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「探索心」

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ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従い、1901年から始まった世界的な賞のこと。物理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済学の6分野で顕著な功績を残した人物に贈られる。ダイナマイトをはじめとする様々な爆薬や兵器の開発・生産で巨万の富を築いたノーベルには、内外から批判の声も少なくなかった。
 
兄のリュドビックがカンヌにて死去した際、フランスのある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「死の商人、死す」と報じた。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルは困惑し、自分の死後、どのように記憶されるかを考えるようになった。1896年12月10日に63歳でノーベルは死去するが、遺言は死の1年以上前の1895年11月27日にパリで作成されていた。
 
今から120年も前のことである。遺言には「私のすべての換金可能な財は、私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と記されてあった。彼がこの遺言のために残した金額は、彼の総資産の94%にあたる3100万スウェーデン・クローナに及んだ。
 
直近レートは、1スウェーデン・クローナ=約15.5円だから4億8000万円余り。周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、1897年4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されなかった。その後、彼の遺志を継ぐためにRagnar SohlmanRudolf Lilljequistがノーベル財団設立委員会を結成し、賞設立の準備を行った。賞の名前は「ノーベル賞」とされた。
 
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2014年度までに、864の個人と25の組織がノーベル賞を受賞しているが、女性の受賞者は44人(延べ人数)と全受賞者の5%足らずである。自然科学分野での女性のノーベル賞受賞者はのべ16人で、化学賞が4人、物理学賞が2人、生理学・医学賞が10人である。国別で見ると、フランスが4人、アメリカが8人、イスラエル、イタリア、イギリス、ドイツが各1人づつである。
 
我々が子ども時代、ノーベル賞といえば湯川秀樹博士とキューリ夫人が有名だった。ノーベル賞といっても、ノーベル賞飴くらいしか知らないガキのころだが、ニュートンやガリレイ、野口英世などの伝記と同じように湯川博士やキュリー夫人の伝記を読んだ。中間子理論や、ラジウムなどはチンプンカンプンだが、キュリー夫人は子どもに親しみやすい名であった。
 
キューリ、キューリとチャラけていた。一方の湯川博士は受賞当時は40歳そこそこなのに、ズルハゲの頭が可笑しかった。35歳離れている自分の父親は自分が10歳のときは45歳で、それでいて頭ふさふさ…。だから賢い人は頭を使いすぎてハゲるものだと信じていた。キュリー夫人の功績は夫であるピエールの力も大きく、当時の実験ノートは交互に記されていた。
 
そんな仲むつまじき夫婦だったが、1906年、マリーは最愛の夫を事故で失う。4月19日午後、土砂降りの雨の中、ピエールは道を横切ろうとして、軍服6トン分を載んだ馬車に轢かれて即死した。悲嘆に暮れるマリーにフランス政府は年金の申し出をするが、気丈なマリーは自分と子どもの食い扶持ぐらい自分でなんとかできるからと断り、夫の死後すぐ職場に復帰する。
 
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当時マリーは38歳。未亡人として余生を生きるには早すぎる年齢だった。ほどなく傷心のマリーの目に止まったのが、夫の教え子だったポール・ランジュバン。ランジュバンは研究熱心で天才肌なところがピエールそっくり、しかも「立派な口ひげ」をたくわえたイケメンだったが、ランジュバンには妻子があった。そんなことは問題ない、要は性器があればと二人は燃えた。
 
それまで夫の頻繁なる浮気を黙認していたランジュバンの妻が、なぜかキュリー未亡人には怒りが爆発、嫉妬の亡者となる。二人が密会場所のアパートを借りたと知るや、そこに人を送り込み、ふたりが交わした親密な手紙を盗ませ、「別れなかったらふたりの関係をマスコミにバラす」と脅した。ノーベル賞受賞者のスキャンダルは、マスコミの格好のネタになる。
 
それでも関係が続いたのか、ランジュバン夫人の返報感情が収まらなかったかは定かではないが、夫人はマリーの2度目のノーベル賞受賞の3日前に二人の愛の手紙をマスコミにリーク、世論を味方につけて慰謝料と子どもの養育費の支払いを求めた。新聞は大騒ぎ。夫ピエールの弟子のフランス人男を妻子から奪った淫乱ドスケベ科学者と、マリーを書き立てた。
 
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挙げ句マスコミは、不倫は夫ピエール存命中から始まっていたとデマを飛ばす。事実無根とはいえ、あまりのことにノーベル委員会は怖気をなし、スウェーデンで開かれる授賞式には出席を見合わせるよう通達を出す。不倫スキャンダル渦中の女性が、スウェーデン国王に会うなどとんでもないということだ。その時に擁護にまわったのが、アインシュタイン博士である。
 
アインシュタインはマリーにエールの手紙を送った。「こんなクズどもには言わせたいように言わせて無視を通すのが一番だ…。それでも野次馬が書くのをやめないなら、あんな戯言、もう読むのをやめればいいんだよ。どうせ毒蛇みたいな連中相手の作り話なんだから、読むのはそいつらに任せればいい。」が、この騒ぎのとばっちりを受けて、2度の決闘が行われた。
 
まずライバルの新聞2紙の編集長同士の決闘である。ランジュバン夫人の主張の信憑性をめぐって日刊紙「Gil Blas(ジル・ブラ)」のM・シャベツ編集長と、極右機関紙アクシオン・フランセーズの「Leon Daudet(レオン・ドーデ)」編集長の間で行われたもので、武器は剣。本番では「数度に渡る激しい鞘当て」で、トーデ編集長が負傷して和解となった。
 
 
もうひとつは渦中のランジュバンと、彼を「無法な臆病者」と叩いたグシュタヴ・テリー記者。名誉毀損とランジュバンが銃による果たし合いを申し出た。双方、威勢はよかったもののいざ本番になったら「フランス随一の逸材をこの手で殺すことはできない」とテリー記者が撃つのを拒み、ランジュバンも「俺に人殺しはできない」と銃を下ろして終わってしまう。
 
これが大々的に報じられたことで結果的に不倫騒動も終息。ランジュバンは夫人と法廷外で誤解を晴らして歩み寄り、後日ヨリを戻すも懲りないランジュバンは、その後も秘書との間に隠し子を設けている。マリーは委員会の勧告にもめげず、スウェーデンに飛んで2度目のノーベル賞を受賞した。スウェーデン国王とはディナーで同席したが、つつがなく会食を終えた。
 
人間の才能と下半身には何の関係もないが、実はそうではないという。英雄は色を好むし、才媛もまた色を好む。どちらが積極的かはともかくである。仕事の才能は直接「収入」に結びつくこともあるし、結びつかない相手でも、「刺激をくれる」、「一緒に夢を見させてくれる」などの理由、女にモテる男は多い。「色男、金と力はない」というが、母性との関連か?
 
何らかの「才能がある」男性や、いわゆる「色男」は古今東西女性にモテるものだ。「英雄」と言われる、歴史の武将やヒーローたち、現代のハリウッドスターやスポーツ選手など、多くの「デキる」男たちの多くが沢山の浮き名を流している。積極果敢に誘惑する女もいれば、英雄がちょっかいを出しても収穫率は高い。じっと待つ女にも千載一遇のチャンスとなる。
 
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男が男らしくあるために必須の性ホルモンが「テストステロン」で、男性的な肉体を作り、攻撃的な性衝動を引き起こす。ペンシルバニア大学のアラン・ブース教授は、4000人以上の既婚男性を対象に、テストステロン値について下記の実験を行った。まずサンプル男性のテストステロン値を測り、その後、内密に結婚生活の実態を調査したところ、下記の相関関係が判明した。
 
 ◎テストステロン値の高い男性には…
  ・ 浮気の過去がたくさんあった
  ・ 家をあける(出て行く)傾向が高い
  ・ 離婚率が高い
  ・ 会社などから仕事を評価され、出世が早い
  ・ 社会的に成功しやすい
  ・ 闘争本能が強い
 
「英雄色を好む」、つまり「デキる男は、浮気しやすい」という事実は、ホルモンの値が証明している。女性の好む漫画やドラマなどには、「デキる男でありながら、女性に一途」なんて素敵な男たちがたくさん登場し、多くの婦女子たちをトキめかせてくれているが、傍で眺めている分には夢と同様、現実感はない。実生活では苦労が耐えないということだろう。
 
キュリー夫人がキューリが好きであったと、伝記には書いてなかったが、子どもが知ってどうなるものでもない。キュリーの業績を知った後にそれら純然たる事実から、「清濁併せ呑む」キャパを身につければいい。彼女が初のノーベル賞受賞後から111年後、突如日本に「キュリー夫人の再来か!?」という女性が現れた。その業績は文句なしのノーベル賞級だった。
 
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キュリーはベクレルが発見した「ウランから出るX線に似た謎の光線」を研究対象にした。決して「ラジウムはありま~す」などの戯言を発することもなく、信念一途から11トンもの鉱石を乳鉢で手作業ですり潰すという地道な研究を続けた結果、ついに純粋なラジウムの精製に成功したマリーは、ラジウムの発する青い光を「妖精のような光」と呼んだという。
 
小保方氏は、緑色に光る細胞をどう感じたんだ?「遂にインチキが成功した!」とでも…?おさらいとしてSTAP細胞を超簡単に言うと、①体細胞が、②刺激(酸に漬けるなど)を受けることで、③万能性を獲得した細胞のこと。身体にもともと万能細胞があったわけではなく、いったん分化し終えた細胞が刺激を受けて初期化され万能細胞になった、という意味。
 
「研究」は「探究」であり、「探究」を実践的行動に移したもの。つまり、「探究心」は大事でも、それを行動によって具現化しなければ成果も説得もない。よって「STAP細胞はありま~す」などというのは、研究者の言葉ではないし、彼女の幼児性を示している。真っ当な科学者ならあんな言葉は言わない。小保方はキュリーというより、「キュアー(cure)」が必要だ。
 
女性特有の情緒に支配された人だ。人間にとって問題を解く器官は脳であって、それゆえに絶え間ない訓練を要する。その訓練とは問題を一つ一つ解決していくこと。考えると言う事はつきつめていえば、問題を解決していく過程である。問題は、確実に考えることによって解決される。不確実に考えれば不確実な回答が示される。実は子どもは考えることが好き。
 
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それを奪ったのが昨今の学習塾という合理的な学習体系である。学習の基本は考えることだが、そういう時間が省かれるくらいに大量の知識を必要とする。特に有名進学校受験に際して塾の役割は、短時間に如何に多くのことを覚えるかを使命とする。本来、考えると言う事は時間を要することだ。例えば、探索と探究という言葉の意味の違いを考える場合…。
 
最も簡単で、楽で、効率がいいのは辞書で意味を調べる。考えなくても1秒で正解を出せる。実社会ではその語句の正確な意味を知らなくても、適宜に語句を使用するから何ら問題はないが、自分の思考パターンはこうだ。「探索」、「探究」が使われている用語や文章を想像する。例えば、「遭難者の探索が始まった」というが、「遭難者の探究が始まった」と言わない。
 
それだけで「探索」と「探究」の意味の違いがわかる。「日本の古墳について探究する」を「探索」にすれば、単に場所を探すというだけになる。「探索」とはそういうことだ。探索する=exploreは、"捜し出す"というラテン語 "explorare"からきている。その語句は、「外」を意味する接頭語 "ex"と、"絶叫する、泣き叫ぶ"意味の、"plorare"からなる。
 
語源を紐解くと、新生児のあげる産声の意味をが理解されて言葉になった。パソコンのデスクトップにある「e」のアイコンは、「Internet Explorer」の略で、文字通り「探索・検索」すること。「探索」と「探究」の違いが単に言葉の意味だけでなく本質的な理解ができると、今度は「遭難者の探索」と「遭難者の捜索」はどう違うのだ?必然的に疑問が広がる。
 
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これは「探す」と「捜す」の意味の違いから来た語句で、「探査」と「捜査」とも使われる。「火星の探査衛星が打ち上げられた」というが、「捜査衛星」と言わない。「殺人犯を捜査する」というが、「殺人犯の探査」といわない。このように、語句の正確な意味を知るのが100点を取る勉強で、そんな辞書で覚えるだけで済む事を"くだらん"といつも言っている。
 
正確な意味を知る勉強より、その過程の中で頭を働かせることに意義があり、価値がある。結果ばかりに固執し、合理的に何かを得ることにはあまり意味がないということだし、そういう受験体制で東大に入る日本の受験システムは、バカを作っているような気がする。合理的で即物主義の弊害は、今後欧米諸国との差に大きな開きが出るとの危惧がある。
 
如何にたくさんのものを覚えるかによって競われた受験戦争から、心の「探究心」が育まれるとは到底思えない。そうはいっても、現状がそうなのだからという付和雷同性を信奉する親に異論がないのは、日本人が本質よりも形式を重視する民族であるからだ。自由闊達に飛び跳ねている子どもたちが何より美しく見えるなら、そういう子は自分で幸せを見つけるよ。
 
その子たちの物質的幸せを親が保障する代わりに、子どもの時代を奪ったことと、どちらの善悪と言うのは、親の選択遺憾の問題と思っている。ただし、勉強漬けにされた子どもは、どこか変と感じるものはある。何が変と言うではなく、「どこか変…」と感じるだけ。大人になると「変」は具体化して分りやすい。今はバカなのに過去の栄光に寄り添うところか…。
 
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「警戒心」

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          警戒心0%!なんというヒトのいい、いやネコのいい猫
 
乳幼児の"人見知り"を英語で「シャイネス(Shyness)」という。恥じらい、内気の意味だが、自分は人見知りは「警戒心」もあるのではないか?たしかに、恥じらい、内気な感じの人見知りだなと思える子もいるが、それでも「警戒心」の思いが勝る。動物には当然にしてある「警戒心」だが、子どもの頃にスズメの警戒心の強さには腹が立ってしかたなかった。
 
少年雑誌に書いてあったスズメ捕りの定番は、「ふるいとおし」を立て、下にはモミを撒いておく。物陰に隠れて、スズメが近づいてくるのを待ち、モミをついばみに来たスズメが、真下に入った瞬間、つっかい棒にゆわえた紐を引っぱり、「ふるいとおし」を落してスズメを生け捕りにする方法が成功したことがなかった。とにかくスズメがふるいとおしの下に入ってこない。
 
スズメは確かに警戒心の強い鳥だが、こうまで見透かされると頭にくる。おそらく物陰に隠れたつもりの自分が実はスズメにバレバレだったのかも知れない。原理自体は問題ないと思うからだ。この方法は、ただひたすら物陰でじっと待つことだが、そこの忍耐が足りなかったのだろう。鳥類研究家によると、スズメな鳴き声は目的によって少しづつ違うようで、警戒の鳴き声もある。
 
こんな身近なスズメを一度も捕獲できなかったのが少年時代の心残りである。YouTubeにある動画は凄いの一言。ホバリング餌取りとあるようにホバリング(ヘリコプターが空中で停止している状態で、停止飛行とも言う)で、手の中の餌をついばみにクルなんて考えられん。どても警戒心が強いなどと思えない。やってみたいが多分こない気がする。スズメも人を選ぶだろ。
 
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この人はきっといい人なんだよ。ある程度の時間を経てスズメとの信頼関係を樹立してるんだ、きっと…。人間の生活範囲に密着し、生活・繁殖する身近なスズメも、なかなか人間と仲よくなれない理由、警戒心の強さにはそれなりの理由がある。それは古くから稲の害鳥として人に追い払われてきたという歴史で、それがスズメが人への警戒心を解かない理由である。
 
日本に稲作が伝来した弥生時代に飛来したと言われているスズメは雑食性で、植物・パンくず・生ゴミ・虫など何でも食べる。秋から冬は巣を持たず群れをなし、皆で寄り添って木上で過ごす。廃村や原生林など、人の住まない場所や無人島にはいないが、なぜか小笠原諸島にだけ生息しない。羽の色が一年中変わらないところから「着たきりスズメ」と言われる。
 
警戒心の代表のスズメだが、凶暴にみえるクマやサメは実は臆病な動物だ。もしクマが"ヒトは恐い生き物ではない"、という先入観をなくせば攻撃することもない。サメもヒトが乱暴な行動に出なければ絶対に攻撃してこないと言われている。よくクマが人間を襲ったとの記事が出るが、あれはいうまでもないクマが人間を怖がったのだ、サメもしかり。
 
あらゆる動物の中でもっとも警戒心の強い動物はなんだろう?スズメなんかの比ではないその動物…、実は人間である。半分本当、半分冗談だが、同じ動物が、もっとも身近なパートナーが最大の天敵なんて他の種にはいない。恐妻家を公言する男が多いが、何で妻が怖いのかを理解できない。おそらく妻を甘やかせた結果ではないのか?くらいにしか思えない。
 
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分らない事は人に聞く。こういう質問がある。「結婚すると嫁が怖い人って結構いますよね。それってなぜなんでしょう?しかも世間的にも普通だったりしますよね。逆に旦那が怖いって人はあまり聞かないし、仮に聞いたとしたらすごい危険なイメージがします。嫁が怖いってのは笑い話にもなるし、かといって冗談ではなかったりもします。」以下が回答。
 
女は良い夫にはちゃんとした対応を取りますよ。ですが反面ダメだと判断した男には、かなり手厳しいです。それと妻が怖くなるのではありません。妻から逃げているから、恐いのです。相手をちゃんと理解しそれにちゃんと答えていれば、怖くないはずです。女は結婚すると〔妻、母親〕になるんです。それに比べ男は、〔夫、父親〕には中々ならないのです。
 
 
結婚し、親になるにはそれなりの責任が産まれます。その責任をちゃんと果たさずから妻や目の前の出来事。細かく面倒な事から逃げようとするから、妻が怒り、怖くなるのです。逃げずに、ちゃんと妻に対し、誠実に向き合ってる男性は〔怖い〕など感じてないと思います。誠実に向き合わないから怖い目を見るのです(笑)。
 
なんとなく分る気がする。次の回答。「嫁がつけ上がって、もう手がつけられなくなる。結局は最初が肝心。最初に頭を押さえつけておかないと調子に乗る、それが女です。それに失敗すると、どうしようもなくなる。あとは男の深層心理に、母親コンプレックスがあると思う」。コレの最初はその通りで、自分は一言、「女を甘やかせるからだ」と答える。
 
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後半のマザー・コンプレックスは自分にないので理解不能。逆に言えば、少しでも母親のような面を持つ女はダメ、女を感じなくなる。気立てのやさしい女でないだ思ったら即付き合いを止める。そういう感じだった。ヒステリー女のトラウマがあるのかも知れない。だから、おとなしく、よそよそしく見えても、本質を見抜く目は持っているし、騙されない。
 
そんな女が傍にいたためしもないし、だからかふんづり返って男を尻に引くような女を女とは思わないが、まあ、すべては男が悪いのだろう。そういう女である事を事前に見抜けなかった事も含めて男の問題よ。最初はそんな女に思わなかったも、耳にタコができるほど聞かされたが、だったら兆考が見えたときに何をしたか?とそういうことにしかならない。
 
いくら愚痴をこぼせど、何も手を打たなかったこと以外の何もない。恐妻家となった今も、本当にそれが許せないならひと暴れすればいいのに、黙って言いなりになってる男が今さら愚痴をこぼすなと言いたい。解決できないなら文句をいうなが持論の自分、文句を言うなら行動しろと言いたい。自分の父親はよく母を柱に縛り付けていたが、晩年は丸くなった。
 
イメージ 5我慢するの域というより達観したようだ。自分の女性観を聞くと、「うるさそう。あなたみたいな人とは結婚すると大変ね」と言う女がいる。その言葉でどういう女か分かる。心配ご無用、お前のような女は選ばないと、腹で蹴飛ばし口に出さないところが男。当たり前の事をチャンとする女からこんな言葉はでないもの。いい女は探せば5万といる。
 
ダメ社員に上司がうるさいのは当然で、できる社員に言葉は無用。結局、自分のワガママを黙認してくれる男を選ぶ女に選ばれた男がどうなるかの想像はつく。選ばれてしまったたことが問題で、今さらどうにもならんという結論。上の質問についても、その手の女に選ばずもっといい女を捜せばよかったが、残念ながら男の目が肥えてなかった自己責任で、言って行く所はない。
 
普段の女に「警戒心」は絶対に必要。先日、30代前半の婚活中女性がこういっていた。「本当の自分を出すと嫌われると思うので、出さないように頑張っています」。誰でも最初から「地」を出せない部分はあるが、女のネコかぶりは、クリープを入れないコーヒー同様、一概に「悪」というでもない加減の問題だ。極端なネコかぶりを見抜けない側にも責任がある。
 
女のネコかぶりは化粧で素顔を隠すのと一緒で、性癖でもあり、お化粧と思えばいい。「たくさん付き合って女の心を知れ」と19歳の時に先輩から言われたが、確かに経験からでなければ人は学べない。だから「警戒心」より、積極的にプラスにいかせるノウハウを身につけるのがいい。手がつけられない嫁というのは、男がそのようにさせたと思っている。
 
ここは男のブログだから男に物申すことが多く、女が読むと次の二別だろう。腹が立つ女と、チャンとしなきゃいけないと思う女。腹が立つ女は自分に置き換えて文句を言われてると思うのだろうが、「良薬口に苦し」とならないなら、何も言わない優しい男を見つける事。チャンとした女を望む男は目を肥やせ。不作女で生涯を真っ当したい男はご自由に…。
 
イメージ 6「不作は嫌だろう?」との前提で書いている。男として最も許せないのは気立ても性格もいい、謙虚で向上心あるいい女が、どうにもならんダメ男、クズ男に手篭めにされ、利用されるのは真に忍びない。男は女よりも単純で正直で「地」が出やすいので性格を判断しやすいと思うが、あまりにヒトのよい女性は、クズ男に引っかかる傾向が多い。
 
献身的で母性愛傾向が強い女性は、利用されてることすら分らない。「いい男を見つけたい」は女の定番、見つけられるものなのか?正直分らない、なんとも言えない。「巡り合わせ」的要素が強い。「いい男」の定義も人によりけりだが、いい女はいい男に出会って大切にされて欲しい。貢がされた、お金をもって逃げられたの話は嫌と言うほど聞かされた。
 
一つ女性に誤解があるのは、自己犠牲的な献身を自分の長所とするのはどうだろうか?自己犠牲には「依存心的傾向」があるからだ。親子についても同じ。「お前にこれだけ犠牲を払った。お金もこれだけ使った」という親は、相手への見返りを要求する押し付けがましい言葉だから。こんなに犠牲を払ったことを相手への愛の「証」にするのはナルシスト。
 
どれほど献身的で自己犠牲を払ったとしても、差し出された側がそれをどう受け取るかが問題であろう。献身を押し付けてみても、相手が利用しようと思ってるだけなら、いかなる献身も感謝とはならず、相手が感謝しない物を押し付けるのはダメ。好きな人に尽くしたいのは分るが、どれだけ尽くしても実のらない恋もある。悪くいえば利用されたのだろう。
 
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男が女に「お前の愛を感じる」と言いながら貢がせるのは常套手段。おだてて木に登らせる。男に「信じろ」といわれ、信じなければならない気持ちにかられるが、人を本当に信じると言う事は、心が完全無防備状態のこと。人にそこまでゲタを預けるのはよくない。自分を「無」にしてまで相手に従うのはダメ。「信じろ」を強制する男には「警戒心」を持つ事だ。
 
「警戒心」というより信じない方がいい。そもそも「信じろ」の押し付けはオカシイ。信頼は押し付けられるものではないはずで、それをいきなり言葉で「信じろ」は、あまりにムシがよすぎる。サラにいうなら、「信じろ」を強制するやつは男も女も嘘つきと自分は見ている。自らに誠実であれば言う必要のない言葉、それを口に出すところに疚しさがある。
 
「ボクが嘘をつく人間に見えますか?」、「ボクを信じれませんか?」というセールスマンは、嘘をついてると思って良し。誠実に見えてこれほどいかがわしい言葉はない。嘘つきの常道は、誠実に見せること。「騙されないように」という言葉は10000回唱えても騙される人には意味はないが、では、「人を信じて得はない。人を信じない事が得」と思われよ。
 
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男が女に「好き」と言うより、「君を大切にしたい」の言葉が心がこもっている。どちらも言葉に過ぎないが、女はその言葉が本当に実行されていれば真実、そうでなければでまかせと思えばいい。言葉より行為を問題であって、「君を大切にしたい」と言ったことが実行されているか否かを見る。言葉はまやかしと捨てる。実行されてないなら愛されていない。
 
自分は愛されていないんだと思うのは勇気がいるが、勇気よりも現実を見ること。行動で判断されると男は女を騙せない。女は言葉が好きだが、行動こそ真実と利口になるべし。言葉で繫ぎとめておける女は男は楽。腹の中で「あったま悪いよな、女は…」と思ってるはず。口先男はインチキ男と即断できる賢さが女にあれば、クズ男の出る幕はない。

「警戒心」とはむやみに人を信じない能力。人を信じないのは悪いことではない。「君はボクを信じないんだね」といわれて、罪悪感など持つ必要はないんだと思えばいい。なぜなら、信じて欲しいなら信じられるような行動をしろと…。それもなくて、言葉で「信じろ」などはバカ男と思うべし。本当に信じたいからこそ、疑うのであって、それが賢い人間よ。
 
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賢い女よ。「言葉」という情緒に溺れず、流されず、「行動」という現実(理性)から、人を判断することを「賢い女の必須要件」として身につけて欲しい。男は論理的だから、女に突きつけられた論理は理解するはずだ。「言葉より行動」がもっともなのは分っている。ただ、言葉で女をやり込めようとしてるだけで、それだけ女が甘く(バカ)に見られている。
 
納得行かないことは、黙ってないでドンドン男に論理で挑めばいい。ただし、女の戦略が結婚するまでは男を黙って泳がし、いざ結婚したらキンタマを締め上げ、ケツの毛まで抜いてやるということなら、まあ、女の方が上手だな。ひっかかる男がバカということになる。「女は怖い」と言う男は、実は、自分はバカだと言ってるんだろう
 
 

「信仰心」

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イメージ 1「信仰心」と「宗教心」は似ているようで違う。「信仰」とは神を信頼すること。神の言葉を素直に受け取り、神に望みを託し神に期待をすること。神と個人が親しく交わることで、「信仰心」とは神に繋がること。「宗教」とは一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念で、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などを備えた社会集団を言う。
 
神がいなくても教祖でいい。麻原彰晃、大川隆法らも教祖である。「我こそは神」と言いたいだろうが、下半身が邪魔をして言えない。世界の宗教の信者数は、キリスト教約20億人、イスラム教約11億9,000万人、ヒンドゥー教約8億1,000万人、仏教約3億6,000万人、ユダヤ教約1,400万人、その他の宗教約9億1,000万人、無宗教約7億7,000万人である(2000年度)。
 
日本の宗教信者数は、文部科学省が宗教法人に対して行った宗教統計調査によると、神道系約1億700万人、仏教系約8,900万人、キリスト教系約300万人、その他約1,000万人、合計2億900万人で、日本の総人口の2倍弱にあたる。神道系と仏教系だけで2億人にせまる。国民へのアンケート調査等では、「何らかの信仰や信心を持っている、あるいは信じている」人は2割から3割である。
 
天国の穏やかな風景や地獄絵図を見て思うのは、これらは体験者のスケッチではなく、人間の想像で描かれたものであるから事実ではない。アメリカのネブラスカ州の小さな町のプロテスタントの牧師であるトッド・バーポの息子で、4歳児のコルトンが虫垂炎をおこして瀕死の状態になった。コルトンは医師たちの努力で回復するが、数日後コルトンは驚くべき事を話し始めた。
 
「天国を見た」と言うのだ。興味のある人は読まれたらいいが、コルトン少年が何を言おうが、彼が死なないで生きてる以上、立花隆の『臨死体験』にある体験談と同じものだろう。天国は死後の世界であって、死なない人がそこを覗けるのか?という疑問が自分には沸く。完全に死んでない者が死後の世界をどうして知り得るのか?しななくても散歩がてら行ける所なのか?
 
イメージ 2批判と言うより素朴な疑問である。「私は死後の世界を見た!」という人は昔からいるが、そういう人は1回死んで、後に蘇生した人たちだ。それも含め、この少年の事も含め否定や批判ではなく、穏やかに疑問としておこう。分らないこと、判明しないことは何につけ疑問である。安易な否定は止めておくから、安易な肯定も同様に。死んだ人間が生き返るものなのか?
 
そういう人は仮死状態であったろう。仮死状態を「死」と定義するのか、それが本当に人の死であるのか、死の判定とはどういう基準でなされるのか?これについて解剖学者の養老猛司は以下のように言う。「生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。
 
しかし、この定義は非常に難しいのです。というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない。」医師が分らないというのだから分らないのだろう。医療で用いられる「死の三兆候」とは、①自発呼吸の停止、②心拍の停止、③瞳孔が開く、となっている。
 
これは数十年前に臓器移植の問題が出現するまで、こう考えておけば問題はなかったが、現代の医療の現場では、基本的にまずバイタルサイン(vital signs)を見て生命の状態を判断している。バイタルサインとは、生命兆候という意味の医学・医療用語である。養老氏は「死」を定義するには「生」の定義が必要といったが、以下の項目が生きているというサインである。
 
 ・心臓が拍動し
 ・血圧が一定値以上に保たれ
 ・息(呼吸)をし
 ・体温を維持し
 ・排尿・排便し
 ・意識状態に応じて反応し
 ・脳波が特定パターンを示す
 
コルトン少年は「臨死体験」をした人たちと同様、死の手前まで行ったのだろうが、完全に死んだわけではないのは明白。彼が何を物語っても、死後の世界を本当に知っているとは言えない。生死の境目の定義は養老氏の言うように難しいが、脳死問題にしても、脳死は死だ、いや死ではないとする意見はさまざまだが、脳死臨調多数派の定義では「脳死は人の死」である。
 
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人工呼吸器につながれ、すやすやと呼吸をし、体も温かくまるで深い眠りについているようである。新陳代謝も行われ、アメリカでは脳死状態からの出産もあった。もし、脳死が死であるというなら、この赤ちゃんは死者から生まれたことになる。死んだ人間から人が生まれるのか?臨死体験者のすべてが天国であり、「地獄を見てきました」という人はなぜいないのかが不思議…
 
みなさん天国ばかりで善良人ということなのだろうが、自分が思うには、夢を見ると同じような潜在的願望体験なのだろう。それにしても宗教者が、「神の愛があれば人間的愛情はなくてもいい」と言明するのは頭の中身を疑ってしまう。こんなのは人間社会における人間真理を無視したも甚だしい言葉。確かに修道者のうちに潜む愛情への欲求は、浄配キリストに愛されること。
 
キリストを愛すること。それらによって満たされる。これら神への愛、隣人への愛をよりいっそう豊かにするため、共同生活、社会生活のうちにおける「友情」も必要である。信仰なき人間には信仰とは「への愛」という言葉の意味しか分らない。「神からの愛」との言葉の意味しか理解できない。キリスト者は、イエスに従う並々ならぬ覚悟がいるようだ。即ちそれを十字架という。
 
「十字架を背負って生きる」という比喩はイエスの発した言葉から来ている。「その父と母を憎まない者は、私の弟子になることができない。また息子と娘を憎まない者は、私の弟子になることができない。自分の十字架を受け取って私の後に従わない者は、私の弟子になることができない。自分の命を見いだす者はそれを見失い、私のために自分の命を見失う者はそれを見いだす。」
 
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【マタイ10章】

37:私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。
 
38:また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。
 
39:自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
 
【ルカ14章】

25:大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
 
26:もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではあり得ない。
 
27:自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではあり得ない。
 
【ヨハネ12章】

25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
 
【トマス福音書】
 
イエスが言った、「その父とその母を憎まない者は、私の弟子であることができないであろう。私のように、その兄弟とその姉妹を憎まない者、その十字架を負わない者は、私にふさわしくないであろう。」
 
 
無神論者や信仰心なき我々がこれらの言葉を目に耳にするだけで、とても怖ろしいことに思える。家族よりもイエスに従うこと、十字架を担うこと、自分を捨てること、この三つの自己否定をセットにしなければ「信仰心」とはならない。故にキリスト者というのは、並々ならぬ覚悟で神への忠誠心を果たさなければならない。実際キリスト者に果たせているのだろうか?
 
