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人を殺す理由…

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「自分のすべてを終わらせる前に興味半分で殺した」。東京・江戸川区で17歳の女子高校生が殺害された事件で、逮捕された青木正裕容疑者(29)は、昨年11月12日午後2時すぎ、江戸川区の自宅アパートで高校3年の岩瀬加奈さんの首を絞めて殺害、現金7000円入りのバッグなどを奪った。司法解剖の結果、岩瀬さんは首を絞められたことによる窒息死だった。

青木容疑者は、同じコンビニ店のアルバイトとして岩瀬さんと知り合った。青木はこのコンビニ店を辞めていたが、バイト中の岩瀬さんを待ち伏せて、偶然、出会ったように装い、「新しい化粧品のサンプルをあげる」と誘い、自宅に連れ込んだ。「逃げられないよう岩瀬さんを先に部屋に入れ、手などで首を絞めた」との供述に、親の気持ちはいかばかりか。

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「自分のすべてを終わらせる前に興味半分で殺した」との青木容疑者の供述が事実なら、動機なき殺人は本人の望みどおり死刑にすべきである。過去の判例の兼ね合いからして無期刑が妥当であろうが、そういう事より裁判員は本人の望みを叶えてやったらいい。「死にたい、その前に人を殺してみたい」というような人間が、更生するとは到底思えない。

動機なき殺人は一種の愉快犯の類であろう。このようなちゃらけた感性所有者は、重罪にすべきである。複雑多岐な人間関係の機微が、加害者と被害者の間に様々な問題や軋轢を生む。ゆえに些細なことも動機となる。しかし、今回のようなバイト先が同じという以外、まったく関わりのない、顔見知り程度の人間をまるで遊びがてらに殺すのは言語道断である。

青木は事件前日岩瀬さんに、「化粧品のサンプルをあげるとアパートに誘った」との供述だが、現場検証で同様の物は見つかっていない。「岩瀬さんなら自宅に来てくれると思った」、「首を絞めることに興味があった」ともいい、「収入は月15万円ほどで、生活が苦しかった。借金が100万円くらいあった」とも供述している。同署はさらに動機を追及する。

「人の首を絞めてみたい」、「人を殺してみたかった」などから起こった殺人は過去にいくつかある。これらを「動機なき殺人」、「理由なき犯行」というが、「人の首を絞めてみたい」、「人を殺してみたい」などは、こんにち立派な殺人の動機である。「動機なき」、「理由なき」などの曖昧表言は止めるべき。1967年のアメリカ映画『冷血』は、動機なき殺人の典型といわれる。

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事件は、1959年11月14日深夜、カンサス州西部の名士・クラッター家の4人が惨殺されたところから始まる。映画の原作はトルーマン・カポーティの同名小説で、彼は『ティファニーで朝食を』などを書いた天才作家。『冷血』は、実話を6年の歳月を費やし、調べ上げたノンフィクション・ノベルの金字塔で、それをリチャード・ブルックスが脚色・監督した。

『夜の大捜査線』のスコット・ウィルソン、『雨のニューオーリンズ』のロバート・ブレイクらが主演した。そのブレイクは02年、妻の殺害容疑で逮捕されている。それを頭に置いて観ると別の怖さがある。ブレイクの妻殺害事件は興味深い。00年11月、24歳年下で被害者となるボニー・ベイクリーが、ロバート・ブレイクとの間の子どもを出産し結婚した。

事件は結婚半年後に起こる。01年5月4日にロサンゼルスのレストランに、妻ベイクリーとブレイクは食事に出かけた。食事後、車に先に乗って待っていた妻ベイクリーが何者かに射殺されるが、この時ブレイクはレストラン内にいた。ところが、1年後の02年4月18日、長年連れ添ったボディーガードとともに殺害を企てたとしてブレイクは逮捕されるのである。

ロス市警は、元スタントマンのロナウド・ハンブルトンが、「ロバートから妻を殺害する仕事を請け負わないか」と誘われたと証言し、ブレイクと元ボディーガード訴追の重要証拠となった。03年、1年間の拘留期間経て、約1.5億円の保釈金でブレイクの保釈が許された。05年3月16日、米カリフォルニア州ロサンゼルス地裁大陪審はブレイクに「無罪」を言い渡す。

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「無罪」の理由として、物的証拠に乏しいこと、スタントマンによる2人への証言に不審な点がみられたこと、スタントマンには過去、ドラッグなどの犯罪歴があったことなどから、彼の証言は信用するに不十分とされ、陪審員12人中11人が無罪評決を支持した。殺害された妻のベイクリーは、金銭目当てにハリウッドの有名人に近づいていたと報じられた。

それが殺害動機になったとの見方が強い。ベイクリーという女性はかなりの曲者で、身分証明書やクレジットカード偽造などの犯罪歴や売春歴などもあった。しかもブレイクと結婚するまでに9回の結婚歴があり、それについて結婚詐欺を行っていたとの噂もあった。彼女は7歳の時から父親に性的虐待を受けており、母親はそれを知りながら放任していたという。

高校卒業後、ベイクリーは女優を目指してハリウッドに出たがうまく行かず、以後、体を売って生活をしのいでいた。90年代にジェリー・リー・ルイスの子供ができたと彼に訴えかけるが、DNA鑑定で虚実とされた。さらに長女の売春手配をし、ドラッグの常習者でもあった。とはいえ、ロバート・ブレイクが妻の殺害依頼が事実なら、身勝手な犯行である。

ブレイクに対する無罪評決後、ベイクリーの3人の異父子はブレイクが母を殺害したとして民事訴訟を起こす。訴訟のさなかの05年11月18日、陪審はブレイクが妻の殺害事件に関して嘘の証言をしたと、3000万ドル(約30億円)の支払いを命じた。これを受けて06年2月3日、ブレイクは自己破産を申請した。偽証罪の罰金が30億円とは、さすがキリスト教のお国である。

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本題の映画『冷血』だが、カンサス捜査局の腕ききの刑事が捜査に当たるが、まったく犯罪の動機の見当たらない不可解な事件だった。警察の描いた犯人像は、①不幸な子供時代(親の虐待)を経験、②身体・精神に障害をもっている、③現実と妄想の区別がつかないなどであったが、これといった手がかりもないままに空しく時が過ぎ、迷宮入りと思われていた。

ところが、事件は以外なところから割れる。かつてクラッター家の使用人で、州立刑務所に服役中のウェルズが、囚人仲間のディック・ヒコックという男に、クラッター家の金庫について話したことがあり、そのディックが出所後にクラッター家を襲ったのでは?という仮設の基に、捜査線上にディックと友人のペリー・スミス(ロバート・ブレイク)の2人が浮かぶ。

12月30日、事件発生1カ月半後、ペリーとディックは、ラス・ベガスで別件逮捕される。刑務所で仕入れたガセ情報を信じ、押し入った豪農家族4人を惨殺した無軌道な犯罪者2人の顛末だ。本作は原作の雰囲気そのままに、抑制した演出と陰影を強調した映像で仕上げた実録映画。1967年当時としては衝撃的であったが、映画の持つ普遍性は現在も兼ね備えている。

襲撃したのに40ドルしかなく、襲われた一家は殺されるはずないと信じ、犯人の言うことを大人しく聞いている光景はなんともおぞましい。実際、この事件は「殺す理由」がまったくない。一家に顔を見られた?──そんな事を怖れるような犯人ではない。刑事は2人の供述から証拠を固め、殺人罪で起訴。1960年3月22日、2人の裁判が始まり死刑の宣告が下りる。

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後に2人は何度となく上審するなどして時間稼ぎをしたが、1965年4月14日、関係者一同が見守る中、絞首刑に処せられた。「なぜ2人の青年は、理由もなく4人の人々を殺したのか?」。ノンフィクション犯罪映画の最高峰が問うものとは何か?殺人には多かれ少なかれ理由があり、その理由は個々の歴史の中から生み出されていくものだと言うことを知らされる。

その理由の1つが、母親の子どもに対する姿勢であることを知るにつれ、"犯罪の者の影に親あり"との事実を突きつけられる。親が子どもに与える影響力を言い換えるなら、子どもは両親の罪を全て背負って大人になるのであろう。犯人の1人ペリー・スミスと原作者カポーティの生い立ちには、いくつか共通点があった。二人が子どもの頃、両親が離婚している。

カポーティ自身、まともな教育を受けず、独学で今の地位を築き上げた。故にカポーティは獄中のペリーと親密になれたばかりか、ペリーの心の闇に触れたカポーティは、ふと気付くのだった。彼は自分自身と同じであるということに──。ペリーに共感したカポーティは、死刑を宣告された二人に優秀な弁護士を雇い、控訴の手助けをするのである。

人助けのようだが、真の目的は自身の作品を完成させる事だった。そのためにはペリーの救命と取材時間を稼がねばならない。青年から事件の詳細を聞きだし、さらには死刑が執行されねば話が完結しないというジレンマが待っている。驚くべき創作意欲である。「同じ家に生まれ、正面玄関から出て行ったのが自分で、裏口から出て行ったのがペリーだ」。カポーティはそう呟く。

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自分は賞賛される人気作家、ペリーは死刑が待ち受ける犯罪者だが、二人の根っこは同じであると。ペリーの死刑が確定したとき、カポーティは親友の女性ネルに電話し、「彼のために何もしてやれなかった」と落ち込んだ。ネルは、「死刑にしたかったんでしょ」と冷たく言い放つも、ネルには傷つき病んでいくカポーティの二面性を理解することは出来なかった。

カポーティは、その天才性でもって巧みにノンフィクション・ノベルの嚆矢となる傑作を書き上げた。が、反面彼は天才であるが故の鋭い感受性を傷つけ、自らの行為に身動きがとれなくなるほどに病んでしまう。『冷血』発表後は1冊の本も書けず、日々アルコールとドラッグに溺れた。そして1984年8月25日、ハリウッドの友人宅で59歳の短い生涯を閉じた。

カポーティは野心家である反面、トラウマを抱えた孤独で繊細な性格の持ち主だった。彼はまぎれもない人格破綻者だが、『冷血』の犯人たちのような、冷酷無比を隠匿する偽善者ではなかった。彼の『冷血』執筆までの苦悩が、『カポーティ』という映画になっている。監督はベネット・ミラー、カポーティ役のフィリップ・シーモア・ホフマンの完コピ演技が秀逸である。

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家族の消像

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ルキノ・ヴィスコンティに『家族の肖像』という作品がある。1974年公開のイタリア・フランス合作映画だが、日本での公開はなんと4年後の1978年である。しかも、ヴィスコンティはその2年前に69歳で亡くなっている。映画は大ヒットし、日本でヴィスコンティブームが起こる。それほど話題の映画とはいかなるものか?という動機で観たが、当時の自分はこの名作を理解する頭も感性もなかった。

若者から変わって、「老」の立場で観てみたい。撮影はルメットの『十二人の怒れる男』同様、大学教授のアパートの一室のみで行われた。英題の 「Conversation Piece」 とは、18世紀イギリスで流行した「家族の団欒を描いた絵画」のことで、それを『家族の肖像』という邦題とした。老教授と価値観を異にする若者が同居する話で、格闘の末に若者は自殺する。

両者の思想の違いが、口論からとっくみあいの喧嘩へと対立するが、教授は成すすべもなく、若者も立ち去るしかない。「家族ができたと思えばよかった」と、教授は今までの自分の態度を悔やんだ。教職者はどうにも教えたがり屋である。翌日、若者は教授に手紙を残し、上階で爆死した。教授はショックで寝込んでしまい、やがて息を引き取る。教授が若者を、若者はまた教授を死なせた。

家族とは、「近親者によって構成される人間の最小の居住集団」だが、さまざまな言い方がある。Wikipediaには、「居住を共にすることによってひとつのまとまりを形成した親族集団のこと。また、「産み、産まれる」かかわりの中から生じた親と子という絆、そうしたものによって繋がっている血縁集団を基礎とした小規模な共同体が家族である。」と記され、ブリタニカには以下の記述がある。

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「婚姻によって成立した夫婦を中核にしてその近親の血縁者が住居と家計をともにし、人格的結合と感情的融合のもとに生活している小集団。家族は原始的群居の状態から次第に血縁的秩序の分化を経て、今日の小家族へと段階的変化をとげてきた」。したがって、同じ家屋に居住する血縁集団に限定の場合もあり、現代においては、直系親族を中心とする単家族のことを指す場合もある。

戦前の日本の家族は「家制度」に基盤をおき、地域社会や国家とつながる「イエ」を形作っていた。「家制度」とは、1898年(明治31年)に制定された民法に規定された日本の家族制度で、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えた制度である。江戸時代の武士階級の家父長制的な家族制度を基にした。

「家」と「家父長制」の二つを大きな要素としていた「家制度」は、女性参政権の施行と日本国憲法の制定に合わせて、1947年(昭和22年)には民法が大規模に改正されたことで、親族編・相続編が根本的に変更された為に、家制度は廃止された。したがって「家族」の概念は、戦前、終戦、そして現代へと歴史的変容を見るが、フェミニズムは戦前の「家制度」的「家族」を批判している。

「家族は、家父長制と女性に対する抑圧を存続させる主要な制度である」と、『フェミニズム事典』(明石書店)に定義されている。よいものや、よい場合もあったが、それらを跳ね除け、女性に都合のいいことだけを主張する「フェミニズム」は、極端さから理解を得られない。なぜ日本人フェミニストは、「男だけが戦争に駆り出されるのは男女差別だ!」と言わない?可笑しいと思わないのか?

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イスラム社会といえば、一夫多妻制で女性がヴェールをかぶり、行動が制限され、学校にも行かせてもらえないなどのイメージだが、全てのイスラム社会がそうとはいえない。イスラム教の聖典『クルアーン』には、一人の男性は4人まで妻を持つことが許されている。しかし、現実にこの規定を適用し、制度として認めている国は少なく、現在大半のイスラム社会は一夫一婦制である。

そもそも一夫多妻制は、なぜ成立するのか? イスラムの社会だけでなく、日本においても男性が妾を持つことは、旧憲法下で認められていたし、旧刑法の「姦通罪」は、夫のいる女性がほかの男性と関係を持った場合に、相手の男性とともに適用されるもので、妻ある夫が、夫のいない女性と関係を持つのは「姦通罪」とならない。したがって、妾を持つことは事実上合法とされた。

論理として矛盾はないが、なぜそうした状況が成立するのか?一夫多妻制という明らかな性差別的な制度がなぜ成り立つのか? 理屈は単純である。①男性間に大きな階層間格差がある。②女性が自立して生きていくことが難しい。この2つの条件を満たしている社会では、法がそれを容認するかどうかとは別にして、一夫多妻制が成立する土壌にあり、女性から見た理由も明確である。

つまり、豊かな生活力のある男性の第二夫人になる方が、貧しい男性の唯一の妻となるよりもはるかによい生活ができるからである。依存型女性にすれば、第二夫人を選ぶことが、「合理的」となる。依存はいやだと独立自尊を標榜する女性であっても、それでは生きていけない社会形態がそれを阻む。「女衒」や、「唐ゆきさん」といった時代の女性哀史がそれをものがたっている。

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女性側にとって合理的であることが、一夫多妻を成立させててしまうということ。もちろん、社会の未整備という問題もあるが、それらはあくまで「力学」の問題で、決してよいこととはいえない。ところが、女性の合理的思考は現代にも強く現れている。簡単にカラダさえ与えれば、時給800円でちまちま働くなどバカらしい。そんな彼女らをみるまでもなく、女性は合理的思考が根底にある。

女性の物欲が、性欲が、簡単に己の自制心をなくさせるのは、女性が生きて行きにくい社会制度とは別の問題のようだ。安易に風俗に身を投じてしまう女性は、合理的な考えに自ら屈するようなもの。「もはや、そういう世界でしか生きていけない」などと、もっともらしいことをいうが、自尊感情を失わない女性は薄給で生計を立てている。金で身を売るのは何も女性ばかりではない。

金で心を売る男だっている。お金は人間の身や心を売ることもできる魔物である。だから、ゼニカネで身を売らない女、高禄で心を売らない男に価値があった。言い換えるなら、ゼニで身を売る女、カネで心を売る男は、人間の尊厳がゼニカネ以下となる。身や心はそれほどに軽いもののようだ。では、毅然とした人間の尊厳は、どのように身につけられる?といえば、何よりも教育であろう。

「万歳岬」というのは地名ではない。「バンザイクリフ」とも言い、「万歳岬の悲劇」として名を残す北マリアナ諸島、サイパン島最北端の岬の別名である。昭和19年7月、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺したところ。初めてこの実写フィルムを見たとき、いいようのない怖さを感じた。人がまさに自殺をする場面を目撃する怖さであった。


我々の同胞が、死というものを何ら恐れることなく、ためらうことなく、立ち止まることさえなく、絶壁から身を投げるという恐怖、人の最後を見せつけられる恐怖。人は命と言うのをこれほど簡単に捨てるものなのか?それが戦争なのか?「窮鼠猫を噛む」は、鼠さえ猫に刃向かう。なのに、なぜ人間は「万歳!」の名の元に簡単に命を捨てるのか?その事が理解できなかった。

それが教育なのだ。と、理解した。「鬼畜米英」という洗脳教育、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」という戦陣訓。1941年1月、当時陸軍大臣であった東条英機が、全軍に示達した戦陣訓の元に皇軍兵士たちは、捕虜となることは「非国民」の恥辱と考え、そうすることは残された家族も迫害される恐れを抱いた。事実はともかく、国家の無言の圧力である。

「戦陣訓」の解釈はさまざまいわれるが、サイパン島の悲劇の本質というのか、実態は田中徳祐著『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』のなかに、米軍による婦女暴行や虐殺が誘発した事件であったことが、自殺の要因として生々しく綴られている。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉である。この著書はGHQにより発禁処分を受けた、幻の実録サイパン戦記である。

教育は人を作り、人を導くが、人の心も変える怖い面もある。どのように変わるかは人次第。「鬼畜米英」と教え込まれた日本人にとって、顔の赤い、図体のデカい米兵は、さながら鬼に見えたろう。手記にはこのようにある。「投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。

イメージ 5距離にして1000米くらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。 幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から、「殺して!」、「殺して!」と絶叫している。その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。 やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。 絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかつていった。……なんたることをするのだ!小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。

この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった)婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい…。あの投降勧告はー体なんだったのか」。戦争という狂気、人間の狂気がここにある。

家族が消えていく。肖像写真も家長が中央から端に移動だ。下重暁子の『家族という病』が売れている。他人の家族はよく分らないが、一声かかると必ず集まる我が家族。今年は4日にボーリング大会。老夫婦、長男夫婦、長女と孫、三女夫婦の4ペアで毎度の賞金争奪戦。1位8万、2位4万、3位2万の結果は、長男、三女、長女の順。老兵は去り行くのみだ。

終了後は長男の驕りにて御寿司屋さんに。長男は自分に似て太っ腹、気前がいい。2万5千円を支払う。事前に娘に問うた。「優勝したらみんなの食事代を出しなさい。それが家族愛というものだろ?」。長女も三女も口を揃えて、「冗談言わないでー、買いたいものあるんだから!」と、どうして女というのはこうもケチで欲なのか?親の顔が見てみたい…

英語で家族を意味する「Family」の語源があまりにも美しい。「」はfather、「」はand、「」はmother、「ily」はI Love Youの頭文字を とっているというもので、すべて繋げると、Father And Mother I Love Youと感動的なフレーズになるが、単なる言葉遊び、もしくはでき過ぎたこじつけであろう。本来は、ラテン語の「Familia」が語源という説が有力である。

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竹田圭吾消える

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最後の最後、それこそ立てなくなるまでテレビ、ラジオに出演し続けた竹田圭吾が10日、すい臓がんで亡くなった。彼が自身のがんをテレビで公表したのは、2015年9月27日放送のフジテレビ系情報番組「Mr.サンデー」で、この日は肝内胆管がんで亡くなった川島なお美さん、乳がんで療養中の北斗晶さんの特集を組み、最新のがん検診の取り組みなどを紹介するもの。

特集の最後の方で竹田は、「僕もがんになって…」と切り出す。彼は2013年11月、病気療養を理由にすべての出演番組を一時降板。翌14年2月には早期復帰を果たすが、変わり果てた外見にネットなどでは心配の声が相次いだ。そんな矢先のがん告白である。抗がん剤治療の副作用で頭髪が抜け落ち、かつらを着用して出演していることも明かした。

直後のツイッターで、「がんが見つかったら生き方の中で何を優先しようかな、と検診段階から思い浮かべていくのが大事ではないかと、自分の体験から思います」と気丈につづるも、「どれだけ治療が順調で、家族に寄り添われて、友人や仕事仲間から励まされても、孤独からは絶対に逃れられない」とも述べた。あまりの激ヤセぶりに憶測も呼んだ。

療養明けとはいえ、病気が完治していないのは体型を見れば一目、それが何の病気かは分かっていなかった。「僕もがんになって…」の後に、「がんの発見が遅くても、それで自分の人生が終わりという訳ではないし、がんの治療法は毎年のように新しいものが出て来る。そして、がんになったとしても少し種類の違う人生が続くだけ」。竹田はこう説明した。

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そして自分の頭を両手で触り、「僕も今、頭、これカツラでも仕事続けていられますし。(がんに)襲われて闘うものでは必ずしもなくて、自分の中の一部に棲みついたものを宥めすかしながら、なんとかなんとか抑えながら生活の質を維持していくのががんなんだということを、検診を受けている段階から何となくイメージしておくといいと思う」と語った。

彼が告白する前、竹田をあそこまで激やせさせた病は一体なんのか?ネットでは憶測が流れ、色々な病名が上がったが、どうやら「骨肉腫」ではないかということになった。竹田も関係者も病名を公表していないのに、なぜ骨肉腫になったかについて、本人も周辺からそう思われているのは当然知っていたはずだが、竹田は骨肉腫を否定しなかった。

否定しないからそうであろうとの単純な理由が、彼を骨肉腫にしてしまったようだ。情報がないなら憶測に頼るしかないが、竹田はなぜ病名を言わなかったのか?すい臓がんといえば、スティーブ・ジョブズがそうだった。2008年6月9日、第二世代iPhone(3G)発表時、ジョブズは本人とは見分けがつかないくらいの激ヤセ姿で登場して、世界を「あっ」と驚かせた。

当然にしてジョブズの健康問題がマスメディアで取りざたされたが、同年9月10日の第四世代iPod nano発表時に自身の健康面に触れ、「自分の死亡説を流すのはやりすぎだ」と、健康不安についての臆測を一掃した。実際がんは肝臓に転移し、容態は深刻であった。同年12月16日、アップルがMacworldでの基調講演を行わないと発表、不安は再燃する。

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2009年1月6日、「体重減少はホルモン異常のため」との書簡を発表、重病説や辞任説を否定、「アップルCEOとしての義務遂行が継続できなくなったら、最初に取締役会に話す」と宣言するも、1月14日、6月末まで治療に専念するためのCEO休職を発表した。自身の重病を隠す人、公表する人、さまざまだが、竹田は黙し、ジョブズは嘘をついてまでメディアを黙らせた。

公表しない派は、自分の病気を取り上げられたくないからだろうし、公表する派は、自分のことを病気であれ何であれ、取り上げてもらいたい性向であろう。ジョブズも竹田も前者であるが、あの時、竹田が公表したのは、3日前に死去した川島なお美や、北斗晶の乳がん闘病を取り上げた番組のコメンテーターとして、がんに罹患したときの心構えを述べたかったのでは…?

