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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    4月14日21時26分に起こった熊本県を震源とする地震第1波は、広島県内全域で震度2~1であった。気象庁以外の震度観測点に記録された震度1は、長野県諏訪市、岐阜海津市、大阪府大東市、同岸和田市、兵庫県豊岡市、和歌山県美浜町でも観測された。最東の長野と広島で同じ震度1とは驚きである。熊本市⇔諏訪市の直線距離(航空距離)は768.4km。

    ブルーで示した運転距離なら1052.1kmとなる。クルマで約13時間、歩行だと7日を要する。7日で行けるとは意外だが、24時間ぶっとうしで歩いた場合で、休息も睡眠も必要だから倍以上はかかる計算だ。江戸時代の人は大体1日30km程度歩くので、東海道(江戸・日本橋~京都・三条大橋)492kmは、16日かかる計算になるが、これはあくまで数字上のこと。

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    同じ30kmの距離といえど、年齢や脚力の違いで速さは異なる。「東海道53次」の意味は53宿あったことになり、当時の宿場は約2里半(約10km)に置かれていた。53泊で行く者もいれば、1日3宿分を歩けば約18日で東海道を歩いた計算になるが、途中には大井川など大きな川があり、いわゆる「川止め」もあったり、数字どおりにはいかない結構大変な旅であった。

    歩くのが唯一の交通手段であるなら文句をいう者はいない。当時いわれた、「お江戸七つ発ち」とは、夜明け早々に江戸日本橋を出発して、明るいうちに次の品川宿まで歩くことを言った。男の足なら1日40km~50km歩く剛の者もいれば、か弱い女性でも20km~25kmを歩いたとされる。歩く旅は疲れるが、周りの景色の変化を味わう楽しさもあって、その事は歩いてみれば分かる。

    9月から始めたウォーキングで30kmを歩いたのは6度。平地はさほどでないが、登り坂は足腰よりも心肺機能がこたえる。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と昔の人は詠んだように、箱根峠は東海道最大の難所だった。身軽な旅人ばかりとは限らず大きな荷を背負っている人は、馬子を雇う。それが、"馬でも越すが"という言葉に現れている。

     ・9月25日   32.148km       372分
     ・11月4日   31.798km       339分
     ・11月11日   33.577km   375分
     ・12月25日   32.586km   354分
     ・1月2日     34.498km       375分
     ・2月3日     31.713km       341分

    最大の難所が箱根峠とはいえ、雨風でも根性があれば超えることは可能だが、どうにもならないのが大井川であった。氾濫も多く「暴れ川」と言われた大井川に橋はなく、旅人は川越人足の手で渡してもらう。季節により流量も異なり、大雨の後などは「川留め」といって、渡河禁止となった。20日以上足止めされることもあって、旅人は日数、宿泊費ともにかさむ。

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    ならば橋を架ければよさそうなものだが、「江戸時代、軍事的要害となる川には橋を架けさせなかった」ということもあるが、そればかりではなかったようだ。大井川は、河床が砂礫層なので当時の技術では杭を深く打ち込むことも難しく、架橋が困難で非現実的だった。そこに交通量の増加と幕府の街道整備政策が重なって、川渡しの専門の公営企業「川会所」が生まれた。

    産業が皆無のこの地域において(茶栽培の発展は失職した川越し人足の開拓による明治以降である)、「川越し」は一大産業となり、人々の生活を支えた。特に大井川は、参勤交代時に多くの大名が通過するためその収入は莫大であったといわれている。そんなわけで、「川会所」の収入は年間八千両を超える、当時としては破格の巨大企業にまで成長したのだった。

    国家公認の独占企業というのは、廃止しも改善も至難であった。渇水時でさえ旅人の一人渡りを禁じたり、仮橋の架橋すら認めなかった。川会所側の主張「東照宮(家康)の御意向」が、一人歩きして要害説を生み出したと勘繰られる。が、「徒渉し制度」は幕藩体制に完全に依存していたため、幕府の求心力の低下で制度は揺らぎ、大政奉還後は瞬く間に崩壊した。

    現在でも架橋による漁業補償、渡し船業者への保障などは不正の温床になりやすく、当然にして既得権益あるところに、地元選出の政治家や首長が暗躍することになる。本四架橋においても、全体事業費の三割ぐらいは漁業補償に消えてしまった。小泉政権や麻生政権で文科相や国交相を歴任した前衆議院議員中山成彬は、歯に衣着せぬ物言いで日教組などと対峙した。

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    彼は、「成田反対はゴネ得」という言葉を吐いたが、それが事実・現実であれ政治家が口に出す言葉ではなかった。不用意な言葉は政治家にそぐわないが、そもそも「ゴネ得」という言葉は何を意味するのかの明確な定義はない。中山大臣も意味を説明していないが、「ゴネ得」とは「ごねる」と「得する」の連結造語。これを裏側から読むと「ごねれば、得する」という意味になる。

    「ゴネ得」名人は子どもである。特に幼児が親に何かをねだる時に「ごねる」の効果は大きい。辺り構わず、「ワアーワアー、ギャーギャー」泣き叫ぶ。親は周囲に対しみっともないから子ども言うのことをきく。子どもは勝利によって味をしめ、「ごねる」を身につける。子どもの「ごねる」の対処法は、放っとらかしてその場を立ち去ることだ。子どもは親がいなくなるとさらに泣く。

    「ゴネ」て泣きが、不安で恐いからの泣くにシフト。「ゴネ」る子どもに親は無視して消え、店員に迷子として確保されるまで放っておく勇気が必要。店内放送で呼び出され、子どものところに行ったときの子どもの安堵した顔は躾の勝利。躾は中途半端では効果がない。それが最善と判断したら徹底し、体を張ってやる。「ゴネ」が通用しないと感じた子どもは二度と「ゴネ」ない。

    こういう力強い母親は今の時代には望めないが、父親ならできる。別に迷子になったからって死ぬわけではない。誘拐されることもない。「迷子」になった不安は子どもにとって最大である。だから効果が大きく、効果のない事はいくらやってもダメだ。母親の甘さ、心配症、不安はわかるが、教育効果を望むなら、そんな不安は取るに足りないものだと認識すべし。

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    「もっと遊ぶ~」と、公園で親に従わない子どもはよく見る光景だが、置きっぱなしてさっさと帰ると子どもは泣く。泣いてわがままを通そうとする。だから無視するのが親の勝利。子どもから駆けてくるまで頑張れば勝ち。親を奴隷に従えるのではなく、親は自分の確実たる保護者であるという危機管理意識を植え付けるために親は頑張る。強く逞しい子を望むなら。

    自分の我欲を捨てれば、子育ての大事な部分が見えてくる。それを捨てて客観的に対処すればいい躾ができるはずだ。「親バカでして…」などの都合のいい言葉は虫唾が走る。オヤジは怖いものであれ。地震・カミナリ・火事、同様に。それらの自然災害は無慈悲であるが、オヤジの怖さは慈悲である。父の慈悲、男の慈悲とは、先を見越した慈悲であって、「今でしょ!」ではない。

    昔の父も決して子どもに嫌われたいなど思っていなかったろう。が、子どもに好かれたい、子どもに嫌われたくないより、優先するものがあったはずだ。昔にあったものは今でもあるはずだが、毅然とできない以上、そこに目が行かない。あるいは、妻の顔色を伺う、妻に遠慮して、男の真価を発揮できない。できないではなく、しようとしない。すれば喧嘩になるだろうから…。

    子どもの教育を母親主体で牛耳った家庭が多い昨今で、そんなへタレ亭主なら、今さら権威を与えても無理であろう。それなら母親が子どもに理知で接していけばいいし、そのためには子どもを取り囲む上での間違いを発見することだ。手をかけ、甘やかせるのは5歳まで、その時期を過ぎても子どもに同じに接していいはずがなく、改めなければ育児崩壊の可能性は大。

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    人間は動物と違って、正しい育児が分らない、行えない「変種」な動物。だから育児に失敗するわけだが、どこの国でも共通するのは、高度経済成長と育児崩壊がセットになって起こっている。韓国・中国でも日本と同じような轍を踏んでいる。育児崩壊が恐いのは、後の人間形成が崩壊することにある。「正しい育児」が分らないのに、「誤った育児」が判るはずがない。

    指摘してくれる人もいない。確実なことは、物体の歪みが無理な力をかけることで起きるように、人間形成の歪みも無理な圧力をかけることで起こる。よって、子どもに無理な力をかけないように配慮すればいいが、高度経済成長により文明時代の子どもの精神疾患や異常を正す「人間形成医学」を知るはずもなく、失敗に気づいたとしても、失敗から抜け出すのは困難を極める。

    登校拒否になった以上、無理に学校に行かせるべきでないが、幼少時期から我が子が登校拒否になるなど、どの親も想像だにしない。登校拒否になるような子どもは、どのように育てられた結末なのか、についての文献や調査結果を目にすることが大事では?登校拒否児にならないための教育をあえてする親はないが、登校拒否にならない教育はある。

    やはり、強く逞しく育てることが大事かと。子育ては親の質に左右されるから、せめて文献などに目を通し、親は自ら質を高める努力をする。幼少時期における人間の能力獲得の基本は、①子どもが親を真似て能力を身につける。②親といっしょに行動して、体験を身につける。③親に教えられて能力を身につける。言葉を介して能力を身につける事は幼児期に不向きである。

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    言葉ナシで動物は子どもに教えるように…。子どもにとっての最大の矛盾は、親ができないことを子どもに要求することだが、その意味、意義、価値を子どもが自覚すれば問題はない。見つけられないかぎり親に批判的になる。となると親は、その子がそうであるか、どうであるかを的確に判断すべき。父親の基本は、自分ができないことを子どもに要求しない。

    母親の基本は子どもに漠然とした夢を託す。よって子どもに対する要求の拡大が顕著となる。父親と母親で子どもを育てる生物は、すべてにおいて父と母の役割が分担されているように、人間も同様でそれぞれに役割がある。母が父の役割を否定し、母の役割を否定する父もいる。それが子どもに大きく影響する。現代はこういう家庭が多くなったように感ずる。

    何もしない夫への悪口が多いのは当然にしても、そうなった理由が、「私の子どもに触れないで!」というものがなかったか?「もう子どものことに口出ししない、お前が好きにやれよ」となってしまったと意固地になった夫は、母親の過保護に批判的だったようだ。さまざまなリスクやストレスを与えて、子どもの自己解決を試したい男にとって、過保護などは目も当てられない。


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    池田小の宅間守、加藤智大の秋葉原事件、コロンバイン高校内銃乱射事件などが起こる度に、警察もマスコミも犯行の「意図」、「目的」、「動機」を問題にする。それが分かればそれらの犯行は我々に理解可能となり、受け入れやすいものになるからであろう。犯行の動機を知ることで安心し、分からなければ不安は収まらない。それでも解釈不能の犯罪なら?

    「異常性格による犯行」、「精神錯乱による犯行」というお決まりの切り札があるが、それら一切は、検事や判事や学者が理解可能にするための解釈。当の本人でさえ、行為の真実を隠したり、嘘をこじつけて犯行を誤魔化す。あるいは自己正当化する。宅間の法廷での暴言は、耐え難い言葉ゆえに、彼の本心ではないかという気もするが、実際はどうなのか?

    宅間は「これが本心だと」前置きしていろいろ述べてはいるが、彼が本心と言えば本当に真実なのか?そう思うのも、思わないのも我々の解釈(判断)となる。自分は宅間の法廷における言動は、バカ男の成れの果てによるいきがった強がり、もしくは目立たぬ男の目立ちたいが故の法廷におけるパフォーマンスと見るが、本人も含め本当のところは誰にも分らない。

    言葉を持たぬ犬や猫の行動を分かった様に断定する飼い主や動物学者も、想像と解釈に過ぎない。「違う」と断定出来ない以上、何を言っても許されるが、確信的に言えるのは行為そのものが意思であろう。エイリアンも同様に、言葉を持たぬ生物ゆえに、行為は純粋な意思と見ることはできる。少なくとも「意図」、「目的」、「動機」を口にする人間よりは…

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    ドストエフスキーの『罪と罰』を現代風にアレンジする。主人公の青年Aは苦学生で家賃を払えない。それなのに「家賃を払え!」としつこい大家。他にもたくさんの借家を所有する資産家の老女であるが、「あたしは慈善事業をやってるんじゃないんだ」と、家賃遅延の催促は手厳しい。主人公でなくとも、「あんなクソババ早く死ねばいい」と思うだろ。

    「金を持っているが他に取り得のない強欲で無慈悲な人間が、この世に存在する理由があるとすれば、それは一体何であろうか?自分は金はないが、大学で勉強もし、世のため、人のためにつくしたい」と、そういう自負心旺盛な若者が、そんなある日、「生きる価値すらない社会的害悪ババァを殺して金を奪ったところで、むしろ世のためになるのではないか?」

    ラスコーリニコフを青年Aとし、Aが犯行に及んだ動機はAにとって、「社会悪を葬って世のため、人のためといった、価値ある有為の人物になること」となる。が、本当の動機を隠匿した解釈の操作である。「嘘も信じれば本当になる」というが、ニーチェの理論からすれば、犯罪に限らず我々の行動はそういうものだ。人は誰も自分の行為を正しいと信じる。

    無意識の情動は意識されない。上記Aの犯行動機も、憎悪が社会正義にすり替わっている。今般、アスリートの賭博が問題になったが、どんだけ損害を被ってもギャンブルをやめられない人間は、自分をバカと思わず自己正当化をするからだろう。今日は100万負けたが、彼女と喧嘩したことも影響した。次は必ず今回の損も取り返せるし、取り返して見せる。

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    このように、後から付け加えた理由を"言い訳"という。言い訳の多い人間はギャンブルにはまる要素を持っている。100万負けたことを素直に、真摯に受け止め、「自分はなんてバカなんだ。二度とこんな事はしない!」、そういう人間はギャンブルに深く嵌まることはなかろう。パチンコに負けた人間は、「あの台が悪かった」。「いい台に当たれば必ず勝てる」など言うのが多い。

    そうであってもなくても、常にいい台に当たるとは限らないし、反対に常に悪い台に当たるとも限らない。こういう可能性を追い求めることが、ギャンブルに嵌まる動機であろう。「大負けした。もう二度とパチンコはやらない」と数日間のみ宣言する者は多い。が、彼の頭には「大勝ちした」ときの快感が残っている。「勝ったら止める!」がギャンブルで損をしない鉄則。

    ところが、「勝ったのだからもっと勝つかも知れん!」という欲が常習化の原因だ。宝くじ購入の常習者の言い分は、「大金を手にする夢」という。そういう人を非難はしないし、どぶに捨てようと人の金だ。好きに使えばいい。が、自分は「夢」などと綺麗ごとに蓋をし、少ない投資で大金を得ようという「欲」とする。リスクも「夢」というが、リスクは「現実」である。

    酒を飲まない人間が飲む人を非難するのはよくあるが、飲めない(できない)と考えるなら飲める(できる)人間は天晴れだし、羨ましいとしか思わない。できないことを正当化するよりも、できるひとをリスペクトする方が心が健全である。宝くじを買わないからと、買う人を見下げたところで自分が賢いわけではない。買える気持ちに至れる人を尊敬すればいい。

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    「どうしたら宝くじを買える心境になれるのだろうか?自分にはとても至れない」と思う方が健全であろう。「しない」を主観的に見れば「しない」であるが、「しない」の本質は「できない」であると、そのように自身を客観的に見るほうがいい。そうすると、「自分は"しない"」という自負心から他人を見下げたりせずに、「できる」人は凄いということになる。

    いかなることであれ、自分ができないことを「できる」人をリスペクトするべきと思うようになった。どうでもいいような些細なことでさえ、他人を見下し、差別化し、他人よりじぶんを「優」と思いたい人間は、根本的に自信のなさの現われとみる。他人を卑下することで持つ自信のくだらなさに気付き、向上心を持って生きた方が健全であろう。と「健全3発」を述べた。

    WHO(世界保健機構)憲章に「健全な精神は健全な身体に宿る」とあるが、半世紀を生き、苦悩やストレスも経験し、それらから解放される術(方法)を模索するのも向上心なら、若い頃に比べて心の持ち方が変わったようだ。上に記したように、自分ではよく分らないが、おそらく何がしかの「自信」が身についたのだろう。行き着くところは、「金持ち喧嘩せず」である。

    「金持ち喧嘩せず」は、いうまでもない比喩で、「金持ち」のことを現していない。中学生の頃に初めて目にした「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉について自分は、「健全な心を宿すには、体の具合の悪いところは治すべき」と、風邪や熱のあるときの荒んだ心を感じ取っていた。が、古代ローマ時代の風刺詩人ユウェナリスの詩の一節にある真の意味とは。

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    「金持ちになる、地位を得る、才能をのぞむ、栄光や、長生きや、美貌や、いずれも願うべきでない、なぜなら、これらはいずれ身の破滅をもたらすからだ。もし願うとしたら「心身ともに健康であること」ぐらいにしておきなさい。その程度を願うのなら不幸になることもない。決して大きなことを願うべきでない。」ということを詩にしたとのことだった。

    紀元60年〜130年という昔に生きたユウェナリスの詩の一節が、現在のような意味で使われるようになったのは、近世以降である。当時、各地で世界規模の戦争が始まり、戦争に勝つには強い軍隊が必要で、強靭な身体をもった軍人が求められる。各国は軍人に身体を鍛えることを奨励しようと、そのスローガンとして、「健全なる精神は~」のフレーズを利用した。

    ユウェナリスの長い詩の一部分だけを切り取り、本来、ユウェナリスが表現したかったこととは違う意味となる。「みんな身体を鍛えよう!そうしたら健全な精神をもてるぞ!」と号令をかけたが、本音は「強い軍人になれ!」であった。その後、戦争のためだけでなく、スポーツの世界でも若者の身体づくりを促すために、このスローガンが大いに使われるようになった。

    イメージ 6ユウェナリスの願いや望みは、若き時代には至れない心境。若い人に上記の言葉をもとめるのは酷であり、自らを顧みても、野望あっての若さである。ただ、現実を直視しないであまりにロマニストであるなら、身の破滅もあり得る。要因としてもっとも大きなものがギャンブルであろう。少ない金額を張っての遊び主体ならまだしも、一攫千金は止めるべき。

    アスリートが賭博をするのを、決して悪いとは思わない。競馬に100万かけようが、宝くじを100万円購入しようが、自身の懐具合を勘案してやるのは何ら問題ない。損額を人にいわず、黙っておくこともできる。が、ヤクザの資金源となるような違法賭博、これはマズイ。彼らに接してくる暴力団員は、ヤクザ映画にでるような強面(こわもて)にあらずの一般人風。そんな安心感もあったのではないか?

    刺青やチンピラ風仕草や、いかにもヤクザと言わんばかりの人たちが、今は普通の一般市民と変わらない風貌だ。だから、罪悪感も湧かないのかも知れない。20代の中頃だったか、こういうことがあった。同じビルの階にサラ金があり、そこの店長や従業員と麻雀をやっていた。それを知ったビルの1階入居の銀行行員が、「ヤバイよ、止めた方がいい」と耳打ちくれた。

    彼の言葉をすぐに聞き入れた自分で、無知な自分に知恵を授けてくれた行員には感謝している。特段問題はないとはいえ、よくないと知った事はすぐに止めるのも勇気である。バトミントン選手に裏社会とつながっている意識はあったとしても、馴れ合い高じて抜け出せなかったと察する。裏社会の連中は彼らにある意図を持ちながら、気づかれぬよう接する。

    気づいたときはすでに遅し、などは多し。バドミントン選手も週刊誌にすっぱ抜かれなければ、「悪」から足を洗えなかったろう。「悪」に気づいたらすぐに止めるべきは簡単ではない。なぜなら、周囲は同じ穴のムジナばかりで、自身の享楽を制止したり、口うるさき人には内緒にする。週刊誌は下劣と批判するが、人の裏面を暴き、正すことに寄与しているのでは?

