たがっていたのは分かるとして、手順を踏まなかったのは、自分に声がかからないことを見越した奇襲戦法と見る。あの時点で都連執行部は、櫻井俊氏に絞って説得にあたっており、櫻井氏が承諾すれば小池に目はなく、したがって、行動を起こすなら櫻井氏承諾の前ということになる。

    「あなたしかいない。他に候補を立てる予定もなければ候補者もいない」。櫻井氏にはこういう口説き文句であろうが、そこで小池氏が動けば櫻井氏が、「候補は他にもいる」遠慮をし、と説得を受け入れないのではとの目論見があったと考える。小池氏は安倍総理と距離があり、このまま国会議員で埋もれるより都知事選に打って出た方が自身の活躍の場があると判断。

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    おそらくそのあたりは誰かに相談した上でのサプライズと見るが、誰かとは、言うまでもない小泉元総理であろう。こういう常識外の行動を推し進める人物は小泉をおいてない。小池氏は記者会見で、「自民党議員として出馬する」、「離党はしない」と何度も強調し、都連や党本部に支援を要請する意向を表明した。「絶対に離党はするな。党員で通せ」も小泉の助言だろう。

    「自民党員が出馬するというのを、党が公認しないというのは筋が通らない」というのが小泉流思考である。自民党都連が勧める元岩手県知事の増田寛也氏は、国政選挙の経験もなく、第1次安倍改造内閣~福田康夫内閣~福田康夫改造内閣で特命担当大臣(第8代-第9代総務大臣)を歴任したが、一貫して無所属である。に引き換え小池氏は、列記とした自民党員である。

    自ら筋書きを書いておきながら小泉は小池に、「度胸があるね~」などと白々しい。禁じ手立候補に都連や党幹部は小池氏に反発はするだろうが、党員であることで、最終的には消去法的に推されるという読みがあるのではないか。万が一筋書き通りにいかない場合は、都民の支持を受けて選出されればいい。都連幹部の困惑は、自民党が分裂していると見られることだ。

    小池氏は2012年9月の総裁選で、石破茂さんを支持してからというもの、安倍政権では冷遇状態。そういう中、舛添氏の辞任は小池氏にとって降って湧いたようなチャンスだった。舛添氏が任期の18年2月まで都知事を全うしていれば、小池氏に、"次の都知事候補"としてお鉢が回ってくることもなかったはずで、まさに『千載一遇の好機』と捉え、小泉の知恵を頼った。

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    好人物で穏健そうな櫻井氏なら、党員である小池氏の対抗馬として都知事選を戦う意欲はなかったろう、というのも小泉の読みである。是が非でももやりたい人間ならともかくその気のない櫻井氏はあっさり辞退。意気をあげた小池氏は、6日の出馬会見で早速3つの公約をブチあげた。①都議会の冒頭解散、②利権追及、③舛添問題の第三者委員会設置というものだった。

    知事当選後にいきなり都議会の冒頭解散する?可能か否かは別にして、小池氏の都民に向けて以下のアピールをした。「都民目線の信頼を回復するために、都議会を冒頭解散したいと思う。よく分裂選挙といわれるが、分裂は都議会自民党と都民との間の分裂ではないかと思う。民心が離れては都民に寄り添った温かい政策は遂行されない。都民の声を聞いてみましょう。」

    議会解散は内閣総理大臣の専権事項で、都知事にそのような権限はなく、したがって冒頭解散を行うために都議会に不信任(決議案)を出せと煽っているのだが、このような高飛車な物言いをする人間を都議会が許そうハズがない。といいたいところだが、都知事は議員内閣制のように都議会議員に選出されるのではなく、都民による選挙である。まさに大統領選挙そのものだ。

    この公約に対する都連幹部の怒りは凄まじい。ある自民党の都議は、「全面戦争をするつもりか」と疑問の声が噴出した。都政改革で、「小池氏 vs 抵抗勢力の都議会」の構図を狙ったとの見方も出ており、今後4年間の首都のリーダーを決める都知事選が、劇場化の様相を呈することへの懸念も広がった。対立の図式と、劇場化といえば、郵政解散の「小泉劇場」を思い出す。

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    公明党のある都議も、「いきなり『解散』と言われても…。自民党の内輪もめが原因ですよね」と面食らった様子。その上で、「何かを悪者にして、それと戦う自分を正当化するのは、郵政選挙で行った小泉元首相と同じ手法だ」と指摘する。あの時の小泉は「自民党をぶっ潰す」と息巻いた。「郵政民営化に反対するのは抵抗勢力とみなし、公認をしない」とまで言った。

    小泉純一郎という人間は、頭がいいというより知恵の働く男で、その意味で秀才とは別の頭の良さがある。その小泉を絶対に許さない男が亀井静香。亀井は2014年9月18日放送の「ニュースの巨人」(TBS系)に出演、小泉とのあるエピソードを紹介した。2001年の自民党総裁選挙に立候補を表明していた亀井だったが、総裁候補の小泉が総裁選の応援を亀井氏に要請。

    亀井は小泉と政策協定を結び、亀井が出馬を辞退。その亀井の応援で小泉が自民党総裁になったという経緯がある。もともと同じ派閥に属していたことから仲が良かったという亀井と小泉だが、政策協定について小泉氏とは書面まで交わし、さらに小泉は「俺が総理になったらね、100%亀ちゃん(亀井)の言うとおりにするから協力してくれ」と、持ちかけたという。

    ところが総理になった小泉は、政策協定とは全く異なる政策を断行し始め、亀井は小泉に裏切られた形となる。憤懣やるせない亀井氏は、数度官邸に乗り込んで小泉に直談判したが、「亀ちゃん、そうそう」、「そのうちやる、そのうちやる」と言って、「最後はオンナの話ばっかし…」と亀井氏。(そんな小泉の裏切りに)キャスター上田晋也が「頭にきませんでした?」と問う。

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    亀井は、「頭にくると言ったところで、ぶっ殺すわけに遺憾でしょ?」と答えた。そんな亀井は結局、小泉が推し進めた郵政民営化に徹底反対し、そのことで自民党を離党する。「自分が首相になったら、あなた(亀井)が首相になったのと同じ。実際の首相はあなたなんだ」と、小泉は亀井をタラしたという。騙された亀井は自らを悔やみ、小泉を恨むことはなかった。

    まさに政界は魑魅魍魎と言わんばかりに、亀井は小泉を高く評した。「変わった人だろうけど、天才だね。そういう方でないと時代は動かせなかった。俺みたいな凡人じゃ難しい」と話し、小泉氏の政治家としての判断力が時代を動かしたのだと語った。評論家の田原総一郎は後にその経緯について小泉に問いただした。「あなたは首相になったけど、人間的に問題では?」

    小泉は悪びれずにこう言った。「そのとおり、まさにおっしゃるとおり人間的に問題あり。だけど…、権力とはそういうもの」。「人間的に問題あり」といわれて、「まさにそのとおり!」と言える政治家が小泉以外にいるだろうか?「そんなことはない。だけど権力とは…」などと否定の肯定をするが、小泉流は肯定の肯定をやる。これだと相手は突っ込みどころがない。

    つまらぬ自尊心を捨てて何を言われても肯定し、肯定の理由を述べて相手を牛耳るのは、ジゴロが女性を口説く手法。「あなたってバカなの?」、「そのとおり、まさバカです。でも、バカだから一途だしあなたへの愛は誰にも負けません」。「あなたは私の身体が目的でしょう?」、「そのとおり!あなたとフィジカルコミュニケーションできたら幸せだ~。」

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    女性を口説く際は、つまらぬ自尊心を捨て、相手を持ち上げるに限る。小泉はそれで亀井をいい気分にさせ、「人間的に問題!」と言われた田原には、次の言葉を出させなかった。もし、小泉が「人間的に問題!」という言葉に立腹したり、拘ったりしていたら、相手に一本取らせたことになる。肯定の肯定は、否定の肯定より説得力を持つのを小泉は知っていた。

    森総理の退陣を受けた2001年の総裁選は、小泉の出馬でこれまでにない様相を呈していた。これまでの総裁選はすべて経世会(旧田中派)か、経世会の全面的支援を受けた人間の出馬であった。これは田中が闇将軍として政界を仕切っていたことに通ずる。経世会からは当然ながら橋本龍太郎が立候補した。小泉と同じ森派の大番頭中川秀直はその事を危惧し田原に伺いを立てた。

    田原は冗談半分で言った。「小泉が経世会と正面から喧嘩するというなら支持してもいい。が、経世会とまともに喧嘩したら暗殺される可能性もある」。中川は半分同意、「田原さん、それを小泉に直接言ってよ」と、小泉を同席の料亭に呼び出した。田原は小泉に同じ事を言ったところ、「殺されてもやる」といったという。さらに小泉は田原を驚かせる発言をした。

    「経世会と喧嘩するとか、経世会を潰すとか、そんなことじゃない。自分は自民党をぶっ潰す覚悟でやる」。田原は小泉の言葉に度肝を抜かれたと同時に、小泉の度胸と首相けの執念を垣間見た。総裁選は亀井が小泉が自分の政策を引き継ぐことで本選から辞退したが、大方の予測では橋本龍太郎が議員票で他候補を上回り、総理返り咲きが有力となっていた。ところが…

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    小泉陣営に新しい風が吹き、予測が一変する。田中眞紀子が小泉陣営の応援演説を買って出た。このことが切っ掛けとなり、地方票で小泉が橋龍を上回って当選してしまった。当選した小泉は功労者田中を外務大臣に据えた。その後小泉は田中を更迭、田中もまた自民党を去って行く。その後長期政権と繋がった小泉純一郎は、日本をダメにした総理と名指しされている。

    評論家立花隆は「小泉政権の下で進行した改革により、戦後民主主義で当たり前ととされた、平等・平和などの大原則が、なし崩し的に葬り去られ、弱肉強食の競争原理がもてはやされるようになった」とし、「強いものが勝ち、彼らに富が蓄積されるような格差社会が当然と考えられるようになり、社会の弱い層に痛みを徹底的に押し付けてしまった」と、語っている。

    小泉自身も、総理時代の増税改革路線が失敗であったことを認めている。今回の小池劇場を主導したと思われる小泉だが、自民党をぶっ壊すどころか、日本をぶっ壊した張本人として表にでない様相を示したが、退陣から10年、ほとぼりが冷めたかちらほら姿を見、声を聞く。党内では浮いても民意の支持をバックに人気を得た小泉流だが、果たして小池を都民が支持するか?

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    参院選より都知事選が興味深い。石田純一の名には驚きもし、驚きもせず…。所詮は目立ちたがりの芸能人であるからだ。それより久々に彼の素足の革靴を見た。石田は芸能界きってのイタリア好きで、ナポリまでピッツァ・マルゲリータの発祥の店「Brandi」へ足を運んだという。素足に革靴を意識し始めたのは、以前ミラノでスリッポンに素足のファッションが流行した事に遡る。

    素足に革靴といえばラモスもだが、知名度で石田の持ちネタになっている。短めのパンツに素足に革靴というのも、新しい形の東京都知事かもしれない。今回、猪瀬元知事が実名告発したように、"伏魔殿"都庁と都議会に小池氏が本気で対決するつもりなら、彼女やる気を買いたい。どうも男では尻ごみするし、ならばいっそしたたか女の方が適任かも知れない。

    猪瀬氏の告発の意図は、自民党都連を向こうに回し、都知事選立候補を表明した小池氏への警告とエールと分析されている。都議会自民党の内田茂自民党都連幹事長は、既得権益の権化として都議会に十数年君臨するドンと呼ばれている。自民党都連会長は石原伸晃だが、会長は帽子で国会議員や都議会の公認権は都連幹事長の内田が握っている。

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    ウミが溜まりに溜まり、正常な議会運営がなされていないようなら、小泉純一郎の「自民党をぶっ潰す」という威勢のいいリーダーが必要と思われる。石原、猪瀬、舛添氏らはその任に有らずで、自民都連が推す増田氏は抱きこまれるだけで、彼に「任」の「に」の字も期待できない。橋下氏も間接的にエールを贈るが、それほど議会と対決するのは至難のようだ。

    小泉劇場はポピュリズムをバックに、日本をダメにした超戦犯とされるが、小池氏が本気で都議会と対決姿勢を示すなら、彼女の都知事を傍観してみたい。意気込みはあっても多勢に無勢、猪瀬や橋下のエールは懸念であろう。重鎮や老害に対抗するのは難しく、外野としては事の成り行きを静観するしかないが、変革はイイことだから小池氏の頑張りに期待したい。