そのためには自身ががんに罹患し、闘病中である事を隠すのはさすがに不自然と感じたのでは?言いたくはないが、言わないのは不誠実という気持ちになったと推察する。常に理性的で感情的な言質に捉われない竹田が、考えた上での公表というより、あの日は自然と口に出たのではないか。もしくは、それを言うべく理性的必然性があったということだ。

コメンテーターとして番組で何を喋るかわきまえる彼は、自身のがんの話題や経過を話すために呼ばれてないし、ジャーナリストとしての自負と使命感を持って番組に臨んだ竹田である。ジョブズにあっても、病気の状態や経過を話すための場など無用とばかりに、彼はアップル社のCEOとしてのみ衆目の前に登場、仕事をする。そういう意思を見せた人である。

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自身への「感傷など無用」が、二人に共通の思いである。竹田はジャーナリスト、ジョブズは企業経営者で芸能人ではないのよ。よって、視聴者やユーザーからの同情は彼らに有り難いものでない。自分も周囲から同情を得ておセンチになるを良しとしないタイプである。周囲が自分をどう捉えるかより、周囲に対しては、自身の私事や動向ならぬ利他性を重視する。

「実在感」は人によって違うが、自身の「実在感」をどのように感じて行動するかで、人の行動は決まってくる。周囲からチヤホヤされたい人もいる、自身をクールに見つめる人もいる。そのようなスタンスはブログにさえ顕著に現れる。公益性の記事を模索する人、私的な記事を綴る人、いろいろだ。たまに私事を書くが、手前味噌を躊躇う男のシャイな一面を自ら感じる。

自身の意思や思考を表明することに"てらい"はないが、日常の雑事・出来事を綴ることに積極的でないのは、読者との交流を意図した仲良しブログではないからであろう。自分という個人の主観で捉えたもの、感じたもの、それら時間と共に消えてなくなる空気のような、「思考」という精神活動を文字に残しておくのが面白い。だから続けているのだろう。

自分は20代のある時期だったか、見た夢をノートに綴っていた。夢は何と奇想天外であり、滑稽で非現実的で、折角の貴重な体験でありながら、数日経てば忘れてしまう勿体なさが、記述を始めた理由。書きながら、読みながら、「どうしてこういう夢を見たのだろうか?」夢という不思議世界に興奮し、感動もし、人間の潜在脳の素晴らしさに感心もする。

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アインシュタインは、ある夢からヒントを得て特殊相対性理論に辿りついた。その夢とは、光速のスピードで空を飛ぶ彼が、自身の顔が鏡に映るかどうかを試しているという夢である。人間が光速で飛ぶなどあり得ないが、夢が可能にしてくれる。彼はこの夢から、「光速不変の原理」という、これまでの物理学の基本であった、ニュートン力学を一新する仮説をたてた。

ニュートン力学を分かりやすくいうと、時速100kmのスピードで進む自動車から、時速100kmの球速のボールを投げた場合、その球のスピードは車速100km+球速100km=200kmのスピードボールとなる。ところが、光速(時速30万km)のロケットから、今度は時速10万kmのミサイルを発射した場合、30万km+10万km=40万kmになるというのが、ニュートンの力学法則である。

ところが、光速不変の原理は30万kmを上限とし、それ以上の速さはないとした。つまり、上のミサイルの速度は30万kmとなる。このように相対性理論が主張している事は、「光と、それを観測する観測者との相対速度が不変だ」と言う仮設である。つまり、これが事実である事を素直に認めることから出発した理論であるということ。なぜ、光に相対速度が適用されないのか?

その質問の答えも、「それが観測事実」というしかない。その事実を出発点にしたのが「相対性理論」であり、もし、光が普通の物質のような、速度の合成則が観測されれば、「相対論」は崩壊することになる。そんな事実は見つかっていないゆえ、「相対論」は生き残っている。光速で移動する自分の顔が、果たして鏡に映るのか…、アインシュタインはいい夢を見た。

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憧れのYちゃんとやった夢を見て、夢である事を残念に思ったでは物理学者の資質はない。夢で起こった事は事実ではないが、夢を見たという事実。夢の中身をノートに書いておけば、何日、何年経っても夢を的確に回想できる。書いて残しておかねばすぐに忘れて消えるし、なかったことに等しい。夢は事実でないが、夢を見たという事実は残す価値がある。

竹田は先月22日が最後の「とくダネ!」出演となった。彼の体調は車椅子も検討されたほど悪く、小倉キャスターは「僕はつらかった。竹田さんの覚悟は決まってるなと思った」と振り返る。「どうしても番組に出たい、それが僕の生きざまです」と懇願する竹田に、「みんなで一緒に闘いましょう、という雰囲気になった」と、小倉は受け入れたという。

「ネット選挙解禁後の日本の政治」という解題で竹田と対談もある投資家・ブロガー山本一郎も言葉を寄せた。山本は竹田が病気療養で一時降板の代打で、『とくダネ!』に出演する事になった。竹田は山本からの電話に、「安心して休めるわ。よろしく」と言ったという。「明るく現世から追い出してやろうよ」と、竹田の早逝を憐むことをしない山本の男気がいい。

竹田には妻と二人の娘がいたという。「美人薄命」というが、「才人薄命」が相応しい。人は自分に降りかかる運命に抗えないが、死にゆく者の無念は想像に絶する。死への準備があるとするならそれは何か?竹田は死が何であるかを知らぬままに死んでいった。我々も竹田が消えたという以外、死が何か分らない。が、竹田の優先するものは感じ取った。

竹田は、ジャーナリストである自らの最後の使命として、視聴者に「死」を伝えたかったのではないか…。彼は、やはり凄い人だ。

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愛と誠・愛と金

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世界のあちこちでテロが起き、多くの人命が奪われている。二大宗教対立が根深い要因だが、一神教国家に比べて八百万の神おわす日本国のなんとも曖昧な神である。テロの被害はないが、それでもちまちま殺人事件は絶えず発生し、金にまつわる問題で人を殺すなど、まさに命よりお金が大事のようだ。「愛」の終焉によるいざこざもあり、愛と憎悪はまさに表裏である。

「金の切れ目が縁の切れ目」の関係は、この世は金次第で、愛などどうでもよい。とりあえず「好きよ」、「愛してる」などという言葉で装いながらも本音は、「花より団子」である。愛か金か、終ってみなければわからないのは、人には思わせぶりという立ち回りがあるからで、だから、交際中は自分に気があると思ってしまう。実体験者の言葉を拾ってみる。

「一度気前よく食事をおごったら、その後もずっとたかられ、『今日からもうおごらないよ』と言ったその日から一度も会ってない」(30代男性)

「彼女の借金を肩代わりした後、あと間もなく他の男にとられてしまった」(60代男性)

「プレゼントの回数が減ると同時に、会う回数が少なくなった」(30代男性)

「恋人に、年収が下がったという話をしたら疎遠になった」(40代男性)

「彼女へのプレゼントの質を落とした途端、そっけない感じとなる」(20代女性)

「今まで誘えば何時でも来たのに、割り勘になると来なくなった」(40代女性)

「彼の会社が倒産して失職した時、急に彼への愛がなくなりました」(30代女性)

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金に依存気質は心の卑しさの表れだが、なぜそのような性格になるのか、といっても幼児期からの積み重ねというしかない。誰だってお金は好きだし、お金は欲望を満たすものでもあるが、自分のお金を減らさないで済むならこれ幸いとばかりに他人にタカる。自分は人に金を出させるのが嫌いだが、その理由がなにかは自分のことゆえによく分かる。

他人にイイ顔したいというより、割り勘の面倒くさい。が、「驕るよ」といわれると、さっと自分の分を手渡したくなる。驕られるのが嫌な理由は、いい気分になれないし、他人の金だと食った物もマズくなる。驕る理由は上記の他に、相手が喜ぶという感じも伝わるからであろう。確かに喜ぶ奴は多い。「優しい」とか「思いやり」とか、食事を驕る場面にはない。

巷にいう、「優しさ」という言葉は何をもって「優しい」というのかは人によってちがうが、人生経験を積むと物事を、「あるがまま」に捉えてはならない場面が結構ある。斜め読みも必要ということだが、それからすると、「優しさ」の正体というのは、胡散臭い物であったりする。相手から供与される(一方的に自分が感じる)「優しさ」とはなんだろうか?

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本当に優しい人間と優しい素振りをする人間がいる。熟年となると、この違いが分かるようになる。判別不能な人もいるが、その人と多くの時間を持つにつれて見えてくる。時間を持てない場合は、分からぬままで終る。本当の優しさを心に持つ人間を一言でいうと、自身の利害得失を考えていないように見え、その根底にあるものを「良心」というのか?

「良心」を言葉では上手く説明できかねるので、正確な意味を調べてみると、「自身に内在する社会一般的な価値観(規範意識)に照らして、ことの可否ないし善悪を測る心の働きのこと」とある。言葉の意味は分かるが、それが「良心」というものなのかは分かり難い。噛み砕いていうなら、「善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き」ということか。

であるなら、人間関係に「良心」を当て嵌めるときに、人の「善悪・正邪」を基準にしていることになるのか?それは違う。「良いか、悪いか」、「正しいか、正しくないか」とは別に、「共感」、「思いやり」からの行為もあろう。「善意」というのは、「善い行い」という意味だが、「善意の募金」の深い意味は「相手を思う心」で、募金の行為自体が善い行いとは言い難い。

あるところに私財1億円を寄付したところで、動機が純粋なものでなく、秘された自己顕示欲なら、それを善行と言わない。ニーチェは、「善とは善意思によってなされる行為」といった。不純な思惑を秘した善行は善にかこつけた「醜」ではないかと。まあ、1億円をもらう側は意図がどうあれありがたいだろうから、行為そのものは善という見方もできる。

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「人間は、嘘と欲でできている」と、誰かいったか?今、自分がいった。聞いたことはないが、人間は言葉を持つ以上、誰でも嘘をつく。して、「嘘」が「悪」なら、この世は悪人だらけとなり、人間がいる以上、この世から「悪」が消えることはない。まあ、「善」も「悪」も、人間が人間の行為に対し、後から貼り付けたレッテルだ。テロリストも「善」の行為とやっている。

哲学は表層を論じることではない。が、世間は、人間は表層こそ大事なのかも知れない。本質ばかりに目を向けて世間を生きると、歪な人間と解される。よって、「信念の人」は変人とみなされる場合が多い。突きつめた考えも、時には、「ぞんざい」、「ぐーたら」であるのが世間人であろう。三島由紀夫は文学的に天才の資質を示したが、割腹自殺を遂げた。

彼の心がどうであったか、病んでいたのかどうかをめぐって、病跡学者の間で激しい論争がなされた。「病跡学」とは、作家の作品に精神医学的見地から作家の心の底を探り、創作の秘密を解明する。ある精神科医は、「三島氏は自決前から精神分裂病を病んでいた」と指摘し、その理由として三島の最高傑作『金閣寺』から、以下の段をあげる。

 "総じて私の体験には一種の暗合がはたらき、鏡の廊下のように一つの影像は無限の奥までつづいて、新たに会う事物にも過去に見た事物の影がはっきりと射し、こうした相似に導かれて知らず知らず廊下の奥、底知れぬ奥の間へ、踏み込んで行くような心地がしていた。"

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かの精神科医はこのように指摘もする。「『金閣寺』全体が、こんな雰囲気に満ちています。多くの世間の人には、こういう表現が凡人の想像力を超えた三島文学の世界と映るかも知れません。が、精神科医の目からみれば、これは精神分裂病の発病初期に見られる心の世界なのです。しかも、共感とか理解とかいうにはあまりにも生々しく書かれている。

自ら体験するか、ごく親しい患者と接しなければ、書き得ない一種独特の雰囲気をもっている。精神医学の専門書を何回読んでも、あのように描き出すのはムリであろうし、もし、三島に診断をつけるとなれば…、妄想症(パラノイア)か、妄想型分裂病というべきでしょう」。勝手に人を精神病患者に仕立てているが、これが彼らの日常業務である。

妄想症患者はゆるぎない妄想の体系を、長い時間をかけてガッチリと組み立てて行く。その体系の内容は全体として、現実にはあり得ないものに近づいて行き、説得しても訂正は不可能であるが、この妄想を別にすれば、知能も行動もキチンとしていて、病的な印象をほとんど他人に与えない。上記の説と対立する別の精神科医は以下の見方をする。

三島は精神病者というより性格の偏った人物であり、低い背丈に虚弱なカラダのほかに、女の子として育てられた生い立ちが影響してか、男色という性癖を含む特異で強い劣等感を、彼の並外れた強い意識的自己統帥力で克服していく。その過程の中で作品が書き捨てられた。弱い自分を隠すために自己顕示的に振舞うのは、ヤクザと同様である。

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三島もそのように振舞うことで、次第に現実離れした人間になって行った。また、仮に「妄想症」であるにしても、それは病気ではなく異常性格が発展したものであろう。どちらが正しいかは分らないが、精神病と関わりのある作家は三島に限らない。夏目漱石はまぎれもない精神病で、彼は探偵につけ狙われているという妄想をしばしば抱いた。

向かいの下宿の青年が本を読んでいれば、自分の陰口をいわれていると思い込む。手当たりしだい家人に物を投げたりした漱石は、精神分裂症とも鬱病とも診断されている。芥川龍之介は、「自分はあらゆる罪悪を犯している。それゆえに人は自分をあざける」などと思い込んだ。本屋に入ると、どの書物も自分を非難しているように思えた。

外出すれば誰かがつけ狙っていると恐れ、背を丸めて逃げ回った。これらから、「分裂病」と多くの病跡学者は診断している。宮沢賢治も約7年周期で廻ってくる躁鬱病であり、「躁」の時期に入る時、出る時、彼は正常な人間の見ることのできない世界を見た。それゆえ、『グスコーブドリの伝記』や、『銀河鉄道の夜』などの自伝的・幻想童話を書いた。

三島を分析した二人の精神科医はそれぞれ以下のように言う。「『金閣寺』を書いて、三島は発病からとりあえず逃れることができた」。「もし、三島が創作をしていなかったら、分裂病的発病をしたであろう」。多くの分裂気質の作家や芸術家にとって自ら生み出す作品は、精神の拠り所であり、それはまた、精神的疾病発病の抑止になっていたといえる。

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精神病者は人口の6~8%あたりを推移するといわれるが、世界史にみる天才400人を選ぶなら、精神病者の割合は実に13~15%にのぼる。特に有名な天才78人に絞ると、その割合は40%近くに達する。さらに、ニュートンやドストエフスキーなど、超有名天才となると数字はさらに上がり、その中でも変人といわれる人は90%、正常者はわずか3人となる。

芸術や科学分野において無視できない部分が、狂気や純然たる精神病と深く関わりあって生み出された。もし、狂える人がいなかったなら、我々の心の文化は貧困であったろう。「自分は預言者」、「キリストの生まれ変わりである」などの発言者も、誇大妄想的精神異常者の部類である。「前世は仏陀である」、「天草四郎である」という有名人もいる。

貸し借りの学問

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貸したものは必ず返させる自分は、請求を躊躇ったことはない。ここに幾度か書いたが、少年期のある事柄がトラウマとなり、そのトラウマから逃れるため、人にいい顔するのは止めにした。トラウマというのは、脱すればむしろよい体験となる。脱すればトラウマとは言わないにしろ、一時期トラウマであったのは事実であり、頑張って脱したまでだ。


Oクンの存在がなかったら、あのままの弱ったれの自分であったろう。貸したものを返せといえるだけで、「強いね~、自分は言えないな」といわれたりする。強いかどうかはさて、心を強くする努力はした。心を鬼にし、言いづらいことも言うように自らを叱咤し、鼓舞した。今までの自分でない自分に挑戦することは難義であり、勇気のいることだった。

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弱い者が強くなった暁には、強さというより当たり前になっている。未だ弱いままの者が、「強いね~」と言う。言うのはいいが、言うだけでやらずは弱いままだ。映画『アメリカン・スナイパー』に印象的なセリフがある。二人の息子を持つ父親だが、ある日、顔にあざを作って帰って来た次男を前に言う。「いいか、世の中には3つのタイプの人間がいる。

羊と狼と羊の番犬だ。世の中に悪などないと信じたがる奴もいる。だが、それだと悪に出会ったときに自分を守れない。そいつらは羊だ。弱い者を見つけて襲い掛かる者もいる。そいつらは狼。だが、闘う力と勇気ある者は、羊の群れを守らずにはいられず狼に立ち向かう。それが羊の番犬だ。この家で羊など育てていない。が、狼になったらケツを引っ叩く。

もし、喧嘩を仕掛けられたら、もし、弟をいじめる奴に出会ったら…、徹底的にやって構わん。愛する者を守れ。」と、長男に言う。「愛する者を守れ」はいい言葉だ。実話を元にした『アメリカン・スナイパー』の主人公クリス・カイルは、このような父を持った家庭に育ち、愛国者となり、狙撃兵としてイラク戦争に四度従軍した彼の自伝である。

いかなる理由か、借りたものを返さぬ人間は多い。「こちらから言わないから返してくれない」と諦める人間は羊である。性格はそう簡単に変えられないが、だったら道理として考えてみたらどうか?貸したものを返す、返さないは、借りた側に決定権があるのではない。貸した側に債権が発生し、借りた側には債務が発生する。これが当たり前の世の道理。

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これが正常になされない原因は、債務者に理由がある。それでどうするか?債権と債務の関係が分かったら、義務を全うしない人間に対し、権利を主張すべきではないのか?行使といってもいいが、「返せ」という言葉だけだ。なぜそれが言えない?言えなかった自分の経験からすると、幼かったからである。小学3年生はあまりに幼いし、子どもであった。

貸した自分より、借りた友人の方が何故か大きく見えた。日が経って返さないとさらに大きさが増し、いえる雰囲気でなくなる。なぜ彼が大きく、自分は小さいのか?そういう疑問は持たなかったが、持てばよかった。借りた側より、貸した側が気まずくなるのはなぜ?子どもばかりではない、大人でもそのようになるはず。なぜだ?なぜ、借りた側の態度がデカイ?

実際はそうではなうし、決して借りた側の態度がデカイのではない。貸した側がそういう倒錯心理に陥っているだけ。借りた側も実は気まずい思いをしている。よほど図々しい奴以外は…。返そうと思いながらも、相手も返却を要求しないし、だからか、ズルズルと日が経てば、借りた側、貸した側もいい難くなる。借りたことをすっかり忘れているなどはマレ。

こういう連鎖を起こさないためにあらかじめ返却日を決め、履行されないなら請求する。以前、路上で金を貸すことになった女が居た。病院に行くのに財布を忘れて家を出たという。彼女は心療内科に通院するメンタル持ち女性である。ホテルのロビーで自身の過去を話していた最中、大声張り上げて泣き出したりと…。それで5000円を貸すことにした。

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むやみに人を信じない自分が、初対面の人間に金を貸すなどあり得ない。その女が病院に行くのは本当に思えた。明日返すからというので連絡先電話番号を伝えたが、翌日連絡はなかった。ところがその日、自分はその女の後をつけ、○○診療内科に入ったのを見届けていた。翌々日、その医院に電話して事情を話し、伝言を頼むと女から電話があった。

指定した場所に女は来た。どういう顔をし、どういう言葉を吐くのかに興味があった。その時の会話は忘れたが、案の定、跡をつけたことに苦情をいったが、これはもう自身の非を軽減する女の常套手段である。「知らない人間に金を貸すようなバカにみえるか?君が病院に行くのは信じたが、金を返すかどうか、信じなかったよ。当たったろう?」

人の善意を利用する不埒者はいる。そんな人間に善行を施し、いい気になるのはどうだろう。真の善意とは、貸したお金が返らなくても文句もいわず、恵んでやったと思える人である。自分はそんな立派な人間ではないし、相手を信用することはあれど、相手が信頼を裏切る可能性も考慮する。裏切られて恨むより、跡をつけたのは裏切られない方策である。

貸さない方法もあったが、それはそれで無慈悲と感じ、善意に呼応するかを試してみた。相手を試すのは、自分を試すことである。つまり、自分が人を見る目の甘さを試すことであって、信用とは違う。見ず知らずの人間を信用するのはバカだが、試すことはあってもいい。だから跡をつけた。人を信じたあげく、裏切られたと嘆くバカではいたくない。

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跡をつけたことになぜ相手が文句をいうか?おそらく信用されないことへの憤慨であろう。この結末を知人に言うと、「俺は貸す以上は信用する。信用しないなら貸さない」と、見栄を切ったのが滑稽に思えた。「信用するとか簡単にいうが何を根拠にだ?自分の眼力か?」、「そういう事」、「見ず知らずの相手に眼力などという思い上がりは自分にはないな」。

自分は信用しないが貸した。その代わり返却されないバカを見ないよう相手を試した。リスク回避の自己防衛と、親切をセットにしたまでで、その是非の答えは自分の中にある。人を信じるか、信じないか、という命題にあって、信じることは美しい。多くの人はその美学に酔い、墓穴を掘る。誰でも人は信じたいし、信じたいがゆえに疑うのは許されていい。

イメージ 4人を信じるか、信じないかの経験は誰にもあるし、そういった経験を積むのは大事である。ハナから信じないことで得るものは何もないが、信じることで得るものはある。裏切られたという事も、得るものの一つではないかと。そういうリスクをとることが人生勉強かも知れん。お金は貸す側も罪を作るというが、人の醜い面を見ることになるという意味においても罪なのか?

借りた金を返さなかったことを棚にあげて、相手を責める醜い面を晒した。人間が殻を脱ぎ捨て、醜悪な面を出すのを見るのも勉強だ。人が自身の殻を脱ぐ場面に触れてこそ、人間の真実を理解する。心理学に「ポジティブ・イリュージョン」という言葉があるが、人の自分についてのイメージを、実像より自分を良く見せようする人間心理の傾向を、このように呼んでいる。

アメリカの心理学者によると、人が元気よく生きられるのは楽観的な自己欺瞞のおかげらしい。人が前のめりに生きて行くには、事実通りの認識よりバラ色の幻想が役立つ。自身の伝記であれ、日記であれ、ブログの記事であれ、だから膨らましたりで丁度いいのだろう。日本人はポジティブ・イリュージョンに乏しく、自分に厳しいイメージを抱きがちだ。

「人間関係に角が立つ」ことを極度に恐れるのはどうかと思うが、多少の角は生まれも育ちも、あるいは性別も違う人間として当然である。「雨降って地固まる」ともいい、「和」であることだけが尊いのではない。喧嘩や言い合いをする前に、相手の考えや価値観を受け入れる許容量を持つ。「角」が立つのはヨロシクないが、○○が立つのはいかが?


「依存と自力」・「権威と実力」

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依存とは何かに寄りかかって利益を得ることだが、そういえば、事務所に依存したくないからジャニーズを辞めたと大沢樹生は言った。SMAP問題に揺れる芸能事務所のマスコミを牛耳る力は多大で、大沢も「依存」というより「所属」と思えばよかったのだが、そこは若さゆえの考えの甘さでもある。タレントは事務所に所属し、キャリアを積んだ後に個人事務所を開く。

過去、芸能人の事務所脱退騒動は多く、辞めた途端に圧力をかけられ、仕事が無くなった者は多かった。「育ててやったのに恩を仇で返すのか!」は、いかにも日本的な徒弟制度らしい。「徒弟制度」とは、一定期間親方の家に住み込み、雑用をしながらで商工業の技術を見習う制度。やがて独立の際は、数年先延ばしにし、数年の「お礼奉公」が一般的だった。

徒弟制度は、教わる、学ぶ、教えるという三つの要素から成り立ち、仕事にしろ何にしろ、人から何かを習う場合にはこの三つが基本となる。これを教育に置き換えるとどうだろう。教わる、学ぶ、教えるは、学習、研究、指導と置き換えられ、方法としては、座学と修行がある。座学の根本は知識の取得であり、修行の根本は経験の蓄積である。

となると、教育の原点は遊びや徒弟制度のようなもの。徒弟制度は上に掲げた目的意識が明確で、現在の教育が失ったものを持っている。それは、修行の要素である。なにより徒弟制度は、長い時間、職人を育成してきたという実績がある。その前に「修行」と「修業」は似ているが意味が違う。「修業」は比較的その期間が決まっていることが多い。

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したがって「卒業」は「修業」である。「修行」は一生の努めとしてある境地にたどり着くこと。よって「修業中の身」という言い方は、一生の努めと考えることもできる。学校の過程は卒業をもって修業とみなし、「板前修業」などは親方に認めてもらって修業となるが、名人級の板前は、「一生修業」を口にする。「一生稽古」と揮毫した名棋士の色紙を見たことがある。

昨今の教育についていえば、「個々の主体性を重んじる」と言いながら、「主体性を認めない」。「生徒達の意志や希望を尊重する」と言いながら、「意志や希望を無視する」。「早く社会に出て仕事を覚えたい」と言おうものなら、一人前でないとか、世間体がどうとかで許さない。社会勉強という枠の外に出ることの大事さを認めていないのは、なぜだろうか?