    乙武氏やベッキーや国会議員など、不倫を週刊誌にすっぱ抜かれた人を可哀想と見るのも、自分を正す切っ掛けになった「天の声」と見るのも、それぞれ人の解釈だ。自分は後者である。週刊誌に嗅ぎつかれる前に止めるのが本当はいいが、それができない人間だ。誰もが一様にバレて謝罪をするが、そんな謝罪を自分は信じないし、笑うしかない。

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    3月26日に書いた記事の続編だ。50年前の1965年、婚姻件数は100万組を超えていたが、2015年度には63万5000件となった。離婚件数は1964年以降増加し、1971年に10万件を越え、2002年のピーク時に28万件を越えた。以後は下降し2014年、22万2107件となる。社会通念の変化を受けてか、20年以上同居した夫婦の離婚率が増加しており、これが離婚率上昇の一因となっている。

    データを見る限り、これまで日本は離婚は少ない国で急激に増えたようだが、実は明治時代、文明諸国にあって日本の離婚率は世界一であった。農家にあっては若年離婚が多く、結婚はまさに家の問題だった。同居家族とうまくいかないと、いとも簡単に嫁は追い出され、子どもにも会えない。また、病弱もしくは、子どもを産めないだけで離婚を言い渡された。

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    明治6年(1873年)に出された「太政官布告」によって、妻からの離婚請求が認められ、これを機に「結婚も離婚も自由である」という<離婚自由論>が主張され、離婚は急激に増大する。今でも、"ダメ妻を追い出すのが離婚"という風潮はあるが、"ダメ夫に三下り半"を突きつける妻も少なくない。ただし、女性の苦悩は離婚による経済基盤の喪失で、我慢する妻も少なからずいる。

    離婚の経験はないが、離婚に至る状況はよく分かる。周囲には離婚体験者は結構いる。離婚は望んでする事ではないが、よくないと思わない。離婚した方がいいケースもある。日本の法(民法)は、婚姻の成立に法律上の手続を要求する法律婚主義を採用している(同739条)。実質的要件として当事者の婚姻意思の合致及び婚姻障害事由の不存在が必要とされる。

    また、形式的要件として戸籍法に基づく届出が必要とされる。この2つの要件が婚姻に必要だが、婚姻意思の合致という実質要件とは、親の決めた相手と強制的に結婚はできない。これは日本国憲法第24条1項にも規定されている。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」。

    婚姻が法で定められている以上、当然、離婚も法に従うことになる。つまり、法律に定める離婚原因にあたることが必要となる。これは裁判離婚においてであり、協議離婚の場合は夫婦で離婚を合意すればよく、離婚原因に何ら制限はない。いかに法といえど、嫌がる同士の婚姻継続を強いるのはバカげている。互いが合意し、離婚届を出せばその日から他人である。

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    この場合の他人とは、「肉親⇔他人」という意味の他人であり、「自分⇔他人」という事ではない。よく「子どもは他人」と言ったら、「そんなことはないでしょう?」などといわれたが、自分以外は誰であろうと他人である。自分が作ったお人形なら、どんな服を着せようと、髪型にしようと自由だが、同じ発想で自分が作った子どもを自由にするのは間違っている。

    人間が作った機械(コンピュータ、ロボット)が、製作者の意思に反して造反をするという近未来映画が象徴する怖さというのは、ある意味で警鐘であろう。作製した機械が思うように動かなくなる、まったく動かなくなるのを通常は「故障」というが、映画『2001年宇宙の旅』、宇宙船をコントロールするコンピュータの不制御は、故障というものではなかった。

    人間は遂に感情を持つまでの機械を作り出したが、果たして意思を持った機械が人間に造反するなど考えもしなかったということだが、それでこそ「意思」である。意思のない人間をロボットと例えたが、意思を持ったロボット(鉄腕アトムのような)は、人間と対等である。いや、それ以上の能力を発揮する尊敬に値するものである。ところが人間は機械を尊敬はしない。

    「すごい、すごい」とその優秀性を賛美、称賛するが、決して尊敬はしない。対等なコミュニケーションはできるけれども、やはりロボットとして見下している。それがアトムの苦悩であった。どんなに人間に尽くしても、自分は機械であるという被差別意識に苦しむ。が、映画『2001年宇宙の旅』のコンピュータHAL9000の造反に、人間は苦しむことになる。

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    機械は人間のために働くように制御されているが、意思を持つというのは制御が利かなくなることだ。親が、子どもを制御できないのは当たり前で、だからといって「お前なんか生まれてこなければよかった」という親はバカである。「生まれてこなければよかった」と親に言われて苦しむ子どももいるが、自分はガキの頃からそんなことを言う親がバカに思えた。

    苦悩から生み出された子どもではない。快感作業ともいえる行為が主体で生んだ子を、「作らなきゃよかった」など茶番もいいところではないか。子ども時分にそんなことが分かっていたわけではないが、純粋に子どもを育て、可愛がる動物をみても、「産まなければよかった」という親の言葉に、「そんな言い方ってあるか?」くらいに思ったはず。

    勝手に作っておいて「産まなきゃよかった」が卑怯な言葉なのは子どもにも分かる。親が子どもに「卑怯」でいいのか?子どもだから通用するであろう「卑怯言葉」を行使する親は、子どもに尊敬などされないし、子どもに「卑怯」をしてまで権威を行使するバカ親。「卑怯」は誰に対しても非道な行為だが、肉親にするのは見境のない、情けない人間である。

    親からの「卑怯」な言葉、卑怯な行為を多く経験した。卑怯をされたから自分もするという人間がいる。意地悪されたから自分もする。悪口言われるから自分も言う。こういう人間の気質は理解できない。善悪を判断するのは理性であり、感情で善悪は判断できるはずがない。「人が○○するからする」という人間もよく分らない。主体性だけで人間は生きてはいけない。

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    集団行動、協調というのは人と同じことを強いられるが、そうでない場合も他人に合わせようとするのは理解できない。形式や様式も必要だが、そういう物ばかりに囚われない自由さを育む教育が望ましい。物事を根本から考えるなら、「人が○○するから(自分も)する」のがオカシイのがよく分かる。自分の頭で、自分の価値観で考えれば、妄信的に人の真似はオカシイ。

    「猿まね」とは、知能の低い猿が、知能の高い猿や人間を真似ること。知能の低い側にとって真似は価値がある。食事に行ったときのこと。「何食べる?」と聞いたときに、「お前と同じでいいよ」。初めてこの言葉を聞いて驚いた。「何でだ?」と聞き返すと、「考えるのが面倒くさい」といった。自分が金を払い、自分が食いたいものを、人に決めさせるなど、自分にはなかった。

    「面倒くさい」は、こういうところにまで波及している。これに関連して、最近ある事が目に入った。信じられないことだが、今の若者の3人に一人が、セックスに興味がないと言う記事だ。最も多い理由が、「面倒くさい」である。他にも「恥をかきたくない」、「2次元に嫁(恋人)がいる」、「生身の女は不潔で気持ち悪い」、「仕事で疲れてその気になれない」。

    「疲れてその気に…」以外は理解不能だ。「セックスはただじゃない。恋人にはお金がかかる」というまことしやかな方便もある。方便といったのは、恋人にお金がかかるから持たないなど、動物生態学的にいっても方便としか理解できないからだ。なぜ、このようになったのか?パソコンとインターネットの影響ではないかと思えるフシは多分にある。

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    出会い系サイトは不倫の温床というが、実はそうでもない。若い男女、それも中高生の出入りも自由である。ハードに規制をかける親もいるが、それも少数で、規制をかけられた子どもに不満は増幅する。まさに防波堤の切れそうなところを探し、決壊したら一気になだれ込む泥水の如きである。昨今は、「彼氏・彼女募集掲示板」には小学生が参入する。

    実に簡単に異性が確保できる時代になった。こういうところに出入りする男女は、間違いなく異性目当てであるから話の進展が早い。口下手でオタッキーな男でも女でも、顔の見えない文字会話ならそれほど苦労もない。などとイイこと尽くめの時代が異性やセックスに対する興味を失わせたか?社会学的分析ではないが、異性に対する関心度は低くなっている。

    昔も今も異性はあふれていたが、ガードも堅く、目の前にいる女が露骨に異性を求めているような仕草は見せなかった。男の言葉に少しづつ鎧を取っていくしかないのは、結婚まで処女でいるべきという、純潔教育のたまものであった。異性がいとも簡単に手に入れやすくなった時代にあっては、地域を越えた場所にでもスタコラ出かけて行くが、様々な被害も生まれる。

    鹿児島から東京まででかけて行って、そこで実入りがないとなると、男は必死で女を漁るだろう。静岡から熊本まで女子高生に会いに行った49歳のクソオヤジが、女子高生を殺して山林に埋めた事件も、あれはレイプをした口止めではなかったか?この男は宿泊先のホテルで、50代の女性指圧師の手首をつかみ、自分の下半身を触らせ、強制猥褻罪で起訴されている。

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    50代のババァに対し、何とも強引な男である。女子高生事件は、強姦後に再起訴されないよう殺したと推察する。その辺りの供述のないままに8月20日、拘置先の熊本刑務所内で、廊下側の鉄格子に下着を結びつけ、座るように首を吊って自殺をした。ネットの中高年は、女とやれるなら全国どこにでも出かけて行くが、今の若い男にそんなバイタリティはない。


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    男と女の子育て観の相違はいろいろあるが、母親は乳児期の記憶がいつまでも残り、子どもが成長・発達して心や体の機能が充実しても、乳幼児期の記憶が災ってか、我が子を幼く、弱々しく見てしまいがちになる。我が子を正しく見る能力が曲げられ、それが過保護になる原因のようだ。子どもへの接し方が感情主体になると、どうしてもそのようになりがちだ。

    野球やサッカーにしても、名監督、名参謀は感情的にならない。選手のプレーにその都度感情的になってしまっては、チームもゲームもコントロールできない。闘将、猛将などと、熱くなる監督を評価するマスコミは面白半分に書いているだけだろう。人間だから勝負事には熱くなりやすいが、先ずは自分をコントロールできる監督でなければ無能である。

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    激しく抗議するときは、理性を土台に演技力を発揮しているに過ぎない。心中は冷静であるという。子育てに言われる言葉に、「子どもを怒るのではなく、叱ること」というが、選手を叱る、審判を叱る(抗議)と同じ事だ。怒り(感情)の発露が子どもにどう伝わるかという冷静な視点はなく、自身の怒りにかまけている母親をバカだと思った時のことを忘れない。

    大好きだったセーターを石炭ストーブの中に放り込んだ母を目の当たりにし、その光景を子どもはどのように思うのか?自分の体験であるが、同じようなことをされた他の子どもたちは、どのように思うのか?親が子どもの大切なものをどこかに捨てたり、横取りして食べたり、そんな動物がいるとは考えられないが、人間はそういうヒドイ事をする動物だ。

    それでも子の親であるという、現実を果たして受け入れられるだろうか?自分は、受け入れられなかった。「それでも親か!」どころではない。「この人は人間じゃない、鬼だ!」と思った自分。小学五年生にして、親に対する人心は決別となった。怒りや悲しみを超越した行為をされたとき、人間は茫然自失となる。その事がもっとも恐るべき感情であろう。

    親に対する怒り、悲しみをはるかに超えた、「茫然自失」が意味するものは大きい。50年をはるかに経過しても頭の中に映像として焼きついている体験というのは怖ろしいものだ。戦争体験や原爆体験なども、そういうものであろう。同じ事が実の親によって被ったのだから、そのショックは筆舌に尽くされない。その日を以て、親子を紡ぐ心の糸がプツンと消えた。

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    その後もいろいろな目にあったが、「どうしてこういう親をもったのだろう」という言葉しかなかった。精神的に追い詰められながらも、耐えるしか術はない。耐えるか、逃げるか、殺すか、死ぬか、四つの選択の中で、「耐える」を選んだのは、今に思えば正解だった。それ以外のものはいずれも悔いとなったであろう。そう考えると、犯罪と自殺は同じものである。

    いじめ自殺も、いじめる相手を殺すのも価値は等価である。自殺と犯罪者とどちらが正しい?善悪の答えがでないなら、どちらを選択する?「犯罪者になるくらいなら自殺を選ぶ」、「自殺するくらいなら犯罪者を選ぶ」。人によって選択は異なるだろう。その前に、「自殺と犯罪者」についての善悪は分らない。宗教的、道徳的価値基準はあるが、それが真理か?

    自分はある哲学者の、「真理などない。あるのは解釈のみ」を信じている。もし、「自分のやる事は絶対に正しい。何が善であり、何が悪なのかを決めるのはこの私なのだ」という考えを貫く者は、ルイ十四世のような絶対君主になるしかなかろう。そうなれない者は、自分の考えを撤回するしかない。「自分はお前に腹が立っている。お前を殺したいし、殺すのは善である」

    そんなことを言い出す奴は狂気である。そう考えると、あのとき母を殺さなかったのは正しい。犯罪者のいう「善」は、独善的解釈でしかなく、怒りの対価としての殺人は正しい対価とはならない。人を殺すに価するような、「善」的な怒りがあるのかないのか、そのあたりも解釈であろう。独善解釈としてどうしても人を殺すのが善と信ずる者は、行為後に堂々「罪」に服せばいい。

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    クルマで追い抜かれた。すれ違いに肩があたった。ハゲ頭と罵られた。などなど、殺人事件の要因にはさまざま理由を、客観的に正当と言えるのか?「正当」とは何をもって正当なのか?一例をあげると、戦争や刑罰がある。が、本当にそれが正当といえるのか?原子爆弾は正当なのか?これらすべては解釈に過ぎない。刑法に「正当防衛」という項目がある。

    【刑法第36条】…急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。

    2 防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

    法も人間の判断(解釈)であり真理ではない。ニーチェの言う、「真理などない、一切は解釈である」は正しい。と、いえどもこれすらニーチェの解釈であろう。「キリスト教の真理とは…」についていろいろ書かれている。どう見ても理屈であって、現実的でない。と、自分は解釈する。が、キリスト信者は、「聖書こそ真理」と言う。それもキリスト信者の解釈である。

    自分は、「真理」を認めず、「解釈」という言葉を躊躇わず使うが、キリスト信者は聖書は「真理」そのもので、「解釈」などと言わない。ところが、同じキリスト教でも別の宗派の聖書の受け取り方の違いについて、「解釈の相違」という。「間違い」と言い切るものもある。何か一つだけ正しいと信じるものは危険と言わざるを得ない。つまり「真理」と信じることが怖ろしい。

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    なぜなら、キリスト教信仰の論理なら、仏教国家や儒教国家、その他異邦宗教を信じる国家はみな呪いを受けて失せるべきとなる。にもかかわらず、世界至る所に分布し、存在する異邦宗教等をどう説明する?仏教、儒教、ユダヤ教等の教理の中にも同様の真理がある。仏教の「慈悲」、儒教の「仁」は用語が違うだけで、キリスト教の「愛」に含まれる一つの部分。

    仏教者にしろ、キリスト教者にしろ、最もらしいことをいうが、宗教は観念的であり、臭い物に蓋をしておけばいいが、現実はそうは行かない。観念の対語は現実であり、都合悪きことに蓋をしていては現実は見れない。同じ最もらしいことをいうなら、考えに考え抜かれた哲学者の言葉の方が現実的である。宗教的観念は主観的、哲学的概念は客観的に思える。

    観念と概念は似ているようで非也。キリスト教が「真理」としてきたものは、神学的な視覚観念的アプローチに過ぎない。そういう物に囚われないのが、「自由」な人間であると以前は思ったが、宗教の律法や因習にとらわれないからといっても、人は自身の律法に従って生きている。それを果たして自由と言えるのか?何ものにも囚われない自由な人間と言えるのか?

    人はみな自身の立法者であり、それぞれの中に自ら従うべき「掟」を持っている。「掟」の種類はさまざまアリ、どういう「掟」に従えばいいのか、も各自が決める。自分の従う「掟」を自由に選択し、自由に決定するなら、人は自らの律法に従うという点で自由である。「自分が立てた掟に従うことが、真の自由」とカントはいった。それをヘーゲルが受け継いだ。


    ニーチェも受け継いでこのように述べている。「きみはきみ自身に、きみの悪ときみの善とを与えることができるか?きみはきみ自身に対して、きみの掟を執行する裁判官となり、処罰者となることができるか?」(『ツァラトゥストラはかく語りき』)。昔、『自由になりたい』という曲が好きだった。しかし、空を自由に飛ぶ鳥は、本当に自由なのだろうか?


                                               
     I wanna be free                 自由になりたい
     Like the bluebirds flying by me        側を飛んでいく青い鳥のように
     Like the waves out on the blue sea   青い海原に消えていく波のように  
     If your love has to tie me                    君の愛が僕を締め付けるなら
     Don’t try me                                    僕を苦しめないで
     Say goodbye                       さよならを言って
       

    さも分かったように持論をぶつける人もいれば、自らへの問いとして持論を述べる人もいる。違いは他人には分らないが、その人の基本的なスタンスがつかめれば、どちらに組する人かを知る。何事も分かったかの如く、軽々に口にする人は、大切なことを知らなかったり、本質的な知識が抜け落ちていたりで、そういう人の言葉は役に立たないものが多い。

    知識が増え、物事の道理が分かれば、真理が遠のいていく。求めども、思索すれども、真理は遠のいていくばかりである。あげく、「真理」は存在しないことに気づく。言い換えれば、それが世の「真理」である。老子の言葉に、「為学日益、為道日損」とある。意味は、学問を修めれば日ごとに知識が増えていくが、道を修めれば日ごとその知識は減っていく。確かに…


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  • 04/21/16--16:57: 将棋指しにバカ多し

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    長いこと将棋をやっていると多くのバカに遭遇する。と言ってみても、自分も将棋を指す以上、同類バカではないのか?みながみなバカというのではない。そういうバカを批判をし、「自分はこういうバカにはならんぞ!」という戒めがあれば、バカの類にはならないでいれるはずだ。バカの側から見れば、自分はバカに見えるのかも知れないが、それは別に構わん。

    バカの類から見たバカというのは、バカでないので気にすることはない。将棋をやらなければ温厚で、紳士的な人が、将棋となると豹変するのはどうにも解せない。人の豹変でよくいわれるのは車の運転がある。普段は怒ったり声を荒げたりがない、穏やかな性格の人がひとたびハンドルを握ると、荒っぽい運転をしたり、他の車に暴言を吐いたり、やたらスピードを上げたり…

    運転中は普段と別の性格を持っているようだが、車の運転で性格が変わるのはなぜ?心理学的にいえば要因は2つある。1つ目は、危険なことをしているときの身体的な変化によるもので、車の運転という、ある種の危険な行為をしている最中は、血圧が通常よりも上がり、戦闘態勢に入っている。そんな状態の中で、人はちょっとした出来事にも過剰な反応を示すという。

    その結果、怒ったり臆病になったりと、普段とは違う一面が出る。2つ目の要因は、外づらと内づらの存在が影響しているといわれる。人は日常生活の中で我慢している社会的な顔と、他人のことなど全く気にせずに行動するプライベートな顔を持っている。これら2つの顔のギャップが激しい人ほど、"表と裏が違う人間"といわれる。車の運転はその一つの例に過ぎない。

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    様々な面で表裏の食い違いをみることで、驚いたり、事によっては人間不信になったりする。有り体にいえば、社会的・道徳的に優れているように見える人ほど中身は怪しいということになる。言い方を変えると、表面(おもてづら)のいい人ほど、裏の顔の別の面が強調されやすい。巷でよく「麻雀やると人が変わる」など言われたし、自分も経験がある。当然、将棋もそうだ。

    ようするに勝負事をするとき、その人の裏の顔(実は本心)が見えるということだ。車の運転は勝負事ではないが、ハンドルを握ることは勝負事と同じ戦闘モードである。昔、上司と麻雀をやっていたとき、ちょっとした事で、「もう止めた!」山を崩して帰ったが、残った者は一様にシラケムード。それ以降はその上司を誘う事はなかった。よもや彼も誘ってもらえると思ってはない。

    将棋をする中でもいろいろな場面に遭遇したし、他からもいろいろ聞きもしたし、その度に将棋指しにはバカが多いなと感じたりもした。感じるだけではない、「そんな人間にはならんぞ!」と戒め、我が身を引き締める。長いこと指すこともなかったが、60歳を越えてシルバー領域に入ると、公民館や「老人憩いの家」などの福祉施設に顔を出せる有資格者となる。

    昔取った杵を披露する近々であるが、年をとっても、「バカ将棋指し」がいるのはなんともやるせない。そういう事もあってか、子どもと指すのを好む自分だ。子どもに「バカ将棋指し」という類はまずいない。負けて泣く子はいても、見苦しい言い訳をしたり、強がりをいったり、さほど棋力もないのに自慢したり、そういう無様さや惨めさは子どもには皆無である。

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    麻雀にしろ、将棋にしろ、なぜ人から嫌われると分かってる行為を繰り返すのか?車の運転にしたって、彼女や愛妻を助手席に乗せていても、構わず性格を荒げ、前の車との車間距離を詰めて煽ってみたり、追い抜かれた車に対して大声で暴言を吐いてみたり、同乗者が不安になるほどスピードを出してみたり、周りから嫌われると分かる行為をやってしまうバカ。

    こういう性分は、車も将棋も麻雀も、すべてひとくくりにできる要素を持っている。その人が、『常に勝ち負けにこだわって生活している』からである。周りの車に負けたくないという意識、あるいは他の車の様子から、周囲が自分をバカにしているのではないかという劣等感が原因となっている。将棋も麻雀も、他のスポーツ競技もまったく同様に考えていい。

    イケメンアスリートであれ、美人アスリートであれ、普段と競技中の顔は当たり前だが別人となる。もちろん性格も違うというか、闘う者としての顔に変えざるを得ない。が、プロの競技者は、その熱く滾る性格を競技だけに埋没させ、普段は現さない鍛錬をしている。ボールを壊すプロボーラーはいないが、テニスのラケットを壊したり、ゴルフのクラブを折ったりはある。

    すべては競技中の所作である。冷静沈着といわれるフェデラーさえ、ラケットを壊し、ゴルフ世界ランキング3位のマキロイが、クラブを池に投げ捨てた事もあった。もちろん彼らは自身と格闘している。格闘技の極めつけボクシングで、故意の頭突きや肘打ち炸裂もある。1992年世界統一ヘビー級タイトルマッチでは、ホームズのホリフィールドへの肘打ちがあった。


    最近あった「バカ将棋指し」を紹介する。ある公民館で、初対面の人から別のところ(H館)に誘われた。後日覗いてみたが、どこに行っても人と人が向かい合って将棋を指している光景に変わりはない。すると、そこで出合った初対面の人が、「自分が主催する将棋クラブに是非来て下さい」と誘われた。「子どもはいますか?」と問うと、「いえ、老人ばかりです」という。

    気のりしないままに後日覗いてみた。自分をAとし、初めて顔を出したH館にいたB、H館で出会ったクラブ主催者をCとする。Cはここにはあまり来たくないので、自分で主催したといい、Bについてをこのように言った。「私はBとは指さない。前はやりましたがポンポン指すし、口も悪いので指さなくなりました」。前に記したが自分はBの早指しに合わせている。

    その時Cは、ここでは白髪のDに気をつけた方がいい。性格が悪いです」。と言葉を置いた。Dが誰がわからない。自分の知る白髪の老人はいたが、一度指した印象では人格者の感じであり、まさかその老人とは考えもしなかった。人の好き嫌いは自分に当てはまらない場合が多く、気にも留めなかったが、その白髪の老人と二度目に対局したときに事件は起こった。

    年は75~80歳くらいの白髪老人はさほどの棋力がないのは前回分かっていたが、長幼の序ということもあり、「若いものから行かせて頂きます」と自分が先手を持った。2番連続で勝ち、緩めないから大差であった。そこで自分は、「負け先で行きませんか?」と言った。相手は頷くこともなく改めて駒を並べたが、なかなか指さないので、「お先にどうぞ!」と促した。

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    すると、「そんな事は言われんでもわかっとる!いちいちうるさい奴だな!」と喧嘩越しに言う。言葉に驚いたが、少し間を置いて意味することが理解できた。ようするに、この老人は自分が先手を指すことが気に入らない。確かにひどい負け方をしたが、それは勝負だから文句はいえない。が、せめて自分が後手であることが相手より上位と言うプライドを保てる。

    そういうくだらない事だったと判断した。老人は、「いちいちうるさい奴だ!」といい、さらにこうたたみ掛ける。「いちいち人に指図をするなら、もうお前とは指さない!」そういいながらグダグダと言葉を続ける。「お前みたいなわきまえのない人間は将棋なんかするな!わかったか!」。バカげた言葉にむかつくことはないが、ここまで言うなら言わねばなるまい。

    「頭は白髪を生やしているが、なんだいその言い方は?いい年こいて、いう事はまるでハナタレ小僧じゃないか?人に指図するなと言っておいて、オレに命令するんか、バカタレが!」と大きな声だが、怒り声ではなく冷静に返す。相手は予期せぬ言葉にか、自分の目から顔をそらして言った。「とにかくお前とはもう指さん」。「それは別にいい。嫌な相手と指すこともない。

    だからと言って、"お前はもう将棋を指すな!"とは誰に向かっていってるんか?ガキじゃあるまいし、考えて物をいえよ」。自分は怒り口調でいわないのを心掛けている。喧嘩ではないし、冷静に論理で攻め立て、相手の返答を待つ。喧嘩は汚い言葉の応酬となり、犬も食わない無様な罵り合いとなる。見る側からすればいい加減バカであり、論理で攻めたてる方がクレバーだ。


    老人は何もいえずに席を立った。汚い言葉の言い合いなら続いたろうが、売り言葉に冷静に対処されれば、この手の人は言葉が続かないのが分かっている。自分も言葉を発しながら、なんとつまらん人間がいるものかと情けなくなる。年の功とは言ったもので、年長者は尊敬の対象としたいが、これではあんまりだし、「バカ!」という言葉も無意識にでる。

    汚い言葉を口にしたくはないが、目の前で起こっていることがあまりにバカげているからである。こんなことで臍を曲げ、怒りをぶつける人間がいること自体バカげている。今後、相手がどのように接してくるのか分らないが、こちらは平常心だし、後日顔を見れば、「やりませんか!」と声もかけるが、相手がどうでるのか?事が起こったあとの興味でもある。


