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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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  • 12/15/14--16:22: 「心」 ①
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    漱石の『こゝろ』を読んだのは松本清張にはまっていた中学一年のときだ。恋愛も友情も分らない年齢ということもあり、主人公の葛藤する心に真の理解は及ばなかった。長いこと間が空いて、『こゝろ』を映像で観たのは80年代になってからだ。『こゝろ』の映像作品は、実に8作品(映画3、テレビドラマ4、アニメ1)のラインナップがあり、その中の映画2本を鑑賞した。
     
    『こゝろ』に見る男の友情と恋愛の板ばさみになることの苦悩ってのはやはり当世時代風であり、昨今のドライな人間関係だとあれほど湿っぽいことにはなるまい。『こゝろ』批判はあるが、漱石はあの時代の人だ。こんにちの社会通念にあった物語を書けない。よってこの作品に対する漱石批判は、当時の時代批判ということになる。先鋒は文学者で東大教授の小森陽一である。
     
    小森は1987年、『こゝろ』の解釈を巡って東京大教授・三好行雄と論争して注目を集めた。確かに『こゝろ』は問題の多い作品であり、結末は先生が私に手渡した遺書で終わっている。しかし、青年と奥さんが結ばれるという解釈を小森陽一が唱えている。小森はまた、当世時代について、「経済的自立がなかった女が現実に生きていくためには、結婚が重大問題であった」とする。
     
    奥さんは間貸しした当初から、境遇、財産、家柄等を勘案し、先生を結婚相手の第一候補として考えていた。奥さんが先生の国元の事情を知りたがったり、Kが同居する前、奥さんは先生とお嬢さんを着物を買う名目でに連れ出したり、そこでお嬢さんの着物を先生に選ばせたり、奥さんが二人を接近させたがっているという先生の観察は、当たっていたはずである。
     
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    作品解釈は文学者の範疇であり、仕事であり、小森は『こゝろ』を貧しい小説と位置づけている。それが漱石研究者としての小森陽一の漱石への敬意(?)といっていい。漱石の『こゝろ』はそれくらいに、心をキチンと理解することも大事である。21世紀が「心の時代」といわれて久しいが、社会情況が急激に変化する現代では、とにかく人間の心を理解しない事には始まらない。
     
    「心が痛む」とか、「心残り」とか、「男心」、「女心」などの言葉を多様するが、「心とは何ですか?」と聞かれると、誰も答えに窮してしまう。心理学者の中でも「心とは一体何なのか」、「心をどう定義したらよいのか」ということについて共通の認識はないようだ。それくらい難しい人間の「心」についていろいろ考えてみる。人間の「心」とは何で、一体どうなっているのだろうか。
     
    まずは「心」の特性について思考する。人間の心の特性を、「生物的な存在」であると同時に「社会的存在」と位置づける。「生物的な存在」としての特徴は、自分がいて他人がいて、そこに互いの心は通う。一人でも「心」は外界のさまざまを感受するが、自分と他者という自他の区別をするのが心。受け入れたい他者もいれば、受け入れたくないと、断固拒否する他者もいる。
     
    イメージ 5また、問題なく受け入れてる相手であっても、こちらがニューロティック(神経症的)な時と、フラットな時とで違う。ニューロティックな時に自分の周辺に他者が来ただけで心が侵された気持ちになる。人間の心を支配するのは脳であるから、心とは脳のことである。なのに悲しく辛いとき胸が痛むという。なぜ臓器に影響するのか?実はアドレナリンという物質のせいである。
     
    自分の性向の問題もある。むかしむかしあるところの洋菓子店に2人の売り子がいました。一人は美人さん、もう一人は不美人さんでした。おそらく美人さんのほうが看板として映え、目だったとこだろうが、誰も見向きもしない不美人女性の心に、思い上がりのない新鮮さを感じていた。引き合いあまたの美人など放っておけばいいわけで、これは一種の同情心か?
     
    美人がブサ面を彼氏にするのは母性的慈愛という。価値とは、一定の社会・文化・グループ・個人によって望ましいとみなされる行為や思考の特性である。さするに価値の総体にあって美人の価値もその一つ。自己決定という価値もあり、この世に無価値のものはない。むか~し、ある洋菓子店に美人と不美人の売り子がいた。自分は美人を無視し、不美人に熱心であった。
     
    ある日美人に手紙を渡され、「何であんな子がいいわけ?」と書かれていた。これを女の嫉妬という。相手より自分が上と思う女の自信は相当のようだ。男がそんなはしたない行為をするはずがない。まあ、その女は厚化粧でケバく、年増であり、自分は化粧臭いのは好きでなかっただけ。今でも思い出す、銀座・並木通り4丁目の洋菓子店「ポニー」のケーキ売り場の女だった。
     
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    かれこれ40年前だが、二人ともいいお婆ちゃんになっているだろう。「ローマは一日にして成らず」という諺があるが、「ローバは一日にして成らず」だ。彼女らの顔に刻まれた年輪(シワ)をしかと眺めてみたい。長野県伊那出身の不美人O子は世田谷の池尻に友だち二人で住んでいたが、自分がそこに通うようになり、同居女性が迷惑していたのを自分は気づかなかった。
     
    O子も周囲から「あなた一人の部屋じゃないし、少しは考えて…」など言われていたらしい。それはそうだろうな。でもそういう事は一言もいわない。女の恋心の強さであろう。そんなこんなで同居人の友だちが自分に直接言ってきた。「少しは考えてよ」。の意味はあまり来るなということ。「ごめんなさい」と自分に謝るしょんぼり顔を今でも思い出す。妙子という名の耐える女だった。
     
    こういう恋の刺激は今はどこを掘ってもない。人間は刺激を受けると、対抗物質「アドレナリン」が放出される。恋人の前でドキドキするのもそうで、シマウマの前にライオンが現れると反射的に逃げるのもアドレナリンの作用。胸がドキドキ、胸が痛いは、アドレナリンが一気に心臓を運動モードにするからだ。脳の作用だが、頭よりも胸が痛いので「心が痛む」というようになった。
     
    古人は心の宿り処を内臓と見たのだろう。新渡戸稲造は『武士道』の中で、切腹を次のように説明している。「我は我が霊魂の座す所を開き、貴殿にそれを見せよう。穢れているか清らかか、貴殿みずからが見よ」。中国では、切腹のことを剖腹といい、男と交わったと噂された未婚の女性が、身の潔白を証明するために、剖腹して死んだという話が多く伝わっている。
     
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    相手の心が分かった時点で相手を分ったことになる。つまり、「人間の心の中(脳)で起きる生理的な出来事」や、「脳で一体何が起きているかということ」が理解できれば、人間を分かったというが、なかなかそれが分からない。大脳生理学者や心理学者、精神分析学者らの研究対象である「心」について、脳で起きる生理的なプロセス、生理的な出来事が少しづつ分ってきた。
     
    現在の時点で人間の心について、「脳で何が起きているかは分からないが、何か生理学的な変化が起きていて、その結果、遠心性神経系(運動神経系)を通って動作や行動になってあらわれる」ということは分かってきた。人間の心は身体(大脳)にあるから、当然身体の影響を受けている。人間を支配するのは環境であるが、環境は主に外的環境と内的環境に分けられる。
     
    内的環境とは、本人を取り囲む親・兄弟などの家族、外的環境とは社会(学校、会社、友人その他周辺人)となる。したがって心の動きとは、「外的環境のもとで内的環境の中にある脳内における生理学的活動」と定義できる。現在の科学で人間の心の詳細を解き明かせないが、脳内で起こる生理学的な変化の結果、運動神経系路を通って様々な動作や行動に現れる。
     
    ややこしいがこれが心の実態だ。心のない人間はいないが、「心ない人間」というのはいる。何が人間的かというのかも難しいように、「心ない人間」というのも様々な要素が絡むと難しい。原爆投下を正当化するアメリカだが、人をひとり殺せば殺人者でも、戦時中においては、1000人殺せば英雄である。「人道に外れる」というが、何をもって人道というのか、いえるのか?
     
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    人の上に神がいて、神を崇める人間は神の指令を受ける。「汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において堂々と迎え撃つがよい」。神の命は「人道」になんら反しないばかりか、神の命こそ正しい人の道を清めるものなりである。人の心にはそれぞれ信じるところの神がいる。自分の心のどこを探して神はいないし、人間の魅力とは神仏に無縁の心だと思っている。

    オーストラリアの人質事件など、神の命で人殺しをする人間は一種の狂人だ。人間の最も魅力的なものは、邪神に左右されない心であり、魅力的な「心」を持った人は美しい。「愛情」、「優しさ」、「思いやり」、「親切さ」…、これらは別々のような感じがするが、一言でいうと「心」である。コンピューターが計算が速くても、本当に人間が必要とすることは、計算の速さではない。

    高学歴であっても心の冷たい人はいる。無学歴で心の温かい人はいる。どちらを結婚相手に選ぶのかで、選ぶ側の心も見えてくる。「どんなに心のよい人でも食っていかなきゃ行けないでしょう?」と前者を選ぶ人は言う。正論ぶった言葉に正論はない。正論とは、どこから崩しにかかっても崩れない。前者の人に自分は言いたいのだ。「今の時代、飢え死になんかするか?」

    「食っていくのが大事と詭弁を言わず、贅沢したいと言えばいい」。糟糠の妻が死語といわれる現代、人選びは「心」から「物質」に移行し、それが元での喧騒が離婚の多さにつながっている。「結婚相手は収入4000万」と大言壮語を吐いた世間知らずのお嬢さんが、離婚して現実的になった事で、「この女は本質的バカではない」を実感した。彼女に学習機能が働いている。
     
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    価値と価値はぶつかりやすく、欲方向に収束する。心と心のぶつかり合いはあっても、心ある者同士は善行に収斂していく。「心ある人」を相手に選んだことがよい結果をもたらす。「心ない人」相手を選んだ人たちは、欲や見栄にまみれて家庭運営に苦労するだろう。「心ある人」の意味が、"欲や見栄にまみれない人格"だけでも、欲や見栄にまみれた人との差は大いにある。

    なぜ、人を心で選ぼうとしない?現代社会が功利主義で、価値重視の育てられ方をした。「心」と「価値」は対極にある。人間は外面ではない、内面重視というのは、美しく響くが実は多くは詭弁であり、嘘に決まっている。世の中に美人よりブサイクが好きという男がいると思うか?イケメンよりブサイクが好きという女がいるか?しかし、「イケメンはいらない」と真顔で言う女はいる。
     
    イケメン男の浮気に翻弄され、辛い思いをした女がイケメン要らないと言う。女を見る目の肥えた男も、美人なんか3日で飽きると分っている。それにくらべて「優しさ」、「献身さ」、「奥床しさ」…、そんなものが飽きるはずがない。表面的な価値観よりも内面の美に移行するのは人間の成熟であろう。外観よりも使い勝手のよいマイホームを選ぶ理由は、人は家の中で暮らすからだ。

    ブサイクがイイのはブサイクに新たな価値を求めたこと。だが、実際にブサイクの立場からみると景色は違うようだ。見た目を重視する女性は言う。「痩せたり綺麗になったり…、見た目に自信を持つ事で、内面も変えていけるきっかけになるし、実際見た目綺麗な人ってやっぱり得してる」。これに反論する女性は、「見た目が綺麗になったからって変わるわけないよ!
     
     
    分かってくれる人はきっといるはずだよ!私は心だけ見てくれればそれで充分だな…」。これに女性が言い返す。「そんなの綺麗事よ!」と、根本が違うから結論は出ないが、美人の方が内面重視、ブスが見た目重視なら説得力もあるが、そうはならないのが女性の世界。こんな反動も食らう。「なによ、自分がちょっと美人だからって、あの言い方ないんじゃない?」

    女性の「美」に対する執着の凄さ。見も蓋もない言い方かもしれぬが、どんなに人柄が良く有能でも、ブスってだけで冷遇されることも事実。性悪はネコかぶって隠せるが、ブスを隠す事はできない。頭から紙袋をかぶっていい社会が到来すればの話。先月挙式した三女の夫の父に、「うちの子はかなりネコかぶってるので注意しておいてください」

    といったところ、「ははは、うちの女房なんか3年ネコかぶってましたから…」と、これには脱帽。もっとも一番ほっとしたのは、「余計なこと言ってから!」と父にむかついていた三女。「うちは3年もかぶんらんし」と言う。よく、「第一印象は大事」とかの言葉を聞くが、第一印象のなにが大事なのか?話を始めれば、その時点で第一印象もクソもなくなるわけだ。

    話すまでのきっかけと言ったところで、その程度の儚い命の「第一印象」などないに等しい。実際はどうだか、性悪いといわれる沢尻エリカと森三中の大島美幸となら、どっちと結婚したい?と聞かれたら100%大島だが、もし自分が20歳そこそこの年齢だと、100%沢尻というかも知れん。他人から、「美人妻もらって羨ましい」などと言われたい見栄もあるんだろう。
     
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    性悪女や性格の良い女を過去にたくさん見てきた。一緒にいて落ち着ける女は控え目で性格の良い女。心のいい、性格のいい女は男にとって財産である。それほどの女はなかなか現れないが、この世に生を受けたなら、美しい心をもった女に出会わずして一生を終えるは不幸なことだ。よい女はよい心を育むべく教育があったのだろう、なされたのだろう。

    今の時代に生を受けて、質素でよい心を持った女に出会うのは至難かも知れないが、今の自分が20歳なら現代に生きる現代人。1952年公開の映画に『現代人』というのがある。60年前も当時は現代に生きる現代人で埋まっていた。同様に2010年代も現代人である。言葉は同じでも、人はみなその時代を生きるしかない。
     
    人間の心の本質は決して変わるものではないが、もし変わったというなら、変えたのは社会であろう。「歌は世につれ、世は歌につれ」という慣用句がある。世の中の変化に応じ、歌も変化し、歌の変化によって世の中も影響を受けるとの意味だが、「人は世につれ、世は人につれ」は成立するか?人は世情を反映し、世情は人を反映している…

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  • 12/16/14--16:11: 「心」 ②
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    心理学とは「心」を研究する学問で、「心」はふつう、意識と同じものと考えられている。ところが、深層心理学は、「心」は意識だけではなく無意識も含んでいると指摘する。これは深層心理学が心の病を治療する実践の中で生まれてきた。創始者たちは、人間の心の中にふつうの意識では知り得ない何かがある事を認めないかぎり、自分たちの臨床経験をうまく説明できないと感じていたようだ。
     
    「心」が意識であるなら、人間の意識というのは生理的な出来事ではないし、よって「心」は「物」ではない。生理的出来事と意識との間の関係については、哲学的に数多の議論がなされているようだ。いうまでもないが、脳で起きる生理的な出来事と、この意識現象とは相関していると。だから脳で何が起きているか分かっていなくとも、脳で起きる生理的な出来事に対応して意識があるということになる。
     
    意識は行動を引き起こすが、意識がなくとも行動を引き起こす事も分っている。 人間の意識(見えたとか聞こえているとか、気分がいいとか)と、人間の脳の中で起きている生理的な出来事にどのような関係があるのかが解明されれば、人間の全てが知りつくされることになる。人が何かを「美しい」と感じるのを意識していても、それがなぜ自分には「美しい」と感じられるかについては無意識である。
     
    イメージ 2意識は無意識なものによって決定されている。「心」について思考すると心理学的な考察となりやすく、別の観点から「心」に迫ってみる。「心にゆとりがある」、「心のゆとりが大事」という言い方がなされるが、「心のゆとり」とはどういう状態をいう?「ゆとり」の意味は、物事に余裕があり窮屈でないこと。だから、「心のゆとり」とは、心に余裕があって窮屈でないこと。
     
    では「心の余裕」とは?「お金に余裕がある」といえば支出に対する収入の差に開きがあるということだ。月30万の給料で30万使っていれば余裕はゼロと、物で考えると分りやすいが、「心」は物ではない。この場合の余裕とは?大らかな人間と神経質な人間がいたとする。人から言われたちょっとしたことでイライラしたり、機嫌が悪くなるのはどっち?
     
    言わずとも分ろう心にゆとりのないとは、大らかさがない人間のこと。不機嫌になりやすく他人に不快を与える。自分のことで精一杯だから、他人の事を考える余裕がない。こういう人間とは付き合わないことにしている。誰でもそうだろう。人が避けるべく人間の典型だ。何かあるとイライラ立腹するのは自分のためと思って入るようだが、世間は無人島じゃない。
     
    そんな人間でも我慢して付き合うのが大らかさなのか?仕事仲間とか公的な付き合いならやぶさかでないが、私的な交流をする意味がない。嫌な気持ちにさせられるという人間もいるが、自分の場合は相手の狭量さからくる無神経さに腹が立つ。こういうタイプはあからさまに機嫌の悪さを見せ付けることが多く、そういう時には押さえずハッキリ言う事にしている。
     
    「なんなんだー、そのふてくされた顔は?なにが気に入らないのか知らないが、場の雰囲気を壊してることくらい気づいたらどうだ?トイレにでも行って収めて来いよ」。こんなヤツに遠慮することない。まあ、付き合わないという前に相手が逃げていくだろうが、実際子どもじゃないんだし、チンカス洗って出直して来いと、この手のヤツにはこれくらい言った方がいい。
     
    でなければ相手は気がつかない。言ったところで直らないけれども、人前で恥をかかされて、それでも直そうとしないならどうにもならない。そういう奴は恥をかかさなければダメだ。人前で恥をかかせて自己啓発を期待する。でなければこういう人間は人に好かれない。一人の人間のために皆が嫌な思いをしていることに気づく以前に、自分の機嫌の悪さを訴えたい。
     
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    それが子どもなんだよ。大人の仲間入りしたければ大らかになれ。心にゆとりのある人間は危機に際してもジタバタしないものだ。「よく思った事をいえますね~」といわれるが、中傷や嫌味なんか言う気もないし、人に愛と思えばなんでもない事。人前で恥をかかせるのも愛情よ。やっとこ己の愚かさに気づく人間もいる。食ってかかるなら席を外して二人で話し込む。
     
    自分の心の問題を他人を巻き込むことで解決しようとするヤツがいる。それは、幼少期に不機嫌な態度をして、それを母親が「どうしたの?なにかあったの?」と慮ってくれるのがいい大人になっても直らないというだけ。周囲はお前のオカンではないんだ、お前の不機嫌に心配し、配慮してくれるものなどいないんだよと、そういう事を親は教えない。では誰が言いきかせる?
     
    口を塞ぐ人間が多い中で、そいつの背負った不幸を見れる人間なら言える。それを言って逆恨みされる事もあろうが、人と人と、心と心で触れ合うと言うことはそういう事。それで人間関係がうまくいかないなら、虚飾やるしかない。まあ、自分はやらないから。救われるべきは自分なのよ。他人を巻きぞいにしてどうにもなる問題ではない。こういう論理を親は説明しないね。
     
    イメージ 4自分の不機嫌に人はすぐに対応してくれるなどという、社会では通用しないワガママ特権意識を家庭で植え付け、子どもがある年代になって、「そんなガキみたいなことやるんじゃないよ」と、手の平を返す親がいるか?まあ、乳幼児期の特権階級時代まではいいとしても、動物の親が子どもがある程度の年齢に達したら、餌を与えないような事を人間もやればいい。こういう人は間違いなく他人から敬遠される。我々が幸せになるためには、どういう人と接するかは大きな要素となる。そういう判断能力が大事ということだ。世の中には誠実な人もいればズルイ人もいる。人を愛する人もいれば、搾取する人もいる。コツコツ努力する人もいれば、他人を利用する人もいる。そういう人を見極めないと、ズルズル相手の術中にはまってしまう。

    悪人は人を騙すのが上手い。善い人を演じるのも上手い。自分が欲しい物、狙っている物を隠すのが上手い。「悩んでいる人を救いたい」などと平気で言う。そんなに心のゆとりが人にあるのか?悩んでいる人をそう簡単に救えるものではない。「何かお手伝いできるなら」くらいがいいところだ。相手の話に耳を傾けるとか、安らぎをあたえるとか、その程度くらいだろう。
     
    人が人に接する限界があることを最初から打ち出しておく。でないと、相手は期待し、期待を持たせて逃げなければいけないハメになる。付き合う相手を選べといったが、人の本心は必ず出る。この世で隠して隠し通せるものは何もない。あらゆる手立てをすればどんな巧妙な浮気だってバレる。まず、親切を売る人は注意した方がいい。特に押し売り気味の人。
     
    親切を売る人は恩を売ろうという魂胆がある。自分の行為をいちいち説明する人も嘘っぽい。ある行為が優しい行為として、「だから私はしてるんです」と説明する人はたいてい嘘。自分の言葉を直接相手だけに言うのではなく、世間にあえていうのはたいてい嘘。もしくは相手を評価しながら実は自分を売ってる人。優しさも訴えも自分の行為に純粋なら説明は要らない。
     
    過剰な親切は目論見があることが多い。いい人ぶりたいも目論みの一つ。相手が恩を抱く過剰な親切はすべきではないのよ。人から着せられた「恩」はあまり喜べないものだし。だから、礼を言う側は、相手の負担にならないように注意が要るし、過剰が決していいわけではない。あまりに謙遜する人、不必要なまでに謙るひとも、実は高邁な自尊心の裏返しと見る。
     
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    心を操作し、演じる人は少なくない。「あなたの心の住み家はどこですか?」といわれても何のことか分らないだろう。「終の住み家」とは、自分が死ぬまで住む場所のこと。「心の住み家」とは自分が自然でいれる処。小さい家族の中で見栄をはるでなく、小さいに仲間のなかで虚勢をはるでなく、そんな集団の中にいるなら、すぐに脱出した方がいい。

    自慢話を多くしてしまったなと感じたらそういう集団から離れること。虚栄心を見せ付けた集団なら今すぐ離れること。それをしないままそこに留まったら、継続的に認められようとするなら、益々不幸になるばかり。あの理化学研究所の小保方氏にも通じる。彼女がよくもあの場所に留まろうという性格なら、よほどの無知、よほどの恥知らず、総じてよほどのマヌケである。
     
    ここを去ったら自分は橋の下の乞食同然という選択なのか、よくは分らないが、それを考えるなら他人の辛辣な視線の方が耐えられるということだ。人間は他者の心を砕き、他者から心を砕かれたりするが、彼女の特異な性向は、嫌われても冷蔵庫の下をねぐらに生きるゴキブリに例えられる。社会的羞恥に耐えられない男に比べ、女の居座り根性は二枚舌の産物か。
     
    自分一人がどれだけ会社を、科学界を、国家の世界的信頼を砕いたかの視点が皆無に思える。「STAP細胞はありま~す」、「絶対にあると信じている」、「自分は200回も体現した」と、それが事実であろうがなかろうが、人も死に、これだけ世間を世界を震撼させていながら、再現ができないなら彼女は一回死んだ方がいい。すべてが虚実であった責任を取る意味で…
     
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    その後にSTAP細胞を再生したとあらば、引く手あまたとなって彼女は復活できる。一度は死んだことがむしろ大きな弾みとなってグレードアップする。それだけの自信が彼女にあるのなら1度身を引くくらいなんでもないだろうに、なぜ石にかじりついていようとするのだろうか。理研側との雇用契約云々ではなく、彼女自らの責任の取り方があり、彼女はそれを示そうとしない。
     
    彼女には「自己」が存在せず「自己貫徹」もない。その場限りのヤマ師だろう。「自己」とは何?一人称の「私」を自分の外側から眺めたものが「自己」だと心理学者コフートは言った。つまり「あなた」の中の「私」が自己であるのだと。どういう世界かと説明すれば、自分から見れば「私」というのは当たり前に体験し、感じている世界である。そういう一人称の「私」の世界である。
     
    外から見える「私」というものは、「私」として相手が感じ、体験しているはずのものを、外から共感で見ていったもの、それを「自己」だということ。つまり、「自己」は他者の共感ナシには観察できないものだということになる。自分が人にいうのは、お前が見、お前が感じる「俺」こそが、お前にとっての「俺」である。それが本当の「俺」であってもなくても…。
     
    お前が感じる「俺」がお前にとっても、また「俺」にとっても共通の「俺」であると。「本当の俺はお前のいうような俺じゃない」と言うなら、お前に本当の「俺」を見せればいい。それなら納得するだろうし、修整もするだろうから、本当の「俺」を見せるまでは相手の感じる「俺」でいるしかない。つまり、「俺」は相手の数だけ「俺」がいる。それでいいのだと思う。
     
    イメージ 7まして、本当の「俺」を「俺」本人が分っているのだろうか?多くの人間は人の思う「俺」が気にいってれば同意し、気にいらない「俺」なら否定したりする。それは正しくない。言語道断、相手の感じる「俺」が相手にとっての真実の「俺」でいいのだと。自分が何ものかを知る方法は、多くの他人と付き合い、混じり、そういう中で相手から教わるしかあるまい。
    「人と付き合うもっとも大きい理由は自分を知ること」だと常々思っている。自分は自分を見ていず、他人は自分ばかりを見ているなら、自分の事は他人の方がよく知っているのが道理である。赤ん坊は生まれて以降、自分の主観世界しか知らない。それが成長するにつれて他人は他人なりの主観世界があるのを知っていく。他人と喋りながら相手の心を推し量ることができる。それが成長だ。
     
    つまり、相手が心で考えているであろう事をいろいろ想像し、これからの予測をたてたり、自分の違う面を相手に見せよいとしたり、相手のことを「セルフ」として体験する。相手の心を読むという行為は、相手に主観世界があるということで、相手の自己、セルフ体験してることになる。相手を「対象」としてだけ見ているのではなく、「セルフ」としてみていると言う事。
     
    女を性欲の捌け口としか考えない男、顧客を自分の営業成績の道具としか見ないセールスマンは、単に相手を自分の特化対象としてだけしか見ていない。つまり、相手の自己を思いやったり、大切にしようとかの気持ちが全くない「物」と同じに見ている。自分が大切なら、相手の中の自己に立ち入って大切にしてあげるべきだ。"相手の身になる"という「心」がない。
     
    「思いやり」という言葉は「思ってやる」であり、何をどう思うかは、一切を我が事のように思ってやるということ。自分が大切であるなら相手も大切にすること。それが思いやりである。どうすればこういう「心」を身につけられるのか?乳幼児期からでないと無理だろう。甚だしい自己中心を諌め、人への接し方を大事にし、それを子どもに教えていくのが親という職業だ。
     
     
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    子は親が可愛がるペットでなく、親という職業人に教え育まれる存在である。餌を与えて寝かしつければ子どもは見る見る大きくなるが、身体ばかり育っても頭脳ばかり育っても、「心」が育たなければダメ。それを身につけさせる職業人としての親がいかに大事か、また、それを放棄したことの代償は将来的に大きい。子どもは親のやったように育つ怖さを秘めている。
     
    子育てで何より難しいのは、0歳~5歳という、もっとも愛らしい時期に、親が職業人の意識を持って厳しく躾けなければならないことだ。可愛がるだけならどんなに親は楽か。金を出し、教育を人に委ねて楽する親は親業の失業者である。自らに厳しくできる親こそ、プロとしての職業人であろう。何においてもプロといわれる職業は、半端なく難しい。
     

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  • 12/17/14--15:07: 最強バカ女
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    過激なタイトルのようだが、個人的な好き嫌いの問題だ。何が好き、何が嫌いは、個々の価値観だから文句を言われる筋合いはない。特定の人間を名指しでの好き嫌いも許されよう。天皇陛下が嫌い、総理大臣が嫌いも個人の自由。思うも言うも自由な国だが、あの国で金正日や金正恩の悪口を公に書くと、突如何物かが訪ねて来て連れ去られるのだろうか?
     
    事実なら恐るべし国家統制だ。昨日12月17日は金正日の命日。彼のファンでもない、好きでもないが、死んだ日を命日という。今年で3年目にあたり、金日成に次ぐ北朝鮮の英雄となっている。英雄は死しても英雄だろうが、米紙ワシントン・タイムズ(電子版)が10日、以下の見出しで報じている。【 金総書記、拉致を直接指示か=米紙が文書入手と報道 】
     
    これによると、北朝鮮の故金正日総書記が1977年9月に外国人の拉致を工作機関に直接指示したとある。西側情報機関が北朝鮮の機密文書を入手し、同紙が翻訳文書の一部を得たという。横田めぐみさんは13歳だった77年11月に失踪した。同紙によると、金総書記は77年9月と10月に北朝鮮の工作機関、朝鮮労働党対外情報調査部(当時)の幹部に外国人の拉致計画を説明。
     
    その後、東南アジアや中東、東欧に工作員を派遣して若い男女を誘い出すよう指示したという。金総書記は2002年9月、訪朝した小泉純一郎首相(当時)に日本人の拉致を認めて謝罪したものの、「特殊機関の一部が妄動主義や英雄主義に走って(拉致を)行ってきた」と語り、自らの関与は否定していた。死人に口ナシだが、生きていても否定をするだろう。
     
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    最高権力者の指示・命令があったとすれば国家犯罪だが、金正日の上の言い分は拉致実行者を逮捕収監しない限りは詭弁である。政府の工作員が罪もない日本人の若い男女を故国から暴力的に連れ去り、20年も30年もそのまま拘束するという行為は、言語道断にして非人道的であり、残酷きわまりない。さらに北朝鮮には幾多の明確な国家犯罪がある。
     
    国家機構総動員によるグローバルな規模で展開している麻薬や偽造紙幣の製造と密売、サイの角や特殊ダイアモンドなど禁制品の捕獲と密売、外国犯罪組織と結んでのマネー・ローンダリング(資金洗浄)、そして大量破壊兵器関連の違法な取引などという不法行為である。これら北朝鮮は、現在の世界でも唯一の「犯罪行為で国家財政を支えている国家」といえる。
     
    2001年のブッシュ政権の発足と同時に登用され、国務省東アジア太平洋局上級顧問兼北朝鮮作業班調整官というポストについたデービッド・アッシャーは、以下5領域の北朝鮮当局の犯罪の骨子を具体的、詳細に報告しているが、これらの行動はあらゆる国際法に違反するだけでなく、国連憲章で主権国家に与えられる一般の保護措置をも不適切にしているものだ。   
     
    ◎麻薬とくにヘロインとメタンフェタミンの生産と海外での流通
    ◎外国紙幣、とくにドル紙幣の偽造と、外国のタバコ、医薬品の偽造と販売
    ◎禁制動物の捕獲と密輸
    ◎マネー・ローンダリングと犯罪組織とのつながり
    ◎武器の密輸と大量破壊兵器の取引
     
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    「アッシャー報告」はその後、アメリカの他の研究者やメディアにより広範に広められ、日本でも拉致問題の解決を目指しての北朝鮮への経済制裁発動を求める動きが目立ってきた。が、北朝鮮に対し、経済面で打撃を与える効果的な対抗措置が求められてこそ、「アッシャー報告」の日本にとっての効用といえるが、日本の政治家にバカしかいないではダメ。
     
    力道山の愛弟子として師の故国北朝鮮とのパイプを持つ猪木議員に頼るのか?猪木氏は著書『闘魂外交』の中でこう述べる。「私が懲罰覚悟で訪朝することによって私にメリットは何もありません。リスクだけしかないのです。それでもやるのはそれが必要と思ったからです。闘魂外交の信念を懲罰を恐れて曲げるのは私らしくない。国会の嫌われ者になったって構いません。
     
    国民の立場から見た常識を背負って、必要ならばいつでも議員バッジを置く覚悟もできています。北朝鮮に利用されているんじゃないかという声も聞きます。利用されている? 大いに結構。私が作ったこの道を通って、後に続く人が日朝関係の改善を果たしてくれればそれでいいのです。私も70歳を過ぎました。いつ倒れる日がきてもおかしくない年です。この先私がいなくなっても、北朝鮮との交流が途絶えないことを私は祈っています。」
     
    国会の許諾を得ずに訪朝したとして30日間の登院停止処分を受けた猪木議員をバカと見るか利口と見るか、大義や正義はあるのか、北朝鮮側にすればなついて寄ってくるペリカン便なのか、どうであるにせよ国会の承諾なしの国会議員の訪朝は懲罰もの。彼を招待した張成沢は12月8日粛清され、公職追放された。そして12月12日死刑判決を受け、即日処刑された。
     
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    バカな政治家とそうでない政治家がいる。バカな政治家を選ぶのは国民がバカだと言われている。国民にもバカとそうでないのがいる。結果より大事なのは、国民が政治に興味が無いと言う事だ。そこは国民の意識のなさだろうが、それにも増してバカげたシステムがある。比例代表という制度。選挙民が「No!」と烙印を押した議員がこれでゾンビのように生き返る。
     
    有権者の声が反映されない選挙制度というなら小選挙区制度も同罪だ。それは得票率という問題で、衆議院選挙で単独政党の得票率が過半数の50%を最後に超えたのは、今からなんと51年前、自民党の第二次池田内閣の下で行われた第30回衆議院選挙が最後。この時自民党の得票率は54.67%。以後、衆議院選挙において単独政党が得票率50%を超えたことはない。
     
    得票率が過半数に満たずとも、比較第一党となれば過半数を超える議席を得れる。1票の格差の問題も影響するが1票の格差を限りなく是正したとしても、小選挙区中心の選挙制度を採用する限り民意を歪ませた選挙結果は避けらない。有権者の声が政治に反映されないという前に、戦後最低の投票率という政治に無関心な国民も問題。自分以外のことに興味ない日本人。
     
    そのことが、日本人を世界レベルで見た場合に最大劣っている点だ。そこで表題に戻る。「最強バカ」は自分の主観だが、多くのことに興味ない、「自分に関係ない話、聞きたくない」の言葉を発する女のこと。自分が綺麗になる事と、自分と自分の周囲の人間関係以外は興味が無いらしい。これでよく社会を生きてられるなと思うが、支障なく生きてる。
     
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    "支障なく"とは、何か聞かれて「わかんな~い」、「興味ないんで」で済んでしまうからだ。人にバカと思われようが綺麗になる事以外どうでもいい。前にこう言う事を覚えている。25歳だったと記憶する。付き合っていた女だが、ある日自分の友人についていろいろ話すことになった。それで話し終わるや否や、「わたしに関係ない話はしないでくれる?」と言った。
     
    その時にどう思ったかは記憶にないが、かなり腹を立てた自分はその場で絶縁を言い渡す。「もう、お前とは会わない」の言葉を一方的において、そそくさとその場を去った。おそらく、自分に関係ない話に興味が無い」という、彼女の言葉通りの性格に嫌気がさしたと思う。例えばもし、彼女が友人の話をアレコレ一生懸命にすれば、当然こちらも興味を持って聞く。
     
    なぜなら彼女の周囲で起こった事は彼女にまつわることであり、そのことで彼女がどうした、どう思った、どうなったを聞くことで彼女を間接体験できる。つまり、彼女の周囲の事は彼女と同等のことである。もし「オレに関係のない話はしないでくれるか?」といったなら、彼女は話す事に困惑するだろう。彼女はオレと出会う前に数年、数十年の環境で生きていた。
     
    そこに自分は関与していない。だから、「オレに関係ない話をするな」と言われたら話しなんかできない。と、同じことが彼女の言葉に盛られている。「わたしに関係ない話はしないで!」と言われりゃ、「だったら話なんかあるか、できるか!」と思うのは決して短絡的な怒りではない。今でいう自己チュー?究極のナルシスト?俗称はどうでもいい。
     
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    こんな女と一緒に寝起きできるはずがない。過去、こういう言葉を発した女には、「お前は無人島に行って住めよ」と言ったりしたが、自分にしか興味が無い、相手にも持たせない奴に「最強のバカ女」の称号を与える。男にもいる?「そんなのカンケーねぇ」ってほざく奴はいたが、男の口から「オレに関係のない話はするな!」という言葉が発せられた記憶はない。
     
    いてもいいが、それで男は務まらないのではないか?美容と悪口と物欲の話しかしないでも女は人間関係やれるだろうが、いくらゴルフバカ、何か一つの道楽バカといえども、いろいろな会話ができないと男の交流はできない。傾向として、例えば体育系が文化事に興味が無いとそっぽを向けば、自分がどれだけ悲惨であるかをヒシヒシ感じざるを得ないと思う。
     
    やはり男の視野は多角的であるべきだ。もちろん、興味のないジャンルはあるだろうが、女の興味の狭さほどではない。すべての事は興味であり、それなくして疑問は沸かない。たとえ知識がすくなくとも、問われたことの答えが分らなくとも、疑問を抱けばそれも知識である。世にどんな優れた科学者多しといえども、聞いて、調べて、博士になった以外の科学者はいない。
     
    おそらく自分だけではないと思う。あのようなことを言われて立腹するのは。彼氏が元カノのことを話すとむかむか怒る女がいる。「止めてくれる昔の彼女の話は…関係ないでしょ?」という女に、「過去は過去。だから今の自分があるんだろう?」、「だって聞くのいやじゃない?」、「出会う以前のお前に何があったからって関係ない。関係ないってのはそういう風に使え!」
     
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    確かに、彼女の存在すら知らなかったとしても、彼女は生きていたわけだし、別の相手もいたわけだし、それを自分がどにも拘束できる問題でもない」それが道理(理性)である。それなのに、恋人の過去に拘る人間というのは、どういう心の在り方なんだ?物事を理性的に考えられないで、恋人の過去の相手に嫉妬するのは、バカげた話よ。嫉妬してどうなる?
     