    堅い話はさておき、石田の素足の話を膨らませてみる。「素足」、「裸足」、「生足」の違いは?ちょいと考えればわかるが、裸足は何も履いていない足、何も履かずに地面を歩く。素足は、靴下や足袋などを履かないこと。つまり石田純一状態の足。生足は、以前はなかった言葉で、ストッキングなどを履いていない女性の足のえぐい言い方。生脚とも書き、男には使わない。

    素足に靴下を履くとはいうものの、裸足に靴下を履くといわない。裸足で外を歩くというが、素足で歩くといわない。足首の隠れる靴下を履いても腿がでていれば生足というが、レギンスなどを履いて、足首以下が見えるのは生足といわない。膝から下の長靴下を履いていても、脚の露出が多いスカートなどで肌を晒している場合は、と言う。生足とは男のエロチシズムであろう。

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    ♪えくぼの秘密あげたいわ もぎたての青い風

    松田聖子のデビューシングル『裸足の季節』のサビは印象的だ。えくぼの秘密って一体なんじゃい?友人とあれこれ言い合ったのを思い出す。どちらからともなく、妙(?)な言葉を肴にアレコレ言い合うのも知的ゲームだろう。それは子どもの頃の、「鉄腕アトムはなぜ海水パンツをはいているのか?」、「アトムは何も履いてない、あれはペンキで塗っているだけ」に遡る。

    答えのない自己主張合戦は、当時「ディベート」という言葉のない時代の、「ディベート」であったかも知れない。そういえば、山口百恵のデビューあたりの曲に、「あなたがのぞむなら、わたし何をされてもいいわ」(『青い果実』)、「あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ」(『ひと夏の経験』)などのきわどい歌詞が、「青い性典」路線として売り出された。

    辺見マリが、「やめて~」(『経験』)、青江三奈が『伊勢佐木町ブルース』で、アクメな声を発するのとは違って百恵はローティーンである。この辺りから十代女性は外交的快活的に変貌していったのかもしれない。文化はメディアによって主導されていく。男同士で、「わたし何をされてもいい」、「女の子の一番大切なもの」について言い合ったり、取り上げる事はない。

    そんなもん分かっていることで、「何をされてもいいのって、何を?」とか、「女の子の一番大切なものって何だ?」は、女性に問いかける方がオモシロかった。当時はまだ奥床しき女性の宝庫の時代でもあり、そういう問いを歪めて考えること自体に抵抗があったのか、真面目に受け取り、真面目に考える様子そのものが可笑しかったが、なんともナイーブな時代である。

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    卑猥な問いに真面目に答えることこそ、真面目さの自負であったのだろう。女性は真面目であることが、なにより女性らしさの証明であったのだ。「晩生(おくて)」というより、性的な思考を自己規制で排除する。「女の子のいちばん大切なものって何?」と問われた百恵が、「真心」と答えていたように…。後年彼女は、「処女って言わせたかったんでしょう?」と言った。

    「カマトト」とは、知ってるのに知らないフリをすることだが、女性はカマトトであるべきだった。それが男の物足りなさでありつつも、男にとっての女性らしさの、「証」という二律背反でもある。とかく男は女という生き物に二律背反を求めるところがある。「あるもの」を、「ある」というより、「あるもの」を「ない」という女性の嘘を許容し、責め立てないのが男である。

    あの時代は女性に性体験を聞くと、バカ正直な女性以外なら、「したことないです。」と答えるのが、いわばセオリーであったように。傑作なのはそれで離婚になるというのも、笑い話ではなく本当に起こっていた。「君は処女だといったじゃないか」と言われて処女でなかった女性はどう答えたのか?「ごめんなさい」なのか、「あの時はついそう言ってしまいました」なのか。

    処女であることは、女性の貞操観念が高いということであり、それが女性の価値を高めてもいた。純潔教育が主導され、われわれもそういう教育を受けていた時代において、女性の価値観はそういうものであった。みだりに肌を露出してはならない、みだりに男に身体を許してはならないというのは、女性の漲る性欲を押し殺させていた男の傲慢であったということだ。

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    女性は商品であった。バーゲンセールではなく、特選品である事を求められた。それが、「あなたが望むならわたし何をされてもいいわ」とか、「あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ」とかを15歳の少女に歌わせることが、どれだけカルチャーショックであり、そのカルチャーショックは、ひとたび公になった途端、ショックでも何でもなく、当たり前となる。

    時代はそのようにして変貌していくのだろう。多くのことは、「コペルニクス的転回」で異端な事象が当たり前に収まっていく。太陽が地球の周りを回っている時代に、「地球が太陽を回っているのだ」が、どれだけ異端であったか。「人間は神の創造にあらず、猿が進化したもの」、「宇宙は膨張する」、「重力は空間を歪める」などの理論が、どれだけ奇抜であったか。

    「性欲は男だけのもの、女性にはない」というのが純潔教育によって無理やり定義されていった。性欲を覚える女性は異質(?)な自分にどれだけ苦悩した事であろう。だからか、女性に表と裏の顔があった。女性は男に童貞を望まないのに、少なくなったとはいえ、なぜ男は女性に処女を求めるのか?ハッキリいえるのは、恋愛経験の少ない男の幼児性だろう。

    成熟な女性よりも未完で未熟な女性を嗜好するのは、ロリコン男やAKB48に群がる未成熟な男もしくは、しがない中高年男の若さへの憧憬である。ところで、「えくぼの秘密」だが、中国には、「えくぼ」伝説というのがある。ロマンチックな話なので以下記す。人間は死ぬと冥界へ行くが、冥界の入り口鬼門関を抜けると、すぐに黄泉路がある。黄泉路には彼岸花がいっぱい咲いている。

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    路はずれに、「忘川河」という河があり、河には、「奈河橋」が架かり、橋の上には、「孟婆」という女が番人をし、ここを通り過ぎる人に、「孟婆スープ」を飲ませる。「孟婆スープ」は別名、「忘情水」といい、飲むと前世も今生も忘れ、自分の一生における愛、恨み、情、仇などの一世代の浮沈や得失がスープを飲むことで忘れ去られ、心を無にして転生する。

    楽しかった思い出、辛く切ない記憶は消え、かつて愛した人や遺恨を抱いた人に来世で遇っても、互いに何の関係もない人になってしまえるのだ。したがって、安らかに転生したいのであればこのスープを飲めばいいが、愛する人との思い出を忘れず、来世にて出逢いたいと願う者は、「孟婆スープ」を飲まず、「奈河橋」から「忘川河」へ身を投げなければならない。

    氷のように冷たい、「忘川河」の水の中で、1000年もの月日を試練として過ごした者は、前世の記憶を授けられて輪廻をする。試練に耐えた印である、「えくぼ」を顔につけられ、前世の恋人を探すことになる。もし周りに、「えくぼ」のある人がいるなら前生の恋人であり、だから大切にすべし。再びあなたに遇うため、寂しくも苦しい千年を待っていたのだから…。

    松田聖子『裸足の季節』にある、「えくぼの秘密」とはそういうことだ。えくぼを持つ前世の恋人を探すということ。えくぼの芸能人で検索したが、最近の女性は名前も顔も知らん。昔だと、田代みどり、田中美佐子などが浮かぶ。ところで何で、「えくぼ」というのかと思いきや、漢字で、「笑窪」と表記するのを始めて知った。なるほど、笑って窪みとはまさにそのまんま…

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    石原はダンマリ、舛添もダンマリ、そんな"伏魔殿"都議会に猪瀬が口火を切った理由は、内田茂自民党都連幹事長との確執もあるといわれるが、そうであっても、蓋をとらなかった石原・舛添に比べて猪瀬は蓋を取った。小池はそんな都議会との対決姿勢を現したが、かつて外務省を"伏魔殿"と評した田中眞紀子が、土足で入り込んでしっぺ返しを食らった経緯がある。

    「自民党をぶっ壊す」で首相になった小泉が、「都議会をぶっ壊す」方法を小池にどうアドバイスするのか興味津々だ。何気に幼稚園等で取り入れられている、「裸足教育」を思い浮かべた。足の裏にはいくつものよい刺激があるという。石田純一の素足はともかく、土足で向かって行った田中眞紀子より、小泉流の柔軟な発想と、自然体としての裸足で、"伏魔殿"入りはどうか?


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  • 07/12/16--05:45: 素足に革靴のなぜ?

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    世にさまざまな疑問はあるが、最近は見なくなった夏にブーツ、アレって何だったのか?季節はずれの怪?というなら、冬にミニを履くのも男的には不思議だが、女性がいうには、スカートの丈は暑さ寒さに関係ないという。履きたいミニなら南極でも履けばいいし、凍えて死んでも本望だろう。女の事は分らないままでいいけれど、男の、"素足に革靴"ってのはどうなんだ?

    靴下の効用というのは、誰に教わらなくとも自然に分かる事。なぜなら、素足に革靴を履いてみれば、靴下の有り難さが分かろう。それなのに、ああ、それなのに…、なぜ、石田純一は素足に革靴なのか?石田に限らず、素足に革靴の男はどういう利点、メリットを感じているのだろか?素足に革靴の前に、夏にブーツの理由というのがあって、そこから考察をしてみよう。

    ◎海外では、夏でもおしゃれのひとつとして普通にブーツを履いています!
    ◎靴の中は蒸れるが、どんなに汗だくで蒸れても革の臭いだけ、全く異臭はない。
    ◎夏だからこそブーツを履く!単調な夏のファッションにブーツでアクセント。
    ◎足が奇麗に細く見える♪…らしい。
    ◎短いスカートやパンツを履きたいので、ブーツの方がバランスが良い。

    「蒸れる?」については全員が「蒸れる」。でも、蒸れようが暑かろうが「可愛い」から履く、というのが最大の理由。南極でミニを履かないのは、ペンギンしかいないからオシャレのしがいがないと。確かに…。夏にブーツの女性を奇異にみるでなく、クソ暑いのにオシャレを頑張ってるんだと思ってあげる。夏にブーツの女性を「あんたバカ?」でなく、「あんたはエライ」。

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    ある女性はおっさんに、「この暑いのに何履いとんじゃ!」と、オシッコちびるくらいに怒鳴られたというが、いうまでもない。怒るほうがおかしい。これは立派な人権侵害である。だから負けずに一言。「ブーツを防寒靴と思ってるバカオヤジはとっとと失せろ!」と言うのはいかがでしょうか?自分が正しいと思って言ってるオヤジは、反論されるとむかつくだろう。

    そこでも、「勝手にむかついてろ」と思うことだ。白い服は汚れが目立つから着ないという人間も、寒いのにミニなんか履くんじゃないよも、クソ暑いのにブーツ履くバカ、という人間も、時代錯誤のバカと思えばいいだけの話。ビートルズ世代の自分達はクソオヤジたちに言われた。「男のくせに何だその髪は、キンタマあるんか?」。言い返さなかったし、返す必要もなかった。

    靴下の効用は誰もが知るものの、素足に靴の良さってカッコ以外に何があるのか?素足のまま靴を履く効用ってのがあるのかないのか、素朴な疑問である。御本家というわけでもないが、とりあえず、石田純一がどういう理由で素足に靴なのかを、語ってもらうしかない。「素足に靴、のきっかけは、1985年(昭和60年)だったかな、イタリア・ミラノで見かけたサラリーマンです。

    地下鉄だったと思うのですが、出てきて階段を上がってきたサラリーマンの格好がね、デニムにジャケット、それに素足にローファーだった。『わっ、カッコいい!』って思って…。それからそのスタイルを続けています。ぼくは冬もはかないですよ。もう14、5年前のことですかね。沖縄でプロゴルファーの宮里3兄妹とスポーツジムで一緒に運動していたときでした。

    イメージ 3小学生たちが、『あっ、石田純一!』とやってきて、ズボンをまくり上げたんです。そのときは靴下を履いてて、ずいぶんがっかりされちゃった。それで3兄妹に、「夢を壊すから、靴下は履かないで」と言われました(笑)。なので冬も履かない。ようするにやせ我慢です。でもね、世間がもつ自分へのイメージと、それとは違う自分、というギャップを楽しみたいとも思っています。」

    「ふ~ん、なるほど」。彼の言い分と言うのは、ようはカッコと、やせ我慢と、イメージということか。芸能人だからそういうものを大事にするってことだな。靴下を履かない石田純一こそ、真の石田純一ということだ。さらにこんなことも言っている。「最近、ちょっと不思議なことがありました。息子の理汰郎が2歳なんですが、普通のキャンバス地のスニーカーのような靴より、革靴を履きたがるんです。信じられない。

    しかも、靴下は履かないんですよ。ぼくが「履きなさい」と言っていつも履かせているんです(笑)。でも靴下をぽーんと脱ぎ捨てます。そんなところが遺伝するのかとびっくりしています」。「ふ~ん」。言葉を返すようだが、「素足に靴が、遺伝するわきゃないだろが!」ま、こういうのが親バカっていうんだろう。自分に似てると思いたい、2歳児の素足で革靴を喜ぶバカ父。

    もはや重症の親バカだが、お好きにどうぞ。素足に靴ってのは、衛生面から言って何にもいいことはない。革靴だけではない、スニーカー、スリッポン、ローファーどれも同じという。理由は、「とにかく臭い!」。当たり前だが、靴の中が蒸れて臭くなる!これに悩んでる人も少なくはないはずだし、悩むくらいなら靴下履けばいいと思うのだが、くっさいのが好きなのかい?