徒弟制度の厳しさは、「教えない」厳しさだが、昨今は、形態が変わった。古き時代の親方は、手取り足取りなどと教えない。仕事は受身では身につかないという考えにあって、黙って待っていてアレコレ教えてくれるなら、まるで教わる側が親方の上に立っていることになる。「仕事は教わるものではない、盗むもの」これが親方の考えの基本にあった。

「(仕事を)教わる姿勢」がなっていないと注意をされる今の若者だが、かつては「教わる姿勢」という言葉さえなかった。親方はハナから教えず、ただ行うだけだから、弟子(教わる側)は、必死でかじりついて見るしかない。「ここはこうで、こうやる」と教えないなら、「なぜアソコはあのようにやる?」、「ココはどう処理する?」という疑問を抱き、見て疑問を解決する。

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一切においては自分が疑問を持ち、自分で答えを導くという厳しい世界では、頭が縦横無尽に回転し、展開しなければダメ。課題を与えられる塾の勉強と違い、課題さえ自分で見つけねばならない。よって、いい職人はバカではなれない。「ゴッドハンド」という言葉がある。いろいろな世界に同類の言葉があるが、医学の世界では秀逸な外科医に与えられる称号だ。

外科医には手先の器用さや繊細さが要求される、そんな言葉だが、外科医に必要なゴッドハンドといわれるものは、知識と経験と前向きな思考回路のことであり、あとは普通の手先の器用さがあればいいとされる。が、もっとも重要なのが、「精神力」と言われている。知識は正確な病状を知るためで、それがないと間違った行為に及ぶ可能性が高い。

絶え間ぬ医学の研究や勉強は大切として、次に色々な場面に遭遇し、そこで出来うる最善の処置を随時出来るかどうかは、多く経験がモノをいう。手先の器用さに関係なく、器用である必要はない。要は、困った際にどういう治療をするかの判断力である。さらには治療が上手くいかずとも、次の治療に生かせるだけの粘りや強い精神力、向上心が大事となる。

「神の手を持つ外科医」と世界から賞賛・尊敬される大阪医科大卒で、心臓外科医の須磨久善医師は、手がけた心臓手術は5000件を超える。多くの患者の命を救うだけでなく、数々の新しい手術にチャレンジし、成功率、生存率を上げた。須磨氏は、「外科医にとって最も重要なのは手先の器用さではなく想像力」と言う。彼の手術スピードは卓越している。

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そのスピードさえ、想像力のたまものといって憚らない。「同じ手術をして時間のかかる人は、やらなくてもいいことをやってる。そりゃどんなに上手に速くやったって、やらなくてもいいことをやるなら、時間を食うばかりで意味がない。それから、1回で終わらせるべきところを何回もかかる人。これも一見技術の問題のように思えますが、実はそうじゃない。

なぜ何回もかかるのかは、事前に頭の中でやるべきことをスリムに簡素化できていないからで、それができていれば一発で決められます。だから結局、ここまでは手先の問題じゃなくて頭の問題なんですよね。イマジネーション(想像力)が大事というのは、そういうことなんです。だから手術の前に何度も何度も繰り返しイメージするんです。」

須磨氏もだが、ゴッドハンドといわれる名医に東大医学部出身者はいない。理由のひとつに、そもそも理Ⅲには医者になりたい志の人間が少ないといわれる。東大医学部OBで、作家の石井大地氏は語る。「自分を含め、ほとんどの理Ⅲ生は、勉強ができるゆえの腕試し的な意味合いで理Ⅲを受験していて、どうしても医者になりたかったわけではありません。

勉強をやり続けていたらここに辿り着いた、という感じでしょうか。僕は高校時代から本を書きたくて、企画書をつくっていたので、理Ⅲに受かったときも心の盛り上がりはなく、『やっと出版社に企画書を持ち込めるな』と思った程度でした」。「どうしても理Ⅲでなくてはならない」というなんらかの動機を胸に、理Ⅲを受験する者は極めて少数派のようだ。

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ある東大医学部卒の研修医は、「本当に医者を志望して理Ⅲを受験した人間はせいぜい2割程度。あとは一番難しいテストが受けたかっただけの連中。口では『人のために働きたい』といいますが、実際は自分の能力証明しか考えていない」という。彼らにとって理Ⅲの入試そのものが目的で、その先にある医師という仕事は「その後の成り行き」に過ぎない。

一家庭から3人の医師志望、いな、4人目の女の子も医師志望とは、凄いというより異常だろう。勉強の成績がイイから医学部受けなさいと塾に勧められると同じものかと…。本人の意思など関係ない塾や親のステータスであろう。成績がいいから最高偏差値の医学部受験と、本人がなりたいものと別だが、勉強ばかりしてるとなりたいものが医者って、先ずは結論ありきでは?

それが東大が名医を輩出しにくい他方の理由のようだ。そもそも理Ⅲに合格する才能と、医者の才能は何の関係もない。心臓外科の名医、東京ハートセンター・センター長の南淵明宏氏(奈良県立医科大卒)は、東大医学部について、「受験勉強ができるというのは単にクイズができるだけで、医者の資質とは別物です。東大医学部出身で尊敬できる方を、私は一人も知りません。」

「理Ⅲの人たちは心から尊敬するし、友達もいるけど、自分が患者としてあいつらに命を預けたいか、と問われたら絶対にノーですね」(東大理学部4年)

医者になりたいというモチベーションがなく、ミスを恐れて踏み出せない。それが大秀才集団・東大医学部のもう一つの顔だ。そもそも東大に行くのは、煎じ詰めれば保身のためなんです。東大に行かないとできないこと、というのは実はほとんどない。ただ就職などには有利ですから、食いっぱぐれるリスクは減ります。(南淵明宏氏)

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受験勉強というのは、努力を積み上げて将来のリスクを減らす作業であり、そのリスクを取りたがらない人間の究極先が東大理Ⅲといわれる。リスクを取らないということは、必然的に修羅場の経験が足りないことを意味し、修羅場の経験の足りない人が、メスを持つなら、「自分が患者としてあいつらに命を預けたいか、と問われたら絶対にノーですね」となるのも分かる。

「東大医学部生は優秀だけど無能」というのが医療現場の定説。知識があってもそれを生かすノウハウがない。東大医学部卒の精神科医・和田秀樹氏は言う。「東大病院では皆が教授を目指すので研修医を指導する体制が整っていない。僕がいた神経内科は、指導医の方が常に横にいて丁寧に指導してくれましたが、よその科では指導医がまるで病棟に来ないんですよ。

何をしているかというと、研究室にこもって自分の論文を書いている。なんせ教授になるためには、医者としての実務訓練なんかより、論文を書いたほうが近道なんです。そんな環境でまともな医者が育つわけがない。名医なんてもってのほかですよ。東大病院に来る患者さんは可哀想だと思いましたね。」内輪からこんな声も出る。ある東大病院職員はこのように明かす。

「教授にもなって、まともに手術ができない、という人も何人も知っています。順天堂大の天野篤先生が行った天皇陛下の心臓手術なんて象徴的ですよ。天皇家の手術は、代々東大病院が受け持ってきて、ある意味で東大病院の権威の源泉だった。それを他大の医師に譲ったわけですから、よっぽど執刀医に足る医師がいないのでしょう。」

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1月10日に放送された『情熱大陸』では、沈黙の臓器といわれる肝胆膵(肝臓・胆道・膵臓)のがんに挑み続ける外科医、上坂克彦氏が紹介された。名古屋大出身の彼も現代のゴッドハンドといわれるが、上坂氏はその言葉を嫌う。「神の手なんてあり得ません。人間ですから限界あります…」と謙虚であるが、人がダメなものを救っても、彼がダメなものはダメ。

「見つかったときにはもう手遅れ…」と言われた沈黙の臓器がんの常識が、一人の日本人医師によって覆された。上坂医師が代表研究者を務めた、「すい臓がん切除の手術後に抗がん剤治療を行う」大規模な臨床試験では、患者の術後2年生存率70%、5年生存率45%という驚異的な数字をたたき出し、世界中から注目を浴びたのである。

文と欲望

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こうして毎日書いていると駄文も多い中で、駄文がさらに駄文になる。良いセンテンスもあるのかどうか、文の良し悪しは文体にある。他人の文がなんとも素敵に見える。あんなにはとても書けない文も目にするが、自分の文をして、「とてもこのようには書けない」という文はない。なぜなら、実際に書いている訳だ。玄人の物書きが、ある日突然書けなくなるという。

手と筆があれば書ける文章が突如書けなくなるのは、創造力・文章の自己否定ではないのか?アイドルといってもプロが下手な歌を歌っている。あれでよく人前で歌えるものかと思うが、アイドルは聴くものでなく観るものなのだろう。三女の結婚式で友人のボイストレーナーが、美声を披露するというので楽しみにしていたが、それはそれはヒドイ歌だった。

彼女はボイストレーナーとして、自身の教室で多くの生徒を獲得しているという。それでつい、歌も上手いと思ったが、披露された歌は音程は不安定、不自然な抑揚ばかりが目立ち、聴くに耐えなかった。これでも生徒が多くて盛況というなら、歌の上手さは関係ないのだろう。ボイストレーナーとは、その人にあったボイストレーニングを指導する仕事。

発声の基本練習の指導であって、歌が上手くなければの理由はない。まあ、それを肴に家族が三女にむちゃくちゃ言って楽しめたことはいいが、「是非、歌わせて!」という彼女を無碍に断れなかったというのが真相のようだ。カラオケなどで、歌が上手くないのは三女も知っていたという。披露された歌は始めて耳にし、曲名も誰の曲かも分からなかった。

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が、長男らがいうには、「何であんな曲を結婚式に歌うのか、絶対オカシイ、どうかしている。自分の歌を披露したいためとしか思えんよ!」と手厳しい。自分はただ、あまりの下手くそに抑揚を込めた歌い方にうんざり、早く終ってくれと思いながら聴いていた。いや、聴こえていた。が、結婚式に相応しくない選曲といわれれば、そのようにも感じた。

結婚式でこういう話がある。友人が歌を披露すると新郎に伝えたところ、是非ともこの曲をと、新郎にリクエストされた曲は、当時流行っていた井上陽水の、『傘がない』であった。つまり、そういう時代の頃の話である。新郎が好きな曲であり、「俺のために是非この曲で頼む」といわれ、一つ返事でO.Kしたと言う。今に思えば、こんな曲を結婚式に?

誰もが思う選曲だ。今ならぜったいに新郎も頼まないし、仮に頼まれても避ける曲であろう。が、あれはダメ、これはダメということもなく、そういった何のてらいの無い良き時代の一面が偲ばれるエピソードである。ちなみに『傘がない』の出だしは、♪都会では自殺する若者が増えている…。「てらいが無い」とは、自分を相当な者らしく見せかけるの意味。

ところで、自分の記事を見たある者が、「てらいを感じる」と言った。なるほど…、つまり自分を相当な者らしくみせようとしているということだが、そういう見方もあろう。思うまま、感じるまま、気の向くままに書いたものだが、人は中身で判断する。思ってないこと、感じてないこと、下書き・清書し、構成を考えて書いたと思ってもそれは人の思い。

イメージ 3本当はバカなのに賢く見せようとして書いているとの見方もあろう。本当は才人であるが、ワザと下手に書いているとは思わないだろう。そんなことをする必要はないが、あえて分かり易く書くことはある。そういえば、モーツァルトは音楽的才を持ちながら、平易で素人受けするやさしい曲を書いたといわれている。自身の内的欲求から書かれた楽曲はまるで違っている。

日本の文豪10人を上げるとなると、意見は割れるだろう。夏目漱石、森鷗外、志賀直哉、泉鏡花、島崎藤村、谷崎潤一郎、 川端康成、三島由紀夫、井伏鱒二、井上靖、幸田露伴、芥川龍之介、太宰治、 大岡昇平、永井荷風、与謝野晶子、正宗白鳥、山本周五郎、横光利一、齋藤茂吉らは外せないが、吉川英二、山岡荘八、司馬遼太郎、大江健三郎は入らないか。
 

菊池寛、安部公房、安岡章太郎、吉行淳之介、有島武郎も部外者か。文豪とはその名の通り、文章の豪傑の意味であるなら、傑作とは別物だ。よって、川端康成や大江健三郎には傑作が無い。傑作とは傑出して優れた作品、秀作と同じ意味だ。また、名作とは"万人の共感を呼ぶ傑作"とある。いずれも主観的な表現で、秀才と天才ほどの意味の違いはないだろ。

同じような意味で、名曲、名品、名人、名将、名匠、名園、名所、名山、名店…いくらでもある。普通のものに「名」をつけるだけで格があがるからと、いい加減につける「名」もあるから、間に受けない方がいい。自分の文は駄文といったが、人によってはユニークと映ることもあろう。面白いかどうかは自分では分らないが、それが落語家や漫才師の苦悩であろう。

自分は面白いと思っても受けない、逆に面白いと思わないものが受ける。よくある話しだが、だから文章も面白く書こうと思っても結果は人に委ねられる。美味しい料理も人が感じるもののように。だが、極意はあるのだろう。だから、○○のラーメンは美味しい、中華は美味しいとなる。名文の極意もないわけではないが、料理と同じで知識と素養がいる。

名文は書きたい、面白い文も書きたいが、その前に自分が納得する文が書けるかどうかである。他人が晒した文は、秀逸で納得できるが、本人が納得できるかどうかは分らない。「朝起きて、夜寝た」のような短文に納得もへちまもないが、数千字も書くと、様々な要素が必要となる。時に頭の回転が悪いときもあり、そういう場合は普段にも増して駄文となる。

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斯くの場合は、書かないのが方策であろう。が、自分はそれを横着と、自身を鼓舞するところがある。今日は、なんとなくだるい、気が進まない、かったるい、などを自己の怠慢とするのが、沁み付いている。日・祭日は筆を置き、それ以外は書くように努める。励むというほどではない、所詮は駄文という気楽さもある。駄文も少しづつは良くなるであろう。

上手い文章を目指す前に、下手に見えない努力も必要だ。「下手の横好き」というし、「好きこそ物の上手なれ」という慣用句もある。これらから学ぶのは、上手くなるという理想は持っても、それは付加価値とし、まずは好きなこと=楽しいが優先されることだ。書くにあたって、調べることも楽しい。これが面倒というなら、調べる必要ある事は書かないだろう。

調べる必要は必然であり、裏を返せば知らないことに遭遇したということ。知らないことに遭遇するなら、知りたいと思うの当然であるが、当然でない人もいる。当然に思うから、面倒とならない。これを知識欲といえばそうであろう。知らないことを知りたいと思うのは、人間として自然なことだと思っている。あまりにも膨大であるから、ちまちまやっている。

解らぬことを調べるのは、自分が知るという目的と、人にも知らせたいという共感が絡む。自分だけ知るなら読めばいい。が、読んでもすぐに忘れるなら書くほうが勝る。折角調べたものだから、その手間を考えると書いておきたい気にはなる。そういうことを、ある奴は「てらいがある」と読んだのだろう。勘違いであれ弁解無用。人は自由に思えばいい。

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仮に間違っていても、弁解は自分のためにならない。相手のためにもならない。人は人なのだ。人に自分をかぶせることは、以前に比べてしなくなった。相手はそういう味方をするのだなと、その事が分かればそれでいい。分らないなら、分らないままだから、分かる方がいい。人は、自分とはまるで違った考えをする。そのことは、それは多く体験した。

驚くこともあったが、驚くことも多く体験すると驚かなくなる。若い頃は、自分とあまりの違いに驚くばかりであった。今は、何も驚かない。どんな風に人が思っていたとしても、人は人なのよ。自分には窺い知れぬ部分がある。「どうしてそういう考えをするのだろうか?」と、人の分からなさに苦しんだ時期もあるが、今は単純に「人は人」と理解する。

それ以上の突っ込んだ理解は不要となった。人をそこまで突きつめて理解するのは、面白いこともあるが、学者の領域だ。人間関係であまりに突っ込み過ぎるのはよくないと気づいた。ある程度の距離感を保つのが、人間関係の奥儀と捉えている。自己満足で突っ込み、相手を裸にするのは非礼である。人と人は知らない部分があってこその良好関係である。

悟りと言うのは、とらわれない心、欲望や雑念を捨て去った心であろう。凡人の誰にもこのような境地はある。瞬間、瞬間にであるか、それを連続的にし、心の平安を得るのが座禅などの修養である。欲望は誰にもあるが、それなくして進歩も発展もない。が、今のような物質至上主義社会にあっては、「欲望を捨て去れ」で、丁度いいのではないかと…。

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頭の回転を良くしたい、創造力を磨きたい、いい文を書きたい、なども欲望だ。そのように思わなければ進歩もないし、発展もない。持っていい欲望、持つべき欲望はある。努力で叶う欲望もあれば、罪を犯して叶える欲望もある。願望だけで何もしない欲望もある。人には人の、盗っ人には盗っ人なりの一分の理がある。人は、自分にあった方法をやればいい。

欲があるから盗っ人をするのではない。盗っ人には欠けたものがあるからだ。行動しない人に欲がないのではなく、失敗を怖がる面が見える。行動する人は失敗を恐れないのではなく、成功を願う気持ちが強い。失敗はすぐに忘れた方がいい。同じように成功もすぐに忘れて、新たな気持ちになるのがいい。いつまでも酔うのは過去に生きることになる。

SMAPのいざこざ

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報道で知るSMAPの分裂・解散問題の本質は、SMAPの担当マネージャーのジャニーズ事務所取締役女性と、ジャニーズ事務所女帝ことメリー喜多川女史との確執に端を発したようで、それならSMAPのメンバーは、女二人の戦いの代理戦争の部材かも知れない。木村拓哉以外のメンバーはマネージャー側、木村はメリー側という図式で、数の上では4:1となる。

が、力加減は木村・メリー側が圧倒している。あくまで想像だが、中居は当初このマネージャーに加担し、追従の決断をした経緯は、情緒的な部分が強かったのではないか。もちろんその背景にジャニーズ事務所に対する不満の鬱積があったろう。事務所への不満とはメリー氏への不満と考えていい。木村も賛同し、離脱を臭わせる口ぶりだったが、決断しなかった。

こういうケースは実社会においてしばしばある。中居以外のメンバー(稲垣、草なぎ、香取)らに取り立て主体性はなく、中居に同調したと思われるが、木村は中居からみると裏切りであったろう。土壇場になって変節する人間はしばしば現れるが、5人が事務所離脱についての話し合いは、マネージャーを間に挟んでしばしば雑談風に行われていたのではないか。

直近というほどではないが、こういう事例がある。日本将棋連盟所属の女流棋士が、新たな団体創設に動いたとき、大部分が独立に賛同した。もともと慢性的な赤字を抱えていた連盟は、女流棋士を独立させることで経費削減を狙っていた。ところが事態が急変したのは、独立準備委員会が総額1億円の寄付金募集を連盟理事会に報告した以後だった。

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新たな女流棋士団体が発足した時には、連盟に39名が残留、新団体は17名となったが、清水、里見、矢内、鈴木(環)らが連盟に残留したことは新団体にとって誤算だった。なかでも当時女流名人でもあり、女流トップ人気だった矢内は独立準備委員で、新団体の公式ファンクラブの勧誘に精を出し、羽生名人らに女流独立の必要性を説くなど、新団体立ち上げの先鋒だった。

ところが、なぜか彼女は連盟に残留したのだった。これには、当時の連盟米長会長の画策ではと言われた。矢内は残留後、NHK杯戦の司会を務め、連盟では棋士会副会長、タイトル戦の聞き手にも目だって採用され、連盟女流棋士会の宣伝、アピールで常に中心的存在となるなど、うまみのある地位を得た。自分は矢内の変節は、「女流棋士と秋の空」と捉えていた。

解散騒動渦中のSMAPについて明石家さんまは、2カ月前前から事情を把握し、昨年末に共演したテレビ特番では、「やりにくかった」と証言し、「メンバーも悩んでいたんでしょう」と思いやった。メリーの独裁的老害に不満を持つマネージャーは、メリー氏のSMAP批判も含めてメンバーに耳打ちしたであろう。それらを間接的に聞かされれば、メリー憎しは高まる。

マネージャーは自身が育てた子飼いともいうべくSMAPのメンバーに愚痴の限りを述べたと思われる。それなら中居たちも事務所離反に傾き、マネージャーも自分一人が退社するのではなく、SMAPを引き連れての脱退を画策したと思われる。いわゆる浪花節的なマネージャーに対する忠誠心がにわかに出来上がったろうが、木村はそういう性格ではなかった。

イメージ 2SMAPの木村以外の4人と、木村を表面的な視点でみても別雰囲気は感じる。それは木村の性格的な面もあるが、木村だけ妻帯者で2児の父ということもあろう。また、妻の工藤静香はメリー女史にかわいがられ、仲もよいというなら、木村はSMAPが事務所離反の話においそれと乗るわけには行かなかった。事務所から独立話の際には、積極的に意見をいわず、聞く側であったろう。
いずれにしろ、マネージャーとメリー女史との確執、マネージャーから聞くSMAPメンバーへの悪口、また木村以外のメンバー自身の事務所への不満が蓄積していったようだ。メンバーには契約的な不安もあったし、田原俊彦や諸星、大沢など、ジャニーズを辞めて干された人間のことも知っている。事務所一途の近藤真彦はメリーにかわいがられているという。

マッチは一時期スピードレースにのめり込んで芸能活動を手薄にしたが、それでもジャニーズ事務所の近藤という影響力が消えなかったのも、メリー女史の寵愛の賜であろう。歌手のステージのバックバンドに、かつてダン池田とニューブリードというのがあった。バンドマスターのダン池田が1969年に結成したバンドで、「夜のヒットスタジオ」の専属バンドだった。

NHK紅白でも、1972年~1984年まで指揮者を努めた実力者でもあったが、1985年11月『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』(第1弾・第2弾)という暴露本とも取れる内容の本人の1年分の日記を出版、バンドマスターを継続できなくなった。彼のターゲットは近藤真彦や田原俊彦などで、こんな下手っぴー歌手のバックバンドなんかやってられないと日記に記されていた。

そりゃ、そうだろう。近藤や田原が歌手である事(言い換えるとド下手)なのは、素人でも分かる。美空ひばりや八代亜紀ならバンドとして支え甲斐もあろうが、音楽家としてダンは自身が情けなかったろう。「マッチがレコード大賞なんか獲ったら、オレはバンマスを辞めるよ」と公言、そのマッチがレコード大賞を獲り、ダンはバンドを辞めた。

暴露本には、マッチのレコード大賞にまつわる裏話が盛り込まれていた。その前に田原俊彦がある歌謡特番の新人賞獲得したとき、「どうせ賞なんかもらえない、もらえるわけがない」と言って、ダンは本当にそう思っていたのだろう。田原俊彦の曲の譜面を捨てたと、いうエピソードもある。業界人の実名告白本のベストセラーで現在、30万円のプレミア本だ。

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「紅白歌合戦はどこに行った?田原俊彦、近藤真彦、菊池桃子、岡田有希子…歌も上手くないジャリたちが、はしゃぎまわってる芸能界、その番組づくりに私腹をこやすテレビ界なんてクソくらえだ!」

「他の世界で果たして生きていけるだろうか?嘔吐が続く。つらい。ノドをしぼり出すようにして吐く。血がまじってる。このままバンドマスターを続けていたら、きっと俺、めちゃめちゃの身体になってしまう。」

