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『中年論』 ③

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「内助の功」という言葉は、どこからも聞こえてこなくなった。女性の社会進出が進み、性差別の助長が懸念されるため、現在ではあまり用いられず、言葉の意味すら分らない女性も多くなった昨今だが、「内助の功」とは女性本来の美しいあり方であろう。にもかかわらず、これを身につけている女性が少ないのは、女性が一歩引いて夫を支えるなどの意識がない。

美しいといわれても、「冗談じゃないわよ」と。かつての女子教育は現代においては女性差別となるらしい。対等社会、平等社会にあっては、妻が夫を支えるという意識は社会教育の場に存在しない。ならば家庭で母親が女の子に躾ければいいか、といえばそうも行かない。なぜなら母親が、「内助の功」を女性の美徳と思ってないからには教えようがない。

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「内助の功」とは、夫を成功させる秘訣であるが、「『内助の功』なんて男のエゴでしょう?」と、これまた多くの現代女性の考え方であろうか。ネットで以下の質問に笑ってしまった。「夫に内助の功がないとよく言われます。夫を立てるということだと知っていますが、内助の功を示すには嘘をつけということでしょうか?」と、この妻のあまりの正直さが可笑しい。

「内助の功」を自負する女性は答える。「私が妻として『内助の功』だと考えていることは、主人が仕事を一生懸命頑張ってくれていることに感謝し、主人の給料できちんとやりくりし、自分の物を削ってでも主人や家族を一番に考え、家事をしっかりとこなし、主人や家族の細かな変化に気づき対応し、明るく穏やかに主人や家族が過ごせるような雰囲気作りをするよう努めることです。」

妻に対して、「内助の功を示せ」、という夫もバカだと思うが、「嘘をつくことですか?」と真顔で世間に問う妻も、まあどっちもどっちであろう。「内助の功」とは見えないものである。見えないけれども、感じるものでもある。見えないものを示せというバカな夫に、示せというなら嘘をつくの?というアホ妻…。まるで漫才のネタであり、然れども世は喜劇である。

確かに今の時代、「内助の功」は女子教育に馴染まない。が、気持ちよく夫を仕事に送り出す妻が悪いはずはなかろう。夫は、「内助の功」を意気に感じて頑張るはずだ。こういう心を教育や躾で教えるというより、もって生まれた資質であろうか?明朗・快活と同じように女性に自然と備わるものなのか?女性が男性(あるいは夫)に、そのように振舞いたいからこそ、出てくるもの。

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世の中が大きく変わったのは、男女や夫婦の精神面や価値観だけではない。現代に生きる中年にとって、もっとも変わったのは平均寿命が延びたこと。男・67.74、女・72.92というのが50年前に数字だが、これだと一所懸命に働きづめに働いて、さて60歳で定年退職をし、退職金で念願のマイホームをもって、心身ともに安らごうと思った矢先に、「お迎え」が来る。

これはこれで効率のいい人生という見方もできようか。長く生きることは良いことであるが、老後をどのように楽しむかの指針や目的のない人には、たまらなく退屈でしんどいのではないか?人の人生とは作品である。自分にとってかけがえのない人生を、我々は「つくり出す」というなら、その意味において、いかなる人間も「創造活動」に関わっていることになる。

人は老後余生の楽しみを、「つくり出して」行かなければならない。それなくして人間は、"不可解な不安"に悩むことになる。ユングは分析心理学者として、中年を取り上げた人。その理由は他でもない、彼のところに相談に訪れる人に中年が多かったからだ。さらに興味深いことに相談者の約3分の1は、一般的な意味でいうところの何の問題もない人たちであった。

財産や地位や家族などにも何ら問題はなく、ばかりか、他と比較してもはるかに恵まれた人たちであった。しかし、彼らのすべてが、「何か足りない」と感じていたり、「不可解な不安」に悩まされており、ユングはそんな彼らを、「適応がよすぎることが問題」であるとし、「人間は中年において、大切な人生の転換点を経験するのであろう」と考えるようになった。

イメージ 3人生とはその前半と後半に分かれ、前半は自我確立のため、後半は社会的地位を得て結婚して子どもを養育するなどの課題の時期とするなら、そういった一般的な尺度で自身を位置づけながらも、「自分の本来的なものは何か」、「自分はどこから来て、どこに行くのか」という、根源的な問いに答を見出すことに努めることが大事ではないか、ユングはそう考えた。
ユング(1875~1961)の時代の平均寿命は、男女平均で43歳前後である。そういう時代の人たちはいかに資産家といえど「死」は間近なものである。彼らの「不可解な不安」とは、死に対する恐怖・不安であり、よって「死」をどのように受け入れるかの必要性が前途した課題であった。それらに取り組む姿勢を持つことで、下降を上昇に変える逆説を得ることになる。

我々は80年を超える平均寿命の時代を生きるが、寿命平均50年を切る時代の人たちの死への恐怖というのは、まさに死と隣り合わせであり、死への不安は想像を絶する。アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見』にはユングの章があり、彼の生い立ちから、同時代の他の研究者との考え方の相違、その後の研究の波及から影響力まで細かに調べ上げられている。

精神科医エレンベルガーは、ユングのニーチェ作品から読み取るニーチェの精神分析の講義ノートを丹念に研究し、ニーチェの『ツアラトゥストラ』こそ、無意識の創造力から生まれたものとの確信を得る。その結果、エレンベルガーは、「創造の病」という考えを提唱する。「創造の病」は天才的な科学者、思想家、作家、音楽家や芸術家が経験するといわれている。

つまり、偉大な創造的な仕事をした人は、中年期において重い病的体験をし、それを克服した後に新たな創造活動を展開するということになる。ちなみに、フロイトはひどい神経症症状に悩まされ、ユングは精神病と見まがうほどの病的体験をした。それらを克服せんと両者は、自身の内界の探索をし、そこで明らかになった事を基に、彼らなりの理論を構築していった。

イメージ 4エレンベルガーの「創造の病」は、他の学者にも支持され、跡づけもなされ、中年における身体的病気や思いがけぬ事件なども、「創造の病」としての位置付けとしての意味を持つことが明らかにされた。夏目漱石ら多くの作家にも典型的な「創造の病」体験者は多い。漱石のいわゆる「修善寺の大患」がそれで、胃潰瘍による大量の吐血など、死に臨む体験をした。
その後の漱石の作風が一変し、味わい深いものになったといわれる。フロイト、ユングは心の病であったが、漱石は体を侵された。他にも心身同時病に侵された作家も多く、「不可解な不安」から死に到った作家は多い。芥川龍之介は遺書に次の言葉を残している。「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」


・僕はゆうべ或売笑婦と一しょに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ『生きる為に生きている』我々人間の哀れさを感じた。(或旧友へ送る手記)

・人生は地獄よりも地獄的である(侏儒の言葉)


上の2つは芥川の最後の言葉である。創作家の苦しみなど凡人に理解のしようがない。気楽なブログを書くことに苦しみなどないが、それでも「書くことがない」、「書けない」という人はいる。書けないなら書かなければよいだけのこと、「書くというのではなく話しをしたらどうか?自らと対話する気持ちで書けばできるよ」と言った事もある。「自分と対話って不思議」と言う。

自分と対話するなど日常と思っていた。ずっとそう生きてきた。が、それを不思議と言う人は常に喋る相手を求めていたのか。「一人ディベート」は、自分で自分を困らせるが、困る自分も追い込む自分も刺激があって面白い。「一人将棋」もちゃんと自分に勝つし、自分が自分に負けたりする。考えてみれば不思議といえば不思議、自分が自分に勝ったり、負けたり…

「一人ディベート」は面白い。たとえば、17日の記事の冒頭を例に続ける。「昭和44年6月24日未明のこと。鉄道自殺だったが、「勇気があるよな」と言った奴がいた。「あれを勇気というのか?」と自分は正した。「そんなことできないだろ?」と彼は言った。「しないでいいことをしたんじゃないのか?勇気ってすべきことをすることだろ」と返した。以下一人ディベート。

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「彼女にとって自殺はすべきことだったのでは?すべきことをしたのなら、それはお前のいう勇気では?」、「彼女にとってすべきことだとどうしていえる?」、「実際に自殺と言う行為をしているし、行動は自分を偽らない。したいことをしたはずだ」、「それは的外れもいいとこ。お前は自分の行動と心がすべて一致するのか?心にもない行動をとらないのか?」

「確かにしたくない事でもするよ。したいことでもしないこともある。が、死という行為については別ではないか?冗談で人が死ぬだろうか?」、「冗談では死なないだろうが、不本意な死はあるだろうよ。死んだ直後に、それこそ3秒後に、『しまった!止めとけばよかった』。実際に後悔は無理で、どうにもならないが、そういう死はあると思うな」、「彼女がそうとでも?」

「そうかどうかは分らない。断定は出来ない、が、可能性はある」、「だったら、お前のいう、『しないでいいことをしたんじゃないのか?』も断定ではないのか?」、「断定じゃない、仮定だよ。『?』がついてるだろう?分らないことは推測するしかない」、「では、もし彼女が死にたくて死んだとするなら、それは勇気ではないか?」、「ともいえないな」

「なぜ?」、「お前は勇気に結びつけたいのだろうが、その理由はなんだ?自分が小心者だからか?そんな所に勇気なんて言葉を当て嵌めたいのか?」、「勇気があると思うことに勇気という言葉を使ってはいけないのか?」、「使ってもいいよ。お前が勇気と思うなら、彼女の自殺がそう思えるなら、お前が使うのは自由だ。だが、人に同調を求めるのはよせ」

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「同調求めてはいけないのか?」、「いけないというより、オレはそんなものを勇気と思わないってちゃんと言ったろ?お前が同調を求めたことに対して、オレは自分の意見をいったじゃないか」、「そか、オレはアレを勇気と思う。お前は思わない、ということだな?」、「友人で仲良しだから話を合わせるというのが日本人的友人の証しというなら、それは否定する」

「否定は非難ではないしな」、「否定を非難された捉えるから喧嘩になるんだよ。事実を争ってるわけではない。考えを言い合ってるわけだから。単に自分とは考えが違うと言ってるだけで、オレが正しい、お前は間違いという非難はしない」、「否定されたことをそういう風に取る奴は、ダメなんだな」、「否定されても自分が正しいと思うなら、論拠を示せばいいんだよ」

「論拠を示さなければ?それが苦手だと…?」、「難しいことは分らないけど、そう思うでいいんじゃないか?」、「感覚的に思うってやつか?」、「感覚もあり、論理的もあり。法廷論争じゃないし相手の感覚は認めていいが、素朴に論拠は問いたいけどね。『それは違う』は、『そう思わない』と言うだけ」、「否定されると怖いね」、「怖がるなよ。人と自分は違うと思えば済む」。

「否定」は人によっては難しい。ある事の否定が自分すべてを否定されたと感じる人間もいる。こういうのは、育った環境なのか、上辺だけを他人と合わせて"みんな仲良し"という初等教育に問題があるのか、日本も欧米のようにディベートなどをして、異なる意見に自分がどう対応するか、処遇するかを身につけなければダメであろう。「No!」が言い難い。

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「誘われて断り難い」ということが相手を傷つけないとかと言うより、自分が相手によく思われたい、いい人でいたいという卑しさかも知れない。そういう卑しき欲を捨て、自分に自然に正直にして生きられるなら、ストレスは減衰する。思うままに生きるのと、我がままは別だが、それを混同する人もいる。二律背反の世、自他の人間関係の中で、中年は大人であること。

大人の定義は難しいが、例えば児童文学のような、子どもの澄んだ眼で見たことズバリが書かれているに比べ、大人の文学は修飾や混じり物が多く、なかなかズバリの本質が見えにくい。意識して隠されている場合もある。がしかし、そういう修飾や錯綜するものこそ人生であろう。人対人の心理のあや、どろどろした人間関係が存在するのも事実なら、受け止める。

それが大人であろう。綺麗なもの、醜いもの、美しいもの、汚いもの、好きなもの、嫌いなもの、良いもの、悪いもの、正しいもの、邪悪なものを受け入れるキャパが大人の向かうところか。「あの人はコドモだね~」は、短絡的であったり、柔軟性に欠けた人を指すことが多い。中年とはいかんせん大人である。大人とは大きい人。「清濁併せ呑む」心の大きさか。

ディベートの真の目的は、議論に勝利する、相手を打ち負かすというような表面的なskillを身につけることではなく、物事を深く、論理的に思考することができる。したがって意見には意見で返さなければディベートとはいわず、自分の意見を押し付けるのも同様である。相手の意見に返せないからと、人格批判したりヒステリー起こす人は、まあ無様だろ。



『中年論』 ④

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中年が背負う悩みには仕事もあれば家族のこともある。仕事が忙しいとしながら、家族に関わらない夫も少なくない。そんな中年の親たちに課題を突きつけるかのように、子どもが何らかの問題を起こすが、子どもにすれば親のために問題を起こしたのではない。実際そうであれ、突然起こした子どもの不祥事であり、問題であるなら、無関心な父親も対処せざるを得ない。

問題といっても様々で、犯罪もあれば、妊娠した(させた)の性関連から、学校を辞めたい、仕事を辞めたい、家を出て自活したい、外国に行きたい、事業(商売)を始めたい、新興宗教に入りたい、出家したい、などがある。親として腹がたつのは、事後報告であろう。妊娠した、仕事を辞めた、宗教に入った…。「親に相談なしに勝手なことを!」といいたくもなる。

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親は番人でもないし、子どもが何かにつけて親に相談しなければいけないこともないが、未成年者で支払い能力がないのに、高額な商品を購入すれば親が支払うことになるから、事前相談は必然である。では商品代金を子ども自身が払う場合はどうなのか?子どもが未成年者であっても、「自分の貯めたお金で買うなら、何を買おうがいいんじゃないか?」という親はいる。

「ダメダメ、くだらない物を買うかも知れない、あるいは詐欺商法に引っかかっているかもしれない、自分の金であったとしても、親に相談すべきだ」という親もいる。それぞれの親によって子の命運は決まることになる。「○○を買おうと思うんだけど、どう思う?」と親に問う子もいれば、相談ナシに、「○○買った」と後でいう子もいる。どちらの子どもが正しい?

一見道徳問題のように見えるが、親の家庭方針の問題であろう。したがって、どっちが正しいとかではなく、どっちの子どもを親が望むかであり、前者を望む親なら、「何でも親に相談すること!」と家訓のように目に見えるところに張っておくべきと考える。ついでに違反の場合の罰則も書いておくこと。これなら違反した場合の罰が事前に分かり、子どもは納得する。

親子が言い合いや喧嘩の最大の理由は、親がその場その場で勝手な規則を作ることだ。いかに未成年といえども主体性のある子なら、自分のお金で自分が買いたい物を買ってなぜ怒られなければならないのか?これは道理であろう。なのに、後になって親がアレコレ言っても、道理に反しない子どもは悪いと思わない。なのに親は子どもを叱るのが仕事と思っている。

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むしろ、【我が家の規則」】明確にし、規則を守らせることが最大の任務であろう。事後に怒るより事前に守らせる。規則もないのに、行為の後でごたごた言われれば、そりゃあ子どもとて頭にくるだろう。未成年者であっても、自分が自分の金で買いたい物を買うのがいけない理由を親がキチンと説明できれば、事後であれ子どもは納得する。が、自分にはその理由がない。

だから反対しない。子どもの頃に買ってもらえない物は、新聞配達をしてでも自分で買おうとしたし、天体望遠鏡欲しさに朝早く起きて頑張った想い出もある。それができたのは、それだけ欲しかったからだ。子どもが自分のお金で何かを買うことに対して、親は反対すべきでないとの考えは自らの体験で得たが、そういう経験もない親が無碍に反対するのでは?

おねだりすれば買ってくれる親であるのかないのか、子どもは自分の親についてよく知っている。「子どもにねだられて負けたよ、親バカだね~」という親は多く、子どもの勝利である。親が負けていいのかどうか、それが教育かどうかよりも、「親バカ」という言葉は方便というより、実は親の楽しみであるようだ。同じ親として分からなくもないし、善悪は決められない。

子どもは二つの「自分」を持っているもの。親の前の自分、親の前以外の自分である。特に親の前で、「いい子」を演じる子どもに二重性は顕著だが、親は気づかない。「ネットで知り合ったおじさんが処女を欲しいというので、あげてもいい?」と聞く子がいるか?ガミガミうるさい親に、子どもは何事たりとも相談はしない。どうせ小言を言われると分かっている。

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親に小言を言われるであろうことを、あえていうだろうか?言わなきゃ気の済まないガミガミ母親は多い。父親はそのあたりを心得ている。何を言ったところで、「陰で」という奥の手があるということを…。ガミガミ言えば反発するだけということを…。母親は即効で自分勝手な規則を作ることを…。また、母親は自分の気に入らないことを反対するものだということを…。

自分の好き嫌いが善悪である親なら子どもはやってられん。自分は宗教を嫌悪した。母親の宗教狂いの餌食にされた経験から、「宗教には絶対に入らないこと」を子どもに厳命していた。「オウム真理教」や、「エホバの証人」、その他の新興宗教入信者のトラブルや被害実態を子どもによく話した。この世に絶対真理などない、神などいない、あの世もないなど言い続けた。

「ダメ」と言われても「やる」くらいの何かは、実は評価に値するという二段構えをもっている。四人の子ども夫婦という家庭にあっては父の言葉は絶対的なものとしたが、ゆえに独善を戒めなければ支配者となる。実母は支配者であろうとしたがゆえに、自分に嫌悪された。アレもダメ、コレもダメという親は傲慢であり、「ダメ」の見返りは必要との意識は常にあった。

子どもは家の外で家庭の決まりや親の身勝手さを話し合う。我が家は規則でがんじがらめはせず、大元の優先順位を大事にし、大元以外については他の家庭よりも寛大であった。それで子どもは納得していた。「ダメ」の効果を求めるなら必要なこと。どこの父親よりも厳しいが、どこの父親よりも物分りのいい自負はあった。厳しくとも理解を得るとはそういう事。

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茶髪禁止の校則の反対意見を以下のように具申した。「教師は学校を特区にしたいようだが、社会的影響の大きい芸能人などの動向を見極め、それで社会状況を判断する柔軟性が学校にはない」。同じ制服に同じ髪型、同じ靴下に同じ靴、集団主義である方が学校的にはやりやすい。何か一つを決め、反するものはダメとする横着極まりないところで、教育の場とは言い難い。

「とりあえず反対しておくのが無難」という心ない教師の集団である。高1の時に「エレキ禁止令」が出、バンドは解散させられた。それでも破って社会人や私立高の奴らの主催するステージに飛び入りして、罰を食らった。「エレキは不良」を教師は真に受けていた。理由を聞いたところ、「カミナリ族(暴走族のこと)を見ろ、大きな音は不良なんだよ」と言った。

「青春はいかに多くの規則を破ったかによって量られるもの」。学校は無根拠でつまらない規則を作り、理由を問えば「決まりだから守れ!」という。こんな言い分に納得するなら死んだ生徒。斯くの体験から、権威に対する問題意識を有して成長した中年を、「不良中年」というなかれ。問題意識とは、社会に存在する問題に疑義を持ち、主体的に関わろうとすること。

自分の青春をしっかり生きた者は、自身の中年もしっかり生きるし、高年、老年になってもしっかり生きるであろう。若さが沁み付いているのだ。ずっと前にあるアメリカ爺さんからこういう話を聞いた。爺さんはファンキーな服に身を包み、それを楽しんでいる。「若い頃は、別に派手にしなくてもいいんだ。若さがカバーしてくれる。年をとったら派手にすべきだね~」

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爺さんはこうもいった。「若い頃はお金を稼いでいないんだから、安物を着ればいい。が、ステータスな年齢になるほど高価な物、仕立てのいい服や靴を身にまとうことだね」爺さんは日本人のことを知らないでいっているが、日本人の現実を知る自分は羞恥に襲われた。日本は間逆である。若い頃に高価なクルマやバッグを持ちたがるのは親の財布で、これをスネかじりという。

洋服だって若い頃は派手に、中高年~老齢になると地味にする。中高年はダイエーファッションという暗黙の決まりがあって、それにしたがっていれば目立たず無難である。アメリカ爺さんは「目だなきゃダメだよ、自分の実在感をおもいっきし出さなけりゃ」と楽しそうにかたる。この爺さんが日本に永住したら、「いい年こいてなんだろうね、あの服は?」といわれるのか?