    さらには靴擦れする。靴下を履いていても靴擦れすることもあるのに、履かないと靴擦れしやすいのは当たり前だのクラッカー。股ズレは関係ないようだ。まさか、パンツ履かないと股ズレしやすいってこともないだろう。何にしても臭くなり原因は雑菌の繁殖だ。雑巾や布巾の生乾きが臭いのも雑菌の繁殖が原因であるように、靴下履かない人の足は雑菌の宝庫。くれぐれも舐めないように。

    さらに生理学的には顔色が悪くなるという。そのメカニズムは以下の理由による。素足に靴を履くと体がどんどん冷えてしまって、結果的に顔色が悪くなってしまうという。体が冷えると胃腸の消化吸収力が低下し、血液を作り出すための栄養が不足して、貧血を引き起こしやすくなる。貧血になると、めまいや立ちくらみのほか、顔色や唇の色が悪くなる症状が現れる。

    イメージ 4これらの解決策は簡単で、「靴下を履く」。さらには毎日同じ靴を履くのは止め、しっかり乾燥させて何日かおいて履く。最終兵器としはデオドラントスプレーを使う。これで放たれる臭いを徹底的にシャットアウト!足が臭い人って思われないためにも…。おそらく石田純一の足は猛烈に臭いハズだ。誰か聞いてみたらいい。彼は正直だから「ええ、臭いです」というだろう。

    オシャレより健康第一と思うが、世の中にはオシャレ第一の人もいる。どうしても素足に靴という感じに見せたいなら、「ローファーソックス」という手もあろう。近年は、"Cool Max"仕様というのもあり、普通のソックスと比べてみると蒸れ感が少ないようだ。ローファーソックスを履くことで、断然素足よりも快適、蒸れない、靴擦れしない、臭わないの一石4鳥。

    素足肯定派の意見はこうだ。靴下が見えるとダサい、蒸れてクサクサになるのがオシャレ。大そうな意見とは思えないが、どうしても素足に靴を履きたい人は、理由も意見もいいから履けばよい。靴下履く派は、履きたいから履く。履きたくない派は、履きたくないから履かない。それで十分。石田純一がどうであれ、イタリア人がどうであれ、関係ない。影響受ける人は受けたらいい。

    それにしても広島カープは強い。強いし、強すぎる。断トツで2位に11ゲーム差の貯金は20。広島県人は広島賢人というわけではないが、カープが調子いいと、胃腸も体調も調子いい。先ほど野球が終った。明日は黒田が200勝する。雨で中止でなければ…。広島カープで唯一200勝投手は北別府に次いで2人目ということ。明日もマツダスタジアムは、赤一色に染まる。


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    以前にも書いたように思うが、ブログのタイトル「死ぬまで生きよう」は、迷わずにあっさり決めた。10年も前の事はおぼろげになって行くが、考えて決めたタイトルでない事だけは覚えている。5秒か、10秒か、そんな感じでさっと決めた。先ほど他界した永六輔がこんなようなことを書いている。「死ぬと思うから死が切ないのであって、先に行って来ると思えばいいのだ」と。

    人は確かに死ぬが、「死ぬまで生きる」ではなく、「死ぬまで生きよう」というのは、歴然とある死に対する呼びかけだ。自分は絶対に自殺しない自信がある。その理由は、命の値段はとても高価で、こんな自分の命であっても、命の値段はお金に換算できない程に高価。お金に換算などできっこないと言った方が正しい。なぜなら、天文学的な額のお金を積まれても命は売らない。

    億どころか、何兆円積まれても売る気はない。他の人はどうか分らないが、使えない金を貰って、それを何かに役に立てようと命を売る人はいるのだろうか?他人の価値観だから、そういう奇特な人が居てもいいが、命を役立てる心掛けは立派であれど、立派もいろいろで、見習う気もない「立派」もある。斯くの場合の「立派」は、「自分には出来ない」との但し書きがつく。

    「何億貰って死ぬなんて、バカでないのか?」という人もいようが、自分はそうは思わない。囚われの身の親族・家族の身代わりになるのと類似行為と感じられるし、自らの命を賭して役立てる何かがあるのが凄い。我が子が囚われの身なら、自分の命と交換に我が子を救いたい、それが親であろう。極端な例だが、命は命と交換すべきだが、お金と交換するのはどうなのか?

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    親の子に対する最大の義務は、立派でなくともいいが、まともな社会人として世に出せるよう育てることか。教育(躾)とはそのためにすべきものだ。教育は子どもの幸せのためとする親もいるが、幸せとは何かについての価値や基準は、個々の親によって違うし、個々の子どもによっても違う。が、「まともな社会人」という価値は、人間が社会的動物である故の普遍価値である。

    「まともな社会人」などというが、「まとも」とは何?「まじめ」と「まとも」は違うし、社会生活を営む上での最低限の基本。決まりを守り、他人と協調し、人に迷惑がかからぬようにする。これが正しいかどうかを考えるなら、決まりを守らず、他者と協調せず、他者に迷惑をかけると、比較してみる事だ。同じようにこうも考えられる。勉強「できる」、「できない」どっちがいい?

    我が子が勉強できる事を望まぬ親はいない。それが幸せの近道と信じるからだ。「いや、勉強なんかそこそこ出来たらそれでいい」という親も子どもの幸せを願っている。勉強のできる秀才であっても、他人に迷惑をかけて平気なのもいる。勉強以外のスポーツや芸事に重きを置く親もいる。子どもの能力や主体性から親が追従するのか、能力や主体性とは無関係に親の先導なのか。

    強制はしたくない。子どもの自主性を尊重してやりたいという親もいる。自分はこのタイプである。理由はここでいろいろ述べたが、勉強ができるというのはテスト能力に過ぎない。それを学力というなら、生きる力という実務能力も大事である。長女が小4の時、何気に中学受験の国語の問題集を買ってみた持ち帰って中身を開き、腹が立った時の記憶は鮮明に覚えている。

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    「何でこんなことを今、覚えなきゃならないのか?」と、機械的な記憶のバカバカしさに腹が立ち、問題集を即ゴミ箱に捨てた。それがすべてであった。テスト能力などは所詮テスト能力である。ペーパーテストで計られる能力もないとはいわないが、それがビジネス的社会環境の場において、相当の比重を占める能力だとは誰も思っていない。実務能力の例は明治維新が示す。

    維新の原動力となったのはいずれも下級武士。坂本龍馬など、一人前の武士として扱ってもらえない階層出身である。吉田松陰の「松下村塾」では何を教えた?松下村塾は教科書として、「武教全書」を用いている。「武教全書」は儒学者の山鹿素行によって著された兵学書で、軍隊の統制法、主戦、客戦、攻城、守城などの戦法、築城や兵具などの軍事技術百科。

    また、「武士としての振る舞い」などにも触れられ、道徳観なども織り込まれていた。ただ、松下村塾の優れた点は、「教科書」にあるのではなく、その教育の目的にあった。秀逸なのは、「人の育て方」である。基本的には短所改善でなく、長所を活かすことのみを考えた。さらに、「自分(吉田松陰)と同じような人間を作らない」ことに特に留意したこと。

    これは結果的に多様性を生み出すことにつながり、様々なタイプの英雄を輩出することになる。この時代の教育目的と現代では違うといえば違うが、教育の理念や基本的な目的が、淡く世知辛いものになった感は否めない。ただただ多くの事を覚えることに専念する教育が、エリートを作る土壌になっている。エリートさえいればいいという政策は社会を衰退させるだろう。

    イメージ 3200年ほどの歴史を振り返ってみるに、庶民の頑張りが目立った時代ばかりで、エリートの活躍が目につく時代はない。せいぜい高度経済成長期に、官僚の舵取りがよかったという程度で、この国は庶民の頑張りでやってきた。日本人の一生は、最初の20年は家庭で扶養され、次の40~50年は働く時期となる。さらに残りの数十年は社会的に扶養される時期であろう。

    つまり、働く世代が前半と後半を支える仕組みになっていえう。これが世代別にみた日本社会構造である。今後はますます少子高齢化が進むことになる。支配階級ばかりを親が目指すのはいいが、誰もが支配階級にはなれないし、それほどの定員もない。支配階級を目指して落ちこぼれた人間が、しぶしぶ労務者階級となって不満タラタラで働くことになるのだ。

    高度経済成長期の親は子どもに高望みをせず、子どもの頭の程度をちゃんと把握していた。ところが、ネコも杓子も塾に行き、そこで成績が伸びるとつい親も舞い上がる。昔のように「あんたは勉強嫌いでバカだから、手に職でもつけた方がいいね」昔はいたそんな親も教師も今は少ない。バカでも大学に行けばハクがつくと思っている。希望はいいけれども、現実はシビアだ。

    テスト能力より、実務能力が社会を動かしていく。今の時代に高度経済成長期のような、社風とでもいうのか、しっかりした組織で、びっしり縦の線で動くような人間関係ではなくなっている。平社員は係長の、係長は課長の、課長は部長の指示命令を文句もいわずに従うだろうか?誰が、勉強漬けの無能インテリ上司を信頼するだろうか?それがこんにちの管理職の苦悩である。

    立派なエリートもいなくはないが、むしろ例外で多くはダメ人間。なぜなら、自らの努力で地位を得た者は、自分で代償を払っている分、地位に見合った責任感も持つ。が、然したる努力もなくして地位を受け継いだ者は、最初からその地位に預かり責任感ももたない。というように、エリート教育の弊害もしくは、二世、三世といった世襲会社は、責任感も意欲も薄れ没落していく。

    「子に美田を残すな」ではないが、エリート教育に嵌めこもうとする親より、努力を惜しまぬ子に照準を合わせて育てる環境が、逞しい子どもを作る。何は無くても人間は逞しさではないか。今の家庭教育は、逞しさより賢さを求めているようだ。それも周囲と競り合いだけの付け焼刃的な賢さで、絶対的な頭の良さを子どもに求めてない。乱塾が日本をダメにした。

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    何事も自ら思考し、自らが答えを出すような子など誰も求めていない。有能な吉田松陰といえども、自分のコピーを作ろうとしなかったが、今の若者の多くは体系化された学問の申し子だから、ほとんどがコピー人間でつまらない。すぐに答えを教える教育の弊害と感じている。結果がでるまでに何十年とかかる教育だけに、親はついつい、「今でしょ!」に頼る。

    「今でしょ」を当地の古い言葉でいえば、「今でがんしょ」。「でかんしょ節」という歌は丹波篠山地方の方言で、「でかんしょ」=「でございましょう」であるらしく、当地の「でがんしょ」とほぼ同じ。明治時代末から大正時代にかけて大流行した「でかんしょ節」は、「デカルト」、「カント」、「ショーペンハウエル」という哲学者3人の名前を繋げたものだと言われていた。

    小説家でエッセイスト、精神科医、医学博士の北杜夫の著書『どくとるマンボウ青春記』にもそう書いてある。北杜夫は本名を斉藤宗吉といい、父は斎藤茂吉、兄に斎藤茂太がいる。斎藤茂太の遺作、『自分らしく生きて死ぬ知恵』に、「人生は平凡こそが尊い、60点で丁度よい」とある。茂太は長いこと人生80点主義だったが、晩年は60点主義に成熟した。