日記だからというのもあるが、こんな内容である。「アイドルは鑑賞するもの、歌を歌うものではない」を、率直に、真摯に綴っている商業主義に毒されない、昔堅気で骨のあるダン池田のような人間はいない。毒舌家はいるが、所詮身を置くのは芸能界。彼はその後、カラオケ喫茶で細々生活をしたが、2007年12月25日、急性呼吸不全のため死去。享年72歳。

SMAP独立・解散騒動は、その後にメリー氏の週刊誌への独白などもあって、マネージャー氏もビビッたのか、かなりのトーンダウンが見られる。それによってメンバーの旗振り役でもあった中居も弱気になっているようだ。マネージャー氏は当初、ジャニーズ事務所は辞めてもSMAPは続けられると言ったようだが、メリー氏の対応は木村以外を切るものだった。

中居は、「命を賭けてもSMAPを守る」と言ったとか、情報が錯綜しているのが実際のところで、そういう中で木村がメリー氏に「もう一度メンバーとしてSMAPをやりたいので鉾を収めてくれ」と懇願したとも伝えられている。木村は、独立を表明しながらも翻意して残留したい中居ら4人の意向を直接受けて、力を貸していることも伝わってきた。

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事態打開の可能性を模索すべく、木村はメンバーと直接電話で話したという。木村の態度軟化で事態急変の可能性も出てきたが、解散回避は厳しい状況であることは変わっていない。ふと、これと似たケース、つまり会社を辞める辞めない、夫婦が離婚するしない、恋人が別れる別れないなどはさまざまに関わった。もし、自分が中居に何かを言うのなら…

「行くも地獄なら(ジャニーズ事務所)に戻るはさらに地獄だと…」。これは「覆水盆に戻らず」の論理で、このようなことが露呈した場合への対処としては、戻るはさらなる地獄と理解し、死んだも同然で事務所に依存していくしかない。分かりやすい例は、関が原で東軍について後、冷や飯を食わされ、あるいはあらぬ嫌疑で改易された外様大名のようなもの。

メリー女史は89歳にして気丈とはいえ、死してなお実の娘に実権は移り、それでSMAP騒動が帳消しになるはずもない。中居という男は情緒に動きやすい男だから、簡単に前言を翻すことになるのだが、よい意味で言うなら柔軟性があるが、悪くいうなら骨ナシこんにゃく男。どっちにしろ芸能人は潰しの効かぬ仕事で、芸能界を辞めて食う宛てがはない。

だったら"戻るは地獄"を享受するしかない。ましてや裏切った感のある木村に収拾を頼むなどは、彼は生涯木村に頭が上がらない男に成り下がる。恩義という事にもなろうし、弱みを握られた事になる。中居が男として自由闊達に生きるなら、木村の仲裁で元の鞘に収まるなどは辞めるべき。食うために木村に骨身を預けるなら、永久に提灯持ちの覚悟でやれと。

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提灯持ちという無様な生き方を自分は好まない。が、そこは自分と中居の性格は違う。ヤクザ言葉に、「ケツを掻く」というのがある。「おどりゃ~武田にケツ掻かれてよ~、跡目に欲あるけんそれでもよかろうがよ。こっちはそう単純にはいかんのじゃ」と、これは映画『仁義なき戦い』のセリフだが、中居は木村にケツ掻かれ、今後、木村の住居方角に足向けて寝れなくなる。

ある問題を人にアドバイスするにおいては、どうしても自分の性格を貴重にしてなされるが、性格も土壌も違う他人への正しいアドバイスは難しい。SMAP問題が斯くの事態になったのは、中居のマネージャー氏への共感と、事務所への不満が引き金だろうが、追従した3人に対する中居の責任は大きく、そのあたりを踏まえて彼はどういう決断をするのだろうか?

世間は不倫に寛容か…

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昨日のSMAPを見て、やはり「覆水盆に返らず」を実感する。木村ひとりがヒーローになったことで、中居を含む他の4人は、言い知れぬ重い荷物を背負って今後生きることになる。SMAPはもはや水平の関係ではなく、名実共に、"木村拓哉とTHE・SMAP"ではないか。まあ、それも仕方がない。行き場のない中居らに残された道で、今後は針のむしろであろう。

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木村だけが事務所に信頼されて、グループやっていけハズがない。グループは、木村&メリー同盟 vs 中居&離脱組という、対立の図式が続くのは目に見えている。中居たちは、事務所と内通する木村に今後心を許せるはずもなく、早晩そのギクシャク感に耐え切れず、中居の先導で4人の落ち着き先を探すことになる。事務所べったりの木村とは相許せない。

木村もそれを感じて疎遠になって行く。さて、ベッキー問題に変わる。「不倫」という言葉は昔なかったが、不倫は卑弥呼の時代からあった。言葉がないなら何と言っていたのか?例えば、ベッキーと川谷についてなら、妻ある川谷は「浮気」、ベッキーは「禁断の恋」などと言った。不倫という言葉は、1983年のTBSのテレビドラマ、「金曜日の妻たちへ」で使われて有名になった。

不倫と言う言葉はあるにはあったが、以前の不倫は、「不倫理」=倫理の無い行為、非道徳的な行為を指す形容動詞で、人の行動や様子を批判する時などに使われていた。それがドラマの影響で現在の意味になった。よって、「ベッキー不倫」を昔は、「ベッキー奥さんいる人とデキた」などと言った。妻がいても他の女性を好きになり、独身男より妻ある男を好きになる。それが問題か?

「好き」は問題とならない。問題なのはSEXをしたかどうかで、それが昨今の不倫となる。「好き」だけについていえば、妻がいて1000人の女性を好きになってもかまわない。奥さんの心境を別にすれば…。ジャニーズ追っかけ妻、韓流追っかけ妻は今直いる。「好き」であるのは法的に何の問題ない。要は、一線を越えたかどうか?世俗的にいえば「やった」か、どうか。

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あらためて言うまでもないが、不倫は違法だ。違法であっても犯罪ではない。疑問を持つ人もいるだろうが、違法と犯罪は別である。違法とは、法律や規定・理念に背くことをさす。違法行為の中には、未成年の飲酒や路上喫煙など、禁止であるが罰則がない。罰則がないことも違法と犯罪を区分する要素。犯罪とは罪を犯す行為や、犯した罪そのもののこと。

狭義では刑罰に科せられるべき行為となる。不倫は賠償責任を負う場合もあるが、傷害事件や速度違反とはまるで別物だ。が、かつて不倫は犯罪だった。「不義密通」と呼ばれ、社会風紀を乱す犯罪行為(姦通罪)として罰せられた。現在は民法第770条の離婚事由に相当するものとして、家庭の崩壊を招いた著しく身勝手な行為として裁かれるものとなっている。

この事が裁判で証明されると、慰謝料・損害賠償などの民事責任を負う。ただ、姦通罪は主に不倫をした既婚女性とその相手に課せられ、既婚男性が独身女性と不義密通が罪に問われる事は殆どなかった。現在は姦通罪そのものがなく、法律上不倫は、「不貞行為」(貞操義務の不履行)となる。これは夫婦がお互いに他の異性と性的交渉を持たない義務に反すこと。

一度きりの性的交渉も不貞行為とされているが、離婚理由になるには反復的不貞行為を行っていることが必要とされている。さて、ベッキーが騒がれている。相手の川谷もベッキーほどではないが話題になっている。この違いはメディア露出度、人気度の差であろう。ベッキーは好感度ナンバーワンということもあって、10本のCMに出演している。

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その二人が「不倫だ、不倫」と騒がれているのは、様々な状況的証拠からの邪推である。が、男女の関係は邪推するしか仕様がない。誰も性行為の場面を目撃したものはいず、これまで多くの不倫裁判でも、状況証拠だけで争うしかない。殺人だって同じ事。人を殺す場面を目撃するなどない。そこに死人が横たわり、凶器がそばに置いてある状況だ。

そこから犯人を類推していくが、もちろん、容疑者は「やっていない」という者が多い。これまでに不倫で話題になった有名人や芸能人は多いが、あっさり認める者、ただの友達と逃げる者、いろいろだ。ベッキーは「ただの友達」としたが、もし、不倫が濡れ衣で本当にただの友達なら、「何でも聞いて下さい」と疑いを晴らすことに必死になるはずだ。

会見は開くが質問は受けないとして、5分程度の釈明を誰が間に受けるものがいよう。真っ白なら何だって話せようし、それこそCMのスポンサーへの誤解を解くのに躍起になるはずだ。あれでは小学生だって誤魔化せない。いい人、いい人ぶった人は往生際が悪いと相場は決まっている。スポンサーなどから好感度を得ている芸能人は、それを守ることしかない。

彼女らは公人と言うよりも、スポンサーを欺いてまでいい子ぶってはいけないと思う。好感度が、自身の脇の甘さで一気に落ちるのは自業自得ではないかと。それだけ自制心もないままに振る舞い、見っかったら誤魔化すでは人間として甘いね。彼女の今後はスポンサーが決めるだろうが、そのスポンサーも世間の動向と成り行きを見て判断するしかない。

イメージ 3彼女は1月4日に川谷の実家を訪れ、出てきたところを週刊文春の記者に直撃され、「軽はずみなことをしてしまった」と言った。バレなければ言わない取り繕った言葉である。だから人間は表裏が違うし、言行不一致なズルい生き物である。あの日来、食事も喉に通らない、10日で4キロ痩せたなどと報じるが、罪悪感ではなく、バレたことでの心労だ。

人は陰でコソコソやるものだから、それ自体は人間的だし、責めるものではないが、バレてなお偽善をやるような人間は信用できない。バレて潔くできない人間もいるが、嘘で自分をくるめる人間を信頼するスポンサーがいたら、それはオメデタイ。彼女への処罰はメディアでもなければ、ファンでも一般人でもない。彼女を信頼し、登用したスポンサーが行うべきこと。

日本社会の特異性というのか、他人のちょっとしたことに対して、急に自分が100%善人であるかのように、また相手が100%の悪人であるかのように、寄って集ってとっちめる。いわゆる「村八分」の論理であり、性善説の影響もあってか、悪人の善人気取りが許せない。人間の本質は「悪」という西洋的性悪説では、人が何をしようが、「だから何?」である。

メディアの論調なども同一の歩調をとるのも付和雷同日本的だ。実際に不倫経験があるものでさえ、自分の事とは関係ないと言わんばかりに、他人の不倫を糾弾する。誰も知らないのをいいことに人間はどこまでも善人になれる。これは欲求不満のヒューマニズム的嵐とでもいった方が説明がつく。他人の悪を、罪を、徹底的に攻撃する近年の風潮である。

ネットの発信が凄い。ネットは書き手の素性が分からないという秘匿性をいいことに、誰もが善人となり、寄って集って「炎上」させる。発信者の問題行動や問題発言の場合もあるが、そうではなくて、何が問題なのか分らないものまで炎上というのは、付和雷同を超えた、集団ヒステリーのようだ。ちょっとした事が気に食わないという小中学生ならまだしも。

大人でも精神年齢非弱な者は、些細な事に噛み付く。ちょっとした事が本人には大きな事だろうから、相手の身になって考えるしかない。「うるさいガキだな、まったく!」などと思ってはダメだし、オトナはコドモをあやせてこそ真のオトナ足り得る。「無知でバカなガキ!」と、見下し、蔑むより、相手目線に飛び込んで説得するのが、オトナの自負というもの。

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親も子をガキと見下げるだけでは解決しない。子どもと同レベルに自分を落とし、同じ気持ちに立って話し合うのがいい。上から下だけでは反発するが、水平の関係、水平の目線で、頭脳だけは子どもの数倍の質なら説得できよう。それがダメならバカと諦めた方がいい。バカは最初からバカでは決して無い。話す姿勢を見せて、それでも伝わらないのがバカ。

最初から見下すのは、バカを諭す自信がない点において、親の方が無能であろう。「何事も事実なるものは存在しない。存在するのは解釈のみ」とニーチェはいった。例えば、ある事を失敗したという人。が、別のある人は同じ失敗でも、それを失敗と思わず、これは次のステップへの糧と考える。つまり、失敗という事実はなく、解釈だけが存在する。

一切の事は解釈の仕方で変わる。人間はどんな邪悪なことだってできるという事によって、人間はどれだけ救われているかを考えるべき。人間には昼だけではなく、夜も必要なのだ。単眼になれが思考の惰性になりやすいなら、複眼的思想を持った方がいい。近視眼で恥知らずとなるなら、遠視眼を持つべきだ。持つ、持たないの前にこういう考えを先ず持つ。

現代社会の特異性は、ネットとマスが共振し、それが個人を「私刑化」する。その中にインテリ負け組が参加し、他人をボロくそにこき下ろす。そういったこともストレス発散なのだろう。「屁をこいたのはお前だな」、「お前だ、お前!」と連呼し、指を差し合う社会って、やはり歪であろう。つまり、誰もが正義の側につきたがる。昔流行った「勧善懲悪」マンガのように…。

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正義は一人、一人いればそれでよかったし、それなら収拾もつけられた。こんにち、悪を私刑化する正義面がこんなに蔓延っていいのか。素性が分らない、自分の情報は誰も知らない、分らない、そんなネットであることが人を簡単に正義人とする。学校でも会社でも家庭にあっても、うだつのあがらぬ人たちかも知れぬ。それがネットでは判事となり、正義をかざす。

これが我々が望んだウェブ社会なのか。頭から袋をかぶせた人間は心まで変わってしまう。大衆迎合社会にあっては、好感度という数字が大事なのだろうし、それによって企業の利益も増減する。我々が好感度なる人間をスポンサーに差し出したようなものだ。実社会のヒーローに我々は裏切られたもので、その時は、「へ~、あの人が?」で済ませるしかない。

月光仮面やアトムは、永遠に我々を裏切らないヒーローだ。子ども時代に尊敬した松下幸之助、成人になって仰いだ田中角栄にも裏切られた。麻原彰晃をヒーローと仰いだ者もいた。東芝元社長・会長西田厚聰の名言に心揺さぶられたが、彼も晩節を汚した。現実のヒーローはなぜ、こうも裏切るのか。今回、木村拓哉のヒーロー的振る舞いは、いいことではないな。

彼はSMAP分裂を回避する巧を担ったが、だからと言ってメリー氏の憎悪心を払拭できたわけではなかろう。こういう場合、女の底恨みはなかなか消えるものではないし、木村一人がジャニーズ側というのがよくない。全員退社という形の方が公平感という点でまだよかった。今後、形の上ではSMAPだが、木村と他のメンバーは重役と平くらいの差になった。

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「アリ」のままに…

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♪ あんまりいそいでこっつんこ ありさんとありさんとこっつんこ
あっちいって ちょんちょん こっちきてちょん

アリの歩くスピードで、一年間歩き続けると、弥次さん喜多さんではないが、東京・日本橋からどこまで進めるか?なんと、博多(東京~博多=1064km)を越えるのだから凄い。詳細に言うなら、アリ(クロヤマアリ)の歩くスピードは秒速約5.1cm、走るスピード(アリだって走る)は、秒速13.4cmという計測がなされている。この速度で1時間駆けて疲れないのか?

機械ならともかく、生物という有機体はエネルギー消費で疲労するようだ。が、アリが疲れてひとやすみなんかしていては、「働きアリ」という名がすたれよう。よって、「働かないアリ」などアリとは言わない。と…そのような勝手な思い込みをしてはならない。その辺りを調べてみると、アリにも人間社会と同じに、「2:6:2」の法則が存在するというのである。

「2:6:2」法則とは、集団で何かの活動(キャンプ、奉仕作業など)をする場合、2割の人が率先してリーダーシップを発揮し、6割の人がそのリーダーシップに引っぱられ、2割の人がサボる。という傾向から生まれた有名な法則である。スポーツ界でも、大金かけてスタープレイヤーを集めてみてもも、ズバ抜けて強いチームができるわけではない、というのは周知の事実。

ちなみにメジャーリーグ球団の年棒総額を見ると(2014年度)、ドジャースが2億7022万6335ドル(約321億6000万円)で2年連続首位、ヤンキースが2億1871万3571ドル(約260億円)で位。最下位のアストロズが 6913万9200ドル(約82億2900万円)となっている。ドジャース、ヤンキースは強いチームだが、常勝というわけではない。読売巨人軍しかりである。

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Jリーグでいえば、最低年棒チームのサンフレッチェが優勝した。これは高年棒のスター選手といえども、ふつうの結果しか出せない人もいれば、パッとしない人がいたりする。 彼らは決して怠けているのではないし、働いて結果を出したくても、そうも行かないのが人間である。これはアリにだっていえる。働かないアリは怠けていない、働きたくても働けないのだ。

どういうことか?アリの社会にだって働きすぎて過労死もあるというから驚かされる。つかり、働かないアリは、働かないという役目を請け負うことで、アリの組織を存続させるために寄与しているという。よく働くアリが過労死するように、みながみな頑張って過労死してしまったら、組織はそこで崩壊してしまう。したがって、働かないアリも存在せねばならない。

アリという個体では、それぞれ反応に対する閾値(いきち)を持ち、その値がバラバラであるというのが、アリの研究で分かっている。「閾値」とは、特定の作用因子が生物体に対し、ある反応を引き起こすのに必要な最小あるいは最大の値のこと。判り易くいえば、ある刺激に対して行動を起こすのに、必要な刺激量の限界値のことだと考えれいい。

つまり、部屋の汚れに関わらずすぐ掃除をする人もいれば、部屋が少し汚くなったら掃除をする人もいる。さらにはゴミ屋敷状態でもへっちゃらな人間もいる。これらは人による行動のズレであり、アリの世界ではこのズレこそが社会を成立させているという仮説が立てられている。人間の場合、こういった閾値が人間社会を存続させる理由とはならない。

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子どもの頃にアリの巣を壊して、プラスチックケースにたくさんのアリや卵などを入れてアリを飼うのが好きだった。飼うというのより観察であり、アリの巣が透明なケースごしにどんどん作られていくのが見えて面白かった。今の時代にあるどんなゲームよりも面白い自然の営み、法則である。まあそうはいうが、自分が今の時代の子どもなら必死でゲームをやってるかも。

確かに、働かないアリはいた。他の用事なのか何なのか、働くアリとは違って動かない。それを友だちに、「このアリみてみて、ズルいアリだよ~」などと言ったりしたが、熱心に観察を続けていたら今は生物学博士になっていたかも…。閾値をみるために、よく働くエリートアリだけを一カ所に集め、新たなアリの組織を作ってみると必ず働かないアリが出てくるという。

同じ事を何度やっても、時間が経つにつれて自然に、2:6:2の比率でアリは仕事を分担するようになるという。「今日はお前は有給とってよし」、と誰が決めるのではないから、こうしたアリの自然分担は、どういう根拠でなされているのか分らない。アリが自発的に自覚のもとにやって、それが一つのチーム、組織として自然なバランスを生んでいるのだ。

サボりたいからサボっているではなく、公益性を考えて休息がなんとも不思議。"働かないアリの存在意義"とでもいうのか、アリとて働けば疲れ、過労で動けなくなることもあるといい、だから、「働かないアリ」は、「働くアリ」が疲れて動けない状況になった時、あるいは、突発的に生まれる仕事、状況の急激な変化にそなえて「予備の労働力」として置いているというのだ…。

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たかだかアリだが自然界の不思議さを知る上でいい教材だ。人間の「2:6:2」は教材というより、単に横着な人間がいるに過ぎない。仕切りたい人間もいれば、主体的行動より、主導者に引っ張られる人もいたり、それぞれが自己の利害でうごめいている。現実に、今さぼってるその理由が、一生懸命な人間がバテた時のために意図的にそうしてるのではない。

組織学からみれば、アリは凄いが人間はズルい生き物だし、「お前は一度アリになって勉強して来い!」と、いいたい気もする。社員教育の一環として数日間の自衛隊入隊が流行ったが、今もやっており、なぜか"ゆとり世代"には効果的という。会社に社員研修の基盤がないからと、自衛隊に丸投げするのもどうかと思うが、経営者はピリっとした社員を期待したい。

「学生気分の脱却を図るとともに、社会人としてのルールを学ぶこと」という企業側の意図で行われている。自衛隊研修は各駐屯地により異なるが、実際に自衛隊の駐屯地にいる隊員と同じような生活を送るという。研修は数日間の泊りがけで行われ、起床は5時~6時と早く、就寝はだいたい23時くらいのようだ。研修の具体的な内容としては以下に示す。

研修中は基本的に、隊員と同じようなキビキビとした行動が求められる。声が出ていない場合やルールを守れていない場合などは教官から指導がある。他にも隊員との懇親会や、教官などによる講話、駐屯地見学などもある。これらのカリキュラムは、自衛隊側の広報活動のひとつで、自衛隊研修を行っているが、企業側からの追加の研修内容の要望を受け付ける場合もあるという。

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学生生活の長かった新入社員、学生気分が抜けないならその意識を変える効果もある。3月31日までは学生で、それで4月1日からいきなり社会人に切り替えろ、と言われても急には難しい。よって、社会人としての自己と、新しい環境および過去との関係を正しく認識する精神作用や今後の進路、方針などを定めるオリエンテーション的効果を狙う意味もないではない。

社会は雑多で矛盾が蔓延している。自分が思ったことの一つに、「なぜこんなこともできない人が出世するのか――」という上司。社会科学的分析によると、その理由は大きく3つある。1つは構造的に、「能力のない人が上にいく」ようになっている会社。特に中小企業ではそういう傾向が多い。社長の息子であるとか、近親であるとか、同族経営の問題点といえる。

次に、業種や業態にもよるが、営業職の場合、「有能な営業マン」を会社としてはできるだけ現場に置いておきたい。管理職で現場を離れると、会社の売り上げが落ちる懸念がある。よって、優秀な営業マンは、現場で仕事をしながら部下の管理も担うプレイングマネジャーに留まるケースが多い。プレーヤー時代は有能だが、役職ついてダメになる人間は存在する。

管理職と実践現場では仕事の守備範囲も変わる。営業マン時代は仕事上の悩みを聞いてくれたよき先輩だったが、上司になった途端、「俺に面倒を持ち込むなよ」となどと、"イヤな上司"になってしまったり…。我が身の事は一生懸命にやるが、部下を伸ばす、面倒見るの管理職は、利己的人間には向かないが、それでも成績に応じて出世をさせねばのジレンマ。

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不思議といえば不思議だが、そもそも上司という人には変わった人が多い。誰にも真似できない、その人にしかできない、剣豪塚原卜伝ばりの無手勝流で結果を残す人がいる。ある有能な上司は、「食事どきにアポなしでお客さんの家に行って、飯を食わせてもらってこい」と命じる。信じられない命令だが、その上司は実際それで契約をとっていたという。

自分がそれで成功したから他の誰にもできるものではないが、自己の経験から良い事、正しいと思うことを信念とする上司は多く、斯くの上司は、営業マンとして優秀であれ、部下をマネジメントする能力に欠けている典型であろう。「名選手、必ずしも名コーチにあらず」は定説という。アリの社会にはおそらく上司・管理職はいないし、それで組織が動くなら素晴らしい。

「日本の驚異的な経済発展は、日本人の尽くす心の賜物」と、早大心理学の橋本仁司教授は言った。近年、その尽くす心が薄れている。尽くす心とは、忠誠心や報酬を度外視で働く気持ちであろう。「奉仕作業には率先して出た方がいい」と、よく親に言ったものだ。一銭にもならない事に一生懸命に汗出す姿を子どもにみせるのはいいこと、という持論であった。

「自然界で最も強いアリは何というアリか?」。かなり昔だが、こういうギャグを思いついた。正解はモハメド・アリ。あまり受けたという記憶はないが、今では通用しない。子どもはモハメド・アリを知るはずない。さて、ウォーキングを始めて4カ月目、結石はまだでない。「出ろ、この野郎!」と思ったところで効果ナシ。何気にアリも1年歩けば1000kmか…、ふと思った。

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「やる気」の正体

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中2の孫が部活でバスケを頑張っている、エアジョーダンのシューズを履いて。たまに試合を見に行き感想をいう。文句もいう。誉めたりもする。さまざまな学校の、さまざまなコーチが、さまざま激をいれるのを聞くが、納得いかないのはプレー中のミスに対して即座に注意を飛ばすコーチって何?終ったプレーは戻らないのに、コーチはネガティブ過ぎる。

プレー直後に文句を言うって、オカシクないか?いや、絶対オカシイ、止めるべきだろ。パスミス、ドリブルミス、相手にボールをはたかれたり、奪われたりの直後、そのミスを叱って何の意味があるのか?何のプラスになるのか?である。タイムを取って言うならともかく、試合が流れているなかで、1~2秒前のミスに声を荒げて、選手の耳に入るのだろうか?