    「イヤなものはイヤなの」と、これは女の専売特許。イヤものがおかしいと疑問を持てよいうしかない。彼女の存在すら知らなかった以前のことに妬きもち妬く方がおかしいと納得するのが理性であり、それが道理を受け入れたことになる。「無理、そんな風に考えられない」というなら、こういう感情だけに生きる女にいちいち振り回される覚悟をすることだ。
     
    自分なら理性的思考で無意味な感情の抑制をするように仕向ける。そういう努力をしない女、しようとしない女は、所詮は自分が振り回されることになるから付き合わない。だれが、女の感情に振り回されたい男がいよう。いないけれども振り回されて辛い思いをしているのが多い。それは男が躾けなかったか、容認したかのいずれかだから、文句をいう男が悪い。
     
    「あなたと話をしてもつまらない」という女と、「あなたと話してると世界が広がる」という女がいる。どっちだって構わんが、「あなたと話をしてもつまらない」と言われた女には感謝だ。そういう女は自分とてつまらないし、だから正直に「つまらない」と言われる方がいい。隠していたり無理をされるよりはいい。「つまらない」というのは、決して悪いことじゃないから。
     
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    自分のレベルにあった相手と楽しく会話した方がいいだろう。むかし、「何で女はいろいろな事に興味を持たないのか?」と不思議に思った時期があったが、女の世界にはそういう人間が少なく、興味のあることだけで会話が弾むからそれでいい。自分は女の興味のある話には全く乗らないので、「つまらない」といわれて当然と思っているが言わない女もいる。
     
    「やるだけの関係じゃイヤよ」という女。バカを言うでない。会ってる時間中やってるバカがいるか?会話もし、飯も食い、散歩もするだろう。だたし、女性週刊誌のゴシップネタや美容とダイエットばかりの話は男もごめん被りたい。男が女に「生返事(いい加減な返答)」するのを嫌う女がいるが、そういう話は男にとって興味ない話題と知ったほうがいい。
     
    最も男の頭の中もゴルフと酒と女とパチンコしか興味のないのがいるが、男はあえてそういう話を女の前でしない。男同士の会話、女同士の会話はある。男と女の仲睦まじさは会話よりも同衾か?それもなくなった暁には、「空気のような夫婦」という存在になる。それはそれで夫婦の最善の形なのかも知れない。互いが共通の趣味を模索し、円満夫婦も素敵であろう。
     
    「ウチの嫁がどんだけバカか聞いてくれるか?」という友人の話は深刻であった。植木等の「ハイそれまでョ」の最後に、「泣けてくる~」の歌詞があるが、女も子どもも甘やかせた責任は自分がとるしかない。「もっと早い段階で対処しなかったんだ?」といいたかったが、現実それを言ったところで意味はない。毎日ストレスの日々が憐れでしかたがない。
     
     
    男の「どうにかならんか…」は、本当にどうにかしたいようだ。「いっそ、他の男でも作って出ていってくれたら有り難い」と本気で言う。今相談されても、自分ならここまでならんし、こうなった現状に答えは出せない。「"お前の顔など見るのも嫌だ。このブタ女!"と言って、相手を怒らすしかないな」。「そんなこと怖くて言えんよ」。「…(これが男なら「ハイそれまでョ」だな)」と心で言う。
     
    これほどこじれた夫婦は喧嘩して別れた方が賢明だ。いわゆる "箸の上げ下げまで気に入らない"夫婦に、ヨリを戻す方策ってあるのか?かつて「子は鎹(かすがい)」と言い、夫婦の仲をつなぐ役割を果たしたが、昨今のように離婚が多いと、それほど子どもに影響ないと離婚を急ぐ。かつてような離婚の少ない時代、「子どものために我慢した」という話はよく聞いた。
     
    夫婦の内情や諸問題を妻が一心に留めて我慢をし、子どもに夫婦の実情を悟られぬよう隠した時代ならいいが、そういう我慢と配慮という明晰さもなく、夫婦の険悪な姿を堂々晒すのはむしろ子どものためにならない。さっさと離婚した方が正解だ。
     
     

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  • 12/18/14--15:18: 最強バカ男
  • いつからなのかテレビはバラエティ番組全盛で、それだけ番組が多いというのは、多くの人が見ていることになる。無芸芸人の何が面白いか理解に苦しむが、彼らが自分のバカさ加減を自慢し、相手のマヌケさを披露し、トンチンカンな返答で自分の無能を誇示し、そんなこんなのやり取りを聞いていると、笑えるどころか、つまらないを超えてテレビを消したくなる。
     
    テレビの一方通行が問題になった時期があったが、最近は一方通行でよかったと思っている。こやつらとまともに話はできないだろう。チャップリンやモンティパイソン、ハロルド・ロイドなど、欧米のコミカルタレントやグループは、知的な笑いを提供してくれるが、彼らは日本人の無芸芸人とは笑いの質がまるで違う。質の差とは、"地バカ芸人"と、"知性芸人"のことを言う。
     
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    芸能人はともかく、自分の思う男の最強バカとはどんなバカか?その前に養老孟司氏のいうバカとは、自分の考えにこだわり、相手の考えを耳に入れない。全体の状況を考えて、多角的視点から適切な判断を下せない。などの人間に贈られる称号のようだ。そういう人間が、自分のいやな事、知りたくない事、興味のない事に対して、「バカの壁」を作って情報を無視する。
     
    知りたくない、聞きたくないと「壁」を作って遮断している人間に、「話せば分る」などは土台無理。なぜ、そうまで頑なになるのかだが、自分の母親がまんまの人間なので推測しやすい。まず、支配欲が強い。だから自分の言う事を聞く相手、自分の思う成果を出す以外に子どもを褒めることはない。常に自分が物事を裁きたがり、それができないとストレスを感じる。
     
    要約すれば「神」でありたいということ。誰にも従わず、誰にも従わせたがる。相手にストレスを与えるし、周囲を困らせていることが多いが、思いのほか自らが人間関係に悩んでいる。人と合わせる必要があっても上手く折り合えないから、人との交流をしたがらない。このように自分がこの世で一番偉いと錯覚する人間は、裸の王様であることに気付いていない。
     
    人と交流したがらない人間にはいろいろ理由があろうが、交流してもゴルフや酒やパチンコの話題しか出せない人間がいる。政治や経済の話題ももてないのはテレビのニュースを見ていないのだろうか?確かに本を読んでいない人間は視野が狭い。視野が狭いのは関心が狭いのだろう。関心が広ければそれについて知識を得、思考を深めるために本を読むだろうから。
     
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    12月10日放送の「クローズアップ現代」は、『日本 "読書 ゼロ"社会の現実と今後』というタイトルで、読書時間ゼロが日本人の2人に1人にまで拡大していると警鐘を鳴らす。日本社会に広がる読書ゼロに強い危機感を抱く大学。ある大学では4年前まで貸し出し数は増え続け、年間17万冊に達していた。それが一転、毎年1万冊のペースで貸し出し数が減り続けている。
     
    ある大学教授は、「本を読まない学生に論文の課題を出しても自分の意見を言えない。表面的な話をいくつかつなげ、それが自分の意見であるように錯覚する傾向性が見える」と危惧する。読書が脳に与える影響を研究する東京大学大学院の酒井邦嘉教授は、読書は五感を駆使するので、読書をしているときの脳は、ほかの活動をしているときとは違う特徴があるという。
     
    「本を読むという行為は決して情報を得たいというためにやるわけではなくて、むしろ『自分の中からどの位引き出せるか』という営みなのです」。酒井教授のいうように、読書を通して過去に見た風景などの記憶をもとに、想像を膨らませ場面のイメージが脳の中に出来上がる。読書によるこうした一連のサイクルが、想像力を養うことにつながると考えられている。
     
    「読書と言っても、そういう言葉だけでは実はなくて、視覚的に映像を頭の中に想起するとか、過去の自分の体験と照らし合わせて対比して考えるとか、自分で得られた情報から更に自分で自分の考えを構築するというプロセスがはいってくるので、人間の持っている創造的な能力がフルにいかされることになります。」(東京大学大学院総合文化研究科 酒井邦嘉教授)
     
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    ゲストの立花隆氏は酒井教授の説に対し、「視覚がまずきてみたいなね、そういう感じはまったくないですよね。ある本、ある文章を通してその人の脳を刺激する仕方ってものすごく違うわけですよ」と異論を述べ、「若い人が読書をしなくなることで、知的劣化が起こるのではと多くの人が心配しています」との国谷裕子キャスターの発言に立花氏はこう切り返す。
     
    「知的環境そのものの変化の中で、むしろこの変化を利用してどんどん自分の知的能力をふくらませていってる人たちが、一方でものすごくいるんです。」と、固定的な思考を批判。折角の番組を立花氏にほぼ全否定された「クローズアップ現代」であり、それならと最後に国谷キャスターが、番組最後に問う。「本を読む上において最も頭を鍛えるには何をすればいい?」
     
    立花氏は、読むだけではダメでアウトプットの必要性を説く。「何かをまとめて書くという体験に行かないと、より読書が深められない。知的な内容のものを深めるだけではなく、全体をまとめるためには、書くという行為が必要になる。」と、いうように、読むという行為が発見であるなら、書くという行為は立花氏のいうように、全体の"まとめ"であろう。
     
    まとまりのない文章を書いている自分がいうのもおこがましいが、自分的にはまとまりを求めて書いているつもりである。"つもり"だから、実現できているか否かの主観判断は他人がすることだが、"つもり"という意識は大事であろう。ただし、安易に便宜的に使われる事も多い。「謝罪のつもり」、「親切のつもり」、「努力してるつもり…」など、確かに便利な言葉である。
     
     
    「ブログは暇つぶしでね…」そういう意識はさらさらない。自分はブログに限らず暇だから「暇つぶし」に何かをやるという意識がない。そもそも「暇」と言うのが何なのか分らない。「暇だ~、することがない」などという人は何故にそうなのか?することがないということが実際あり得るのか?そこが分らない。本来「暇」というのは、することがない事を言うのではない。
     
    しなければいけない事(義務・強制)から解放された時間だと感じている。ならば義務・強制でない自分の時間を持てて幸せだ。それなのに「することがない」とはなんということ、つまらん事を言ってると感じる。「男は敷居を跨げば七人の敵あり」と言われるほど(七人とは多くのとの意味)に、男は元来忙しいのである。だから、こういうことをいう男は自分的にはバカ男。
     
    苦労も多いが苦労は肥しであって、そんな苦労はものともせずに立ち回るのが男である。そうはいえど、年齢を重ねるとソワソワの時間がなくなってしまう。ソワソワを味わえない淋しさを感じる。至れりつくせりの便利な文明社会で、あえて不便さに身を置く事もある。クルマで行くところを自転車、自転車で行けるところは歩き、歩いて行けるところは這って行く。
     
    まあ、それはないだろうが速さは便利である。瞬達メールもいいが、2~3日かかる封書・手紙に趣がある。手紙の裏には差出人、開封までのわずかな時間のときめき感…、さまざまな思いが頭を過ぎるし、それらはある種の興奮に似たものだ。何より手紙の良さは自筆の温かさ。近年は賀状も機械に頼っている。かつて司馬遼太郎は、文明と文化の違いをこう説明した。
     
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    「ビルが建ち並び、電気水道が通ればそれはもう一つの文明である。しかし、文化は違う。人間の営みとそれに付随する精神というものがなければならぬ」。手紙は、古くから用いられてきた文化であるが、手紙を書かなくなって何十年になろう。書くといえばブログくらいか。"打っている"が、書くというのは時代の呼称だ。お風呂がシャワーであったりするように。
     
    日々の生活で便利さは優先されてしかりだが、便利の恩恵に頼らず、時には文明に批判的になって、文化を見つめ直すのもいい。最強バカ男といいながらも我が身振り返れば、人間はバカに向かっていってるのではないか。バカはまれにみるものだったが、常時バカが増えていく気配を感じている。謙遜は自尊心の裏打ちと思えば「自分はバカだから」も易々言えない。
     
    まあ、不用意な謙遜はイヤらしいので言わない事と決めている。どうにもならない人間を指して「バカ」と言う事が多いが、「人にバカという人がバカ」という反論はさすがに大人からは聞かれない。アレは子どもの喧嘩の常套句だ。人にバカと言う際は根拠を示さないと情緒的になってしまう。だから必ず根拠の提示を怠らない。でなければ人に「バカ」というのは難しい。
     
    イメージ 5立花隆は1995年、東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。1996年 - 1998年には、東京大学教養学部で「立花ゼミ」を主催。その立花が『東大生はバカになったか』を書いたのが2001年で、なかなかセンセーショナルなタイトルであった。その中で立花はこのように記している。「歴史をたどれば、昔から東大生はバカだった(あるいはバカに育てられた)のだ。(略)それはもちろん基本的な知的能力を欠くと言う意味のバカではなく、コンドルセが教育の目的として述べている(略)「教育の目的は現制度の賛美者をつくることではなく、制度を批判し改善する能力を養うことである」という言葉に照らしてバカと言っているわけだが、実は最近の調査によると、東大生の中には、本当の単純バカが相当程度出てきているらしいことを知って、私はかなりショックを受けた。
     
    立花のいう単純バカとは、現今の東大生のなかに、一円硬貨の直径(2cm)を0.1cmとか、5cmと答える者、東京―札幌間の直線距離(831km)を30kmと答える者、地球一周の長さ(40000km)を6000kmと答える者がいる。漢字を書かせると現段階⇒現代階、単純⇒単順、公害⇒工害、結果⇒決果、匹敵⇒必敵、自由化路線⇒自由化路戦とあらば、立花ならずともショックだろう。
     
    教養とは、全体を幅広く見る巨視的能力を身につけることで、人に教養がないと近視眼人間になる。立花は教養をこう定義する。「教養とは、他者があなたを判断するとき、それがないとバカにしたくなるような一連の知的属性。それがあるからといってリスペクトしてもらえる訳ではないが、それがあれば大抵の人から、こいつは対等に言葉をかわす価値があると思ってもらえるだろうような知的属性。」
     
     
    一円硬貨の直径を0.1cmと答えた東大生を想像してみる。実寸の2cmはとりあえず置いておいて、0.1cmというのは1cmの1/10だから、まずは1cmというのがどれくらいの長さを知る必要がある。最も分り易いのは、筆入れにある20cm定規を思い出せばいい。そこには1cmずつ20の目盛りが記されているが、1cmの長さが自然頭に浮かぶだろう。して0.1cmとは1mmのことである。
     
    一円硬貨が1mmであれば、それは鼻くそ以下の大きさだ。この東大生は何かを勘違いしたと思われる。1cmや1mmの長さを想像できるなら、1円玉を正気で1mmと思うはずがない。次に東京―札幌間の直線距離(831km)を30kmと答えた東大生。30kmの長さが想像出来ていなかったのだろう。教養としてマラソンの距離(42.195km)を把握していればこんな数値が出るはずがない。
     
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    東京―札幌が30kmならマラソンより短い。40kmちょいの距離を2時間ちょいで走るランナーのスピードは時速は20km(秒速5m)となる。東京―札幌の実測831kmを直距離で走れば41時間かかるが、30kmと答えた東大生は、日本地図が頭に浮かんでも、地図中30kmの距離感がシュミレートできないのは、一度足りとも地図上で距離計測というお遊びをしなかったのか。
     
    ちなみに東京・日本橋から30kmは、大宮、柏、横浜となる。したがってこの東大生は「単純バカ」の有資格者であろう。地球一周を6000kmと答えた者(実測は40000km)も、距離音痴というか、地図帳あたりを数字(距離)と照らし合わせて眺めるという遊びをしていないのでは?有要なことばかり塾で教わる勉強が沁み付き、遊びから学びの楽しさを感じたことがないと思える。
     
    日本から6000kmといえば、名古屋―ホノルル(ハワイ州)くらいになる。日本から10000kmはオタワ(カナダ)、シチリア島(イタリア)、シカゴ(アメリカ)辺りになる。という風に、一度でもこのようなことを頭に入れたと入れないとでは違う。後は忘れるか残っているかの問題で、雑学の部類だが、距離的感覚を提示できるという意味で、これとて教養といえばそうとも言える。
     
    教養>雑学という言葉の問題ではない。何でも興味を持つか持たないかの差が大きい。知的好奇心といえば聞こえはいいが、「HOW TO」よりも「WHAT」を考え抜くチカラが大事であり、好奇心は学問、仕事、コミュニケーションなどにおける、すべての原動力かもしれない。これが希薄な男は、"最強"とまでいわずとも、周囲から「バカ」の称号を授かるかもしれない。
     
    「○○好奇心」という語句は、「知的好奇心」以外に「性的好奇心」、「病的好奇心」がある。「病的好奇心」とは、好奇心の強度が非常に大きいという程度を表わす言い方。「性的好奇心」は本能領域だからあって当たり前。人が本来隠すところだけに強い好奇の対象となるが、猥褻バカ教師は目に余る。数日前も県内屈指の進学校である青森高校教諭の教え子盗撮…
     
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    「男の最強バカ」の称号は青森高校原子真輝教諭他、猥褻教師に贈りたい。原子容疑者は12日午後9時半ごろ、修学旅行の引率中の京都市下京区の宿泊先ホテルで、女湯の脱衣ロッカーの上に仕掛けた遠隔操作ができる置き時計型ビデオカメラを使い、高校2年の教え子らを動画撮影した疑い。原子容疑者の原子爆弾並みのバカな行為に同情さえ抱かされる。
     
    これしか女の裸を見る機会がなかったのか?性に渇望する男の気の毒さ。名門千葉大出身の彼は受験の勝利者であったのだろうが、女の道も自らが切り開けだ。マニュアル化された勉強より、自力で女一人口説く方が至難だろうが、こうなっては彼も受験の被害者かなと。勉強三昧による女飢饉が男に常軌を失わせる?気の毒だが受験戦争は斯くの落伍者も生む。
     

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  • 12/19/14--07:18: 「手のわろき人の」
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    首相官邸のホームページに、「アベノミクス"3本の矢"」と題された安倍総理の経済政策が記されている。先の選挙で国民は自民党を支持したかに見えるが、「他の党よりマシ」というのが本音である。それほどに民主党政権の無能・無策ぶりに辟易したのだ。2009年7月21日、衆議院が解散。「政権交代選挙」が行われる。各種世論調査では終始民主党の圧倒的優勢が伝えられていた。
     
    結果、絶対安定多数を超える308議席を確保し、民主党は政権交代を実現させた。308議席は一つの党が獲得した議席数としては戦後最多であり、比例区の得票も2984万4799票を獲得し、これは日本の選挙史上で政党名の得票としては過去最高を記録した。圧倒的人気を背景に成立した民主党政権だが、その民主党政権時代に日本に起きたことは「失われた3年」と言われている。
     
    3年間の民主党政権で3人の総理が誕生した。鳩山由紀夫(2009年9月16日-2010年6月4日)、菅直人(2010年6月8日-2011年8月30日)、野田佳彦(2011年9月2日-2012年11月16日)と、絵に描いたような持ち回り内閣はいずれも短命である。野田政権下で衆議院は解散、12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙の結果、民主党は選挙前の230議席を大きく下回る57議席に終る。
     
    期待が大きかった民主党だけに国民の失望・反動の選挙結果である。我が国の国政史上に大きな汚点を残してしまった民主党政権だった。民主党は2013年2月19日、慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科の曽根泰教教授を招き、「民主党再生の課題」と題して党改革創生本部(本部長・海江田万里代表)の第2回勉強会を開いたが、曽根教授はこのように述べている。
     
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    「2009年の総選挙の際に、民主党が政権を取ったらやってはいけないことをずいぶんアドバイスしたが、それを全部やったのが民主党だった」と曽根教授の口は辛辣であった。そして、「民主党は今回の総選挙で大負けしないで済む負け方の工夫もあったが、それにも失敗した」と話す。今さら口に苦い良薬を持ってきても、二度と民主党政権はないだろう。
     
    大物議員の小選挙区落選者は、菅直人、田中真紀子、松本龍、仙谷由人、藤村修、小宮山洋子、樽床伸二、城島光力、田中慶秋、原口一博など。この中で落選の弁を、「国民の民度が低いから」と言った奴もいた。アレから2年、師走の第47回衆議院議員総選挙でまたも菅直人は落選。民主党の海江田万里代表、元みんなの党渡辺喜美、次世代の党中田宏らが議席守れず。
     
    選挙で落選と言うのは国民の支持を得られなかったということだから、その原因が自分なりに分らないのは不幸なことだ。分ればもっと支持を得れるやり方を模索できたかもしれない。選挙は受かることがすべてだから、その場しのぎであれ受かる努力は大事。大学生が就活で面接テクニックを身につけ、好印象を当たえて採用されるようにと同じこと。
     
    コレよりアレがいい、いや、そっちがいい、やはりコレがいい…、多くの「いい」があるから迷う。情報に恵まれていると、よりよいものをチョイスできるし、幸せなことである。自分はひと通り文字を書いた後で、画像や映像をチョイスしてブログを完成させる。どの文意にどの画像や映像を使うか迷うことはない。ぱっと決めて探すだけで、迷わないのはそこまで完成度を求めない。
     
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    センテンスに相応しい、これといった画像・映像はあるだろうが、あまり拘らない。偉人や賢人たちの名言はよく使うし、いい言葉を述べる一般人も多く、上手いこと考えるなと感心したりする。個人のブログから名言なり、良いセンテンスなりを拝借しようにも、ふと見ると、「無断転載禁止」の文字があり、それでは使えない。わざわざ断りを入れたりするのも面倒臭い。
     
    せっかく善い文章や言葉に遭遇したのに引用できない…。自分などはしばし断定言葉で書くことが多く、気に触る人には「分ったようなことをいう人ですね?」とか言われたりするが、そんなの当たり前だろ?人がおいそれと物事が分るはずがないんだし、断定言葉であれ何であれ、所詮、分ったようなことしか書けない以上、わざわざそういう指摘の必要はナイ。
     
    人は誰も分かったようにしか書けないのよ。ところで、「無断転載禁止」と断りを入れている人はなぜそうしている?著作権は営利を目的としたものの無断引用を禁じているが、そうでない場合も他人の文章の引用は著作者のお気に召さないものなのか?人はいろいろだからお気に召さない人がいてもいいが、なぜお気に召さないのかを理解できない自分に答えが欲しい。
     
    答えがわからなくとも、疑問を深めれば、それも知識だと思っている。つまり、考えても答えが出せない問題は多く(特に他人の決め事など)、でない答えであっても思考すればそれすら知識だ。自分の文章なり、挿絵なり、写真なりを、利用されてなにを失うものがあるのかが分らない。無断でなければいい、断りを入れるならいい、という人がいた。それって自己満足か?無断が腹が立つだけか?
     
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    「常識だろ?」、「モラルだろ?」など言うが、自分の記事を丸ごとであれ、部分引用であれ、誰かが使ってくれてるのは名誉なことじゃないのか?偉人・賢人の名言引用は、それが素晴らしいからであり、同様にトーシロの素敵な言葉、あるいはイラスト、写真に感銘を受けた人がいるのは有り難いことではないのか?自分に知らないところで使われていても…
     
    だから、人が何を許したくないのがまるで分らんのだ。自分の基準が他人の基準でないのは理解できるが、無断転載している人に「やめてください、違法です」っていうのは与えられた権利であって、そのことは間違ってない。が、それで何を得るんだ?さらにいえば、無断使用してる人に何の利得があるんだ? そこまで考えてみたことあるんか?と思ってしまう。ビジネスはそこまで考えることはないが。
     
    ネットにこいう文があった。「無断転載はされて当然、そう思えないならネット上に絵を上げるな」と、一見過激な言い分だが的を得ている。「ネットに個人情報を出すことは漏洩して当然と思え」と同じこと。問題は悪用されるかどうかであろう。企業などのようなしっかりした管理体制がなされていても漏洩するわけだ。ガードもセキュリティも甘い、ブログに晒して引用されたと言う方が心が狭い。
     
    と自分は思っている。が、無断引用を咎められたら丁重に謝って削除をする。人間いろいろだから、引用側は相手の基準に合わせるべきと思う。キャパの大小などと言ったところですぐに身につくわけではない。何が気に入らなイ理由は分らないといったが、想像はできる。おそらく「何様」気質性向か、妄信的遵法者か、それ以外に立腹する意味は理解できん。
     
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    自分が引用しようと思った記事は、"「死ぬまで生きよう」という心のリハビリ"という表題で書かれてあり、「もう、(死んでも)いい」というあきらめから、「死ぬまで生きよう」というところに行ってもらうには、どのような心の持たせ方があるのか?という大病患者のブログ。さするに「何様」気質には思えないが、「無断転載禁止」の文字が光る。おそらくこの方は、記事が一人歩きするのが嫌なのかと推察した。
     
    几帳面な方なのだろう。すべてのことを"ぞんざいに"の自分とは性格が真逆だ。「死ぬまで生きよう」が、ことのほか難しい人はいるようだ。それと同じ境遇にならないと「死ぬまで生きる」ことの難しさが分らない。「生きていても面白くないから生きているだけ」という声も耳にするが、せっかく生きているなら面白く、楽しくできないものかと思うが、そのようにできない性格の人もいるんだろう。
     
    「どうすれば楽しいのか分らない」という人は気の毒だ。自分は何をしても楽しい(楽しくない事はしないからか)。スポーツ観戦や趣味やら何やら楽しいという人もいれば、ショッピングが楽しいという人もいる。確かに気に入った何かを買うのは楽しい。自分は何かを買うときはまとめ買いをよくする。靴など一度に10足買ったり、気に入った洋服があれば何着でも。これを「大人買い」と言うらしい。
     
    結局、何が楽しいかは買う瞬間にある。買って家に持ち帰る、あるいは郵送で届いた時点から喜びは減っていく。ブログも同じで、書いてるときが楽しく、書き終わったらもはや何でもない。多くのことがそうなのかも知れん。立花隆はインプット以上にアウトプットが大事と言った。例えば宝くじの正確な情報はというと、集めたお金の53%を国が持っていく事になっている。「ほんまかいな」と思う人は多いかも。
     
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    胴元が53%もかすめるなどは詐欺に近い。買うの止めようぜ。「一等が当たる確率は交通事故に合う確率より1000倍も高いのだ!」と主張すれば、立派な分析であり、解釈であり、評価である。これを元に自分は買わない。なぜ人が買うのかは分らないが、買わなくなった奴は何人かいたのは説得力が巧を奏した(?)ようだ。アウトプットの本質は説得力であろう。
     
    企業などのプレゼンテーションは何より説得力が求められる。人と一対一で話すときには自分の思ってることを相手に伝える以外、気が回らなくとも何とかなるが、まったく立場の異なる3人以上の人間で議論になったときは、外の何人かの事も頭に入れておかねばならない。一対一の喧嘩やプレゼンならコミュニケーションも取り易いが、相手が3人のときは他の2人にも理解される必要がある。
     
    女を口説くとき、自分の想いを言いさえすればいいなどと思ってる奴は大概モテない。そんな一方的は単にストーカーと一緒だ。相手がO.Kする状況とはどういうものであるかを想定できる人間が性交に成功する。つまり、説得の話術より納得させる話術が上回るし、相手をやんわり納得させるのが奥儀。自分の言いたいことだけでなく、相手の頭の中で今何が起きているかを考えながら話すこと。
     
    イメージ 7自分にしかない能力、自分にしかない技量はあるだろう。他人に伝授できない、己の性格や生き方に関与するいっても、それだけではダメだろうな。自分のできること、できたことを他者に伝授し、誰もができるようにする人間こそ「仕事ができる人間」の正体であろう。つまり、自身の奥儀をマニュアル化できるかどうかで、いつまでも自分が関わっていなければならないのはダメ。「STAP細胞はあります」。声高らかに叫んだ人がいた。言葉は「ない」ものを「ある」といえる。「できない」ことも「できる」といえる便利なツールだが、「ある」ものが真に「ある」なら、「できる」ことが真に「できる」なら、何も言葉を借りる必要はない。「言行不一致」は言葉を有する人間の常であり、言葉と行動の一致をみないことは多すぎる。よって、言葉だけで人を信じるのは正しくないのよ。
     
    「そんな、人を疑うのはよくない」などと偽善ぶったことをいう人は多いが、言葉を疑って何が悪い?「わたしを信じないのね?」、「オレの言う事を信用しないのか?」って当たり前だろ?そんな言葉を脅迫的、強要的に使う方が間違っている。「言って聞かせてやってみせねば人は動かず」と言った軍人がいた。彼は正しい。そもそも軍隊と言うところは上官は絶対という、道理のない世界だからだ。
     
    仕事の糧は何か?お金だという人はいる。遊びだという人もいる。「ハングリー精神を持った人間は仕事ができる」、「遊び人は仕事ができない」、どちらも間違っている。勝手な決め事をいかにも正しいと思い込んでるだけだ。締め切りのある仕事を巧みにこなせるのは能力であろう。「締め切り効果」という心理学的用語にあるように、締め切りがある事で人間は普段異常の力を出せたりする。
     
    かつて「新春スターかくし芸大会」というお正月定例の特番があった。テーブルの上に酒の入ったグラスを何十個も置き、テーブルクロスだけをさっと引く、一度も触れた事のないギターやピアノ、バイオリンなどの楽器で一度も間違えずに名曲を弾く、剣玉で名人芸を披露するなど、一見「ありえない課題」なのにできてしまうのが、「締め切り効果」である。自らを追い立てることで潜在能力を引き出す。
     
    ふだん、ダラダラしていてもやる時はやる。これが真に仕事のできる人間だろう。いうまでもない仕事は生産性である。勉強とて同じこと。ダラダラ机の前に座っていて生産性が上がるわけがない。どちらも「集中力」という能力がモノを言う。「一夜漬け」も立派な能力だし、これも締め切り効果である。仕事や勉強に集中力を見せる人間は、同様に「遊び」も集中力でこなしてしまえるということ。
     
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    「よく学び、よく遊び」という標語の裏には「集中力」が潜んでいる。仕事の評価、勉強の評価を自らして満足感を得ている奴は、自身の満足感や達成感が成果の物指しになっている。まあ、人間の自然な感情だろうが、こういう奴は実は大した事はできないものだ。よく頑張った、前より良い物ができた、という満足感や自己評価は、実は相手にとって何の関係もない。
     
    自分をよいしょする奴に周囲は「凄いね」、「頑張ったね」と口裏を合わし、お世辞を言うが、ようするに本人がそれを求めているのだ。それを人に認めてもらいたいという甘えは、幼児気質が抜けていない子どもである。本当にできる人間は自分に厳しいし、他人の世辞の類にも反応しない。まあ、「褒めたのに無愛想な奴だ」という人間もいる訳だから、会釈くらいはしておくのが世渡りだろう。
     
    が、他人の評価を充てにして何かをしてるわけじゃない。ブログを止めた人の多くは、「閑古鳥が鳴いている」、「誰も来てくれない」、「一人で書いても張り合いがない」と言う人は、何が目的かを表している。始めからオワリまで転載記事で満たしてる人も多い。転載記事が悪いとは決して思わない。それを見ていない人には初出になるから。であるけれども、一言主観なり、感想はあっていいのでは?
     
