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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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  • 10/27/14--15:54: 「女心」 ②
  •  女は移り気                     いつもみじめなのは
     風に舞う羽のように          女に心を許してしまう者    
     言葉や考えを                   うかつにも女を信じてしまう
     すぐに変えてしまう            何と軽率な心よ!
     いつも可愛らしく               だが女の胸の中に
     愛らしい表情だが             幸せを見い出せない者は
     涙も笑顔も                     この世の愛を味わうことはできないのだ!
     それは偽り
     
    ヴェルディ作曲、オペラ『リゴレット』から「女心の歌」である。西洋人が「女心」を歌うとこのようになる。内容はといえば世界各国共通の女の本質を歌にしたもの。女に心を許してしまい、ケツの毛まで抜かれた憐れな男を嘆いている。バーブ佐竹の『女心の唄』は、女のセンチメンタルな感傷を女の視点で歌っているが、こちらは男への教訓となっている。

    もっとも『リゴレット』の「女心の歌」は意訳の邦題で、「女は気まぐれ(La donna è mobile)」というのが原題である。女大好きのマントヴァ公爵は、お抱え道化師のリゴレットに自分の女遊びの手伝いをするのだが、遂には自分の愛する娘にまで手を出されてしまう。リゴレットは公爵に対し復讐計画を練る……。颯爽・毅然と自己断罪的に公爵に歌われる。
     
     
    このように男が思う女心と、女が感じる女心とは違うだろう。ヴェルディは、『リゴレット』の公演前にこの『女心の歌』の大ヒットを確信し、主演歌手に劇場外で、この歌を歌うのを禁じた。世界的に有名な「女心の歌」は、『椿姫』の「乾杯の歌」同様、リサイタルなどで単独でも唱され、タイトルを知らなくても、聴けば「ああこの曲ね」という人は多いのではないか。
     
    具体的、断片的にではなく、自分の思う普遍的な女心というのは、自分(男)になど、どこを探してもない感情ではないか。しばしば、「ああ、女心だな」と感じるような情緒はたくさんあったし、どちらかというと肯定的なものが多い。したがって、女のズルさ、嘘つき、短絡さなどの邪心やネガティブな性向は、女心とは言わない、思わない。が、主体性のない無害な女もいるのは事実。
     
    「男心に男が惚れて」という言葉が美しいように、「女心」とは男にとって美しいものである。卑怯なこと、性根の腐ったようなことをされたときに、「女心」などと思ったことはなく、いいとこ「クソ女」である。バーブの『女心の唄』の好きな次の歌詞、「酒がいわせたことばだと~」、「今夜しみじみ知らされた~」、「いつか来る春しあわせを~」は、男にとって共感と反省がある。
     
    「女は男にこう思うのか」、「こんな風に思わせてはいけない」などと、男の傲慢さ、ズルさを省察することこそ、男の女への優しさ、思いやりである。相手の心の中は見えないゆえに気づかない事が多いが、知ることになった暁にはいたわりと思いやりで接することができる。己の欲求・欲望のために相手を利用するなどの考えは、「愛情」とはほど遠いものだ。
     
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    確かにヒドイ男がいるのは知っている。上の歌詞にあるような思いを女にさせる男など、男の端くれにもかからぬクソ男であろう。負けじ女もヒドイのがいる。ヒドイ男、ヒドイ女に出会うのは運なのか?「いつか来る春しあわせを、のぞみ捨てずにひとり待つ」などの言葉はもらい泣きである。男に遊ばれ、金品を貢がされ、そういう男は運でもあるが、選んだともいえる。
     
    何故かそういう女は性懲りもなく同じ過ちを繰り返す。男はみな善人にみえるのだろう。言い換えると"男好き"である。若い時期は無知の時期、誰でも異性に授業料を払う時期でもある。異性は謎だからそこは学習するしかないが、何ら成長せず、失敗も生かせず、いつまでも授業料を払い続ける女に同情はできない。「私はバカだから」と、それをいってバカを正当化する。
     
    劣等意識の強い女にこういうのが多い。男が自分を相手してくれるだけでも嬉しい、感謝というのだから、それが本人の満足感であるなら、他人がアレコレ言ってみても意味はない。モテない女の定めというしかない。ふと千姫が頭を過ぎる。徳川二代将軍秀忠を父に、母は淀君の妹お江である。お江の母は信長の妹お市で、お江は母親ほど器量はよくなかった。
     
    それでもお茶々(淀君)、おはつ(京極高次の妻)の両姉に比べて気が強く、頭も良かったという。千姫は7歳で11歳の豊臣秀頼に輿入れする。秀頼の母は淀君だから、千姫とはいとこである。輿入れといってもままごと夫婦、典型的な政略結婚だ。大阪城の千姫は気性の激しい姑(淀君)に翻弄され、つんぼ桟敷に置かれてるうちに「大阪夏の陣」が勃発する。
     
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    千姫は燃え上がる大阪城から助け出された。これは家康が大阪城が焼け落ちる前に、「誰かお千を助け出す者はいぬか?助け出した者にお千をやるぞ!」その声に応じた坂崎出羽守は炎の中をかいくぐって千姫を助けた。ところが千姫は醜い坂崎を嫌がった。江戸に戻る途中、桑名の七里渡しの船中で見た本多忠刻に惚れ込み、お嫁に行きたいとダダこねた。
     
    面目をつぶされた坂崎出羽守は、怒って千姫を奪いとろうと画策するが果たせず、自我喪失の出羽守は自殺する(千姫事件)。別の逸話では、家康が臨終の際に政略結婚の犠牲とした千姫のためを考え、忠刻やその生母に婚姻を命じたというが、忠刻の母熊姫が千姫を自分の息子に欲しいと、強引に家康に頼み込んだとの逸話もあり、この話が最も信憑性が高い。
     
    逸話が10も20もあるのが歴史であり、中でも千姫淫乱伝説は面白い。「それでは話が違う」坂崎出羽守にすればもっともな話、そこで熊姫は一計を思いつく。「千姫はうちの息子がいいっていうんだからしょうがないでしょ」。熊姫は千姫と同じ家康の孫娘である。関白秀頼の未亡人をもらえば家の格もあがるし、化粧料という名の持参金も半端ないだろうし…。
     
    母親の息子へのそろばん勘定は、今も昔も変わらない。熊姫の計略は巧を奏し、忠刻は父忠政の所領とは別に化粧料名目で10万石を新地に与えられ、姫路藩に移った。ところが忠刻は結婚後まもなく若死にすることになる。「淫乱千姫に酷使されたらしい」との噂が立つ。再び江戸城に戻った千姫は、ご乱行に明け暮れるという話にまで発展して行くのである。
     
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    これらの逸話は千姫の身からでたサビであるが事実ではない。1626年、夫・忠刻の死後、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、千姫は娘勝姫と共に本多家を出ることとなった。江戸城に戻った千姫は、出家して天樹院と号し、娘の勝姫と2人で江戸城内竹橋の邸で暮らしたというが、いつしか日本史にまれにみる淫乱女に仕立て上げられることになる。
     
    マキノ雅弘監督の映画『千姫と秀頼』(1962年)では美空ひばりが千姫役を演じた。以下のキャッチコピーは秀逸である。「ともしびの如き女心は、戦国の風に冷たく消えた…。動乱の世に激しく燃え、ひたすら求め合う二つの魂!大阪城落城に咲く哀しくも美しい夫婦愛!最愛の夫秀頼を、さては唯一の理解者であった坂崎出羽守をも亡き者にした祖父、家康。
     
    父秀忠に才女として生きる道を閉ざされた薄倖の千姫が、身は徳川家にありながら、心は豊臣に捧げ、政治の具に供される自分に愚かしさを覚えて徳川家に強く反抗する…。だが、所詮は女であった…。夫秀頼への慕情も出しがたく、遂には尼として余生を送った千姫の悲哀に満ちた姿、遍歴する女心を描く」。人はその時代にしか生きられないんだろう。
     
    封建社会、武士階級時代に、男は男でよい思いをしたことはあるだろう。が、逆に男にはつらい思いもあったのだ。同様に女にもいえること。だから、昨今の時代に女がどのように強くなってもよいが、強くなったなら強くなっただけの責任をとればいい。日本女性が法の元に平等になり、女性上位といわれながら、男の心を次第に失いだしたといえるのではないか?
     
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    かつて、女心というのは男を惹きつけるものだった。上にも書いたが、男にはないデリカシーに男は魅せられる。男言葉を女が使えばそれはもはや男である。それと思春期頃から芽生えさせなければいけない女心を失ったかのような女性も多い。自分は、若い女は同世代の若い男と付き合うべきで、そのあたりで女心を身につけていくのではないかと愚考する。
     
    若い子が、オヤジに声かけられたらと口実よろしく、オヤジに宝物のように思われ、お金もたくさんくれるし、ワガママも尋常でないくらいに許してくれるなら、これほどの快感はないだろう。だからか、ごく普通の子がオヤジ世界にのめり込む。若さというかけがえのない宝物を同世代男と交わし合い、磨き合うでなく、オヤジに与えて磨耗させている。
     
    肉体が磨り減ることはないが、精神は確実に磨り減っていく。お金を出す大人が悪い、醜いというしかない。ワガママも100%受け入れてくれ、何でも言う事を聞き、あげくは高額のお小遣いをくれるようなオヤジに女心もへちまもない。女心は互いが向き合い、必死で恋し合う相手男に掲げ、授けるものであり、くたびれオヤジに見せる風情のものではないよ。
     
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    むかし、「若いって何?」って聞かれ、「年齢が少ないこと」と答えたことがある。ジョークだが、上手く言えなかった事情もある。今はいくらでも言える。本日は「若さとは無謀と失敗である」と浮かぶ。だからこそかけがえのないものではないか。失敗こそが人の成長の量である。斃れては歩き、歩いてはまた斃れ、死んでは生き返り、生き返ってまた死ぬ。
     
    ♪あなたに声かけたらそよ風が返ってくる。だからひとりでも淋しくない若いってすばらしい…この詞は、安井かずみがスタジオのテーブルの前で数分で書き上げたという。老齢になって「若いってすばらしい」という者は、今に満足感が得れてないのだろう。若いときに若いって素晴らしいなど思ったことすらない。若き日に若いは当たり前だったからだ。
     
    老齢の今、若いって素晴らしいと思わない。思わぬけれど、先人の老婆心が若人に言葉を向ける。若き日をくすぐられる何かに出会うことはあるが、今に増して当時が良かったと思はない。「女心をくすぐられる」との言い方がある。「女心を刺激する」ということか?「母性本能をくすぐる」も、刺激する、目覚めさせると理解する。難しく考えることじゃない。
     
    まあ、「女をくすぐる」と「女心をくすぐる」は全然意味が違う。誰が言いだしたのか「女心をくすぐる」はいい表現だ。心などくすぐれるはずないが、ニュアンスは誰にも分かる。「男心に男が惚れて」という言葉にあるように、男心は男にもくすぐられる。同じように「女心」は、女にもくすぐられる?であるなら「女心に女が惚れて」の言葉がないのは?
     
     
    「女は生まれつき敵同士」、ショウペンハウェルの言葉が答えなのだろう。「女心」の特性もう一点。女は冒険を好まない。世に女性探検家はいないわけではないが、少数世界だ。まあ、男がみな冒険心を持すわけでもないが、『マディソン郡の橋』が主婦層に共感を得たのは、「愛しながらも定めに負けて」であろう。分りやすくいうなら、恋と日常生活の天秤だ。
     
    人妻にとって、男をとるか、日常生活をとるかの問題であるが、愚直にいえば、夫以上に別の男に(性的に)惹かれるなど当たり前である。その程度で真実の「愛」などという女の勝手な思い込み。sexが快感だから真実の愛などと抜かすメス論理に気づいていない。よくよく聞けば夫とはレスであるという。真実と言うのは、今の生活をズタズタに壊してこそ真実である。
     
    夫(妻)以外の恋人というもう一つの世界を作り上げて、それが真実だと思い込む。この手の問題に関して自分はいつも冷笑する。女の思い込みというのは身勝手であり、滑稽であり過ぎる。だから、夫に隠れて浮気をしないさいと。本気だの真実など言わぬが花。まあ、現状をガタガタに壊す真実に耐えられるほど、人間は強靭ではない、だからズルさが働くのよ。
     
    女は着飾る生き物だから、言葉で自分を飾るも大好き。世に1000円の洋服もあれば、100万円の洋服もある。デートの時にこれ見よがしに高価な着衣、下着を身につける女。それこそが「女心」である。男は着衣や下着よりも、中身にしか興味がないのに、「綺麗だね」とお世辞を言う。これを「くすぐる」という。洋服、下着が真実?いや、真実とは一糸まとわぬ姿を言う。
     
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  • 10/28/14--18:30: 「男心」
  • 「女心」が男に分かりにくいように、「男心」もまた、女に分かりにくいのではないか。「男のひとは分らない」という言葉を幾度聞いたことか。男の子を持った娘もそれをよく言っている。それほどに男女差というのはあるらしい。女は生まれたときから基本、女の世界(環境)で育つし、男も同じこと。性の違いは環境の違いが大きく左右させるのではないかと思うが。
     
    環境説というなら、多少なり分る部分はあるが、男女の本質的違いというか、根本的違いがあるのだろうか?あるならどういう違いが提示されるのか?熟年離婚に訪れたある女性が、結婚30年の生活の中で夫から受けた不快な出来事が紹介されていた。これは、女性の夫特有の性格なのか、それとも男一般に存在する情動であるのか、検証しながら男心に迫ってみる。
     
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    ①自分が高熱で倒れているときに夫は「メシはないのか」と言って私を気遣ってくれなかった。
     
    ②子どもが急病で入院することになり準備していると、帰宅した夫は事情を聞くと「ところでオレのメシは?」
     
    ③私が近所の話をすると「だから何がいいたいんだ。結論から言え。お前の話は空想が多すぎる。事実だけを話せ」といわれた。何も答えを求めているわけではなく、ただ愚痴を聞いてほしいのに。以後夫と話すことはなくなった。
     
    ④自分の両親には気遣うのに私の両親には冷たい。
     
    ⑤夫の体調が悪くなったとき「病院に同行して自分の症状を先生に伝えてほしい」と懇願された。日ごろは大きいことを言っているのにこんなときだけ私に頼る。まったく都合がよすぎる。
     
    ⑥家計簿をPCでつけ始め、領収証をすべてチェックし「無駄が多い」と小言を言う。私を信用していない。
     
    この中で共感できるというか、「そういうことはあるな」と感じるのは、③のみであった。自分だけではサンプリングが少ないから、他の部分は「甘えた男の子ちゃんですね」と言い切るのも躊躇われるが、こういう男の実態は生育環境によるのでは?そんな風に感じる。ただし、③について男は愚痴を好まない。建設的な会話の方が頭を思考させられるからかも…
     
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    思うに男は感性重視の会話より、思考重視(理性的)になり易い。結論も求めないその場限りに愚痴など言ったところで意味がないと感じるからあえて言わない。そうである以上、聞く事も好まない。問題意識を提示するなら、そのことについて結論(解決)を求めようとするのが狩猟時代からの男の思考パターンではないか。獲物を逃がした、次は何としてしとめてやるぞ。
     
    男の思考は創意工夫や建設的なものである。一時期主婦の発明が商品化されて、話題になったが、多くは何気ない日常の中から感性的に発見されたものが多い。男の発明は最初から何かを生もうと理詰めで思考していくのではないかと。やはり思考ゲームは囲碁・将棋・チェスなどの例をみても、男の方に分があるようだ。能力と断定するよりも、性差とすべきだろう。
     
    「女はバカだ」と男が思うのは、女の思考があまりに直線的過ぎて、それでは獲物は捕まえられないだろうと、男はあらゆるところに網を張り、細かく思考するのはやはり獲物を逃がしたくないからである。足の速い、体格も大きい、野獣的獰猛性、そんな動物を獲物としてしとめるのは、並大抵のことではないはず。考えないことには一族郎党が飢えてしまう。
     
    と、愚考する。男は思考ナシでは生きていけないし、そういう男は男世界の片隅に追いやられて出番なく存在感も有益性もない。現代は多くのものが組織化されて思考ナシでも誰でも同様の結果が出さされように体系化されている。こういう時代だから人はバカにならざるを得ない。マニュアル症候群といって、マニュアル至上主義、絶対主義に誰も疑問を抱かない。
     
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    マニュアルどおりやらずば、叱られ罰則まで与えられる。あらゆる方面がそうであり、体系化されすぎている学校なんてのは、滅びの道をたどった恐竜と同じになってしまうのでは?の懸念を抱く。「親によって子どもは変わる」が、親を代えるわけには行かない。と、同様に「教師が代われば子どもは変わる」と、クラス担任を代えて子どもが変わった事例は多い。
     
    子どもを持つ親も担任が変わって子どものやるきや意気込みが変わった経験は、自分にもあった。「教師が変われば生徒も変わる」というには、大学の教員過程を終えて教員免許を取っただけでは教師という職業人ではあっても教育者でない、という自制がどの程度の人数の教師にあるのだろうか。日教組が宣言した労働者として人権意識の高い教員が日本をダメにした。
     
    調理師免許を取っただけで料理人といえないのと同じこと。教育者となるべく、料理人となるべく研鑽を積まないことには子どもたちを納得させられる教師にはなれない。顧客の舌鼓を打つ料理人にはなれない。面白いことに男の教師と女の教師はまるで思考が違うし、男の料理人と女の料理研究家というのが、これまた違う。教育全般にわたる包括的思考の違いといえる。
     
    料理に対するロマン、追求性の差は感じられる。男の方が凝り性である結果がこのような差を生んでいる。凝り性であるためには視野狭窄ではダメで、例えば釣りという趣味・道楽も多くの凝り性を生むが、彼らの創意工夫をはじめ、道具や餌に、釣り場のあれこれなどさすがに凝り性といえるくらいの包括的知識を身につけている。身につける必要が凝り性という栄誉だ。
     
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    教育という壮大なロマンに人生を捧げた人物といえば二人の男が浮かぶ。『松下村塾』の吉田松陰と、『トモエ学園』の小林宗作であろう。『松下村塾』の門弟たちと松蔭の師弟関係は、何かを求める若者の熱き思いが偶然の出会いをもたらせたとか、あるいは若者を惹きつけるような志や情熱を持った大人が、その発露としてなにがしかの学び舎開いていたということ。
     
    そういう状況でしか生まれようがないものなのかも知れない。斯くの松蔭のような麗しい師弟関係は、現代の公教育の中でも教師次第で可能だと思うが、日教組のような「教員」ではなく、最低限「教師」という自覚を持った人物が必要かと。現代のような体系化された教育システムとは程遠いが、江戸時代には全国一律の義務教育はない変わりに各藩に藩校があった。
     
    それぞれの藩のお国ぶりや風土を反映した藩校で著名なのは、米沢藩の興譲館、長州藩の明倫館、和歌山藩の学習館、佐賀藩の弘道館、熊本藩の自習館、薩摩藩の造士館などなど。全国に300校くらいはあったという。江戸幕藩体制下における藩校教育の多様性と水準の高さは、幕末に日本を訪れたエルギン伯・ジェームズ・ブルースの『エルギン卿遺日使節録』に述べられている。
     
    「日本には国民教育についてわが国よりもっと広く普及している制度があるようだ。(略)この点に関する限り、彼らが我々よりも進歩していることは明白である」。藩校はもとは藩士とその子弟を対象にした藩直営の教育機関だが、やがて多くの藩校が庶民の聴講を認めていった。『トモエ学園』とは、黒柳徹子の著書「窓ぎわのトットちゃん」に登場する。
     
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    幼児教育研究家の小林宗作が、大正デモクラシー期の「子供中心」の考え方に基づいてつくった幼稚園、小学校(旧制)で、「どんな子供も生まれたときにはいい性質をもっており、それが大きくなる間に、いろいろな、周りの環境とか、大人たちの影響でスポイルされてしまう」という小林の理念を背景に設立された。私塾・私学は、官立とは異なる教育があっていい。
     
    親がその方針が気にいらぬなら子供を通わせなければいいだけだ。目黒区自由が丘にあった『トモエ学園』の規模は、市営電車の払い下げ車両を教室にしていた程度の考えられない小規模で、施設としての不備は多かった。それでも日本で初めてリトミック教育を実践的に取り入れ、「学校」としても認可を受けていた。昭和20年の東京大空襲にて校舎が焼失してしまった。
     
    幼稚園のみ再建され、小学校の部が廃止となる。1963年、小林の死去に伴い幼稚園を閉園、以後休校としていたが、1978年、小林の長男による『トモエ幼稚園』の廃園届が認可され、『トモエ学園』の歴史が完全に終わる。1988年、有志により跡地に以下の記念碑が建立された。出身者は黒柳の他に、女優の津島恵子、同じく女優の池内淳子、物理学者の山内泰二がいる。
     
    「自由が丘 Notre Havre de Liberte Creation 自由と創造の我らが母校。 私たちこの地に学び育まれし者は、ここに行われた教育が、時をこえて生き続けることを願い、恩師への敬愛と感謝の思いを込めて、この碑を建てる。 自由が丘学園/トモエ学園 同窓生並びに関係者一同」。
     
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    「鉄は熱いうちに打て」という諺は誰でも知っているが、果たして心を鬼にしてそれを実践できる親がどれほどいるだろう。子どもを鍛えるのは大人の責任であるし、もっとも身近な親の責任であり、教師の責任といえる。まあ、「うちの子に手を出さないで!」という親もいるから、教師も下手なことできない状況にもある。自分などは直接教師に以下の言葉を投げかけていた」
     
    「教師には期待もしない代わりに、責任も取らせない」と、決して嫌味気分でいうではなく、真顔で談笑気味に言っていたが、これも受け取り方である。何人かの教師がこの言葉をどう受け取ったかは知らないが、確かにこの言葉の後に返答した教師は一人も居なかった。が、「親は子どもに何の権利もない。あるのは義務のみ…」という言葉を驚きをもって聞き返した教師がいた。
     
    「何の権利もないんですか?」、「じゃないの?親孝行をしてくれという権利があるのか?だったら、それを傲慢と認識した方がいい」。教師の返答はなかったが、自分のごく当たり前の親の立場である。親孝行を自発的にするのは結構なことだが、求めるのは傲慢という認識だ。人がどうでも構わないし、大事なのは我が子である。人の認識はどうあってもいい。
     
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    「子どもを鍛える」大人の責任とは、殴る・蹴るではないが、男の任務と思っている。女には「鍛える」という事は向いてないし、人を鍛えるという「男心」が女に分るのだろうか?「鍛える」という言葉に近くて遠く、遠くて近い吉田松陰は次の言葉を置いている。「みだりに人の師となるべからず」。これは教える事もないのに先生、学ぶ事なきに生徒になるなとの教え。
     
    女は群れ、談笑するのが好きな生き物だが、男心的には「孤立」を好む。群れを作る動物はいても、長たるトップは孤独だろう。いや、孤独でなければ部下や子どもに擦り寄ってしまいかねない。勇者、英雄が孤独であるのも、孤立が必要性であるからで、男の鍛えるは孤立を助長する意味がある。「安易に群れるな、孤立を怖れぬ精神力を磨け」と言った人を範とする自分。
     
    「男心に男が惚れて…」と言うのは歌の歌詞である。国定忠治親分を歌った『名月赤城山』の冒頭の歌詞。講談では有名な「赤城の山も今宵限り…」の名セリフがある忠治親分だが、江戸末期の上州(群馬県)国定村に生まれ、やくざの世界に身を投じるも、領民を苦しめる代官を義憤にかられて殺してしまう。その後は、追っ手を逃れて赤城山の山中に子分達と身を隠す。
     
    危うくなると、つてを頼って信州に逃れ、旅の途中に数々の美談を残し、上州に戻ったところを捕らえられて処刑されてしまう。忠治親分の「男心」を伝える逸話は多く、金持ちの道楽息子が賭場にくると、まともに生きるよう諄々と諭して帰した。百姓の息子がやくざになりたいと言ってきても取り合わず、下働きばかりをさせて、諦めて帰るようにし向けた。などなど…。
     
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    これらはものの通りをわきまえた人の行為である。天保の大飢饉の時、賭場の収益金を貧乏人や食うに困っている民百姓に分け与えたりした。そんなわけで幕府に追われる身でありながら、長期間容易に捕まらなかったのは、これらの人に常日頃から目をかけ助けていたおかげだという。任侠に生きる人望厚き渡世人であり、民、百姓が苦しく喘いでいた時代の侠客である。
     
    自身を利さずの利他的な行為に男が惚れるというのはその通り。男心に女が惚れないのは、女は自分を利してくれる男に惚れるからだろう。結婚する前は気前がよいからと惚れ、結婚後に同僚・他者に気前よく驕っている夫に腹が立つと、恥ずかしくもなく投稿する女に笑った。自分には良くても人にはダメという考えがワガママ以外のなにものでないことに気づかぬ女。
     
    男は孤立を強さに、孤独を武器に自画像を画いて生きていくものであって、それがむやみに他人に媚びない男の生き方である。「男心」の中に、他人に媚びるなどの文言などあり得ない。以前、「孤立によって強さを獲得した聖徳太子」のことを書いたが、シナ文明圏からの自立は孤立を意味することであったが、日本は聖徳太子の時代にあえて「孤立」の道を選んだといえる。
     
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    ばかりか、大国「隋」と対等な関係を講じる「強さ」をも獲得した。そんな太子が危険を冒してまで選び取った外国文明からの「自立」はいうまでもない「孤立」であり、それゆえの「強さ」である。今のこの国に必要なのは断然聖徳太子。かつてすべての札の肖像は太子だったが、今、太子はどこにもない。今の日本に必要な太子、再度言う。「太子を墓から呼び戻せ!」
     
     
    「孤立」を恐れ、中韓両国に臣従する愚民国家日本の行く末は、学校と同じように滅びの道を辿る恐竜と同じになってしまうのか。「孤立」を宿命的な男心の論理と解すれば、「孤立」など恐るに足りない。さらなるは、「孤立」に力が備わり、強き「自立」となる。協調、協調と、初等教育過程の呪文言葉を弄すのはいいが、自立なき真の協調などあり得ない。
     
     

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  • 10/29/14--16:55: 「親心」 ①
  • 子どもを産み育てるのがなぜ親の恩なのか、自分にはさっぱり分らない。親は子どもが欲しいから作るんだろうし、ペットショップの犬や猫を欲しいから金銭出して買うのどどこがちがうのか?欲しいペットなら可愛がって育てるだろうし、それのどこが恩であるのか?ペットを育てるのを恩とはいわぬが、人間の子は恩であるのか?別に言うのはいいよ。
     
    思想は別に当たり前に思考すれば、子どもを育てるのは親の義務でしかない。ペットも義務である。金を出して買おうが、人から譲り受けようが、捨て猫を拾って連れて帰ろうが、手にした以上は飼育する義務がある。人間だけに恩が発生するというなら、納得させる意見をいってみろだ。子どもは親が作って産んだ以上、無条件に愛されなければいけないと思う。
     
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    本来はそうであるが、人間は欲だし、見栄っ張りだし、だからか他人と比べて様々な価値に一喜一憂する。我が子が価値を持って欲しいと親が思うのを当然にして「親心」などと記されているが、それは正しい「親心」なのか?物事には正しいと正しくないがある。思考であれ行動であれそうだと思う。厳密に正しいというのは、その人の知識や価値観によって変わる。
     
    だから善悪正誤は難しいが、とりあえずそこの部分に言及しないで進める。親の子どもに対する「無条件の愛」がどれだけ難しいかは親ならわかろうはず。子どもといっても、0歳も5歳も10歳も20歳も子どもだから、「無条件の愛」の行使の必要性をとりあえず幼児期として思考を進める。幼児期に「無条件の愛」が必要なのは、普通の親なら理解しているはずだ。
     
    何をするにも恩着せがましい気持ちなど皆無で育てるからこそ、子どもは親の愛を一心に受ける。幼児期に「無条件の愛」に恵まれるか、恵まれないかは、子どもの情緒の成熟に大きな影響を及ぼす。くらいは知ってる親もいるだろう。知らない親は乳幼児期から無慈悲な言葉や暴力を振るうと思われる。人間はまず始めに愛されることが必要である。
     
    幼児期に「無条件の愛」が必要なのは、他の子どもと比較をせずに我が子だけに価値をしぼって育てることが大事だからだ。が、そそっかしい親は2歳児、3歳児のころから、他の子どもと比較し、子どもに伝えたりする。こういう親はどうかと思うが、そういう性格の人間が親になれば当たり前にそういう親になる。ところが、育児書で知識を得て修整する親もいる。
     
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    正しい子育てを願うなら育児書で知識を得なければ、正しい親にはなれないはずだ。よほど徳に恵まれた親なら育児書は不用かもしれない。人間というのは誰でも心の底で、自分がどの程度の人間であるかを知っているはずだ。さらに奥の奥を探れば自分の醜さ、ズルさも知っている。それいう醜悪な自分を受け入れている人間と、自身に批判的な人間とがいる。
     
    育児書を手にする人間は、自身の親業に真っ当な不安を感じているんだろうし、そういう心の奥底で本来の醜い自分、ダメな自分に気づいている人間は客観的な自己評価を持った人間である。言い換えると自己評価の高い人、心理的に安定した人である。心の底で自分の醜悪さを感じていない、あるいは蓋をしてる人は、自己評価の低い人である。
     
    本当の自分を誤魔化さず、目をつぶらず、受け入れられる人はなぜそうできるのか?醜悪な部分に蓋をし、受け入れようとしないのはなぜなのか?それは、その人が幼少期に重要であった他者が、実際の自分を受け入れたかどうかによる。というのが心理学的分析である。重要であった人は多くの場合親である。子どもの時に親があるがままの自分を愛してくれたか?
     