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    今月15日、長男に長男が生まれた。名は薫。長女が葵だから二人ともクサカンムリ。意識したのかどうなのか、長男は自分が一文字だからか、一文字に拘っている。「二人とも草食系だな」と言っておく。19日に長女と息子、自分ら夫婦、長男夫婦と2児(一人は生後4日)も含めた8人で寿司店に出かけた。そこで長男の嫁が、「昨日観ましたか?」という。

    「何を?」、「橋下さんの新番組です」。「そっか~、観ようと思って忘れてた。11日からだったよね~、昨日で2回めか!」、「そうです。面白かったですよ。自分の息子の入学式に、勤務校の入学式を休んで出席した先生がいたじゃないですか、それについて橋下さんと尾木ママが言い合いしてました。橋下さんは、それの何がいけないの?っていってました」。

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    「橋下がそんな風に?意外だね。何でだろ?」。のっけからそんな会話で始まった夕食会は、長男誕生の祝と長女の息子の15歳の誕生日(23日)を兼ねていた。長男の嫁は自分が橋下ファンであるのを知って話題を出したようで、まさか尾木ママ嫌いまでは知らないはずだが…。尾木ママは橋下の教育改革にイチャモンをつけており、それで橋下の番組に呼んだようだ。

    宴が終って気になってYouTubeを探すとUPされていたので、11日分と18日分をまとめて観た。11日の議題は「育休」についてで、【尾木ママVS橋下因縁バトル】と、局側が煽っていた。主旨はというと、男性国会議員として初めて育児休暇を取ると宣言して話題になった自民党の宮崎謙介衆院議員(35)だが、妻の出産6日前に不倫をするというチャライ男だった。

    結局それが元で国会議員を辞職することとなる。この事により、世の男性の育休に対するイメージが悪化し、育休を取りづらくなったのでは?という設問である。尾木は宮崎謙介議員の英断に、「国会議員さんが率先してくだされば、波及効果絶大です」とエールを送っていた。このゲス議員のせいで育休のイメージが悪くなったかどうかについて二人は分かれた。

    尾木は「悪くなった」、橋下は「悪くなっていない」ということで始まったバトルだったが、最終的に尾木は橋下の意見に同調し、「悪くなっていない」と意見を変えた。自分の思考にない他者の考えを聞いて、持論を変えるのは何も悪いことではない。「主張を貫かないのは意志が弱い」などという人間もいるが、正しいと思ったことに考えを変えるのはいいことだ。

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    論破されたことを揶揄する風潮は、つまらぬ鬩ぎあいを助長するだけだし、論破されることは恥でも何でもない。それだけ良い意見に触れて素直に心が動いたということだし、つまらぬ自尊心を捨てた事を評価すべきである。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉も、このことを示している。人間は知らないことの塊だから、井の中の蛙から外に出るべき…。

    尾木の柔軟さはいいが、どちらかというと彼は自らの内にある考えをまとめて話す講演者タイプ。対論や意見交換で説得力ある発言はない。解剖学者養老孟司も言いっぱなしで反論をしない著述家タイプ。なぜ反論しないか、おそらく思考が硬直だからと察する。一方的に言うより反論が難しい。尾木の反論に精彩がないのは、単に頭が悪いからだろう。

    人から授かることを嫌う人間もいるが、素直な人間にむしろ「徳」がある。学ぶ力のある者は、価値のない道端の石や幼児の遊びを見ているだけでも何かを掴む。自尊心やプライドが災いしてか、つまらん人間の何と多き哉。「ためにする議論」、「ためにする批判」というものがある。この場合の「ため」とは「為」と書き、「為行為」のことを指摘する。

    「為行為」とは、「ある目的を達しようとする下心あって行う」事をいい、何かに役だつの、「為になる」とニュアンスは似ているがまるで意味が違う言葉。「議論のための議論」、「批判のための批判」は、なんとも味気なくてつまらない。新島襄に、「諸君の議論に、愛の油を加えよ」という言葉があるが、頭がいいというより、生きる土壌が違うのだろう。

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    新島襄は、キリスト教の布教家であり明治六大教育家の一人とされる。同志社大学(前身は同志社英学校)を興したことでも知られるが、ときの政府がkキリスト教を邪宗として禁止していた明治の初め、キリスト教自由主義の学校を作った新島襄について、以下の話が伝わっている。学校を作って間もないころ、一部の学生によるストライキがあったが、やがて収まった。

    ある朝の朝礼で新島は、「今度のことは、学生の君たちが悪いのでも、教師の皆さんの手落ちでもありません。すべては私に責任がある。罰せられるべきはこの私です。」と延べ、彼は持っていたステッキで左手を打った。力余ってステッキは折れてしまった。すれを見たストライキに参加した学生の一人が、小走りに彼のところに寄り、ステッキを取り上げたという。

    経営者の社員に対する愛、教師の生徒に対する愛、親の子に対する愛、そういった本来は無形なものである「愛」が、等しく欠けているように思う。「社是」や「社訓」には綺麗ごとを書き並べ、従業員を奴隷のように酷使する企業。生徒のためといいながら、己の保身しか頭にない教師、子どものためと言いながら、自己の欲求のために子どもを塾漬けにする親。

    もちろん、そうでない人もいるにはいるが、自分の思い込みや綺麗ごとに疑いをかけることはあまりしない。人間は欲で愚かな生き物だから、注意しなければ子どもは巻き沿いになるという危機感すら持たない。「愛」というものの本質は、自己の犠牲の上に成り立つものであるようだ。「輝くもの、必ずしも金ならず」という言葉の中にも「愛」の本質が隠されている。

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    さて、尾木と橋下の番組だが、やはりバラエティー構成の感は否めないし、そのように観なければ『朝まで生テレビ』的言い合い状態になる。ディレクターも視聴者が嫌悪感を抱かぬようトーンを抑えた構成を意図するのはやむを得ない。のっけの会話の議論は18日放送分だが、この問題について昨年の4月15日の記事に書いた。内容は覚えてないので改めて読み直す。


    これがその当時の自分の考えのようだ。今は?何も変わっていない。尾木の考えは、「勤務校の生徒より、自分の子どもを優先するのはオカしい」である。一方、橋下は、「自分の子どもの入学式を優先させたからといって、それはそれで一つの選択」と、善悪良否の問題ではないという意見を述べている。二人の対論は映像を見れば明らかだからいう事もない。

    自分の考えは結果的に尾木と同じだが、理由は全然違う。また自分は橋下の考えと基本は同じである。公務員の行為を公務員外の人間が判断し、それで良否や善悪をいったところで、所詮は部外者意見であろう。問題があるとすれば、公務員の規律や心の緩みを指導する校長である。新島襄が校長として訓示した、「生徒や教員に責はない。すべては自分だ」のように。

    今の社会のように、誰も責任を取らないし、取らないでもいいようになっているようでは、正しいものを見つける事は難しい。正しいものを見つけるための身近な方法は、悪いものを見つけることだ。何が悪い、これが悪いとなって初めて正しいものが見つかる。橋下も自分も「選択」といったのは、公務員ならでの選択ということ。公務員以外ではあり得ない。

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    尾木のいう、「公務より私益優先はオカシイ」を自分に当てはめると、「オカシイ」どころではなく、公務より私益優先になどはまずならない。やれ息子の結婚式、やれ家族・親族の葬儀ならともかく、いつもいつも絶対に公務優先というのではなく、自分なりの重要度に鑑みてである。今回の橋下は、番組を盛り上げる意識であえて無理を言ってる感じがした。

    「いい」、「悪い」でない「選択」というスタンスで、あえて「いい」としたからには、「選択」以外の理由も求められる。「入学しに担任が出ることがそんなに重要なんですかね?」と、教師経験のない橋下は尾木に問うしかない。さらに橋下は、「自分は民間企業に勤めた経験もない」と、民間企業の社員が入学式で会社を休めない事くらいは分かっている。

    それで善悪を判断しろと言われても、茶番といえば茶番である。善悪良否の基準や価値観は個人に帰属されるもので、それについての正当な判断は民間も公務員も上司が判断し、許可を出す。あらためていうが、民間で許可は出さないし、強行に休暇を取ろうとする社員と摩擦は発生する。「橋下は自分の子どもを優先して何が悪い」に立脚してあれこれ述べたが…

    腑に落ちないのは、せっかく橋下が尾木に、「入学式に担任が出ることがそんなに重要か?」と聞かれてなぜ尾木は、「高校生の子の入学式に親が出ることが重要か?」と問わなかったのか?重要どうのこうのより仕事だろ?ならば欠席がよくない。後者は親の自己満足。「いいえ、自己満足ではありません。親子にとって大切なことです」という親もいるであろう。

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    そのようにいわなければ、学校(仕事)を休んでまで行った理由が他愛ないものになってしまう。「ええ、もちろん自己満足です。それの何が悪い?」という人なら、なにものにもめげぬ立派な価値観を持った親だと思うが、御託や理屈を並べる人を信用しない。橋下は、「子どもを優先してなにが悪い」と言いながら、公務中にそれをしなかった。よって現在の意見である。

    首長時代は、「したくてもできなかった」ということなのか?それはそれで橋下の選択だし、彼に帰属する問題だ。したくてしたくてたまらなかったが、公人であり、そんなことで公務を欠席すると、マスコミに何を言われるか分かったものではない。そういう危惧があったかも知れない。自分はハナっから子どもの入学式になど出席する発想がないから、我慢もクソもない。

    それで冷たい親だと子どもに言われたとしても、一年に一度の入学式が、それ以外の364日より大事な、重要な、親の子どもに対する誠実な儀式、愛の表現などと全く思わない。そんなことを責めるような子ども、そういう人間関係(親子関係)すらも理解できない。尾木に組する、橋下に組するではなく、賛同も反対も無い、自分は自分の価値観を構築していく。


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    将棋を指す以上、「バカ将棋指し」にはなりたくないと、「バカ」を見て自戒するように、親になる前から「バカ親」には絶対にならない意識を強く持っていた。しかし、巷には多くの、「バカ将棋指し」や、「バカ親」がおり、彼らは自然とそうなったようだ。「バカ親」の定義もいろいろだが、幼少期からバカ親を見て育った自分には、恰好の、「バカ親」の見本が幸いした。

    「良い人間」を模倣すると、「良い人間」になるのか?「良い」の定義もいろいろだから「好人格」と規定し、ならば、「好人格」を模倣すると、「好人格者」になるのか?「なる」といいたいが、その前に、「好人格」を模倣できるのか?小学校の頃、「一日一善」を指導された。子どもは素直だから、どこかに「善」がないか、探したりもし、難しい「善」を頑張ったこともある。

    所詮は、「うがいの励行」、「手洗いの励行」と同じで、やんちゃな男の子はなかなか続かない。20歳も過ぎた頃にある恋人が、外から帰ったら必ず手を洗うのを見て、「すごいな」と思ったことがある。自分に対しても、「手を洗わなきゃダメよ」と指図をするが、従わない自分に諦めたようで、彼女は黙々と手を洗っていた。その事は、「良い事」と認めながら眺めていた。

    「良い事」と思いながらもできないのが人間。やはり、習慣がものを言う。「好人格」を真似るのもなかなか難しいが、悪い人間の真似はすぐに身につく人間だ。身につくというか、悪に染まりやすい人間の弱さだろう。この世に善人・悪人どっちが多いといえば、おそらく悪人。ほとんどの人間が悪人だと思っている。悪人とは、「悪事」行為だけでなく、「性悪」も含めてだが。

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    「性悪説」信奉ではないが、大人になる事は悪に染まることだと思っている。無垢な幼児を眺めながら、子どもは自然で美しい生き物である。はたして、「悪」の心を持った子どもがいるのか?とてもそんな風には見えない。相対的に子どもは、可愛く、率直で、忍耐強く、向学心も協調性も、さらには遊び心も持っている。しかし、大人の大多数は命がけで「事」に対峙する。

    命を張って争い、命を張って諍う大人は、我々祖先の名残りと見るべきか?大人に限らず、子どもが起こす凶悪な事件に接することもある。そういう子どもも、ランドセルを背負ったあどけない子どもも、白昼、街頭ですれ違いざまに出会う子どもという生き物すべてが、将来の我々の子孫と考えれば、進化というのは「光」だけにあらず、怖ろしい点も含まれる。

    様々な現実を目にし、また触れながら、それでも我々は我々の未来を信じている。20世紀前半のイギリス人小説家で詩人でありながら、児童文学者のウォルター・デ・ラ・メアは、「幼な心の詩人」と評され、ストーリーを楽しむというより、彼の描き出す美しい詩的なイメージや幻想の風景に触れる。小説や詩の主人公たちは、自分の心のなかに広がる世界を大切にしている。

      "こども"とは
      近未来の呼称である。
      これこそ、
      またこれのみが、
      人類の王国を約束する。
      ――――ウォルター・デ・ラ・メア 『ある早朝より』


    「バカ親」は、子どもが築こうとする未来の王国の破壊者である。そんな、「バカ親」になってはならないと戒めながらも、いざ親になれば、よほど意識をしておかないと、「バカ親」の誘惑は日常絶え間ない。親には特権として用意されている、「親バカ」という言葉は、「バカ親」の言い換えである。「親バカ」とは子どもを甘やかせるようで、実は親が親自身を甘やかせること。

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    「バカ将棋指し」が対局相手に迷惑をかけるように、「バカ親」は子どもをダメにするばかりか、社会や周辺にも迷惑をかける。「バカ親」の定義は何だ?細々した要件を言えばキリがないが、端的にいえば、子どもに悪影響を与え、周囲にも迷惑をかける親をいう。「親バカ」なる成語も、親に程度許容された宿命的概念とはいえ、自分はイイ事に思えない。

    バカに気付くのは大事だが、気づいただけで、「人格向上」はない。バカに気づき、バカを止めたくらいで人格が向上するなら、多くの人格者が存在する。単にバカでないだけである。人格者に向いた向上心は、さらなる自分磨きが必要だ。近年目立つ「バカ親」の具他例として、金があるのに子どもの給食費を払わず、パチンコ、レジャーなどの遊興に使う親。

    スーパーなどの人の多い店内を駆け回っても注意しない親しかり、電車の座席に土足であがる子どもを注意しないのは「バカ親」の定番。あげればキリがない。コンビニ店を経営する妻の妹から聞いた話。親子連れの子どもが来店、子どもは4~5歳で、キャンディ代金を親が支払った。すぐ食べるかと袋に入れずテープを貼ると、その子はキャンディを床に投げつけた。

    それを見た親はこう言った。「わたしたちのは袋に入れ、子どもの分だけテープが気に入らないようです。同じように袋に入れてもらえませんか?」。正当な言い分と感じる親もいよう。が、手渡されたキャンディを床に投げつけるのはどうであろうか?自分ならば(と前置きするが)、我が子の行為は到底許さないし、投げ捨てた子どもの手を叩き、以下のように言う。

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    「そんなことをするなら二度と買ってあげないよ!」。子どもといえど、将来は社会に生きて行くことになる。よくない行為は早いうちから教えたり指摘するのは当然のこと。子どもだからいい、子どもだから許されるは、親が勝手に許しているだけだ。周囲の大人は親が子どもに寛容であることを、「親バカ」として許す部分はあるが、それに甘えぬ親を評価するハズ。

    心ない態度を店にも謝罪する。そんな親に対し、「立派な親だな」と、親バカ容認派であっても、そのように感じる大人もいよう。が、「そんな事までする必要がある?まだ何も分らない子どもなんだし…」と感じる親もいるはずだ。善悪はあえていわないが、どちらが子どものためかの選択は、親自身の考え方一つである。親の考えるように子どもは育っていく。

    以前も書いたが、感動した若い父親の話を再掲する。スーパーの大型店には3台ものエレベーターがある。そこに夫婦と子どもがやって来た。5歳くらいの女の子である。少女は全部のエレベーターの停止指示ボタンを上下とも押して笑っていた。それが子どもの他愛のない遊びなのだろうが、30代くらいの若い父親が、子どもの手を思い切り叩いて叱った。


    「そんなことするもんじゃない!」と、子どもの目を見据えて威厳に満ちた声だった。叱るだけでなく手をピシャリと罰を与えたこの若き父親に感動した。この少女はいい親を持ったいい家庭に生まれて幸せだな。キチンと躾のできる親を持ったこどもは幸福である。「今はまだ言っても分らない」という親は子どもを見くびっており、だから躾もしないでいる。

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    子どもの楽しみを奪いたくないという親心はわかるが、周囲に迷惑をかけること(公共性)と、個人的なことのケジメはつけるべきであろう。もし、同じ事を欧米人なら、周囲の誰かが親に注意する。住宅街の隣の家の芝が伸び放題で手入れしていなくてもハッキリ苦情をいうし、それでこそ全体的に美しい住宅街となる。日本人は近隣と事を荒立てたくないを一義とする。

    日本人のいう「他人は他人」の、「他人」とは風景と同じ事。欧米人は、「他人も人」である。本人が愚鈍なら周囲が分からせればいいが、敵となりたくない日本人は、陰で悪口を言う。悪口といえば、70歳、80歳になっても止められないのはなぜだろう?そこに人間の孤独の影をみる。悪口をいう人のタイプ別心理というのがネットにあった。正確というより、妥当な分析である。

     ・ライバルを蹴落とすタイプ
     ・自尊心が高いタイプ
     ・ストレスを発散するタイプ
     ・負け犬の遠吠えタイプ
     ・冗談として発言するタイプ

    当たっているのも違うのもあるように思う。自分の考える悪口好きの根底にあるのは、ネガティブな考え持った人、孤独な人ではないか?悲観的、自虐的、自己否定、内気、うつ的傾向、過去にこだわる、非社交的、劣等感が強い、過去に拘る。こういったネガティブ思考でマイナスの生き方をする人は多いが、今回、「バカ将棋指し」はこれらに該当する。

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    昨日、爺さんがポツンと相手を求めて座っているので声をかけた。「無理にとはいいませんが、よかったらやりませんか?」と、顔を覗きながら子どもを諭すように言ってみた。案の定(予期していた)爺さんは無視して言葉を発さない。「やりませんか?」と二度言ってみる。目も合わさぬ爺さんの顔を見ながら、斯くのワザとらしい態度ができる爺さんに感心した。

    ダダをこねてる子どもでも、人としての反応は示すが、爺さんは年季も入っているのか微動だにしない。光景自体はカワイイものだが、大人がやると大人気ない。(つまらん人ですのう…)と、口に出さず腹で思っておく。本人は無視をしてるのだろうが、茶化されているなど気づくハズもない。80歳にしてこの醜態、なんともお気の毒としか言いようがない。

    人格者に共通するのは、誰にでも愛ある言葉をかける人ではないかと…。偉業を成した人とか、すぐれた教育家とかでなくとも、「人に愛」があればいい。将棋をやる者なら分かることだが、負けた側が先手をもって指すのは、ルールというより勝者への敬意であろう。勝者をリスペクトする自然な気持ちが湧かぬ人を、「つまらん人」と自分は見る。


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    「子育てに大事な、三分の寒さと三分の飢え」といった儒者がいた。昔のことだから、言葉だけを捉えて、「子どもにそんな目にあわせたくない」という親もいようが、大事なのは、「言外の言」、「理外の理」を理解すること。どうして、「バカ親」が発生するのかをいろいろ考えた事があった。そういう親を見るために、「なぜ?」が必然的に思考をめぐらせていた。

    子どもの時分には分らないが、自分の母親もなぜあれほど「バカ親」だったのかについて、なんども考えた。発生要因の土台にあるのは、妄信的な子ども可愛さである。が、そのこと以上に大事なことは、「自分がバカ親であることに気づかない」、これがバカ親を世に有らしめる最大の理由。世間の多くの人はバカ親を見て、「なんで気づかないんだ?」などと感じる。

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    「バカ親」の感情的行為(子を思う行為)よりも、行為の是非を理性的に問うているようだ。もちろん、親だから子どもに妄信的になるのは分かっているが、周囲はその「妄信さ」を責めている。親の子に対する妄信的愛も、"程がある"ということである。そこに気づくか、気づかないか、これが親に限らず「バカ」を生む要因ではないか。「バカ将棋指し」も同じ事。

    そういう態度を取ったら相手がどう思うか?逆に自分が同じ事をされたらどういう気持ちか?そういう想像力を抱かないからできる行為ではないか。人間は感情の動物だから、様々な感情に支配され、他人のちょっとしたことにさえ情緒を乱す。乱れた心を内に秘めて傷つく人もいれば、言葉にして言い返す人もいる。後者は防御反応と言っていい。

    言葉にしないが、不機嫌さを顔に現す人が一番多いかも知れない。昔、彼女ができたときに、その彼女の友人が教えてくれた。「あの子は、機嫌がわるいとすぐに黙り込んで何も喋らなくなるから…」。確かにそのアドバイスどおりだった。人が不機嫌になる理由はなってみて気づくだけで、不機嫌の防止策はわからない言葉だけでなく、態度も不機嫌の要因となる。

    が、その子の良いところは、「わたしはすぐに不機嫌になるけど、でも少し時間が経てば直るから気にせんとって」と言える屈託のなさだった。「わかった!機嫌悪くなると喋らないんだよね。そうなったらカウントするよ」などと、冗談交じりにいえる関係も明るくていい。人は誰でも喜怒哀楽はあるし、あってもいいが、難義なのは「陰険」な性格である。

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    不機嫌になったときに、その感情をどう収め、処理していくか、その過程は人さまざまである。「陰険」な人間は、どうにもうまく処理ができないのだろう。彼女は嫌な言葉を言われたとき、「あっ、そんなこというから傷ついた」が口癖だった。男からみてみるからに付き合いやすい性格である。これがもし、陰険に根に持たれていると、男の罪はどんどん膨らんでいく。

    「その言葉、傷ついた」といわれればすぐに「ごめん」と言える彼女は、罪を増幅させない。そうなる子とならない子は兄弟の多さではないかと自己分析したこともあった。正確にはわからないが、兄弟喧嘩という心理学的効用はある。自分は一人っ子だが、子を持って分かったのは、幼い兄弟姉妹というのは、本当にバカバカしいことでケンカをするものだ。

    テレビを観るソファーの座る位置でさえ譲らない。長女の定位置に次女が座ると、「どいて!そこはウチの席だし」などと言う。「勉強してていなかったでしょ?」、「でも終ったんだからどいて!」てな具合。言われる側もいやだから、暗黙の自治が成立し、席は自然と決まるようだが、少しでも反抗したりと、自治のバランスが崩れるとケンカが始まる。

    話し合うとか、話し合いのレベルを超えてるとか、話し合うことを踏みつぶされるとか、そういう余地のなさがケンカを生むが、大事な事はクールダウンであり、そこに親が出て行く場合と、本人同士に任せる場合とがある。親が出て行く場合には、どちらにも組せず中立な、"大岡裁き"が大事であるが、多くの家庭は上を叱るようで、それはそれで上に不満がでる。

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    下がちょっかい出したのに、「お姉ちゃんなんだから」と上が叱られるのは、納得できかねる。自分の場合、「上にたてつくケンカは下が悪い」と決めていた。上の子が叱られる不条理に比べてこちらの方がよい場合が多いからだが、滅多なことで子どものケンカに親はでなかったし、妻にも「納得いくまでやらせておけ」と指示していた。下が悪裁定は事後にである。