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モーセの十戒には、「あなたの父と母とを敬え」とある。なのにイエスは、どうして「家族を憎む」とも受け取られるようなことを言うのか。聖書はさまざまに解釈されているが、そうでなければ"神はあまりに傲慢な奴"となりかねない。解釈がどうであろうと自分ら「信仰心」なき者には関係ない。都合の悪い事は都合のよい解釈をされるのがしばし世の常である。
 
信仰ある者はイエスのいかなる言葉も否定的にとらないし、それこそが信仰であろう。我々はリンカーンだろうが、日蓮だろうが、ソクラテスであろうが、良い事は肯定的に、良くない言葉は否定的にとるが、絶対者・全能の神に「否定」の二文字はないのだろう。神は間違った事は絶対に言わないというそのことこそ「信仰」の根源である。それが自分らには理解できない。
 
人間は間違うものだが、神は間違わないということだ。よって、聖書などの記述であきらかに傲慢やるせない言葉、明らかにおかしいと感じる言葉には腹が立ってくる。よって、我々は「信仰心」のない人間である。神の可笑しな発言の正しい解釈をと説明しようとするキリスト者には「No!」の我々は、だから「信仰心」がない。なくて困らないからそれでいい。
 
「信仰心」がないのを自慢するわけではなく、不要なものは不要と言うだけ。信仰が心を豊かにするなら結構なことで、そういう人々は信仰に生きたらいい。が、信仰が心を煩わしくする人間に信仰はいらない。今から70年前の1944年5月、地中海戦線で一人のフランス人航空師が突如行方不明になった。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリといい、彼は作家でもあった。
 
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型破りの作家で星空を飛び回ったらしく、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からは「サンテックス」の愛称で親しまれていた。『夜間飛行』(1931年)と『人間の土地』(1939年)は、ベストセラーとなり、彼の代表作として高い評価を受けた。現在でも世界中で広く愛読されているし、伝統あるフランス植民地文学の香気を伝えるものとしても名高い。
 
そんな彼に『星の王子さま』(1943年)という作品がある。自身で描いた素朴な挿絵も含め世界各国で長く愛読された児童文学作品である。全世界で8000万部(2009年)、日本では600万部が売られている。児童文学ながら、子供の心を失ってしまった大人に向けての示唆に富み、大人の愛読者も多い。作品の元になったのは、1935年リビア砂漠での飛行機墜落事故の体験である。
 
作品全体を覆う「大切なものは、目に見えない」の言葉をはじめ、地球上ではつまらぬことや小さなことに人々が引っかかりすぎて、大切なことを忘れ、間違ったことを本当だと思っている、それらをサン=テグジュペリは美しく述べている。子どもが子どもであるのは大事なことだが、こんにちの教育の欠陥は、子どもが子どもらしさを持たないまま一足飛びに大人になった。
 
つまり、子どもが大人によってコントロールされ過ぎていることの弊害といえる。大人の模型のような子ども、反面、子どもじみた、子どもっぽい大人の多すぎる。自分の得にならない事は興味ないし、やらない、という損得勘定の強い子どもは、すべて大人がそのようにしたのだろう。事あるごとに狂犬のように噛み付く子どもも大人も多い世に中になってしまった。
 
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子ども心を取り戻すにはどうすればいいのか?それは子どもの純真さをもって、驚きをもって、大人の世界の矛盾を見極めることだ。象徴的な『裸の王様』の話は、子どもの純粋さ、正直さを示唆している。大人世界の矛盾に慣れてしまった我々は、何が大人世界の矛盾?と聞かれても即答できないだろう。大人世界の矛盾とは、「星の王子さま」の見た世界である。
 
つまらないことに拘って、大切なものが軽んじられている、そういう世界である。なにかにつけて被害者意識の強い人は、欲求不満を抱えている。よって、幸せな人とはいえない。星の王子さまは、星の国から地球に来て、アフリカの砂漠に降り立ち、そこでヘビに出会う。「砂漠って淋しいところだ」、「人間はどこにいるの?」と、ヘビに尋ねる星の王子さま。
 
「人間たちがいるところに行っても淋しさは同じだよ」とヘビに言われ、王子は考え込んでしまった。人間社会は砂漠のようであってはならない。全人的な交流もできないし、メール一本で簡単に出会えるネット社会は、メール一本で簡単に終えられる殺伐とした社会である。砂漠のような社会で、互いが砂漠を作り、いつ途絶えるかも知れない関係を続けている。
 
星の王子は今度はキツネに出会い、キツネと仲良くなる。別れ際にキツネは王子に一つ秘密の贈り物をする。キツネは口ごもりながら、「それは何でもないことだよ。物事は心で見なければよく見えないってことさ。肝心なことは目には見えていないのさ」という。「肝心なことは目に見えない…」と、その言葉を何度も復唱している王子にむけてキツネは言った。
 
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「あんたが星に残してきたバラの花をとても大切に思っているのは、あなたがそのバラの花のために時間を無駄にしたからさ」と言い、続けて、「人間と言うのは、この大切なことを忘れているんだよ」と。"大切なこと…"とは、子どもの持っている素直な目、心の目で物を見、心の耳で聞くことを指している。王子は星に残して来たバラにずっと愛着を感じていた。
 
王子がそのバラに水をやり、虫ととったり、風から守ったりと、そのバラのために多くの時間を無駄にしてきたからだ。あえてこういう時間を無駄とし、無駄な時間を大切にすることこそさりげない、子どものような愛情である。むかし、子どもが何でもない河原で拾った石を大事にしていた。大人にとってはくだらないそこらの石が、子どものは宝物に見えたのだろう。
 
大人の価値基準で価値判断をし、価値のある物(あるいは者)を大事にし、価値のないものはどうでもいいからと粗末にする。自分の利になる人を大事にし、何の利益にもならぬ人は無碍にする。こういう世知辛い世の中になった理由は、横並びの競争意識なのか。ある青年が路端で自転車をいじっている。タイヤがぺしゃんこ、通りがかった婦人が「パンクです?」と声をかけた。
 
青年は、「見りゃ分るだろが!」と言った。婦人の「パンクですか?」の問いかけは、パンクの有無を聞いているにあらず、青年のパンクを心配しているのだが、それを感受する優しさ、敬愛心がまるで青年に備わっていないということだ。これら一切も親の責任に思える。「星の王子さま」は、2015年冬に『星の王子さまと私』というタイトルでアニメ映画公開される。
 
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「自立心」

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読んで字の如く「自」らの足で「立」つことだが、「自立心」などというのは放っていても自然に付くものだと思うがどうなんだろう。自分などはとにかく一人暮らしがしたくて仕方がなかったし、その理由は母親の呪縛から解き放たれたい一心だった。もし、子どもの自立を阻むものがあるとするなら、それは親ではないかと。親が子どもの自立を阻んでいる。
 
それしかないのでは?もし、親の子どもの癒着が自立を阻むの、親の主たる目的を果たしていない。親の目的は育児であるのは、乳児は一人では生きてはいけないからで、ただ大きくするために育てるのは動物と同じ「飼育」である。子育てを飼育といわない理由の一つは飼っていないからである。ペットなどの動物は飼うもので、なぜなら人間は動物を生まないから。
 
人間自らが産み、育てる子どもを養育という。夫婦が離婚して妻が20歳未満の子を引き取った場合、別れた夫に対し、成人になるまで養育費の請求権がある。が、子どものない夫婦が、高価な猫を購入して飼っていて、その夫婦が離婚して猫を妻が引き取っても養育費は請求できない。夫婦が相談した買った猫であってもだ。子どもの養育は夫婦が責任を負う。
 
最近、ペットを人間同様に飼う人が増えた。ペットが死ねば祭壇を作り、坊様を呼んでお経もあげるのは珍しくない。自分も動物好きだが、だからといって死ねば庭に穴を掘って土に返すだけだ。ペットに葬式?坊さんを呼んでお経?どうみても飼い主の自己満足でしかないが、「自己満足の何が悪い!?」とあらば、他人の満足を他人がアレコレ言う必要はない。
 
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もし、葬儀社から連絡を受けた坊さんが、誰のお経かと聞けば猫だという。そこで「経をバカにするのも大概にしなされ。畜生にあげるお経などこの世に存在すると思うてか!」と「渇!」をいれる坊様はおそらくないだろう。本質や理念や、そんなものはどうだっていい、呼ばれてお経を上げればお布施もいただけるし、何事も商売、商売のご時世だ。
 
「依頼があれば行ってあげますよ」と僧侶はいうが、その程度のお経というなら人間にも意味がないのでは?と思うが「人間には意味があります」と、僧侶がいうなら、人間以外は意味がないと言うことになる。つまり僧侶は意味のないと依頼者に諭すでなく、商売として出かけて行く。「それでいいのか?」と問えば、意味はペットの飼い主が感じるものという。
 
本質でないこと、本質からずれたこと、何の意味のないことであっても、何でもアリの世の中だ。ペットが死んだとして、市町村に処置を問い合わせるとゴミと一緒に燃やすというが、動物の市街は世間的にはゴミ。飼い主の気持ちは当たり前に反映されないし、だから飼い主が庭に穴を掘って埋めたりする。最近は浄土真宗のお寺が「ペット火葬」をやっていたりする。
 
ある僧侶がペットに「般若心経」をあげた。真宗は他力本願を説いている。他力は、阿弥陀如来の事を指す。自力(自身が修行して浄土に行く)でなく、阿弥陀さんの力によって成仏させて頂くという事だ。「般若心経」は修行しましょ~という経なので、真宗とは無縁である。などと言う事さえもどうでもいい、浄土真宗の「浄土三部経」のどれであれ、何でもいい。
 
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「一緒に暮らしてくれた動物に対する気持ちなので、何でもいい」それが飼い主の気持ちのようだ。では、ペット専用の葬儀屋は、動物にお経を唱えるについてどのようにいってるか?「動物用のお経というものはありませんが、命に違いないので人と同じお経があります。人間とて地球に生きる同じ動物の1種族でしかなく、特別な存在という訳ではありません。
 
人用のお経であっても、人間も動物ですから、人用のお経は、動物用でもあると考えられます。命は平等であって、仏さまは差別をすることはありませんので、同じお経でいいのだと思います。」と訳の分らないことを言う。「ダメです。人間用のお経を動物に唱えるなどトンでもない。」と、指導したり否定するより、飼い主の気持ち優先で動く。それが商売だ。
 
こういう問題は、真宗本山に聞けば済むことだが、公式コメントを出すと思えない。今後ペットに関してはお通夜も、葬儀も、供養も、納骨も、法事も、仏壇まで購入したりの時代になる気がする。ここまで来たら歯止めがかからない。ペット葬儀屋は依頼主に言われれば何でもやるし、指導という立場にないからだ。何事も「必要かどうか」より、飼い主の意向がすべて。
 
ペットにしろ何にしろ、需要があれば供給は必然的に生まれる。正直いえば我々の世代は動物病院が開設した事を驚いたほどだから、それはもう今では当たり前。将来的に動物は今以上に人間と同じような感覚で飼われ、意味のあるナシに関わらず人間と同じことをやるのではないか。服を着せられた動物にも驚いた頃が懐かしい。昨今はパンティーまであるそうな。
 
イメージ 6人間とは違う生き方をするペットを人間と同じ気持ち、感覚で育てるのがいいとは思わないから、世の中がどう変わっても、イヌやネコの本性は昔のままで、昔と同じように飼いたい。近年ペットは単に癒し動物、愛玩動物を超えて、「コンパニオンアニマル」と言われ、伴侶や家族、友人の一人、あるいは社会の一員と同様の位置づけがなされている。
 
コンパニオンアニマルとは新しくできた言葉である。いくらなんでも牛や馬とは一緒に暮らせないが、犬や猫となら同居は可能だし、これも人間が自然を求める、自然回帰が要因となっている。もう一つ重要なのが、内的要因、心理的要因で、現在の日本は子どもが少なく、お年寄りが多い少子高齢化社会。子どものいない夫婦、孤独なお年寄りにとってペットは心の支えとなる。
 
かつて自分にも経験があるが、ペットに対する愛着が深い人は、自分らのように自然のままにペットを飼う人間を差別視する傾向がある。自分のペットに対する思いが正しいとか、より愛情が深いとか、どうしても他の飼育者への不満がある。「ああしろ、こうしろ」と干渉してくる飼育者には、正直"うるさいもんだ"と思うだけだし、言われたことをしないでいた。
 
ペットの飼い方一つ、接し方一つで対人関係が穏やかでなくなる傾向は、すべてこだわりの強い飼育者の押し付けであろう。正直言えば、洋服を着させたりの犬は、自分がそれをしないというのは否定的と見られても仕方がないが、だからといってそういう飼い主にアレコレ文句を言うわけではないが、逆にそういう飼い主は愛情が足りない見たいないい方をする。
 
好ましくない飼育者への親和的な行動が抑圧されるのは構わないが、たかがペットでも人間関係に影響する、そういう時代なんだろうと理解するしかない。こういう人の特徴は精神的自立がなされていないのだろう。だから、他人の価値観を尊重できない。自分の行為を絶対視すれば、他者への不足や不満はあろうけど、なるべく価値を認めて是々非々に接することだ。
 
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まあ、ペットにしろ子どもにしろ、熱を入れればキリのない、そういうものだと理解はしている。子どものピアノ発表会なんか見に行って分るのは、衣装を見れば親の熱の入れ方が伝わって来る。それでピアノが下手くそでも充分満足するのが親なんだろう。自分などはよく子どもに、「あの子はすんごいドレス着ていたが、演奏はヒドイもんだったな~」とか言ったりした。
 
ある傲慢なピアニストが審査員のコンクールで洋服のことをボロクソ言われたことがある。ある傲慢な方は宮沢明子という。出場前から衣装がどうのとか、演奏に関係のないことにうるさいとピアノ教師から聞いていたので、「だったらわざとボロ着て出てやりしょう」といったら、その先生目を丸くしていた。腕に自身があったからだが、案の定服を批判された。
 
自分は男だからまずは技術と、そういう世界であると思っていたが、「綺麗なお洋服を着て演奏しない子は絶対に上手くなりません」と、そこまで言われ子どもはさらし者の半ベソ状態。子どもの気持ちをないがしろにする大人気ない世間知らずのお嬢さんが、そのままばばあになったような女であり、二度と出場する気は失せた。確かに派手な世界であるのは分るけれども。
 
アレが気丈な外国人なら、「そこまで子どもを傷つけて何が楽しいんだ!もうこんなところに用はない!」と、子どもの手を引いてさっさと会場を後にする親も居るだろうが、黙って耐えて聞いていた。唇をかんで涙を抑えていた長女には、申し訳ないことをした。厳しいのはいいが、演奏外の事で言うのが腹立たしかった。とりあえず主催者に苦情を言っておいた。
 
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ある大人ばかりが出場のピアノコンクールの客席に座っていたときに、後ろの席の音大生とおぼしき女性が合間にこう囁いていた。「男の人は衣装と言っても黒服だけで詰まんないよね。女性は衣装を着る楽しみもあるし、見るのも楽しいよね」そんな言葉が耳に入り、男の自分にはない感性を教わった気がした。それ以降、子どもには服も考えるようにした。
 
男には足りないものがある。「コレでいいんだ」ではダメなものもあるんだろうが、特に虚飾の世界の事はまったくと言っていいほど無知である。音楽と衣装の問題について言えば、Gパンにチェック柄のシャツという貧乏臭いフォークソングの世界とは違う。女性にとって衣装も音楽のうちと言えるのだろうが、そういう感性は自分などにはからっきしなかった。
 
男に不足しているものを女に、女に不足しているものを男から、それで成り立つ世間である。永遠に分らぬ異性の世界も、分担すべきものはあるようだ。我々の原始的な祖先たちは、各世代の子どもたちに、家族や部落の生活において、自立した生活を送るのに必要なすべてのことを教えることに成功してきた。植物に名をつけ、動物の習性や特徴も知っていた。
 
紐の結び方や剝片石器の作り方、火のおこし方、小屋を立てる技術、病人への援助や介護、応急手当てなど多くのことを知っていた。真に自立するためにはそれらのことを習得しなければ生きてはいけなかった時代である。それを思うと、今の時代はなんと自立し難い時代なのだろうか。何も知らなくても何も困らない。といえば極端だが、多くの事は機械がやってくれる。
 
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洗濯ひとつ、掃除ひとつとっても機械がやる。飯炊きも困らない。まして狩りに行く必要もない。親が子どもに自立を促す必要は何だろう。てな感じの親も実際いるのだろう。ましてや子ども自身、自立をしなければいけない理由が分らない。便利な世の中になったものよ。そもそも子どもの母親への依存おやび両者間の相互依存は受胎の床から始まっている。
 
それが出産の瞬間から社会的なものになる。生物が基本的に社会的であるという性質は、母体から他方が生まれることに由来している。永遠の胎児などあり得ない。母体依存から社会的依存へと、これが社会的存在であり、人間としての成長とは、発達とは、相互依存や協力という能力の成長・発達である。胎児期、乳幼児期状態が一生を通じて継続される。
 
「自立心」は本能だろうか?日本人の「自立心」は、各種統計で見ても諸外国から比べても低いというデータがある。「自立心」が本能なら誰にも自立は起こる。そうではなくて、「自立心」が後天的な教育であるから自立の不備があるのだろう。ただし、食欲、性欲、睡眠欲といった動物的本能とは異なる社会的本能として「自立心」があるのを自身が体験した。
 
一緒にいたくもない、口も聞きたくない親なら「自立心」は早まるのではないか?優しく仏様のような親だったら、それでも子どもは自立をしたいのでは?そういう得体の知れない環境は未体験ゾーンだが、社会的本能としての「自立心」は一般的にあると思う。それを独立心と言うのかも知れない。独立心と自立心は対であろう。YouTubeに以下の動画がある。
 
 
真相は分らないが、あんなベイビーで独立心はないだろうから好奇心であろう。子どもが親から離れていくのを本気で望む親はどれくらいの割合で存在するのか?自分はそちらの方だが、結婚式で涙ポロポロのオヤジは何を考えとるんか?と思うが、別に考えているのではない。「娘がどこぞの馬の骨か分らんものに取られる悔しさ」っていう心情は到底理解できん。
 
自分が男で、男の立場で、妻をそうしてきたように、誰だってどこぞの馬の骨に決まっている。そういう思考に立てない方がどうかしている。男は誰も馬の骨なのだと。娘が一体何だというのか?親の肩書きは20歳で降ろす。後は友人として気づいた事はどしどし言っていけばいい。「息子(娘)はもう独立した。後は悩んで電話してきたら話を聞こう」の親が理想的だ。
 
いつまで親面するもんじゃない。といいながらも平の相談役というより、取締役相談役として目を光らせている自分である。親の身分とは違って、物言いには気をつけてはいるが、元々歯に衣着せぬ性向だから、ドカンということが多い。「お前はまだまだ子どもだ」という言い方はしない。これは自立心や自信の妨げになる。それより率直に「お前はバカだ」という。
 
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やってはならない事は、親から見れば30歳だろうが、40歳だろうが、子どもは子どもであるけれども、そういう当たり前を捨てて、対等の友人関係に導くことか。依存もしない、依存もさせない、しかし、最良の友として力になる。「子どもの世話になどならんぞ」の意気込みは、親として立派である。なぜなら、子どもの生活の負担になるのは当然であるから。
 
老後の生活設計は親が自ら考えておくものだ。とはいいつつ…、ボケてクソを食うようになったらどうする?この屈辱たるや予定にないが、そういう困ったチャンの親にはなりたくはない。なった時?今のところその予定はない…。
 
 

「独立心」

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自立と独立は親戚関係にあるが、自立が、「他者からの援助などの助力を得ず、影響力から離れてひとり立ちすること」であるのに対し、独立とは、「これまで従属的立場にあった者が主体となること」となる。これまで植民地にあった国が、「独立」して新たな国を作るとか、父の仕事を手伝っていた息子が、新たに開業するなどと思考すれば意味の違いを把握できる。
 
独立はしても自立できていない場合もある。例えば家業から独立して店舗を出したのはいいが、その店舗の家賃から経費から多くを親に頼る場合で、これをバカ息子と呼んでもいいが、つまり、独立する意味がどこにあるのかという意味であり、それ以上にこの息子は独立するだけの能力がないのは明白だ。親も親、こんな店はさっさと潰してしまった方が息子のためだろ。
 
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まあ、バカ息子は親が作るわけで、こういう親をバカ親と言いたいが世間並みに「親バカ」と言っておこう。こういうケースって実は意外に多い。結局は親の見栄や利害が先行している状態である。息子が華やかに独立開業することで、親戚や取引先や友人・知人などから祝いを受けたりする。そういうしがらみもあってか、息子の援助をする親の気持ちは分らなくもない。
 
問題は、体面重視でこういうことを続けることの是非であって、親の気持ちなど重要ではないのよ。そもそも「親バカ」という行為自体が子どもを甘やかせることだが、子ども可愛さといいながら殆んどは親の都合でなされる。親自身の自己愛とも言える。そこを考える親なら自分のためにする「親バカ」はしないが、殆んどは自分のためを子どものためと置き換えている。
 
このように物事を直視するだけなのに、「物事を曲げて見ている」と言われたことがある。「親が子を思うのは当たり前だろう?」と言う。つまり、自分の言う事は「子を思う親の気持ちではないらしい」と、こういう相手にはそれ以上言わないように決めている。その親と同じ行為が子どもを思う気持ちだという人間に、それ以外の事をいっても無駄だろうから。
 
子どもを甘やかせる親は、親と子の利害が一致している。だから、子どもに喜ばれることで甘やかせているなど微塵も思っていない。多くの親に「それは甘やかしだろ?」といって「ハッ!」と気づいて止める親はいない。だいたい、「そうかな?」、「そうかも」と言って継続する。あくまで他人の意見は自分に関係ないということだ。それでいいんだろ、他人に責任はないし。
 
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「学ぶ」とは自己を変えること。あるいは、変えようとすること。他人から言われた言葉が、頭にこびりついて離れてくれない。そういう言葉はたくさんもらった。人は自分をこう見ていたのかは、思春期前後にはショックだった。もちろん、言われたことが恥ずべきとだと思えたからだ。「自分の事は人から教わる」というのを実感したし、変革の時期にいい助言をいただいた。
 
あの頃から見ればいまはもう安定の年代だ。「耳順」といい、何を聞いても確かに驚かなくなった。70になれば自分の心の趣くままに行動しても、すべては道理に外れないとなるらしい。「らしい」だから分らない。「道理」はよくできている。たまに外すも大きくそれる事はないだろう。「親バカは道理だ」と言った奴がいた。「お前の道理ならいいんじゃないか」と言った。
 
人にはそれぞれの道理があるのだろう。「道理合戦」を戦わせるのも面白いが、今の年代の自分はそれを望まない。相手を肯定してやるだけだ。人は誰も自分を肯定して欲しいのだろうし、否定は自己で成される方が効果もある、価値もある。まあ、子どもや孫にはご意見番でありたい。が、言う事は基本的なことだけだ。「部屋を綺麗にしろ」、「汚い食べ方をするな」
 
イメージ 3これは、他人に対する思いやりであろう。一人で暮らしてるならいいが、他人と同居しながら綺麗にしないというのは、他者への配慮がないということ。それがなくて屁理屈などいうなと。できないやつはしようとしない。夫がやってくれるなどとあぐらをかいている。よく、追い出されなくて済んだと思うが、夫の我慢の賜物だろう。だらしない女は百年の不作物。
 
強烈な自己変革に邁進しないなら死ななければダメだなと。こういわれて反発する人間は甘えた人間よ。他の事に勤しんでる暇があればやることやれよ、そういうのに限って他に熱心だったりする。「学ぶ」は自己を変えること。まあ、何事も頭の柔らかいうちに躾けるしかない。そこが勝負と思っている。どこの世界に汚いものを好む輩がいるかと。それが「道理」である。
 
「自立心」は生物に欠かせないその理由は、「いつまでもあると思うな親と金」の言葉が示しているが、「独立心」は必要なのか?「独立独歩」という言葉がある。「独立独歩の精神で頑張って生きて行く」と使う。他人に頼らず、自分の力で信ずる道を進んでいくことを言う。人間というのは究極的には、「一人で生きることが楽しめるか?」ではないだろうか。
 
人間以外をやってないので分らないが、他の動物も基本はそうかも知れない。「一人では何をしてもつまらない」と思う心理は依存心だろう。他人を必要(特に称賛を)とし、それで虚栄心を満たす。また、虚栄心のターゲットは相手であり、相手を必要とするから、「一人では何をやってもつまらない」となる。自分のために何かをやろうというのではないようだ。
 
だから、一人でも楽しめる人は甘えの欲求がなくなった大人である。日本の初等教育過程が、協調ばかりを先行させることに以前から問題意識を持っていた。「和をもって…」の日本人的精神だろうが、真の協調は自立した人間が成すもので、だから、自立が先か協調が先かといえば自立である。一人で何かをして楽しい人間が他人との付き合いも楽しめ、他人と協調できる。
 
幼児はみんな自己中であり、利己主義であり、それが自然なこと。親や周囲の指導や状況から社会性や我慢を学んでいく。なのに、大人になっても自己中・利己主義者は、成長がどこかで止まった人。自分が楽しくなければ人との付き合いが楽しくない人。人から何かを求めるだけで、与える楽しみを持ち合わせない人。相互扶助の精神に欠け、平気で勝手なことをする人。
 
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自分はこういう人間を許さないし、ハッキリいう。それで分らないなら付き合わない。子どもなら大目にみるし、指導の余地があるが、対等の大人に指導など相手はむくれるだけだ。人から自分を学ぼうという気がないのだろう。悪いことの指摘に感謝しないで、割るところが直るはずがない。男も男よ。「お前は素直じゃない」みたいな言葉を投げかけて相手が変わるか?
 
「お前は生意気だ」、「お前はだらしない」で相手が変わるか?本当に変えようとするなら、キチンと説明することだ。それで分らないならバカだと無視するしかないし、相手にできないし、「まともに口を利いて欲しいなら賢くなれ」と言い渡すしかない。自分は相手がバカを認識するまでは厳しいと思うし、それ以外にバカに対処する方法を見出せなかった。
 
バカに好かれたくない、むしろ嫌われた方がせいせいすると、そういう気構えだから遠慮はしない。「独立心」を持つと言う事は、例えば対象が親であるなら、親から数々与えられて否定的なメッセージ一切を拒否すること。親から与えられ、罵られた否定的メッセージに屈しないこと。好きに言ってろ、自分は一人で生きると、いう依存心をなくせば親など怖るに足りない。
 
イメージ 10親が怖いのは依存があるからだ。大きな勘違いを人間はするその一つに、他人に気に入られること=他人が自分を肯定している、ではないことを理解した方がいい。この点を認識しておかないと、他人に利用されてしまう。「ブタもおだてりゃ木に登る」と言うだろう。自分を偽ってまで、あるいは変えてまでして他人に気に入られる必要はないが、そう仕向ける人がいる。自分をどんなに偽ってみても、本当に自分の望むものは手に入らない。相手に媚びて、究極的には相手に利用されてしまう。こういう人間は多いので注意が要る。どう注意していいのかは分らないと思うが、そこは頑張って見つけるしかない。「だって相手の言葉を信じるもん」という子はまだまだ子どもだ。せいぜい、騙され、失敗して学習していくしかない。
 
「私は生きてる価値がない」とこぼす人間は、そういう言葉を言って大事にしてもらおうとしている。本気でそう思ったら死ぬしかない。相手に何か特別なことをしたり、役に立ったりの意識がないと相手と一緒にいる価値が思うのは間違っているが、おそらくそうなるような教育を親から受けたのだろう。自分の母親がそうだったからよく分る。何かと物で釣ろうとする。
 
とどのつまり、「言う事を聞けば何でも買ってやる」とまでいう始末で、ここまでいう母親を怖ろしい人と感じた。物語のシーンで出てくる場面で王様がこのように言う。「お前が家来になるなら何でも望みを敵えよう。何なりと申せ」みたいな。こう言う事に屈しないのがカッコイイ場合がほとんどだ。「王様、お気持ちは感謝しますが、私には私の生き方があります」。
 
山と詰まれた札束に対し、「銭などいらんわ」ってのがまたカッコイイのよ。最もはしたないのが言いなりになったあげく、「金銀財宝に目が眩んだか、愚か者めが」と言われる場面。少し表題からそれてきたが、人間は一人で生きていけるように自らを作っていかねばならない。自分を頼りに生きようと心掛けていれば、自分を真に必要とする伴侶にめぐり合うかもしれない。
 
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自分を頼らず人にばかり頼っていれば、捨てられる不安に苦しみいつも犠牲者になろう。「独立心」とは、「独立独歩の精神」とは、自分の足で立ち、自分の足で歩くこと。人間の心の中には他人に「好かれる存在」でありたいで、本当に好かれているかどうかよりも、好かれていると本人が感じているかが大事なようだ。なぜそうまで思うのか?嫌われて何が困るのか?
 