いや、「外人だからいいよ」となろう。『バカの壁』という売れた本があったが、日本人には破れない、"日本人の壁"がある。いつの時代のどこの国でも、人々は常に変革を求められた。日本も間違いなく変革を求められ、大きく世の中は変わった。が、同じ髪の色、目の色、肌の色が災いしてか、同じ色であるのが統一美であったり、安心感であったりは、基本的に変わらない。

人と同じであればいい、人とちがっていると異端視する。少しづつは変わっているようでも、子どものイジメの原型にそれが多い。集団主義から個人主義に変わるのは時間も必要だが、寄って集ってワイワイが好きな国民なのに、集団的自衛権だけはダメと言う矛盾。みんなで寄って集ってイジメはするが、寄って集って人を助けることはしない。ついに集団的自衛権が認められた。

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仲間がイジメられてるとき、仲間の国が攻撃されてるとき、助けることができるようになった。こんなこと考えてみれば当たり前のことなのに、憲法9条の制約がそれを禁止した。これを機にあらゆる学校の校則に「集団的自衛権」を明記するとよい。「見て見ぬふりは罪」としながら誰も助けない。つまらぬ校則で縛るより、「集団的自衛権」を行使しない罰を与えよ。

青春は無知である。「無知は罪なり」とソクラテスはいった。となると「青春は罪」という三段論法が成立する。が、三島由紀夫は、「青春の無知は特権だ」と言った。だから「三段論法」が覆されることもない。三島は持論を述べただけ。確かにソクラテスの言うとおり、"知らなかったこと"で損をすることはままある。失敗もするし、他人を傷つけることも大いにある。

だからといって、"知ること"だけを追いかけてみても、頭でっかちの空っぽの人間になろう。結局、「知識を得る努力と、その知識を活用する"経験"の両方が必要である」。経験をまとめて人生経験という。三島はもちろんソクラテスの言葉を知りつつも、どうあがいてみても若者に経験を望めない現実を言った。ソクラテスもあとに「知は空虚、英知持つものが英雄」とした。

いずれにしても「青春は無知」である。「知らなかった」で許されることも多い。もちろん、「知らなかったで許されると思ってるのか、このタコ!」と叱る大人もいよう。「タコ」は余計だが、許してくれる人、許さない人はいる。さて、「中年は無知」である。これは社会に通用しない。中年の「知らなかった」を許す人は総じて甘いし、管理職なら適任にあらず。

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「許さない」ではなく、「許すべきではない」が正しい。なぜなら、「知らなかった」は方便に使われることも多いから。本当は知っていたのに、「知らなかった」といえば許されると思うがゆえの方便である。バカはこれをどんな風にも使う。それで免罪されるなら警察もいらない。人を殺して、「人を殺すのが悪い事とは知りませんでした」と言ってるようなものだ。

「人を殺すのが悪い」と同じような言分けをする人間はいる。本人とっては言い分けとなると思って言う事が、衆目に通用しない。これが「無知の罪」である。つまり、「知らなかった(無知)ので許して下さい」と懇願する者に、「あんたね~、知らないことが罪なんだよ。分かった?」ということ。これが分かっている人間は多少は賢い。分からぬ人はバカであろう。

なぜバカかを説明すると、「知らなかった」で免罪されると、この言葉が社会に氾濫し、誰もが無責任となる。だから「知らなかった」は許されない、許すべきでない。とここまで考えると100点だが、「知らなかった」を平然と言う人間は無思考であり、0点であり、だからバカとなる。二年前の2013年、プロ野球の公式使用球が飛びすぎると問題になったことがあった。

統一球仕様変更について日本プロ野球機構と製造のミズノが、事実を知りながら隠蔽していた。それらが公になった際、日本野球機構の当時の加藤良三コミッショナーが、「調整されていたことを全く知らなかった。不祥事を起こしたとは思っていない」と発言したことで大問題になった。こんな幼稚な言い分けに対し、ダルビッシュも海の向こうで呆れ顔でこう述べた。

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「知らない事はないでしょう。てか知らない方が問題でしょ。ついにNPBが統一球の反発係数を変えてたこと認めましたね!コミッショナーは全く知らなかったとしらをきってますが…」。日本バスケットボール協会・新リーグ運営本部副本部長の山谷拓志は、「ボールは球技の根幹。変えるのなら、リーグ、選手、チーム3者のコンセンサスが必要。情報開示をしなかったことは問題」。

いい大人が、いい中高年が、「知らなかった」という恥ずかしさ。いかに羞恥といえども、それしか言い訳の言葉がないから言うのであろう。「言い訳いっていいわけ?」というオヤジギャグがあるが、そういうギャグを言うオヤジはせめて言い訳はしないだろうよ。「言い訳は武士の恥」という言葉があるが、昨今の時代は「言い訳は男子の恥」と言い換えたらよい。

いつもいうように、自分は子どもと女には「言い訳」を免罪符と与えている。なぜなら、言い訳をぐっとこらえる理性を女・子どもに求めない。ただし、彼ら、彼女らがどのような言い訳をしようとも耳には届かない。なぜならそれが「言い訳」だからである。日本プロ野球機構の加藤コミッショナーは老人だが、彼は言い訳を超えた嘘つき罪人である。

「加藤了承の上で変更が行われた」とした下田事務局長の主張を権力で押さえ込む。後に朝日新聞が、「コミッショナーが統一球検査の報告を随時受けていた」という事実をすっぱ抜き、加藤コミッショナーは辞任に追い込まれる。東大法学部から外務省に入省した役人根性に、どうにもならない状況に追い詰められない限りゲロしない、というエリートの性。

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「人生いろいろ」、「中年いろいろ」、「エリートいろいろ」といいたいところだが、エリート族はいろいろにあらず。彼らは「自分は間違わない、ミスを犯さない」などと無知蒙昧おバカな人種である。自分以下の学歴・職歴人間を見下し、彼らと自分を比較することでしか自分を認識できないという、自尊心に蹂躙された悲哀で憐れな類だ。「上と比較せんかい!」

『中年論』 ⑤

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『中年論』という表題で何を書く?当初思ったが、案ずるより産むがやすし、書いてみると結構面白い。批判アリ、賛同アリ、共感あり、否定もアリ…、「あらゆることは視点を変えるだけで形を変える」が、物が変わるのではなく、意識が変わるのだ。青春期も中年期も、「恋」は必然のものであり、それについてここにもさまざま書いた。すべては自分の視点で眺めたもの。

恋愛する二人といえ、それぞれの眺める視点は同じ様に見えたとしても、「同じように見えた」という自分の視点、思いであろうである。相手が何か発したことと、自分の価値観が同じであった場合、相手が自分に合わせてくれているのかもしれない。「相性」と言う言葉がある。「相性がいい」、「相性が悪い」という。それを「相性占い」で量ろうとするのも笑える。

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何を持って「相性」なのか?人間の情動はさまざまであるから、すべてにおいて相性がいいという事などあり得ない。一卵性双生児であっても微妙に違う。同じ人間などあり得ない。そう考えると人と人との相性なんてのも、思い込みかも知れない。そのように言い合いながら距離感を縮める言葉のツールかもしれない。だから自分は「相性」なんてのは重要視しない。

相性とはむしろ、合わせて行くものかも知れない。あまり無理に合わせてもしんどいだけだし、ストレスもでるし、差し障りない程度に人は人と合わせるべきで、その加減乗除を少年期から学んでいくのであろう。人間関係は縦と横の関係だけではない、斜めの関係というのもあり、これを正四角形で現すなら、縦・横・対角線。対角線は縦+横より短い距離で結ぶ。

四角形の右下角を基点に、CからDに上がり、Dから左に進むとAに到達するが、Cから対角線を斜めにAを結ぶと、C-D-Aの距離より短い距離でAに到達する。この数値を有名なピタゴラスの定理でいえば、一辺の長さが1なら√2となる。つまり、1+1=2の距離が、1.1414となる。垂直に上がって水平に進んで、2で到達する距離関係が、1.14となる。

遠きは近きを秘めている。縦の関係はハッキリするし、横の関係も分かりやすい。斜めの関係は未知である故に謎だ。抽象的な言い方だが、これが多くの男女関係(恋愛関係)であろう。最初は遠いが俄然近くなる要素を秘める。が、この関係ほど難しく、世に多くの離別や離婚が存在する。さらに複雑なのは妻帯者などとの、いわゆる禁じられた恋であろう。

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森山良子に『禁じられた恋』という曲がある。♪禁じられても逢いたいの、見えない糸にひかれるの 恋は命と同じただひとつのもの、誰も二人の愛を壊せないのよ…と歌っている。沢田研二には『危険な関係』という曲がある。歌詞は省くが人間の恋愛の歴史には、"禁じられた恋愛"が、連綿と続いている。昨今はこの長ったらしい言い方を「不倫」の二文字とした。

「むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも」

この有名な歌は大海人皇子が、兄嫁である額田王の歌に応えて詠んだ恋の歌である。まさにイヌやネコのさかりの歌と形容されるほどに『万葉集』には多くの恋、禁じられた恋の歌が多い。が、この時代の道ならぬ恋の歌の特徴は、今の世のいうような後ろめたさがまるでない。その理由は、当時の結婚制度と現代がまるで異なった形態であったからであろう。

夫婦同居でもなく、一夫一夫制も確立されていない妻間婚(つまどいこん)にあっては、性を社会規範で縛ることもなかった。好きと思えば心赴くままに相手女性を訪ね、愛の交歓をいたすのである。女性も夫以外の男から言い寄られ、その相手が気に入れば愛しあう、という大らかな時代であった。昨今の不倫全盛時代は、当時の自然な型を踏襲している。

おおっぴらにはできないゆえに、陰に隠れてというところが違っているだけ。ちなみに、『万葉集』における、「逢おう」は、「やる」ということの意味。もちろん、逢瀬(密かに会うこと)も多くあった。この密かに逢うというところが、人間にとっては刺激に作用する。「禁を破る刺激」は誰でもたまらんものよ。人間はその刺激を味わいたいために規則を作るのか…。

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子どもにとって規則とは守るためにある。全くクルマの往来のない見通しのいい住宅地の交差点に、一人の小学生の少女が駆け足でがさしかかった。急いでいたのだろう。信号が赤に変わってクルマの来る様子は視界にない。少女の視線に入らない高い位置から自分はみていたが、少女はじっと信号が変わるのを守って、青になると急いで駆けて渡った。

その光景を見ながら、やがてこの子も世の規則を守らなくなるのだろうと、思う汚れたオトナの自分であるがゆえ、少女の光景が微笑ましく感じられた。誰も見ていなくても規則を守るという体に染み付いたものが、いつ、どのように、消えていくのだろうか?成長するということは、何かを失うことで別の何かを得ることだが、「覆水盆にかえらず」の慣用句が頭を過ぎる。

自分にも無垢な少年時代はあった。半世紀も前である。「人は別々の視点で同じ風景を眺め、時間を生きている」と上に書いた。恋する男女も、夫婦も、親子も、みんなそうである。「Splitscreen: A Love Story」というショートムービーがある。2人の人物の視点を同時に並べて、彼と彼女が出会うまでを描いているのだが、同じようでも微妙に違う日常や風景である。

恋は一度きりのものではないし、人の数が多いように恋の数も多いが、独身男女はともかく、一夫一婦制の縛りが人間の自由恋愛を抑止する(場合もある)。一夫一婦制は定住型社会の中から必然的に生まれたもので、恋の芽生えを抑制しておとなしくして一生を過ごすなら、安心というわけだ。もし、多くの人間が気持ちの自由なるままに人を好きになったらどうなる?


国家、社会、家族から保証された安穏生活は脅かされ、ひいては国家体制の基盤を脅かす危険性さえ孕んでいる。恋愛肯定者は、恋愛することで心が豊かになるとか、成長するとか、綺麗になるとかいうが、それが事実であっても、中高年の恋は得するばかりでなく、失うものもある。気持ちのままに人を愛し、恋にはじまり、恋愛を始めると互いが大きな犠牲を払う。

人は恋をしたいが故にセックスをするのか、セックスをしたいが故に恋をするのか、それは一概に断定できない。ならば、なぜひとはセックスするのか?このことは誰もが自分の問えば自と答えはでるであろう。セックスへの欲望が薄れてくると人間は恋をしなくなるという現実はあるが、それでも茶飲み友だちは欲しいというご婦人方は、ようするに喋りたいのだ。

女にとって喋るという事はストレスの発散であり、そこは男とまるで違う。喋るための茶飲み友だちなら、家でじっとするか、バイクやクルマをぶっ飛ばすか、パチンコや釣りをする方が煩わしさからの解放になろう。このように定義する研究者もいる。「結婚生活が狭量、怒り、敵意に陥る最大の理由は、程度の差こそあれ、性の不満足から出ている無意識の恨みである」。

円満な夫婦が50歳を超えても「週に2回はする」というのは、まさに驚きであるし、それを円満と言えるところに凄さを感じる。双方とも浮気は御法度、する気もないと豪語する夫婦は、決して豪語などというものでもなく、当たり前に一穴主義者である。なぜ、他に目が向かないのか聞いた事がある。「面倒くさい」といい、「かあちゃんで十分だ」とも言った。

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面倒臭がり屋というのは短所にいわれるが、これに関しては申し分のない長所である。青春期、青年期には物珍しさも相俟って、セックスに興味が薄れたなどあり得ないが、近年の草食系の若者は根っから興味がないというから、一体どうしたものかと考えてしまう。興味がないものに関心を持てというのも酷だが、異性に興味がないというのが腑に落ちない。

現代の若者でなければ分らないことか?"異性を知る"というのが、我々青春期の最大関心事であった。女性をコマすということができないのが災いし、出来ないことを嫌いと言ってるのだろうか?人間は、「出来ないこと」を「しない」、「したくない」という自尊心を見せる。女性が怖い、おっかないというなら、それは現代女性の自業自得であろうか。

「戦後に強くなったのは女性と靴下」と言われた。誰がこの言葉を言い出したのか?元朝日新聞記者でジャーナリストの門田勲氏の著書、『古い手帖』(朝日新聞社出版局:1984年)の中に、「伊予の之ミカン山でわたしを案内してくれながら、ここらの農家のカカアどもがほんまに強うなりくさって、という話の中で、協同出荷組合のオッサンがわたしに聞かせた言葉だった」とある。

これはもう口にオデキができる程言われ、耳にタコができるくらいに聞いた言葉だが、皮肉半分である。女性の強さが当たり前になったこんにちにあっては耳にすることすらなくなった。ならば自分が新しい言葉を作って進ぜよう。「戦後、ストッキングは強くなり破れにくくなったが、女性の膜はなんと破れやすくなったことか」。以下は中高年女性に寄せるエッセイだ。

イメージ 5「私の知人に60歳を機に、家中のいたるところ十カ所に近く、鏡を置いたという人がいる。それくらいの年になると、もう年だから外見はどうでもいいや、という気になる。その気の緩みが古めかしい服を着て、背中を曲げ、髪がぼさぼさでも気にしない、という結果を招く。しかしそれくらいの年だからこそ、人間は慎ましく努力して人間であり続けなければならない。そのためには差し当たり、姿勢を正し、髪も整え、厚化粧ではなくても、品のいい生き方をした老人でいなければならない、と思ったからこそ、その人は鏡うぃ十枚も置いたのだろう。私はその話にいたくうたれた。別に新しい洋服をかわなくても、高い宝石を身につけなくても、背筋を伸ばすだけで人は5歳は若く清々しく見える。私が欲しかったのは後姿の見える鏡であった。(中略)

人は自分の全身像をなかなか掴めない。ことに後ろ姿などほとんど見る事がない。私は二枚の鏡で、後ろ姿を確認したと思っているが、人間というものは卑怯なものだから、多分自分が見ている時には、少し姿勢を正して、自分をスマートに見せているに違いない。だからそれは実像でもなく、真実でもない。人はついに死ぬまで自分の実像を眺めたことがないまま死ぬのである。(中略)

もっとも自分の心身双方の実像を見据えたら、絶望的になって始末に悪いのだろう。人が自殺せずに行きながららえるためには、自分を実際よりよく思い込むという欺瞞が必要なはず。しかし、この頃、長い間の教育の偏りから、自分自身を知らされることなく育っている少年・少女、青年たち、いやいい年の大人と老人までがいるようになったのをみると痛ましい思いになる。」

エッセイに読むまでもなく、自分のことは自分より他人がよく知っている。他人は自分と話すとき、自分の心の動きや表情を感じとりながら話す。自分は相手ばかりを見て話す。だから、自分は相手をよく知り、相手は自分をよく知ることになる。自分の姿形をちゃんと見ていれるのも相手である。相手の姿形をちゃんと知るのは自分である。自分は自分を知らないものだ。

それにしてもだ、女性と言うのは自分の姿形が気になるようだ。身だしなみ以上に気になる何かがあるのだろう。自分をよく見せたい、よく見られたい、合わせ鏡に映る自分の姿は虚像である。実際に自分はどのように映っているのだろうか、それを知りたいと、そこまで感性に現れるのである。そこまで他人にどう映るかという、男からみる女性はある種化け物だ。

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鏡なんか見ない日が多く、気にもならない。男は造作無くも、無精でいい分楽である。大昔、鏡は金属鏡であった。金属や石などを磨いて使っていたと考えられ、現存する金属鏡のうちで最古のものは、紀元前2800年エジプト第6王朝の鏡である。当時の鏡は、銅がメインの「銅鏡」であった。日本に最初に鏡が伝わったのは、弥生時代あたりと言われている。

弥生時代から古墳時代にかけて、中国の鏡が数多く入ってきた。それらは姿・形を映すというよりも、お金持ちの人々の宝物や祭事の器として重宝された。鏡が作られる以前の、更に昔は水鏡であった。水面に映る自分の顔に惚れ込み、池に落ちて亡くなった美少年ナルシスの逸話がある。中高年になって顔の小ジワが気になり、高価な化粧品を買う女性は少なくない。

聞くところによると、ドモホルンリンクルは高いらしい。確かに鏡に醜い顔が映るのはショックだろうし、『四谷怪談』のお岩は半狂乱になった。アレは毒によってそうなったわけだから同情もするが、可愛らしい少女が鏡を覗き込むと、そこには化け物の姿が映る、という事態が実際にあった。26歳のダニエル・ナルティさんは、13歳ごろから自分の姿が化け物に見えるようになった。

2008年の英国のDaily Mailオンライン版によると、これは一種の思春期の病であり、ダニエルさんはその病に侵された。ダニエルさんは、「15歳になると、必要なとき以外は外出をしませんでした。他人が私の姿を見たら化け物と違いないと思い込んでいましたから…」。16歳で友達付き合いもやめ、自殺願望を持つようになった。中学校の成績は優秀だったが専門学校に進んだ。

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彼女は身体醜形障害(BDD)であったが、BDDとは診断されず、一般的な抗うつ剤が処方されていた。26歳現在(2008年)ダニエルさんの症状は大幅に改善し、もう鏡を見ても化け物が映ることはなくなったし、以前ほど他人の目が気になることはなくなったが、いまだに「やはり自分は醜いのではないか」という想念に支配されそうになることがときどきあるという。

BDDに詳しいエイドリアン・ロード医師は、「BDDと診断される患者の数は年々増加の一途にあります。ダニエルさんの場合、彼女を一目見ただけの他人には、(人並み以上の容姿を持つ)彼女が何を心配しているのか皆目理解できないでしょうね。彼女は、それだけ重症だったに違いありません」と言う。日本では「中二病」という思春期病があるが、「中年病」もあるらしい。

『中年論』 ⑥

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中年期は仕事や生活の大きな転換期、そんな中で強い不安に襲われる。不安はこころの危険サインといわれ、意識の底には葛藤が隠れている。これらの不安は、些細なことに心配で仕方のない「精神不安」と、動悸や冷汗などを伴う「身体不安」に分けられる。後者の身体症状は自律神経の興奮によるもので、狭心症や胃腸疾患などの身体疾患と思い込む場合もある。

また、不安には別の分類もあり、不安が発作のように襲う「不安発作」と、多少の波はあっても四六時中不安の続く「全般性(または浮動性)不安」がある。前者は「パニック障害」と呼ばれている。不安発作中には先の自律神経症状が嵐の如く起こり、ついには「死ぬのではないか」、「発狂するのではないか」という恐怖に襲われ、救急外来に飛び込むことにもなる。

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検査結果において異常は認められないものの、不安発作が怖くて家から外出できなくなる人もいる。確かに中年期は、身体的、社会的、家庭的、心理的に変化の多い時期であり、また、安定と不安定、若さと老い、獲得と喪失が共存する時期である。さらには、今まで積み重ねてきたものを問い直し、時には人生の危機に直面する時期でもある。これらが不安の温床となる。

これまで中年期は、老いと死に向かって衰えていく時期と否定的に捉えられていた。ところが人生80年となった昨今、人生は一つの大きな山ではなく、青年期から中年期の第一の山と、中年期から老年期の第二の山という風に捉えられ、中年期は第一の山の尾根であると同時に、第二の山の出発点との言い方もなされれている。女性にあっては更年期障害の問題もある。

更年期は卵巣の働きが衰え、ホルモンのバランスが崩れやすくなる時期で、50歳前後に迎える閉経から、安定する55歳頃までの期間をいう。25%の人は何の変調もなく過ごし、50%の人は軽い心身の変調を自覚するが、日常生活に差し支えるものではない。が、25%の人が更年期障害といわれる不快症状に悩まされ、家庭や職場でのストレスは自律神経に影響し、更年期症状を重くする。

更年期障害といえば女性の悩み、とされたのは過去のこと。男にも男性ホルモン低下による更年期障害はある。女性ほどの自覚はないにしても、「男性更年期障害」が広く認知されつつあることから、「自分もそうではないか?」と診察を求める人は少なくないという。「最近、パワー不足でね…」などが予兆であるように、男の悩みはED(勃起障害)であることが多い。

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できなきゃしなければいいと思うが、「三十させごろ、四十し盛り、五十ござ破り、六十濡れずとも…」と形容される女が御前にてせがむなら、充て木を添えておっ立てる。という奇特な御仁もいるのかどうか。これに加えて、「七十泣きのせがみ婆、八十這い婆の詩」(共に自作)と、長生きは男の地獄か。もあれば、「夫と一緒にいるのも嫌」という産後クライシスもある。

「夫は性欲の塊」として、夫に嫌悪感を抱き、性生活など考えられなくなる。女性の出産後に訪れることのある夫婦の危機であり、一定期を過ぎれば元に戻るケースも多いが、深刻なケースでは妻がセックスを拒否し続けて離婚につながる場合もある。このように産後豹変する妻たちを、我がまま・自己中というのか、嫌がる妻に強要する夫が自己中・我がままなのか?