    何事も他人との競争意識の強い親であったか?そういうことが子どもの成育に大きな影響を及ぼすのだ。あるがままの自分を愛してくれた親に育てられると、その子どもは自己評価を高くするし、自信を持つ子どもに育つし、心理的な安定がその子どもを真っ直ぐに成長させる。重要なキーワードは、「自分が受け入れられる、愛されるとは、他者と比較されないこと」
     
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    他者とはよその子に限らず、同じ屋根の下に同居する兄弟・姉妹も含めてである。親の視点は、この世に自分の子よりも優れた人物、強い人物がいるのを知っている。兄弟と比較すれば、種々の能力差、違いはよく判る。そうであっても、比較もせず、分け隔てることもせず、我が子を愛する親は、その子の怯えや不安を増長させないし、自信をつけていく。
     
    自分が自分であるから愛されている。そういう感情を幼児期のうちから感じとることができるかが、その子の自我形成に甚大な影響を与える。まあ、教育書に書いてあるこういう事も知らずに親は子育てをする危険に満ちている。子どもが無条件に愛されるというのは、優れているから愛されるのではない。優れているから愛されるというのは実は危険に満ちている。
     
    なぜなら、愛されるためには優れていなければならないという反動ストレスを子どもが感じてしまうとどうなるだろうか?その子は強いこと、優れていることに強迫的になるし、自ずと強く優れている事を自身に求めるようになる。映画『さびしんぼう』の中で息子にショパンの「別れの曲」を上手く弾くよう押し付けていた母親が、ある時こんな事を言って息子を抱きしめた。
     
    「でもね…、今の母さんは、勉強がキライで、『別れの曲』を下手くそにしか弾けない、ヒロキって子が大好きよ。」
     
    なんとも微笑ましい言葉であることか。こんな親からいい子が育たないわけがない。こんな母に努力してなれるのだろうか?もちろん、この母が素敵な母だと思った女性はなれるかも知れないが、多くのものを捨て去り、純粋にあるがままの子どもを愛するのがどれだけ大変であるか。だから、こういう女性(母)は、天性の資質(愛・無欲さ)を持っている人ではないのかと。
     
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    女のセルフイメージの高さは男に比べて一般的に高いと言われているが、決してよいばかりとも言えないのがセルフイメージである。「今の仕事、環境は、私ほどの人間には見合ってない」などと、ちょっとしたことでプライドが傷つき、いつもプリプリと怒っていたり、欲求不満であったり、いわゆる困ったお姫様状態の女性も多く、周囲も扱いに困ってしまう。
     
    そういう女性が母になり、子どもを持ったとすれば…、後は想像すればよい。ようするに、自身のハードルを上げすぎているのだが、本人は気づいていない。ちょっとやそっとでは直らないし、つける薬もないゆえに、危険な母親と自分はみる。「慈母」という言葉は慈愛に満ちた母親ということだが、「地味」を良しとする女性は慈母の資質を有しているのではないだろうか。
     
    バッグや洋服に派手好みの高級品志向の女性はセルフイメージが高い。自分の女選びの要件は一貫して地味女性で、派手好みは徹底避けた。大好きで結婚を考えた女性も月に2回は美容院に行きたいというのを聞き、即座に候補からはずれた。地味が嫌い、派手好みが好きという男は多いが、大概において自己顕示欲の強い男である。類は友を呼ぶのだろう。
     
    質素で地味を飲む女性の欠点はなかなかみつけにくいもの。親が派手好みなら子どももそうなるだろうが、そういう親を反面教師にする子もいない訳ではない。虚飾に憧れない自分を愛し、そういう生き方をする人なら分かると思うが、自身に無理をせず、自然にふるまっていながら、そういう自分が相手から愛されていると実感できるのは何と言う安らぎであろう。
     
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    「自分が自分だから受け入れられ、愛されている」を実感できたなら、これこそが本当の意味での愛であろう。子どももそのように感じるはずだ。親や恋人からの愛を維持するために、自分に無理をする必要もなく、強く優れていることを証明する必要もない。決して相手は自分に何ものも求めていず、自分と言う存在そのものが相手に満足を与えている。
     
    そういう本質を求めていた自分は、恋愛においても親子関係においても、「物」を介在させないようにした。物欲の強い女性には、その性癖をよくないことと理解させるような言動に努めたものだ。物を欲しがらない女性の欠点を探すのは大変である。そういう情緒の安定した女性は自分の心の安定させる。幼少期から母親の情緒障害に苦しんだ反動だろう。
     
    昨日と今日で言う事が変る、さっきと一時間前とでは変わる、そういう女といるのは耐え難い。渡辺淳一はその著『解剖学的女性論』で、"生理に支配された女性の情緒不安定を男は理解すべし"と述べており、そこを踏まえても限度がある。金も力も何もない自分であっても(仮に持っていたとしても、それを誇示しないでいれる)愛してくれる女性が理想であった。
     
    学業成績がよいから親に満足を与えている。高学歴で大企業勤務だから恋人に満足を与えてる、お金持ちだから、イケメンだから、気前がいいから…そんなのが本当の愛であるはずがない。「金の切れ目が縁の切れ目」という諺は、女性のしたたかさ、醜悪さを表すものだ。親から無条件に愛されなかった子どもは、大人になっても他人の優れた部分を妬んだりやっかんだりする。
     
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    そのような子どもには育てないという理念・信念が親にあればいいのだが、何度もいうように無知で親になる我々は、教育書を頼るべきである。「親心」とはそういう屈折した心の子どもを育てないことではないか。「親心」を「親バカ」と同義に使う人は多いが、自分は「親バカ」=「バカ親」だと思っているから、「親バカ」という免罪符は自身に認めていない。
     
    自分の娘の孫への対処を見ていると、小学生の頃から勉強、勉強、学校の成績にかなり入れ込んでいた。かといって塾に行かさないのは、父(自分)を慮ってのことか、だから空手、水泳、パソコン教室には通っている。「勉強は学問じゃないんだよ」と言っても小学生の息子を持つ母親には理解できない。教科書にあることを全部覚えて、いつも100点を願う親。
     
    世界の国の首都、日本の県庁所在地を覚えるのがどうして学問なのか?教科書を丸暗記したらそれで偉くなれるのか?勉強は教科書に書いてある事、学問は教科書を否定すること、だから教科書なんかに頼っていてはダメ。誰も気づかぬ事を考えたり発見したりが重要であるのが小中高の子を持つ分らない親に、「勉強はくだらん無駄なこと」と口癖のように言う自分だ。
     
    まあ、短絡的にならずとも教科書の記述を覚えるのも知識である。あまりムキにならぬように学ばせればいいと思うが、世の親という生き物は、子どもが勉強しない、あるいは成績が悪いと面白くないらしい。自分の父は一度たりとも「勉強しろ」といわなかった人だったが、幼少時期に母から拷問のように書き取りなどされていた息子を忍びないと思ったのか。
     
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    なぜ「勉強しろ」と一言も言わなかった理由は終ぞ分らなかったが、父の大らかな心けは受け継いだ。踏襲というより、子に「勉強しろ」といわなかったのは、教科書覚えて100点というのが、本心でくだらないと思ったからでもある。どんな問題を出されようと、人より早く答えが出せるようになるためには、受験勉強を相当広範囲にやっておかないと無理。
     
    ほどほどに知っておけばいいようなことでも、高得点を狙うとなると、「人生に意味のない」ような、重箱の隅をつつくような問題を想定し、かなりの時間を受験勉強に費やす必要がある。して、勉強できると周囲や皆に褒められる。親からも教師からも同級生からも、褒められる。するとその子は周囲の期待を常に意識し、優等生を演じなければならなくなる。
     
    いわゆる「良い子」を演じるのだが、この悪循環を断ち切れた子どもは救われる。親の考えどおりにならない子を憎み、嫌味をいったり仕返しのようなことをする親がいるが、こういう親はまぎれもなく自立を阻まれた人間、子ども気質が抜けきっていない人間だろう。子どもが大人になっていくためには「親離れ」、「子離れ」が必要だというのを多くの親は知っている。
     
    イメージ 8そこには大きな誤解もある。互いが反目しあって冷えた関係が続くと収拾つかなくなる。親の敷いたレールに乗らなかった子どもも、その生き方を認めた親も、大人同士の交流がなされなければならないが、大人になりきれていない親は大人の対応が出来ない。そのしわ寄せ一切が子どもにのしかかる。子どもを攻撃する親をもった憐れなこどもたち…。
    子どもを塾に押し込んで成績が上がらないと小言をいい、罰を与えるような哀しい親になる意味があるのだろうか?そうすることが子どものためと本気で思っているバカな親は、偏差値の高い大学に入りさえすれば、あとはなんとか"人並み"に生きていけるだろうと思い込んでいる。高卒、三流大卒の親は"人並み"に生きてはいないということなのだろう。
     
    優等生ほど自立し難いというのは、親や周囲の目を意識するあまり、「良い子」の呪縛から逃れられないからだが、成績至上主義環境による、無個性人間となってしまった実は被害者である。遊びを通して人間に個性は備わるように、いわゆる"青白インテリ"という秀才タイプに個性無き人間は多い。個性は雑多な遊びや多くの人間関係を通じて身につけるもの。
     
    「這えば立て、立てば歩めの親心」という諺を自分は好きでない。"我が子の成長を待ちわびる親心"というなら共感もするが、人より強く、人より高く、人より多く、人より美しく、という欲にまみれていく親の犠牲になる子どもは、生まれてくるところを間違った憐れな子どもに見えてしまう。親の純粋であるべき「願い」が、「欲」かどうかを親は自問するしかない。
     
     

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  • 10/30/14--17:27: 「親心」 ②
  • あらためて言うこともないが、自分の「親心」は少数派である。普通、親は子どもに人並み以上の能力や技能に心を寄せるが、昨今は、能力や技能を早期教育で子どもを"しこむ"ことによって習得させるのが、一般化・常識化している。ある有名私立高校を退職した校長がこのように言う。「受験戦争といわれる時代のどこに真の問題があるのか分りますか?
     
    かつては東大に入ってしかるべき子どもがごく自然に東大に入っていたものですが、今は違う。小学校からひたすら受験技術の訓練を受ければ入れてしまうのです。その辺が妙に怖ろしく、感じられてなりませんでした」。同じ資質の子どもが二人いて、片方は勉強漬け、片方は普通に暮らし、どちらか二人が一人しか入れない椅子を争えば答えは明らかだ。
     
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    それを優秀といい、勝ち組というのか?受験の勝利者は人生の勝利者となりうるのか?そんな風に思う親も、全然思わない親もいる。「勝ち組」というのは流行り言葉としても、そもそも人生の勝利者が受験の勝利者などと煽る進学塾のキャッチフレーズに煽られ、夢を見ている親がいるだけだが、セルフイメージの強い親の一流校志向を責めることは出来ない。
     
    よくよく考えてみれば、入社試験の成績が良いものが希望の会社に入れるわけでもないからして、受験地獄の絶望的な障害というのは、卒業・就職の地点にある。かつて日本の多くの企業が犯した罪は、人事担当者たちの、自らの人物鑑識眼によって会社の将来を託す人材を手間隙かけて選び出すことなく、出身校という「色」であっさり決めてしまっていた事。
     
    人事担当者は「そんなこと知ったことか」と言うだろうが、人選びの労を厭って採用した「指定校制度」は、見方を変えれば人材選別における、"手抜き犯罪"とでも言える所業である。先の校長はこのように指摘する。「勉強には向いていないが、別の面での素晴らしい資質や才能ある子を、中・高卒業のところで受け入れてくれる、そういう受け皿が必要でしょう。
     
    今は、ダメな子ほど大学に進む必要性を感じます。そうでもしなければその子は一生浮かばれない人生を送ることになるのでは?という恐怖が親にあるから目の色が変わるのです」。片手間な人材集めだけが企業の凋落とは言えないが、夢にまでみた大企業に入社し、結婚して家族を得て、住宅ローンで住家も得て、その揚句リストラにあった多くの人たち。
     
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    当然ながらローンは払えない。せっかくのマイホームを手放し、競売物件として売りにだされ、別の持ち主に渡ってしまう。受験地獄という言葉もローン地獄という言葉も文明の進歩に伴う「負の遺産」である。「負」とは人間が正しく生きていないということだが、それでも人類の発展と称して留まるところのない「進歩」という、人間の飽くなき欲望である。
     
    人間が欲望の塊であるのは否定できないにしても、欲望や欲求がなければ進歩も発展もない。欲望は目標と名を変えられるし、その目標をどのように自身にプラスにしていくかであって、やみくもな欲望ばかりを持つべきでない。家庭を持ち、子どもを設けたなら、子どもへの欲望も目標と置き換え、偏ることのない視野の広い子育て目標を持つのが大切だろう。
     
    目標がない人は何かのせいにする。例えば仕事においても、自分は頑張っているのに会社は評価をしてくれない、上司は理解をしてくれないなどと不満を言う奴は多い。会社や上司からの視点で眺めれば頑張ったとか、努力したとかの評価を求める方がオカシイ。問われているのは成果であって、そこを理解し、目標に向かってイノベーションを起こす。
     
    戦後の復興といわれ、日本は豊かになる事を目標に頑張ってきた。個人も企業も絶え間ない努力を惜しまなかった。ところが、豊かになるといろいろな矛盾点や問題点が噴出してくるし、そうなると新たなビジョンを掲げるしかない。国が悪い、行政が悪いといっても始まらない。何かのせい、誰かのせいにするより、常に自己否定から成長していくしかない。
     
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    「子を持って知る親の恩」という言葉がある。「恩」の是非はさて置き、昨今の状況は、「子を持って知る親の欲」ではないか。自身に欲を持ってアレコレ頑張るならまだしも、子といえども他人である。親だからと傲慢に割り込み、アレやコレやと無理強いするのは子どもにとって大きな負荷となる。子どもに負荷を与えて親が満たされていいものだろうか。
     
    由緒正しい(?)親もいるのだろうが、経験からして自分の親が子どものために一生懸命と感じたことはない。巷の親は「何も言わなかったら勉強なんかしないでしょ?」という。だからか一日に何度も繰り返す?「勉強しなさい」は1回言えば分るだろうに?何回も何十回も言う事で一体効果があるのか?ある親に聞いたら「クセになっているんかも」と言っていた。
     
    現在の日本の教育制度も未だ偏差値重視の名残りの中で、ひとたび落ちこぼれてしまった子供たちが生きていくのは難しいのか?偏差値に落ちこぼれたことで、すべてがダメだと思っている人間に問題があるなら、そこに立ち入る「親心」がある。親は子どもに力を与えるべきで存在だが、ちょっとした子どもの好奇心や、行動力の芽を摘むような親が多すぎる。
     
    親は子どもに世間の価値観とは異なった夢や希望なりを子どもに語れるのだろうか?そういう想像力が親にあれば、自分の進む道を見失い、無気力になる寸前の子どもを救うことができるし、それをしてやれるのは親しかないし、それを自分は「親心」と捉えている。「這えば立て、立てば歩めの親心」に殉じれば、「転べば起き、起きて進めの親心」である。
     
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    挫折はしても崩壊しない、崩壊すれば蘇生を願うことこそ親心。そんな風に子どもの苦しみに力を貸せる親が理想の親ではないのか?失敗経験は人の免疫になるから、失敗をごまかさず、慰めず、徹底的に失敗に向き合い、とことん味わい尽くせばいい。結果には必ず原因(要因)があり、そこを徹底的に自問することの方が自らを慰めるよりはるかに重要だ。
     
    今の自分は確かに不幸であるけれど、永遠に不幸とはならない。そういう気持ちを「希望」という。先は見えずとも「一歩」は踏み出せるし、どこかの何かに自分の幸せを定義づけて進まないと何も手に入らない。絶対に受かると思っていないと面接には落ちる。あやふやで不安な気持ちはどうしても態度に現れる。だから絶対に受かるという気持ちが大事。
     
    それでも落ちるものだが、最大努力した結果なら足りない何かがあったと考え、せめて気持ちだけでは負けないこと。自身を信じていればプラスの力が生まれるはずだし。「何をやったって生きていける」という雑草的強さは、青白インテリには育たない。確信が持てるまでさまよえばいいし、若い人の先はまだまだ長いのに、悲観的な人間の言葉は聞いていてだるい。
     
    「親心」などと、言葉にしていうのは簡単だが、実践に即して結構難しい問題もある。一人っ子や二人っ子と、我が家のように4人姉弟では状況も変わってくる。「我が子には平等に対等に接している」という親は多いが、誰にも同じようにという平等は実は平等ではない。子どもは個性も違えば性格も年も違うのに、同じにするのが平等であるはずがない。
     
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    一家で食事に出かけたときのこと。長女中2、次女中1、長男小4、三女小2であった。マックとケンタに意見が分れたが、長男は断固ケンタを主張、女3人はマックで折り合った。すると長女が長男に「あんたワガママでしょう?一緒にしたら!」。言われた長男は不満ながらも同意した。自分はすかさず、「お前一人で食べるならケンタで降ろすぞ?」と問う。
     
    長男の喜ぶさまをみながら、(男の子だな!)と思った。一人でも好きなものを食べるなら食べたらいい。女の子はできないことでも男はやれる。女姉弟の中で育つと男の子らしさが損なわれる。金を渡し長男をケンタに降ろしたのは、つまらぬ平等よりも男子教育だ。近年男が女性化したのは、教師に女性が増えたことと、父親の権威喪失という指摘もある。
     
    男は男が育てるべきだ。正義感は親が子どもに公平であれば育つが、兄弟が多いと子供同士で自治も芽生える。幼少期の子どもは自分のことしか考えないが、兄弟という暗黙の序列の中で自然に自治が生まれ、相手を思いやる心に発展していく。犬は飼い主の序列をしっかり把握しているが、子どもも同じように、両親の関係(序列)をシッカリ心に刻んでいる。
     
    子どもにとって最低な親は信用できない親だ。子どもは親と交わした約束をよく覚えており、親は約束を守ってくれると信じている。だから子どもは親の嘘に手厳しい。信頼関係を失った親子はそれが回復することは困難ではないか。親とは何?は三つの視点がある。親自身の視点、子どもからの視点、第三者の視点、これらどれも親であるが、どれも違う親。
     
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    親がもっとも苦手とするのは、子どもからの視点の親ではないだろうか。そんなこと考えてない親が多い気がする。だから、成績が悪いからと携帯を取り上げたりできるんだろう。こどもの何かを取り上げるというのは、自分が頻繁にやられたからか、これほど卑劣なことはない。取り上げたら勉強をすると思ってるとしたら親の考えは甚だしく幼稚である。
     
    テスト結果が悪かったことの罰則だろうが、親と言うのはずいぶん勝手なことをするものだ。子どもの携帯の盗み見は半ば常識みたいにいわれるが、我々の子ども時代に携帯はなく、変わりに封書開封は許せなかった。見るだけではなく捨てるわけだから、これほど子どもを愚弄する親はそうそういまい。子どもの携帯をみたばかりに、苦しむ母親の例がある。
     
    「高校3年の娘を持つ母親です。昨晩、娘の携帯電話を悪いと思いつつ見てしまいました。主に見たのはライン、メール、スケジュールです。そこで出会った男性と毎日エッチしていることを知り、驚きを隠せません。相手は1人ではありません。20人はいると思われ、スケジュールには毎日男性の名前が書いてあり、休みの日には、2、3人の名前もありました。
     
    娘が携帯電話を新しくした3ヶ月前から予定は埋まっていたのでそれよりも前から続けているのだと思います。相手の男性は20代前半から30代後半で既婚の方もいました。お金は貰っていないようです。しかし高校生の娘に手を出すなんて犯罪ですよね。警察に相談したほうがよいのでしょうか。このご時世どんな事件に巻き込まれるかわからないし病気や妊娠も心配です。
     
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    ゴムは必ずつけていたようですが心配でたまりません。しかし私が勝手に携帯電話を見てしまった手前娘に言い辛いですし、親にこんなことを指摘されたら娘は深く傷つくと思い、すぐに言うことができませんでした。娘に何と言うべきでしょうか。今すぐ言って叱るべきでしょうか。それとも、性依存症などのことも考え心療内科などにかかって様子をみるべきでしょうか。
     
    警察には言わなければならないですか?私は娘のことを思うと大事にしないほうがよいと思っています。親子関係は良好と認識でいます。友達と喧嘩した、先生に怒られた、好きな人ができた、振られたなど、よく私に報告したり、相談してくれます。親子喧嘩をしても暴力を奮うことはありません。娘は気が強く小学生の頃はよく男の子をいじめていました。」
     
    という母親の苦悩だが、最後の部分、「親子関係は良好、友達や先生のこと、好きな人ができた、振られたなど、報告、相談してくれる」とあるが、このような全国的に見ても稀有としかいえない高校生の娘に育てた原因はあろうし、すべては親の責任である。ここまでなって、どういう対処が相応しいかの正解はないし、どうするもこうするも、この親の力量である。
     
    すべてをあからさまにして注意したところで、子どもは憤慨するだけ。自分の行為云々より、親の行為を責めるし、以後、信頼関係は一気に失せる。母親が娘と自分の信頼関係を壊した、裏切ったと思うのは勝手な言い草で、娘が母親と虚構の親子関係を演じていたに過ぎない。友人や教師などのちゃちい相談をしていればマヌケな親は喜んでいると見ていたようだ。
     
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    娘は親用の自分を演じていただけだし、この母親の性格の緩さ、天然ぶりからして子どもにうまくあしらわれていたという母娘関係でしかない。何を言おうが、どういう行為をしようが、「今さら…」でしかなく、携帯を見なかったことにして今後も虚飾の関係を続けるしかない。事が事だけに行動は危険だ。携帯を盗み見という行為からして、そういう親が何を言ってもダメ。
     
    そういう信頼関係を損なう行為は子どもの怒りをかうだけ。そんな尊敬も信頼もない親からどんな助言をされたとしても、子どもが聞き入れることはない。非道な手段で得た情報は胸にしまっておくしかない。今となってどうすべきかは難しい。やってる事を即刻止めるような名案はないだろう。薬物中毒者が病院に隔離されなければ治療できないと同じこと。
     
    どう対処するか、娘の性格を最も知ってる母親が請け負うしかない。母親が自らの命と引き換えるくらいの真剣さで、「あなたが今やってることを即刻止めてくれないなら、お母さんは命を捨てますよ」くらいの体を張っての本気度なら伝わるかもしれない。が、「死ぬなら死ねば…」といわれたなら、それが今日までの母娘関係の真実だったということだ。
     
    "うつけ"と不評の信長を諫死で訴えた平手政秀。平手は信長の幼少時期からの守役である。どうにもならぬことを変えるには、死の覚悟が必要だったのだろう。それくらいの気持ちがあるのかないか、ネットで見知らぬ他人に悠長に相談する程度なら、放っておけとしか言いようがない。「死ね」と言ってるのではない、親の子に対する覚悟を問いたい。
     
     
     

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  • 10/31/14--08:02: 「親心」 ③
  • 「父心」、「子供心」、「女心」、「男心」、「親心」について能書き垂れてみたものの、「母心」については書けないでいる。自分に母親はいるが、「母心」という御利益は預かり知らぬところで、だから書けない。母心って、"指圧の心"か?御利益と書いたが「母心」とは愛である。母の愛を供与をされないで育った自分はどこか性格的な欠陥があるはずだが、自分の事はなかなか分らない。
     
    母の愛に包まれて育っていたなら、自分はどんな人間になっていた?それを体現することは不可能だが、米国の精神分析学者E・H・エリクソンは、乳児期の発達課題を「基本的信頼」と呼んだ。「自分は見捨てられていない」、「ここにいていいんだ」、「自分には価値がある、受け入れられている」という基本的な信頼感を、乳幼児は求めていると指摘する。
     
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    エリクソンの「基本的信頼」の考え方は、英国の精神医学研究者ジョン・ボルビーの「愛着理論」に通ずる。ボルビーは、44人の非行少年の生い立ちを丹念に調査したところ、その子供たちは例外なく6歳ぐらいまでの幼児期に親に捨てられていた。ボルビーは親に捨てられるという別離体験が、思春期の子供の行動系を歪ませるという説を打ち出し、「愛着理論」の出発点となる。
     
    非行に走った子どもの母親が、「子育ては精一杯やった」と言うなら、この母親は自己不在である。その子に相応しい育て方をしたか?いや、していない。もし、していれば、自分と子どもに心の触れ合いがあるはずだ。相手をしっかり捉えていない、あるいは見ないでなされる献身は表面的には優しくみえても、表面的であるだけに何の意味はない。時には有害でさえある。
     
    「ぼく、生まれてきていけなかったの?」3歳になる息子がある日布団の中で突然、母親に言った。子どもは何を言い出すか分らない。母親は驚いて「どうして、そんなことを言うの」と聞き返した。息子はこう答えた。「だって、ママはいつも子どもを育てるのは大変って友達と電話で話してる。子どもがいて自分の自由な時間がないって。ぼく、お母さんに迷惑をかけているの?」
     
    ママ友同士の他愛ない会話でさえ子どもはこのように思ったりする。子どもの精神の健全発達のためには、少なくとも一人の養育者との親密な関係が必要であり、それが欠けると、子どもは社会的、心理学的な問題を抱えるようになる。逆に、養育者を信頼し、愛着への欲求を満足している場合は、幼児は不安を忘れ、自分の遊びに集中したり、周囲のものに好奇心を抱く。
     
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    これが幼児の知能的な発達をもたらす。ボルビーの説が紹介されると「3歳までの子供は親と一緒にいることが大切」と、乳児院や小児病棟に母親の付き添いや担当保母の制度を導入するなど、大変革を起こした。現在『愛着理論』は世界的に定着している。イギリスの詩人ワーズワースは、「子どもは人の父である」と言った。どんな子どもに育つかでその子の将来が決まるということ。
     
    完全に真実というわけではないにしろ、幼年期が人間の基礎的期間として重要なのは判っている。愛情の欠けた人というのは、自分自身のもっとも基本的な欲求において挫折させられた人だろう。愛情を知らなければ愛することはできない。親から愛されずに育ったひとは、愛情飢餓感から他者への愛を求める傾向にあるといわれるが、自分の場合は反動形成にあるかも知れない。
     
    というよりも、得れないくてもいい、得ている確信があまりもてない風になってしまったのかもしれない。つまり、他者からの愛の供与は求めない、なくてもこちらからは与えて見せるということか。他人から物をもらうのが好きでないのは、愛は物ではないという、疑いなき本当の愛を求めているのかも知れない。愛に対する欺瞞と用心深さなのか、自己心理分析は分らない。
     
    『愛を乞うひと』という映画は見終わってショックだった。母親から愛されないで虐待を受けながらも、それでも親の愛を求める子どもが余りにイタイケだった。自分は「もういい、母など要らない」と自らに言い聞かせ、親にも公言したが、親は踏ん切りがつかなく、ありとあらゆるやり方で抱き込もうとした。映画の主人公は、遂に母の愛などもう要らないとケリをつけ、哀しく泣いた。
     
    イメージ 3最後に母親に会い、これが今生の別れと思うに至った時、バスで大泣きした娘の心中は理解できた。幼少期の我が娘に愛の欠片も見出せなかった母は、成人した娘に心を通わせることの出来ない歪な人間であるのが分かった。母に憎まれていたわけでも嫌われていたわけでもなく、このひとは心から人を愛することのできない、氷のような人間であったと、それを悟った涙に見えた。
     
    氷はいつしか融けて水になるものだが、過去を水にながそうとの一念を胸に母を訪ねた主人公であり、我々も過去は過去として、母と娘の融解を期待したが、「融けない氷もあるんだ…」と、母の心は怖ろしいほどに凍りついたものだった。血を分けた親、自分を産んでくれた母は、もはや永遠に心を通わせることの出来ない人だと分ったときの悲痛な涙である。
     
    娘の心は残念、無念であった。「残念」とは「念」の残った状態を言う。「無念」とは「念」の無い状態を言う。非情なまでに娘に心を融かさない母の心情も理解できた。幼少期に娘を殴る蹴るのトラウマは、加害者側にも消えて残らないのだろう。過去の自分を過ちを恥じ詫びる人間もいるが、それすらできない母への絶望感が、母との離別を決意させた哀しい映画である。
     
    こういう心ない母親もいれば、近年はいささか子育ての本質からズレた対処をする母親もいる。実際に目撃した事も多く、そういう親は自身が同じような家庭に育ったのだろう。例えば、子どもが転んでひざ小僧を擦りむいて泣き出したとき、母親がバッグからチョコレートなどのお菓子を出し、「これをあげるから泣くの止めなさい」と、これが今時の躾なのだろうか?
     
    子どもにとっては膝の痛みをなんとかしたい、そこに配慮や心配や、そういった愛情を向けるべきところなのだが、お菓子を上げるから泣くのをやめなさいというのはそうなんだろうか?子どもの親に対する感じ方は、泣きやめば褒められる。泣き続ければ叱られる。これをどう解釈していいのか?物の豊富な時代の子育て手法として、親も自身の親から伝授されたのか?
     
    イメージ 4以下の事例もある。高校も塾の成績もいいし偏差値も高いからと、医学部受験を塾の方から勧められる。これは塾側の都合(宣伝)も大なりで、進路を偏差値で決めるケースは特別珍しいことではない。とにかく希望の大学に入学できればいい。医者という職業に憧れるとか、好きだというよりも、医者になれば経済的に有利という考えもある。そして医者になってみると、「病人ばっかりで嫌になる。つまらない」と愚痴をこぼす。当たり前だろう、医者なんだから病人しかこないのは…。医者でありながら病人を診るのがつまらない」って、「?」というしかない。なまじ学力がありながら"自由"を享受できない人間なら、成績は悪くても自由にいきる人間の方が人間らしい。「自由」とひと口にいっても、主に3つに分けられる。
     
    「世間からの自由」、「経済からの自由」、「未来からの自由」といったところか。「世間からの自由」というのは、他人の目を気にしないということ。「あんなことしては笑われる」、「カッコ悪い」などと世評や他人の目が気になる。「経済からの自由」とは、経済的な豊かさは重要だが、経済というのも"満足"を得るための手段に過ぎない。まずは好きな事をやってみる。
     
    お金がかかっても好きならやったらいいし、たまたま好きなことにお金がかからない事もある。本当に好きなことなら上手になり、収入を得られるかもしれない。が、それを目的にするのは好きなことが嫌いになったりするから一長一短だ。「未来からの自由」とは、何やら資格を取って将来に役立たせようという発想だが、実はこの考えは今を楽しむ意識が薄れ、義務的になる。
     
    好きでもない資格をいくつ取ったとしても、自己満足でしかない。おカネが稼げるかどうかは二の次、三の次で、好きなことに生きた方が人生楽しだろう。即物主義的思考はバブル崩壊後に「清貧の思想」へと移行した。現在のような、苦しい不況にあえぐ時代こそ、心や絆、個を大切にすべきかと。無理して、見栄を張って、子どもを私立に入れたい時代は減衰しつつある。
     
    「親心」も不況には敵わないのか、大学中退者も激増しつつある。「大学でてそんな仕事やってるんか?」などと言われっぱなしの時代もあったが、近年は就職戦線は持ち直しつつある。50年前は、うちの息子は頭悪いから調理師でも、大工、左官にでも、娘は美容師にでも、看護婦にでもという時代に真の「親心」を見る。塾などない時代、子どもの学力を知るのは親であった。
     
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    「好きな事をやれて生きて行く」のは幸せなことだろう。仕事に限らず、人は好きな事をやれると思うのだが、「好きなことが何か分らない」そういう若者は困ったものだ。高齢者にとっての幸せな社会とは何だろうか?かつては子どもや孫に囲まれた日々団欒であったが、最近は親と同居する子どもは少ない。近年、高齢者の幸せとは、日々の楽しみと誇りを持てる社会。
     
    時代小説の名手といわれた藤沢周平は「普通が一番」が口癖だったという。藤沢の長女である遠藤展子は、『藤沢周平 父の周辺』(文藝春秋)の中で、父周平を「偉大なる普通人」という。藤沢の小説には上級武士よりも下級武士、権力者よりも非権力者、操る者より操られる者の視点によって書かれているものが多い。それは藤沢自身がそういう普通人であったからだ。
     
    「父の口癖は『普通が一番』でしたが、普通を続けることがいかに難しいかと言っていました。今日の幸せが明日どうなるかわからない、何が起こるか分らない、だから何も起こらず普通でいられるのはとても幸せなことなんだと。私がああしたい、こうしたいというと、そんな不満ばかり言ってないで、今ある幸せを見つけなさい、とよく言われました」と展子は言う。
     
    展子が失恋して家で泣いてばかりいたことがあった。「そんなある日、父が散歩に誘ってくれたんです。父が前を、私が後ろを歩き喫茶店に入りました。そこで父は、「実は昔、お父さんにも結婚を約束した人がいたんだけど、叶わなかった」と。そして、「人生、思い通りにならないが、お母さんと結婚して展子が生まれた。そのお母さんが亡くなり、今のお母さんと出会った…。
     
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    寡黙な父でしたがあの時は『親心』をひしひしと感じました」。藤沢は1997年1月26日、肝不全のため東京の病院で逝去した。藤沢の遺書の冒頭の一行に、「展子を頼みます」と書かれていたという。前妻の子とはいえ、一人娘を何より思いやる気持ちが最初に現れていた。周平が69歳で逝去したとき、展子は34歳であった。自分の父66歳で逝去、自分は31歳であった。
     
    親は子に何を託しながら死んで行くのだろうか?臨終の場に自分はいなかったが、子を残して親は去っていくのが宿命である。その場で思うことといっても、「まあ、元気で暮らせよ」くらいしかないだろうが、34歳の娘に「展子を頼みます」という遺書をしたためた藤沢の生真面目さ、自分にはそんな発想はない。が、現在こうして日々ブログという遺書を綴っている。
     
    熱い「親心」もあればキツい「親心」もある。杉村太蔵は6年間通った大学を中退し、就職活動も上手く行かず実家に帰ろうと父に電話をしたところ、「働かないなら死ね!」と叱責されたという。このひと言で尻に火が付いた杉村は就職活動を開始。書類選考や面接で何度も落とされながら、ようやく時給800円の清掃員の仕事につくことができた。
     
    イメージ 7つまり、杉村も父から社会に放り出されたのだ。「今では父に本当に感謝しています。父のひと言がなければ、今のぼくはなかったかもしれません」と振り返る。餌を与え、寝る場所を与え、一日中家でゴロゴロのニートの親は、我が子が可愛くて仕方がないのだろう。社会では通用せずとも、家の中では何ら問題ないニートの息子を養う、これも親心である。
     
    「いちばん悪いのは彼らの親です。食べるもの、寝る場所があれば、働かなくても済んでしまうわけです。これは家庭で取り組むべき問題です。親は一切の援助をやめて、子供を社会に放り出すべきです」と杉村は言う。その通りだし自分も同意見だ。が、杉村や自分が言わずとも、そういう親ならさっさとやってるだろ。杉村の父のように、「働かないなら死ね!」と、深い親心で言うだろう。
     
    自分だって働かない子どもを家になど置いておくはずが無い。結局、ニートを作っている親は、緩く甘いから自宅にニートが存在しているわけで、だから他人がいくらニートの親に正論説いても無理だろうよ。あとはニート予備軍の息子らを持つ親がどうするかだろう。どちらの「親心」がよいのかを、シッカリ親は考えてみることだろうな。それしかないよ。
     
    さてと、身体が年をとれば必ず精神も年をとるというわけではない。若々しい心を保っている人は多いし、どちらかといえば自分もその部類である。なぜそう思うかといえば、周囲はみんなじじむさい連中が多いからだ。そうはいっても20代、30代の若者からみれば、充分すぎるくらいにじじむさいとは思うが、年齢とは心の有り様、心の姿勢だと思っている。
     
     

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  • 11/03/14--07:03: 「老爺心」
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    ◎老婆心はあっても、老爺心はない…「世話焼きは女の特技。老婆心というのは、世話焼きが講じた必要以上の親切心のこと。男はそこまで世話を焼かないものだ。
     
    ◎爺臭いというのはあるが、婆臭いは近年言われだした…「爺臭いは爺さんの息が臭いことが語源だが、近頃は若いこの洋服のセンスがどうとかに言われだした。「なによ、その洋服、婆臭いわねー。」みたいに。
     
    ◎婆シャツはあるが、爺シャツはない…「爺シャツは昔からあったが、最近はこのタイプのシャツを若い女性が着るようになったことでのネーミング。」
     
    ◎好々爺というが、好々婆といわない…「気のよい婆さんは巷にいるが、呼び名がないだけ。
     
    ◎意地悪婆さんはいるが、意地悪爺さんはいない…「姑は、嫁をいびり、威張りちらし、嫁をモノ扱いし、息子に甘く、過干渉…」などのイメージから生まれたキャラクター。」
     
    ◎耄碌爺(もうろくじじい)というが、耄碌婆といわない…「別に言ってもよろしい。」
     
    ◎鬼婆はいるが鬼爺はいない…「女は鬼になれる資質にありて、男にはないということ。」
     
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    ◎トランプでババ抜きも、ジジ抜きもある…「ババ抜きは英国でオールドメイド(Old Maid)といい、「メイド」とは「未婚女性」のことで、「オールドメイド」は「適齢期を過ぎた未婚女性」。よって、オールドメイドカードは最後までどのカードとも合わさらない。つまり、もらい手がいないという哀しいゲーム。日本で「ババ抜き」となったのは、「オールドメイド」⇒「お婆さん抜き」からの誤訳による。
     