    下に原因があっても上が叱られるのは、いい気味と日頃の上に対する下の不満があるが、上がちょっかい出した場合でも、「下が悪い」法則で下が叱られるのは、上にとって忍びない部分もある。こうした自分の「下がわるい法則」は、兄弟姉妹の多くの奴から聞いて考えた。弟・妹の多くは下である不満を、上が叱られることで果たしていたという現実だった。

    「なんでいつも上が叱られなきゃならない」という上の不満は納得した。子ども同士の他愛のないケンカのなかにも、親がしっかり目を凝らせてみれば、それぞれに隠された悩みがあるものだ。したがって、兄弟姉妹ケンカの基本的な親の対応は、それぞれの持つ不満や悩みをしっかり把握することにある。"上が叱られていい気味"という下の策略に注意がいる。

    兄弟ゲンカの基本は本人たちで解決すべきだが、下は上に対抗するために親の助力を求めるケースが多く、だからなおさら親が下の味方をすべきではない。「ケンカは下が悪い」は、上を孤立させないことになる。何でも親を味方につけようとする下に対する上の怒りは相当である。兄弟はどうしても上は上としての風を吹かすが、それはまた兄弟の自治に寄与する。

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    橋下元大阪市長は7人の子持ちというが、我が家の4人を超えた7人の家庭というのは想像できない。部屋割りは、3+3+1なのか、2+2+3なのか、2+2+2+1なのかわからないが、昔はボロ長屋に9人、10人はザラにあったという。それはそれで一つの家族として、協力し合って上手く機能してたと察するが、橋下氏はしっかり稼いで8LDKの御殿を建ててもらいたい。

    一人一部屋の家族なんて、まるでホテルのようだが、うまく秩序を機能させる夫婦は立派の一言。親の力ではかばい切れない子どもの日常は、子ども間の自治も含めた秩序維持は大変と思われる。子どもの学習机を見ると親の躾が分かる。学者の書斎の山と詰まれた書籍や資料は、まさにハリケーンと嵐が同時にやって来たような状態だが、ある学者がこういった。

    イメージ 5「整頓された机は、雑然とした精神の徴候である」。田原総一郎でも立花隆でもなければ坂口安吾でもない。崩れんばかりに山と積まれた手紙や原稿、ノートや雑誌などから任意の何かを見つけるのは不可能に思えるが、彼はそこから何でも取り出せたという。他人には雑然・混沌にしか見えないが、彼にとってみれば、おそらく何らかの秩序体系がそこにあるのだろう。

    両親、とりわけ母親は、こどもにキチンと片付けを要求するが、何よりよいお手本は自身がそうすることにある。しばしば男の子の方にだらしがなく、女の子の方がキチンとしているようだが、これも躾のたまものである。そうでない女の子の親は、明らかにヒドイ親であろうし、そういう基本的な習慣は、習慣として個々に内面化される早期にやらないと意味がない。

    人間のきれい好きは大いなる長所で、当然にして伸ばされる性質であるが、"体系づけ"として混同はすべきでない。なによりも意思として反映されるべきものである。「整理整頓」を学校が義務つけてもそれが体系であるなら身には付かない。「手洗い励行」、「うがいの励行」も体系だから身につかないように、前出の彼女のように意思が大事である。

    人間生活における自然のリズムは、「慣例」などに隷従しているのではなく、常に変化を享受しているものだ。「規律」に支配された一生はもろく、バカげたものだ。部屋をキレイにしたい、キレイな部屋に住んでいたいという人は、規律でそうしてるのではない。一言でいえば、「気持ちのいい」生活を求めた上でのアイデアであり、そのための労力を惜しまない。

    乱雑で汚い部屋に居住する人は、それが決して気持ちの悪いものではないのだろう。が、自分以外の他人をなかなか呼ぶ事はできない以上、社会生活というより個人生活である。が、貧乏が遺伝するといわれるように、その様は間違いなく子どもに遺伝する。救いは子どもが親を反面教師とすることか。親が良いからとそうはならない不思議さが子どもにある。

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    人にはさまざまなパターンがあるように、J.P.ギルフォードは、人間の思考過程の代表的分類を、「収斂的思考」と「放散的思考」に分けた。前者は、与えられた情報の性質によって明確な答えが得られる。例えば、2+2=4というように。「放散的思考」は、各自が受けた刺激に対し、一つであれ複数であれ、新たな反応を生む。芸術域に進む人はこちらである。

    一方、「収斂的思考」は、順応的で科学分野に向いている。「放散的思考」の特徴は創造的な人に見られる特徴で、同時に子ども時代に持っていた可能性を、訓練し発達させた能力といえる。幼児期から記憶の訓練ばかりを与えられて、何で創造性を身につけられよう。子どもの、「○○ごっこ」の世界こそが、夢を現実のものにしようという創造性につながっていく。


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    表題は映画のタイトル、ただし副題である。本題は『0.5ミリ』といい、何のことかわけが分からないが、どうやら意味は、「静電気が起こるくらい近い、人と人との距離感が0.5ミリ」ということらしい。安藤桃子が作家デビューとなった同名小説を、彼女自身の脚本・監督で映画化、主演には実妹の安藤サクラを起用した。姉妹の父は奥田瑛二、母は安藤和津である。

    2014年度作品だが自分は観ていないし、レビューを書くわけではない。この映画を知った理由は、「死ぬまで生きよう」を検索したことだった。映画は介護ヘルパーとわけあり爺ちゃんの物語である。超高齢化社会、老人介護、孤独、詐欺、認知症、戦争、ドメスティック・バイオレンス、家族のあり方等、あらゆる人間が抱える問題を提議、と紹介されている。

    映画も知らない、安藤姉妹も知らなかったが、今は顔くらいは知っている。日本映画はあまり観ないが、昨年観た『海街diary』は、原作が吉田秋生、監督が是枝裕和であったこと、YouTubeで観た予告編が面白そうだったこと、さらにもう一つの理由は、兄弟(姉妹)モノであったこと。一人っ子の自分にとって、兄弟は永遠の謎である。知りたいけれども実体験は無理。

    ところで、『死ぬまで生きよう、どうせだもん。』なる副題だが、「どうせだもん」は何を言おうとしているのか考えて見た。考えなくてもアバウトで分かるが、折角だから追求したくなった。その前に、自分がブログを始める時に、「死ぬまで生きよう」の表題を選んだのはアレコレ考えず咄嗟に決めた。「死ぬまで生きよう」は、願望でも目的でもない自然な形である。

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    「100まで生きよう」とか、「死ぬまでに○○したい」とかなら願望だが、「死ぬまで生きる」は、あまりに当たり前の出来事だ。そのことを、「しよう」と掛け声にした。誰でも死ぬまで生きるが、折角「生」を受けたのだから、頑張って生きようという思いもこもっている。年間3万人を越える自殺者に触発された部分もあり、生き切ることはある意味大変でもある。

    人は誰も死ぬが、死んで後悔することはないだろう。死んだことで後悔するのは悲しいが、後悔がない分助かっている。もし、死後に後悔があるなら、すべての自殺者に後悔はあるのではないかと考える。それほどに自殺は恣意的(場当たり的)、突発的になされることに思えてならない。いろいろな自殺に遭遇し、否定したり、肯定的だったり、揺れたことがある。

    最終的に否定なのか、肯定なのか、決められない理由は、自分が彼ら(彼女ら)と同じ立場に立てないこともある。「ああ、死んでしまいたい…、死ねば楽になれる」などと戯言をいう者は多いが、死は実践できないものだ。自殺は恣意的といったが、多くの苦悩と迷いはあったはずで、最終的に実行する段階において突発的ではと推察する。つまり、考え込むと人は死ねない。

    考えた末に留まった人もいるはずだ。自分も一度だけ自殺を強く考えた事がある。台所から包丁を机の上に置き、死ぬ理由がなにかといろいろ考えた。その時の最大の理由が、母親へのツラ当てであった。自分が死ねば母も悔いいるだろう、それくらいしか彼女は分らないし、自分が死ぬ事が唯一母への復讐になる、そう考えたが。考えるうちにバカげていると思うようになる。

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    自死という多大な損害を受けてまで、訴えることがバカげているし、どこに包丁を突き刺すにしても、痛いし、そんな中で意識が薄れて死んで行く。二度と元には戻らない。バカげている、自分のためにではなく、人のために死ぬなど大損害だ。アレコレ考えた末にそういう結論になった。もちろん、母を殺すことも考えたが、殺人は自殺以上に現実的な選択ではなかった。

    理由は、獄舎につながれた「生」に、生きるという実在感を抱けなかったからではなかったか。50年以上も前のことだから克明な記憶はなく、端的にいうなら監獄に入るのが嫌だったのだろうし、人を殺す背信的行為に対するモラル感もあったはずだ。自死という損害的悔い、殺人という背信的悔い、実行しなかったのが何よりで、すればその後の人生はなかった。

    損得勘定という思考の中、死ぬのは勇気がいることだ。だから人は突発的に決断する。殺人も同様、考えて行為できるものではない。親殺しに対し、計画的な殺人を準備し、行為に及んだ子ども達は少なくない。が、彼らには抜け落ちた思考が存在するはずだ。「窮鼠猫を噛む」というが、殺人は最悪の手段であり、噛まない選択をもっともっと考えてみるべきである。

    人間は我慢をすれば報われる。そう信じていいはずで、どのように報われるという欲はあるけれど、最悪の結果を回避する点においても報われるだろう。巷言われる、「死ぬ気なら何でもやれる!」と、それが取り返しのつかない自殺を回避でき、同じように殺人という取り返しのつかぬ行為も、「我慢」によって抑止される。「我慢ならなかった」と言うのは口実だ。

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    「ならぬ我慢こそ、するが我慢」である。人間界に限らず、一切の自然界の法則は、エネルギーは常に減衰し、エントロピーは常に増加の傾向にある。そうした中にあって安定とは、エネルギーの少ない状態をいう。エネルギーが少なければ物が動く事はない。どれほどエネルギーのある物でも、周囲を強固に押さえられるなら動きはできない。それを不自由というが…

    安定には寄与する。自制も自らへの安定をはかどらせる。一切のものは安定しようとし、それが自然の傾向である。若さというエネルギーが、安定を目論むのは至難であろう。それでも安定を望むなら、だから死を浮かべる。死ねばエントロピーもエネルギーもゼロである。増加と減少の矛盾も解決される死は、完全な安定といえよう。動くこともない、自由度もゼロである。

    日本の歴史を見るに、最も安定した時代である徳川時代、その安定した社会が一体歴史に何を残したか?制度や人間関係に衝突をきたさず、傾向あれば即座に取り締まるという安定の強制が人間的であったとは到底いえない。それらの不満が幕末に爆発し、新しい自由な時代を作った。つまり、徳川封建時代というのは、人間であることを止めた人間によって社会が動いていた。

    たとえ黒い物を白と言われても逆らわない主従関係が、どうして人間的であろう。弱き人間が100人集い、強き人間一人と綱引きをする。当然ながら100人が勝つ。ところが、1対1では負ける。自分が人間であることの証明は、そうした二重性に引き裂かれていることでもある。いつもいつも数を整えて強者に対抗できない。そうした二重性という悲痛こそ、生きる証である。

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    そうした中にしか人間らしい喜びはない。自分の生を呪い、境遇に不満を言ったところで、悲痛が変わることはない。ならば、悲痛を受け入れ、その中にあるささやかな喜びに浸ることだ。そうすれば人生の意味も沸いてこよう。安定と幸福を求めてみても、行き着いたものは不満であろう。ならば、日々の充足こそが生きる意味ではないか。生かされるなら生きるべし。

    どんな英知も富裕も持っては死ねない。英知や富裕なくとも生きる喜びはある。他人は他人、比較もせず羨望も持たず、人生の意味に背を向けずに生きる人であれ。そうして死ぬまで生きる。つまらん人に出会うこともあるなら、つまらん人でない自分は幸せである。最近、つまらん老人を見て、その思いに強く至った。自分も老人なのか?世間的にはその類にある。

    が、老人がみな老いぼれとは限らない。高齢者を老いぼれにさせるのは、年齢と言う見解が老いぼれている社会のせいであろう。人間の成長発達の本質についての見解が古いということ。多くの高齢者が、年齢に待ち構えられるが如く、老齢をやすやすと甘受し、それに身を委ねてしまう。避けがたい肉体の侵食が、同時に精神や心まで侵すだろうと信じる人もいよう。

    まあ、自分は信じない部類だ。自分の関心事は、人生の延長よりも、幼体のもつ原動力の延長、若さの延長、人間の質の延長であり、運命の認識である。年をとるという身体上のプロセスの阻止ではなく、健全な行動ならびに健全な心理の可能性である。ゲイ・ルース博士はその著、『あなたの第二の人生』の中で老人について以下のように指摘をする。

      老人は、威厳をもち、慎重でなければならない。
      老いぼれ犬は、新しい芸を覚えない。
      老人は、心が狭く、自分の流儀に凝り固まり、のろまで、もうろくしている。
      老人は醜い。
      老人に未来はない。彼らに教える必要などあるのか。
      老人は、自分の体を使ったり、触れたがらない。
      老人は、じっと座って、静かにしているのを好む。

    イメージ 6辛辣な言葉もあるが、これを見る限り自分は老人に遠い。我々を減退させるのは、年数そのものではない。各年齢段階で、いかに本当の自分を「諦め」ながら生きたかによる。年を取ることについての最新研究は、老齢に関連した心身の障害は大幅に改善、もしくは取り除かれる約束を建設的にしている。ウォーキングをやって分かったことは、精神のみならぬ自身の体力的若さである。

    今後、維持するというより、維持できるかどうか分らないが、とにかく動けるときに動いてみようと。動けなくなったら、動きようにも動けない。動くというのは、老化の前に蓄えられ、分かりやすくも可能な行為である。野良仕事が高齢者の体にいいと言うのは聞いたことがある。田畑を所有しないからと、羨ましがっても埒はあかない。だから歩くし、歩けばいい…


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    人が自由な精神(心)をもっているか、顔や髪形、着衣に現れたりするが、何より話をしてみるのが一番分かる。「百聞は一見にしかず」という言葉になぞらえ、多少意味は違うけれども、「百見は一聞にしかず」と言い換えられる。20代の後半だったか、皮ジャンを着て親戚の通夜に行ったとき、どこの誰か知らない親族であろう人が、自分にこう言った。

    「人間は着てる服を見れば中身がわかる」。面と向かっていうので、自分はこう言い返した。「爺むさいって言葉知ってます?服装や外見では分かりませんが、その人の言葉を聞けば一発で分かります」。この言葉に動揺したのか、それまでいくぶん笑顔気味だった爺むさ爺々の顔色がみるみる硬直した。どういう返答するのか期待したが返ってこなかった。

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    「何を言うのも結構だが、ならばこちらの言葉も受け入れよ」。言い返すときはそういう気でいるし、自分の返答に相手が文句を言うなら上の言葉を返す。これらは、生徒が教師に、子どもが親に、弟子が師匠に、愚民が賢者に、中卒が大卒に、貧者が富裕者になどなど、すべてに当てはまる当たり前の法則である。が、儒家思想はこれを許さないようだ。

    「○○(上位者)に口応えするもんじゃない」と押さえつけるが、これは文句以外のナニものでない。言われて言い返されたら、さらに応酬すればいいだけなのに、「法度」を持ち出すようでは、単なる無能権威者でしかない。ましてや言い返されて逆上するような人間などは思春期の少年ならまだしもである。まあ、お堅い人の気持ちは分かるし、こっちはそう思って聞くだけ。

    つまり、心に受け入れられる発言ではないということ。尊敬される賢者とは、心に伝わる言葉を吐く人をいう。いくつになってもいじめっ子のような言葉を吐いて、年寄り面をしてる人間はいるが、何の成長もないまま白髪になっただけである。一過性の人間関係なら、言うも言わぬもいいが、付き合う人を選ぶのは人にとって大事なことで、無益な人は避けた方がよい。

    何かしら得るところ、学べる何かを提示してくれる人からは、単に知識や意見交換だけでなく、人間についての深さなどを学べる。見栄だけで行動するような人は避け、物事の分かる人こそ自身の視野を広げられる。大事なことは知識でなく知人ではないかと…。もう一つ大事なことは真に信頼できる人と付き合うことだ。「腹に一物」ある人間は、必ずしっぺ返しをする。

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    信用できない人と議論する価値もなく、たとえ意見の相違はあっても、信用できる人なら価値は大きい。真に協力関係を結べない人と関わりはもたぬ方が懸命という経験則である。相違や対比を怖れることはない。森羅万象は対比から成り、対比が有るがゆえに世界は持続し、しかも美しい。決して優秀な人と付き合うのがいいのではなく、平凡な人と肩を並べて歩くこと。

    いかに賢人といえど、人の好意と言う後押しがなければ、その人の生は無味乾燥である。人に嫌われる賢人は、概ね心なき人が多い。つまり、引き立ててもらえるのも他人あってのもので、愚者といえども敬意は大切だ。自分が長身であるのは、背の低い人の中で目立っているだけである。相手の発言を聞けば中身が見えるように、「文は人なり」が如く書き物も同じこと。

    例えばブログは自己主張である。自分は未熟で愚かとの前提で、自己の主張をすればいい。「未熟者でバカだから自己主張はしない」、「できない」というのもその人の考えだが、バカでも自己主張はあるはずだ。相手の反論に怖れず、それも自己主張と思えばいい。相手の論を見下し、一笑するがごとく封殺する人もいるし、そういう人との議論は中止するのがいい。

    他人の意見を批判するなら、キチンと対案を出して納得させるようにすべきである。批判を良しとする自分はその事を心掛けるし、他者の意見を無慈悲に封殺するのは建設的でない。他者の意見は説得できてナンボ、説得できなければ自分が無能というしかない。「こいつは何を言ってもダメ」という場合もあるが、それは自分の能力を超えられなかったということ。

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    必ず説得できる何かはあるはずだと、有能な営業マンが模索するように、自身に対する挑戦であろう。無能営業マンは、説得できなかった顧客を「あんなバカに無駄な時間を使った」などと自身を慰めるが、慰めて能力が向上するだろうか?ダメ営業マンはその考え方を変えない限り有能者とはならない。苦しくも自己責任を自覚することこそ、向上の一歩である。

    未熟と思うから研鑽もし、努力もできる。よく議論をして、「相手を傷つけた」というが、目に余るような汚い言葉や人格批判ではなく、論理の世界で相手を傷つけるなどあり得ない。勝ち負けの議論ではなく、バカでもいいから発言に責任をもって議論をするわけで、論駁した相手が傷つくなどは無用である。そんな風に思う人間にはどこか議論に勝ったという驕りが見える。

    乱雑な言い合いでなく、真摯で丁寧な議論をすべきである。「丁寧」とはいうまでもなく、自分の発言に対する責任である。また責任とは相手の批判に対する謙虚さでもある。企業の不祥事などに見る虚偽の謝罪が嘘っぽいのは、責任の言い訳三昧であるからだ。言い訳や責任逃れをするつもりでのこのこ出て来、セレモニー的な謝罪などするなと言いたい。

    言い訳が事実であったとして、だから責任が回避できるものではないが、願わくは責任の軽減を望んでいる。「言い訳は武士の恥」。赤穂浪士の討ち入りの要因となった浅野長矩の吉良義央に対する殿中刃傷においても、耐え難き屈辱の始終を裁きの場で目付に弄したところで、切腹・お家断絶は免れない。むしろ、そのような言い訳をすることが恥とされた。

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    「言い訳」したきことはさまざまあっても、しないことが武士道の魅力であり、男の心意気であろう。言い訳は主観的となり、どうしても自己正当化に聞こえる。よって、言い訳を「恥」とする気概や精神性が男子に有されるべきと思う。なぜなら、事実の説明と言い訳は混同しやすく、聞く側も判断が難しい。ならば、見苦しき言い訳より、静かなる男を評価したい。

    ライフハッカー日本版、4月24日の記事の見出しに、"幸せをつかむコツは「がんばらない」こと"とあり、研究結果の但し書きがあった。学術誌にも紹介されているが、この場合の「幸せ」とは、ネガティブな感情よりポジティブな感情が上回っている状態を指す。研究を行ったJune Gruber博士によると、過度の幸福感が人間にとっては良くない影響をもたらすと言う。

    博士は、「人生における幸福度と、その人にとって有益な結果が出るかどうかには、直接的な関係はないようだ」と述べている。幸せであることが必ずしも良い人生にはつながらず、悲しい、不安、イライラするといったネガティブな感情こそ大切という。幸せにとらわれるあまりモチベーションが下がり、新しいアイデアが浮かばないなどマイナス面を指摘する。

    幸せな状態が続くと、落ち込んでじっくりと物思いにふけったり、怒りのあまりやる気を引き起こすエネルギーが湧いてきたりする経験は味わえないばかりか、幸せであるにも関わらず、より幸せを求めれば自分の期待感をうまくコントロールできなくなり、失敗する恐れが高くなる。すでに幸せになれそうなことをしているのに、さらに幸せを求めるのは逆効果となる。

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    ばかりか、リスクの高い行動をとるといった問題に陥ることもあるという。幸せの追求に限界があるとする科学的な根拠については、学術誌『Emotion』で、B. Mauss博士が以下のように解説する。「一見したところ、幸福を重んじれば良い結果につながるのが当然のような気がするのは、幸せに価値を置く人ほど、幸福度が高まると考えられているかだ(中略)。

    幸福を目指した場合、この目標の追求がパラドックスを招く可能性がある。というのも、本人の評価(失望や不満)が、その人が目指していたもの(幸福)と相容れないからで、この論考から、直感に反した仮説が導き出される。すなわち、幸福に高い価値を置く人は、達成困難なまでに高いレベルに幸せの基準を置くので、現実の自分の気持ちに失望感を覚える。

    結局、幸福を求めるほど幸せが目減りするというパラドックスが生じる"。この逆説的効果の実例として、オールAを目指して勉強している学生を考えてみる。何時間も猛勉強をした揚げ句、Bプラスがたった1つでもあると、ひどく落ち込んでしまう。大半の人は、Bプラスが1つあっても素晴らしい成績じゃないか、などと言ったりするが、本人はそうではない。

    自分に対する期待をあまりに高めてしまった結果、完璧でなければ最悪だと解釈してしまう。幸福についても同じように、すでに今やっていることを楽しめているのに、幸せという状態にこだわりすぎると、がっかり感を味わうことになる。「幸せかどうか」を意識することなく、ただ好きなことをやっているほうが、かえって幸せになれるということだ。

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    人は幸福を追い求めてきた。反面、幸福は追えば追うほど手から離れて行くことを知っている。こんにち、「三大幸福論」と言えば、ヒルティ(1891年)、アラン(1925年)、ラッセル(1930年)の幸福論を指すが、自分は最近、次のヒルティの素朴な言葉が幸福に思えてならない。 「寝床につくときに、 翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である。」


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    1ヶ月前の3月26日、大分県中津市の私立東九州龍谷高の男性教諭(50歳代)が、一部の生徒に定期試験の数学の問題を事前に教えていた問題は、無期限出勤停止となったようだ。教諭は自宅で学習塾を開き、試験と同じ問題を使っていた。同高は教諭を出勤停止にし、弁護士らによる第三者委員会を設置し調査した。教諭は20年ほど前から自宅で私塾を開いている。