「夫に子育ての相談をしても無関心。私が仕事から帰った後も育児や家事でへとへとなのに、求めてくる夫が性欲の塊のように思える。2人目が欲しいけど、これでは作れない」。夫が一方的に悪いわけでもない、妻が悪いわけでもない、だから折り合いをつけるのが難しい。妻の変化にショックを受けた夫が、寂しさから浮気に走ることもあれば、反対もある。

何にしても性生活の不一致が離婚の大きな原因であるのは、古今も、洋の東西も、変わらぬ男女の大きな問題であろう。中年が抱える大きな問題であり、単純であるが解決が難しい問題と言える。「そんなにしたいならソープでも行ったら?」などと平然という妻の言動が浮気の引き金になったという夫は多い。やる気をなくした夫の自尊心は、妻に触れることに嫌悪感を抱く。

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「母になって妻を捨てた」という妻がいる。その一言がどれだけ夫のやる気をなくするか、口に出さず黙っていても、態度が歴然であるなら口に出したも同じである。「育児を手伝ってくれない」、「子育てに関心が無い」という言葉を妻は夫に向けるが、その前に、「夫に無関心になったのはお前だろう?」という言い分が夫にある。妻の多くはそれに気づいてない。

妻を捨てて母だけになった元妻は、なのに夫に父を求めるが、夫には上記の腹に据えかねた言い分があり、それを口にしない夫は多い。目には目を、態度には態度で、示す男のプライドを理解しない妻。夫は益々子育てに無関心になって行くのは、結局男の意地であろう。夫も悪いが妻も悪い。どちらも後先ないが、夫には「お前が先に…」との言い分があるのだろう。

バラバラ家族があった。商社マンの夫は倒産寸前の状況下、東南アジアから風俗嬢輸入の仕事を秘密にし、妻は不倫、姉は白人留学生にレイプされていた。心やさしい弟にも公言しづらい秘密があったが、大学受験を控えたさ中、両親や姉の異変に気付き、思い悩むことになる。山田太一脚本によるテレビドラマ史に残る名作、『岸辺のアルバム』である。


ホームドラマ全盛の時代に、「衝撃の家庭ドラマ」と銘打つほどに、「家庭とは何?」、「親子の関係はどうあるべき?」の普遍的な命題に正面から取り組んでいる。激情的な人間模様、生臭い話やどろどろした性の問題を内包する作品だが、圧巻は、自分たちの住む家が堤防決壊して流されている様子を眺め、それぞれが個々のことを水に流し、家族の愛を確かめ合う。

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このドラマの凄さは、正義感に満ち溢れた純真な性格の息子が、家族の秘密と欺瞞をブチ明けるところにある。すべてを露にし、さてそれから当事者たちがどのような省察をし、どのような新たな生き方をして行くかにある。真実と言うのは恐ろしいものである。真実をバラす方も、バラされる側も傷つく。傷つかないような真実など、お茶を濁す程度の真実であろう。

真実を突きつけられた家族がまとまったのは、確かにマイホームが流されて裸一貫になった事もあろうが、妻である八千草薫が自分の、夫の、娘の、息子の言い分や思いをすべて一心に受け止めたことであろう。真の省察とは、反省とは、こういうものであり、再生に向けた心の建て直しである。自身の罪、夫のプライド、娘の悲哀、息子の正義、それらすべてを受け止めた。

息子の告発は欺瞞家族が許せないと言う純真なものだが、家族を傷つけることで自らも傷ついた。だから大学受験を止めて、家を出て明日から仕事をしながら一人で生きてくと宣言した。ここの場面には彼が都合のいい甘えん坊から自立の勢いをみる。「食わせてもらってて、言いたいことはいえない」この言葉に道理を感じるし、甘えからの脱却が感じられる。

もし子どもが、親の意向にそったように生きていればいいとの考えなら、親がそのように教育したのだろう。親の意向に反して生きていくなら、小言を言われないためにも親から離れての自活がいい。親権の有する期間内なら、どのように親に反抗しようが、親は親権放棄はできないし、可愛くない子どもであっても受け止めなければならない、それが親というものだ。


親のいう事を聞かないからと、露骨に皮肉ったり、憎んだりはあまりにもである。「食わせてやってる」だの、「育ててやった」だのと、卑怯な言い方をする親もいたり、何と言うバカ親であろう。なんとしても子を思い通りに支配しようとする親なら、反抗するしか自我形成はできない。子どもの心に傷を残す言動の親は多く、それに負けてしまっては生の実在感を望めない。

といいつつも、トラウマやパニック障害に侵される子どもは多い。やはり子は親の被害者となる。親が子の被害者というのも一見み受けられるが、それらは幼少期から甘やかせるなり、対応を誤った代償であろう。親子の主導権が逆転するなど普通はあり得ないが、それも含めて中年期の苦悩と言えるかもしれない。本来なら起こる筈のない苦悩が、間違った子育てで発生する。

昔の子どもに比べて現代の子どもはしたたかである。理由はいろいろあるが、親の権威、教師の権威がなくなったこと、近所にいた怖いオジサンがいなくなった事も理由にあがる。これを社会学的に「家庭・学校・地域社会」力の崩壊という。こんなことは言われ始めて数十年になる。地元の広島市が『家庭・学校・地域社会が連携した取り組みの推進』というのをやっている。

どこの自治体でも同じようなことがなされているが、内容は、(1) 非行防止活動(環境点検・補導活動)、(2) 電子メディアと子どもたちとの健全な関係づくりの推進事業の二点で、(1) は、各地区の青少年指導員(平成25年4月1日現在、約800名)が地域の実状に応じて、自主的計画により地域内を巡回し、問題行為少年の早期発見、早期指導に努めるとともに、地域環境の点検・浄化活動を行う。

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(2) 青少年を取り巻く電子メディア環境において、「青少年の健全な成長に寄与することができるフィルタリング機能に係る基準」(平成25年8月1日に改正)に基づき、保護者、学校等、市民、事業者が一体となった取組を推進している。と、こちらは掛け声だけで具体的な方策はない。いずれも後手の対応とあっては、教育の理想(後手の対策に終始しない)には程遠い。

行政の生ぬるさは否めないが、こんにちの社会環境にあっては、これが現実であろう。昭和55年に起こった「川崎・浪人生金属バット親殺し事件」に激震が走った。あれから35年、子どもが平気で親を殺す事件は珍しくない。少年や青年による父親殺し、母親殺しにはいつも考えさせられるが、本当の理由は他人にも本人にもよく分らないのではないのではないか。

真実や理由はさて置き、自分の親に不満のない子と、いささか不満のある子と、どちらが多い?データはないが、なくとも後者であろう。至れり尽くせりの親であっても、それならさらに尽くせとの不満は生まれる。感謝はあろうが不満がゼロということはない。そういう時に人間は、感謝と不満を相殺するよう自らに働きかける。が、不満ばかりだと爆発するのだろう。   

「子どものことで悩み尽きない」という親は多い。悩みとは問題が解決できないこと。だったら解決するしかないが、それができなくて困っている。自分の子を意のままにできないというより、してはならないが、距離をおけば解決することもある。解決できない多くは、距離を詰めすぎる場合が多い。「あんたバカだね~、親の顔が見たい」と子どもに言ってやれ。

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親に責められた子どもは、親をあげつらうことで自尊心を癒す。どうせ言ったところで早晩直るものではないし、ならば子どものする事・成す事にいちいち干渉するのは止め、尖った物言いもせず、従来の親からキャラ変するのもオトナの対応か。子どももバカだが、同じように自分もバカだったなと、かつてを思い出せば親ヅラも控えられるかも知れない。

『中年論』の大半を「親」の問題に凝縮したのは、仕事の種類や生き方の指針といえども、状況はそれぞれだが、家庭問題は何はさて共通の問題である。中年で家庭を持たぬものもないではないが、ともかく所帯をもって子を育てるのは、人間の普遍的な営みである。よって、夫婦や親子の問題は、中年の親たちが背負うもっとも大きな課題であり、苦悩ではないだろうか。

簡単に、安易に予測したり、コントロールしたりできないものであるのを、子どもたちの中に認め、尊重することこそ上に挙げた、「親たちに与えられた課題」であろう。尊重されれば人間は嬉しいものだが、親の側にその想像力が欠けていることが多い。そこをおざなりにして、躾だの教育だの疑問である。子どもの起こす問題は、親への警告かも知れない。

嫉妬に思う

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「人間なんて呼吸をしているだけで奇蹟。それ以外はオマケみたいなもの」と言った人がいた。人間が背負う「業」の重さ、欲の深さをいってるのだろうが、「業」の払拭に何が災いし、何が問題かを考えれば、「呼吸だけで奇蹟」なんて言い方はなされない。アレもコレもと重い荷物を背負えば立てないように、身軽になることですっきり立ち、軽快に歩きたいが、「それができない」と嘆く奴はいる。

解決する気がないなら仕方がない。溜め込んだ物で溢れて部屋が片付かないなら、さっさと捨てれば綺麗になるが捨てられない。そういう人が、「部屋が片付かない」と口に出すのがおかしい。解決法が分かっているのにそれをせず愚痴を言う。『青春論』の記事で述べたが、若さとは心の中に魔物を同居させている。叶わぬ欲望を抱き、叶えた人間に嫉妬する。

受験に失敗すれば成功した人間を恨む。失恋すればラブラブの恋人たちを妬む。貧乏家庭に生を受けたものは金持ちを呪う、もしくは極貧をあげつらう。不美人は美人に嫉妬する。「嫉妬!」、この尋常ならざる心といかに付き合うべきなのか?『旧約聖書』によれば、最初の人間アダムとイブの間の子どものうち兄のカインは、弟のアベルに嫉妬して殺してしまう。

モーゼがシナイ山の上でイスラエルの神ヤァウェから告げられた『十戒』の第二条には、「偶像を作って神としてはならない。私は嫉妬深い神であるから」とある。創造主である神様が嫉妬深いなら、人間が嫉妬するのは当たり前か。 人間の歴史を見ても、王や君主が優秀な家臣や親族を妬み、また家臣や親族が王や君主を妬んで、追放や殺戮の例は多く、小説・童話の世界にも描かれている。

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オセロは妻に嫉妬の妄想を膨らませた挙句に殺害してしまう。白雪姫に嫉妬した継母は、毒リンゴで娘の殺害をたくらむ。こうして見てみると、嫉妬という感情には、相手を抹殺するほどの強い攻撃性が秘められている。嫉妬とは、自我の安定を乱す他者を亡き者にしたい、追っ払いたい、引きずり降ろしたい、そうすることによって自我の安定を回復したいという衝動であるといえる。

自我とは、幼少時期から親、教師、友人など身近にいる人たちの眼差しを受け、試行錯誤しながら築き上げた自分らしさで、自身の行動基準として働く。自我とは、「自分は価値ある存在」という自尊心に支えられている。その自我を脅かし、傷つけるものが周囲に現れる。自分より優れ、自分より価値があると映る他者の存在である。すると人間は、自尊心を守とうと躍起になる。

揺さぶられ、不安定になった自我の安定を回復するためには、この邪魔者どもを自分より下に引きずり降ろしたい衝動に駆られるが、それが嫉妬という衝動であろう。 なんとも嫉妬はウジウジした無力な憎悪であろうか。相手に嫉妬しているにも関わらず、「嫉妬なんかしていない」と自分を誤魔化す人間は多い。なぜなら、嫉妬を認めることは、自分の劣等性や敗北を認めることだからである。

明らかに嫉妬しているのに、プライドの高い人間は嫉妬を認めたくない。「あんな程度の奴に嫉妬なんかするはずない」と人に言い、自らにも思い聞かせようとする。確かに嫉妬は見苦しいが、それを隠そうと躍起になる感情は憐れである。どのように取り繕うとも誤魔化せるものではないし、言葉の端々に現れるものだが、隠そうとする人間には気づかない。

イメージ 3「お前、嫉妬してるんだろ?」と言ってみる。その際、人が己の心を隠すのは、実に難しいものだと分かる。自分よりも上格上と認めざるを得ず、ならば尊敬すべき対象であるべく相手を、自尊心が拒否する。自分と違う能力をもっている相手を認められないほどに、自分の有能性を認めようとする人間は、実は愚かな人間でしかないが、その愚かさを認めたくない。

認めることで己の自尊心が失われる、その程度の「能力」の持ち主である。「金持ち喧嘩せず」とは、真のお金持ちは人にお金のある事を見せびらかせたりはしないもの。学者は専門分野に長けているから学者で、自分にない能力をもった数多の凡人に対し、それを認めたくない学者は、「学者バカ」にもなりきれない「似非学者」。学者は「学者バカ」であるから有能である。

「学者バカ」は学者の誇りであり、似非学者とは一線を画す。たかだか自費出版で書いた一冊の著書を後生大事にする学者はそれですべてが終っている。社会的影響力のある学者には執筆依頼が絶えず、自称学者の高慢な態度には、「悲哀」の文字が相応しい。我々は何かを信じなければ生きてはいけないが、何かを信じる対象が宗教であったりする。

あるいは学者であったりする。芸術家の場合もある。親、教師であったり、友人である事もある。どういう対象でも裏切られることはあるが、言われた言葉がウソであった時に対象を責める。ましてやウソばかりであったなら、その対象を信じなくなる。自分が最初に、「もう、何事も信じない!」と断をくだしたのが母親。次に教師全般であった。全般だから特定の教師ではない。

彼らは取ってつけた綺麗ごとしか言わない人種と判断した。次に学者である。こちらは学者全般というより、特定の学者、もしくは学者気取りに騙されたということ。「富士山大噴火」、「地球温暖化」、「公害問題」、「原発は安全」、「食品の安全」、「経済の動向」、「教育問題」、つい先日、世間を大騒ぎさせた「STAP細胞」…。まこと学者のウソは少なくない。

世間を騒がせた『買ってはいけない』本は、『「買ってはいけない」は買ってはいけない』となり、『「買ってはいけない」は嘘である」』に落ち着いた。コレに類似する書籍として、『99.9%は仮説』(竹内薫著)、『「あたりまえ」を疑う社会学』などがある。10億円以上を売り上げたとされる、『バカの壁』は酷評されても出版不況下、人気ある著述家の本は売れる昨今だ。

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昨今は、年間六万点以上の新刊が出る時代にあるが、本は出ようともそれらは玉石混交であって石も混じっている。石ばかりが多くなると玉は見えにくくなる。買って失望する読者もいるが、石を玉と信ずる読者も少なくない。養老氏のように、東大名誉教授という肩書きと、一流出版社の権威と信用で売り飛ばして利益を得たといわれる『バカの壁』。

この本からの引用は、当ブログで一行足りとない。理由は養老氏の、「常識とは異なる解や見方を提供する」その姿勢に異論はないが、解釈や論理展開がお粗末過ぎて説得力に欠ける。常識とはかけ離れた言葉の定義、針小棒大な解釈、それに加えて解読の困難な文章で誤魔化すなど、権威者が斯くも杜撰なら、好き勝手に書く自分らバカに罪はない。

権威者が権威書きすれば自ずと権威になるが、バカが権威書きしてもバカはバカで利益も得てない、権威と信用を失墜させることもない。養老氏は、「柳の下にドジョウ」と味をしめてか同種本を次々出すが、権威者がバカを誤魔化すロジックの多用に腹が立つ。「お金持ち喧嘩せず」の立場には、サイレント・マイノリティを貫くしかないが、養老氏への嫉妬にあらず。

東京大学名誉教授という彼の権威は動かないが、学歴エリートに騙されないことは可能。彼らに共通する利己主義が、実質的に社会の標準的な規範となっている以上、学者や学歴エリートの規範を超える行動は土台無理。ならば騙されない方法として、一見利己的に見えない彼らの言動を懐疑する。あたかも社会正義の理念に基づいた発言と思っている学者は多い。

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彼らのロジックの共通点として、目的に関する議論と手段に関する議論を意図的に混同させる、そういう戦略をとる。養老氏などはタバコの害についてもそうであるように、公にすると批判を受けるであろう利己的な、「隠れ目的」なるものを必ず内部に秘めていて、その手段を社会的に認めさせるために、誰もが納得するであろう「理念」を立てる、もしくは内に隠しもっている。

科学分野の研究者なら、その「隠れ目的」なるものは、自らの知的好奇心の満足であるが、そういう名目で研究予算の獲得はできない。そこで、社会に役に立つという「理念」を持ち出し、自らの研究がそれらの有望な手段であるとアプローチをする。批判者に対しては学問の勝ちも分からぬ者と見下す。この手の学者というのは結構いる。彼らは「進歩的文化人」の自負をもつ。

由緒ある学者は世のために働けばいいし、妄信することもなければ憎むこともないが、エリートに劣等感をもつ人は少なくない。劣等感は憎しみに移行する。相手を憎みながら、なお憎んでいることは、自分が劣者であることを示すゆえに、憎しみを否認しなければならない。このように嫉妬は複雑な感情だが、恥も見栄もなくストレートな嫉妬感情を現す人もいる。

精神科医で国際医療福祉大学大学院教授の和田秀樹氏は、嫉妬感情には、「ジェラシー型嫉妬」と「エンビー型嫉妬」の2種類を指摘する。「ジェラシー型嫉妬」とは、学校や職場などの現実社会において、「あの人ようになりたい」、「あいつには負けたくない」という具合に、目標相手をライバルとして定め、"自分の実力を伸ばすことで勝ち抜こう"という、ポジティブな嫉妬を言う。

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「エンビー型嫉妬」とは、嫉妬の対象となっている相手をただ羨むだけで、自らの実力を伸ばそうとはせず、代わりに足を引っ張ったり、悪口を言ったりすることで相手を貶め、相対的に自らの立場を上にしようという、ネガティブな志向の嫉妬をいう。嫉妬も用い方、生かし方では自己にプラスになる場合もあるが、自己愛が満たされないと、「エンビー型嫉妬」が持ち上がる。

人間の一生というのは、幼児期における同性の親への嫉妬(エディプス・コンプレックス)に始まり、兄弟・姉妹への嫉妬、友人への嫉妬、同僚への嫉妬、恋人や配偶者への嫉妬など、まさに嫉妬のオンパレードであり、人間の歴史は嫉妬の歴史ともいえなくない。これは人間が人に愛されたい、人から認められることを求めるあまり、密かに孤軍奮闘し、傷ついた自我の歴史でもある。

「青春期は魔物が同居する」としたが、嫉妬は青春期に限定しない。人間は「四十で不惑」、「六十で耳順」と孔子はいう。「耳順(じじゅん)」とは、修養ますます進み、聞く所、理に適えば、何らの障害なく理解しうるとの意。つまり、理に適わぬことはしないと言の域に達した年齢にある。これらはあくまで理想であって、ともすれば人間は人を殺めるほどの強い嫉妬感情を抑えられなくなる。

物事を思考し、答を出すための基準として「理」を重視する。「理」とは「道理」である。「道理」とは、物事の正しい筋道だが、そんなことを考えるようになったのはいつごろからだろうか?道理を物事の価値基準とするためには、道理が分かっていなければならず、長い人生体験からそれが見えてきたからかも知れないが、見えてきた=出来ているではない。宗教の教義が規範となる人もいる。

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思想家の主義・思想を規範とする人もいる。世の「道理」といっても一つではないが、道理をいえば、「お前がそれを出来ているのか?」といわれることもある。幼児期から目指して生きてきたわけでもないから、身についていない道理は多い。道理を言って反発する人間は、道理以外の価値基準を持っているのだろうか。好き嫌いを規範にする者は多く、彼らは個々の嗜好が道理のようだ。

好き嫌いを価値基準とする人間に道理は伝わらない。また道理を規則や法や慣習と勘違いする者もいる。「規則」や「法」は人間の決めた社会道徳であって、道理とは別である。その辺りは複雑な点もある。ならば、守るべきは「法」か「道理」か、それも場合によってで決められない。「法」を無視しても「道理」を守らなければならないこともあり、「道理」は捨てて「法」に従うべきことも多い。

先日、映画『網走番外地』(1965年:東映)第一作を観た。自分の青春期にシリーズとして人気を博し、何作も作られた。健さん(高倉健)主演の作品だが、劇中小学生の真一(高倉健)と幼い妹を持った母が、食うために飲んだくれ男と再婚するが、地獄の日々であった。足蹴りにされる母に、真一は「ここを捨てて出よう!」というが、女手一人で2人の子を食べさせられない母は、自らに我慢を言い聞かす。

ある日の食事時、妹のご飯のおかわりに父が皮肉を言う。「仕事は半人前で、飯だけは三人前か!」、妹は食べるのを止めたが、真一は「遠慮しないで食えよ」といった。真一の態度を腹に据えかねた父は、真一に味噌汁をぶっ掛けると、真一は父に突っ掛かる。その場面を観ながら、こういう場合に子どもが親を殺めることになってたとしても過失であって、罪の情状は大いにされるべきである。


頭に血が昇ると見境がつかなくなるヒステリー実母を思い出す。人間が「罪」という敷居をまたぐとき、本当に「罪」なのかという疑念。敷居をまたぐとは日常言葉だから、考えることなく暮らしているが、踏み越えなければならないときもある。凡人と非凡人が居るとする。凡人とは平凡な人間だから、服従を旨として生きねばならない。法を踏み越える権利ももたない。ところが、非凡人はどうか?