失敗を咎められて萎縮するだけでは?選手に悔いはあるが、プレーの不満に怒るコーチの声がミスをした選手に何のプラスをもたらせるものがあると思えない。怒鳴るコーチにとって意味があるのか?それともただのイライラか?「ミス直後に怒鳴ってるのは何で?」と、一度聞いてみたい気もする。素敵な言葉が聞ければいいが、うるさい保護者と思われるか?

「奇跡のレッスン~世界の最強コーチと子どもたち~」で中学生を指導に来日した元NBA選手のマグジー・ボーグスも、プレー中に大きな声を出すが、絶対にネガティブな事は言わない。今、しでかしたミスに対して声を発するなどない。いいプレーをしたときに、「オーケー、グッジョブ!」などと誉めて選手の気持ちを高揚させ、やる気を引き出させるのが分かる。

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「オカシイ」事が本当にオカシイなら、オカシイはよくないことである。が、オカシイとか、オカシクないとかに関わらず、「つい怒鳴るのは性分だから」と、監督時代の星野仙一は言った。性分だからいいという訳でないくらい分かるだろう。よくないことか、いいことか、を考えてマネージメントをすべきで、良くない性分を改めない星野はダメ上司の典型である。

上司の良くない性格が部下を殺していいのか?人間は生身なもので、やる気がプレーや、学業や、仕事に影響する。科学的に分析すると、人間がやる気を失っているとき、それがもとで憂鬱なとき、脳内の「ノルアドレナリン」という物質が減っているという。「ノルアドレナリン」とは、ストレス・ホルモンの一つで、注意と衝動性が制御されている生物の脳に影響する。

アドレナリンはよく耳にするがノルアドレナリンとは違う。アドレナリンは、脳の視床下部が身体の危機を感知したりすると、その指令が交感神経を経て副腎に伝わり、副腎髄質から分泌される物質。一方、ノルアドレナリンは脳内と交感神経の末端から分泌され、主に脳の働きに強い影響を与えている物質。判り易くいうと、神経のリレーを滑らかにする役割を果たす。

「ノルアドレナリン」は、やる気十分のときには次々と脳神経に作用し、多くの神経を奮い立たせる。まさに脳のバイアグラである。ところが、何かのはずみで「ノルアドレナリン」が減ってしまうと、やる気が損なわれる。精神科医で元長崎大学教授の高橋良医師は、「これが進むと脳が病的変化を起こし、取り返しがつかなくなる」。と不気味な言い方をするのだ。

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症状の出方はいろいろだが、世の中がつまらない、食事はするが、それ以外のことに億劫になり、新しいことを進んでやろうなどはまったくない。日常のことさえも次第に面倒になって、心の中では「やらなきゃいけない」と分かっているのに、やれなくて悩む。あげくは「うつ病」と診断されて通院、あるいは入院となる。ある48歳の会社員の臨床例を以下記す。

尿中の「ノルアドレナリン」量は、入院当時、一日当たり34.1マイクログラムあったが、一週間後には28.6マイクログラムまで下がった。ところが、抗うつ剤を飲むと5周目には54.4マイクログラム、7週目には58.9マイクログラムまで増え、やる気を回復し治療は全快となった。この抗うつ剤というのは、正常な人には効き目がなく、逆に眠くなってしまう。

「なぜだか理由はわかっていないんですが、ノルアドレナリンがふつう量まで増えると、抗うつ剤はそれまでとは逆に、むしろノルアドレナリンの働きを抑える側に回るのではないか」とある医師はいう。つまり、正常人に抗うつ剤を飲ませてムチで打ってやる気を高めようとしてもダメということになる。なるほど、そう簡単には問屋がおろしてくれないようだ。

別の医師はいう。「それは抗うつ剤に限りません。特訓だからと無理強いさせたりが行き過ぎると、人は恐怖心と不安から、逆効果になるんです」。部下や生徒や子どもに「やる気」を起こさせるメカニズムは解明するために多くの、あらゆる動物実験などが行われている。東京農大ではこのような研究が行われた。オンドリC9号は、大学内8番鳥小屋の王様である。

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C9号はヒナの頃から仲間を突きつけ、けとばし、け倒して王位を獲得した。C9号はよう威張る。首を高く上げ、首すじの毛を逆立てると、近くにいるニワトリは首を下げてC9号に道をゆずる。飛び上がって逃げるのもいる。気にくわない相手には激しくつついて追い払う。蹴飛ばす。エサを食べる順序、砂場を使う時間、止り木の位置、すべてC9号に優先権がある。

なぜ威張る?「自分の優位を相手に示し、認めさせるためにC9号は威張る」と鳥小屋の研究主任大場助教授はいう。自分の優位を誇示するため、服従させるために威張るのは人間と何ら変わらない。威張るほどの何もないのに、自身の優越感を満たしたいがために威張るのもいる。大企業・中小企業40社の威張られる側の部下の心を調査した学者の研究がある。

上記の208人で年齢は22歳から50歳だが、大半は30代の半ばだから威張っている対象は40歳代の課長クラス。結果、分かったことは上役の80%はザックバランでないと指摘され、73%は自分の考えに固執し過ぎ、71%は地位を意識し過ぎという結果だった。仕事熱心な部下ほど威張る上司を嫌うことも分かった。仕事ができる人間は、会社を仕事の場と考えている。

だから威張り腐っている上司は不愉快極まりないのである。また、仕事より職場の仲間と和気あいあい仲よくが第一という人間関係重視派は、「威張りたい奴は威張らせておけ、そんなことなど気にしない」などと考える。威張り方、威張られ方、人の心のありようは種々さまざま。ニワトリにもいろいろな威張り方があり、本当に強いのはあまり威張らないという。

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威張らなくても王様が近づくだけで他のトリたちは脇へよけるという。このように誰もが認めて一目置いているような真の強者なら、威張ることなくとも序列と平和は保たれる。力もない、誰も認めてないのに、威張る人間は恥知らずだが、本人が気づいてないところが哀れである。星野の例を挙げたが、監督やコーチは何も威張らなくとも選手から見れば偉い様だ。

選手を叩いたり、どついたり、暴言吐いたりするような監督はどうかしてるし、どうかしてるのが「性格だ!」というなら、性格がイカレテるんだろう。208人の威張りの調査で判明したのは、「部下にやる気をおこさせる3つの原則」であった。その1、部下に仕事をまかせる。これは、やる気のあるグループの58%が、まかされる事でやる気になったと答えた。

やる気のないグループの66%は、「仕事をまかされないからやる気でない」と答えている。原則2は、部下の意見をよく聞くで、やる気のないグループの大半が、部下の意見をよく聞かない上司に仕えていた。原則3は、上司はゆったりした態度でいること。こせこせ、口うるさい、喜怒哀楽が激しい=気分屋などの上司はもっともやる気が削がれるという結果である。

これは「親」に置き換えてもいいのではないか。タイムリーでいうなら、ジャニーズ事務所のメリーにも該当する。芸能事務所のババーが、そんなに偉いのか、何をえらそうに威張ってるんだと市民感情的には思うが、芸能事務所の論理は、働いてもらっている、仕事をしてもらっているではなく、仕事をさせてやっている、文句を言うならクビ!のようだ。

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自由に事務所を変わることもできない、強力な縛りがあり、雇用側の強さが甚大なのも特筆すべきこと。事務所の社員が固定することでカルテル維持ができるなど、産業形態的には後進的も甚だしいが、辞めたらただじゃ置かんぞという仕打ちを前例で見せることで、後進の歯止めをかけている。組を辞めるなら指一本もってこいのヤクザ世界に似た恫喝を感じる。

「やる気」は上役の影響も大きい。やる気をなくし、憂うつな顔した部下の大半の責任は上役にある。部下の脳内ノルアドレナリンを減らさぬよう、上役はいろいろ工夫しなければならない。中居ら造反組のノルアドレナリンは、大分減ってるような、浮かぬ顔であった。以前のようなSMAPにはもう戻れないだろうな。解体した方が4人のために思える。

それにしても、SMAPファンの行動力。解散騒動が起こるや否、ネットでは「世界に一つだけの花」(2003年、約260万枚)を購入してトリプルミリオンを達成しようという運動がネット上で拡散、CDショップやアマゾンでは、SMAPのほかのCDシングルやDVDも売り切れ、売り上げランキングの上位にSMAPの曲が並び、彼らのファンの強靭さを見せつけた。

さらに驚くは、ファンの多くがジャニーズ事務所に対して不信感を抱いており、ネット上では、独裁的老害メリー喜多川氏への解任要求署名運動が行われている。法的には何の拘束力もなく、メリー女史が動じることはないだろうが、購買運動にも増して、SMAPファンの強い結束力を感じる。これほど力強く、「やる気」まんまんファンというのもある意味凄い。

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痴漢疑われ、線路に飛び込み電車に…

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20日午前8時50分ごろ、JR新橋駅の2番ホームで、痴漢の被害を訴えた20代の女性と駅員が30代の男性を取り囲み、事情を聴いていたところ、突然男性がホームから線路に飛び下り、進入してきた熱海発小金井行き普通列車にはねられた。列車は停止位置に止まる寸前で、男性は駅員によってホームに引き上げられたが、けがをして病院に搬送された。

警視庁は男性の回復を待って事情を聴くというが、男はどういうつもりで線路に飛び降りたのか?自殺するつもりだったのか?列車が止る寸前と認識の上での飛び降りなら自殺の線は薄いが、それならなぜ飛び降りたか?パニックで気が動転したのか?線路を横断し、別のホームへ逃走するつもりだったのか?これについては多数のコメントが寄せられている。

「今の時点で男性が白黒判断は早計だが、やってないのに取り囲まれて羞恥の目にさらされれば気が動転するだろう」。

「もし自分が痴漢に疑われて大勢の人に囲まれたら否定しきれないと思う」。

「『駅員室に行ったら人生終わり』ということを知っていれば、たとえ冤罪でも逃げ出したくなる気持ちも分かる。それほどに、この痴漢という行為は男に不利なようにできてる」。

「やっていなくても逃げるしか手がないと弁護士は言っていた」。

「テレビで痴漢に間違われたら逃げるのが鉄則というものをよく目にする。そういった情報もあって逃げたのかわかりません。しかし疑われた側は本当にそういった対応策しかないのでしょうか?」

「痴漢をしたという証拠もないのに、駅長室に連れていかれると逮捕=有罪って、司法国家として逸脱した考えだと思います」。

「疑われたときに事務所に行くと100%有罪になるから、むしろ逃げろっていうよね。まぁ、線路に逃げちゃいかんけどな」。

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反応はすべて弾性だ。痴漢冤罪の関心の高さの現われ。触ってもないのに触った、覗いてもないのに覗いたと、女性から一方的に嫌疑をかけられ、さあ、どうするか?「やってない」、「覗いてない」で済めば事は簡単だが、こういう場合の目撃者探しというのは難しい。こういう経験はないが、やってないならどんな風に疑われても、嫌疑を晴らす自信はある。

「触ったでしょう」、「触ってませんよ」みたいなやんわり言葉ではつけ込まれるから、「触ったでしょう」には、「バカいうなこのボケ、カス、お前の尻なんか金もらったって触るか!」くらいどぎつく言ってみるか?だいたい、敬語交じりに、「触ってませんよ」など足元見られよう。事実でないなら激しく怒るんじゃないか?まあ、その時にならないとどうするか分らない。

なにぶん体験がないのでどういう対処がいいか不明。いい方法があるのか、ないのかも不明。コメントには、やってなくても公安室に行った時点で終りとあるが、どうもそういう風らしい。面白半分にシュミレーションしてみるか…この際。電車に乗り込んで椅子に腰をおろしたところ、目の前にはなんと股下数センチの超ミニ女子高生と対座することになった。という設定だ。

さて、目の前にミニのお嬢ちゃんがいようが、自分は動動じないから、丁度彼女のVゾーンに視線が行く。見たいわけでもないが、それがが自然な視線だから、なにも気まずいこともないし、遠慮もない。すると、相手は気になるのか、ゴソゴソ、そわそわし始める。ミニを履いてるだけに視線が気になるのだろうが、そんなこと知ったことか。短いの履てる側の問題よ。

イメージ 3超ミニに目のやり場に困ると、上向いたり、横向いたり、そわそわするウブな男もいるし、「ミニが前に座ると目線に困るよ」みたいな言葉はしばしば耳にした。「何で困る、じっとしてらんのか?」と聞いた事がある。「何でって…、男なら分かるだろう?聞かなくても…」と相手。「ワカラン、別に普通にしてればいいんじゃないか?普通に…」と言うしかない。

「いやいや、できない」と言うならそれ以上は何をいったところで無理だ。彼は、見る事が悪と思うから、目をそらす事で「見てない」のアリバイ作りに励んでいる。そういう場合に、「目のやり場に困るよ」と、視線をそらすのが紳士のマナーなのか?そんな記述を見た事がある。「自然」を、生きる原則とする自分に、そういう配慮は不自然極まりない。

路上でチューをしている奴らに目をそらすのがマナーでもあるまい。彼らは見てもらいたいだの、見られたいだの、ではなく、周囲が気にならないわけだから、見ないフリをする必要もない。ジロジロ見たところで動じない。ミニスカ姉ちゃんだって同じ気持ちでいるべきだ。股下数センチを履きながら、他人をえげつない目で見るなである。

対座する女性が、ミニだろうが、着物だろうが、フリチンだろうが、何ら反応することもなく、自然でいれればそれが男の極意であろう。何事も不自然より自然が一番というのは、ミニスカ如きで変わることもなく、くだらん事に動揺するなである。人はなぜ動揺するのか?大まかにいえば、予期せぬことに突然遭遇するから動揺するのでは?

ミニで動揺するなら仕方がない。「ミニは目線に困るし、メーワク」という男は、まだまだ蒼いと言える。ミニスカを迷惑と感じる男は、ミニが動揺の要因だ。まあ、"目のやり場がない"とか"困る"とか、そういったドキドキ感、そわそわというのも一種のパニックだろう。ミニスカにトラブり、パニックになるって、なんともダサイ男だ。

こっちがそわそわよりも、相手のそわそわを眺めるのがオモシロクないか?それをイジワルというより、視線にそわそわするくらいならミニを履くなである。外人さんがオッパイが半分でてるイブニングドレスが超ハズカシイなら、おそらく着ないだろう。オシャレは自己主張、他人をいい気持ちにするもので、悪人呼ばわりの自己主張はダメだ。

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ミニがオシャレと思うなら堂々と履いてろ。と思うが、高校生のバカギャルにそんな成熟した思考はない。さて、自分が席を立って降りようとすると、このように言ってきたとする。「ちょっとそこのおじさん、ずっと覗いてたでしょう?あなた痴漢なの?痴漢って触るだけじゃないのよね。覗きも痴漢、男のアレ見せるのも痴漢だよ?」

「何だよいきなり?ご高説をぶって。降りがけに何の用だ?」。「一緒に降りて公安室に来てよ。ワカッタ?逃げたら大声出して追っかけるからね!」と、なんとも居丈高な言い方である。人を勝手に痴漢呼ばわりと決めつけるんかい、このお嬢ちゃん。オモシれ~、この性悪なガキをとっちめるために公安室に行くことにした。

からかい半分に少し怯んでみた。当然ながら相手は高飛車になるし、そこがまたオモシロイ。「お嬢ちゃんから見てワタシは痴漢なのかい?」、「当然です。覗きは痴漢っていったでしょ?」、「なるほど。女性が痴漢と思えば、男は痴漢なんだね~。すいません、妻子いるので許してもらえませんか?」、「冗談いわないで!」と公安室に…。

女高:「この人痴漢です。ずっと覗かれました。」
保安:「という事のようですが、どうなんでしょう?」
自分:「覗いてませんよ。別に覗かなくたって見えますもん。」
女高:「嘘です。覗いてました。すごい気分悪かったし。」
保安:「そう申告していますが…」
自分:「だから言ってるでしょう?覗かなくとも見えてたって…。見たら罪なの?」
保安:「……」
自分:「見えるものを覗くっていいますか?見たくないものが見えてただけですし」
保安:「見たくないものが見えてたと…」
自分:「こんな短いスカートなんか履くバカ!そう思ってたし、そんなバカのパンツなんか見たくもないしね」
女高:「チョーむかつく!なによ、その言い方!」
自分:「バカって思われたくないなら長いの履きなさい。それと言葉使いもガキだね」
女高:「何でそんなこと言われなきゃいけないの?ウチの勝手でしょ?」
自分:「だったらバカって思われても文句はいわないことだ!」
保安:「確かに、覗いたと見たでは違います…」
自分:「当たり前でしょう?見えるものを見て罪なら、景色見たって罪です」
保安:「分かりました。」
女高:「なんかむかつく…」
自分:「パンツ見て喜ぶ奴の前に座って、『チカ~ん!』って言えば?」
女高:「なによ!その言い方!」
保安:「どうぞお引取りください。お手間を取らせました。」

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見ただの、覗いただの、それでどこに連れていかれようとも、これが結末だ。見たのではない、覗いたのではない、見えたのである。強引に言うなら、「見せた!」とでもいいたいパンツ見え見えミニである。被害者も加害者もいない、すべては自然の風景だ。お尻に手が当たっただけなのに、「触った」と痴漢呼ばわりされる男(被害者)もいる。

だからか、手を上に挙げていた方がいいとか、実際に挙げている人もいたりと、それが自己防衛と思うならした方がいい。自分は自己防衛は言葉でする。せっかく口があり、言葉があるなら大いに使いたい。まあ、実際は触ったのに、「当たった」と言い逃れをする奴もいるのだろうが、そういう男は、その男なりに対処しろ。自分は関係ない。


「当たった」と「触った」、それらと「触れた」は微妙に違うし、その違いを言葉で説明するのは難しい。同様に、女性の側も「当たった」、「触った」、「触れた」の違いを感覚で判断するのは難しいはず。なのに女性は「触られた」と言うのだ。「触った」が証明できないなら、「触られた」が証明できるはずがない。あくまで主観である。なのに世間は女性の言葉を信じる。

本当に触ってないなら、痴漢をしていないなら、こういう場合に世間は敵だ。断固強い気持ちで対処すべし。「逃げるが勝ち」などは屁たれの行動学であって、男の美学は論理である。論理は自分を守るが、論理に自信がないという人なら、電車内で両手をあげて万歳状態をするしかない。そんな"、お手上げ状態"の醜態など、みっともなくてやってられん。

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JKというJOKER

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制服姿の女子高生らに接客サービスをさせるJK(女子高生)ビジネスを、全国で初めて全面規制する愛知県の改正青少年保護育成条例が昨年7月1日施行された。散歩や屋外での撮影など店舗外でのサービスも対象とし、県警はJKビジネスの取り締まりを徹底強化する。改正条例では18歳未満の水着や制服での接客などを、「有害役務営業」と定義し、接客や勧誘を禁止した。

県は違反者に最長6カ月の営業停止を命令でき、命令違反(1年以下の懲役または罰金50万円以下)などの罰則規定も設けた。また、こうした店で働く18歳未満または高校生も補導の対象とする。JKビジネスを規制する条例は、これまでにも個室営業店(神奈川県)や、客引き行為(東京都千代田区)など限定的なものはあったが、すべてを対象にしたのは全国でも初めてとなる。

改正条例では8種類の業態をJKビジネスとし、街でデートする「散歩」などの派遣型サービスについても包括的に対応。店舗や事務所の立ち入り調査も可能となり、県警は少なくとも県内の約140店が対象と見ている。条例施行以降、性犯罪につながる危険があるJKビジネスに県警は条例を初適用するなど、徹底した捜査を展開しているが、実態解明と本格的な対策はこれからだ。

新聞の切り抜き記事は地元中国新聞の1989年2月4日の記事。県警防犯部によると、昨年度、午後十時以降に少女を働かせ、風俗営業適正化法違反(年少者雇用)、労働基準法違反(深夜の年少者使用)の疑いで摘発されたスナックなどは、県内で52店と、前年の25店から2倍以上に増え、うち半数は広島市中心部の店だった。補導された少女は70人で、こちらも前年を39人も上回っていた。

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広島県では2012年(平成24年)3月、風俗案内所改正条例が公布された。風俗案内とは、案内する対象営業が、「接待風俗営業」、「性風俗特殊営業」として定義された。これらは県内の歓楽的雰囲気を過度に助長する風俗案内の防止に関する条例である。例えば郷土料理店であれ、常連客と店の従業員がカラオケでデュエットした後、継続して談笑すると接待行為となる。

カラオケはいいが、その後の長い談笑はマズイというが、常連なら談笑はするだろう。長い、短いも線引きが難しく、曖昧かつ主観的なものだ。お上もこういう店を注視しているのでもなく、上記のことは改正条例に引っかかるよ、という程度で特段お咎めはないだろう。当局の真の狙いはこんな。愛知県の改正条例初適用で逮捕された経営者の男は、名古屋の見学クラブ「スタジオEe」であった。

そこで約2カ月間、働いていた愛知県内の少女(17)は、店での体験について、「『このぐらいならいいか…』になっていた」、と語っている。少女は家庭の経済的理由で高校進学を諦め、勤めていた飲食店も辞めて収入に困っていたが、インターネットで「スタジオEe」の求人を見つけた。業務内容は、「制服を着てしゃべったり、トランプしたりしているのを見られるだけの仕事」とある。

本当かをメールで問い合わせ、同様の説明を受けた。「危険もなく給料もいい」と応募を決めた。数日後、面接で店に行き、案内された部屋に入ると、壁の一部がマジックミラーになって、「キャスト」と呼ばれる制服姿の5人の若い女性がくつろいでいた。ミラーの向こうに客がいて部屋を覗いているという。突然電話が鳴り、赤いヒモの名札をつけた一人の女性が立ち上がった。

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彼女はミラーの前に進み、スカートをたくしあげたり、よつんばいになって下着を見せたりし始めた。別の青いヒモの子は座ったままだった。青いヒモの子はそういう事はしないのだと店長はいう。「赤と青、どっちがいい? 赤のほうが稼げるよ」と店長。少女はできるなら、「性風俗で働きたくない」と思っていた。しかし、ミラーに自分が映っているだけで、意外と抵抗感はなかった。

少女は「赤」を選んだ。 指名があれば、指名料の半分が給料に上乗せされる。「指名を競うため、過激になっていった」と、少女はいう。初めは体育座りするだけだったが、下着の中に手を入れるようになった。飲食店では週6日働いて月収約10万円。「スタジオEe」では週5日、ほとんど座っているだけで月に15万円を超えた。「楽して稼げるから、はまった」というが、そりゃそうだ。

無垢な少女に毒饅頭を与えて理性を奪っていく大人たち。誰もがする仕事ではないが、誰かがするように世の中はできている。が、改正条例施行を前に県警の捜査員から「7月以降は、違法行為になる」と知らされた彼女は、「親が悲しむことはしたくない」と店を辞め、別の仕事に就いた。スタッフから性行為を求められたキャストもいた。彼女は当時を次のように回想する。

「『もっと稼げるよ』と言われて、過激な仕事を紹介されていたら間違いなくやっていたし、そんな風に考えると怖さがこみあがる」と少女。男も女もクチバシの黄色い頃はそんなものだ。そうならない子には、なりにくい環境があるが、そうなる子には、そうなりやすい環境がある。親の責任もある。社会の責任もある。少女の責任もある…と言いたいが、子どもは朱に染まるもの。