    書く事は調べること、調べることは考えることである。「調べる」ことなしに「知る」ことはできるが、「知る(知りたい)」ことなしに「調べる」はあり得ない。何かについて考えることは、「当面の答えを出す」に至る道程のこと。その「考える」を最も効率よくこなす行為が「書く」、「話す」である。思考の末に答に到達しなくとも疑問を深めれば、それも知識である。「やる」は人のためではない自らにである。
     
     
    勉強やって100点とって褒めてもらってそれでやる気が沸くという子どもはいる。が、その子がそれを本気で好きでやるかどうかを見極める親なら、そう言う事はむしろ害悪と感じるはずだ。facebook創始者ザッカーバーグの父親の教育方針はユニークで、セレブ家庭にありがちなカネにものを言わせた子育てをしていない。息子の本気度を見極める父である。

    日本で変わり者といわれれば人を見下げる代名詞となっているが、ザッカーバーグの変わり者の父は、"difference"という評価に値する。当たり前の発想ではザッカーバーグは存在しなかったかもしれない。好きな事はやり、嫌なことも逃げず、興味をもってやってみる。"手のわろき人のはばからず文書きちらすはよし"(徒然草 第三十五段)
     

     

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    表題は言葉通り、「私事を滅し、公に奉じる」の意味だ。善い行いとして我々の世代には頭に入っている。「公」とは本来的には国家などを意味するが、自分以外の他人と拡大できる。すべてにおいて他人優先と言うではなく、明らかに他人に迷惑がかかる私益優先は認められないとする。誰でも自分のことを優先したいが、他人に迷惑をかけてまではダメということ。
     
    これが社会生活の「道理」と思うが、近年は私益優先の色合いが強いのをあちこちで感じる。驚いたのは50代の女性教諭が、長男の高校の入学式に出席するため、自分が担任を務める高校の入学式を欠席したことだ。そのこと以上に驚いたのは擁護の声の多さにである。こういう行動を徹底非難されないかぎり、人間はどんどん自己を優先していくことになろう。
     

    人間は誰でも自分がいちばんかわいい。上の行為は、「自分のことを優先するのは当たり前だろ?何が悪い?」という主張だが、社会生活を営むにあたって我慢すべき私事は多い。周囲や社会が批判・非難する「問題行為」は、"我慢すべきが我慢なされない行為"と見る。何を我慢すべきかの主観的判断は人によって違うが、権利義務や公私について思考をめぐらすこと。
     
    人前に裸で出ないのは羞恥心が抑止しているからで、「べつに何とも思わない、裸でいいじゃないか」という羞恥心なき露出狂の論理は社会では通用しないのよ。似て非也であるが、個々の考え優先は社会では成り立たないことを端的に示す例だ。「これくらいいいだろう、許されて当然だろう」が、他人になくても自分にあった場合、それは行為される場合が多い。
     
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    暴走族や公共の中での私的な振る舞いを若者がやるように、彼らはそれを何とも思っていない。自分の都合で何やっても許される社会だと思っているところが無知である。人には権利は保障されるが、権利を抑えてこそ光る個がある事を誰が教えるのだ?親が教え、教師が教える任を負うのだろう。その教師が「公」を無視して、私事を優先したと言う事の問題だ。
     
    こんな教師、自分が生徒なら絶対に認めない。「先生、自分のことを何より優先していいという見本を見せてくれたので、そういう風に行動しましょうか?」と言いかねない。これに対してどう答えるのだろう?エロ教師が噂になっただけでも風標的に教師失格である。自分らの時代にも女生徒と噂になった体育教師がいた。補導担当の熱血教師が、である。
     
    噂は膨れ上がり転任したが、それが理由だともっぱらの噂となる。子どもは親や教師の自己欺瞞をしっかり見つめているものだ。言葉に出さないからとタカをくくっているなどとんでもない。昔からサービス業従事者に対する教えとして言われる、「自己の個性の没却は、お客様の個性の尊重である」と言う言葉は。「顧客はワガママなもの」という前提に立てと教える。
     
    ある歌手は「お客様は神様」と言った。いかなる不機嫌なときでも彼は笑顔を絶やさず、場を盛り上げ、楽しませ、国民的歌手とまで言われた。今国民的歌手とはAKB48らしい。ファを誘惑し週刊誌に書かれて他の移動させられたバカ女が、1億円近い収入を稼ぎ出す時代である。「バカな政治家を輩出するのはバカな国民である」という言葉はいかにも正しい。
     
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    AKBの選挙も同じことかも知れぬ。子どもを取り巻く社会が悪いといえば事は簡単だが、どんな子どもにも家庭はあり、学校では生徒なわけだ。家庭や学校がキチンと機能しているのに「環境が悪い」、「友達の影響が大」という親は責任逃れを言っている。不良といわれる子どもにだって家庭はあるし、ウチは母子家庭、父子家庭、そんなの関係ない。要は親の理念である。
     
    「あんな風になったのは母子家庭だから、と言われないようにキチンと教育しなければ」。昔はそんな気丈な母親がしっかりと子育てをやったが、そういう親の心構えがなくなればどうなる?いや、どうなり易い?子ども自らが「どうせウチは母子家庭だから」と卑屈になって、自らダレて行く。そういう甘えを子どもに持たせないために、昔のお母さんは頑張った。
     
    親が甘えれば子も甘える。教師が甘えれば生徒も甘える。それが事実であっても無くても、教育にたずさわる親や教師たちは、その理念だけは持っているべきであろう。エロ教師も自己中教師などとんでもない。自制心を要求される職業ゆえ、自分の子どもの入学式を優先するような教師は理念ナシと断罪する。理念とは替りがいるとか業務に支障ないとかの問題ではない。
     
    「自分の子どもの教育をキチンとできないで他人にできるはずがない」と詭弁を吐く擁護者がいた。バカげた詭弁を弄してまで権利主張をする時代になったことが嘆かわしい。わが子の入学式に出席するどこが教育?「母は公仕事の従事者だから、自分の入学式には出れない」と子に教えるのが教育であろう。親の分別を子は理解するが、我が子可愛さ余って入学式が嬉しいバカ親。
     
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    農業、漁業、なんの仕事でも、働くことの大切さを分らせる。公務員ならなおさらなのに、公務員が甘えるなどとんでもない。親の働く姿は美輪明宏の『ヨイトマケの唄』の世界観。自分なら即効で学校に飛んでいく。本人、校長に掛け合い、自己都合で教育理念を歪める教師は担任を降ろせと進言する。して、私益優先選択を生徒の前で謝罪させる。それがケジメだ。
     
    甘えを許すと人はどんどん甘えるから行動するわけで、「みなさん、スミマセンでした」と過ちを認めてこそ良い教師である。これは自分の経験からして、そういう教師はたとえ過ちを犯したとしても生徒の心に残る教師となる。その生徒が大人になり、何歳になっても、大人が子どもに謝罪した事は大変意義のあることだ。それが教育ではないのかね~。
     
    先日挙式を済ませた三女がこんなことで新婚早々の大喧嘩をしたと聞いた。夫の友人が一日前に欠席のメールを入れて来、その理由が妻が産気づいたからだと言う。まさかの理由であるが、三女は全員出席を見込んで、式の翌日に引き出物を出席者宅に宅配を決めていた。ところが、出席しない友人に引き出物が届き、であるのに何の音沙汰もないという。
     
    三女は怒りを夫にぶつけた。「何で、どういうこと?引き出物を返してとは言わないけど、何の連絡もないってオカシクない?お呼ばれじゃないけど、前日キャンセルだし、引き出物も受け取ってお礼の連絡もないって、非常識な友だちだね~」としつこく問い詰めたら夫もキレて、「言えばいいんだろう、言えば…。今から電話するよ」と投げやりになったらしい。
     
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    確かに三女の言うように、夫の友人は非常識である。が、三女には、「全員出席を見込んで、翌日宅配というのは軽率だ。とりあえず参列御礼のハガキを出し、10日以内に引き出物を届けますということにしなかったのはこちらの落ち度。だから、欠席者に引き出物が行くようになってしまった。まあ、それでも常識ある人間なら気持ち程度の祝儀はするだろうけど。」
     
    夫は言えばいいんだろうとキレたというが、まさか「引き出物届いたのに礼もない、祝儀もない」みたいなことを言えるはずもないが、三女が責め立てたから買い言葉的になったのだ。三女は止めたというが、常識のアルなしを言う前に引き出物を届けるのが早かったことは失敗で、急いで届ける物でもない。「7000円もしたのに」とこぼすが責任がない訳じゃない。
     
    三女の友人関係は概ね50,000円の祝儀であったが、夫関係は30,000円だったことも火種になった。一切を自分たちが企画し、取り仕切ったので、祝儀を充てにした部分もあったろう。「夫の祝辞の挨拶者には一万円のお礼を包んだから、実質二万円ってことよ」って言う。「祝辞の挨拶者にお礼を出すのが慣例なのか?そんなのは名誉なことじゃないのか?」
     
    時代は変わったんだと、そういうことらしい。余興者にも同様にお礼を包むとなっているらしい。祝辞も余興も名誉なことなのに、出演料(お礼)を渡すなど理解に苦しむが、挙式はこうあるべきという情報が蔓延し、それを踏襲せねばいけない時代のようだ。好意な友人に「祝辞を頼む」、「余興を頼む」では済まない時代のようだ。ほんに出演料には驚かされた。
     
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    それにしても、妻のお産の立会いで、前々から準備された挙式を反故にするという。付添いは奥さんの希望ではと娘はいうが、それほどに私益優先の世なのだろうか。これを私益と言わないのが今どきの夫婦なのか…。「わたしのお産などより、友人の式に出席するのが筋でしょう?男なら友達の顔を立てなきゃダメよ」そういう考えこそが自分の言う良妻である。
     
    自分もその考えが正しいと思うし、それを後押しする妻の言葉こそ「内助の功」と呼べるものだ。もし、「あなたはわたしの出産より、友だちの挙式の方が大事なのね」など言う妻ならうんざりだ。根底にあるのは友人を祝いたいだけじゃない、キャンセルをすれば迷惑がかかるじゃないか。宿泊キャンセルなどの違約金条項は、その為に設けられている。
     
    身勝手な私益優先はシコリを残すゆえ避けるのが賢明だ。「公」を侵害してまでの私益優先は間違い、と叫ばれる社会にするためには我慢が必要である。思い出されるのは、【妻の出産の為に1億円を捨てた!】との見出しで話題になったハンター・メイハンというプロゴルファー。もし、そこら日本人妻が1億円ふいにしてでも出産に付き添ってくれというなら立派だ。
     
    立派というのは他人の結婚式と自分の出産を天秤にかけ、自分を優先したのではないな、と理解できる点で立派と断じた。要約すれば、他人事ならいいということではなかったといえる。私益と私益のぶつかり合い、そういう中で1億円を捨てても夫の愛を確かめたと解する。ゼニカネではない女の美しい心情が汲み取れ、それに呼応する男もまた素敵である。
     
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    メーハンは世界ランキング22位の31歳。前日まで通算13アンダーで2位以下に2打差の単独首位で、ツアー通算6勝目を目指していた。カナダ・オープンの優勝賞金額は100万8千ドル(約1億円)。メーハンは第3ラウンドのスタート直前、妻のカンディさんの陣痛が始まったとの連絡を受け、途中棄権することを即決。カンディさんが待つテキサス州ダラスに向かった。
     
    「さっき興奮する知らせを受けた。妻と私の第1子が分娩室に入ったらしい。結果的に棄権することになってしまったが、大会には心から感謝の意を表したい」とコメントした。行動も素敵ならコメントも立派である。どうも我々とは人間的スケール感が違うし、真似るとか模範にするとか、そういう問題というより、人間の本質的な心の在り方に思えてならない。
     
    三女は現代人だからか、「わたしも出産の時は夫にいて欲しいし、奥さんの気持ちはわからなくもないけど、前日のドタキャンで出席ナシに引き出物を受け取って何の連絡もないことに腹が立つ」と、これには同意する。引き出物云々は別にしても、友人なら心を込めて祝儀は渡したいものだ。同様のケースはあるかも知れない。ネットにはこういうのがあった。
     
    イメージ 9「3月に結婚式を挙げたのですが、結婚式前日に招待した友人から『インフルエンザに罹ってしまったので式を欠席したい』と連絡があり、欠席となりました。引き出物は1週間前までしかキャンセルがきかず、余らせておくのも勿体無いくらいの気持ちで渡したのですが、友人から『遅くなってごめんね』と、ご祝儀3万円を頂くことになりました。
     
    後で母にその話をしたら、『引き出物をお渡ししたのが、ご祝儀催促みたいに受け取られたのではないか』と言われ、変に受け止められていたらどうしよう…と今になって心配になってきました。差し上げた引き出物自体は7000円くらいのものです。(カタログ5000円、紅茶1000円、菓子1000円)半返しとしてプラス1万円くらいのものをすぐに送るべきでしょうか。」
     
    と、これまた殊勝な人もいるものだ。感染の可能性のあるインフルエンザで挙式を欠席するのは当然として(出産についても個々に考えはあるだろうが)、自分的には夫がいなくても子は生まれる。だから、妻が「大丈夫、わたしは頑張るから挙式に出て!」という言葉が光るのだ。出席しなかった(できなかった)こちらの相手は、ごく常識的な人間である。
     
    挙式とはいえ、旅館の宿泊予約と同じ契約ごとであり、出席してなくても、お料理や引き出物に費用がかかってくる。いかなる理由があるにせよ欠席で迷惑をかけたと思う心があるかないかという人間性の問題だ。それが友人・知人関係の大事なところ。見知らぬ旅館なら問答無用のキャンセル料は当然だろう。まあ、伝染病にての欠席は自己の都合とはならない。
     
    文句をいう筋合いの問題ではないし、挙式側がかぶってしかりと感じる。ここが旅の宿と友人との違いである。祝儀を頂く側は申し訳ないと思うし、欠席側もすまなかったということになろう。これを日本的な「謙譲の美徳」と表し、マナーとして最も美化されていいものだ。が、自分と相手に同時に兼ね備えているのが素敵なところで、片方に無い場合が多い。
     
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    人間関係で最も難しい部分だ。相手だけに常識が無いと不平や不満の原因になる。そういう相手に対してどうするかが懸案となる。離れて行くのが自然な応対ではないか。「あんなバカは相手にしない」、「あんなバカとはもう付き合わん」などと、相手を変えられないなら自ら去っていくのが妥当である。それが親であっても、子であっても、友人であっても何らかまわない。
     
    「怒り」は外に向くだけでなく、「自分に腹が立つ」という怒りもある。相手を見切る絶交もあれば、自らを見切る絶交もある。何も人と仲良きだけが人生じゃない。楠正成は11歳の長男正行に、「天皇を守ることが父への孝行」と説いた。尊氏に破れた父正成の首が届けられ、後追い自決をする正行に、「父上の遺訓を忘れたか」と懇々と諭したのが母である。
     
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  • 12/23/14--07:11: ピノキオと勇気
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    今夏、徳島県のかずら橋に行った際、近くの「琵琶の滝」に寄ってみた。滝と言うものを眺めたのは何十年ぶりか。「琵琶の滝」の名の由来は、昔、平家落人が京の都をしのび、この滝で琵琶をかなで、つれづれを慰めあっていたことから名付けられたと言い伝えられている。高さ約50mらしいが、十メートルくらいまで近づくことができるからか迫力を感じる。
     
    人が滝をどのような気持ちで眺めるのか分らないが、自分の場合は、目の前の滝が何百年、何千年同じ情景を醸し出していたとしても、同じ情景は二度とないだろうと、瞬間というものの不思議さの感慨である。ナイアガラの滝を映像で見ながら思うことはいつも同じ自然の不思議さだ。してその光景を見ながら、鴨長明の『方丈記』の一節を思い出さずにはいられない。
     
    「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。(中略) あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。」
     
    【現代語訳】「川の流れは途絶えることはなく、しかもそこを流れる水は同じもとの水ではない。川のよどみに浮かんでいる泡は、消えたり新しくできたりと、川にそのままの状態で長くとどまっている例はない。この世に生きている人とその人たちが住む場所も、また同じようなものである。私にはわからない、生まれ死にゆく人は、どこからやってきてどこに去っていくのか。
     
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    また、(生きている間の)仮住まいを、誰のために心を悩ませて、何のために目を喜ばせようとする(そのために飾る)のかということも、またわからない。家の主と家とが、無常を争っている様子は、言うならば、アサガオとその葉についている露と同じようなものである。」 と言っている。川の流れも滝の水も同じこと。二度と同じ水が流れることはない。
     
    鴨長明も自分と同じ気持ちで流れ行く川を見つめていたのだろう。人は死に人は生まれるが、二度と同じ人はこの世に現れない。毎日、毎月、毎年、多くの人が死んで行くが、新たな命も生まれている。人は誰でも死ぬし、だから死は普通のことであるけれども、それでも人は死ぬのが嫌なのだ。明日の12時に死ぬと分ったら、一体人はどのような行動を取るのだろうか?
     
    それこそ人の数ほどさまざまな行為・行動をするだろう。死ぬと言う事をどう捉えるかでその人の人生も変わって来よう。生きる事は死ぬことだ。どんどん死に近づいているけれども、それでも生きる事は生き延びたい事と捉える人は多い。人の人生は、生きた年数で判断されるものではないが、今日と同じ明日が来るかどうかわからないなら、平均寿命も単なる数値。
     
    「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったのはボーボワールだが、この言葉の意味するところは、「女性のアイデンティティーとは生まれながらのものではなく、社会的に少しずつ押し付けられる約束事だ」という考えに立ち、後のジェンダー論の基礎となった。が、これはエラスムスの「人は人に生まれるのではない、人になるのだ」を模倣したものだ。
     
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    自立した個人の自覚を促すもので、教育や「徳」の必要性を説いている。『子供たちに良習と文学を教えることを出生から直ちに行う、ということについての主張』という長いタイトルの著作があり、「徳」の概念をめぐる議論が展開されている。ルネッサンス時期の宗教改革を生きたエラスムスは、「カトリック教会を批判した人文主義者」と批判された。
     
    ピノキオは人間の子どもになるためには「勇気、正直、思いやり」が必要だと教わった。物事の善悪を見極め、嘘をついてはダメだとも…。「勇気」というのはいかにもアメリカ的で、日本人が書けば「協調」となるのだろうか?「協調」は「和」する点で大事なのは分るが、「勇気」は喧嘩をするために大事なのか?なぜ生きて行くうえで「勇気」が重要なのか。
     
    営業出身の企業トップで有名なのはTOTOの張本邦雄会長の座右の銘は、「営業マンは"No"と言う勇気を持て」であるという。ウソを言ったり、ごまかしたりしたら、のちのちまで尾を引く。「一度会社に持ち帰って上司と相談します」などのその場しのぎもダメであると持論を述べる。確かに、「この人は自分で何も決められないのか」と思われるだけでプラスはない。
     
    とはいえ、平の分際で勝手に値引きができるはずもなく、そんなことでもすれば、「バカヤロー!安く売るなら誰でもできるわ、ボケ!」と上司に大目玉を食らう。となると、断固値引きせずに商談をまとめるのが営業マンの手腕。値引きナシで契約とって、上司に怒られるはずがない。張本氏はそういう営業をして実績を上げた。決して安易な値引きをしなかったという。
     
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    それが、「できない事は"NO"と言う勇気」である。「長いおつき合いを望むなら、理由とともに"できないものはできない"と明確に伝えたほうが相手の信頼を得られます」と会長は言う。最近はアドラーがブームで、『嫌われる勇気』という本が売れている。本の構成は、アドラー心理学を提唱する哲人と、アドラー心理学を認められない青年の会話で成り立っている。
     
    精神科医アドラーは「トラウマ」の存在を認めていない。人は過去に心を痛めた事はあるだろう、それが今の自分に影響しているという事実もあるかも知れない。しかし、それが自分の考えや行動の決定事項とはならない。『嫌われる勇気』が売れる理由は、日本人が自分の考えや気持ちを優先できず、無意識に周囲の人に迎合、振り回されているからではないか。
     
    アドラー心理学の根底に、「トラウマだから仕方ない」ということではない。悩んでいる子羊に安寧と癒しを与えてそれでオワリと言うでもない。臆病な自分がもう一歩を踏み出す「勇気」が欲しい人のための心理学だ。『嫌われる勇気』というタイトルは、嫌われたくない人のためのタイトルである。自分と違う価値観を持つ人に嫌われるなどあって然りと思っている。
     
    それで嫌われたとしても、そんなケツの穴の小さい程度の人間になど嫌われて本望だ。自分と人と価値観が違うなど当たり前と思えないのだろうか?だからケツの穴が小さいという。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」キャパのなさ。価値観と人間性とは別の問題だが、混同するなら仕方がない。確かに臆病な人間は、自分が「できない」事を「したくない」と言って見栄を張る。
     
    イメージ 5「できない」ではプライドに差し障るのだろうか。それならいっそのこと「できない。勇気がない」と言って、笑われた方が「コンチクショー」となるのではないか?そういう風に自らに素直に生きた人間の方が悔しさがバネになっていろいろ身につくものだ。自尊心が傷つかないように、ズルく、姑息に立ち回る人間は、努力しない、啓発しないから臆病のまま。
     
    「協調」は自分を殺せばやれる。我慢すれば済むことだが、「勇気」はそんなものじゃない。「勇気」を身につけたいといって、自分を殺せばできる「協調」と違って難しい。「勇気」を身につける方法はあるのか?極論すればない。思い切ってやってみる以外にない。命まで取られるわけじゃないと自らに言い聞かせ、自己愛とおさらばするしかない。
     
    自己過保護であり過ぎたから勇気が身についていない。子どもの頃に母親に「勇気があるならやって見なさい、男でしょう?」と一度でも言われか?いわなかった母親を責めるより、その言葉は父親の専売特許。なぜなら、社会にあっては勇気を必要とする場面がそこら中にあるのを知っている男の言葉。それを母親が身を乗り出して庇っているなら、どうにもならない。
     
    ふやけた意気地なし男が多いのは、そこも原因かと思っている。ある日突如に勇気が身につくわけではない。だから、問題なのは勇気を封じ込める親の言葉だ。ピノキオに「勇気」をと言ったアメリカとそんな言葉を子どもに発さない温室育ちの子どもの差だろう。こういう相談がある。「勇気を身につける方法、自分の気持ちを把握する方法 勇気や決断力がありません。
     
     頭の中で考えて考えて、結論が出ても、動き出せずに投げ出してしまいます。人に気持ちを伝えることも苦手です。プライドが高いのかもしれないです。伝えられないときもあるし、そもそも自分の気持ちがよく分からない、ということも多いです。改善するための練習方法などあったら教えてください。」
     
    まあ、自分が失敗したり間違えたりは、誰にでもごく普通に起こることだと認めることが先決だだろう。失敗や間違えたりが自分にとって許しがたいというなら、行動しないことが最善となる。行動しなければ失敗も間違えたりもない。行動しないための理由付けに勇気や決断力の無さを言っているに過ぎない。勇気がなくとも、決断力がなくても行動する事は出来るのだ。
     
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    結果主義を打破し、何かを起こすこと、そういう行動を自身で評価すること。とにかく、何もしないで能書きをたれたり、理屈に逃げたりではなく、行動そのものを賛美する。行動しない自分をヘタレのオカマ野郎と蔑むこと。「勇気」とは結果ではなく、行動だからである。ある事を行動できなかったら、閻魔様にチンチンちょん切られると自己妄想を抱くのもいい。
     
    「勇気」が無いというのは、自らを安易にしていること。だから、「勇気」を持つために少しくたばってみる、傷ついてみる、笑われてみるなどのプライドや自己防御、自己保身を捨てること。結果を考慮せず、「ダメもと」の精神でやる。そういう気持ちになるといろいろ身につく。筋肉と同じように、勇気は鍛えることができるというが、開き直るのも「勇気」となる。
     
    学者の考えはこうだ。自分を変えるために勇気を学ぼう。今の自分を変えて一歩前に踏み出すには「勇気」というものの「本質を知る」ことがポイントであり、「困難な状況に立ち向かう行動意志」を強化することができれば、誰もが人生の成果を得ることができる。勇気とは、英雄やカリスマだけのものではなく、ごく普通の人が学ぶことができるものであるとする。
     
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    サイエンス(科学)により「行動意志としての勇気」を身に付けることで、何かを生み出したり、達成することができる。我々が想像している一般的な「勇気」とは、こんなイメージであろう。例えば、英雄たちがリスクをかえりみず勇敢に困難にぶつかって行く姿や、あるときは、命がけで仲間を窮地から助け出す。あるいは、自分より強い敵に戦いを挑んでいく。
     
    勇気とは物語の登場人物のような神秘的、カリスマ的なものではなく、「行動意志を強化する」ことと「恐怖をコントロールする」ことで、ごく普通の人でも身に付けることができるものだと教えている。また、勇気を身につけるということは、自分の弱さを認め弱さに立ち向かうことだとも教えている。(林衛著『勇気とは何か -勇気の本質について学ぼう-』より)
     
    「ボーイスカウト」とは、世界規模の青少年団体の名称で、20世紀初頭にイギリスの退役軍人ロバート・ベーデン=パウエル卿がイギリスの行く末を懸念し、将来を託すことのできる青少年の健全育成を目指して創設した。「スカウト(Scouts)」とは、「偵察」、「斥候(patrol)」の意味がある。わが国は海に囲まれた国ゆえか、1951年に「海洋少年団」が創設された。
     
    それらには無縁の子供時代であったが、当時の月刊雑誌『少年』が「少年探偵団」を集っていた。「少年探偵団」とは、江戸川乱歩の明智小五郎シリーズに登場する探偵団で、子どものみで構成されており、名探偵明智小五郎を補佐する役目を担う。応募して、団員の証しであるBDバッジが送られてくる。団員は、いかなることにも屈せぬ勇気を持たなければならない。
     
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    だからか、廃墟や廃家などを探検するのが任務であった。一種の自己暗示であろう。昔の男の子はそういう遊びから勇気を身につけた。元服を終えた若武者の初陣での「武者震い」のような、男の子はやせ我慢をしながら逞しさを備えていく。「怖い」なんて言葉は最大の恥辱であった。かつて武士の子というのは、そのように教育され、意識を備えていくのだろう。
     
     
    武士の家庭に生まれたから武士らしいのではない。「人は武士に生まれるのではない。武士になるのだ」。環境が人を作る。親の力、家庭環境によって子どもが多大な影響を受けることを、子どもが生を受けた瞬間から親は真剣に考える必要がある。自分の経験でいえば、確かに自己教育力に委ねる部分は大きいが、それは感受性の強い子どもに限定されるようだ。
     
    知的好奇心を感じる子は、限られた子、知識のある子であるが、昨今はその割合が少なくなってきた。何かを解明しようと言う子が少ない。昔は手品の種を教えて欲しい子がたくさんいたが、今の子は「ふ~ん」でオワリ。食らいついてこないのは、「知的好奇心を外に出すのを抑えるというデータがあるが、知識の豊富な子にその程度の事はバカにされるという恐れがある。
     
     
    世相への関心もない、他者への興味もない、これらが感受性の欠落で言葉を変えると「しらけ」ということか。五木寛之は現代の日本で、「悲しみの希薄化が進んでいる」と嘆いている。「怒り」と「悲しみ」という二つの感情に着目する時、悲しみの文化が陰を潜め、怒りの文化に移行してるのか?他人を見下し、土下座させて心地いい人間が増えている。
     
    嘆かわしいことだが、なぜこうなのか、こうなったのか、あらためて時代の特質について思考を深めてみたい。


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    店員を土下座させるの写真をネットに載せる事件、今度は高校生である。2014年12月5日、滋賀県内のボウリング場でのトラブルで、女子高生らが土下座させた従業員をツイッターに投稿した。詳しい経緯は不明だが、無理やり土下座させた場合は強要罪に問われる可能性があり、警察は事実関係を調査中だ。土下座写真を投稿したのは滋賀県内の県立高校に通う女子生徒。
     
    「くそおもろい笑 ○○(店名)にボーリングしにいこーとしたらもめて、最終的に従業員が土下座しよった笑 めっちゃおもろいわー」とツイート。若い女性従業員が土下座する様子や、ジャージ姿の男が従業員に詰め寄る場面など計4枚の写真を掲載した。その後も「くそおもろかったわ~笑」と従業員らを侮辱し、「結局ボーリングできひんかったしよ」と不満げにツイートを投稿するなど、反省する様子はない。
     
    一連のツイートはすぐに拡散し、女子生徒らの行為に批判が殺到した。「うちがさしたんちゃう 先輩や、うちらわみてただけ、あとからちゃんと、あやまった」と釈明に終始するも批判は収まらず、アカウント削除に追い込まれた。 従業員土下座の経緯は分かっていない。ボウリング場運営会社は、「担当者が終日外出しているのでお話しできません」と回答するだけで、詳細を説明する様子はない。
     
    また、女子生徒が在籍する高校は、「警察に相談しているため、コメントはできません」と状況を明かさない。近江八幡署は、事案発生当時にボウリング場から通報はなく、現在も被害届は出されていないが、学校側から相談があったため、「事実関係の把握を進めている」という。 同じ事例は過去にもあり、刑事事件に発展している。バカな大人の真似をバカな子どもがやるという事。
     
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    13年10月、40代の女が札幌市内の「ファッションセンターしまむら」で、購入した商品に穴が開いていると従業員を土下座させ、その様子をツイッターに投稿した。売り場の床に土下座する女性従業員2人の実名を出し、「土下座させるお客様凄い凄過ぎる怖い怖過ぎる」などと、自慢げに書いていた。14年9月、大阪府茨木市内のファミリーマートで従業員らの接客態度に30~40代の男女4人が因縁をつけた。
     
    土下座させた上、たばこ6カートンを脅し取るまでの様子を動画サイトに投稿。「舐めとんのか!」と従業員らを怒鳴ったり、ペットボトルを投げつけたりが撮影されていた。札幌市の女は札幌簡裁から名誉棄損罪で罰金30万円の略式命令を受け、茨木市の4人は恐喝罪で大阪地裁から懲役2年(執行猶予4年)の判決が言い渡されたがその中のひとり、野仲史晃(46)容疑者は不動産会社の社員であった。
     
    その会社もホームページに「謹告 お詫び」を掲載して謝罪した。会社が社員の外部での不祥事に対するお詫びを自社のホームページに公表した理由は、公開された動画に会社名の入った上着を着ている野仲容疑者が映っており、そこから勤め先が判明したものとみられる。とんだとばっちりだが、大阪で新築一戸建ての分譲住宅などを手がける、年商41億円の会社だけに懸念もあったのだろう。
     

    会社は「道義的責任を感じざるをえず、誠に遺憾に存じます」と言葉を述べているが、私事に道義的責任などはないはずだし、別の思惑もあるのだろう。逮捕されたのは46歳の野中と39歳が2名、10代の娘の4人だが、そういう結構な年齢にもなったいい大人が会社の制服着用で白昼堂々恐喝しに行って、その現場を動画に撮ってネットにアップしたいという幼児性には呆れを通り越す。
     
    なぜ、このような事件が発生するのか?「このような」とは、客が強い立場を利用して、サービス業従事者を怒鳴りちらしたり、土下座や落とし前に物品を強要したりではない。そういう事例はかつても今もないとは思わない。よって、「このような」とは土下座画像を誇らしげにツイッターなどに投稿、当該者を晒して自ら悦に入るバカげた行為。バカは一部だからいいが…。
     
    人間社会のいさかいは誰もが完璧でないから起こる。些細なしぐさや語り口、言葉遣いなどちょっとしたアヤに感情をむき出しに怒る。夫婦間の対立も多く、離婚は増えるばかりの昨今。人間が自身のモノサシで他事を量るのは仕方ないが、それでは自分を量るのも自分のモノサシなのか?そうであるならそれでいいのか?よく考えてみるべきだ。オカシイだろ?
     