    ◎妖怪には白粉婆(おしろいばばあ)と、子泣き爺がいる…「白粉婆とは、顔一面に白粉(おしろい)を塗りたくった老婆の妖怪で、しかも腰がまがっている。分厚い白粉を塗っているのはエレキテル連合の朱美ちゃんもどき。奈良県出身。子泣き爺とは、赤ん坊の泣き声を出し、相手にしがみつくと石のように重くなる。砂かけ婆とよく行動を共にする。徳島県出身。
     
    ◎麻婆豆腐はあるが、麻爺豆腐はない…「むか~し中国・四川省の成都に陳さんというお婆さんが安くて美味しい豆腐を作っていた。その豆腐を使った料理がこれまた美味しくて評判だった。このお婆さん、顔にアバタ(中国語では麻子(マーズ)がたくさん有ったので麻婆(マーポー)と呼ばれた。それで、麻婆さんの豆腐料理と言うことで、麻婆豆腐と呼ばれるようになった。
     
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    言葉や用語は必要性から生まれるものだから、「老爺心」も「婆臭い」も必要性なかったのだろう。「老婆心」という言葉は、本来の世話焼き老婆という意味から、「おせっかいですが…」という謙譲の意味を添える挨拶言葉として使われるようだ。「老婆心ながら、あえて申しあげます」=「念のために言いますれば…」などと、嫌味な言い方に取られること多し。
     
    進物を差し上げるとき、「つまらないものですが」と一言添えるのが日本のマナーとされるが、まあ、それに近い言い方であるけれども、決して嫌味ったらしくいうのは止めた方がいい。どこか、突き放した感じに聞こえてしまう(実際、突き放した感じでいう場合がある)し、人によっては押し付けがましい嫌味な言い方と捉えられる場合多いので注意がいる。
     
    「老婆心ながら」と「念のため申し上げます」は意味が違うという指摘があった。前者は、必要以上に世話をやこうとする意味、後者は、いっそう注意するため。「いっそう注意をする」こと自体が必要以上に立ち入ったことであるから同じこと。他人は自分の解釈どおりに物事を感じないし、紛らわしい言葉を「それは意味が違うよ」といっても、後の祭りとなり易い。
     
    むか~し近所に世話焼き老婆というのがいて、縁談をまとめるのが道楽であるかのように駈けずり回っていた。本当に一生懸命だったのか、まとめ上げた暁の「御祝儀」狙いか、どっちもあったのかもしれない。善意だけならお礼は受け取らないだろう。善意が次第に報酬など目論むようになるケースは、陰口も含めてよく聞く話で、人間はどちらも浅ましい。
     
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    少年野球チームの監督を最初は善意で引き受けたのはいいが、子どもの保護者がいうに、盆・暮れの付け届けや、打ち上げなどの監督分の費用はこちらもちといいながらも、ハナっから出す気がないとか、商品券など当然のように受け取るとか、ごじゃごじゃいうのが日本的である。「善意でやってるんだからそういうことをする必要はないんじゃない?」
     
    といえば、「いえいえ、相手は休日返上してやってるわけだし」という。ならば陰口止めたらどうだ?それに対する気持ちなら…と思うが、こういう話はうんざりする。休日返上も善意なわけだし、放っておけばいいんだし、善意が嫌になれば止めるだろう。途中で放り出すのはどうたらこうたら言ってみても止める自由もあるわけだ。なのに金品もらうのはどうかと思う。
     
    「それには及びません。お気持ちだけ頂いておきます」という心がないんだろう。1回もらえば前例を作るし、2回、3回となるのは当たり前だ。そういう読みというのか、想像力くらいは働かせよと監督にも言いたい。善意なら徹底善意、「やってやってるんだ」という気持ちでやるなら堂々と金品を受けとればいい。ある意味大変といえば大変なのだから。
     
    イメージ 5「善意の罠」というのもある。「本当の親切、偽りの親切」というのも人間には存在するよ。「善意の罠」は善意ぶった目論み狙いだから根性悪だが、「本当の親切」というのは、人の善意をまったく意に介さない。お礼などとんでもないという気持ちになるし、褒められれば礼儀としての返答はするが、相手の賛辞を間に受けて思い上がったりなどしない。
    それこそが真の親切ではないのか。相手が偽りの親切かどうかは、お礼を言って舞い上がったり、なんだかんだといいいながらも金品を受け取るかで判明する。そうまでして相手の腹を確かめる必要はないが、確かめる云々ではなく、状況から分ってくることだ。だから、いかなることであれ、本当の親切を全うしようとするなら、誤解を与えない注意がいる。
     
    つまり、親切にする側に誤解させない義務が発生する。平たくいうなら、自分の善意に対して相手に気を使わせないことが大事。親切は押し付けるのではなく、押し付けないに気をはらう。こちらがそういう気持ちであっても、人は曲解からいろいろいうものだし、自分の経験でも「そんなにいうなら、そんな風に思われるなら…」と憤慨する事もあった。
     
    親切が曲がって受け取られては逆効果、だからか、少しの誤解も与えない配慮を学んだ。親切という偽善に自分が気づかされた坂口安吾の一文である。初めてあの言葉に触れたとき、人間の「善意と言う欺瞞」について根本から考えさせられた。「善意という行為は、行為だけでは善意でない。善なる意志が伴っていなければ、功名心であったりする」。
     
    これはニーチェの「善とは善意思からなされるもの」についてのアレンジだが、「人に親切にするというのは、親切にした相手から裏切られようが、殺されようとも文句を言わないでする親切でなければならない」という言葉を震えながら読んだものだ。言葉の真意は、人間はなまじの親切で思い上がったり、傲慢になったりする軽薄で下等な生き物である。
     
    イメージ 6そういう意味が込められている。実際問題として、親切にした相手に裏切られ、はたまた殺されても文句を言わない気持ちでするなど、一生かけても辿り着けない境地である。安吾は、お婆さんに化けた狼に親切にして食べられてしまった赤頭巾を引き合いに出して彼の理念を完成させた。確かに善意を裏切られたことがある。そういう時は茫然自失になる。
     
    相手を恨む以前に、「他人とはなんだ」という思いに駆られる。結局、他人は他人を利用して己の利を漁る生き物。そう考えた時に、そうではいけない、人がどうでもそうであっては人が人と交流する意味も意義もないというところに収まる。自分の利害だけで他人と交わろうとする人間の何と多きこと。そういうのを見ると、そういう人間の浅ましさにうんざりする。
     
    人間は自分と相手の距離感を量り、相手との関係を間違えないようにしなければならない。無理を言われればキチンと断り、また相手に無理を控え、決して無理をさせないようにすべきだが、そこまで考えないで無理を平気で言う人間は大人と見ないほうがいい。遠くから見守るほうがよい関係もあるし、すべての人に腕をまくって対処すべきではない。
     
    いかに相手が失意のどん底にあったとしても、自分が相手から好意的に思われていなければ、失意の相手を励ますことなどできない。「大丈夫か?頑張れ!」みたいな声援は相手が苦しんでいる時の決まりきった言葉で、誰でも誰にでもかけることができる。が、自分が本当に心配しない相手に言ったところで仕方ないのだ。それは実は相手も同じこと。
     
    好意を抱かぬ相手に「助けて!」というのは、大嫌いなヘビに向かって「助けて!」といってると同じこと。心の温かくない人は、どんな相手にでも言葉を差し出す。なぜなら言葉はタダであり、何ら自分の腹は痛まない。口先だけの暖かい言葉を吐く人間を自分は冷たいである。だれかれ構わずご馳走になろうとする女も男も、心の卑しき人間だろう。
     
    自分と相手との距離感も分らず、考えず、タダ単に得だからと…。まあ、そういう人間を教育できないでその場限りの満足感を得ようとする女に迎合する男も男だ。オヤジが少女に大金出してやらせろというのとどこが違う?自分にとっては同類よ。人間関係を作って行こうとするなら金で女を買わないように、ハナから「驕ってくれるなら行く」が目当ての女を自分は望まない。
     
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    タダ飯食えるから人間関係ができるのか?いや、それで樹立した人間関係って一体何だ?長男が確か23歳の頃、職場で「プレゼント友達」という関係を女から提案されたことがあった。その経緯を心配した次女から話を聞いた自分は、怒りまくって長男に電話した。「プレゼント友達だと?ふざけるのもいい加減にしろ。即刻止めないなら、女に直接いうからな」

    人間関係の基準として「プレゼント友達」と言うのはある種の目論見以外にあり得ない。プレゼントをそれだけ軽薄化させているのは、飽食時代の現代病だ。自分の利を重視して寄ってくる人間を自分は信用しないし、排除する。裏を返せばそう言う事をしない、人はそうであってはダメということ。我が身をもって実践してこそ、人は物事を理解したことになる。
     
    「分っているんだけどね、出来ないんだ」というのは、1%すら理解していないということだ。人間は言葉よりも行動で信を問うべきだし、行動しないで屁理屈、いい訳人間を自分はまるで信用しない。と、まあ立て続けに言ったことをじぶんなりの「老爺心」と言っておく。「老婆心」がおせっかい以外のなにものでないなら、「老爺心」とて似たようなものだ。
     
    が、「老婆心」よりも、その"おせっかい"の中身が男の論理に満たされていればこその「老爺心」である。男が「老婆心」という言葉を日常会話で使って何ら差し支えはないが、あえて「老爺心」と変えたのは、「老爺心」よりも高みを願ってである。母親の日常の小言はマンネリでつまらないが、タマの父の一言が深みのある言葉であるなら、それでこそ父親の存在感。
     
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    男は社会の中で揉まれ、思考し、多少なり女よりは社会的なものの見方を備えているはずだ。裏返せば、男は揉まれなければダメだということ。男は揉まれながらも女の乳を揉んで生き返る。だから男にとって女も大事である。「あっ、そう!女は乳を揉ませるためだけに存在してんの?」などと卑屈にならず、男のブログの男のつたない方言と放免されたし。
     
    まあ、「老婆心」は感情から発露の行状であるが、そこが「老爺心」との大きな違い。世話焼き婆さんは、今もいるのだろうか?婆さんに限定されずとも、世話焼き好き女はいるだろう。世話焼き女って実は…。かつて塩谷瞬というイケメン俳優に二股かけられていた冨永愛と園山真希絵の騒動があった。芸能人ゆえの有名税で、一般人なら話題にもならず。
     
    冨永愛は以前、「わたしは浮気されない」と自信満々に語っていたが、実は大きな勘違いだったようだ。「彼が欲していることをきちんと知り、与える努力をすることが必要」という彼女の持論は、浮気される女の特有の考えだからだ。男は、女性から頼られることで自尊心を保つ。「この女性を守らなければ」という使命感が、男を一人前にするのである。
     
     逆に、必要以上に甘やかされると、「俺はひとりでは何もできない」と無能さを感じ、何とか自信をつけようと、自尊心を誇れる他の女を見つけようとする。男は頼って守り立てて、男を開花させるべきなのだ。浮気されたくないなら、男を大いに頼り、自身をもたせ、不必要な世話焼きはしないようにした方がよい。と、小柳ルミ子が浮かんでしまった。
     
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    10代、20代でみさかいなくイチャイチャする世話焼き女房もいいが、男の基本は孤独ではないだろうか?干渉せずに放っておきながら、男の自尊心を(あればの話だが)上手く盛りたて、ポジティブにもっていけるような、そんな聡明な女ではないか。弁証法的にいえば、「女は男に従属することによって、逆に男を隷属させている」、というのが自分の女性観である。
     
    ちくいち干渉されたいマザコン風味の男は別として、男は干渉を嫌がるものだろう。夫婦のこと、男女のことに、これという法則はないが、男の視点に据えて、あえて「老爺心」をいうなら、愛情とは互いが距離感を保とうとする配慮ではないだろうか。
     
     
     

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  • 11/04/14--15:22: 「自負心」
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    むか~し、あるところに自分という男とあいつという女がいました。ある日あいつが自分に尋ねました。「自負心ってどういう意味?どういう風に使ってる?」。使い方は用例を示して教えたと思うが、「自負心」をどう説明したかの記憶はない。今ならどう答えるのだろうか?日常で何気に使っている言葉の正確な意味を知らない事は多いが、とりあえず正しく使えている。
     
    「"自負心ってどういう意味?"と聞かれ、答えられないなんて自負心が許せない」みたいな…。言葉の用法はできても、自負心を心の隅に覗かせてみても、分らないものは分らない、答えられないものは答えられない。だから、こういう場合は、"自負心"というより、見栄、強がりというのが相応しい。「自負心」は漢字からして、自分に負けない心?
     
    漢字というのは便利である。まさに「読んで字の如し」というモノが多い。そんなところで「自負心」を辞書で引くと、"自分の才能や仕事について自信を持ち、誇りに思う心"とある。なるほど、いつもながら辞書には感嘆する。そういう風に理解するものか。ZARDの『負けないで』とはちと違うようだ。意味を聞くと、「自負心」が使いづらくなるが、単純に「自信」でいい。
     
    そこまで正確な意味にこだわることもないし、誰も細かい事を言わないし、世の中"ぞんざい"という気持ちが大事である。正解ばかり求めずとも、近似値でこの世は充分楽しめる。国語博士(?)を自認するどこぞのうるさバカが、「意味が違うぞ!」などとコメすれば、「すっこんでろい」と言いたくもなる。楽しむという生き方を知らない憐れな人間だろう。
     
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    で、そういう奴の言葉は「嫌われて結構」だから成長がない。「なるほど、この世はぞんざいに生きる事も大事なんだな」と足を踏みとどまれば、少しはお利口になるかもしれないが、互いがバカといい合うのも世の中の面白さでもある。自分の考えている法則には殉じないと言う点で、世の中は面白いのだ。「自負心」の正しい意味を知っただけで800字を費やした。
     
    800字は原稿用紙二枚だ。作家は原稿用紙一枚書いていくら?が収入かと思っていたが、基本は印税収入のようだ。売れっ子作家「東野圭吾の驚きの年収」なんてサイトがあるが、一日の○○○なんと100万円という書き方がオモシロイ。○○○に"納税額"の文字を予測は、我々貧乏人には無理。そんなに稼いでも贅沢なんかできるものではない。
     
    高級仕立のスーツ、一台数千万の高級外車、白亜の大御殿に住み替えたとして、スーツやスポーツカーや大御殿から良い作品が生まれる事はないのだから、彼らはそんなものは望まないだろう。作家なんて、机とペンと椅子があればいい。近年はペンがPCソフトに変わったようだ。お金は稼がなくとも使わずにいれば目だって減る事はない。使って楽しい人は使うだろう。
     
    お金を使って楽しくもなんともない人は使わない。自分は現在後者にある。若い頃は湯水のように使ったし、お金を使うこと(物を買ったりがメイン)が生きてる証しであったから、使わないではいられなかった。初めてクレジットなるものを使用したときも覚えている。横浜の大手電気店でオーディオを買い、かつて月賦という名称がクレジットと変わっただけでさわやかだった。
     
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    申し込みクレジット会社は「北日本信販」と言った。今の「JACS」である。JACSカードは現在もあるのか「日本信販」から分社化してできた「大阪信販」は現在の社名は「アプラス」。「オリエント・コーポレーション」は創業当時は「広島クーポン」という社名だった。同じく広島に本社のある総合家電店「エディオン」は創業時「第一産業」といった。まさに社名は世につれである。
     
    「テイジン」が「帝国人絹織物」、「ダイハツ」は「大阪発動機」、「東芝」は「東京芝浦電機」、「TOTO」は「東洋陶器」、そういえば、「東京通信工業」から「SONY」に社名変更したが意味不明の社名にメインバンクは大反対だった。ちなみに「SONY」の由来は、音『SONIC』の語源となったラテン語の『SONUS (ソヌス) 』と、小さいとか坊やという意味の『SONNY』から来ている。
     
    SONYのマスコット「ソニー坊や」を真似た「マネシタ電器」こと松下電器は「ナショナル坊や」を、東芝は「光速エスパー」人形を同社製品購入者の景品につけた。三菱電機は女の子の「メル子ちゃん」。日立は烏を模した「ポンパ君」が同社のカラーテレビ・キドカラー専用マスコットで、日立の新技術スイッチ「ポン」で「パッ」と映像が出ることからつけられた名前である。
     
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    簡単で、どこの国の言葉でも大体同じように読め、発音できることで考案された「SONY」に、メインバンクは驚いたようだ。Panasonicにも「Sonic」がある。Pan (汎、あまねく) とSonic (音) を組み合わせ、「当社が創りだす音をあまねく世界中へ」の思いが込められている。元は松下電器であった。自動車メーカー「ホンダ」の本田宗一郎はこういっている。
     
    「自分の最大の過ちは苗字を社名にしたことだ」。「トヨタ自動車」の創業者は豊田佐吉(とよだだきち)なのに、なぜにトヨタであるかは、濁点がないほうが響きが良いこと、トヨタにすると8画になって画数が良くなるからである。昔から「八」は日本では末広がりで縁起のいい数字と考えられていた。が、トヨダがトヨタになった直接の要因は実は別にあった。
     
    会社創立前年の昭和11年、すでに「トヨダ号」と決定していた新車のためのマークを全国から公募した。そのときに選ばれたのが美術図案家・中島種夫の作品。ところがマークは「トヨダ」でなく「トヨタ」になっていた。明らかにミスだが、濁点がないほうがデザイン的にもスマート、姓名判断的にも「トヨタ」の8画が良いとの意見で、このマークに決定した。
     
    「トヨダ号」も「トヨタ号」に変更され、新会社の社名も「トヨダ」ではなく「トヨタ」になったという。ながらく「松下電器」であった「パナソニック」は、創業者松下幸之助の呪縛を切ったが、「トヨタ」、「ホンダ」にその気配はない。松下社名変更は2008年10月1日、創業90周年を迎える年にあたっても英断であったが、「松下」のカリスマ的自負心を捨てた真の理由は?
     
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    「創立100周年の時に、世界一の電機メーカーになることを目指している。そのために社名変更は今しかない。3か月、半年、1年の経営判断の遅れが致命傷になる。とても100年目まで社名変更を待つことはできない。松下の名前、ナショナルのブランドを手放すことは大きな決断で、手放す以上の価値をこれから強く生み出していく責任がある」と大坪社長は語る。
     
    「自負心」という「誇り」を捨てて、個人のノスタルジーに浸るよりも、これからの松下を大きく発展させるには、より成長する可能性のある「Panasonic」ブランドにと決断した。そういえば、「アデランス」は2010年に社名を「ユニヘアー」に変更したが、創業社長がトップに返り咲いた2011年、「アデランス」に社名を戻す。「ユニヘアー」はわずか10ヶ月の命であった。
     
    「自負心」は人間に必要か?自負心の持てる人間と自負心の持てない人間が居る。「こんな事も分らないのかお前は?それでも大卒か?大卒という自負心はないのか?」などと、こういう言い方はしばしば成される。客観的にこれをどう理解すればいいのか?注意する側は、大卒という自負心をどのように理解しているのか?大卒は何が出来なければならぬのか?
     
    同じような例で、万引きで少年が捕まった。聞けば親は警察官という。そこで「お前には親が警察官であるという自負心はないのか?」と、そんな事を言われたって…が本音だろう。親が警官である事と万引きをしないということに因果関係はない。ところがこういうケースなら立派な自負心だ。同じく警察官の親を持った少年。友人らで集団万引きを提案された。
     
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    少年はキッパリいった。「オレは降りる。親が警察官という自負心があるから」。この違いは「自負心」の主体性である。他人から押し付けられずとも自らが抱くものである。「自負心」は、自らに(責任を)負おうとする心で自尊心とは違う。「自尊心」は自らを尊ぶ心。「自負心」は「自信」と言い換えてもいいがが、本来関係ないところまで責任を負うべきではない。
     
    自尊心も自負心も自信も、全くない人間が本当に存在するのかは分らない。ないような言い方をする人間はいくらでもいる。そこで、自身について考えてみた。これぞ「自負心」といえるものの何かが自分にあるのかどうか?「自負心」として避けて来た何があるのか?そういえば一つ「コレ」というものがある。最近そのことについて記事を書いたことで浮かんだ。
     
    それは「買春」をしない。プロであれ素人であれ、金で女は買わないと決めている。はしたないものではあるが、これは「自負心」といえるものだ。ナンパをしてホテルに入室して、そこで「お金が…」という女に、「ふざけるんじゃない。土壇場で言えば"仕方がない"と言うと思ってるのか?オレは金で女を買わないから」と、さっさとその場を去ったことがある。
     
    自分の中に「性の売買」はない。「売春とは、金のために節操と自尊心を捨て、客である男に媚びて体を提供する」という金に目のくらんだ屈辱的行為でしかない。そのように思うなら、女を金で買う男は、より節操なき男だ。ところが、「売春とは金で肉体を簡単に提供してくれる、男にとってこのうえないありがたき女神」と思うならせっせと買うだろう。
     
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    売春肯定派の意見。「"売春が悪"は間違っている。売春は世界最古の職業で現在でも認められている国は多い。それを「悪」と言うのは裕福層の傲慢だ。中高生の売春を禁止するのはそれが悪だからではなく、「組織売春」を防ぐためである。個人が個人の意思で売春することに道徳的問題は発生しない。斯くの間違いを生む閉鎖的な性教育をする日本の教育が問題だ。
     
    上の意見は間違っていない。中高生だろうが大人だろうが、売春する側に罰則はない。強姦の方が刑事罰に値し、金銭を貰って身体を提供するのは非道徳的でもなんでもないことと黙認されている。取り締まるのは「売春させる場合」、「公に勧誘する場合」などに限定されている。個人がこっそり売春することについて、売春防止法で逮捕された例はただの一度もない。
     
    つまり、日本ではこういうこと。「売る中高生側」が悪いのではなく、「買う大人側」が悪いということになっている。中高生売春がなぜ悪いか、きちんと説明できない人は多い。説明できないからすると言う少女はいるだろう。説明などなくてもしない少女もいる。あくまで「する」、「しない」の論理であり、自分はタダの一度も売る側を「悪い」と言った事はない。
     
    「良い」、「悪い」ではなく、「バカ」だといつも論じている。バカの理由は売春をするからだが、そういうバカにバカと言っても通じないから大勢で言いまくったらイイ。売春を止めてバカが直るまで…。それまでは短絡的なバカとしか言いようがないが、バカでないとの「自負心」があるなら一生やれ。問題は少女を買う大人で、「バカ」だけでは済まない大人の責任がある。
     
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    大人のモラルとして、少女を取り巻く社会人の社会的責任としても間違っている。つまり、どんなに張り切って春を売ろうと少女がひしめいていても、買う大人がいなければ売買はなりたたない。よって、すべての責任は大人にあり、大人が悪いとしかいいようがない。もちろん、「少女を買って何が悪い」、との"自負心"あるバカオヤジは、永遠に少女買春やってろい。
     
    バカな中高生に対し、相手が経済力も社会経験も判断力も不足しているのをいいことに、札ビラ切って性欲の奴隷にする大人を非難すべきだが、バカは"豚に真珠"ということだから、司直もせっせと取り締まるしか方法はない。バカな少女にも同様、お説教してみても"馬の耳に念仏"だ。諭すよりも、大人がバカを止め、買わないこと以外に中高生バカにつける薬はない。
     
    バカは相手が感じるもの。謙遜も相手が感じるもの。卑屈も相手が感じるもの。傲慢も相手が感じるもの。どれ一つとっても実は本人は気づいていない。だから、これらに自分が気づけば直る道はある。少女売春も同じこと。オヤジ買春も同じこと。バカにバカという言葉ほど伝わらないものはないが事実である。コレを突き詰めると「バカは死ななきゃ直らない」となる。
     
    イメージ 9常人をバカにさせる薬ばかりが合成され、作られていく現代にあって、真に求められるはバカにバカと気づかせる薬である。今の世にもっとも望まれるこの薬は「スーパーノーベル賞」ではないか。もう言葉や教育では追いつかない時代に来ているようだ。「死にたい」という人に言ってはならない言葉は、「弱虫」とか、「強く生きなきゃダメ」とかである。
     
    なぜなら、「死にたい」人はそれだけ苦しんでいるからで、それを「強く生きろ」という効果がどこにある。そういう人は自分を誇示しているだけだ。こんな事をいうからおかしくない。苦しんでいる人には、「死ぬほど苦しんだね?そこまで苦しいなら誰でも死にたいかもな。でも、死ぬと決めたときは絶対にオレにいってくれ」とひたすら気持ちを理解するしかない。
     
    バカな人間に「賢くなれ!」と言っても効果ないのは、本人がバカだと思っていないからだ。「賢くなれ!」は、賢い人間にいう言葉である。バカを自発的に直す方法は、しばらくバカをやらせておくしかない。誰でも経験あるだろう。いい加減バカをやって、もうこんなバカを止めるぞ。パチンコで数百万使って、「絶対に止める」と公言し、それでも止めないのがバカ。
     
    そういう人はまだバカをやり足りていないのだから、気づくまでやらせるしかない。人生長きと思えば無駄な時間も必要だ。少女売春も、オヤジ買春も、本人がバカになった以上、ほっておくしかない。バカにつける薬はないと、数百年も言われ、いまだ付け薬は生まれていない。バカが直るのはじっと待つしかないのかも。まあ、自分の子どもなら急がせるが…。
     
     

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  • 11/05/14--15:47: 「依存心」
  • 依存心についての記述はたくさんあるが、「それがいい」などと誰もいわない。なぜ「依存心」がよくないかも書いてあるが、読むと分るとでは大違い。親子の「共依存」のように双方の利害が一致していれば、いかなる依存悪も「良」となる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という有名なギャグがあるが、ここには人間が悪を犯す行為の本質が隠されている。
     
    普通の読解力があれば誰でも理解できると思うが、「禁止されていることも集団でならば心理的な抵抗もなく実施できる」ということ。赤信号を渡る怖さ、赤信号を渡るモラルなどが、集団である事で半減もしくは消えてしまう。人間の心の中にある「悪」の抑止力が集団の論理で簡単に消えるということだ。罪を咎められて、「みんなやってますよ」というのと同じ意味である。
     
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    お前がその事を「悪」と認識しているかどうかが問われているのに、「人がやるから自分も」という答えをもってくる人間の心の弱さだろう。集団心理というのは、合理的に是非を判断しないままに特定の時流に流される事をいうが、個が確立されていない社会や、精神的に未成熟な子どもにはこの傾向が強い。群れを作る人間が群れに馴染む方法の一つとして理解に及ぶ。
     
    「孤立を怖れぬ強い精神力」としばしば述べているように、人間は集団の論理に迎合しないことで孤立を強いられることがある。たしかに集団の中では善も正義も無力かもしれないが、頑なに善を提示し、正義に殉じろとは思わない。青春とは如何に多くの規則を破ったかによって量られるというように、規則正しく生きた青春より、はちゃめちゃに生きた青春に価値を見る。
     
    「青春」をどう生きるかについての正解はない。どう生きても個人の選択だし、それに対する結果の是非を自分が受け止めることしかない。結局、どう生きても後悔はあるわけだから、受験勉強の青春も、暴走族・ヤンキーの青春も、である。どちらもやってみればよいのか、というとそれも中途半端である。こういう小噺がある。アラフォーOLが二人、パブでの会話だ。

    A子:「わたし、自分の青春なんか思いだすだけで悲しくなるんだよね…」
    B子:「なんなの?なにがあったの?」
    A子:「…。何もなかったのよね……」
    B子:「そっか…」
     
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    年をとって青春を客観的にみることになって、そういう人が青春を論じる意味があるのだろうか?青春とはまさに今、青春の人が述べ、主張すべきもの?『青年の主張』というのは、1956年からNHKで毎年「成人の日」に開催されていた若者の論文コンクールで、正しくは「NHK青年の主張全国コンクール」といい、1990年から表題を『NHK青春メッセージ』とした。
     
    変わったのは表題だけでなく、これまで設けていた主張テーマを廃して自由なアピールを発表する事が出来るようになったし、ビデオやカセットテープに収録して応募する事も可能となった。また、年齢制限も緩和され、当該年度に満15〜25歳になる青少年に広く門戸を開放した。これに対して、『60歳からの主張』というのが、平成15年から開催、本年で10回を迎えている。
     
    「全国老人福祉協議会」の主宰によるもので、1回から10回までの入賞論文が、協議会のホームページで読めるが、公的なものゆえにそれに相応しい内容となる。小中学生が、作文の中に「平和」や「人権」を書けば褒められるようなものだから、真面目な爺さん、婆さんの範疇に属さぬ自分などは、読んで感動するものは一篇もない。青年は未来を夢を主張すればいい。
     
    老人は過去や今を主張すればいい。決して未来を主張してはいけないというのではなく、そこは「分際」というものを考慮すべきか。いかに100歳人口が6万人に達する時世といえど、平均寿命が男女共に80歳を越えたといえども、老人が未来を語るのは限られる程度に語るべきだ。「ネガティブな事をいうね~、老人にだって限りない未来はあるんだよ」と食いつく人もいる。
     
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    別に食いつかずと自分がそう生きたらよいのであって、未来は限定されるという現実志向に食い下がることもあるまい。大事な事は、過去をどう生きたではなく、未来をどう生きるかでもなく、今をどう生きるか、このことが大切な「今」という時間を輝かせることだと自分は思っている。未来をアレコレ思考する人は大いに結構だし、なんら批判する意図はない。
     
    若い時は自己主張の塊であったが、人は経年で他人を心から認める人間でありたいと思っている。個人的な中傷や攻撃に対しては相手を見て対処する。「我、関せず」に相応しい人もいれば、「いい年して人攻撃なんかやってる場合か!」と、換言を用意する相手、それらは人をみて判断する。「死」を頭の隅に置きながら「生」を全うするのは老人に必須である。
     
    「老人だって未来を…」と御託を並べる人にあえて水を差す事はいわないが、考えれば分りそうなものでもある。「死」と言うのは未来の出来事である。したがって、「死」を思う、考えることは未来を見通すことにつながる。これを前向きな生き方と捉えないのご老人は実は思考が足りないのだ。行け行けドンドン、そんな体育会的なご老人ではないかと思っている。
     
    人間は生まれたときは誰かに依存しなければ生命の維持すらできない仕組みになっているが、同じように人間は老人になると赤ん坊と同じようになるといわれる。身体が未完成な乳児期、身体が故障して動けなくなった老齢期、根本的な違いはあっても依存を必要とするのは変わらない。乳児の依存は必須だが、老人には依存を望む人と依存を嫌う人に分かれるようだ。
     
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    その違いを想像でいうと、前者は孤独で寂しがり屋、後者は自己充溢感や独立心の強いタイプではないかと。なにも老人だけに限らず、子どもでも若者でも、依存心の強い人間は独立独歩な気持ちが希薄な人間と察する。また、人を頼るくらいなら自分でするというのは、優しさ、思いやりから派生するものでもある。人が自分に何かをするのは当然という人は傲慢な性格である。
     
    これらが入り混じって、人の行動となる。「てやんでい、べらぼうめ!人を老人扱いなんかするんじゃない、こんちくしょうめが」と、いかにも江戸っ子弁な糞爺だが、この言葉の裏に潜むのは優しさであろう。表面的に優しい人と見える人は実はそうではないという場合は多く、何が本当の優しさ、どれが偽りの優しさかを判断するものは「心」である。
     
    つまり、言葉は「心」ではないということ。「心」と「言葉」は同一の場合もあるが、元々は別と考えれば、「心にもない言葉」も、実はあたりまえの人間である。「心にもない言葉」と人を責めるが、そういう人も同じ事をやっている。人の批判は実は自身への批判であることが多い。同時に自身を高めようとする批判に移行するなら、前向きな批判としてなされていい。
     
    「優しい人」、「優しくない人」は間違いなく存在する。一言でいうと難しいが、あえていうなら、「優しい人」は自分の利害得失を考えない。さらに言うなら、他人が見て明らかに損である行為も、本人は損ではない行為する。まったく損でないとは言えないはずだが、損の度合いが少ない事も含めて行為であり、無理をしていないからフラストレーションにならない。
     
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    「よく人のためにあそこまでできるな」と、何の見返りも求めずにできる人を「優しい」と感じることが多い。それは「優しさ」を超えた「愛」というものかもしれないが、他人にはよく分らない。優しくないひとは、優しくなれるのだろうか?「どうしたら優しくなれますか?」なんどもこれを聞かれた。果たして人が答えを出せるものなのか?自分なりにいろいろ答えた。
     
    「相手の気持ちになること」、「相手を好きに(愛する)こと」、「損得よりも大事なものがあるのを知ること」、「周囲に感謝を怠らないこと」、が思い出される。が、これらはどれも本質ではない。優しくなるためには、優しい人と接することが何より大事なこと。優しい人と交わりながら、多くの心の葛藤を解決していくのが、本当に人が優しくなっていく方法だろう。
     
    優しい人は人と触れ合って生きるが、その触れ合いの中で邪悪な人を排除しようとする。なぜなら邪悪な人は優しい人を利用しようとするし、優しい人の恩恵を受けて成長しようなんて気はさらさらない。とにかく邪悪な人間は人を利用することしか考えないから、邪悪同士との交流は絶対にしないし、善い人、優しい人をターゲットとする。そうと分れば成敗に担い手になる。
     
    「善」は人間の普遍的理想であり、人倫共同の「真」をせしめることとしてどこまでもあるべきもに、否、あらねばならないもの。このあらねばならぬことを否定拒否するのが「悪」であり、「悪」は常々「善」を前提している限りにおいて、「悪」はその否定的な性格において「善」に依存している。この世に悪が蔓延るのは善が存在するからで、善人が悪人を作っている。
     