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少女を高給で餌食にするJK(女子高生)ビジネスに警視庁は、これまで「18歳未満」としていた補導対象少女を、「18歳の高校生」を加え、2016年1月から運用を始めた。東京・秋葉原を中心に、客と散歩する「JKお散歩」や、客の手足をもむ「JKリフレ」を売りにした店舗が目立っていたことを受け、警視庁は昨年からリフレ店などで働く18歳未満の少女を補導対象にした。

昨年夏、秋葉原で行った調査では、11店に18歳の高校3年生38人の在籍を確認した。店側が摘発を逃れるために18歳以上を雇う例が増えたため、対象を広げる判断をしたという。警視庁少年育成課によると、補導は処罰というより、主に非行防止を目的としている。飲酒や喫煙、無断外泊など17項目が、「不良行為」に指定されており、させないようにするための補導である。

親などに連絡した上で、補導歴として記録が残る「少年補導票」を作るが、補導対象となる行為や年齢は各地の警察が独自に加える。18歳未満の少女2人を男に紹介し、児童買春斡旋で、県内に住む高校2年の女子生徒(16)を、児童買春・児童ポルノ禁止法違反(周旋)の疑いで書類送検した。女子生徒は会社役員の男(38)に18歳未満の2人の知人を紹介した。

男が少女に金を渡す約束で、昨年3~7月に名古屋市内のホテルでみだらな行為をするよう斡旋した。女子生徒も紹介料を受け取っていた。女子生徒と少女の3人は、同市中村区にあったJKビジネス店「JKRoom」の元従業員同士だった。この店の元経営者の男(41)が客として訪れた別のJKビジネス店で、4月に18歳未満の少女とのみだらな行為を携帯電話で撮影していた。

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児童買春・児童ポルノ禁止法違反(児童ポルノ製造)容疑で11月に書類送検された。別のJKビジネス店で働いていた県内の高校3年の女子生徒(18)が、男性客から現金を脅し取ろうとした疑いで、県警は10月、この女子生徒を恐喝未遂容疑で書類送検した。女子生徒は派遣型JKビジネス店「マジカル☆メイド」に勤務していた時の、経営者の男(31)と共謀した犯行だった。

客で、援助交際の相手に対し、「お金を払わなければ、被害届を出す」などと脅し、現金200万円を要求しようとしたという。女子生徒は免許証などを見て客の個人情報を経営者に報告していた。この店では他にも同様の手口で数百万円の被害に遭った客もいるという。「悪事」はとめどなく行える。そうした悪事を行える温床と、手引きをする者がいれば、女子高生とて極悪人の片割れよ。

パンツ見せるだけと油断するなかれ。強請り、タカリに恐喝まがい、何でもやる。もちろん、相手を品定めしてだろうが、自分から援助交際を振っておきながら、おねだり相手がカネを渋ると、「淫行条例違反の被害届けをだす!」と脅せば、男は従うしかない。気弱な善人が引っかかった「美人局」の現代版、もしくは改訂版である。カネで女を買う男をスカす、脅すなど、真のプロはやらない。

お客様を大切にするというのがプロの流儀である。女子高校生如きに、タカられる男も不憫というしかない。男のセーラー服好きは分かるし、コスプレのニセ女子高生など流行らない。本物が簡単に手に入る時代にはそれなりのリスクもある。淫行条例を逆手に取った強請りやタカり犯罪も多い昨今だという。「金を出さなきゃ被害届を出す」などと脅迫されたら、とにかく警察に相談することだ。

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自分が淫行条例違反であるからと、おどおど、びくびくするよりも、人の弱みに付け込んで強請りや脅迫をする案件には、氏名をマスコミに伏せるなどの寛大な処置を得れるだろう。警察の通報を恐れると何度もズルズル金を払うことになりかねない。また、ここまで悪でなくても、自分の援助交際が親にバレたりすると、相手に「暴行脅迫された」などと誇張し、罪を逃れようとする少女もいる。

少女の嘘を信じた親から身に覚えのない、「強姦罪」で告訴される可能性もある。強姦罪・準強姦罪は、3年以上20年以下の有期懲役だ。強姦罪は性犯罪でもっとも罪が重い。仮に淫行であるなら、1回5〜10万円程度の損害賠償という裁判事例もある。淫行が事実なら、青少年条例違反を自業自得として覚悟し、弁護士を雇って強姦罪・強制わいせつ罪などの格上げ逮捕を免れる事だ。

「サポ相手求む」などの掲示板から援助交際という形の合意のセックスをしておきながら、親などにバレると「いい子ぶる」、「悪者にならないため」に、「ナンパされて強引に犯された」といった嘘をつき、親告罪で警察に被害届けを出すというケースは少なくない。また、何らかの理由で男に逆恨みから、「無理やり犯された」という嘘の被害届を出すケースもある。

和姦といえども淫行条例には違反するが、そこは覚悟をし罪が誇張されたりのトラブルを防止することだ。冤罪になる可能性もある。ありもしない嘘を平気でついて自分を被害者に仕立てるなどは女の常道でも、事実を知らない第三者は弱者の味方になる。「よくもまあ、あんな嘘がつけるものか」と感心する。「怒りエネルギー」の希薄な男は、哀れ嘘の調書を書いてしまう。

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人間誰しも腹黒い

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小林よしのりが「ベッキーは鈍感で腹黒い女、それを知ってガッカリ」と言ったという。それについてあるメディアは、"言葉を選ばず素直な思いを明かした"と評したが、腹黒いからそう言ったまでで、言葉を選ぶ必要はない。「腹黒い」は誰でも使うが、心に何か悪だくみをもっている。陰険で意地が悪い。が正しい意味で、人によって意味合いは違う。

自分は「腹黒」を、人の言動の「裏腹」と解す。「腹黒い」、「裏腹」、「腹に一物」などの「腹」は見えない部分「心」であろう。切腹で腹を切るのは、「腹部には人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」があった、と新渡戸稲造は指摘する。誰の心にも善と悪があり。普段はそれを隠しているが、何かの拍子に現れると、「あいつは腹黒い」となる。

悪だくみや悪意の種類は人それぞれだが、他人を陥れることで自分の利益を得ようとするのは人にあるまじきことだが、人にあるまじきことをするのも人である。犬にあるまじきとなどと言わない。馬は何をやっても馬である。人の子どもは、純真で無垢できれいな心を持っている。しかし、そのままで社会を生きていくのは難しく、自然と悪を身につける。

ベッキーが腹黒いと小林は感じたようだが、不倫をし、それを隠し、いい人ぶる女も男も世の中にはわんさといるだろう。上に述べたように、普段隠していることが表面化して「腹黒い」と感じるのが間違いとはいわないが、「腹黒い」の言葉に限らず、人は普段から表裏を生きていると思っていればいいのでは?だったら、いちいち何かが露呈して、思わずに済む。

小林よしのり、お前だって「腹黒い」のではないのか?人を、「腹黒い」といえば、自分がそうでないと解される、あるいは気取ってるのではあるまいな。何を言うはは自由だが、「お前も腹黒いだろう」と返されて憤慨せぬことだ。他人をバカというのもいいが、「お前もバカだろ?」と、他人の見方は否定できない。「吐いた唾を飲み込む術を知る」それが人間関係。

本当にバカでない者だけが、本当に腹黒くない者だけが、他人をそのように言える資格があるとは思わない。言うのは自由だから、逆に他人からも「お前はバカ」、「腹黒い」と言われて否定はせぬこと。しばしばいうのは、人間は言葉の動物だから、誰だって言行不一致。それでも、「自分は言行不一致でない」と言いたい、思いたいなら、自己弁護に長けることだ。

「言行一致の美名を得るには、まず自己弁護に長じなければならぬ」と芥川龍之介の皮肉を知る者として…。いつごろだろうか、ずいぶん前から、「言行不一致な犬や猫はいない。人間はすべて言行不一致」と考えていた。考えなくとも当然でことを反発する奴はいた。「オレは言行不一致な奴が大嫌い」という奴に、「お前も同じだろ?」と言って喧嘩になった。

当たり前のことに逆上する相手に呆れた。「絶対に言行不一致でない」という自負を持ちたいなら、芥川の言うよう自己弁護に長けることだ。喧嘩が強いではなく…。と、そこまで言っておいた。他人の批判は自己の批判と同義と思えば波風立たない。あえて、「自分もバカだがお前もバカ」と、言ってもいいが、相手の指摘があるまで自身のことは言わずともいい。

思っていればいいことだから。が、他人から指摘されたときは頷けばいい。偽善者はムキになる。俳優の伊勢谷友介が連日報道されるSMAPの解散報道に対し、「あほくさ。スマップの事なんかより、未来において大事な選択肢が国会で選択されてる」とツイートし、彼のTwitterには批判的な意見も寄せられていた。伊勢谷友介なる俳優を自分は知らない。

顔を見て白洲次郎役を演じた俳優と知った。「SMAP騒動批判」発言は、「制服向上委員会」というアイドルもし、「制服向上委員会」を始めて知った。この子は、「他に国民が知るべきことがたくさんあるのに、このニュースばかりなのはどうしてかと疑問に思う。選挙権を持つまでにもっと政治について勉強したいので、そういう番組をみたい」と述べた。

彼女らは政治や脱原発に興味あるアイドルグループというが、それも事務所が仕掛ける「色」であろう。グループとして興味がある問題というより、個人的な欲求であろうし、そもそも「(SMAP騒動)ニュースばかりか疑問」というところが蒼く、幼い。政治や原発に興味を抱くなら、この程度の簡単な疑問に答えも出せないようでは、思考力がなさ過ぎる。

簡単なことに問題意識を持ち、思考力を磨くこともなされぬままに、原発だの政治だの、飛びすぎだ。いい子ぶりっ子キャラで男性ファンを獲得との事務所の路線だろうが、女性を敵に回すアイドルは先はない。伊勢谷友介も同様、SMAPニュースが嫌なら、お前の望むメディアなり、本なり、自由にチョイスすればいいことだ。そんなこという方が無知すぎる。

バラエティーしかやらない日本のテレビ業界に無縁なら、無縁な俳優として生きて行けばいい。今さら芸能ニュースはくだらん、もっと知ることあるだろうは、芸能人が外に向いていう言葉ではない。そんな批判をするより、「誰もみないようなあほくさい大河ドラマ(彼は『花燃ゆ』で吉田松陰役)なんか、もう止めてしまえ!」という声に応えた方が先決だ。

俳優とて人気商売、自ら吐いたSMAP批判に対し、「SMAPさんの心地の悪そうな会見は同情してしまうものだった」と見るからに変節。「そおっとしておいて欲しくても、多くの人に興味を持たれる。その人々の『興味』の裏で、国会と言う日本の未来を決めていく重要作業が見えなくなる。人は自らが利用される『隠れ蓑』になる事を望んではいない」とした。

一見して、自己弁護に遥か彼方の詭弁。SMAPに対する関心の有無とは別に国会中継や、政治や多くのことに興味持つ人は持つ。持たぬ人は持たぬ。自己を基準に発信するのはいいが、反応で言説を返るくらいならもう少し考えて発言した方がいい。こういう風にコロコロ態度を変えるのを、自分は「腹黒」という。変えてはないが、変えたように見せるという意味。

善意・悪意とは、実は法律用語でもあり、ある事情を知らないことが善意、知っていることが悪意となる。この場合は両者とも倫理的な意味はないし、「善意の募金」の意味とは違う。悪意は善意の対語で、「悪意をもって」などと言われるように、人の行為に悪意がないなら一切が善意となる。そんな事はあり得ず、人は「悪意はなかった」と嘘を言う。

同じ行為も悪意の有無で罪の度合いは異なり、量刑も変わる。「善意の第三者」という言葉は、当事者間に存在する事情を知らない第三者、当事者双方の利害にかかわらない第三者をいう。したがって、事情を知る者や、いずれかに加担する目的で仲裁に加わるのを善意の第三者と言わない。「悪意の第三者」となるが、いかにも善意であるように見せる。

AとBのもめごとの仲裁に、Aの友人や肉親を立てて第三者とどうして言える。Bも同じ。よって司法に委ねるが、「司どる」とは、利害に関係なく役目として処理に当たること。肉親や知人・友人のもめごとに、真に第三者としての仲裁は難しいが、それを依頼されたときは心から利害を排除して裁定すべきであろう。身内に甘いのは人の常だからなおさら…。

三国志の中に「泣いて馬謖を切る」の場面がある。非情なようだが、理性的で真っ当な考え方を持てば非情でもなんでもない。自分はこの場面は好きだし、大人になっても孔明のような「理」を重んじる人間になりたいと思った。身内や友人に厳しいのは、真の「仁愛」と思うようになった。身内や友人に甘いのは自分に甘いのであって、厳しいくらいが丁度いい。

そう思えるようになった。世の中を見て誰もが腹立たしいのは、身内に甘いという事柄であろう。それを強く感じたのは『太郎物語』の著者曽野綾子であった。あの中のテレビを庭に投げるシーンには感動した。ずいぶん厳しい親だなと。でも、テレビを庭に投げるのが子どものためと思い、自身の利害さえも顧みずに行為したのは冷徹に見えて愛情と理解した。

その曽野綾子に裏切られた思いを抱いたのは、ここで何度も取り上げた彼女の自身の息子に対する言葉であった。小説が虚実であるのはそういうものとしても、劇中のあまりにも素敵な親と、現実の親がこうも違うというのは、彼女の思想に騙されたのである。インチキな女性への尊敬はすぐになくなった。金儲けのためだけに綺麗ごとを書く偽善者に感じたからだ。

「母親は息子のためなら、もっとも愚かしく、盲目的になっていい、親は子どもにとって困り者であっていい、あたしは、息子に対して親というものは不法な、理屈の通らぬものなんだから」などと言える彼女は、テレビを庭に捨てられて困った息子とはまるで違っており、こういう感性を持つ母親を自分にはバカに映ったし、バカを尊敬できるはずがない。

理性の介入を何ら許さぬ盲目的情念が母親に許されるというのか?この言葉を機に自分は、「母親」、「女」という生き物をいろいろ考えてみたが、理解はできなかった。人間が人間を理解できない行為は、間違いと言うより愚かだと感じた。正しい、間違いの結論が出せなかったのは、男に正しくとも女に間違い、またその逆もあると感じたからだ。

正否は分らないが愚かであるのは分かる。同時に、善悪を利害に結び付けて考えるのは間違いだと感じた。しかし、成長するにつれて多くの女性は、自分の利害で善悪を考え、判断するのが分かった。それらから、女性は理性より感情に支配される傾向が強いと考えるようになった。「曽野綾子の腹黒女には呆れた」と誰かに言った記憶がある。

大事なのは、知ることより意見がいえること。

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「泣いて馬謖を切る」場面は、人間の私情を越えた公益性の正しさを教わった。後にニーチェの同様な言葉にも触発された。同情は人を甘やかせるという彼は、「病める人には柔らかいベッドを与えず、堅いベッドを与えるべき」といった。自然界の摂理は弱肉強食で、同情は本来なら自ら立つべく弱者を甘やかせる。と、これは宗教の対極にある思想だ。

宗教とは何ぞ?といえば、宗教は弱者の不満を屁理屈で我慢させる事に本質が見える。そういう弱者を主人公にしたてるキリスト教的価値観の底に潜む偽善性と、弱者をその状態のまま留めようとする自己保存的退廃をニーチェは批判した。神が慈悲深いのではない、人が人に慈悲を感じて自己満足に浸っている。人間は誰も優越感を持ちたい小人である。

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不細工を不細工と同情する優越感である。不細工同士は共感すれど同情しない。ニーチェは同情を優越感からくるものと嫌悪した。同情と共感は似て非なり、共感は単に相手の悩みを理解すること。本人が向上するため、自ら立ち生きていくための協力はいいが、同情は自ら立とうとする者を甘やかす。不細工を安易に正当化せず、自己を超克する意志を持つ。

戦後日本はその反省もあって、韓国や中国などに対し、いかなる先進国よりも弱者としてのアジアを救済してきた。なぜ日本人は同情の好きな民族であろうか?日本人から同情を取ったら日本人ではないと思えるくらいに同情好き。手を貸し、足を貸し、金を貸すのはいいことかも知れぬが、そのくせ日本人は独立自尊の聖徳太子や福澤諭吉が好きなのだ。

ニーチェの考えが全てとは思わないし、同情が完全悪とも思わない。ただし、浅薄な同情は不要であって、個人的には他者と共鳴する精神自体は、人間が他の動物よりも高次に位置することの証の一つと考える。日本が独立国としての自負を持てないのは、自国を自力で守れないからでもあって、そういう国を一般的に独立国と呼ばないが、敗戦国の悲しい性。

同じ敗戦国でもドイツのように自らの足で立ち上がれなかったのも、米国の恩義を考えすぎて、そこは韓国や中国のようになれなかったからであろう。相手にいい顔する性癖が止められない日本国、そして日本人。同情も突きつめると、相手にいい顔したい心情の現われであろう。嫌な人間と道であっても微笑む日本人は、敵ですら同情するお国のようだ。

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善意も必要だが、悪意を善意に思わせるのも外交手腕である。何でもカンでも正直に心の内を晒せば、相手も呼応してくれるというところが子どもである。腹が黒くて普通の大人という言い方ができるなら、女性の腹黒さは大人、男は童のようなオコチャマである。そんな女に男が戦略的に敵うわけがなかろう。終ぞ男は女の魅力にしてやられてしまうのだ。

女の世界はいろいろあるといわれる。一見、和やかに見える、ママ友の井戸端会議だが、その実態は、陰謀と探りあい渦巻くカオスな世界…といえば大げさだが、腹の探り合い的な面があるのも事実。男は腹を出し合って融和するために話し合おうとするが、女性は違うようだ。女の世界の深謀遠慮は何も今に始まったことではない、平安時代の絵巻物にも見れる。

「自慢3割、愚痴5割」それに悪口が続いて女の会話である。おそらく、自慢も愚痴も悪口も悪いと思わないからいう、そこが男と違う。男は自分が嫌なコトにはハッキリと言葉にして遮断させる。「自慢すな!」、「愚痴なんか言うな、みっともない」、「人の悪口は壁に向かって言え」などの体験を方々ですると、自慢、愚痴、悪口は暗黙の箝口令として身につく。

「あの人は自慢話が多い」、「愚痴が多い」、「悪口好き」というタイプは女性社会の中で特別"浮く"こともないが、こういう札のついた男は、男社会では極度に敬遠され、誰も近寄らなくなる。自慢や愚痴が多い友達に悩むという相談は結構受けたが、「嫌なら何で『止めてよ!』って言わない?」と言うしかない。こっちが嫌がってるなどお構いナシという。

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ついつい捕まって、自慢や愚痴を聞かされるという。「No!」がいえない女性は多い。言えば妬まれるからだという。男にも妬む奴もいるにはいるが、地位とか、能力とか、学歴とか、富裕とかが顕著で、容姿や、お肌や、性格や、彼氏のいるいない、などに及ぶ女の妬みの範囲は、聞いて呆れるくらいにある。聞くに及んで、何とキツイ世界であろう。

「止めてよ」と断れない人間が利用されるのが女社会。「止めてよ」と釘を刺せる人間は被害にあわないが、それで仕打ちにあったり、無視されたりと、怖ろしい世界である。相手に止めてといわれ、「自慢や愚痴は言わないのがいい」とハタと気づけばいいが、また別の相手探しが始まるなど、愚痴や自慢、ノロケを言わなきゃ気が済まない人種。

同じ愚痴好き、自慢好き、ノロケ好きタイプでも、「あの子は悪意がないよね」、「テンネンだよね」と、好印象女性もいる。確かにヒトのよさを感じる。いろいろ情報成りを見聞きすると、今回のベッキーがそういうタイプだったらしい。叩く人、庇う人、口を閉ざす人、それぞれの利害があるのだろうが、上沼恵美子がベッキーを「したたか」と言ったのも分かる。

したたかで怖いもんナシの上沼が人をしたたかというのも笑えるが、「わたしよりしたたか!」とまでは言っていない。男に「したたか」は使わない女性専用用語である。粘り強く、他からの圧力に屈しない。しぶといさま。の意味がある。弱い女もいるが、したたか=女と、自分は見ている。生物的に裏づけられた女の強さ、一方、男は非弱ゆえに大きな体と力を備わった。

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小林よしのりの、"腹黒ベッキー、それを知ってガッカリ"発言ではないが、あれは彼が安易に勝手にベッキーの表面(おもてづら)を信じた悔いであるべきで、ベッキーの人格批判というなら大人気ない。「それを知ってガッカリ」という言葉は、己の慧眼のなさ、至らなさを責めるべきだし、それが責任転嫁しない男の自負であり、小林を裏切ったベッキーに罪はない。

彼女がいい人ぶった人間であったとしても、間に受けた小林の責任であろう。まあ、厳しい言い方かもしれないが、騙された側に責任の大半があると考える自分だからで、騙した側が悪いと言ってしまえば自分の責任はないではないか。自己を批判するより、他人のせいにするのが楽だろうが、勝手に信じてナニを言ってる?といわれて言葉は出るのか?

あまたの自己責任論は、なかなか人に受け入れられなかったが、自分が範とするから構わない。ベッキーを信頼して損害を被った当事者といえば、CMに起用したスポンサーと言いたいが、その前に彼女を売り込んだ広告代理店、それに彼女を管理する事務所にも当然にして責任がある。この中で誰がベッキーに文句を言いたいのだろうか?