    当然にして同高の生徒も通っていた。学校では数学を担当し、受け持つクラスの試験問題を作成している。今月になって、生徒の間で「塾で定期試験と同じような問題が出ている」とのうわさが流れたため、学校側が教諭に尋ねたところ、「定期試験の前に、塾で試験と同じ問題を使ったこともある。塾生には試験に出るとは言っていない」などと説明したという。

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    ハッキリいってこれはダメだ。こんなことが許される道理がない。なぜなら、同教諭の私塾に通う生徒は、試験問題と同じ問題に事前に知り、解いているわけで、同教諭の私塾に通わない同学年の学生とは不公平になる。なんでこういった問題に弁護士を立てて議論すべきなのかは、おそらく処分の妥当性を模索するためだろうが、自分が校長なら以下のようにいう。

    教諭 :「試験と同じ問題を使ったが、試験に出るとは言っていない」

    校長 :「だから何なんだ?試験に出ると塾生にいわねば問題ないとでも?」

    教諭 :「どういう問題があるのか指摘していただきたい」

    校長 :「塾生だけに事前に問題を目に触れさせるのと、まったく別の問題で試験を行うのは同じと思うのか?このことの公平性について、先ずは君の考えを聞こう」

    教諭 :「試験に出るといってないので問題ないと思っていますが…」

    校長 :「そんなことは聞いてない。公平なのかどうなのか?」

    教諭 :「試験に出るといわないなら、公平と思います」

    校長 :「バカだね君は。出る出ないに関わらず、試験に出ると同じ問題を事前に解かせるのを問題アリと思わないのか?心ある教師なら、私塾で出した同じ問題は全生徒に公平を期するとの理由で避けると思うがね。君の公平とはその程度のもの?」

    教諭 :「随分と失礼な言い方ですね。バカとは言葉が過ぎませんか?」

    校長 :「あまりのバカさに率直な言葉をいっただけだ。バカに立腹する前に、バカを改めてもらいたい。それができないなら辞めてもらうしかない。どちらにせよ君の行為については、第三者委員会に量って処遇を決める」

    教諭 :「私は問題ないと思いますが…」

    校長 :「君が決める問題じゃない。生徒全員にアンケートをとれば、生徒たちの気持ちが分かると思うよ。君自身の善悪の問題ではないんだ。おそらく生徒は不公平と言うだろう、君はそうは思わないとでも?」

    教諭 :「もし、生徒がそう言ったとしても、私は間違ったことはしていません」

    校長 :「返す返すバカだね君は。試験は誰のためにやるのか分かっているのか?学生にとって、絶対に公正、公平であるべきもの。それが分らないで教師をやる資格はない」

    教諭 :「学生がどうであれ、校長がどうであれ、試験に出るといわない問題を解かせたのは悪いと思いません」

    校長 :「君の考えが裁きを受けるに該当するか、第三者に諮って処遇する」

    イメージ 2無意味な水掛け論では埒もあかず、こういう場合、弁護士を交えた第三者委員会を設置が妥当である。世間には個々の解釈で、「よい」、「よくない」の判断はいくらでも可能だ。意図的に悪事を働きながら、「悪いことだとは思わなかった」がまかり通るなら、罪に対する罰は当て嵌められない。「そうか、君は知らなかったのか、なら仕方がないな」って、子どもじゃないんだし。

    公立高校教諭と私立高校とでは当然にして身分が異なる。前者は都道府県公務員で、給与は人事院勧告に準拠し、基本的に年齢で昇給する。自治体の中での異動があり、早ければ数年で転勤となる。同一教科の場合、学校を超えた研究会があり、知人も比較的増える。私学教諭の身分は学校法人職員。給与はピンキリで、ピンだと公立の1.5倍くらいのところもある。

    逆にキリの場合、公立の6~7割程度のところもある。基本的に異動はなく、系列校が無い場合は定年まで同じ学校に勤めることもある。一般的に私学の場合、理事長(創立者・経営者)のカラーが強く反映する。例えば労働組合に入っているだけで,ボーナス査定が最低となる学校もある。異動がない分校風や人間関係が合わない場合、転勤願いもだせず苦労もある。

    私立高校教諭は外部(民間企業とか)から来た先生も居たり、公立のように教師になる為の難しい採用試験もない。だからというわけでもないが、色々な先生が居てもおかしくはなく、学校によっては縁故もある。したがって、上記のようなことを、「そんなの常識で分かるだろう?」といっても、そうならない大人(教師)もいる。常識の度合いは人によって違う。

    そういう場合に、非常識な大人(教師)をどうすべきか?そこで言われるのが、「公序良俗」という言葉。「公序良俗」とは、公の秩序、善良の風俗の略語。公(国家社会)の秩序を主眼とする。また、善良の風俗とは、社会の一般的道徳観念を主眼としていわれるが、両者をあえて区別する必要はない。要するに行為の社会的妥当性のことを「公序良俗」という。

    教諭の言うように、私塾で出された問題と同じ問題が試験に出された場合、問題を知る者の有利性と、知らない者の不利性は明らかに対等ではなく、両者に差がつくこと自体公平でないが、問題ない(差はない)というのは詭弁である。教諭にそこが分らないなら、何らかの処分を科して分からせる必要がある。教諭は公正性が分らず、同じ問題をだしたのか?

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    自分の私塾に通う学生の成績向上を目論んだ所業か、これは本人にしか分らないし、問いただしても真実は語るまい。人間はそういうものであり、あらかじめそういう前提で、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と憲法に保障されている(日本国憲法第38条)。これは聞いたことが真実か嘘か分らないなら、聞かずに調べろということでもある。

    人を殺した人間に「お前が殺しただろう?」と自白を強要しても、嘘を言ってもいいということ。それを憲法で保障している。ここに憲法の基本的な考え方が織り込まれている。つまり、憲法の規定は個人を律する物ではなく、国家や行政を律する性質のもの。よって、警察などに「不利益な供述を強要」されたとしたら、その捜査は違憲という判断になる。

    憲法は、最終的には個人の権利保護を目的としているが、律するのはあくまで国家である。人間の性質は複雑で、自発的に真実をいう者、強要されて真実をいう者、自発的に嘘をいう者、強要されて嘘をいう者などいろいろで、大体この4パターンだが、当事者がどれに該当するかなど、誰にも分らない。嘘発見器という手法もあるが、証拠主義が妥当だろう。

    人は動機(欲求)を持たないでは生きてはいない。我々の身体そのものが生きるという欲求の営みであり、動機的には我々から利己主義の一掃は難しい。「人間は機械と同じ」と言ったマーク・トウェイン。気質の影響もあるが、人間の行動はその遺伝性と生息地、あるいは交友関係などからもたらされる外的力に動かされているに過ぎず、人間は自分自身を支配する力を持ってはいない。

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    故に、人間は「自己中心の欲望で動く機械にすぎない」といえる。壊れた機械は社会的に排除することが、社会的に正当化されうるか。という命題がドストエフスキーの『罪と罰』であるように、罪を犯した人間に罰を科すということは、法治国家で当たり前のように行われるが、果たしてそれが犯罪を犯した個人だけの責任といいきれるのか、などは深い思考で為されるべき問題だ。

    人間の人格形成は、親や環境や周囲の影響を多分に受ける。そもそも、人間は自分の考えなど持っていない。その点は他の動物も含めて機械と同じであろう。気質や環境、教育など外からの影響によってその性能が変わる。子どものすべてが、真っ直ぐに正常に育つとは限らないし、歪んだり、ねじれて育つ子どもには、おそらく歪でねじれた環境があったはずだ。そこに気質が加味される。

    人間は心理や倫理や宗教観などの価値が、一つにシンプルに結論されるが、人間はあまりに複雑多面的で定義は難しい。自殺で命を絶つ人の多くは、死にたいから死ぬと考えるが、実は生きたいのに死ぬという。なぜ、そうなのかを想像で考えるしかないが、死人に口なしである。古くは長屋王が服毒、平清経が21歳で入水、超能力者御船千鶴子は24歳で服毒。

    有島武郎、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成らは、この世に出てきて、自殺の真の理由を語ってくれれば、少しなりとも理解できるだろうか。高校の頃、なぜ文豪が自殺するのか理解できなかった。解説や注釈は目にするが今でも真相は分らない。芥川が「ぼんやりした不安のため」と書き置いたし、太宰が境界型人格障害であるのは分かっている…。

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    先日も書いたが、当てつけ自殺はするものではない。脳内シミュレーションで自己完結するのが得策だ。親の存在が苦しく、負担になるなら距離を置く。いじめの相手がやるせないなら距離を置く。何も「死ぬ」という永遠の距離である必要はない。距離には数メートルから、数キロ、数十キロと、いくらでも選択できるる。死んで生を終えるより、離れた生をやればいい。

    久々にアランの『幸福論』を読んだ。『幸福論』は幸福になるために読むのではなく、幸福を知るためにある。93項目に、「幸福」とある項目は5つ。『幸福論』なのに幸福に関する項目がたったの5つ…で幸福論?自分以外の他人など関係ないと人はいうが、他人と自分という関係だ。すべてのものは何らかの関係にある。そういう気持ちでいつも書いている。


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  • 04/30/16--05:37: 怖いカリウム不足

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        1日 15081歩  10255m  86/分
       2日 13590歩    9241m  85
      4日 28714歩  19525m  89
      5日 26926歩  18309m  92
      6日 28908歩   19657m  87
      8日 25544歩  17369m  89 
      11日 33491歩  22773m  91
      13日 20909歩  14218m  94
       14日 23400歩  15912m   88
      15日 17614歩  11977m  90
      16日 16258歩  11055m  90
      17日   6759歩     4473m    77
       18日 12417歩     8443m   92
      19日 52763歩  35878m  89
      20日 16983歩  11548m  86
       22日 35770歩  24323m   88
      23日 11481歩    7807m  83
      24日 20686歩  14066m   82
       25日 44877歩   30516m   90
      26日 27800歩   18904m   90
      27日   9154歩   6224m  87   
      28日 33036歩   22464m   91
      30日 27157歩   18466m  82   
      
         total  549318歩 373403m 

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    ウォーキングの利点は、ジョギングや筋トレなどのハードな運動に比べて手軽に始められること。近年、若い世代からお年寄りまで、健康維持やダイエットのために、毎朝歩いている人は多い。ウォーキングの利点や効果はいろいろ言われており、ここにも書いたが、体を動かす事が健康に悪いわけがない。石田純一は毎朝54時起きで5kmのジョギングを欠かさない。

    芸能界には若く見える人が多いが、石田純一は別格だろう。62歳でありながら、髪はふさふさ、肌もツヤツヤ(であるらしい)、体形は30年以上変わらないという。ばかりか、先月21歳年下の理子夫人は、2012年の長男に続いて長女を出産した。ということは、62歳離れた子どもができたことになる。石田は自身の「健康の秘訣」についてこんな風に述べている。

    「運動で"体を動かす"、本を読んだり勉強したりして"頭を動かす"、それからワクワクドキドキする楽しい時間を持って「心を動かす」ことでしょう。若い女性にドキドキしても問題があるので、今は妻に何度も恋をするようにしてますけど(笑)。昔から健康に関する本はよく読んでいますが、情報は精査している。とりわけ健康の情報は玉石混交ですから。

    どんな人が言っているのか、科学的根拠がある話なのか、出典はきちんとしているのか、などは注意して見ています。媒体の信頼度も大切ですからね。体重は74kgで、30歳くらいから変わっていません。体脂肪率も17%くらいをキープしています。毎日5キロを必ず走るんです。寒くても、二日酔いでも。時間は決まってなくて、朝走るときも夜走るときもある」。

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    巷いわれていた、早朝4時起きというのはどうやら違っていたようだ。続いて彼は言う。「健康は命より重い。そんなはずはないけど、それくらいの感じがしますね。健康じゃない状態ではいくら長生きしてもつらいだけでしょう。僕が26歳のとき、親父が脳卒中で倒れたんです。54歳でした。それから63歳で死ぬまでの9年間は寝たきりで暮らしていた。

    50代から60代というのはいちばん楽しいときじゃないですか。そのような父の姿を見ながら、健康であることのありがたみを実感し、健康面には人一倍気を使うようになりました。お酒は1日にワイン3杯くらいかな。本当は2杯以内にしたほうがいいんですが、人と一緒だとどうしてもね(笑)。家ではまったく飲まないので、自宅で家族と過ごす週1日は休肝日です」。

    さらに石田は食事について、「朝の塩分はほぼゼロ。外食でも、なるべく塩を入れないで…とお願いしています」。というように塩分を控えているようだ。という石田のことはともかくとして、本日知人を見舞いに入院先の病院に行ってきた。一昨日、病院から電話があり、なんとも弱々しい、聞き取れない様子の話し方に驚き、詳しく聞こうにもうまく喋れない。

    冗談と思えるくらいに瀕死状態のような話し方であり、事情の説明を求めたが、うまく聞き取れないので、「分かったとにかく見舞いに行くよ」と電話を切った。本日、病室の彼を見るなり、「一体どういうこと?何があったんだ?あんなに元気だったのに?まるで死ぬ一歩手前のような物言いをするから、ビックリするじゃないか?ちゃんと説明してくれよ」

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    彼は病室のベッドに伏せたまま、「自分もビックリだよ」と話し始めたが、言葉はあまりに細く、弱々しく、瀕死の重病人の様である。誰が見てもただ事でない、そんな状態であるが、理由を聞いて驚くしかなかった。「こうなった原因は、カリウム不足であるらしい」、「えっ?カリウム不足?で、そんなになるのか?それだけの理由で?」信じ難い言葉だった。

    彼は医師から説明を受けたことをそのまま自分に伝えたが、カリウム不足が、これほどの健康被害をもたらすことに、ただただ驚くしかないし、目の前の彼がカリウム不足であるのだ。自宅に帰り、「カリウム不足」で検索を入れると、「気を付けて!カリウム不足を放っておくと起こる危険な体の症状」という記事が飛び込んだ。ざっとこんな風に書いてある。

    「カリウムが不足すると、神経や筋肉の障害を中心に様々な症状が見られます。重症になると不整脈など命にかかわることもあります。では実際に、どのような人がなりやすいのか、予防法やなってしまった場合の治療が気になりますよね。一般の方でもわかるよう、できるだけ簡単に解説しました」とある。目の前の状況を自分は信じられない面持ちでみたから…

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    記事にはカリウム不足の状況をこう書いている。「カリウムは神経の働きに深く関係しています。そのため、カリウムが不足すると神経や筋肉を中心に、さまざまな障害が出ます。よく見られるのは、疲労感や筋力低下などです。症状からカリウム不足だと判断するのは難しいです。気になる方は病院にいき、血液検査をしてもらうのが良いでしょう」。とある。

    まさに彼から自分が聞いたことそのままである。彼は、最近すごく疲れやすく、手の握力低下が意識されるようになり、少し前には指に力が入らないほどになったという。「どういう状況で入院することになったんだ?」と聞くと、「転んで起き上がろうと思ったのに、力が入らず起き上がれなかったんだ。それで、これはオカシイと思い、外来で診察を受けた」。

    彼はそういったが、そんな事があるのかと信じられなかった。記事にはこうも書かれている。「カリウム不足がひどい場合、命にかかわるような症状が現れることもあります。特に、カリウムは心臓の調節機能にも関わっているため、重大なカリウム不足では不整脈などが起こります」。読みながら、カリウム不足が重症化すると非常に危険であるようだった。

    カリウム不足に関する認識というか、塩分の多い食生活であるのを自覚していたことで、バナナ(カリウムを多く含む)を取るのがいいなどの知識は持っていたが、カリウム不足の危険性はまるでなかった。ただ、日本人はカリウムが少し不足気味だということは分かっているが、普通の食事をとっている場合、症状が出るほどの不足になることは滅多にないようだ。

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    で、どういう人がカリウム不足になりやすい食生活であるかといえば、① 極端なダイエットをしている、② 長期間野菜・果物を食べない、と記されている。彼は、野菜は嫌い、果物もめったに食べないという人間である。極端なダイエットの危険性はしばしば耳にするし、炭水化物という心筋に作用するエネルギー源をまったく取らないでいい訳はない。

    体に大事な栄養素を取らないことが、どれだけ体に害悪かというのも、自覚症状がでないから分らない。しかし、今回のカリウムもそうだが、自覚症状が出た時点ではもはや遅きに失すということでもある。でありながらも、人間は事が起こって(自覚症状)見なければ分らないものだ。カリウムを多く含む食品はあるにはあるが、どんな食材にもカリウムはあるという。

    普通の食生活であるかぎり、症状が出るほどのカリウム不足になることは滅多にないという。友人も、塩分の多い料理は好き、野菜は取らない、果物を食べない、これが積算されたのだろうが、治療を終え、カリウム不足にならない食生活を医師からも言われ、自らも意識しておけば、二度とカリウム不足はないだろう。がんなどと違って進行性はないのが安心だ。

    現在の治療は、カリウム補給薬を摂取となっている。低カリウム血症が重症の場合や、経口療法で改善しない場合には、カリウム溶液を静脈注射という方法もある。たかがカリウム不足と侮れない病気であるが、予防がとても重要。退院後は、食生活が偏らないよう、野菜や果物を食べるようにすればいい。

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    常々思うことだが、「子どもの幸せ」とは何であろうか?子どもは家族の一員であるから、「家族の幸せ」とリンクする。また、「家族の幸せ」は、「家庭の幸せ」とリンクする。が、いずれ巣立ちをし、幸せに生きて行くのは子どもであり、親は子どもの将来的幸せを、幼少時期から手助けできるのだろうか?できると信じて親の価値観を押し付ける親はいる。

    子どもが早いうちから目指すものがあって、それは子どもにとっての漠然とした夢でも、その夢に向かって努力をするなら、それが本当の子どもにとっての幸せの追求であろう。それなら親は積極的に関わればいい。主体は子どもで、親は精神・物質の両面からサポートすることになる。たとえ子どもの夢が叶わなくても、過程において子どもは幸せな境遇となる。

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    ところが、主体性のない子どもに親が先回りし、他にすることがないとばかりに、勉強、勉強、勉強…、と躍起になる典型的な親病はいかがなものか。勉強の苦手な子どもはいるが、子どもの人権を無視した親の子どもへの関わりは、欧米では考えられない日本的な子育観である。「子どもの幸せは親の主体性」というのが、なぜにこの国で横行するのだろうか。

    「子どもの幸せは親が決める」と言う支配的な子育ては、「子は神からの授かり物」という宗教観のなさでもある。親が判断する子どもの幸せが多くの悲劇を生んだ。日本人と欧米人の教育観の違いを、あるドイツ人が記している。夫婦ともにハイデルベルグ大学で学位を得、来日後日本の大学で教鞭をとるドイツ人が、日本の子育てにカルチャーショックを受けたと記している。

    当時、16歳の長男、14歳の長女、12歳の次男の父母が、日本で子育てすることに大きな戸惑いを感じたと言う。夫婦は、このまま日本に滞在することは、子どもたちの成長にとって、プラスになるどころか、マイナスになる危機感をもったというが、後戻りは許されず、日本における真剣な子育てを考えることにした奮戦記が、一冊の著書にまとめられている。

    幸いにしてドイツ人夫妻は、二つの異なる文化の知恵を合わせで独自の道を探索できたとの結論である。子育て問題において最初にぶち当たったのが、次女の通う小学校のPTA会長を簡単に引き受けてしまったこと。そこでの保護者や教師たちとの接触を通して、夫妻は日本における家庭での子どもの躾、また、学校教育における問題の深刻さを強く感じたようである。

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    我々日本人にとっては、何ら問題なく当たり前のことが、ドイツ人にとっては深刻で由々しき問題である事に、同じ人間としてその教育観の差異に驚かされた。そういえば日本人でもあり、教育者でも何でもない一介の市井人である自分が、小学校のPTAに初めて関わったときも、部会などを通して多くの教師や保護者への違和感を当ブログに記している。

    真剣に子育てを考えるなら当然にして不可解な日本の教育体系や狭い価値観に驚くはずだが、こういう風に書くと"だったら我々は真剣に子育てを考えてないと言うことか"とクレームが来そうだが、まさにそのクレームこそが問題提起である。子育てに正しい、間違いはないという前提で、教育論をかざすのは矛盾するが、オカシイの一番の問題は知育偏重であった。

    「知育」・「徳育」、さらには「体育」。いずれも大事なものなのに、「徳」・「体」をなおざりにした点数主義の親が多いということ。成績がよければ人徳などどうでもいいという親は居ないだろう。また人徳があれば成績などとるに足りないと判断する親も居ない。が、難しいのは、どうやってそれをバランスよく配合し、両立させるかであって、そこが上手く行えない。

    「知」も「徳」も大事と言う点で異論なくば、自ずと良い子育てとは、そのバランスが取れたものであるという答えが導かれる。それならば、「子育てに善悪はない」という事も多少は言い換えられるはずだ。言葉を変えれば、「躾」と「勉学」の両輪を親が意識すべきだが、勉学は教師や「塾」に委ねられ「躾」は親に委ねられるのが一般的であろう。

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    つまり、親は「躾」を担当すればいいことになる。「躾」を厳しくするというのは、言う事、成す事に口うるさい親のイメージであるが、決してそうではない。自分の場合は人が社会人になるという前提で、当たり前に身につけるべきことを当たり前に身につけさすという風に考えた。そのように考えれば、教育論をぶち上げる「何様親?」ということでもない。

    当たり前のことを当たり前に子に身につけさせたい親は、当たり前の親である。そこに揚げ足をとったり、偏見を抱いたり、そういう親は変わっているか、子どもに当たり前の社会教育を施すことに興味がないのであろう。親が子に施す家庭教育とは、何を前提にしてなされるかといえば、社会教育であって、親が子どもを支配・管理することではないということ。

    社会教育を考えるから、他人の子どもの目に余る行為に注意ができるのではないかと自分は考える。電車の車内やスーパー内で走り回る子どもに腹が立つのではない。それがいけない事、危ないこと、であるから注意をする。なぜいけない、なぜ危ないまでを諭す機会はないが(親ではないので手短に注意をするから)、言って分からせるのは親の役目であろう。

    社会の教育力とは、単純に悪い事をしたら怖いおじさんに叱られるでも十分だろう。いや、おじさんに叱られるからこそ、行為がよくない事と理解するのが子どもであろう。悪い事だと思わないからはしゃいでいるのだし、親や周囲が注意しなければ、その子に行為の善悪を伝えられない。つまり、行為の善悪を伝えるということが、「叱る」ということである。

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    とはいっても、気が乗らないときも、面倒くさいときもあり、所詮は他人の子どもを叱らないこともあるが、もし、自分の子どもならそんな事は思わないし、思ってる場合でもない。他人の子への責任感が薄いのはやむを得ない。子ども時分の近所の恐いおじさんを思い出すが、決してそういうおじさんは好かれなかったし、おじさん側も好かれたい気はなかったろう。