    イメージ 6人間が宗教に依存すればこの世の悪は一掃されると説く宗教もあるが、バカをいうなって。善が存在する限り悪はなくならない。差別が存在するのは人間が差別が好きだからであり、いじめがなくならないのは人間がいじめを好きだからに他ならない。汚職が人倫教育でなくならないのも、人間がお金を好きだからで、不倫がなくならないのも、人間がsexを好きだからである。何も難しく考えることはない。
    ここに自他共に「善人」と称する人がいる。その人の押し付ける「善」は、行き過ぎた「善」と解されるなら、それはもはや「悪」となる。何かに依存する者は、「分ってはいるんだけど止められない」という。そういう気持ちで自らの行為を苦しんでいる。捨てられた男を忘れられない女も「分っているんだけど」と依存対象に依存し続ける。
     
    「依存」が悪いのか?対象(酒・煙草・麻薬)が悪いのか?周囲は「依存」が悪いといい、当事者は「対象」が悪いという。問題の本質は本人であるから、周囲の言葉は本人には何の意味もない。親は子どもが悪いという。子どもは親が悪いという。男は女が悪いといい、女は男が悪いという。いろんな人がいるとこういう世界になる。「共依存」は双方に快感といった。
     
    どうすれば快感を「悪」と認知させられるか?それは社会(第三者)の役割となる。訴訟も調停もそうであるように。第三者の目が絶対に正しいといわないが、当事者に比べればマシな部分はある。「神」の裁定といえずとも、「中立」の裁定をくだせる。人間に自我がある以上、人間はみなエゴイストである。エゴを表出できない浮遊物のような人間も問題がある。
     
    子どもと母親の争いにおいては父親、子どもと父親の争いにおいては母親、兄弟同士の争いにおいて両親が社会の目(第三者)として有用だ。エゴは、所詮は神の作り給う道徳の逃げ場に過ぎない。よってエゴは「肉体」という最強ツールを創り出した。肉体は、本来は形のない意識であるはずの人間を目に見える形にしたもの。精神=肉体であり、肉体はまた精神である。
     
    エゴは、「ボクやアナタは、お互いに別々の、独立した個人なのだ」という思い込みを強化し、分断が固定化されたものである。広大無辺の海から、コップで水をすくってみたようなもの。コップの中の海水も、もといた海の水と何も変わらないのだが、なんだか、自分と海とは、もともと違う存在だったような気がしてくる。人間の場合、コップに相当するのが肉体である。
     
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    精神と肉体の融合は至難である。常に問題が噴出し、自分や相手や周囲がその火消しに奔走する。そうでしか世の中は成り立っていない。そうでしか世の中は成り立たない。理想社会が如何に机上の空論であるか、共産主義の崩壊で人間はそれを知った。世の中では、一見タダに見えるものが、実はタダではなく、そんな社会を維持するのに、ものすごいコストがかかる。
     
    1000円の食べ物を政府が買い取って100円で売れば、「理想社会」に近づくだろう。が、差額の900円をいったい誰が負担するのか。重い税金をかけるのか。ユートピアと言われたマルクス・レーニン思想は、書物の中だけの夢であった。自分勝手な人を「自己中」といい、悪と罵る。が、最善を選択しようとする人の性質もまた、「自己中」と形容される。
     
    何をやっても、どう生きても、正・反表裏にあるならいかなる見方もできる。だから気にしないことだ。善を行為しても悪と言われ、悪と思っても善と評価される。結局、他人の評価などに一喜一憂しないこと。「泰然自若」とは、泰然=落ち着きはらって物事に動じない。自若=何に対してもあわてず、驚かず、落ち着いている、この同じ言葉の組み合わせだ。
     
    人間が老齢になって行き着くところはそういう境地ではないかと。もはや何も動じることのないほどの経験を積んだ人間の終の境地である。「死」さえも怖くないほどに精一杯生きて行くべきだろうが、美しく年をとった人はそのように見えてしまう。この人に怖いものが何があるのだろうと、そんな風に見えてしまう。泰然とは、自若とはそういうことかなと。
     
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    「依存」は評価に値しない言葉といった。が、よくよく考えてみると人間は自然環境(5つのエレメント)に依存する。さらに人間は他の生命に依存しなければ生きていけない存在である。ビーター・シンガーは、「現在の社会において人間が動物たちに行っている畜産・動物実験は、人間の利益優先から動物に配慮せず、動物に多大な苦痛を与え殺害する非道徳的行為」という。
     
    あらゆるものの依存に生きながら依存を否定するのは、ご都合主義というものだろうが、自らを棚に上げて何かを言わなければ何もいえない。まして、人が人を教育することさえ傲慢であり、茶番である。だから、「お前は自分の事を棚にあげてよく人のことがいえるよな~」という人間はオカシイ。何かをするとき、何かに蓋をするのは「良し」としよう。
     

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  • 11/06/14--07:15: 「憎悪心」
  • 20代の前半だったと思う。友人とこういう言い合いをした。「尊敬できない親の言う事なんか聞く必要はない。」というと、「どんな親でも親だろう?親を大切にしなきゃダメだ。」、「まるで儒家思想だな。大切にするってのは、逆らわず何でもハイ、ハイってことか?」、「親の意見と茄子の花に無駄はないっていうだろ?」、「諺はいい、オレの問いに答えてくれ」と言えば、
     
    「大切にするってのは親の意見に従うってことだよ。」という。「へ~、間違った意見でも従うのか?」、「食わせてもらって、学費もだしてもらってるんだし、当然だろ?」、「だから間違いにも従うってことか?従わなかったら食うな、金をもらうなってなるんか?」、「親はそんなこと言わないが、覚悟はあってもいいんじゃないか?」、「当たり前だろ?子どもは親の奴隷じゃない」。
     
    イメージ 1「でも、もし親が食わさない、出て行け!といったら?」、「出て行けというなら出て行ってやるが、近代法で、"勘当"は処罰の対象。そういう違法行為をやるのか?」などと延々続いたが、要点は「間違った親に従うべきか、従わないか」ということだ。親も親だろ、小中(場合によっては高、あるいは成人以降も)時代の大人しい時期に支配を確立しようとする。
     
    労働者の権利や子どもの人権が強く言われる昨今において、権力側の傲慢な態度や仕打ちが看過されない時代になっている。まずもって、自分は「親が権力」ということに反対である。確かに食い物と金を握っている親は、明らかに権力行使できる立場にあるが、それでは子どもはあんまりというものだ。「バカに金と力を与えるな」と、先人が教えているだろ。
     
    つまり、親がバカであった場合、そのバカにひれ伏して育った子どもはどうなるか?親というのはバカでないと、どうして言える?かつての友人のように、「親」=「尊敬」という盲従は、利口な人間のとるべく態度ではない。気に入らない子どもの弁当を作らないという親がバカでないのか?夫婦喧嘩で、もし夫の弁当を作らなかったらどうなるか?
     
    そういう「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」感情支配された女をバカだというのだ。それはそれ、これはこれと理性の発露が出来ない女は男を潰す、子どもを潰す。「ちょっと喧嘩したからって弁当くらい作れよ!」と夫は言わねばならない。まともな夫なら当然口にする言葉も、ヘタレのバカ夫なら黙ってコンビニ弁当を買いに行く。コレはどういうことかといえば…
     
    妻に逆らったら弁当も作ってくれぬから、逆らわない方がいいと、いい年して親の傲慢に逆らわない夫と同じだろう。喧嘩して頭に来たからと言って弁当を作らない母親も妻も、どうにもならないバカでしかない。感情と義務を混同するのがバカでなくて何だというのか。悔しくとも弁当を作るのが使命である。弁当に罪はないが、こういう家庭は崩壊していく。
     
    なぜなら、世の夫は弁当ほしさに妻に従う男ばかりではない。弁当作らぬなら勝手にしやがれ、そんな女に遠慮はするかとコンビニに行く夫もいる。こういうミソもクソも一緒にする女に絶対にひれ伏すなと世の男にはいいたい。親も同様だ。小遣いを減らす、携帯を取り上げる、弁当を作らない、こういう事をやってまで子どもを手なづけんとする親はバカである。
     
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    子どもの楽しみを奪うことでしか躾ができない脳ナシ母ということ。「ない袖は触れない」から、それだけの能力しかない親でも、自分はイッチョ前だと思っているから子どもは憐れだ。ちゃんとした人間になろうとの意志があるなら、こんな親は見切った方がいい。こんな親に手なづけられたら憐れなダメ大人になるだけだ。親は権力者であってはならない。
     
    女がどうかは知らないが、責任感という所在からして自己のない男はダメ男である。三流どころか、部外品といっていい。一流というのは何の世界でもこだわりをもっている人をいう。イチローしかり、あれほどにバッティングにこだわりを持った選手である。中田しかり、本田しかり、王、長嶋しかり。スポーツ選手は才能が表に出やすく分りやすいから提示したまで。
     
    文人や画家や音楽家、科学者しかりである。「自己」とは、相手にながされない、世間に流されない頑なな自分である。「いつもいい人」には絶対にならないというのが男にとって大事。「人がいい」だけではいざというときに戦えないし、勝負ができない。人はいつ手の平を返すかわからないし、そうなって慌てず驚かず、速攻で対処できなければ男の値打ちはない。
     
    言い換えるなら、「男はグズグズするな」ってこと。さっと射精して余韻を味わう間もなくすぐさま別のことに対処できるように作られている。文句を言う女もいるが、それが男と理解することだ。女と違うんだから、くだらん女性誌からの情報で男を自分と同列に考えるなってこと。夫婦喧嘩はつきもの、親子喧嘩も、兄弟喧嘩も同じ屋根の下での事象である。
     
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    喧嘩で学ぶのは収束の仕方である。身内の喧嘩でやってはならないのは身内以外の第三者に愚痴をいったり、味方につけたり、コレは止めた方がいい。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」というのは、実は教えでもある。他人が食ってはならない、犬さえも食わないでいるのだからという意味だろう。第三者がいずれかの利害で参入すると、消すに消せない大火になってしまう。
     
    人には人の視点があり、それは自分の視点とは違って当然のもの。誰かが自分の事をアレコレいうのを耳にしたら、聞き流すのもいいし、その内容があまりに看過できないならどうどう戦えばいい。理不尽な言いがかりは戦えば間違いなく勝利する。我慢して無視することが人の偉さと言うのはあるが、たまにはバカを演じてひと波乱起こしてみるのも一興だ。
     
    男ならやり返す力ももっているのがいい。行使するしないは時々の問題、あるいは自身のその時のムシの居所の問題で、「やられたらやり返せの気は持っておくべき。本当の正義なんて、偽善者には語れないのよ。友人と親について言いあった時も、彼は自分の親に育ったわけでもない、自分も彼の親に育ったわけでもない、所詮は別の畑で起こった問題だ。
     
    相手の畑を自分の畑で考えても何の意味もない。今なら最初からそのようにいい、無駄な労力は使わないが、当時はまだその域になかった。自分の親の問題と言っても親の性格の問題であって、人くくりに「親」とするのも間違っている。自分も「親」であるが、同じ親とは到底いいがたい。子どもが成人後、年老いた親とどう付き合うかは重要な問題である。
     
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    出来た親なら息子には干渉せず、息子から距離をおいて静に暮らそうとする。出来損ないの親は、子どもに依存しようとする。子どもにとって後者は迷惑であることが多いのに、出来損ないの親はそこがわからない。息子の自立を尊重し、何か問題があった時、相談を受けた時にアドバイスをするのが賢明な親である。それを出来損ないの親に分からせる事は無理。
     
    だったら、実力行使で嫌われてやるしかない。共依存が密着型の親子を作るように、共嫌悪は離別型の親子を作る。不本意であっても離別を望むなら、嫌い、嫌われるのが本筋かもしれない。共依存が悪いなら、共嫌悪も悪いでいいんだろう。親と距離をおいた生き方が出来る子どもの方がいい。それを喜ぶのが真の親の愛情である。親孝行とは一人前になる事よ。
     
    周囲にはいろいろな家族のあり方があるわけだが、問題なのは自分のことであって、だから自分の家族関係に殉じた行動をとればいい。他人が口出ししても気にすることなく、遮って置くほうがいい。親にされた甚だしくも非人間的行為で憎悪心が芽生えたのはむしろ当然である。その事を何ら「悪」と認識しない親は、理不尽だのと不満をブチあげるのは当たり前。
     
    自分が悪くない場合、すべて対象が悪いのだから話は簡単。言って分からぬ相手は無視するのがいい。他人が口を挟むのは数十年の歴史を見ずに、ある部分のみに思考をめぐらすのみで、そういう人間と何かを話して分らせる事も無理。数十年を1000としたら、1000対1では話にならない。我が家の事は我が家の人間が解決すべきで、どんなに人に話しても屁にもならない。
     
    イメージ 5母への憎悪は母からもたらされたもので、自分に罪はない。もたらされてない人間には何の憎悪もないわけだから、もたらせた母に原因がある。憎悪をもたらす親とは断固闘うべきで、地獄に落とされて黙っていてはダメだ。それが出来ない人は、見棄てられたくないという不安だろうが、こっちから見棄てる気があれば、いかなる災いとて排除できる。
     
    何も自分の罪を逃れたいわけでもない。仮に自分の罪が50%あろうが90%あろうがそんな事はどうでもいい。他人から受ける罪よりも、問題なのは母に対する憎悪である。その憎悪が消えてなくなるのは、彼女が地べたに頭を擦り付けて謝るか、死んでこの世からいなくなるかのいずれかでしかない。もはや責任逃れをしたい時期はとっくに失せている。
     
    謝ることで大事なのは、過去の謝罪ではない。これからの自分は過去とは違うという表明でなければ謝罪に意味はない。だから、それくらいの意思があるなら謝罪も巧を成すが、今後の自身の心に新たな息吹を伴わない謝罪など何の意味もない。真の謝罪に至った人は自己変革を提示し、それを実行するという心意気がなければ新たな人間関係は構築されない。
     
    世の中には親への憎悪を何十年も抱えて育った子どもは多い。そのすべての原因は親にある。親から見れば言う事を聞かなかったか、あるいは親の意図に染まらなかった子にあるということだから、子どもに罪があるとなる。果たしてどちらの言い分が正しいかだが、子どもは親の言う事を聞くべき存在か、子どもは親の意に染まる必要はないとすべきかで変わる。
     
    自分は後者なので、子どもを押さえ込み、支配しようとした親を罪とする。だから、そういう罪なことを親になった自分がするはずがない。トラウマとしての自分の親の個人的な問題というではなく、「親」という人間の肩書きを所有するものにこの場で声を上げていることでも分ろうというもの。子どもは親の所有物ではないは間違った論理はないと確信する。
     
    北海道南幌町で母と祖母を刺殺した高校2年生の三女の事件があたらな展開を見せている。三女が通っていた高校の教頭は、「『家庭で祖母が厳しい』という言葉がありました。中間試験の最中に事件ですが、試験ができなかったなど短絡的な理由で衝動的にキレる子ではありません。活発でリーダー的な生徒で10月15日に生徒会長になる予定でした」と証言する。
     
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    三女の同級生や保護者らでつくる「将来ある少女に適切な裁判を望む地域住民の会」が10月10日、同町内で街頭活動を始めた。同会代表の女性(41)は提出後、報道陣に「彼女はしつけの域を超えた虐待を受けた可能性がある。刑事裁判でなく家庭送致の保護処分を目指して今後も署名活動を続ける」と話し、応対した地検の担当者は「趣旨は理解しました」と受理。
     
    今月3日までにインターネット署名約800人分を含む1万534人分が集まっている。署名の是非はともかくとして、単純に「世論の力」といえなくはないが、本当に大事なのは少女の家族関係、家庭環境をよく知る人たちの法廷での証言ではないか?署名賛同者は、賛同の意思を示したことに間違いはないが、近場の信憑性のある「声」とはいいがたい点はある。
     
    結果的にこの手の刑事事件は、犯罪である以上、事件に関わった3人すべての人が加害者となるのが悔やまれる。いくら署名で被害者と訴えても、完全なる被害者とはならない。加害に走る前に少女は、被害者としての行状を訴えるところがなかったのだろう。つまり、彼女を現状から救い出すシステムが今の社会になく、少女が自身で解決するしかなかった。
     
    イメージ 7祖母と母との二点攻撃ではたまらない。殺害のキズは祖母の方が多かったという。本来は親からの逃げ場であるべき祖母がである。自分の祖母はいつも母からの楯になってくれた。いつも守ってくれた。だから、この少女は不憫でしかない。もう少し、頑張ってみるべきだったが、そこは「感情の生き物、汝は女なり」だったとしかいいようがない。残念である。二名殺人の重罪であるが、嘆願書の署名が巧を奏し、家庭裁判所での審理が敵うなら朗報であろう。加害者の短絡的行動を褒めることは出来ないが、多くの人たちの理解を得ている。もちろん、自分も理解はするが、食器を投げたり、棒で叩いたり、熱湯かけたり、家出したり、様々な報復方法はあったはずだし、殺すしか見出せなかったのは、報復に対する極度の怯えだろう。
     
    いっそのこと亡きものにする以外は目線が怖いのだ。相手を傷つけただけでは今後の同居に際しての怖さが倍増すると感じるんだろうな。そのあたりも理解できる。が、やはり最後は知能指数の問題だ。殺人の鬱憤晴らしの果てにあるもの、自分の行く末についての想像力が欠けている。何かの行為する場合、コレをすると自分がどうなる?の損得は徹底考えた方がいい。

    まさか長い期間獄舎につながれてもいい、という結論に至った上での犯罪行為なのか?犯罪者が逮捕後に、「死刑になってもいいと思った」のような言葉を耳にするが、殺人のような重罪を行為する人間はそこまで追い詰められるものなのか?人を殺して得な事は何一つないし、あるとすれば精神の解放だろうが、常人には利害得失が麻痺してるとしか思えない。
     
     
     

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  • 11/07/14--15:59: 「虚栄心」
  • 誰にでも人からよく見られたい気持ちは、多かれ少なかれ人間の素直な感情だ。若い時はそれが行動のエネルギーの源泉であったりする。自分を飾りたいと言うのは必要な場合もある。が、人は人からよく見られたいと思うあまりに、背伸びをしたり、気どったりで、マイナス面が強く出てしまう。「人によくみせたい」、「よく見られたい」を虚栄心という。
     
    人間の心は複雑だ。自分を実際以上に見せたいという気取りは人間の心理に深く根をおろしている。異性を求める心も虚栄心とからんでいる。学問好きな人間が多くの本を読めば知識もたくさん身につくし、そういう知識をひけらかす人は、知識があっても知性がない。知性とは何か?「問題解決能力」ではないのか。人類の進化上、高度に選択された特性である。
     
    イメージ 1知性に際立った特徴は、何ものにも拘束されることなく、提起された問題解決の努力をすることである。したがって知性はその大部分が過去の経験に基づいている。知性が問題を解決するなら、自分の生き方を変える事もできる。自らに問うてみる。「自分は自分の生き方が好きか?」過去を振り返り、この道しかなかったと思うのか?他の生き方もあったと思えないか?
     
    よくよく考えてみれば、今の生き方を続けていかなければならない理由などどこにもない。なのに、生き方を変えるのは許されないことのように感じている人は、自分を縛っていることに気づいていない。ところがある日、運よくそれに気づいたとしても、自分の生き方を変えるのを怖がっている自分がいる。自分の心の虚栄心の声を聞いている自分がいるからだ。
     
    今の仕事は明らかに自分にあっていない。あっていないから楽しくないし、憂鬱になる事が多い。ノーベル賞受賞者の中村修二氏はこのように言う。「同じ会社にずっと勤めるのが美徳、会社を辞めるのはいけないこと、こんな間違った倫理が日本ではまだ幅を利かせているのは、洗脳され続けているに過ぎない。会社を辞めることは自分を進歩させることだからです。」
     
    誰もがいうように中村氏の持論も「好きなことをやる」である。仕事はビジネスだから好きでない事でも給料もらうためにはやれてしまう。産業構造の中では誰もが好きな事をできるとは限らない。が、見渡してみると、成功してる人というのは間違いなく好きなことをやってる人が多い。好きなことをやってる人は、かなりの確率で成功しているのではないか。
     
    言うまでもない、好きな事は身を粉にしてでも一生懸命にやるからだろう。とりあえず働いて給料をもらって生きて行くならどんな仕事をやるのも同じだが、「成功」の二文字を掲げるなら好きなことに邁進した方がいい。自分の持っているものに気がつくのも大事だが、自分の持っているものの価値に自信を持たなければダメだ。他人が自分をどう見てるかなど関係ない。
     
    それはむしろ自分を不幸にするだけだ。「才能がある」、「頭がいい」、「会話が上手」などと、他人からよく思われることが幸福になるための条件と考える人はいる。だからか、他人からよく思われないと不幸、お金持ちだと思われたい、素敵な彼氏(彼女)だと思われたい、そんな虚栄心ばかりを大事にする。他人からどう思われるかで自分の幸福感が決められるのか?
     
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    ぜんぜん違う。他人がどう思うかと自分の幸福は何の関係もない。虚栄心の強い人間の戯言、思い込みだろう。むしろ、そういうものがその人を不幸にしている。もし人から「頭が悪そうだね」と言っていらだつ人がいるなら、その人をいらだたせているのは他人の評価ではなく、他人に自分を利口に見せようとした自分にいらだっている。自分を不幸にしているのは虚栄心という事。
     
    他人のブログを見て分るのは、たくさんの友だちを作っていかにも社交家のように見える人がいるが、そう見えるだけで実際は淋しがり屋であったり、たくさんのコメを華やかに感じる虚栄の人なのかも知れない。キチンと対話をするでない、互いが世辞の類を言い合っての虚飾のやり取りであるのがよくわかる。
     
    それが楽しいからしているのだろうから、それでいいんだと思う。みんな淋しいんだろうな。リアルの人間は淋しさを紛らわす人たちではないんだろう。大事なことだけ述べてさっと引く人もいれば、たまり場のように毎日出向いて、無駄話を楽しみたい人もいる。それで満たされるものがあるなら、それぞれの人間がそれぞれの花を咲かせればいいんだろう。
     
    あらためて人間の性格は本当ににさまざまであるを実感させられる。室に閉じこもっての研究が性に合ってる人もいれば、派手な性格の人もいる。自己顕示欲な人もいれば、いつもしんがりで満足な人もいる。それこそ自分にあった生き方をやるのがもっとも自然である。そんな人の性格と生き方を考えていちばん愚かと思うのは、地味な性格なのに無理して派手に振舞う人。
     
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    また、派手な性格なのに周囲を気にして地味に振舞っている人。そのどちらもブログから見えてくるから不思議だ。無口が性格にあってるなら無口でいい、無理に賑わうこともない。不思議なのは「今日からブログ始めました」と、開設日に最初の一行あって、数年もそのままの人は、おそらく書くことがないからで、だから何も書いてない記事を出してると思っている。
     
    同じように長々と書いてる自分も実は本当の自分を表してないのではと思う。反面、コレが本当の自分ではないか?と思ったり、ようするに、何が自分か分っていないのだ。「楽しのか?」、何がだ?「苦痛か?」、それはない。「習慣か?」そんな気はする。脳の反応を受け取るためにやっている感が強い。あるいは、PCに前に坐って頭に何が浮かぶかを楽しんでいる。
     
    言い換えると、自分を知るためだろう。そのためには自問自答が必要になる。そういう作業が文章である。いわゆる日記と一緒だな。日記も自分を客観的に見ることができる。人間は主観の塊だ。その主観的な表現を、書き終えて眺めるのが客観的ということ。面白いと感じる事も多い。自分が書いたものなのに、本当に自分で書いたのかと、疑う事もある。結局、楽しんでいるのだ。
     
    ピアノでもギターでも、楽器をやってる人なら分かるだろうが、弾いてるときには実は聴くのがおろそかになっている。それだけ弾くという作業が難儀だからである。ところが録音などにして聴くだけの行為となると、弾いてるときの数十倍もの情報が得れる。いいところもよくないところもよく伝わる。グレン・グールドは「生徒にピアノを教えるならどうする?」と聞かれた。
     
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    「学生の演奏を録音してそれを聴かせること」。このグールドの言葉は、自分の演奏に疑問の余地があるなら、それは教師ではなく自分で見つけなければならないということだ。「教師がすべき事は質問すること。教える立場というのは、それ以上のものはない」と、グールドは言う。が、町のピアノ教室では成されないが、それをいいと思った自分はやった。
     
    虚栄心を抜きに語れば、たかがピアノ習得法にしても、実にたくさんの方法や可能性があるはずだ。「ねばならない」という発想が可能性を摘んでいる。眠れない時には、眠らなければならない、の意識が強すぎることが多い。勉強に集中できないのも、眠りも、集中できないときは仕方がない。あまり集中を強いるとかえって集中できない、こういうときもあると思えばいい。
     
    虚栄心は当たり前に誰にでもある自己愛だから、少々の虚栄心は気にすることではないが、必要以上に自分を大きく、よく見せてしまう人、つまり虚栄心の強い人は、自らの虚栄心で潰れてしまうことがある。虚栄心=見栄だから、自分とは違う自分を生きてることになり、違う自分を演じることに疲れてくる。人一倍自分に欠けてるものがあると感じるのだろうか?
     
    この世に何もかも揃ってる人などひとりもいないんだし、人は誰でも何かが欠けており、だから欠けてることは恥でも何でもない。そのように思えばいいのに、他人と競争意識が強いとか、欲が強いのだろう。ネットにこんな相談がある。「虚栄心が旺盛で人生が辛いです.今年21歳になり自分の虚栄心をどうにかしないと大変なことになると思い始めました。

     自分の思う虚栄心とは、
       ・異常なまでに他人の目を気にする。
       ・他人にコントロールされていることを自分でコントロールしてると思っている。
       ・何事も自分が正しいと思いがち。
       ・何かが起こってもすぐ人のせいにしてしまう。
       ・格好をつけるために行動したり、本心からの労りがない。
       ・何事も他人と比較する。なので劣等感も人の何倍もある。
       ・他人にはそれをさとられないように隠すのにも必死。
     
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    等です。自分はこの全てに該当します。このままじゃ何事も得られない気がして苦しくなってきました。色んな面で他人より充実してる人生を送ってると思ってきましたが、心から楽しめたことなんてほとんどないし、自信を帯びているくせに常に不安にさらされています。自分には能力があると信じていても、心の中の自分が能力が無いと知っているため本当の自信も持てません。
     
    今となっとは自分の生き方に後悔していて、健やかな人間になりたいという気持ちがとても強くなってきました。自分を改善して、素直な自分になりたいです。これらと向き合うヒントがありましたらご教授お願いします。」と言う事だが、コレだけ自己分析をし、問題点を羅列しているなら、上に書いたことの反対をすれば、強い虚栄心が改善できると思うが、どうなんだ?

       ・他人の目を気にしない。
       ・他人にコントロールされないようにする。
       ・何事も自分が正しいと思わない。
       ・何事も人のせいにしない。
       ・格好をつけないで、正直に自分と向き合い、本心から自分を労る。
       ・他人と比較しないようにすれば、劣等感に苦しまない。
       ・他人自分に無能さを晒す。自分を卑下するのではなく他人を高みに尊重する。
     
    どうしてこれをやろうとしない?他人に相談するまでもなく答えは出てるし、あとは行動すればいいだけなのに。難しくてもやらなければ自己変革は出来ない。何のためというのが分っていれば、人間はいかなる苦しみにも耐えられるし、その苦しみに耐えられないなら目的は叶わない。人に相談して自分を変えられるはずない。自分で自分に命じなければ。
     
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    ようするに、「何かをやる人はさっさとやる」ということ。人に相談したりで決めることではないし、そもそも自分のやる事を人に相談することがオカシイ。してはいけないとはいわないが、本当にやろうとするなら、何より自分にあった方法を、自分で探し、見つけることだ。他人はあなたにあった方法を教えてはくれないのよ。災いする虚栄の心をまずは取り払う。
     
    それからだ。綺麗ごとを散々述べてもやらなければ「誓い」に過ぎない。 「誓い」とは何だ?誓いとは「将来、ある事を必ず成し遂げようと決心または約束すること」とある。つまり、誓いとはやろうがやるまいが「約束」ということになっている。「約束」なんてのは破られるためにあるんだ、そもそも…。だったら同じように「誓い」も破るためにある。
     
    自己変革をしようというなら、つまらん「誓い」などするな。「約束」などせんで宜しい。そもそも、誓いなんてのは、今できないことを先に延ばそうとするわけだし、だから「誓い」をしてさも、何かをするが如くの気分になる。さっさと行動する人間は「誓い」など立てないんだよ。そんな暇があったらもう動いてる。「そうだろ?」誓いなんて立てる心理は。
     
    ああだ、こうだといって何もしない人間の専売特許みたいな言葉は山とある。行動する人間に言葉は要らないよ。口ばっかりで行動しない人間にはいつもこう投げ捨てた。「悪いが、お前の言葉に興味はない。とりあえず行動してくれ」。言葉は柔らかいが、「ゴチャゴチャ抜かさずにさっさとやれよ!」と言ってるわけで、それくらい分れといいたいところ…。
     
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    それが分らないのが、口だけの人間。「言葉は行動を隠すためにある」という名言があるが、こんなのを名言と思う奴はそういう人間だろう。まったくの素朴な事実である。多くの名言と感じる言葉は単に「あこがれ」が多い。やれてる人間には何でもない言葉。言葉に酔い、言葉で納得し、それで行動をしないで入れるなら、人間より犬の方が賢いぞ。
     
    犬はやる事はやる。やりたくない事は尻にしっぽ挟んで逃げる。実に分りやすい純粋な生き物だ。やりたくないのに、やれないのに、いかにもやらんばかりの態度、仕草をみせるのが人間であり、それを虚栄心という。やらない、できないなら、とっとと逃げろといいたくなる。が…、人間の虚栄心をなだめて上手くよい方行にもっていくのが上位者の定め。
     
    コレができて管理者の資質だ。無能な管理者は、「近頃の若者は何言ってもダメ」とお決まりのセリフ。親も同罪よ。「何言ってもきかない」、そうかも知れない。が、自分の言う「何」がくだらん言葉だとは思っていない。つまり、自分は悪くない。すべては相手が悪い、そういう虚栄心を見せる。どっちもどっち、そんなつまらん「虚栄心」など捨てたらどうか?
     
    実際問題、「虚栄心」って捨てられるのか?捨てられると思う。乞食になればだが…。他にもあると思うが、自分にもっとも合った方法を見つけることだ。それが、本当に行動を実のあるものにしようとする人間の態度である。人の言う事を「はい、はい」聞くやつがダメなのは、人の価値観で動いてるからだが、本当に自分が自分のためによい事は自分で見つけるべき。
     
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    立派な指導者というのは教えないもの。匠の世界に生きるものは大工であれ、料理人であれ、教えないものだ。ただ、出来上がったものを「ダメ」というだけ。「よい」という場合もあるが。その言葉が「教え」であって、本来的に勉強と糞は自分でやるもの。塾などで至れりつくせり授かった人間は、能力が向上したのではない。その程度で向上する能力など「屁」。
     
    偉くなったと思う方がバカ。世の中"レンヂでチン"が蔓延っているから付和雷同であるのは分るが、こういう似非教育で東大、京大出身者に、将来的なノーベル賞級の人間がでるのかは危い。親も、本人もそんなことまで望んでいないし、とりあえず人より優れた学校でてればよいのでコザイマス、みたいな風潮だ。昨今は、大学生の「オシクラ饅頭」の時代。
     
    「学歴がなくて困るのと、学歴があって困るのは、紙一重の差。」 
     
     
     
     

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  • 11/09/14--15:36: 「向上心」
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    表題を決めて何かを書くときは何も決めないで書くときとまるで違う。表題ナシで書くときは、何の制約も感じないで、頭に浮かぶことをそれこそ意のままに片っ端から書いていくが、表題で書く場合にやることは、自分らしさを書こうとする。つまり、人にない自分の感性を重視する。既成の価値観が好きでない自分は、物心ついたときから少数派を志向した。
     
    少数派の中に実はキラリと光るものがあるのを多くの人は知っている。多数派といわれる考えや意見には、それをやっていれば無難、人から後ろ指を指されることもないし、仲間はずれにされる事もない、だから多数意見に組するという図式だろう。さすがは多数派だけに卒がなく、正しく真っ当な考えと同意する人もいるが、基本は信じるものをやったらいい。
     
    他人はどうか分らないが、少数派志向であるためには、他人がいいと思うもの、多数派が正しいと示すものについて、とりあえず疑うところからスタートする。大勢の人が「イイ」というなら、それのどこが「イイ」のかをまずは探りたくなる。「イイ」には理由があり、それを納得してこそ本当に「イイ」ということになるわけだから、人が「イイ」から「イイ」は盲信に過ぎない。
     
    「勉強」は教科書にある事を信じることだが、「学問」は教科書を否定するところがスタートであるように、いまさら「勉強」などに興味はない。既成のものを疑えば、正しくないと感じるものは多く、それが楽しくて生きている自分は、既成の生き方よろしく、それが人生の安泰などと全然思わない。いいものはいいが、よくないものはよくないと結論したいのだろう。
     
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    そういう生き方や考え方を「向上心」とは思っていない。「向上心」とは、現在の状態に満足せず、より優れたもの、より高いものを目ざして努力する心。と辞書にあるが、現在の状態に満足してる自分には既成の「向上心」はないということ。求めるものは現在の(多数派)価値観に満足しない変革かもしれない。より優れたもの、より高いものという有り体の価値観ではなく。
     
    むしろ、より自然なもの、より楽しいものは何?という視点に興味がある。世の中を変えるなどのおこがましさというより、発信の目的は自己満足である。思ったこと、言いたいことを言える境遇、環境にあるという、それだけのことだ。熱意が人を動かすことは確かにあるし、それは人間体験で得た。熱意は自分だけのものではない。同じように、「向上心」もである。
     
    「向上心」を強く持つ人は本人だけではなく、周囲にもプラスに働くということ。そうとばかりはいえないし、他人の熱意や「向上心」に感受しない人もいる。そういう人間を「シラケ世代」と言われた。あるグループがどういう場合に能力を発揮するかについて、ある研究機関のリサーチによれば、一人の優秀な能力者(リーダー)によって何かをやるのがいいのか?
     