    80点だと日本人の生真面目さが出て、「もうちょっとで100点」とつい頑張ってしまいかねない。若い頃と同じ考えでは健康につつがなく人生を送れないし、歳をとったなりに相応の考え方に成熟させるのがよいという。「カレーハウスCoCo壱番屋」の廃棄カツを横流しした3人はそれぞれ、75歳、76歳、78歳である。年をとってもカネに汚い人間の節操の無さというしかない。

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    「本当にしなければいけないことなど、何もない」と茂太がいうように、自分を縛らず、締め付けず、あるがままに生きるのが理想である。完璧な人間はいないのだから、見栄を張らず、ぞんざいに、自由に生きるのが人生の楽しみ方ではないか。完全を求めて不満を募らせるより、不完全なものの貴重さを楽しむ。これは親が子に完全を求めないことにも通じるハズだ。

    「完全」、「完璧」を求められる子どもの身になってみろだ。「でかんしょ節」のように、大らかに、人生の半分は遊んで暮らす。それこそ一回ぽっきりの人生ではないかと…。過去を悔いる人は今を楽しめない。「自分のような無学なもの」、「あんまり勉強しなかった」など、言うも書くも嫌味でしかない。他人から見た自分を止めて、自ら楽しく生きたらいい。


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    ある事について「関心がない」、「興味がない」というのは、ある事について「関心がある」、「興味がある」と同様にそれぞれの感じ方の自由だから構わないが、人から聞かれたり、感想を求められたわけでもないのに、主体的にその言葉をネットに投稿する人間がいる。わざわざというか、「どうでもいい」と、あえて自発的行為をするのは「どうでもいい」訳がないだろ。

    今回の「どうでもいい」投稿と、投稿者に対する批判と、批判に反論した理由をみて思うのは、「どうでもいい」発言者は、基本的に物事を縦横・論理的に考えられない人間の常套句。でありながら、自己のスタンスを正論とばかりに勝手に自己評価し、それに対する同調者を集っている。孤独な人間は、「どうでもいい」などと自尊心を表明することなくじっとしてればいい。

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    以下は今回の話題。北海道日本ハムファイターズの斎藤佑樹(28)が、出版社社長からポルシェなどを提供されていた。斎藤はノーコメントだが、提供側が「週刊文春」の取材に認めた。斎藤は出版社ベースボール・マガジン社の池田哲雄社長に、「鎌ケ谷の二軍練習場に通うための車が欲しい」とおねだり。価格が2000万円を超えることもあるポルシェ「カイエン」を希望したという。

    結局、ポルシェ「マカン」の新車に落ち着いたというが、「マカン」も新車で800万円を超える。池田社長は取材に、「斎藤から『ポルシェが好きなんで』と言われてね。『お前には頑張ってもらわなけりゃならないから、俺が払ってやる』と」と認めた。他にも社や池田社長が所有するマンションを提供したこともあったといわれており、今後は日本ハム球団の対応が注目される。

    「週刊文春」7月14日発売号では、池田社長によるポルシェ以外の利益供与についても詳しく報じるとされているが、野球選手の金品授受を巡っては、過去に読売ジャイアンツの桑田真澄、水野雄仁らが処分を受けたこともあった。13日、オリックス戦(京セラドーム)後に取材に応じた島田球団代表は、「(記事を)見ていないから分からない。本人と話?してません」と話した。

    斎藤はオリックス戦で、今季2度目の先発登板を果たし、5回を3安打無失点で抑えたことに、「逃げないよう強気に攻めた。まずは5回まで。もっと長いイニングを投げないといけない」と手応えを感じた様子。しかし、“ポルシェ問題”については「…特にないです」と口が重かった。「どうでもいい」発言者は、昨日21時47分、yahoo「知恵袋」に以下の内容で投じている。

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    「斎藤佑樹投手がポルシェを貰ったというニュースでネットの怠け者達が騒いでいますが、正直どうでも良いニュースと思いませんか?」

    "ネットの怠け者達が騒いでいる"などの発言は、相手に向かって直接言えない言葉だろうし、ネットならではの尖った物言いである。「どうでもよい」と思うのは自由だが、賛同者を求めているところに孤独さをみる。ネットの怠け者といいながら、投稿者はこれまでに526件の投稿がある。時事問題もあるが、アニメや映画などの投稿からオタクのようだ、以下の投稿には笑った。

    「これってバカにされているのでしょうか…。今日、某弁当屋チェーンでお弁当を買いに行った際の話ですが。いつも自分は弁当を受け取る際、余計なゴミになるのでなるべくビニール袋と割り箸は無しと店員に伝えているのですが、今日も同じようにそう伝えた際、奥で弁当を調理している店員がクスクス笑っていたんですよね。いつも同じように言っているから「またこの人こんなことを…」みたいな感じで笑われているのかなと。それでイラッとして、つぎその店に行って同じように笑われたら軽く切れてしまいそうで;;」

    こういうのもある。「ブログでのマナー、ルール的な質問です。いつも見ているブログでのことですが。自分自身特にブログの管理人さんや他のコメントの人に対して批評、中傷のコメント、更に無関係なコメントをしている訳でもないのに、管理人さんから自分のコメントを消される事がありまして。

    自分自身よく理由が分からないのに管理人さんからは「理由が分からないならコメントをするな」とか「そういう事は学校を卒業した段階で自然と身に付くものだから自分で気づけ」とか訳の分からないお返事をされる始末で……。基本ブログでは他の人のコメントに対して、その内容に返信する事っていけないのでしょうか?」

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    こういう投稿をする人間の種類が分らないが、想像するに気になるからだろう。それに対して、「気にしないように」、「たまたまでしょう」などの慮った返答をみると、ネットは期待しない批判もある反面、癒されるものでもあるようだ。こういう人は批判には目もくれず、癒しだけが支えなのかと。そもそも投稿する目的は同調者への呼びかけで、批判者にはさらに反論する。

    ブログにコメントを書いて消されるというのも始めて知った。中傷でもないのに、「理由が分からないならコメントをするな」、「自分で気づけ」という理由で消去する人もいるんだなと知った。公開している以上、老若男女も年齢も幅が広いと思うが、こういうブログ主はターゲットを選別しているのだろう。こういう事実を知ると、あらためて「人のいろいろ」を感じさせられる。

    ブログ主が幅広く対応できないのと、意図しないコメントに適切な返信ができないのではないか。返信しづらいコメントなど想像もできないし、面倒と思ったことはないが、バカなことをいう奴というのはあり、それには相応の返信をすればいい。大体の年代を想像し、なだめたり、あるいは「目には目を」的名露骨な言葉だったり、自分的には柔軟な対応と思っている。

    答えのない問題に対して、適宜に対処するのも勉強だと思えばいいこと。人に対して真摯な対応をすることで、どこから攻めてこられても頑丈で崩れない城ができるだろう。だからか自分には、「どうでもいい」という投げやり的な言葉を吐く奴は、向学心なきバカに思えるのだろう。どんなことでも考える価値はある。好き嫌いは偏食家人間になり、苦手を作るのは得でない。

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    「どうでもいい事では?」と振ったものの、「そりゃあ1~20万円の少額ならイザ知らず、7~800万円もの大金なら賭博にも繋がり兼ねないので大問題でしょう。一般人におねだりするなんて、考えられない行為です。チーム内では有り得る事ですが…。全く其のイメージと違いガッカリです。彼の選手生命も終わりだと思います。チーム内の他の選手にも示しが付きませんから。」

    という返信には、「選手生命が終わりとか、他の選手に示しが付かないとか、あなたが決められる事なのですか?」と反論するところがユニーク。真面目に返信した人間は、「コイツにはまともな話は伝わらないな」となるだろう。真っ当な考えを述べたことに対し、「あなたが決める事なの?」という反論は、人としてかなり歪んでいる。決めるのではない、意見をいっているだけだ。

    意見を言ったら、「決め付けてる」という奴はいるし、そういう奴と話はしないことだ。「意見」=「決め付け」でない事が分かっていない。押し付けていない意見を「決め付ける」、「押し付ける」と感じる奴は被害妄想的で、心が弱い人間であり、だから、人の意見を押し付けと感じる。被害妄想タイプは普通に話せないし、気を使いながら話すくらいなら何も言わない方がよい。

    こちらの意見に対し、被害者意識丸出しにされるほど迷惑な事はないが、過保護に育てられて脆弱になったのだろう。子どもを過保護に育てることでよくない事はたくさんあるが、こういう点からも気をつけた方がよい。問題なのは「過保護にしていない」、「普通である」と思いながら、実は過保護であるのは、母親の子育てにありがちだ。昔のお母さんはそこを考えていた。

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    昔の母親は軍国主義という時代背景もあり、男の子を立派な兵隊さんにしなければの思いもあった。さらにその以前、武家の母親は武家の母親らしく、我が子を立派な武士に育つように厳しく躾けた。封建社会でもない、軍国主義の時代でもない、「男の子を強く逞しく育てる必要はない」と誰かいったのか?貧弱ですぐに折れるような子どもにしたいなら別だが、それってマズくないか?

    斎藤祐樹と田中将大、石川遼と松山英樹を同年齢として比較したものだが、どちらの親でいたいかを考えてみるのがよい。つまり、「どちらの親でいたいか」というのは、「どちらの子どもに育てたいか」という方法論に行き着く。多少偏見はあるが、分からぬことなら仕方がない。斎藤や石川はチヤホヤされすぎでダメになったと感じている。フランスの画家モローの言葉が過ぎる。

    「成功をしないということは感謝すべきである。少なくとも成功は遅い方が良い。その方が君はもっと徹底的に自分を出せるだろう」というように。つまり、自分を徹底的に出し幕って、その力によって成功は得るべきで、親の威光や、半ば運的要素や、学歴のような付加価値要素での成功は脆弱だということ。斎藤、石川のイケメンに比べ、田中、松山には男臭い魅力がある。

    男臭さとは「力」である。簡単に折れない真の力。田中や松山の親がいいという比喩は、どうしたら田中や松山のような子に育つか、育てられるかという方法論の想像力である。田中や松山の親が、子育て教育書など出すとは思わないので、彼らの芯の強さを想像するしかない。上手く行く、行かないはともかく、強いメンタルを持つ子に育てたいという意思が重要だ。

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    力のない斎藤がポルシェを欲しがってはいけない。というのは違う。問題は欲しい物をどうやって手に入れるかだ。「グランドに金が落ちている」と吐いたピッチャーがいた。彼は400勝の金字塔を打ち立てた。力はないが人気がある斎藤に、「ポン!」とポルシェを買い、マンションを与えるタニマチもいる。チヤホヤされたいグセが直らぬ斎藤とタニマチが共依存関係にある。

    が、チームメートや同僚から見て「総スカン」であろう。人にたかって利を漁るなど、「やってることがヒモである」。「二軍練習場に通うための車が欲しい」と言われ、ベースボールマガジン社社長として真に野球を愛する御仁なら、「今のお前にそんなステータスはない。軽自動車に乗ってろ!」とハッパをかけるべきでは?甘やかせて選手をダメにするんじゃないよ。

    社長と斎藤は特別な関係なのか?モーホではあるまいが、まさかダレでもカレでも強請ったら買ってもらえるわけでもあるまい。斎藤のイチファンといっても、それで800万ものクルマを与えるものなのか?まさかモーホでは?どう考えても、イチファンと選手という有り方の限度を越えているように思うが…。週刊誌もそういう想像力で取材を進めるだろう。


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  • 07/15/16--01:53: 夏・「全開!」
  • 何気に使う言葉も、あらためて考えると結構オモシロかったりする言葉の不思議さ。「全開」という言葉は、普通は「ドアを全開にする」、「エンジンのパワー全開」、「ガスの元栓を全開に」などと使うが、「夏・全開!」もオカシクない。自分はどういう意味で「夏・全開!」としたのか?巷で言われてる言葉を借用したのだろうが、にしても「夏・全開!」の意味は?