非凡人は非凡人であるがゆえに、あらゆる犯罪を行い、勝手に法を踰(こ)える権利を持っている者をいう。真一が父に食ってかかり、床に押さえつけた父親の口にご飯をこれでもか、と押し込んだ彼は、何をされても権威・権力には黙って従う凡人に比べて、非凡人である。したがって彼がそこで父親を刺し殺すのも彼の権利であった。それは、非凡人の彼にとっての当然の権利である。

その意味で自分は非凡人ではなかったが、親に反抗する非凡人というのは、当然の権利としてそれをやる。その事について「親不孝」だの、「ドラ息子」だの、ありとあらゆる汚名を吐かれるが、そんな言葉に屈して凡人として大人しくできるはずがない。親ともいえない親にイビられて自我崩壊と戦い、親を殺めた少年や少女に理解を持つ。彼らは過ちを犯したが、真に人間であったと。

「何も殺さずとも…」と部外者は言う。が、彼らにすれば殺すしかなく、できれば跡形もなく焼却したい気持ちであろう。「何も殺さなくとも…」などは、それくらいの恐怖に怯えるのを知らない人間の戯言だ。親を殺すのは、罪にも勝る安寧であり、傷をつけただけなら、後に回復したとき仕打ちの怖さ、睨まれる恐怖である。「人間なんて呼吸をしているだけで奇蹟」も納得する。

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嫉妬について ②

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嫉妬についての男女の違いの研究報告があった。それによると、男性の多くは精神的な浮気より肉体的な浮気に対して強いジェラシーを感じるが、女性の多くはその逆である。これは、オスは肉体的浮気を許容すると子が自分の子であると確信できないのに対し、メスは家族を守り子育てに協力するパートナーを確保する必要があるという「本能」いよるものと推論的に説明されてきた。

しかし、最新の心理学的アプローチによれば、男女のジェラシーの感じ方の違いに「本能」とは別の新たな解釈が加えられた。ペンシルベニア州立大学心理学科のKenneth Levy准教授とKristen Kelly博士は、男性の中にも女性のようにパートナーの肉体的浮気より精神的浮気を苦痛に感じるグループが存在することから、ジェラシーの性差についての「進化論的本能説」に疑問が提起された。

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博士たちはジェラシーが、「信頼」や「愛着」などの感情と関係しているのではと考えた。パートナーに強い愛着を持つことで安心感を得るタイプの男女はいるが、愛着という関係に否定的な人々もいる。心理学者たちは、後者のタイプにみる強迫観念的なまでに「自立」にこだわる人々は、心に深く根ざした「傷付きやすさ」に対して防御策をとっていると考える。

博士はこれらの人々は、「恋愛関係の中で感情的な親密さより、性的な要素を重視するのではないか」との仮説を立てた。そこで、男女のジェラシーの違いに着目した研究をさらに推し進め、男女の被験者に対し、「肉体的な浮気」と、「精神的な浮気」のどちらがより苦痛に感じるかの回答を求め、恋愛関係の中での愛着に関する標準的で有効な測定法を含む各種設問に答えてもらったところ…。

ジェラシーの感じ方による男女差は明白となり、女性には恋愛関係で、「愛着」重視の人が多く、男性は、「愛着」を軽視する人が多かった。これがジェラシーの性差として現れていると考えられるとした。この研究結果は「Psychological Science」誌に発表され、心理的・文化環境的なメカニズムが男女のジェラシーの違いに、これまで考えられた以上に強い役割を果たしているのではと示唆された。

また、ジェラシーという感情を愛着理論の視点から見ると、愛着と安心に基づく関係を奨励することで、ドメスティックバイオレンスのきっかけともなる、性的なジェラシーを減らすことができるのではないかと示唆されている。かつてスピノザは、ジェラシーの本質を、「愛憎」としてとらえていた。二つの渦巻の中心にあるのは、愛と憎しみである。そして、その愛憎には、「妬み」が結びついているとした。

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「もしも、愛されるものが、自分がかつて独占したと同じか、むしろそれ以上に緊密な友愛の絆によって、他人と結びつくのを人が想像するならば、愛するもの自身に対しては憎しみを感じ、他人に対してはねたむだろう」(スピノザ:『エチカ』)

「ねたみと結びついた、愛するものに対するこの憎しみはジェラシーと呼ばれる。それは、したがって、ねたまれる他人の観念をともなって、愛と憎しみから同時に生じる心の動揺に他ならないのである」(スピノザ:『エチカ』)

これに対し、デカルトはかなり手厳しい。「その妻に関して嫉妬する男は軽蔑される。それは、彼が彼女を正しいし型で愛していない証拠だからであり、彼自身と彼女について悪く思っている証拠だからである。彼が彼女を正しいしか型で愛していない、と私が言うのは、もし彼が彼女に対する真の愛(une vraie amour)を持っていたならば、彼女に不信を抱くという気持ちになどならなかったはずだからである。

彼が愛しているのは、本当は彼女ではなく、彼女を独占することの内にある(と彼が想像している)幸福を愛しているのにすぎないのである」(デカルト:『情念論』)。 通常、嫉妬は愛の証拠と言われるが、デカルトは、「嫉妬は真の愛の証拠ではない」と言う。嫉妬が愛の証拠でないとするデカルトが正しいなら、嫉妬感情が結婚後に薄らいでいくのと、妻への愛が薄らぐのは無関係ということ。

嫉妬の文学で浮かぶはシェークスピアの『オセロ』と、漱石の『こころ』。『オセロ』は他殺と自殺で終わるが、『こころ』は「K」の自殺、「先生」の自殺で終る。嫉妬が引き起こす他殺も自殺も、決して悲劇でも何でもなく、誤解と推論の間違いがもたらす無用な蛮行に過ぎない。オセロ将軍は、部下のイアーゴーの謀略により妻のデスデモーナを殺し、後に真相を知り自責の念に駆られて自殺する。

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謀略とはいえ、オセロ将軍は妻の貞操を疑い、無実の妻は殺された。妻の無実をオセロは後で知るが、時すでに遅し…。これが悲劇でなく何であろうか。漱石の『こころ』におけりなぜ「K」は自殺し、「先生」もなぜ自殺したのかの疑問。一人目の死は、「失恋ゆえの死」、二人目の死は、「失恋ゆえの死を親友にもたらしたゆえの死」、という解釈は表面的であるし、さまざまな解釈がなされている。

おそらく種々の動物で、嫉妬が原因で相手を殺したり、自らを殺めたりする生き物は人間だけであろう。それだけ人間の思考は複雑多岐に及んでいるということだが、動物のような「生」に対する純粋性は、人間には望めないのであろう。「人間なんて呼吸をしているだけで奇蹟。それ以外はオマケみたいなもの」という言葉を深く噛みしめてしまうのだが、オマケの人生ならいっそ開き直るのも方策だ。

人は人を騙すし、だから人に騙される。「騙す」と「嘘をつく」は同じではない。単純に考えれば「嘘をつく」は本当のことを言わないだが、「騙す」は単純に本当のことを言わない以上に、「利害」に関わることであろう。嘘は人を傷つけるのを目的としない場合が多い。自分がある状況に追い込まれて逃れるため、あるいは自分の罪を逃れるため、軽減させるために用いる。もちろん、それで傷つく人もいるが…

いたとしても、相手を傷つけることは目的ではない。「騙す」というのは、まったくつく必要のない嘘を用いて相手の金品や精神的な何かを得る目的がある。男女の恋愛に「嘘」はあってもいいが、「騙す」はダメだ。いうまでもない、「騙す」は相手を傷つける。「嘘」は解釈によっては自分が傷つくのを逃れるために言う。まあ、「嘘」は多面的だから例外もあるが、「騙す」に例外もクソもないだろう。

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記憶には女性を「騙した」ことはないが、それも相手の見方によるから何ともいえない。「騙された」ことは多い。それも相手にすれば「騙す」ではなく、「気持ちを推し量るため」などと口実をつけるから、騙す側にも一分の理があるのだろう。「泥棒にも三分の理」という諺がある。これは実際にあるというのではなく、どんなことにも理屈はつけられるという意味であり、マジメに三分の理を探してもないよ。

鼠小僧は金持ちの蔵から小判を盗み、貧しい人に分け与えたが、これは罪か?当然、罪(窃盗)である。罪は行為であるから行為だけが問題で、義憤とか同情とかに関係なく罪は罪である。もし、罪に正当な理由と言うのを認めたら世の中は大混乱に陥る。少女に「殺してくれ」と頼まれて、高校生が殺したという事件が発生したが、突きつめると嫉妬かも知れん。

いつぞや大学教授が教え子の大学院生を「殺してと頼まれたので殺した」と主張したが、後者は東大卒のインテリの戯言であろう。自分は信じていない。嘱託殺人を装っての罪の軽減を狙ったしたたか者であろう。そもそも嘱託殺人には、「愛するが故に殺した」という美学が存在する。ある嘱託殺人の判決において、地裁の裁判官が被告に以下の言葉を投げかけた。

「苦しむ妻への愛情故の犯行だったことを疑う余地はない」

2014年11月、体の痛みを訴えていた妻=当時(83)=に頼まれて自宅でネクタイで首を絞め、その後死亡させたとして、嘱託殺人の罪に問われた夫(93)に対し、千葉地裁は8日、懲役3年、執行猶予5年(求刑・懲役5年)を言い渡した。閉廷前、佐藤傑裁判官は夫に「どこかで妻が見たときに悲しまないよう、穏やかな日々が送れることを願っています」と言葉をかけた。

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いずれの言葉も、なんとも心ある裁判官であろうか。判決を受けたのは千葉県茂原市に在住の夫。被告の妻は次第に足腰が衰弱し、転倒したことから強い痛みをしきりに訴えるようになった。自力歩行が困難で、痛みで夜も眠れぬ妻に被告は自らも軽度の認知症を患いながらも、自宅に手すりを設置したり、マッサージをするなど寝る間を惜しんで献身的介護を続けた。

妻がヘルパーの利用や高度な治療を受けることに消極的だったため、2人きりで過ごす時間が多かった。絶えず痛みに苛まれる妻は安楽死を望む発言もあった。被告は廊下で転倒した妻から「殺してほしい」と懇願され苦渋の思いで了承。添い寝をして思い出話をした後、あらためて妻の覚悟を確かめると首をネクタイで絞め妻を殺害した。公判で「妻を愛している」と発言した被告。

佐藤裁判官は量刑理由で「妻が天寿を全うできるように尽力することが被告には求められており。短絡的な犯行」と指弾する一方、「介護に追われ、被告は心身ともに疲弊していた。妻を苦しみから解放することを最優先に犯行に及んだことは強く非難できない。60年以上連れ添った妻を自らの手にかけることを決断せざるを得なかった苦悩は同情を禁じ得ない」と述べた。

イメージ 6佐藤裁判官は大きな声でゆっくりと判決文を朗読。「被告に対しては、社会内で妻の冥福を祈りつつ、平穏に余生を送る機会を与えることが相当」と締めくくった。嘱託殺人は難しい。愛情か、負担かを問わなければならない。裁判官の情状に委ねるしかないからだ。介護の心労を思えばあまりあるが、それでも愛情と言う一重の拠り所から介護を負担と自らに言い聞かせぬ者もいる。

人から殺人を頼まれ、同情してそれを叶えてやる行為を司法は認めない。感情に左右されないからこそ法を司れるわけだ。「殺してくれ」と頼まれたから殺したのが罪に問われないなら、「あの洋服が欲しい」と彼女に懇願され、服を盗むのと同じことだ。こういう場合も司法と一般社会の判断はズレがある。自分が騙された経験のあるうちの一件を以下記す。

恋人が、「今日は絶対に安全日だから中に出して…」と、露骨な言い方だがこのように言ったりするものだ。それで嘘だの騙されただの、信じる方に油断がある、罪もある。と今なら思うが、それこそ20代前半の青春の無知でおバカな自分である。それで妊娠してしまった。妊娠の事実を知ったときはメチャクチャ腹が立ったし、相手を責めた。男として当然である。

おそらく策略であったろうが、策略でアレ、愛情でアレ、その段階で結婚する意思がないなら、女に許諾を得たとしても避けるのが賢明であろう。理性的とも言う。避妊などというのは100%安全はないという周到さは持つ方がいい。それらも含めて青春期はバカだった。無謀であったというしかない。できた以上は相手は絶対に産むという。それが女と言うものか。

彼女は「嘘ついてなんかいない。安全日って思ってた」という。「安全日」、「思ってた」と、この二つのキーワードからしても、不確実なものであるし、今に思うと相手よりも自分がバカである。人の言葉を信じることで罪を作るくらいなら、信じないで罪を責められる方がいい場合が女には多い。「わたしを信じないのね」という言葉は、実は女の殺し文句である。

「ああ、信じないよ。信じるもんか、お前のいう事なんか!」と好きな恋人にいえるだろうか?ここが恋愛の難しいところである。恋愛は、放って置いても感情の産物だから、故に理性を必要とする場面はそこら中に転がっている。「バカいうなよ。キチンと筋道立てて出来た子どもではないし、それを産むというのは出来たことを逆手に取った自分勝手もいいことだ」

自分は、頑強な彼女に結婚する意思は今のところない、というのを必死で説いた。女は妊娠をダシに結婚を迫るところがある。責任は男にもあるが、女にもある。それより、目的意識の明確でない結婚等、墓場にまっしぐらであろう。が、女は感情だけで思考する。未来よりも将来、将来よりも明日、明日よりも今のことを重視する。そこが男とまるで違うところ。

自分の意思の強さを悟ったのだろう、彼女は諦めた。それまでは、何とかなるだろうの意思もあったろうが、出来たから結婚と言うこんにちの安易(?)な時代とは、まったく違っていたし、妊娠して結婚というのは男の羞恥丸出しの時代でもあった。それ以上に、結婚には結婚と言う心構えや準備も大事にすべきである。が、出来たから結婚と言うのは女の武器であろう。

自分的には、「『嘘をつかれた』、『騙された』気分でしかなく、そんな状況で産まれるこどもなど望んでないよ」などといったが、この言葉は女を傷つけたかも知れない。しかし、自分としては実際その思いであったし、正当な理由であった。彼女は策略であったから、この言葉に身を引いたのだろう。心が傷ついたとしても、自分の考え(策略)の甘さを責める要素である。

「出来たら結婚してくれるだろう」と言うのが成功する男もいるだろうが、「それは甘いぜ」と詰る男もいるという事だ。とにかく自分は腹が立っていたし、腹が立った女と一緒にいれる筈がない。「そうじゃないというけど、騙された気分は変わらない」と正直に言った。二人はそれで終った。腹を立てた自分も、立てさせた彼女も罪である。自分は態度を素直に出す。

口も利きたくない女となったのを、彼女が感じたようだ。さて、こういう場合の法律問題はどうなるか?結論をいえば、男の意思に反して強引に子どもを産み、その子どもの認知を求められたら、男は認知をしなければならない。「安全日だから…」とか、「ピル飲んでるから大丈夫!」といわれた。「詐欺ではないか?」と、申し立てをしても認知が免れることはない。

「騙されたから認知はしない」は通用しない。なぜなら、避妊していたとしても、100%成功するとは限らないし、妊娠はそういうもの。認知は、『子の父親である』という事実認定である。性交渉に至る動機や経緯などは、全く関係なく影響を及ぼさない。あくまで父が誰かが問題であり、女性が出産した後、女性または子が希望すれば、認知の手続きをすることができる。

「好き」の哲学

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人はなぜ人を好きになるのだろうか?本能なのか、哲学的な命題なのか?異性を求めるのは生殖本能と言われても、別に子どもを作りたいわけじゃない。リンゴが好きな人が、「自分はなぜリンゴが好きなのか?」と考えるのは哲学。そういう事は考えず、リンゴを食べながら「リンゴ美味しいね。だ~い好き!」というのは哲学ではない。別に哲学的に考える必要もないが…

若い頃にはこういうやり取りをする。「○○(アーチスト、芸能人など)なんかのどこがいいんだ?あんなのクソだろ?」とファンに言えば、「いいからいいんだよ、好きだから好きなんだよ」と返されり。確かに自分が好きなものを、「何で好きなんだ?」と聞かれても面倒くさいし、だから「好きなものは好き」と答えてしまう。「何でリンゴが好き?」と聞かれ…

「好きなものに理由がいるのか?」と返すようなもの。「好きなものは好き」、「嫌いなものは嫌い」理由があろうがなかろうが、自分が分かっているならいいではないか。これは自身の感性の問題である。厳密に分析すれば、好きな理由も嫌いな理由もあるはずだが、そんな理由は自らに必要ないし、まして人に聞かれたからといっても理由を説明する義務もない。

だから、「好きなものは好き、嫌いなものは嫌い」という答えは便利である。自分は若い頃にビートルズが好きだったが、ローリングストーンズは好きではなかった。好きではないけれども、好きな曲はあった。好きでない理由の大きな理由は、ミックジャガーの声にあった。ジョンとポールの声質で聴くソロ、そして美しいハーモニーはストーンズにはなかった。

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もちろん、ストーンズファンは彼らの魅力を語ることはできるであろう。ストーンズの好きな曲は感じ入っても、ストーンズというバンドの魅力は説明できない。ミックの声が好きでないというように、嫌いな理由は説明できる。ビートルズにはビシッとしたスーツ姿も素敵だったが、ストーンズの普段着姿は、ビートルズの紳士姿に比べると乞食のようであった。

それはまあ、ビートルズとストーンズの対比であって、それらが好きと嫌いの大きな理由となった。野卑なスタイルのストーンズを、本物のロッカーと感じたファンは多かったろう。何ものにも制約を受けない自由さ、形式美・様式美に対する批判がロックンロールである。ストーンズの音楽がロックであるなら、さしずめビートルズの一連の楽曲はなんであろうか?

広義にはロックであろうが、どちらかといえばポップスではないかと。そもそも、「ロック」という定義を明確にしなければならないが、「ロック」の解釈は多様である。が、その語源の「ロック(rock=岩)」、「ロックンロール(Rock and Roll, Rock 'n' Roll=岩が転がる)は何を意味するかといえば、岩はゴツゴツして大きくもあり、ビー玉のようには転がらない。

それでも、転がろうとするのはつまり、(苦難に負けずに前に進もうとする)という気持ちがロックであり、ビー玉のようになんの抵抗もなくコロコロ転がるのをロックとはいわない。つまるところ、「ロック」とは、エレキギター・ベース・ドラムを使用して、ソリッドで疾走感のあるような演奏スタイルの音楽という物理的定義より、「ロック魂」という精神論にある。

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ツェッペリンはロック、ビーチボーイズはアメリカンポップス、マイケルジャクソンは?はっぴいえんどは?サザンは?BOOWY?ミスチルは?などとあげて、ロックなのかどうかを枠に嵌めようとするなら、意見はさまざまであろう。X japanはロックだが、B'zなんて歌謡曲という者もいて、B'zファンを怒らせている。ロックはジャンルであるが、意外と曖昧である。

タワレコ、TSUTAYAは音だけでジャンル分けをしているが、ロックという音楽ジャンルでありながら、それらを音だけで判断するものではないとするなら、それならロックも別の意味をもつ。音楽的にロックだ、ロックでないの論争より、「ロック魂」を持つアーチストはロックとすれば解決する。それからするとB'zは音はロックだが、「ロック魂」は聴き手に伝わらない。

といえばこれにさえ異論がある。クラシックや美術の世界においても、ジャンル分けはさまざまなされ、それに対する異論もある。ドビュッシーは印象派だが、ラヴェルは印象派と新古典主義とに分かれている。確かにラヴェルは枠付けするのが難しい作曲家で、それを枠に嵌めようとするからもめる。そもそも○○派とカテゴライズすることにどの程度意味があるのか?

レッテルを貼るのはいいが、ラヴェルはラヴェルの音楽を作ったという事実。ビーチボーイズもビートルズもストーンズも彼らは彼らの無比な音楽を作ったとするのが、問答無用の正解であろうが、それでは気が収まらぬ人もいる。枠に嵌めたい学者もいる。が、多数派も少数派も共存する道を探るのが社会のシステムである。確かに多数派の意見は正しいものが多い。

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この世で「いいことだ」と多くの人が認めることに、あながち間違いはないようだ。「病気であるより健康がいい」、「戦争より平和がいい」、「早死により長生きがいい」など、確かに99%がそうでも100%でないのが人の世だ。病気を望む人もいるかも知れない。戦争を望む人は間違いなくいる。長々と生きながらえるより、太く短い人生を望むという人は案外多い。

「不細工より美人がいい」というのも多数の意見であろう。自分とて美人は嫌いではないが、活用と鑑賞は別である。結婚相手を美人と言うだけで選ぶ人もいるが、他人事といえど、それって「どう?」。映画やドラマのキャストに美人が似合わないことも多く、何事において美人絶対優位と言うのはあり得ない。『人は見たが目9割』という書籍がある。読んではないが…。

イメージ 10帯には、「理屈はルックスに勝てない」と出版社が考えたのだろう、こういう騙し言葉に人はなびく。あくまで本を売るために考えたのだろうから、「内面はルックスに勝てない」とは書けないのだろう。これだと明らかに内面否定になるし、問題である。頭の悪い人(御幣のある言い方だが)は、こういう取ってつけたようなコピーにすぐさま反応してしまう。

確かに企業面接など、女子社員を選ぶ要素に容姿端麗があるのは事実であろうが、キチンと内面を見るところもある。ただし、数分程度の企業面接でネコかぶった人間がほとんどなら、ダメもとで美人を選ぶほうが得との言い分もある。長き人生を共にする相手を顔で選んだばかりに「百年の不作」女をつかまされたという事はあるだろうが、不細工にも性悪女はいる。

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事前にそれが見分けられるのか?という問題もある。百年の災い母を体験した自分の結婚観は、中身重視であったのは当然である。こんな女(母)など「1億円の持参金付きでもイランわ」と、これは実際に母に言った言葉でもある。この程度の言葉に怯むような母ではないのだが、ここまで息子に言われるような母であったのだと、反省しないところが彼女らしい。

美人が好まれるように美男子も同様だ。もっとも最近は美男子と言う言葉はイケメンになった。"イケてる面"の略だから女にも当てはまるが、男専用の言葉である。最後のイケメン独身といわれた福山雅治が、吹石一恵との入籍を発表したところ大騒ぎとなった。ネット上では悲鳴と怒号の嵐である。何でそうなるんだ?福山の結婚が何でそこらの一女性に関係ある?