    人を自分のモノサシで量るなら、自分もまた他人のモノサシで量られているはずだ。互いがそれぞれのモノサシで量っているのを知ってか知らずか、自分だけのモノサシが正しいというのは滑稽である。様々な考えや物の見方を知ることで大きな視点を開拓できるが、我が身の事は相手に判断させるしかない。相手がどういうレベルであれ、相手なりのレベルで自分のことを判断されるしかない。
     
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    善意な顧客はサービス業従事者の失態や不備に対し、不満や苦情を言う事はあっていい。せっかくの気分や休日を台無しにされるのは不愉快であるし、明らかな相手側の不始末に苦情を言うべきである。自分も過去にそう言う事は会った。「県民の浜」というリゾートがオープンした当時、家族6人で宿泊を兼ねて訪れた。一泊した翌日、朝食は一階の大食堂で取ることになっていた。
     
    座敷あり、テーブルあり、生けすの周囲をグルリと囲んだテーブルもあり、生けすの中の魚が見えるそこに家族は陣取った。ところが食事中に、鮮魚業者とも地元の漁師とも分らぬ納入者の男たちが現れ、生けすの中に生きのいい魚を入れ始めた。ブリなどの大魚は暴れて生けすの水が食事中の我々に飛び散る、はね散る。「ちょっと止めてくれんか!水が飛び散ってるんだぞ!」
     
    と注意すると、「こっちだって仕事です」と呆れた返答に怒りが強まり、すぐさま責任者を呼びつけた。「我々や料理にまでいけすの水が飛び散るし、それを注意すれば、『こっちだって仕事だ』って言い方あるか?業者といえどチャンと指導しろよ」というと、「地元の漁師に直に納入してもらってるんで、注意が行き届きませんでした。申し訳ありません」と、責任者は詫びる。
     
    「何の教育も受けぬ地元の漁師なら仕方ない」ということにはならない。第三セクターで開業した「県民の浜」の責任者は、県より派遣の公務員である。サービス業のノウハウも知らぬままに少しくらいの接客研修は受けたろうが、取りたての活魚を生けすに納入するのを見せるのはいいが、生けすのグルリの顧客への配慮という点を考えなかったのだろう。
     
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    翌年訪れたときに生けすは取り払われていた。活魚を納入するセレモニーを食事時に披露するのは失敗だったようだ。食事時にしかそこに顧客は来ないし、どうしてもそれを見せたいなら、グルリテーブルの全面に透明なアクリル板を置くなどして飛び散り配慮をすべきだ。いずれにしろトラブルはない方がいいし、クレームも止むに止まれぬ理由で発生する。
     
    必要から生じるクレームで、クレーム自体が面白いわけでもないが、近年のクレーマーは、クレーム自体をを楽しんでいる。いきがる本人たちを尻目に、一般人からみるとバカにしか見えない。こういうバカがなぜ生まれてくるのか?自分はテレビのバラエティーの影響と考える。何でもカンでも面白ければイイというテレビのコントを真似るバカがでてくる時代だ。
     
    オモシロイがいい、オモシロくあるべきという作り手に節度はない。人を詫びさせるコントは結構見たりする。土下座はさらにオモシロさが増し、どんどんエスカレートし、クレーム自体を楽しむバカの脳回路を刺激する。クレームなんてのは止むに止まれぬものだが、人間のミスや管理の手落ちで発生するなら、消費者は現状確保求める。それがクレームの本質だ。
     
    クレームを面白がるのは許し難いが、テレビで作られた笑いを現実化して楽しもうとするバカの所業と理解はできる。「クレーマー」という造語も生まれた。テレビメディアを真似る子どもはいるし、そういう子どもを大人は、「ウチの子どもはテレビに影響されて困ったもんだ」と嘆いたりする。まあ、我々も背中に風呂敷を背負って走り廻ったものだが、子どもだから許される。
     
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    ドリフのコントや「クレヨンしんちゃん」の言葉を真似る子どもに親はお手上げであっても子どもゆえに罪はなく、罪があるのは制作側だ。ところが近年は大人も平気でバカをやる時代。一概にテレビが悪いマンガが悪いというのは短絡的で、お笑いの質が時代とともに変遷したように、大人になりきれない人間がテレビやマンガの虚構と現実を混同する。
     
    我々も子ども時代、テレビやマンガの影響を受けた。近年、『悪書追放運動』と称し、健全な青少年育成を目指すのを目的に、ヌードグラビアや官能小説など性的表現の著しい「有害図書」を焚書したり、有害図書に法規制を求めた主婦やPTAによる市民運動が起こった。この運動の一環として有害図書を捨てるための「白いポスト」が全国に広まって行った。
     
    「白いポスト」はなくなってはないが、めっきり数が減っている。2014年9月中旬からの1ヶ月間に調査した"白ポスト情報サイト"に、全国各地の所在状況がある。「コンビニやレンタルビデオ店などの現実の生活では、青少年がわいせつ物に触れられないようゾーニング(販売場所の制限)が行われているが、インターネットでは制限なく誰もが触れられる。
     
    それで「白ポスト」の意味が薄れてきた。リアルで禁止してもネットで垂れ流し状態では効果は薄いということだが、中学生の少女に金を渡して猥褻な行為をするような男も白ポストに押し込む必要あり。猥褻図画の印刷物より実践の方が罪深く、「青少年健全育成条例」で取り締まってはいるが、検挙実数は知れたもの。生活のための売春と違い、普通の少女も行っている。
     
     
    こうなると意識の問題だが、我々の思春期時期に照らしていえば、そういう物を見せてくれる大人はいい大人であった。一般的には、モラルに反する非道徳的な大人となるが、スケベでやらしいおっちゃん、にいちゃんであっても、それと悪人とは別である。見たくない少年少女に無理やり見せるのはよくないが、見たい子どもにとっては親切だったのは実感する。
     
    痴漢は迷惑防止条例違反だが、痴漢に遭遇するのを秘かに待つ女は実際にいる。彼女たちにとっては迷惑でもなんでもない。「ウリ」相手を探す少女を「カウ」のも親切といえる。正当な需給関係といっても、社会秩序、公序良俗に反する行為は法に抵触させなければならないのが現実である。野坂昭如をして「巨大な虚無」と言わしめたのが坂口安吾である。
     
    安吾に託せば世間的な「悪」でさえ、「善」とまでは言わないにしても引き受けてくれる。荻野アンナは「安吾は何から何まで肯定で貫く人」というが、どちらの意見も自分的には同意である。住友財閥令嬢誘拐事件における安吾の記述は、やみくもな世間の視点と言うより、まじかな少女たちに立脚した視点で貫く。法による利害と現実利害を安吾は際出させた。
     
     
    安吾は勇気を持って真実を書く。以下は『エゴイズム小論』の最後。「私は電車の座席をゆずって善人ぶり、道義の頽廃を嘆く人よりも、誘拐犯人の樋口(住友邦子誘拐犯)の方をはるかに愛す。俺が帰郷したところで娘は戻らぬという吉右衛門氏の言葉の方が重々尤も千万なので、まさに御説の通りであり、道義頽廃などと嘆くよりも先ず汝らの心に就いて省みよ。」
     
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    安吾は誘拐犯を肯定し、娘が誘拐されたと聞いても保養先の温泉宿から帰宅しなかった父親の慈悲ない言葉さえ肯定する。こんにちなら主婦連のウルサばばぁならずとも、納得できない文章である。なぜ、こういうことが書けたかといえば、商業主義に毒されない物書きの魂というのか、作家は思う存分自分を主張できた。こんにちなら、担当編集者段階で削除もしくは書き直しを迫られる。
     
    大らかな時代だった。フィギュアスケート大ブームの昨今だが、ビールマンスピンという大技の考案者デニス・ビールマンは、あの技を演目に入れることで芸術点を下げられたという。当時同時代に活躍していた日本の渡辺絵美は評価が割れた理由を次のように述べている。「(ビールマンスピンを)綺麗でないという審判もいたし、積極的評価の審判もいた。
     
    当時は選手もそんなに大胆なポジションをとらなくても、という意見が多かった。すごいものに踏み込んでしまったなと思って見ていた。無理な姿勢、危ないということで危険度も高く、もしかしてこの技も禁止になるかね、くらいにしか思わなかった」。明確な採点基準のない時代に、ビールマンスピンを評価しない審判員に対してデニスは採点は眼中になかった。
     
    デニスは言う。「私は審判のことを気にしませんでした。お客さんが喜んでくれるし、それが私にとって大事なことなのです。」デニスの気持ちを表すように、万来の拍手とは裏腹な厳しい審判の評価である。審判の主観が入る採点競技では、評価の分かれるような独創的な技に挑戦するのはリスクが高く勇気のいることだ。スケートに限らず、ピアノコンクールなどにおいても言われることであった。
     
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    浅田や羽生やキムヨナが、「審判など気にしない」など、とてもいえない言葉。近年は勝つと言う事が至上命題の競技である。1980年の「第10回ショパン国際ピアノコンクール」でも同様のことがあった。ユーゴスラビアのピアニストであったイーヴォ・ポゴレリチが本戦落選した際、審査員の一人マルタ・アルゲリッチは猛抗議したが聞き入れられず、審査員を辞任する。
     
    多くの審査員が彼に0点をつけたという。この結果をめぐって審査員の間で大論争が巻き起こる。個性的な演奏もさりながら、シャツにジャケットでノーネクタイ。ジーンズをはき、首には鎖やペンダントをジャラジャラという服装も反感を買ったようだ。クラシック音楽、ショパンコンクールに帰属する権威主義者どもが、若者を見下し弄んでいる。0点と言うふざけた採点を見れば明らかだ。
     
    アルゲリッチは、「審査席に座った事を恥じる」と述べるとともに、「魂の無い機械がはじき出した点数だけで合否を決めるのでは無く、審査員間でも協議するべきだ」と発言した。そしてポゴレリチの事を「彼は天才!」と言い残してワルシャワを去った。権威にひれ伏すバカ審査員ども…、耳があるなら音楽を聴けよ!
     
     
     
     

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    理研の小保方氏は7月から検証チームに参加し、第三者の立ち会いの下で実験したが、STAP細胞を作製できなかったことが明らかになった。これについて尾木直樹氏が彼のブログで、「(小保方氏に)裏切られた感じ」とつづっているらしい。らしいとは以下記事見出しの引用。【尾木ママ、小保方氏に「裏切られた感じ」】で、自分は尾木氏のブログを見ていない。
     
    彼のブログを見ないのは、尾木を好きでないからで、教育評論家と言う彼の肩書きも発言も興味がなく、ブログを読む気にもならない。嫌いな理由は彼のオカマ風な喋りにあり、キャラと擁護する人間はいるが、いい年こいてキャラなどとそんなものが必要なのかと言いたい。芸能人だからイイし、尾木ママなどと呼ばれて平然としている。以下は記事の引用。
     
    「心が空洞」という尾木氏は、「いやいや…なんか裏切られた感じも?」と複雑な思いを吐露。「200回も再現実験に成功『STAP細胞はあります!』と記者会見で涙浮かべていたのに…」と小保方氏を信じる気持ちがあっただけに、「国民的な背信行為と批判されても犠牲者まで出した問題をどう考えているのか…?研究者以前の人間性問われます!」と強く批判した。
     
    人をどう思うは彼の信念だからいいし、同様に人を信じないのも、無視するのもい自由。しかし、後になってこういう言い方をする彼は根っからオカマだ。「信じていたのに裏切られた」などの恨み節は男が口にするもんじゃないよ。こういういい方は女には許しているが、男が言うのはみっともない。勝手に信じたのは自分だろ?自分が見誤っただけの自己責任なんだよ。
     
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    小保方氏は誰も裏切ってないし、嘘をついただけなのに、「国民的な背信行為と批判されても犠牲者まで出した問題をどう考えているのか…?研究者以前の人間性問われます!」などと説教ぶるオカマ野郎に、「お前は黙ってろ!」と言いたくもなる。女の腐ったような言い訳、自己弁護なんか聞きたくもない。これが民間企業なら判断ミスと責任取らされる。
     
     
    これが男の自己責任であって、それがない彼は根っからオカマであるのがよく分った。こういう案件は、彼女の言葉の雰囲気からでしか我々科学の素人は判断するしかないし、だから自分は小保方氏はインチキ嘘つき女と見ていた。が、もしそれが完全な誤りで、STAP細胞の存在が彼女の言葉通り再現できたなら、自分が小保方氏を見誤ったたと言う事になる。
     
    弁解などせず小保方氏に敬意と謝意を示せばいいことだ。同じように見誤った尾木氏も自己断罪すればいいだけのこと。小保方擁護の友人がいた。今、もし自分の側で「信じていたのに裏切られた」と言うなら、見誤ったことより弁解に腹が立つ。今回の流れを見て感じるのは、彼女は科学者でありながら、科学者らしくない風情と涙が、男を味方に魅きつけたのだろう。
     
    もし男なら容赦なく叩かれるが、女の役得というか、男が女に弱いのを改めて実感する。女の嘘、それも美人(?)のつく嘘に男は翻弄されやすいのは男が女に卑しいからだろう。男の世界観をしっかり持った奴なら騙されない。まあ、「信用してたのに裏切られた」という言い方をするような奴は、"自分は間違わない人間"という高邁な自尊心を持っているんだろ。
     
     
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    尾木は評論家という職業人だから、嘘の評論だと自己の値打ちが下がる。だったら評論家という看板を挙げた以上、正しい評論しかしてはいけない。ということになるが、騙されてはいけない。世間の人は評論家という事は正しいと思ってる人の何と多きかな。ようするに、評論家を妄信してはダメダメ。後になって間違いを認めず、言い訳する評論家の多きこと。
     
    それでも評論家の看板を挙げていられる、その程度の職業でしかない。言葉を発する以上、間違うことも見誤る事もあろう、人間に絶対無謬はありえない。しかし、評論家が真に取るべき自己責任とは評論を止めることだが、それでは商売として成り立たない。そこで大事なのは、間違ったら、見誤ったら弁解をせず、尾木のように「信じた」などと戯言を言わぬこと。
     
    自己弁護に終始する評論家は、信用ならぬズルイ奴と見たらいいのだ。尾木氏は教育評論家としての知識や素養を持っているのだろうが、それでも世の中を見誤るし、人間を見誤るし、だったら素直に謝ればいいんだろう。今回の尾木氏についての自分の感想だ。人は間違ったときに素性を表すし、その限りにおいて、男は弁解しないというのが自分の見方である。
     
    自分はしばしば、女の嘘は許す、言い訳も自己弁護も許すと言うが、女を見下して言っているのではなく、そう思わないと女性とは付き合えないし、腹が立って仕方がない。よって、自分が女性と対等に付き合うために、女性に与えたハンデキャップ、免罪符である。したがって、もし聡明な女性が、「女性をその様にしか見ないあなたはケツの穴の小さい男」と言うなら大歓迎。
     
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    そこまでいうなら、そうでない女性であるとの主張だろうから、それはそれは自分にとってはこの上ないし、大歓迎である。「ズルイ」、「汚い」を男に許すといわれて憤慨する女は結構なことだし有り難い。それを「女をそういう風にしか見ないあなたはケツの穴が小さい」のではなく、女に騙されて「汚い、ズルイ」と喚く男がケツの穴が小さいのだ。
     
    騙されないように女を見極める目を持つのが大事であるけれど、そこは自分も男である。やはり女性には甘くなるし、心も緩むし、やはり男は女には弱いのだと。幾多の英雄豪傑がとどのつまりは「女人の計」で騙されるのを歴史が教えている。だから、女の「ズルイ、汚い」、「大嘘つき」を自分は許そうとしている。その理由は、男側にも騙された責任があるから。
     
    こと女に限らず、人間の社会にあって、騙す側と騙される側とでは、騙される側が悪いというスタンスに自分を置いている。その割合においても自分の場合は100%と、それくらい徹底して騙される側に罪を置いている。これは自覚の問題であり、法が騙す側に罪の重きを置いているのは、悪人を作らず、野放しにせず、それで社会秩序を守るためだ。
     
    しかし、騙された側の言い分を聞くにあたって、司法関係者の実際は、「こんな甘い考えでは騙されても仕方がないな」ということが多い。多いけれどもそんなことを言っても始まらないし、事件は事件、被害は被害なのだ。人間にはノー天気も、天然も、バカもいるわけだから、「振り込め詐欺」に対しても、まるで子どもに与えるような注意を促している。
     
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    外人さんがこれらの話を聞くと「日本人はどんだけバカ?」と思う。危機管理意識が低い、平和ボケした民族と断罪する。「お人好し」というのは、何事も善意にとらえる傾向性で、他人に利用されたり騙されたりし易い。そういう目に頻繁に会う人は、心を鬼にして他人を信じない「力」を身に付けることだ。あえて「力」と書いたがまさに「能力」である。
     
    自分も頑張ってそういう「力」を身につけた。人を疑うより、信じる方がどれほど楽であるかは言うまでもない。が、その「力」を得ようとしたときは、心を鬼にして取り組んだ記憶がある。男にも女にもたくさん騙されたし、騙されるということが、いかに自身の不備であり、油断であるかを認識した。自分で言うのも躊躇うが、自分のことだからよく分る。

    自分は「お人好し」という気質は変わっていない。が、そのことを誇る気はなく、常にシビアに用心深く人物を捉えようとしている。したがって、これは自身の「素」というより、「能力」の問題だ。自分にとってこの「能力」は「素」ではなく、後天的に得たものだから、「素」でやっていてはヒドイ目にあうと自戒する。人に厳しくは、実は自分に厳しい目を注ぐ。
     
    今回、小保方氏の結果について、尾木氏と同様の擁護派は「小保方氏は正しい」、不信派は「小保方氏は嘘つき」、曖昧派は「今の時点では分らない」の三様の判断があった訳だ。で、結果的に再現不能となった事への国家的損失はあれど、特別な個人の利害はない。社会問題となった程度で、彼女は嘘つきと烙印を押した自分に、彼女を責める気はない。
     
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    嘘つきを責めて、嘘つきが治ることはないし、嘘つきを責めて、自分が満たされるものもない。日常その嘘つきとどう関わるかだけの問題であろう。自分が小保方氏と直接関わる立場にないから何でもない。ああ、世の中にまた大嘘つきがまた何かをやらかしたということだ。後は小保方氏が実社会どのように生きていくか、どう生きていけるのかの興味はある。
     
    「大変だろうな」と思うからだ。自分の予測が当たってご満悦人間はいるが、底の浅い人間であろう。たまたま当たったことを"自分はこんなに凄いんだぞ"と言いたげだが、そんなに喜ぶことでもあるまいに…。宝くじの一等が当たったというなら大いに褒めてやりたい。アレほど当たらないものはないだろうから。が、クジというのは当たる時は当たるものだ。
     
    自分は過去、数千人の中から凄いものを引き当てたことがある。当てたのか当たったのかといえば、当たったのだろうが、引き当てたという言い方もないではない。高校3年の時、楽器メーカーのヤマハが、初めて三点式セパレートステレオを発売記念セレモニーが市民館であった。来場者に抽選で一点、20万相当のステレオが整理券の「No.」で当たる事になっていた。
     
    そこで自分の番号が呼ばれた時、ただ呆然とするだけだった。当たるなどは微塵もなく、壇上に上がって目録を受け取ったときも実感は沸かず、ただただ呆然自失であったのを覚えている。いわれるまでもなく1000人いようが、100万人いようが、当たるものは当たるし、不思議であっても現実である。宝くじの一等も、どこかの誰かには必ず当たるのだ。
     
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    話を尾木氏に戻すが、彼が如何に教育論を述べようとも、どこの家庭の子どもの親以上に影響力を持つことなのはない。あっちゃこっちゃでペラペラ述べるのもいいが、他人に責任転嫁してまで自分の過ちを正当化するような評論家と烙印を押しておこう。自分はルソーや井深大氏の教育理念に影響を受けたが、尾木氏に影響を受ける保護者がいるのは結構なこと。
     
    子どもは親が優しいだけでは育たない。厳しいだけでも育たない。「アメとムチ」との言われ方をするが加減が難しい。尾木氏の教育理念を知らずして彼を批判する気はないが、男は男として、女は女と色分けして接する自分としては、オカマ風味の人間は滑稽の対象でしかなく、尾木氏を嫌っている。そういえば尾木氏を擁護する人がこう言っていた。
     
    「尾木ママの教育論に異議を唱えるなら分かりますが、話す口調だけを捉えて尾木ママを批判するのは上っ面しか見てないってことになりませんか?あなたのいう男らしさって口調だけですか?人を上辺だけで判断することが果たして男らしいのでしょうか。そもそも、男らしさ・女らしさって自分の尺度ですよね。性別で「らしさ」を決め付けず、「その人らしさ」を大事にされるべきでは?」
     
    上辺や声質や言葉使いで人物判断はするよ。上手い歌手でも声が嫌い、声がよくとも容姿が嫌いというように。尾木氏の教育論が立派でも今回の一連の言い訳は、彼を嫌いの大きな要素になる。「自分の尺度?」当たり前だ。発言者も他人の尺度を批判しながら自分の尺度を押している。自分は尾木氏のあの物言いと今回の一件で、今後彼の話を聞く事はない。
     
    イメージ 3尾木氏が普通のおじさん風味だった頃にこう言っていた。「オネエ言葉で話してみたら多くの人が耳を傾けてくれるようになった」。これが彼なりに多数派獲得手段であったようだ。反面、オネエ言葉の彼を嫌う者もいた。尊重されるべきは彼の選択。女が男言葉を使おうが女は女、男がオカマであっても男は男。オカマだの、オネエ系だの言われて、相手に合わせてこちらがスタンスを変える必要もない。どういうスタンスを生きるも構わないが、自分に合わせてくれるばかりの人間ではないということ。しかし、オカマやオネエ言葉なら働く場が限定される事は承知だろうな。教育評論家は許されるとして、医師や弁護士や教師や銀行員や、多くの不向き職業はある。
     
    ヤンキー言葉よりマシというが、それも偏見だ。ヤンキー言葉愛好者に働き場がないように、オネエにもかなり限定される。芸能人やオカマバー、あるいは口を閉ざすところ以外に適切な働き場があるのか、自分には分らない。だから、親として「勉強しろ」とは言わないまでも、オカマになるな、オネエ言葉なんか使うなとキツく言うだろう。子どもをオカマにしたい親は奨励するのか?
     
    ことは尾木氏のみならずである。尾木氏を自由でよいではないかと肯定する親は、我が子がある日突然オネエ系に転身しても、親が肯定するなら問題なかろう。果たして自分の息子に尾木氏のような喋りを勧める親がいるのだろうか?他人だから肯定し、身内や我が子なら絶対許さないはバレバレの偽善者である。尾木氏はオカマでないと世間は言う。
     
    それはオカマの定義があるからだが、彼はオネエ言葉を使うだけで奥さんもいるし、男としての自覚を持っているという。上の理由とは別に尾木氏は「女子生徒との交換日記をやってるうちにオネエになった」とも言う。なるか?そんなんでオネエに…。彼を気持ち悪いと思う人間は少ないくないが、肯定派もいるし、最終的には彼の生き方の問題だから好き嫌いは自由。
     
    た今回の記事は、教育者が二枚舌を使うなである。「武士に二言はない」という言葉は「武士の一言」から発生した。武士の一言とは、「言い訳なき真実を保証する」ということ。だから二言がない。自分が吐いた言葉はいかなる理由があろうと言い換えしない、そのことを保証する。これが「信頼」である。教育者たる尾木氏がそうであるならオネエ言葉はいい。
     
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    朝から感動するニュースが飛び込んで来た。ニューヨークヤンキースの黒田博樹が日本に戻り、来シーズンから古巣の広島カープでプレーするというのに驚いた。意気揚々アメリカに行ったものの、メジャーからポイされて、落ちぶれて日本に帰ってくる選手をダメジャー選手と言う。それに比べて黒田は何と言う男気のあるサムライであろう。以下は記事引用する。
     
    ヤンキースからFAとなり、去就が注目されていた黒田博樹投手(39)が8年ぶりに古巣・広島への復帰を決めたことが26日分かった。年俸は総額4億円超とみられ、27日に正式発表される。メジャーで5年連続2桁勝利をマークしている右腕に複数球団が争奪戦を演じていたが、黒田は巨額オファーを蹴って育ててもらった広島で野球人生の集大成を飾る道を選んだ。
     
    男気あふれる決断だ。メジャーのFA市場でもトップランクに位置付けされていた黒田は、カープ球団にこの日、本人から「帰ります」との連絡が入った。黒田にカープは水面下で交渉を続けてきた。11月初旬には、帰国中の黒田に速攻でアタック。以来3度接触し、復帰を熱望する一貫した思いを伝え続けた結果、総額4億円を超える条件で合意したとみられる。
     
    2007年12月、広島からFA宣言し、ドジャースに入団した黒田は、メジャー在籍7年間で通算79勝をマークし、今季はヤ軍の中で唯一先発ローテーションを守り、5年連続2桁勝利となる11勝の成績を挙げた。ド軍との3年契約満了後は、「一年一年が勝負」との考えから、複数年契約を拒否し、てあえて単年契約で勝負し、完全燃焼を目指してやってきた。
     
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    黒田にはパドレスが年俸1800万ドル(約21億6000万円)を用意したほか、2008年から4年間在籍した古巣ドジャースも、年俸1600万ドル(約19億2000万円)プラス出来高払いを提示するなど、複数球団が争奪戦を繰り広げた。ここまでの巨額オファーを蹴って日本球界に復帰した選手は過去にいないし、バリバリのメジャーリーガーとして帰ってくる黒田である。
     
    緒方監督を迎え、来季24年ぶりのリーグ優勝を狙う広島カープに、黒田博樹という最高の、そして最強の戦力が加わったことになる。」これは何と言っても黒田のカープへの想い、義理、情け、それらをひっくるめたカープ愛であろう。黒田はことある事に、「最後はカープで」と言っていた。が、メジャーでの需要は後を絶たず、これでは帰る余地はないと見ていた。
     
    黒田がカープに帰りたいと思っていても、黒田の戦力を期待し、充てにするメジャー球団があるうちは日本に帰れないと、正直自分は思っていた。「帰りたくても帰れない」というのは、自分に言わせると口実である。帰りたい意思という欺瞞にあやかった恰好のいい言葉である。帰ろうという意思があれば行動できないはずがない。黒田はそういう口実を吐かなかった。
     
    上杉鷹山の「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉は、「できない」は「しない」であり、「しない」、「したくない」の口実であるから「できない」という人間を欺瞞として嫌っている。「したくない」なら正直に言えよ、といつも言う。言葉は人の都合で脚色もされ、使い分けられるが、それでは素直な心は育めない。
     
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    「素直でなきゃいかんのか?」という人間がいた。こういう言葉を吐かれると唖然としてしまう。「別にいいんじゃないか?お前の好きにして…」というしかない。説得する必要はないからだ。反面、「人間は、素直じゃなきゃダメだろうな」と向けてくるなら、「素直である事の良さ」をいろいろ話し合いたくなる。相手の友人度にもよるが、否定する奴を肯定に誘わない。
     
    なぜ素直がいいのかを考えてみるに、人と人は環境や育ちの違いから価値観や理念が違ってくる。つまり、人と人は意見が違ってもオカシクナイし、悪いことではない。だから他人がこう思うに対し、自分はこう思うでいいわけだ。素直であれば無理せず自然に異論も反論も生まれる。ところが、斯くの対論が、素直さから出たものか意地を張ってのものかは、分る。
     
    素直な意見なら自然に受け入れられるが、意地や体面からの強論にはうんざりする。つまらんことを延々と返す奴には閉口するしかない。そこが素直な奴と意固地な奴との違いである。素直の反語は意固地であろう。意固地とは言葉通り、意地に凝り固まったこと。こういう人間は人から排除されていく。反対意見はあっていい、が、意固地にならないことだ。
     
    「ごめんなさい。わたしっていつもこうなの。自分でもどうしていいか分からなくなって…」。むか~し、こういって嘆き悲しんだ女がいた。しこたま言い合いをし、くだらないその場限りの反論で収拾がつかなくなり、「もうお前と言い合いするのは止めた。壁に向かってほざいてろ!」と言った時に、堰を切ったように泣き臥せった女。しばし泣いた後、上の言葉を吐いた。
     
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    さっきまでの速射砲のように唾を吐き飛ばす彼女とは別人であった。「どうして素直になれないんだろう、自分がいやでなんです」と自戒する彼女に、「いや、君は素直だと思う。でなきゃ、今のように自己裁断はできないよ」と、それは本当にそうだと感じた。屁理屈にもならない言葉で応戦する彼女は、一種の病であろう、女性特有の情緒の断絶と思った。
     
    自分で自分がコントロールできないと言う事だ。分りやすく言えば感情的になる。病症の類なら「情緒障害」といえる。「情緒障害」の前段に「情緒不安定」というのは、女性ホルモン(月経)に支配された女の「性」であると、渡辺淳一がたしなめていたようにである。男はここを押さえておかないと女性を思慮なき浅はかなバカものとしか思えないかも。
     
    それくらいに情緒が変貌しやすい精神を持っている。女になった事はないが、情緒不安定に苦しむ女を見ていると理解できる事もあった。女は女と付き合うのと男を相手にするのと違える必要があるように、男も女を男同様に見てはダメだ。異性を理解できない根源は、自分と照らし合わせるからで、異性は言葉通り、自分の所有する性を異にする生き物である。
     
    異性を理解するためには異性を学ばなければならない。何事も勉強して理解するように、異性とて勉強ナシに理解は得られない。『女の宴』などの作品がある作家の黒岩重吾は、「千人とやっても女は分らない」との比喩を吐いたが、「やっても」はそれだけ懇意な関係になってもという意味。伊藤整に『女性に関する十二章』というのがあるが、彼はフェミニスト。
     
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    が、フェミニストであれ正鵠を射る意見もある。伊藤は第九章「情緒について」でこのように言う。「社会生活というものは、二個の人間の我慾がぶつかったときに、それを両方とも生かして、適当に調和させることなのだと。 個人の我慾は殺すべきでなく、他人の我慾と調和させ、妥当に組み合わせて生かすべきものだと。 我慾を持った人間も他者も我慾を主張する。
     
    して、その間を理屈で折り合いをつける。このような論理的調和に日本人は慣れていないとするのだ。伊藤は、とかく日本人が陥りがちな、両極端で"危険な"情緒的考え方を紹介している。一つは、自分が他人を完全に支配し、他人を奴隷にしてしまうというもの。 もう一つは、自分さえ犠牲になればいい、自分を全く棄て誰かのために死んで行くというもの。
     
    して、その両極でないものを「妥協」だ「中途半端」だと軽蔑する。そういう社会状態の中で生きることに慣れ、人と人との合理的な組み合わせを作ることは不可能と考えるようになった。清らかな生活というものは、社会を離れて出家遁世したり、花鳥風月に遊ぶことによってのみ作ることができるの考えに落ち着く。死ぬことは清潔だと考えるものその延長だと…。
     
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    伊藤の考えは、文学的思考と社会の融合であろう。肯定はできないが否定する自信もない。「我欲を抑えず生かして適当に調和させる」と、言葉にするのは簡単だが、どちらかが譲らない限りは不可能に近い。自分の思考系によると、我欲同士のぶつかり合いは、我欲を改めることに時間を割くことだが、欲を欲だと認識するところから始めなければならない。
     
    これが実に難しい。欲とは何?がスタートになる。そこで欲の反語は何かであるが、無欲というのは反語でない。欲の反語は「死」、これは哲学的な意味においてそうであろう。つまり人間は生ある限り「欲」である。だから死ねはシャレにならない。それ以外で欲の対語を見つけねば。「欲」は何ものかに捕らわれているなら対語は「空」、これは仏教的思考だ。
     
    欲が不満を埋めたい衝動なら、対語は「満」となる。広辞苑で欲とは、ほしがること。自分のものにしようと熱心に願い求めること。また、その気持ち。とあり、であるならほしがらない、自分の物にしたくない、となる。それからすると対語は「断」といえる。欲に対して「禁欲」は対語というより、自らに課した「枷(かせ)」として機能させるもの。
     
    黒田も人間である。「欲」がないわけはないが、20億を捨てて4億を取ったのは、お金の価値の限界を知ったからか?100億溜めてる人が101億、102億にしたいというのも理解できるが、100億あれば50億を世のため人のために役立てたい人もいる。そういう志はなくとも、100億あれば取り立て贅沢をしなければ何不自由ない人生を送れるというのも事実である。
     
    イメージ 2それは、庶民的な視点で世を眺めた場合にであろう。もっと上を見れば数百億、数千億持っているセレブはいくらでもいる。黒田のカープ復帰の要因はさまざまあると思うが、後人の育成や、プロ野球の監督という事も視野に入れて、残りの野球人生を日本球界で実行するためにこれ以上外国で余禄のカネを稼いでいても意味がないと感じたのかも知れない。
     
    イチローはCMなどの露出具合からして、日本野球界で監督などの道はあまりなく、同じ野球に身を置くなら解説者に向いていそうだ。彼がもし監督ならイチロー監督でなく鈴木監督となろうが、「鈴木監督?だれそれ?」ってな具合。黒田は寡黙で冷静で理性的に故に、名監督の器ではないかと、個人的な視点である。笑顔の少ない黒田、自他に厳しい男だろうが、彼の笑顔はまた価値がある。
     
    黒田のカープ入団が決まったときに、なるほどと思った事例が浮かんだ。3日前に3億で契約更改した球団のエース前田健太のこと。彼はメジャーの評価も高く、来年は渡米すると思われていたが、この話が急に立ち消えになったのは、おそらく球団から黒田のカープ復帰の可能性が強いことを示唆されていたからだ。確かに健太はメジャーに行きたかったろう。
     
    が、黒田復帰とあらば話は別だ。健太は尊敬する野球人をダルビッシュ有投手と公言している。その理由は、2011年のシーズンが周囲の期待に反して不本意な成績で終えていた(10勝12敗)が、「エース」のプライドから両足ふくらはぎの故障をチームメイト他に隠しながら登板していた。そのことをただ一人ダルビッシュに気づかれて以来尊敬を示すようになった。
     
    前田は今年の夏頃からポスティングシステムを利用し、メジャー希望を鮮明にしていたし、その場合の年俸総額1億2000万ドル(約130億円)規模の大型契約であると米国内で報じられ、一般紙ボストン・グローブによると「前田は日本の一部メディアに対し、ポスティングでメジャー挑戦なら、ヤンキースかレッドソックスでプレーを希望していると明かした」とされる。
     
    それなら黒田のカープ復帰は健太にとって願ってもないこと。ヤンキースの球団情報を黒田から得れる。昨年ヤンキースに入団した田中将大と前田健太は同期ゆえにライバル意識も強い。最低でも田中程度の成績は残したいだろう。黒田のアドバイスを得て、健太に活躍して欲しいし、ヤンキースの日本人選手の二枚看板はプロ野球ファンにとっても楽しみである。
     
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    ついでに健太と黒田に関する逸話と言えば、前田は黒田に高級時計ロジェ・デュブイをプレゼントされている。これは前田と黒田が2010年シーズンの年間勝利数の賭けをし、黒田(ドジャース)11勝13敗、前田(カープ)15勝8敗)で、健太が勝ったのでもらったという。前田はダルビッシュからも沢村賞の記念にと、自らつけていたウブロという高級時計を貰っている。
     
    今シーズン広島カープは、あと一歩と言うところで優勝を逃した。来シーズンは緒方監督の元、黒田復帰の元で今年よりさらに優勝に近づく、にしてもカープのケチ臭さは如何ともし難い。古巣とはいえ、メジャーのスーパースターにはポンと5億、6億出してもよかろう。メジャーはメジャー、ウチはウチという事だろうが、黒田獲得の樽募金も言われていた。
     
    樽募金とはかつて1951年、広島カープが経営難に陥り、リーグの加盟料や選手の給料が払えないことが要因となり、「大洋球団との合併」か「球団の自主解散」といった処置を取らざるを得なくなった。なお、新球場(現・マツダスタジアム)設立の際も、「平成の樽募金」として45年ぶりに樽募金が行われ、全国から募金で1年ほどで1億2千万円を突破した。
     
    黒田の男気によって黒田獲得樽募金は無用となった。来シーズンは黒田の勇姿見たさのファンが球場に押しかけるはずだし、黒田効果で球団も潤うことになる。黒田の背番号は2007年までつけていた「15」。8年ぶりの広島復帰でファンの声援もいっそう高くなり、球場が赤一色に沸くだろう。
     
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    「カープに恩返ししたい。バリバリやっているときに帰りたい」(黒田の口癖)
     
    「補強というより、帰ってくる喜びの方が大きい」(松田オーナー)
     
    「黒田選手の選択に感謝しています」(緒方新監督)
     
    「彼は二桁を挙げられるコンディションでカープに戻るつもり」(元カープ佐々岡投手)
     
    「絶対マツダスタジアムに見に行きます」(カープ女子:高校2年生)
     
    「うそだろ!ヤンキースは黒田を必要としているのに!」(ヤンキースファン:米国人)
     
    「ものすごく寂しい」(ヤンキースファン:米国人)
     
    「黒田は自分の野球人生を日本で続ける計画を立てた」(米CBSテレビ電子版)
     
    「黒田さんにはたくさんのことを教えてもらい、助けていただきました」(田中将大)
     
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    「1%でも帰ってきてくれる可能性がある限り、私が諦めちゃいかんと、そう言い聞かせていました」(交渉を続けた鈴木球団本部長)
     
    「カープの為だけでなく日本球界の為に本当にありがとう」(元カープ北別府学投手)
     
    「黒田さん、どんだけ虜にするんですか!」(アンガールズ:山根良顕)
     
    「カープ愛で、(20億と4億の)金額が埋まる」(アンガールズ:田中卓志)
     
    「黒田が広島に帰るのは広島がいい球団だから。久しぶりに武士を見た」(張本勲)
     
    「朝起きて知った。いい刺激になる。うれしい限りです」(広島カープ石原捕手)
     
    「プラスのことしかない。配球のこと、どんな練習をするか」(広島カープ若手投手)
     
    「黒田の広島復帰の陰に今年広島に戻る新井貴浩との絆がある」(関係者の証言)
     
    「私は泣いています」(歌手:奥田民生)
     
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    正月の挨拶は「明けましておめでとうございます」が一般的だが、何で明けるとめでたいのか?こういう疑問をもつ人はもたない人より若さの偏差値が高い。物事をたんにやり過ごす、素通りさせる人もいるが、世の中の当たり前のことや、語句や、文化や、しきたりに疑問を持つ感性はその人の若さを示している。子どもがあらゆることに疑問を抱くように。
     
    「何で明けるとめでたいのか?」に、これが正解というものはない。「別に明けたからといって、めでたくも何でもない」という人もいるだろう。その場合、そういう人はオカシイ、偏屈、変わってるとどうしていえるのか?年が明けるとめでたくなければならないのか?単に多数派に回っているだけではないのか?と言われると、そうであるとも言えるからだ。
     
    至って自分も少数派であり、「明けましておめでとう」は慣例句として言うけれど、心からそう思っているわけではない。誕生日を祝うのも、国旗を掲揚してまで祝祭日を祝うのも、昔の人は素朴に感慨はあったかも知れぬが、現代人にはそういう感性は劣化している。その意味においては自分も現代人である。年が明けてなぜめでたいに答えはないので人の意見を拾ってみる。
     
    「旧年が明けました。体に問題なく健康に新年を迎えられておめでとうございます」上記を略していっている言葉です。要するに汚くいえば「死んでなくてよかったね」です。でも今そんな意味で使っている人はほとんどいないと思います。慣例になってるから使ってるんです。」
     