    「夏だ!ちぢこまってないで、暑くてもガムシャラに行こうぜ!」という雰囲気か?「もてる力を出し切って全力でGo!」であるか。そういう風に、気力・活力を出せる季節、それが夏だろう。確かに夏は暑い。うだるような日には脳ミソが蒸されているように、頭がくらくらする感じがある。やりたいことをおもいきりやって、パワー全開な生き方がいいよ。

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    過去の辛い経験を乗り越えて進んでいくような、 平凡でつまらない毎日を楽しもうとするような、真面目で規則正しく地道に努力するのもいいが、家庭環境がどうだったとかに関係なく、生活環境に恵まれていたとか、成績が自慢でいい学校に進学したとか、人の羨むような企業に就職したとか、そういうのとは全く関係なく、パワー全開で生きる人っている。

    凄いじゃないか!眩しいじゃないか!そういう大きな心をもつには、おそらくそれなりの苦労や辛い体験はあったろうが、それをバネにして生きるってのが素晴らしい。すべては過去の積み重ねだし、過去の積み重ねが未来である。何を「凄い」と言うかは、千差万別だが、「凄い」とか、「凄い人」とかは、憧れでいう場合が多い。世界を股にかけて頑張っているアスリートのように。

    イチロー、サッカーの本田、テニスの錦織、ゴルフの松山などが凄い人として浮かぶが、才能はもちろん、努力なくして彼らの存在はない。MLBドジャースやヤンキースで活躍し、昨年古巣の広島カープに帰って来た黒田博樹も凄い。彼に、『決めて断つ』という著書がある。「決断」という言葉の意味は、「決めて断つ」だったのかと、あらためて気づかされた。

    本の第一章は「挫折」である。「挫折なくして成功はない」という常套句をあらためて感じ入る。また、成功者という人たちは、誰も「並」の人だったのも分かる。「並」が「並」でなくなるプロセスを読んで分かった気にはなるが、現実は読んで分かるほど簡単なことではないんだろう。何より驚いたのは黒田の母親である。黒田は友人に誘われ、小学一年生から野球を始めた。

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    小、中学時代は野球が楽しく、上のレベルを目指して名門上宮高校に進んだ。巨人軍の元木大介ら多くのプロ選手を輩出した高校で、黒田は入部そうそう、「ここに自分の居場所はない。なんでこんなところに来たのか?」であった。それが後に世界的な大投手になるのだから人間は分らない。自信をもっていた野球も、小さい「枠」だけで自分を見ていたに過ぎなかった。

    中学までは校内、県内でナンバーワンだったが、全国レベルの名門校に入って自信をなくしたという経験はよく聞く話で、黒田の挫折のプロローグもそれと同じだった。そこをどう乗り切るか、それなくして先はない。自殺も同じことではないかと。辛い、苦しいを乗り切らないで死んでしまった人間に先はない。忍び、耐えるを「忍耐」というが、死以外の選択をすべき。

    自分の未来、将来に対する想像力を欠かさないことだ。将来に悲観的になる人は、「生きてることの楽しさ」という素朴な実感を失っている。一部の成功者を除いて、人の「生」の目的は与えられた命を全うすることだ。「かけがえのない命」という言葉の意味は誰もが知るが、「かけがえ」の意味をとことん突き詰めて思考すれば、忍耐の大事さを理解することになる。

    「生きる楽しさは、今はなくてもきっと将来にある」、そう考えるだけで生き続けられる。黒田は控えの投手だった。野球名門校の控え投手というのは、エースが投げすぎて消耗させないための代用品で、主な活躍場は招待試合や練習試合。試合で投げることはないが、そこで腐っていたら今の黒田はなかった。日々の練習に没頭するのは、少ないチャンスを生かすため。

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    黒田がくじけなかった一つの大きな理由は、両親に頼み込んで無理やり上宮高校に進学したことが大きい。これは大事なキーワードで、本人の意思とは別の親の意思で決定される事柄には、当然ながら本人的には不満の原因となり、言い訳になる。何かやりたいことが有る子どもなら、親の意向よりも、本人の気持ちを重視すべきという当たり前のことが親にできない。

    子どもの意思より親の押し付けが日本人に多いのは、親が子ども一個の人間として尊重しないからだ。物事は上手く行けばいいが、先のことは分らないのに親は上手く行くことだけを考える。失敗した場合は本人と親、二人分の後悔を生む。子どもが自ら選んで後悔しても、子どもの人生として受け入れるべきもの。親が決めて子どもも親も後悔して、一体誰の人生なのか?

    子育ては親がするが、親のためにするものでない。子育ての真の目的は、親が子どもの能力や性格に照らして考えられるかであろう。「親の夢」という言葉は大嫌いだった。夢を描くのはいい、純真無垢な子どもを親の夢に向かって先導するのもいいが、結果的に「親の夢の犠牲になった」子どもたちである。己の夢を子どもの幸せと思い込む親の憐れさなり。

    「親の夢、次々壊して子は育つ」という川柳がある。親はこれを念頭に置き、現実に即した対等関係の、遠慮なく何でも話し合える親子関係が理想である。理想を持てば近づこうとするものだ。だから、「理想は理想、現実は現実」という言葉は意味がない。「理想は現実を向かわせる」ものでなうなら、こんな言葉は使わないほうがいい。先に黒田の母が凄いと書いた。

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    黒田には地元の関西圏からの推薦があった。以下は文中の会話。「推薦お話が来てるんやけど…」なかば肯定的な答えが返ってくるだろうと思っていた僕に、母親から予想外の言葉が返ってきた。『とりあえず、頼むから家を出てってくれ』びっくりした。自宅から通える大学なのに、この人は何をいってるんだ。今思えば、息子に自立を促すためにそういう言い方をしたのだろう。

    僕の母親は、本当に『強烈』という言葉が似合う人だった」。黒田は第6章にも「母親に教えられた『信念を貫き通す』ということ」を書いているが、黒田の母は、1年間ガンと戦って、2002年6月2日に60歳で他界した。驚くべきは黒田の母は息子のカープのユニフォームを一度たりとて生で見ていない。つまり、野球場に足を運んでいない。近くの甲子園球場にもである。

    理由がオモシロイ。「タイガースファンのヤジがキツくて、見ていられない」。ゴッツイ大阪のおばちゃんのイメージが沸く母親だ。黒田の母親はよい意味(子の自立)で、子どもを突き放す親であった。親を跳ねつける子もいるが、多くは共依存という悪害関係に陥り易い。親が子に尽くしたいのは当たり前で、それをよくないと知り、実践するのが真の親の愛ではないのか?

    「男気・全開!」の黒田、「夏・全開!」黒田の話題になったが、200勝まであと1勝、汗にまみれて熱投する姿はまさに全開。彼も41歳、イチローよりひとつ歳下だが、野手に比べて投手の負担は大きい。老体に鞭打って投げる黒田は感動を呼ぶ。おそらく、黒田にとって最後のシーズンとなる今年、優勝と200勝を達成して19年の選手生活を終えて欲しい。

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    黒田の「夏・全開!」はさておき、そこらの普通のおっさんの自分にとっての夏は全開か?ときおりズボンのチャック全開があり、気づいてあわててあげるが、全開違いである。夏以外の季節と夏の違いは何かと思考する。「Only Summer」は何か?素足でなくショーパンでは?確かに夏以外にショートパンツは履かない。では夏にショーパンを履く理由は?涼しいから?

    確かに足回りは涼しいが、他に理由は?薄着で軽快な服装にショーパンが合うからだ。何枚持っているのかショーパン、15枚くらいか。数えてみると18枚。先のボーダーの記事で一枚撮っているので、セレクトした14枚を写メる。スーツやブレザーにショーパンは以外と似合うが、ここ何十年やってない。今はもっぱらショーパンにTシャツ、ポロシャツ、カットソーにシャツ。

    オシャレに着こなす⇒楽に着るに移行。とにかく楽に着、楽に履く。女性のショーパンも結構見るが、イージーな感じでよい。丈は女性は短く腿出しが多く、生足腿だしが女性らしいが、男はバミューダが多い。高2の時に初めて履いたバミューダは、なんか抵抗があった。長さが本来のショーパンより長く、膝の上までくる。何となく変だと思いながらも染まって行った。

    バミューダショーツは、いうまでもないイギリス領バミューダ諸島で広く愛用されたことでその名がついた。ま、確かに軽やかさを演出してくれるパンツだ。「Only Summer」御用達で、秋~冬は絶対に履かない。春でも陽射しがよくて、半そでシャツを着る陽気になるとショーパンを履く。「夏・全開!」ショーパンの時節である。たいした「全開」ではないが…

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    「OD問題」といわれる未就学博士で(ODとはオーバードクター)、一科目が半年で20万円程度のアルバイト講師のこと。20年前くらい前なら、「博士課程修了」といえばエリート中のエリートだったのが、昨今の情勢は、「できる学生」から早めに就職していき(学部卒4年で就職する)、博士課程まで残る学生というのは、何らかの課題を抱えている人々ということらしい。

    真偽の程は不明だが、そんな噂が飛び交うほど文系エリートは変貌した。「OD問題」が新聞紙上に姿を現したのは、2008年秋、札幌の学会である。当地の若いドクターが、「OD問題」のビラを配り、"われわれをどうしてくれるのだ"と切実に訴えた。1967年に物理系の学科ができたある大学では、教官定員はアッという間に優秀な人達で埋められ、空き定員はない。

    その後にもいろいろな方面から就職の照会があるが、ない袖は振れず、如何ともし難い状況である。誰でも大学に行ける時代にあって、"大学院は就職先が決まらない学生の受け皿"とまで囁かれる時代になりさがった。なぜ、こういう時代になったのかは、大学進学者が多すぎるからである。なかでも、「Fランク高校」の生徒たちは就職せずに「Fランク大学」に進む。

    誰がつけたかFランク大とは、"低偏差値すぎて誰でも入学可の無名底辺大総称"である。これは情緒的な言い方で、正しく(かどうかは知らないが世情言われているのは)「河合塾の実施する模試で合否判定が困難な大学を、Fランク大と呼び、模試で判定結果が出てる大学はFランク大と呼ばない」。関西では関関同立、関東では日東駒専以下をF大といったりする。

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    ちなみに関関同立とは、「関西大」、「関西学院大」、「同志社大」、「立命館大」をいい、日東駒専とは、「日本大」、「東洋大」、「駒沢大」、「専修大」のこと。どれも立派な大学だが、ネットの群集には糞呼ばわりされている。まあ、2ちゃんねるにたむろする人間は、他人を肴にして酒を呑むという精神年齢の低い幼稚な集団だから気にすることもない。

    大学進学ということを考えてみた場合、テレビのキー局、レコード会社、旧財閥系の商社などに入社するには、東大、京大、早慶級の大学を卒業しないと相当難しいという実態はあるが、これらは大学を就職予備校と考えた場合であって、本来的な大学の目的意義は、自ら学問する場であろう。その事がないがしろにされ、学歴=就職となっている現状も問題である。

    だからと言って、東京早慶以外の大学すべてが2ちゃんねるで汚く罵られるような存在ではない。就職は大事だし死活問題かも知れぬが、こういう汚い社会にになったのも、大学が就職目的になったからであろう。大学に行けばとりあえず何とかなるという保険は有効なのか?シャープ、ソニー、東芝、パナソニックといった優良企業の牙城が崩壊したこんにちである。

    大学の呼称・蔑称には昔からさまざまあった。古いところで、カンポンキン(関西大、日本大、近畿大)、新しどころで、在京私大をMARCH(明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大)と呼ぶ。他にもいろいろあるようだが、ネット時代に入ってあちこちから人が集まれば良いことは面白くない、悪口合戦や人の不幸は蜜の味という人間の倒錯心理が見える。

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    ハンドルを茶化したりされるから、ハンドルさえも均質にするという周到さの、脆弱で傷つきやすい人間が、たむろして大学名だけでバカ呼ばわりする嘆かわしい時代である。自分はツイッターを好まないが、短いセンテンスを吐き出すように言う2ちゃんねらーを好まない。要旨のみ大事とされる合理主義にあって、脈絡のある文章には書き手の人格が香り立つ。

    我々のような旧人は、そういうものを大事にしてきた。文や言葉から人の匂いを嗅ぎ取って生きてきた。それを感じない超短文は、メールにしろ何にしろ、人の香りが感じられない。目に見えない相手であっても、人は機械ではないし、あくまで人と認識したいなら、人によって書かれた文を感じたい。生きた文字ではなく機械の文字であるがゆえに、そこを大事にする。