正直いって、女のこういうところは理解できない。まさか、福山と自分に可能性があると思っているのだろうか?女はそういう思い込みをする動物なのか?理想と現実を何のためらいもなく混同するのだろうか?福山が独身であるという希望の正体は何なのか?女性のいう、「ショックー、立ち直れん」という言葉の真意は何なのか?「希望であり、夢である」と言う女性がいる。

希望とは何?夢とは何?好きなアーチストの幸せ(結婚)を喜べないファンというのは、一体どういう目的のファンなのか?「報道を聞いて早退した」、「明日も会社に行けない」というそこまでの何を彼に依存しているのだろう。自分には「ショック」の意味が分らない。これらファンの反応が異常でないとするなら、異常なのは自分なのだろう。別に異常でいいけれども。

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「アーチストとして夢や希望を与えてくれる」というのに何の依存もないが、独身男性として、一人の男として「夢」であり「希望」であるというのは、思いあがりもいい加減にしろ」と思うが、それを言ってはいけないのか?市井の一女の思い上がりを、「夢」というのは自由だし、「夢」ならかまわないが、それほど現実離れしたことが日常生活に影響を与える、その事が可笑しい。

こういうところに女が理性的でない面を見る。これほどまでに感情に切り回される女を「バカじゃないのか」は当然であろう。「いいの、バカでも何とでも言ってよ。そんなことより、ショックの方が大きい」というなら、ご愁傷様とおくやみを述べるしかない。彼女たちはもはや"死に体"である。感情が行き詰まって自殺するものもいるというが、今回それはなかった。

NHKでもこの日午後7時からの、「NHKニュース7」で報道された。東京五輪の追加種目や台風のニュースに続き、7時17分から2分間にわたり福山の結婚の話題が取り上げられた。武田真一アナから、「ショックと感じた方や、お似合いだなと納得された方、さまざまだと思いますが、桑子アナはどう感じましたか?」と問われた桑子アナ、「私はショックでした。

…思わず『エッ』と声を上げてしまいました」。両手を広げて驚くジェスチャーの後、がっくりと肩を落とす。冷静と抑制を旨とするNHKでホンネを吐露するのは珍しい。武田アナから、「気を取り直して」と促されると、「俳優の福山雅治さんと吹石一恵さんが、今日付で結婚したことを、2人の所属事務所を通じて発表しました。今日は吹石さんの誕生日でした」と冷静に伝えた。

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自己省察しない人間は、まったく人格向上が望めない人間であろう。『人は見た目が9割』という書籍はベストセラーになったらしいが、何を知りたくて読むのだろう?立ち読みする気すら起きない本である。amazonの紹介欄に以下の抜粋がある。「男が美人に、女が二枚目の男に一目惚れをする。相手の性格やその他の要素は一切関係ない恋は存在する。

恋のただ中にいる人間にとっては、白も黒になるのである。正邪の判断が狂うことも珍しくはない。端的にいって、"外見の威力"はそれほどまでに強力なのである。」と、当たり前のことが書いてある。『人は見かけが9割』というタイトルは、肯定か否定かは分らないが、おそらく否定になっているのでは?そんな気がする。なぜ「見かけが9割」がいけないのか?

当たり前だが人は見かけだけで成り立っていない。さらにいうなら、見かけ9割というのは、人間の運不運はその人の努力とは無関係に、生まれつきで決まってしまうことになる。「士農工商」の階級社会ではあるまいし、こんな不合理なことは到底認められない。「容姿端麗は生まれつきだろ?」といったら、「節制も努力もあるのよ」と言った女がいた。

確かにそういう部分もあろうが、生まれもったダイヤの原石であるのは間違いない。漬物の置き石に向いてるものとは生まれながらにして違う運命である。そういう意識を強くもっている自分だから、人を好きになる理由として、"感性"だけではあり得ない。噛み砕いていえば、美人を好きになるのは「感性」だろうが、不細工を好きになるのは「理性」である。

イメージ 8不細工を好きになる理由の多くは、容姿以外によいところを見つけること。美人というだけで好きにならないのは、容姿以外の悪いところを見つけるからか。美人なら何でも良く見え、不細工は何でも良く見えないなどあり得ない。こういう当たり前のことにキチンと目を凝らせているだけで、何ら特別のことをやっていない。不細工でも「こぎれい」にしてる人はいる。
「こぎれい」とは、美しいとか綺麗の意ではなく、「整っていて気持ちのいい感じがする」という意味のようだ。なにも容姿端麗者に限定するわけではないが、昨今は派手ではあっても、「こぎたない」印象の拭えない女がいる。女性だけではない、「こぎたない」おじさんはうじゃうじゃいる。「こぎれい」が上記の意味なら、「こぎたない」とはどういう意味であろうか?

そっくり裏返せば、「整っていなくて気持ちの悪い感じがする」となる。感覚的なものを文字で表現できないものもあるが、女性の「こぎたなさ」は確かに整っていない。整えることを度外視してアクセサリー類を増やすなどして、だから「こぎたない」。美しいの最低条件は、"整っている"である。そこに神経が行き届かず、単に飾り立てるから、「こぎたない」。

オシャレの基本はまずは、整える、清潔にするという身だしなみであって、それなくしての「こぎたなさ」。ばばあのクセに妙に若返りを重視したなりにも「こぎたなさ」を見る。人間の生涯にあっては、たとえ老いに対しても自信を持つべきである。肉体は衰えているけれども、その現実にきちんと向き合うということは、精神は充実しているということだ。

老齢による衰えは万人の共通の成り行きであり、万人に納得してもらえる事象である。年をとってはつらつとした若さを見せることと、表面的な繕った若さを作ることは別である。あまりイジることのない携帯電話の機能に、「健康歩数計」を見つけ、自分の身長・体重・年齢のデータを入れると、歩数、歩行距離、歩行時間、平均速度、消費カロリー、脂肪燃焼量が表示される。

7月に新しくオープンしたショッピングモール「ゆめタウン」は、往復で約13000歩の距離で、たまに歩いて行ったりした。体力には自信もあり、思い切って市内をグルリすることにした。帰ってデータを見るのを楽しみに出発、汗かきだから、リュックに着替えを準備し、途中着替える。見知らぬ地を歩くのは通行人の美人を見る楽しさとは別の趣きがある。さて、結果は以下。

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 ◎歩行距離 32184m
 ◎歩行時間 372分
 ◎平均速度 分速86m
 ◎歩数 47330歩
 ◎消費カロリー 1174kcal
 ◎脂肪燃焼量 163g

分速86mだから時速5.16kmの速度となる。一般的な人の歩く速さは、毎時4kmというから、一般歩道を歩くにはまあまあの速さだ。郊外の遊歩道なら、毎時6kmは楽に歩ける。人は足腰から老化するといい、太ももの筋肉などはすぐに減ってしまうという。若い頃は腰ばかり動かしたけれども、60歳過ぎたらクルマなんか乗らないで、歩け、歩け、歩け。

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こども

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最近、外を歩いていると子どもに視線が行く。特に小学生ばかりに目が行く。話しかけたりもするが、小学5~6年生ともなると妙に警戒されることが多いので、下手に話しかけられない。見ていて心が和むのは1年生~4年生くらいまでか。5、6年生はもうランドセルが似合わないし、身長の高い子にランドセルは物理的にいっても酷だし、視覚的に見てもオカシイ。

以前は女性に視線がいったが、最近はもっぱら小学生だ。中学生も子どもであるが、天真爛漫さにおいては子どもとは言い難い。彼らはもはや思春期であり、近年の中学生は食い物のせいか、社会・風俗の変化なのか、近寄りがたい子どもであるが、小学生はいかにも子どもだ。「ボクは3年生だろ?」、「キミは4年生かい?」とすれ違いさま、追い越し時に声をかける。

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大きなランドセルと三頭身の身体がアンバランスでかわいい。「未完成」の美しさともいえる。前を急ぎ足で進む少女がいた。1~2年生というところだが、懸命にピッチをあげて歩いている。が、大人が追いつくのは訳ない。追いついて少女に言った。「歩くの速いね、どっちが速いか競争しよ」、「いいよ、どこまで?」、「お嬢ちゃんが曲がるところまで…」

少女はさらにピッチを上げる。自分も歩幅を狭くして、「速いね~、負けそうだ」と言いながら。間もなく少女は左折する。「速かったね~、じゃバイバイ」といってお別れした。子どもは見ているだけで癒されるが、一緒に遊ぶとさらなる楽しさを味わう。ある日、2人連れの少女に話しかけたときに、明るく受け答えする子と、方や警戒心が滲み出た子であった。

明るく気さくな子と話していると、もう一人の少女がその子に耳打ちした。その様子をみて自分は、「バイバイ」とスタスタ少女から去った。おそらく、「知らない人と話しちゃダメ」と耳打ちしたのだと感じた。その子も家でそういう風に言われて大きくなったのだろうし、明るく屈託のない子は、のびのびと育ったのだろうし、少女の対比を感じながら二人の背後にそれぞれの家庭を見た。

昔こういう事があった。次女が3年生のときに暮らすのSちゃんと仲良しになった。次女はSちゃん宅に遊びに行くが、Sちゃんはこちらの家には来ない。理由を聞くと、線路より向こうには遊びに行かないようにと言われているらしい。確かに、遮断機のない警報機付き踏み切りを横切ることになるが、こちらがSちゃんの家に行く場合も同じところを通るわけだ。

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「ずいぶん、お堅い親だな」と感じた。そんな発想は自分にはなかったし、警報機もあれば、そこは上り下りは直線で4~500mは見通しのよい踏み切りである。そこまで注意を喚起する親もいるのに驚いた。と、いえば聞こえはいいが実は嘘で、ホンネは「バカじゃなかろか」であった。その家庭にとってはちゃんとした理由のある決まりなのだろうし、それも決まりだ。

決まりというのはその家庭の親が決めるものだから、その家庭で稼動するばいいものだが、現実的に考えると家の決まりも学校の校則もオカシなものは多い。注意を喚起するのは悪いことではないが、本当に危険性があって喚起すべきものと、まったくそれに合致しないものとがある。そういう比較・検討もなされず一律に、「線路を越えてはいけない」ってどうだろ?

他の家庭の決まりに文句を言うとかではなく、親のキャパシティについて述べている。確かに心配性という親はいる。「何でそんなことまで心配するのだろう?」と思っても、心配性な親にとっては普通なのだ。どっちがオカシイかを比較検討して答を出すではなく、心配性の親を持つ子はどんな風に育つのか?そんな風に思ってしまう。心配するのはいいが、心配性はダメだろ。

心配性がさらに「心配症」にまで進むと気持ち悪い。ところが、「性」に「症」、いずれの親も普通と思っているからどうにもならない。近年の脆弱な子どもは、心配症の親が原因なのではないかと感じている。何事も「過剰」はよくないが、繰り返すなら「過剰」を「過剰」と思わないそこが問題だ。こんな親の言い分を読むと頭が変になりそうになる。

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「家庭の躾けは厳しくやらねばなりません。子どもはやさしくするとつけ上がりますから、ビシビシと親の都合を強制すべきです。どんな立派な理由付けがあっても、所詮は親のエゴ、世間体でしょうから。私は家事が嫌いなんです。だから子どもが小さい頃からこき使いました。女の子、男の子の区別はしません。二人しかいないし、娘だけでは足りないので息子も使っただけの話。

夜だって毎晩というわけではないけど、子どもが食事を作れるように教え込んだことで、遊んで帰れます。「男女平等」ですから夫だけ遊んでいいわけないし。だから、子どもの躾けも兼ねて夕食作りをサボるんです。躾け、教育って子どものためでしょう?他人への挨拶、家の電話の応対、言葉使いも厳しくいいました。私が笑われないよう、ちゃんと躾をしているよう思われたいし。

ウルセエ、クソババア、なんて人の前ではいわないよう、言うなら家の中でと。塾なんかお金が勿体ないので行かせないし、子どもが分らないならちゃんと教えるよう教師に言いまくりました。それでも勉強ができなかったのは教師のせいだからかまわないですが、自分の考えをハッキリ言わない子だとバカだと思われるのは、私が困るので誰の前でも自己主張するように躾ました。

家庭の躾がなってない問題家庭とアレコレいわれますが、家庭の躾がなぜできないのか?それは私のように徹底して勝手な親になれないからでしょう。自分の子どもに限らず、自分だけが快適ならいい。躾や教育とは、自分の思うように他者を従える強者の論理であるとの、おぞましい面を自覚しないと、正義ヅラした親や教師は、子どもの生気を抜きとってしまうんですよ。」

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読んで気分が悪くなろうがどうであろうが、親がこの方法で成功したかどうか。最後の数行、「躾や教育とは、自分の思うように他者を従える強者の論理であるとのおぞましい面を自覚しないと…」、これは野球監督でいえば星野仙一方式。その善悪よりも、そうしか出来ない人間の言い分だから、それを以て「躾や教育とは」とせず、「自分は」と主語を変えるべきだ。

躾や教育とは自分の思い通りに他者を従えることではないのよ。軍隊と間違ってるんじゃないのか?こんな能ナシの言い草は…。「教育」が学問重視の時代以前からあったわけだし、それがいつの間に「教育」が学問重視の世の中になった。最近話題の超英才教育ママが、息子3人をいずれも灘高から東大理Ⅲ(医学部)に合格させたと、本まで出版して自慢している。

凄い、羨ましいという人にとっては自慢になろうが、『週刊朝日』9月18日号に掲載された精神科医・和田秀樹氏との教育対談での発言に、「東大生でもマザコンは嫌だ」、「(息子は)大人になって女で失敗する」などと批判が殺到している、"カリスマお受験ママ"こと佐藤亮子さんが、『週刊文春』の取材に120分にわたって反論を述べているが、興味がない。

ただ、息子たちが次のような声をあげて母親を庇っている。「ネットでは僕達がまるで操り人形であるかのように思われていますが、心外です。恋愛についても色々言われているようですが、ちゃんと彼女もいるんです」などと…。息子3人に恋愛を禁じて灘高⇒東大理Ⅲに入れたなどと、得意満面本まで書いたことで騒がれているのであり、黙っていれば何もない。

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憶測が事実であるかではなく、憶測は憶測であって、その憶測は母親がもたらせたもの。息子が心外と言うのもいいが、母親にも、「何で本を書いたんだ?外野がうるさくてやってられん」というべきであろう。火のなきところに煙は立たない。どんな憶測にせよ、公言し、書籍で儲けた代償だから、「受験に恋愛は無駄です」などの一連の信念批判は、書き手として受け止めるしかない。

3人の息子が親のロボットであったかどうかは、これから先に分かる事。彼らは今の段階ではいわゆる勝ち組になるんだろう。1988年10月25日早朝、一人の少女が自宅マンションの6階から宙に舞った。遺書がある事で自殺と判明した。少女は愛知県立旭丘高校2年の野村陽子(当時16歳)さんで、自殺の理由は、学校からの単位不認定通知書であったと親はいう。

旭丘高校は、2016年度愛知県高校偏差値ランキングでも東海高校(私立)に次いで第2位の超難関高。陽子さんの遺書には、「葬式やらないで」とあったという。名だたる進学校に籍を置きながらも、「何のために学校にいくの」、「物理や古文の勉強して何の役に立つの」などの人生不可解をしばしば口にしていた。30年も前のこと故に、地元の人さえ記憶の隅に消えている。

名古屋市東区に住む父野村勝さん、綾子さん夫婦は陽子さんの死後、「勉強ばかり詰め込む今の学校教育の中に、青年期の悩みや生き方に対する疑問に答え、受け止めてくれる体制がなかったのか」との問題提起を含む告発手記をまとめ、関係者350人に発送したという。一人の少女の自殺が難関進学校の体制に影響を及ぼすものではないが、親の気持ちであろう。

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もちろん、旭丘高校に法的な責任は問えない。道義的な責任が問えるかといっても、進学校というのは高い意欲を持って勉学に励むところだから、そこで落ちこぼれた責任は本人にあって学校にはない。彼女の自殺は、自尊心の逃げ場がなかったと見受けられる。もっと楽にやっていける他の高校への転校という選択は、死よりも苦しかったのではないか。

偏差値レースから落ちこぼれる生徒はどこの高校にもいるし、そういう時に上記の選択肢を取れないのは本人と家族の問題である。他の受け皿を拒んだ彼女は死を選んだ。学校から成績と授業時間数の不認定の憂える通知書が親元に届いた時、父は娘に説明を求めた。陽子さんは「自分でちゃんとするからいい」と答えたが翌日親に無断で学校を欠席した。

偏差値70越えの高校に入学するような子は、小学・中学を通して全校でもトップクラスで、高校入学が決まった時点で将来は決まったようなもの。それが高校に入って成績が下降する理由は、つまるところ本人のやる気が削がれたこと。親は学校に疑問や悩みに答える体制が必要だったというが、それ以上に家庭が彼女を追い込んだのではなかろうか。

陽子さんの両親は、「娘は教育に殺された」というが、それは違う。成績が下降した時に親が子どもにどういう態度で接するかで、子どもはまるで違ってくる。県内はおろか、全国でも名だたるこの手の難関校は、強制的に勉強をさせるところであり、成績が下降して苦しむ我が子を追い詰める責任は学校にはなく、家庭の問題だ。本人以上に旭丘に拘ったのは親なのでは?

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「陽子ちゃん、学校の勉強が大変みたいなら、もっと楽に過ごせる高校に転校したらいいんじゃないか?」。このような言葉を投げかけることも出来なかった親に、彼女の自殺の責任の大半があると自分は感じている。もっとも、こんなことは親が一番分かっていることだろうけど…。「親の心、子知らず、子の心、親知らず」というが、親の心は子どもには判っている。

むしろ親が子どもの心を分かっていないもの。いや、知ろうとしない親が多すぎる。何でも命令すればいいくらいに思っている親は多い。「成績が下がったなら勉強しろよ、遊んでるんじゃないのか?」これが普通の親だ。毎日毎日口癖のように「勉強しろ」という親に、子どもの心がどうして分かる?小学生低学年の子どもには、そんな呪縛に取り付かれた顔がない。

勉学に限らず、スポーツクラブでも、ピアノ教室でも、練習が厳しいから自分には向かないと脱落する子どもはさっさと止めるだろう。そこに向けて文句を言う親っているのか?そんなことをする前に、厳しくてもそこで頑張ろうとする子どももいる訳だから、それを考えると文句をいうのはお門違い。さっさと止めればいい。厳しいことは問題ではないのよ。

陽子さんも、両親も旭丘高校は選択ミスだったと断じて、次なる対策を取れなかったことが、彼女を追い詰め、孤立させたと考える。子どもの真の理解者は親であり、子どものすべての責任も親が負うわけだが、進学校に「勉強させすぎ」と文句を言っても、他の保護者や生徒からは理解を得れないだろう。親の慟哭は分かるが、親が受け止めるべきであった。

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様々な苦悩を抱く思春期の子どもに比べ、小学生はピュアであることが人としてとても美しい。美しいというのは自分の感じ方である。子どもは真にこのようであるべきかなと思いながら眺めている。やがて訪れる思春期を前に、親が子どもに何を準備させたかである。強くくじけぬものを用意させたか、可愛いだけでわがままし放題にそだてたか。

我がままは厳しい社会にあっては弱さでしかない。厳しい社会にあって誰が子どもを追い込むのか?「それは親だ!」と自覚することだ。そうすれば見えてくるものがある。すべては親の責任だと思うことでしか見えないものもある。子どもの中の見えないものを見ようとするのが、親の最大の務めではないかと。子どもの心を自由に解き放つために…


こども ②

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小保方問題で揺れた理化学研究所が9月30日に、「父性の目覚め」についてのプレリリースを発表した。ほ乳類の場合、子は未発達のまま生まれてくるので、母乳を与えるなど親による子育て(養育)が欠かせない。人間は「胎児出産」といわれるように、胎児を産んでいるわけで、これは母体保護の目的もある。マウスにおいても、メスは若い時から子の世話をすることが多い。

そのマウスは出産時の生理的な変化によって、さらに養育行動が強化されることが知られている。それはあくまでメスの場合であり、オスは?となるとなかなかそうもいかない。交尾をしたことがないオスマウスは、養育にはまるで関心がなく子に対して攻撃的であるが、メスとの交尾・同居を経験して父親になると、自分の子ばかりか他人の子までも養育する。

この「父性の目覚め」現象に関わるメカニズムの1つとして、子の発するフェロモンを鋤鼻器(じょびき)という嗅覚器官で検出することが子への攻撃には必要であることと、父親マウスでは鋤鼻器の働きが抑制され、子への攻撃行動が抑えられると同時に養育を促すことを理研は発見していた。鋤鼻器は元々は口腔内の食物の臭いを感じる器官であったといわれる。