    「自分や家族達の将来が、さらに輝くようにと目標や意識を改めて認識することです。本来なら、毎日今日一日の反省と目標を立てなければ成らないのですが、悲しきかな凡人には到底無理なので、年の初めにやっていますね。日頃神や仏をあまり信じていない人でも、初日の出や初詣に行くのは、それにより心身が清められ、清々しい気分で自分の目標に立ち向かう元気が宿り、めでたい気分になるのではないでしょうか。」
     
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    「金銭の支払いが滞り年が越せない人も多々いる中で、年を越せるということはそれだけでめでたいと言えるのではないかなと思います。貯まった付けを支払えなくて年を越せない人もいたようですし……。」
     
    「昔は1月1日に日本中の人々の年齢が増えるシステム(数え歳)でした。元旦が今で言うところの誕生日の感覚です。だから周りの人に「おめでとう」と言い、人から「おめでとう」と言われる国民的一体感がありました。私は50代半ばですが、地方(九州)だったせいか、子どもの頃は全体的にそういう雰囲気でした。年齢を聞かれると数え歳で答えるのが一般的でしたから。」
     
    「新年はなぜめでたいのか?」は、「誕生日がなぜめでたいのか?」と同じです。というのも昔は年齢の数え方がお正月を基準とする「数え年」で、正月で皆が一斉に歳を取るのです。昔は今と違い、ちょっとした病気で死ぬこともありましたから、どういう形であれ新年を迎えることができるのはめでたいことだとお互いを祝うのでしょう。
     
    他にも新しい(歳)神様がやって来るから、など様々な説があると思いますが、新しい年を迎えるのはどこの国でもお祝いムードになっています。よって「明けましておめでとう」は、新しい年を無事に迎えることができたことを祝うのがいちばんの理由だと思います。」
     
    「あけましておめでとう」も、「ご入学おめでとう」も、「無事に(その時期を)迎えられておめでとう」ではないでしょうか。同じような意味では「お誕生日おめでとう」もそうだと……。子どもの頃ならともかく、オトナになったら誕生日はちっとも嬉しくないですが、その年齢まで生きていることは祝われるべきでしょう。」
     
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    と、これらが代表的な回答であり、それほど種類があることもなく限定されているなら、これを正しい答えといっていいのだろう。つまり、無事に一つ年をとった(数え年)、健康で新しい年を迎えられた、風習に慣らされた、などどれも間違ってはいない。これ以外の答えをあえて思考、模索するようなことでもあるまい。昼時前であっても、「お早う」というのと同じこと。
     
    小学校のときに面白い先生がいて、遅刻してきた生徒に「おそようございます」と声をかけると評判だった。遅刻を注意するでもない、たしなめるでもない、教師の方から率先して「おそようございます」と丁寧語で語りかけるのだが、当時は面白い教師という以外は何もなかったが、なかなかよい教師に思える。絶対に怒らないということでも子どもに人気があった。
     
    遅刻した生徒を叱咤しするのが遅刻を防止する教育なのか?と言われるとそうとも思えない。ましてやこんな挨拶を子どもに投げかけては教育にはならなのでは?というのも異論がある。軍隊と言う非条理の世界では、理屈が通らない。理屈というのが手前勝手な言い訳と感じるなら、「道理」と変えてもいい。道理の通らない世界で、当たり前の返答をしても文句だといわれる。
     
    「飯は食ったのか?」
    「はい!」
    「眠ったのか?」
    「はい!」
    「だったら、なぜこれをやらないのだ、バカもんが!」
    「ダー!」バシーン!(←ビンタの音。猪木じゃないっつうの)
     
    要するに、飯を食い、寝る暇があったら、なぜ、言われたことをしないのか。ということである。さらには教えてもらっていない事でも怒られる。上官の命令には絶対服従、逆らうことが許されない。「無理偏に拳骨と書いて上官」と読む世界である。そういう中で山本五十六大将の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」は光輝く名言である。
     
     
    遅刻した生徒に「おそようございます」と頭を下げる女性教師は、山本五十六の教えを踏襲しているようだ。知られていることだが、山本は誰よりも戦争に反対した男である。当時彼は連合艦隊司令長官として真珠湾奇襲を指揮したが、アメリカとの開戦には始終反対をし、自ら望まぬ対米戦争に埋没していく。そんな山本には面白い人間的エピソードがある。
     
    「博打をしない男はろくなものじゃない」と言う言葉を残しているが、その真意とは何だろうか?を思考してみた。確か山本は無類の博打好きであったといわれている。将棋でもトランプでも麻雀でも、金銭をかけるとさらに強さを発揮したという。自分も麻雀は当然にして将棋もトランプも金銭を賭けることで真剣みが増す方を好むが、将棋は同レベルでないと賭けができない。
     
    トランプは偶然性も大きく、金銭を賭けて子ども相手でも早々勝ち続けるのは至難。トータル的には頭脳明晰側が勝利するし、将棋はともかく偶然性が大きいといっても麻雀、トランプは思考ゲームと思っている。山本には以下のエピソードが知られている。大正12年(1923年)6月、山本五十六が中佐時代に井出謙治大将の随員として欧米視察旅行に出かけたことがある。
     
    その際に南フランスのモナコに立ち寄った。山本中佐は、モナコのカジノでルーレットを何度も大勝した。その結果、モナコのカジノ協会から出入り禁止になったといわれている。このエピソードに関して後、上司の井出大将に対して、「私をヨーロッパに2年ほど遊ばせてくれれば、戦艦の1隻や2隻を造れるだけの金を稼いできますよ」とうそぶいていたと言う。
     
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    山本の博打に関する持論は、「私利私欲を挟まず、科学的数学的でなければならない。」である。この持論と「博打をしない男はろくなものじゃない」を融合させると、「人間の欲は科学的数学的見地から頭を働かせて実現するもの。我利我利亡者的な欲とは一線を画すもの」という答えが導かれるが、これはあくまで自分の解釈である。トランプも麻雀も将棋も洞察である。
     
    相手の手の内を読むという能力が必要になり、それをすることによって育まれ、磨かれる。これに山本の持論、"私利私欲を挟まず"を加味すれば、「敵を知り、己を知らば100戦100勝」の『孫子の兵法』につながっている。敵は常に相手と自分、己の感情と戦わない限り勝負は勝てない。博打やギャンブルはどうしても感情が高ぶるが、それを抑制する術をまた博打から学ぶ。
     
    酒はやらず、女と博打を愛した山本には河合千代子という愛人がいた。新橋で梅龍と名のる芸者で、河合によると、宴会の席で威張っていて無口だった山本を誘惑しようとしたが、逆に彼女の方が参ってしまったと。山本は多くの手紙を河合に書き、1941年12月4日、山本はバラの花束を河合に与え、翌日の手紙で「この花びらの散る頃を待つように」と伝えている。
     
    その真珠湾攻撃は4日後の12月8日であった。山本は時として5日を空けず千代に手紙を送っていた。山本を「情の人」と世間は言うが、千代との事はこの面の極端な現れである。ミッドウェー海戦という日米の雌雄を決する戦いの前に送った恋文は、「今度は獲物(空母のこと)は少ないと思います」と作戦と本音まで書いているのは如何なものかとの私的もなされている。
     
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    軍人山本にはほのかで甘い恋愛体験がなかったろうが、当時の軍人の多くが同じ境遇にあった。大作戦を前に、愛人とのあまりに腑抜けた手紙は、「情の人」で済まされる問題といえぬあまりの行状である。戦後は意図的に山本の神格化、偶像化が顕著でこのような事実は隠匿されていた。津本陽の『下天は夢か』に同様の信長像が描かれており、人間的といえば人間的である。
     
     山本が戦死したとき、千代子は海軍省から自決をせまられたが拒否、山本から千代子へ宛てられた手紙は十年間に30cm以上の高さになっていたが、国葬の前日、昭和十六年以降の分が海軍省へ没収された。その後、「全部焼却するように」との命令が下り、千代子は心に残る十九通だけを残してあとは焼いた。千代子は平成元年(1989年)に死去し、山本の遺髪と共に葬られた。
     
    この手の話は批判もあろうが、人間の真実を表すものだ。「英雄、色を好む」というより、軍の頂点を極めた男の純愛に思えてならない。生死の表裏を生きるものの慰めとしての女性もまた、女性としての高貴な価値を現している。1943年4月18日午前6時、ラバウル基地を発進した第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機の山本は1号機、宇垣参謀長は2号機に搭乗する。
     
    零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死した。偶然に山本長官搭乗の一式陸攻の墜落を目撃した日本陸軍第六師団第二十三連隊連隊長浜之上俊秋大佐は、山本長官機とは知らず捜索と救助命令を出す。最初に現場に到着したのは歩兵砲中隊・浜砂少尉の部隊であった。
     
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    浜砂少尉によれば、山本は機体の傍に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま、泰然と戦死していた。彼は死に赴くとき、天皇陛下の尊顔よりも終始千代子との思い出に心を費やしたであろう。「おかあさん」と叫び、あるいは、愛する妻子の写真を握り締めて戦場に散った若き兵士と同じ心情である。後年、戦争はその邪悪性を隠匿するために美化される。
     
    が、真実の戦争とは、実は人間的なものであろう。山本への批判は仕方がないが、米英との戦いに真っ向反対した山本自身の自我との戦いは世に出ない。兵士は、国家のものというが、兵士は、軍人は、個々己のものである。軍人にとって、「老いて楽しむ人生」などあろうハズもない。常に死と表裏の生である。平和な時代は余程のことがない限り死と表裏という生はない。
     
    プロスキーヤーで登山家の三浦雄一郎は「高齢者には無理という固定観念を疑え」と言う。日常さまざま生かせられる言葉で、三浦はこれを父と息子から得たという。三浦の父は77歳の喜寿でキリマンジャロ登頂、88歳の米寿でヨーロッパ屈指のオートルート(山岳スキールート)であるシャモニー~ツェルマット間(全長120km)の完全踏破に成功、"スーパーじいちゃん"の異名をとった。
     
    二男の豪太は日本モーグル界のパイオニアとしてワールドカップを転戦し、94年長野、98年リレハンメル五輪に出場した。特に父の年齢を超えた挑戦は、三浦にとってお手本になる目標が身近にいたということだ。1937年生まれの三浦は1970年にエベレスト大滑降に成功したが、命がけの挑戦だったという。平均斜度50度の斜面を数百メートルも滑降するなど凄いの一言。
     
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    2003年にはエベレストに世界最高齢(ギネスブックに掲載)となる70歳7か月での登頂を果たすと同時に二男豪太との日本人初の親子同時登頂も遂げた。2008年にも75歳でエベレストに再登頂した三浦は2013年5月、3度目のエベレスト登頂に成功した。これはエベレスト登頂の歴史で最高齢登頂者となる。どれくらい凄いことかの実感はないが、凄いことなのだろう。
     
    自分が80歳になにができるのか?ではなく、何をしたいのかが大事であり、それがあれば節制したり計画を建てたり、努力もするのだろうが、その年齢まで生きていられるかである。凄いことでなくともいいから、やりたいことが見つかればhappyではないだろうか。「正月は冥途の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」は一休さん(一休禅師)の歌。
     
    正月が来たからと人々はめでたいといっている。しかし禅師から見れば、皆は夢に酔いしれて浮かれているが、生きているということは、少しずつ死んでいるということである。人生はすべて夢まぼろしの連続なのだ。「本当の人生の歌に早く気づかねばならぬぞ…」、と禅師は教えてくれている。平均寿命(男=80.21、女=86.61)が伸びたとはいえ、タカだか80年の人生だ。
     
    長いと感じるか、短いと感じるかはそれぞれだが、いずれにしても二度とない(生まれ変わりがあったとしても、前世の記憶がないなら一度であろう)人生だ。楽しむか、苦しむか、といわれれば楽しく過ごしたい。そのためにどうする、どう生きる、を人は考えていくしかない。意思とは裏腹に苦しいこともあるだろうが、その暁には必ずや陽も射すだろう。
     
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    2015年が明けた。2015年の扉を空けたとも言う。自力で空けたのではなく勝手に空いたのだから、「2015年の扉が空いた」が正しい。時間は勝手に進む。容赦ないし、待ってはくれない。「時間よ、止まれ!」というのはマンガの話。時間が止まれば人や車が止まるシュチが笑える。人は時間と共に生きている。時間が積み重なって「老」となり、やがてその人の時間は止まる。年始めは「老」について…
     
    御年85歳の母は意地悪い性格が災いしてか、同居する妻を困らせてばかり。先日は大阪の叔父貴(母の弟)から電話があり、会って話したいという。妻に理由を聞くとくだらないいざこざがあり、大阪の叔父貴のところに電話をかけろと指示したらしく、夜も遅い時間なので叔父貴は就寝中であったという。「迷惑をかけた」と妻は言うが、80歳過ぎてもヒステリーが改善しない母には困ったものだ。
     
    この場に書くのも躊躇われるようなくだらないことも多いが、なにかにつけて「思い立ったら吉日」という短絡さ、思慮のなさは遺憾ともし難い。人を疑うが、自分にかかる疑いを極度に嫌う人間で、その種の人間を自分は善人ぶる悪人と定義する。悪人は、自分が悪人であることを極度に嫌い、いかにも善人でありたいのだ。自らを悪人と気づかず、疑うこともないのが悪人の特質である。
     
    イメージ 2こういう人は多い。悪事を働いて後に逮捕・収監されて取調べを受ける際も、悪人はシラを切り通す。自分の行為を悪と思わない、そのような悪事を自分がやるはずがない、という思い込みと自己正当化。行為の事実さえ脳から葬ってしまっている。嘘をついているが、本人は嘘などついていないと思い込む人間を説き伏せるのは困難極まる。自身を外から見ようとせず、一切を内側から眺めるなら、人は誰も己の行為を正しいと感じる。社会のルールや決まりを破る事は誰にもあり、自分は横断歩道の赤信号を守らないのを特技にしている。決して難しい特技ではないが、右も左も見通せて車の往来がないのに赤信号で止められることを納得できない。安全のための規則ならいいが、こういう時の信号は全く無能状態である。
     
    単にそれが規律というなら、規律そのものがオカシイ。身の安全を守っているというより、バカな信号機でしかない。まあ、これも道徳的な人は「マチガイ」というのだろう。道徳的な人はそれでいいし、自分は「道徳的でない」というより、「合理的思考」と思っている。守るべき規律や規則はあるが、合理的に守る意味のない規則を守らせるのは正しくなく、自分は正しい行為を選択する。
     
    自分は幼少期の子どもにもよく言った。「信号機なんかバカだろ?車が多い時は安全を守ってくれるから有り難いけど、車も来ないまったく安全なときにも赤信号であるのはオカシイくないか?自分の注意力や判断力を大事にした方がいい」。規則を破るのを怖がる子どもは実行しなかったが、そこいらあたりがいかにも子どもである。既成の教科書を否定せよと進言する父であった。
     
    居もしない(と思うなら)神や幽霊を妄信するより、疑うことから何かが始まる。信じるためには信ずるに値する合理的な理由が必要で、そういうものは理性的思考で得られるものだ。「神様はいる~」、「幽霊はいる~」と唱えたり、思ったりは簡単だが、当たりもしない占いを、たまたま当たったと喜ぶは利口でない。利口=賢いと混同されがちだが、利口は口が利く(口が上手い)という意味もある。
     
    また、利口は要領よく抜け目のないこと。の意味もあり、賢い、頭がよいだけの褒め言葉ではない。「利発」は「利口発明」を縮めた言葉で、頭の回転の速い、役に立つこと、有益なさまの意味がある。「発明」とは、今までなかったものを新たに考え出すこと、である。「利口」と「賢い」は違うといったが、まあこれは自分的に思うこと。有り体に言えば、賢くても利口でない人間がいるということ。
     
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    勉強や学問が堪能な子を賢いというなら、 一休さんのような、その場の現実に即した答えを出せる人間を利口と区別する。いかに学業優秀といえども口が利かないと、人を説得できない、女も口説けない。そういう人間は腐るほどいる。斯くの人間の持ち場は学者であろう。専門は専門、専門外は専門外なのだ。そのように区分けすると、市井で利発に生きる人と学者はまったく別物。
     
    ノーベル賞受賞者にしろ、王、長嶋、具志堅、アントニオ猪木、何か一つのことで優秀だった人を、他の事も絶対優秀なはずだという思い込みは当てはまらない。石原慎太郎が偉大な作家としてボキャブラリーはあれども、政治家に向いていたのかは疑問だ。自己顕示欲が強い彼はお山の大将で居れた首長退任後は、弱小派閥の存在感のなさに嫌気がさしたと思われる。
     
    今回の選挙における石原のやり方はいかにも彼らしい体面作りである。そもそも次世代の党は存在意義もなく、今回19議席から2議席に激減したのを事前に把握していた石原は、自らの賞味期限切れと比例区上位でしか勝ち目のないのを察知、比例東京ブロック最下位の9位で立候補という形で落選の口実としたのは明々白々、そこまで国民はバカじゃない。
     
    あの程度の体面なら大人気ないというしかない。11月14日の会見で案の定、「老兵は死なず。ただ消え行くのみ」という言葉を引用したが、100%落選確実の選挙に出馬し、供託金600万円をドブに捨てるのは如何なものかと。彼にそういう優しさ、配慮がある人間なら不出馬引退宣言をすべきであった。600万くらいは自分の引退花道への御祝儀という意識だろう。
     
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    自分はかつて石原慎太郎を敬愛していた。それは敬愛する加藤諦三氏によるところが大きい。東京都政が共産党に牛耳られていた1971年、革新美濃部都政に対抗して誰を推すかという時に、3年前の参議院選挙で初当選した石原の名が候補の一人として上がっていた。その時、自民党も共産党にいたる多くの政治家が「彼はタレントではないか」と鼻であしらった。
     
    都議会議員においても、東京都知事選で"おふざけ選挙"などあってはならないと断じた。そんな政治家を加藤諦三はこう批判した。「政治家が選挙民と国民をバカにして、思い上がっている民主主義国など世界のどこにあろうか。自分らの票は政治を分った人の票であり、タレントの票はそうではないということだ。(中略)すべての票は民主主義社会の一票なのだ。
     
    その票をバカにすると言う事は、選挙民をバカにすることであり、国民をバカにすることであり、少なくとも民主主義社会の政治家としては許されない。僕みたいな評論家といわれる人間が、石原慎太郎をバカにするというのは許されても、政治家が彼をバカにするのは断じて許されない。(中略)民主主義とは国家の制定する規則に国民一人一人が自由に要求を出せる事。
     
    国民一人一人が、国家の政治決定にあたって自分自身の経験を尊重させること、ここに民主主義の意味がある。そうでないなら、少なくとも政治家より理論に通じている学者の方が、多くの投票権を持っていい。政治家が一票なら学者は十票、というようなことがなされなければならない。つまり、政策決定にあたって、自分自身の経験を尊重させる意味である。
     
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    自分自身の経験は、まさに自分自身にしか分らないということなのである。そして、自分自身の経験を価値あらしめるがために、言論・出版の自由があり、集会の自由があり、そういうことがない限り、言論・出版や集会の自由も、思想の自由も、さして意味をもたない。宗教家は宗教を重視するが、神を信じない人間は道徳について、宗教家とは意見を異にする。
     
    そうした人間たちが様々な経験をし、それに基づいて思想の自由と言う事が出てき、それを討論することで一つ一つの政策が決定されるのが民主主義である。これを否定しようとするならば、民主主義を口にして立候補するのは止めた方がいいのである」。これは加藤氏の『思い上がる政治家』と題した論評であり、いたく感動を受けた。革新美濃部都政は3期12年に渡った。
     
    美濃部都政以降、鈴木俊一が4期16年、青島幸男が1期4年と続き、1999年4月23日より、2012年10月31日までの4期を石原が務めたた。その石原氏が任期を2年半も残して国政に打って出るとは呆れもしたが、結局橋下人気にあやかっただけのお茶を濁して終った。党より自分の面子優先の石原氏は、選挙期間中に引退を表明するなど有権者の投票意欲を減じさせた。
     
    都知事時代の天罰発言も、週に数日しか登庁しない彼を知る者は冷ややかであった。そんな石原氏が2011年以降の国政でやった事は、長男伸晃氏への配慮、三男宏高氏への側面支援、四男延啓氏の風除けという記事に頷く。次世代の党が壊滅的状況となった今、彼の最後に成し得た仕事が石原ファミリーの「安堵」だとしたら、晩節は褒められたものではない。
     
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    ネットに乱立する「石原都政13年の功罪」を読むと、王手飛車をかけられても王より飛車を大事にする石原氏、彼は2年前から詰んでいたと自分は読んだとおりの醜態であった。タレント集票力を政治家に揶揄された時代の政治家を批判した加藤諦三氏は、その後の驕る石原氏をどう見たのか。石原氏にはエッセイ集『孤独なる戴冠』があり、その中に以下の一文がある。
     
    ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」の冒頭のエピグラムの一文だ。「キリマンジャロは標高6007メートルの雪に覆われた山で、アフリカの最高峰と言われている。その西側の頂は、マサイ語で「ヌガイエ・ヌガイ」即ち「神の家」と呼ばれるがその近くに、干からびて凍りついた一頭の豹の屍が横たわっている。このような高いところで、豹が何を探していたのか誰にもわからない。
     
    かつて見たこの小説の映画化されたフイルムの中で、主人公はパリのカフェの馴染みのバーテンダーに酔ってこの謎をかける。バーテンダーは考えた挙句、「多分、何かその豹だけに匂った匂いを嗅いでそこまで上がっていったのだろう。間違った匂いだったかも知らないが」と答える。バーテンダーのその答えは多分正しいだろう。豹は我々だ。青年はその豹でなくてはならぬ。
     
    豹が一人嗅いで伝っていったのは、彼自身の個性だったのだ。たといそれが結果として間違っていたにしろ、彼はそれをそこまでたどっていった。高い山の頂まで、勇気をもって。そしてそこに彼を待っていたものが凍死であろうと、彼は「神の家」を極め、地上のいずれよりも高貴な死の床を得たのではないか。それこそが彼の得た孤独の戴冠だった。
     
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    この病んだ時代の密林の中で、我々は捨てられた腐肉のをあさる麓のハイエナであるよりも、高みに凍えて死ぬその一匹の豹でありたい。…1966年」。加藤氏は石原氏の『孤独なる戴冠』のこの言葉を引用し、「たった一人で歩いていかなければならないのだ。男とは、山頂にあるのが凍死であると知っても、雪の中をただ一人で歩いていかれる人間をいうのだ。
     
    山麓の"あいつはバカだよ"の声を背に、誰にも理解してもらえない孤独さを抱きしめても、なお一人で登っていく人を男というのだ」。とこそばゆい一文を捧げている。加藤氏は一貫して石原擁護の姿勢を崩していない。個人的な好き嫌いはあってもいいが、少しばかり気になって石原―加藤の利害関係を調べてみた。「東京都青少年問題協議会」というのがある。
     
    その委員名簿に会長石原慎太郎、副会長加藤諦三とあった。なるほど、二人はウマがあうのか昵懇のようだ。友人ならクサしたりすることもなかろうし、石原氏もわざわざ自分を批判する人間を委員に選ぶはずもない。とまあこういうことだが、敬愛する加藤諦三氏が、石原シンパであったとしても、これで自分が加藤氏へのリスペクトを止める理由にはならない。
     
    ともかく石原氏は政治舞台から消えた格好だが、繰り返すも次世代の党の比例名簿9位という出馬はやることが子どもじみているし、これが彼の美学と言うならあまりにも幼稚でありすぎる。自分の引き際の事ばかり、党の存続がどうなるなどこれしき頭にない。石原の「オレが、オレが…」の人間性も見えた。人間は引き際を間違えると無様になるが、それを超えて滑稽ですらあった。
     
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    引退会見で石原氏は、「肉体的な条件もあり、迷惑をかけてはいけない。老兵は死なず、消えていくのみだ」と述べた。自分の母も周囲に迷惑をかけても気づきもしないに比べると石原氏の方が利口である。石原氏は1932年生まれの82歳、母は1929年の85歳の同世代だが、「迷惑をかけている」と感じる理性に比べ、感情ばかりの母にそのことを望むべくもない。
     
    父は1983年に67歳で世を去った。30年以上も前のことだが、昨日のことのように覚えている。同居したのはわずか18年足らずで、0歳~7歳くらいまでの記憶は皆無である。母が自分を独り占めをしていたのだろう。母の見境のない子どもの占有が、父親の出番を削いでしまう。こんにち、子どもを自分だけのお宝であるが如く、独り占めする母親の思慮の無さ。
     
    その見境ない態度に男は益々子育て意識から遠のくことになる。そうしたあげく、「あなたがこの子のために何をしたというの?」と、慈悲ない言葉を突きつけられたときの虚しさよ。女が子どもに入れ込むのは分からなくもないが、そのことが夫を子育てから遠ざけてしまう。奪い合いもよくないが、独占もよくはない。「協力」という文字は入れ込んだ母親には難しい。
     
    思い出すのは父が、母の目を盗みながら接してくれたこと。ヒステリーを発症させない気遣いであり、男の子に言葉は無用、父の寡黙な愛情は伝わっていた。怒りの種類は二つある。声を荒げた怒り、心静かに嵐が収まるのを待つ怒りである。同じように愛情も二つある。積極的に関わる愛、心静に見つめるだけの愛。後者は点数稼ぎをしない愛。それが男の愛の本質か。
     
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    人は生まれるとき、壮絶な一声を上げるが、人が消える時は静かに消えるべきであろう。その人の存在感は残された者が感じるもの。だから静かにしていればいい。最近は世が複雑になり、葬儀を近親者のみで密葬と言うのが多くなった。葬儀のスケール、参列者の多さを競うのがバカげたことだと気づいたのだろう。義理や本意でない参列者など呼ぶこともない。肉親の愛で送ればよい。
     
    人は様々なことを競い合い、つばぜりあい、しのぎあい、そういったあげく本当に大事な何かに気づくのかも知れない。そういう中にあって、肉親に嫌われるような人というのは、少なからず問題があるということだ。好かれようとして無理をすること自体が傲慢であり、故に嫌われてしまう。人に好かれる人は、決して自身に無理をしないし、他者に無理を強要しない、平常心の人なのかも。
     
     
     

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  • 01/06/15--07:11: 「老い」と断捨離
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    断捨離(だんしゃり)とは、不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のことで、この言葉が新語・流行語大賞にノミネートされたのが2010年であった。やましたひでこの著書が発表されて話題になり、この考え方が人々に広く知られるようになったのだが、基本的にはヨガの行法、「断行」、「捨行」、「離行」という考え方を応用したに過ぎない。

      断=入ってくる要らない物を断つ
      捨=家にずっとある要らない物を捨てる
      離=物への執着から離れる

    やましたの著書の後、様々な著者によって、断捨離の考え方を扱った本が出版されるようになった。さらに自分と物との関係だけでなく、仕事のすすめかた、人との関係にも断捨離を実践することをすすめる書物なども出版されるようになった。『ビジネスパーソンのための断捨離思考のすすめ』(田崎正巳著)、『50歳からの人断捨離』(向谷匡史著)、『断捨離で「母の呪縛」を解く』婦人公論編。
     
    当初、「断捨離」とはただモノを捨てたり、片づけを上手くやる方法のようなイメージであったが、家の中にあるたくさんのモノのうちから、「何を残し、何を捨てるか?」を思考することで、モノを通じて自分と向き合う事ができる。即ち、自分自身を深く知ることができる。もっと言えば、「自分が人生で何をしたいのか?」を教えてくれるものであるとやましたは断捨離による新しい生き方を提唱する。
     
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    「このまま老いていくだけの人生は嫌だ…」という人は多いのかも知れない。ジェーン・フォンダも「老い」を「人生の第三幕」と提唱し、自身の考えを広めている。主体性や独創性のない女性をターゲットにした考えのようで、自分らのようなマニュアル嫌いで、自らで思考・行動する人間にとっては興味の対象とならない。この手のビジネスにはいささか大げさすぎるきらいがあり、それでこそビジネスである。
     
    世間は商業主義にまみれ、あらゆるものの利点が大げさに強調されたり、クローズアップされたりは仕方がない。そんなに素晴らしいものなら無償で広めればいいと思うが、商売にするところが胡散臭い。「イイこと教えてあげるからお金出しなさい」的な商売というのを自分は信用しない。小金を儲けたいという人間と、一級のセレブ人間であるジェーン・フォンダとの格の違いとでもいっておこう。
     
    この考えに飛びついた女性には、「宗教じみている」、「大げさすぎる」などのの不満や批判から、「断捨離卒業宣言!」というサイトで、いろいろ書いている。「気をつけよう、甘い言葉と暗い道」という標語を思い出すまでもなく、真に自己変革を望むなら、自らとの孤独の闘いであると記しておきたい。世の中にはセミナーと銘打った様々なものがあるが、大事なのは「継続は力」という一語。
     
     
    新しいもの、新しいこと、そういった新しいもの好きの女性が陥るのは、新しいものこそ実は流行おくれである。『賢明に世俗的であれ、世俗的に賢明であれ』と言ったのは、フランシス・クォールズである。彼の生きた1600年代初頭のヨーロッパ人の平均寿命は35歳にも満たなかった。こんにちの平均寿命は当時の倍以上に延びたが、それはたんに医学や薬品の進歩と言うだけではない。
     
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    我々は日々の生活の改善に確かな考察をくわえてきた結果であろう。人生の継続を長引かせるために積み重ねてきた幾多の注意や行いなどは人生を質の良いものに改善した。癌や循環器系の疾病に対する予防医学の発達も、医療は病を治すから病を防止するに移行している。それでも不治の病は存在するし、世界中の科学者や医師や研究機関がそれらと闘い続けている。
     
    最悪の老いは心の老いであろう。つまり心の若さといえるようなものが、年齢と言う避けがたい精神の後退を遅らせている。老化のプロセスってのはその結果が単一であろうはずがない。年とともに弱くなるものはあるだろうが、強くなる特質のものもある。記憶力や反射神経は減退するが、理解力、判断力は増す。
     
    情報処理能力衰えても、知識の蓄積は増えている。老化で増えるものは何があるか?シミやシワも増えるな。これは老化現象といえる。知性は経年で劣化すると思われがちだが、以下指摘する科学者もいる。「知性とは、個々人が自分と自分をとりまく文化の中で、自ら意味があり重要と思ったものを見、使い、適用し、結びつけ、結びなおす能力のことである。
     
    この能力は、最終的な死による以外に低下する事はない」。知識と知性の違いを説明しながら、経年によって知識量は減衰しても、知性は低下しないものだという。老化と脳と行動の関係についてなされた実験データや研究によれば、成熟後の脳細胞の効率は、徐々に低下の傾向が見られることがわかった。機能上からいえば脳細胞の効率低下は一細胞あたりの情報容量の喪失として現れる。
     
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    が、必ずしも情報処理能力や分析力の低下とはいえない。後者のプロセスは確かに老人の速度は遅いといえども、正確さは若者と何ら変わりはない老人もいる。とりわけ活動的な生活を続け、精神が硬直化したりで保守的にならないような日常訓練を怠らない老齢者に関しては、むしろ若者を越えていたりする。まあ、自分もそのようにならないように、書き物をしているというわけだ。
     
    人的交流ブログもいいが、矍鑠とした精神の鍛錬に書き物ほど有意義なものはない。老人はいかにも保守的であり、当人すら気づいてない場合が多い。保守的とは思考の硬直化を言う。カルフォルニア大バークレー校のM・ダイアモンド教授は、ラットの老化した脳についての研究で、「病気や貧困な環境や栄養不良がなければ、神経系は老化の退行に抵抗する潜在能力を持つ」と結論づけた。
     
    老齢期は人間の最大の後退期というのは現実から遠く、実際は我々のすべてで進行している現実的な後退が最少の時期であるという事実に驚かされるが、ダイアモンド教授も、「脳が刺激ある環境にさらされる限りこれは事実である」としている。刺激ある環境とは黙って何もしないでいて、周囲が与えてくれるものではない。真に若さを必要とするのは、何においても努力が必要である。
     
    イメージ 5ジムに通ったり、地道なトレーニングで肉体を鍛えることが若さの堅持と励む人もいる。でっぷり・ぶよぶよ土左衛門の身体にくらべて美的であるのは間違いない。が、精神の若さは筋トレでは敵わず、脳トレで鍛えるしかない。人々の誤解は、老化における機能上の後退、あるいは社会的後退は、脳そのものの後退であるという間違った考えにあった。若さは肉体よりも脳である。老人が美しい肉体を誇示してみたところで、脳が棺桶状態では何をか云わんや。細胞の損失は年とともに起こるのは間違いのない事実であるが、それらは個人個人でさまぁまであり、冒された脳の諸領域や諸部分において、速さは異なっているし、先に述べたように、活発な精神と刺激のある環境によって補われる。活発な精神は自分にとって最良の環境をつくりだすことができるのだ。
     
    刺激のある外的環境は、不活発な脳に活動を起こさせる。使わないことで起こる機能の減退は、内からも外からも起こるし、それは充分に刺激を受けなかった脳に、より顕著に現れる。最もいいとされるのは、二種類の「刺激」の利点を受けること。過去の経験による刺激と、新しく挑戦するような刺激である。恋は女性をキレイにする媚薬であるのか?それは科学的な立証の元に言われているのか?
     