何やら物事を分ったような言い方をを嫌う奴がいる。「お前は何様?」という言葉がそういう人から贈られる。聞き手が単に「分ったような物言い」と勝手に解釈し、それを棚に上げて勝手に腹を立てている。物事がそう簡単に分るはずもない、思ってもいない。「分る」と言う事の大変さをを知らずでか、「分ったような物の言い方をするな」と釘を指すお前が分ってないんだろ。
 
誰かに好かれるためでもない、嫌われるためでもない、ジョギングや山歩きをすると同じように物を書くお稽古である。足の速い人だけがジョギングするわけでも、市民マラソンに出るわけでもない。心肺や足を鍛えるように、下手も文を書く。脳の劣化を防ぐ効能もある。いろいろ調べることで新たな知識も増える。「継続は力」というが、そう言う事より楽しさである。
 
先日久々にある人が、「お久ぶり~」と現れた。「そうだね、生きてた?」、「ずっと記事は読んでました」、「そうなんですか?でも訪問者になかったよ」、「実はコッソリ…」、「ああ、こっそりね。自分も大概そうしてます」、「これからもコッソリで」、「いいですね~コッソリは。音なしの構え…」、「ですね~」、「携帯をコッソリ見るのはダメだけどね」というオチがつく。
 
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知らない人にコッソリはなんでもないが、自分の子どもなどにコッソリ見られてると思ったら書けない事があるだろか?多分、ない。書かれて困ることは口にして困ると同じだから、自分の心情としては口に出して言えない事は書かない、だからコッソリ見られても何でもない。心に思ってる事はむしろ口に出して言った方がお互い健全かも。欧米人みたいに…
 
「独立心」は自然に訪れるという、生き物の摂理。古いものがなくなり、新しいものが生まれる、それも自然体系の摂理だ。11月23日に三女が挙式をした。11月22日の「いい夫婦の日」が仏滅だから23日にしたのかと思ったら実はちがった。11月23日は二人の出会い記念日であると知った。なんでも、長女が11月13日にゲストハウスをopenして以来の初宿泊客という。
 
面白いことがあるもんだ。宿泊客と宿主が恋仲になるって、さすが素人宿泊所。患者と看護婦は結構あるようだが、宿主と宿泊客って不道徳?いやいや、出会いなんて何がいい、何が悪いはない、出会うことが良いのだ。教師と生徒のカップルもあるし、長寿番組の『新婚さんいらっしゃい』など、"事実は小説より奇なり"の世界である。男と女のいるところ恋は芽生える。
 
子どもの世界は親の知らない世界、親の世界も子どもの知らない世界。肉親だの他人だのに関係ない個人の領域だ。「そんなことは親も知らなかった!」との言い方を人はするが、当たり前だろ?何で親が知ってなきゃいけないんだい?親に秘密の50や100を持ってこそ子どもは大人になって行く。挙式は三女の脚本・演出がメインで正直面白かった。
 
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結構、楽しませてもらった。いかにも手作り感の強い、手の込んだものは料理などの創作物でも味わいがある。結婚は挙式から始まるわけではないが、挙式もまた思い出に残ろうというもの。中には挙式など思い出したくもない状況になったカップルもいるだろうが、それは結果論。新婦の一生一代のナルシシズムの世界を新郎はただエスコートするのみだ。
 
すべては新婦のためにあるといえる。父親の目にはパジャマだろうがウェディングドレスだろうが、娘は娘でしかないが、母親には違う視点があるにせよ、どうも男にとっては虚飾の世界は馴染まない。これは好みの問題だ。後で新郎がこういった。「加代さんがお礼の手紙を読むときに、お父さんが泣くかとじっと見ていました」、「そういうところを見るもんかね?」
 
「結構、いい文面だったんで…」と。挙式後は三女に、「わり~、ウソ泣きするつもりだったけど、無理だった」と詫びれば、「ハンカチ絞って欲しかったのに…」。泣けない理由は分っている。親らしいことなど何もしていず、娘は勝手に大きくなっただけ。とりあえず義務だけは果たしたか、それ以外に親の手柄はない。手塩にかけて育てたと思いたい親父が泣くのだろう。
 
イメージ 4「お前は一人で大きくなって、一人で相手を見つけて、一人で巣立って行った」と…、そういう親の実感なれど、泣けるほうがどうかしている。儒家思想的な言い方で、「子どもは一人で大きくなったわけではない。親の恩を忘れてはならない」という教えは親から見れば気恥ずかしい。子どもは親の見えないところで悩み、苦しみ、楽しみ、悲しみ、そして歓びを味わって生きていたのだ。
 
そんなことを何一つ知らない親である。社会に巣立たせる事も含めて義務を全うする任を負う。子どもに対する願いはあれど、強引な価値観を子どものためと押し付けるのは、他の親はともかく自分的には間違っている。自然は無為であってこそ自然足り得る。いかなる夢を子どもに託したところで、子どもは親の夢を壊してこそ子ども足り得る。「みんな親の夢を壊しなさい!」
 
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「好奇心」

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『私は好奇心の強い女』というタイトルの映画を覚えている。その映画がなにやらもめていたのも覚えている。それ以外のことは何の情報も頭にないし、いろいろ調べてみたら1967年製作のスエーデン映画で、1968年にアメリカでの上映を巡って裁判問題に発展、知識人たちを巻き込んだあげく最終的に勝訴を勝ち取り、ポルノ解禁の先駆的作品と位置づけられたという。
 
1971年に日本で公開された際、45ヵ所に及ぶカットを経てやっとの末での公開だった。それから31年後の2002年、やっとこノーカット完全版(4ヵ所のみ修整)が公開される。ストーリーは至って単純、好奇心旺盛な女性が、次々と新しい体験をしていく姿をドキュメンタリー・タッチで描く。全編がYouTubeで見れるが、コレのどこが問題?どこをカットせねばならん?という代物。
 
この映画を、「はぁはぁ、ドキドキ」で見たいなら、50年前に戻ることだ。ドキュメンタリー・タッチを得意とするなら佐々木昭一郎である。彼の作品を初めて観たのは1980年に製作された『四季・ユートピアノ』で、この作品は鮮烈であった。主演の中尾幸世という女性は当時美大の学生で、この作品の6年前に『夢の島少女』という佐々木作品でデビューしている。
 
どちらも非常に主観的な作品で、何を描き、どう表現したいかを感受するのが至難である故に、なんども見れる作品になっている。1回見ただけ、一回読んだだけですべてが理解できる映画や小説はつまらない。カミユの『異邦人』や、サルトルの『嘔吐』や、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』などは、読解力なくして読めないし、あっても主観的な作品は苦労する。
 
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サリンジャーは女性には難解のようだ。『ライ麦畑でつかまえて』が有名になったのは、ジョン・レノン射殺犯のマーク・チャップマンが、レノンを殺害したその場に座ってこの本を読んでいたという。また、ケネディ大統領暗殺犯とされるオズワルドも教科書倉庫で大統領の車を待つ間、この本を読んでいたという。この作品も現代的な視点で見れば何ら驚くことはない。
 
当時(1950年~60年代)、社会に不満を抱いたアメリカの若者なら、お約束事として『ライ麦畑~』を読んだろう。自分は一読者であって文学への素養はないが、松岡正剛がオモシロイ所感を述べている。まあ、彼は何なりとオモシロイのだが…。「サリンジャーがこの作品で用意したキーワードは"phony"である。"インチキ"とか"インチキくさい"といった意味だ。(中略)
 
大人社会の"phony"な欺瞞と、その大人社会を真似るしかなくなっている高校生達の欺瞞に向けられていて、それが徹底してというか、くどすぎるほどに吐露される。では本人の(主人公である)コールフィールドはどんな日々を送っているのかというと、その欺瞞社会をすっかり覗き見たほどにスレているのだが、妹と送った少年の日々がやたらに懐かしいわけなのである。(中略)
 
そのうえ最後の最後になって、実はコールフィールドが精神病院に入っている状態だったのも明かされる。(中略)"これは20世紀のハックルベリー・フィンだ"というアメリカ文学史のお墨付き常識があるのだが、これは当たってはいない。ハックは観察こそすれ、批評はしないし、だいいちビョーキじゃない」。と、『ライ麦畑でつかまえて』の松岡正剛観である。
 
イメージ 3そういえば、レーガン大統領に発砲したジョン・ヒンクリーも愛読者というこの、全世界で6000万部、アメリカだけで1500万部という化け物作品の主題は、欺瞞に満ちた大人たちを非難し、制度社会を揶揄するという思春期の若者に共通するイノセンスだが、正剛はその点を肯定せずビョーキ扱いしている。あわせて正剛は、『ライ麦~』を日本で広めた村上春樹を批判している。
「坊主憎けりゃ袈裟憎い」という諺があるが、「袈裟が憎いから坊主も憎くなるのか」、そこはわからないが、松岡正剛は「千夜千冊」の中に、村上春樹作品をタダの一冊も扱っていないのはいかなる仔細か。毎年ノーベル文学賞候補として下馬評にあがる村上作品、外したところで材に困ることはないだろうが、日本を代表する作家といえども、嫌なものは嫌ということか。
 
自分もレノンに絡めて作品に好奇心を持った。レノンが逝って34年目の12月はすぐそこ、『ライ麦畑』も読んで34年。思春期を越えていたし、正剛のいうビョーキに似た感慨を主人公に抱いた。正剛はこう結んでいる。「『ライ麦』はそのままアメリカ社会の暗部の象徴として一人歩きした。(中略)サリンジャーの仕掛けた罠はアメリカがまんまと嵌まったままにある。」
 
サリンジャー自身はこう述べている。「『ライ麦畑でつかまえて』の中には私の友人たちの多くに悲しみを与えたり、衝撃を与えたり、もしくは悲しみと衝撃を同時に与えたりしそうな章があることは、私も気づいていないわけではない。私の最良の友の何人かは子どもだし、実をいうと最良の友というと、子どもたちしかいない私である。私のあの本が彼らの手の届かぬ棚にしまわれると思うと、どうにも耐え難い思いである。」
 
「好奇心」ってのは人間だけに限らず、すべての若い生物にあるのではないか。サルでもネコでもイヌでも、ただし子どもに限定されるが、映像で動作を見ていると好奇心の塊である。それらから「好奇心」とは、飽くなき問いかけでないだろうか。トマス・ホッブスは「好奇心」を好ましいものとして、著書『リバイアサン』にこのように記している。
 
イメージ 4「"なぜ"、そして"いかに"、を知ろうとする願望、つまり好奇心は精神の渇望である。継続して根気強く知識を生み出しつづけたすえに感じる歓びは、いかなる肉体の短く激しい快楽にも勝る」。まあ、そこまで「好奇心」を褒め称えようと思わぬ人もいるだろうが、選択の問題であろう。短く激しい肉体の快楽も、長く激しい好奇心の歓びも、いずれも我々は手に入れられる。「好奇心」こそ人生と自分は思っている。すべての行動の根源は「好奇心」に根ざしているのでは?子どもの頃にありとあらゆるイタズラをした。落とし穴を掘る、蛙や毛虫で女子を驚かせる、何の事はない、人の驚く顔がどんなものなのかが見たい好奇心である。それが講じて『ドッキリカメラ』であり、これ以上に面白い番組はないと今も思う。
 
ビックリさせて驚くというのではない「驚き」、「驚く心」が感受性を高める上で大事である。また、驚きは子どもに典型的な特徴である「好奇心」に通じるような、気分の高揚と関係がある。物事に感動しやすい人、あまり感動しない人の二種類が存在するのは生きていて分る。後者な人間は、おそらく「驚き」の訓練が足りていなかったのではないのか?
 
驚く対象は広範囲に及ぶが、それらは人間の初期から長期に渡って伸ばされるもので、自然且つ簡単に生じる心の習性であるが、自ら、あるいは他者によって様々な刺激を与えて訓練し育むものではないか。でなければ「驚き」を満たす能力は失せてしまうし、大人になってからこの性質を伸ばすのはもはや難しい。「遊び心」の中にも、「驚き」の要素は満載である。
 
我々は、「子どもは遊ぶのが仕事」という時代の申し子であるが、現代においては「子どもは勉強するのが仕事」ではないか。幸いにして、勉強にうるさくない親に恵まれた子どもは幸せであろう。いかにも勉強否定論者のような言い草に思えるが、自分は常々学問を重視しているから、小中高の勉強など屁にもならないと思っている。しかし、親は必死のようだ。
 
どれだけ「遊び」の中から、将来的なエキスが得られるか、それだけ「遊び」の中には様々な、計り知れない、あらゆる要素が充満している。アメリカの発達心理学者エリクソンは、「大人になったとき、何を遊びと感じられるかは、子ども時代の人間関係から大人のそれへ、そしてもちろん遊びから仕事へと、どう我々の観念が変わっていたかにかかっている」とした。
 
並外れた困難なことを成し遂げた人が、しばしばそれは「子どもの遊びのようなものだった」という。無意識なそういう言葉・気持ちは、暗黙のうちにその成就に対し、「遊び心」が関わっていたかを認識している。「遊びながら学ぶ」意外に果たしてどこから学びを得たのか、自分についても分らない。すべての根源は「遊び心」に起因しているからだ。
 
「自負心」、「依存心」、「憎悪心」、「虚栄心」などの言葉を"一人しりとり"するがごとく頭に浮かべようとする楽しさは、自分にどれだけこれらの言葉の知識があるかの挑戦であり、一つ一つの言葉が出るたびに実は感動もしている。「こういう語句があったのか」という感動である。見つけたというより、思い出した感動であろう。硬化した脳への「渇!」でもある。
 
総計22個書き出したが、ふと別の日に新たな語句が浮かぶ楽しみもある。して、「自負心」について、「依存心」についてなにやら書いてみよとの自動的な指令も刺激として楽しんでいる。何がでてくるのやら自分にも想像ができない道への興味、好奇心である。大したことを書こうとしなければ、人間は文字を駆使して何でも書ける。とにかく自分で楽しむことだ。
 
「遊び心」のない人が何かを行為させないのだろう。文章を書くのが好きだからでは?などと言われるが、いちばん好きな事は何もしないでいる時間。喋らない、書かない、動かない、に勝るものはないが、いちばん好きなことだけやって人間が生きて行けるものでもない。二番目に好きな事も、五番目に好きな事も、あまり好きではない事もやる必要がある。
 
「つたない文章を公にするのは恥ずかしい」、などと言う人がいる。つたない文ならあえて言う必要もなかろうというもの。口に出すことで自尊心が傷つかないよう一種のガードである。そんな自尊心などどうでもいいんだよ、下手な文を晒す羽目になるのは、下手だからであって、それでいいのではないか。何かにつけて注釈・前置きする人は自尊心が強い人。
 
それが邪魔をしてできない事もある。何も自尊心を捨てて身を晒せと言うのではなく、(行為)したくてもできない、何が原因か?といえばそういうことだ。本当にやりたいなら障害をとることだ。彼女に告白してみて、断られたらどうしよう、傷つく、だから言わないで黙っている。こういう自己過保護の原因も自尊心が邪魔をしている。捨てて強くなる物もある。
 
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の身とは、「考え」や「思い」の意味もある。自分考えや自の思いで起こってくる煩悩欲を捨てていけば、かえって道が開けてくる。虚栄心、自尊心、執着心、向上心、羞恥心の三つを使って長短文を作るなら、「虚栄心や自尊心への執着心を捨て、向上心をもって羞恥心を打破」と、上の文脈に照らして成る。
 
「遊び」は想像力や創造力も高める。想像力とはなにか?ジョン・レノンの『イマジン』に歌われる、実際には存在しないもの心象を形成する能力、あるいはかつて経験したことのないものの心象を創りだす能力である。子どもの「遊び」のほとんどは、一人遊びであれ仲間と一緒であれ、想像性に富んでいる。今一度、想像力とは、遊び…。「考える遊び」である。
 
創造性は、幼年期にとてつもなく発揮される。子どもはこの期間、幾多の経験を一つの"模様"の織り上げる。して、その"模様"が彼自身となる。自己形成の過程とは、環境に出会いそれに反応することで得られる様々な経験が活発な自己形成に関わって行く。子どもにとって人生の初期環境がいかに重要であるか。この大事な時に物を覚える訓練だけでいいのだろうか?
 
そのことが最も子どもへの憂慮である。①想像力、②読解力、③記憶力という人間の能力に順位をつけたものを見た。株主優待で有名になった将棋棋士の桐谷広人七段は、現役時代「コンピュータ桐谷」と言われたくらい、過去に指された様々な棋譜を暗記していた。将棋は想像力であるから、彼の暗記力はさすがに巧を奏さず、最下位クラスから昇段しなかった。
 
当時のコンピュータは覚えるだけのガラクタ機械で、現在のようなプロ高段者を負かす力はなく、「コンピュータ桐谷」は嘲笑言葉だった。ダ・ビンチの「モナリザ」をどれほど精密に描いても模写は模写で芸術評価はない。桐谷氏は棋士を辞め、新たな才能を株の世界で発揮した。また、彼の物腰の柔らかい雰囲気と言葉は、いじられキャラ的な人気を得たようだ。
 
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」は、桐谷氏に当てはまる語句かも知れない。彼の棋士での生涯成績は実働32年間で、327勝483敗・勝率0.403である。ちなみに羽生善治名人は実働29年(継続中)で、1298勝498敗・勝率0.723だから、数字的には雲泥の差。対局数をみても桐谷810局、羽生1796局と倍以上の差である。が、桐谷氏は新たな人生で彼を著名にした。
 
自分も、幼少期から青年期、中壮年期と好奇心旺盛で、それはかつてほどでもないが今も消えていない。幼児にとって世界は神秘であり、探索しなければならない未知の領域だ。探索は、満足を与えてくれる活動で、「好奇心」がもたらすものだろう。それらは活発な心と若々しい精神の変わらぬ徴として、いつまでも持ち続けていたい。
 

「対抗心」

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懐かしい、「対抗心」という感情。もう何年も芽生えてない感情だ。「対抗心」とは、互いに勝ちを争って競うことだから、21日解散、12月2日公示―14日投票の衆議院選挙など、対抗馬に「対抗心」むき出しの選挙戦である。各自、各陣営、それはそれは大変なのだろうが、長年味わったことのない「対抗心」で競える機会があるってこと自体、羨ましい。
 
"落ちればただの人」と言われる議員は悠長に構えてはいられないだろうが、ところで新潟5区の田中眞紀子嬢は、どうやら政界引退らしい。あのプライドの塊のような女が前回に引き続いて今回も落選ということなら…、それを見越しての不出馬だろう。言わずと知れた角栄人気が眞紀子人気を押し上げたが、今は懐かしい。みゆき嬢の言葉を借りるなら。

  あんな時代もあったねと、きっと笑って話せるわ
  だから今日はくよくよしないで、今日の風に吹かれましょう
 
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父親譲りの喋りの上手さと威勢のよさの眞紀子嬢、文部科学大臣のときに彼女の大学不認可処置が、アンフェアで不公正でバカげていたことから、彼女の政治生命は終ったようだ。所詮は親の七光りだけの世間知らずのお嬢様であることは、過去の様々な問題で言われていたし、この点については当の本人も自著『時の過ぎゆくままに』の中で以下の記述がある。
 
今でも子どもたちから、「ママは幼いところがあって、危なっかしくて見ていられない」とか、「世間知らずだということを、ママもそろそろ自覚した方がいいよ」と真顔で言われたりする。(中略)なるほど私は相当世間知らずだと思い知った経験を思い起こせば、そろそろ年齢相応の知恵を働かせて、残る人生を逞しく生き抜かねばなるまいと思ったりもしている。
 
謙虚さの微塵もないブルトーザーのような彼女が、借りてきた猫よろしく謙虚な記述満載の『時の過ぎゆくままに』は、1989年に「主婦と生活社」より刊行されたが、1993年の衆議院選挙初当選前に人気を煽るプロパガンダであった。今はメッキも剥げ、彼女の無能ぶりは国民の知るところだが、『田中真紀子の恩讐』、『田中真紀子の正体』などで叩かれた。
 
『田中角栄研究』の立花隆も『田中真紀子研究』を著し、彼女の実像は悪口オバサンのイメージが定着する。総理候補の呼び声高い眞紀子嬢の凋落は、「弱い者(弱い官僚)には当たり散らし、居丈高で傲慢であり、強い者(中国)には妾のように媚を売る。アメリカには強きをみせるが、これは未熟な人間のハッタリで、アメリカが怒鳴れば縮みあがる」といわれた。
 
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当たらずとも遠からず、いや当たっている。幼少時期からチヤホヤされた彼女は、世間知らずの傲慢・我儘女に育った。人の使い方が尋常ではなく、愛情や思いやりの欠片もない。自元人気が強く得票率は50%を揺るがなかったが、前回総選挙では3割弱にまで票を減らした。落選の理由はさまざま言われているが、資質を問う多くの記事があったのも一因だろう。
 
何より明確な理由は彼女があまりに無能だった事。威勢のいい発言はすべてがハッタリなのを国民が知ったこと。それでも父親の地盤を引き継いで、その力を上手く利用すれば民主党であろうと、マイナー政党であろうと当選出来たはず。角栄の愛人だった佐藤昭子(故人)も、「娘をあんな我儘に育てた田中(角栄)が悪い」と本に書いているが、まさにその一言。
 
我儘は人間にとって最も嫌われる性向。して、我儘になるのは100%親の躾、育て方による。生まれつき我儘な子などいないわけだから。我儘な人間の資質の見分け方だが、人によって違うけれども、間違いなく分る。我儘な人は相手の言葉に敏感すぎる点があげられる。これは天然の逆と見ればいい。常に相手の言葉をかなり意識しているのは共通する特徴だろ。
 
謙虚な雰囲気も見せるが、我儘、自己中は容易く隠せるものではない。何事も自分勝手な基準で他人を見、それに合わない人を非難するなどの特徴がある。一般人が「こうあってほしい、あるといいな」という感情を、「こうあるべきだ」という感じ方をするから、他人にはいつも不満ばかり抱いているし、自分の我儘に気づいていないから他人に不満が多い。
 
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自分は価値基準を道理で判断するが、自己の善悪が価値基準となる人多し。もし、価値基準を道理に頼らず、自己の都合や、好みなどを主体とする身勝手な善悪基準は、当然他人と異なる。道理判断を「正論ばかり言わないでよ」などと言う奴は感情の塊か。正論を言わずして何を言えばいいのか?自分勝手で独善的な判断を言うしかなくなるだろうに。
 
道理など無視、ひたすら自分の思いが正しいと思う女は多い。男は何が正しいかを思考する。自分の考えよりまずは道理である。でなくして正しい判断と言えない。我儘でない人は他人をあるがままにみる。「こうあるべきだ」という自分の欲求でなく、「あるがままにみる」。他人を「そうあってほしい」と見る人と「あるがままに見る」人ではまる違ってくる。
 
「そうあってほしい」と他人を見る人は、そうでない他人に不満を抱く。だから非難をするが、他人を「あるがままに見る」人は、そういう不満はないから非難もない。この点からしても我儘人間が傲慢であるかが分ろう。他人への不満ばかりで、人間関係が円滑にやれるはずがない。自身の心の中には常に相手への「対抗心」ばかりが芽生えているだろう。
 
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「融和」、「穏やかに」人と接するためには「対抗心」は無用である。相手を「あるがまま」に見、自分の考えが道理に敵っているかどうかを客観的にみる。賢者はひと呼吸おかずとも道理が自然と口に出るというが、ひと呼吸おいてさえ道理を模索する凡人もまた賢者への道を模索する。孔子は「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」と言った。
 
その年になれば口から出る言葉すべてが、道理に敵っているということだが、そんな人間になるのは大変である。欲を捨て、相手を愛し、尊重し、とその域を目指すのは立派なことだ。「天に星、地に花、人に愛」という言葉は小学生の頃から知っているが、星や花は自然であるけれども、「人に愛」は自然に成らず、人為という意思で成されるものである。
 
人の世では我儘な人と付き合わなければならない事もある。さて、どうするか?基本は「あるがまま」に見ることだが、相手の明らかに無理な要求は拒否すること。それで相手が機嫌が悪くなれども、相手の要求自体が無理(我儘)だと思えばいい。無理を拒絶して相手が不機嫌になった責任を感じる必要はない。こういう物の道理を常時大事にしていけばいい。
 
「お前が無理を言ったんだ。勝手に怒ってろよ」の域に達すれば楽に生きて行ける。結局、自分が分からずで他人を分ることなど出来ないわけだ。だから、気にすることはない。未熟な相手は、まずは自分を知ることが先決であり、それを口に出して言ったところで無理だから腹で思っておく。言ってあげるのが愛情であるけれど、相手のキャパを考えてすべし。
 
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「対抗心」は人間に必要なものか賛否がある。動物の生存欲求本能の中に「対抗心」は存在するが、動物になくて人間にあるのは知性である。知性は相互間の関係をコントロールするもので、それなくして露骨に「対抗心」を剥き出しにするようでは、その人の知性や品性を疑われてしまう。人間のように社会を形成する生物に感情コントロールは必須となる。
 
我儘は100%感情だから褒められたものではない。人間の未成熟な感情であるからして他人から好かれない。世に我儘な人間は結構多いし、そういう人間にどう従うではなく、どう対抗するか?「あるがままに」相手を見、無理な要求に屈しないと指摘した。こいつは我儘人間だと、「あるがままに見る」だけで腹が立つというが、不満を言って我儘は直らない。
 
相手が我儘で困るのは無理難題を要求したり、自分勝手に振舞おうとすることだから、させなければいい。「我儘なヤツにそれは無理」というのは弱虫の方便で、我儘相手に我儘をさせないようには出来る。ただし、喧嘩を覚悟する必要がある。便宜上、喧嘩と言ったが、相手の我儘を許さないための方法である。「いい人」は決して成功者にはなれないんだよ。
 
「ダメよ、ダメダメ」といえる女は賢い見本である。でなければへなちょこクソジジ~の言いなりになってしまう。あれはよい見本を見せてくれている。もっとも、女の「ダメよ」の本気度はさまざまであるが…。とにかく、相手の我儘、傲慢を許してまでそういう相手と付き合う理由はない。恋人であれ夫婦であれ、我儘を聞き入れぬことで、相手に諦めさせる。
 
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「あの女は我儘で疲れる」と不満を言うより相手に負けぬよう対抗する。不満を言う奴は何もしないし、改善しない。嫌なことされて黙っているヘタレ。人と人の機微は日々の常だが、言葉で簡単に言えない場合もあるのだろうが、言えるよう努力をする。繰り返すが、愚痴や不満をこぼしていいことにはならない。繰り返すが、「いい人」ばかりじゃダメなんだよ。
 
以下はネット相談。「対抗意識の強い人に対して、まず、対抗意識、対抗心を持たせないようにするにはどうしたらいいでしょうか?」。対抗意識の強い人に対抗心持たせないようにするのではなく、持つのは相手の自由だから、それをかわせばいいだけだが、こういう回答もある。「無視するのもいいが、忍耐が必要。子供がおもちゃに飽きるのと一緒で、時間を要す。
 
親交を持つのはどうか?仲良くなればお互いが対抗意識を持つ、持たれるというのは必要の薄いもの。さらには、対抗意識を持たれている分野で圧倒的な差を見せつけること。実力が拮抗している場合、追いつけ、追い越せの競争意識が働き、しばしば職場の雰囲気が悪くなることがあります。圧倒的に優れていればそもそも競争がおこらないというわけです。」
 
「同じ土俵に上がらないのが鉄則だが、実際にその場になるとこちらも人間だし、上手くいかないもの。でも相手が変わらない以上、こちらが変わるしかありません。同じように対抗してもしんどいので、広い心で受け流すことなどできない。冷ややかに見下すほどこちらも人間ができてない。結局自分も変われないのならば、ひたすら悶々とするしかないのが私の経験です。」
 
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いろいろな方法があるんだろうが、その人には出来ること、出来ないことがあるから、自分で考えるしかない。いつも思うのは、「こうしたら?」というアドバイスは、自分は出来ても相手には出来ないこともあろう。上の人のように、自分を変えるか、変えられないなら悶々とする。こういう人もいるんだろうが、「こんなのは嫌だとなれば悶々としない事を考えたらいい。
 
実は自分には状況がよく分かっていない。「対抗意識」がどういうものか?相手が対抗意識をこちらにけしかけるとはどういう状況なのか。それがよく分らない。別に相手が勝手に対抗意識を燃やしてるなら、気にもとめずに自分は自分でいればいいだけに思う。自分なら無視するというより、気にもならない事かも。相手が対抗心もつから、こっちにうつるわけでもないし。
 
我儘人間、傲慢人間など腐るほどいる。そういう相手と付き合いを止めることを怖れることはないと思うのだが。自分は人間関係を「道理」に照らして考えるから、無理をいうとか、道理に外れた言動をする相手を排除するのを何とも思わない。よく、自分の好みの相手を選ぶというが、大事なのは道理の分る相手。そうやって排除していけばいい人間しか残らない。
 
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「対抗心」を燃やして当然の選挙なら頑張ればいいが、相手が自分に「対抗心」を燃やすという、具体的な状況も具体的に聞かなければよく分らないが、相手が自分に「対抗心」を強めても、それは相手の問題で、自分がどうする、こうするはない。「対抗心」の強い奴はいるし、そういう経験はあるが所詮は相手のこと、相手の「対抗心」を弱める方法などバカげている。
 
自分が「対抗心」を燃やした相手についての記憶でいえば、高校のクラスで将棋がブームになり、クラスに連戦連勝無敗の王者がいた。何とかコイツに勝つ!を自分に命じ、まずは本格的な将棋盤(12000円)を、全財産はたいて買った。が、気持ちとは裏腹に所詮は付け焼刃…、遂に彼に勝つ事はできなかった。あの時の燃え滾る気持ちは今でもよく覚えている。
 
イメージ 8以後も将棋は続けたし、熱中した部類だ。卒業後、何年くらいか正確には覚えてないが、5年か7~8年かそれくらいか、時の王者に「お前に一勝もできなかった。今、ここにリベンジする」と冗談交じりに電話をし、家に呼んだ。3番対局し一度も負けなかった。こんなに弱いやつだった?正直な感想だった。自分が上達したかを量る尺度はなかなか分らぬもの。
彼の棋力は高校生のときのままで、自分の実力だけが気づかぬうちに伸びていたのだろう。懐かしい「対抗心」の思い出だ。「すげ~、強くなったな」の言葉に、打ちのめされた彼の驚きの顔を思い出す。その後、彼が「対抗心」を燃やしてリベンジというのはなかった。彼にはそういう気概はなかったようだ。「対抗心」燃やして挑んで欲しかったが残念である。
 

「恐怖心」

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人は死の直前、感謝や安らかな言葉を置くというのはたくさん耳にしたが、親不幸ながら父親の臨終に立ち会えなかった自分である。父は死ぬ間際に紙と鉛筆を所望したが、震える手で何も書けないままで生き絶えたという。何かを書き残すならもう少し時間的な余裕がある時にと思うが、最後の最後、土壇場まで自分の死を確定していなかったのかも知れない。
 
人は、いよいよ最後と悟った時までは生への渇望があるのだろう。もうダメだ、本当に死んでしまうというまでは死を意識しなかった父の気持ちが分かる。で、最後の一声ならぬ、最後の一筆が何であったかは分らぬままだった。「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪花の事は夢のまた夢」は、おそらく事前に作られていたはず。辞世などとはムシの息にあっては書けない。

 彼の者の眼前を『生の世界』と呼び、
 彼の者の背後を『死の世界』と呼ぶ!
 
人の生と死を分かつものは何なのか?そこに一筋の光は射すのだろうか?人が、父が、死を実感としたときの諦観…、いつしか自分もその思いを味わうときが来る。意識を喪失したまま旅立つ人もいるが、許されるなら、実感としての死を意識の中で味わいたい。父がそうであったように、意識はやがて遠のき、しばらくの後に脈は止まる。して医師が死亡時刻を告げる。
 
「何時何分、永眠」。これが人の最後の履歴となる。殺伐としたものだが、物の終わりは静である。その後は何処に行くとも、行かずとも死者のみが知る。死後の世界は死者があらわしたものではなく生者の想像である。人が死を体験できない以上表すことはできない世界である。世界とはいっても何もないかも知れない。意識が止まった以後を人は表現できないだろう。
 
イメージ 2臨死体験者の言葉は科学的に不思議としか言いようがない。脳の大部分が機能停止状態と観測されていたのにも関わらず、死後の世界を見たというは、科学では「脳の幻覚」として扱っていた。科学とはそういうものである。科学的思考を進める上で重要なのは、推測をつぶさに調べたものを評価すること。論理は明晰かつ完全であらねばならず、事実は証明可能であらねばならない。ただ口だけで、「STAP細胞はあります」などとふやけたことをいう人間を科学者とは言わない。なぜなら、既成事実というのもは説明されなければならず、一切の結論は証拠から導かれなければならないし、よって科学的思考は実験によって確認されるものであろう。自らがたてた仮説を自らが論破に努め、仮説がそのことに耐え得るかどうかを実験で確かめるのだ。
 
子どもがハエの羽をむしりとるのを止めるのは大概母親である。「そんなことするものではありません」と。子どもが生まれながらにして実験家であるのを知らない大人は、単に腕白な行為としかみない。家にあった先祖ゆかりの大時計をバラバラにしてしまえば怒るしかない。もし、大人が純粋に子どもの視点に立ち、それをしない子の方をお利口さんと評価するのか。
 
大人は子どもの何が"やんちゃ"で、何が"いけない"行為であるかをあまりに知りすぎている。真面目で常識的な大人ほどその量は多い。だから、子どもの本質的な正直さに気づかない。正直さと同じ加減で子どもに同居する空想力というものがある。空想とはしばしば真実を曲げるし、誇大にするし、つくり話さえするが、これらは子どもの正常な発達である。
 
我々は子どものそういう小説的能力、芸術家的能力、役者的能力に理解と共感を持って接しなければならない。子どもを大人の感性で判断する大人よりも、子ども心を所有した大人とでは、子どもの感受性の高まりがまるで違う。クソ真面目な親にはクソ真面目な言葉しかでてこないが、クソ真面目な親はそれが正しいと思っていることが、子どもにとって悲劇である。
 
お母さんは怒るけど、お父さんは怒らないことが、イタズラの原点だ。子どもに怒る妻を「いいじゃないか、それくらいのこと」とたしなめても分らない女は多い。分らないのに口を出す。となればこの際、「うるさい、黙っていろ!」という言葉を男は用意するしかあるまい。「あれはいけない」、「これもいけない」、「だめだめ、あぶない」などの母親用語。
 
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男の子が腑抜けになったのは、母親の力が父親を圧したからではないか。幼稚園、保育園、初頭教育課程に見る教諭、保母、保父の男女比は圧倒的に女性が多い。女が男を作るのか?男は我が子を逞しく育てたいからリスクを負わせようとするが、女にそれはない。「何で子どもにそんな危険なことをさせるの?」、「オレのやることに口出しするな!」と言える父が少なくなった。
 
母親は子どもを「守る」において間違ってはないが、父親はリスクを怖れぬ「攻める」子育てをする。当座の責任(リスク)は父親の方に発生するが、自分の場合は妻の理解もあってか、「口出しするな!」の言葉を発することなく、理念に沿った子育てをやれた。ハラハラ、ドキドキを抑えて夫の信念に委ねた妻も、今となってはそれでよかったと思っているだろう。
 
リスクを犯させる勇気から得る達成感や自信、それをしないで強い心が育めるはずがないし、それをできるのが父親なのよ。脆弱な男の子を見るだけで、その家の父親不在感が伝わってくる。のっけの、臨終における最後の言葉で、最も強烈だったのは、「恐怖だ。恐怖だ…」と言う言葉を置いて死んでいったカーツ大佐だろう。と言っても映画での話である。
 
カーツ大佐はベトナム戦争に派兵された後、狂人となりベトナム奥地に帝国を作りあげた元特殊部隊所属の優秀な軍人である。狂気に走るカーツを暗殺せよとの命を受けたウィラード大尉はカーツの元に向かう。「恐怖」と「狂気」が交差する人間の本能、無秩序を生み出す人間の本能的衝動、そういう理性の崩壊を追体験するウィラードの恐怖と狂気の旅である。
 
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映画のタイトルは『地獄の黙示録』。戦争の狂気はしばしば映画に表現されるが、戦争の狂気をわざわざ映画で教える必要があるのだろうか。あるとするなら、我々はそこから何を学ぶべきなのか?恐怖や狂気の臨場体験から得るものは人によって様々だろう。カーツの元へ辿り着いたウィラードは、彼の口から殺戮は人間の本能的衝動だと聞かされる。
 
なるほど…。 戦争が"狂気"を生み出すのでは無く、人間の持つ"恐怖心"こそが狂気まかり通る無秩序な世界を作り上げるのだと映画は教えている。ウィラードは、狂気を生み出す根源が恐怖心であるのを悟る。しかし、一方で"恐怖心"は、秩序と道徳に満ちた世界を創造するにも必要不可欠である。長所は短所であり、短所は長所であるように、ネガもポジとなる。
 
善も悪となるし、悪はまた善に帰す。恐怖心は人を怖気させるだけではなく、狂人のような強さを醸すものでもある。こういう人間の複雑さをどうして理解できるのだろう。コッポラは戦争を通して人間の「恐怖心」と、そこから派生する「狂気性」を表現したが、これまでに精神異常をきたした多くの人には、想像を絶するショックや恐怖体験があったと推察する。
 
カーツ大佐が死ぬ直前に発した「The horror. The horror.(恐怖だ、恐怖だ)」は、戸田奈津子によって、「恐怖だ、地獄の恐怖だ」と訳されている。ここのセリフは、「狂気だ、狂気だ」の方が相応しいのでは?の意見もあるが自分はそうは思わない。なぜなら、カーツは狂人の域に達している。狂人が狂人を自覚するだろうか?だから「狂気」は相応しくない。
 
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彼を狂気に誘った要因が恐怖であるなら、ここのセリフは「恐怖」が相応しい。立花隆は自著『解読『地獄の黙示録』」の中で歌われるThe doorsの「The end」についてこう評す。「ジ・エンド」は11分以上もの長い曲で、映画では冒頭と後半のクライマックスであるカーツ殺しのシーンにかぶさる。歌詞は字幕に出ないが、Come on baby, take a chance with us.
 