「父性の目覚め」現象は、鋤鼻器が退化している類人猿でも見られることから、嗅覚などさまざまな感覚入力を受けとり子への行動を決定する、より高次の脳領域に重要なメカニズムがあるのではと理研研究者は考えた。そこでまず、子を攻撃するオスマウスと養育するオスマウスを、それぞれ2時間、子と同居させることによって脳のどの部分が活性化されるかを調べた。

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この結果、父親になる時には子への攻撃をやめ養育する、「父性の目覚め」が起こる可能性が示唆された。さらに、あるオスマウスが子を攻撃するか、養育するかは、2つの脳部位の特定物質の活性化状態を測定するだけで、95%以上の高精度で推定できることが分かった。今回明らかになったマウスでの、「父性の目覚め」のメカニズムは、すぐに人間に応用はできない。

がしかし、理研の研究は子に対する攻撃と養育という正反対の行動のそれぞれに必要な中枢の脳部位を詳細に同定し、その活性化状態からマウスの行動意欲が読み取れることを示した初めての研究成果である。こういった脳部位の働きを霊長類において調べることで、人間の父子関係の理解とその問題解決に役立つ知識を得ることにつながると考えられている。

昨日の記事で、こどもが大好きと書いた。が、遡ると自分は子どもは大大大嫌いであった。自分の子どもが生まれても煩わしくて一度も抱いたことも世話もした事すらなかった。お風呂も入れたこともなく、オムツはおろか、触ることさえなかったし、夜泣きが耐えられず、自分用の寝室兼個室を確保した。今思うと、妻が一人でどれだけ大変であったかと…

彼女の性格として何かを頼むことは一度もなかったが、こと何もしないことにおいては雄ライオンであったろう。全く興味が沸かず煩わしいだけだった。それが、急変したのは3、4歳頃の長女に何かに気づいて(その何かは覚えていない)、これではダメだ。まったく躾というものがなされてないなと、痛感したことだった。自分の、「父性の目覚め」は本能ではなかったろう。

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「必要は発明の母」という言葉があるように、発明とか工夫は「必要性」からもたらされるとしたものだが、自分の、「父性の目覚め」はまさにそのことであった。「これではダメだ、躾がなされてない」が何であったか記憶にないが、とにかく躾の必要性を感じたのだった。結婚当初の妻、子を持った後、彼女は子ども可愛がることに関しては問題なく出来る性格。

けれども、その事が災いして子を客観的に離して見ることができないから、強い言葉や注意を与えることができない柔い性格と言える。管理職が部下の長所を探して伸ばすと同時に、短所や不足部分にも目を当てて、それらを改善させる役目を負う様に、そういった両極へのシビアな能力が必要となる。親を管理職に見立てれば、子育てとて同じことだ。

と、自分は感じた。したがって、「父性本能」とかではなく、管理職が本能ではなく義務と演技でなされるように、躾もそのようにすべきと考えた。当時を思い出しても、「父性の目覚め」というのは、意識的にも無意識的(おそらくだが)にもなかったと思われる。あくまで「躾」の必要性に動かされる何かを発見したのである。そうして今、「子どもが好き」と言う。

子どもという小動物はどれほど見ていても飽きない。何十年も前だが、これと同じことを言った母親がいた。そのことを自分は理解すらできなかったが、今はよく分かる。子どもは実に変化に富むこと変幻自在で、楽しませてくれる。幼児は常に何かの実験をしているようだ。子どもが、生まれながらに実験家であることに、忙しさに紛れて気づかないオトナもいる。

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ハエの羽をムシって取ったらハエに見えない、アメンボウの足を全部とると、ただの棒。ゴキブリの足を取ると、「柿の種」ではないが、トンボの首を取るとそれに続いて長い物体が体の中からどんどん出てくる。それが脊髄である事も知らずに眺めている。カマキリが虫を食っているのをみて、「虫のどこが美味しいんだろ?」とクビをかしげるしかなかった。

なぜ犬がウンチの臭いをかぐのかを友だちと言い合った。「ウンチは人間にとってはクサイ臭いだが、犬にとってはすごくいい臭いなんだよ」と、そんな風にいえば誰もが納得した。本当かどうか犬に聞いたわけではもちろんないが、嫌な臭いならあんなに鼻を近づけてクンクン臭わないだろうとの空想である。家の柱時計を分解して怒られたこともあった。

子どもは実験をしているだけだし、実験材料は身近にたくさんあった。が、しばしば実験材料を間違えて親に叱られる。それでも陰にかくれてアレコレと実験材料を探す。幼児にとって世界は神秘である。したがって、探索して地図にしなければならない未知の領域である。イギリスの代表的なロマン派詩人であるウィリアム・ワーズワースは、こんな詩を残している。


 祝福された幼な子は、母の腕に憩い、母の胸に眠る
 そのとき彼の魂は、母の眼から熱愛をひき出し集める
 そのような感情は、
 彼の眠れる暮らしに目覚めの風のようにそよぎ

 そして彼の心は、(諸力の最初の試みにおいてさえ)
 素早く慎重で、同一のすべての要素や部分を
 さもなくばバラバラで合体したがらないのを
 ひとつの形に結びつけたがっている

 そして、大きくなって
 いまやすべてのものに
 私はひとつの人生を見
 それをよろこびと感じた 


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人は本来、喜びのうちに成長し、発達するように作られている。よろこび、楽しみ、これら生物学的衝動を知ろうとするなら、子どもたちが遊ぶときのはしゃぎまわるような、あの、純粋なよろこびを観察することだ。子どもは、自ずから楽しもうとし、その飽くなき能力をどこに潜めているかのように、まこと遊びにかけての能力において天才である。

また幼児は、かなり早い段階から微笑んだり、笑ったりしはじめるが、これは純粋に生理的、つまり、反射的であると考えられている。よろこぶから笑顔になり、笑顔とは笑った顔のこと。犬もよろこぶし、ネコもよろこぶし、ならば彼らは笑うのか?「犬が笑った」、「ネコが笑った」などの画像や動画の投稿をみるが、まこと確かに笑っているように見える。

「見える」であって、本当に笑っているという確信はもてない。「犬が笑うというのは本当なのか?」いろいろ当たってみたが、あくまでも判断による、主観によるというものらしい。ご機嫌な表情であるのは誰にもわかるが、人間のするところの「笑う」という定義でいうなら、犬は笑わない。ネコが喋るという人もいるが、それも同等の思い込みであろう。

喋るというのは、言葉を知ってるがゆえの行為だから、仮にネコがまんまといっても、その音を出せば飼い主が喜んで餌をくれるという、音に対する条件反射を学習したのであろう。もし、「ば~か」といっても餌はくれないが、「まんま」といえば餌をくれるなら、バカネコでないなら「まんま」というだろう。赤ちゃんが喋ったと喜ぶ親もいるが、アレも模倣である。


言葉は模倣で意味を覚えるが、模倣だけで意味を覚えないのがオウムや九官鳥である。こどもはどんどん言葉を覚えて成長していく。言葉を多く覚えるのが成長ではなく、成長するから言葉を多く覚えるのだ。この論理でいうと、知識をたくさん覚え、算数の問題をたくさん解くから賢いのではなく、賢い子であるがゆえに多くの知識を知り、勉強も得意となる。

これを勘違いして、せっせと知識をたくさん与えて、うちの子は賢いというのは、それを付け焼刃という。世の中には学問をやってもまったく意味のない人間もいる。学問は、それをするに相応しい人間の領域である。運動能力のない人間に無理やりスポーツをやらせることはしないが、バカに必死で勉強させようとする親が、バカなのだと思うが、どうだろうか。

どんなバカでもある程度仕込めば、ある程度にはなる。そのある程度になる事が昨今は必要のない時代になった。大学を出ただけで優秀と思われた30~40年前とは違うのだ。今の時代、少々の秀才は必要とされないのを知らない親は多い。少し前なら、大学は二極化と言われ、二極化の時代が長らく続いたが、いまは三極化の時代である。これからはさらにそうなるだろう。

三極化とは、①入るのが難しい大学、②一定の基準を満たせば入れる大学、③実質無試験で誰でも入れる大学ということ。全部の大学が試験を行う競争選抜制の時代はもうはや役割を終えた。早い段階に三極性に移行した方が、受験生の負担も少なくなるが、大学のエゴがそれを押し留めている。どの大学とていい学生を採りたいだろうから、自らは切り下げを提案しない。

イメージ 6大学三極化は、なし崩しで二極化を進むよりはるかにいい。なぜなら、中核の大学群は、資格選抜制によって一定の水準はキープされる。高校中退者にも門戸が開かれることとなる。受験のために即席の学力を予備校でつけ、レベルの高い大学に入る輩は少なくないのは、そういう大学に行けば将来が約束された感じを抱くからであろうが、そんなのはもはや幻想に近い。

ソニーやシャープなどの家電業界も苦境に喘ぎ人員を減らしだが、「良い大学を出た人は会社に残って下さい」などない。早期退職者は本人が希望すれば誰でもO.K、大学に有利・不利もない。シャープは9月末に3200人以上が希望退職したが、中でも若手社員の離職が止まらないという。会社に見切りをつけても辞められない中堅社員に比べて若手は身軽である。

勉学よりもコミュニケーション力やマネージメント力に長けたものが、ファーストリテイリングやダイソーなど有望企業で出世が見込める可能性が高いのでは?そういった資質は学問で身につくものではないし、勉強しか出来ない人間はそれこそ箸にも棒にもかからない。女遊びに長けた人間の方がずっと営業手腕を発揮する能力や洞察力を身につけていよう。

今後、大学は現実の社会ニーズに合わせたカリキュラム作りに精をだすであろう。企業と学生ニーズは一致をみるので、そのニーズに対応した大学は人気が出る。かつて日本の教育が求めたものは1億秀才社会だったのか。天才もバカもいなくていいが、みんなが秀才というラインを求めたのが日本型教育だった。賢い子は公立、バカは私立高校という時代もあった。

「うかうかしてたら県立高校入れないぞ!」という脅しも利く時代であったが、今はもうどこかの公立高校には必ず入れるし、むしろ私立に行く方が大変だったりする。だからか、秀才は相変わらず秀才であるが、だらけた子も増えた。勉強さえやっていれば何とかなるイメージはあったが、こんにちでは勉強しかできない子は東大出てもニートの可能性がある。

つまり、そこそこの秀才は必要とされない現代社会の反映である。少数の天才的秀才と、その他大勢はズルしない程度に働いてくれればいいという、そんな産業構造に進んでいる。中学、高校からセックス三昧の子も少なくなく、それは学校と家庭と規制や縛りが緩んだこともあるが、携帯や出会い系の社会情勢もあろう。いずれにしても難義な時代になったものよ。

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中学生も高校生もオトナ顔負けの遊びをするなら、小学生くらいが本当の子どもに見えてしまうのも無理からぬこと。子どもたちを見て我が心が洗われるのは、真に小学生である。この子達の未来は分らないが、子どもたちの将来にもっとも大きな影響を及ぼすのは、何といっても親であろうか。親は大変なんだなと…、無垢な小学生を見ながら感じさせられた。

高2で自殺した野村陽子さんの死を予感する教師はいなかったろう。親も同様である。『あなたがこどもだったころ』(河合隼雄著:光村図書出版)に登場する10人の中の一人、元京大名誉教授日高敏隆の子ども時代の逸話がある。彼は小学生の校風が合わず登校拒否になる。懐にナイフをしのばせ自殺を考えていたという。そんな彼の親のところに学級担任が尋ねてくる。

担任教師は親と日高少年の前で、「君は自殺をしようと考えていないか?」と日高に言った。驚く親に担任は言った。「昆虫の勉強がしたい日高君に、軍国主義色が強い今の学校は彼にあいません。ぜひ、転校させてあげて下さい」。担任教師は転校先の校名をあげて親に進言した。日高少年はすぐに転校し、彼の個性は見事に開花、成長をしていった。

時代は違うが、軍国主義体制を美化する時代に、自殺を予見する担任教師の洞察は凄い。東大、京大に何人入学させるか、受験主義体制の有名高校も、「体制」という点に置いて変わらない。そんな中で、個々の個性を見極め、「君はここの学校には合わない。転校した方がいい」と生徒や親に進言する教師はいないな。なぜなら、彼ら自身が体制の犠牲者である。

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こども ③

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最近ブームのアドラー心理学。彼はこのように述べている。「新生児の最初の行為である"母の胸から乳を飲む"という行為は、協同作業であり、母親にとっても子どもにとっても同様、こころよいものである」。精神科医のビヴァン・ブラウンはいう。「あきらかに母親とは、子どもがこの世でいちばん最初にかかわりをもつ人であり、当然、そうであるべきだ。

彼女こそ最初の"個人的"関係であり、最初の"社会的"関係であり、最初の"感覚的"関係である…」。幼児の世話とは、まずその要求を満たすことであろう。そのように世話をすることが人間の社会のはじまりであり、社会集団の参加を準備するものである。成長とともに子どもは社会化するが、それは充足感と同時に、挫折感や戸惑いを体験するということだろう。

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いぞれにしても人間は社会的動物である。子どもの成長過程で彼らから社会性を引き出すこと、自由と依存の関係や社会との絆、結びつきを教育したり、自己体験したり、それこそ人が全生涯にわたって持ち続けるものであるなら、そのことにおいて人は成長・発達するよう定められている。親なくして子は存在しないが、「親がなくても子は育つ」というのは正しい。

「捨て子」というのを最近聞かない。自分たちが子どものころは、「捨て子」は子ども同士の罵り言葉であったくらいに、小学生児童に認識はあった。もっとも近年は「捨て子」という言葉マスコミでは差別用語に当たるとし、「赤ちゃん置き去り」と言い換えられている。今は死語になっているが、問題なのは中国で、年間10万人の捨て子が発生しているという。

これに対処するために中国では2011年6月に、河北省石家荘市に国内初の、「赤ちゃんポスト」が設けられた。その後も、江蘇省、陝西省、貴州省、福建省、内モンゴル自治区、黒竜江省、広東省などに相次いで試行的に設置されている。ただし、広東省広州市の「赤ちゃんポスト」では、運営を始めてわずか50日あまりで、大量の嬰児が収容されていたという。

保護スペースが限定されるなか、運営休止に追い込まれる異常事態も発生した。捨て子の多くが「脳性マヒ」を抱えていた。中国において「赤ちゃんポスト」に収容された嬰児、幼児は、全体の99%が身体や機能に障害を持っていたという。経済的理由での捨て子なら同情もあろうが、先天性異常児を捨てる中国は、毎年80万~120万人と、障害児の誕生比率が高い。

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「親がなくとも子は育つ」という意識が、「捨て子」を助長するのかの断定は出来かねるが、近年は生活苦からの「捨て子」はなくなっても、若い母親が幼児を道連れにする無理心中は増えているように感じてしまう。こちらも生活苦とは無縁であるが、子を思うあまりに殺してしまうという純粋な母性愛は存在するのか?近年、「母性本能」に新たな定義がなされた。

かつてこの国では、母親の愛情は崇高であり、女性は子どもを産みさえすれば、誰でも立派な母親になれるというように、母性に対する偶像的信頼があった。たまにそれとは異なる母親に遭遇すると「精神異常」、「イカレテル」、「普通じゃない」としたものだが、「母性本能」とは、女なら誰でも子を産み育てることに無上の喜びを感じるというものではない。

すべてのことを子に最優先させ、自らを犠牲にしてでも子を守る、誤った「母性本能」に区切りをつける時代にあるという。母性本能についての様々な研究結果を交え、どうやら「女性に生まれつきの母性本能はない」ということは、数々の実験で証明されてきている。しかも200年前から取り沙汰されていたという。動物の本能習性を人間に勝手に当て込んだのだろう。

アルノルト・ゲーレン、岸田秀らの提唱する「人間本能破壊説」は、生誕以降に難解な非本能習性的な作業(学習・仕事・言葉)を強いられることで明らかだが、母性本能と俗に言われる行動パターンも先天的なものではなく「後天的に、社会から刷り込まれた思い込み」と考える方が適当である。これらは、「母性欠如」に悩む多くの女性に対する朗報であろう。

イメージ 3母親の子どもへの愛情は、どんな子どもであれ無条件に愛する、というような普遍的なものではなく、母親を取り巻く文化や母親が育ってきた環境などに大きく左右される、ということである。人間においての「…本能」という言葉は、すべて疑ってかかった方がいい。大概が社会や、文化や、特定階層に都合よく捏造された言葉であったりする。では三大本能は?食欲・睡眠欲・性欲を人間の三大本能とするのは間違い、性欲は種族保存本能とすべきとの論もある。であるなら、生殖以外の性行動を説明できない。かりにも「種族保存本能」というのは、現代ではあらゆる生物種において否定されている。その理由として、異性への愛情、性欲、子供への愛情といった情動は、種族維持目的のために行わないのが自明である。

種族保存したいから恋愛したりするのではない大きな理由のひとつに、同性愛を指摘できる。ケツに射精して子どもができるハズがなかろう。人が人を好きになる理由は、種族保存とは別の理由(要素)と考えるのが種族保存本能から脱却した思考である。近年、環境ホルモンのせいなのか、若くして性欲のない、あるいは性欲減退した若者が増えているとのデータがある。

肉体的な性的興奮よりも、精神的な充足感を高める意味で、お互いの肌に触れあったりはあってもいいが、双方が同質性なら問題はない。方ややりたい、方や拒否では折り合いがつかない。多様なパターンは否定しないが、倒錯愛は相性がネックになる。肉体的性欲、精神的性欲を区別できるのかどうかについては、「心身二元論」にたてば可能であろう。

が、「魂なんてものは、ビールやピーナッツやラーメンでできているんだ」という寺山修司の言葉に共感を抱く自分にとって信憑性がない。勃たなくなったおじいちゃんが言うなら大いに理解はできる。人は自分の都合によって考えを変えて行くものだ。「種族保存本能」が恋愛の要件かはともかく、男と女がいれば「本能」の有無に関わらず子どもはできる。

「種族保存本能」のせいで、「できちゃった婚しました」などというアホはいないだろうが、とかく言葉は心を隠すもの。子どもができたという事実の裏には、人それぞれの真実があるのだろう。子どもにとってやるせなく、声を大にして言いたいことは、「子どもは親の所有物でない」こと。そのように思うことだけで、毒親のさまざまな行動が理解できる。

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分らないのは毒親には、自身が子ども時代がなかったと言わんばかりの傲慢性だ。我々を含むすべてのオトナのなかには、過ぎ去った一時期のものとしてではなく、心のなかに継続する一面として"子ども"が存在している。だからこそ、オトナの都合や親の傲慢を戒められる部分もあるわけだ。無力で我がままで要求の多い子どもを扱わねばならないオトナである。

そういうオトナ自身が子どものように振舞わないとするなら、本当の子どもの資質を引き出すことはできないであろう。「自分は子どもである」と言うオトナは、子ども心をしかと堅持・維持しているオトナであろう。教育も大事だが、共育が評価されるのはその点であろう。親が子どもを支配するタテの関係にあっては、「親は偉い、子どもは黙って従え」となる。

オトナになってこれほど便利で楽で都合のいいことはないだろうが、子どもは親の意見を押し付けられ、自分の考えなど出せる余地もなく、出したところで否定されるなら、自身のもてない子どもをつくることになる。アドラー心理学で用意されてるのは、タテの関係を捨てたヨコの人間関係である。人は互いに尊敬しあい、協力し合うという大切さである。

それこそが「互いを生かし合う」、「認め合う」という、共同体感覚。親子が傷つけあうタテの関係を、協力しあう関係にしていけば、親も子も互いが成長していくだろう。子どもに教えられるという発見をできる親は、子どもに健康な心を作っていく。「親のいう事を聞かない子」が、親の共通語だが、「親のいう事を聞きすぎる子」の方が、人として問題を抱えている。

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子どもを隷属させて満足する親を持つ子どもは、間違いなく問題を抱えているが、親に反抗する子どもの方が「問題児」といわれる滑稽さ。「そんなこというけど、親を親とも思わない子どもは怖いよ」という親にはもはや同情するしかない。子どもが怖いと言い出す親に付ける薬ってあるのだろうか?すべての種を撒いたのはだれであろう?それしか言う事ない。

「後の祭り」とは、時機を逸したこと。手遅れでむだなこと。の意味で、祭が終った後に、山鉾出してもしょうがない、から取られた。親子はその年齢的な開き、製造者としての自負から、傲慢になるが、自分が思うに親としてこれほどの傲慢はないといえるのが無理心中である。昨年6月14日、千葉県八千代市であった無理心中は、筆舌に尽くしがたい無残さである。

母(35)が、7歳の長男、6歳の長女、2歳の次男を14階のマンションから一人づつ落としたという。近所の人は子どもの、「イヤだ、イヤだ」という声を聞いおり、その直後に2度大きな衝突音を聞いたという。母親の子どもへの自己所有物意識。「わたしも死ぬんだから、あなたたちもさっさと落ちなさい」と、突き落とす母に、なんの罪の意識があるだろう?