    彼に愛されたいがゆえに、お化粧やスタイル、着衣に気を配るからというのも事実だが、恋をすることで体の内側から、キレイになる仕組みがあるのは事実のようだ。俗に"恋愛ホルモン"と呼ばれる4つのホルモンが、フェニルエチルアミン、エストロゲン、ドーパミン、オキシトシンである。フェニルエチルアミン(PEA)は、チョコレートやココア、チーズなどに含まれる香り成分である。
     
    チョコレートを口の中で溶かすと、高揚感を感じるのは、このPEAによる。「やる気物質」とも呼ばれ、気持ちを上向きにさせる作用がある。癌治療の鎮痛剤として使われるモルヒネにも含まれる「軽い麻薬」。エストロゲンはキレイホルモンとして有名。女性の第二次成長期に多量に分泌され、更年期に入るとその分泌量が著しく減少する事実からみても女性らしい体をつくるのに不可欠なホルモン。
     
    恋愛をするとエストロゲンの分泌が盛んになることがわかっているが、ストレスがかかると分泌が減るのでつらい恋では意味がない。 ドーパミンは別名「快楽ホルモン」。心地いい、うれしいという快楽・快感の動機となる行動は、このドーパミンの分泌で再現されようとする。ただし、このドーパミンは10年歳をとるごとに10%減少してしまう。ドーパミン分泌低下に恋愛は有効な手段と言えなくもない。
     
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    オキシトシンは、愛情や信頼を決定づける母性ホルモンである。出産や授乳期に多量に分泌されることから、母が子を思う愛のごとく無条件で相手を守りたいという思いを起こさせる。この分泌がさかんだと、恋の相手を信じる気持ちが高まる。したがって、オキシトシンが分泌されると、優しい気持ちになり、社交性も高まり、彼とのコミュニケーションもより潤滑になる、というわけだ。
     
    しかし、このオキシトシンの分泌が多いと無気力になったり、逆に自己中心的な愛に溺れる可能性もある。絶対愛の感情はオキシトシンから生まれるが、夫あり、子どもありの妻に絶対愛の感情が芽生える事はない。常に抑制しながら不満の捌け口、性欲の対象としての衝動を自己暗示的に恋と思い込んでいる。「恋は性欲を隠す方便」というのは、いかにも女性に用意された言葉であろう。
     
    「愛する」というのは、互いに見つめ合うことではなく、 いっしょに同じ方向を見つめることである。 大抵の男女は簡単に愛するなどの言葉を使うが、真に難しいのは同じ方向を見つめあおうとする気持ちだ。快楽物質ドーパミンが危険と遊びに機能し、男と女は遊びにふけるが、それは最も危険な遊びであろう。恋愛のもつれから相手を殺めるという愚行は、若い人のみならず老齢者にも見られる。
     
    1883年アメリカ・フロリダ州生まれのフロリダ・スコット・マクスウェルは、16歳で舞台女優となり、1910年に結婚してスコットランドに移住、婦人参政権運動に参加。作家、劇作家の後はユング派の心理分析家として活躍し、数々の著作を生んだ。彼女の名著『八十歳、わが日々を生きる』(1968年)は、現在も多くの人に読み継がれているが、年齢のもつ一側面としての印象をつぎのように語っている。
     
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    「老人はとても若いと感じている…。ときどき、そうなのである。体が痛んでいて無力な衰弱した身ではあるけれど、ときどき心の中では永遠にすばらしく若かったりする。そうあるべきかどうかは、私には分らない。それは誰がいえようか。たぶん、この奇妙な若さと言う性質は大変に重要である。そして観察によれば、それは変異が大きい。私が確かだといえるのは予期せぬ新鮮さが老いたときに訪れるということだけだ。
     
    このわけのわからない新しさは、あまりに心を浮き浮きさせるので、いかにそれを分別をもって放置するかが問題である。思うとおりに説明してみようか…。それは、幸福のようであり、開放感であり、何か許されたような感じすらする。それは大いに尊ぶべきものであるように思う。心の内に湧く期待のはずみは、まさに正真正銘のものなのだから。そして、私がそれを純粋に新鮮なものだというのを、どうか信じて欲しいと思う。」
     
    なんと静謐な文章であろう。誇張がないゆえに真実が際立つ。ほとんどの高齢者にとっての問題は、彼らが年をとっていると感じていることではなく、そう感じていないことなのである。我々はみな自分の中に永遠の若い魂の核ともいえるエッセンスを持ち続けており、その内的な光が、我々の人生の日々を暖め、照らしつづけている。くれぐれも保守的な他人から老齢神話を押し付けられないことだ。
     
    人生の全行程は、若々しい老年であるべきだ。自己を静観し、愛情に満ち、陽気に振舞い、人生の最高のときである老年に向かう旅ではないだろうか。老人は若い人よりも人生を楽しむことができる。その理由は老人の方が人生により深い理解や造詣をもち、若い人より賢明だからである。老人が社会から見放されている状態は、実は老人にも責任があろう。積極的に社会に関わろうとしない。
     
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    社会性とは他者とのかかわりである。このことに対して我々は常に責任を持たねばならない。好きなようにする自由をもつために、我々は好きなようにすることに対する責任を負う。そういった責任感は自然発生しない。教育されなければ決して身につかない。であるなら、無責任な人間は教育されていない人間であろう。自分がした行為の責任を、自分が取らないのなら、誰が責任をとる?
     
    組織の中の一員として、別に責任者が置かれているならともかく、それでも自分の行為の一端には自己の責任もある。できることなら責任感は若い時分に教育され、訓練されているべきである。それがなされているなら、「責任感」は決して重荷にならず、むしろ楽しみとなる。なぜなら、自分のする行為は、自分が好きでする行為だからである。自ら考え、自ら行動することに、嘘・偽りは持ち込まない。
     
    なぜなら、責任をとらなければならないからだ。責任回避を企む奴、責任放棄でどこ吹く風のような物言いをする奴は、やっていること自体に信憑性がないのだろう。言い換えれば、自分を偽った行為をしている。これでは責任などとれるはずもないし、取りたくもない。若い人に責任感を植付けるには、責任を持たせる何かをやらせること。過保護ですべて親が責任を取るなどどうかと思う。
     
    ニートなどという言葉に甘んじているのは、実は本人よりも親なのではないのか?そんな者を囲ってどうなるというのだろう。親が親の責任において子どもを育てなかったからだろうが、それが「自己責任で生きてみろ!」と外に追い出すこともできない要因になっている。「負の連鎖」というのは断ち切ることが難しい。「子どもがこうなったのも親の責任」という言葉が虚しく響く。
     
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    「親子の慣れあい」、「負の連鎖」、「親の社会的責任」というところまで考えて子どもに向き合う必要があるが、新米の若い親には難しかろう。核家族が奨励されているかの如く、三世代同居が少ない現代にあって、おじいちゃんの一言が聞かれなくなった。思い起こせば、子どもの頃、祖父の一言は親以上に心えぐられるものだった。祖母の至言もいくつか脳に残っている。
     
    今、自分がその役に任ぜられているのを、ハタと感じている。親の言う事を聞かない孫でもおじいちゃんの言う事を聞くのはなぜだろう?親の親だから偉いと思っているのか?孫の心は判らないし謎である。が、下手な事は言えないという責任感が湧いてくる。孫は育てる義務はない。可愛がっていればいいという。だから、「目の中にも入られる」のだと。昨今はそんな暢気な時代ではないのよ。
     
     

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    「"人生とはアーチのようなもの"という古い考えにわたしたちは捉われている。アーチとは人生の真ん中でピークに達し、その後は衰えていくもの。加齢をまるで病気のように考えている。でも、今では多くの人が、芸術家や哲学者や医者や科学者に至るまで、人生の後半の30年を新たな見方で考えています。それを私は『人生の第三幕』と呼んでいます。
     
    『人生の第三幕』は発展期なのです。青年期が少年期と違うように、『人生の第三幕』は中年時代と異なります。この時期をどうやって上手く過ごすのかを考えなければなりません。年を取ることは何に例えればよいのか、一年かけてこのテーマを研究した結果、年を取るということは階段を上ることだと考えるのが相応しいのではないかとの結論に達したのです。
     
    精神的な成長が、知性や全体的な信頼性に繋がるのです。年を取る事は病気ではなく、将来性のあることです。そしてこの将来性は一部の少数の幸運な人だけのものではなく、50歳以上の多くの人がストレスが少なく、敵対心も不安も少ないことが分かっています。50歳以上の人は違いより共通点に目を向けるし、それらが50歳以上に幸福感を与えているのです。」
     
    人生50年と言われた時代から現代人は30年以上も長い平均寿命を持つようになった。それはただ付け加えられただけのものではない。TEDxWomenで、ジェーン・フォンダは、この人生の新たな段階をどう考えるべきかを問いかけた。TEDx(テデックス)は、米国で開催される招待制のカンファレンス、TEDの精神「ideas worth spreading」のもとに世界各地で発足するコミュニティ。
     
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    TEDxxはTEDのコンセプトを受け継いだ団体である。現在60ヵ国以上にわたる都市でTEDxイベントが実施されている。TEDxTokyoは東京をベースに活動することを目的に、P・ニューウェルとT・ポーターによって創立された。ジェーン・フォンダは1937年アメリカ生まれの77歳で、ヘンリー・フォンダを父に持つ。女優の他に、作家、政治活動家の肩書きを持つ。
     
    幼い頃、実母が父の浮気を苦にして自殺したと知った以降、父との確執が始まった。父はその後も別の女性との再婚・離婚を繰り返した。ジェーンはことごとくヘンリーに背き、ヴァディムとの結婚も父に知らせないままだった。和解したのは彼女がフランスから帰国してからだという。「フランス行きが私を自立させたのです。私は父を克服しました」と後に語っている。
     
    父の行状から屈折した青春期を過ごしたジェーンにとって、父との和解は父娘初共演の映画『黄昏』(1981年)であった。父と娘の確執を取り扱った作品であるが、それは実生活におけるヘンリーとジェーンの不和を思い起こさせるものだった。ジェーンが父親の最後を予感し、父のために原作の映画化権を取得したとされる。実際同映画はヘンリーにとっての遺作となった。
     
    『黄昏』は1981年度の第54回アカデミー賞で、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞の3部門で受賞した他、共演のキャサリン・ヘプバーンが自身の記録を塗り替え史上最多となる4度目の主演女優賞に輝き、ヘンリー・フォンダも史上最高齢の76歳での主演男優賞と、記録尽くめの受賞となった。父親の相手役としてキャサリンを推薦したのもジェーンであった。
     
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    『怒りの葡萄』や『十二人の怒れる男』など多くの作品に主演したヘンリー・フォンダが、76歳にして最後の作品で念願のアカデミー賞初受賞という快挙である。娘によってもたらされたアカデミー賞初受賞といって決して過言ではない。ところが念願の主演男優賞を獲得したものの、授賞式を健康問題で欠席したヘンリーに代わってジェーンが出席して賞を受け取った。
     
    ヘンリーは受賞式の数ヶ月後の1982年8月12日、子供たちに見守られながら77歳にて死去した。現在ジェーンは父の死去と同じ年齢であるが、3年前の74歳のときに当時の恋人とされる大物プロデューサーリチャード・ペリー氏と4度目の結婚が時間の問題といわれていた。出会いはジェーンが74歳だった2011年、人工膝の関節置換手術を受けた時期で、熱愛の心境を明かしている。
     
    「男性に対して心の底から親密さを感じたことは、これまで一度もなかった。死ぬまでに、それが一体どういうものなのか味わってみたかったの。そしてリチャードに出会った。彼と一緒にいると完全に安心感を得ることができる」と述べている。ジェーンは『素直な悪女』、『危険な関係』などの作品で知られるフランスの映画監督ロジェ・ヴァディムと27歳で最初の結婚をした。
     
    「私は女優として成功を遂げ、経済的にも豊かでしたが、自宅のドアを閉めた途端に自分の声を無くし、男にかしずき、男を喜ばせたいという一念に取り付かれていました。知らず知らずのうちに女性蔑視の習慣に取り付かれ、それが体の芯まで蝕んでいた。フランスで時の人だったロジェとの結婚は、"ああ私も価値のある人間なんだ"と自讃していました」とジェーンは言う。
     
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    ロジェとの結婚生活は8年で終焉、帰国して35歳でラディカルな政治家トム・ヘイドンと再婚する。ヘイドンとは17年の長きであったが結局離婚し、54歳にしてメディア王デッド・ターナーと三度目の結婚をする。「テッドは私に自信を与えてくれました。それは彼と別れてから気づいたんです。以降、私にアレコレ指示・注意しなくても自分の判断は間違わない程に成長した」と。
     
    そういう履歴を持つ彼女が74歳にして4度目の結婚をサプライズするはずだったが、あれから3年、その後どうなった?リチャード・ペリー氏を恋人に迎えた頃は、「74歳にして、これまでで最高に充実したセックスライフを送っているわ。若い頃は抑制する気持ちの方が強くて、自分が何を欲しているのか分からなかった」と74歳のばあさんにして過激な発言である。
     
    ジェーンは60歳のとき、これからの時間を自身の最終章とし、第三幕目の結果を出そうと思考した。たとえ最初の二章がバカバカしいことの連続であっても、最後には大切なものを残して行きたいと言う事のようだ。テッド氏と結婚しアトランタに住むようになった頃、10代の少女たちの妊娠・出産が多いのを目にしたジェーンは、「思春期妊娠防止キャンペーン」を始める。
     
    運動が巧を奏し、妊娠率が30%下がったことで、テッド氏と離婚した後も元夫婦ということで運動は続けている。「前の二人の夫と比べてテッドはとても親切でした。親切っていいですよ」とジェーンは言う。そんな彼女の74歳で結婚を考えるというのは自分には理解できない。出会ってから同居を始めて現在も続いているようだが、二人の愛についてはこう述べている。
     
    イメージ 5「今はただ彼に愛されているというだけで幸せなの。彼からは何も要求されませんし、こちらも何も求めません。愛情だけで充分。人生の終わり近くになってそういう愛を見つけました。これまでも、それなりに努力はしていたのですよ。人間って、自分が何を欲しいか知ることが第一ね。ここまで長い長い時間がかかりましたけれども…」。この言葉はよく理解できる。
     
    特に、「彼からは何も要求されませんし、こちらも何も求めません」というくだり。これが男と女の愛の本質ではないかと感じている。相手も求めない、自分も求めないのは、何も物質的に満たされているからと言うのではない。何十万、何百万のジュエリーや衣類などをむしろ求めないのがセレブであろう。彼らは求めること以上に吐き出すことを大事に考える。
     
    ボランティア精神は「富の分配」にある。お金持ちばかりが富み、吐き出さなければ富は一極集中する。特にアメリカの象徴といえるニューヨークは、全米から世界中から、人々は夢を抱いてやってきた。頑張ってつかもうとする夢が大きい分だけ実現の確率は低くなり、勝者と敗者の間の落差も大きくなる。浮かぶ瀬の高さと沈む淵の深さ、光と影が交錯するカオスの世界。
     
    人的奉仕という社会活動としてのボランティアもあるが、アメリカンセレブのよる富の再分配も同様である。労働奉仕、物的(金銭的)奉仕、それぞれに役割がある。お金を出せないひとは汗をかけばいい、労働を捧げる時間の余裕なき人はお金で償う。ケツの穴の小さい小金持ちが、家や車や骨董品を見せびらかせているだけではセレブどころかガメツイ守銭奴であろう。
     
    ジェーン・フォンダは長いこと鬱を抱いていた。「40歳代のころ、朝目覚めて最初に考えることは、すべて悲観的なことばかり。私は怯えていたし、自分が偏屈な年寄りになろうとしているのが分ったのです。ところが、人は老齢期にかかると外側から見るのとは対照的に、怖れは弱まるのです。加齢を美化したいのではありません。老年期が実りと成長の時期にあるということです。」
     
    彼女のいう、「老年期が実りと成長の時期」と言うのも頷ける。誰でもそうではなく、そのように仕向ける者はそのようになるということ。主体的な学びは若い時期など比べ物にならないだろう。主体性を持って学ぼうとする意欲こそが真の「学び」の本質であろうが、それが何故か若いときにはできない。若いときには性欲、物欲、欲望が多すぎるからだろう。食欲とてそうだ。
     
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    ジェーンの言う、「人生の第三幕」最終章をどう生きるか。ダラダラ生きるのも悪くはないが、圧倒的な実在感を抱いて生きるのもいいだろう。そのためには自分が向かうべき方向を見つけなければならない。第一章、第二章を振り返り、自分が辿った道筋を知ることが大事であった。自分とは一体どういう人物だったのか?自分とは一体何者だったのかを知るべきである。
     
    親や教師や友人が自分のことをどのように見、どのように語っていたのか。親や教師や友人という枠をはずして、親とはどういう人間だったのか。教師とは、友人とは、自分の周囲にいる人間はみな人間としてどういう人だったのか。「温故知新」の諺どおり、それが今を知る手がかりになる。あの時のあのことに心を傷めたことは、実は自分とは何の関係もなかった。
     
    親の強権や傲慢であった。そういった、自分のせいでないことに拘っていたことがどんなに多かったか。それを今、大人になった自分が、大人の考えで思考し、整理し、結論づける。そのことが自分を解放することになる。映画『グッド・ウィル・ハンティング』のラストで繰り返された、「It's not your fault」という言葉。親から悪い子と烙印を押され、傷ついた過去は誰にもある。
     
     
    それを大人の思考で見ると、悪いのは子どもではなく実は親の欲求であったりする。子どもが親の欲求の犠牲になる必要などないのに、子どもと言う弱者が親と言う強者によって歪められていく。ルソーの言うように、子どもの心を歪めるほとんどの要因は親であろう。自分と自分の過去の関係性を変えることが、自分の過去を変えることとなる。過去は変えられる。
     
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    ジェーン・フォンダも同じようなことを言っている。「人生の第三幕の核となる目的は、必要に応じて、過去との関係性を変えることなのだと思います。認知研究によると、過去との関係性を変えることができると、神経学的にも変化が現れ、脳内に新たな神経経路ができる。長年に渡って過去の出来事や人に否定的な対応をしていると否定的な神経回路が作られるのです。」
     
    さて、「人生の第三幕」に差しかかって、何をやるかの前にやらなければならないのは、自分の過去を故(たずね)て見ることだ。そこから新たな自分と過去の関係性にしっかり向き合うことだ。「先ず隗より始めよ」の言葉の意味とは、大事を始める時には、まず手近なことから始めるとよいと教えている。大人の視点で眺めた自分の過去に過ちはあるはずだ。
     
    行為の過ちではなく、誤った認識を持ち続けたそのことへの惜別である。過去は変えられる。必ず変えられる。過去を変えることで今も変わる。ジェーン・フォンダも同体現者。自分は母に、彼女は父に嫌悪感を抱いていた。自分はメンタルを患わなかったが、彼女は長いこと鬱に悩まされていた。が、こんにち逞しきはメンタルを克服し、世界狭いと活躍する彼女である。
     
    心の持ち方、気持ちの改め方で、人は斯くも変わるという見本のような人である。77歳にして何と言うスピリットであろうか?彼女には辛気臭いの欠片もない。これほど「老い」をポジティブに考えるジェーン・フォンダは、多くの老齢者の見フォンダ。女性に限らないハートの若い男はいるね。気持ちが若いと若造りしなくても自然、若さは出ると思う。
     
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    VANヂャケットの創始者石津謙介が、日本の若者に与えたスピリットはそれかも知れない。アメリカ東海岸の名門私立大学を「アイビーリーグ」といい、その学生ファッションをアイビールックといった。石津は1959年にアメリカにいって、これはカッコイイと早速日本に持ち帰り、売り出したところ、デパートの紳士服仕入れ担当から、ケチョンケチョンに言われた。
     
    例えばボタンダウンのシャツに関して、「襟にボタンがついてるなんてどういうこと?こんなボタン取ってください」といわれる始末。「あちらではこれが人気なんですが…」、「ここは日本ですから…」とにべもない。トラディショナルって、流行じゃないし、流行なんかない。親から子、子から孫へとツルを伸ばす観葉植物アイビーのように、連なって伸びて行く。
     
    VANショップ多治見の代表橘浩介さんは、今年息子が自分が32年前に成人式で着た同じVANの赤いブレザーで成人式を迎えたという。なんと素敵なことではないか。このブレザーは、また息子の子どもが成人式に着るとかなれば微笑ましい。これがトラディショナルの原点かも。そういえば昨年暮れ、靴を大人買いした。まだまだ熱いぜ、てやんでぃベラボウめっ!
     
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  • 01/08/15--07:20: 老人の維持費
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    年寄りの値段ともいえる「老人の維持費」はなんともお高い。赤ん坊にお金がかかるといってもこれほどではないだろう。マンションの裏手で建設中の「ヘルスケアホーム井口」という、いわゆる老人ホームだが、最近はそういう呼び名をしない。「サービス付き高齢者向け住宅」と言う。「ヘルスケアホーム」、「デイケアサービスホーム」などの呼び名もある。
     
    そういえば最近は「老人」という言葉をあまり聞かなくなった気がする。公的機関にあっては、「特別養護老人ホーム」、「有料老人ホーム」、の用語はあるが、民間は「サービス付き高齢者向け住宅」(旧高齢者専用賃貸住宅)に統一している。吉田拓郎に『青春の詩』と言うのがあり、それをもじってというか、パロった『老人の詩』というのがある。以下、歌詞を比べてみる。

     「青春の詩」
     喫茶店に彼女と二人で入って
     コーヒーを注文すること
     ああ、それが青春~
     
     
     「老人の詩」
     喫茶店に婆ちゃんと二人で入って
     渋茶を注文すること
     ああ、それが老人~ 

    高齢者に安心の生活を提供するサービス付き住宅だが、非常に高額であり、故に儲かる商売なのだろう。裏手に建設中の「ヘルスケアホーム」の利用料金を見てみると、単独入居の場合、18.30㎡の部屋が60,000円、共益費24,000円、食費51,000円、状況把握費18,000円で、トータル153,000円/月となっている。これを高いと見るか安いと見るか、普通と見るか。
     
    高い、高い、非常に高いと自分は見る。何を基準に高いといえば、18.3㎡の居室を民間で借りれば、地域にもよるが30,000円~40,000が相場(共益費込み)であり、食費の51,000円は一日1,700円計算だから、粗食なら半分の25,000円程度で収まる。把握状況まで金を取るのも高齢者ビジネス特有の項目で、とにかく老人というのは、あれこれ金の成る木。
     
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    民間住宅で単身生活とは違うというが、一人で寝起きして買い物に行き、自炊もしてテレビ視聴という質素な暮らしをすれば月70,000~80,000円で暮らせるというのが自分の試算。この手のサービス施設のなかった時代の老人は、みんな一人で頑張って生きて来たのだから、昔やれて今できない事はないが、便利&便宜供与にお金を支払う時代の到来だ。
     
    特別に質素・倹約しないでも老人は生活に無理・無駄がないからお金がかからない。自力で動けるなら民間賃貸住宅を借りて一人暮らしの方が安上がりだ。「ヘルスケアホーム」は老齢年金でまかなえるが、こういうところの入所者は贅沢生活者の部類であろう。どうしても介護を要する老人の場合は、別の「特養老人ホーム」があるが、すぐの入居は難しい。
     
    特養=「特別養護老人ホーム」は、介護老人福祉施設とも呼ばれ、社会福祉法人や地方自治体が運営する公的な施設で、要介護が必要なお年寄りを持つ家庭なら、この「特養」と呼ばれる施設を探すことになるが、誰でもすぐに入居できるわけではない。入居の対象となる老人は、65歳以上で要介護1~5の認定を受け、常に介護が必要な状態で自宅での介護が困難の場合。
     
    という条件に加え、寝たきりや認知症など比較的重度の方、緊急性の高い入居が優先となる。そのため入居待ちの方が非常に多く、全国の入居待機者数は約40万人とも言われている。入居までに早くて数ヶ月、長い場合だと10年を要す場合もある。また、「特養」は公的施設で低料金であるため、相部屋になることが多く、民間の老人ホームほどサービスが充実していない。
     
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    「う~む…」、これはいたし方ない事かも知れない。かつて高齢者施設は街中にあると嫌がられる時代があったが、今は打って変わって街中に点在しており、誘致をしている自治体も多く、そのあたりは時代の変化である。へんぴなところにあると家族が会いに行きづらいなどの不便さもあり、住宅街で交通の便が良い場所に建築されるのが普通になってきている。
     
    高齢者施設は建設ラッシュである。、自分の居住界隈でも数年の間に4個の「ヘルスケアホーム」が建設開業した。このように日々新しい施設ができるので、よりどりみどりで選べるようになっているのだろうか?答えは「NO」だ。実際に聞こえてくる声は、「こんなに待機が多いとは…」、「こんなに費用が高いとは…」というため息交じりものばかりである。
     
    福祉はビジネスだから仕方がない。誰でも費用が一番安くすむ「特別養護老人ホーム」をまずは第一希望とするのが大半を占めている。しかし、特養ホームの入所待ちは、人口の多い大都市圏なら500人待ちはざらであり、受付時に待機人数を聞くやいなやビックリこいて老人を持つ家族も、入所する本人も気持ちが萎えるらしい。世はまさに老人受難社会である。
     
    やむなく民間の地域有料老人ホームへパンフレットをもらいに行くこととなるが、入居一時金やその後の費用の金額を聞いてさらに腰を抜かす。仕方なく入所施設はやめて、ヘルパーさんに来てもらおうという流れになるが、ヘルパーも24時間来宅してくれないことを知らされる。デイサービスやショートステイなど馴染みのない言葉に翻弄され、疲労をきたす。
     
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    介護保険ができて約15年、その名称は国民の間に浸透してきたが、一般に保険というのは事故が起こった場合に被保険者を救済するもの。例えば健康保険は、病気になったら安価な金額で医者にかかることができる。年金保険は、65歳になったら生きている限り年金支給される。このように保険というのは、困った時に助けてくれるものなのという考え方。
     
    ところが、介護保険に限ってはそうなっていない。介護保険はこのまま高齢化が進むと財政が持たないため、なんとか老人福祉を持続させようと考案された制度であって、もともとが収容人数を増やそうとする制度ではない。だから、費用の安い「特別養護老人ホーム」の数はなかなか増えないし、施設は増えても、今までのように収容人数が増えることはない。
     
    なぜなら、厚労省が強硬に個室化を推進したため、一人当たりの必要面積が多床室に比べて2倍になった。介護保険制度自体は定着しつつも、良くも悪くも中身が年々変わって行く。なかでも介護度が低い人のサービスは特に大きく変わるし、しかも内容が分かりにくい。本来は高齢者が使うサービスであるにもかかわらず、利用者は置いてけぼりの状況である。
     
    超々高齢社会の日本。厚生労働省のデータによると、2000年に156万人いた認知症患者は、2010年には226万人、さらに東京オリンピックが開催される2020年には292万人になると予測されている。自分のその中の一員になるのか?ウンチを壁に塗ったり食ったりするのか…。そんなみっともない、と言ったところで病人だから罪はない。病人と言うのは人を殺しても免罪される。
     
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    今や85歳以上では4人に1人が認知症であるいわれ、寿命が延びたことを喜んでいいものやら、の時代である。そんな自分の親や自分が要介護状態になったとき、役立つのが介護保険である。誰もみなそうだが、尻に火がつかないと介護保険のことなど詳しく知ろうとしない。緊急時や、その兆考が親に現れて初めて勉強するが、それでいいだろう。いや、そういうものなのよ。
     
    だから、詳しく知るためには、知ろうとする人が自ら勉強するしかない。いづれにしてもお金がかかると言う事。「老後の資金」ということで若い時分から節約して、本気で老後資金を蓄えて置く時代になっている。近年は昔のように「終身雇用制」の確立した時代になく、厚生年金を35年、40年かけたと言う人はどんどん減ってくる。となると当然年金額が少なくなる。
     
    だから「老後の資金」。人間の運命は皮肉だからしっかり蓄えた人、あるいは資産家だから長生きするとは限らない。これについてはなんとも言えない。誰も自分の寿命を知る事はできないのだ。どうせ長生きできない、したくないから金は残さない人が天寿を全うしたりする。「いつかは死ぬ。それが摂理だ。与えられた寿命を生き、それが尽きたら去る。」
     
    生を受け、やがては死ぬのが人間のプロセス、定めである。そこから出された答えが今を全力で生きることだが、そこに注釈をはさむなら、無謀にお金を使わないで楽しめる事はある。お金は残しておいて困る事はない。たとえ自分が早死にしても、残ったものが感謝をするだろう。金なんか墓まで持っていけない、じゃんじゃん使え、という時代ではなくなった。
     
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    それだけ老後に金がかかる時代になったのだ。我々があの世に持っていけるのは、過去の経験から得た記憶だけだろう。それを思い出という。やんぬるかな思い出とは自分一人だけが楽しむもの。たしかに、目の前に思い出を共有できる子や配偶者がいるのは望ましいが、物欲に振り回されず、貴重な思い出を胸にしまって持っていく。それが冥土への旅立ちである。
     
    周囲の評価を気にせず、自分らしく生きれば最高の人生か。自分を生きたという意味でだ。評価というのは所詮その人の思い込みにしかすぎず、だから人の思い込みに躍らされる事もない。批判とて同じことよ。自ら蒔いた種は自ら刈り取る事も大事なこと。他人のせいにしたところで、他人は刈り取ってはくれないのだから、刈り取らせようなどしないこと。
     
    「自己責任」という言葉は、自分で行為した事の責任は自分にあるとの考え方が根本にあるが、そんなの当たり前だろうに。自分の行為が自分以外の誰の責任であるのか?そんなはずがない。「寿命があるからこそ、人生は素晴らしいのだ」と、言葉だけでなく、本当に心からそう思える日がいつ到来するのだろうか。心構えとは、ある種覚悟であり、「心の準備」である。
     
    いつ死んでもいいように、構えと準備ができている。といえるほどになりたいものだ。「こうなったのはあいつのせいだ」みたいなことをいう人間はいる。その言葉は人間にはつきものだから言ってもいいが、できたらポジティブな形で言いたいもの。自分は、「今の自分があるのは母親のせいだ」と思っている。「せい」とは恨みではなくご利益のことを言っている。
     
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    母を殺したいほど憎んでいた。が、母の言いなりにならなかったことで、自分を作ったことだけは自信を持って言える。しかし、母がもし慈愛心に満ちた人であったなら、自分は別の人間になっていたはずだ。見えない架空の自分が果たしてどんな自分かは分らない、分らないだけに今の自分が好きである。されど、本当は優しい慈愛に満ちた母であって欲しかった。
     
    これは偽らざる気持ちである。母に優しく接することのできない自分は、生涯の悔いだと思っている。どうせなら、親子が仲むつまじくあるのが本来の親と子であろう。そういう不幸を持ったまま互いは人生を閉じるだろうし、心残りはお互いさまだ。悔いも人生の産物である。良い人生と悪い人生を足して人生であり、良い人生から悪い人生をマイナスする事はできない。
     
    すべてをプラスに加え、悔いも含めて良かったであるべきだ。「後悔」と言う言葉がある以上、過ぎた事への悔いは誰にもある。が、せっかくの悔いなら生かすこと。起こったすべての悪い事は学びの対象となっている。すべての良い事は歓びの対象となっている。人は一人で生まれ、一人で死んで行く。誰かに見守られてもいなくても、死ぬのは一人である。心中とてそうではないか。
     
    イメージ 8心中は二人で死ぬのだというの錯覚、やはり死ぬのは一人である。その場に二人いたというだけだ。集団自殺も同じこと。100人いても個体は個体。無差別殺人犯が、誰かを殺して自分も死のうと思ったという。自分が死ななければいけない無情感を人を巻きぞいにすることで満たそうとする。自分が死ぬのがバカげて損な気分がするから、人にも味合わせてやれという倒錯心理。
     
    それくらい、人は死に怯えている。それが証拠に無理心中を図り、相手が死ぬのを見て恐怖を抱く。あげく死ねなかったという無責任。無差別殺人で暴れまわって結局自分は死ねない。一人で死ねない奴が数人殺して死ねるはずがない。何が道連れだ。この小心者めが。一人で静に死ぬる子たち、大人たち。勇気もあるだろうが、その勇気を生に使ってみるといいのに。
     
    理研の笹井氏や長崎・高1の父親のような、責任と自死の問題は善悪を超えた人の選択であり、批判の対象にすべきでない。自殺を「悪」とする宗教倫理も、所詮は「教義」という決め事。責任を取っての自死は、弱き哉人間の美しさではないかと感じる部分もあって、ゆえにか彼らの死を断罪できない。人の究極の責任の取り方は自死ではないかと多角的に思考した結論だ。
     
    「死で償うことが責任の取り方の1つになるのでしょうか?」という問質がネットにあった。それには7つの回答があったが、すべて責任を取ったことにならないであった。逃避という指摘が多いが、人は人で自分は武士道的責任の解釈にある。もっとも大事な命を捧げるのは、理屈抜きの明確な責任の取り方であろう。命だけではない、家族も財産も過去も未来も一切を捨てるわけだ。
     
    「責任はきっちり生きてとるべき。それ以外は逃避」という意見が多い。「究極の無責任」という人もいるが、解雇のことをなぜ首切りといい、「お前はクビだ!」というのか考えてみよ。会社や上層部からクビを切られない甘い体質に、自らの首を切って奉ずるのが自殺である。自らの生命、愛する妻子、過去の一切、未来の一切を捧げて詫びるなど、なまじできることではない。

    嘘偽りの謝罪言葉に比べてこれが正直でないなら、何が正直であるのか。「責任の取り方として間違っている」というなら、上司から「お前はクビだ!」というのは行為としてすべて間違っていることになる。「もうちょっと、別の責任の取り方があるでしょう?」と上司に言ってこらえてもらえるのか?ダメ社員に告ぐ。「クビをかけて仕事をしろよ!」
     
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    赤瀬川源平が亡くなったのは昨年10月24日、つい先日という感じである。享年77歳は男の平均寿命を3歳下回っており、よって長寿とはいえないだろう。「心はいつもアバンギャルド」が口癖の彼は、前衛美術家の肩書きをもっていた。遊び心に富んだ彼の常人離れしたユニークな発想からして、得体の知れない人物と言う印象が自分の最初の赤瀬川評であった。

    その彼が1998年にエッセイ集『老人の力』(筑摩書房)というのを出版したところ、これが何と筑摩書房はじまって以来最高のベストセラーというから、おそるべし老人パワーである。いかに老人人口が増えたかということであろう。高齢化社会が進む中で、赤瀬川は老人への新しい視点を提供してくれた。即ち彼の言う「老人力」とは、「忘れる力」である。
     
    旧来の「耄碌(もうろく)」や「ボケ」は、人間が成熟することで身につく力であり、「ゆとり」、「遊び」をもち「肩の力を抜いて」生きることの大事さを、赤瀬川らしい軽妙な筆致で説く。いかにも彼らしい逆転の発想で、物忘れすることを「忘却力」と言い換えるような遊び心である。同著では、老いをネガティブに考えず、マイナス視せず、余裕をもって晩年を生きろと…。
     
    「老人力」にちなむの逆転の発想は、実は赤瀬川が中心となって発足した「路上観察学会」の活動から生まれた。「路上観察学会」の合宿で藤森照信が赤瀬川の物忘れの多さに突っ込んだことから、発想の転換で思いついた。"老人力ブーム"について赤瀬川は、「暗くない対し方が欲しいという人々の気分にピタリはまったのかな」と語っている。
     
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  • 01/09/15--07:02: 「蓋棺事定」
  • 「外観事定」という言葉は、人は外観で評価されるということ。よって外観はしっかりとしなければならないという戒めである。言わんとする外観とは、端正な容姿、美人、男前のことではなく、服装等はもちろんのことその人の言動全般を指す。が、この言葉は「他人を外観で評価してはならない」という逆説の含みを持っている。人間は多面的な動物である。
     
    「蓋棺事定」とは、「人の評価は棺桶に入ったときに定まる」という意味である。なるほど、上手いことをいったものだ。生前の評価など宛てにならないという辛辣さがこの言葉に備わっている。一生が終って、棺の蓋を閉じて初めてその人の真の値打ちが決まるということだが、そのようになるにはどのように生きたらいいのか?日々、真面目に生きるということか。
     
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    真面目と書けば現代人のほとんどは「まじめ」と読むだろうが、自分は「しんめんもく」と書いたつもり…。「しんめんぼく」とも言う。また、「真面目(しんめんもく)」は「新面目」とも書く。まじめである・こと(さま)。実直。本来の姿。ありのままの姿。真価。本気であること。真剣であること。また、そのさま。誠意のこもっていること。誠実であること。などの意味がある。
     
    ではなぜ、「まじめ」 を「真面目」と書くのか?。「まじめ」は江戸時代に生まれた俗語で、なぜに「まじめ」と言われるようになったかは、さまざまな説がある。「正しい目」ということの"正(まさ)しき目"が、「まじめ」に変化したという説。そして、「まじまじと見る」の"まじ"に、"目"がついて、「まじめ」になったという説などが言われている。
     
    「まじまじ」の"まじ"は、「まじろぐ」の"まじ"で、【まばたきをする】こと。目をパチパチしながら真剣に集中するところや、本気になって目をしばたくところから【本気】や【真剣】などの意味で「まじめ」と言うようになった。漢字の「真面目」は当て字で、明治時代頃から使われている。上に記したように、本来「真面目(まじめ)」は「しんめんもく」と読む。
     
    「面目がたたない」などの【顔つき・容貌】をいう「面目」に、【まさに】という意味の「真」がついたもの。こんにち若者は「マジ?」、「マジかよ」などと「まじめ」を略して言うが、決して若者言葉にあらずで、江戸後期の洒落本(にゃんの事だ)に、「気の毒そふなかほ付にてまじになり」とあり、「まじめ」と同じ【真剣】という意味で使われている。
     
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    現代若者の言う「マジ」は、「本当か?」であったり、「マジうまい」、「マジ暑い」など、強調語として使っている。江戸時代からあった「マジ」も時代の変遷でいろいろな意味を持つようになったのだ。振り返ってみるが、自分らの世代に「マジ」という言葉はないし、時流とはいえ「マジ?」というような言葉使いは抵抗があるのか、使ったことがない。
     
    多少長くても。「本当か?」が自然に出る。どうも「マジ」は品のよくない言葉に思えるのだ。後輩や若者が敬語含みに「マジっすか?」というのも、彼らにとっては敬語のつもりだろうが、敬語以前に丁寧語ではないのが気になる。普通の現代用語だから気にする、気になることはないが、昨今は丁寧語が崩壊し、短縮語が多く使われるが、短縮語は短絡語に思える。
     
    すべてとは言わないが、短絡的な言葉になり、やがては常用語になってしまっている。同世代の友人同士で「マジ?」はいいが、目上の人には「本当ですか?」の方が日本語として美しい。女性が使うとさらに品のなさを感じる言葉である。女言葉、男言葉の境界線が失われつつあるこんにち、女性が「マジかよ」と言っても抵抗は無いのだろうが、美しくはない。
     
    家庭の中で女の子が親に向かって「ああ、腹へったー、早くメシ食いてぇー」といっても、「何ですか、女の子がそんな言葉!」という事も言われなくなったのだろう。父親に向かって、「なんなのー、お年玉たったこれっぽっち?シケてんじゃねぇーよ」などと、これが友達親子の弊害であろう。親子は友だちのようでありたい」という親は、それが楽なんだろうか?
     