    我々は手紙世代である。自分は経験がないが、雑誌等には「文通希望」、「ペンパル希望」の呼びかけがあった。なぜそれをしなかったかといえば、近くに相手はワンサカいたからである。昔、レナウンのCMソングに、「ワンサカ娘」というのがあったが、そうそう、あちらこちらに女はワンサカいたのだった。旅は道連れではないが、ナンパはただの声掛けである。

    外国映画にありがちなその日に出会った男女が、自身の気持ちを偽ることなく自らの刀を相手の鞘に収めるなどまさに日常であろう。「伝家の宝刀」などという言葉は英語にないし、あるとすればポーカーで「Ace in the hole.(エースは最後の切り札)」が近い。そんな風に勿体つけ、出し惜しみしても仕方ない。そこに鞘があるなら抜き、後は元の鞘に収める。

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    Fランク大学は必要なのか?なぜ存在するのか?そこに「Fランク高校」があるからだ。「Fランク高校」の生徒でも大学に行くご時世である。本当は就職する方が社会のため、日本経済のためだが、ともあれFランク高校というのは、なにせ不良品生徒が多い。「F」とは不良の頭文字ではないが、就職したところで続かないし、すぐに辞める子が多い。

    となると、「Fランク高校」進路指導担当の教師たちは、「Fランク大学」への進学を進めているという。保護者も「Fランク高校」に入学した時点で大学進学など諦めていたが、入れる大学があるならと目の色を変える。生徒もすぐに働くよりは、もう4年間遊べるわけだ。大学で勉強するなど毛頭ないそんな学力で、おまけに経済的にも無理をして行かせる。

    結果、「F」の学生には多額の大学ローンが残る。就職できたとしてもいいとこブラック企業。『Yの悲劇』はエラリー・クイーンの小説だが、こちらは「Fの悲劇」である。槍玉にあげらる罪深きは、的確な就職指導をせず、安易に進学を奨めるFの教師であろう。教師だけが悪いわけではないが、諦めていた大学に飛びつく保護者の気持ちも分からなくもない。

    「うちの子は頭悪いので、手に職でもつけた方がこの子のため」と、昔の親は毅然としていたし、教師も同じ考えであった。理美容師に大工に左官などが彼らの進路であった。どうしてこういう時代になったのか?先ずは考えられるのが、日本人の横並び意識と、多少のバカでも塾にさえ行けば、ある程度の学力は確保できるという劣等生の受け皿システムがあること。

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    高校全入時代はひと昔前、今や大学全入時代などと言われている。現に高卒者の大学進学率が5割、その他浪人や専門学校等も含むと実に7割以上が高校を出ても働かずに「学校」を目指す特殊な社会である。大卒者は増えても、大卒後の就職先の数自体はここ20年変化はない。これは、多くの学生が大学などに進学してるのに働く先が増えていないということだ。

    つまり、「出口のない学び」が受験産業によって大量に創設されたということになる。塾や予備校は金さえ出せば誰でも入れるが、中には超有名大学希望者には、入塾試験を行うところもある。塾の威信もあってか高い学力がないと入れない。これは特殊なケースで、普通はどんなバカでも拒まない。バカは勉強しなかったからバカなのに、彼らも大学を目指して入塾する。

    5月11日、東洋経済オンラインに【高学歴で低年収、33歳女性の明るすぎる貧困】という見出しの記事が配信された。「明るすぎる貧困」とは妙な日本語だが、何を意味するのだろう。神奈川県の工業地域に、家賃6万円の1DKアパートに居住する彼女は、9年前に大阪大学大学院修士課程を卒業後に上京、一部上場メーカーの商品開発部に勤めたときからここに住んでいる。

    イメージ 6部屋の中に入ると、カーテンは閉めっぱなしで薄暗い。部屋の掃除はしていないようで、フローリングの床にはゴミやホコリが何重にも積もっている。備え付けのベッドの周りや部屋の四角には洋服や新聞、書籍が散らばり、足の踏み場がないほどだった。「掃除機の音が怖くて、掃除できないんです。あの大きな音は、なにか男の人に怒鳴られているような感じがするから。
    たまに掃き掃除くらいはしますけど、収納がないので全部は片付けられないし」と彼女の言い分である。掃除機の音が「男に怒られているよう」というのも妙な感覚だが、奇麗好き女性なら掃除機を使わなくとも埃が積もるなどはない。足の踏み場もないという部屋の有り様からして自堕落な女性のようだ。取材の日時は分かっているし、それに合わせて普通は掃除をするだろう。

    現在は非正規で食品工場に勤める彼女の平成28年3月分の給与明細の内訳は、支給総額17万円ちょうど。各種社会保険と所得税で2万8700円が控除され、差引支給額は14万1300円。「非正規なのでボーナスはなく年収は200万円。29歳で新卒入社の会社を辞め、介護職になりましたが、そこはすさまじいブラックな施設で、長時間労働に加えて残業代が支給されず、パワハラもすごかった。

    辞めても他に行き場所がなく、我慢をしていましたが去年の暮れに限界を超えたので辞めました。いろいろ仕事を探して、やっと見つかったのが今の工場です。給料は安いけど、介護のときみたいにブラック労働がないのでいいです。みんな優しいので続けていけそうです」と彼女はいう。これが、「明るすぎる貧困」かと。高学歴に蓋はできないが、蓋をすれば明るく居れる。


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    近年、社会はやたら「不倫」の二文字がうごめいている。「うごめく」という言葉を使ったのは、モゾモゾとくすぶるように動くという言葉が「うごめく」であるなら、不倫はいかにもうごめきながら続行する。「うごめく」は「蠢く」と漢字表記し、「人々は虫のように蠢いていた」などと例文する。石の下の湿った場所には、もぞもぞと動き回る薄汚い虫たちがいる。

    こう表現すると、不倫する人たちはもぞもぞと薄汚い人たちのように聞こえるかも知れない。「なぜ、ムカデ、ヤスデ、ダンゴムシの節足動物やミミズ、ゴミムシ、ハサミムシは石の下にいるのだろう?」子どもの頃に不思議であったし、隠れているつもりだろうが、人間が来て石を上にあげられるなど予測もしていない。だから、露になった途端、必死で動き回る。

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    普段は石の下でじっとしていると想像するが、石を上げないことには普段の様子は見ることはできない。で、石を上げた途端にあわててうごめく様子は、まさに不倫現場を週刊誌などに目撃された男女のようでもある。即ち不倫をしている者たちは、ヤスデやダンゴムシと同じように、石の下の陽の当たらないジメジメした場所がお好きということになる。身を隠すに最適だ。

    「不倫」という言葉には、そういう翳った陽のあたらぬジメジメ感があったが、最近は「不倫はオシャレ」、「みんなやってる、やって当たり前」というような雰囲気がある。つまり、バレたところで、大きな羞恥心がないほどに隆盛の時代なのかもしれない。不倫の多くは男女の火遊びだろうが、切っ掛けは不倫でも、相手を射止めたケースを不倫愛というのだろうか?

    芸能人の不倫略奪愛も多数報じられたが、松方弘樹と仁科明子の時代は、なんとも肩身の狭い思いであったろう。大体において古女房より若くて美人が多く、男の気まま・我がままよりも妻子を追い払ってまで、という言い方をされたことで、女性に非難が集中した。時代も変わったのか、今では奪って当たり前のような雰囲気もある。RIKAKOから渡辺篤郎を奪った中谷美紀。

    鈴木保奈美は、元夫の友人である石橋と妊娠3ヶ月で電撃再婚したが、離婚成立前の妊娠では?と世間を騒がせた。元モデルさやかから喜多嶋舞に乗り換えた元光GENJIの大沢樹生だが、喜多嶋はとんでもない女だったようだ。永作博美も映像作家の内藤まろ氏と不倫略奪結婚である。石田純一と長谷川理恵の公然不倫は結実することなく、石田は東尾理子と再婚。

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    一方の長谷川理恵は、神田正輝と破局した直後に妊娠発覚・入籍という異例のスピードデキ婚で、石田純一の再婚に対する"あてつけ婚"とも言われている。神田正輝といえば松田聖子で、正輝と婚姻中の不倫発覚など、スキャンダル女王の異名もあったが、2012年、慶應大学病院准教授の河奈裕正氏と3度目の再婚をした。河奈氏は当時、結婚15年目で双子のパパでした。

    市村正親と篠原涼子の年齢差にも驚かされた。元横浜ベイスターズの投手で大魔神こと佐々木主浩も1991年、元アイドルの清水香織と結婚。長女と長男を設けたが、ひとまわり以上も離れた元アイドル榎本加奈子と不倫の末に略奪。継母榎本には毒親疑惑がある。報道によると、長女が中学時代に継母となった榎本。徐々に関係が悪化し、ネグレクトに近い状態と報じられた。
     
     ・実母との連絡禁止
     ・話しかけると「あっちに行って」と追い払う
     ・宮城の祖母宅に追い出す
     ・高校卒業後に別居し、アルバイト生活するも支援が必要になり、おねがいすると       「風俗でもすれば」発言
     
    結果、長女は自殺未遂をするが、一命を取り留めた長女に榎本は、「ウチに迷惑をかけるな。世間にばれたらどうするの?」などと非難。また、長女が無人の実家に私物を取りに入った際には、不法侵入として被害届を出す。佐々木も長女を庇うどころか、「家族でも最低限の礼儀は必要。…反省を促すよう警察にお願いしている」と、妻の肩を持つだらしない父親である。

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    ミスチルの桜井も2000年5月、元嫁さゆりと調停離婚し、6月に吉野美佳と世間の風当たりを覚悟の結婚だった。アニメ映画『時をかける少女』の主人公の声を担当、実写版『時をかける少女』でも主人公を演じて評判だった仲里依紗と浅野忠信。16歳の年齢差など、何かと週刊誌を騒がせたが、婚約者の居る中尾明慶と颯爽乗換え、めでたくデキ婚。後に男児を出産する。

    元ザ・イエローモンキーの吉井和哉とのデキ婚した眞鍋かおり。中学時代からイエモンファンだった彼女は、打ち上げに押しかけていったことが交際のきっかけ。吉井には駆け出し頃に結婚した糟糠の妻と、4人の子どもがいたが、真鍋は無敵の計算略奪者。不倫が終焉すればただのお遊び、結実すれば略奪婚、どちらがいいのかというのも、二人が決める事である。

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    二人が良いと思うように決めたらそれで良いということだが、被害者も存在するとなると加害者も存在することになる。捨てられた妻子という場合も、出て行ってくれてせいせいするという夫もいる。前者はお気の毒、後者は不倫の効用といえる。いろいろなケースもあろうし、不倫⇒離婚⇒不幸ということもない。離婚で前妻にすべてを与え、一文なしになった男もいた。

    松方弘樹とジュリーこと沢田研二である。松方は離婚で貯蓄が底をつき、急場しのぎで京都の豪邸を売り払ったが、二束三文で足しにはならなかったという。沢田は離婚の慰謝料が18億円で、これは演歌歌手の千昌夫と歌手ジョン・シェパード夫婦の50億円に抜かれるまで、芸能界のトップの金額だった。自分のわがままに対する自主的な誠意なのか?