    特定のグループの平均IQとの相関があるのか?いずれも「No」で、もっとも相関にあったのはグループの「社会的感受性(social sensitivity)」であった。つまり、グループの面々がお互いの感情をどれだけ推し量ることができるか。これがグループの高い能力との相関があった。いわれて見れば「なるほど」である。『項羽と劉邦』で劉邦の勝利の要因ともいえなくない。
     
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    集団の共同作業において、個人の知能レベルは成績にほとんど寄与せず、各人の感情を読み取る能力やグループへの参加度が重要だとする研究結果だが、かつて重視された「団結」や「モチベーション」や「幸福」も寄与しない。集団の知能に対して、個々の知能はほとんど寄与せず、社会的感受性(他者の感情を察知する能力)のほうが寄与度が高いという研究は驚きだ。
     
    実験結果について心理学者Anita Woolley氏は、「われわれは直感的に、満足度や団結が成績に関連していると考えているが、こうした直感はあまり当たっていない。幸福や団結が悪いというわけではない。われわれの社会は、皆が相互に結びつく社会へと向かっている。そのなかで、知能とは何かという概念が、個と集団との関係のなかで問い直されつつある」と、語っている。
     
    西洋文化では個人の知性や実績を非常に重視するが、世界が平準化し相互交流が活発になるにつれて、個人が独りで何ができるかよりも、集団で何ができるかを考えることが重要であるなら、自己の「向上心」も大事だが、それ以上に"他者の感情を察知し、理解する能力"が重要になる。ハッキリ言えることは、一人でも自己中人間がいるようでは、グループの活性化はない。
     
    グループで仕事をする場合、「切れ者が1人いても成績にさほど影響がない」。このことは、ビジネスや軍事などの分野など、コンセンサスに基づいて意思決定を行うことの多い分野では有効だろう。集団的知性のレベルを知ることは重要である。「社会的感受性」の高い人は、相手の顔色を見て感情を判断できる能力とも言えるし、「調整役」の機能を果たす人である。
     
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    ここが大事なのだろう。ワガママ、自己中人間が目白押しの時代にあって、グループ内でメンバーの能力をいかに適材適所で発揮させるかにおいて、個人の能力には限界があるということ。人間社会も多くの動物と同様に集団生活の方がうまく機能するというのをあらためて実感する。例えばアリは高等生物ではないが、集団になると驚くべきことをやってのけるように。
     
    ワガママ、自己中はグループにあって感情的に嫌われる存在であるけれども、それだけではなく、会社の上層部はそういう人間を排除することも考えなければならない。もっとも、採用時における面接で排除すればいいわけだ。「向上心」は個々の問題であるが、グループにポジティブ感を与えるように、ワガママ、自己中なる人間はむしろいない方が会社の利益になる。
     
    自分がもし、ワガママ、自己中人間をグループ内に発見したら即効で対処するだろう。最近は物怖じすることなく、「うちはワガママです」、「自己中です」と公言する人間は多いが、それを恥じることもせず、「悪」とみなさない無知者には、相応の仕事しかさせない。そんな言葉が社会に通用すると思っているバカは、社会からの仕打ちを与える以外に治療法はない。
     
    個々が自分の能力を向上させるだけでなく、相手の気持ちを察する能力を身につけるのが大事なわけだが、これらは幼少時期からの親の育児能力に負うところが大きい。我慢をできる子どもに育てることの重要性はいうまでもないが、多くの親が、「そんなかわいそうなことはできない」というのをよく聞いたし、何でそんな風に思うのだろうと、信じられなかった。
     
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    「我慢できる子」というのはちょっとやそっよでキレないという大きな利点がある。キレると言うことが、どれだけ周囲に悪影響を及ぼすかだが、実際キレるヤツは周囲の迷惑より、周囲は自分にもっと気を使えといってるわけだ。これは、幼少時代にあまりの特権意識を与え、子どもの奴隷に成り下がった親の責任というしかない。我慢できる子の人生は「得」ばかりだ。
     
    そう思って躾けるべきなのに、その場、その時点での子どもの得ばかりを考えるから、「そんなかわいそうなことはできない」という言葉がでる。我慢できる子は、ルールとかマナーの価値が分ってる子ということ。子どもにルールやマナーを教えるのは容易ではないから、とにかく我慢を教えることで、間接的にそれらを教えてることになる。躾は間接的でいい。
     
    どうすれば子どもに「向上心」をもたせられるか、植え付けられるか、そういう専門的なことは分らないが、だいたいこのようにすれば…という方法はあるわけだから、それぞれの親が適した方法を導けばいいのではないか。社会に留まらず、ルールやマナーは家庭にも友人関係にも大事だ。それは互いが気持ちよく生活し、暮らすために考え出されたものである。
     
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    そのためにお互いが少しづつ我慢をしようということ。こういう社会生活に大事なことを教えない親はいないだろうが、そんなものは小学生、中学生でもなんとかなる。自分が分かるようになるから別に教える必要はないという親もいるからそれぞれの問題でいい。自分は教育評論家でもなんでもない。孫の親にも早期教育を言ったが、実践しないで今頃困っている。
     
    どこの親もそういうものだろう。強い危機感を持った親でない限りはこれが一般的だ。親の「向上心」というのは子育てにおいても言えることだから、「なんとかなるだろう」は「向上心」でも何でもない。となると、「向上心」というのは危機感から派生するものでもある。「そのうちなんとか…」と物事を先送りせず、「今でしょ!」を重視するなら向上心が要る。
     
    つぶれそうだった軽井沢の老舗温泉旅館を復活させたり、日本各地でリゾートを運営する企業へと飛躍させた星野佳路という人が話題になった。再生困難といわれた物件が、彼の手にかかると次々と見事に蘇る。「星のや」はそんな星野氏が展開するリゾート施設で、現在、軽井沢、京都、沖縄、バリ、富士、東京にある。彼の持論は「意味のないことをやめて身軽になる」である。
     
    星野氏は言う。「私の習慣とは、何かを"する”のではなく、"しない"ことを決めることかもしれません。たとえば、ゴルフをしない、会合しない、時計を持たない、スーツを着ない、社用車に乗らない、社長室がない…。自分がやっていることの1つひとつについて、ほんとうに大切なのか、意味があるのかを考えて、やらなくてもいいことは止めるようにしています。
     
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    意味のないことをやめると、精神的に身軽になれます。仕事は、ただでさえストレスフルなわけです。だからといって、ストレスフルな仕事をすべてやめるわけにはいきません。そのような中で自分のパフォーマンスを高めていくには、ストレスコントロールが不可欠です。意味のないことをやってストレスを感じるのは、極力避けるのがいい」。これも彼の向上心だ。
     
    「プロフェッショナル」という番組で彼はこう述べた。「全ての社員が出席する会議である議題を討論する時、"社長の指示"をせず、『出席者の決定にに任せる』と言った」。司会の茂木健一郎が「どんな結論が出ても任せるか」と聞くと、「適切なプロセスを踏んで、出てきたものなら」と答えた。社長や上の人間の考えを押し付けるよりは自分たちで検証し話し合。
     
    それで決めたことであれば、結果的に成功するかしないかは分からないが、「目的に向かっていく」モチベーションもより高くなるというようなもの。「何かを決定する前に結論が正しいということは誰にも分からない。大事なのはプロセスである。「メンバーの能力をいかに適材適所で発揮させるか」という「社会的感受性」を高めた結果にモチベーションも高まった。
     
    イメージ 8トップダウンの組織では個性は殺されがちになるからして、星野リゾートは「組織プレイのお手本」と言える。自分たちの決めたことなら、自分たちで責任を取ろう、そのために一生懸命に頑張ろうという気になる。「社長が何の指示もしない」という星野氏の狙いはそこにある。「社会的感受性」の効用は、従業員個々の「向上心」を自動的に高めていることになる。1960年生まれの星野佳路氏は、慶應義塾大学経済学部卒業、米国のコーネル大学ホテル経営大学院修士課程修了などの経歴からして、従業員なら誰もが認めるエリート社長である。その星野氏が、トップダウンを止めてsocial sensitivityを採用するのだから、よほど「社会的感受性」の効用を認めているのだろう。旧態依然の父の経営方式と衝突して勝ち得たものでもある。
     
    「向上心」の高い人間は特別な勉強などでなく、普段の仕事ぶりから伺い知ることもできる。「常に効率化を考えている」、「新しいことにすぐ興味を持つ」、「スキル磨きに余念が無い」など、常に身の回りを良くしようと考えている。「向上心」の塊のようなイチローはこう言った。「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。」
     
    日々努力を怠らない人には「努力」という言葉はないが、「向上心」の高い人間にも「向上心」という言葉はないのだろう。どちらも備わってない人が使う言葉であって、「努力」も「向上心」もそれをする人にとっては当たり前の行動である。斯く言う自分も「向上心があるねー」と言われることはあるが、向上心があるなら向上してるはずなのだが、どうなのだろう?
     
    足りないものを補おうとする自然の態度や行動が「向上心」と呼ばれているに過ぎず、自分的にはもっと違う意味での目指すべき高い「向上心」という行為があるように思う。それを行えばいろんな意味で向上するのではあるまいか。まあ、あまり無理を強いるのは好きではないし、無理をして向上しても…先は短い。決して駆け足でここまで来たんじゃない。
     
    ゆっくり、のんびり、生きて来たように思う。駆けようが歩こうが一年は一年で変わりはない。駆けてみたら365日が250日になるわけでもない。初めて聴いたときに、妙に納得させられた歌があった。実に素朴に、アンニュイに、淡々と自身のこれまでを歌っている。無理せず、強いらず、気負わず、美化せず…、ゆえに説得力を感じた。 
     
     
     「今日までそして明日から」
     
     わたしは今日まで生きてみました
     時には誰かの力を借りて
     時には誰かにしがみついて
     わたしは今日まで生きてみました
     そして今、わたしは思っています
     明日からもこうして生きて行くだろうと
     
     
     

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  • 11/10/14--07:34: 「闘争心」
  • 本能とは、一般に、特定の刺激に対する前もって定められた自動的な反応で、特定の情動を伴うものをさす。本能の反語は特に定められてないが、近いものは理性だろう。が、理性の反語は感情であり、となると感情≒本能となる。感情は先天的、本来的なものだから本能だが、理性はどうなのか?後天的、経験的なものであるから本能でないともいえるが、理性は知性。
     
    電車の中でトイレに行きたくなったが(本能)、次の駅についてトイレに行くまで我慢しようと「理性」が働くものだが、知性なきものは犬や猫がようにその場でするかも知れない。「あの人は知性がある」というのは、いうまでもない電車でトイレを我慢できる人のことではない。知性とは問題解決能力であって、知性の高い人はその能力が高い人を我々は指す。
     
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    学究的にいう「知性」とは、ある状況にせまられたさいの、もっとも適切で好守備な反応と考えられており、この点からも本能と知性は正反対と捉えられる。「闘争心」は「闘争本能」というように、生来的なものである。動物学者のローレンツや、『狩りをするサル―人間本性起源論』を著した劇作家アードレイは、人間は生まれつき攻撃的であるとする。
     
    人間の悪質な行為を宗教的"原罪"であるとか、"生来的な罪悪心"などのせいにするのは簡単だ。人間の歴史は戦争・闘争の歴史、これがアードレイのいう、「人類はモノマネドリのようになわばり的であり、なわばり本能のもたらす衝動で土地の権利や国の主権を守る」ということなのか。アードレイの論に意を唱えるミードやモンターギュらは別の説を立てている。
     
    イメージ 7「攻撃性を導き出すような先天的傾向が存在するのは疑いない事実であるけれど、と述べる一方で、人間本能論と言えるのかどうかは諸説ある。人類の歴史の汚点を残すような残虐行為を「原罪」という格好の教義にする宗教を自分は信じない。「闘争心」は攻撃性とは似て非也。「闘争」とは読んで字の如し、闘い争うことだが、様々なレベル(段階)に分かれている。
    ヒトラーの『我が闘争』の英語タイトルは『My Struggle』まれに、『My Battle』となるが英語圏では通じず、原語(ドイツ語)で『Mein Kampf』が一般的のようだ。ヒトラーは何と闘ったのか、彼の世界観の中心は何と言っても反ユダヤ主義である。彼は最後までユダヤ人への攻撃を止めなかった。彼の反ユダヤ主義は同時に、反資本主義、反共産主義であった。ヒトラーはこう述べている。
     
    「ユダヤ人は、疑問の余地なく一つの人種であって、宗教的共同体ではない。さらに、ユダヤ人は自らをユダヤ系ドイツ人、ユダヤ系ポーランド人、あるいはユダヤ系アメリカ人としてでなく、常にドイツ系、ポーランド系、アメリカ系ユダヤ人として描写する。ユダヤ人は、彼らがその直中に生活している外国の人民から、彼らの言語よりも多くを吸収したことは一度もない。」
     
    ヒトラーだけがユダヤ人を嫌悪したというより、ユダヤ人はヨーロッパ中で嫌われていた。だからヒトラーのユダヤ人攻撃は、実はヨーロッパ人に受けていた。ユダヤ人、キリストは"白人"ではなく、アラブやアジアなどの有色人種である。白人のユダヤ人もいるが、ヒトラーは、「なぜ白人のユダヤ人がいるのか?」と〝白人ユダヤ人〟を良く思っていなかった。
     
    ユダヤ人排斥は、ヒトラー以前からヨーロッパにあった宗教的差別が経済的な問題と結びついて起きたことで、ヒットラーだけの責任では無い。現実的にナチスのユダヤ人迫害が騒がれたのは戦後になってからだった。要はヒトラーのドイツが負けたからで、日本もそうであるように、戦争に負ければ惨めなもの。何をいわれようが、どんなことされようが仕方がない。
     
    ヒトラーの『わが闘争』を読んでないし、本のタイトルを知っているだけだ。全世界で1200万部も売れた。政治の分野で『我が闘争』ほど発行部数の多い本はこれまでにない。1933年、ヒトラーが権力の座につくまでに、既に10万部が売れていたというが、ヒトラーは、ドイツ国民が『我が闘争』を読むことを恐れた。自分が戦争を望んでいることがばれてしまうからだ。
     
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    本は読んでないが、1960年封切りの映画『我が闘争』をわざわざ映画館で観た。中学一年生当時で、ヒトラーはなぜかカッコイイ英雄だったというのがその理由だった。それにしても『我が闘争』というタイトルのカッコよさ。いかにも男の子が憧れてしかりな表題である。そういえば斉藤哲夫の『されど我が人生』という表題も、歌詞のカッコよさにも憧れていた。
     
    全共闘世代は「権力闘争」がカッコよかったのだ。「闘わずして若者か!」みたいな風潮が、ノンポリさえもかり出された。60年安保の凄さはテレビのニュース映像からも伝わってきた。またアレに毛も生えていないガキだったのだが、権力に挑む男達の姿はカッコよかった。闘争は人間の本能といったが、とはいえ人間は本能の壊れた動物であるというなら矛盾である。
     
    そうはいっても、巷にあふれる「本能」の語はともかくとして、ヒトが本能を必要としなくなった理由は、人間は本能以外に精神を持ってしまったからだ。ただ「食う」、「寝る」、「子孫を残す」といったシンプルな行動以外に、感じたり、思ったり、考えたり…の精神がはいり込んでしまい、本能が本能らしくなくなり、ヒトのすべての思考や行動は知性によって制御されている。
     
    イメージ 2山にキノコを採りに行った人が、毒キノコを食べて死んだ例は多い。食用キノコと毒キノコの知識がなかったからだ。これをみても人間が本能の壊れているのは一目である。動物は食べ物を「本能的に」食べられるか、そうでないか区別している。学習で得た知識でない本能の凄さである。動物は生きるためにエサを食べ、危険を回避し、子孫を残すために交尾をする。
     
    これに対し人間は、食べ物は選り好みをし、ダイエットや断食と称して食べなかったり、危険と分かっていて自らタバコを吸ったり、子孫を残す目的ではない性交渉をする、といった意味で「本能が壊れている」と表現される。人間の行動はすべて後天的に学習によって体得したもので、同じヒトという動物であっても、文化などの環境や個人の経験によって左右されている。
     
    生まれたばかりの赤ちゃんがおっぱいを吸うが、指を口に入れても吸い付いてくる、あるいは手のひらに指を入れると握り返してくれる、などの行動は、反射と呼ばれ、情動を伴わないことで情動のともなう本能とは区別されている。したがって、こんにち「本能」という用語は「死語」と化し、心理学、社会学といった専門的にはほとんど用いられなくなっている。
     
    「母性本能」、「闘争本能」、「狩猟本能」などなど…。これら日常的によく使われる語句も、実は何の専門性も意味もない言葉だったということ。近年、草食系男子は"争いを好まない"点が顕著であるらしい。いうなれば、この特徴こそが、草食系男子を"草食"と言わしめている理由といえる。また、彼らは出世に興味がない。現在の自分の待遇に不満を持つケースも少ない。
     
    人と争ってまで出世レースに参加する気は毛頭無く、自分の生活や趣味を楽しみながら飄々と生きている。ようするに争いごとが嫌いのようだ。別名「闘争心」がない。異性を巡って三角関係になるくらいなら、自分からアッサリと身を引く、…というより、はじめから恋を巡る駆け引きなどという面倒くさい事はしませんよ~。などなど、なるほど確実に本能が壊れている。
     
    女を争奪のためにロシアンルーレットで命を落とす男は確実にいた。「世界を変えた科学の理論」の一つに加えられるガロアの『群論』がある。数学や科学の世界には小保方晴子のような偽物でない、真に天才とよぶべき人間がまれに登場する。まだ少年であるのに難解な「群」の概念を確立したエバリスト・ガロアも疑いないその一人。彼は15歳で数学的天才を発揮した。
     
    イメージ 3ガロアはわずか21年の生涯だった。1832年5月31日にガロアはパリで決闘を行い、突如とその若き生涯を終えた。なぜガロアがそのような結末を終えたのかについての詳細は不明だが、ペシュー・デルバンビルという青年と、一人の女性をめぐって決闘は行われたという。女性の名はステファニー・デュモテルといった。ガロアはある沼の近くでピストルで撃たれて死んだ。未明の決闘後負傷、その場で放置され、午前9時になって近くの農夫によってコシャン病院に運ばれた。ガロアが牧師の立会いを拒否した後しばらくして弟アルフレッドが病院に駆けつけた。涙ぐむ弟にガロアは言った。「Ne pleure pas, j'ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans!(泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、ありったけの勇気が要るのだから)。」
     
    ガロアはなぜか死を予期していたらしく、彼の親友と級友シュバリエに宛てて最後の研究論文を書き残している。ガロアがいたからこそ、群の概念は現代代数学に広く応用されている。フランスでは16世紀終わりから17世紀はじめ、アンリ4世の時代、年平均235人が決闘によって命を落とした。申し込まれた決闘を受諾しないことは死に値する不名誉と考えられていた。
     
    20世紀はじめまで、フランス国内で決闘はごく普通に行われ、その結果が新聞に掲載された。これも「闘争心」の表れだろう。ベンジャミン・フランクリンは決闘を激しく非難し、決闘を申し込まれても受諾しないことを積極的に奨めた。ある幼稚園の教諭は言う。「年長児でも、"このヤロー"、"てめえエ~"と言いながら、興奮状態になって飛びかかってくる子どもは少なくない。
     
    興奮といってもふつうの興奮ではない。狂暴的になる。目つきが鋭く、別人のようになってしまうこともある」という。飛び掛られた教諭は、「人間の子どもというより、ケダモノそのものだった」というように、ある程度の闘争心は、この時期よい方向に作用するし、闘争心がまったくないのも好ましくない。が、その闘争心が度を超すと、いわゆるキレた状態になる。
     
    『巨象も踊る』で有名なルイス・ガースナーだが、彼は1993年、約50億ドルという巨額の赤字を出し、瀕死の状態にあった"倒れ行く巨象"IBMのCEOに就任し、それからわずか5年で60億ドル強もの利益を計上するまでに復活させた。一体、彼は何をやったのか?なにぶん彼が闘う相手は、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズら新世代の起業家たちだった。
     
    イメージ 4ゲイツやジョブズたちは若くどう猛で、相手を打ち破るためなら24時間働くことも厭わぬ肉食系である。一方のガースナー率いたのは慣れ合った家族主義的で草食系のIBM社員たち。ガースナーから見て彼らは、ガラパゴスの生き物のような、「近親交配を重ね、強さが失われていた」。ガースナーは社員たちを鼓舞し、敵と戦うための闘争心を植えつけていった。
    ガースナーは幹部会議でビル・ゲイツらの顔写真と、IBMを見下した発言を引用、「12万5千人の職を奪ったのは彼らだ」と訴えた。「社員は打ちのめされ、傷つき、混乱していた。しかし、会社への愛着と正しい行動を取ろうという気概はあった」とガースナーがいうように、幹部社員に与えたショック療法は闘う姿勢を取らせるきっかけとなったという。
     
    「情熱」や「闘争心」は、日本の大企業では重視されることが少ない。しかし、異業種から競合が参入したり、海外企業との競争が激化のこんにち、経営者に闘う姿勢が求められる時代もないと言える。「言わぬが花」という言葉はいかにも日本的だ。これは「あれこれ言わない方が人間関係を害しない」ととられているが、真の意味はそうではない。
     
    「ハッキリと口に出して言わぬ方が、趣きや味わいがある」と、そういう情緒的に日本的である。すべてをあからさまに表現しない方が、確かにいい場合が多い。言わないからといって決して意見を持っていないのではないが、外国人からみると、「何も言わない人は、何の意見も持っていないと見なされる」。つまり日本人は「自己主張力」を鍛える必要がある。
     
    日本人はコミュニケーションのスタイルが謙虚である。日本人同士なら分かり合える部分もあるが、それでも誰かが大きな声で意見を言い出すと、異論があっても黙して大きな声の人に言われっぱなしとなる。表だった対立は避けたい、和を尊重するスタイルといえなくもないが、こういうスタイルは日本では通用しても、国際社会ではまったく通用しない。
     
    大声で話している人を遮さえぎってでも自分の意見を積極的に発信しないと、何の意見もない無能な人間と見なされてしまう。日本人コミュニケーションスタイルの基本は、まず時候の挨拶から始まって、のらりくらり、まわりくどく、そうして最後に結論が来るが、諸外国の人たちと話をするときには、最初に「バーン」と結論をもってきたほうが説得力は増す。
     
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    前置きが長かったり話が冗長だと、周囲は何を言いたいのか分からず、そういう場合、別の人にすぐに割り込まれてしまう。何かを強い気持ちで言う場合は、結論を短く、分りやすくが大事だ。それも闘う姿勢、「闘争心」の範疇だ。スポーツ選手が負け試合後監督から「お前ら闘争心があるのか!」と叱咤される場面は多いが、何より思い出すは広島カープ初優勝。
     
    お荷物球団と言われ続けた広島カープが初優勝したのは昭和50年、優勝監督は古葉竹識であった。が、優勝するなどとんでもない、誰もそんなことなど考えたこともない、選手もコーチもファンも…、そういうぬるま湯体質に「渇!」 をいれたのが、日本プロ野球史上初のメジャー出身監督のジョー・ルーツだった。昭和50年、広島カープはジョー・ルーツ監督で開幕を迎えた。
     
    ところが、わずか15試合で彼はチームを去る。日米の野球の違いなどで審判と事あるごとに衝突したルーツは、1975年4月27日の対阪神タイガース戦で、佐伯投手が投じた掛布への投球をボールと判定されたことに激昂、審判に暴行を加えたことで退場を命じられたがそれも拒否。審判団の要請を受けた重松良典球団代表が説得し、その場は引き下がった。
     
    しかし、ルーツ監督はその日のダブルヘッダー第2試合を前に選手を集め、「今後広島の指揮は執らない」と言い残して球場を去った。前年まで3年連続最下位だった広島カープの帽子の色を紺色から燃える闘志を表す赤色に変えるなど、「赤ヘル」の生みの親である。当時の主力選手、山本浩司や衣笠祥雄、大下剛史らは、「ルーツが我々に闘争心を与えてくれた」と語る。
     
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  • 11/11/14--07:07: 「競争心」
  • 「闘争」と「競争」は似て非也?いや、似ていない?それぞれ人の感覚だろう。「屁」と「おなら」は現象的には同じと思い込んでる人は多いが、実は意味が違う。「すかしっ屁」というように、「屁」とは音ナシの構え。「おなら」とは「鳴らす」の連用形の変形に女性言葉の「お鳴らし」が詰まってできた言葉だから、文字通り「鳴る」、つまり音の出るやつを言う。
     
    何でも「お」をつければ女言葉(=丁寧言葉)になるからと、「尻」を「お尻」というのはいいけれど、「屁」を「お屁」とは言わないだろうし、奈良の大仏を「お奈良の大仏」とは言わんだろう。どうしても「お」をつけるなら、「奈良のお大仏」だ。「おま○○」という言葉は「お」をつけることで丁寧語になっているのだろうか?我々は一字へつって、「ま○○」と言うが…。
     
    わざわざ伏字にすることもないし、「おまつり」といえばいいのに、何で伏字にしたんだ?自問してしまった。屁はおならのように音を立てるのは、実は礼儀に反しているらしい。しかし、括約筋を微妙に調整して、音を出さないようにするのは、なんだか卑怯者のように思う。香りは整腸具合によるから仕方ないが、すかして自分ではない顔をするのは根性悪だ。
     
    気性のよいやつは、「おなら」を出した直後に、「すいませ~ん、私です」という人間はいるが、すかして「すいませ~ん、私です」というのは聞いたことがない。実行者は心の中で(誰も気づきませんように…)と思ってるのかも知れない。彼氏や夫の前で平気で出す女がいるが、「でちゃった!」と本人の意識であるようだが、男は「出た」ではなく「された」と受け取る。
     
    「出た」と「された」の違いは、被害意識であるかないかで、いうまでもない「屁をされた」、「屁をかまされた」、「屁をひられた」、「屁をこかれた」、「屁をぶっぱなされた」など、どの言葉も被害意識である。例外的な母親の洗礼をうけない男の子は、こどもの頃から「女性は屁をしないもの」という意識になっているし、だから「された」という意識となる。
     
    どれだけ深刻に感じているかは、ネットの悩み相談の多さをみればわかる。一例をあげると、「妻がとうとう俺の前でオナラをしました。ショックです。結婚3年目、俺38歳、妻27歳、職場で出会いました。料理も上手で上品で綺麗な妻です。ある日晩酌しながらDVDを一緒に見ていた。何かを取りにいこうと妻が立ち上がった時に映画の効果音とは違う全く違うある音が…
     
    「ブ~」。俺は終わったと思いました。プーなら許せるがブーはひきます…それから妻の顔を見るとあの音を思い出す。(中略) 女性のオナラを初めて聞いたショックは大きい。いつか忘れられる日がくる?上品な妻から屁こき妻に変貌…。悲しくなります。それから二週間、ぶっちゃけ夜の営みもない。出来るわけないです…今後どうすればいいでしょうか?離婚ですか?
     
    やはり妻でも女性ですし女性として見れなくなったら終わりじゃないですか。そりゃオナラは誰でもするのはわかりますが俺の前で一生しない女性がいいですよね。ちなみにママは私はお父さんの前でした事ないって言ってました。結婚して30年、立派ですよね。妻はたった3年…、はぁ…、落ち込みますね。」
     
    コレに対する返信はいろいろある。この男を嘲ようが笑おうが、ネットで公にした以上受け入れる責任がある。だから自分で考えりゃいいんだよ。人はみな思い思いに好きなことを言うだけだから。どれほど小さき問題でも、気にする者は気にするんだから、「そんな屁みたいなことを気にするな」と回答するものもどうかしている。そんなこと言ってすぐにできることじゃない。
     
    自分もかつては相手の身になって回答したことはない。自分の価値観や、基準で言うわけだから、人にそれをいう意味は全然ないわけだが、最近は相手の置かれた境遇や心境を真っ先に考えるようになった。何かをいう以上は、それが先決だと気づいたのだろう。それでも結論は、「自分ならこうする」以外に答えようがない。つまり、相談は無意味であるということ。
     
    さて、本日の表題は「競争心」である。クラシック音楽に"協奏曲"というジャンルがある。「ピアノ協奏曲」、「バイオリン協奏曲」、「クラリネット協奏曲」など、オーケストラとソロ楽器の共演だが、実は指揮者とソリストの協演とは言えない演奏も多い。まさに競演という感じで、いっそのこと競奏曲、競争曲とした方がよいのでは?と思えるくらい折り合いがついていない。
     
    長いことN響指揮者であった岩城宏之のエッセーには、「今日はあるソリストとピアノ協奏曲の打ち合わせだ。最初にガツンと言っておかねば…」の記述もあるように、指揮者とソリストの関係は双方の解釈の違いから協奏とならない事がしばしばあった。歴史的に有名なのは、1962年4月6日、カーネギー・ホールでのバーンスタインとグールドのブラームスピアノ協奏曲である。
     
    演奏前のバーンスタインによる演奏にまつわるスピーチがレコードにも収まっている。その中でバーンスタインは協奏曲にあっては、指揮者、ソリスト、どちらがボスなのか?という問いかけをしている。最終的には、従来の作品解釈とは違ったテンポ、強弱、協奏曲形式での独奏楽器のあり方のグールドからする提示を是としないもののバーンスタインはグールドの構想に付き従った。
     
    バースタインはスピーチの最後を、「冒険精神にのっとって、これから演奏したいと思います。」としめくくっている。この手の協奏でない競奏は結構耳にしたが、30年くらい前に、外山雄三と中村紘子のモーツアルト『戴冠式』をFMで聴いたときも驚いた。ゆったりで始まったオケのテンポが、中村のソロが始まった時には、気が狂ったのでは?くらいにテンポが上がった。
     
    ソロが始まればオケはソリストのテンポに合わせるしかない。折り合いつかないままでリハを終えて、中村は始めてしまえばこちらのものとの一計を案じたのだと解釈した。外山と中村は長年コンビを組んでおり、決して不仲と言うではないが…。有名どころでは、「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲」のカラヤン&リヒテル盤が、競争曲に相応しい名演といわれている。
     
    つまり、和気藹々の「協奏」よりも、スリリングな「競奏」の方が互いの良い物を引き出すという相乗効果をあげるのかも知れない。いい意味での演奏に緊張感が漲るということか。「競争」の対義語は「共同(協同)」である。競争が必要な場合も、共同で行う場合もあるから、どちらがいいという問題ではない。「協調」の対義語は「対立」で、対立=悪ということもない。
     
    男女の対立、夫婦の対立、親子の対立、老若の対立はあるのがむしろ自然であり、対立を望まない人は収束が苦手なのだろう。収束に至らない対立もあるが、それは間違いなくどちらに問題があるはず。思考すれば道理は必ず見えてくるが、感情が災いして道理や筋道が見えない相手なら仕方ない。最近耳にしないが、かつて道理の分らぬ人間を「唐変木(とうへんぼく)」といった。
     
    語源はいろいろ言われてるが、唐(外国)を差別した言葉のようだ。「競争」がもたらすよい面、「競争」からもたらされる悪い面、どちらも避けられないが、好むと好まざるに関わらず競争社会は現実である。本を一冊読めばシールを貼るとか、逆上がりや縄跳びの二重跳びができたらシール貼るとか、そういうのはプラスに働くが、競争を煽るという点で行われなくなった。
     
    競争は大事であるけれども、「煽る」のがよくないというが、競争は煽らないと尻すぼみになるように思う。煽る、煽られないは個々の意思の問題であろうが、煽られることで失うものがあると言う事のようだ。ブログにおいても煽るの意図が丸見えで、煽られる人もマイペースな人もいる。煽られる人は他人の目に躍起になり、煽られない者は煽られる者を醒めて見ている。
     
    スーパーのチラシや商店のバーゲンの看板に煽られる人も、気にならない人もいる。煽る人、煽らない人には人間性のちがいや根本的な考え方、性格が違うことはハッキリしている。他人によって動かされない人は煽られないと思う。自身は自身の意思で動く自分は、煽られないばかりか、煽ろうとする人やツールを醒めた目で捉えるから、その手には乗らんとなる。
     
    プロ野球のゲームを観にいっても、コンサートに出向いても、動かずじっと観たり聴いたりするし、「みんなと同じにしないで恥ずかしくない?」と言われたときに、「みんなと同じにする方がよほど恥ずかしい」と返す。日本のプロ野球の、あの揃い踏み応援は異常な感じがする。メジャーの球場のようにあるべきと思うが、ここは日本だと言わんばかりのはしゃぎよう。
     
    どの人たちも、割れこそは熱血なファンという暗黙の競争意識が感じられる。むかし、Xjapnのコンサートなど、われこそが「No.1」ファンなりと衣装などに半端ない金銭投資である。何もせずで大ファンもいるというもの。人はなぜシェアをするのか?シェアの動機は、「他人に教えたい」、「自分を表現したい」、「友人との関係性を維持したい」と考えられる。
     