    デカイひと声発するおじさんもいれば、やさしい言い方のおじさんもいた。もちろん、自分も状況を判断して変えている。緊急性の場合はとりあえず怒鳴ってやめさせる。それを耳にした母親の対応もいろいろだ。大きく三段階に分かれる。①「すみません」と謝る親。②「すみません」とはいうが怒鳴り声に不満を見せる。③「何もいわない」ですっとぼける。

    ④は非常にマレだが、「何もいわない」+「こちらを睨みつける」。そうであっても親のガン付けなど気にしない。親がどうであれ、危険を緊急的に子どもに伝えたいだけ。狭いところを走り回って、出会いがしらに人に当たったり、商品が崩れ落ちたり、いかにも危険である。「注意しない親の神経を疑う」など、いちいち考えない。そんなことより止めさせればいいこと。

    子どもを取り囲む、「家庭教育」、「学校教育」、「社会教育」の三態だが、いずれも薄れているといわれる昨今だ。親は子どもを溺愛、教師はサラリーマン化、他人のこになど興味がない、というのが要因であろう。特に③は、他人の子どもでも危険は危険という愛情があれば注意はできる。現に、母性本能を発揮して注意するおばちゃんを見かけることもある。

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    「このおばちゃん、本当に子どもの危険を思っているんだな」と教わったりする。だから思わず声が出る。「(この子らは危ないね~)」と声に出さず一人呟くおばちゃんも居たりする。腹では親の顔が見たいくらいに思っているのだろう。注意は社会教育の場ではあるが、そんなことより「危険」という緊急性である。親は子どもに家に帰ってから諭せばいい。

    「今日、おじさんに注意されたでしょう?もうしないように」なら70点の親である。本当は、「注意されたからしないように」ではなく、親としての主体性で言うべきで、それなら点数はあがる。いい管理職というのは、「自分はいいけど、他のうるさい上司もいるから止めとけ」みたいな言い方をする。つまり、自分は「いい人である」を売るというのが根底にある。

    「人がうるさいから止めとけ」はがダメ上司であるように、そのような言い方をする親も、子どもにいい顔をしたい、嫌われたくない、など真剣な子育て観が希薄であろう。このように、「子育てに善悪はない」といいながら、具体的に思考すれば、様々な問題が現れる。一つのことには多くの要素が発見できる。そのように視野を広げて考えるのも人間の能力である。

    将棋や囲碁の強い人は、結局人より多くを考えるからであり、何事においても広い思考から答えを模索するのがよいに決まっている。事物に対する視野の広さ、子どもを取り巻く視界の広さ、自身を客観的に見つめる目、それらが合わさって一つ一つの結論が出る。「あなたはスーパーで走り回る子どもを注意できるか?」という問質しひとつにおいてもである。

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  • 05/03/16--16:23: 稲毛殺人事件
  • 4月4日夜、千葉市稲毛区稲毛東のマンションの一室で、派遣社員の茅野利奈さん(41)が首や腹などを刺され、死亡した状態で発見された事件で、県警では、凶器とみられる刃物が発見されていないことなどから殺人事件と断定、捜査本部を設置して捜査を始めていた。茅野利奈さんは部屋の布団の上に倒れており、腹を中心に複数の切り傷などがあったという。

    また、茅野さんの部屋の鍵は施錠されていなかった。茅野さんは1人暮らしとみられ、4日21時頃、勤務先の会社から「茅野さんが出勤してこない」と父親宛に連絡があり、父親が様子を見に行った。茅野さんは、1日21時頃に東京都内の勤務先を退社、そのあとに事件に巻き込まれたとみられている。県警は殺人と断定、捜査本部を設置し100人態勢で捜査を始めた。

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    県警は28日、近所に住む飲食店従業員の藤長稜平容疑者(29歳)を強盗殺人などの疑いで逮捕した。藤長容疑者は先月中旬、女性に性的暴行しようとした疑いで逮捕、収監されており、茅野さん殺害を認める供述をしたことで、自宅を強制捜査し、茅野さん殺害の凶器とみられる刃物が見つかり逮捕した。藤長容疑者は現場近くで一人暮らしをし、茅野さんとの面識はない。

    警察は今後、動機などを調べる方針。茅野さんの殺害状況だが、首や腹部には刺し傷などが複数あったが、部屋着姿で洋間で倒れており、室内には激しく争ったような形跡もなく、茅野さんが突然襲われた可能性があるとみて同日、遺体を司法解剖するなどし、当時の状況を詳しく調べる。6日に行われた司法解剖の結果、死因は血管が損傷したことによる失血死だった。

    強盗殺人で逮捕された藤長容疑者はその後の調べで、「生活費や遊ぶ金のほか、借金の返済などで金に困っていた」などと供述していることが分かった。茅野さん殺害については、「強盗をしようとしたら抵抗されたため、殺害した」などと容疑を認めており、現場から50mの距離に住む藤長は、「自宅から歩いて現場に向かい、事件後はすぐ自宅に戻った」という。

    藤長容疑者の逮捕を受けて、近畿地方に住む父親が日本テレビの取材に応じた。30前の息子が起こした事件であれ、行為について親に責任はなく、話す義務もないが、藤長容疑者の父親は逃げもせず、隠れることなく、キチンと対応した。逃げ隠れする親に比べれば、それなりに立派な親であろう。以下はそのやりとりである。

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     :藤長容疑者が千葉に行っているのは知っていた?
      父:「知りません。家出したわけだから。捜索願を出していて(千葉の)警察から電話をもらったわけですから…」

      :(事件を聞いて)どう思った?
      父:「天がひっくり返るような感じで、まさかまさかそんなことをすると思ってない。」

      :いつ頃(実家を)出てってしまった?
      父:「(去年の)12月20何日かです。たしか…」

      :なぜ家出を?
      父:「日頃のうっぷんがあったり、自分の仕事が合っているのか合ってないかの葛藤があったりしたと思う。」

      :どういう息子?
      父:「良い子だと思います」。「どうしても命にはかえられません。できるなら私が死んでかわりに、できるのでしたらそうしたい気持ちです」。「正直にすべてを話して、罪を償って、それから出てきたら被害者のところに行って改めて償いをする、何年かかってもそれをするべきだと思います。」

    息子の命と引き換えてもいいと、そこは親である。「出所したら被害者のところに行き…」はおそらく被害者遺族の間違いだろう。実はこの事件、被害者の茅野利奈さんの友人が自分の知人でもあり、県警は茅野さんの携帯から友人女性のところに電話をかけている。友人女性はその事で茅野さんの殺害を知り、たいそう驚いたと自分のメールに記していた。

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    そりゃそうだろう、聞いた自分も驚いた。知人女性は16日に千葉マリンスタジアムに行く予定があり、茅野さんと会う予定でいた矢先の事件であったという。が、友人女性は茅野さんと会うことも叶わず、16日には彼女のアパートの前で手を合わせたという。「信じられないな。なんでこんな目に遭わないといけないの。怖かったかな。痛かったかな。苦しかったかな。

    こんなことをぐるぐる考えています。まだ犯人は捕まっていません。一体誰がなぜこんなひどいことをしたのか…でも、犯人が捕まって、どんな理由を言ったとしても、だからって殺さないでよ、なんで?なんで?って思うのでしょうけど。」と彼女は思いを綴っていた。人間は自分の肉親や友人、知人などの不幸や死に遭遇すると、深い悲しみに包まれる。

    知らない他人に比べれば当然である。経緯を知った自分でさえ、見ず知らずの茅野さんが少しばかり身近に感じた。藤長容疑者は強盗と話しているというが、室内に現金は残っていた。警察は様々な疑問を突きつけ、犯行に至った経緯を詳しく調べる。性的暴行の前科もあり、強盗と言いながらも強姦目的の線もある。金が欲しいなら空き巣という手がある。

    被害者とは50mの近隣なら、おそらく茅野さんが一人暮らし女性であるとのめぼしをつけていようし、室内に入った経緯も明らかにし、一人暮らし女性に喚起を促す必要もある。普通のアパートなので応答チャイムもなく、いきなり玄関をノックし、相手が隙間から顔を覗かせると、強引にドアを開けて室内に入る手口も考えられるが、これを押し込み強盗と言う。

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    この事件についてある女性が、「だから一人暮らしは怖い…。私も一人暮らしだけど、どうやって自分の身を守るか常に考えてる。」との書き込みがあり、それに対し、「こういう事言う女って大概、勘違いデブスなんだよな~」と、書き込むバカがいる。心ないを越えたバカに、「こういう事を書く男って大概、モテない醜男なんだよな~」と誰か書いてやれと思った。

    まあ、それでバカが治るとも思わないが、これもネットの特質というしかない。実社会では顔を突き合わせて強い言葉をいう度胸のない人間が、ネットでのさばっているだけだから、言われた側も気にせず、周囲の誰もが、「バカだよね~、この手の奴は」と思うことだ。一人暮らし女性の言葉を目にし、男なら考えもしない不安を持ってるんだと、改めて考えさせられた。

    今回の事件は、強盗であれ、強姦目的であれ、50mの近隣なら、おそらく最初から殺害目的であろう。「強盗をしようとしたら抵抗されたため、殺害した」と藤長容疑者の供述だが、室内が荒らされた形跡もなかった。物取りなら金目の物を漁るだろう。殺害後は自由に部屋を探索でき、それもない強盗の線はいささか弱い。強姦が主目的と考えるのが妥当である。

    仮に、茅野さんが恐怖心から抵抗しなかったとして、藤長容疑者がレイプを果たしたとしても、おそらく殺害されたろう。あまりに近隣で面も割れているなら、殺害が自己保身と加害者は考える。女性が手を合わせ、助命嘆願したところで、生かしておくリスクは余りに大きい。被害者が、「命だけは助けて、絶対警察に届けないから」と手を合わせてもダメだろう。

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    平成23年9月30日、岡山市の元勤務先に退社手続きで訪れた住田紘一(当時29歳)は、同僚で派遣社員の加藤みさ(当時27歳)を誘い出し敷地内の倉庫で強姦。加藤さんの、「誰にも言わんから助けて」の懇願を無視、ナイフで数十回刺して殺害。現金2万4千円を奪い、大阪市内の自宅近くのガレージに運び、遺体をバラバラに切断、ゴミ捨て場や河川に遺棄した。

    なんとも痛々しい事件である。部外者には凄惨な加害者の行為だが、彼らにとって殺人も死体損壊も、足がつかないための算段である。死体を切り刻むなどは、事件の物証を残さない、という犯罪のセオリーでもある。「お願い、助けて…。死にたくない、お願いだから話を聞いて…」と、金ヅチで叩打されながらも、気丈に必死で頼んだという磯谷利恵さん。

    彼女は、2007年8月24日に愛知県名古屋市内で発生した強盗殺人事件の被害者である。「闇サイト殺人事件」といわれる犯行であるが、人の命など虫ケラ同然程度にしか思わぬ人間に、助命懇願の無意味さ、儚さを思い知らされる事件であった。千葉の茅野さんも抵抗をしたようだが、してもしなくても殺されていたろう。まして近所の居住者なら、生かして得はない。

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    こういう切羽詰った状態で、命を助かる方法があるのだろうか?レイプされ、金品も奪われて、もし、助かる方法があるなら、「お願い、わたしのいう事を聞いて!そして信じて!」とこのように言ってみるしかない。「わたしがあなたのことを警察に届けて、あなたが逮捕されたとしても、5年もすれば出て来れます。その時はわたしを探して八つ裂きにして…」

    実際は強盗が婦女子を強姦したときは、無期又は七年以上の懲役だが、物は言いようだ。「もしわたしを殺せば、日本の警察はあなたを見つけます。わたしが警察に行かなければあなたは安全です。それなら、わたしを殺す理由はないはずでしょう?わたしは絶対に警察に行きません。誓います。約束を破ったときは火あぶりでも何でも受けます。信じてください。」

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    ここまで冷静に物が言えるかどうか、相手が聞き入れるかどうか、いずれにしても、落ち着くべきは被害者である。相手は切羽詰った状況で、興奮もしている。だからなんとか、興奮を冷めさせる方法を模索する。命あっての物だねなら、強姦は覚悟し、相手を観察する。事後は騒がず、ゆったり、落ち着いて、急場の凌ぎで上記の言葉…。ダメ元でも他に手はなさそうだ。

    アメリカでレイプされた女性が、事前にコンドームを差し出したという。冷静で頭のいい女性と感じた。そんな場面にあっては、嫌がる、抵抗するが常道だが、強く頬を叩いておとなしくさせるのも男の常道で、気分の具合によっては殺される。この女性は男の力の前に一切を観念し、妊娠やエイズという二次被害を考えたのはクレバーで、危機管理意識も高かった。

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  • 05/04/16--17:36: 稲毛殺人事件 ②

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    茅野利奈さん殺害事件の続きを書く予定はなかった。が、記事を書いた後に茅野さんの友人から届いたメールを読みながら、彼女の悲しみが伝わってくる。そうした共感もあってか、事件が増幅されて頭の中で廻っている。事件は千葉県稲毛市で4月4日に起こったが、稲毛は朝霞少女誘拐事件の犯人寺内樺風容疑者の居住地でもあり、当初は、「また稲毛か?」程度に感じていた。

    遠方の見ず知らずの女性に起こった事件も、知人の友人と知れば感じ方も違ってくる。茅野さんは千葉、友人女性は愛知と遠距離であったが、会って会話をするなどの交流もあれば身近にある。友人・知人が殺害という経験はないが、この記事を書いた後に、友人の茅野さんとの想い出話を聞き、facebook のやり取りのコピーからも彼女の悲痛は伝わってくる。

    事件は発生直後に知ったが、知人から被害者の友人であったと知ったのは、4月20日。"こちらはハナミズキが満開、春らしい陽気になりました"と冒頭の花だよりと時節の挨拶が添えられたメールに、事件のことが記されていた。驚きながらも事件の経過を眺めつつ、犯人逮捕を待ちわびた。事件の犯人とされる藤長稜平容疑者の逮捕を知ったのは、4月28日だった。

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    藤長容疑者は、本年3月に別の女性の住居に侵入した事件で、4月16日に逮捕・収監されていたという。この時も刃物持参で女性を脅したようで、近隣居住でもある藤長に当たりをつけた県警が藤長を取り調べたところ、茅野さん殺害を認める供述を始めたという。やはりというか、同種の事件において余罪はつきもので、いずれにしても早い展開だった。

    ローリングや聞き込み捜査ならもっと時間はかかったろうが、余罪による芋づる的発覚は珍しくなく、短時間で犯人の特定に至る。しかも、捜査中の殺人事件の容疑者であるというのは天網恢恢である。藤長容疑者の自宅の捜査から凶器の包丁も見つかっている。殺人事件における凶器の特定は重要で、血痕検査に使われるルミノール反応は、水で洗われて出なかったという。

    つまり、藤長は包丁を持参して茅野さん宅に侵入したことになる。恨みつらみの計画的殺人というより、「抵抗されたことで殺してしまった」との供述で、争った形跡も、抵抗によってできる庇い傷もないことから、不意に襲ったのか、その辺りの状況は不明。ただし、近所であることから茅野さんの動向を把握できる状況にあり、仕事で不在の時間帯も分かっている。

    純粋な物取りなら居ない時間を狙うはずで、よって強姦目的の線も考えられるが、包丁持参で強姦に押し入るなど、今どきあり得ない不届きな手口である。藤長容疑者の父親のコメントは先に書いたが、別の知人女性は、「藤長容疑者と事件の1週間後に会った時に、『犯人は逃げてるらしいよ』と話していたと」明かし、藤長容疑者について以下のように述べている。

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    「(藤長は)昔からずっとまじめで温厚で、怒ったところを一度も見たことないし、まさかこんな事件を起こすなんて信じられない。4月4日の1週間後くらいに、2~30分会った時、『家の近くで事件があった』、『最近ぶっそうやな』という話をし、『まだ犯人見つかってないんだよね』と言ったら、『(犯人は)見つかってなくて逃げてるらしい、怖いな』って言ってました。

     (犯人が)まさか本人だったなんて。今思うと怖いんですけど(Q:茅野さんに対してどう思う?)言葉にできない。茅野さんのことを考えるとすごく心が痛くて…」。知人女性は、「藤長容疑者の知人として茅野さんに申し訳ない」と話していた。藤長は茅野さんと別の女性宅でも刃物で脅したが、詳しい経緯は未発表で、茅野さん殺害の動機も現段階では自白による。

    知人女性の言う、「真面目で怒ったところをみたこともない」という温厚な人間ゆえにか、「まさか」と驚くなどは珍しくない。藤長容疑者に限らずとも、殺人者というのは、いつも我々の身近にいる。包丁持参で女性宅に押し入るという目的が、本当に物取りなのか?なぜにリスクの少ない空き巣でないのか?強姦に味をしめた届け出のない余罪を感じてしまう。

    届け出ないのは、おそらく届け出る恐さであろう。届け出たからと言ってすぐに容疑者が逮捕されるわけではないし、その間、犯人に狙われるという気味の悪さや恐さを抱くと考えられる。もちろん、そういう女性はすぐに転居をするであろう。暴力団員などから被害を受けた一般市民が、報復を恐がって被害を届けないのと同じで、届け出れば日夜怯えることになる。

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    藤永容疑者の供述は、「借金や遊興費、生活費などで金銭的に困っていた」と、あくまで強盗としているが、若い女性宅に押し入ってみたところで大金ゲットは見込めないハズ。案外、一人暮らしの老女の方が大金を持っていたりする。刃物で脅してキャッシュカードの番号を聞くのもないわけではなく、「闇サイト殺人事件」の被害者磯谷利恵さんがそのケースだった。

    それにしても磯谷さんはあのような状況の中で、キャッシュカードの嘘の番号を伝えている。彼女が教えた「2960」は、「2960(ニクムワ)」の語呂合わせであった。これについて犯人たちは、「嘘をいうとは信じられない」とし、母親の富美子さんは、「死を覚悟した状況でお金だけは渡さない。憎しみを伝えたい気持ちを数字に託したのだと思います」と答えている。

    また、「(口座のお金は)『家を建てる』という約束事を(1歳時に亡くなった)主人に代わって叶えるために、娘がこつこつ蓄えたお金であり、絶対に渡したくなかったと思う」と話した。これについて心ないネットバカが、「命を取られても絶対にゼニは渡さないケチな名古屋人」などと茶化す。磯谷さんは安易に人の言いなりにならない、気丈な性格に思われる。

    イメージ 5幾度もハンマーで殴られ、ほとんど虫の息状態でありながら、必死に助命を懇願する磯谷さんには婚約者もいた。彼女はどれだけ生きたかったろう。幾多の殺人事件を耳目にしたが、余りに酷いこの事件はどうしても頭から離れない。母親の富美子さんは、「人を殺した人間は死刑を前提で考えて欲しい、加害者と被害者に差があり過ぎる」の言葉が痛く突き刺さる。

    磯谷利恵さんに話が移行したが、茅野利奈さんも41年の儚き人生だった。自分は茅野さんの友人女性に以下のメールを出した。金ヅチで何度も殴られ、ロープで二人の男に首を絞められ、ビニールテープでグルグル巻きにされるという、利恵さん殺害方法は、凄惨を極めるが、利奈さんとて死ぬなどやりきれないはずだ。人は誰も他人の意思でなんか死にたくはない。

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    利奈さんは、りなっこちゃんという愛称であるらしく、友人女性は以下のように茅野さんの人となりを記している。「りなっこちゃんは写真のようにナチュラルな雰囲気の子で、落ち着いた穏やかな話し方で気配りのある優しい子。りなっこちゃんは年下なんだけど、ほわっと包み込んでくれるような暖かさがありました。

    当時、りなっこちゃんと私には母との関係という共通の悩みがあり、そのことから私はりなっこちゃんに心を開き、遠くに住みながらも近くに感じる友でした。会えば、いろんな楽しい話も尽きず、駅のホームで電車を何本も見送り、ベンチでずっと話し込み…。

    りなっこちゃんの事件を知ってから、どんなにりなっこちゃんのことを考えても涙が一滴も溢れない自分が不思議でした。でも、今日初めてわーわー泣きました。固くしていた気持ちが崩れたのかなんなのかわかりません。」

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    病死や事故死も悲しいけれど、殺人というのは何と無慈悲であろうか。人が人の命を強引に奪い取るって、世間は、「事件」とひとくくりに言うが、肉親・知人の命が他人にいとも簡単に奪われたら、「事件」などと悠長に言ってられないし、言われたくもない。これはもう、とんでもないことである。人が人の命を奪うようなとんでもない事が、毎日起こってしまうのか?