代理店もスポンサーも芸能事務所も、全員騙された側であるが、そこのところは契約事だから、"品行方正を旨とし、自制心を持ってスキャンダルは起こさぬ事"くらいは条項にあるはずだ。実害者が、彼女にぺナルティーを求めるのは当然だが、外野のベッキー批判はただの野次馬。デビ夫人のようなエールも自身の影響力を自負するあまりの口出し。

イメージ 5確かにデビ夫人の擁護の中身は呆れるが、「開いた口が塞がらない」、「言葉はない」と外野も反応し、「開いた口が~」と言いながら口を閉じない。デビ夫人の善悪基準は、相手の好き嫌いが根底にあるようだ。以前、麻木久仁子の不倫騒動のときは批判をしたが、個人的交流のあるベッキーは擁護に回る。それより、なぜメディアはベッキーの所属事務所を叩かない?
ベッキーは所属事務所の方針にのっとって対処するただの人形であって、事務所の対処法がオカシイとしても、なぜかメディアはそこを書かない。ベッキー自身、彼女の意思では何もできず、一言一句は事務所の用意されたものである事は分かっていても、書かない。芸能人が不意な質問に対し、「事務所を通して下さい」と言うのは逃げとしては便利。

デビ夫人の独善的擁護はさておき、ベッキーと同じ事務所のフィフィは理知的である。まるでデビ夫人の無思慮発言に反論するかのように、ベッキーを、「祝福できないから勝手にすれば…」と辛辣に言う。身内であれ、妻の存在を無視した結婚をフィフィは批判した。奥さんが無名の一私人であるからか、あまり話題にならないが、被害者に有名も無名もない。

LINEの第二段が出た時もしかるべき対応を弁護士に相談し、さらなるベッキーの商品価値が下がらない方策を事務所は考えての黙認であったと考える。針のムシロに立たせるより、「沈黙は金」。ベッキーが操り人形なら、操る側を叩けばいいのはメディアも分かっている。メディアと芸能事務所の馴れ合いと利害関係が、こうした沈黙を生んでいる。


芸能も政治も社会の事象

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「あほくさ。スマップの事なんかより、未来において大事な選択肢が国会で選択されてる。人が求めるからだというエクスキューズで、大事な事から目をそらし、どうでもいい事に、注視させるメディアに、どんなリテラシーがあるんだろうか」と、伊勢谷友介の発言だが、非難を受けて、「SMAPさんの心地の悪そうな会見は同情してしまうものだった」と変節。

横文字入りの気取った文だが、SMAPを気づかうなら別の言い方があろう、こういう人間を信用できない。伊勢谷に限らず態度が変節して詭弁で言い訳する奴のこと。言い訳の多くは自己正当化のため、でまかせや嘘が混じり、不自然な言葉になる。それを承知か、不承知か、どちらにしろみっともなさ過ぎる。「軽率でした。ファンの方ごめんなさい」と正直が勝る。

自分も思ったこと、感じたことはいう。羽生名人の寝癖であったり、オフコースや音楽グループの軋轢や解散問題について発言したが、これらに対し、"上から目線"とファンが怒る。上から目線と受け取るのは勝手だが、「マンガより文学を読め」、「ロックよりクラシックを聴け」、「芸能界より政界が重要」などと、こんなようなことを言うつもりはない。

これこそ近視眼的上目線であろう。「羽生さん、和服に寝癖で公の場に出るのはみっともないよ」との進言に対し、文句をいうファンの方がどうかしてる。「和服の正装に寝癖は相応しい」、「羽生さんのキャラ」というファン心理だろうが、ファンだから正しいとも言えず、よって自分の発言がファンの心情を害したとしても、間違ったことは言ってない。

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伊勢谷の「SMAPごとなどどうでもいい」発言は、役者が芸人を見下している。明らかにSMAPファンの心情を逆なでしており、そんなファンの怒りに対し、彼は詫びるか誤魔化すかだが、伊勢谷は誤魔化した。オフコースの際も、小田と鈴木両雄の才能に比すれば、後に加わった3人はサポートメンバー程度だが、松尾ファンは才能アリと思いたい。思えばいいのよ、勝手に。

ファンだから音楽に長じている訳でない、自分は音楽的才能を言ったまで、世間の見方も同様だ。楽器が弾けるから才能があるともいえず、そろばんの段位が十段であれ、その人の経営能力の有無は別だ。議論や対話は、広い視野と真摯な事例を含みにするなら面白いが、感情的な言葉で松尾の才能を他者に説得はできない。以下の書き込みがあった。

「世間では、ジャニーズ事務所のSMAP解散劇に一喜一憂している人たちがいるみたいだが…。はっきり言って、どうでもい~~~~~~~。彼らの自由。それでおわり。そんなことより、もっと大切なことがたくさんある。イスラム国のゆくえ(子どもの犠牲者多数)。北朝鮮問題。日本でも難民を受け入れろ。遺伝子組み換え食品。中国のPM2.5。環境問題。

福島の原発からくる人的被害(特に子ども)。日本の政治問題。もっともっと大変で大切なことがあるのに…」。言ってることは伊勢谷と変わらない。「どうでもいい、他人事」と言うが、自分以外はみんな他人事ではないのか?他人に興味を持つのは社会に興味を持つこと。芸能界の仕組みについて知ることも、意見することも、何事も社会勉強である。

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他人事などどうでもいいというなら、サッカーの五輪出場、琴奨菊の優勝、錦織の全豪敗退もどうでもいいこと。自分に興味がない分野を見下げた言い方を、つい人はしがちである。ニーチェの言うように、事実などない。すべては解釈の問題であろう。スキーバス事故、野々村元県議の公判、小保方の手記なども、「どうでもいい、他人事」と思えばそうである。

嫌いな言葉はたくさんあるが、「どうでもいい」もその一つ。この世にどうでもいいもの、どうでも良くないものはないと思っている。何かを問うたときに、「そんなことどうでもいい」と答える奴がいる。「どうでもいい理由をちゃんと言えよ!」と言いたくもなる。「理由なんかないのがどうでもいいこと」と言う奴がいた。理由がないというより、理由を説明できないだけだろ。

「どうでもいい」は頭の悪い奴の常套句である。いかなるものにも理由はあり、その理由を述べる奴こそ利口である。先日こういう事があった。家族内であることに意見が乱舞する最中、長男が「ちょっとみんな聞いてくれるか?」とあらたまって言う。何をいうかと思えば、「どうでもいいことだろ?」と抜かした。頭の悪さ丸出しの言い方に説教する自分。

「みながアレコレ意見を出し合っているのに、『どうでもいい』などというなら、お前だけ何処かに行ってろ!」というしかない。人が真剣に話し合ってることは、決してどうでもよくはないのだ。「どうでもいい」と言ったお前が偉いわけでも何でもない。横着なだけだ。『朝まで生テレビ』を「どうでもいいことをバカみたいに言い合ってる番組」という奴がいた。

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奴にどうでもよくとも、路傍の石から触発される者もいる。大事なのは感受性、それなき人間は、「くだらない」を多用する。確かにくだらないと感じるものはある。AKB48などはその範疇だ。が、くだらない、どうでもいいと言い捨てるより、何がどうくだらないか、どこに問題があるか、それを提示するなら説得力もあろう。人を説得するのでなく、自らを納得させる。

仕掛け人の秋元康は、未熟で未完成が彼女らの良さといった。おにゃん子クラブが素人のよさで受けたことに味をしめたようだ。スタンドバーでは、接客を仕込まれたホステスより、バイトの素人女子大生が客に受けるが、それは客層レベルが低いからで、銀座の高級クラブではプロのホステスがセレブ層の相手をする。彼女たちは知的も教養も備えている。

このように、誰を相手にするかで変わってくる。AKBが半素人で未熟であるがゆえに受けると呼んだ秋元は、支持層を理解している。歌が踊りが下手でも、所詮はオタクのモテないクンがターゲットである。まさに「蛇の道は蛇」の如く、秋元はブタだが蛇であった。未熟でトーシロの女の子が不祥事を起こそうが、何しようが、責任が自分に及ばない策略も考えている。

世に出回るの多くのものは、商品として完ぺきではないが、秋元はそれを公言する。商品テストし、チェックはしても、クルマのように多くの電子回路や部品数の多い製品は、完璧テストより、実際に走ってみなければ分らない面もある。よって発売後に問題が発生した場合のリコール体制を整え、また監督官庁にも届け出るなど、安全対策だけはしっかりとやる。

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でなければ、クルマは凶器となる。ところが以前は、リコール隠しが横行した。クルマに不備があること自体、メーカーの不信につながるという危惧もあったのだろう。人間の心に悪意が芽生えるのは仕方ないこと。会社の暖簾や名誉や信用を守るために人間の悪意は必要だったのだろう。2000年、三菱自動車のリコール隠しが社会問題化した事があった。

三菱のリコール隠しは、乗用車に始まり、2004年にはバス、トラックなど大規模なものであった。そのことで三菱自工・三菱ふそうはユーザーの信頼を失い販売台数が激減、当時筆頭株主であったダイムラー・クライスラーから資本提携を打ち切られるなどの深刻な経営不振に陥ることとなった。原因は2000年時の調査が曖昧で不十分なものだと後に判明した。

以下の事件も信頼をなくす理由となった。とある三菱ユーザーのクレームで訪れたディーラー2名が、クレーム主が席を外してる際、ユーザーに対し、キチガイ呼ばわりのひそひそ話し、聞くに堪えない言葉遣い、横柄な態度、それらが全てクレームユーザーによってVTRに隠し撮りされていたのだ。まさに「鬼の居ぬ間の洗濯」そのものであった。

ディーラーのあまりの態度にユーザーはVTRをテレビ局に持ちこみ、全国に放映された。これで三菱の新車販売は一気に落ち込み。当時三菱の普通車は、150万、200万の値引きもあったくらいだ。顧客がいないからと、顧客の悪口は絶対に言うべきでないとの教訓を大きな犠牲で得た。関連していえば、ペッキーのLINE第2弾が週刊誌に出たこと、アレはダメ。

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不祥事が公になった時は、すぐさま会見を開くなどの対応を見せたが、LINE第2弾においてはダンマリを決め込む事務所。ともあれスポンサーの離反は当然であろう。そんな中、関西テレビはレギュラー番組、「にじいろジーン」の続投を表明した。これは業界の常識で、ベッキーを見たくないという視聴者と、どんな面でいるのか見たい視聴者を狙ったもの。

政界の不祥事の結末も、芸能界の不祥事の行方も、同じ人間社会における人間のやらかす出来事である。政治家の不祥事は永遠になくなる事はない。どれほどモラルを掲げてみても、人がお金を好きである以上、収賄、贈賄は巧みになれ、なくならない。同様に不倫も永遠になくならない。「不倫は文化」は、名言というより口実で、人に下半身がある以上不倫は続く。

この世で起こる一切は大事なこと

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イメージ 1「SMAPなんかどうでもいいこと。政治、貧困、環境問題など大事なことがある…」と、仰せだが、まあそんな事はSMAPがどうであれ、ベッキーがどうあれ、当たり前。なのに、「大事な事があるだろう?」と、あえて言う必要があるのか?言いたい輩はいる。この問題に怒りをぶつけるのが、「夜回り先生」ことコメンテーターで、上智大非常勤講師の水谷修氏である。

彼は自身のブログにこのように記している。「ふざけるな…。怒っています」のタイトルで、SMAPが若い世代に与えてきた影響を重視、ジャニーズ事務所を批判する。「自分たちが育てた子どもたちが、立派に自分の生き方を見つけ自立する。これは、嬉しいことであるはずなのに…」とし、「自分たちを裏切ったから謝罪しろ。これは、許せない」と、怒る。子を育てた親は自立をはぐくむ。

それができないジャニーズにとって、所属する子どもたちは、自分たちの言うことを何でも聞く奴隷にしたいのか」と厳しい表現で批判する。事務所と所属タレントを親と子と見立てた言い方には無理があろうし、芸能事務所がタレントを売り出す(育む)のは、タレントの名声を獲得することで事務所の利益を上げるため。売り出す=先行投資の論理であろう。

「お前たちを売り出すために事務所がどれだけ金をかけ、人的労苦を強いたか」を突きつける。親も我が子にゼニカネを惜しまないが、親は純粋に(?)子どもの幸せを願ってであり、見返りは求めない。芸能事務所は、働け働け、稼げ稼げ、である。夜回り先生の言い分は、味噌と糞を同じに考えており、彼の論理は残念ながら芸能界や芸能事務所には通じない。

「蛇の道は蛇」。世の多くの事がこの範疇にある。もちつもたれつの芸能界はその典型といえる。ナイナイの岡村は、「今回(SMAP問題)のことで芸能界の裏がよくわかったでしょう?」と、芸能界に身を置く者として、「普通の世界と違うよ」と言ったのだろう。芸能人でいる以上、芸能界の掟に従わざるを得ないと、岡村はその事を言葉少なにいった。

SMAPの敏腕マネージャーを、メリー喜多川女史に紹介したのが音楽プロデューサーの酒井政利氏。その彼が25日、SMAP騒動について語ったところによると、最初はすべてがよかったし、すべてが上手くいっていた。「メリーさんが、彼女(の人柄)をすごく気に入ってくれて…」。酒井氏は当時を懐かしむ。メリー氏はマネジャーの働きぶりを評価した。

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事務員として採用され、デスク業務を経験後、初めてマネジャーを務めたのがSMAPだった。当初、なかなか芽が出なかった5人を、アイドルのタブーとされたバラエティー番組に出演させるなどし、国民的グループに押し上げた。「SMAPは新人時代、なかなか売れなかった。彼女は、メリーさんからSMAPを預かった責任を感じ、(売り出す)方法を考えた。

仕事をバリバリやる方だ」。ゆえに一連の騒動が「恩義のもつれ」に映ったと酒井氏はいう。マネジャーは雇ってくれたメリー氏に恩義が、SMAPは育ての親のマネジャーに恩義があるという構図。「もつれがさらにもつれてしまったことが残念でならない。全員が被害者であり、全員が加害者みたいなもの」と強調した。恩義があれば「もつれ」もあろう。

善意、悪意の問題は難しい。善意に見えて腹の中は真っ黒だったり、悪意に見えて実は一途で純粋な行動であったり、なかなか正確には読み難い。いじめられる子がいじめっ子に悪意を抱くこともある。いじめられたから悪意が湧いたのか、悪意的な性格だからいじめられることになったのか?いじめ自殺する子は、悪意という返報感情をもてなかったのか?

親は子どもに善行ばかりを教えがちだ。悪も教えたいが、どのような悪を教えるべきか?悪は友人や周囲から学ぶものか?自分は悪を子に教えるべきと思うが、具体的にどういう悪が教えていいか意外と難しい。記憶にあるのは小学3年の娘に、遠足の水筒の中に麦茶でなく、ジュースを入れて行けと勧めたが脚下。他にもいろいろあったが、多すぎて書けない。

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世の中に悪が充満する以上悪意は必要だが、善意に悪意で向かう人は哀しい人だ。悪意に善意で応えると行き場を失い、潰されることもある。悪に悪で対処するのが本質で、そのためには悪意を見抜く必要がある。悪意に悪意で対処してこそ自我が支えられる。子をあまりに"いい子"に、人畜無害な子に理想を抱いて育てると、悪に対処すべく能力が身につかない。

人間に悪意が生まれるのは仕方のないこと。悪意にも利用価値があり、ある程度の悪意を持たねば、他人の悪意に対する想像力も発揮できない、対処もできない。悪意は持てど行使はせず、悪意について思考し、理解するためにも必要だ。世の中みんないい人、人はみな善人、と思える人は幸福なのだろうか?大人になりきれない幼い子どもの思考に映る。

児童文学を読むと心が洗われることがある。児童文学というのは、児童や子どものために書いたものともいえるが、子どもの澄んだ眼で書かれたものという方が正解であろう。子どもの視線で見ると、世の中や人間や人生の本質というべきものが手に取るように見える。一方の大人の文学は、修飾や混じりが多く散りばめられ、錯綜し、本質が見えにくい。

しかし、よく考えてみれば、飾り物や混じり物に見えるものこそが人生であろう。人の心理のあや、どろどろした人間関係、そういうものこそ人生である。人はそれらに悩み苦しみ、どうにもならないと誰かに頼る。意見を求める。教えを乞う。子どもの悩みに比して大人の悩みは複雑だ。若いから悩む、中年期は安定という人、いや、中年期こそ「危機」という人。

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どちらが正しい?どちらも正しい。自分の回想でいえば、若い頃に比べて中年期は魅力に満ちた時期であった。いささか抽象的になるが、強烈な二律背反に支えられているようだった。男と女、老と弱、親と子、善と悪、真と偽、虚と実などなど、あげればキリがない多くの対義の中にいた。いろいろ思考し、結論も得た。行き着いたことも多くあった。

分らないままのことも…。様々な知識も得た。体験もあった。知ることよりも、意見がいえることが大事であるのも知った。なぜなら、知識は意見ではないからだ。意見とは知識を元にした考えの総体である。知識の断片をつなぎ合わせて一つの考えにする、そういう作業を人は無意識に行うが、古くなるとほつれが出る。それで新しい知識と入れ替える。

その繰り返しが人の生だ。よって高い向上心を持つなら、知識や情報は腐らせる方がいい。昔の人間は、昔のことを基準に物事を思考しがちだが、それではダメだし、そういう人はすぐに分かる。中年でも初老でも、考えが若い人は、古いものを腐らせているのだ。まあ、腐らせるだけがいいのではなく、腐ってはいけないものは腐らない場所に保管して置く。

溢れ出る善意、利他的善意といっても、利他は自己を満たすものである。マザー・テレサだっていろいろ言われている。人間の善行すべてが善意からもたらされることはないと考える。つまり悪意から放たれる善的行為もあるわけだ。もちろん悪意にも質的な差がある。太宰治は日記に次のように書いている(亀井勝一郎編『太宰治 愛と苦悩の手紙』より)。

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「『誠実』をウリモノにする人間に対して私は気恥ずかしさを覚える。ウリモノにしないまでも、自分の心に『誠実』である人、そのことが相手にどうひびくかを想像し得ない人に気づまりを感じる」。太宰はまた『斜陽』の中で作中人物に、「世間でよいといわれ、尊敬されるひとたちは、みな嘘つきで、ニセモノなのを、私は知っているんです。」と言わせている。

彼は自己批判の名人だが、そのまま他人への慧眼と言ってもいい。『戦争と人間』の作者、五味川純平も次の言葉を作中人物に言わせている。「信じるなよ、男でも、女でも、思想でも。本当によく分かるまで。分かりが遅いってことは恥じゃない。後悔しないためのたった一つの方法だ。威勢のいいことをいう奴がいたら、そいつが何をするかよく見るんだ。

そいつがどんな飯の食い方をするか、他の人にどんなものの言い方をするか、言葉や、することに、裏表がありゃしないか、よく見分けるんだ。自分の納得できないことは絶対にするな。どんな真理や理想も手がける奴が糞みたいな奴なら、真理も理想も糞になる」。人を疑うことは、自分を守るためばかりではなく、物事を正しく見るためにでもある。

正しく見、それで正しい判断をするが、簡単に本性を現さない人もいる。そうであるなら、表面的なものを真に受けるのは危険である。人の性格はさまざまに現れ、それらを糸口に実体を推理していく。五味川のいう、「よく分かるまで信じるな」を徹底すれば、振り込め詐欺とて起こらない。安易に人を信じるは、自身が安易と戒めるしかない、それなら向上もする。

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ファンだからと対象を仰ぎ、妄信するのではなく、ファンだからこそ指摘すべきこともある。以前、気にいった歯科医院に通っているとき、衛生士にも先生にも、「自分はここのファンです」と言っていた。それが、あることを機に行かなくなったが、あれだけ好意にしていた患者が急に来なくなれば、スタッフは「なぜ?」と思うだろう。自分は、理由一切をメールで指摘した。

たまたま好意的メールを交わす古参の衛生士がいたから愛情として伝えられた。伝えれば耳に入り、耳に入れば反省もできる。カーライルは、「不味いレストランに出くわせば、文句をいわず料理を残して去り、二度と行かなければ良い」と言った。文句を言う自身の品のなさを戒める言葉だが、自分は自身の品行より、歯科医院への愛情を重視したまで…

自身の身の回りの出来事に限らず、この世で起こることの一切は大事なことだ。すべてが自分に蓄積されていく。いずれのことにも高い関心を持つほうが良い。起こることすべてに優劣・大小はないし、あえていうなら、小さなことこそ大事。「どうでもいいこと」は、さらに大事かもしれん。

恋愛無用症候群

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 花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに

好きな歌だ。美しさゆえに老いいることの嘆きを詠んだのが小野小町。かほどに有名な小町だが、名ばかり高くて、その生涯のほどはほとんど知られていない。ミステリアスな上に三大美女と称されている。花と自身の美貌を掛け合わせている。「移りにけりな」は色褪せて衰える、「いたずらに」はむなしくの意。女性的な感傷だが、「諸行無常」という言葉もある。

物事は常に変化するもの。盛えたるものもいつかは衰え、形あるものは必ずこわれる。死は必ず訪れる。と理性的に捉えられ、だからこそ、"今このひとときを大切に生きるべし"となる。同じ生きるなら、どうせ死ぬなら、しかと自身の意志で、楽しく、喜びに満ち、幸せを実感できるように、日々を生きたいものだ。そうは言えど、嘆きも、苦しみもある。

 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな

と、西行法師は詠んでいる。嘆きなさいと、月は私に物思いをさせるのだろうか。いや、そうではない。にもかかわらず、まるで月のせいであるかのように、こぼれ落ちる私の涙。西行は本名佐藤義清(のりきよ)といい、北面武士として鳥羽院に仕えた後に妻子を捨てて出家。日本各地を行脚しながら歌を詠む。生命を深く見つめ、花や月をこよなく愛した。

西行を語る文献に出家時のことを「妻子を捨てて出家した」とだけ書かれ、なんとも冷たい男に見えるが、実際にはちゃんと弟に後の事を頼んでいる。武士としての実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人であった。北面武士とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。

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11世紀末に白河法皇が創設した。「北面」は今でいうエリートコースであり、採用にはルックスも重視されており、西行は容姿端麗だったと伝えられている。文武両道で美形華やかな未来は約束されていた、そんな西行はなぜ22歳の若さですべてを捨てて出家したのだろうか?いろいろ言われているが、以下の5つが有力である。①仏に対する救済心の強まり。

②友人の急死で人生の無常を悟る。③皇位継承をめぐる政争への失望。④自身の性格のもろさの克服。⑤高貴な女性との失恋。その女性とは歌会などを通して仲を深めた鳥羽院の妃・待賢門院(崇徳天皇の母)で、一夜の契りを交わしたものの、「逢い続ければ人の噂にのぼります」とフラれた。こうした様々な感情が絡み合い、官位も捨て妻子と別れて仏道に入った。

阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから「西行」を法号とした。不倫の果て…だけではないが、ベッキーちゃんも、「逢い続ければ人の噂にのぼります」といって別れたら、好感度は安泰だったのだが、後悔しているのか、それとも愛を結実するのか、人生は流転、まさに一寸先は闇。かの瀬戸内寂聴も不倫の末、夫と3歳の長女を置いて駆け落ちした。

不倫相手は夫の教え子であった。その事で父から絶縁を言い渡された。今から70年前であり、当時は女性の不倫など言語道断である。彼女が出家したのは正式に離婚して20年以上も経ってのことで、当初は修道女を志すも、乳児を置いて男と逐電した過去の行状を理由に教会から拒否された。多くの寺院にも拒否されたが、今東光が師僧となり、出家得度する。

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ちなみに夫の教え子との関係はすぐに終焉し、男は後に事業に失敗して自殺をした。「駆け落ち」、「逃避行」などとロマン溢れる話は過去にいくらでもあった。許されない愛を貫く方法はそれしかなかった時代である。現在のように「不倫してま~す」とヌケヌケと言えない時代の秘めたる想いが断ち切れず、すべてを投げ打って見知らぬ土地に旅立つ。

恋の魔力とでも言っておこう。さて、恒例の新成人を対象とした調査において、若者の恋愛離れを示すデータが発表された。小町のいう花の色も移りにけりな、も分かるが、世の中も移りにけりな、を実感する。過去と比べて最も変化が大きかった質問の一つが、「交際相手が欲しい」と答えた新成人は、2000年には男性が91.6%、女性が88.5%であった。

ところが今年は男性が63.8%、女性が64.2%と、全体の3分の2を割り込んでいる。実際に交際相手がいる人は、20年前の1996年には男女ともに50.0%だったが、今年は26.2%と、なんと半分にまで落ち込んでいる。さらに、昨年の内閣府が発表した2014年度の調査による、20~30代で未婚・恋人のいない人に、「恋人が欲しくない理由」を聞いたところ、多かったのは、

 1.恋愛が面倒…46.2
  2.自分の趣味に力を入れたい…45.1
  3.仕事や勉強に力を入れたい…32.9

この数字は正直、"唖然"であった。多くの人がこう考えるようになった背景には様々な理由が考えられるが、教育評論家の尾木直樹氏は、「LINEなどSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の普及で、全てがバーチャルになってしまい、若者の精神的な成熟だけでなく、身体的、性的な成熟も遅れている」と分析。言わんとする意味を考えた。

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何事も便利で手軽なバーチャル体験が、実体験不足と重なり、それが成熟の遅れに起因していると言いたいのだろう。すべてを鵜呑みにするわけではないが、あり得る意見であろう。確かに、手軽に事を収めることに慣れると、人間は知らず知らず、だんだんと横着になって行く。数カ月前なら何とかやれていた事が、今はかったるい、やる気がしないとあらば要注意。

情報セキュリティー会社「デジタルアーツ」が昨年実施した調査によると、女子高校生の一日あたりの携帯電話やスマホの使用時間は平均5.5時間で、そのうち6.8%は115時間以上スマホなどを使用しているという。この数字は起きている時間のほとんどを携帯・スマホに使っていることになる。これについて尾木氏は、以下のような指摘をする。

「SNSで常につながっていることで行動が丸見えになってしまい、お互いの行動をしばるなど友達が信頼できなくなってしまう」そうだ。これの意味は、実例を示してもらわないと分かりづらい。そんな中、最後に信頼できるのは自分の親ということで、親との距離が縮まり、若者の自立が遅れているという。つまり、明け透けだから信頼できないというのか?