というリフレインになっている。コッポラはこの音楽を使うことによって、観客のカーツ殺しへの参加を挑発しているのである。それが見事に劇的効果をあげているのは、この歌が父親殺しと母親との姦淫願望を歌った歌だからである。このくだりの少し前に「殺人者は夜明け前に目を覚まし、ブーツを履き、古代の仮面をかぶり.....」と歌いだされ、やがて…
 
And he came to a door
And he looked inside
“Father” Yes, son?”
“I want to kill you. Mother, I want to ..... ”

と、物議をかもした部分。「...... 」の部分は無言だが、fuck you と言われている。オイディプスと同じように、この詩の主人公は、父を殺し、母と通じたあと旅に出る。家族の構造が違うアメリカでは、若者のエディプス・コンプレックスは日本より遥かに強い。すべての若者にとって、このコンプレックスを脱することが真に大人になるための最初の階梯となる。」
 
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アメリカの若者は壮絶なるエディプス・コンプレックスと闘うと立花は言う。「エディプス・コンプレックス」とは、フロイトが提唱した理論で、まず男の子は母親を愛し、独占したいと感じているため、父親という存在を邪魔だと感じ、無意識のうちに憎むようになる。だが、父親に逆らえば去勢されるかもとの不安から、子どもは母親への性愛願望を断念する。
 
つまり、子どもの母親への独占的な愛は父親によって禁止され、これをきっかけにして、子どもは父親の命令を取り入れるようになり、父親の規範命令(ルール)は超自我として内面化される。ただし、父親の規範命令(ルール)を取り入れるのは、去勢不安のためだけというより、父親に対する愛情と尊敬から従うようになると考えたほうが無難であろう。
 
ただ、父親が尊敬すべき存在でなくとも、多くの場合、それなりに社会性や自己ルールは形成される。であるなら父親の人間性とは別に、父親というポジションそのものに、自己ルールが形成される一因がある。ここにエディプス・コンプレックスの本質がある。子どもの内面規範が社会性をもつためには、単に母親の禁止(ルール)を取り入れるだけではダメ。
 
母親との一次的ルールを第三者的に見据える視点が必要であり、まさしく父親がそれを与える位置にいるということだ。これら様々な曲折体験を経て、社会の誰から見ても正しいと思えるふるまいや行動を身につけ、そうした社会的なルールが自分の行動規範となって行く。そういう社会性が形成されることこそ、エディプス・コンプレックスの本質というべきだろう。
 
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人間はデリケートで厄介な生き物で、ただ大きくなるだけでなく正しく成長しないと心に問題を残す。自分もさまざまな問題を背負って成長してきたし、母親とは今後も口を利くことはない。花田兄も弟の貴乃花について、「仲直りとかは気にしてないんです。もうお会いしないというだけ…」と、関係修復の可能性がないことを示唆した。無理して会うこともないよ。
 
性悪な実母は自分だけに留まらず、妻から孫へと災いが移行した。困った人は誰に対しても困った人で、自分だけで収まる事ではなかった。誰が彼女の首に鈴をつけるかである。困った人は人を困らすことが生きがいのようだ。老害と名指しされる人が、自ら老害とは感じていないように、他人の負担になりたくないという明晰な人はさっさと行き場を選ぶ。
 
人は完全には自由にはなりきれない存在だ。何者からも自由になれるとしたら、それは人間の死である。すべてから解放される究極の自由を求めて、自ら命を絶つ心の重さを知るすべもないが、死に急ぐ人というのは、不幸な人より幸せの位置にある人が多いのではないか。STAP細胞問題の笹井芳樹氏、長崎高1女子殺害の加害者の父親もHigh Societyである。
 
イメージ 8いずれも世間を騒がせたことへの顔向けができないという謝罪が根底にある。人の命は個人の所有であるが、人は社会に生き、また社会によって生かされている。したがっ、社会的影響力の高い人ほど命が傷つきやすくなる。精神は傷ついても命を傷つけることのない「生」を見出すことができないものだろうか?所詮エリートはバカになれない苦しみを負うのだろう。エリートにありがちな、ガラス細工のような壊れやすい心に対し、佐村河内氏や小保方氏のような羞恥心なき心の強さ、さて、あなたはどっちを選びたい?ムチャクチャいうな、そんな選択があるかってこと。結局、バカは人に迷惑をかけるだけで、その結果の責任を取るのは常にバカでない人という図式である。新垣氏は佐村河内氏の責任から職を辞し、笹井氏は小保方氏の上司、長崎の父親は娘の責任をそれぞれ取った。
 
映画の中でカーツはウィラードに問う。「お前は真の自由、一切のものからの自由というものを考えたことがあるか?」。真の自由とは、神の世界以外には存在しない。カーツはベトナム戦争の欺瞞に気づいた後、一切を捨てて神と崇められる王国で君臨していた。神と崇められる世界といえども、所詮は人間、神ではない。そこにあるのは真の自由とは言いがたい。
 
似非神の自由は重荷であり、負担である。真に無制限の自由は人間には負いきれないほど重い。似非神となったカーツは似非自由の重荷に苦しむ…。カーツは終りなき苦悩からの解放と、新たなる真自由を求め、ウィラードに自らを殺させた。「The horror. The horror.」という象徴的な言葉を置いて、彼の信ずる自由の場所を求め、旅立って行った。
 
 

「遊興心」

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「遊び心」とも言う。近年の若者は「遊び」という言葉をどのように捉えているのだろうか?自分たちの若い頃は、いささか禁句的な意味合いもあり、あまり好んで使ったり口にしたりはしなかった。「遊び人」とか、「遊び目的」の男女関係とか、ネガティブな意味に使われた。「遊び人間」⇔「真面目人間」、「遊び」⇔「本気」という対義語がそれを物語っている。
 
次の相談、これが今どきの中学生。「遊び人に遊ばれた挙句、捨てられた…助けてください!私は今中2だけど、1年くらい前に高校2年生のTに会いました。最初はすっごくいい人で、顔がとにかくかっこいいので好きになりました。そしてカラオケに誘われSEXしました。私は嫌でしたけどTのことが好きだったんで大丈夫だと思いました。でも、全然大丈夫ではありませんでした。
 
それ以降、Tは凄く私に冷たくなりました。話は最低限の会話しかしないし、電話してもメールしてもシカトされます。Tは他にも女が居るのを知りました。よく会っているようです。彼をどう思いますか?これって彼に遊ばれたんでしょうか? 今後彼にどんな顔をして会えばいいんでしょうか? 誰か2つの質問について教えてください!お願いします!!」
 
中2女子のこういう相談に、何をどう答えればいい?SEXの事はともかく、付き合った、別れたは世の常、人の常。後始末も、後片付けもできない少女がこういう出会いで苦しんで、それを誰が助けられる?自分で始末できないなら、チャンと出来るようになるまで男は早いね。女の子同士で一緒に遊んだり、楽しく仲良くする年頃じゃないのか?としか言いようがない。
 
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遊ばれたと分ったところで、それでどうなる?人に何を助けて欲しいんだ?「相手にふられ、捨てられることも含めた恋の終わりを自分で処理し、解決できない奴は、男なんか10年早いよ。欲しいなら、以上の事をすべて自分で解決するんだな」としか言いようがない。「遊び人を避けろ」、「もっといい相手を見つけて」と回答するのは簡単だが、いい相手が事前に分かるか?
 
優しくてイケメンだから好きになった。好きになったから体を与えた。与えたら冷たくなった。他にも女が居るのが分った。こういうのを「悪い男」、「遊び人男」と言ってもいいが、だからといって、その後の対処が出来ないわけだ。最初は優しかったのに…本当は違った。だから、問題は違ったと分ったとき、遊び人と分った時、何もできない未熟者なのだよ。
 
だから男は早いと言ってるんだよ。この時期の男は「やる」ことしか頭にないサルみたいなものだし、そうではない男もいるが、すべては女の対応にかかっている。この少女は自分に責任がないと思ってるが、振り払えない責任は大きい。自分で撒いた責任は自分でしか取れない。それができないなら男は止めろ。以外に答えはないし、さらにいうなら、人に答えを求めるんじゃない。
 
自分のやったことを他人が考えるのは無理なんだよ。20代の女でも30代、40代でも恋の悩み、男の悩みはいろいろあるが、目の前の相手が行ってることがすべてだ。自分の目の前で起こってることを遠くの他人に話して何を解決できる?愚痴をいうなら分らなくもないし、それはいいけれども、愚痴は女に言った方がいい。男の脳には愚痴を聞くスペースがない。
 
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自己アピールで、「よければ愚痴でも何でも聞きますよ」と女に発信する男がいるが、それって優しい男なんか?気色悪いとしか思えないし、そういうことでしか自己アピールはないんか?と思ってしまう。いわゆるオカマ系ではないのか?「悪いが愚痴なら他に言ってくれ」と自分は言う。何かを解決するための知恵、アイデアを求めるなら真剣になるけれども。
 
女は「いい人」を求める。そりゃ~男も「いい女」を求めるだろう。が、「いい人」が何かというのも個々で違うが、女の愚痴を相槌打ちながら聞いてる男のどこがいい男?である。愚痴を聞いてくれない夫に不満をいう妻がいるが、とんでもない。解決する気もない愚痴など土台男には無理なんだよ。自分で消化できるなら大人だが、できないなら聞き役を探せ。
 
「あなたって妻の愚痴を聞く度量もないのね」と、こういうことを言う女はまずもって自己中。口の悪い女は、女の中でも最低ランク。男の気質を理解していないか、あるいは理解していても言わずにいれない性根の悪さか、例えば風邪をひくと「体弱いね」、髪が薄い人を「禿げ」だとか、とにかく他人の弱点をあげつらう、口の悪い、うるさい喋くり女はいるよ。
 
そういう女には近づかないようにしている。自分のことを棚にあげ、男も家事をしろ、掃除をしろ、外食がいい…。世の男は結婚後も妥協しているのだろうが、「自分にはこの女しかいない」と何の妥協もせず、不満もないような女を見つけるまでは結婚すべきでないし、それをしなかったなら文句をいうな。だいたい、「家事はできないが容姿がいい」など妥協はすぐに壊れる。
 
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当たり前だろ?顔もスタイルも10年経ったら劣化する。逆に「容姿はダメだが、家事もできるし、節約も上手い。結婚には最適」と言ってるやつが、巷の美人にコロっと騙されたりする。「あなたは男らしい、私も女らしくありたい」と、こういう分別をわきまえた人間を理想とすべし。当たり前の分別だが、近年はこういうことを「理想」とすべきほどに不作なんだろうか?
 
100年の不作というのは、自分だけではない、子の代、孫の代まで悪妻の禍は続くという。男の領分、女の分別をしかとわきまえて、よい家庭を子の代、孫の代まで続たいものではないか。昔、中高生の恋愛ゴッコを大人は、「子どもの火遊び」と見下した。イッチョ前に体の発育はあれど、中身は子どもだから燃えれば火傷をする。今も同じで、子どもは火傷するもの。
 
子どもの火傷を防ぐ手段はない。大人女は遊ばれ捨てられても、自分も遊んだということで相手のせいにしない。すべてを自分の幼稚さ、至らなさにしておくほうが賢くなれる。同じ過ちを何度も繰り返し、「私はバカだから」と言っておくのは構わんが、賢くなりたいなら自分を改良すること。男に望まれ、求められ、喜ばれて自分が満たされるなら、バカでいるしかない。
 
「主体性などまるでない無害のバカ」が男の餌食になるのは分りきったこと。男は愚鈍で口下手で、そういう男を女は追いかける。何故か?それは氷のように冷えた男を追いかけているのではなく、優しく温かい男が、冷たさを演じているのを本能的に見抜いている部分もある。男は冷たさを演じるところがある。ちゃらちゃらした男は大体インチキ、真実などない。
 
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男の理想を掲げる男もいる。高倉健という人は、お喋り好きでお茶目でイタズラ好きで、子ども心の充満した人であった。彼は自分の役柄イメージを大事にしたプロの俳優であった。松方弘樹も、梅宮辰夫も、丹波哲郎も、高橋英樹も、テレビ出演をすることで自らの虚像を取っ払った。いや、取っ払うしかない、それがテレビなのだ。だからテレビに出ないスターは虚像を守れた。
 
テレビというのは、談笑アリ、問質アリだから、銀幕のイメージを守ってなどいられない。高倉健は、本来の自分とは相容れないアウトローになりきるために、撮影期間中は、現実の社会から自らを遮断した。対談やインタビューでは「サービス精神」旺盛で、下ネタOK!であった。71年に江利チエミと離婚後はずっと独身を通し、自宅は世田谷区内にあったらしい。
 
冠婚葬祭の一切に顔を出さないのも徹底し、そういう隠遁生活が実は虚像であれ、彼には孤独が似合っていた。「遊興心」とは無縁で、酒も飲まずギャンブルもやらない高倉、先輩片岡千恵蔵に、「麻雀ができないでなんで良い役者になれるか、健坊」と幾度もたしなめられたという。ホモではないかとの噂に、「女好きの自分をつかまえてホモとは可笑しな話」と否定した。
 
芸能人のゲイ能人疑惑といえば、平井堅、福山雅治、織田裕二、宮本亜門、氷川きよし、槇原敬之、竹野内豊、前田健、藤原竜也、速水もこみち、赤西仁、ジャニー喜多川らの名が常連だ。男になくてならない遊びと言えば、「飲む、打つ、買う」だが、「買う」=「女遊び」も、「男遊び」の場合もあるということ。ソクラテスもダ・ビンチもゲイであった。
 
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「女遊び」と言う言葉は「女道楽」といい、女性と戯れること、女との色事に耽り遊ぶことなどを意味する。男が「女遊び」をするなら女は遊ばれるだけ?と言う事は実際ないと思っている。それは同時に女の「男遊び」でもある。二人がテニスをすれば二人が遊んでいる。というように、二人が何かをするなら「遊ぶ」のは二人では?一方的に「遊ばれた」とは被害妄想、女のズルさである。
 
女をやったことがないからよくわからんが、「男に遊ばれた」とはどういう状態を言っている?男女が恋愛して結婚しないで別れたら「遊ばれた」のか?その辺がよく分らない。同じ時間を共有するのだから男が遊んだなら女も遊んだことになるが、以前は肉体関係がないなら、「遊ばれた」といわなかったし、一般的には体の関係を持った後に捨てられるを意味するようだ。
 
「捨てる」というより、「気が変わった」、「飽きた」で別れるんだよ。昔のような、結婚を確約する男にしか体を与えない女ならともかく、すぐにやらせて「捨てられた」はないだろ。外国人女性は「捨てられた」など言わない。あくまで「lost love」。「捨てられた」という表現は、自己責任などまるでないセンチメンタリストの都合のいい言葉。「捨て子」じゃないんだし。
 
もっとも最近は女が男を「やり捨てる」のが多いらしい。この現象について恋愛コラムニストの佐藤玲美と官能小説家の大泉りかの二女性は、「男が女の変化に追いつけていない」というのが共通の見方を示す。具体的にどういうことかといえば、「『女は性欲だけのSEXはしない』、『女は恋愛が大好き』などの固定観念を持っている男が多く、そもそも間違っている。」
 
イメージ 7と大泉氏は言う。今やそれは男の思い込みで、SEXをして付き合うかどうかを判断する女が増えており、それで『ヤリ捨てられた』と傷つく男が生まれている。これは「女遊び」に対比した、「男遊び」と言える。「ヤリ捨て女」は、「自分を救い出してくれる王子様のような男を待っていて、 自分を好きと言う程度の男は自分にふさわしくないとヤリ捨てる。」と佐藤氏。
 
そしてこのように締めくくる。「そんなヤリ捨て女の被害に遭いやすいのはどういう男なのか。1回ヤッたら2回目も当然あると思い上がって、ガツガツ行きすぎるような男」だとさ。「へ~」という時代である。行為が事実なら、「SEXが下手だからあなたなんかに用はないわ」ということだ。口に出していうならば。オモシロイ時代になったものだ。
 
それなら男が女に向かって、「SEXしたが、お前とは合わないんでアバヨ!」と言ってもいい時代になったということだな。対等というのはそういうこと。こんなこと言われたら「ひっどーい男」というだろうが、女に言われた男は自信喪失して女恐怖症か?てなことにならぬよう、「バカやろー、お前みたいな淫乱メスブタなんか、金もらったってお断りだ!」くらいに思った方がいい。
 
まあ、お互い別れるときに、こんな言葉は言い合わぬ方がいいよ。男は女の気持ちを慮って口を閉ざす場合が多いが、思慮ない女は言いたい放題、好き勝手を言うのがいるからな。女の一言で自信を失う脆弱ぼっちゃまが多いのは、嘆かわしい。男の子を大事に育て過ぎる。確かに人を平気で傷つける悪態女が増えるなら、それに負けぬよう、男は家庭で逞しく育てられるべき。
  
女も「男遊び」をするようになったなら、「女遊び」が好きな男にとって、益々「女遊び」が活発になろう。して、最後はどちらがフルのかという競争か?オモシロイ時代になったものだ。女が大人しくして男に見初められるのをじっと待つ時代は遠い過去。大地に根を張り、蝶々が来るのを今や遅しと待っていた女が、蝶々を求めてうそうそ歩き回る時代になった。
 
女が出しゃばれば男は引っ込むしかなかろう。今や男は受け身に成り下がったか。その方が好都合と言う男もいよう。ならば、尻に敷かれて余生を送れ。これを逆転というなかれ、男がこのように、女がこのように育った時代の適合だ。逆転と見るのは、男が逞しく、女がしおらしく育った時代の先人の目。今、そして今後も、この流れは止まりそうもない。
 
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昔はどの家庭でも正月前に餅をついた。子どものころに、威勢よく父や祖父が餅をつき、母や祖母が手をそえる光景を尻目に、早く大人になって餅をつきたいと思ったものだ。男が花形主役の餅つきは、今は機械でつく。あるいはスーパーで「サトウの切り餅」で間に合わせる。男が男であった時代、女が女であった時代、そんな「夫唱婦随」の時代に思いを馳せる。
 
高倉健を男の範、八千草薫を女の範とした時代に時計を巻き戻す事はできない。「人は自らの時代を生きる」し、自分は今、「若者の時代を生きている」。新たな時代に真面目(しんめんもく)を発揮することはできないが、水戸光圀的「御意見番」の心境である。価値観の不確実な時代にあって、若者は暴走なのか冬眠なのか、判断おぼつかない昨今である。
 
男はなぜか清楚な女に憧れる。行動派女に憧れる男は主体性のない、女を口説くのが苦手だから、積極的な女が有り難いだけの話。女の価値を知り、女を口説ける女は清楚な女を落とそうとする。これがなにより男の満足度が高い。確かに清楚な女の利点は清潔感に現れる。言葉が粗野でない、白い下着が似合う、貞操観念がしっかりしている。
 
清楚な女は清楚を自覚し、だから清楚に振舞う。自然な清楚もあるが、意図した清楚も身になって行く。セクシーな女と清楚な女と男の好みは分かれるが、セクシーでも上品なら問題ない。下品な女はすぐに飽きられてしまう。座ったときに自然と脚をそろえていたりなどの上品な行動は男にはないだけに、強い異性意識を感じさせてくれる。そして、何よりナチュラルメイク。
 
 
成長と劣化の早い女に男は、「人身御供」を求めるのではないだろうか。「人身御供」的献身、そういう女の悲哀性に男は「守ってやりたい!」の強い保護意識を抱くのだろう。が、女が強いと男は甘える実は弱い生き物なのだ。男を強くいさせるために、女は「人身御供」であるべきか。
 
 

「自制心」

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「自制心」と幸せは強く結び付いていることが分かった。「自制心」で損をすることはなく、目標とそれに向けた準備のための時間管理に他ならない。米ミネソタ大学 Kathleen Vohs教授は、414人の中年の男女を対象に「自制心」の強弱をはかると共に、現在と過去における人生の満足感を問う調査をした。その結果、「自制心」の強い人ほど人生に満足していると判明した。
 
同教授によれば、「自制心」が即刻日々の満足を高めるとまでは言えないが、自分をコントロールすることで不要な争いや問題を避け、好ましくない状況に陥るのを事前に防いでいるそうだ。特に自身の目標達成を著しく阻害する行動に出るか否かというとき、いつも以上に強い「自制心」を発揮できる人が最後に笑うという結果になるのかもしれない。
 
なるほど、「自制心」が突出した能力であるようだ。アリストテレスのアクラシア論では、自制心の哲学的意味を知ることができる。「アクラシア(akrasia)」とは「自制心」がないこと。「自制心」がないとは、ある行為を悪いと知りながら欲望のままにそれをしてしまう性向で、ダイエット中に夜中にケーキを食べる、身体に悪いと知りながらタバコを止められない。
 
イメージ 2「自制心」を欠く行為が哲学的な問題になるのは、「合理的な行為者ならば、自分にとって悪いと知っていることを、自ら進んで行うことはありえない」という想定があるからで、「自制心」を欠く行為はこの想定と矛盾する。ゆえになぜそのような行為が存在するのかという問いに答えることが、合理性の観点から人間の行為を分析する哲学者にとっての課題となる。
 
アリストテレスは「自制心」を欠く行為がいかにしてなされるのかを説明している。その前に重要なのは、「悪いことと知っている」とか、「無知であった」とかを平然というが、「自制心」なき人は「悪いと知りつつ行う」と言うけれども、彼はいかなる意味で知っているのか。自制心なき人の行為が何らかの無知に陥っているなら、無知とはいかなる意味での無知なのか。
 
アリストテレスは、「知っている」や「無知である」という語の言語分析を通じて、「自制心」を欠く行為の現象解明を試みるアプローチである。行為には「知っていて行う」と「知らないで行う」場合がある。アリストテレスは「自制心」なき人を「性急な人」と「弱い人」の二種類に分けている。性急な人は、「すべきでない」という結論に至ることなく、欲望に従って行為する。
 
弱い人は行為に至る前の段階で、「何であれ健康に悪いものは味わうべきでない。しかるに、これは健康に悪い。それゆえ、これを味わうべきでない」と推論する。そしてその段階で、「私はこれを味わうべきでない。でも味わいたい」などと葛藤するが、快楽への欲望が心を占領し、最終的には「これは健康に悪い」という小前提に意識を向けることができなくなる。
 
その結果、「これを味わうべきでない」という結論さえも認識できなくなる。人の欲望はエンドレス。「欲のない人」も、結局欲のないこと、欲のない自己を欲している。人は欲望を燃やしエンドレスに生き、欲が消えればジ・エンドで死んでしまう。「欲」とは禁じられたことに対する反発である。イブもリンゴが欲しかったから食べたのではなく、禁じられていたから食べた。
 
つまり、我々は生まれながらに「禁断の果実好き」なのである。「自制心」のない人の性格的特長とはどんなものか?アリストテレスは「自制心」のない人を、「欲望のせいで理性的認識が一時的に曇ってしまう人」とした。確かにいわれてみるとそうでしかない。欲望によって理性が変動しない人が「自制心」のある人となる。では、「自制心」を鍛えることは可能か?
 
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「自制心」とは自我をコントロールする感情である。気持ちや欲望の赴くままに行動すれば、社会から排除される。それではマズイから人間は感情を抑制して日々を生きている。また、「自制心」は倫理観(モラル・道徳)上に成り立っており、抑制することで犯罪を防いでいる。とはいえ、「自制心」を完璧に保てる人間はいない。しかし、意識によって高める事は可能だ。
 
自制心の強さは先天的ではないはず。そういうものに遺伝的要素はないと考える。人間はモラルに関して「こうあるべき」という一定の水準はあっても、それ以上の部分においては個性が出る。近年、自制心や意思をコントロールする力には限りがあるとした自我消耗説が提唱された。人間はある1つの領域で無理をすると、別領域で自制心を発揮するリソースが減るという。
 
例えば厳しいダイエットをしたりの反動がリバウンド、仕事で難しい課題に何時間も取り組んだりする反動で、以前より酒やギャンブルに興じたり、いずれも自制心を失った結果である。問題を抱えて疲れた脳は自らが欲するものを、たとえそれが、いまどうしても必要なものでなくとも、拒絶することが難しくなるのだ。感情的に不機嫌になるのもこれと同じだと言う。
 
不機嫌と自制心の関係は研究によって指摘されている。ダイエット中の人は概して「怒りっぽく攻撃的」になる(いわゆる「不機嫌なダイエッター」効果)。自分では機嫌よく、礼儀正しくあろうとするが、そのようなポジティブな気分でいることは認知作業を必要とするため、脳は疲れて対処できない。怒りの言葉を飲み込むだけの意志力が足りず、癇癪を起こす。
 
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ノースウェスタン大学の心理学者David Gal氏とWendy Liu氏は、一連の実験結果で、「自制心」の発揮は怒りの抑制を困難にするだけでなく、怒りをテーマにした映画を観たり、怒りに関連する情報について考えたり、怒りの表情を見たりすることへの関心を高めることを示した。即ち、自制的な行動は自我を消耗させるだけでなく、自我を不機嫌にする効果さえあったと考えられる。
 
自分と同年代の大手銀行の支店長が、博多に転勤になり単身を始めた。企業接待などで博多の夜の街に出向く事もしばしばで、九州女の色目使いに何度も腰砕けにを起こすころ寸前で、それでも「自制心」を働かせてよろけないよう頑張ったという。お堅い銀行マンは教育関係者と同様、高い自制心を要求される職業である。長年の職業で培った自尊心も立派なものである。
 
発作的な欲求に対する自制心を鍛えるにはどうすればいいか?自分が良くやるのは、"なびく自分を徹底的に見下げ、蔑み、バカにする"方法だ。「たかが目先の利にガツガツする程度の卑しき人間か、お前は!」と自分を叱咤、あるいは愛想をつかす。他人にこの方法が効果があるか否かは分らないが、自分にはこれが最適だ。「バカかお前は!」の内なる声は結構厳しい。
 
自分を愛すればこその言葉である。自己卑下の甚だしい人間にはダメだろう。自分を愛するならばこそ、自己向上に勤しみたい。「自制心」が弱い人間は自己向上心も弱いし、自分を甘やかせるし、都合のよいように自分をリードしているのだろうから、自分に対する理想も理念もあったものではない。特筆すべくは、「自制心」が高い方が恋愛が上手く行くという。
 
 
「恋は盲目」とは、相手にのめり込み過ぎて周囲が見えなくなってしまうこと。嫉妬、ストーカー、束縛、妬みなどの感情から行動に移ってしまい、相手にも周囲にも迷惑をかけることがある。こういう状況で恋愛は上手く行くはずがない。何故、盲目になってしまうかといえば、「自制心」を失ってしまっているからだ。あまりにも感情を抑制しすぎては恋も恋でなくなってしまう。
 
衝動も大事、抑制も大事。これは自分にだけのみに限らず、相手の衝動や、無理な要求を抑制させるのも男の知性であろう。教師が、警官が、医師が、弁護士が、政治家が、公務員が、人からものを頼まれたりの立場にある人、人を教育したり、人を取り締まったりそういった高い自制心を要求される士業などの人が、自制心の微塵もない行為をするのは残念である。
 
ちなみに、「お前はどうなんだ?自制心はあるのか?」と問われると、「ない!」としか言いようがない。「ない」は自信を持って言える。だから必要な場合、要求される場合は、「自制心」を発露させるよう頑張るしかない。ある人は楽だろうし、困らないが、ない者は試練である。「ない」けれども「ない」通らぬない社会であり、「ない」で済ませられない社会である。
 
過去、様々な局面で「自制心」のなさから迷惑をかけた。責任を取ることも取らされる事もあった。公にならない事もあった。「自制心」など邪魔で無用だからそのようになる。人間は「魅力」や「欲望」に屈しやすいが、いつまでもそうばかりではないし、年齢制限もある。「魅力」に溺れ、「欲望」に負けそうになると、「お前はいい年こいて何やってるんだ?」の声がかかる。
 
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人は晩年の節操が自然と身につく。そのためには若い頃には無節操であるべきかも。晩節を汚す人は、若い頃に真面目で保守的で堅物でハメを外さず、教科書どおりに生きて来た人が多いのかも知れない。そういう人がひと年取ってハメを外したくなるのも分る気がする。一度の人生だ、外すのも良かろうが、若い時もハチャメチャ、年取ってもハチャメチャ。
 
そういう人も居るかもしれぬが、それはもう病気の世界で、自己治癒力がないなら仕方あるまい。死ぬまでやり続けるしかないだろう。「トゥナイト」という番組で山本晋也が流行らせた「ほとんどビョーキ!」という言葉。その山本も、1990年に、厚生省「エイズ撲滅広報委員」に就任後、「人間一滴」や近年は真面目路線に活路を見出している。これも彼の晩節か?
 