    上の動機を詳細にいえば、「人は良いものを見つけると、他人に教えたくなる」。「自分が何に興味があるのか、自分は何を知っているのかを表現することで、他人に評価して欲しい願望を満たす」。「情報を共有することで、友人との関係性を維持したい。同じものに感動し、熱狂することで、直接会う機会が無い友人とも親密な関係を維持したい」ということか。
     
    競争心と協調心が複合的に混じったごく普通の行動といえなくもない。「競争心」の目指すものは人間の幸福ではないかと思われるが、人との競争に勝つことで得られる幸福も確かに存在するが、競争に勝つという生き方を手放して心を満たす生も、まちがいなく幸福を得ることができる。世の中を「勝ち組」、「負け組」に分けてなどは、完璧に社会に煽られている人。
     
    自分などは、「勝ち組」、「負け組」なんて物差しって誰がつけたのかと笑ってしまいたいほどにバカバカしい。そういうは一過性でしかないし、人間は獲得したものにはすぐに慣れてしまうことを誰もが知っている。なぜ努力して手に入れたものに人間はすぐに慣れてしまうのか?逆境や不幸にも慣れて痛みを忘れるのも人間だが、こちらは生きていくためには必須である。
     
    獲得したものに慣れる理由には大きく分けて3つの理由がある。一つは、外的条件が良くなると、その条件にあったように行動パターンを変えるが、これは遺伝子による支配と考えられる。次なる理由は、欠乏感にかられて何かを獲得するために成されるプロセスから生じる「高揚感」、「達成感」。言い換えると、獲得するまでの「高揚感」を追い求めているに過ぎない。
     
    所有するものはすべて高揚感の副産物といっていい。したがって、獲得したものにすぐに慣れて、当たり前になり、新たな次なる目標に向かって高揚感を求めて突き進むのが人間である。どんなに美人の妻を娶っても、獲得したら別の女に目がいくのは、ごく自然なこと。それを抑制するのは、家庭を大事にしたい、妻を悲しませたくない、法を遵守したいという気持ちだろう。
     
    節操のない男は、いかに絶世の美人妻を獲得しようと、他の女のパンツの中に興味を抱くが、節操という言葉を「目的」と変えてみると分りやすい。上のような婚姻生活に対する目標設定をすることが浮気の抑止力になる。まあ、人間は不完全だから、一時の気の迷い、過ちはあるけれども、妻がいたところで女の尻ばかり追いかけてる男は自制心以外につける薬はない。
     
    もう一つの理由は、「幸せのアッパーリミット」といわれる心理。アメリカの心理学者ヘンドリックス夫妻は、「人は幸せでいい気分になってもその気持ちを持続させられない」と指摘する。幸せ気分でいるのも束の間、すぐに不安な気分に襲われるのが「幸せのアッパーリミット」。つまり、上限である。人は不幸なときに不満に思う。が、幸せなときでも不安に陥っている。
     
    「勝ち組」、「負け組」などの言葉のくだらなさは、「勝ち組」と言われる人の行動を見れば分る。いつまでもそれに酔い、安住でいるわけではないのを見ればわかろう。1回勝てば永遠に勝ったわけでもないだろうに、人は生まれたときから勝ったり負けたりの人生を歩んでいる。生後6ヶ月でまるまる健康優良児表彰を受けた赤ちゃんが拒食症で死んでしまったとか。
     
    脳内麻薬といわれるアドレナリンを分泌して興奮したい人間を、競争好き人間と言う。競争相手としか争わない「競争心」よりも、共認の妨げとなる自我や自己中など、闘う対象が相手ではなく内なる自分の「闘争心」がいいのかも知れない。外的条件ばかりを求め、それで高揚感は得れるけれども、実は不幸になることもある。外的条件による幸せはもろく、空虚を孕んでいる。
     
    1996年、NHK連続朝ドラマ『ふたりっ子』は、双子の姉妹の対比を描く。目標をプロ棋士という内なる世界を追い求める香子、秀才で京都大学を卒業した姉の麗子は、求めるものを外側に置いた。脚本の大石静は言う。「虚飾の世界に生きる姉、汗と泥にまみれた世界に身を投じる妹。私の幼少期はまさに姉の麗子で、自分自身へのアンチテーゼとして麗子を描きました」。
     

     

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  • 11/12/14--16:32: 「猜疑心」
  • 「一体に人間とは何なのか?」。「善人」だけ見ていて人間は分らない。「悪人」だけ見ていても分らない。などと人間を善人、悪人と分類をするが、はたして善人だけの人間などどこを探してみてもいるとは思えない。人間の中には誰ですら「悪」というものが住みついている。その悪ちゃんとどう付き合うか?が人間に求められる最大の課題ではないかと…
     
    悪は抑えなければならない。すべての悪をというわけではないが、それが人間にとっての礼儀作法ではないか。礼儀作法?悪にもランクがある。万引きから殺人まで悪の範囲は幅広く、いずれも悪なら抑えなければならない。万引き常習者は万引きが悪だと思ってないのだろうか?あるいは悪とわかっていても、悪の中の「得」に魅せられるのだろう。悪の誘惑だ。
     
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    スーパーに陳列される商品は売り物だが、万引き愛好者にとっては「売り物」には見えないのだろう。万引きの経験のない自分は、なぜそう言う事をするかの動機を想像するしかないが、商品棚に置かれているものが売り物という感覚は小学生でもあるとは思うが、お金を出さないで手に入れたいとの利得が先行するのか?これが道理に反した「悪」という。
     
    オカシナことだが、万引きする人はお金がないからやるのではなく、お金を出さずに売り物を手に入れたいというチンケな発想のようだ。それを欲といい、見つかることなど考えちゃいない。「人間のあらゆる行為は、まずは己を満足にするために行われる」という命題において、人間はだれでも自分を利することを考える。「悪」とはこんなに単純な行為なのだ。
     
    実社会を見渡せば、「何でこの人は自分の事しか考えられないんだろう!」とか、「頼むから、周囲・他人の事も考えてくれよ!」など、あまりの無神経、無造作に腹が立つ事しばしばで、周囲に気を使う人、自己中の人、いずれも人間の本質である。何が違うのかというと、万引きも同様、その場限りの思考で後先考えない。人間は対比でみると実にオモシロイ。
     
    人間対比の代表格といえば項羽と劉邦。二人の英雄の出自や性格の違い、人心収攬の差、さらには戦いにおける戦術・戦略を含めて、壮大な人間の葛藤ドラマである。項羽と劉邦の対比が示すものとして、強い奴が最後に滅びる、負けても玉砕せず、焼け太りが如く勢力を拡大する。そういうズルさ、大度のある人物が勝つという典型的な中国哲学がある。
     
    イメージ 2項羽はたえず戦いに勝っていたが、戦に滅法弱い劉邦が最後に勝って天下を取る。判官贔屓か人気は項羽が勝る。実は司馬遷にも項羽贔屓は見え、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』もあからさまに項羽贔屓である。学問も門閥もない劉邦が力をつけていく過程にあっては、そういうものがなかったことが幸いした。曹参、樊噲、周勃、盧綰などの連中は字も読めなかった。「徳」の劉邦、「力」の項羽という対比である。では、劉邦の「徳」とは何?中国の戦争というのは、兵隊さんの後に彼らの一族郎党がぞろぞろくっついて進んでいくのが特徴で、日本で言う兵站とはずいぶん意味が違う。そういう人たちにいかに食料を供給するか、が、政治の最大眼目だといって過言ない。劉邦についていけば飯を食わせてもらえるという民。
     
    そういう人が劉邦傘下に集まった。『三国志』の諸葛孔明は巴蜀の地を押さえ、そこで兵を養うという戦略を取ったように、経済的なものを押さえることに最大の眼目を置いていた。洛陽の含嘉倉という巨大な食糧倉庫の遺跡をみると、劉邦もこうした食糧貯蔵地を押さえて動いていたし、これは蕭何の仕事である。それが劉邦の最大の強みだったのではないか。
     
    項羽とて兵站の重要さくらいは判っていそうなものなのに、あっさり関中を捨ててしまうところなど、項羽には全体を見渡す目がなかったようだ。何より劉邦には蕭何という有能な軍政家がいたのは大きい。劉邦は天下を取った理由として、張良、蕭何、韓信を傑物と評価し、自分はその傑物を使いこなしたことを挙げ、項羽が敗退した理由をこう述べている。
     
    「項羽には范増という傑物がいたが、彼はこの一人すら使いこなせなかった。これが私の餌食となった理由だ」。范増だけではない、陳平にしろ韓信にしろ、元は項羽の幕下にいた連中であり、彼らは項羽のところで能力を発揮する事もできたはずなのに、自身に力があり過ぎた項羽にそれが見えず、無能(?)の劉邦には人を見る能力は自然と備わったのだ。
     
    楚の名門貴族を家系にもつ項羽が叔父の項伯を大事にしたように、一族や同郷の人間には愛情を注ぐが、それ以外の人間は単なる道具としてみていた節がみえる。嫌なやつはとことん憎むというところも項羽らしい。中農出身の劉邦はそういった感情の起伏がなく、とりあえず役にたてば誰でも結構、これが「無学無名」人間の強みである。物事に拘りがない。
     
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    不足の劉邦には多種多様な人材が参集してくる。韓の宰相の家に生まれた張良、口弁さわやかな遊説家の陸賈、読書量が半端ない陳平や驪食其、国士無双韓信に勇将彭越、彼らは生え抜き連中と違って同郷意識はなく、劉邦の人間的資質を認めて集まった連中だ。そういった「烏合の衆」を的確に見抜く眼力、適材適所に配置する能力が劉邦にあった。
     
    組織のリーダーたる人物は下層の出であれ、どこか拠り所がある。幼少時のガキ大将的体験、遊びから得た人間関係から身につけた素養が、人を動かすリーダーとして大いに役立っている。「燕雀いずくんぞ~」、「王侯相将~」の陳勝、呉広も傭耕出身でありながらも上に立つ資質があった。でなくば、一時的にせよあれだけ大規模な組織に号令し動かせないだろう。
     
    項羽や信長のような独断専行型のトップに仕えるは大変、仕えるなら秀吉、劉邦タイプ…などの巷の声を耳目にするが、劉邦、秀吉のような人間に仕えるのは実は大変で、自身を無にし、出世を望まず、主人に献身型の人間であるなら、秀吉、劉邦は理想のリーダーだが、いかんせん彼らは「猜疑心」の塊。対立心や謀叛気が少しでも見えると危ない。
     
    天下を手に入れた後に劉邦は、功績のあった韓信、彭越、黥布を殺した。いずれも独立心強く、謀叛気のある連中である。その一方、挙兵時から付添った者は最後まで大事にしている。劉邦は献身的人間と独立を狙う謀叛気ある人間をしっかり見分けていたようだ。好評のNHK大河『軍師 官兵衛』も佳境に入ったようで、しかし、なぜ官兵衛はあれほど冷遇されたのか?
     
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    秀吉が家康以上に官兵衛を怖れたのは与えた異常な石高にも現れている。秀吉が側近に自分の次の天下は誰かとの問いに、如水であると言ったという。真偽はともかく、嫡男長政の石高への不満、朝鮮出兵の際の不満が関ヶ原に繋がった。史実的にいっても官兵衛が三成方に組するなどありえない。「猜疑心」が高じるとみなが敵に見えのは孤独な王の定めである。
     
    劉邦や秀吉は人間を見る目が鋭い。仕える側はたえず気を使っていなければ、いつなんどきあらぬ嫌疑で捕らえられ兼ねない。張良も陳平も蕭何らも、殺されはしなかったが、生き延びるために非常に気を使った。そこを考えると項羽に仕えた方が楽かもしれない。ヤツならいくらでもごまかしがきくし、見えてるところだけ気をつけていればいいわけだ。
     
    「猜疑心」という見えない怖さは、勇猛で単純な項羽には持ち合わせない情動だ。仕事においても厳密な管理はせず、逐一評価などなくとも、勝手にやらせてくれる項羽型の方が力を発揮できそうだ。収入や出世や地位といった欲求願望より、自分の好きに生きたいという環境が自分には合う。性格は異なるがいずれ劣らぬ能力保持者の、いいとこ取りはムシが良すぎる。
     
    イメージ 5女三人を前に、顔はA子、ボディはB子、性格はC子と言っても挿げ替えは無理。ならば三人もらえばいい。劉邦陣営の三傑は韓信、張良、蕭何だが、頭の良かった張良は仙人になるといい、蕭何はわざと隙をつくり、一たん捕らえら、投獄されて危ういところを助かった。軍事には長けていたが、小ズルさ、大ズルさのなかった「猜疑心」の網にかかって殺された。
     
    劉邦と項羽とどちらが頭がよかったか?断然劉邦だろう。頭のよい(偉い)定義はいろいろあるが、自分の定義でいえば劉邦ということになる。名門貴族の家系に生を受けた項羽は、幼いときから叔父項梁の影響下に育つも、なかなか手を焼かせる子どもであったらしい。項梁が読み書きを教えても、「読み書きは自分の名がかければ充分」とうそぶく。
     
    将軍の家柄であるから武術の鍛錬が課せられるが一向に上達しない。項羽は言う。「剣術というものは、所詮相手一人だけを倒すもの。そんなものを稽古して何になる?どうせやるなら万人相手に戦う術でなくては…?」。それではと項梁は兵法を教えた。項羽は喜び勉強したが、要点だけを掴むとそれでオワリ。少年期の項羽はそういう利発さがあった。
     
    司馬遷は『史記』で項羽の生涯を総括し、古の賢者の言、古の歴史の事例を学ばなかったことを批判した。一方の劉邦は生来の怠け者で、農工などは一切やらず、手下を使っての盗みに乗じていた。こそ泥ではなく、金満宅からゴッソリ奪って仲間に分ける。気前がよくて大らかな劉邦のところへ人は集まった。30歳で役人に採用され泗水の亭長に任命された。
     
    やがて様々な問題を解決する沛県知事(沛公)に担ぎ出される。劉邦も項羽も学問には無縁であった。近年頭のよい子どもというのは学校の成績といわれている。自分はこの場で子どもの勉強を批判する書き込みをするけれど、勉強をしたい子どもにするなとは思わないし、一言もいっていない。勉強嫌いに無理やりさせるのは「どうだ?」と言ってるつもりだがよく誤解される。
     
    「嫌いだからやらないでいいんでしょうか?」という母親がいた。「あなたは嫌いな勉強を一生懸命やったの?」、この言葉にうろたえる母親は、決まって「わたしがしなかったから子どもには…」と言う。こんな都合のよい論理って誰が考える?あの時代は、無理やり塾に押し込んで強制的にやらせるシステムがなかったから、この母親は無理強いされずに済んだ。
     
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    そもそも勉強とは教科書を記憶すること。だからか、今の小学校でやっているような勉強というのは一種の「芸」に思えてならない。猿回しの猿に芸を教えるようなもの。不要とは言わないが、目くじら立ててやるものか?100点取ったというのは、教科書を覚えたということだから、教科書を丸暗記した子が頭がいいなどとは全く思わない。「芸」を覚えたという認識だ。
     
    学問とは社会で物事の有りようや、その展開や、応用など、必要性に鑑みた有益な知識を持つこと、身につけること。必要なときに必要な知識を持っていないと、これほど困る事はない。学問から得た知識がない人間は確かに無知であるが、経験でカバーできる。が、どうしても知識がないと収拾できないことが多い。そういう人はそんな事案から逃げるしかない。
     
    逃げてもいいけれど、逃げないで向かっていける方がオモシロイ。結局、様々な知識を持ち、様々な相手と対等に渡り合うのはオモシロイということ。逃げてオモシロイわけはなく、勝ち目がないから逃げるに過ぎない。正論吐くなら誰でもできる。らしき事は書物やネットに乱舞する。それを覚えるのは勉強だろうが、正論は相手に納得させてこそ頭の良さである。
     
    自分の意見が正論であったとしても、突き崩す理屈や意見ははいくらでもあるが、それらの意見を論理的に排斥できてこそ正論所有者であり、相手を納得させてこそ賢者である。学問とは知識を携えておけばいいのではなく、交渉術、説得力、洞察力も含めた総体である。勉強は「芸」と言ったが、本からのみ学ぶという学問も、それだけでは「芸」に近い。
     
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    体験も学問である。人間学、社会学、自然科学、人文科学、歴史、哲学、様々な要素が体験の中に存在する。極論すれば体験こそ学問である。「体験=生きた知識」という言い方をするが、レシピを読んで頭で作る料理と、実際に厨房でこしらえる料理といえば分りやすい。知識だけで満足いく料理はできない。そこには加減や技、感性の要素が必要だ。
     
    勉強はたんに入試などの目的のための学力向上のためで、終れば用済み。学問はよりよく生きるための実践的な知恵。教科書を丸暗記した人間が決して賢くないといったのは、暗記は暗記、応用力ではない。勉強が嫌いな人間には、まずは学問の重要さを説く。学力は受験のために向上させるという目的はあるが、東大に入って「勝ち組」なら、ごくろうさまでした。
     
    製造者の特権意識が満喫できてよかったね、その事は素直に喜んであげられる。決して羨ましいとは思わないが、人の価値観を人が達成できて、それを喜べない人間は卑屈だろうな。あとは、親が子どもに手をかけ過ぎたこと、そういう密着型の子育ての最大の欠陥は、子どもに「個」が芽生えるのを摘み取っていること。そこが気になるといえば気にはなる。
     
    人間は基本的にも、最終的にも「個」であって、他人は自分に何もしてくれないとぼやく人間、不満を抱く人間は、親の子への癒着が甚だしかったのではないかと想像する。人が自分に何もしてくれないのは当たり前のことなのに、共依存で育った子どもにはそこが分らない。依存心ばかりが育まれて、他人に何ごとかを要求ばかりする大人になる。
     
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    「個」の確立」が如何に重要であるか、キチンと自立がなされたもの同士が上手く協調できる社会である。ワガママに育った夫や妻が、協調家庭を築けない理由の一つに「猜疑心」という心の闇がある。携帯電話盗み見のトラブルが多いが、そういうことをするように育ったのは間違いない。受動的な言い方だが、親の視点でいえば、そういう子どもに育てた。
     
    人の生の目的は、「個」を確立させ、集団に溶け込み、社会に馴染んで行くこと。「個」対「個」にあっては警戒心や疑念も必要だが、それらを含めて「猜疑心」という。「猜疑心」が多くの誤解を生み、争乱を生んだことは歴史に学ぶ。「私」と「公」、「自」と「他」、「個」と「集」を上手に存立させること。確かに「個」対「個」は、最小単位であるだけに難しい。
     
     

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  • 11/13/14--15:40: 「自尊心」
  • 「○○心」シリーズもまだまだ続くようだが、何かを始めたら徹底してやりたい、やろうとする自分の性癖が現れている。何気に「○○心」のつく語句は何があるかと、頭の体操が楽しいからと、そこが発端になり、語句が集まればそれについて何事かくらいは書けるだろうという、自分に対する暗黙の指令である。命令といってもいいが、どちらにしろ楽しんでやっている。
     
    何かをやる前から、「そんなことできない」というヤツがいる。自分は何事も「できるに決まってるだろ」と思うタイプだから、「そんなことできな~い」というヤツには批判的だ。だから、「できない」は「やりたくない」ってことだから男らしく、「やりたくないって言えよ!」などと絞めつけたりした。どう考えても、「できない」は、「やりたくない」から派生する言葉でしかない。
     
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    男らしく言えというのは男にであって、女には言わない。「そんなことできな~い」は女の代名詞と最初から思ってるからで、だから、そういう言葉を言わずに、「やろう」とする女を評価する。これは男の女への甘やかしかも知れないが、厄介な女心をアレコレ考えたり注意したりするより、そういうものだと思ってる方が腹を立てないで済む。男には断固許さないが…。
     
    当たり前のようだが、どうしても女は甘やかされてしまう。「怒りゃスネる、叩けば泣く、殺せば化けて出る」と古来から言われるように、情緒が変幻する女は扱いにくい生き物。キツく言えども泣いたりすねたりしなければ対等に扱うが、土台無理だと諦めている。そういうときには特別扱いして欲しいのが女というもの。男と同じようにキツく言って下さいはマレだ。
     
    「男と女は(性的)対等ではないが、平等である」。そこが男が女に接する場合にもっとも難儀なところ。これは互いの思いあいがあってこそ成り立つが、権利主張と泣けば勝ちの態度に腹が立つ。まあ、女の涙は武器というが、できれば武器は見たくない。涙に弱いのではなく、卑怯な涙に腹が立つ。泣くのは恥と思う男の方が扱いやすいが、ズルい女は武器を使う。
     
    イメージ 2一般的に男の武器は手出し(暴力)というが、最近は手出し女も多いと言う。自分は男の武器は我慢だと思っている。「ならぬ堪忍、するが堪忍」というのは、芯の強い男にしかできない技だ。男の価値は「珍」に、いや「芯」にある。「芯」とは植物の茎の芯、花の芯から中身の中心となった。蝋燭の芯、鉛筆の芯。上辺を飾る女と「芯」を重視する男の違いだが、暴力に芯はない。
     
    DVなどどっちもどっちよ。ある女がこういった。「男の人と対等にやっていこうと思ったら、『女』を捨てなければ…」。そうそうそういうこと。いい心がけというより当然の心がけ。自分に厳しくしないと無理だわさ。老舗の料理人や種々の匠と言われる親方衆が、「うちは女は取らないことにしてる」というのは、何も差別ではない。様々な経験から得た真っ当な姿勢である。
     
    女が男と差別されたと文句をいうのは、厳しさにおいてではない。「何でわたしには甘いんですか!」とは決して言わない。後先考えて区別してるのに、後先考えない女が差別と言ってるだけ。ある親方が、そういうことで差別と食ってかかる女に言った。「そこまで言うなら男と同じように扱ってやる。少しでも甘やかすような言動があったら、差別と文句を言って来い。」
     
    案の定その女は続かなかった。どこやらの持病が悪化してみたいな理由で止めていった。"鬼の大松"の異名を取ったのは、元日本女子バレーボール監督の大松博文である。彼の激しいスパルタに耐えた選手は「東洋の魔女」と呼ばれた。当時の全日本メンバーは現在のような寄せ集めではなく、近藤雅子(倉紡倉敷)、渋木綾乃(ヤシカ)以外は日紡貝塚の選手だった。
     
    日本は1950年の朝鮮戦争の勃発を機に、「糸へん景気」に沸いていた。文字通り「糸」に関わる繊維産業が、政府統制のくびきから解放されて大発展を遂げていた。そんな活況に沸く多くの紡績会社では、社員らが仕事の余暇として「バレーボール」を楽しめるようにコートを作り、次々と実業団チームが誕生した。そのなかで最強を誇ったのが「日紡貝塚」である。
     
    大阪府下の貝塚市にある日紡の貝塚工場に集められた選手たちは、敷地内にある寮に住み込み、一心にバレーボールに打ち込んだ。それが「東洋の魔女」。後の東京オリンピックで金メダルを獲得することになる「日紡貝塚女子バレーボール部」の選手たちである。昭和29年に結成された日紡貝塚は、翌年には日本一。昭和34年からは連勝記録をつづけていく。
     
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    東京オリンピックで金メダルを取った大松の目に涙があった。やがてオリンピックの熱狂が去り、大松博文は監督を引退する。"おお、懐かしの提灯ブルマー"、 名門・日紡貝塚は東京オリンピックでマネージャーを務めた小島孝治・新監督に受け継がれ、公式戦258連勝を記録した。以後、チーム名が「ユニチカ」となり、2000年の活動停止をもって「東レ・アローズ」へと引き継がれた。
     
    その初代監督が大松博文であった。鬼の大松と呼ばれた男。彼は大学時代、全国大会で2度優勝したその実績を買われての登用であった。大松は女子部員に、「泣くな!」の怒号を張り上げ、そのスパルタぶりは内外から恐れられた。「いやー、ゾッとしましたもん」、のちの魔女の一人、宮本恵美子は高校時代、入部前の練習見学ですっかり怯んでしまっていた。
     
    魔女たちのコート練習の動画を見たことがある。まるで虫けらのように、ひたすらバレーボールマシンのようにしか見えなかった。彼女たちの誰一人として「自尊心」を保てた者はいない…と思われがちだが、コートの中における重要な役割としての責務が、集団から価値ある存在と他の選手や監督から認められ、尊重されることを求める欲求(自尊心)を満たしている。
     
    これはマズローの五段階欲求説の「承認と自尊心の欲求」に当てはまる。また、自分の能力を引き出し創造的活動がしたいなどの「自己実現欲求」は、オリンピックの金メダルで完遂された。目的が明確ならどんなにつらいことでも耐えられる。そういう「我慢」も一種の能力と考えると、我慢は得なことばかり。かつて運動部の生徒が就職に有利だった。
     
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    いうまでもない、身体は丈夫だし、先輩・後輩の上下関係も身についているし、「我慢をしっている」ところが評価の対象だ。文句や不満を訴えるのは、人間の自尊心だが、会社や組織やチームは自分の思うようにはならない。「イヤだ」、「やりたくない」などの自尊感情がどうしても働くが、組織プレーをすることで自尊以上に大事なものを暗黙学んでいる。
     
    「自尊心を傷つけられた」という言葉をしばしば耳にする。自分なども無慈悲な毒親に自尊心を傷つけられた。言葉による暴力は肉体的暴力同じくらい、時にはそれ以上に人を傷つける。特に、親による侮辱的なののしり、はずかしめ、バカにした言葉などは、子どもの心を著しく傷つけ、心の発育に劇的な悪影響を及ぼす。言葉に対して返す言葉をたくさん考えた。
     
    「お前のために言つてるんだ」というのがいかにも口実であるかのように、それに対して、「ボクのことを考えるなら言わんとくれ。何のためにもなってない」などと返す。こんな風に言われたら親は言葉を失うね。実際そうだったしヒステリー起こして殴る、蹴る、その前に自分は逃げる。よそ子のと比べる言い方をすると、即座によその親と比較してやる。
     
    親の言葉が大したことないと感じていた自分は、常に親の言葉に勝る言葉を考えようとした。親の心理を分析をし、暴言で対抗するより、論理を磨いた。「お前なんか産まなきゃよかった」などというものなら、「こっちも生まれたくなかった。腹に戻してくれ」などの頓知は結構働いた。「一休さん」に感心した事もあったし、頓知をすぐに考えるのは大事なことだと思っていた。
     
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    ただし、一休さんにも不満はあった。橋を渡るなと言われて真ん中を通ったのはいいにしても、おわんのふたを開けずに味噌汁を飲めといわれ、「冷めたから新しいのに変えてくれ」との返答は納得いかなかった。「それって飲んだことにはならなくないか?」であり、自分ならキリや千枚通しで穴を開けて飲む。屏風の虎の一件は、当たり前すぎてつまらない。
     
    他にも、日本一長い文字を書けと言われた一休は、竹ホウキで「し」という字を書いたが、数字の「一」でもよかった。それがヒントで友人に、「長い直線で、真っ直ぐに信号もなく、一回も止まることもなく5時間歩ける所があるが、どこか分るか?」と言ったことがある。「そんな所あるはずない」が普通の答え。正解は「ある」。デパートのエスカレータを逆に上る。
     
    いつごろか、オヤジギャグを笑わないのが若者のトレンドになっているが、それでもあえて笑わせるのを考えるのもオモシロイ。おかしいのに素直に笑えばいいのに、無理して笑いをこらえているのが滑稽だ。笑わないことで自尊心が保たれるのだろう。つまらんところで自尊心出すなと思うのだが、先日、歯科医院の受付でギャグったら受けて涙を出していた。
     
    年の頃30歳~35歳の受付嬢はいささか天然で、「今日は薄化粧じゃないですか?」とある日、スッピン気味の彼女に言ったら、「年のせいでしょうか、皮膚のシワにファンデーションが入ってダメなんですよ~」と隠すことなく説明してくれた。天然女性は妙な自尊心がないところがかわいい。また、女性にそういう悩みがあるのを初めて知ることにもなった。
     
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    まあ、ファンデーションなんか塗った事もないからな。自尊感情はあってこそ人間である。人間は思い上がらずして何ができるのかと。美人は我が身を美しいと思いあがっておればこそ、より美しくも見え、また美しさも増そうというもの。自尊感情とは自らへの肯定感、あるいは否定的態度でもある。自分を「これでよい」と思うのはいいが、他者軽視は余計なこと。
     
    自尊心が強くて問題なのはそこだろう。自分を尊ぶだけでは物足りない、だから他者軽視に回る心理を突き詰めるととどのつまりは自信がないのだろう。年長者が「最近の若い者は…」と言う場合、それが他者軽視な言い方である場合は多い。そうではなくて、戦後の経済的厳しい時代を送った年長者が、他人を厳しい目で捉えてエールのつもりで言う場合もある。
     
    自尊感情が高いなら他人を見下さなくてもいいわけだし、自尊感情が低いから他人を見下すことで高めようとするのかも知れない。まあ、他者軽視に基づく中途半端な有能感の背景には、「希薄化する人間関係」が存在するのだろう。他者軽視の裏には実は他者を怖れる何かがあるのかも知れない。他者を脅威とみなせば、背伸びをして弱い自分を防衛しようとする。
     
    自分の頭の悪さを差し置いて、「勉強しないとお父さんみたいになってしまうよ」というバカ母がいる。自身のことが見えていない無理性かつ、他人の悪口大好きのヒステリー性向でないと、こういう恥知らずな暴言は吐けないものだ。勉強しない子に、勉強しないとどういうことになるかを教えたいというより、夫に対する潜在的不満を晴らしたいのだろう。
     
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    このような言葉はある日突然言われるわけでもないし、夫が妻に徹底的に舐められてるんだろうよ。妻の若い時分の事情を知ってる夫が、彼氏をとっかえひっかえする娘に「お母さんのようなヤリマンになるんじゃないよ」と言ってるようなものだし、いずれも口に出すべくことではない。「お父さんのように~」という妻は、おそらく勉強ができた自負があるんだろう。
     
    小中高にどれだけ勉強ができたとしても、こういう言葉を発するという思慮のなさ、そういう意味でバカ母である。頭の良し悪しとはこう言う事だと思った方がいい。子どもに父親の体たらく、不甲斐なさを教えて勉強が好きに、楽しくなるわけでもないだろうが、その点においても頭の悪い母である。過去の成績や学歴を自慢しても、今はバカな母親である。
     
    かつてはバカでも利口な人間もいれば、かつては賢くて現在はバカもいる。どちらが問題であるかは、今が賢いかどうかでしかない。遠慮することない、「お前は過去の成績や学歴を自慢したいのだろうが、今はどんだけバカか分ってないな。学校はいいから、寺にでも行って座禅でもして来い」と言えばいい。もっともこんな言い合いをする夫婦も情けない。
     
    子どもの前で配偶者の悪口をいうのは、夫より妻の方が多い。「お父さんのようになっちゃだめ」、「お父さんは本当にだらしない」など、子どもに良い環境であるはずがない。夫に言う分は問題ないが、子どもに言うところがバカの見本。自尊心を崩壊させられた夫も自分の居場所がなくなり、家へと帰る足は遠のいてしまう。家族の悪口は家族の前で言わない。
     
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    子どもが男の子なら、将来の生き方のモデルを失うし、女の子なら、幸せのモデルを見失うと言われている。米アマゾンのサイトで「Self-Help (自己啓発)」のカテゴリーから、サブカテゴリーである「Self-Esteem (自尊心)」に5000冊もの本があるのを確認できる。大半が強い自尊心を持てない理由を教えるだけでなく、自尊心を高める方法の伝授を目的としている。
     
    そうした本が売れているのは、少なくとも西洋の文化においては、「自尊心」が個人の成功の礎と考えられているからだ。自分自身を素晴らしいと思えなければ、人生で成功を収めることなどできない、という理屈である。日本で自尊心は謙虚さと対比される。自尊心が高い=高慢というわけではないが、アメリカでは謙遜は自分の能力を発揮できなくなると教える。
     
    謙遜を示す語句は「self-imposed handicap (自らに課したハンデ)」であるからだ。謙遜よりも率直を選ぶようだ。最近の研究では、「自分は素晴らしい」プライドを保ったり、自分に厳しくしたりすることは成功にはつながらない。むしろ必要なのは、自分を慈しむ心であるという。自分を大切に思ったり、愛したり、自分に価値を感じたりも「自尊心」である。
     
     

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  • 11/14/14--07:05: 「羞恥心」
  • 「羞恥心」は、自我や自尊心の延長にある概念で、自尊心の強い人は実は臆病であったりする。なぜって、自尊心が傷つくのを怖れ、それを隠すために尊大に振舞ったりもする。特別屈折した心情ではないし、人間の中に普通にある感情だろう。肩で風を切って与太歩きするヤクザのチンピラが実は小心の臆病者であったりする。人は見かけによらないは結構ある。
     
    確かに自尊心の高い人は尊大に見える場合が多いが、本当のところは分らない。強い羞恥心の持ち主は臆病風に吹かれて見えるが、羞恥心の塊と思えた女性が一転して大胆、というのも少なからずあった。女は羞恥、男は豪胆というのはどうなんだろうか?男の方が羞恥心が強いという場面も少なからず見た。羞恥心はしばしば罪悪感と比較される感情である。
     