母子心中の理由を自分なりに考えるなら、①可愛いから手放したくない、②母親がいない世において置きたくない、③一人で死ぬのは淋しいから、せめて愛する子たちと、④自分の死と共にしたいという共感を抱かせたい(といっても、無理やり抱かせようとするのだが)。定職につかない46歳の息子の将来を悲観して無理心中を図った親もいた。

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◎2014年2月17日、奈良市中登美ケ丘の団地の一室で、母親(69)と長男(46)の遺体が見つかった事件で、奈良県警奈良西署などは、母親が長男を殺害して自殺した無理心中と断定した。母親は、自宅で定職に就かない長男の将来を悲観し、の背中や腹、胸を包丁で数回刺し、失血死させた。母親はその後、包丁で自分の腹部を2回刺して自殺したとみられている。

◎2015年3月25日、神奈川県のマンション敷地内で25日、女性と女児が倒れているのを住人が発見。2人は母子とみられ、搬送先の病院で死亡が確認された。県警は飛び降りて無理心中を図った可能性が高いとみて調べている。

◎同年4月4日、千葉県船橋市で、38歳の母親と1歳の双子の娘の計3人が死亡した。敷地内を通った男性から「女性と赤ちゃんが倒れている」と通報があった。警察は、母親が無理心中をはかって上層階から飛び降りたものとみている

◎同年5月8日、東京都目黒区のマンションで8日、女児と母親が倒れているのが見つかった女児は間もなく死亡し、母親も意識不明の重体。警視庁はマンションから飛び降り、無理心中を図った可能性があるとみている。

◎同年5月15日、愛知県一宮市今伊勢町馬寄のマンションの一室で、この家に住む母子5人が死亡しているのを警察官が見つけた。現場の状況から、県警は無理心中を図った可能性が高いとみて調べている。

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◎同年6月13日、岐阜県恵那市の阿木川ダムで乳児が湖面に浮いているのを、釣りをしていた男性が見つけて110番した。乳児は同県中津川市の男性会社員(33)の生後4カ月の長女。ダムから約800メートル南にある公園で、母親(24)の乗用車が見つかった。無理心中の可能性があるとみて母親の行方を捜している。車内には「ごめんなさい」との趣旨が書かれたメモが残されていた。

◎同年6月28日、秋田県北秋田市の住宅に住む男性から「風呂場で姉が倒れている」と110番通報があった。女性は同居する千葉友紀子さん(41)で、間もなく死亡が確認された。友紀子さんの首にはひもで絞められたような痕があった。一緒に暮らす母親(66)が「娘を殺した。自分も死のうと思った」などと男性に話しており、県警は心中目的で娘を殺した可能性があるとみている。

◎同年8月4日、仙台市若林区のアパートで、帰宅した会社員の男性(41)から、「家族が意識のない状態で倒れている」と110番があった。駆け付けた宮城県警仙台南署員が寝室で男性の妻(41)と小学5年の長女(10)、長男(3)を発見、その場で死亡が確認された。同署は無理心中の可能性もあるとみて調べている。

「親がなくとも子は育つ」はなんと理性的か。産みの親がいなくとも、子どもはまわりの人たちの暖かな心づかいと、 自らの生きる力で育つ。子どもが可愛いから死の道連れに…など言語道断。「いい加減にしろよ、お前がいなくたって子どもはちゃんと成長し、オトナになる。死にたきゃ勝手に一人で死ね!」。無理心中を強行する母親に言っておきたい!

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こども ④

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「子」は親子の「子」で、その場合は血のつながりのある意味での「子」をいう。幼少年期の「子ども」と、親子の「子」の区別はある。「子ども」も「子供」も同じ意味だが、「こ」+「ども」の組み合わせの文字で、「ども」は、「子ら」、「子たち」の「ら」、「たち」と同じ意味の複数を表す接尾辞である。「ものども準備はいいか」、「ものども出あえ~」などに使われる。

「子ども」と、「子供」の表記でどちらが多いかといえば、圧倒的に、「子ども」ではないか。本ブログに、「こども」のことをたくさん書いているが、「子ども」表記が多く、然したる理由は特にない。昭和20~30年代頃にある人が、「子供」の「供」は、「お供」の「供」で付属物の扱いのようだ。「子どもは親の所有物ではない」と、「子ども」表記を提唱した。

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その「ある人」とは、女性運動家で、教育評論家の羽仁説子である。夫は元参議院議員の羽仁五郎、息子は映画監督の羽仁進、娘は音楽教育評論家の羽仁協子である。よって、「子供」は差別表現だなどと権威的にこじつけたようだ。「ども」、「供」は単に複数形を表す「ドモ」であり、「親のお供という意味で供の字を宛てられた」という証拠は、見つかっていない。

「子ども」も「子供」も意味は同じでどちらも正しく、現在は交ぜ書きが浸透している。文科省は2013年6月より、公用文中の「子ども」表記を、「子供」に統一したが、「子ども」表記の柔らかさに対する好感もあってか、混用されている。丸谷才一は著書『桜もさよならも日本語』の中で、「想像を想ぞうと書くのはおかしい、だから子どもは子供が正しい」とした意見を出す。

「タカが子供、されど子ども」であるが、そんなことはさて置き、「子ども」といえば人はどのようなことを連想するだろうか。自分は、「無邪気」である。「無邪気」とは、「邪気」が無いこと。「邪気」とは人に害を与えようとする心。悪意ともいう。他にも別の意味で、"病気を起こす悪い気"、"物の怪(け)"の意味もある。子どもが無邪気なのは悪意がないからだ。

なぜ、子どもに悪意がないのか。なぜ、親は子どもに悪意を持ってしまうのか?子どもに悪意がない理由は、それは子どもだからである。親が子どもに悪意を持つ理由は、オトナだからである。「それって答えになっていないのでは?」と思う人もあろうが、説明するより理由を知りたいなら、子どもをじっと観察するといい。公園や学校帰りの子どもをじっと見るとよく分かる。

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児童心理学や精神分析など、知識として頭で子ども理解するよりも、子どもの無邪気さは見て体験するほうがいい。子どもはなぜイタズラをするのか?そのイタズラには悪気もないから、罪もない。だから子どもは罪人ではない。壺井栄の、『二十四の瞳』で、子どもがイタズラに作った落とし穴に大石先生が落ちて骨折する。どうして子どもを責められようか?

イタズラをする子は悪い子と言われた。イラズラをしない子は良い子と言われた。それは本当なのか?自分はイタズラ大好き少年だったから、悪い子と言われた。悪い子と言われたが、様々な本から知識を蓄えていたので、「頭がいいのに悪い子」という言われ方だった。普通、イタズラ小僧は頭が悪い子らしいが、大人しい、いい子は退屈でしょうがなかった。

だから自分に素直でいたらイタズラが面白いと気づいたのだった。大人しいいい子の優等少年という、そんな肩書きなんかクソくらえ、屁でもくらえであった。「いい子」、「良い子」と世間で言われたい子どももいたのだろうが、そんな風に思われたいなどさらさらなかった。人に媚びないませたガキだった。反逆児的感性は、おそらく母親とのバトルから生まれたと考える。

母親との開戦は小学3年生から始まり、5~6年生辺りから度を増した。話を戻すが、イタズラっ子は世間でいう、本当に悪い子なのだろうか?「大人しい子」というのは、「大人らしい子」を縮めたもので、「大人らしい」=「手のかからない」との意味である。オトナの手を煩わさないということだから「いい子」というが、それを言い換えると便利だいうこと。

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大人しい子は山ほど見たが、取立て何もせず、お行儀がよい大人しい子を、いい子だなど思ったことがないし憧れもない。むしろ、そんな子になどなりたくなかった。大人しくしてるなんか、こんな退屈なことはないだろうと、つい思ってしまう。さらにいうと、イタズらっ子に比べていい子というのは、行動力のない子、保守的で他人の目を意識した子ではないのか?

世間の、「いい子、悪い子」という定義、評価は子どもを将来的に良い大人にするためというより、とりあえず"手のかからない子"を求めているのではないのか?世の中を変革するような人間が、何もしないでジッとしたいい子であったためしがない。「憎まれっ子世にはばかる」とは、人から憎まれるような人間のほうが、かえって世間で威勢を奮うとしたもの。

子どもについてイギリスの小説家で詩人、優れた児童文学作家であるウォルター・ジョン・デ・ラ・メアは、1902年に童謡詩の処女詩集『幼年の歌』をウォルター・ラメル(Walter Ramal)名義で出版し、一部に注目された。彼の詩文集『ある早朝』に以下の詩がある。いささか抽象的ではあるが、象徴的な言葉を発している。その意味は概ね理解できるであろう。


 "こども"とは 近未来の呼称である。
 これこそが、
 またこれのみが、
 人類の王国を約束する。

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子どもとは何であるか?において、さまざま浮かぶなかにラメルのこの詩がある。子どもとは自分子ども経験でいうと、「なぜ」、「なぜなの?」、「何のために?」、「どうして?」などと際限なく質問を発する生き物。発する対象者がない場合は、心の中で発する。子どもは、すべてのものについての、すべてを知りたいのだ。それを簡単な言葉で、「好奇心」という。

何時間ものあいだ、とても単純なことに向き合うこともできるし、単調なおもちゃにさえ夢中になることもできる。オトナなら誰も見向きもしない石ころや、棒きれのような何の特徴も価値もないものにさえ価値を与え、個性や歴史だって与えることができるし、また、手の込んだ筋書きさえ想像し、何日も、時には何ヶ月ものあいだ、冒険話をつくってしまうのだ。

家康や秀吉や義経や真田幸村について、オトナは歴史書を読み、正しい知識を持ち合わせようとするが、子どもにはそんなことなどどうでもいい。彼らには彼らなりの牛若丸や猿飛佐助がいるのだから…。見たとおりを口にし、見ない事は想像する。それはオトナも同じであるが、彼らの遊びはいつまで続くし、時にはなりゆきによって遊びの様相を変えたりもする。

何にも縛られない、自由な柔軟な、天真爛漫さこそが子どもである。知り得たことはスポンジのように知識として吸収していく。正しいことも、間違ったことも、そんなことはお構いなくである。オトナは、新しい情報を引き出すような質問を余りしなくなるが、それは見栄や羞恥が災いすることもある。「そんなことも知らないの?」と、言われる(思われる)のが嫌なのだ。

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子どもにはそれがない。だから、知らないことをオトナのように知ったかぶりなどしない。知らないことは知らないのだから、素直に知りたいと思う。無知をさらけだしたくないオトナの悲哀がない。また、オトナは単純な遊びにも満足しない。オトナたちのレジャーや娯楽はお金がかかるものが多いが、子どもにそれはないし、その理由はお金がないからか?

いや、本当はそうではないが、近年の子どもは高価なオモチャをもつようになった。プレステだの3DSだの、おまけにソフトも効果である。さらには携帯というのも広義のオモチャであろう。オトナのオモチャと子どものオモチャの差が無くなった時代である。つまり、今の子どもは原始的なオモチャでは、満足しなくなってしまっている。その事は幸なのか、不幸なのか…

質問も回答も無意味、すべては時代の中のこと。オトナはやたら、「昔はこうだった、こんな風だった」などといいたがるが、そんなことを言っても始まらない。昔、子どもだったオトナが今の時代に子どもだったら、今の時代に合致した子どもになるに決まっている。よって分析的に、「昔はこうだった」ならいいが、「昔はよかった、今はダメ」などの比較に何の意味もない。

犬や猿はいつの時代にあっても犬や猿だが、それは個体も精神も犬であり、猿であろう。それに比して人間はどうか?人間という機能や個体においては、数万年単位の進化は別にして形状は変わらないのは、犬や猿と同様だが、人間の比率というは精神が大きな影響を及ぼす。理念を持って生きる犬や猿はいるのだろうか?おそらくそれを知る手段が見当たらない。

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知能の訓練やテストはできるが、知識や知能や経験の集積からなる「理念」、「信念」を人間以外の動物に求めるのは無理があろう。人の人相ほどの違いはないが、犬や猿にも人相(犬相?猿相?)はあるし、行動上の特徴にも差異はある。しかしそれらは人間の行動的特徴に比べるとビビたるものであろう。人間の行動的特徴は、身体的特徴よりもはるかに重要だ。

オーストリアの動物学者コンラート・ローレンツは、近代動物行動学を確立した人物で、1973年ノーベル医学生理学賞を受けた。1950年著作で、"人類進化の歴史において身体的特徴より行動上の特徴がはるかに重要」とした。動物の行動は種を維持するためにあると考えていたが、その後、社会生物学の発展により動物の行動は種のためより、自身のためとの解釈した。

ローレンツの変貌は、彼がドイツの社会学者アルノルト・ゲーレンの影響を強く受けたからである。ゲーレンはすでに1940年に、"人類の著しい特性は、一生のあいだ、発達しつづけること"とした。つまり、人類は、いかなる環境に出会おうとも、必要に応じて変化する能力を保持している"ということになり、この多面性が人類の特異な点とされる。

ローレンツはこれらの性質が、身体的なものだけに限らず、行動学上においてもそうだとした。協調したり、阻害されたり、朱に染められて赤くなったり、染まらずに孤立したり、主導したり、盲従したりと、あらゆる環境によってあらゆる人間のパターンをみる。乳幼児期にさえ、人見知りする子、愛想のいい子という特徴を我々は知るが、この差は何?どのように生まれた?

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乳幼児期の人見知りが、オトナになるまで影響し続けるかといえばそうではない。人見知り、人嫌い、話ベタ、を克服した人は多い。これも、人間は一生のあいだ発達し続けるという事を現している。いうまでもない、発達させるためには学習や勉強が必要であろう。ピアニストやギタリストの手指の俊敏性や、アスリートの運動能力も学習(練習)の賜である。

短所・欠点を修整した人、長所をどんどんと伸ばした人、何もしないで普通の人、大きく3タイプに分かれるが、人間は長所を伸ばすほうがよいとされている。その理由として、短所は修整は出来たとしても、それが長所にまでならない。であるなら、長所はどこまで伸ばせるのかという発展性がある。勉強に不向きな子どもを無理やり勉強させる親って、○○か?

100人中ビリが80番になった、50番になったと喜ぶ親の陰で、やりたいことを犠牲にした子どもの多きかな。生れ落ちたときから、「生」はその子のものなのに、親に支配され、親の道を歩まされ、それが灘高⇒東大であっても幸せなのだろうか?と自分は思うからだが、「親に敷かれたレールを歩いたとして、それで勝ち組なら幸せに決まってるだろ」と、思う人間もいる。

親に自由を制限され、抑止され、ついには奪われた自分が、国王を追放するために動乱や革命を起こした如き戦いを挑み、勝ち得た「自由」というものに対する愛着や拘りは強烈である。何かを子どもに仕込み、それで何かに染めて、その何かが周囲より秀でたものであったとしても、子どもの自由を奪った親は懺悔をすべきと思っている。「結果よければ…」というが。

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「子どもの自由を奪う権利は親にはない」と思っている。だから世界的なバイオリニストになった五嶋みどりには同情的で、彼女の親がどのように一生懸命であったとしても共感はない。灘高⇒東大3人の母親についても同じこと。これらはあくまで自分の好き・嫌いであり、自分の体験的な感性から芽生えたものである。子がある時期親の支配下にあるのは認める。

事実でもある。世に、「個人」という実態は真にあり得るのだろうか、との疑問は日々沸いており、長らく持ちつつ問題だ。すべての人間は、自分を社会化してくれる集団に結合している。社会は個人の集合体というが、その場合の、「個人」というのは、人口動態調査などの「個人」と呼ばれる物体の定義であって、よって、「個々」と言った方が正確かも知れない。

物理的にも生理的にも人間は孤立したものとはいえない。よほどの異常者でさえ、他の人々なしにはやっていけないだろう。どこにも属さない、何にも依存しない、「絶対個人」などというのはあり得ない。と、このような考えを押し出したり、口に出すなどすると、普通・一般的な会話はできないから、社会人としての社会通念、社会常識で十分に会話は足りている。

もし、絶対的個人を標榜する人間がいるなら、それは無秩序な人間であろう。彼こそ、「自分こそ全体であり、この世の自分以外は部分である」と考える。こういう人間とは誰も友だちになりたくないばかりか、付き合うことさえ躊躇われる。したがって、斯くの人間は孤立し、より絶対的個人に近づいていくことになる。いわゆる山にこもった仙人のような状態。

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人に絶対的に依存しないというのは、乗り物には乗らない、食事もすべて自給自足であらねばならず、そんなことは絶対的にあり得ない。人間は人との関係という点で考えるべきもので、それがひいては人類への連帯の道を開く。「人は集団のために生きる」のか、「集団はひとえに個人のためのもの」か、昨夜のTPP交渉妥結においても考えるべくことであった。

こども ⑤

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 荒れ狂う波に 岸に打ち上げられた 水夫のように
 人の幼な子は横たわる 大地に裸のままで口もきけず
 生きるために必要なあらゆる助けを求めて まずは自然が母の子宮から
 生みの苦しみによって 彼を光の縁に押し出したのだ
 そして彼は 憐れな泣き声で部屋を満たす
 そのような惨めさを経ることが この世の定めであるかのように


これは共和制ローマ期の詩人・哲学者でもあったルクレティウス(前99年頃~前55年頃)著『事物の本性』の中の美しい詩である。彼は万物の本質について思考し、ヒトの幼児が長いあいだ無力であることについて述べている。ヒトの幼児の無力さについて記された西欧での最初の記録は、ギリシャの哲学者、ミレトスのアナクシマンドロス(前611年~前547年)のようだ。

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哲学者と言うのは、人が当たり前にして見向きもしないことに疑問を抱き、思考する商売である。アナクシマンドロスは、ヒトだけが長い授乳期間を必要とすることに気づいていた。ヒトが元から現在のような姿であったなら、おそらく生きながらえることはできなかったと、人類の起源について各部族に伝わるトーテミズムを否定し、人間を他の動物から切り離して考えた。

トーテミズムとは、自分たちの祖先が他の生き物であったとする考え方で、祖先となった生き物をトーテムと呼ぶ。この考えは世界中にあり、モンゴル人が雄狼と雌鹿の間から生まれたと言う話は有名。宮城県南部や北上川沿いの村の伝承として、ある娘が外を歩いていると白鳥が飛来し空から卵を落とした。それを口にいれた娘が子どもを産んで、自分たちの祖先となったという。

このような考えを最初に否定したのがアナクシマンドロスだった。ヒトは発達のかなり早い段階から独力でやっていけるような、他のある種の生物から生まれたにちがいない。アナクシマンドロスは、ヒトは魚の一種として生じ、鮫のように育てられ、次第にヒトに変形していったとした。この、"魚人から地上人"への変態が、ゆっくりした形態変化説のはじめての記録となる。

これはヒトの個体発生ついて語ったものだが、ヒトに限らず哺乳類は魚類からの進化の過程を、母親の胎内で体験する。アナクシマンドロスは医学にも通じていたことで、そのことを知っていたのだろう。それにしても胎児を魚に、胎生を鮫にたとえるところは、港町ミレトスの出身らしい。アナクシマンドロスという哲人は子どもが大好きで、歌も上手かったという。

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「子どもたちのためにもっと歌を上手く歌わねば…」と言ったと伝えられている。ルクレティウスもおそらく子どもが好きではなかったのではないか。彼はこのような言葉を残している。「そして子どもらはその魅力でやすやすと親たちの高慢な気位を挫いてしまった。そこで、周りにいる者たちも暴力を加えることもなく、被ることもないことを願って友情の絆に加わり初めた。

そして子どもらは女、子どもに優しくせよと要求したろう。すべての人が、弱い者を憐れむべきであることを、泣き声としぐさで、それとなく訴ええながらどこででも調和が保たれたわけではないが、大方のところで、彼らの契約は忠実に守られた。でなければ、人間という種の全体が、ごく初期に絶滅したろう。あるいは、人類の性質を維持したままここまで繁栄することはなかっただろう」

こんにちの文明化された世界では誰も注意すら払わなくなった奥深い真実をついている。子どもは人類の人間性の発達に大きな役割を果たしていることが、いかに見過ごされてきたかであろう。ここまで言えば、「子どもは、人類の王国を約束する」と言ったラメルの言葉が的を得る。ある民族の値打ちは、子どもの目をとおして見た値打ちにあるといわれているくらいだ。

子どもの本質を見抜くこと、知ること、これはヒトが健全さを保つ上で重要であり、このことこそ、人類の生存がかかっているという重要な役割を担っている。子どもは誰のものか、といえば親のものと答える人は少なからずいよう。製造者の驕りであろうが、子どもは社会のもの、国家のものと答える人は親として優秀であろう。さらにいうなら、子どもは子ども自身のものである。

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はるか遠き時代を遡ってみて、無言語社会、無文字社会の中にあっても子どもは大切にされてきた。先史時代の記録はないが、我々祖先が子どもを大事にしてきたのは、純粋なる本能性のたまものに思える。そうして文明が発達し、子どもの価値や質が下がったのは、オトナが、人間が、文明病に侵されているからであり、これが現代社会の特徴であり、危惧といえる。

動物の親子の「絆」というものが、子が自立後、巣立ち後にあるだろうか?「絶対」という言葉を拝借してもいいほどに、おそらくない。その理由は、素人考えでいえば、おそらく"必要ない"からであろう。人間は違う。人間の親子は、自立後も途絶えることはあっても、動物のように"まるで他人"のようではない。理由は、おそらく"必要ある"からであろう。それを文化という。

動物に文化はないが、人間社会に文化はある。人種や国ごとに違う文化であるが、なぜ人間社会に文化は生まれたのだろうか?おそらく"必要であった"からであろう。学者にあらずの素人はそのように言っておくのが無難だ。ただ、人間が高度の思考を備えた高等動物である事が要因であるのは猿でも分かる理由であろう。人間の子どもと動物の違いを記した詩人がいる。