その山本晋也には裏の顔がある。当時芸能界で喧嘩No1といわれていた彼には次のエピソードがある。横山やすしとテレビ出演したとき、山本監督(山本晋也の俗称)が、収録中にタバコを吸っているのを見たタバコ嫌いのやすしが、「ワシはタバコが嫌いだからタバコ吸うのをやめてくれ」と言った。それを聞いた山本監督は平然ともう一本タバコに火をつけた。
 
番組収録後に激怒したやすしは山本監督をトイレに呼び出し、「何で吸ったんや?」みたいに山本監督を問い詰めた。山本監督はタバコが吸いたいから吸って何が悪い、止める理由はないと話は平行線。そのうちしつこいやすしにキレた山本監督は、「喧嘩で話をつけよう、表に出ろ!」と息巻き、上着を脱ぎ、シャツの腕をまくりあげた。これにはやすしが折れたという。
 
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山本監督は日大の応援団時代、ケンカ番長として君臨。得意技は頭突きと木刀。キックボクサーの沢村忠が「あの人は本当に怖かった」と言っていた。学生時代からよく喧嘩していたというし、その雰囲気で横山やすしが折れたらしい。まあ、雰囲気と度胸は伝わるもの。一見威勢のいいやすしだが、アレはポーズの一面が大きい。キレるとYOSHIKIもなかなからしい。
 
一発で布袋寅泰をK.Oさせたという。GACKTもNHKの企画でマダガスカルロケに行った際、現地レスリングのコーチを失神させている。喧嘩は「自制心」で押さえる場合もあるが、喧嘩好きの真骨頂は相手に先に手を出させ、水を得た魚のごとボコボコに叩きのめす。しかし、現実的にそんな悠長なことを言ってられない場合が多く、喧嘩は先手必勝が王道である。
 
己の不動の自制心を楽しむのもオモシロイ。必死に説得するセールスマンがどれだけ優秀な説得術や話術を持っているかを楽しんだり、色目使いや思わせぶりで仕掛けてくる女に対し、揺るがぬ自制心を楽しんだりと、なかなか落ちない自分にさすがのセールスマンも女も、いささか立腹気味が見えたり、そういう奴は気の毒だが人を口説く能力は並だ。
 
イメージ 7相手が落ちぬは自分が無能なのに相手に腹を立てるなど滑稽千万。能力不足というのは人格も含めてであり、話術以前に自身の人格の欠陥を治すことだ。営業力も口説き術も人格も含めたトータルな能力だから、口先だけの優秀なセールスマンは存在しない。女が男を口説くのは言葉というより、ネコ撫で声のモモイロ作戦や滲み出る色香、雰囲気などがモノをいう。
男が女を口説くのは話術の部分が大きい。下手な話術に母性本能を刺激されるという女もいるし、面白い・楽しい話術を好む女もいたりと、人さまざまでバラエティーに富んでいるからして、男にはさまざまな引き出しがある方がよい。自制は禁欲にあらず、より「賢いもの」選択するよう自分をモチベートするのが「自制心」。
 
自制の欠けた追求心は失敗の要因となる。ならば、そうならないためのシンプルな防御手段は、上に挙げたような「自制心」を持ち、「より少なく」を追求することだ。ドイツ出身の建築家ミース・ファン・デル・ローエの「Less is more.(より少ないことは、より豊かなこと)」は、さまざまなところで生きている。
 
 

「饗応心」

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「饗応文化」、「饗応の精神」というのはあるが、「饗応心」という語句はない。ないけれども「おもてなしの心」という意味での自分が作った造語として付け加える。「広辞苑」の載せろというのではない。♪もうい~くつね~る~と、お正月~の時節となった。近年はおせち料理も外注になったし、お正月におせちを味わうという事も若い人の間でなくなりつつある。
 
自分なども、お正月におせちを食べたい、食べなければ…、という意識は特にないし、正月から血のしたたるステーキだろうが、スパゲティだろうが何ら違和感はない。元来、決まったことに沿うのが好きではないから、押し付けられると「なぜ?」という疑問が沸くようだ。大概の人は、「風習だから」、「文化だから」と答えるが、さりとて納得を得る答えではない。
 
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外注のおせち料理の高いことといったら、ぼったくりもいいことだし、そこも気に食わない。なんやかんやと飾れば豪華に見えるが、特別美味しいわけでもないだろに。といえば、「おめでたいもので味は二の次」といいそうだ。そもそも年が明けるとなぜにめでたいのかがよく分らない。めでたい気分になどなったことがないが、「時節の挨拶だから」というのだろう。
 
理由も、理屈も分っている。新年がなぜめでたいのか?は、誕生日がなぜめでたいのか?と同じ理屈だ。病気もせず新たな年が迎えられたことを喜ぼうではないかと。お誕生日もそういうこと。ではでは、病気で寝込んでる人はそれでもめでたいのか?と突っ込まれると、「死なないで病気でいれることを喜ぼう」という答えを用意するしかあるまい。
 
現実には喪中ハガキもあるわけだ。正式には喪が明けるとは1周忌が終わるまでの期間をいうが、昨今は七十七日(49日)までは身内の祝事等は謹んでいる程度が多い。飲み会をしない、旅行等は慎むとか、必要以上に気にすることはないだろうが、こういう感覚も人によって違うもの。通夜とてしんみりより大騒ぎしてまえ~と言うのもあるわけだから。
 
死者は楽しいこと、大騒ぎが大好きだったという理由なら、それを死者が喜んでいるだろうと思えば充分理に敵っている。アレはダメ、こうでなければダメというのを"格式ばった"というが、老子がもっとも戒めている。仏滅に結婚式を挙げれば安いからと利用客も多い、友引の葬儀はよくないとかいうが日本だけの暦は、日本だけでしか通用しないのもローカルな話。
 
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気にしませんね~、自分は。そういった因習・風習は文化として守るべき価値のあるものもあるが、どうでもいい事もあるわけだし。キチンとまもるのが正しい行い、常識人とも思えない。守って悪いとはいわないが、守らなくて悪いともいわない。「守るのが良い」となると、必然的に「守らないのは悪い」となる。バージンロードをドレスと袴ではダメと言われた。
 
そんなのこっちの勝手だろ?「非バージンがバージンロードを歩いてはいけない」などと言わんだろ?どこの教会も…。厳格にやってたら、誰もバージンロードなど歩けないご時世だし。もっともカトリック教会では非バージン確定の再婚は、教会で挙式できない。理由?誓いの言葉にあるだろう。「死が二人を分かつまで愛を貫く」だから、神との契約違反になる。
 
よって、市役所で結婚式挙げる人が多い。もっともバージンロードなんてのは日本人が作った和製英語で、こんな言葉をいうのは日本人だけ。結婚式は新郎・新婦が自分たちの門出を祝って、友人・知人を招待するわけだから、ケチらないでもてなしをすべきもの。そうはいっても身の丈に合ったものでなければならない。それと招待客が「お呼ばれされる」は間違い。
 
イメージ 4「お呼ばれする」が正しい。なぜなら、「呼ばれる」という言葉自体が受身であり、その上さらに、「される」という受身言葉をつけるのは変である。ゆrに「お呼ばれする」で行きましょう。正月も誕生日も取り立てめでたいとは思わない(特に女性のアラサー、それ以上は深刻か?)が、結婚はめでたいことだ。挙式がめでたいのではなく、男と女が一緒になるそのことがめでたいこと。
 
理由は?人類の繁栄の証しだからだ。楽しむための「性」も大事だが、「生殖」の「性」なくして人類は存続できない。道理重視の自分は、結婚は大事であれ、結婚式になどに金銭かけるなと思ってしまうが、招待する以上はもてなしの気持ちが大事。お呼ばれといっても飲み食いだけではないが、挙式上の料理の味の良さは印象に残るものだ。見てくれだけで味がダメの処はある。
 
「饗応」で浮かぶのは、赤穂浪士討ち入りの要因となった、「勅使饗応役」。天皇の使者をもてなす大役を浅野長矩が任ぜられたが、指南役の吉良義央との確執が一大事件となった。12月14日の討ち入りは知っているが、江戸城松の廊下における刃傷沙汰は3月14日であった。長矩の切腹も同日3月14日であり、大名が即日切腹というのは、極めて異例であった。
 
次に浮かぶのは田中角栄元総理大臣在任中の偉業とされる「日中国交正常化」である。2年前の2012年9月29日は、日中国交正常化の40周年の年であったが、振り返ってみてアレはどうだったのか?国交正常化は、多くの問題が棚上げされて締結されたが、日本人の棚上げ論の小ズルさに比べて、中国人のいう棚上げ論はいかにもしたたかで戦略的である。
 
中国人は狡猾で、それがあの広大な国土を一つに束ねる源泉でもある。赤い国に赤子の手をひねるが如くあしらわれた「日中国交正常化」は、幻想から幻滅になった。当時、中ソ関係は冷え切っており、国境線沿いには両軍合わせて2百万の軍隊が睨みあっていたそういう時期にあって、経済面の立て直しには、是が非とも日本の協力が不可欠だと周恩来は見ていた。
 
日本との経済関係を強く切望した中国に、扇子片手に乗り込んだ田中角栄である。田中首相一行は9月25日に北京入りした。30度を超える暑い日であったが、迎賓館の部屋は暑がり田中の好きな17度に設定され、田中の第一声は「ああ、涼しくて助かる」だった。部屋の隅には田中の好物台湾バナナ、富有柿、木村屋のあんパンがさりげなく置いてあった。
 
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「これは大変な国に来たな」と首相側近は驚いた。中国人の好客精神(もてなし精神)には多くの逸話がある。「英国人は席を譲ることで争い、中国人は伝票をもって争う」というように、自分が驕るといってきかないのが中国人。日本では割り勘でそれぞれが自分の食べた分を払うことが多く、おごったり、おごられたりもあるが、中国ではほぼ毎回だれが驕る。
 
「割り勘」のことを中国では「AA制」というが、「AA制」の意味は、Aはアルファベットの最初の文字で、「最上位の人」の意。AAで最上位が2人いることを表し、この2人が対等であるため、支払いも対等に行うという意味から来ているといわれる。中国人にとってメンツが立たないのだろう。近年は中国でも学生を中心に「AA制」が増えているようだ。
 
『三国志』には、客人をもてなすために妻を殺して料理した話があるが、男は劉備を匿う猟師の劉安である。呂布に破れた劉備が曹操の下へ逃亡の最中、劉安に出会う。劉安はもてなしの肉料理をふるまったこところ、劉備から「何の肉か?」と尋ねられ、狼の肉と答えた。翌朝、劉備は厨房で腕の肉を切り取られた女性の死体を発見して驚き、劉安を問い詰めた。
 
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劉安は食べ物が無かった為、妻を殺してその肉を提供したと話した。劉備は悲しみにたえきれず涙を流したという。劉備は共にするからついて来いと誘ったが、劉安は年老いた母を残して御供するわけにはいかないと別れを告げた。後日、劉備が曹操に会ってその経緯を話すと、曹操は立派な行いと称え、孫乾を使者として劉安の元に使わせ、金百両を与えた。
 
この逸話は日本人に共感を得れないと、吉川英治は『三国志』執筆の際に「鉢木(はちのき)」を引き合いにしてこの話の解説をした。「鉢木」は能の演目で、佐野(現在の栃木県佐野市)に住む貧しい老武士、佐野源左衛門常世宅にある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、暖の薪がないからと大事にしていた鉢植えの木を切って焚いてもてなしをする。
 
栄華を誇った佐野源左衛門常世も、一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらば馬に鞭を打っていち早く鎌倉に駆け付け、命懸けで戦う所存であると常世は僧に語るのだった。その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けるが、あの僧は実は前執権・北条時頼だったことを知る。時頼は常世に礼を言い、言葉に偽りがなかったのを誉めて恩賞を与える。
 
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名作「鉢木」は、鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしているが、作者は観阿弥・世阿弥作ともいわれるが不詳である。「武士道」を讃えるものとして江戸時代に特に好まれた演目である。もてなしの心が大事なのは、食べ物の味は料理人の腕だけでは決して決まらないこと。もちろん、店の雰囲気や食器類、サービスにも左右される。
 
が、料理に込められたもてなしの心は伝わるものだ。素材や包丁捌き盛り付け、飾りつけ一切がもてなしの心として感じられる。人をもてなす料理といえども、人をもてなす本質はやはり人だろう。夫婦も恋人も相手をもてなす心に長けた人、そうでない人はいる。相手の心に土足で入り込もうとする人は論外である。「饗応心」とはなんであろうか?
 
心豊かな時間を過ごすことがもてなされる側の満足であるなら、それを提供するのが「饗応」の本質だろう。今どきの若い女性が求めてやまないもの、それはいうまでもない「素敵な出会い」だ。若い、若くないを問わないかもしれない。問題があるが、既婚、独身を問わないかもしれない。ネットのサイトには既婚者の相手募集がものすごい数にのぼっている。
 
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「素敵な出会い」とは何か?造語的にいえば "時感" ではないかと。時間ではなく時感。つまり充実した時間感覚、心豊かな時を過ごすというのが "時感" 。女性にとって素敵な男性との出会いほど魅了されるものはない。が、そこで大事なのは、その女性も相手に時感を与えてるかどうか。自分のみならず、相手にも心豊かな時間を過ごして欲しいと思っているか? 
 
求めるばかりが主体になり、与えることをおろそかにしていれば、それは当然にして求めるものにも反映する。イケメンで背が高くて優しくてお金持ちでかまってくれる人が素敵な人のイメージがあるが、そういう素敵な人は少女趣味的ではないのか?男から見る男の素敵は、「志を持っている」、「トキメキや意外性でサプライズ好き」、「流されない芯がある」
 
「胆力、行動力に裏打ちされた力強い言葉をもっている」ではないか。「いい人」なんて男は実際はつまらない。なぜなら、人の意見に抗うことなく、誰からも好意を持たれ、どこにでもあるようなマジメで無難な思考タイプは、一昔前なら良かったかも知れない。マジメで無難だけを提供してくれるのではつまらなそう。相手に積極的に関わろうとする意欲が大事。
 
いうまでもない「もてなしの心=饗応心」は、能動的である。決して受身ではないし、相手に心豊かな時間を過ごさせよう、楽しませようを体に染み込ませていることだ。「美人は眺めているだけでいい」というが、それは嘘だ。「美人は3日で飽きる」と、この言葉が物語っている。美人は自ら美しいのだから、何もしなくてもいいし、重宝されるし、需要がある。
 
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そうかもしれない。が、いかに美人といえども飽きたらそこらのブサイクと同じこと。相手を飽きさせない感受性は、男も女も大事なことだ。それを「饗応心」と言っていいだろう。特に男はナイーブではダメだ。ナイーブとは「お人好し」の訳だが、スラング的には「バカ」という意味で使われる。アメリカ人に「お前はナイーブだ」と言われたら、頭おかしいと言われたと自覚すべし。
 
日本が相も変わらず諸外国とナイーブ外交を続けているが、相手からみると「精神病」と見られているはず。いうまでもない、素敵な相手を見つけるためには、自らも素敵になること。見てくれや外見磨きにお金をかけるばかりではなく、「内面美人」を目指すことだ。中高生が、「ウチ、性格悪いよ」と言うのはいいが、アダルトエイジでそんなこと言ってるのはダメ。
 
悪いと思える性格(嘘つき、妬み、僻み、横着、悪口好きなど…)は、人間関係の致命的欠陥だから、努力して直すしかあるまい。まあ、誇るバカもいないだろうが。もてなしの心を大事にすれば、きっと相手に愛されるはず。但し、相手がワガママ、自己中でない場合に限るで、そうであるならしこたま利用されるだけ。自己中はダメ。自己中人間と共同生活などできるはずがない。
 
自分を変えるのは自分しかいない。欠点を改めるのもいいが、それほどの欠点でないなら長所を高めるほうがいい。欠点は改めたところで長所にまでは至らないし、それなら長所を伸ばせと…。子どもの苦手に躍起になる母親は多いが、遊び心満載の父親の感性は、「好きなことをやれ」と言いたいもの。「ゆとり教育」に批判は多いが、かつてないアスリートを生んだ。
 
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「道徳心」

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小中学校の国語、社会、理科、算数という正式教科に加えて「道徳」を教科に格上げする試案が、文部科学省の有識者会議でまとまり、2015年度導入を目指している。これまで道徳は正式な教科ではなく、週一回程度道徳の授業を行うことになっているが、決まった教科書はなく、現在は文部科学省が作成し配布している「心のノート」を活用している学校が多い。
 
なぜ教科化が言われるようになったのか、その裏には子どもの心の問題があった。いじめ対策、マナーや道徳を重視し遵守する気持ちをゆっくり育てるため提言された。さらに背景にあるのは、重大な少年犯罪が多発したこと。心の教育の重要性が注目されるようになっていた。子どもを叱れない、褒める事も苦手という親の家庭における教育力の低下も提言された。
 
したがって「道徳」教科化の重要性は、いじめ、犯罪だけでなく、教育は学校へ任せっきりという家庭の問題も絡んでいる。が、「道徳」教科には、一つの価値観の押し付けにつながることも危惧されている。さらに「道徳」を点数評価することは、目に見える行動を重視することになり、教員の前でだけいい子になるような、姑息な子どもにさせない配慮もいる。
 
さらには、教科になって週1回から週2~3回に増えたとしても、教員が何をどのように教えてよいのか分からなければ、成果があがるとは思えない。「道徳」教科化は教員の資質や道徳的指導力の問題を抜きに語れない。教員は教職という免許を授かった労働者であって、決して教育者ではないはず。そんな彼らが教科としての「道徳」を教えられるのか?
 
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下村博文文部科学相は「国として、どこでも使える教材をつくる」と述べているが、これでは道徳教育は窮屈な型にはまるし、かえって矮小化する懸念がある。「道徳」を上から押しつけて、果たして本当の効果は得られるのだろうか?先進諸外国にあっても、道徳教育を教科として取り上げ、国家の主導で行われている国はほとんどない。なぜ、日本で?
 
道徳教育とは良心の関わる問題であり、国家が道徳を統制することへの警戒感がある。内藤朝雄・明治大准教授(社会学)は「皆との同調が強く求められる環境の改善なくしていじめはなくならない。むしろ、子どもの内面の善悪の評価をすることによって、『悪い』とされた子へのいじめが正当化されることにもなる」とみる。(朝日新聞11/12「道徳、教科に格上げ案」)
 
早稲田高等学院の会津八一は、「修身を教えられるのは神様か仏様たちだけである。欠点だらけの自分には修身などというものを教える資格はない。」と言った。いかにも明治男の気骨と自らを飾らぬ誠実さが読み取れる言葉だが、この言葉そのものこそ「修身(道徳)」である。人間の「徳」とは、己を飾らず、純粋な、ひたむきな、会津八一のような人ではないか。
 
 
イメージ 3教科には教材が必要だが、教材を上手く使える教師も、ぜんぜんダメな教師もいよう。人に何かを教えるのは人間の一つの能力だから、能力不足の教師がいるのは仕方がない。が、上手く教材を使えて、巧みに道徳を教える教師もいるはず。そこに期待してはいけないのだろうか?教えられたことから自己教育力を咲かせ、漲らせる子どもがいないとは言えない。ホラー映画を見て影響され、感化されるものもいよう。誘拐映画をヒントに子どもを誘拐した犯人もいた。道徳教科化反対意見の前に、カントの「道徳性の最高原理は何か」、「普遍的な道徳法則は存在するのか」を思考する。道徳とはあるものの「価値」である。ならば道徳法則は人の数だけありそうだが、カントは1つしかないとした。それが「理性」である。
 
「自由とは何か?」についてカントは説明する。我々は動物のように、喜びや満足や欲望を追い求め、苦痛を避けようするが、それは本当に自由に行動してはいないとカントは言う。なぜか、実際には私たちは欲望や衝動の奴隷として行動している。咽が渇いていた時に、自販機からコーラを選んだとする。それは自分の自由意志と思うだろうが、実はそうではない。
 
喉の渇きという欲望やCMによりつくられ、操作された欲望に従っているに過ぎない。決して自分の自由意思で選んだわけでもない、つくってもない支持に従っているのだ。我々はどのように行動すれば周りからの刺激や餓え、欲望、願望の支持に従うことなく、自分の意思を決定することができるのだろうか。それに対するカントの答えは以下のようである。
 
自由に行動することは自立的に行動することである。自立的行動とは自分自身で与えた法則に従って行動することであり、食べたり飲んだりする欲望、レストランで食べ物を選ぶ欲望といった、物理的な法則や原因と結果の法則に従うことではない。自立の反対は何か?他律である。他律的に行動する時、私たちは自ら選んだわけではない本能や欲望、傾向性に従っている。
 
自律性としての自由をカントは強く主張した。これがカントの考える自立としての自由であるなら、彼の自由と道徳性の概念のつながりが見えてくるが、まだ答えの出ていない問題は、「何が行動に道徳的価値があるのか」である。カントはこう考えた。行為の道徳的価値は動機で決まる。そして重要なのは、その人が"正しい行いを正しい理由ですること"である。
 
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善意はその結果や成果のために良いものになるのではない。それ自体が良いものなのだ。最善の努力をもってしても、善意はそれ自身が全き価値を持つものとして宝石のように光り輝く。小中学生の教科としての道徳でカントは難しい。もし、"いじめ"をなくするために教科道徳の教科書に何が記されるべきなのか?その前に、いじめ自殺した子どもがいたとする。
 
自分が自由な立場で、誰と何を話したいかを考えた。いじめた加害少年?クラスの教師?学校長?クラスの級友?本人?(これは無理)、そのどれでもない。真っ先にいじめ自殺をした子どもの親と話したい。次いでいじめた子の親。「いじめられても死ぬな」とか、「いじめられたらやり返せ」とか、そんなことを道徳の教科書に書くことだけは何の意味もない。
 
なぜなら、いじめられる子、いじめる子、どちらも問題児であるからだ。つまり、いじめられる子は感受性が繊細、いじめる子は感受性が鈍感だから乱暴になる。どちらも同じ程度に心が傷ついて育ったんだろう。そういう根本的な問題を外して、教科書に上のことを記しても屁にもならない。では、誰が彼らを傷つけたんだ?言うまでもない彼らの親だと思う?
 
だから親と話したい。自由な立場と言うのは、このいじめ自殺を解決するとかではない。解決も何も死んだものは生き返らない。原因は双方の親が自分が子どもに施した教育・躾から理解したらいいこと。自分が親と話したいのは、もっとも事件の重要な加害者と被害者を作った張本人としてである。親の育て方が悪いとか、そんな唐突なことではないんだよ。
 
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冷たくしたとか、勉強の出来・不出来を叱ったとか、親の何らかの原因を聞くではなく、子どもというのは育つ過程において、親との関係性の中で傷ついて行くものだから、親と話してみれば親の事が大体分る。子どもにとっては親は「宿命」である。太宰も三島も実母から引き離され、惨憺たる幼児期を送った。それが狂気と独創を生んだかは分らない。
 
しかし、現実的には狂気と独創を獲得し、刻苦学問をして素晴らしい芸術家になった。それで報われたか否かは、彼らにしか分らないが、彼らは「傷ついた子ども」のまま自らの命を絶ったように思える。いじめっ子、いじめられっ子の傷ついた心を他人の誰が何をいったところで効果はないだろう。彼らの親が自らの責任で腹を割って話し合い、傷を修復することだ。
 
死んだ子にはなすすべもないが、賠償請求もいいけど、どのように乳幼児期から接したかをつぶさに自問しながら手記でも書くべきである。神戸連続児童殺傷事件の加害者である酒鬼薔薇聖斗こと少年Aの親がいみじくも著した『少年A この子を生んで』のような、それが痛恨の手記であったとしても、いじめ被害者の親にも痛恨の何かが存在するのではないか?
 
イメージ 6少年Aの両親は、息子が逮捕された6月28日から3ヶ月近い9月18日に鑑別所に面会に訪れた。そこで父親が、「誰が何と言おうと、お前はお父さんとお母さんの子供やから、家族5人で頑張って行こうな」と声をかけたその時、「帰れ、ブタ野郎」の罵声が彼の口から飛んだ。「帰れーっ」、「会わないと言ったのに、何で来やがったんや」火が付いたように怒鳴り出した。
 
「そして、これまで一度として見せたこともない、すごい形相で私たちを睨みつけました。」、「ギョロッと目を剥いた、人間じゃないような顔と言うのでしょうか。あのような怒りを露わにし、興奮した息子を見るのはAを生んでから初めてのことでした。」と、このやり取りを文字で追うだけで、Aの親に対する鬱積が伝わってくる。以下も母の手記の要所。
 

・Aが母親である私の愛情に飢え、怖がっていたことは、あの子の口から鑑定人に語られていました。

・Aが小さい頃、私はあの子が弟を泣かしているのを見て、「泣いたらやめなさい」とお尻をぶっていました。週2、3回だったかもしれません。

・Aは、私がAを嫌っているから、叱ったと思っていたようでした。

・私の母、Aにとっておばあちゃんは、Aをよくおんぶしていました。

・母は腕の力が弱っていたので、いつも背負っていたと思います。

・私は肩凝り症だったので、Aをおんぶした記憶はあまりありませんでした。

・あの子が温もりを感じたのは、おばあちゃんの背中だけ。
 
親が子に「道徳心」を植付けようとしても上手く行かないのは、親は自分の敵だと思うからで、逆に味方だと思えばそれほど苦労はない。いじめに対する教師の無能ぶりはよく指摘されるが、いじめの当事者に教師が対処するためには、それこそ心して対処しなければダメだ。教師がいじめっ子を叱ったくらいで、何かをやったと思ってる教師はオメデタイ無知者である。
 
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小学校高学年、もしくはそれより上の子どもが、教師に注意されたくらいで止めるはずがない。次なる手段は「センコーの分らぬようにやるぜ!」そういう楽しみが沸くだけだ。いい教師になろうとするな、いい親になろうとするな、最近はそういうことが大事なんだなという気がしてる。子どもに命を取られる親は、大概、いい親を自認しているのではないか?
 
親がどんなに自分を良く見せようと作ってみても、子どもは裏の顔、親の隠れた実態、自分勝手さ、傲慢さをちゃんと見抜いている。そんな親がアレコレとしたり顔で子どもに命令しても聞く気にもならないのでは?教師も同様だ。「いい先生に思われよう、生徒に好かれよう、いい授業をしよう」などと思う教師は、いい教師とはならない。それは何故か?
 
子どもは決していい教師、いい親などを求めていないのに、親や教師の幻想よ。子どもの求める親を意識する必要はないが、せめて子どもと同じ水平の目線で自らを見てみると、境界線が敷かれないのではないか?「ツマラナイ・タイクツ」な道徳の時間を「タノシク・オモシロク」するには、教材、題材よりも、「タノシク・オモシロイ・センセイ」であることに尽きる。
 
子どもは素直で正直な生き物。「ツマラナイ・タイクツ」なものは気持ちが逃げてだから退屈なのだが、「タノシク・オモシロイ」ことには目が輝く。親とて同じこと。小学生の頃、道徳の時間が大好きだった。理由は、つまらない国語や算数の時間に比べて、ただ騒げるというだけの理由。子どもはじっとしているのが如何に苦痛であったかが、分ろうというものだ。
 
イメージ 8だから、道徳の時間に何をやったかなど目くそほども覚えていない。国語も算数も社会も理科も覚えていない。ただ、小学一年生のときに、「力」という字を「ちから」と教わったが、「力道山の力(りき)」だとしつこく食い下がった事が語り草になっている。教師は自分を問題児としたが、問題視する以前に説得能力がなかったことの証明だろが、このボケ!
「力道山」の「力」が間違ってるんか?と、こういうやんちゃな子どもは教師に嫌われるが、教師の無能を棚に上げた、素直な「いい子」造りの犠牲者たちがきかん坊である。きかん坊とは、言うことをなかなか聞かない、勝ち気でわんぱくな子で、反語はおとなしい子か。おとなしいは大人らしい子から出た言葉。性質や態度などが穏やかで従順であつかい易い子。
 
さて、道徳の教科化が上手く機能するのだろうか?道徳をきちんと教えられる「道徳心」の希薄な教師なら大丈夫と思う。道徳心のないからこそ、理想の「道徳心」を掲げられるし、客観的に眺められる。読んで字のごとし「徳」への「道」だが、「道徳心」は希薄でも、変態教師は論外。人間に対する普遍的な「徳」というものを、教師が理解することが先ずは第一歩。
 
「徳」の理解は難しい。教えるのではなく、主体的に模索し、身につけるしかないものだから、教材は『日本むかし話』の「こぶとり爺さん」、「花咲か爺さん」、「傘地蔵」、「舌きりすずめ」を題材に、子どもに討議させたらよいが、「いい」とか「悪い」とか、「欲」だとか、「優しい」とかの言葉を簡単に出さないで、もっと味付けを教師が考えるべきだが、そんな教師いるか?
 
 

「無関心」

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「無気力・無関心・無責任」を称して三無主義と言われたのは1970年頃だった。これにもう一つ「無感動」を加えて四無主義とも言われた。さらには「無作法」を加えて五無主義と広がった。そうして自己中者の多い昨今においては、「無神経」を加えて六無主義と言えなくもない。「無気力・無関心・無責任・無感動・無作法・無神経」、これら六冠を全部所有できると現代人?
 
とはいえ、まともな社会生活は無理だろう。さらに最近の女性の「無節操」さには呆れてしまう。これをプラスして七無主義だ。皆が皆そうではないからいいものの、こんな人間ばかりでは国がもたないし、中国や北朝鮮・韓国などは、国家自体が無節操である。いつまでも大東亜戦争の責任を日本に押し付ける卑しきたかり体質は、蛮族としかいいようがない。
 
戦争史観は様々あるが、大東亜戦争は義戦であろう。「白人(欧米)帝国主義諸列強のアジア侵略への予防的先制」という根底においてである。そのことを棚にあげての朝鮮・中国の日本攻撃は何をかいわんやで、確かに「靖国」問題は日本の二枚舌外交からして、当然の帰結ともいえる。国内的には「日本国の名誉ある戦死者の英霊を祀る場所」となっている。
 
が、対外的には数十回に及ぶ謝罪外交で戦争否定を繰り返してきた。靖国参拝は、それ自体が公的な儀式であることは言うに及ばずで、その儀式の意味するとことは、「当該の戦争に公的に肯定去るべき要素が目立つ程度あった」と認めるところである。そうした戦争肯定を日本は「対内的」に認めてきたにもかかわらず、こういう二枚舌外交こそが問題であった。
 
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あの戦争を全面的に「肯定」せよだの、「否定」せよではなく、戦争のどの次元を、どの局面を、どの要素をいかなる意味で肯定し、もしくは否定するという国家的歴史認識が鮮明になされていない。それでこそ、中国や韓国のいう「全面的に否定せよ」、「謝罪を続行せよ」、「靖国参拝を停止せよ」との要求に対し、正しい歴史認識に基づいて対応できる。
 
おひとよしで「外面」を良く見せるのが大好きな日本人の心理を、巧みに利用しようとする野蛮国家に対する戦略の無さが招いた結果である。終戦70年にもなろうかというのに、これほど戦後処理が長引く国家はどこにもない。どれだけ日本にダメ政治家がいたかということだ。人間にとって無関心であった方がよいと思えるものがあるとすれば自身の「寿命」だろう。
 
自身が動かしがたく、運や天に任せるしかない。寿命に無関心というのと健康に無関心とは違う。自分は、肝臓の数値が高いのでタウリンと亜鉛のサプリを常用しているくらいで他はなにもない。他に「無関心」であるべきものを思考してみたが特におもいつかなかった。興味のない事と「無関心」は違うだろうか?「興味」と「関心」の語句から答えを探る。
 
「興味」と「関心」は、分けて使わなければいけないものでもない。「政治に興味がある」、「政治に関心がある」、「ゴルフに興味がある」、「ゴルフに関心がある」と、同じようなものだ。小林秀雄という不世出の批評家がいた。近代批評の確立者と言われる彼の批評は、音楽から哲学、文学、科学、時事、などさまざまに及び、さまざま引用もされている。
 
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小林は批評の天才であるが、批評を文にする言葉の天才でもある。到底言葉になど表現し得ぬ人間の深層を表現しようと努め、素晴らしい文を生み出す。彼の批評を目にすると、臓器が抉り取られるくらいに心臓の鼓動が激しくなる。どうしてこういう域に達するのか、どうしてこういう言葉を発露できるのか、あまりに当たり前すぎる言葉が、なぜに新鮮に響くのか。
 
事物を深く思考する点において小林は突出しているが故に批判もあった。中野重治は、『新潮』昭和11年4月号に発表した『間ニ月ニ九日』で、「分らない言い廻わしでなしには小林は何一つ言えない」などと扱き下ろす。坂口安吾も小林の影響を受けた一人で、誰にもまして小林を評価する安吾も、自著『教祖の文学 小林秀雄論』で小林を辛辣に批判する。
 
「生きた人間を自分の文学から締め出してしまった小林は、文学とは絶縁し、文学から失脚したもので、一つの文学的出家遁世だ。私が彼を教祖というのは思いつきの言葉ではない。(中略) 彼はよく見える目で物を人間をながめ、もつばら死相を見つめてそこから必然といいものを探す。彼は骨董の鑑定人だ」。小林は批評家ゆえに恨みも買う。以下は小林の言葉。
 
 
・不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか。

・およそものが解るというほど不可思議な事実はない。解るということには無数の階段があるのである。人生が退屈だとはボードレールも言うし、会社員も言うのである。
 
・自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ。最も逆説的な自己陶酔の形式だ。
 
・誤解されない人間など、毒にも薬にもならない。
 
・見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。
 
・考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。
 
・常識は、社会生活の塩なのだ。
 
・美しい「花」がある、「花」の美しさというものはない。

イメージ 4安吾はこのように言う。「"美しい花がある、花の美しさというものはない"という表現は、人は多いが人は少いとは違って、これはこれで意味に即してもいるが、小林に暖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思いこんで取り澄している態度が根抵にある」。確かに小林には論理的飛躍があるが、読んでいて面白いし、「言葉が芸術になりえる」ことを教えてくれる。
 
 
批評に「文体」という個性を導入した小林である。そこが小林の無比なる点であり、安吾のいう「曖昧さを弄ぶ」とまでは言えないにしろ、少なからず言葉の曖昧さを肯定的の捉えることは小林にあった。「気のきいた表現に自ら思い込んで取り澄ましている態度」と言う批判についても、小林が批評に文体という問題を導入した先駆者としての表れでしかない。
 
小林秀雄と坂口安吾が対談したのは昭和23年で、安吾の『教祖の文学 小林秀雄論』が世に出た一年後であった。対談の中で小林は4歳下の安吾に対し、「僕は君の小説は一種の批評であり、エッセイだと思う」と述べている。小説の中に批評があるという点で、小林は安吾を評価した言葉であろう。そんな二人が一致した意見を持ったのが以下のところである。

安吾 やっぱり生活を賭けるということがなくちゃダメなんだろうね。
小林 ダメらしいですよ。

生活を賭けるというのは、「無関心」の対極だ。無関心で生きていけるほど社会も生活も安易で便利になりすぎている昨今だが、煩わしい人間関係だけが生きて行く唯一の障害なのか。他人に無関心を装い、人を風景のように見据え、双方向コミュニケーションを忌避する生き方を強いる人は、見方を変えると社会からそれらを強いられている。小林は小説を書けなくなったと言う。
 
「僕なんかが小説を書けなくなった、その根本理由は、人生観の形式を喪(うしな)ったということだったらしい。例えば恋愛をすると、滅茶々々になっちゃったんだよ。こんな滅茶々々な恋愛は小説にならねえから、あたしァ諦めたんだよ。諦めてね、もっとやさしい道を進んだ――のか何だか判らないけど、もっと抽象的な批評的な道を進んだのだよ。
 
抽象的批評的言辞が具体的描写的言辞よりリアリティが果して劣るものかどうか。そういう実験にとりかかったんだよ」と自己弁護を述べている。小林のいう"人生観の形式"というのは分らぬでもないが、安吾のいう文学の多様性を小林は、"具体的描写言辞"と理解しているのだろうか。安吾は『日本文化私観』の中、「家に就いて」でこのようなことを書いている。
 
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「叱る母、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると叱られてしまう。人は孤独で、誰に気がねの入らない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういうところから生まれてくるのだ、と僕は思っている。(中略) だから文学を信用することが出来なくなったら、人間を信用することが出来ないという考えでもいる。」
 
まるで小林に対する当て付けのようだが、これが書かれたのは小林との対談の6年も前。いかに毎日を遊びほうけて自由であるように見えても、人は自由にはなり得ないというところに安吾は立脚している。小林は、「人生観の形式を喪った」といいながら、実は形式から脱するのを欲したのではないか。小林とて人間が完全自由になりきれないくらいは知っている。
 