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    あるいは弁護士仲介によって算出された財産分与の額も含めてだが、稼ぎの額によって多くなる。外国セレブの桁違いの慰謝料に比べれば屁みたいなもの。アメリカのWEBメディア「ビジネスインサイダー」が発表した2013年6月までの離婚慰謝料ランキングによると、世界№1がアメリカ人実業家のパート・マードック。その額は日本円にして約1,610億円。

    「タイムズ」、「ウォール・ストリート・ジャーナル」、「20世紀フォックス」など世界的企業の親会社であるニューズ・コーポレーションの最高責任者で、メディア王と呼ばれたスーパーセレブ。他にもマイケル・ジョーダン168億円、S・スピルバーグ100億円、ハリソン・フォード85億円、ケビン・コスナー80億円、マドンナ76億円、P・マッカートニー48.6億円など。

    自らヤリチンを公言、19人の愛人がいることが判明したプロゴルファーのタイガーウッズの離婚慰謝料だが、640億円という報道もあったが、減額されて425億円とか267億円、あるいは114億円、85億円とまばらで、ジョーダンを越えてスポーツ界最高だったか定かでない。訴訟社会アメリカにあって離婚慰謝料は代理人(弁護士)の腕の見せどころである。

    毎日、和定食ばかりも飽きるし、たまには中華もイタリアンもフレンチも食したいという事なのだろうが、夫婦には貞操を守る義務が課せられ、違反すると罰則もある。離婚は罰則ではないが、相手から突きつけられる罰であろう。昨日は1998年長野五輪スピードスケート男子500メートル金メダリストの清水宏保がスペシャル番組に出て離婚の真相を述べていたらしい。

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    スピードスケートの清水がスピード離婚とはシャレにならないが、妻は高垣麗子という美人モデル。浮気相手は「美人妻よりブス女」で充分といわれるように、妻の美人度は浮気の抑止にならない。清水はまったくモテなかった高校~大学時代に反し、金メダリストの栄光か、金の如く輝きだす。急にモテ始め、美人妻もゲットできたのも五輪のたまものである。

    とにかくモテたかった。東京にあこがれ、染まってしまった自分の弱さから大切なものを失ってしまいました」と反省していたというが、努力で得たスポーツの勲章は、人間としての別の部分を輝かせる。ただスポーツをしただけなのに、ジョーダンもウッズも高貴な人間とされ、日本でも田村亮子、馳星周、アントニオ猪木のように国会議員にもなれる。

    今回参議院議員に当選した朝日健太郎も、北京五輪やロンドン五輪に出場した元 ビーチバレー選手である。そういえば日本スケート連盟会長で参議院議員の橋本聖子も元スピードスケート選手だった。スピードスケートならぬ元スピードの今井絵理子も、今回参議院選において開票わずか9分後にスピード当選した。彼女が議員としてふさわしい故の当選か?

    彼女が参院選候補に浮上した理由は、聴覚障害のある長男を育てるシングルマザーの立場から、社会保障政策の拡充のアピール、若い世代の浮動票を獲得する狙いであるが、誰が見ても、「あからさまな客寄せパンダ」である。ネット上には『これだから政治不信になる』などと、賛同の声は見つからないが、それでも当選するのは賛同者が多かったことになる。

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    過去を振り返ってみると芸能人の知名度をフル活用して当選した議員は少なくない。しかし、票が入る以上、「日本人のアホっぷりを甘くみるな」というしか言葉はない。多数決ならそれが民意、それが民主主義である。批判する者は票を投じることはないが、投じた者は賛同者である。民主主義はヒトラーを生んだことから批判される側面もある。

    そのヒトラーは戦争をするに当たって、「戦争を開始、遂行するにあたっては、正義などは問題ではない。要は勝利すればいいのだ」と言った。「選挙行い、政治を遂行するに当たって人の質など問題ではない。要は勝利すればいいのだ」と同じ事。ヒトラーもそうであったように、壇上で人から拍手されるような役を演じる役者になろうと必死であがく候補者。

    かつて、石原も猪瀬も舛添もそうであったように。ならば、小池も増田も鳥越もおそらくそうであろう。が、そうであるかないかはやらせて見なければわからない。人間は多面的だ。事前に本質を見抜くのは難しい。浮気をする男(女)かどうか、結婚してみなければ分らないと同様だ。だから離婚は意味がある。離婚しない者が見る目が合ったという事ではない。

    同様に、離婚に至った者が見る目がなかったということでもない。どちらも"たまたま"ではないだろうか。人の生に運・不運は大きく左右される。デキ婚で身ごもった子どもの父親は別人だったというのもある。そういえば元巨人軍の四番打者駒田徳広もデキ婚だった。出産に立会ったところ、生まれた子どもは何と、何と…黒人だった。それを見た妻は半狂乱。

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    手を握られた駒田に爪を立て、流血するほど取り乱す光景に、看護師さんから席を外した方がいいって勧められるも駒田は、「僕の子ですから!」と言い放ったという。妻が退院後に両家で家族会議の話が決まったが、妻が拒否。その理由が「子どもの人権を守るため…」だと。ならば、駒田の人権はどうなんだ?結局離婚になったがまことふざけた話、ふざけた女である。


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    不倫相手を一体どこでみつけるのだろうか?彼女や恋人がどんなところでも、自然に見つかると同じように男と女の居るところなら、場所を選ばずだろう。「自然にみつかる」というのか「偶然に見つかる」というのか、あるいは「必然(故意)に見つける」のか、いろいろだ。「偶然」も「必然」も呼応である以上、男と女にとっての「自然」なのかもしれない。

    「自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なのだろう」という吉田拓郎の詞に強く印象づけられたが、同じ曲には、「男はどうして女を求めてさまよっているんだろうか?女はどうして男を求めて着飾っているんだろう」と、これまた印象的なフレーズがある。何の事はない、当たり前の問いだが、当たり前であるが故に「ハッ!」と何かを気づかされる。

    「どうして?」という問いに対しては、「それが本能というもの」と、答える以外にすべはない。本能とは、動物(人間を含む)が生まれつき持っていると想定されている、ある行動へと駆り立てる性質のことだが、近年「本能」という語句は専門用語的には用いられなくなっているという。その理由は、説明的な概念としてはあまり役に立たなかったためである。

    特定の心理や行動を本能と述べても、その行動の神経的・生理的・環境的原因(至近的原因:これらが伝統的な心理学の研究対象であった)について何かを説明していることにはならない。「母性本能」、「闘争本能」、「帰巣本能」など、性質を現す語を伴い、「○○本能」という形式で使うことも多い。人間に本能があるかどうかは長らく議論の対象であった。

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    人間に本能があるかどうかは「本能」の定義次第であろう。一般的に人間に本能行動はほとんど無いか、わずかであると見なされている。社会学、哲学、心理学の一部においては本能を、「ある種の全ての個体に見られる複雑な行動パターンで、生まれつきで、変更がきかない」と定義するが、この定義の元では性欲や餓えも変更がきき、本能と言えないと主張される。

    精神分析学者でもあり思想家である岸田秀は、『人間は本能が壊れた動物』と述べたように、人間の本能は、他の動物たちの本能とはどこか違う。野生のサルで考えてみる。彼らは自然の中で生活し、自生した木々の実などを食料とする。彼らは、生きるために何を食べるか、何を避ければよいかを本能的に選り分け、必要なとき、必要な分だけ食べている。

    また、彼らには発情期というものがあり、そのときにもオス同士が闘うなどして、よりよい子孫を残す目的の為に、効率的のよい生殖(交尾)を行う。これら生存と生殖、いずれの本能もシンプルで無駄がない。人間はどうか?食事はするが、生きるためばかりではない。好き嫌いという偏食をし、食事前なのに間食をし、飲酒で満足に食事を摂らなかったりする。

    身体に悪いと知りながらもタバコを吸ったり、夜更かしをしたり…。食事に限らず、見方によっては生きるためどころか、死にたいのか?などの生活行動も珍しくない。さらには、人間に発情期があるという説もあるが、現実的には一年中性交を行う。しかも、妊娠を避ける以上、子孫を残す生殖とはいい難い。これは他の動物にない異質な習慣といえる。

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    フロイトも、こうした他の動物と人間の行動の違いを研究し、人間も動物としての本能は有しているが、その生活行動が大きく異なっているために、(他の動物の本能からすれば)人間の本能は異質なものと考えた。いわれてみると素人でもそのように考えられるし、それをもって、「人間特有の本能である」と、言ってしまえば構わないのかも知れない。

    が、本能は元々自然界で生きていくために備わったものであり、それだけ持っていれば自然界で最低限、生き延びられるものであって、それが壊れている、つまり、機能していないとすれば、人間は自然界では生きにくい、あるいは、生きては行けない動物、ということになる。自然の対義語は人工(文明)である。これこそ人間の本能が壊れた事の回答だ。

    分かりやすくいえば、人間が他の動物と違い、発達した大脳(知性)と、精神(心)を持ってしまったからだ。「壊れてしまった」と言うからには、元々の本能も備わっているにはいるが、その本能に知性と精神が入り込んだ為に、いささか複雑な形になってしまった。本来的に人間も、元々備わっている本能によって、お猿さんと仲良く木の実でも食べていた。

    また、ウサギやイノシシなどを追いかけ、狩猟しながら自然界で生活していたはずなのに、人間は、「ああしよう」、「こうしよう」などの知恵の精神が宿った為に、ちまちまと自生する木々の実を採ったり、不安定な狩猟生活よりも、食べられるものを自ら確保し、「一年中、不安なく生活しよう」と、地を耕し稲作を始めたり、狩りで得た動物を飼育する。

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    つまり、自然界に手を入れ始めた。ばかりか、人間の「ああしよう」、「こうしよう」をさらに推し進め、「これをしたら心地よい」、「あれをしたら家族が喜ぶ」などの感情が宿って行った。生活を楽に、便利にするために自然との共生を超え、自然を破壊し始めた。もはや人間は生まれつき備わった本能の範囲を超えた別物になってしまったといっていい。

    「心地いい」、「家族が喜ぶ」の精神(心情)は、さらに拡大し、「もっと豊かに」、「もっと安定的に」と、「もっともっと」を高めていった。これは人間の欲であって、欲は知恵から派生した。木々を伐採し、必要なものを他の場所から持ち込んだりして、あくなき自分たちの生活を進化させ、合理的且つ快感的に向上させて行く。これが文明というもの。

    先に述べた「自然」の対語は「人工」であり、「本能」が「自然」なものであるなら、「人工」が「本能」であるはずがない。よって、人間は自然と決別することで本能を壊してしまった。いずれにしても人間は、本能に精神が入り込んだことで、自然の中では生きられない、自然界からはみ出した動物になった。が、精神で本能の代役を務めているのが「自我」。

    自我は心の一部で、「これが私」という意識や認識、行動の主体である。我々は自我によって、「こういうときには、こうしよう」、「そういうときには、こうすればよい」などの、本能に似た生きる為の方向性を保っている。今風にいえば、本能と精神のコラボによって、本能のみに生きる動物と人間の違いが顕著になった。これは人間にとっていいことか?

    イメージ 5「本能は成長しない、成熟もしない」が、代役である自我の「私」は成長につれて、どんどんと広がりを持つようになる。これを成熟という。つまり、「私」⇒「私の家族」⇒「私の地域」⇒「私の社会(学校・職場)」⇒「私の国家」というように、大きな広がりをもった視点で自らを思考することこそ成熟である狭い視野、小さな視点のままの人は未成熟といえる。

    なぜ、成熟した人間と成熟しない人間がいるのか?できるのか?それは環境に問題がある。本来成熟するものを遮る者の存在である。それが親であると、その事に気づく親は少なくない。気づいていれば子どもの成熟を妨げることはしないはずだ。と、いいつつも、親が子どもに行為するなにかが、子どもの成熟を妨げていると思わない親の何と多きかな。

    子どもはゆったり、のんびりと子ども時代を楽しむべきとルソーも述べているが、それでは満足できない親が盛んに子どもをけしかける。「○○ちゃんに負けてるよ」、「負けちゃダメでしょう!」など、これは攻撃本能を助長させる。フロイトは人間の本能を欲動と呼ぶことで、他の動物の本能と区別した。自我が本能の役割といえど、人間に本能はある。

    他の他の動物には、ただ生きるという方向性しかないが、精神を宿してしまった人間は「生きる」ことに関し、まったく正反対な性質の欲動(本能)を持つ。欲動には上記した攻撃性があり、「攻撃性によって目的を果たすことは、異常なことではない」とフロイトはいう。「負けまい」、「生き残るぞ」という攻撃性なしに物事(欲求)の達成は難しいといえる。

    問題はこの攻撃本能の暴走である。親からそのように育てられた子どもは、攻撃性を「生きるため」にではなく、破壊行為に走ってしまう。攻撃の加減と言うのは自らコントロールも難しく、親から攻撃的に「攻撃性」を育まれた子どもには情緒が欠ける危険性がある。何らかの心の問題を起こすどころか、精神の異常や疾患を発症することになり兼ねない。

    人間の行動というものは、いつも建設的、益的とはいえない。自分の利害得失を超えた暴挙に出ることもしばしばある。「なんで、そんなことするの?」と、他人の目には破壊としか思えない行為を起こす人間が、しばしば見られるのは、この攻撃本能の仕業(暴走)と言う以外にない。これが親から作られた産物であるなど、親ですら理解していないのだ。