    そこがいまいち分らない。人は命で出来、命で動いてることくらい知ってるだろう。ネジやゼンマイで動いているのではない。どうして人の命を静止させるようなことをする?自分がされたくない事は人にはするなであり、肉親遺族の気持ちは絶対に許せないだろう。「こんな死に方をするために産まれたわけでも、生きてきたのではない!」と悲痛な叫びが聞こえてくる。

    人は人の不幸の上に自分の幸せを置いてはいけない。他人の金品を奪ってまで自分が幸せであるべきでない。他人を犯してまで快楽を得てはならない。他人の命を絶って自身が生き長らえてはならない。これら、言葉にすればごく当たり前の文言だが、当たり前が分からず、教育もされてない人間が蔓延る世の中をどう凌ぐ?犯罪者を見つけて罰を与えるだけで解決しない。

    犯罪のない社会は作れるのか?どうすべきなのか?分かる事もあり、提案もあるが、実践する前に確実に分かると自信を持って提示できるものではない。よって文字にすべきものでもない。それを求めて検索すると、【 犯罪のない社会を目指すために、社会復帰を促し再犯を防ごう 】なる政府公報があった。が、これは再犯防止キャンペーンのスローガンだ。

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    藤長容疑者もそうであるように、快楽と安易を求めて精神的に破滅してしまった若者の、やりきれない退廃と沈黙のなか、自分たちは敗れてしまったのだという心の傷。彼らが倫理を守り、心にハリのあった時代は、すでに遠く翳んでいる。「良い子だと思います」、「どうしても命にはかえられません。できるなら私が死んでかわりに、できるのでしたらそうしたい気持ちです」。

    肉親としての藤長容疑者の父の言葉は痛々しいが、息子を思う気持ちに変わりはない。凶悪犯といえども人間だ。正しく裁き、正しく処罰するしかない。「息子は悩んで家出した」と父は言う。人間が自分を軽蔑して、情熱など持てるはずがない。底知れぬ泥沼に落ち込んで行く若者を、どこかで誰が食い止められるか?自分は自分だが、多くの中の一つの自分である。

    自分を多くの中の一人とし、一つの人生と突き放して、距離をもって見つめてみること。自分が自分を客観的にみることだ。そうすることで、バカげた劣等感に長く苦しんでいたことも見えてくる。不必要な劣等感であったことも分かってくる。そうすれば悲劇的な人生も喜劇に見えたりもする。そうすることを勧めたい。そんなとき、自分は観客でもあり、役者でもある。

    犯罪なき世の中の実現について、自らの体験を元に具申した。自分が死なずに生き延びたのも、犯罪者となって収監されなかったのも、苦しき問題に対して、もう一人の自分が、どのように自分を始末していくかを見ていたからである。おそらく、そのことによって自分は救われたのだ。

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    イメージ 1「人はなぜ犯罪者になる?」このような大きな命題に答えを出せるほどの知識も、経験も、学問的素養もないが、考えることはできる。考える意味は答えを求めるためとはいえ、自ら出した答えが果たして正しいものであるか否かは分らない。それならいっそのこと学者や賢人の述べている答えをそのまま受け入れる方が手間も省けるし、自分の考える者よりは勝る。
    と、このように考えるのが偏差値世代の特質という。われわれ旧人類にそういう考えはなく、いきなり虎の巻参考書で答えをみるのは邪道だし、恥さらしでもある。こういう諺がある。「親の意見と茄子の花は、千に一つも無駄はない」。これは子どもの頃に母親からしきりにいわれた言葉である。「バカの一つ覚え」というように、同じ事を聴かされると耳にタコができるし、言うほうも同じように口にタコができてるはずだ。

    子は親の意見を聞くべきであり、子を思う親の言葉というのは、有り難く、尊く、そして正しく、千に一つの無駄もないものだ。という意味だ。あえて解説しなくても分かっているが、茄子の花は咲いたら必ず実になるということにかけている。と、このことを知って言葉を理解するのがいい。茄子の花はいいとしても、あえていうならこの諺は間違っている。

    否定する理由として、親の子を思う心は純粋でない場合もあるって、親の意見が正しいばかりではない。エゴや欲をむき出しする親もいたり、子どもを自己実現の道具に利用する親もいる。諺の作り手は分らないが、おそらく儒家であろう。諺の意味をよ~く考えてみるに、「親の意見にムダはない」であって、「親の意見が正しい」とはいっていない。そこを混同しないことだ。

    では、「ムダ」と「正しい」はどう違うのか?となる。その前に「ムダ」とは何?ということが先決で、「ムダ」は「無駄」と記す。辞書を引けば簡単に答えは得れるが、自分は塾の講師のような手っ取り早い合理性を追求する立場になく、物事を根本から思考する。「無駄」の語句についても、楽しくイロイロ考えたい。「無駄話」、「無駄使い」、「無駄毛」、「無駄足」、「無駄口」などがある。

    これらの語句はすべて同じ意味の「無駄」に当てはまる。こういう思考パターンをすると、辞書を見ずとも意味に近づく。これが考える楽しさである。昨今の勉強は、学問の楽しさを根本的に奪っているし、そうまでして合理的に大量のものを、ただただ覚えるだけという事が本質的に「無駄」であるか?その無駄を「有用」とする受験システムそのものが間違っている。

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    そんな無駄なことをして東大に入る必要があるのかと、これが自分の無駄についての見解だが、批判的にならない限り「無駄」を無駄とは思わない。あるいは、「無駄であってもやるしかない」という結論になる。「無駄毛」は無駄でも生やしておくしかないと思う女性がいるのだろうか?乳首のおケケなんか、3日おきに抜いているはずだ。理由?無駄だから。

    無駄なものがあっては恥ずかしい、みっともないからだ。もともとそこに、それなりの理由があって生えているものなのに、あってはダメなものである。今の受験制度を無駄とし、無駄でもやらなきゃと塾の講師は仕事がら子どもを洗脳するが、そんな無駄なことをして幸せなのか?幸せになれるのか?と、無駄なことをさせず、別の幸せを模索させる親がいてもいい。

    悲惨な子ども時代を送った自分は、子どもの「今」を大事にしたいが、塾の講師が流行らせた「今でしょ!」には当初から批判的だった。どうやったら東大に入れる、優秀大学に入れるに躍起になる保護者に大うけした塾の講師の言葉は、エステの従業員が、「大金積んでもエステはすべき」と同じ我田引水である。人間は自分の価値観に沿うことを信じる。

    偏差値入試批判は、茂木健一郎のいうように学力批判ではないし、人物の良し悪しを入試で見ろという事でもないし、学問という多様性を画一的なペーパーテストで判断するのは可笑しいということ。この考えを突きつめると彼のいう、「東大生はバカ」となる。社会的関心度や、受験学問以外でも高い好奇心を抱く東大生もいろいろいるから「比喩」であろう。


    「男は幼稚」、「女はズルい」などと、あるいは「女はバカ」、「男はカス」、こういう場合の「男」、「女」をすべての総称と勝手に解釈してムキになるバカがいる。そんなのすべてに当てはまるわけがないと思うが、ムキになる種は他人事とは思えない心当たりがあるからだ。人によっては、「女がすべて○○みたいな言い方は許せない!」と吠えている。

    斯くの思慮がなさ、幼児性はまさに子どもと同じ。もしくは、いちいち上げ足を取りたい醜悪な性格の持ち主といえる。聞き流すべきことをあえて、「聞き流せない」と拘る人も、心の狭い人と判断するしかない。「男はバカだ」と女がいえば、「ああ、それはいえてる」と受け流せばばいいし、「女はバカだ」と男がいえば、「そうなのよね~」といってどこにも問題はない。

    困ったちゃん女性は、「自分のことを言われてる気がする」と勝手に思い込んで立腹する。、自分が決め付けているのに、「決め付けは許せない」と吠え立てる。こういう人はおそらく、「自分はバカだ」などととは口にしない、高き自尊心所有者であろう。長く生きてるといろんな人間のパターンを知ることとなり、驚くこともなくなるし、対処の仕方もそれなりに身につく。

    「みなさん、早く年を取りましょう」これが最近の自分のテーゼである。それくらいに若き頃はバカであったし、「無知もバカ」の類である。書くことの主題が反れるのはいつものことで、だから主題はない方がいいが、反れたらまとめ方という能力も身につくことになる。何事もプラス思考でいれば、人間はそれほど困ることにはなるまいと。さて、本日は何を書こうとしたのだ?

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    この時点で忘れているので、書き出しに戻ることしばしば…。犯罪者についてだった。どうすれば犯罪がなくなるかについては、いかなる学者といえども名案はなかろう。「銃を持つのは相手も銃をもっているからだ」という論理も頷ける。一番いいのは、銃を作らないこと。さらにいうなら、銃など発明されるべきではなかった。と、これは消極的な思考である。

    昔、とある高校がバイク通学を禁止にした。理由はバイク事故が多かったからである。だから悪いのはバイクであり、そのバイクを使わせないのがいい、これが学校の論理である。人を教育(つまり、バイクについての心得)するのではなく、なんでも禁止にするのが手っ取り早いという横着な教育者が増え、それらの意見が職員会議で決定されるのだろう。

    「エレキ禁止令」も、「長髪禁止令」も、国民的放送局が「グループサウンズは出場させない」というのもあった。禁止は普遍的な正しさではなく、時代の名残りに過ぎない。「なぜ犯罪がなくならない?」について逆説的にいえば、「すべての犯罪は人間が孤独でいられない」。これについてはE・H・フロムが、『自由からの逃走』で心理を解き明かしている。

    近代社会は、前近代社会の絆から個人を解放することで一定の安定を与えたが、それに反して、個人的自我の実現、即ち個人の知的、感情的、あるいは感覚的な諸能力の表現という、積極的な意味における自由を獲得できぬまま、かえって不安をつくり上げたこと。フロムはナチズムの社会心理を分析したことで有名だが、民主主義はまたヒトラーのような人間を生む。

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    フロムは、ナチズム台頭の因を社会・経済的側面からだけでなく、社会心理学的側面から分析した。人間やある社会階層が政治的、経済的危機状況に置かれたときに起こる、「権威主義的性格」をマゾ・サド的側面から解明した。ファシズムとは、強権的、独裁的、非民主的性格をもった政治運動いい、自由主義・共産主義反対、独裁的指導者や暴力政治の謳歌を特徴とする。

    ナチズムとはファシズム運動を、一方ではヒトラーの権威に従い、その犠牲になる喜びを感じ、他方では自分より劣ったユダヤ人などを蔑視・虐待することで、欲求不満や劣等感を解消しようとした心理や行動の現れである。親に盲従する一見いい子が、学校ではいじめを主導するように、親の奴隷としての個性の喪失と、画一化が進行する現代の社会病理である。

    よって「親の意見と茄子の花は~」の慣用句は危険である。本当に無駄がないのかどうかは自分が思考して決めることだ。恋愛禁止を公言したバカな親がいたが、当事者からすれば周囲がバカだからおあいこでいい。問題は、子どもが親の強権に犠牲になるか否かである。青年期というのは、体が急速に伸び、成長もし、今まで保たれていたバランスが崩れ始める。

    親も小学生時代の良い子と同じように考えてはいけない。心と体が分裂することで、身体と心の葛藤、違和感が青年期の悩みの源泉となる。体毛、乳房、初潮、精通という第二次性徴から、自己嫌悪や不浄感を抱くこともあるが、思春期には性欲との闘いも始まる。性欲とは生理的な欲求に加え、不安から逃げたい、愛されたい欲求、劣等感・無力感からの逃避要求もある。

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    こうした複合性をどれだけの親が理解をしていることか。子どもの自慰行為を見つけて叱りつける親もいるというが、その事がいたく子どもの心を傷つけ、その反動から自暴自棄になったり、性的不感症になることもある。もっとも身近で、心を許せる親であるからこそ、こどものすべてを受け入れなければならならい。子どもの心の病の多くは親によって発症する。

    苦悩や不幸や不安ばかり続くと、人間は誰でもオオカミになる。問題を起こす大半の子は、親のいう事をよく聞く子、真面目で勉強もできる子が多いのは、彼らは親の期待を裏切りたくないという、自分を殺した生き方を続けていたからだ。それがそのまま、思春期をやり過ごせるはずがない。子どもの思春期時期に変革すべきは、むしろ親の側ではないかと。


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    「なぜ犯罪者になるのか?」を考える時、「なぜ自分は犯罪者にならなかった?」を考えて見た。そのことをここにも書いたし、自分の事はそれなりの理解を得たが、犯罪者というのは、人それぞれに様々な事情があるのは分かる。個々に事情はあろうが、率先して犯罪者になりたい者は稀であろう。なぜ犯罪者になったか、当たり前にいえば犯罪を起こしたからである。

    正確にいえば犯罪が露呈(バレた)したからである。犯罪を起こしても行為者が分からなければ犯罪者を特定できない。それなら犯罪者とならない。人によっては、「露呈しようがすまいが、犯罪を犯した者は犯罪者である」と考える者もいよう。自身が、「自分は犯罪者だ」と認めればである。が、自分が認識するだけでは犯罪者ではないと自分は考える。

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    刑法の原則は、「疑わしきは罰せず」。正確な言葉は、「疑わしきは被告人の利益に」。これは、なんぴとも犯罪の積極的な証明がない限り、有罪とされたり、不利益な裁判を受けることがないとする法諺(ほうげん)である。人を殺していようが、証拠が特定できない場合は犯罪者の汚名はきせられない。証拠がそろい、犯罪事実が確定したら送検され、公判が開かれる。

    犯罪は客観的な視点を構成要件とする以上、客観的事実を示す証拠が集まらない場合、自白を証拠採用することになるが、自白は本当に犯罪の証拠になり得るのか?客観的にみれば自白も立派な証拠だが、「自白を唯一の証拠とすることはできない」と憲法にある。つまり、自白だけで犯罪は認定できず、第三者の証言や、状況的証拠などで固める必要がある。

    なぜ憲法に定められているかを推測するに、旧憲法下においては、容疑者を拷問するなどによって自白を強要し、それをよりどころに有罪にすることがあった。人間は追い詰められると無実であっても、嘘の自白をすることもある。これを冤罪といい、新憲法下の文言は冤罪を防止するのが目的である。以下の事例は、自白の危険性を示すもの。

    息子が父親を殺した。目撃者は母親しかいない。それを庇うために母親が嘘の自白で罪をかぶる。ありがちな事例で、過去にもあった。「私が殺しました。息子は関係ありません」、「本人が言うのだから間違いあるまい」では真の犯人を見逃すことになり、社会正義に反する。「自白は証拠にならない」ではなく、「自白のみを証拠として有罪にできない」である。

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    人は自白による自らの有罪を立証できないが、有罪を無罪にすることは可能である。覆った冤罪事件などは自白強要の場合で、公判において被告は一貫して無罪を主張し、「再審」や「やりなおし裁判」となる。反対に無罪判決が出たあと、いかなる理由であれ有罪に変更はできない。これを「一事不再理」原則といい、これも憲法で決められている。

    「何人も(中略)既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない」(日本国憲法第39条)。刑が確定した後に、いかなる証拠が見つかろうとも同じ事件を裁判で審理をし、有罪にすることはできない。「百人の罪人を放免するとも、一人の無辜(無実)の民を罰するなかれ」という法格言もある。アメリカではこの原則がより厳格に適用される。

    一審の陪審裁判で無罪評決となった場合に検察は控訴できない。つまり、無罪評決は下された瞬間に確定する。日本では無罪判決を受けた直後に検察が上訴するケースは多い。映画『真実の行方』のラストで肝を冷やした人は多いのではないか。E.ノートン演ずる容疑者に対し、無罪尽力した弁護士(R.ギア)が、放心状態に陥るあの場面である。

    本作品公開当時、E.ノートン演じる容疑者の青年アーロン役は当初、L.デカプリオが熱望したと伝えられたが、それを奪いとって一躍スターダムに登りつめたのがE.ノートンである。デカプリオにノートンほどのアクはなく、どちらが善人顔といわれればノートンである。ノートンが善人顔であるがゆえに背筋の凍る思いになる。彼の不気味な演技が忘れられない。


    我々は、遠くで起こった犯罪について新聞やテレビなどのメディアでその事実を知るしかないが、メディアは犯罪事実のみを伝えるにとどまらず、学者や専門家を登場させ、犯罪について分析したり語らせたり、これは必要なのことなのか、どうなのか? E.H.フロムは、『自由からの逃走』の中で、近代におけるマスメディアの影響についてにも触れている。

    人間は他者の影響を受けた思想や感情などを、自分自身のものだと思い込むこともあるとフロムは延べ、その一例として新聞の影響をあげている。一般的な新聞読者にある政治問題について尋ねると、その人は新聞に書いている意見を、自分の思考の結果と思い込んで語るように、マスメディアが人々にあたえる「刷り込み効果」は大きい。

    オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995年3月発生)以降、雑誌のコラムやエッセイなどで、「善悪の概念の否定」や、「悪の肯定」が盛んに言われるようになった。社会学者である宮台真司の、『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)あたりが、オピニオンとして代表的なものではないだろうか。同著には、"オウム完全克服マニュアル"という副題がある。

    「正義の否定」、「善悪の概念の否定」、「悪の肯定」などは、『ツァラトゥストラ』、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』などのニーチェ思想に通じる。道徳的な価値観を罵倒、冷笑するニヒリズムやシニシズム思想家ニーチェをメディアが流行させることは犯罪の誘発になる?ニーチェ思想が犯罪の動機になるということは、犯罪心理学の分野で以前からいわれていた。

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    犯罪者になるためのHOW TO本というより、犯罪を読み解く本。犯罪心理学者がさまざまな犯罪をわかりやすく解説した『犯罪ハンドブック』には、『ニーチェ』の項目がある。1ページという短い項目だが、ニーチェ思想がいままでいくつかの犯罪を誘発したとし、ニーチェ哲学は青年を心酔させ、熱狂させる危険かつ魅力的で麻薬的な作用があるとし、そのうえで、

    「彼の影響は大はナチズムから、小は確信犯罪、生の無意味さの極限、ニヒリズムによる実存的殺人にまで及んでいる」とある。ニーチェのいう「超人」にあこがれた青年が起こした例として、1924年にシカゴでおこった殺人事件をあげている。日本では、酒鬼薔薇聖斗事件で逮捕された少年Aが、逮捕後の精神鑑定で「全てのものに優劣はない。善悪もない」という言葉を語っている。

    有名な酒鬼薔薇の手記には、「神は死んだ」というニーチェの引用もあった。「全てのものに優劣はない。善悪もない」という彼の発言は、ニーチェの著書に影響を受けたのは間違いない。14歳の少年が、ニーチェやダンテの文章を引用すること自体、恐るべき早熟性といえるし、調書には彼の信じられないほどの、自己評価能力や客観性が散見される。

    「善悪もない」といっている以上、彼の犯罪はニーチェの思想であるところの、背徳主義による犯罪だったといえる。酒鬼薔薇こと少年Aについては、学者による様々な分析がなされた。親の躾が悪い、学校が悪い、社会が悪いなどの議論もあり、それらはいずれももっともらしい説明がつくが、そんなことで14歳の子どもが、あのような大それた犯罪を行えるのか?

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    再掲すれば、少年Aは、6年生の女児2名の頭をラバーハンマーで殴り、1か月後に4年生の女児を今度は八角げんのう(大型の)金ヅチで殴って脳挫傷で死に至らしめ、さらに10分後に別の女児の腹を小刀で刺す。これだけでも信じ難いことだが、さらにその2か月後、顔なじみの小6男児の首を絞めて殺し、その首を切断して自分の通う中学校の校門にさらす。

    新聞社には挑戦状とおぼしき手紙を数通差し出す、というようなことをするだろうか?いかなる識者が、もっともらしい分析をしようとも、常人には理解のできない事件である。少年Aは供述調書の中で、男児を殺したりすることで満足感を得る自分にたいする嫌悪感から、それを正当化するために新聞社に挑戦状を出すという発想になったと言う。

    自分以外の何者かの犯行に見せかける、つまり「偽りの犯人像」を表現するには手紙が最適だったと供述調書にある。彼は新聞社に宛てた手紙の中にこう記している。「ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている」。この事は「元少年A」として再びメディアに登場した事でも分かる。手記を書いて収入を得ること事態は違法ではない。

    が、自分の幸福が他者を踏み台にした上で成されるのを許すわけには行かない。買って読むのは自由だが、おそらくそうした心ある人間は、興味がある事件といえど、彼の生活源に加担をしたくない。自分はこの事件に強い好奇心をもち、当然、手記は読みたかったが、己の興味を満たす事より、自分の良心が彼への加担を許さなかった。古本なら…?

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    フロムの『自由からの逃走』は、ナチズムの社会心理分析業績書だが、そのままオウム真理教集団の分析に概等する。宮台真司はこれを元に、『終わりなき日常を生きろ』を書いたのだろう。オウム真理教による組織犯罪(地下鉄サリン事件だけで死者13人、負傷者約6300人)にすれば、個人犯罪である酒鬼薔薇事件は規模は小さいが、フロムの心理分析が当てはまる。

    オウム真理教がさまざまな事件を起こしたからいうわけではないが、宗教嫌いの自分は麻原彰晃の風貌から食わせ物と見ていた。仏教に帰依したとか、空中浮遊をやるとか、そんな麻原を崇める優秀大卒のインテリ信者さえも、「アホかこいつら?」の印象であった。典型的な精神異常者でいうなら幼女連続殺人の宮崎勤。彼には少年Aのような克明な記憶はなかった。

    彼が言葉は支離滅裂である。例えば、「ネズミ人間が出てきて、わぁーっとなる。気づいたら女の子が倒れて、肉物体になっていた」みたいなことを言う。異常犯罪にはこのような解離性障害者の実態もある。「あの時は自分でない自分がいた」などの言い方もするが、少年Aにはそれがない。彼は酒鬼薔薇聖斗やバモイドオキ神であるときも、自我喪失はなかった。

    少年Aは決して異常性格ではないが、正常と異常の微妙な境界線上にいる、サイコパス(精神病質者)であろう。麻原彰晃については精神科医によって、「反社会性人格障害」、「自己愛性人格障害」、「妄想性人格障害」などとされたが、「人格障害」とは精神異常ではなく、程度の差はあれ現代人の誰もが有するもので、「健常者」と「異常者」を境界するものではない。

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    異常者は隔離されるが、その事で平穏な市民生活が送れている。つまり、異常者と定められた方が市民にとっては安全である。今回取り上げた、朝霞少女誘拐事件、闇サイト殺人事件、岡山同僚殺人死体遺棄事件、そして知人の友人が被害者となった稲毛殺人事件における加害者が、決して異常者ではない事。健常者が殺人者として我々の周囲にいる事が怖ろしい。

    人は過ちを犯す動物だ。なぜそうなのかを考えた事がある。今でも考えるが、答えを模索するときに他の動物について思考することも多い。例えば子育てにおいても、人間の歪な子育てを他の動物と比較したとき、純粋に動物から学ぶ事はある。同様に、他の動物は過ちを犯すのだろうか?イヌやネコがドジな行動をすることはある。YouTube などで紹介され、思わず笑い転げる。

    人間のドジもたくさん紹介され、あり得ないような抱腹絶倒のドジもある。ドジとは間の抜けた失敗のこと、また(自分も含めた)そういう人間を罵っていう時に使う。ドジの正確な語源は未詳だが、「鈍遅(どんち)」が転訛したという説が有力か。間の抜けた失敗でなくとも、「ドジった」といって笑い話にすることもある。例えば、万引きを見つかった時に「ドジった」などと…

    刑事事件となった過去の自分の過ちでさえ、「ドジな過去」などといえば柔らかい。「後にパトカーがいるのを気づかず、スピード違反で捕まった。まったくドジな自分だよ」と言う奴に、「そりゃ~ドジだわ」と返す。まあ、「ドジ」は「バカだね~」でもいい。人は多かれ犯罪者である。スピード違反(交通違反)も犯罪者だが、起訴される刑法犯と違って行政犯である。

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    免停になれば「前歴1」となり、これも「前科」とは違う。が、刑法のみならず各種法令の禁止や規制に触れるのは、立小便(軽犯罪)も含め、すべて犯罪である。それらを我々は運が悪いと解釈するが、これは故意に起こした犯罪の自己正当化。人間社会に犯罪は切っても切れないし、イヌが人に噛み付いてもイヌを犯罪者(犯罪犬)と言わない。飼い主がいれば飼い主の犯罪となる。

    名古屋の「闇サイト殺人」で無期懲役の地裁判決が下った川岸健治はこのように言った。「被害者は運が悪かっただけ。今でも悪いことは、バレなきゃいいという気持ちは変わらない。生かしてもらえてよかった。ありがたい」。事件の首謀者である川岸は、事件後に警察に電話を入れ、自首をしたことで死刑を免れた。被害者の母磯谷富美子さんは、そんな川岸をもっとも卑劣という。

    「きっかけをつくった責任より、自首で事件の解決に寄与したことの方が重いのでしょうか?」と、切実に問いかけるが、控訴審においても、川岸被告の自首をどう評価するかが最大の焦点であった。富美子の怒りはその事だけでなく、川岸被告だけが車内で監禁中の利恵さんに2度、性的暴行を加えたこともあり、「この事が軽くあしらわれてなりません」と語っている。

    「囚人のジレンマ」は人間の身勝手さを現すが、自分が首謀して仲間を寄せ集め、事件を起こしたにも関わらず、事が終るや否、自分の命が助かることだけを考えた川岸の演技を裁判官は評価をした。別の裁判官なら違う判断が下されたに違いないだけに、富美子さんの気持ちもいたたまれない。これも運が悪かったことになる。「運」というのは時に非情である。

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    「人は過ちを犯す動物」と書いた。この言葉は人の世で一般的に提起される言葉であり、あえて否定するべくもないと思われるが、その場合は故意も過ちに含めるから成り立つ。意図的にスピード違反をし、「過ちだった」といっていいものか?そういう言葉が出るのは、ネズミ捕り(交通取締り)にかかったからで、そうでなければ「過ち」だの「ドジった」などの言葉はない。

    これは凶悪犯川岸のいう、「今でも悪いことは、バレなきゃいいという気持ちは変わらない」が、正論となる。つまり、人はバレないことを前提に悪事をし、バレたらバレたで心ない謝罪で体裁を繕う。上の言葉を口にするもしないも人それぞれだが、誰も否定はできないし、問題は悪事の度合いであろう。東芝事件、三菱自動車事件、赤福、白い恋人たち、すべて確信犯だ。

    歴代の社長3人をはじめ、取締役16人の半数が辞任した東芝不正会計問題は、「利益至上主義」の名の下に1562億円という、膨大な金額の不適切な会計処理が行われ、そのスケールの大きさに驚く。これが歴史ある一部上場企業の実態であろう。会社も人も、バレなければ善人である。犯罪心理学上詐欺行為を繰り返す人は、大きく2種類に区別できる。第一は「空想虚言症」タイプ。

    空想虚言症とは、自分の空想や妄想で思い描いたことが、あたかも本当のことのように錯覚、嘘も真実と思い込む。よって、詐欺行為で相手から金銭を引き出す際も、虚言ではなく本人なりの真実で相手を説得する。普通の演技なら嘘のほころびも出ようが、本人は嘘をついてるつもりはないので説得力があり、相手に嘘の内容を真実と思い込ませることに成功する。

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    第二は、「演技性パーソナリティ障害」といわれるタイプ。このタイプは、完全な「演技」によって相手を騙して自分をよく見せようとする。嘘を嘘とハッキリ認識した上で、役者を熱演して人を騙す。演技の質が高いほど、完全に相手を騙すことが可能となり、金銭などを引き出すなどの詐欺行為を働く。このタイプは自分の演技力などの能力を、利欲のためだけに使う。

    これら「空想虚言症」と「演技性パーソナリティ」の明確な違いは、嘘を自覚しているか否かである。つまり前者は嘘が嘘であることを忘れて真実と思い込む。後者は嘘を前提に行動するが、いずれも相手を巧妙に騙すことになる。今回の東芝も三菱も前者と考えられる。「過ち」を「過ち」として強く認識していなかったのでは?それで責任が逃れられる事もないが。

    露呈すれば、整列して例の如く頭を下げる。このような大企業の組織的詐欺行為をみるに「人間は過ちを犯すもの」でなく、「人間は過ちを犯してはならない」姿勢が重要である。なぜなら、「過ち」とされる行動が起るにはそれぞれ原因がある。行動は原因なしに起らない。すべての行動は原因からみれば正当性があるという意味で正しく「過ち」という行動は存在しない。

    「過ち」と判断しているのはあくまで解釈である。人が同じ過ちを繰り返す原因、そのことを嘆く理由は、「過ちは繰り返さないはず」という思い込みにある。東芝不適切会計問題にしろ、6年間不適切会計を何ら「過ち」と解釈することがなかったことになる。それを今回第三者委員会から「不適切」と指摘されて、歴代3社長や16人の取締役はどうすれば良いのか?