「所変われば品変わる」ように人が変われば見方も変わる。『小林秀雄の流儀』を著した山本七平は次のように言う。「小林秀雄という人がいた。二十余年前、その人の生き方の『秘伝』を盗もうとした。いや、盗んだと信じ、結局、その生き方を生きて来たと思えばもう十分である」。これは日本人に辛い山本が、日本人に与えた最大級の賛辞だろう。
 
続いて山本は、「人がもし、自分に関心あることにしか目を向けず、言いたいことしか言わず、書きたいことだけを書いて現実に生活していけたら、それはもっとも贅沢な生活者であろう。(中略) 私が小林秀雄に見たのはそれであった。そして私にとっての小林秀雄とは、耐えられぬほどの羨望の的であった」。小林への羨望は多くの著述家の共有の思いであろう。
 
イメージ 7山本は小林を自由とは言っていず、贅沢と表現した。言いたいことを言い、書きたいことを書き、それで生活していけたらの「生活」とは、「糧」という意味もある。まあ、糧を得なくても楽しいが、贅沢かどうかは分らないが心は豊かでいれる。『地獄の黙示録』の記事で述べた、カーツ大佐の最後の言葉、「恐怖だ、恐怖だ」は自由との引き換えの死への恐怖。毎日釣りだの酒だのゴルフだのと好きなことをして遊んで暮らしていけたところで、会社や家庭から解放されたところで、人は完全自由にはなれない。毎日遊んでいれば、遊びそのものに特殊性がなくなり、楽しくもなんともなくなるだろう。いつでも使える金がわんさかあっても、決して楽しくないように…。スーパーの特売チラシを眺める生活の楽しさもある。
 
苦があってこそ楽が価値をみる。死や疾病の恐怖があるから自由を感じる。楽とか自由ばかりなら、世界中が水になっただけだ。不老不死の薬なんか求めるものじゃない。いつまでたっても死なない人間ほど退屈なものはない。苦に感謝、辛さに感謝、寿命にもに感謝をと思うべきではないか。確かに死は嫌だが寿命は絶対的なもの。だから「死ぬまで生きよう」となる。
 
『世界人権宣言』の第一条に、「すべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である」と書いている。が、これは嘘だ。自由でもなく、尊厳とも無縁に暮らしてる人は世界のあちこちにいる。今夜食べるものに窮する人もいる。だから不平をいうのか?不満をいうのか?本当に不自由な人は不満をいう言葉すら持たない人たちだ。
 
人が生まれながらにして不平等なは当たり前の事。運命にいちいち文句は言わぬ方がいい。運命の不平等に立ち向かう楽しさ、それを「美」と自身に言い聞かせたらいいのではないか。「美」は自分で選択可能な世界観だから、「醜」とて「美」に持っていける。物質的に満たされた幸福を「醜」、何も持たぬ気軽さを「美」とする事もできる。そういう自由は供与される。
 
「真」を見ることに臆病のまま、「美」を生きることはできない。「真」から顔を背けないで生きたらいい。できるか?できると思う。ただし、「真」への到達には勇気がかかせない。勇気とは完全でないにしろ自由な思考、拘束を廃する発想がいる。それを持てば可能だ。勇気は平和の敵となるのか?不倫をしたいが勇気がない。それは平和を壊すからだろう。
 
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敵と見るならそうかもだが、それを壊さねば自由は得られない。自由は「制度」によって得られるものではない。本当に自由を望むなら結婚しなければいい。結婚した以上自由は制約を受けるのは道理であるが、禁止されれば反抗したくなるのも人間だ。自由の制約に甘んじる心掛けは立派なもので、それは自制心の強い人。多くの凡人はそれが出来ないようだ。
 
自由は我慢か、やるか、どちらかしかない。「やる」なら責任が発生し、罪と罰の関係となる。「儀礼的無関心」という用語は、同じ社会的状況に単に居合わせているだけの人々の間で行われる礼儀正しい振る舞いをいい、夫婦にだって存在する。もっとも夫婦が無関心になるのは仕方がない側面もある。映画『うなぎ』の妻は、夜釣り好きの夫に弁当を持たせるよい妻であった。
 
籍はいれたままで互いが自由な生活を楽しむ夫婦は、結婚が制度である以上それも夫婦である。個人の生き方の「美」は、秘かに、誰にいうでもなく、選ぶ事もできる。満喫もできる。周囲から見える自分も、見えない自分も、自分なのだから。「後は野となり山となる」という言葉はなかなかよい言葉。それを無責任と誰が言える?死んだ後のことを考えても仕方ないだろう。
 
安吾は「美に就いて」というエッセイで、「僕の仕事である文学が、美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識してなされた所から生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくさなければならぬ。(中略) それが真に必要ならば、必ずそこに真の美が生まれる。」
 
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チャイコフスキーは自作の「交響曲第5番」を次のように嫌悪した。「この交響曲には大げさな色彩的装飾がある。聴衆が本能的に感ずるような不純と不誠実がある」。具体的にどこを指してのことか我々には分からないが、専門家の解説によると、演奏効果を狙ったオーケストレーションを指してのことではないかと推測されている。芸術は自然の模倣である。
 
安吾もチャイコフスキーも、「美」とは何かを表明している。「美」の定義はさまざまあるが、「真実以外に美はない」(ロダン)、「美しさと愚かさはしばしば相伴う」(フランスの諺)などと表されるが、極めつけはドストエフスキーの次なる言葉。「美…、それは実に恐ろしいもの。それが恐ろしいのは、それを規定することができないからである」。なるほど…、「美」とは恐ろしいものだと。
 
 

「平常心」

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「正常」の反語は「異常」であるが、「平常」の反語は何?「平常時」、「勃起時」だから「勃起」か?バカをいうな!サイズを測ってる場合ではない。書きながらちょっくら考えてみるべ。平常とは平安な状態?「状態」でなく「常」だから意味が違う。そこで文章から考えると、よく耳にするのが、「台風で運転を見合わせていたが、先ほど平常通り運行を始めました」。
 
ならば、平常=いつも通り、普段通りということだから「平常心」とは普段通りの心となる。では、普段通りでない場合とはどんな時だろうか?人前で話をするとき、彼女の父親に挨拶に行くとき、入試や試験の当日など、誰でも緊張を強いられる。となると、平常の反語は緊張か?まあ、そんなところだろう。プレッシャーのない普段通りの状態が「平常心」。
 
人前で挨拶をするのを怖れる人は多い。怖れるというのは「恥ずかしい」の最上級ではないか?怖れる、恐いにもいろいろな場面があるが、お化けが怖いというのも、精神的プレッシャーを恐がるのも、「怖れる」とか「怖い」などという。人は「お化けが怖い」というが、おそらくお化けを見たことなdないはずだし、どこかの夜道でお化けに出会ったこともないはずだ。
 
したがって、「お化けが怖い」というのは自己妄想でしかない。夜の墓場、廃校などを歩いたり、探検してもお化けなど出たためしはないのに、夜という闇が人間の恐怖を駆り立てる。懐かしや宜保愛子の世界である。彼女の霊視のイカサマを大槻教条は、「私が対決した霊能者の宜保愛子は、6人のスタッフで事前調査をしていました」と述べている。
 
イメージ 2寺田寅彦1878年明治11年)11月28日- 1935年昭和10年)12月31日)という戦前の物理学者がいた。彼は科学者であるだけでなく、俳人であり、随筆家でもある。『小爆発二件』という表題のエッセイで次のように書いている。「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」。なるほど…。正当に怖がるのが正しい怖がり方と寺田は言うのだろう。以外はつまらぬ怖がり方だが、こういう含蓄ある言葉を聞いて反応するのが理知なのだと。そこらの女からは「正当も何もないわよ。怖いものは怖いんだから…」の言葉が聞こえて来そうだが、こういう言葉が自分は好きでない。つまり、「怖いものに理由はない」という言い方だ。おかしくないか?
 
感覚派からは「おかしくないよ」という声が聞こえてきそうだが、なんにしろ理由はあるし、理由(原因)があるから結果があるという科学者的な考えに寺田は立っている。だけではなく、我々にもそれを教えてくれている。やみくもに怖がりなさんな、ちゃんと理由を考えてみれば、「な~んだ、怖がることでもないんだ」という発見があるだろうと、言っている。
 
それを、「正当な理由を聞いたって怖いものは怖い」というのはいかにも感情的な言い方である。女がそうなら仕方がないが、男ならチャンと考えろよ。お前が怖がっているのは何でだ?どういう原因なのだ?それがクリアできれば怖いものから脱皮できるし、それも成長だろう?子どもが無知で理知性も少ないからお化けを怖がるのは分るが、大人になれば変わってくる。
 
それなのにお化けが怖いというのは、いささかもお化けについて思考を巡らせていない、巡らせようともしない理知のなさと言える。「理知なんかいりません。怖いものは怖いんです」と、頑強にいう女もいそうだが、「ちゃんとオレの話を聞いて、言うとおりにやってみろ、そうしたら何でもないのが分るから」みたいな説得をかつてどれだけやったことか。
 
ジェットコースターが怖いのも、「アレは100%落ちないし、所詮は人を怖がらせようという代物だ。そんなもんに左右されてたまるか!コノヤロ!」とその上に自分が位置すれば克服できる。人間が何かを怖がるのは、常にその下に自分がいるからだろう。人前で上がらずに話すコツは、聴衆の頭をカボチャだと思え、聴衆なんか飲み込んでしまえと言われたりする。
 
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すべては自分が上に立つことを説いている。「お化けごときがなんだ、そんなもんいるはずがない」と子どものころ、やせ我慢をした記憶がある。自分の近所の兄ちゃんは、『四谷怪談』や『化け猫』映画を映画館に2~3人連れ立って観に行き、幽霊が現れたときに、「わっはっは!」と大笑いすることにしているという。何ともユニークなお化け克服法であろうか。
 
子どもの頃にこの話を聞いたとき、怪談映画は怖いと思う自分になにやら暗示を与えてくれた。こういうユニークでバラエティに富んだ兄ちゃんたちがいたという現実。自分らが小学生の頃に中学生くらいだから、2~3歳しか違わないのに、話を聞いてるだけで自分が遅れをとっているなと知らされたものだ。いわゆる社会の教育力だが、こういう物が近年はめっきりない。
 
近所で年上の兄ちゃんらと遊ぶことがまるでない社会である。せいぜい、同級生と親という環境で育つ子どもは、あまりに教えられることが少ないだろう。お兄ちゃんたちは凄いな、自分もあんな風にならなきゃと、自然に追い立てられていく。寺田のいう「正当に怖がる」とは、正しい現状分析を行ってリスク量といったものを的確に把握していることが前提となる。
 
飛行機を怖がる人もいるが、多くの人は怖がらない。100%怖がらないという人はいないと思うが、あれだけ世界各国で毎日飛んでいる飛行機が墜落するなどというリスクがゼロに近いから怖くないのだ。それでも乗る時は、万が一この飛行機が落ちない理由はないと誰でも思う。怖がることは悪いことではないが、何もかも一切が怖いと言うのはバカだろう。
 
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『論語』に「君子に三畏(さんい)あり。天命を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る」という孔子の言葉がある。立派な人は、天命、徳行ある人、聖人の言葉を畏れるが、身分低き者は、天命を知らないので畏れず、徳行ある人を見下げ、聖人の言葉を侮辱するとの意味。
 
「おそれる」にもいくつかの漢字があり、「怖れる」、「恐れる」、「畏れる」は微妙に違うようだが「怖れる」=「恐れる」でいいだろうが、拘る人は辞書で調べて使い分けたらいい。「畏れる」は、敬い、かしこまる気持ちと用途が違う。「天災は忘れた頃に来る」という言葉を言い出したのも寺田と言われているが、本人が書いたものの中に見当たらない。
 
「天災が極めてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。」と述べているのはあり、これはまさに、「天災は忘れた頃に来る」と同じこと。そもそも人間は忘れるようにできているものだとすれば、何があってもいいように、必要なもの、そうでない物を峻別し準備や整理をしていればいい。
 
災害や突発的な事故などでは「忘れる」どころか、「平常心」は失われがちになる。就寝中に火事に見舞われ、とりあえず何かを持ち出さねばの気持ちから「枕」を持ち出したりになる。就寝中に火事に気づいたら取るものも取らず、「命」だけ持って逃げること。「火事場のバカ力」といい、あれこれ持ち出す算段をして逃げ遅れた人は多い。焼死の殆んどは煙でやられる。
 
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火の勢いがまだ大丈夫と思っても問題は煙である。映画やテレビで火の中に飛び込んでペットなどを助けるシーンは、嘘だと思って自分の命だけしか考えないことだ。子どもがいたらどうするかについての答えはない。すべては自身の裁量ですべきもの。消防士がいれば間違いなく静止すると思う。彼らは煙の怖さを知っている。通帳なんか焼けても銀行に原本がある。
 
行動より思索が大事なことも多くあるが、思索より行動は緊急時の最重要事項だが、慣れていないからパニックになるらしい。避難訓練とかなされていても、訓練は訓練である。起こってみなければ分らない事もあるから仏教などではそれを説いたりする。「平常心」とは元々仏教用語で、「平常心(びょうじょうしん)」といい、我々の意味する「平常心」とは違う。
 
緊張すべきときに無理に平常心を作ろうとか、落ち着こうとあせる心を起すときに不自然な心が働き、かえって変調をきたす。このままではいけない、落ちつこう、泰然としていようとすればするほど緊張は高まり、不安になることも少なくない。無理に「平常心」を作らず、緊張している我が心こそ、今の自分の真実の姿、ありのままの心を素直に認め受け入れる。
 
これが仏教の説く「平常心」である。趙州和尚が師の南泉禅師に「如何是道」(道とはどんなものでしょうか)とたずねた。その答えが「平常心是道」(ふだんの心こそが道である)であった。道とは仏道のこと。 趙州が「その心はどのようにしてつかむことができるのでしょうか」と重ねて問うた、南泉禅師は「つかもうとすれども、つかむことができない」と答えた。
 
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趙州和尚は「つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないでしょうか」とさらに問うた。趙州和尚は「つかむことができないのであれば、それは道とはいえないのではないか」とさらに問うた。まさに禅問答の様相だ。これに対して南泉禅師は「道は考えてわかるようなものではない、しかし、わからないといってしまうこともできない。
 
考えてわかるというものであれば妄想になってしまう、わからないとすれば意味のないことになってしまう。」と答え、さらに、「理解できるとか、理解できないとかという分別を離れてみると、自ずからそこに道が現れる。あたかも晴れて澄みわたっている秋空のようなもので、分別を入れる余地がまったくない」と答え、趙州はその答えを聞いて悟ったという。
 
仏教の教えはともかく、『一勝九敗』という本を出したユニクロの柳井正氏のいうように、1つの失敗にこだわるよりも、ミスをしたときには、ミスの分析、反省は大切として、それが終われば、「自分はこんなミスを犯しやすい」、「こういうケースではこの方法を取らぬ事」という「知識」に変換せせることで、イタズラに心がかき乱されず平常心へとつながる。
 
12月3日~4日の将棋『竜王戦』で、挑戦者の糸谷哲郎七段が、森内俊之竜王を4勝1敗で破り、新竜王になった。初タイトルが棋界最高位の竜王ということで、彼の物怖じしない図太さが、羽生、森内、佐藤、郷田と言われた昨今の棋界の勢力図を変えるといわれている。彼の竜王奪取の瞬間の指し手を見たが、表面的には何ら同ぜず、平常心そのものに見えた。
 
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糸谷新竜王とは、彼が幼稚園のときに初対局をし、王手をうっかりした自分の玉をもぎ取って脱兎の如く席を離れたのを今も忘れない。直後に将棋センターの本多席主に「そんなことをするもんじゃない」とたしなめられた。次に対局したのは小一のときで、その時は奇手「横歩取り4五角戦法」で粉砕したが、負けて隣の父親の膝元に泣きくずれたのも印象的だった。
 
あの頃から将棋の一手に命を賭けているような、真剣さ、凄みがあったが、大成する子はそういうところから違っている。幼少期の糸谷少年に「平常心」など微塵もない、いらいら、うそうそした感じの子だったが、今はもう26歳だ。平常心というより、全身で相手を砕くようなものを感じる。ウェーバーの『魔弾の射手』というオペラには射撃の名手マックスが登場する。
 
糸谷の将棋は、「魔指の棋士」であった。鉄板流と呼ばれ、良くなってから間違うことなく確実に勝ちきる森内の、大差ともいうべき敗勢の将棋を二局とも逆転した彼の魔力というか、森内は地獄の恐怖を見たことだろう。竜王位奪取の悔しさよりも、あれほどの将棋をひっくり返された森内の心境やいかに…、いつも「平常心」を装う森内の顔は普段通りに見えた。
 
森内将棋がまったく通じない相手を初めて見た。2003年に当時羽生竜王に4連勝で竜王位を奪取した森内は、翌2004年に弱冠20歳の渡辺明五段にフルセットの末敗退し、このときも「若手の渡辺に、感覚を壊された」といわれたが、今回はその時以上のショックを受けたのではないか。今後、どう立て直して魔指の棋士糸谷に向かっていくのか、森内の底力に期待す。
 
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武士の心得書『葉隠』には、「心が定まらず、おろおろしているときにはよい思案などない」という言葉がある。つまり、「何らかの結論を出さねばならないときは、手っ取り早く結論を出さねばならない」ということだが、これと同じようなことを糸谷は、竜王位奪取後のインタビューでこう述べた。「自分が悪いと思っているときは、積極的に(読みを)飛ばしますね。
 
読みの枝がいくつもある中で、ひとつ都合の悪い変化があれば、それをどんどん切り捨てていく。苦しいときほど切り捨てる手がはっきりする…」。持ち時間8時間のタイトル戦を3時間30分も余して勝った例はかつてない。糸谷は頭の回転が図抜けて速いらしいが、それだけで将棋は勝てない。新しい勝負術を心得た棋士として今後も注視されて行くだろう。
 
 

「探究心」

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カナダのブリティッシュ・コロンビア大学が「排卵期」にある124人の女性を対象に行った実験によると、排卵期にある女性は「ピンク」や「赤」の物に惹かれる傾向にあるということがわかった。その確率は「排卵期にない女性」と比較して3.5倍。実験に「ピンク」や「赤」の服を着て登場した女性の77%が「排卵期」にあったというから、偶然にしては驚きの結果だ。
 
この結果を心理学的見地から見てみると、「男性が魅力だと感じる色」と大きなつながりがあるそうで、男性の本能には「赤は魅力的」という潜在意識が組み込まれており、女性は女性で「魅力的だと思われたい」という本能が強く働くという。言うまでもなく「排卵期」は「妊娠しやすい時期」、生物学的にいえば「子孫を残すため」の大切な時期である。
 
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女性はその時期に差し掛かると、男性が本能的に惹かれる「赤のパワー」を借りて、女性らしさを最大限にアピールしているのは間違いない。そして、セクシーな下着や服を買おうと思う女性も、「排卵期」である場合がほとんどという、まさに「事実は小説より奇なり」である。女性が「今日はこれを着よう」と何気なく手にした服の色でアナタの生理周期がわかってしまうという。
 
「う~む、マンダム」などと言ってる場合ではないし、「マンダメ!」と言うのは女性に失礼というもの。人間以外の動物のメスが自然な生殖行動をとるように、本当は人間のメスも動物として生殖行動を取って何ら不思議ではない。が、いかに人間のメスが感情の動物といえども、「シツレイね~、イヌやネコと一緒にしないで」、という言葉は野卑な男ども言いたいだろ。
 
人間においても本能的な欲求こそが、我々を仕事や遊びに駆り立てる意欲の源泉となる。まさに気力、活力の源といっていいし、恋愛や結婚、性愛の源でもある。情動とは生きていく上で基本的な、不可欠な欲求に根ざしているものだし、喜びや悲しみといった人間的な感情を圧倒して、その人を衝動的な行動へと突き動かす。これはもう「人間賛歌」といっていい。
 
イメージ 2このような感情の爆発はなぜ起こるのかを分りやすくいうと、神経がハイジャックされるために起こる。大脳辺緑系の一部が緊急事態を宣言、発動し、脳全体を制圧してしまう。辺緑脳によるハイジャックは瞬間的であり、理性をつかさどる大脳新皮質が働きはじめるよりも一瞬早く発生する。こうなってしまうと、大脳新皮質は事の是非を判断できなくなる。全体状況の把握も出来ず、感情の暴走を食い止めることもできない。さらに不思議なのはこうしたハイジャックが終わった後、本人は一体何が起こったのかよく分からないのが特徴的。話が前後するが、我々の脳の中には、それぞれの個別の心を呼び起こす三つの脳があり、それぞれが互いに交錯したり、葛藤したりしながら複雑多岐な感情を引き起こしている。
 
煽るばかりが正しいデータではなく、以下のデータもある。今年1月、コンドームメーカー「相模ゴム工業」が全国の20~60代の男女約1万4千人を対象に行った調査「ニッポンのセックス」によると、「セックスの回数が少ない」と実感している男女に、「もっとセックスをしたいと思うか?」と問いかけたところ、男性は20~60代の75%以上が「したい」と回答。
 
対する女性は20代を除くすべての世代で半数以上が「したくない」と答え、特に閉経後の50、60代にいたっては、7~8割がセックスの回数を増やさなくていいと回答した。「セックスの回数が少ない」と実感しているからといえ、より多くを望むというわけではないという結果。生物的データは性欲減退ないといえ、伴侶とするか?と言われると「No!」は分る。
 
◎大脳新皮質…理性的、理論的な心=頭の知性をつかさどる

◎大脳辺緑系の古皮質…感じる心。喜びとか悲しみといった人間的な心(feeling)や、性欲などの本能的な欲求に根ざした感情(emotion)。

◎大脳辺緑系の旧皮質…自分の縄張りや安全の感覚、生活パターンや習性や日常動作などの本能的行動に根ざした心。
 
上の三つの脳が一体となっていることを理解しておくと良い。我々はあらゆる外部からの刺激に対し、いつも頭で考えて行動を決めていると思い込んでいるが、得体の知れないものを感じたり、見たりしたとき、不安や恐怖のあまり反射的に身構えたり、その場から全力で逃げ出そうという衝動に駆られたりする。頭で考えて正体を認知するのはその次の段階。
 
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人は恐怖や不安に際し、考える前に反射的な危険回避行動をとるが、考えていたのでは間に合わないからで、それが情動である。情動には、恐怖や不安のほかに快感、不快感、怒りなどがある。ある脳科学者は「脳を健やかに育てるためには、自分の脳を知ること」という。人間の脳と体は、40代後半になると、生殖のために生きてきた時代を終えることとなる。
 
そうして新たなステップへステージを移す準備に入り、50代前半になると、いよいよ新たな50年が始まる。が、いうまでもない、50年は確約されたものではない。女性についていえば、閉経を迎えてから本当の人生が始まるといってもいい。閉経後、女性ホルモンの関係で性欲が落ちるというのは誤解のようで、閉経後に以前にも増して仲良くなった夫婦はいる。
 
閉経後にホルモン分泌が変わることで様々な自覚症状が生じる女性もいるが、性欲に関しては直接的な影響はないとのサンプリングデータもある。女性は妊娠の不安と背中合わせの壮年期を過ごすことから、そういう不安のなさも影響するのかも知れない。女性のセックスを年代別に「30させごろ・40しざかり・50ゴザ破り」と言い表しているが、問題は男か?
 
日本にはこういう話も伝わっている。江戸時代、大岡越前守が不貞を働いた男女の取り調べに際し、女性からの誘いに乗ってしまったとの男の釈明に納得がいかず、自分の母に、女性はいくつまで性行為が可能かを聞いたという。母は、黙ってしばし火鉢の中の灰をいじっていた。聡明な越前守は、「そうか、なるほど女は灰になるまで」と母の教えを悟ったという。
 
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問題は男だ!巷言われるところの男のモノの年齢別立ち角度は、広げた手の指で表せられ、親指10代、人差し指20代、中指30……小指50代」と言われるが、これとてあてにならない。まず以て相手変われば仰角も変わる。確かに筒は筋肉だから使わないと落ちるのは、腕やふくらはぎの筋肉と一緒。頻繁に使ってる人は、太鼓のお腹をポンポコ打つぐらいそびえ立つ。
 
「アダカテ」という造語もあり、つまり見知らぬ他人とエッチな会話を楽しむことで、起爆剤にするという。アダカテ=アダルト・カテゴリーで、出会いよりは頻度が高いというし、アダカテ出没者は性欲過多が多いだろうし、「類は友を呼ぶ」の世界で結構では御座りませぬか。80歳、90歳で、ギブス用の充て木で支えてでも入れたい爺様もいるというから御立派。
 
人を騙して金品せしめる無様な晩節に比べて、罪のない話しではありませぬか。「ワシぁの~、オナゴさえあれば何もいらんのじゃ~」という爺様がいて、年金でソープ通いが唯一の楽しみと羞恥なく語っていた。救急車の世話にならねばと思っていたが、普通にお亡くなりになった。「生」への執着がオナゴとは、なんとも純粋な爺様であったことか。
 
おそらく若い時分はマジメにお国のために一身を労に費やした察する。婆様は早い時期に死に別れ、入れ物を失ったのはお気の毒である。あっても使わない夫も多い時世であるが、この爺様のように後生大事にされた婆様もさぞやお幸せであったろう。50で逝ったのか、60なのか聞きそびれた…。「新婚さんいらっしゃい」に対抗し「爺婆いらっしゃい」があれば。
 
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「死ぬまでセックス」と謳うメディアにあおられる男性たち。熟年期で夫とのセックスを引退したいと願う女性たち。様々な環境の中、二人の医師が"熟年性"の真実を赤裸々に語っている。1976年生まれの婦人科専門医で、性科学者の宋美玄(ソン・ミヒョン)、1954年生まれの泌尿器科医で、獨協医科大学泌尿器科主任教授の岡田弘は以下の見解を述べている。
 
 
岡田:昨今、一部の週刊誌が「いくつになってもセックスしよう!」と盛んに謳っていますが、性科学を専門のひとつとする私たちの目には、とても馬鹿げたものとして映ります。実際、日本の熟年世代はそんなにセックスしていない。
 
宋:あれは願望でしょう。「1年で1千万円貯金!」と雑誌がいくらあおっても、誰もがその額を簡単に貯金できるなら、記事は見向きもされない。実際はセックスしていない人たちが憧れる世界が、そこには描かれているのですね。
 
岡田:つまりはファンタジーだ(笑)。中高年になると、男性の多くは勃起不全、いわゆるEDの壁にぶつかります。ときどき勃起しない、あるいは射精まで勃起を維持できない「中等度ED」は50代に入ってから、まったく勃起しなくなる「完全ED」は50代半ばから急激に増えます。
 
宋:女性は40代後半から50歳過ぎにかけて閉経し、女性ホルモンの分泌がなくなります。まるっきり別の身体のように感じる人もいますよ。膣内の血管の数が減り、同時に細くなるので、セックスのとき濡れにくくなります。性交痛を訴える人も少なくありません。
 
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岡田:セックスそのものが苦痛になるんですね。宋さんはセックスカウンセリングで、そうした女性の悩みに直接、耳を傾けていますが、そこでどんなアドバイスをするのですか?
 
宋:彼女たちの不満はだいたい共通していて、「産後で私がつらい思いをしているとき、夫はなにも手伝ってくれないどころか、身体を求めてきた」と言うんです。「ほんとうはしたくない」という思いを抱えながら、20~30年も夫のセックスに付き合ってきて、ついに閉経を迎えた。
 
岡田:夫たちは「そんな昔のこと……」と言うのでしょうね。
 
宋:そう。でも私は女性の味方だから、そこで夫に歩み寄れとは言いません。「ドクターストップがかかったから」と言って夫にセックス引退宣言をしなさい、と背中を押します。
 
岡田:妻たちはずっと機会をうかがっていたんだね。
 
宋:それでも引退宣言できずに、夫が早くEDになるのを祈っている妻たちもいます。「男性の性欲をなくす薬ないですか?」と聞かれることも……。残念ながら、そんなものはありませんよ。(笑)
 

マスコミ主導の情報に煽られるのは、情報化社会の常であるけれども、硬軟・正負が入り混じった様々な情報を目にし耳にし、自分の脳を、肉体を把握することだ。100mを20秒かかる人が、50代の平均は18秒代といわれて努力する必要はない。情報は情報、人は人、自分は自分であると一線を画すなら、何を読んでも楽しい読み物とし、それなら結構で御座ろう。
 
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日本性科学会によるセックスレスの定義とは「夫婦やカップルのあいだで、病気など特別な事情がないのに、1カ月以上性交渉がないこと」とされている。夫婦仲が良くともセックスをしないまま気づけば1カ月以上経っている…ということはあろう。実際のところ、月に1度のセックスがない夫婦はどんどん数が減り、気づいたときには一年、数年となる。
 
「夫婦という保証のある関係になったと同時に、セックスをしなければならない理由がなくなる」という現象は何ら不思議でもないし、それが講じて不倫となるんだろうし、そのことが人間の本来の姿かもしれない。奨励と言うではなく、社会的自制を排除した場合のこと。これほど可能なチャンスがあちこちにあれば、塀向こうの隣の柿をもぎ取るようなものだ。
 
閉経前後の更年期障害に苦しむ女性も多いと聞くが、こと脳にとって閉経は悪いことではないようだ。貧血から豊血に変わることで頭はすっきり、体はタフになり、生殖期とは別のパワーが生まれる。若さへの未練もあろうが、歳を刻むことにあまり神経質にならぬことだ。女性の寿命は長いし、しっかり脳と体をリフォームして、次の50年に備えてみるべきかと。
 
男はやんちゃ精神を忘れず、いつまでも子どもの心で生きれば楽し。人間は大きなストレスにさらされると、「パブロフの条件反射」の原理に従い、自動的に緊張状態が条件付けられる。何を考えるにしろ、何を感じるにしろ、それは脳の働きによるし、唯一脳の仕事である。つまり、人間は脳を通じてこそ、自分自身を正しく理解することができるのということ。
 
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人間が自分について正しく理解することができれば、社会生活におけるあらゆる問題に対して、解決策を講じることができるはずだ。解けない問題はない、解けるような方法が必ずや存在する。解決方法は必ず見つかるのに、「それは出来ない」というのは、「解決したくない」と自分は捉えている。自身の事も、他人の事も。折角解決方法があるというのに勿体ない。
 
社会が難しい、人間関係が難しい、それらほとんどの要因は自分にある。他人では何でもない事を自分は難しいと思うのと同様、実は自分の責任である。だからどうすればいい?答えは簡単、自分を動かすしかないのだが、それが出来ないというなら、解決の放棄である。このように論理を詰めていくと、人は自分を何とかしなければならない事がほとんどである。
 
そうして自分を動かしていくことで問題を解決する。追い詰めて答えを出すのが正しいとしか思えなくなるのが自分流。他人のせいにして何が変わるだろうか。己の信ずるままに、おもねらず、なびかず、自分で答えを出していくことが習慣になる。人間は自ら以外に頼るものはないし、頼ってはダメだろう。そんなに頭を働かせなくても簡単なことは多いはずだ。
 
簡単なことだが行為出来ないから難しい。人間が受ける運命に於いて、すべての結果を自身がコントロールできなければ、精神も肉体も自己所有といえないではないか。怖れをなくし、勇気を出す。女なら思い出せ!処女喪失の時の勇気を、出産時の勇気を(経験者なら)。男なら思い出せ!喧嘩を買おうと決した時の勇気を、好きな女に告白した時の勇気を…  
 
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「冒険心」

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子どもの頃によく見た漫画「冒険ダン吉」は、漫画というより厳密には、挿絵に物語の付いた「絵物語」と呼ばれる形式である。ひょんなことから南の島の王となった勇気ある少年・ダン吉が、機転を利かして様々な敵に打ち勝っていく姿は痛快であった。未開の島における樹木や動物たち、そういった自然の素材などもユニークな発想で生かされていた。
 
「冒険ダン吉」は1933年(昭和8年)より大日本雄弁会講談社(現:講談社)の雑誌『少年倶楽部』にて連載が始まったが、ダン吉少年が粛々と文明社会を打ち立てていく物語は、海外領土の開拓に邁進していた当時の時代背景とマッチした。国策物語というわけではないが、原作者島田啓三は明治33年生まれの生粋の明治男である。彼にはこういうエピソードがある。
 
手塚治虫の回想であるが、手塚が島田のもとを訪れて自作の『新宝島』を見せ評価を求めたことがあった。島田は、「こりゃ、漫画の邪道だよ。こんな漫画がはやるようになれば大変なことになる」と評したという。島田にとって28歳年下の手塚の漫画は、あまりに遊興心に富んでふしだらに思えた。それが、「こんな漫画が流行ったら…」の危惧となった。
 
男子一生は、"強く、逞しく"御国を守るという大使命の時代に生きた島田にとって、父親の書類箱から宝の地図を見つけた少年が、知り合いの船長を連れ立ってその島に行こうなどは、堕落した行為にしか見えなかったろう。「少年倶楽部」に対し、「少女倶楽部」という雑誌もあった。女子の本分は、「清く、優しく、美しく」という時代を反映している。
 