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    何かといえば「ウチのオヤジは上目線で見やがる」という子がイカレテルと思うのは、親が上から見るのは当たり前だろう。昨今はお友だち教師も生徒に人気があるようだが、教師と言う名が時代の変遷で「対等師」に、略して「対師」になるのではの懸念含みの昨今だ。まあ、自分の孫は大志であるが…。敬語というものは躾で育まれるものではないように思う。
     
    相手に対する自然なリスペクトから引き出されるものではないか?ところが、生まれながらに友だち親子状態でであると、最も身近な人に対する敬愛心が根づかず、それが社会の目上の人一切を対等に見てしまうような子どもになる懸念を抱いている。テレビではいい大人がバカ丸出しなら、世の中の誰かに敬愛心を育む土壌がなく、そういう顕著な若者を見る。
     
    普段から儒教的な「長幼の序」を意識しない欧米の親子であっても、ここぞという時はそれこそ全身全霊・本気で怒るが、日本の友だち親子にはそれがない。子どもを本気で怒るというのがどういうことか分っていない父親が多い気がする。本気で怒るとはどういうことか?本気で怒った方がいい場面には、「権利を守るため」と「自分を奮い立たせるため」がある。
     
    が、奨励されるべきは、「本気さを伝えるため」ではないだろうか。これを自分は多用した。自分はどちらかといえば強権むき出しにして怒らない方法で指導するのがイイと思っている。が、ここぞという時には、半端なく怒りをぶつける。そういう場合には相手が怒られたことに効果があると感じる場合にそれをやる。つまり自分の怒りは常に理性的ということ。
     
    言い換えると「怒ったふり」である。だから、出てくる言葉は冷静で的を得ている。感情まかせにトンでもないことをいう親は、怒るだけバカを晒しているし、それは子どもや相手に見下げられているものだ。「成長して欲しい」、「この事は何を於いても分からせなければならない」と、そのように感じたときは、本気度を示すために本気で怒る(ようにみせる)。
     
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    世の中には怒れない人がいるようだが、これは逆説的に言えば、ギャーギャー怒れるしかできないのと同じこと。ギャーギャー怒ることしかできないのが何ら効果がないのは、「本気で怒っている」ことが相手に伝わらないからだ。スピッツが吠えているのと同じにしか見えない。親子であれ、人間関係であれ、相手に対して重要なのは、本気さを伝えることだ。
     
    「怒り」にはその効用がある。怒られる側の心の持ち方一つで、喜怒哀楽の中で最も互いの実在感を共有できる。喜んだり、褒めたり、なだめたり、楽しくすることの実在感よりは比べものにならないくらいに信頼感を抱ける。ただし、効果的に怒るというのは難しい。怒ったことでダメになった、すべてが失われたという経験者もいるだろう。こういう言葉がある。
     
    『誰でも怒ることはできる──それは簡単なことだ。しかし、正しい人に、正しい程度に正しい時に、正しい目的、正しい方法で怒ること、それは簡単ではない』(アリストテレス)
     
    『うれしまぎれに、軽はずみな承諾を与えてはならない。酒の酔いにまかせて、腹を立て怒ってはならない』(洪応明:中国明代の思想家)
     
    『私は怒っても、その人間を憎むことはしない。偽りのない気持ちを相手にぶつけることが大切だ』(本田宗一郎)
     
    『人間の器量はどの程度のことを怒ったかによって測れる』(ジョン・モーリー:イギリスの政治家)
     
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    牛山喜久子と言う美容家はこういう名言を残している。「微笑みのシワは美しく、怒りのシワは醜い」。子どもの頃にどこかで読んで、怒る母に「あんまり怒るとシワが増えるで」と言ったことがある。先日も正月早々から、預金額が減っていると妻を詰り、警察を呼べと騒いだらしい。自分は妻に、「相手にせず、何でも右から左に流してろ」と申し渡している。
     
    「盗んでないです。警察を呼びましょうか?」と返せば、「身内の恥だ、呼ばんでいい」と、ああいえばこう、こういえばああは変わらない。「年寄りの冷や水」とは言ったもので、 老人が冷水を浴びるような、高齢に不相応な差し出がましい振る舞いであって、これは老人への冷やかし言葉であると同時に警告でもあるが、そんな警告など耳に入れるはずがない。
     
    明晰な善き老人は、これら老人に関する諺や慣用句をたくさん知り、それに合致しないよう振舞う老人であろう。「老害」、「老いの繰り言」、「老い木はまがらぬ」、「老いては子に従え」などのネガティブな用句の他に、「老いたる馬は道を忘れず」(経験豊かな人は判断が適切)、「老当益壮」(老いても、ますます盛んな意気を持ち困難にも立ち向かうべき)などがある。
     
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    「文藝春秋」誌には、『蓋棺録』といって直近に死去した著名人への追悼文集がある。1984年から始まってもう30年経過した。2013年8月号の『蓋棺録』には、2014年の大晦日のオオトリで歓喜した松田聖子を育てたサンミューックプロダクション会長の相澤秀禎氏が載っている。彼は多くのアイドルを手塩にかけて育てた「名白楽」で、2013年5月23日、83歳で没した。
     
    サンミュージックの最初の専属は現千葉県知事の森田健作であった。その彼が始めて相澤社長(当時)の前で挨拶した時、「オー、ユー。いいじゃん、頑張れよ」と激励した。その異様に明るい雰囲気に森田は、「まずいところに来てしまったかな」と思ったほどに明るく前向きな相澤だった。森田を『夕月』っで映画デビューさせ、桜田淳子の活躍が経営を軌道にのせた。
     
    さらには、松田聖子、早見優、岡田有希子をデビューさせ、都はるみを引き抜き、酒井法子のデビューを仕掛けるころには、日本有数の芸能プロダクションになっていた。相澤は森田を「輝きと爽やかさ」、桜田を「清潔な笑顔」、松田を「驚くべき反射神経」、酒井を「小柄な身体に横溢する生気」と評していた。が、相澤は煮え湯を飲まれることもあった。
     
    桜田の統一教会入信後の集団結婚。松田も早見も路線対立で去っていく。岡田は恋愛問題で悩み自殺。酒井は覚醒剤で逮捕の末、止む無く解雇。華々しい成功の裏で「子どもたち」が引き起こす事件について、「親」としての責任も問われたりした。たくさんの子どもを持ちながらも、その一人一人に目を届かすなど至難であるが、責任はどうしてもついて回る。
     
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    松田や早見の事務所離脱に驚く事はなかったが、1986年4月8日、岡田有希子の投身自殺に世間は驚いた。それも白昼、新宿・四谷のサンミュージックが入居するビルの屋上からである。彼女の死に触発された若者が後追い自殺が相次ぎ、国会では江田五月が青少年問題として採り上げ、当時の文部大臣・海部俊樹に対策の答弁を求める事態にまで発展した。
     
    桜田の統一教会合同結婚式、酒井の覚醒剤所持・逮捕という時系列だが、これらにもそれぞれ驚かされた。宗教の事も覚醒剤の事も分らんし理解できないが、新興宗教に入信している芸能人は多い。ゲンを担ぐ職業だけに、ご利益を求めるのだろう。覚醒剤もまさに芸能界汚染の元凶といわれるほどに、アレコレ名前があがる。人がやるなら自分も、という甘えが見える。
     
    1976年9月に大麻容疑で逮捕された井上陽水は、「自分は酒が飲めないので、くつろぐためにマリファナを吸った」と自供したという。よくもこんなオコチャマ的な言い訳をするもんだ。「酒が飲めない」は余計だろう?酒が飲めないのと大麻と何の関係がある。拙者は酒は飲まんが大麻は吸わん、煙草は吸わんがちちは吸う。これは相手にも喜ばれる善行だ。
     
    「文藝春秋」の『蓋棺録』には、故人の悪口はあまり書かれていない。「蓋棺事定」に照らしての『蓋棺録』だからでもあろう。悪口を書かねばならぬ故人は取り上げなければいい。誰にでもイイこと、ワルイことはあろう。が、「蓋棺事定」の本質はワルイことに蓋をすればイイ人になるとしたものだ。「故人を悪く言うものではない」というのが巷の礼儀だ。
     
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    自分も母について、彼女が仏になれるよう、死後にイイことを書いて見たいものだが、それを探すのが至難であるだけに、今くらいから探す必要ありだが、はて…。ないならないでいいが、自分的には悪口は書いてはいないつもりだからスタンスは変わらないだろう。昨今、有吉といえば絶頂人気の有吉弘行だが、30年、40年前に有吉といえば佐和子だった。
     
    こんにち佐和子は阿川佐和子か。有吉佐和子は1972年に『恍惚の人』を書いた小説家。彼女は岡田有希子が自殺する2年前の1984年に他界した。「恍惚」とは、物事に心を奪われてうっとりするさま。意識がはっきりしないさま。の意味で、sexにおける「恍惚の表情」も同じ意味。青江三奈は『恍惚のブルース』(1966年)でデビュー、80万枚の大ヒットとなる。
     
    有吉の『恍惚の人』は遠まわしな言い方で、端的に言えば「ボケ老人」のこと。老人がいつも「恍惚=うっとり」した表情で縁側に座って何時間でもじっとしている風情が浮かぶようだ。彼女には「老い」をとりあげた作品が多く、自らの「老化」を語るとき「以前は一度辞書を引けばすぐ覚えられた英単語を忘れるようになった」ことを挙げている。
     
    忌憚なき発言が信条の一風変わった個性を持ち、彼女の独尊的「暴走」ぶりに激高した明石家さんまが「死ねババア」とまで口走り、有吉はその2ヵ月後に本当に死んでしまった。享年53歳というから、老人を経験しないで逝った有吉の『恍惚の人』は、高齢化社会の到来を早々と警告した作品である。和歌山県出身の彼女には、『紀ノ川』という名作もある。
     
     
     


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    森山直太朗の作曲になる詞は、彼の友人であり詩人の御徒町凧(おかちまちかいと)によるもの。楽曲は2008年8月27日にリリースされたが、詞は御徒町凧が20歳前後の1997年頃に作られたというが、一体何に触発されて書いたのだろうか?1997年6月に酒鬼薔薇聖斗事件があったが、この詞に関連する何かを探るに、5月に可愛かずみという女優が飛び降り自殺をした。
     
    キュートで愛らしい顔立ちに豊満なボディが人気の女優である。芸能界に興味はなく、美容師を望んでいた彼女が高校在学中にスカウトを受けてモデルクラブに登録。日活の宣伝用ポスターの仕事が舞い込み引き受けるた。可愛は脱がないといけない仕事だと知らず、「話が違う」と一度は断るが、日活の担当者が怒られているのを見て同情し、その仕事引き受ける。
     
    それがきっかけで18歳のとき、日活ロマンポルノ『セーラー服色情飼育』に出演、芸能界入りした。ポルノ映画出演はこれ一本だけだったが、デビュー作であったこともあり、世間から『ポルノ女優』とレッテルを貼られた。可愛本人は『ポルノ女優』と呼ばれることを嫌がっていたという。翌1983年には脱ぐ仕事をしたくないとの理由で、所属事務所を変わっている。
     
    彼女の自殺の原因は岡田有希子と同様に恋の悩みであったとされるが、岡田と違って可愛は交際相手だったヤクルトスワローズ川崎憲次郎が居住する目黒区駒場のマンション7階から飛び降り自殺をした。1997年5月7日、享年32歳であった。死の翌日10日に都内の自動車販売会社を経営する実業家と正式に婚約し、2ヵ月後に結婚する予定であったことが後に分かった。
     
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    そんな可愛だが、死の直後に遺書は残されていないということだったが、遺書というより父宛の走り書きメモを残しており、17年後の2014年4月に父親によって明かされた。内容は親友の川上麻衣子に対し、「麻衣ちゃんがいてくれたお陰で楽しかった」、「麻衣ちゃんと話しているだけでいつも元気になるの」、「パパ麻衣ちゃんをよろしくね」と書かれていた。
     
    可愛と川上はドラマの共演で出会う、二人はマンションの隣の部屋に住んでいたこともあったが、精神的に追い詰められはじめた可愛をそばで支え続けた川上だったが、次第に病状が悪化していく可愛を支えきれなくなった川上はマンションを出る。マンションを出て1年、少しずつ彼女のことを忘れかけていたある日、可愛が自殺を図ったとニュースで知った。
     
    実は自殺の前日、可愛から電話があったと言う。しかし舞台稽古で遅くなった川上は疲れていたため彼女の留守電を気に留めることなく返事を後回しにしてしまったのだ。そしてこの電話の翌日に可愛は自殺した。可愛の自殺と御徒町凧の「生きてることが辛いなら」の詞に関連があるという証拠はないが、御徒町凧が可愛のファンであった可能性は否定できない。
     
    イメージ 3自分はそう関連付けてみた。婚約発表の日取りの1日前の、幸せ真っ只中と思われる時期の自殺であり、元交際相手のプロ野球選手の居住マンションから飛び降りたとなれば、様々な噂や憶測が飛び交うのも無理もない。川崎憲次郎との破局の原因は、怪我で戦線を離脱した川崎の「怪我の治療に専念したい」という想いからといわれているが、川崎とて自殺後は沈黙するしかない。
     
    岡田有希子の18歳に比べて、可愛の32歳は思慮分別ある年齢といえるが、恋愛の魔力に思慮も分別もない。いずれも命を賭けた恋であったというしかない。「男などいくらでもできるわい」などと思えばいいのだろうし、二人とも男日照りするとは思えない恵まれた容姿容貌である。失恋ごときで死に急ぐのは、一途に思いつめる真面目な性格ということか。なんとも勿体ないことよ…
     
    「生きてることが辛いなら」という詞について、"自殺容認の歌詞"では?との指摘が問題になった。"生きていることが辛いなら、嫌になるまで生きるがいい…"の個所についても、「文章が矛盾している。それらしいことを言ってるが無責任」であるとか、"他者に干渉しすぎてしつこい"とか、"死んでしまえば野となれ山となれの表現"がどうとかこうとか…。
     
    物議を醸した詞である。底の浅い人間が行間を読みきれていないままに、自身を棚にあげてイチャモンをいう。それが物議の背景であるけれど、当人は自分が理解に及ばないなど夢にも思っていない。だから、"生きるのが辛いならさっさと死んでまえ~"、というふうに詞を読んでしまう。読解力も洞察力もない人間は、「小さく死ね」の比喩が分らない。
     
    物事には大きい小さい(大小)が存在する。小休憩もあれば大休憩もあり、小人もいれば大人もいるし、小便もあれば大便もある。だから、「小さな死」くらい想像したらいい。一読しただけで何ら非の打ち所がないいい詩である。"生きていることが辛いなら嫌になるまで生きるがいい"の文章が矛盾とはいかにも若い。"開き直って生きろ"と言っている。
     
    作者は「生きることの意味など求めなくていい。生ききることが大事なのだ」と言っている。それがサビの部分の、「何もないとこから、何もないとこへと、何もなかったかのように、巡る生命だから」に歌われている。歴史は壮大というが、所詮は公園にある小さなブランコだ。宇宙は広大というけれど、同じく公園にある水飲み場程度の存在と考える事もできる。
     
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    これが人間の想像力の偉大さである。つまり、歴史を公園のブランコに、宇宙を同じく水飲み場にもできてしまう。これを偉大といわず何と言おう。悩み < 宇宙 < 想像力という世界観を持とうといっている。「重箱の隅をほじくる」とは、小さいなこと、細かなことを取り上げてアレコレいうとの意味だが、歴史も宇宙も小さいんだ、小さいことに捉われるなと。
     
    この歌を口語体に直せばこうなる。「生きてることが辛いなら、遠慮せんでいいから1回休め。その程度のことで周りがどうとか気にせんでいい。人には人の生活がある。生きてることが辛いなら、見栄をはらず、素直に泣いたらいい。赤ん坊にも泣き疲れがあるように、お前も天使の寝顔になる。生きてることが辛いなら、悲しみを眺めて糧にすることだ。
     
    悲しみはむしろ生の糧になるし、悲しみを摘み取って苦しみにしないように、糧は大事にした方がいい。「人間はどこから来たのか」、「どこへ行こうとするのか」、「人間はどう進歩していくのか」の答えは永遠のもの。求めずとも巡るものだ。生きてることが辛いなら、どれくらい生きることが嫌になるかを知るのも一興だ。そうこうしてやがて死を迎えるとき…
     
    「やっぱり生きてよかったぜ」という喜びがあるんだよ。生きてることが辛いの、答えはそこにある。と、解釈してみたが、今日の解釈は明日は変わる。半年後、一年後にはまた変わるだろう。答えは流動的だから、今日、死のうと思った奴は止めとけ。明日には変わるかも、半年後、一年後には、「死ぬなんて冗談じゃない」となるかも。生きてなければそれを味わえない。
     
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    というように、「生きてることが辛いなら」の歌詞は自殺を肯定していると感じるなどとんでもない。言いたい事は最後のフレーズ、「くたばるときが喜びなのだ。とっておけよ。」で締めている。自殺が唯一の行動でありながら、人がなぜ自殺をしないで生きているのか。生きたいから生きてるのではなく、死ねないから生きているのも立派な人間の「生」である。
     
    大江健三郎は自著『われらの時代』の主人公南靖男にこう語らせている。「おれたちは自殺が唯一の行為だと知っている。そしておれたちを自殺からとどめるものは何ひとつない。しかしおれたちは自殺のために飛び込む勇気を奮い起こすことができない。そこでおれたちは生きていく、愛したり憎んだり性交したり政治運動をしたり、同性愛にふけったり、名誉を得たりする。
     
    そしてふと覚醒しては、自殺の機会が眼の前にあり決断すれば充分なのだと気づく。しかしたいていは自殺する勇気を奮い起こせない、そこで偏在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きてゆくのだ。これがおれたちの時代だ」。靖男は、北極を超え、コペンハーゲンを超え、パリへ脱出していく可能性を得る。この脱出は頼子との別れであり、頼子を捨てること。
     
    男が自らの生の実在感を手にいれるためには女を捨てる必要のある事を知る。女を捨てることのできない男など、所詮は何もできないと言い聞かせながらも、靖男は行動できなかった。太田博美の『木綿のハンカチーフ』、財津和夫の『青春の影』、『心の旅』も、女を置き去る男のロマンが歌われている。女の涙を背中に感じなから発って行く男たち。
     
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    あこがれを描いたもの、現実を描いたもの、いずれに共通すものは、幸福という視点だけでは捉えきれない若者の心情だ。『二十歳の原点』の高野悦子の死の4ヵ月前、「私には生きようとする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これは二十歳となった今までズットもっている感情である。生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない」と記している。
     
    2ヵ月前には、「何故生きていくのだろうか。生に対してどんな未練があるというのか。死ねないのだ。どうして!生きることに何の価値があるというのだ。」そして、死の前日、長い文だが気になる個所のみ。このノートに書いているということ自体、生への未練がまだあるのです。ところが、では生きていくことにして何を期待しているのかといえば、何もないらしいということだけいえる。
     
    私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおせれのある一切のものを焼きすて、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。(中略) 雨が強く降りだした。どうしてこの睡眠薬はちっともきかないのだろう。アルコールの方がよっぽどましだ。早く眠りたい。二時三十分、深夜。
     
    高野が死ななければならなかった動機は誰にも分らない。高名な心理学者が1000人、寄って集ってアレコレ議論しても分らない。大事なことは彼女がなぜ死んだかではなく、死ぬまでどう生きて来たかだ。何度も何度も彼女の日記を読むたびに、この女と付き合ってみたかったと思わされる。さすれば日記で読む彼女の苦悩の三分の一でも共有できたかも。
     
    イメージ 7共感というより共有。「共感」とは、見つめ合い、手を取り合ったり、抱き合ったりと向き合ったり。「良かったね!」、「面白かったね!」、「悲しいね!」、「腹立つね!」などの感情を互いが呼び起こされ、言葉にし合ったりすること。言葉にせずとも、共に笑いあったり、喜び合ったり、涙したり、共感することで人間関係は深まっていくのだろう。「共有」とは単に頭で理解すること。女の悩みに男が心から共鳴し、共感できるとも思えないが、理性的に思考して解決を模索したいということ。共に感じあってそれで満足という事もあろうが、自己満足ではなく解決の思考を持ちたい。もちろん、日記に共感するものは多いが、共感できない部分も多い。共感できずとも共有して思考する立場に居たいと思ったわけだ。
     
    共感できなければ相性が悪い、価値観が合わないではなく、相手の苦悩を共有し、思考する。女は感情的に合う、合わないを判定するが共感できなくとも親密になる事は可能である。だいたい、人と人は合わないと言う事が前提にあれば、くだらないことで鬩ぎ合い、言い合いをすることもない。合わないから合わせるでなく、合わなくても接点を模索する。
     
    いかなる人間関係において、すべての人と合うなどあり得るだろうか?だったら、合わない部分に目くじらを立てずとも、合う点を模索すればいい。ちょっとしたことが合わなくて相手を避けようとする人間は真に心の狭き人。相手がわるいのではなく、自分が子どもなのだ。自分の問題を他人に転嫁してギャーギャー喚いてるのが多い。こういう人間は何かにつけて不満多き人だ。
     
    何でもないことを責められて、「…でオレが悪いわけ?」と呆れる事も多い。こんなことを言われた、と責める奴がいて、そんなことで傷つくのか?と思うが、思ってはいけないのだろう。以前はそう思っていた。「冗談じゃないで、その程度のことで傷ついただなんて、被害意識丸出しだろが、ナイーブすぎないか?」と思ったりだが、これも自己肯定であり、強者の論理である。
     
    自己肯定して相手を責めてみた所で、相手のキャパが増すわけでも、強くなれるわけでもない。それなら自分が相手のところまで下げて、言葉を配慮しながら話せばいい。自分は自分というのは、実は傲慢であるのが分る年齢があるということだな。こういう柔軟性を余裕と言うのだろうが、だからと言って相手にも「視野が狭い」、「偏執的だよ」くらいはそれとなく言う。
     
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    言って分かるとは思えないが、客観的な指摘も大事である。相手をただあやすだけならある種相手を見下げていることにもなり兼ねないし、対等を目指すならこちらからの発信も必要になる。あとは、優しい言い方を心掛けること。いかにも相手を見下し、バカにした言い方は、本心は対等を望むというより上目線を望んでいると思われる。真に対等を望むなら言葉に表れよう。
     
    そういう配慮が足りなかった時期は、相手を見下げているバカにしているなどと受け取られたようだ。そういう気はなくとも、言葉に配慮がないなら誤解は仕方がない。相手が何を誤解しようがそんなの知ったことかという以前の体質が改められた気がする。誤解させるのは自分の足りなさ、至らなさと思うようになった。「真」を相手に伝えられない自分の未熟さである。
     
    何事も、他人のせいでなく自分の責任と考えることで、いろいろ工夫が身につき、配慮の大事さを知る。他人への配慮が無理なく苦痛なくできるようになれたら、人は人として一人前だろう。それをひっくるめて「優しさ」というのではないか。人を表面的に捉えて「優しい」などの言葉を簡単に使うけれども、なかなか身につけることが難しい大変なことかも知れない。
     
    「優しい」とは、真に相手の身になり、立場に自分を置いて考え、行動できる人を言う。巷いわれる「優しい」の多くは嘘の優しさであり、女性が男にいう優しさも実は本質でないものを感じる。自分の経験で言うなら、「優しい」をあえて言わない女性の方が真実ではないかと。つまり、「優しい」は口に出して伝えるものではなく、心で感じるものだから。
     
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    真実を言葉にすることで嘘になる事は多く、心で秘かに感じてこそ「真」ではないか。なのにどうして人は言葉を求めるのだろうか?真実を言葉でいうのは簡単だが、「ボクは君を好きだ」だけでは満足しない女に、つい誇張したお世辞などをいってしまう。人間関係を発展させるための世辞の類が悪いと思わないが、言葉は暖かい心から発せられるべきだ。
     
    「冷え切った心で暖かい言葉を送られるくらい、その言葉を受け取る人にとって気持ちの悪いことはない」。これは有島武郎の言葉だが、絶対にそうとも言い切れない部分もある。なぜなら、歯の浮くような言葉であっても、言われた側は喜んだりするわけだ。「嘘から出た真実」という事もあるし、それはそれでいい。が、アダルトエイジは言葉に責任を持つ世代である。
     
     

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    人間が胎児出産するようになった理由はさまざまあるが、二足歩行によって産道が狭まったこと、頭脳の発達に伴い頭が大きく進化したことなどがあげられる。これらから未成熟の胎児のまま出産することで母体を保護する。また、何も出来ないうちに産んで、親がその子の世話をすることで愛情の度合いを深めていくという要素も考えられる。
     
    それくらいに新生児~乳児期の人間は一人で生きていけない。これを保護という。そうして老齢期を迎えた人間が様々な原因で、同じように一人で生きていくのが難しくなる。これを介護という。保護と介護の違いの意味は乳児と老齢者を比較すれば分かると思うが、同じ老齢者に対する「要介護」と「要支援」の意味が違うことを理解しておく必要がある。
     
    介護保険を利用して介護サービスを受けるためには、役所から「要介護認定」を受ける必要がある。介護が必要な方をその状況に合わせて5段階に分類したものが「要介護認定」であり、それに対して、介護は必要ないが、日常生活に不便をきたしている人を「要支援」と分類している。この二つは混同されることも多いが、「要介護認定」にはいくつかの種類がある。
     
    「要支援」又は「要介護」の認定を受けると、介護保険を利用することができる。したがって、「要支援」と「要介護」の違いは定義だけではないし、実際に受けることができる介護サービスの内容や費用も異なる。「要支援」とは「現在、介護の必要はないが、将来的に要介護状態になる可能性があるので、今のうちから支援をしよう」という状態である。
     
    年齢とともに人間の身体機能は衰えるが、適切な対策を行うことで身体機能の維持を図ることができる。これを「介護予防」といい、要支援認定を受けた方は介護予防の支援を受けることができ、介護予防サービスを受けることで、身体機能の高齢化を緩やかにすることを目指す。「要介護」とは、「現在、介護サービスが必要である」という状態をいう。
     
    介護施設で快適に生活するには、要介護認定を受ける必要がある。自宅での生活が困難である場合に、これらの施設に入居して介護サービスを受けることができる。また、自宅での生活を続ける場合には、居宅介護サービスを受けることも可能である。少子化に加えて平均寿命の延びが、高齢化社会に突き進むことを示し、福祉行政の体制と充実が急務となっている。
     
    老人介護がどれだけ大変かは、経験してみなければ分らない。新生児のケアと高齢者のケアとどちらが大変かと問うなら、老人ケアには絶望感を感じてしまうほどの開きがあろう。介護疲れが社会問題になっても、育児疲れほどではない。確かに育児ノイローゼなる言葉もあるが、新生児ケアと高齢者ケアの根本的な違いは、そのゴールにあるといっていい。
     
    赤ちゃんケアの先にあるものは成長であり、親の希望である。が、老人ケアの先にあるものは率直にいうなら「死」でしかない。未来と棺桶の差が歴然とあることで、言葉は悪いが「どうせ死ぬのだから」という気持ちが人間の心の片隅に存在する。いい悪いをいってみても、厳然たる事実の前に負担を強いられるが、赤ちゃんと比較してみて負担度が違うということ。
     
    未来へ進んで行こうとする赤ちゃんへのケアと、老化を少しでも食い止めることである高齢者のケアとでは目標自体が違っている。それが介助側の感じ方に差を生むのは仕方のないこと。老人のワガママや振る舞いに腹を立てる事はあるだろうが、新生児の欲求・要求はワガママでもなんでもない。そういう違いも歴然とある。相手は大人、一方では乳児である。
     
    老齢の親を誰が見るか、兄弟にとっては切実な問題であった。「親をたらいまわしにする」などの言葉も生まれた。確かに年取った親は厄介者であったし、言葉に出す出さないに関わらずである。そういった高齢者介護を家庭から解放するというのも行政に与えられた使命である。「この世は順送り、親の面倒を子が見るのは当たり前」という時代は合理的ではない。
     
    老齢者介護の合理的な考えは、子どもよりもむしろ老齢者側、つまり親の側が強く持つべきではないだろうか。「老いたら子どもと縁切り宣言」、そういう自覚が親に必要だ。子どもの負担になっていると思わない親は、自分から見ると思慮なき親ではないかと。思慮深い親なら、子どもの生活を最優先して考えるはずだ。それがない、それをしない親は傲慢である。
     
    「自分の事は自分で」という考えを所有する親は、ボケる前にそういう行動をとるだろうし、子どもに無理・ワガママをいわないように思う。なぜそう思うかといえば、それが最も理性的で明晰な思考と思うからだ。親自ら率先しての子どもと縁切りは、子どもに「一害なき百利」であろう。そういう洞察、思いやりを親が持つことを奨励したい。
     
    その事は我が身に降りかかってくるわけだから、理念として尊重されるべきであろう。有り体に「親の子離れ」というが、これが出来ない親は多い。子への依存を親の権利と錯覚するのは傲慢以外のなにものでない。「親にここまで育ててもらって感謝している」などと、成人式の決まり言葉などいわなくともよい。親は義務を果たしたに過ぎない。
     
    手柄でもなければ礼を言われる筋合いもないが、感謝をするなら心でしておけばよい。子どもが親に好かれたいと思う気持ち、親が子どもに嫌われたくない気持ち、そんなものを意識しないで自然にふるまうことが大切だ。確かに人は人から好かれたい気持ちは正直な気持ちだろうが、だからといって自分を偽ったり、無理する必要があるのだろうか?自分はそうは思わない。
     
    人が会う人すべてを好きになれるわけはないのだし、嫌いな人間も必ずいる。ということは相手も同じである。然したる理由がなくとも「好きになれない人」が出てくるのが普通の感覚である。しかし、その気持ちをあからさまに相手に出したり見せたりするのはよくないが、無理して好きになる必要はない。大事な事は人付き合いで「八方美人」にならないことだ。
     
    実はその方がはるかに人間的魅力であり、よい関係を構築できる。八方美人的な人間は概して心の通った良好な関係と言えない。互いが差し障りのない言葉を交わすだけの、差し障りのない関係でしかない。互いがそう思っているならいいが、それが良き友などと思われることもあるのだろう。誰とでも友だちになろうとする人間は、結局は誰の友でもない。
     
    無理して人に嫌われる必要はないが、「好かれていないな」と思う人間がいることを素直に認め、それが誇りに思えるくらいに人間は自他に正直であるべきだ。ある人が、数年前に比べて変わったなと思わせる言葉を見た。人に嫌われたくないが顕著な八方美人女性であったが、そんな彼女が数年前には絶対に吐かないであろう言葉に驚いた。
     
      今年の私は変わったなと思う。
      一言でいえば、わがままになったかなと。
      人を傷つけることが平気になったような気がします。
      自分の気持ちを優先し、友人たちを切り捨てることも。
      無理は所詮無理なんだと。
      ラクになりました。
     
    この記述である。これを読んで、「彼女も人間的成熟をしたな」と感じた。特に、"わがままになった"というくだりは言葉の適切さというより言葉の旨みで、自分はむしろ"わがままが治った"と理解した。当人はわがままになったといい、自分はわがままが治ったと解したのだが、敵を作らず誰からも好かれたいという「良心志向」は、自身のわがままであろう。
     
    人受け、人当たりのいい行為を醸すという点においてわがままである。"人を傷つけることが平気になった"というのも、人を傷つけない配慮という意識過剰の反動が言葉になった。こういう人は「No!」というだけで相手を傷つけたと思うのだろう。「No!」が言えない理由はいろいろで、自分が言われるのが嫌だから人にも言わないという反動形成的側面もある。
     
    「ラク」になったのは成長だ。人に嫌われるを怖れなくなると生きることが楽になる。「やさしさ」という生き方にあこがれ、やさしさを身につける努力より、表面的やさしさを醸すのを欺瞞という。自己欺瞞な人は根本性格が身についてない付け焼刃だが、人から人間性を褒められようものなら自己欺瞞を増幅させるが、チラホラ正体が見えるとウンザリとなる。
     
    曽野綾子に『善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか』なる著書があるが、これは『善人は、なぜまわりから好かれないのか』にしたいところを、アタリがきついから柔らかい文言にしたと推察した。他人にやさしくするのはいいことだが、やさしい言葉を売り込むのはどうだろう。善人とは善的な言葉をいう人ではなく、善行を自らの都合(事由)でする人のこと。
     
    人間関係の多くは偽善と欺瞞であるが、差し障りない程度の関係ならそれもよし。望む人はそういう相手を望む。さもなくば善人として自身の存在感が淡いものとなる。自らの善意を売り込む人は相手のためというより、善人と思われたい自らのためにそうする。だからそういう相手を離さない。人間は「やさしさ」の押し売りを止めると偽善と決別することができる。
     
    うっとうしい偽善の人間関係。レディーファーストの国アメリカの男は女性にやさしいというが、アメリカ人の本質を知る者はそうは思わない。アメリカの男性のやさしさは、あくまで外面的、物理的なものである。精神的には日本の男よりはるかにわがままで自分勝手なのだ。こういう正しい見方もなされぬまま、日本の男はその真似をしている。だから同居するとボロがでる。
     
    女のやさしさも、実は男を捉まえるだけのものが多く、それに気づかないのがバカな男だ。女はもともと「やさしくしてもらいたい」生き物であり、男が女にやさしさを求めること自体、ない物ねだりといっていい。かくも男と女は見せかけのやさしさを競い合っているのであって、そんなくだらない、そんな虚しい競い合いに終止符を打つ年代もあるということだ。
     
    が、そんな中にもやさしい女がいるのは紛れもない事実。何を持って女のやさしさというのか?と聞かれれば自分の答えはただ一つ。「誠実である」ということ。言い換えると嘘をつかない女。誠実なんて言葉は大人になっても少年の心を絶やさない男に当てはまる言葉かも知れぬが、「誠実な女」というのは、当てはまるならそういう女は誠実である。少ないけれど存在する。
     
    女の嘘は、幼少時期から女の世界で培われた本能の延長のようなものだ。だから、責めることはできない、しないというスタンスをとっている。しかし、若い頃はそれが分らず、そこまで達観できず、女の嘘に振り回されるのが一般的な男だろう。異性であることが魅力的である段階時期に、男が女に振り回されない方がどうかしている。が、それは若いときと言った。
     
    が、正しくいえば女慣れしていない男なら、50になっても60になっても女に心を奪われる。男は女に心を奪われなくなって、女を人間としてシビアに見ることが可能であろう。それくらいに女という存在は男にとって魔力である。色仕掛けの誘惑にはまるようでは男の卑しさ丸出しといえる。同じように中高年男が18歳以下の少女のパンツに興味があるの心が若い。
     
    12日に16歳少女に猥褻行為をした容疑で逮捕された神戸新聞社阪神総局長(57歳)は、その肩書きを皆は驚くが、どんな肩書きであれ、それが抑制に寄与しなければ正直肩書きの意味はない。肩書きは出世社会の栄光である反面、抑制としての意味を持つ。本当に自由に生きたい、自由に生きようとする人間は『イントゥ・ザ・ワイルド』でなければならない。
     
    アリストテレスは「人間は社会的な生き物である」といったが、「社会」とは複数の人間によって作られる集団であり、その人たちによって作りだされる規範のことをいう。つまり、人間は自然と社会を形成し、生活していく動物であり、社会を外れて生きて行く事は難しい。それは古代の人間の知恵であり、人間の存続の意義であり、歴史であろう。
     
    社会を敵に回して自然の中で生きていたいという挑戦は構わないが、「社会を甘く見るなよ」という言葉もあるように、「自然を甘く見るなよ」であった。それは人間が社会的動物であるが故に重くのしかかる。アメリカの若者のバイブルとまで言われている『イントゥ・ザ・ワイルド』に見るべき場面もあったが、TOTALにおいてそれほど評価できない作品だった。
     
    挑戦は尊いが、素人はアイガー北壁を登れない。エベレストにも登れない。自然の驚異を知る事こそ自然に立ち向かう者の義務である。自然の驚異に脆弱な人間は、自然に畏敬の念を抱くことでしか自然に立ち向かえない。それがこの作品の主人公を評価し得ぬ点であった。人が良いというから良いのではなく、懸念を納得させられてこそ「良い」である。
     
    挑戦するのは誰でもできる。いや、できないから凄いのだという考えもあるが、少しばかりの勇気を評価する人間には組することはできない。サラリーマンを辞めて自営業をやる者は多いが、始めること以上に至難なのはやり続けること。それと同じ事は周囲に散在する。どれほどの事をやったら「凄い」といわれる?ではなく、バカと無謀と凄いは紙一重であろう。
     
    『イントゥ・ザ・ワイルド』を一緒に観た人間が、「彼は親不孝だな」と言った。親不孝の意味は自分で考えた。親が所有する栄誉や富裕という価値観に子どもが染まらぬどころか、反旗を翻して絶縁のための家出をした事をいったのだろう。子は親を選んで生まれないという理屈に照らせば、富裕に生まれた親は得意満面、貧困に生まれた子に詫びねばならぬのか?
     