    イメージ 1羞恥心を感じやすい人は、罪悪感を持ちやすい人より攻撃的で、反社会的であるとする研究もあるが、なぜなら羞恥心は、外部への帰属、他者への強い焦点、復讐といった感情や行動を発生させる屈辱感を伴い易いからである。逆に羞恥心をあまり感じない人はその反対の傾向にあると。羞恥心にもいろいろあるが、大勢の人の前で自分が発言をする場面を想像されたし。
    この時、ほとんどの人は極度の不安を感じ。うまく発言する事が出来るだろうか。何か言われないだろうか。そういう不安が羞恥心と形を変える。しかし、こういう場合にあって極度の不安・罪悪感・羞恥心を感じない人がいるならば、大勢の前で話す事に慣れている人なのかもしれないし、「自分」をしっかりと認識出来る強い自我を持った人かも知れない。
     
    慣れないから不安に陥るが、慣れたら不安は解消する。スピーチに限らず、多くの事は慣れたら不安はなくなる。マイナビが『20代の本音ランキング』という調査のなかで、「自分が人見知りだと感じる瞬間」を聞いたところ、「初対面の人に自分から話しかけられない」と答えた男性が何と47%に上っていた。さらに、以下のような回答も得られた。

     ・微妙に知り合いの人でも、2人きりになると話せない 
     ・顔見知り程度の人と世間話をするのが苦手 
     ・買い物中に店員に話しかけられるのが苦手
     
    などという人も少なくない。それゆえ、自分から何か話さなければいけない状況をつくることを極力避ける傾向がある。システム会社に勤務しているS氏(25歳)は、人見知りで世間話が大の苦手である。そのため、仕事で上司や同僚と取引先まで移動する時間が苦痛で仕方がない。先日もオフォスから電車で約1時間半、職場のエンジニアと同行する機会があった。
     
    「同じ車両で横に並んで座って、沈黙が続くのは辛いです。ただ、スマホを見て時間つぶす訳にもいかない状況であるし、そこで世間話を切り出してみたのですが、すぐに話題が途切れてしまいました。その後の到着までの時間がとても長く感じられ、どことなく漂う気まずい時間をどうしていいものやら大変でした。」
     
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    「あがり症で人と面と向かって話すのが苦手な人間」が、日本最大の流通グループのトップに君臨し、その「話し上手さ」は財界でも評判である。その人は、国内最大流通グループ、セブン&アイ・ホールディングス会長兼CEOの鈴木敏文氏である。鈴木氏は今でも初対面の人と話すときはあがってしまい、一対一で雑談をするのが苦手という。
     
    「30分も話しているとネタがなくなり、何を話していいかわからなくなってしまう」というから、不思議だ。それでいて、「話し方の名手」としての顔も持っている。社内外で多くの講演・講話をこなす。事前に原稿を用意せず、ぶっつけ本番で臨み、前置きせず、一気に本題に引き込む語り口には定評がある。あがり症でも、人見知りでも、話し下手でも成功できるようだ。
     
    韓信が街の若僧どもの挑発を受けずに股をくぐった時、「なんと、臆病者よ」、「腰抜け」、「恥も知らぬ男め」などと罵詈雑言をあびせられたが、韓信はひと言も発せず、表情を変えることなくその場を立ち去った。韓信は鈍感で恥知らずな男ではなく、無駄な労力を惜しんだといわれている。師でもある栽荘にその時の心情を打ち明けている。「恥は一時、志は一生」のようだ。
     
    日本の武士道は「命より名を惜しむ」世界だから、こういう屈辱には耐えられない。それを知ってか武士に股をくぐれなどという町人・農民はいないが、上の「韓信の股くぐり」と同じ、『神崎与五郎、堪忍の詫証文』というのがある。元禄15年3月、神崎与五郎は、大石内蔵助の内命を帯びて、京から江戸へ向かった。内匠頭に仕えて5年、五両三人扶持の微禄ながら誠実の士であった。
     
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    お家断絶ののちも内蔵助の任あつく、堅実な人柄を見こまれての出府であった。与五郎は道中を急ぎ、箱根山のとある茶屋でしばしの憩いをとっていた。そこへ馬方がひとり入ってきた。街道一の暴れ者として人々に嫌われている丑五郎というならず者である。「お侍さん、馬はどうだね」と、丑五郎に呼びかけられた与五郎は、何気なく「わしは馬は嫌いだ」と答えた。
     
    「なに!侍のくせに馬が嫌えだと、ふざけるねえ、ただの雲助とはわけが違うぜ!」罵ったかと思うと、いきなり与五郎の胸をどんと突いた。思わず「無礼者め!」と刀の柄に手をかけた与五郎だが、(いや待て、たとえ雲助一人でも刀にかければ何かと取調べがあり、江戸入りが遅れる)と思いなおし、「いや、わしが悪かった、許せ」と大地に両手を突き詫びた。
     
    ばかりか与五郎は、丑五郎のいうままに詫証文まで書いた。事件の経緯は史実ともなんとも言えぬが、与五郎の自筆の証文が現存している。後に神崎与五郎が赤穂事件の四十七士の1人と知った雲助は、深く後悔し生涯神崎与五郎の墓守をしたという。赤穂浪士の解釈は日本人と西洋人とではまるで違い、ロシア人で海軍士官のゴロウニンはこう述べている。
     
    「『恥辱』が祖父から曽孫にまで伝えられて"復讐の義務"を果たすなどバカげているとし、現今では恥辱も早々に忘れられるようになったようだ」と、恥辱に対する復讐を忘れた武士道が廃れたと証言している。ゴロウニンが日本に来たのは幕末で、その頃すでに武士道は風化していた。人間にとって不自然で脆弱な規範の多い武士道はそうなる命運であった。
     
    イメージ 4「恥辱を忘れた武士道が廃れた」というのは言いえて妙だが、武士道精神を賛美し、肯定した三島由紀夫は、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東に一角に残るであろう」と書いている。三島のいう日本人観にとって、これらは羞恥の極みであったろう。上の言葉は彼の自殺の4ヶ月前、なくなる日本を見るに忍びない三島は、だから死ななければならなかった。三島には『羞恥心』と題するエッセイがある。その中で彼は、「日本では、戦後女性の羞恥心が失われた以上に、男性の羞恥心が失われたことを痛感する。私自身が知らず知らずの間に時代の影響をこうむって、男の羞恥心を失いつつあるのである」と述べている。
     
    彼のいう「男の羞恥心」とは男らしさの崩壊であり、男の羞恥心の欠落は女の羞恥心の薄れと平等主義がもたらせたものとしている。つまり、女の羞恥心の欠落に男が迎合したということ。淫らな女を戒めてこそ男であると三島は言う。彼がエッセイで予言した、「男女の中性化の時代」は男が女装して面白がる時代にある。三島の14年目の11月25日は間近である。
     
    画面に現れると即座にチャンネルを変えるのが、マツコ・デラックスとジャパネット・タカタのCMである。理由は自分の中にある。「男が女装して何が悪いの」と言ってた時代は過去のもの。それを認めてた世相である。それにしても「男が女装して何が悪いの?」と問えるのは芸能人、もしくはその手の飲み屋の特権で、一般社会の勤務ではあり得ない。
     
    だから、彼らは自分の居場所が芸能界な訳だから、それなら何ら問題はないということ。一般企業のサラリーマンでも女装愛好家はいるだろうから、それは公私で区切ればいいこと。まさか、女装で仕事に行く事はない。嫌悪感を与えるなら、文句を言う前に与えられないようチャンネルを変えれば済むことだ。ジェットコースターが嫌なら乗らなきゃいい。
     
    今の時代に女装が羞恥心とは自分も思わない。あったらやらないし、ないからやってるだけのこと。だから、ない人に「羞恥心」ないのかは言葉の無駄。バカにバカと言って起こる奴は基本バカでないように、「うん、バカです」という人には言葉の無駄だ。また、三島は「羞恥心は微妙なパラドキシカルな感情である」とも言っている。どう逆説的なのだろう?
     
    イメージ 5「羞恥心」を抱いている時の人間は、あたかも罪悪感のようなナルシシズムを抱いているかもしれず、「憎悪」と「愛」とのアンビヴァレンツ (両面感情) を隠しているかもしれない、という説明はよく分るし、納得できる。女がある状況で、恥ずかしくはなくとも、恥ずかしいと思い込むことによって、ナルシシズムを得る事は大いにあり得る。実際そのように行動してる女は多いはずだ。
     
    「憎悪」と「愛」も同じことが言える。斯くも「羞恥心」は、人間の深層における心地よい隠れ家のようなものであろう。古人はコレを称して「嫌よ、嫌よもいいのうち」と悟っている。しかるにこんなものは、本当の「羞恥心」にあらずと誰が言える?「羞恥心」は体現者の感情であり、みだらに他人如きが越権するなかれ。女は男の前にて知恵者であるからして、羞恥演ずる也。
     
    羞恥心なき女と、羞恥心ある女とどちらがいい?などと男に聞くだけ愚問である。美人なのに謙遜する女がいる。それが本心なのか、作為なのかは分る、本心である場合は羞恥心に思えるが、作為である場合は虚栄心。以前、友人が「わざとら心」という造語を使っていた。つまり、「わざとらしい女」が多いという意味で、称して「わざとら心」と言う。
     
    美しい花でさえ引け目を感じて恥らうというのが、日本的である。これが「花も恥らう17歳」の語源だが、近年は12歳くらいに下がったかもしれん。正確には「花も恥らう乙女」と言う。「おとめ」は「おとこ」から派生した対語だが、かつては処女を意味した。「乙女心」は死語だろう。コレだけ情報化社会にあって、「乙女心」を維持するのは至難の技。
     
    人に「美しい顔」があるように、「美しい心」もあり、「恥ずかしい心」の持ち主もいる。「顔」は見えるが「心」は見えない。それは時に現れる。自分の中にもあって、時に人前に現れるだろうが自分には見えない。なぜ人の心は見えるのに、自分の心は見えない?答えは簡単、見ようとしないからだ。「美しい心」はともかく「恥ずかしい心」は見なければいけない。
     
    自分の中の恥ずかしい心をどうすれば見れる?人前に出される前に現れないようにできるのか。自分はこう考える。恥ずかしい心を寸前で止めるには、恥ずかしい心が何かを分析する。卑しさ、身勝手さ、醜さ、貪欲さ、ズルさ、意地悪、卑怯、倦怠、横着、などと把握し、理解して自身に居座るそれらを嫌悪する。人のそういう心を嫌悪するだろうから、自分の心も嫌悪する。
     
    そういう感情が沸き立つ前に歯止めをかける。「つまらん欲をだすな」、「見栄をはるな」、「自慢をするな」、「カッコつけるな」、「横着するな」、「意地を張るな」、「相手を見下すな」、「相手を思いやれ」、「卑怯な振る舞いをするな」、これらを自分に言い聞かせている。「徳」のある人は言い聞かせなくても自然にできるのだろうが、それは無理というもの。
     
    人間だから腹の立つ事もあるが、すべてに我慢をするのがいいとは思っていない。「いい人」ぶって自分に無理する事はすべきではないが、その無理の度合いがだんだんと広くなっていく。30年前には看過できないようなことが、10年前には何でもなくなり、10年前に腹が立つようなことが、こんにちでは許せるようになる。それを"人の成長"と呼ぶのだろうか?
     
    大人になっていくとは、そういうことなのだろう。ある20代の女性が幼児に「おばちゃん」と呼ばれてむかつき、「おばちゃんじゃない、オネエチャン」と言い直させている。子どもの他愛ない言葉に目くじらを立てる幼児性、こういう光景はあちこちに見れる。もしその幼児が、「しょうもない事で目くじらたてないの、ガキんちょだね~」と言われたらどうする?
     
    大人は子どもをあやせてこそ大人だ。親が子どもにむかつくのも同じこと。"あまりに大人気ない"という言葉は親にも当てはまる。自分は小学高学年で、母親の言動を見下していた。それはもう、親の体をないしてはいないということ。以前、中国を支那と呼ん石原都知事に「支那と呼ぶな」と楯突いた中国。中国は「China」。古代インド人が中国を「シーナ」と呼んだ。
     
    秦の始皇帝の名声がインドまで届き、「秦」の音である「Chin(シン)」の後ろに母音の「a」がくっついて「China(=シーナ)」と変化したもの。それが英語のチャイナ(China)となる。日本に支那の語が入ってきたのは江戸時代で、新井白石が「支那」と表記した。このように支那という言葉は単に音訳された外来語、差別的意味はなかった。中国の怒りは戦勝国の奢りだろう。
     
    戦争好きの中国が、いちいち日本に干渉し、あるいは仕掛け、「平和憲法を維持せよ」なんか余計なお世話。こういう恥知らず国家に怒りをもたない方がどうかしている。日本は戦争のない国、戦争を放棄した国家だが、それをいいことにチャチをいれる中国・韓国のような羞恥国家には、断固精神的な戦争を廃さない。現行憲法下で日本のとるべき態度はそれしかない。
     
     

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  • 11/16/14--07:05: 「敵愾心」
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    ある女性が、デパ地下の試食商品について持論をいうので、話になることにした。「試食は食べてくださいと出しているんだから、それをアレコレいう方がどうかしてると思います」と、案の定バカであった。この人と自分(を含めた一般人)の考え方の根本的な違いをまず、本人に分らせることが大事で、それなくして延々言い合いをしたところで時間の無駄。
     
    自分はこのように諭した。「試食品は食べていいものですから、食べるに関してはその通り。だけど、試食品の"食べる"には別の意味があり、用途があるのをあなたは考えないのか?感じないのか?もしそうなら、話をしても無駄。勝手にむしゃむしゃ食っとれよ」といったら、「回りくどい言い方する人ですね。もっと率直にいったらどうです?」という。
     
    この言い方のどこが回りくどいのかと思うが、相手がそういうならそういうレベルの相手なんだろう。だから聞いてみた。「回りくどいというなら、コレをどう考えるか答えてくれんか?化粧品の試供品サンプルって知ってるか?あれは実際の商品に比べて小ぶりというか、小さくないか?なぜ、そうなのか答えられるか?」と、バカには分りやすくいう必要がある。
     
    イメージ 2「お試しだからでしょう、あなたバカにしてんの?」あらあら、もうこんな言い方になってしまって…、この時点で話す気が失せた。この女を分らせて何の意味があるのか、こんなヤツは好きなように社会に放りだしているのがよいと感じた。黙っていると怒りからか、追い討ちをかけてきた。「あなたって正論いう人ね。正論いって、それでオワリみたいな」
    なんとなく、試食の意味が分かったんだろう。試供品サンプルの例を出したところで。それで試食について話すのは不利とみて、個人攻撃にシフトして、どこまでも自尊心を守ろうとしてるのが見え見えである。「正論なんかバカでもいえるよ。何にも難しいことじゃない。難しいのは正論をバカに理解させること。試食はタダの食い物でないことを分かったのか?」
     
    分ったならいいが、私はあなたに説得されたくない、分かりたくないというなら、話すの止めた方がいい、気分悪くなるだけだろ?こっちはどうだっていいんだから」というと、「何を分かったようなこと言ってんの?あなたってバカじゃないん?」と言う。「当たり前だろ?賢いヤツがバカと話そうって気になるか?それくらいは分った方がいいぞ」
     
    ここでブッチン退出したが、こういう風に、自分の考えを人から説得されるのを嫌う女は多いね。何が正しいを見つけようするのではなく、自分の考えにただただ賛同してくれる人はいい人、そうでない人は大嫌い、べつに人がどういう価値観でどう生きようと関知しないが、こんな女を妻にもらった男はどうするんだろ?互いが意見が違うのは別にいい。
     
    しかし、どちらの意見が正しいかを話し合いで決めていくわけだが、それなのにこういう態度をとると男はもう話し合いをしたくなくなるだろう。「男の人はどうして理屈ばかりいうの?」という女は多い。「理屈は相手を分らせるためにある」というのがなぜ分らないのか。女は感情で相手を分らせようとし、「そうよね、そうそう」と、分る相手ならいいよ。
     
    そうばかりじゃないだろ?「そうよね、そうそう」が本当に分かっているばかりではない。「いや、そうじゃないでしょう?違うと思うな」といえる女なら、「違うと思う理由をいわなければ、相手も納得しない」。「何で違うと思うの?何で~」と突っ込まれ、「いや、なんとなくだけど…」で通用するのが女の世界であっても男の世界ではそれでは許してくれない。
     
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    友人であれ、会議の席上であれ、反対意見や異論には明確な根拠なり、理由を言わない限り納得しないだろうし、理由も言わずにただ反対ってのは相手にされない。物分りの悪い人間と物分りのいい人間がうごめく世の中で、試食品は食べるために置いてあるんだから遠慮しないで食べていいというなら、そういう人間に営業妨害のレッテルがつけられて当然だろう。
     
    なぜ、そんな簡単なことが分らないのか?理由はバカだからである。試供品サンプルをハガキで注文して、送られてきたのがあまりに小さいからと文句をいうのと同等のバカだと思う。試供品サンプルは理解するが、試食は理解できないというなら、単に食い意地が張った卑しい人間とも言えるが、どちらにしてもバカの範疇だ。子どもにむしゃむしゃ食わせるのもバカ。
     
    育ちの悪い子どもを育てている。本当にウィンナーソーセージを、子どもが美味しいならと、買う意思を持って子どもに味を見させるのなら節度のある親だが、育ちの悪い親の根性が育ちの悪い子どもを作る。「アレは買う人に味を見させるものだから、食べてはいけません」と、それが教育だろう。節度や我慢をさせるという立派な教育は社会にたくさんある。
     
    我慢を教育した子は、ちょっとやそっとではキレない。我慢をするというのは、イヤなことに耐えるだけではなく、明日の(飛躍の)ために今やるべきことをやる我慢も多い。ゲームがしたい、テレビがみたい、友だちと遊びたいという気持ちを我慢させるというのは親にとって実に難しい。取り上げたりするのは愚の骨頂で、それは我慢をさせるとは言わない。
     
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    我慢させる子をにしたいと、そういう理念を親が持っていたなら、もう0歳頃から始めなければダメだと思う。ようするに、「我慢させる」ためには、ルールとかマナーとか、そういう価値を子どもに植え付けなければいけない。早くからルールを守らせるように親が努力しても、自我が芽生える頃には、「友だちは何でいいのに、うちはダメなの?」そういう疑問が沸く。
     
    「友だちの家に泊まりに行っていい?」というのが小学高学年時に我が家にもあった。自分も妻もそんなことあり得んが共通の意思だったが、子どもは他所と比べて不満を言う。「我が家の決まりは父が作った。それが嫌ならどこかにもらわれて行くか?頼んでやってもいいぞ。電話番号教えてくれ。決まりを変えるつもりはない、お前の考えを変えろ」と、言える親が今いるのか?
     
    頑固に価値観を押し付けるのは、どうしても必要になる。だいたい、「よその家はこうなのに、なんで家は」なんて当然生まれてしかりだが、「よそがそうならじゃあいいよ」ってそんなことばっかりやってたらどうなる?子どもの機嫌をとり、子どもに媚びる親が多すぎる昨今だ。家にドッかとした柱がいないと母はO.K、父はNo、でもめる。「船頭多くして船山に登る」だ。
     
    キチンと、子どもの目線に立って話せば納得させられない事はない。試食をパクパク食ってる子などいない。注意してみていると、ドロボウネコのような周囲を気にしながら、間をおいて食ってる子が多い。親は見て見ぬフリをしているのは、一応「たくさん食べてはダメよ~」という上辺の注意をするから、親の目を一応は盗んでいるようにやっている。
     
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    「なにやってるんだ。買う気もない者がそんなことするもんじゃない!」と、手の平でもパシリと叩けば二度と人の目を盗んでそういう事はしない。結局、親がズルイし親が卑しいんだ、それしかない。タテマエの注意なんか本気でないのは子どもがいちばん知っている。躾や教育は中途半端ではいけないなと、デパ地下の試食コーナーを見て、つくづく感じる。
     
    何が正しいという理念は、心の貧しさの前に消失してしまう。決して家系が貧しいわけではない、ママはヴィトンのバッグをぶら下げている訳だ。「貧乏人がそういう物を欲しがるわけがない」と誰かにいったら、「貧乏人だから欲しがるんじゃない?」と返した女がいた。「そうじゃない、見栄を張るから欲しがるんだ。貧乏人が見栄を張っていい訳ないだろ?」
     
    「なんで、貧乏人だって見栄を張りたいでしょ?」、「破綻するだろ?それでもいいなら張れば?」こういう論理にしか行き着かない。どう考えても当たり前の論理だが、「貧乏人だって見栄を張りたいでしょ?」なんてのは感情論であって、理性と感情をつき合わせて、正しい生き方を模索するわけだ。そうでなければ借金地獄に陥るし、感情先行の結末だ。
     
    女が虚栄心が強く、金もないのに見栄を張ったり、高級ブランドを持ちたいのは、女の感情として当然かも知れないが、感情を優先させたら家計がどうなるかを考えないから悲惨なことになる。感情の行く先は理性であるからして、感情を抑えるのも「我慢」である。おそらく、我慢を教育されなかったか、あるいは我慢を強いられた反動なのか、いずれかの結果だろう。
     
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    子どもに我慢を強いることでの反動があるのは否定はしないが、一つだけ言えることは、親も我慢をしているか、そういう姿を子どもが目の当たりにしているか、も大事な要素。子どもはちゃんと見ているもので、子どもに我慢を強いる親が、そうではない生き方、素振りをするのは許せないもの。我慢が普通に行われている家庭であれば、誰も我慢を強いてはいない。
     
    「最近の若者は我慢が足りない」、「我慢することを知らない」などの言葉は四方八方から聞こえてくる。だからといって、その子の親が何をできるわけでもない、その子自身も我慢をする事はあまりに苦痛でしかない。すべては後の祭りであって、どうして3歳~5歳時期に我慢をさせなかった?だけが原因である。休日に寺で座禅を組み、滝に打たれて直るものでもない。
     
    最近、長女の息子(孫)と洋食を食べに言った時に、あまりに洋皿を汚して食べる孫に驚き、食後に孫の皿に飛び散ったころもや食べかすを一点に集め、「どうだ、この方が綺麗だろ?」と見せた。口であれこれ言うより、視覚的に見せるのがいいと感じてその方法を選んだ。こんなのは母や祖母がもっと早い段階で気づくべきだが、誰も言わないなら爺が出動するしかない。
     
    そして、2ヶ月後に同じ洋食店で同じものを食べた。孫は自分の隣の席で…。見ていると食べる間からカスを上手く処理して、皿を汚さないように食べているではないか?後半になったころ、「爺ちゃんこれ見て、きれいじゃろ?」というのにも驚いて、「めっちゃ綺麗過ぎる。前と違って驚いて心臓が止まりそうになる」と言ったときの、微笑ましい顔が今も浮かぶ。
     
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    「爺ちゃんの皿とどっちが綺麗か最後に見せ合いしよう」。と言ったが、娘も少しは頑張ったんだろうが、問題は言い方なんだろう。「ちゃんといってきた」、「今でも時々注意する」、そんな言葉が専売特許だが、どういう風にいえば分らせられると、そこの知恵が浅いと何の効果もない。「言ってる」、「やってる」で結果が出てないなら、何もしてないのと同じ。
     
    男が理性的なのは、子どもに何かをいう場合に選択種を何通りも考えて、これがベストというのを模索する。まるで、将棋の対局中で難しい局面で、次の一手をあれこれ思考するのと似ている。世間ではこれを「子どもは怒るではダメ、叱るのがいい」という言い方をするが、感情任せにガーガーいうのではなく、どういう風な言葉がもっとも効果的かを考えれば自然そうなる。
     
    将棋の次の一手も、女を口説く時の言葉も、常に最善・最適でなければ効果はない。子育てと言うのはそういったあらゆることの集約とも言える。女をたらした男が父親になれば、子どもをたらすのも上手いハズだが、女と同等に子育てに興味を抱けばである。であるなら昔取った杵が役に立とう。世の中何が災いするか分らないし、それこそ「風が吹いたら桶屋儲かる」だ。
     
    イメージ 9「デパ地下の試食を遠慮せずに食って何が悪い!」というような、脳ミソのふやけた母親がどんな子育てをするかなど聞かずともわかる。もう少し努力してバカを直した方がいいし、死んでも直らないようなバカ女は数みたけれども、一生懸命に取り組んで努力すればバカは直るというのも持論だ。バカは何もしようとしない人間のこと。ただそれだけのことだと思う。
    人間なんて、何にもしなかったら一律バカに決まっている。それがイヤだから、いろいろ工夫し、改善したいからアレコレ学ぼうとする。つまり、バカを排除するのは心の健康を得るためだ。人を愛し、物を愛し、働き、遊び、しっかりとものを考えることができること、それが心の健康である。子どもは大人になったら子ども時代を忘れるというが、そんなことはない。
     
    我々の中には過ぎ去った一時期のものとしてではなく、継続する性格の一面として"子ども"が住んでいる。それだから、子どもに対して親切であったり、寛大であったり、優しくできたりするわけだ。幼児の世話は要求を満たすこと一点しかない。が、子どもはいつまでも幼児でいるはずもないわけで、親はそれに応じて子どもの要求を満たさない事へとシフトする。
     
    乳幼児期は、子どもを親の手許から離し、社会化させるためにもっとも重要な「始めの一歩」となる。長い間、子どもは「ダメな存在」、「かんしゃくを起こす存在」、それゆえムチを惜しむなかれと言う時代が続いた。キリスト教的原罪説である。18世紀の啓蒙時代に、ルソーの『エミール』一冊が口火となって、妥当な取り上げ方をされることとなる。
     

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  • 11/17/14--07:57: 「愛国心」
  • childlike…子どものように無邪気な
     
    childish…幼稚で愚かしい
     
    言うに及ばずだが、二つの言葉の語意の違いは「childlike」に軍配があがる。子どもが大人に成長していく過程において悪に染まっていくなら、子どもは子どものままでよいのか?という命題が生まれるが、子どもが子どものままでは大人の判断ができないことになる。したがって、子どもが大人の判断を身につけるというのは、実は悪に染まって行くことでもある。
     
    「悪に染まる」といっても限度があろうし、子どもは決して邪悪な大人になってはいけない。「childlike」は、子どものような"悪に染まらない"無邪気な心を大切にせよだろう。がしかし、決して幼稚で愚かしくあってはならず、物事の判断においては大人でありなさい。これは聖書の中にパウロの言葉として記されている。「はじめに言葉あった」の西洋はいかにも言語の国。
     
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                     いわさきちひろさんの描く子どもたちを眺めながら、彼女の「子ども心」に洗脳される
     
    それに比して日本人は観念の民族であろう。明確より曖昧をこのむ日本人の幼児性を示す言葉には頻繁に出くわす。『日本人とユダヤ人』の著者(であろう)山本七平は、日本というのは変チキな国と言う。戦争感覚のない国が一億の民を擁し、枕を高くして寝る不思議な国という。それがなぜに不思議?日本は戦争を放棄した平和国家なのだからそんなの当然ではないか。
     
    と、この考えが幼稚で不思議なのだという。平和憲法を基軸に、戦争を放棄すればどの国でも平和になれるのか?そんなバカなことはない。日本は高額な金品を捻出してボディーガードを雇っているだけのことで、自国の安全を他国に委ねるという、これまた不思議の国である。そういう国が真の独立国家といえるのか。この議論は何十年もなされているが現状のまま。
     
    自主防衛能力を持たない国々がどれほど悲惨なめにあうか、前世紀のポーランド、現在のチベット、ウイグルの例をみるまでもなく、日本が幼児性を脱却して独立を維持するためには、必要最低限自主的核抑止力を持つべきではないかと。日米同盟を維持しつつ米国への依存度を低減させ、同盟関係を多角化させる。いつまでも「友好と信頼と協調」外交はいかにも小児的だ。
     
    山本七平は言う。「平和国家ってのは、夢中で戦争を研究する国なんです。健康であろうと思ったら、病気を研究するのと同じ。なのに日本に日本に戦争論がない。こんなオカシな話ってのは、外国からみて正気じゃない。戦争論やると戦争になるなんて言ってね。だから、日本人にとって戦争は子どものお化けと同じ。『怖いから見ないよ』って向こうを向いているわけです。」
     
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    確かに、「平和を願えば平和がくる」などというのも、子どもじみた発想だ。選挙で議席を得ても何もしない政治屋どもにくらべ、山本七平の方がどれほど「愛国心」に満ちているか。ところで現代人たる我々にとって「愛国心」とは何たるや?「日本人に生まれてきてよかったと思う」、そんな言葉はそこらじゅうから聞こえてきた。別に疑いはしないが聞き流す言葉。
     
    日本人以外をやったことのない日本人が、「日本人でよかった」というのも説得力に欠ける。「愛国心」を口に出していうのもどうかと思うが、心に秘めようが口に出そうが、国を愛そうが、国を憂えようが、それなりの愛国心に違いない。他人に押し付けたり国家が無理強いしたりするものでもない。現実に愛国心があるからどうする、ないならどうするというのも不明瞭。
     
    愛国心のある国民は国から毎月1万円支給といえば、多くの人が「愛国心ありま~す」と役所に届出するな。「ある」と言うだけで1万円だもの。あるかないかをテストされるわけじゃない。「愛国心」のある人ない人は、どういう場面でどういう違いがでるというのか?それが分れば「愛国心テスト」の問題集が作られる。例えばこういう設問が出たとする。
     
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    「戦時中、神風特別攻撃隊は志願といわれていたが、志願した人たちは愛国心があったと思いますか?」
     
    この問い自分はこう答える。「一億総玉砕というプロパガンダがこの国の隅々にまで浸透していた時代にあって、純粋な愛国心とは国のために一命を差し出すという暗黙の強制。人は誰も死にたくないはずだが、国家に命を差し出すことが愛国心であるというのは、洗脳教育のたまものである。兵士も兵器工場で働く女子挺身隊も愛国心は一様にあったろう。
     
    神風特攻隊隊員の愛国心が、兵器工場で働く人たちの愛国心より増していたというわけでは決してない。戦争は普段の生活の場を狂気に変える。愛国心と言う美辞麗句の陰には、とてつもない大きくも見えない力が国民を圧していた。愛国心と名を変えた無言の力が民の心を揺さぶり、背中を押す。人間の意識も無意識をも支配する力としての愛国心は、無言の強制であった。」
     
    太平洋戦争末期の軍部の作戦は、まさに集団ヒステリーとしか言いようがない狂喜乱舞の状況である。米国軍の空母や戦艦を攻撃する空母もなく、空砲弾を撃つ余裕もなく、人間もろとも体当たりする効率を選んだ。人名軽視の捨て鉢且つ幼稚な発想だろうが、斯くの非常事態、危急存亡の国家であった。無駄死の愚策といっては英霊に傷がつくと、誰も靖国に背を向けない。
     
    特攻を発案・組織した大西中将の真の意図は、天皇陛下から戦争終結の意思を引き出させるためと推察する。「そこまでやらなくともよい。朕は戦争は終りにしたい」の言葉を果たして昭和天皇が発すれば二発の原爆投下もなかった。天皇にそういう意思があったか否か分らない。戦争は引き際が難しい。「一億総玉砕」という軍国イデオロギーが天皇を制していたのかも…。
     
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    日本が戦争をしたくなかったのは様々な証拠に明らかだ。蒋介石は日記に、「日本人は短慮で時間のスパンが短い人種。やるときは徹底的にやるので警戒は必要だが、持久戦に持ち込めば最後の勝利は明らか也」と記している。日中戦争勃発後に上海を攻められたときに当時の大蔵大臣賀屋興宣は、「日本の経済状態は大戦争に耐えられない、軍隊は出せない」と発言した。
     
    米内光政海軍大臣は賀屋を怒鳴りつけ、賀屋は苦渋の派兵予算を捻出した。当時の日本には中国に全面戦争を仕掛けるだけの財力はなかった。国力の見通しもままならぬ軍部出身政治家の愛国心は大いなる疑問である。見通しのたたない戦争を止められなかったのは、機能不全であったと歴史は教えている。軍部上部の指示命令を現地の軍隊が無視して勝手に進撃をする。
     
    政府が軍部を統治できず、軍の司令部が出先の軍をコントロールできないでは、近代の戦争は成り立たない。日露戦争ではあれほど厳しかった軍律が、日中戦争に至っては軍律どこに、という状況だった。そうなった最大の理由は戦争の目的が曖昧だったこと。つまり、どこまで戦えば作戦完了というテーゼがなく、中国軍が退くとどこまでも追撃せざるを得ない状況だった。
     
    日本が中国侵攻することで、必然的に欧米諸国が中国にもっていた権益を侵害し、ソ連、英国、米国らがだんだん蒋介石支援にまわり、日本に敵対した。戦争や外交の基本は如何に味方を増やし、如何に敵を減らすかである。戦争目的のない戦争は、当時の指導者たちも頭を悩ました。そこで捻り出されたのが、昭和13年近衛文麿首相が提唱した「東亜新秩序」であった。
     
    イメージ 5昭和15年7月、近衛内閣が制定した「基本国策要綱」では、「八紘一宇」、「大東亜共栄圏」が強調される。「八紘一宇」などのスローガンを一体どこから見つけてきたというのか?日本人にも分り難いこのスローガンは世界征服の野望であるかの誤解すら招く。「八紘一宇」とは日本書紀にある言葉で、日蓮宗宗教法人「国柱会」の田中智学がこの言葉を使った。"日蓮の教えで世界を霊的に統一しなければならない"という宗教的な教えだが、まさか田中も政府がこの言葉をスローガンにするなど考えもしなかった。日蓮を代表的日本人の一人とした内村鑑三は、日蓮の信念の強さ、男らしさに惹かれたようだ。確かに日蓮は他宗派を激しく非難するので"仏教の敵"と罵られた。辻説法では冒涜者と罵倒され石もて追われるほどである。
     
    ネットでちょっと貶されたりでシュンとなる若者が多い昨今、日蓮の千分の一程度の耐性があれば、「消えろ」、「死ね」を笑って流せるだろう。日蓮は伊豆に3年、佐渡に5年、二度も島流しにあった。当時51歳の日蓮は雪に埋まる佐渡のあばらやで、大作『開目抄』を著した。内村は「闘争を忌避した日蓮を理想の宗教者」としているが、闘争心が強かったからこそ頑張れた。
     
    内村鑑三が1894年に英語で著した『japan and the japanese』は、1941年に日本語版『代表的日本人』と題して刊行された。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5名の共通点は何か?死を覚悟で単身朝鮮に乗り込もうとした西郷、倹約・節制に身を投じた米沢藩主鷹山、「仁術」で村の再興を成し遂げた尊徳、脱名誉、脱権力の中江と、信念の日蓮。
     
    いずれも劣らぬ「徳」に満ち、愛国心に満ちた日本人であるが、こういう素晴らしい日本人を外国に伝え、認めさせようとした内村も「愛国心」の徒である。日本史で教わる西郷隆盛といえば「国賊」に近い。征韓論を強行に主張したり、幕府と意見を違えて西南戦争を起こしたりと、特に西郷の「征韓論」については、朝鮮を侵略しようとしたとの誤った思想が喧伝されていた。
     
    これは閥閣政府が西郷を貶める創作に過ぎず、西郷の朝鮮出向の目的は、日本の新政府が派遣した使節に対し、朝鮮が国交拒否という無礼な態度を取ったことで、自らが話し合いに行こうとしただけのこと。天の理を尊ぶ西郷、「道」を貫く彼が自国の利益のために他国を侵略するなどの考えは毛頭ない。鎖国状態の朝鮮に開国の必要を諄々と諭すための訪韓であった。
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    それを岩倉具視らの陰険な策士が覆し、政治に嫌気をさした西郷は下野した。「…未開の国に対しならば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに…」と、朝鮮への軍隊派遣に反対し、遺韓使節を主張した。西郷を追い出した嫉妬の徒は、武力で朝鮮の江華島を占領し、強引に通商条約を認めさせた。内村のいうように、西郷は日本で1、2の魅力ある侍である。
    西郷は東アジアの真の敵はロシアと見定めていた。ロシアに対抗するために朝鮮と日本が協力する必要があった。使節として朝鮮に渡ればおそらく殺されていたはずだが、それも理解して西郷は日本のために旅立とうとした。愛国心は自己犠牲の精神であろう。天皇や見えない力によって命を捧げた愛国心を否定はしないが、だれからも強制されない純粋の愛国心を西郷にみる。
     
    鷹山、尊徳についてはこのブログに記したが、中江藤樹を知らない人は多だいよう。立身出世こそが人の目指す道と思われた時代、大洲藩で名を成せそうになった中江は、富一切を捨ててひとり暮らしの母親の面倒をみるために近江の片田舎に引っ込み、行商生活をする。これは当時の人にも理解できぬ行動だった。藩を辞去する時の家老に以下の手紙を残している。
     
    「家臣ならお金を出して私のような者をいくらでも召抱えるけれど、母親の面倒を見れるのは自分しかいない」。親孝行のためにすべてを投げ打つなど、すごいとしか言いようがない。これを現代ではマザコンという。実際、藤樹の選択には常に母親が影響を与えた。母の影響、母の躾というものと、母に対する呪縛は紙一重だろう。問題は藤樹の行為を母が喜んだか否かでは?
     