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あらゆる動物に存在する性差を取っ払おう、なくそうと躍起になっているのが人間である。アメリカの文化人類学者マーガレット・ミードは、太平洋の未開部族社会の子どもの成長に関する調査研究を行い、男女の差異(性差)には身体の大きさ、体力など生物学的違いにもとづく部分よりも、文化的、社会的につくられる部分が大きいことを発見し、指摘した。
 
近年ではこうした文化的、社会的に作られる男女の差異は「ジェンダー」と呼ばれるようになり、生物学的な差異(性)と区別されるようになった。ミードの研究は、性差の文化的・社会的な相対性を明らかにしたことで、男性と女性をめぐる問題をジェンダーという視点で捉えるきっかけとなる。これにフェミニストたちが乗っかってジェンダーフリーを叫び始めた。
 
"gender"という用語は、もともと身体的性を示す言葉であったが、ミードは「社会的・文化的性」という意味でのジェンダー研究を行った先駆者である。著書の一部はジェンダーが社会的に構築されたものであることを立証するとしてフェミニストたちから注目され、日本の社会学においても流用され続けているが、調査内容は間違いと概ね否定されている。
 
マーガレット・ミードの『サモアの思春期』は、当初はアメリカ文化の各方面に多大な影響を与えた。ところが、1983年、人類学者デレク・フリーマンが、その結果にイチャモンをつけたのを皮切りに多くの批判が出されることとなり、アメリカ最大の論争のひとつとなった。研究をした当時のミードは若く、サモア語も片言しかわからずに数ヶ月の現地調査であった。
 
イメージ 3ミードのフィールド調査は杜撰であり、現地人をよく知らないままに一部の女性の欺瞞を鵜呑みにしていたというフリーマンの批判は、彼の40年におよぶサモア文化調査をもとにしただけに説得力があったが、多くの人類学者はフリーマンに反論した。ミードはその後半生でアメリカでもっとも尊敬される学者であり、文化人類学の女神とまでいわれていたからだ。ミードもフリーマンもこの世を去り、論争は宙に浮いたままであるが、BBCドキュメンタリー「Margaret Mead and Samoa」(1988)では、ほぼ決着がついた内容である。というのも、サモア人自身がミードの研究を強く否定している。さらには、ミードのインフォーマント(研究者への情報提供者)だった女性すら、『サモアの思春期』を現実でないと否定している。
 
BBCドキュメントの第六回目にインフォーマントであった女性が、「あれは嘘だったのよ」と明言している。フリーマンの手によるミードの批判書『マーガレット・ミードとサモア』は、ミードを好意的に評価する欧米のフェミニストたちからすらも、「綿密に細部を検討・調査して作られた学術書」だと評価されている。が、フェミニストたちがこれを許すはずがない。
 
「性役割は社会的につくられたもの」だと主張するフェミニスト多くが、このミードの調査に基づいたものだったからだ。ミードは、コロムビア大学時代の師であったルース・ベネディクト(日本論で有名な『菊と刀』の著者)とは同性愛との関係にあったと、『マーガレット・ミードとルース・ベネディクト ふたりの恋愛が育んだ文化人類学』の著者ヒラリー・ラプスリーは書いている。
 
研究というものは地道にコツコツでなければならないが、結果を急ぐあまり捏造とまではいわないにしろ、杜撰なものも少なくない。研究者がなぜに凄いかは、我々の計り知れないような地道な調査や実験や、絶え間ぬ自己否定の結果から導き出されるものだからであるが、万が一にも情緒的ないかがわしい研究を発表し、後でクレームがつくのは最大の恥辱であろう。
 
イメージ 4ミード自身はその後一度もサモアを訪れることはなかったというが、その事実でさえも彼女を怪しくしてしまうのである。自身の納得行く研究成果に自信と裏づけがあれば、少々の批判など恐れるに足りない、そういった揺るがない研究こそが研究といえるのではないか。後にサモアを訪れなかったミードは、彼女自身の古傷に触れたくなかったのではと、傍目に推測させてしまう。「探究心」とは冒険の必要性もあろう。自らを顧みないくらいの冒険心なくして探究は独善的、保守的になり易い。冒険とはそういったものをかなぐり捨てて未知の領域に向かうことだ。そこではどんな失敗や恐怖が待ち構えているとは限らないが、それなくして事物は解明される事はない。西田賢司という昆虫学者がいる。人は彼を探検昆虫学者と呼ぶ。文字通り探検を惜しまないからだ。
 
子供の頃から虫が大好きで、虫の世界に魅了された彼は周囲からは無視。日本の学校になじめず、中学校を卒業後、15歳のときに単身アメリカに渡り、大学で生物学を専攻。卒業後、昆虫学を学びに、中米のコスタリカ大学大学院に進み、現在もコスタリカを拠点に、昆虫の生態研究などに力を注いでいる。彼がこれまでに発見した新種は500種以上にのぼっている。
 
この世になかったものを発見するのは物理学や医学の新発見と同様の昆虫の新種発見である。彼は2010年の「第5回モンベル・チャレンジ・アウォード」を受賞した。「モンベル・チャレンジ・アワード」は、自然を対象に、あるいは自然を舞台として、人々に希望や勇気を与え、社会に対して前向きなメッセージを伝える活動を応援する目的で2005年に創設された。
 
辺境・未踏の地へ、それぞれの夢を抱いて多くの人たちが冒険・探検の旅へと出かけて行く。モンベルはその目的達成をサポートするプログラムを提供するというコンセプトを元に、1978年に辰野勇によって創業された。辰野自身の趣味は、登山、クライミング、カヤック、テレマークスキーなどの冒険家でもある。やはりというか、冒険の心は探究心であろう。
 
昆虫で頭を過ぎるのが、「ジャポニカ学習帳」だ。1970年の発売以来、累計12億冊を販売したお馴染みのノートで、表紙にカブトムシなどの大きな写真が入っているのが特徴だった。ところが、2年前から昆虫の写真を使うのを全廃したという。きっかけは、何と、教師や親から寄せられた「気持ち悪い」という声。こんなことを言うのは母親、女性教師に決まってる。
 
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と、決め付けてみたが男で虫嫌いもいるにはいる。これも時代の変遷なのか。「ジャポニカ学習帳」は、来年で発売45周年になるロングヒット商品。すべてが富山県にある文具メ^カー「ショウワノート」本社工場で作られ、学年や科目ごとに異なる約50種類が販売されている。商品の形に商標権を認める「立体商標」として認められるなど、抜群の知名度を誇っていた。
 
そんなジャポニカ学習帳の特徴の一つが表紙を飾る写真。1978年以降、カメラマンの山口進が撮影したものが使われている。「アマゾン編」、「赤道編」といった、様々なテーマがあり、山口氏は世界各地に滞在して数カ月かけて撮影してきたと言う。ところが、2012年から表紙の写真に昆虫は使われていない。理由はこんな意見が保護者から寄せられたからだ。

「娘が昆虫写真が嫌でノートを持てないと言っている」
「授業で使うとき、表紙だと閉じることもできないので困る」

  
保護者だけではなく、教師からも同じような声が上がったというから、呆れたもんだ。ショウワノート開発部担当は、「虫に接する機会が減ったということでしょうか」と推測する。こうした声は10年くらい前から寄せられていたそうで、件数はそれほど多くはなかったという。いろいろ思案の結果、ショウワノートは「ジャポニカ学習帳」に昆虫写真を使わないことを決定した。
 
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「学校の授業や、家に帰ってからの宿題。お子さんがノートを使う機会は多いです。もしかしたら友達と一緒にいる時間より長いかもしれません。学校の先生もノートを集めたり、添削したりと、目に触れる機会は多いと思います。そんな商品だからこそ、一人でも嫌だと感じる人がいるのであれば止めよう、ということになりました」とノート会社は言う。
 
多いときはジャポニカ学習帳の半分近くを占めていたという昆虫の写真。ショウワノートにとっては苦渋の選択であったが、改版するたびに徐々に減らし、遂に2年前に姿を消した。世相を反映した対応とはいえ、表紙の珍しいカブトムシやチョウが大好きだった人からすれば、寂しく感じられるかも知れない。問題のあるナシは人によって違うから仕方がない。
 
Aには問題がなくてもBには問題がある。同じ事案でこのような差がでるのは、ネガティブな感性への対策が講じられないか、対策無視の感性一辺倒人間にありがちだ。対策とは「理性」である。「昆虫がいるから綺麗な花や植物が育つんだ。それを教えるのが教師はないのか?親の子どもへの教育愛ではないのか?現実に昆虫はいる、人間よりもずっと以前から。
 
気持ち悪くてノートが閉じられないだと?自然というものを自身の快・不快でしか捉えられない感性などは、それこそ問題であろう。などと思う親は、子どもにそのように説明し話を広げていく。それが好奇心、自然に学ぶ意識を肯定する。大体、否定者の言い分は想像できる。「子どもが怖いという、気持ち悪いという」。ま、自分からすればつまらん親だよ。
 
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臆病で過保護な親と話をしても無駄なの分っている。過保護でいいと思うからこそそうする親に、「それじゃ~、ダメだろう?」と言って分るはずがない。触れというのではない、画像だろ?画像さえも気持ち悪いから避けようと、どんだけ情けない親に見えてしまう。気持ち悪いものは実はなんでもないよと説いて興味を抱かせたいが、環境の怖さをあらためて思い知る。
 
探究、探索、探検、探査、探偵、探知、それぞれの分野によって意味は違うが「探」に変わりはない。振り返ってみて自分は何か「冒険」したかな?冒険心があれば、冒険は必然だろうが、冒険心はあったのかな?荒俣宏がテレビで、「『冒険』と『探検』の違いは、帰ってくるかどうかです」と言っていたな。なるほどと思いながらも微妙な区分けとの認識だった。
 
「探検」に行って帰らぬ人もいるが、「冒険」とは危険を冒すと書き、「探検」は、探る・検査すると書く。荒俣はこの違いをいったのだろう。「冒険」と「探検」の正しい意味の違いは、「危険な状態になることを承知の上で,あえて行うこと」が冒険と、探検は「未知の地域に入り,実際に調べること」。この定義なら、「命の危険があるかないか」との解釈もできよう。
 
「冒険心」が「冒険家」を生むのだろうが、冒険家というのは文字通り危険を冒しつつもチャレンジする!できるかできないかわからないが、そういうことにチャレンジする。それを達成するかどうかというところに、自分の存在価値を見出すというのが冒険家であろう。人間は命あっての物だねだから、「冒険心」から斯くのような冒険家は特定少数である。
 
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むか~し、『地底探検』という小説を読んだ。映画も観た。原題は、『 Journey to the Center of the Earth』で、直訳すると『地底旅行』である。「旅行」とはなんともフランクな言葉ではないか。冒険とか、探検とかでない気軽さで子どもに構えさせず、子どもを見くびらないアメリカ人らしい。ノートの昆虫ごときで躍起になる日本人が恥ずかしくなる。
 
「昆虫は、僕たちに自然の変化を教えてくれる一番身近な存在なんです。」と、探検昆虫学者西田賢司の言葉に頷かされる

「向上心」

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99歳の大学聴講生として話題になった村川信勝氏が、100歳の誕生日の6日前に亡くなった。村川氏は93歳から大学に通いだしたというが、なぜそんな高齢になって大学に通う必要があったのか?小学校時代に関東大震災で被災し、貧しい暮らしを余儀なくされた。卒業後大阪に移り、父親の縫製の仕事を手伝うも「向学心」断ち切れず、夜間の商業高校を受験合格する。
 
しかし、父親からの入学を認められず、いつか大学で勉強したいという思いが残ったという。小学校卒業の学歴しかない村川さんが大学で勉強するには、社会人聴講生制度を利用できる大学をみつけなければならない。93歳のとき桃山学院大学をみつけ、国際政治を学ぶことになった。大学へは、電車とバスを乗り継いで2時間、徐々に足腰が弱り、体力の衰えを感じた。
 
筋力を鍛えるために週2回のリハビリに通いながらの通学である。「生きているうちしか勉強できへん。生きている間は最後までやりたい」をモットーに、講義ではいつも教室の最前列の真ん中に座り、机の上にはルーペとノート。板書の1文字も漏らさずに書き写し、家では辞書を片手に講義内容の清書と復習をした村川さんは、学食でよく学生に声をかけていた。
 
「親が一生懸命お金出しているんやから、勉強は十分にしいや…」学ぶことも大事だが、こういう人は本来教えるべきである。それが学生にかける上の言葉だろう。学びで生涯を閉じた村川さんの文字通り「生涯学習」の人生だが、何も大学で聴講するだけが勉強ではない。本一冊読むのも、30分の教育テレビ番組を視聴するのも勉強、昨今はそこら中に学びの機会はある。
 
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人はどうして学ぶのか?学ばねばならないのか?実は、「人はなぜ学ぶのか」という問いそのものが既に答えを示している。なぜなら、この問いはそもそも何を求めているのか。して、「なぜ」に対する答えであるけれども、それの具体的内容を捨象して文の構造に注目すれば答えは出ている。つまり、「学ばねばならない」という事態の〈根拠〉を求めていることになる。
 
例えていえば、学ぶことに疑問を感じるのでなしに、喜びを感じる場面を考えてみる。それを学ぶことで自分が今抱いている「なぜ」に対する「根拠」が分かるという期待である。人間は「根拠」を求めて学ぶのであり、学ばずにはいられないのだ。こう考えると、「人はなぜ学ぶのか」という問いを発した人は、実はもう、「学びつつある」ということになる。
 
「なぜ」に対する「根拠」はそう簡単ではない。「なぜ」の分野は多様であり、求める「根拠」の深さも人によって多様であり、よって示されるべき「根拠」の中身は一様ではない。例えば、「なぜ人は生まれるのか」という問いに対する「根拠」は、生物学的にも、哲学的にも、宗教的にも、社会学的にも、文学的にも、さらには童話的にも回答可能だ。
 
どれが発問者を納得させるものとなるかは、発問者自身の問いかけの質による。さらに我々が学びに喜びを感じるもう1つの場面は、重要な分野における自分の能力を発揮できるものを学ぶときだろう。資格を取る勉強であったり、英語能力の向上であったり、このような「学び」というのは、社会における自己の存在意義を確認するための「学び」である。
 
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したがって、自分の「学び」において、「なぜ」という疑問がわくなら、それすら一つの「学び」と言うことになる。道家の老子は儒家を痛烈に批判したが、次の言葉はその最たるものと言える。『学を為せば日に益(ま)し、道を為せば日に損(そん)す。これを損し又(ま)た損して、以(も)って無為に至る。無為にして為さざる無し』(『老子』第48章)。
 
文言の意味は、「学問を修めると日に日に知識が増えるが、「道」を修めると日に日に知識が失われていく。知識を減らした上にまた減らし、そうして無為の境地へと至るのだ。無為であれば出来ない事などありはしない」。要訳すれば、学問的知識をいたずらに増やすよりも、むしろ無為で自然の境地にいてこそ、生を充実できるのだと説いている。
 
「学び」とは、生きるための「根拠」を求めることに他ならないこと、して、「根拠」を求めるためには、表面的な学びなどはまったくの無意味であることを、老子は簡潔・反語的に鋭く述べている。常に思うことだし、いつも述べていることだが、受験戦争から発した乱塾時代、悪しき「儒教的伝統」の影響下において、表層的学びを子どもに求める根拠は何?
 
イメージ 4即席ラーメン的な日本的学びへの警鐘はいろいろ耳にするが、受験勉強の無意味さを受験の勝利者は口にしない。もし、それをしなければ大学に受かってないと思うからだ。ところが、入学後に「学生時代にもっと学んでおけばよかった」という言葉。「経済学部なのに、マクロ経済について何もやっていない」という言葉や反省から学びの本質が見えてくる。
知識をもっともっと蓄えておけばよかったではなく、「人はなぜ学ぶのか」という、「学び」の原点にに立って学ぶべきであったを意味しているようだ。学びとは様々なエレメントがまるで木の枝のようにさまざまに幹から飛び出し、一本の木となっている。よって「学び」とはそれぞれの木の枝の「根拠」と幹との関係、関連性を求めることである。
 
受験勉強が"学びの根拠"ではなく、上の学校に入る目的のためとなっている。広義には"学びの根拠"に違いないが、自分はそうは思わない。アレは「根拠」というより目的だ。他にも学びの目的として、収入の高い職業につくため、やりがいのある職業につくため、立派な人になるため、あるいは生活に困らないため、隠れた才能や能力を開発するため、などがある。
 
学びの目的は様々な考え方があるが、目的であるなら目的は達成させられるべく努力が大事。江戸時代の寺子屋では、自発的な学びが大事にされていた。先生も強制的に勉強をさせるということはせず、自ら学ぼうとする意欲や志が子どもの中に出てくるまで待ちましょう、というおおらかな姿勢であった。それを当時江戸を訪れた外国人たちは不思議がった。
 
寺子屋で思い思いに過ごす子どもたちに怒りもせぬ先生に驚いている。加えて、そのようなおおらかな学びであっても、日本人たちがみな文字を読め、高い算学の能力を持っていることを不思議に思ったとの記述もある。テストや強制的な指導も体罰もない中で、なぜ学力がついていったのか、それが「向学心」というものなのか、「寺子屋」の不思議さである。
 
『江戸時代の教育』の著者イギリスのロナルド・ドーア博士は、江戸時代の教育のすばらしい水準に達していて、武士階級だけでなく庶民まで読み書きそろばんを修めていたのは、当時ヨーロッパ諸国に比べて勝とも劣らないと記している。日本が明治維新を経て、アジアの中でただ一国だけ急速な近代化ぶ成功したのは、江戸時代の教育基盤があったからと示唆している。
 
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庶民に読み書き能力があったから、新しい土地登記制度や戸籍制度の実施が可能になり、貧農でさえ自分が捺印する書類を読むことができたため、恐怖交じりの疑惑から途方もない噂が流れ、それらが抵抗や反乱につながることも少なかった。それだけではない、庶民も教育を通じて「向上心」を持っていたことが大きいとドーア博士は述べている。
 
教育哲学者の林竹二は「学ぶの意義」をこう述べている。「学ぶということは、覚えこむこととは全くちがうことだ。学ぶとは、いつでも、何かがはじまることで、終ることのない過程に一歩ふみこむことである。一片の知識が学習の成果であるならば、それは何も学ばないでしまったことではないか。学んだことの証しは、ただ一つで、何かが変わることである。」
 
「学び」の機会均等の時代にあって、親の収入差に比例して教育格差が言われる時代である。が、モノは考えようで「教育格差=幸福格差」とは思わないが、そう言う事を信じる親は多い。物質的な幸福は、教育からもたらされると思っているのだろうが、幾多のエリートの自殺をみるに、彼らには彼らなりの、余人の預かり知らぬ苦悩が見え隠れする。
 
「読み書き算盤」といわれるように、ドーア博士のいう教育水準の高さは、江戸時代から続く日本の伝統だった。その伝統は第二次大戦後も続き、敗戦で大きなダメージを受けた日本が立ち直る源となった。明治維新と敗戦という二つの難局を、教育レベルの高さで乗り切ったのは否めない。19~20世紀にかけて教育でもっとも成功した国、それが日本だった。
 
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そこには経済格差も教育格差も存在したし、格差を内包しながらも高い教育水準を保っていたのは、なんといっても庶民の教育レベルの高さであった。諸外国に比して日本の教育に足りないものがあるとすれば、自分の意見を堂々と主張する訓練である。単純トレーニング教育は日本の財産であるが、それが講じて外にモノをいえない、内弁慶の国民を作っている。
 
あるフランス在住日本人が議論に勝てない本当の理由をいろいろ述べているが、やはり自己主張の訓練のなさであろう。自己主張は害悪とばかり「和」を重視する。フランス在住のある日本人がこう記している。「フランスに居て面倒臭いのが、フランス人が議論好きってこと。何事も、寡黙に、穏便に過ごしていたい日本人にとっては、悩みの種になりかねません。
 
フランスに住む限り避けきれない「議論」の輪…、どうすればいいんだ~。」と嘆いていても解決しない。子供の頃から物事に対して、反対の意見や賛成の意見などを積極的に話すことを、学校で教えられ、日常で実践してきたこともあり、フランス人は日常でも議論をふっかける。フランス人が何らかの意見に言葉をぶつけてくるのは反射的な行動である。
 
一例を示す。「そうそう、この前うちの子供が〇〇で賞をもらったのよ~♪」こんな母親同士の会話は日常の光景で、日本だったら、「まあ、すごいわね~」ぐらいの言葉を返してくる。お世辞であれ、やっかみであれ、口にでる言葉はそれだ。これがフランス人ママなら、「オタクのお子さん、〇〇のことを本当に好きだからやってるの?」となるかも知れない。
 
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日本人同士ならニコニコ相槌で和やかに収まるところが、いきなりこんな質問で返されると敵意すら感じるのでは?おまけに質問に躊躇するなど許されない。質問されたら、2~3秒以内で返答することが良いという教育もなされる。返答遺憾では、「えっ? あなたのところは嫌がる子供を強制的にやらせてるの?」などと、非難の追い討ちさえ食らってしまう。
 
敵意ではなく、他人が他人に抱く素朴な疑問を、相手に問うているにすぎないという国民性だ。フランス人にとっては、返答に困って「沈黙」するなどの印象は格別に悪いことらしい。何も答えないことは、否定形に受け取られ兼ねない。何も答えず押し黙っているより、思ったこともスパッと口に出した方がいいし、ポジティブなことを言う方が印象はいい。
 
だから、「もちろんよ。あの子は〇〇を自分でやりたいと始めて、以後はすごいモチベーションでやってるみたい」と、嘘か真かはともかく、そこから自分の出番とばかりに永遠と話し始めるのがフランス人お母様である。単に、子どもの自慢を言ってるわけでもなく、これはこれで子どものことを相手に理解してもらうための開けた会話になっているのだ。
 
自分の意見を言わない=意見がない=恥、という概念が日本人には希薄で、それを周囲が許容してくれるという暖かい(?)社会であるが、世界中の日本人としてみればまるでオコチャマであろう。街頭とかで急にマイクを向けられ意見を求められても、「わかりませ~ん」、「そんな、急にいわれても考えたことないし…」と答える日本人を笑う日本人はいない。
 
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外国人からみると小学生以下の醜態。「分らないなら、考えたことがないなら、今この場で考えて即答すれば?」ということになる。それができないのは、周囲のことが気になるからだろう。(違ったら恥ずかしい)、(バカなことを言ったらみっともない)という気持ちが先行し、だから、"言わぬが花"となる。この慣用句を誤解している人が多いのではないか?
 
「言わぬが花」は、黙っている方が得(損がない、恥をかかないで済む)ではなく、風景、風物にはっきり主観をいうより、黙っている方が自然の優美への趣であるという意味。同様に「沈黙は金、雄弁は銀」という諺も、"沈黙は雄弁に勝る"ではなく、「雄弁(よく話し語ること)は大切だが、沈黙すべき時やその効果を心得ているのは大切」という意味。
 
「沈黙は金、雄弁は銀」という格言は、1831年にドイツ語で執筆されたトーマス・カーライルの『衣装哲学』での中にある。日本人は「沈黙は金」を、自分の寡黙の言い訳、もしくは寡黙を肯定してくれる名言として好んで使う。一つの意見を持てば、必ずもう一方の対立意見との争いが必然的に生まれる。「雄弁であれど明言せぬ」でいいのではないか?
 
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議論することでお互いをよりよく知ることができ、こういう考え方もあるのかと視野を広げたり、フランス人はそれでコミュニケーションを図り楽しんでいるだけにすぎない。会議やプレゼンという肉薄が要求されるビジネスシーンならともかく、日常一般的なコミュニケーションや、議論、討論の目的は、相手を打ち負かすしがない自尊心はしまっておこう。
 
年を重ねると何かにつけ省エネになる。動きも、金の使い方も、食事の量、sexの回数、お喋り、自然に保護回路が作動する。"心温まる沈黙"は、な~んにも気まずくないし、「沈黙」は言葉や文字を使わないノンバーバル(非言語的)コミュニケーション。「何?ブログの文字が多い?」これはコミュニケーションというより独り言だ。The Sound of Silence......
 
 

「功名心」

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手柄を立てて名を上げることを功名という。司馬遼太郎の『功名が辻』とは、功名を立てるまでの軌跡という意味。こんにちに「功名心」はネガティブに言われるが、手柄を立て、名を上げるのはいけないことか?「功名心」なく、無欲で世の中に尽くす人は限りなく神仏に近い人間であり、そんな人間がかつても現在もいるのか?「いたはずだ」。いや、「いたと思いたい」。
 
ただし、歴史上の偉人より、名もなき普通の人々に多いかも。勝海舟は以下のようなことを言った。「口で上手いことをいくら言ってもダメだぜ。功名心は得てして自分で自分の墓穴を掘るもんだよ。政治屋さんたちを見ていると分るだろう。ご本人たちは、国民の目が節穴だと思っているかも知れねえ。そうは問屋が卸さねえのさ。国民は全てをお見通しなんだ。」
 
 
さすが、勝小吉の息子である。いってる言葉が小気味いい。小吉の子ども思いの一面が「海舟伝」にある。燐太郎(海舟の幼名)は9歳のとき、犬にキンタマを噛み切られ、生死の境をさまよっていた。医者からも治療不可と見離されたほどである。小吉はその犬を探し出して二つに斬り捨て、燐太郎が治癒するまでの70日間、自ら欠かさず妙見堂本堂に通い詰めた。
 
イメージ 3初めて妙見堂の本堂に来た小吉はずかずか本堂に上がり、本尊の前に仁王立ちとなった、堂主は驚き、「勝さま、何をなされます」と制したが、「心配すんな。この妙見菩薩が本物か偽物か、試しているのだ」というと本尊の肩に手をかけて言った。「もし、妙見さま。よく性根をすえて聞いてくれ。この前せがれが千代田城に上がるとき、せがれの体を守ってくれるようお願いした。それを聞き入れてくれるなら俺の体はどうなってもいいとも言った。そのせがれが生きるか死ぬかの大怪我だ。これじゃああんまりじゃないかね、妙見さま」。「勝さま。あまりなことを言うと仏罰があたりますよ」。近所のものがたしなめると小吉は言った。「それを今夜は確かめてるんだ。ねえ、妙見さま。このまませがれが死ぬようなら、この小吉もあの世へいきまっせ。
 
そうして諸仏の前で、妙見菩薩なんざ~いかさまだと、洗いざらい悪口を言わせてもらいやす。お前さんも人を憐れみ、人の苦難を助けるのが商売なら、せがれの傷を治してやってくれ。これだけ言って聞き届けないなら、お前さんに小便ひっかけてやるからな。その代わり御利益がありゃ、どんなお詫びもするし、命がけの供養はおこたらねえ。なあ、妙見さま。小吉一生の願いだ。
 
燐太郎が犬にキンタマ噛まれて死んだなど、あまりにむごい話だろ?わかったかかい、妙見さま」。といい終えると涙をはらいながら、本堂横の井戸に戻って何度も水をかぶり出した。妙見菩薩の御利益なのか何なのか、燐太郎は全快したが、この一件がトラウマとなり、以後勝は、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほど大の犬嫌いになる。そりゃそうだろう。
 
勝小吉・燐太郎の心温まる話は子母沢寛の『父子鷹』に描かれている。巷に埋もれながら一生を過ごす御家人勝小吉が、実現出来なかった自分の夢を、我が子麟太郎に託して、ただ一すじの努力を続ける。世に父子鷹と言われる話は多いが、小吉と燐太郎がまさに原点ではなかろうか。小説は後に映画となり、市川右太衛門、北大路欣也の父子が初共演が話題となる。
 
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男にしかわからぬキンタマの痛さ、叩かれて痛いのだから噛み切られた痛さは想像を絶する。にしても、なぜキンタマという奴は少しあたった程度でもあれほど痛いのだろう?それは金玉は内臓だからという。痛さは知っていても、なぜ痛いの理由を知りたいと思ったことはなかったが、ついでに調べてみた。実は睾丸(正しい用語)は、母親の胎内にいる時は腎臓の横にある臓器であった。
 
それが生まれるころになると、降りてきて現在ように外に出ている状態になった。したがってあの袋の中身は臓器なのである。レスリングや柔道などの試合で、キンテキ攻撃を食らい悶絶する選手に、レフリーやセコンドが腰を叩く光景を目にするが、キンテキ攻撃を食らうと、睾丸が再び体内にもぐり込む。それを元の位置に降ろすために、腰を叩いたり飛んだりする。
 
ところで、キンタマ(再び)の痛みと言うのは、これは女性の出産の痛みどころではない。痛覚の単位でいうと9000delとされ、この数値は一度に160人の子どもを産み、3200本の肋骨を折ったと同等の痛みとされる。一度に160人、もしくは3200本の骨を折るといわれても想像もできないが、その痛みを男は実感できるのだ。まさに急所と言われる所以である。
 
キンタマを痛めることは一生に数回あるかないかだが、女性の生理痛は毎月である。子宮も内臓だから同じように痛いのだろうが、鎮痛剤で軽減される。が、キンテキに鎮痛剤は効かないだろ。というより、瞬間的な痛さ、顔面蒼白で、脂汗たらたら、ヒクヒクのた打ち回っている状態で、鎮痛剤を飲むという状況になく、「地獄の苦しみ」にのた打ち回るしかない。
 
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「灼熱の苦しみ」、「時間が制止する」、「目玉が飛び出そう」、「ブラックホールに吸い込まれたような感覚」などの表現もあるが、とにかく打撃を受けたときの痛みが、マッハ速度で脳に届くという状況である。対する脳の防護反応も凄い。刺激を受けた直後、大脳は脳内麻薬「エンドルフィン」を即効分泌し、エンドルフィンにより鎮痛効果が得られることになる。
 
その副作用で脳内の酸素濃度が低下し、頭痛や吐き気を催すなどもある。さらに、腹部と睾丸の痛みに対する感覚受容器を共有しているため、睾丸が傷つくと男は「ウッ」と、子宮内胎児のようにお腹を抱えてしまう。また眩暈(めまい)を起こす人もいて、それは内耳を満たしている液体「内リンパ」が振動するためで、実際に吐くかどうかは、打撃の精度と体質による。
 
キンテキはさて、マンテキの痛みは聞いた事がない。女性の急所はおっぱいだというが、痛くないという女もいたり、みぞおちの方が痛いよといったり、男の急所ほど万人ではないようだ。まあ、女を打ちのめす時に胸を打つことはないし、顔かみぞおちに行く。女の胸に男が苦痛を与えたくないのは、女性のおっぱいは、「憧れの友」という先入観があるからか?
 