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    フロイトは、攻撃本能を加えたこうした人間の欲動を、以下のように定義づけている。「攻撃本能は性欲動と結びついて『生きよう』とするエネルギーとなる反面、破壊・衝動的な死に至ろう…、『無・無機』の状態に戻ろう…とするエネルギーが多くみられる」ことを指摘した。「生」欲動と「性」の欲動は、通常はペアとなって、「生の渇望」ろして働くものである。

    それらは、感覚的満足も含め対象に近づこうとする接触の欲望(衝動)であるのに対し、攻撃本能は、対象に反発し、ときにはそれを破壊しようとする衝動であることから、もともと両者は相容れない(対立する関係)であると位置づけ、攻撃本能を死の欲動(死の衝動)と呼ぶことにした。秋葉原無差別殺人などの加害者や、池田小無差別殺人加害者や…

    そんなことをすれば死刑になると分かってて、あえてそういう行為をするのがそれとなく理解できる。つまり、攻撃本能は死の欲動ということでもある。人間が自然に生を受けるように、死も自然に迎えるべきものである。「死ぬまで生きよう」とは、死の欲動を排した攻撃本能とは無縁の概念。子どもに攻撃本能を助長する教育には気をつけるべきかと。

    して、性の欲動が生の欲動であるなら、不倫など永遠になくならない。なぜなら不倫という行為には何らかの意図が由来するとみなすのは、占星術程度の非科学的な見方であろう。ニーチェがいうように、いかなる行為も、それが遂行されている間に、我々がそれについて持つショボイ意識像とは異なり、行為はまた行為がされる前の意識像とも異なっている。

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    噛み砕いていうなら、「意識的な意図や目的は、行為を引き起こす原因とはなり得ない」。我々を行為へと駆り立てる真の原因は、意識下の衝動である。確信的にいえば、不倫は人間の自然な欲動である。理性が情念の奴隷である以上、動機なき殺人同様、もはや防ぎきれるものではない。防ぎきれない以上、制裁(罰)をもって望むしか手段はない。


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    「貧乏は遺伝する」という記事を3月4日に書いた。経済格差⇒教育格差⇒低学歴⇒などとした貧困の連鎖という図式が、小泉政権がもたらせた格差社会と言われている。経済格差の拡大は避けられないにしても、それが教育機会の差として拡大して行くのは抑止すべきといいつつも、教育の現状は学校などの、「公教育」から学習塾などの、「私教育」に委ねる方向に進んでいる。

    親の経済レベルによって子どもの受ける教育が決まってしまう教育格差が問題とされるが、このことは子どもにとって本当に悲観的なことなのか?裕福な家庭の子どもは高い教育を受けられるというが、高額な月謝の塾にぶち込めば皆がみな勉強するものなのか?さらにいうなら、教育を投資と考えるなら、「高学歴・低年収」というのは、本来あってはならないことではないか?

    などなど、以前からエリート推進教育には否定的でいる。実際にその経験がないからよく分らないが、「お受験」といわれる超難関有名幼稚園から、小・中・高・大とエレベーター式に上がって行く我が子を、親は安心この上ない気持ちであろう。人気の要因は、エリート作りに邁進した一貫教育だからである。広島の難関中高一貫女子校の入学式で、学長がこのように言ったという。

    「あなたたちは選ばれた人たちなのです」。選んだ側の発言は、選ばれた側の自尊心を高揚させる。小学校から遊ぶ間を惜しんで塾に通い、多くの過去問をこなして中学受験に合格した彼女たちは、いわずもがな選ばれた子どもである。そこまでする必要があるのかは愚問で、そうしなけれな超難関校には入学できない。自分がその事に批判的なのは彼女たちはバカだからである。

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    人間の頭の良さ、賢さはパターン化された受験問題をたくさん解いて、その解き方や解を覚えることが頭が良いとは絶対にいえないという確信である。確かにテストの点数も良い、学校の成績も良いが、そんなのは幼児が全メーカーのクルマの車種を覚えていると同じ事。門前の小僧は習わぬ経を読むが、受験学力はお金を払って習った経を読むことだ。

    超難関中学に入学した人間は、多くの物を覚えることに時間を割いただけで、彼女(彼)らに高い学力が備わっていたとしても、決して頭が良いことにはならない。が、高偏差値校を目指すためのシステムの問題で、生徒に罪はない。近年受験学力は、お金で買えるもだが、。「お金を出して塾に行ったからと、誰もが高い学力を身につけるわけではない」と理解する親もいる。

    人間にバラつきがあるように子どももバラつきがある。少年サッカー教室や、○○幼児教室の子どもたちにも当然にバラつきがあり、それを能力というなら、塾で高学力を身につける子も能力といえなくもない。塾に批判的な親は、「学校の授業や、教科書で学力は十分つけられると主張するが、それは正しくない。偏差値が学力の基本となるなら、偏差値を上げることが求められる。

    「偏差値を上げるにはどうすればいい?」との素朴な質問に、ほとんどの人間は、「勉強すれば上がるよ」と答えるだろう。それを間違いとは言わないが、厳密には正しくない。なぜなら、自分だけが勉強しているわけではないし、相手も同じように勉強をしているわけだ。よって、「偏差値を上げるにはどうする?」には、「人よりも多く勉強をする」と答えなければならない。

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    スポーツ選手になるような子どもは、もちろん才能や資質もあるが、身近な例でいうと、(音楽的)才能だけでピアノが上手く弾けるハズがない。人が2時間練習するなら、6時間、8時間練習しなければ、満足いくテクニックは身につけられない。おそらく野球もサッカーも同じであろう。いかに人より多くの練習をこなしたか、それはまた、質の高い練習であったかにもよる。

    もう一つ、その論理でいうなら、技術向上のためには人より多くの練習時間を割くことになるが、「練習」といってもピンキリであり、要は身になる練習もあれば、身にならない練習もある。したがって、練習は大事といえ、いやいや練習を長時間やっても身にならないダラダラ練習となる。練習は大事だがもっと大事なことは、「練習を好きになること」。大選手になる最低条件。

    「好きこそ物の上手なれ」はまさにこの事を言っている。さらにいうなら、その事を好きで前向き、直向き、積極的に練習に取り組んでみても、高度な練習内容の内訳として、「機械的練習」と「論理的練習」に分類される。分かりやすくいえば、前者は頭を使わない練習、後者は頭を使った練習。思考を背景にした様々な行為の意味の把握するべく、頭脳を使った高レベルの練習。

    どんなスポーツであれ、ピアノやバイオリンのお稽古であれ、思考は重要で、スーパーな人は頭が良い人であろう。機械的練習をどれだけ積み上げても、全体を見渡す能力がないと、真のレベルアップとならない。来た球を打つだけでは、バッティングセンターのゲージである。打ち易い球を打って下さいというのと、打たせまいとする相手から、どうすれば打てるかは思考が必要。

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    人間のレベルアップというのは、究極的には思考。ところが、受験学力というのは機械的記憶力の分野で、考えないでただ覚える。意味理解勉強なんかしていたら、覚える量などタカが知れている。だから機械的記憶力が推進される。そもそも子どもは、「機械的記憶力」は得意な分野。先のクルマの全車種を覚える子どもや、歴代天皇を暗記する幼児もいる。

    こういう子がかつてはテレビに出て世間を驚かせたが、今どきこんな子どもは屁でもない。これが天才なら、「バカの一つ覚え天才」は簡単に作れる。記憶力は人間の優れた能力であるという時代は終ってしまった。単に自己満足、マスターベーションに過ぎない。人間の重要な能力は、①創造力、②読解力、③記憶力といわれたが、記憶力の現状はもっとランクを下げている。

    機械的記憶はその名の通り、コンピュータが得意な分野で円周率の桁数記憶など、人間の比ではないが、だからと言ってコンピュータを頭が良いとは言わない。囲碁・将棋において、プロの高段棋士に勝利するコンピュータを頭が良いとは言わない。別に言ってもいいのだが、おそらく言えまい。なぜなら、「頭のよい」とはどういうこと?という問題に行き着くからだ。

    「頭のよさ」を定義するにはいろいろあるとは思うが、会話してみて頭の良い奴は勉強オタクではない。現実的な頭の良さは、社会生活の機微において、相手を理性的に説得したり、感情をうまく収拾できる能力である。たとえば分からず屋を分からせる能力、怒る人間をなだめる能力、それらを知恵と言ている、知識と知恵はまるで別物で、知識は学問、知恵は経験で得るもの。

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    勿論、研究開発に勤しむ学者や、経理や財務に卓越した専門知識も有能者であるが、それらはプロスポーツ選手や芸能(芸の能力)も含めて、特殊技能を有す専門家と分類する。社会に生息する一般人についていえば、マイノリティな人たちだ。「末は博士か大臣か」が、かつて親が我が子(男子)に託す最大の夢であり、価値観が画一的な時代における頭のよい息子の目的地であった。

    天才少年といわれた舛添要一なども、そういう時代の申し子であったのはマチガイない。彼を天才少年のなれの果てとは思わないが、人は晩節を汚してはダメなのだとつくづく考えさせられる。学者になり、政治家になり、日本国首都の首長となれる人は運や努力だけではあり得ない星に生まれている。そんな稀有な人間がバカ、クズ呼ばわりされて消えていくのはなんとも忍びない。

    地位に相応しい人材を、と望みたくもなるが、「地位が人を作る」というのもまた事実である。どんな履歴を持った立派な人間でも、地位や権力を得て堕落する、コレも人間の悲しい性である。それに反して、「地位が人を作る」に邁進する人間というのは、立派で崇高な履歴もなく、職責を地位や権力と錯覚・混同することもなく、ひたすら「役目」に殉じる人ではあるまいか。

    我のような秀逸であり有能であり、努力で得た斯くの能力は、己の履歴に相応する人間としてあってしかりの地位であるという驕りである。それが舛添を社会的ダメ人間にしたのではないだろうか。『清貧の思想』(1992年:双思社)で知られる中野孝次に、『麦塾るる日に』という自伝小説がある。彼は腕のいい大工の棟梁の家に生まれた、父からは跡取りになることを期待されて育った。

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    小学校をでて中学(旧制)進むものはわずか一部という時代、中野の父は、「職人の子に教育は不要」進学を許してくれない。中野は1日14時間の猛勉強で専検(戦前の旧制専門学校進学のための「専門学校入学者検定試験」)に合格、旧制中学卒業資格を取得し、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)に入学。そんな中野に、「所有が多ければ多いほど人は心の自由を失う」の言葉がある。

    中野は、「所有に対する欲望を最小限に制限することで、逆に内的自由を飛躍させる」、「死を認識してこそ、生を楽しめる」、「死を憎むなら、なお一層生を楽しめ」などの逆説的な思考が本領である。死をネガティブに考えるからこそ、生が引き立つのだ。同じように学歴がないのをネガティブに思うなら思えばいい。「死」と同様に、ネガティブあってこそ生を楽しむ。

    高学歴というのは、本来的にはネガティブという状況にはないが、高学歴それ自体はネガティブではないにしても、状況は状況である。そういう状況にあるなら、高学歴さえもネガティブと考えたらいいではないか。つまらぬ自尊感情に縛られていること自体が不幸の要因である。人間は死があるから不幸ではなく、死ぬから不幸ではなく、死ぬから一層「生」を楽しめるのだ。

    高学歴であるということが、いかなる現状に照らして幸福であることはない。なぜなら、現状が幸福なら高学歴である必要はなく、現状が不幸なら高学歴も意味がない。「現状」とは、高学歴であるかないかに関わらず起こり得るもの。問題は学歴ではなく、運・不運や努力などに左右される「現状」だ。直近例でいうなら、舛添氏の現状が幸福か?「悲惨である」。彼は高学歴だ。

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    中野は、「清貧」を単に物質文明の批判と捉えていない。精神と物質の対立としている。かみ砕いていえば、「物」と「心」の対比である。これまさに西洋の近代哲学である。我々は利便社会の恩恵を受け、物質社会の只中に生きており、これらを否定する事も破壊することもできない。「思想」というからには考え方であり、何を規範にして生きるかということであろう。

    人それぞれの現状が自らの意に反していても、それに抗うことなく素直に生き、現状のなかから楽しさを見出せばいいのではないか。人間にはそういう能力が備わっている。舛添氏を天網恢恢の罰あたりとの見方もあろうが、高学歴・高年収・高地位であれ、それだけでは幸せになれない。ならば、高学歴・低年収でも腐ることなく、精神と物質を対立させれば、人に幸せは訪れる。


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