こうした現象を、「親(おや)ラブ族」と名付けたのが、『恋愛しない若者たち』の著者でマーケティングライターの牛窪恵さん。「親ラブ族」などろ、取ってつけたようだが、牛窪さんによると、「昔は親が干渉しすぎで、子どもが反発して自立したが、今はむしろ親子の距離が近づいて休日に一緒に出かけたり、過ごしたりする仲良し親子が増えている」という。

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反発=自立というのは分かる。反発は頼れない、頼りたくないということだから、自然と自立につながる。仲良し親子はいいとしても、それが恋愛の障害になってはダメだろう。親が子に絶対に教えられないのが、恋愛とセックスだから。と、いいたいが、こういう女性の存在には驚いた。人のことは聞かなければ分らないことが多いが、聞いてビックリもある。

 うち今父親とヤってるわwww
 やばい?
 保育園の時母親と離婚して高校生の頃
 お小遣いやるからヤらせろって感じ始まって
 今ではお金くれるからヤらせてる感じwww

隠すこともなく、あっけらかんである。お金はおそらく嘘であろう。21歳の父子家庭女性だが、これが彼女と父親の日常である。彼氏はめんどいから、「いらん」と言ったが、親父が彼氏代わりなら手っ取り早い代用品だ。これこそ正真正銘の「親父ラブ」。人間は精神的な原因が、社会環境にもさまざま影響を及ぼしかねないが、ありとあらゆる影響を受けるのだろう。

今の若者たちは不況の中で育ってきたため、望むと望まざるとにかかわらず、非正規雇用で働く人が増えている。牛窪さんによれば、「非正規雇用や年収が低い男性は『どうせ自分なんか』と自己肯定感が低く、自分から女性に声をかけようとしない」のだという。調べでは、非正規雇用の約85%の男性が、「女の子から告白してくれれば」と言っているという。

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ようするに、自信がないと言うだけではなく、いざ付き合うことになったとしても、非正規であるとか、実はバイトであるとかを知られるのがカッコワルイということか。「俺は仕事は土方だけど」と、物怖じせずに言えた奴らにくらべて、プライドが強い代わりに傷つきやすいんだろう。根底は子どもに高望みをした親の期待の成れの果てではないのか?

親の期待に応えられなかったことで、自信を失ったと考える。つまり、親の子の自己肯定感を奪ってしまったのだろう。高卒でバイトの25歳と、大卒でバイトの25歳では、自尊心や自己肯定感の差は大きいと察する。実際にデータ(2011年内閣府)を見てみると、20代で非正規雇用の男性は、正社員の男性に比べて既婚者や、恋人がいる人が圧倒的に少ない。

  20代男性
   <既婚>
   正社員…25.5
   非正規雇用…4.1

   <恋人あり>
   正社員…33.5
   非正規雇用…16.4

   <恋人なし>
   正社員…27.4
   非正規雇用…38.5

   <交際経験なし>
   正社員…13.6
   非正規雇用…41.0

また、男性は年収が少ないほど、結婚している人の割合が少なくなり、逆に交際経験のない人の割合が増えているという。この数字から独断に分析するに、昨今の男は「男」という本体を売れないのではないか?「色男、金と力はなきにけり」と言ったもので、地位うあ金がなくてもガッツがあれば男は間違いなくモテる。金がないし、非正規だし、という弱気がダメだ。

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近年の現状について、少子化ジャーナリストの白河桃子さんは、「女性は出産を考えると、ある程度収入のある人と結婚したいと考え、相手に完璧さを求めるため、恋愛や結婚に慎重になる」などと言うが、女が打算的なのは昔も今も変わらない。声を大にして言うなら、男が腑抜けで脆弱なんだよ。金はなくても体でぶち当たって、女を手なずける気概がない。

要は惚れさせればいいのよ。周囲や情報に影響されず、どんどん、ぐいぐいと女に迫ればいいのに、自信のない男は口説く前から弱気になる。「お金がなくても素敵~!」って言わせる男らしさがない男は、手コキの屁コキ野郎だ。さっさといただくものはいただき、愛だの結婚だのは、後のことだ。打算的な女は小町の時代にもいたし、今に始まったことではないね。

恋人が欲しくないという若者が多い一方で、実は、「結婚したい」と答えている人は20代、30代で77.7%もいる。「7」並びのフィーバーだ(古いか?)。結婚願望自体は決して低くないし、安心して仕事や子育てができる環境があれば、「何があっても大丈夫」というのは保守的分析家の考えで、そうではなくて、一人は食えなくとも二人は食えるという時代に比べればマシだろ。

自信がないから御託を並べて、所詮は自分の消極性を自己肯定してるのではないのか?すべては自信のなさから派生したものと考える。男は一に自信、二に自信、三、四も五、六も自信だろうが、ボクちゃんに自信をつけられない家庭教育、家庭環境ではと邪推する。非正規であっても非性器じゃないんだし、積極的に恋愛を!カネはなくともキンがある。

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今日は、ちとテンション高い!その理由は、若者が恋愛に尻ごみするのが信じられない、情けないからだ。異性はいいぞ、異性は面白いぞ、異性は謎だぞ、異性は楽しいぞ、異性は必要だぞ、こんなこと言わんでも分かれよ。坂口安吾の『恋愛論』末尾の言葉も思い出す。「恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。」

3日坊主の直し方

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ソクラテスの弟子がプラトン、プラトンの弟子がアリストテレス、アリストテレスの弟子テオプラストスを知らぬ人は多い。そのテオプラストスの名言に、「時は人間が消費しうるもっとも価値のあるものなり」というのがある。好きな言葉だ。"時間を消費する"の言い方は普段なにげに使うが、ドラッカーも、「人は時間の浪費家」、「時間は経営者にとって最も重要な資源である」と言った。

時に、「人生は不公平」と思うが、公平であるはずはないと思えば、不公平も不満とならない。「恵まれた家庭に生を受けた人」はいるが、羨ましいとため息をついても仕方がない。自分に与えられた境遇で満足を得れるよう生きたらいい。不公平は数多存在しても、誰にも公平に与えられたものが時間である。時間が資源なら、なんとも平等な資源を人は有している。

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どれほどの億万長者であっても1日は24時間。どんな有能な科学者であっても1日は24時間。分刻みのスケジュールを忙しく立ち回る首相や大統領であれ、1日は24時間である。お金は使わないで節約できるが、時間の長さは変えられない。「時間がない、もっと欲しい」と思うことはあろう。逆に、「長くてイライラする。もっと早く時間が進んでくれないか」と思うこともある。

が、24時間は変わらない。秒に換算すると86,400秒だ。1、2、3、4と、86,400回数えると1日が終る。待ってはくれない、止ってもくれない。時計が止まるのは電池切れ…。大切な時間と思うか、時間は有り余ると思うか、いずれにせよ、我々は時間を浪費している。テオプラストスもドラッカーも人は時間の浪費家といった。浪費がいけないというなら何をすればいい?

24時間は86400秒。過ぎれば早いが、数えると長い。1日の長さは公平でも人の一生は不公平。一生が80年なら29,200日。90年なら32,850日となる。70年なら25,550日。どれを選びたいと問うなら、誰もが32,850日という。いや、自分は30,000日程度でいいという人もいるか。が、20,000日では嫌だろう。20,000日は54年と290日。確かに短い、嫌がるのも無理はない。

なぜ、長く生きたいのか?答えはいろいろだ。「1回きりの人生だから」が標準的な思いか?せっかく与えられた生なら、長くこの世に留まっていたいというのは素朴な理由。「やりたい事があるから」という人もいよう。何をやりたいかは人それぞれだが、長く生きていたい十分な理由となる。世紀の大天才スティーブ・ジョブズは、わずか20,718日の人生だった。

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彼は生前こんな風に言っていた。「もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やる予定を本当にやりたいだろうか?」。これは、スタンフォード大学の卒業祝賀スピーチのなかの言葉だが、ジョブズは毎朝鏡を見て、自分にこう問い掛けるのを日課としてきたという。常に自分が死と隣りあわせである事を忘れるなと、いつか自分は死ぬと思えば、屈辱や挫折や失敗の恐怖なんか回避できるだろうと…

彼は「死」を最大の恐怖とし、それを思えば他の一切は取るに足りないことと自己啓発をしたようだ。ジョブズはそれを、「自分自身の知る限りにおいて最善の防御策」とした。スタンフォード大のスピーチは2005年6月12日である。彼が膵臓癌を診断されたのは2003年で、幸い治療可能な症例だったが、東洋医学を尊重する彼は、西洋的な医術を頑なに拒否した事が寿命を縮めたようだ。

人はいつか死ぬ、自分も同じと言い聞かせ、その事を常に頭に浮かべた理由は、自身がネガティブな考えに囚われないための最善とした。「だから、やりたいことをやらない理由はどこにもない」との信条にあった。「やりたいことはあるけどできない」という人がいる。なぜできないと自分に問い詰めた時、「いつかは死ぬんだから、やりたいことをやらなきゃ損だろ」というのがジョブズ的思考である。
 
ジョブズの言葉は名言というより、論理的思考から自然に導き出されたもの。考え方の基盤が自分と似ている。あるとき、こう問われたことがある。「自分は何をやっても続かない。属にいう3日坊主です。どうすれば続けられるようになりますか?」これに対して自分はこう言った。「3日坊主を打破したいなら4日やればいい」。と、これは冗談で、自分なりの自己啓発法は一貫している。

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要は自分の忌まわしい部分を徹底的に嫌いになること。自分は欲な人間か?そんな問い掛けより人間は誰しも欲だ。欲を批判したいなら、自身の欲を嫌うこと。3日坊主についてもだ。自分は3日坊主的性格である。自分のことだからよく分かる。欲であるし、3日坊主でもある。だから、そんな自分を嫌悪する。「お前は3日坊主のアホ人間か、みっともない」と見下す。

誰だって自分を好きでいたい、自分が自分を嫌って何のための存在理由か?だから嫌な自分を嫌でなくす必要がある。欲なところ、飽きっぽいところ、根性がないところ、そういう自分を徹底して嫌えばいたたまれないし、改めようとする。それだけのこと。自分にとって自分は嫌な人間でうたくない気持ちは誰にもあろう。向上心ともいうが、綺麗な言葉でなくともよい。

実践できれば簡単な方法だ。今日はブログを書くのがかったるい、歩くのがしんどい、と思ったなら、内側から激が飛んで来る。いつも激とは限らない。諭すような言葉の時もある。自分の中に自分の管理者兼指導者がいる。いろいろ教えを乞う、サポートしてくれる。それらは誰にもあるのでは?一般的に人の心の中には、善と悪が住み着いていると言う。

楽をしたい自分、楽を咎める自分、サボりたい自分と、励ます自分。相反する自分によって人は生きている。悪の誘惑に対する善の諭しを葛藤と呼ぶ。葛藤と言う意味の語源を調べた事がある。葛藤とは字の如く、葛 (かずら) や藤 (ふじ) のこと。これらの木の枝がもつれ絡むところから、「葛藤」が生まれた。誰が考えたのだろうか、上手い言葉を作ったものだ。

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『法句教』なる原始仏教経典には、「愛結(煩悩)は葛藤の如し」と書かれてある。漱石は『草枕』の中で、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と書いている。心の中で異なる思いが衝突し、悶着を生じ、いずれを選ぶべきかに迷うのが人間であると…。人は貪欲や愚痴、妬みなどの煩悩を容易に断ち切れない。

断ち切りたいなら、断ち切る方法はいろいろある。上記した自分流は、貪欲、愚痴、妬みを徹底嫌うこと。傾向性の強い人間も嫌う。嫌うといってもあくまで罪に限定する。数年前だか、「『罪を憎んで人を憎まず』って、そんなことできると思うか?」と問われた。確かに難しいが、出来ないことはないと考える。例えば貪欲な人間がいたとする。「あいつは貪欲だ」と人は言う。

貪欲はその人の性向の一部に過ぎないが、人はレッテルを貼る。何事も、「一事が万事」と、一つのことですべてを推し量るの安易だし間違いである。貪欲さはその人の性格の一部分であり、人はさまざまな性格で成り立っている。つまり、「彼はいい奴だし、自分はすきであるが、貪欲なところは嫌いだ」という風に大きく捉えるのがいい。他のいい面を見つけることだ。

女性同士の会話を聞いて思うのは、「一事が万事」が多い。たった一つのことを極度にコキおろし、批判や非難の会話を聞く。例えば鼻毛。「○○さん、鼻毛でてるよね。キモチわる~、鼻毛でてるひとダメ」、「うちもぜったいムリ」などと、暗黙の同調圧力を互いが懐に秘め、会話を弾ませる。たかだか鼻毛が原子爆弾級に貶められる。多少のホンネはあれど、ボキャを楽しんでいると察する。

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男同士の会話には否定が多が、女同士の会話の同調は、彼女たちのエッセンスと大目に見るのがいい。まともに受け取れば女がみんなバカに見える。明石家さんまの『恋のから騒ぎ』のような番組を、男はこぞって「バッカ丸出し女!」などという。小さなことを大きく、誇張し、それがオモシロイと狙った番組だ。何にしても、バラエティーに真面目ではつまらない。

「罪を憎んで人を憎まず」の論理でいえば、ベッキーの不倫は批判すれど、彼女の人間性否定はよくないとなる。『にじいろジーン』を続投と言った関西テレビの福井澄郎社長は、「プライベートの問題とテレビの出演は切り離して考えている」と理由を述べたが、これはミス発言。なぜなら、不倫に刑事罰はないが、被害者が存在する民法上の不法行為である。

既婚者が『不貞な行為』(民法770条)を行なったり、夫婦間に『婚姻を継続し難い重大な事由』(同法同条)が生じれば、離婚や慰謝料の支払いといった法律的リスクにつながる。『不貞行為』とは、配偶者のある者が自由な意思に基づき、配偶者以外の者と『性的関係』を結ぶことで、注意すべきは、『性的関係』という表現。つまり、「セックス」に限定していない。

判例がいう「性的関係」とは、具体的にどんな関係か?『性的関係』をめぐっては、広めに捉える見解が支持される。キスだけの関係でセックスはないといえど、日外国人と異なり、日本人男女のキス、あるいは同性同士のキスも「性的関係」とみなされる。「不貞行為」となる。仮に不貞行為と認められなくとも、損害賠償や離婚の根拠になり得る。


なぜなら、キスや抱擁は配偶者以外の者との親密な交際であり、夫婦関係が破綻する原因となり、被害者にすれば、『婚姻を継続し難い重大な事由』にあたるからだ。「セックスはない。キスだけ」と突っぱねても、離婚を突きつけられる可能性は十分にある。関テレのおバカ社長の、「(不倫は)プライベート」発言は、不倫を是認したことになる。

不倫は奨励できない以上、当事者にお咎めなしはマズイ。視聴者からは同局宛にメール電話が数百件、「子どもと楽しく観てますが、不倫で騒がれているタレントを、子どもの手前出演を止めさせて欲しい」なその意見・要望に対し、「プライベートな問題だは出演と関係ない」といえるのか?フジテレビ系は下品極まりない番組と批判も多く、視聴者離れは当然か。

関西テレビは社長自ら、「ベッキーは続投」と会見で言っておきながら、あまりの批判の大きさに戸惑ったのだろう。後日、「サンミュージック側から申し出があり…」などと責任逃れで体裁を繕う。親会社の下請けイジメと同じ論理で、これならトップのバカ発言の影響も翳む。メディアは権威ゆえにいくらでも誤魔化しはできようが、もっとマシな社長はいないんかい?

『歩くことについて語るときに僕の語ること』

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     1日  16752歩   11391m  93/分
   2日  50733歩    34498m  91
    3日  24744歩    16825m   90
   4日   8300歩      5644m    73
   5日   5523歩    3755m  89
   6日  24105歩  16391m  91
   7日  11994歩      8155m  94
   8日  17575歩  11951m  91
   11日  21112歩   14356m   96
    12日  34993歩    23795m  91
    14日  17676歩    12019m  94
   15日  22929歩    15591m  94
   16日  23364歩  15887m    83
   18日  20669歩  14054m    94
   20日  17656歩  12006m    95
   21日  17466歩   11876m   96
   22日  39348歩   26756m  92 
   25日  13266歩      9020m   92
   26日  17104歩   11630m   93
   27日  22650歩   15402m  93

    Total  427959歩   295002m

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福島駅から295km地点は、岩手県二戸市金田一温泉駅辺りとなる。金田一温泉は、岩手県二戸市、馬淵川のほとりにあり、観光宣伝では温泉郷を名乗っている。ちなみに金田一といえば、横溝正史で馴染みの私立探偵金田一耕助、言語学者の金田一京助等、金田一を姓とする金田一氏は、南部氏の祖南部光行の第4子の四戸氏の出とされる。

金田一という馴染みの薄い苗字は、国語辞典に初めて金田一京助の名を見たときは、金田(かねだ)一京助(いちきょうすけ)と勝手に誤読していたのも無理からぬこと。生まれて年を重ねるにつれて、周囲のいろいろなものが目に入る。耳に入る。さまざまな言葉、それらからなる知識、雑学。いろいろな人との出会い、人から耳にすること、おりなす出来事。

一切を体験という。成長とも言う。いつまで成長するのかわからないが、成長が終ると退行していくのだろう。一切が体験ならそれも体験だ。走ったり、ゆっくり歩いたり、あわてたり、のんびりだったり…、すべてが体験だ。成長は止っても体験は永遠に重ねる。歩くというのは進むための動作で、わざわざ体験という言い方をしないが、長い距離を日課とするば立派な体験だ。

村上春樹に、『走ることについて語るときに僕の語ること』というタイトルのエッセイ集がある。ジョギングもウォーキングも趣味の領域である。それらは、釣りやゴルフやテニスとちがって釣果があるわけでなく、ゴルフや釣り船も接待として利用もされるが、ジョギング、ウォーキングそれはない。遊びというほどに気楽に楽しめるものでもない。いささかハードな運動となる。

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続けることは、「克己心」としかいえないものであろう。マラソンランナーしかり、素人ランナーしかり。春樹のエッセイにはこのようなセンテンスがある。「もし、忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。

僕らにできるのは、その『ほんの少しの理由』をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。」というが、「走る」を別の何かに変えてみると、多くが当てはまるだろう。春樹は「継続」の奥儀をうまく言葉にして伝えているようだ。瀬古利彦といえば、かつて日本を代表する偉大なマラソンランナーである。そんな彼に春樹が問う。

「瀬古さんくらいのレベルのランナーでも、今日はなんか走りたくないな、いやだなあ、家でこのまま寝てたいなあ、と思うようなことってあるんですか?」。「(なんちゅう馬鹿な質問をするんだという声で)当たり前じゃないですか。そんなのしょっちゅうですよ!」と瀬古は答えている。偉大なマラソンランナーはそのように言うけれど、春樹はこのように汲み取っている。

「マラソンは万人に向いたスポーツではない。小説家が万人に向いた職業でないのとおなじように。」たしかに、マラソンランナーは特別な職業であり、市民ランナーとの区分けは当然である。が、マラソンは無理でもジョギングはできる。ジョギングが無理ならウォーキングがある。そのウォーキングが無理というなら、コタツでテレビを観ることができる。

イメージ 3しない選択はあるが、何事も始める前と始めてみた後では違う。やってみないと、自分に合っているかどうか、考えて見たところでわかるものではない。ジョギングを始めて、体調がいい、肩こり・腰痛がなくなったという人はいる。なるほど、健康はタダで買えるようだ。心身両面で苦しい部分もあろうが、お金を出してジムに行ったところで楽をさせてくれるのではない。

タダでできることをわざわざお金を出したい人も、それはそれだが、克己心で続けるならそれもそれだ。春樹はまたこのように書いている。「サマセット・モームは、『どんな髭剃りにも哲学がある』と書いている。どんなつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの観照のようなものが生まれるということなのだろう。僕もモーム氏の説に心から賛同したい。」

「つまらないこと」、「くだらないこと」、というのは、その人が「つまらない」、「くだらない」と思ったものである。あまりそのようなことを思ったことはないし、いかなるものの中に何かの価値を見つけると、つまらなくなくなる。くだらなくもなくなる。何事もやらぬよりはやる方が価値は高い。やる価値があって、どうせやるなら、熱心にやるだけの価値と捉えて良さそうだ。

「たかが○○、されど○○」という言葉も、多くのものに言い換えができる。「そんなことをやる時間も暇もない」という人はいる。その人にとってはそうであっても、もっともっと忙しい人は、「時間や暇は作るもの」といってちゃんとやってのける。できない人は時間を作らないだけで、イコールやる気がないことになる。自分は横着で怠け者でグータラな性格である。

言葉を変えると怠情という。怠情だから続けられるし、熱中できると思っている。つまり、自分を怠情と認識するからこそ、自分の意志力だけで何とかしようとするのではなく、自分の性質と様々な環境をうまく利用し、「続けざるを得ない仕組み」を作ってしまう。その方が俄然、効率がよい。しかも楽にやれる。努力は現状の自分に満足できないからするのである。

だから、とりあえず現状の自分に満足している自分は、本質的に努力のしようがないし、する必要性を感じない。そういう場合は、自分に対してのマイナス評価を与えてみる。自身という総体の座標軸に現在の自分をマッピングしたとき、「もう少し上にいける」という評価を自身に感じた場合、努力することに意味がでてくる。まあ、それも一努力である。

イメージ 4自己評価を高く、もしくは、客観的な自己評価を持たぬ場合、努力など始まらない。「自分はバカだから」といいつつ何もしない、「自分は横着だから」といいつつ横着のまま。そういう人は「バカでいい」、「横着でいい」などといわなくてもそうでしかいれないんだから、黙っていればバカでいれる、横着でいれる。自己評価もそうなら他人の評価もそれで済む。

自己評価も他人の評価も、それでは嫌だから変革を望む。そのための努力である。「自分は○○だから…」という固定的な自己批判は、決して批判ではなく安易な自己肯定であるから、「だから何なんだ?」と、他人の目にはそしかならない。甘美な自己批判に甘える人間は、他者の辛辣な批判に晒され、自尊心を破壊されて変革するなら救いようもある。

子どものころからのクセなのか、すぐに自分を責めてしまう人間がいる。責めるのは責めるが、責めるだけでそれで終る。こういう人間はウソにウソを重ねているだけだろう。自己嫌悪とは、自分を嫌うこと。自分を大切にしないこと。つまり自分自身に自信がもてないことである。だからウソをつく。自信をもてないからウソをつき、さらに自信をなくしていく。

ひいては、「自分はウソつくなんだ」という自己肯定感に陥り、ウソつきらしく徹底的にウソをついて生きて行く。かつてこういう女性がいた。最初は気づかなかったが、あることから不信感を抱き、すると相手は開き直って次のように言った。「自分はウソつきだから、ずっとそれで生きてきたし、これからもそうしか生きていけない」。この言葉に人間の怖ろしさを見た。

「自分はウソつき」と人に言える人の多くは、自分は誰からも好かれていないと思っているようだが、なぜそのように思うのか?つまり、「自分は誰からも好かれていない」の裏にあるものは、自分が自分を嫌っているからである。他人から好かれない自分をどうして好きになれるだろう?あるいは、自分を好きになれなくて、なぜ他人に好かれよう?

後先は関係なくそういう人。「どうせ、自分なんか」の言い方は卑屈であり、卑屈の根源は向上心のなさであり、向上心は横着な人間に根づかない。自分を嘘で固め、偽りの自分を演じて他人に好かれようとする。多少は誰にもあるが、バカげたことと思えたとき、自分に正直に生きて行こうとする。いい人ぶるより、地で生きる方が楽である事に気づくからか。

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「ベッキーってあんな人間だったの?」、と前言を訂正する芸人仲間も出てきたようだ。なぜ「いい子」に見えたかは、自分への彼女の接し方が好意的だからであろう。「いい子」というのは様々な人間に対し、様々に好意をもたれるよう接する才能がある。「いい子」、「いい人」を額面どおり受け取る前に、あまりに好意的なのは嘘もあろうと距離をとって見るべし。

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