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    人間だけに見られる特有の行動は「反省」であるが、単に「反省しました」が何だというのか?社長以下がテレビカメラの前で、揃って頭を下げるなどアホ臭いセレモニーであろう。彼らは真剣に、「何が間違っていた?」、「なぜ間違っていた?」、「自分や周りの人にどんな迷惑がかかった?」、「代わりにどうすべきだった?」などを積極的に話すのを聴いたことがない。

    確かに記者会見で謝罪の言葉は聞くが、何とかその場を取り繕った(許してもらうための逃避的な行動)反省に見えてしまう。人間は許しを乞うという偽善を平気でやるものだが、詫びて、謝って、何とか自分の存在を認めてもらおうとする。存在を否定されたくないのはひしひしと伝わって来る。バカいっちゃいかん、お前らの存在なんかまるでなかったということだ。

    だから、見境もなくただただ謝り、相手に受け入れられようと、その態度が茶番である。それが謝罪の本質とばかりに偽善を行うが、罪を真に悔いることは、決して謝ることではないんだよ。謝って許されたいではなく、相手の怒りや憎しみを受け入れ、それらと対峙していくこと。許しを乞うという偽善を犯す者を自分は信用しない。謝罪は言い訳に過ぎない。

    だから武士は腹を切った。その行為には、許しを乞うなどの気持ちは微塵もないという態度を示している。何とも男らしい態度であろう。謝って許されたいという女々しさは、本来は男の取る態度ではない。詫びや謝罪の言葉を簡単に吐く男がいるが、真に強い人間は決して謝ったりはしない。誤解なきよういっておくが、謝りたくないから謝らないのではない。

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    犯した罪に対する制裁は、相手が自分を憎み殺したいという怒りを受け入れることである。謝ることで何が変わるというのか?謝ることで相手にかけた迷惑が取り返せるとでもいうのか?願っても変わらないものかも知れないが、とりあえず謝っておこうなどはやめたい。真の謝罪とは、言葉すくなに相手の憎しみが和らぎ、自分の存在を再び認めてもらうこと。

    善良そうな顔や言葉、行動の底にあるものは、弱々しく相手に取り入って生きようとする卑劣さであろう。真の謝罪をするときに、相応しい言葉がそうそう見つかるものだろうか?だからといって通り一遍の言葉には虚しさを抱く。気の効いた言葉や他人受けする善良な態度や、そういう言動を人間は意図的にしてみせるが、無骨で不器用な人間に誠実者多し。


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    ブログを書き、コメントを受け入れる以上、いろいろなコメントが舞い込む。何のためにブログをやるか(書くか)については、ひとそれぞれで他人の事はさて置き自分の理由は何度か書いたが、10年近くやっていると動機も主旨も変遷する。最初は多分「遺書代わり」だったと思う。「思う」としたのは、やはり10年前のことだから、「断定」にも翳りが出る。

    記憶が曖昧というのではなく、昨日や1週間まえのような鮮明な記憶ではないので、あえて断定を避けるべきかなと。何しろ10年前といえば、「ひと昔」と言うほどにおぼろは仕方がない。「父はこんなことを考えていたのか…」という実体を死後に伝えるのが目的なのはハッキリ記憶にある。理由は、今は亡き父が一体どういう人だったかを知りたかったからだ。

    父がどうといっても父を見てきた自分だから、父がどういう人か分かっている。が、それはあくまで父としての父であって、父が父から離れた父のことを自分は知らない。自分のことをどのように見、どのように考えていたかを生前の言葉や動向で知る事はあっても、具体的に言葉や文字にしたものはない。それが不満でならなかった。父という実体をしる上で…。

    自分にとっては父であるが、時たま垣間見る人間という一面、さらには大人たちと会話をする父の社会人としての一面、通夜に来席された父の知人なり友人と言う人から聞いた父の側面は、通夜ということもあって額面どおり受け取れないが、それでも自分の知らない父を耳にできて新鮮な思いであった。遠方から来席の叔父貴たちも、知らざる父の一面を明かしてくれた。

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    通夜というのは故人を偲び、思い出に浸る場でもあるようで、自然とそのようになる。そんななか、おそらく誰よりも父を知るであろう母の言葉はショックであった。が、時間の経過の中で、ショックも和らぎ父の生前一切のことを肯定する自分だった。父というのは、子どもの前における一つのポジションにすぎない。そんな当たり前の事も考えることにもなれた。

    「聖職などといわれるけど、教師だって人間だ」という言葉を友人の教師に直に聞いたことがある。彼は組合活動に専念し、教頭~校長という管理職を目指さない生き方を選んだ奴だが、本音は「目指せない」状況にあったようだ。手の平を変えることを羞恥と感じていたんだと自分は察する。別の言い方をすれば、"要領が悪い"。が、そういう人間は以外に多い。

    根っから教頭・校長になりたくないという思いは伝わってこないのが、言葉の端々に聞き取れたからだ。奴も教員仲間内では、自分の知らない別の顔があるのだろう。例えば小学時代や中・高の同級生から昔話を聞くと、自分のまったく知らない自分を聞くことになる。「へ~、そんなことがあったんか?」、「自分がそんなことをしたのか?」などは、当の自分が驚く。

    自分は自分を見ていないが、他人の目はこちらを捉えているんだろう。自分は自分を「する」ものでしかなく、他人は自分(こちら)を見るものでしかない。自分は自分を見ていれないし、他人はまた自分(こちら)を「する」ことはできない。考えてみると当たり前だが、このように考えると、自分の行為を客観的にみることに寄与でき(メタ認知)、早とちりや過ちを防止できる。

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    が、正直いって、自分が自分を「やって」面白いのは、主観的に生きるからで、自分を客観視した生き方は、他人から「善い人」に見えるが、そんなつまらない生き方を自分は選択しない。子どもの言葉でいうと、「いい子ブリッ子」的になる。「いい人ぶる」は、主体生なく自身を偽っている悪い言葉である。人間は大なり小なり自制はあるが、それが過ぎる人間を言う。

    小・中学生時分の同輩が、「お前はこうだった」というのは別に構わないが、今直同じだと思っているような言い方をするバカがいる。なぜバカかといえば、その時のままで50歳、60歳であるはずがないが、その間をまったくスルーしたことでそのように思うのだろう。会っていない、言葉も交えていないとはいえ、「人間は成長する」くらいの想像力はないのか?

    それがないという意味での「バカ」である。もちろん、15歳から何の成長もないなら、それもバカであるが…。だから、同窓会などで、「あの時はバカやってたな~」など、昔話に和気藹々と花を咲かせるのはいいが、「あの時のバカのまま」としか思えない人間はバカである。が、自分より高い地位にあるとか、幸福そうであるとかの人間に対し、卑屈になるのがいる。

    いうまでもない、他人の成功を素直に喜べない妬み根性は、屈折した心情の持ち主である。残念ながらその種の人間も人間だ。反対に、ちょっとばかり偉くなったからと、何様的な気持ちの人間もいる。こちらも残念だが人間である。いろんな人間がごった煮のようにうごめく、それが社会の面白さで、いちいちあげつらうより、客観的に眺める方が楽しめる。

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    随分前に一度言った事がある。50歳の自分を昔の10歳のままみたいにいう奴に、「人は変わるだろ?そう思えないならお前はバカだ」と。その言葉に返せない彼は自分に立腹したようだ。偏見を指摘されて腹を立てるのはいずれに罪あり?自分は、そういう奴の立腹など放っておく。言わなければ同級生として円満でいれるが、バカを指摘してやるのも、自尊心である。

    気に障ることを言うのは人間お互いさまだし、おそらく自分も無意識にそういう言葉を吐いているのだろう。その事は許容しあうべきだが、問題は「バカ」なことを平然という人間で、それを許容するためには、自分も同等の「バカ」を言えばよいが、そこは多少の人間的差がある。田舎に居住の土着人間は、平気でバカをいうが、彼にはそれが真っ当なのだ。

    あまりにも醜いし、聞くのもバカげたような事を平然という人間とは、どう転んでも付き合えない。いって直る見込みもない。こういう人間の傍にはいない方がいいが、地域で連帯しなければならないときはどうする?悪いが、「バカ」を「バカ」と指摘して、周囲を徐々に啓蒙リードしていくしかない。「バカ」な考えに従う周囲を変えて行く力と自信があるかないかが問われる。

    それがあると思えば遠慮はいらない。こんな事はどこにでもある。スポーツのチーム内にもある。今までAの指導が正しいとされている中に、新たな考えの持ち主であるBが参入すれば、当然AとBとの間に軋轢は生まれる。周囲はそれを敏感に感じる。Bの論理に正当性があればAは孤立をするが、そういう場合にAは自分の仲間を増やそうと躍起になる。

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    仲間は双方の力関係に困惑するが、最終的には正しさが勝利する。BはAのように仲間を引き込む事はせず、自身の正しさだけを信念とすれば、卑怯で姑息なAより支持は集まる。正しいというのは、それだけで説得力をもち、それが本来的な勝負であるべきだが、それだけで社会は動かない。「Bさんが正しいと思うけど、でもAさんに世話になってて…」

    そういう場合も、「人間関係も大事ですからね」と加護してやればいい。正しいものが勝利する場合、人間関係も問題もあって、時間を要すこともある。世の中はこういう事例が実に多い。勉強がよくできるとか、頭がいいとかではやっていけない世界が世の中にある。秀才型脆弱人間より、堂々肝の据わった人間が社会では大事で、それを知れば子育ても変わってくる。

    自分は一貫してそれを訴えている。支配階級にいても、リードして行く力量のない人間は、人間関係の軋轢に苦悩するだけだ。正しいことを信じ、自力でそれを組み立て、実行できるらような子育てとは何か?を模索するといい。子どもを弱くするか、度胸をつけるかは、親の力が大きいと感じる。人目を気にし、周囲に迎合する親には、出来ないかもしれない。

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    「強く、逞しい子ども!」という標語を最近みないが、死語になったのか?勉強できた方が勝ちが蔓延しているのだろうか?いざ、大勢の中ではそんなことは絶対にない。なぜなら企業内や部課所内の混乱のほとんどはリーダーシップの問題である。仏教には「他力本願は救われる」とあるが、社会で他力本願人間は振り落とされ、自力本願の人間は救われる。

    面白いもので、皆がよくないと避けることや危ないと逃げたりすることのなかに、そうでない事が多い。つまり上の言葉は、「守りに入っている」現われだろう。リスクを背負いこむ事が、実は元気の源である経験は誰も持っているはずだし、ヒヤヒヤ、ワクワク、ドキドキのない人生ってつまらないと思う。だからギャンブル…という行為も分からなくはない。


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    9日午後7時20分頃、東京・品川区の東急大井町線荏原町駅で、女子中学2年生の2人が駅を通過しようとした上り急行電車にはねられ、死亡した。2人は同じ品川区立の学校に通う同級生。ともに13歳で自宅も近所だった。事故当時、2人は制服姿でホームにいたことから学校帰りとみられている。警視庁は2人が飛び込み自殺した可能性が高いとみて調べている。

    2人のバッグからは人間関係の悩みを綴り、「死にたい」と書かれた数枚の遺書がみつかったが、内容は公開されていない。2人は手をつないで電車に飛び込んだとの目撃情報もある。持ち主を失ったナイキのスニーカーが、線路上に転がっていた。同学年の女子生徒は、「2人はいつも一緒にいた。悩んでいる様子もなく、亡くなったなんて信じられない」と話す。

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    近所の人は、「昨日見たかな。全然変わった様子なんてない。行ってらっしゃいと言ったら、“行ってきます”と…」。女子生徒の1人の母親(42)は、2人は演劇部に所属、同じ高校に通おうと話し合うほどの仲良しだった。連休も家族で過ごし、昨日は一家でボウリングを楽しんだ。この日も朝食を食べて登校したが、いつもと違う様子は感じなかったという。

    母親が「朝礼間に合わないよ」と言ったら、「わかった」と言って元気に返事をして出かけたと、残念がった。手をつないで電車に飛び込む行為は、死を避ける我々に勇気と映るが、死にたいものには勇気というより怖るに足りない手段である。あらゆる自殺があるが、すべての自殺は防ぐべきことなのか?覚悟の自殺であっても、それを止めさせるべきなのか?

    13歳の少女の覚悟とはどういうもので、それは死ぬこと以外に解決がつかないことなのか?わからない。死ななければ解決できない人間関係の悩みがどういうものか…。遺書を見た人には分かるのだろうか?が、分かったとてそれでどうなる?かけがえのない命を失ったわけだ。おそらく少女たちの覚悟とは、誰かに話して解決つくと思わなかったのではないか。

    親にとってこの事が残念であろう。専門家は自殺をどう捉えるのか?国立精神・神経医療研究センター部長の松本俊彦氏は、10年前から「心理学的剖検」に関わってきたという。遺族を情報源として、自殺既遂者が死に至ったプロセスを詳細に振り返る調査である。遺族の心理的負担は決して軽くない調査だが、聞き取り側にもある種のタフさが要求されるという。

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    調査面接の際に遺族が提供してくれる情報は生々しく、遺書や生前の写真、自殺直前まで交わしていた家族や恋人とのメールやSNSのやり取り、ネットの閲覧履歴…。そうしたものを見ながら、感じとりながら、遺族の話に集中していると、自殺直前に故人が眺めていたであろう風景など、追体験する錯覚に陥るというが、これは同化といえる心情であろう。

    多くの自殺者遺族との話を集約すると、自殺者の行動は矛盾に満ちていると言う。例えば、自殺当日の朝、遺書をしたためながら残り少なくなった洗剤やシャンプーを補充し、かかりつけ医で糖尿病や高血圧の治療薬をもらうなどの行為で、今日死ぬ者には不要なものばかり。そういう矛盾を感じとりながら、自殺者に「覚悟の自殺はあるのか?」と松本氏は問う。

    自殺者の不可解な行動は何を意味する?死にたいは生きたいの裏返しゆえ、このような矛盾を生むのか?自殺者は覚悟の自殺というより、生の渇望と無意識の対峙がなされているのか?興味深いのは、自殺の名所で知られる米サンフランシスコの金門橋で飛び降り自殺をしかけているところを発見され、警察官に強制的に追い返された人たちのその後の調査がある。

    それによると、数年後の生存率は90%を超えていた。支援といっても、「パトカーに乗せて自宅に送り届けた」だけだが、彼らの生存率の数字には驚く。ちょっとした手助けが元で、心の中の天秤量りの傾きが変えられ、命運を分けることになったのだろうか。他に理由が見つからない。「覚悟の自殺などない」と断言はできないが、些細な手助けを試す価値はある。


    日本の自殺は、1998年に中高年男性を中心に急増し、14年間にわたって高止まりしてきた。最近3年間は減少傾向にあるが、中高年層の減少幅に比べて、10~30代の若年層の減少幅が小さい。日本の15〜39歳の死因1位は自殺で、先進国中にあって例外的な現象だ。現在、日本の自殺予防の新たなターゲットは若者である。 若者の自殺予防には早期の教育が必要である。

    小学校から、『命の大切さ』を教える。これは間違いではないが、問題は教育の内容にある。命の大切さを教える授業は、ともすれば「命の尊さ」、「自分を大切に」、「産んでくれてありがとう」の連呼になりやすい。これらが真に自殺防止に寄与しているとは言い難い。自殺者の真の苦しみとは何か?それは、「人に助けを求めても無駄だ」と絶望しているのが見える。

    自殺リスクの高い子どもの多くは、家庭や学校で暴力を受けたり、それ以外にも自らを否定される体験にさらされる中、誰かの助けを求めている。今回の2人の少女も、助けを求めたいが、おそらく誰にも助けを求めていない。だから周囲には何ら普通どおりに見えた。誰に期待も持てず二人で共鳴しあった。そんな子どもに「命の大切さ」などの言葉は気休めにもならない。

    彼女たちの自己無価値感に価値を与えられる人間は、やはり親であるべきだ。親の期待に添おうとする子どもは、親に貢ごうとする子どもで、実は親が貢がせている。子どもに期待をかけるをいけないとはいわないが、子どもを親に貢がせないため、プレッシャーを与えないために、子どもへの期待は内に秘めておくべきものだが、あえてプレッシャーをかける親もいる。

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    親がプレッシャーをかけることが、子どもの発奮になると考えているのだろうが、応援とか期待とか、それら名を変えたプレッシャー子どもにをかけるべきではない。競争のプレッシャーをかけ、望む成績でなければ気分を害す親は最低である。プレッシャーをかけるのが発奮目的なら、ビリでも笑顔で頭を撫でる親ならともかく、子どもの背中に馬乗りになる親がいる。

    子に不機嫌になる親、生徒に不機嫌になる教師、部下に不機嫌になる上司、この三態は下位者にとって害悪であるのを気づいてないのか、分かってもやるのか、どっちも同罪だ。月に数回、年に数十回なら忘れもするが、日常的に辛い思いをさせられるから子は親を殺す。殺されない親は子どもの我慢に支えられ、あり難いと思わなきゃ、親の命は危険に晒される。

    親からヒドイ仕打ちや言葉を浴びた時、いろんな我慢の仕方が子どもにある。外に出るのも方法だが、出たからには帰らなければならない。黙って自室に入り、一緒に食事などしたくない。子どもの自尊心として、与えられた餌をパクつくのが出来ない。こんなときに追い討ちをかけられると、「怒」が重なる。親は子どもが怒りを鎮めてるときは、はからう度量が欲しい。

    過去、多くの子どもによる親殺しがあった。金属バットや刃物、あるいはロープなどの紐類で首を絞める。それを行為するときの子どもの心を思う時、こんな家(親の元)に生まれて来た悲劇としか言いようがない。「命の大切さ」、「産んでくれてありがとう」の教育と矛盾する親の子に対する、「お前なんか産まなきゃよかった」を子どもに吐く親は今でもいるようだ。

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    そんな言葉をいわれた折には、聞き流すとか、我慢で食い止めるしかないが、あまりに重くのしかかり、自己無価値感に襲われれば自殺をするしかない。「勝手に作っておいてその言い草はなんだ!」と腹をたてたなら、親を無きものにするしかない。想像するに、このような言葉が自殺の引き金になった、あるいは親殺しの動機になったという子は、少なくないのでは…。

    道徳教育などと、綺麗ごと言葉を並べ立てた教科書で、親子問題が解決できたり、早まった行為が抑止できればいいが、真に大切なのは、「つらい気持ちに襲われた時、どうやって解消するか、助けを求めたらいいか」、「友達が悩んでいたら、どうやって信頼できる大人に繫げたらいいか」、「信頼できる大人はどこにいるのか」を誰が教えるかだが、信頼=親であるべきだ。

    同居の母親を殺害した疑いで警視庁に逮捕された東京都台東区の高校1年の長女(15)は、事件当時は中3であり、通っていた中学校では、「1人で教室の黒板に絵を描いていた」と同級生らが話すなど、周囲になじめずにいたらしい。少女は今年2月26日、台東区の自宅マンションで、当時41歳の母親の首にタオルを巻きつけ、絞めて殺害した疑いがもたれている。

    教育熱心な母親は英語留学も検討していたといい、事件後に進学した高校に通常通り通学していた。専門家は、親に反発できず、「殺さなければ解放されない」と考えた可能性を指摘する。父親は仕事で不在がちで、長女は母親と2人で過ごすことが多かった。長女は千葉県内にある私立小学校に通い、系列の中学には進学せず、受験をして都内の私立中学に入学した。

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    捜査関係者によると、長女は学業方針のほか、普段の持ち物などについても母親に干渉され、不満を漏らしていた。新潟青陵大大学院の碓井真史教授(社会心理学)は、「親への愚痴を周囲に漏らすことができずにいたのではないか」と指摘。「期待を一身に受け、いつのまにか親の世界に閉じ込められてしまった結果、最悪の手段を選択してしまったのかも…」と話す。

    殺した動機は携帯をスマホに替えたい、買わないの口論というが、そんなのは切っ掛けであって、過去の一切が爆発したに過ぎない。爆発は小さいものから大きいものまであり、少女も小さな爆発は我慢をし、抑えたろう。そんな子どもの我慢をいい事に、親はさらなる我慢を強いる。「もう我慢なんかしない!」それが爆発だ。親は死んでやっと気づく。


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