    美人を生んだ親は得意満面、ブサイクを生んだ親は子どもにすまない?と言う事になる。富裕に生まれればそれなりに、貧困に生まれればそれなりに、子どもが踏襲しなければいけない理由はない。現に、貧困家庭から多くのセレブが誕生している。だから富裕を否定して親不孝と言えない。あの映画の根本的命題は、主人公の勇気や意思の評価ではない。
     
    富裕にあぐらをかき、子の心親知らずを猛省すべき作品である。主人公を親不孝とするなら、「君のいう"親孝行"って何だ?」と問うてみたい。自分は実親にすべき親孝行が何かを知らぬまま、分らぬまま育った。そして今、自分が親になっても子が親にすべき親孝行が何かを知らない。考えることすらない。それでいいと思っている。無いものは要求しないでいれる。
     
     

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  • 01/14/15--15:08: 老人の維持費 ②
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    衰えを知らないかのごとく伸び続ける日本人の平均寿命だが、それで老後が幸福になったといえるのか。人の残された時間は決して死の拷問であってはならず、自らの終(しまい)支度と、大切な人との別れの準備を怠ることなく最期のときを迎えるべきであろう。誰とて自分の一生を自らコントロールできないと、老齢になれば分ってくるし、他人を見ていても分る。
     
    自分の最期を自分で始末したいのは山々だが、自分の思い通りに行かないこともあるならそこまで頑なに考える事もない。80歳の年齢を機に有料老人ホームに入った人が言う。「それぞれの部屋にはキッチンも風呂もあり、一見して普通のマンションと変わらないが、部屋にいくつもの非常ベルがあり、押すと看護師、介護士が駆けつけ、病棟に移すシステム。
     
    ホームの中に告別式可能なホールもあり、自分はここで人の世話になりながら死ぬんだろうな。」自覚とゆとりがあれば、老人ホーム暮らしも終の棲家である。が、老人の習性とでもいうのか、人は老齢になるとだんだん社会性がなくなり、甘えも出てくるし、変な自尊心がむき出しになってくるものだ。家族に看取られるのが当然というような、権利意識も湧いてくる。
     
    これに日本家庭の伝統が重なると、介護疲れから悲劇ということにもなり兼ねない。85歳にして意気軒昂の老母に手を焼く妻を見ていると、嘆かわしくも気の毒になる。先日妻に、「もう誰も対処できない母親の元に木刀持って、花瓶の一つでも壊しながら、いい加減におとなしくしないとぶっ殺すぞ!と脅すしかないな」と言ってみた。自分が出て行かなければラチはあかない。
     
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    妻が承諾するはずもないが、「下の世話はできませんので、そのつもりでいてください」と妻が母に申し出た言葉がカンに触ったのかもしれない。嫁に下の世話をしてもらいたいわけでもないのだろうが、自己中心的で傲慢な人間は見棄てられ感が何より許せない。それが底意地の悪さを増幅させた。話し合うことが不可能な人間と前向きで冷静な会話は至難である。
     
    親の資産を充てにする息子と親の軋轢が起こるケースは多い。例えば1千万、2千万なりの現金と持ち家が財産という場合、有料老人ホーム入居一時金のために持ち家を売却する事も出てくれば息子への遺産がなくなるわけで、そこで息子は「自分が面倒を見るから家を売るな」となる。が、実際に面倒を見るのは息子の嫁だし、嫁はやってられないだろう。
     
    こういう親子の軋轢をなくすためには、親の遺産を充てにする息子に毅然とし、自分の老後は自分で判断する姿勢が正しい。親の子どもに対する縁切り宣言は双方のためでもあり、「今度は仲のよい他人として生きて行こう」と伝え、さっさと老人ホーム暮らしを選択する。親から絶縁宣言をされることで、日本的な親子の根深い共依存も解消されるなら幸いだ。
     
    親というのはどこも似たり寄ったりで、「わしらが死ねばこの家も財産もお前のものだ」などと口にして暗に恭順を促している。金の魔力に物をいわせて親孝行をしろと腹で言っている。利口な親はそういう事は言わないものだが、思慮ない親は口に出す。禄を与えてキンタマを握り締める日本的な主従関係は、封建時代の藩主と藩士の名残りであろう。
     
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    入居に関して巨額の金銭を要としない老人ホームもあるが、それでも誰でも入れるという代物でない。「サ高住」(サービス付き高齢者向け住宅や、特別養護老人ホームといった比較的負担の少ない施設が、社会福祉政策の一環として整備され、今後は拡充していくだろう。映画『おくりびと』では、遺体の清拭から納棺までの一切が納棺しによって職業的に行われている。
     
    介護もプロの手になるべきというのが、この国の新しい国家形態であるべきだ。老齢者であっても家族を大事にすべきという事に何ら異存はないが、心労的負担を含めた介護の一切を家族に押し付ける社会制度は早晩改めていく必要がある。誰かがそれを言わないと悲劇は繰り返されるし、であるなら老齢者である本人が自覚を持つのが望ましいのだが…
     
    「老人ホームなど行きたくない」、家族と一緒に居たいのは山々だろうが、介護はプロの仕事という新しい時代の到来である。数十年前なら、親を養老院に入れるなどとんでもない親不孝者だの、恩知らずだのと言われたが、昨今においても周囲の声や親の傲慢に慄く子も少なくない。とっくに仏になってしかりの年寄りを介護する大変さを知らずかそういう言い方をする。
     
    50代、60代老人の介護に比べて80代90代の介護の大変さは比較にならない。世間は長年介護の末に看取った息子夫婦を立派だと褒めそやすが、何十年もの介護で失ったものは返ることはなく、介護従事者心身ボロボロ状態であろう。どうしてそれを立派と言われなければならぬのかと。必要だからやってまでで、しないでいれたらどんなに楽かを考えてみよ。
     
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    子への義務を自己犠牲だと思い込む親はいる。なのに子に自己犠牲を強いて介護を要求するのは傲慢というものだ。2~3年の介護を通してなら得るものもあろうが、10年ともなれば周囲の支えがあっても得るものなどない。介護疲れが原因で起こる悲劇に対し、司法が情状を酌量するのが関の山。会社の中枢にいた人間さえも、親の介護で辞めていくケースもある。
     
    老人ホーム入居を望まない親の心境はいろいろだが、自分が想像するに孤独という恐怖心であろう。男親の潔さに比べてダダをこねるのは母親に多いのか?自分の父は入院する際に「見舞いに来ないでいい」と自分に釘を刺した。それでも一度行った時に、「もうこなくていい」と念を押した。自分如きに気を使うなと言う男のやさしさを踏襲する自分である。
     
    「旅に出ても土産はいらん」、「父の日、誕生日など無用」など一切を父にしなかったし、そんな事は忘れて遊んでいればいい、そういう男の気概としての父を踏襲している。バレンタインデーに娘からチョコを貰って喜ぶ父親をユニークと思えど卑下はしない。卑下は願望の裏返しである。親が嬉しいならそれでイイこと。自分がどうしたいであって、他人は関係ない。
     
    老人ホームに入居する親を子が孫を連れて訪れる。和気藹々かどうかはともかく、これも現代の家族の在り方。自分なら「来なくていい」というし、中で将棋相手を見つけて楽しくやるし、自分が楽しければ家族に依存も負担もかけないで済むが、老人ホームにおける和気藹々が真実なら、親子は一度他人になった方がいい。子に下の世話を受けないことで、親の自尊心も保たれる。
     
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    今や介護はビジネスである。介護保険だけで10兆円の巨大市場で、これはコンビニの市場規模に匹敵するかの勢いである。さらには団塊世代が75歳以上となる2025年には、21兆円に拡大すると試算されている。これを逃す手はない、恩恵に預かろうと、異業種からの参入が後を絶たない。世界のトヨタやソニーまでが関連事業を通じ、介護事業に乗り出している。
     
    反面、問題も決してないではない。老人ホームでのサービス低下は目にあまり、「夜勤職員の酒盛り」発覚、「オムツ交換もままならぬ介護職員によってグルグル巻きにされた」といった事も。介護の劣化要因は「サ高住」の乱立にある。安否確認(緊急対応)と生活相談サービス付きのバリアフリー集合住宅「サ高住」は、入居時に高額な一時金がない事で人気上昇中。
     
    2011年に制度化されたばかりだが、国が建設費を民間事業者に助成する事もあって、わずか3年弱でその数は全国で約15万戸(2014年6月現在)にまで急増した。反面事業者の中には、「介護は儲かる」と安易な考えで、法令も介護知識もないまま新規参入し、それが「サ高住」の問題噴出となっている。「サ高住」運営会社が倒産し、入居者を守る法律は今のところない。
     
    事業者の最大目的が金儲けなら、利用者側に問題は発生する。とある県の「サ高住」では、敷金6万円のみで入居でき、月額使用料は食費込みで9万円と格安である。経済誌が特集した「サ高住」都道府県ランキングで、「月額料金の安さ」、「住まいの広さ」でベスト5に入った。ここに入居した85歳の女性は、それまで自宅の介護サービスを利用していた。
     
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    認知症の進行で一人暮らしが困難になり家族が利便性がよいからとここに入居した。介護サービスは「サ高住」側の強い勧めで、併設の訪問介護事業所の利用を家族も承諾したが、入居後しばらくして家族が面会に出向くと、1時間の訪問介護サービスが提供されるはずなのに、ヘルパーが20分で引揚げ、他にも着替えや洗顔がされておらず、家族は不信を抱く。
     
    集合住宅である「サ高住」は自宅と同じ扱いのため介護事業者の選択は自由にできりので、ケアマネジャーと相談しながらサービスの種類や回数など、ケアプラン(介護サービス計画書)に基づいて個別にサービスを決めるのが基本。家族は「サ高住」に併設された介護サービス業者を断り、外部に訪問介護事業所に変更した。ところが、この判断が思わぬ事態となる。
     
    「サ高住」担当者から、「母の落ち着きがなくなり、警察に何度も電話をかけようとするので困っている。何とかして欲しい」と電話が頻繁に来るようになり、家族は「サ高住側にも介護職員がいるのだから、そちらで対応すべき」と伝えた。すると「サ高住」から「退去するか、ケアマネジャーを系列事業所職員に変えるか選択するように」と通告してきた。
     
    家族は新たな老人ホームを探す負担などを考慮、結局「サ高住」に留まり、併設の訪問介護を利用せざるを得なくなったという。「サ高住」の狙いは、併設の事業所を利用してもらわないと、介護保険からの介護報酬が得られない。表向きには「介護事業所を自由に選べる」と言いながら、併設サービス利用を誘導する。これら入居者の"囲い込み"は常態化しているのが実情。
     
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    この「サ高住」の関係者は取材に応じ、「必要ないサービスの押し売りをしたと述べている。つまり、在宅介護ではサービスの利用料金限度額(上限)が決められているが、会社側は限度ギリギリまで使わせるのが旨みであるから、職員であるケアマネジャーは経営者の言いなりにケアプランを作成していたという。例えば自分で排泄可能な入居者にまで夜中に起こしてトイレ介助を入れる。
     
    これはもう悪質な介護報酬狙いであるが、悪質と言えないほどに常態化しているという。介護事業所を併設する「サ高住」側にすれば、サービスを多く利用させるとそれだけ介護報酬が増える。要介護①ですむ入居者なら介護報酬は月額約16万7千円だが、要介護③になると約27万円に跳ね上がる。いずれも自己負担は1万6700円、2万7000円と1割負担となっている。
     
    ケアマネジャーは利用者の心身状態や意向に応じて必要な支援(サービス)を見極めるのが仕事だが、雇われの身であっては「サ高住」の意向に従わざるを得ない。外部の介護事業所が入り込めないところでは、中で何が行われているかは察しがつく。ただし、介護事業所が併設されていると、緊急時でも職員が駆け付けやすくなるなどの融通が利くメリットはある。
     
    が、外部からの目が届きにくいために不正請求の温床になり易い。自治体の指導や監査から不正請求の事例は多数報告されている。群馬県内の「サ高住」では、併設の介護ヘルパーが同時刻に復数人にサービスを提供していたり、出勤していないヘルパーによる架空性急が判明、取り消し処分を受けている。さらには人員態勢の不備から重度者ばかりを集めている事業所もある。
     
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    ある利用者は敷金も不要、月額食事込みで9万円のうたい文句に入居を決めたが、軟禁状態でにされ、「とんでもないところに来てしまった」と後悔しているという。「部屋からデイサービスのある一階に移動するだけの毎日で、外出も禁止、携帯電話や金銭の持ちこみも禁止、風邪をひけば『寝ていれば治るから』とそっけないだけで、何もしてもらえなかった」と嘆く。
     
    家族は家族で「なかなか面会に行けないので生活雑貨や飲み物などを送っていたのに本人に渡されていないものもあった」と、これは悪質だが、本人宛の荷物は職員に中を調べられた上で渡されるというのは驚きを超えて、何でそこまでと理解を超える。携帯電話持ちこみ禁止の理由は、「警察に無用な電話をされたり、通販での買い物トラブルを避けるため」というが…
     
    「サ高住」側が面倒な対応を避け、入居者を管理しやすいように運営している実情のようだ。刑務所や感化院とまではいわないが、幽閉状態といって過言はない。学者や専門家は、「入居者の通信や移動の自由を制限するのは、人権侵害や心理的虐待にあたる恐れがあり、やってはならないこと」と指摘する。外出禁止のみならず、退去申し出に契約解消できないところもある。
     
    このような実体は報告されてはいても、入居希望者や同伴家族が見学に訪れても、こうした行為が一般人には「サ高住」の登録違反に当たるかどうかも分らないし、あまりの事業所を退去して別の老人ホームに入居した高齢者も、「一度くらいの見学だけで中のことなど分らない」というが、それはそのとおりだろう。こういう実態を知れば知るほど入居はしたくないと感じる。
     
    イメージ 10有吉佐和子の『恍惚の人』がもたらした認知症への誤解は歴然とある。が、認知症は決して「人の終り」ではない。小説には「人格欠損」という言葉が使われ、そこにはボケたら何も分らなくなって最後は人でなくなるイメージがある。そこまで認知症を責める気はないが、認知症特有の「物盗られ妄想」に手を焼く妻。「あんたが盗った」と言われて自分なら蹴りが入る。やっていないことをやったといわれるほど侮辱はないが、妻は「認知症」ではないと言う。しっかりしているだけに聞き流すことができないと苦悩を訴える。「おとなしくさせるには木刀持って、周囲の物を叩き壊してビビらせるしかないんじゃないか?」と、非理性的な母にはそれくらいしか解決策を思いつかないが、鬼と同居する妻の我慢も見上げたものだ。
     
    幸せな老後を実現するためには「正しい終活」のためには身の回りに蓄えてきたものを「取捨選択」すること。例えば可愛がっていたペットの引き取り手を探しておくとかも。肉親・家族といさかいを起こすことなく、「老いては子に従う」心掛けも大事。さらには老人を食いものにする悪辣な「サ高住」に気をつける。そのために国も悪用されないルール作りを進めることだ。
     
    「サ高住」事業者のけたたましい商魂は、医療面においても「囲い込み」が横行している。「サ高住」に入居すると訪問診察の利用を促され、それまでの主治医を変更させられる。訪問診察だけでなく、訪問歯科、訪問薬局などの利用もセットで勧められる事例もある。昨年2月、国会で「在宅医に患者を紹介する見返りに手数料を取る」のが問題にされた。
     
    「患者紹介ビジネス」とは、まず患者を探す代理店を募集し、代理店の最も有力な営業先は一度に多数の患者を確保できる「サ高住」や「有料老人ホーム」である。集めた患者は紹介会社が提供する医療機関につながれ、訪問診療が開始される。医療機関は診療報酬から紹介会社に手数料15000円を支払い、うち8000円が代理店に支払われるという仕組み。
     
    「紹介料は毎月定期的に入るので、安定収入が確保できます。代理店になるには加盟金がいりますが、上手くいけば月数百万の収入が見込めます。」と、紹介会社の営業担当は言う。国は医療費抑制のために在宅医療を誘導したが、その制度が悪用されている。「サ高住」の囲い込み介護サービスと似た構図だが、老人はどこまで食いものにされるのか。
     
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  • 01/15/15--07:05: 老いらくの恋
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    40、50のおばさんが、「一生恋はしていたい」などと言っている。気色悪いがそれが女の感性か?「老いらくの恋」などと持て囃したりはするが、40、50男が「最後の恋をしたい」などと言い出すならいい加減気色悪い。オヤジならオヤジらしく「楽しく遊べる男」でいたらどうなんだ?男女関係において「男は真剣交際は考えていない」といわれたりする。
     
    女も思わせぶりで実際は違ったりする。そもそも「真剣交際」とは何だ?真面目独身男が女にアプローチするとき、「結婚を前提にした交際を望みます」といったりするが、「前提」という言葉は便利がいいよ。中学で野球部に入った少年が、「プロ野球選手を前提に頑張ります」。歌唱教室に通い始めた少女が、「歌手になるのが前提です。努力します。」などと言う。
     
    「前提」とは何だ、「前提」とは?ある物事が成り立つための、前置きとなる条件、と辞書にある。まあ、そういうことだろう。それでは聞くが、「結婚を前提に交際、というのはどういう交際なんだ?」幾人かの女に聞いた事がある。「マジメに付き合うこと」、「真剣に付き合うこと」、「遊びじゃない付き合い」などと、返ってくるのはどれも同じでつまらん。
     
    「マジメって何だ?」、「真剣って何だ?」、「遊びじゃないって何だ?」と問い直す事もあったが、それも飽きてくる。面白い反応や答えを引き出したいなら、こういう言葉を突きつける。「エッチをしない付き合いじゃないのか?」これに対する反応や、実に面白い。まるでドッキリカメラにかかったような唐突な顔と、すぐに出てこない返答加減が笑えるのだ。
     
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    相手の性格にもよるが、40年、50年前なら、「そうだと思う」と躊躇いなく答える女は多かったろう。純潔教育の申し子たちは、結婚までは処女を守りたいが社会通念であった。社会通念とか、洗脳教育というのはおぞましい。どこかの屋根の下で男が覆いかぶさっても、「イヤよ、そこはダメ」とか、事前に「Bまでよ」とか、本能に逆らって制約を保持していた。
     
    「A、B、C」なんかとっくに死語だ。ちなみにAはキスまで、Bは性交以外、Cは性交アリ。日本エレキテル連合のあけみちゃんの、「ダメよ~ダメダメ」が受けているようだが、なんと小学生にも浸透しているという。いつの時代もテレビの影響は教育者にとって悩みの種。友人に「『アラレちゃん』だけは絶対に子どもに見せない」というカタイカタイおやじがいた。
     
    あけみちゃんは未亡人との設定であるらしいが、おじさんの誘いに「ダメよ」と答えるのが今の時代に新鮮なのではないか?小学生があの場面の本質を理解し、「ダメよ」を身につけるなら、あのコントは立派な道徳教育となり得る。昔はどこで覚えたのかいい年こいた女が、「いや~ん、バッカ~ん」などと作ったセリフを、それもワザとらしく色っぽく発していた。
     
    それに比べてあけみちゃんの「ダメよ~ダメダメ」は毅然としているように聞こえる。まあ、自分があの場面におけるあけみちゃんの心情を分析するとだ、あけみちゃんはおじさんに求愛の言葉をたくさん言わせたいんだな。また、あのおじさんが不器用にも、純情に、断られながらも悪びれず、どんどん言ってくるものだから、あけみちゃんもそう言わざるを得ない。
     
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    オーム返しのあけみちゃんを口説く「殺し文句」があるとするなら、ああいう場合はもう言葉に頼らず一枚一枚服を脱がせた方がよい。あけみちゃんもそうされながら「ダメよ~ダメダメ」といいながらも、脱ぎ易いように腕・肘をサポートしてくれるはずだ。あの「ダメよ~」は社交辞令であるのはそこいらの男には分っても、小汚いおじさんにはわからないのだろう。

    女として至福の時であろう。心が緩んでいるのに、拒否ってるときの自分を、緩んだ自分が外から眺めながら、男に言い寄られている時間の心地よさ、それが女というものだ。真からイヤという声を聞いた記憶はないが、「作りイヤ」には上手い下手のランクがある。あけみちゃんは、かなり下手ランクだが、おじさんがカワイイだけに通用しているのだ。
     
    「イヤよイヤよもイイのうち」という慣用句は、奈良~平安時代から確立されていた女の方便である。いや、言行不一致が女の特質なら、卑弥呼の時代から言われていたかも知れん。本心でいうならこれほど辛い言葉はない。本気の「だめよだめだめ」で浮かぶのが、1968年発売された森進一の『年上の女』。一番から三番まで「だめよ~だめだめ」の詞が入っている。
     
    どのシュチエーションも女の辛さ、切なさが伝わる「だめよだめだめ」であり、ここまで自制心の強い女の心情、詩にすれば美しい。三つの「だめ」の最初は相手に言う「だめ」で、あとの二つは自分に言い聞かせる「だめ」。女は感情コントロールするの大変よ。男も若い頃は同じ、気に入ったコにロックオンしても一途な男で通ったが、50過ぎてそれはナイ。
     
     
    50歳ともなれば理想は吉川晃司。プロとしてカラダは鍛えはするが、白髪は放置。あれで染めていたらな~んもカッチョよくな~い。健康のため、腹筋、腕立ては必須だが、若く見せようと頑張るは痛々しい。男の真価は50歳からで、それ以下はクチバシ黄色いひよこ男。「やっぱり女は、デキる男と金持ちにしかなびかない…」と決めつけるモテナオヤジよく聞けー。
     
    カネや才能とは関係ない!オヤジならではの「人間力」があるのだと。「人間力」とは日常些細な場面に顔を出す。それ、それ、それが女たちが「モテオヤジ」と認めたチョイ悪オヤジの共通トレンドか。ただし、「モテてどうしよーってわけでもない」などというオヤジはモテる意味はない。モテてどうしよーってわけがあるオヤジのみ、モテるべきである。
     
    50歳といえばもはやモテるモテないに関係なく、女に媚びることなく「おっさん道」を行く年代だ。"おっさんの前に道はない、おっさんの後に道はできる"といえばアントニオ猪木は「No!」という。彼は自身の引退試合でこう言った。「人は歩みを止めたときに、そして挑戦を諦めたときに、年老いていくのだと思う」。なるほど、猪木はだから朝鮮を諦めないのだ。
     
    猪木はその後に上のように述べている。その猪木議員は次世代の党を離党していたことが16日、明らかになった。次世代の党は衆院選で公示前の20議席から2議席と議席を大きく減らす大惨敗を食らったばかりで、猪木氏の離党は衆院選後、永田町周辺でささやかれていた。北朝鮮問題など独自の外交に力を入れる猪木氏とは当初から方向性のズレが指摘されていた。
     
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    昨年7月の参院選では逆風にさらされていた旧日本維新の会から立候補した猪木氏だが、選挙活動では「維新」の2文字を全く使わない異例の選挙戦を展開。それでも抜群の人気で比例トップとなる35万6605票を獲得し、維新の当選者数を大きく押し上げる原動力となったものの、政策や思想の相違は当初から指摘されており、特に北朝鮮外交をめぐっては水と油だった。
     
    昨年11月、国会会期中に平譲を訪問した猪木氏は参院から登院停止30日の処分を受けた。一方、維新からはより重い党員資格と党副幹事長職の50日間停止を言い渡された。2014年8月の日本維新の会分党に際しては、石原慎太郎共同代表を支持するグループ「次世代の党」に加わり、党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任した。離党の理由は?
     
    猪木氏は語ってないが、次世代の党は元航空幕僚長の田母神俊雄氏が副代表を務めるなど右傾化が加速。猪木氏の存在は宙に浮く格好となったのだろう。猪木氏が北朝鮮に拘る理由このように述べている。「あるスポーツ紙に先生(力道山)の娘が北朝鮮にいるとの記事を見て北朝鮮との縁が始まった。娘さんの年齢は私と近いが、ご主人は体育協会会長を務めていると理解している。」
     
    また、親北関係者という非難に対して、「日本は北朝鮮と国交もない状況で対話の窓口もすべて閉じてしまった。日本人拉致問題はもちろん深刻な案件だ。しかし拉致問題と国交正常化は別問題だ。拉致日本人会などが私にあまり友好的ではないのも知っている。しかし私が金永南などの北朝鮮高位官吏らと親睦があり、唯一のチャネルだと判断しているようだ。」 と答えている。
     
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    金正日は猪木のファンであったと言うが、息子の金正恩は猪木など屁でもないなら、彼の訪朝が日本の国益かどうかは疑わしい。ところかまわず「元気ですか~!」の声を発し、国会で注意も受けている。北朝鮮で親善勲章第1級を授与された際にも「元気ですか~!」とやって驚かせた。国会は粛々とすべきところだが、どこでも自己流パフォーマンスを通す猪木議員である。
     
    2014年7月で28回の訪朝だ。真剣交際の定義は分らないが、猪木個人は北朝鮮は真剣外交の相手のようだ。「外交に勝者なし」と言う。国益と国益の凄まじいぶつかり合いが言葉の真意で、どちらも半歩さがって譲り合わなければ成立しないものだが、日本のようにお人好し外交といわれる相手国家なら"丸得く"もあり得るかも。北朝鮮はそれを狙っているのか?
     
    日本は真剣外交、あちらはお遊び半分…、遊ばれてるってのは意外と気付きにくいものだ。同様、男に遊ばれる女も気付きにくいのだろう。いいじゃないか、だったら女も遊んでしまえば。遊びがいけないわけでもない、減るものでもないんだから。50過ぎの「老いらくの恋」とて所詮は終る。何度やったところで恋は束の間。永遠の恋だと?求めたところで幻想だろ。
     
    「人は恋愛によっても、満たされることはないのである。何度、恋したところで、そのつまらなさが分る外には偉くなることもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生はなりたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らないというが、我々の愚かな一生において、バカは最も尊いものである。」
     
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    と、好きな文章だから数度ブログに書いたから作者は臥す。「老いらくの恋」とは歌人川田順の言葉である。東京帝国大学に学び、住友財閥の筆頭重役にまで栄達した川田が、弟子と恋愛の後に家出したいわゆる「老いらくの恋事件」だが、「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし」と詠んだことから生まれた語。いかに秀才、いかに才人といえど恋に狂う。
     
    趣味・道楽に狂うように恋に狂ってもいいが、相手は京都帝国大学教授中川与之助の妻俊子であった。俗にいう不倫のそれだ。ただし、姦通罪が存在していた時期(廃止になったのは1947年10月)でもある。俊子もまた歌人であり、順は俊子の師でもあった。実業家でもあり当時63歳の順は、妻を亡くして独り身だった。俊子の積極さもあってか中川との離婚が成立する。
     
     
    新所帯が持てる条件がととのったにもかかわらず、順は自殺を図る(京都法然院の妻和子の墓に頭を打ち付ける)。自殺の理由は、分別というものを身につけた年長者であり、公人でもあり、さらには俊子の夫中川と親交があったそのことが彼の心に重く圧し掛かった。中川を欺き、その妻を奪ったことに対する罪の意識であろう。川田は苦しみ、死をもって償おうとする。
     
    しかし、一命を取りとめたが多くの憶測を生んだのは、自殺未遂の二週間後に川田は結婚を決意した。二人は結婚をきっかけに京都を去り、国府津で新生活を始める。買い物かごをさげ、肉や野菜だけでなく配給などを受け取りにゆく日々。自分で食事の支度をすることも少なくなかったというお手伝いさんのいた生活から、ささやかな夫婦二人の日々へ転換した。
     
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    そのうちに俊子の子どもも同居するようになる。筆一本による収入は、住友財閥理事だった経歴にとって、それなりの苦労もあったろう。歌人川田順の後半生に起きた大きな事件は、世俗的には波紋をなげかけたかもしれないが、望んだ恋を成就でき、二人の幸せの度合いは歌に継がれて行くはずである。しかし、プライドの高い川田には、その当時の歌がこう詠まれている。

     あくせくと新聞社めぐり灯のつくころ数寄屋橋をば再びわたる
     
     待たされて受付の前に立つ久しここまで吾はおちぶれにけり

    「おちぶれにけり」は、順の正直な気持ちであろう、川田順という人間の性格がこの歌に表れている。11月30日を「シルバーラブの日」だと?川田と俊子が駆け落ちをした日が由来らしい。日本人は記念日を作るのが好きらしい。二人の恋愛を描いた辻井喬の小説『虹の岬』は映画にもなった。その後、川田は1966年84歳で死去、俊子は2006年96歳で長逝した。
     
    辻井喬とは西武流通グループ代表などを務めた堤清二のペンネームである。彼は『虹の岬』で第三十回谷崎潤一郎賞受賞した。その堤も以下のように述べている。「一定の美意識とでも言うべきものは、その裏付けが必要だと思うのだが、この点になると僕はお手上げに近いのだ。というのは、ほとんど大抵のものに感心してしまうからである。」
     
    なるほど、堤が美意識なんてものを標榜しない人でよかったのかも。が、"ほとんど大抵のものに感心してしまう"ためには、教養も智慧も必要であろう。巷では24歳差のおしどり夫婦と持て囃された三船美佳(32)と、高橋ジョージ(56)の離婚が決定的との報道だ。すでに離婚調停は決裂、美佳が離婚を求めて提訴しているとの状況である。三船は16歳のバースデー結婚をした。
     
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    それでいいと思っていたが、年数を重ねるうちにつまらなくなってきた。まだ32歳の遊び足りない盛りなら所帯じみた生活より、新たな自由を求めたいなら別れたらいい…。16歳のミーハー少女の幻想と思えば責める言葉もない。ミーハー過ぎれば目が覚める事もあろう。30代になって自立した女として生きてみたいと気づいたなら、ジョージも離してやったらどうだ?
     
    お前はもう彼女にとってお役目御免の男で、ミーハー女と一緒にいたと思う事だな。結婚は一方が飽きたらオワリで、それを止めぬは体面死守の虚飾の生。籍を入れたままの仮面夫婦は、別々個々の楽しみを模索する。籍を抜かないから不倫という刺激も味わえる。これが現代人の快感の源泉だろう。規則や法を破る刺激はたかだか交通違反といえどもたまらない。
     
    「恋」というのは極めて価値観の少ない時代の人間の言葉であって、何でもアリの現代人が使うのはおこがましい。たとえ使ったとしても、昔の人の言う「恋」とは雲泥の差であろう。思い込む人間には分らない。「恋」などといわず、シュールに「刺激」といいなさい、正直に…。「性交」の口実といいなさい、悪びれず…。
     
     

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