何の表題か分らなくなってきたので、「功名心」に立ち返る。将棋界における不世出の大名人といわれた大山康晴十五世名人の言葉に、「功名心をしりぞけて、平常心、不動心を持ち続けよ。」というのがある。これは、柳生新陰流剣術家柳生宗矩の「平常心をもって一切の事をなす人、これを名人というなり。」から取った言葉だろう。逆もまた真なりということだ。
 
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「軍人の徳である功名心は、大将の影を薄くするような勝利よりも、むしろ敗北を望むものだ。」これはシェークスピアの劇『アントニーとクレオパトラ』の中のセリフだが、これとて紀元前のローマ軍の武将でシリア、小アジアに遠征したウェンティディウスの「武人の徳とされている功名心は、汚れをまとった利益よりもむしろ損失を選ぶ。」から取ったものと思われる。
 
我々の時代の卒業式ソング定番は『仰げば尊し』であったが、これが歌われなくなった背景には、立身出世や功名心を煽る歌詞だといわれた。♪身を立て名をあげ、やよ励めよ、の個所である。ここで中国古典『孝経』における〈立身行道挙名後世〉から取られたものだが、『孝経』では孝行を道徳の根本としている。「仰げば尊し」に適用されたのはその通りであろう。
 
日教組が教師聖職思想を脱却し、労働者としての人権意識を強めたのであれば、教師に恩を受けた覚えなどない、教師はサービス業で保護者はお客様、感謝すべきは教師の方、卒業後にどんな生き方をしようとその人の自由、立身出世を押しつけるな。というのは、当然の報いであろう。報いと言うのが気に障るなら、サラリーマン教師の是非について一考すべし。
 
師を敬う。自分を導いてくれる人を敬うは素晴らしき東洋思想、世界に誇る思想であり、だから寺子屋もでき、日本の高い倫理観はここにあった。それを教師団体が組合と称し、労働者意識を全面に押し出し、人権意識が強まったことが、こんにちの学校崩壊につながった。国を愛せない教師で日本の将来はあったものではないが、日教組に猛省の兆しはない。
 
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教師への尊敬を強要している。これは「思想・信条・良心の自由」を侵害している。ということだが、『仰げば尊し』を12年間歌い続けてきた自分に、教師や親への尊敬を強要されると感じるなど皆無だった。直接言葉でいわれれば感じるかもだが、歌であり、校歌にしろなんにしろ、その手のものは美辞麗句満載が当たり前であるのは子どもでも理解する。
 
教育現場への異常なイデオロギーの持ちこみから、重箱の隅をつつき回したことが混乱の原因とみる。かつては生徒・保護者ともに教師に対し、尊敬の目、威厳ある目を向けていたが、教師が人権意識を強めたことで、生徒・保護者の視点からみた教師の立場は失墜し、尊敬、威厳の目も廃れた。これは教師の望む結果なのだろうから、何をかいわんやである。
 
今後も教師と生徒は友人関係を保っていくしかないだろう。友人関係が悪いともいわないが、「威厳が必要なときはどうするのか?」となる。権威と言うのは実は安心感でもあり、権威者に従っていれば安心という信頼感でもある。権威なき教師に果たして安心感を抱けるのか?権威に反抗する人間は、実は権力に反抗しており、権力という外側からの恐怖に対してである。
 
子が親と友だち(のよう)であってはならず、教師が生徒と友だちであってはならないのは、対等な人間に言う事を聞かせる場合、指示・命令が効力を発揮できず、どうしても力を頼り、そこに権力が発生する。友人相手に指導・鞭撻する義務はなく、無理やり言う事を聞かせる必要のない対等関係にある。が、権威からもたらされる安心感は信頼に基づき、力に頼ることはない。
 
イメージ 7権威に従う人間は、依存者の心理を持っている。戦国時代の雑兵は功名心なくして出世できなかった。殿様の信頼を得る手段が功名を上げることだった。運よく功名を上げることはあっても、いつもそう上手くはいかないし、だから「功名心」の強い人間が手柄をあげることに躍起になる。戦国の世ではそれが正しく、よいこととされた。
現代社会で「功名心」の強い人間は周囲から嫌味に思われる反目される。どうしても「抜け駆け」の心と解されるからだろう。抜け駆けとは他の人を 出し抜いて自分だけ先に物事をすること。これでは嫌われても当然か。「向上心」とは雲泥の差がある。向上心は自分の内面の問題であるが、功名心は他人からの評価を得たいという気持ちが、どうしても周囲には嫌味にうつる。
 
そんなこと問題にせずに上に取り入ろうとする奴はいるが、アホな上司はそれを忠誠心と感じたり、可愛がったりするのが多い。全体を見つめる目がないから管理者向きではなかろうが、そういう役職者は多い。経験も含め、想像も含め、世の中をいろんな視点でみると面白い。面白い中で、人が不満をいい、悩み、苦しんでいる状況も見える。苦しさは振りほどいて欲しい。
 
そのために何か役立てる事はないかと思うが、とにかく目先だけのことに終始せず、いろいろなことを考えてみること。すると、必ず道理というところに行き着くものだ。それまでは、我欲であったり、羨望であったり、嫉妬であったり、功名心も含め、「不満」の根源はそういう物でしか成り立っていない。それら我欲や、羨望や、嫉妬、功名心などを取り払うことを考える。
 
それが道理ではないかと常々思う。「そんな、道理のようには行かないよ」という言葉もよく聞くが、道理が正しいのは当たり前。だったら正しいことを勇気を出してやればよい。それが出来ないのは勇気がない、それが人間の弱さ。あれば出来るが、ないからできないことが道理となっている。嫌な親、嫌な友人、嫌な上司で悩むなら、道理に殉じて自らを奮い立たせる。
 
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親が子に親の都合でアレコレ命じるのは、親の都合で道理ではないと思うしかない。子どものためと思うことを親自らが疑うしかない。納得すればやればいいのだが、道理そのものが世の中で作られると言う事もある。それは「道理」ではなく、「流れ」なのだが、世の中の流れを「世間」というなら、世間に抗う事は勇気がいる。が、真の「道理」は世間に反することも多い。
 
世間と言う名の「流れ」が覆いかぶさる。正しい目を持てば怖れるものはないが、性格の弱さもあるのでなびく。それを「世間に流される」という。ただ、親に対する「功名心」持つ子はダメだ。これはハッキリ言う。親に功名心など抱くは「百害あって一利なし」。その場では得したようだが、「武人の徳とされている功名心は、汚れをまとった利益よりもむしろ損失を選ぶ。」を思い出す。
 
「子どもの得とされている功名心は、汚れをまとった利益よりも損失を選ぶ」と変えてみる。ようするに、心を売るなということ。自殺した理研の笹井氏は生前記者会見席上で、「STAP細胞研究を通じて功名心はなかったか?」の質問に対し、「純粋にアドバイザーとして手助けをしただけで、自分自身の仕事としてSTAP細胞を考えたことはない」と功名心を否定した。
 
察するに笹井氏の自殺は、世間を騒がしたこと、理研に迷惑をかけたことも一因だが、何より彼自身の屈辱の大きさである。自尊心の強い人間だけに屈辱は絶えられない。笹井氏が嘱望された科学者との自負もあっただけに、自分が起こした屈辱的ミスを許せなかった。あげく、世間や周囲の冷ややかな目に、「穴があったら」の心境であった。と、同時に自らを苦しさからの解放した。
 
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自殺は責任逃れの逃避との非難は多いが、斯くいう人間は、責任をどう取れというのか?自殺はまぎれもない責任の取り方の一つである。現世的喪失利益の大きさからして辛い選択であり、その辛さを、"したり顔"で排除できる人間を厚顔無恥という。厚顔無恥に生きられない心弱き人間をなぜに攻め立てる?この問題にさらに思考を連ね、整理して述べてみたい。
 

「公共心」

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「公共心」は分り難い言葉。公共性、公共放送、公共施設、公共料金から理解に及んだほうがいい。我々が暮らす社会は公共性によって支えられ、成立している。街中も路上も会社や学校も、家族が集うリビングルームも、近隣との関係など、複数の人々が集まる場所が社会であるなら、そこには一人一人の公共に対する心が求められ、社会全体の利益になる。それが「公共心」というもの。
 
そこで対比されるのは「公」と「私」であり、「公私混同」といわれるように、「公」と「私」のケジメは重要だ。愛国心も公共心であるが、イギリスの文学者サミュエル・ジョンソンは、「愛国心とは、ならず者達の最後の避難所である」という名言を吐いているように、「愛国心」・「愛国者」・「ナショナリズム」というのは、専制国家や独裁主義につながる危険性があることから、高く評価されていない。
 
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「愛国心」という卵から戦争は生まれている。アインシュタインも、「ナショナリズムは幼児の病気である。それは人類のハシカである」と切り捨てているが、愛国者は偏狭で単調な人間にみられているようだ。暴力さえも「愛国心」という言葉で肯定されてしまうが、ガンジーは「愛国心は人類愛と同一である。私は人間であり、人間的なるがゆえに愛国者である」と、「愛国心」を称えている。
 
「愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ」。「人類から愛国心を叩き出してしまわないかぎり、あなたがたは決して平穏な世界を持たないだろう」これはノーベル文学賞受賞者の言葉で、前文はイギリスの哲学者バートランド・ラッセル、後文はイギリスで活躍したアイルランドの劇作家バーナード・ショウ の言葉である。素朴にして単純であるが、実に的を得ており共感する。
 
「公共の利益」はなぜに「私的利益」を上回るべきものなのか?その前に「公共の利益」という概念をどう理解すべきかだが、「公共の利益」という文言で頭に浮かぶのは「独占禁止法」という法律である。「独禁法」にいう「公共の利益」の概念はいかなるものか、法律の条文から探ってみる。独禁法第2条5項には、私的独占の定義が書かれている。法律用語なので長いが、以下その記述。
 
 「この法律において「私的独占」とは、事業者が、単独に、又は他の事業者と結合し、若しくは通謀し、その他いかなる方法をもってするかを問わず、他の事業者の事業活動を排除し、又は支配することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限することをいう。」
 
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この文言は論者により様々に解釈されているが、公共取引委員会及び多数派の説は、「公共の利益に反して」の文言を、"自由競争秩序に反する" 意味とした。ところが、法の番人である司法の最高権威は異なる見解を示している。1973年(昭和48年)のオイルショックを背景にした石油カルテルに対する刑事事件において、最高裁は、独禁法の立法趣旨を述べている第一条からこのように解釈した。
 
「第2条5項及び6項に言う、『公共の利益に反して』とは、原則としては同法の直接の保護法益である自由競争秩序に反することを指すが、現に行われた行為が形式的に右に該当する場合であっても、右法益と当該行為によって守られる利益と比較衡量して、『一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進する』という同法の究極的の目的に実質的に反しないと認められる例外的な場合を右規定にいう『不当な取引制限』行為から除外する趣旨と解すべきである。」
 
この解釈は、内容の不明確さ、恣意的な解釈を導く怖れが強く、独禁法のカルテル規制の実効性を損なうばかりか、罪刑法定主義に反すると批判をされている。最高裁も苦悩する「公共の利益」という文言は、法律が万能性のないことを如実に示している。それでは何が万能であるのかといえば、全能の神の言葉しかあるまい。人智を超えた神の言葉というものに我々はいつ触れたことがあろう?
 
文学書のような聖書の記述を後生大事にしてはいても、その場、その都度の難問に神の啓示も言葉もない。人の思考は人智を超えるものではないが、頼りにならぬ神など宛てにしないでひしめき合って行くのがこの世であると、無神論者の自分である。神がいてもいいが、いなくて何も困らないとの立場は変わらない。東日本大災害を「天罰」といった政治家がいたが、「天」というからには神の代弁だろう。
 
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無神論者的立場からいえば、いかなる問題に即しても「天」なる言葉は使わない。まして、罰を与えるだけの神など、無慈悲その謗りを免れないと感じている。いるというなら余計な事はしてくれるなと言うしかないが、無神論者としての立場は、この世で起こるすべてのことに意味などない。単に起こるべくして起こっただけのこと。人間はそこに意味を求めようとするが、求めたところで答えは出ない。
 
神の御利益もない代わりに、神の戯れもないという立場が自然である。「生きる意味が分らない」、「先の見通しが立たなくて不安で辛い」などと寝言を言う人は多いが、バカをいうなと言いたくなる。「人間は、意味がないから良き生を生きられないのではなく、良き生を生きられないから意味にすがるのだ」(ニーチェ)というように、あるいは、「人生にあるのは意味ではなく味わいです」(谷川俊太郎)でしかない。
 
仏教の教えというのは、「この世もあなたも『色即是空』であり、『諸法無我』であって、人生に意味を求め、それに悩むあなた自身が『空』である」というように、それ自身が虚偽意識である。「努力すれば報われる」ではなく、「報われたければ努力しろ」であって、結果は分らないことなのに、結果を求めて努力するヤツが文句をいうのだろう。人間はなまじ頭であれこれと考えるからズルイ事も考えるもの。
 
所詮は動物が生きているだけに過ぎないんだし、人生に意味を求めるのは、人間が勝手に考えて作りあげた思考に過ぎない。黙って生きてりゃいろんなことが味わえるのは理屈ではないし、意味を求めなくてもよいではないか。無駄に生きてると思っても、他人からは有意義に見えるかもしれない。だから、自分で無駄と決めつけて生きるのは止めた方がいい。有意義な生と思った方が楽しいと思う。
 
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考え方や心の持ち方次第で人間はいかようにもなる。イヌやネコにはない人間の特権と言うべきものかもしれない。折角の特権ならいいように、有効に使った方がいい。よくない方に使うから自殺したり、無益な殺傷をするんだろうから、いつも思うのは人は動物から学べだ。「生きる意味もない」から、「死ぬ意味もない」これが生と死の対の考えである。運命論者は過去に意味を置く。
 
同様に未来に意味を置いている。が、未来など見えるはずもない。もし、運命論者が未来を知りたいと欲したとして、生まれてから死ぬまでに起こることが全部わかっている状態で生きたい思うなら、毎日毎日、明日に怯えて寝られないだろう。人の運命は誕生時から決まっているという考えのどこがいいというのだろうか。脚本どおりで決まった運命なんぞ、いつ見ても同じ映画、同じ夢でしかない。
 
未来を知ったところでいいことないし、そんなくだらんことにうつつを抜かさず未知の明日にときめくことだ。終ってみたらつまらぬ一日であったとしても、また明日がある。最近(でもないが)、ウルフルズによってカバーされた坂本九の『明日があるさ』という曲は、元気が出る歌の代表だ。「明日がある、明日がある」と歌い続けた九ちゃんは、1985年8月12、日航機事故にて御巣鷹山に消えてしまった。
 
「『明日があるさ』と元気を与えてくれた九ちゃんが、どうしてこのような運命にあわなければならなかったのか…」とインタビューで答えた人がいた。ナンでもカンでも物事を関連付けて考えたいんだなと、そういう人間は腐るほどいる。個々の自由だが根拠はない。それだけはハッキリしている。週刊誌の記事などで、「○が×であるコレだけの理由」などと根拠をあげて説明する。
 
 
売らんがために面白可笑しくやってるとしか思わない。当たり前のことを書いても売れるはずがないという商業主義がデマゴギーを生む。かの日航機事故も、米軍のミサイルで撃ち落されただの、人類は月にいっていないだの、私は宇宙人と会話しただの、こすっただけでスプーンが曲がるだの、読み物として面白い、大槻教授と韮澤のやらせバトルも人気があった。
 
公共心を忘れ、面白ければいいというテレビ業界が、信頼を損ない、テレビ離れを起こしたのは、業界自身が墓穴を掘ったもの。大阪のテレビ局に勤務していた叔父貴が、「テレビのない世界に行きたい」と50年前からいっていたが、長いことその意味が分からなかった。「公共の利益」が難しいのも、公共が雑多であるからで、それを一元化する法解釈には無理が生じる。
 
民放テレビ番組に公共性がないと言われたかと思えば、NHKには「どこに公共性があるんだ」と言われたりと、世の中がこうであるから面白い。人によって意見の違い、感じ方の違い、そういう人間と対話する面白さ。俺が正しいと思ってる奴は何も正しくはない。自分が自分の感じた意見を言ってるだけなのに、「あなた自分が正しいと思ってません?」と食いつく人。
 
正しい、正しくないに関わらず、自分の考えを言うのはアリで、人に文句をつけるに自分の考えを言えと。どんな意見であれ、ちゃんと自分の考えを述べる人を自分は評価する。罵詈雑言ならべて文句をいうだけの人間に比べれば天地の開きがある。意見のない人間はグツグツ文句を言うしかない。文句をいって気晴らしをしているだけだから、答える言葉はない。
 
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いかに異質な意見といえども、それが意見なら誠実に答えたくなる。無視、抹殺するのではなく、誠実に応対しなければ傲慢である。そういう傲慢な人間になどなりたくない。反対ならキチンと反証する、これが対話である。仲良しこよしを旨とする暇つぶし的井戸端会議はやらない。そういえば、"仲良しこよし"という言葉にある"こよし"の意味がいろいろあって面白い。
 
その中で、「夕焼けこやけ」の"こやけ"と「仲良しこよし」の"こよし"は同義という意見に賛同した。つまり、「こやけ」はちょっと夕焼け、「こよし」はちょっと仲良しというのは納得がいく。つまり、みんなが仲良しというわけでもないだろうから、「こよし」とあえて分類している。ネットの関係性というのは、文字だけのつながりと言う点ですべて「こよし」だと感じている。
 
仲良くしなければならない理由もないから"こやけ"であって、ブログなんてのは来る人拒まずが基本だろうが、無神経で傲慢な人はそれなりに退室を求めた方がいい。といっても中には物分りの悪いバカもいたりで、退室を命じられて怒って文句を垂れるって神経ってのは理解しがたい。自分はその経験はないが、こういうネットバトルは結構見聞きした。自我のぶつかり合いは仕方がない。
 
自己主張が決して悪いとは思わぬが、どうでもいいことに躍起になるのが心が未熟なんだと見ていて分る。もっとも美しい自己主張は公共性を前提としたもので、自己の利益とは何ら関係のないことにも人は一生懸命になれる、それが「公共心」であろう。自分が暮らす社会全体に対する思いやりのない自己主張というのは、誰もが受け入れがたい、成立し得ないものだ。
 
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道理もわきまえず、公共心など微塵もなく、我が子に必死になる親をモンスターペアレントと名づけられた。自己主張は大事という風潮が一部の人たちには自分本位に解釈されているように感じる。こういう人間は、自分の思った通りに行動すれば、周りの人が自分に合わせてくれるだろうとの身勝手な考えにある。自己主張は公共性を前提として成立するという思考なきバカ親。
 
こういう人は熱心に見えるが、実はまるで違う。こういうタイプは、日常生活にも、自身にも、子どもにも、気持ちの余裕のない人だろう。他人に譲り合えない、他人に優しくできない典型の人間は心にゆとりのない人間。親からもそういう教育をされていないから、我が子にもそれが出る。自分が無理を言ってるという気がないから無理が言える。こういう人は直らない。
 
子どもに公共心を植付けるためには、親がガツガツしないこと。子どもはそれをしっかりとみて、よいこととして習おうとする。試食サンプルでも買う気がないのに、食べなきゃ損だばりにかぶりつく親と、「買う気がないのに食べてはいけないよ」と子どもに教える親とでは、0:100くらいの違いがある。普段の、日常の、何気ない行為、仕草が子どもに伝わっていく。
 
教育とはそういうものであり、教材もまたそういうものだ。親に理念があるかないかに尽きる。地域の草刈や公園などの公共施設の清掃に、家族で率先して出てくる親には、何も聞かずとも理念が伝わって来る。高いお金出して塾に行くこと、無料の奉士作業に笑顔で出席する子の差は、将来に現れる。塾批判ではなく、勉強疲れの子どもに奉士作業させるより、ゆっくり寝かせてやりたい親心を問うている。
 
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なぜ「公共心」を育まねばならないか、いうまでもなく人間はみなジコチュウだからである。躾をされた人間とそうでない人間は、公共の場での差が歴然と現れる。公共の場でどのようにするかを教えるのが「公共心」だから、それを教えられていない子どもに公共の場での態度が身につくはずがない。単に押さえている子と、身について実践してる子と、一見同じように見えて、実は「似て非也」。
 
「公共心」も、社会生活を送る上で他人との関わりを大切にするという、一種の我慢であろう。我慢もなれれば当たり前になる。その段階で「公共心」が身についたと言える。なかなか身につかないし、なかなか身につけさせられないし、もっとも身についてない親なら教えられないし、身についている親なら口やかましく教えることができるという代物だ。「公共心」のない子どもは100%親が公共心が希薄である。
 
「ちゃんと言ってるんだけど」と親は言うが、本当に公共心が身についてる親は、どれだけ公共についてうるさく言うかを知らないのんきな親の戯言だ。「いってる」程度で「公共心」が身につくものかと。子どもに不足してるものを指摘されると、多くの親は必ず「ちゃんと言ってるんだけど」というが、言う=学ぶではない。教育者として名高い林竹二の言葉に、「学ぶとは自己を変えること」とある。
 
いくら学んでみても、自己を変えられないなら、変えられなかったなら、学んだことにはならない。学ぶは身につけると置き換えてもいい。「ちゃんと言った」と親がいっても、子どもに身についていないものは躾とは言わない。躾とは教育書に書いてある事を、口で、言葉で言うだけと思ったら大間違い。身につけさせるために、知恵をしぼり、必死になることだ。それが親の情熱であり、態度である。
 
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サービス業などで態度や言葉使いや所作の悪い従業員がいる。責任者にいうと、「申し訳ありません。ちゃんと言ってるんですが…」というヤツはダメだ。「ちゃんと言ってるんですが…」の一言が多い。なぜこの言葉を言うのかといえば、責任回避をしたいからだ。言ってる、言ってないの問題ではないのよ。守らせるかどうかだろう?こういう言葉を吐く責任者は、責任回避をする分、無能である。
 
責任者は責任を取る人で、責任回避は許されない。よい責任者はこのように言う。「申し訳あリません。二度とこのような事がないよう、私の責任で対処させて頂きます」。どういう人間を責任者に置いてるかで変わる。真に自己責任の確立した人間を責任者と配置すべし。保護者の自己責任も同等だ。子どもが学校の窓ガラスなどを故意に破損させたら親は弁償すべきだ。
 
良いとたしなめられてもすべき。それが子どもの暴走を食い止める手段と定めて…
 
 

「交錯心」

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「○○心」も出尽くし、これにて最後。「交錯心」は耳慣れない言葉ではないが、あまり日常会話では出てこないし、あえて使わない場合もある。ある言葉が会話の中で適切であっても、あえて使わない場合は、その言葉を相手が知らないだろうという判断をするからだろう。判断だから違うかも知れないが、噛み砕いた言葉に置き換えるのは悪いことではない。
 
会話中に、「今の言葉は何て意味?」と聞かれるのを省略する意味もある。聞かれるなら説明も出来るが、スルーされたら"意味の理解"においてどちらにもまずい。会話は分かり合えることが前提だ。「交錯」とは、いろいろなものが交じり合った状態。「情報が交錯する」、「夢と現実が交錯する」、「期待と不安が交錯する」などと使えば便利な語句である。
 
「まじる」は「交じる」と「混じる」に分けられる。「交錯」と「混沌」は、どちらも「まじりあった」状態をいうが、前にも言ったが意味を自力で理解に努める場合、対象語句の文章を考えること。人は、「そんな面倒臭いことを…」というが、言われずと面倒臭いに決まっている。しかし、あえて面倒臭いことをする意味を考えるか、考えないかの差であろう。
 
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「男の中に女が交じっている」、「仮名と漢字が交じった文章」が「交じる」の正しい使い方。「男と女が混じる」、「仮名と漢字が混じる」は間違い。「混じる」は、「数種の薬品を混ぜて作る」、「綿に化学繊維が混じってる」と使用するが、前者は「混合」、後者は「混紡」という言葉がある。このことから「交じる」と「混じる」の違いがよく分かる。
 
男が女に交じっていても、男はハッキリ区別できるし、交じってオカマになるわけではないが、「この色は赤と黄色の絵の具を混じり合わせて作った」なら、それはもう赤も黄色も見えない状態で、「混濁」という語句が当て嵌まる。コーヒーに砂糖を混ぜるも同様。どちらも「まじる」点は共通するが、入りまじるものの質がハッキリと分かっているかどうかの違い。
 
「朱に染まれば赤くなる」という言葉はヒトの脆弱性を表している。動物生態学で言われるのは、「サルは人間が育ててもサルにしかならないが、生まれたばかりの人間をサルが育てたら人間はサルになる」という比喩でもあり、事実でもある。ハッキリ言えることは言葉を喋らない。また、足の指でものを掴めるようにはなっていないが、近い事はやれるだろう。
 
自分はオカマが嫌いだが、オカマに混じって何年も生活すると、オカマになるのだろうか?生まれた子どもをオカマが育てれば100%オカマだろう。オカマに混じった自分がオカマになる?いや、ならない。そういうキモチわり~環境から、とっとと逃げ出す。最近、マツコのCMが多く、トヨタ自動車にまで出ているし、見れば即チャンネルを変えてしまう。
 
過去、即効でチャンネル替えたのは、音立てて食べる永谷園の茶漬けのCM、ジャパネットタカタの甲高い社長のCMの二点だが、マツコが新たに加えられた。永谷園のCMは聴視者からかなりのクレームがあったらしいが、良きにつけ悪しきにつけ、CMは話題になればよいというコンセプトだから、永谷園側は黙視したが、嫌悪の反響についに中止した。
 
 
食べる時の音量を故意に大きくしていたから、「品がない」、「汚い」、「食事時に流れると食欲が失せる」などの善意な聴視者の声を無視する企業体質に、「やってる事が茶漬け屋」と見下された。茶漬け、ふりかけオンリーの企業変革を模索しながらも変えられない永谷園の土着性であろう。同じ事は本年、日本食研の工場見学に行った際に感じたものだ。
 
企業理念をいかに言葉で飾ろうとも、ダサいものはダサい、それはなかなか変えられるものではないし、言葉の修辞に行動がついていかない、そういう土着性が染み付いている。永谷園しかり、日本食研しかり…。無理に背伸びをせずとも茶漬け屋、タレ屋を真っ当すればと思うが、日本食研が宮殿の工場を作ってみたところで「焼肉焼いても家焼くな」の日本食研である。
 
消費者には焼肉のタレが美味しければいい。最近マツコのCMが増えた。彼の露出の多さが要因だろうが、露出なら有吉とて負けていない。マツコに芸はなく、彼はただのゲイである。特技は毒舌で、有吉とて毒舌でならしているが彼の毒舌には毒がない。笑顔で毒舌を吐く有吉は、笑いを取るための「毒舌」でしかない。そんなチャらい有吉だからCM起用は難しい。
 
マツコの毒舌に笑顔はない。吐き捨てるようで声も大きく、容赦なくコキ降ろす。ダメなものはダメと、物怖じせずに言い切る姿勢は、"良い物を良い"という側に回った時に、必然的に説得力が増す。マツコへの企業の狙いはそこだろうが、残念ながらマツコが何を「良い」といっても伝わらない。毒舌家を自認する彼が銭貰って「良い」と言うのはダメだ。
 
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その点、CMはマツコに「よい」という言葉をハッキリいわせない、回りくどい評価にしているがワザとらしくて見ていられない。毒舌家が、CMに出ることで毒舌家本来の純粋性が損なわれるのよ。彼は毒舌キャラで、事物の酔眼を見据えた本物の毒舌家出ないのは周知であるが、おバカな民衆はのようなウソに煽動されるのだろう。同様にジャパネットタカタの社長。
 
彼がいかに甲高い声を張り上げようとも、「うるさい、黙ってろ!欲しい物はこっちで調べて買うよ」としか思えないが、自分で調べようとしない民衆が、彼の営業トークを鵜呑みにする。結局は自分で調べるのが面倒臭い、いろいろ教えてくれるので親切、有り難い、熱心だと言う事なのだろう。そういう民衆に支持されるツボをタカタ社長は身につけたのだ。
 
金利手数料ナシという営業トークが良心的に受けたことで、テレビは簡単に人をそそのかせると実感したのだろう。そもそも、自社で負担していると言われる金利手数料は、会社の利益から支払われるものであり、その利益は当然タカタで物を買った人が支払ったお金である。それが販売価格に含まれていると考えない善意な顧客が「タカタは良心的だ」となる。
 
有り体にいえば、分割払いの人が利用すれば金利・手数料負担と謳っているが、現金で買うと損だと思わない人がオメデタイのであって、あくまで子会社のクレジット会社ぐるみの営業手法である。トヨタの車を現金より、自社傘下のクレジットで買って欲しいのと同じ論理で、あまりにクレジットを勧めることで、「顧客本位でない」と怒るユーザーもいるのは事実。
 
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会社本位を顧客本位に見せるタカタトークは、偽善的でアホらしい。他人を出し抜いて素早く利を得ることを、「生き馬の目を抜く」と表現するが、善良な日本人を善良言葉で出し抜くのが日本社会である。ソクラテスは「悪法も法なり」と言って死んだ。どんな悪法も法である以上従わなければならないと言うことだが、西洋でそんな教育をされていない。
 
あちらでは「法だからといって従うべきでない」と幼児期から教えるが、この国では権力に反抗しないよう去勢するために、子どもの頃から国民にデタラメを刷り込んでいる。「政治は正しい」、「親は正しい」、「教師は正しい」、「医者は正しい」という刷り込みがまかり通り、「何が本当に正しいのかをしっかり見つめて目を養うこと」がおざなりにされている。
 
すべての事は一つの(一人の)意見に過ぎない。人間を信じない西洋人が神という絶対者を掲げるのはそうした理由ある。神も信じない、人も信じれない世で何を信じるか、結局人しかいない。つまり、信じれると確信した相手が期待通りであったなら、その人は充実した素晴らしい一生を送れることになる。自分もそうであるように、人は信頼できる人を求めて生きる。
 
本当に信じるもの以外は全てを疑うべきであり、それでこそ真剣に信じようという姿勢であろう。人をすぐに信じようとしない人間は横着者だと思っている。横着者が騙されて文句を言ってる光景はいとをかし。自分が本当に信じたいと思って、それなりに手間隙かけた相手なら、騙されたとしても納得が行く。そういう自己責任を明確にし、自分のキャリアを上げていく。
 
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安易な自分を棚に上げ、他人を恨み、他人を責めて、それで満たされるものは何だ?つまらない自尊心くらいしか見当たらない。つまらない自尊心や虚栄心でこの世が渡っていけるはずがない。さまざまな経験からさまざま学習し、自分を信じる心を養うしかない。それでこそ文字通り「自信」となる。曖昧に、安易に生きてどうして「自信」が備わるだろうか?
 
「交錯心」を持つ、持って生きるとはそういうこと。ガンジーは「非暴力」を訴えていたが、決して無抵抗主義ではなかった。だから、不当な法には絶対に従わないことを支配者に示す『不服従』という行動を起こした。その結果、イギリスの植民地支配から独立を勝ち取ることができたのである。不当な親に従わなければ独立は出来るが、それによって失う物的損失が怖い。
 
どっちつかずの根性ナシが甘えた反抗をする。親への中途半端な反抗などみっともなさすぎる。本気で反抗するなら親を頼らず、親もまた子どもの反抗には「好きにしろ」と放っておく根性もなく、子ども可愛さに妥協するような、双方の馴れ合い関係は茶番である。のるかそるかという感じが伝わる、緊張感を持った人間関係こそ、真摯であると思っている。
 
イメージ 4親子や他人同士の人間関係が交錯心はむしろいいことだと理解する。互いが「期待」と「不安」が交錯し、接点や妥協点を模索していくべきである。親子関係を「混沌」状態という表現をする奴がいるが、これでは光明が見えないし、「交錯心」にくらべて相手の心がぐにゃぐにゃに入り混じり、見分けがつかなくなったへなちょこ状態は自分と母がそうである。
混沌を超えた互いの存在がない状態にあるが、不要なものはなくても構わない。自分は努力をしたが、母親には隷属させる人間以外に興味がなかったようだ。歩み寄るとか、人間への対等意識のない傲慢な人間は斯くの結果になる。もし、自分が我が子との交錯はあっても、混沌になどならぬよう最大限の配慮、努力をする。それが人間としての在り方だ。
 
人間は「個」対「個」において絶対に対等である。そこを間違えないことだ。役職や肩書きをつけて区別をするのは産業構造上必須であるが、そこでなされるのは業務である。親子や私的な人間関係は業務にあらずで、肩書きは無用である。そのようなもので威圧せずとも、自ずから尊敬心が芽生えればいいことだ。望んだり、命じたりでどうして尊敬心が芽生えよう。
 
子どもから見れば親は親である。が、一個の人間でもある。一つだけに限定するなどはあり得ない。「親であるが人間」と、そう理解するのが「交錯心」。だから必要な情動である。儒家思想が間違っているのは、「親は親でしかない」という考えを強要し、上下の支配を容易にしたこと。儒教は封建主義には最適であったり、江戸幕府が官学として採用したのもそのためだ。
 
将軍は絶対、藩主は絶対というのは下の者を愚かにするだけだ。もっとも立派で崇高な将軍や藩主であるならその限りではないがそうばかりとはいえない。親だというだけで、上司だというだけで何で立派であることか。名君と言われた人はいた。素晴らしい師、素晴らしい親もいた。が、殆んどは至らぬ人間の世界である。それが生徒や子どもにアレコレ言うのだから…。
 
「人が人を教えることの傲慢」と説いた教育者がいた。だから、教えるという一方通行ではなく、双方向で楽しむというあり方が欧米の教育思想にある。教えるというより、「共に学ぶ」という師弟関係は日本的には馴染み難い。それは、師でもあるが友でもあるという交錯心の希薄さだろう。師からは教わるだけでいいという消極的で根強い考えも、双方向性を実現しない。
 
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「ピアノ教師は3つの言葉でやれる職業」と揶揄された。「こんにちは」、「その音間違い」、「さようなら」である。これが日本的学習の実態だ。人からものを教わるものの正しい姿勢とも言われた。ようするに教える側が権威的なのだ。権威を持ち、権力をもてば、下位者はひれ伏すしかない。教師がそんなに偉いのか?金銭を得る手段、仕事だろ?
 
が、権威は人間の拠り所でもある。人は権威にしがらんでいたいものだ。フランス革命はブルジョワ革命と言われた。革命で封建体制は倒れたけれども、だからといって次の社会はすぐには生まれていない。第二、第三の革命は必要だったということ。「風車は壊した。けれども風がなくなったわけではない」。フランス革命の何十年後にこういう言葉を漏らした文豪がいた。
 
『レ・ミゼラブル』の作者、ユゴーである。フランスは自国を「世界で最高の文明国」と称し宣伝する。1789年世界で先駆けて人権宣言を行い、「自由」、「平等」、「博愛」を掲げた。言葉とは裏腹に1930年代にフランスがベトナムに行った「植民地行政」について、英領インド、蘭領インドに比べて、フランス人の支配観念が余りに無慈悲で不親切で利己的と非難された。
 
フランスはベトナムにギロチン死刑を持ち込み、公開処刑、死後のさらし首、親子兄弟を投獄し全員虐殺もした。フランスには「人種差別禁止法」があるが、人種差別があるからそんな法律ができる。アメリカも人種差別の途絶えないが、差別は永遠になくならないだろう。差別者と被差別者についての「交錯心」を自らに課し、格闘しない限り差別はなくならない。
 
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