    偉人には様々な母がいる。「老母にうつつを抜かすよりも、世のため人のために身を投じよ」という母もいる。どちらが正しい、美しいではなく、どちらも正しい、美しい。藤樹は後年陽明学者として儒学思想に献身した。西郷隆盛や吉田松陰も陽明学に影響を受けたとされる。大塩平八郎もそうであった。色合いは違っていても、世渡り上手な人間にない精神がある。
     
    大学者ニュートンは、論文を書いても決して自分の名を書かなかった。なんと、ニュートンは謙虚な人間だ。と思うのは間違いで、それは有名になるための策略であった。「このすごい論文を書いたのは誰だ?」、「こんなのが書けるのはニュートンしかいない」などと、学会にセンセーションを起こす意図があった。ニュートンの晩年は高貴な人との交流に終始した。
     
    自宅のソファも王族と同じ真紅に染めるなど、名声や栄光を好んだ。立身出世よりも人間の内面を完成することに価値をおいた藤樹は、自らの生き方を貫くためにあえて名を残すことを避けた。名誉や出世は「徳」を追及する際に邪魔になると考えたのだろう。キリスト教的価値観に近い考えだ。キリスト教では桁外れに立派な人を「聖人」という称号で讃える。
     
    内村も藤樹を「近江の聖人」という言葉で表している。本の読者にキリスト教信者が多いのを知ってか、中江藤樹を日本を代表する「聖人」と紹介したかったのだろう。有名になるのを嫌った藤樹は次の言葉を残している。「小善は日々に多し。大善は名に近し。小善は徳に近し。大善は人争ひて為さんとす、名を好むが故なり」。今の時代に忘れられた人生観に思える。
     
    教育は国家の礎という。中江藤樹は教育に生涯を捧げたが、彼の名は日本の教科書から消えてしまった。これほどの人物がなぜ紹介されないという不思議。藤樹は「それ学問は心の汚れを清め、身の行いを良くするを以て本実とす」。つまり、本来の学問とは知識を蓄えることでは無く、利欲にとわられず正しく生き、行動する為の方向づけを学ぶことだと説いている。
     
    教育に政治的イデオロギーを持ち込む人々から見れば、道徳(修身)教育は思想・信条の自由に反するという。2014年9月24日、中央教育審議会の分科会で「道徳の教科化」が了承された。安倍晋三首相は教育基本法に加えられた教育の目的に「愛国心」や「公共の精神」が書き込まれたことをあげて、「いじめをしてはいけないという『規範意識』を教えていくことが大切。
     
    『日本人としてのアイデンティティー(帰属意識)』をしっかりと確立していくことも大切」と表明した。国が道徳の内容を決め、教科書で教える「道徳の教科化」を 「戦争する国づくり」に向けて国民の思想統制をはかる、歪んだ愛国心であると反対する野党は多い。「愛国心」は押し付けるものではないという反日左翼教師による好き勝手な反日思想が押し付けられている。
     
    こんなんでは「愛国心」を植付けるために国が先導せざるを得ない。何事も押し付け、強要はよくないが、売国奴に洗脳された教育現場に立ち入り、純真な子供たちへの刷り込みを取り払う責務が国家にある。「子どもには何も教えないことで真の教育が行われる」とルソーは説いた。長い年月で染み付いた歪みを直すべき時期にきている。

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  • 11/18/14--15:16: 「忠誠心」
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    現代社会において、「忠誠心」なんて言葉が一体どこに存在するのか?国家や会社に「忠誠」を尽くすとはどういうことか?国から離脱して海外に移住するのはもはや「忠誠心」は消えたことになる。会社に対する「忠誠心」も同様、退職すれば忠誠もクソもない。となると、忠誠とは国家や会社に忠実に仕えることであるが、忠実とはどういうものなのか?
     
    言われてみると曖昧な「忠実」なる言葉の理解を進めるために、「忠犬ハチ公」について考える。あの犬はどうして忠犬と言われたのかといえば、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷の駅前で7年間も待ち続けたという美談からついた俗称。というのは映画にもなって知ってる人も少なくないが、もしこれが猫のタマだったら、「忠猫タマ公」と言われたのだろうか?
     
    豚のトン吉だったら、「忠豚トン吉」と言われたのだろうか?まあ、豚が毎日渋谷の駅前に現れる事はないが、犬が7年も飼い主を待ったというのは、飼い主がもはやこの世に存在しなくなったという想像力を犬が持たなかったからだろうが、「それをいっちゃ~オシマイ」というほどに、それが犬の知能なのだ。もし、本当に賢い犬なら数カ月で止めたかも知れん。
     
    「それを賢いといっちゃ~オシメ~よ」との声も聞こえて来そうだが、忠犬=忠実な犬というのは、あくまで犬の知能レベルを人間が情緒的に解したのだろう。科学的に思考するとこの世は味気ないし、忠犬ハチ公は日本人の感傷心を揺さぶる事象である。こういう話もある。2011年、福岡県の高校生だった山本寛大くん(当時16)は、酔っ払った運転手に轢かれて亡くなった。
     
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    寛大くんが亡くなって以降、彼が可愛がった柴犬の「こゆき」(8歳・メス)は彼の遺影の掲げられた仏壇の前が寝床となり、失意の日を送り続けている。この実話は「飲酒運転撲滅」の啓発CMに使われている。ハチ公にも劣らぬ忠心なイヌだが、人間の「忠誠心」なんてものは永遠にイヌには及ばない。自分の主人の事しか頭にないという単純(純粋)さ、イヌはかわいいね~。
     
    子どもの頃に父が教えてくれたこと。「犬は3日飼ったら、一生恩を忘れないんだよ」。思い出すのは捨て犬3匹を空き地で飼っていた。自分の食事を残しては食べさせた。3匹はいつも餌を待っていたから、友だち以上だった。毎日学校から飛んで帰っていたが、ある日空き地に行くといつもの彼らの出迎えはなかった。近所のうどん屋のおじさんの言葉に耳を疑った。
     
    「犬捕りが来て連れていったよ」。保健所の野犬狩りである。子どもの心がどれだけ傷ついたことか。家の壁に保健所の悪口を隙間なく書きなぐった。鉛筆がチビては書き、書いてはチビて、削っては書く。それくらいしか不満を表す方法はなかった。保健所を燃やしたいと思ったし、「保健所」という言葉が大嫌いになった。子どもと言うのはそういうもの。
     
    それまで特別大人に恨みはなかったが、この一件は大人に裏切られた気がし、大人は子どもの敵となった。裏切り当たり前の「性悪説」の西洋、忠誠が美しい「性善説」の日本。キリストを裏切ったペテロ、シーザーを裏切ったブルータス、日本では信長を裏切った明智光秀は永遠の極悪人と名を残す。反対に忠誠心の人、忠義の人と言われる人間の多きこと。
     
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    頭に浮かぶは、土屋惣三昌忠、堀田正盛、赤穂四十七士、新撰組の近藤勇・土方歳三、鳥居元忠、川路聖謨らが浮かぶ。紀州藩の田辺与力も「忠臣は二君に仕えず」とした。あまり知られていない土屋、堀田、川路。片手千人斬りの異名で武田家滅亡に殉じた土屋。堀田は三代将軍家光死去に殉死。幕臣の美学者川路は、江戸城開城の報を聞くや迷わず城内で死す。
     
    中国では「『水滸伝』を子どもに読ませるな!」と言われるくらいに裏切りの世界。『水滸伝』に登場する好漢たちは、「忠」とか「孝」を口にするが、彼らの最高理念は「義」に殉じている。「義」とはいって儒教的な「義」にあらず、ヤクザ世界の「仁義」のニュアンスに近い。物語は勧善懲悪ではないし、好漢達の「善」は彼らの「義」に鑑みての「善」となる。
     
    道徳的な「善」とは程遠きものだが、『水滸伝』の主人公たちは盗賊であるからしてやむを得ない。横山光輝には『三国志』、『項羽と劉邦』、『史記』、『水滸伝』の労作があるが、横山光輝は子ども思いの漫画家であり、残虐な内容が多い『水滸伝』から子どもに読ませるべきでない部分をカット、上手に宋江ら108人の好漢や、高俅(こうきゅう)ら悪漢を描いている。
     
    虚々実々の中国の歴史で『三国志』の劉備への孔明の「忠誠心」には光るものがある。三顧の礼で迎えたというだけあって、孔明は終生劉備に忠誠であった。孔明に限らず、乱世を生き抜いた主従の紐帯は、曹操にも孫権にもあったが、中でも有能な人材集めに熱心であった曹操のもとへは、軍事、政治に傑出した人々が続々結集し、軍団と政府を強化していった。
     
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    中華人民共和国初代国家主席毛沢東は、『三国志』を愛読し、諸葛亮孔明に学んだ。彼は強大なる蒋介石と帝国主義包囲網に屈せず、弱小の革命根拠地を維持できたのか?それについて毛沢東は革命根拠地の維持発展の条件として以下の5項目を挙げ、それを遵守した。毛沢東の「割拠論」には、孔明の「天か三分の計」の影響をみることができる。

     ①優秀な大衆がいること。
     ②優秀な党があること。
     ③相当の力を持つ赤軍があること。
     ④作戦に有利な地形があること。
     ⑤給養をまかなえるだけの経済力があること。
     
    時代を超えて共通するのは、弱者の戦略である。毛沢東と諸葛孔明の共通点は他にもさまざまあるが、共に内治に気を配った点も指摘される。孔明は法家思想で政治を律し、信賞必罰を徹底したが、毛沢東も軍隊に「三大規律・八項注意」と題し、人民からは針一本取らぬようにと規律を厳正にした。二人には相違点もあるし、運の力も大きく加味している。
     
    日本軍を追い出し、国内線で蒋介石を撃破した毛沢東は、ついに「強者」へと転じたが、諸葛孔明には最後まで天が味方することはなかった。文化大革命のとき、毛沢東は権勢を維持するために紅衛兵という大衆組織を結成させたが、後に厄介な事態となるが、紅衛兵が中国を圧巻した10年間、紅衛兵の陰でほとんどしられていない「紅小兵」という組織があった。
     
    イメージ 5さすがは人民の国、日本では考えられない。戦時下といえばせいぜい婦女子の竹槍訓練である。『僕は毛主席の紅小兵だった 毛沢東に忠誠を誓ったこどもたち』の著者安剣星氏は、1963年河北省生まれ。83年中央演劇大学入学。卒業後日本人と結婚し、90年来日。96年に(有)星光設立。文学で身を立てるつもりが、一転、石材を輸入・調達するビジネスマンになったという。
     
    中華人民共和国は「銃口から生まれた政権」である。「大躍進政策」、「文化大革命」で毛沢東は、3000万~8000万の自国民を殺したといわれている。スターリンによる「大粛清」での死亡者総数は50万人~700万人まで諸説あり、ゴルバチョフ時代にスターリンが支配した1930年から1953年の時代に786,098人が反革命罪で処刑されたことを公式に認めた。
     
    ソ連が崩壊するまでスターリンは英雄、中国国民にとって毛沢東も英雄。自国民を大量虐殺した人物を英雄とするのは共産党が権力を握っているからである。共産国家建国の父は英雄だと教えている。日中戦争において中国国民を殺した日本人に文句はいうが、大虐殺の毛沢東を英雄とする。また、人口の増大に病む中国は850万もの胎児の中絶を強要した。
     
    共産主義とは何か?というまえに、真の意味での共産主義を実現した国は歴史上存在していないが、最も近かったのが毛沢東主義。中国はソ連崩壊から多くを学び、実質的に「共産主義」路線を放棄した。経済が資本主義の共産主義など、理論的には存在しないし、政権党が「共産党」の名であるのは、単に名前を変えない事を得策としてるだけのことに過ぎない。
     
    共産主義下における政治・経済においては、自由な意思決定が認められず、与えられたノルマを如何に短時間でこなすかが生活の原動力になっていた。あらかじめ所得が決められているなら、「如何に少ない時間でそれを得るのか」という競争が起こる。能力のあるヤツはさっさと仕事をこなして後は遊んでいれる。労働時間で物の価値を測る共産主義には上記の欠陥があった。
     
    全ての人間に共通する物指しが労働時間であるために採用された考えだが、運用してみると様々なリスクを発生させた。その原因は労働時間に限らず、物指しを一つにした事による弊害だった。自由競争を基本原理とする資本主義にも多くの欠陥から問題を生じさせている。自由競争は格差を生むのは当然という強者は「貧しい者」は本人が愚かであると傲慢になる。
     
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    一握りの裕福な人間がいても、大多数の人間が豊かでないなら、全体としての社会は病んでいることになる。貧しいまま見捨てられた人たちの中から犯罪に走る者が出てくるのは、このことを物語っている。共産主義も資本主義もダメであるならどんな経済にすればいいのか? 経済政策はこの二つに限らない。高度経済成長時代の日本は実は社会主義経済であった。
     
    「自本は、最も成功した社会主義国家」と、皮肉混じりに言われていた。基本は資本主義的でありながら、社会主義的・共産主義的な要素が多分にあった。中国が元々共産主義国家でありながら、改革開放政策によって資本主義的要素を取り入れ、経済発展を遂げているように、完全な資本主義・自由経済でも、厳しすぎる共産主義・統制経済でもないのがよい。
     
    蟻や蜂の世界は共産主義社会であり、何ら問題なく成立しているが、人間には個体差があるから無理のようだ。資本主義は、人々が善意を持って活動すれば成立するだろうが、人は欲に囚われるからこれも成立しない。主義に問題があるというより、人間に問題がある。つまり、理想的な国家、理想的な社会を構築するに当たって、教育が最も大事ということだ。
     
    日本は長いこと封建制度社会であった。選挙で選ばれたわけでもなく、世襲による領主(藩主・大名)と長老が政治を行い、藩士は「忠誠心」を持って仕える。この時代の「忠誠心」とは、自らの命を藩主に差し出すというもので、それが武士としての最大の美徳であった。斯くも徳川265年の圧制が日本を活力のない国にした。マッカーサーはこう書き留めている。
     
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    「(日本の)実態は西欧諸国がすでに四世紀も前に脱ぎ捨てた封建社会に近いものであった。(中略)神人融合の政治形態は西欧社会では、三千年の進歩の間にすっかり信用されなくなったものだが、日本ではそれが存在していた。(中略)神人一体の天皇は絶対君主であって、(中略)アメリカ人の目から見れば日本は近代国家というよりは古代スパルタに近い存在であった」
     
    「国民の中のほんの一部にしか過ぎない封建的な指導者たちが支配の座に座り、他の何千万という国民は進んだ意識を持つ者のわずかな例外を除いて、伝統と伝説と神話と統制の完全な奴隷となった」。マッカーサーの歴史観はさて、なぜ日本では革命が起こらなかった?それは「忠誠心」を金科玉条の如く仰ぎ、信奉していたからだ。日本人はまとまる民族である。
     
    「忠」の文字を名前につける武士はあまたである。細川忠興、本多忠勝、加藤忠正、加藤清忠、戸田忠昌、長尾忠景、宇喜多忠家、水野忠邦、鳥居元忠、鳥居忠広、徳川秀忠、徳川忠長、松平広忠、松平忠重、松平政忠、松平忠良、松平忠昌、酒井忠清、酒井重忠、前野忠康、鍋島忠茂、大岡忠相、大岡忠行、島津忠義、島津忠持、島津忠久、国定忠治…
     
    封建的主従関係という形で、鎌倉時代から江戸時代までの主従制と、それに伴う武士道徳が一括して取り扱われる傾向がある。が、武士道は時代に応じてその姿は一様ではない。主君と家臣の主従関係、君臣の論理は時代とともに変遷していった。鎌倉時代にあっては、血縁的な惣領家と庶子家と言った家父長の絶対権に裏打ちされた主従関係が基本にあった。
     
     
    戦国時代になると、ある武将が今仕えている戦国大名に一生忠誠を誓うというしばりはなく、敵対する大名から高禄による勧誘があれば、主君を裏切ることも平気で行えた。これが戦国武士道の特徴で、分りやすくいえば家臣が主君を選べた。いささか「打算的」の謗りは免れないが、打算的であっても武士道というべき行動原理、思想を持っていた。
     
    それが「名を惜しみ、名をあげる」という考え方で、武士が死を恐れず、傍目には喜んで死んでいったとさえ見える状況がこの時代に顕著になった。これが『葉隠』に言う、「武士道とは死ぬ事とみつけたり」の名文句につながっていく。武士が名を惜しんだ理由はいくつかあげられるが、「人は一代、名は末代」とした、生きている時の評価以上に死後の評価を大事にした。
     
    時代は戦国武士道から、近世武士道へと変貌する。戦国武士道が江戸時代に変わる契機になったのが、徳川家康だろう。三河松平氏の誇りは譜代意識の強い戦国大名で、他の戦国大名に比べて滅私奉公の考えが強烈であった。家康・秀忠・家光三代に使えた大久保彦左衛門忠教は、『三河物語』の中で、三河譜代を「良くも悪しくも御家の犬」と書いている。
     
    「犬の忠誠心を誇る三河武士」という強固な「忠誠心」に裏づけられた三河武士が武士政権の中枢になったこと。それが徳川時代に大きく武士道を変化させた要因だろう。さらには政権が安定したこと。天道思想や下克上的思考は否定され、主君のために一命を賭す覚悟が武士道の基本となる。徐々に変化したというより、ドラスティックな変化だった。
     
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    耐え続けた戦国の覇者家康が一族、譜代を信用したのは、今川氏の元より三河へ帰還するのをひたすら待ちわびた家臣団の「忠誠心」よりもたらされたもの。秀吉に面従腹背しながらも耐え、天下取りの好機が来るのを狙い、大阪の陣で豊臣家を滅ぼした後、さらに15年の歳月を費やして徳川の天下を安泰にした日本的経営の礎は、「忠誠」と「服従」であろう。
     
    主人の帰りを何年も待つ「ハチ」や「こゆき」に驚くなかれの三河武士だが、「良くも悪しくも御家の犬」と、彦左の指摘は的を得ている。
     
     

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  • 11/19/14--07:31: 「執着心」
  • イメージ 1「スピリチュアル」というのは本来、黒人霊歌のことをいい、「ニグロ・スピリチュアル」ともいった。霊的な意味の「スピリチュアル」は、本当は「スピリチュアリティ」というが、日本語化して「スピリチュアル」と呼んでいる。この国の法則にのっとって最近は「スピ系」と略されている。霊だの霊的だのは、自分とは全く縁遠い世界で、何の興味も抱かなかった。丹波哲郎が「霊界の使者」などと戯言を言ってたときも、好きな俳優だっただけに「何やってるんだい」という感じだった。分らぬ世界の事をしたり顔で見聞きしたかのようにいう人間を自分は信じない。そもそもスピリチュアリズムは、導師によっても意見が乱舞する世界。まるで宗教と同じで宗派や教義によって異なり、カルト宗教同然なものから優れた思想まで実に幅が広い。

    見えないものの拠り所は信じる以外にないが、「真理の門は狭き門である」、ということをイエスが言ったという。霊的に正しい道とはそういうものなのだろうが、危惧されるべくは、霊的に危険な教えもある点だ。ある少年の事件を契機に、テレビでスピリチュアリズムを煽らなくなったのは、正しい判断と思う。大槻教授などがどう頑張っても否定はされなかった。
     
    「ない」ものを「ない」と否定するのは誰でもできるが、「ない」ものを「ない」と証明するのは大変だ。「ない」ものを「ない」と証明されないかぎり「ない」と言えない不文律がある。「罪」とそうである。立証されないかぎり「罪」は「罪」とならない。「疑わしきは罰せず」ことこそ法の論理である。自分は若い時分にこの考えが納得できなかった。
     
    「ない」ものは「ない」んだから、「ある」というヤツが論拠を示せ、証拠を見せろと楯突いた。神がいるなら存在理由を証明せよと…。ところが哲学的「神の存在証明」に触れたとき、論理的に納得せざるを得なかった。可能性という点においてはすべての否定論拠は成り立たない。無限にゼロに近い事象であってもそれはゼロとはならない、これが科学の基本である。
     
    イメージ 2つまり、神は科学的論拠に立っても存在は否定できない。「神秘主義」とは絶対者(神)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場で、様々な肯定・否定意見がある。生化学者でSF作家のアイザック・アシモフは、「神秘主義」を否定し、神の創造がなくても生命は発生できるというエッセイを発表した際、読者から反論を受け取る。「複雑な化合物が満ち溢れた原始海洋で数十億年の年月をかけてさえも、DNAと認識される分子が偶然に構成されることは確率的にありえない。DNA分子が64種類のトリヌクレオチドが400個集まってできたと考えると、その構成パターンは3×10の724乗。この宇宙に存在する生命のDNAの種類は多く見積もっても2.5×10の63乗なので、3×10の724乗と比べればゼロに等しい。
     
    ゆえに、生命は何者かに創造されたとしか考えられず、神は存在する」。これは神の目的論的存在証明の一種でる。アシモフはこれに対して、「現在までに存在したDNA分子のパターンだけで、有用な組み合わせ全てを使い尽くしたわけではない。この宇宙に存在しない別の組み合わせであっても、別の生命に至るのではないか」と反論した。神の存在証明はカントの4種類に従っている。
     
    ◎ 目的論的証明(自然神学的証明):世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだ。
     
    ◎ 本体論的証明(存在論的証明):「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だ。
     
    ◎ 宇宙論的証明:因果律に従って原因の原因の…と遡って行くと根本原因がある。この根本原因こそが神。
     
    ◎ 道徳論的証明:道徳に従うと幸福になるのは神がいるからだ。
     
    まあ、神の問題は関わりたい人に任すとし、スピリチュアリズムも興味の対象にないとしても、巷でいうところの、「スピ系だと執着を無くす」とか何だとか言われていることには大いに疑問を呈す。まず、スピリチュアルの情報は、信用できるものと出来ないものの差が、天と地ほどにある。幸福になるか、不幸のどん底に落ちるか、決め手になる資料が隣においてある。
     
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    日本は正しい宗教、正しい哲学が弱く、これといった倫理や心の道標がないので、スピ系の資料が読者受けが良いというなら玉石混交だ。いいことばかり書いてある資料に、重大な過ちがたちまちは分らないように入っているケースが意外と多い。その点ではカルト宗教も同じ。きらびやかな文体に美辞麗句、どこの誰かも判明しない体験談など、詐欺商法と変わりない。
     
    判断材料を数々あげても、丸め込まれるのがオチだから意味はないのだが、確実なことを一つ上げると、大金を要求する導師、占い師、霊媒、カウンセラーは偽物だと思うこと。偽者が必ず用いる言葉、「スピリチュアルと言っても金儲けや偽者が多いからね」と、この言葉に騙されない。他者を見下すことで自分を真実だと、この論法には注意することだ。
     
    執着は渇望を生み苦悩を生み出す元であります。「嘘つきはかならず、自分は嘘はいわない」という嘘を言う。自分は嘘を言わないという言葉を発する人間は100%嘘つきである。だいたい、人間が嘘を言わないはずがないし、本当に嘘を言わない人間は、言葉ではなく行動で示すものだ。おまけに、「嘘は言わない」というような恥知らずな言葉を吐けないものだ。
     
    あることを「これは嘘じゃない」と前置き、後置きする必要はない。自分が淡々と真実を述べればそれでいだけなのに、きいてもいない相手にそんなことをいう必要があろう。嘘をついてるかどうかを見分けるコツは一つしかない。正直な人間とたくさん交わることだ。嘘を見破るためには嘘の経験をたくさんしたではなく、正直者の真髄に触れることだな。
     
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    そうすると、嘘つきがあまりに違いすぎると言うのがよく分る。嘘をつかない人間を「正直者」というが、自分にはそういう感覚はないし、思ったこともない。嘘をつかない人間は「純粋さ」を失っていない。知略がないから役には立たないが、信用がおけるから側においておきたい種である。人にも自分にも猜疑心や疑念を持たない、持たれない関係がいちばんかと。
     
    母親という存在から始まって、嘘に懲り、嘘に傷つき、嘘に苦悩した過去を思えば、嘘のない人間関係ほど素晴らしいものはないと実感する。人を嵌めるような嘘をつく人間は、おそらく嘘を言うのがクセなのだろう。世の中や人間関係が信頼や真実で回っているなど目くそほども思ってない、そういう人間に見える。嘘をつかないで生きるコツは無理せず自然にである。
     
    「泰然自若」の心境だ。上手い話を持ってくる人間なんか、どうして信じるのだ?お前が欲だからだ。人に褒められてなんで舞い上がる?それも欲だからだ。前者は相手にせずに丁重に断り、後者は礼を述べておればいいこと。ホンネとタテマエは社会の必要悪だから利用も必要だ。人に好き嫌いをもたず、人を愛すが嫌う相手には遠慮なく意思を伝えればいい。
     
    曖昧にすると、嫌いな相手になつかれ、困ったことにもなる。出会いも別れも必要だし、それを取捨選択という。相手を裏切る意思など毛頭ないなら、同じような相手を見つけること。人に売られる(裏切られる)苦悩は並大抵ではない。犬や猫などのペットを飼う人は、動物が自分を裏切らないことを知っている。「腹に一物」の人間関係より傾注するものがあるだろう。
     
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    如何に装い、如何に善人ぶっても人の腹は読めるもの。それが見えたときに離別をしておけば傷は深まらない。人間は50年くらい生きないと、そこは難しいだろう。その人の発するタダの一言、一動作だけで見えるものがある。それは人間関係を熱心にやることで身につけられる。人は必ず嘘をついているもの。隠された本質、本性は間違いなく見抜ける。
     
    そのためにはこちらが自然でいること、自然にふるまうこと。人間は己の行動を通して、何が不自然で、どのような嘘が混在しやすいかを知っている。だから、自然に生きている人間なら、人の不自然さと言うのは手に取るように分ってくる。相手がどんな言葉を添えようと、心にもない言葉は得てして強調され易い。その一点において、相手は不自然である。
     
    すべて一切はこちらが是々非々に素直に、自然に生きてみて分かる事。吉田拓郎は『イメージの詩』の歌詞にこう書いている。「誰かがいってたぜ俺は人間として自然に生きているんだと、自然に生きてるってわかるなんて何て不自然なんだろう」長い間、この言葉がキーワードだった。"自然に生きてるって分るなんて何て不自然なんだろう"と、この部分に異論があった。
     
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    そこで考えたのは、"自然に生きてるってわかるなんて"ではなく、自らが"自然に生きたい"、"自然に生きよう"と積極的になればいいのだと。拓郎は人から「お前は自然に生きてる」といわれ、「何でお前にそんなことがわかるんだ?」という意味で、不自然なことだと思ったのだろうが、意思をもてばいいことで、他人にどう映ろうと気にすることではない。
     
    要は自身の問題だ。なかなか自分のことを思考するのは難しい。頭で考えることを文字にするのは、さらなる難しい。感情を理性に置き換える論理が必要になる。多くの女は言うだろう。「理屈をこね回さないで、感覚で生きたら?」、そんな事は誰でもできる。そうしか出来ないことを正当化するのも女の特質。例えば、ピカソやゴッホの「絵画」をどう見るか?
     
    誰がみても感性の割合が強いと感じる。が、実は彼らは論理的に描いているかもしれないがそこは知る由もない。如何に感性重視のクリエイティブな営みといえど、論理と感性の最適な配分で混ざり合い、組み合わさっている。感性の比率が高いと分りづらいのは、他人だから当然だ。学者や研究者の論文も広い意味では創作物だが、99%以上が論理的に作られている。
     
    当たり前。そうでなくては読み手が理解できない。ベートーベンの楽譜に感性の微塵も感じないし、アレは論理の構築だ。ところがでてくる音楽は情感豊かである。それはつまりはこう言う事。最初に楽譜ありきではない。頭で鳴っている音楽を論理的に図形化したものだ。したがって、プロがあの楽譜を見ると実際にピアノやオケで音を出さなくても感性に浸れる。
     
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    かつて、ホロヴィッツの名言を思い出す。「音楽は五線上の白い点、黒い点を追うものではない。その奥にあるものを引き出すこと」。彼らに言わせると、記譜された音符や音楽的記号が音楽ではないということ。天才の想像力は、楽譜に記されてないものの表現を求めているのだと。音楽家は職業的な意味以上に、実は音楽に執着心を抱いているようだ。
     
    仕事だからやるというのは、芸術家の発想にない。人間はお金や名誉や富など、多くのものに執着して生きている。人妻は夫以外の恋人に、夫は妻以外の愛人にご熱心だったりする。研究や学問に取り付かれた学者もいれば、揺るがぬ事業欲に取り付かれた孫正義、柳井正らの名が浮かぶ。もっとも、人間が何より執着するのは己の生命にだろうし、命あっての物種だ。
     
    スピ系が執着心を取るというのは、実は命に関してである。スピ系の本を読むことによって死後の世界についての実感・リアリティーを手に取るように感じることができる。スピリチュアリズム普及計画の一環として、高級霊の意図のもとで展開された興味深い霊界通信。などのキャッチコピーを読むと、死後の世界に憧れを抱く人がいても不思議でない気もする。
     
    「さあ、あなたも死後の世界へ」と誘うわけでもないのだろうが、生の執着をなくし、死の恐怖から解放されるのはいいが、そのあたりの混同に懸念がある。2006年12月、中学2年生の少年が「絶対におれは生まれ変わる。もっとできる人間になってくる」などと書き置きして飛び降り自殺した。少年の手紙には霊界の話を紹介するテレビ番組に触れられていた。
     
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    「生」への執着は、さまざまな渇望を生むし、苦悩を生み出す元であるけれども、それでも生きていかねばならないのは義務かなと。かつて日本には「死ぬ義務がある」という時代があった。国家が民の生きる権利を保障するでなく、一億国民みな死ぬ義務があるなどと、何という不幸な時代に生を受けた人たち。昨今、「生きる義務はない」とのたまうヤツがいる。
     
    生きる義務があると思う者にはあるんだよ。死ぬ権利はないというならない。すべては自分で決めること。なのに、義務として死ね、若者の未来を閉ざし、死を強要する不幸な時代に胸が痛む。安穏とした時代にあって、平和に惰眠を貪る輩は、「生きる義務はない」、そんな程度の発想しかないんだろう。権利としてでなく、義務としての生を感じてみよう。
     

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