 獣と鳥は 共通の定めにしたがう
 雌が子の世話をし 雄が保護する
 やがて 子は追い出され 地と空をさまよう
 本能はそこで立ち止まり 世話も終る
 絆は解かれ それぞれが新たな抱擁を探し求める
 次の愛が実り 同じことが繰り返される
 無力な人の子どもは より長い世話を必要とする
 より長いその世話が より長く続く「絆」をつくる


イメージ 4これはイギリスの詩人アレクサンダー・ポープ(Alexander Pope,1688年5月21日 - 1744年5月30日)の詩である。彼は、生来虚弱で学校教育を受けず、独学で古典に親しみ、幼少の頃から詩作を試みた。学校教育というのは他人の知識の受け売りである。それを施されなかった故にか、事物について根本から思考する習性をホープは持ったのだろう。上の詩にはそれが見える。

彼は、技巧と絶えざる彫琢を旨とする古典主義詩人の典型で、簡潔かつ流麗な詩の形を創案し完成させ、その名句はシェイクスピアに次いでしばしば引用されている。上の詩にある事象は詩が作られた1740年代の前も、あるいは後にあっても、問題についていわれた事実上のことは、ポープの言葉を確認・増幅したに過ぎない。科学の研究は日を追って進み、新たなことも分かった。

確かに人間の乳幼児期間は長い。他の動物に比べて"たまたま長い"のではなく、その長さは進化論的理由が存在するとした哲学者もいる。アメリカの哲学者ジョン・フィスクは、「幼児期が延長されるということは、最終的に生き残れるかどうかが個々の、"学習"にかかっている生物にとっては必要条件であった」と著書『進化論にもとづいた宇宙論の概要』で述べている。

そして、そのためには、必要な情報を蓄えるための大容量の脳が必要であった。同時に、出世時の組織の固定化が、他の生物と比べてより進んでいないことが必要であった。つまり、乳幼児期のような無力期間が長引けば、両親は、ますます長いあいだ子と一緒にいれる。ついにはまだ下の子が保護を必要としている最中に上の子が成熟し、そういう恒常的家族関係から強い結合が生まれる。

人間のありふれた社会生活を進化論的な見地で眺めると、日々の行いの多くのその一つ一つが進化の結果であったとするのは、到底気づかぬことであり、無意識のことでもあるが故に考えさせられる。人間はいかにも人間を知らないということか。ヒトの幼児の発達速度が他の動物に比べてかなり遅いのは、それなりの理由があって、そのように進化をしてきたのである。

アフリカの大平原では水牛やシマウマやキリンなどの出産が、産婆や産科医の立会いなしにあちこちでとうとうと行われている。人間も大平原時代はそうであったのだが、人の手を煩わさない時代であっても動物と人間の大きな違いは、シマウマやキリンの方が、その出世時においては人間よりもはるかに優秀である。彼らは一人でスッくと立ち、数分後には辺りを飛び回る。

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なぜそうなのかは言うまでもない。そうしない事には生存の危機が増すし、進化の過程でいかに早くオトナの個体と同等になる必要が生まれたのだ。胎児を産む人間とはまるで違うし、ヒトのにおける未熟な期間は、単に絶対的に長いだけでなく、一生の長さに対する割合からみても他のいかなる生物に比べて長い。人間の妊娠期間が約10か月であるのを知る人間は多い。

長いといえば長い、短いといえば短い。そんなことよりも、ヒトの胎児の後期に見られる脳の著しい成長速度は異常と言えるほどで、他の器官の成長速度をはるかにしのぐ。男の悩みを面白く表現した友人がいた。「オレのオチンチンは、未成熟で生まれてきたからだが、何で手足や身長と同じように生後に成長しないんかなぁ」と、明るくいうところが彼らしい。

「たしかに…、女性のおっぱいは全員未成熟で生まれ、生後に成長するしな。でも、考えてみたら生まれた赤ちゃんが巨乳だったら、絶対に変だしな。マメ粒でいいんだよ。未成熟のオチンチンとはいうが、乳児の赤い唐辛子にくらべればししとうくらいにはなってるじゃないか、やっぱ成長してるんだよ」と、慰めになったかどうか、奴は慰め無用の屈託ない男だし。

胎児の脳が異常に発達するから、頭骸骨も大きくなり、もしも出産が大幅に遅れたりすれば、ほぼ10cm程度の産道を頭は通過できないし、危険な状態となる。自然分娩が不向きな場合、医師は帝王切開を選択するが、これも人間の英知であろうか。「帝王切開」などという仰々しい言葉に疑問をもって調べたことがあった。確かに語源や意味を知らないとオカシな用語である。

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シーザー(カエサル)が腹を切って生まれたから「帝王切開」という呼称になったと、産婦人科専門書の記述を信じていたが、当時の医学では、腹部を切開して母子ともに健康ということはあり得ない上に、カエサルが長じてから生母アウレリア・コッタに宛てた書簡が存在することから、実際にカエサルが帝王切開で生まれた可能性は極めて低く、和訳のミスという扱い。

もともとは、「sectio caesarea」というラテン語だが、sectiocaesareaも切る、切開する、という意味で、これが翻訳される際に、caesareaをカエサル(ローマの皇帝・ジュリアス・シーザー)と勘違いし、以降帝王切開と呼ばれるようになった。その後、ドイツ語圏に伝わって、「Kaiserschnitt(皇帝の手術)」となり、日本に伝わって「帝王切開」という言葉が生まれた。

王政ローマ時代から、分娩時に妊婦が死亡した場合には埋葬する前に腹部を切開して胎児を取り出す事を定めた、「遺児法 (Lex Caesarea)」と言われる法律があった。その名は「切り取られた者」の意で遺児をカエソ(caeso)あるいはカエサル(caesar)と呼んだことに由来する。その一方で、本家から、「切り取られた者」として分家にカエサル(Caesar)の名を冠することもあった。

人間の出産は難事である。妊娠後期の胎児の急速な脳の成長で頭が大きくなり、加えて直立歩行の結果女性の骨盤は幅広くなる一方で、脊柱下部と仙骨(突起部に腰椎がのっかっている)とのなす角度が、いくぶんわん曲した骨盤を作り出した。このため、胎児の頭は、骨盤の両側に突き出たとげ(坐骨棘)の間を通過しなければならず、分娩時間が長引くこととなった。

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骨盤は胎児をしっかりと保護し、まもる働きがあるが、それゆえに出産時は厄介となる。出産は女性も難事であるが、生まれようとする胎児も実は難事である。そのことから帝王切開で楽に生まれる赤ちゃんは、出産の苦悩を知らないから甘えん坊になるとか、我慢強い子に育たないとか、全般的に虚弱体質になるといわれたりしたが、近年5人に一人が「帝王切開」という。

「(帝王切開は)自分の意思とは関係がないところで、出産が進んで終わるという体験になる。挫折感、がっかりした気持ち、ネガティブな感情を抱いて出産が終わっていることが多いので、周りの人が思っている以上に心が傷ついているのではないかと思う」(東京大学大学院春名めぐみ准教授)。さらに、周囲からの心ない言葉が、帝王切開で出産した女性たちを傷つける。

「楽して産んでいいわね」、「子どもが情緒不安定なのは、帝王切開したからじゃない?」、「女に生まれたからには、自然分娩で産まなきゃ」などと言われた。「昔から、女性は何時間も陣痛に耐え、自然分娩で産み、母乳で育てるというのが普通という多く、(帝王切開は)麻酔を借りた、痛みから逃げたお産と思っている人が、年配の方たちには多いんでしょうね」。

と、『帝王切開の偏見に対するケア』を主催する女性は言う。当たり前だが、子どもは生まれたが故に子どもであるけれども、産むということへの種々の偏見もあるようで、女性というのは、同じ女性でありながら分かり合えるばかりではないようだ。何かにつけて他人と自分の比較が好きな女性には、様々な言葉の暴力を耳にするが、それらの多くは陰口という。

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こども ⑥

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 夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれにさまよう
 青空に残された 私の心は夏模様
 夢が覚め 夜の中 永い冬が窓を閉じて
 呼びかけたままで 夢はつまり 想い出のあとさき
 夏まつり 宵かがり 胸のたかなりにあわせて
 八月は夢花火 私の心は夏模様
 目が覚めて 夢のあと
 長い影が夜にのびて 星屑の空へ
 夢はつまり 想い出のあとさき

陽水の歌詞は難解を越えて異常であろう。異常とはつまり正常でないことだが、正常の定義がこれまた難解であり、異常というのは実は人間性の、"異常"さも含めて、普通であったりする。人間そのものが異常であるなら、人間の異常は正常であろう。「自分は異常でない」と思う人間は、まだまだ異常さを秘めて、出す機会がないだけなのかも知れない。

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「自分はまとも(正常)」と思っている人は、異常さを隠匿しているそのことにさえ気づいてないのかも知れない。少年Aの事件(正確には「神戸児童連続殺傷事件」)の検事調書が公になった時、立花隆は検事調書を掲載した「文藝春秋」誌に前文を寄せた。その表題を、『正常と異常の間』とした。これは彼が検事調書に目を通して感じたままの表題であろう。

「正常」があって「異常」があって、であるなら、その「間」とはなんぞや?例えば、「前」と「後」があってその間を「真ん中」という。「バカ」と「賢い」の間を「普通」と言ったりするが、「普通」とは何だ?この場合、「どちらでもない」、「どちらにも偏らない」場合を、「普通」と読んでいる。高校に普通科というのがあって、商業科、工業科に対して普通科という。

普通科のどこが普通なのか、説明せよといわれるとはた困る。「そんなのは当然だ」、「当たり前だ」という言葉も何を持っていってるか疑わしい。「当然」の基準、「当たり前」の基準は何なのか?その人が今まで生きた中で考えた基準が、「当然」なのだろう。よって、「当然」は人によって異なる。似た言葉で「常識」もある。「普通」もそのようだ。

あるとき小学生高学年だった子どもが、「友だちに家に泊まりに行く」という。「ダメです」と母親が言った。これは自分の考えを代弁してくれているし、だけでなく妻もそれは反対だったようだ。理由は、「先方に迷惑がかかるから…」というもので、何のどういう迷惑がかかるかという詳細な問題ではなく、半ば口実の意味での、「迷惑がかかる」であろう。

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確かに友だちと一緒に布団を並べているだけでも興奮するであろうし、そのいい例が修学旅行や林間学校であった。楽しくて仕方ないから元気のいい男子は枕投げをして遊ぶのだ。女子は輪になってお喋りに花を咲かせる。友人と枕を並べて寝ることの何が楽しいかというなら、率直に言って非日常性という喜びではないか。だから、友だちのところに泊まりたいは分かる。

反対された長女は不満であった。なぜなら友人宅に泊まるなどは、問題なくやっているらしい。長女は、「そんなの普通だよ」といった。父が傍にいるので遠慮がちにいっているのが伝わって来るが、妻は「よそが普通でもウチでは普通じゃない」と言った。「何でウチだけダメなの?」長女は納得しない。「ウチの決まり。よそが普通でも関係ありません」と頑張る妻。

しぶしぶ引き下がったのを見計らって、「よそのダメも、ウチでは普通っていっぱいあるだろ?」と言っておく。実際そうであるし、食事時に子どもは他家の規則や、決まりのアレコレをいろいろ話したりした。友達にも「何でいけないの?ウチではそんなのうるさくないし…」と、そういうものがないとダメだ。あるから、我が家の規則には子どもも従う。

「躾」とは、何でもカンでもダメでは効果がない。時には子どもの視線、味方になる事も必要だ。父親が子どもに味方するのが面白くないという母親は多い。「私が毎日のことをアレコレ言ってるのに、都合のいいときだけでてきて、子どもの味方をする夫が許せない。(イライライラ)」などの不満はよく聞いた。父親の点数稼ぎと思って腹を立てる妻が多い。

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点数稼ぎともいえるのか、妻の小言に意を唱える夫が多いのは事実であろう。そもそも子どもに対する点数稼ぎという発想が侘しいが、こどもにいい顔したい親がいるようだ。そういう時に悪人にされた妻の矛先は当然夫に向けられ、今度は夫婦喧嘩に発展する。喧嘩の仲裁に入ったら、その矛先が仲裁に向けられるのと同じ論理か。仲裁が公平でないとそうなる。

夫婦喧嘩にしろ、普通の喧嘩にしろ、どちらか一方を名指し批判すると、そうなる事は知っておくべきで、喧嘩の仲裁はそこが難しい。どちらの言い分が間違っているかを第三者が聞こうとしても、批判された側は相手の味方をしているとしか思わない。だから、「犬も食わない」とし、食うべきでないのが正しい。一方に加担する仲裁ならしない方がいい。

誰もが自分を基準にして、「オカシイ」とか、「常識がない」とか、「普通」と言ってる。自分は長女と孫の中に入って常に孫の味方をする。味方というより、長女(母親)の言い分が論理的でないから、男の子にそぐわないと思うからで、孫ももう中2となると、母親の小言には聞く耳もたない、それでも小言をいう母親を制止の意味もある。思えば祖父も祖母も自分の味方だった。

味方だったというより、母の言い分は独善的であった。祖父や祖母の言い分の方が理に敵っていた。この世の誰とて母の言ってる事は納得できないと思うだろうが、そこに気づかないところが不憫である。バカが自分で気づかない場合、永久にバカでいるしかない。治療は死ぬしかないと昔の人は言ったものだ。自分の発言がバカであるかないかは、知識を持たないからだ。

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知識とは他人の考えである。それらに触れ、耳を貸そうとしない人間にバカが多いのは自明の理。人が自分の考えや価値観を基準にして、「当然だ」、「普通だ」と言っても、さまざまな選択から最良のものを思考するならともかく、まったく対案の思索なしに唯一何かを「良」とするのは妄信である。トマトに塩をかけて食す人は、砂糖をかける人を普通でないという。

果物の皮のむき方ひとつとっても、自分流が普通だと思っている人は他者の方法に異を唱える。どっちでもいいことをうるさくいう、それが母親であったりするものだが、母親には気づいてない事が多い。事の問題の多くは、自分を基準にして、「そんなことおかしい」とか、「間違っている」などと他人を判断していくこと。実に些細な事から大きな事まで多種多様。

人は色々なことを「当然だ」、「当たり前だ」と言って自分の物差しで他人を計っている。その事自体は、「悪」ではないが、物差しの質が大きく違うことだけは認めなければダメだ。知識や経験がすべてに勝る、理性が感性に勝るという、「絶対」はないが、相対的に思考した場合や、構築された論理には根拠を説明できることが多い。それに比べて感性は独善である。

「自分はこう思う」、「そう思った」、理由はない。直観だ。それが優れてる人は例えば自営業であれ、その感性で成功するであろう。自分で何かをするなら、自分の直観を頼りにやれば言いし、直観の責任もとれるが、全体で物事を動かす場合において、直観は説得力とならない。自分の意見を他人に理解させて、同意を得るためには論拠は必要である。

イメージ 5自治体の長が何かを行う場合、あるいは旧態依然なものを打破して変革を行う場合には、行為の論拠は必要だし、さらにその意義を説明し、賛同を得なければならない。大阪市長の橋下徹氏は、合理主義者でありながら強い問題意識を持って変革を掲げている。「過去の知事とは全く違った」。これが、橋下と対峙したかつての府庁幹部の共通した意見であった。

彼は政治を業とする政治屋ではない。ゆえに利害や既得権とは無縁であり、「政治の素人」であるがゆえに、物事を根本から思考し、そこに沸いた疑問点に一つずつ立ち止まって思考をするから、自らにごまかしがない。自分をごまかさない人間は他人をごまかすことはない。ある幹部の携帯電話には、深夜でさえ橋下の着信記録がびっしりと並んでいた。

問題なく任期を全うするためには、事を荒立てるようなことをせず、労働組合にも気を使い、議会対策を万全に乗りきることが必要だが、橋下氏のように、公開性を旨とする行政手腕は分かりやすく信頼も置ける。タレント時代にカメラの意義と怖さを知る彼は、ほぼすべての会議にテレビカメラを入れる。これは視聴者に抵抗勢力の存在を印象づける効用がある。

さらに彼はこうした手法を最大限に生かした、「交渉術」に長けている。府幹部の一人は「弁護士らしく、最初にふっかけて交渉で譲歩する。しかしもとはゼロのため、最後は少しでも引き出した側の勝ちとなる。とにかく口達者です」と言う。橋下徹はどのようにして出来上がったのだろう。誰にも幼年期、少年期があるように、彼の少年期には興味が尽きない。

イメージ 8陽水の『少年時代』は意味不明だが、「少年時代は何のためにあるのか?」と、こんな質問をされれば困るだろう。「生まれたら乳児、少し成長すると幼児、さらに学童期に入って少年期」、そうではないか?と、無難に答える者もいよう。考えてみるに人間の幼少年期は長い。子犬時代はかわいいワンちゃんもあっというまに成犬。7歳頃から老化は始まるという。

イギリスの生物学者J・Z・ヤング教授は、思春期の前に長い少児期があるのは、若者が大人によって容易に拘束され、教化されやすいということであり、その結果、集団にとっての利益が累積されていくばかりか、攻撃性や非協力性といったものの物理的決定要因のいくつかが、集団から取り除かれていくだろうことを示唆し、このことはとても重要なこととした。

確かに子どもの特徴は、非攻撃的、協力的という行動である。ヒトという動物は怒り、激情し、暴力行為さえ起こすが、それらはある特異な環境条件にたいする反応であって、何もない内的要囲から自ずとあらわれるものではない。しかし、それらが人類進化史の全般で抑えられてきたのは、食物採集を狩猟に委ねていた時代には人類社会は破壊的あり過ぎたからだ。


キューブリックの、『2001年宇宙の旅』の冒頭、人類の祖先であった類人猿が水の在処や餌を求めて争う場面が象徴的に描かれている。そういった荒々しい社会から、協力的な社会を発達させ、それが集団及び個人が生きうる唯一の道であったのだろう。人間の基本は動物同様、自己である。それが協力的な行動を規範にして社会を形成していったことで生き延びてきた。

幼少年期に家庭や外部からの仕込が重要なのはいうまでもない。が、反抗する子のはそれなりの環境要因があったというしかない。無慈悲な親によって幼少期に命を絶たれた子どもは多い。まさに親に殺されるために生まれてきたようなものだから、ヒドイ親である。命を絶たれることはなくとも、性格の荒い、キツイ親によって健全な心を育まれなかった子もいる。

子どもは両親からの恵みであっても、訳あって離別する親も少なくないし、橋下徹も母子家庭であった。昭和44年、東京で生を受けた彼は、母親が苦労して家計を支え、小学5年で妹とともに大阪府吹田市に引っ越し、さらに1年後に大阪市東淀川区に移り住んだ。いずれも、手狭な府営住宅から地元の公立学校に通った。橋下は当時の生活が、「自分の原点」と言う。

「小中学校ともに荒れた学校だった」という東淀川時代のエピソードは、現在の橋下を橋下たらしめた重要な何かがある。小6ですでに身長は170センチ、体重65キロというの体格だった橋下は、それだけでもかなり目立つ存在だった。あげく、「東京出身の転校生」は言葉の問題などでもからかわれやすかった。小学校では転校初日からいきなり同級生に殴られたという。

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そんな中で橋下は、彼らと敵対するでも、手下につくでもなく、彼らの交友関係に自ら飛び込んだ。彼は青少年向けの著書、『どうして君は友だちがいないのか』でこう述べている。「要するに(ドラえもんの)スネ夫のような生き方といえばいいでしょうか、ジャイアンのような強い人とうまくつきあって生きていくのは、悪いことでもずるいことでもありません。」

が、いつまでも、「スネ夫」でいるわけにもいかない。成績も優秀だった中学時代の橋下は、言葉では自分をうまく表現できない、「ワル」たちの「代弁者」として、次第に存在感を増して行く。彼らの怒りや悩みを聞き、時には学校側との交渉の先頭に立つ。放課後の教室で、車座になって橋下の言葉にうなずく生徒たちの姿は、教師の間で、「橋下塾」と呼ばれていた。

中3時の担任教諭だった臼井は、「席替えや文化祭の出し物などでクラスがもめたとき、互いの主張を取り入れて解決するのが橋下だった。論理立ててものを述べる交渉術は当時から卓越しており、教師からみても、こちらが見透かされているような怖さがあった」と言う。立候補の際、地元の自民、公明の支援を取り付けたことについて当時、こう述べていた。

「実行力のない人とつきあっても政治はできない。僕は(元長野県知事の)田中康夫さんのように孤立したくはないんです。」

橋下は選挙中、「母子家庭」を全面に押し出し府民の情に訴えた。母親は躾に厳しく、「妹をいじめるな」、「目上の人を敬え」、「人を傷つけるな」の"3つの約束"を交わしていた。世間体を気にしたり、自分の生き方を押しつけるようなことは決してなかったという。大阪に移った後の中学時代の担任教諭も、「母親は進路についても一切口出ししなかった。

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放任主義に見えて、実は懸命に生きる姿を背中で息子にみせる、そういう方だった」と話す。彼の出身北野高校に合格するためには偏差値70は必要だったが、受験前の橋下は44しかなく、荒れた中学でラグビーを続け、塾にもいかず、「ワル」たちとともに過ごしながら難関を突破した。そんな彼の15歳の春に芽生えた、「自信」は相当なものだったろう…。

こども ⑦

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驕らず、気取らず、率直な言葉に嘘はない、橋下のような人間は友人に向いている。尊敬というと仰々しいが、日本人にあって有能さを感じる一人である。子ども時代に尊敬の対象であった松下幸之助や、野口英夫のようなカリスマ性はないが、昨今の情報化時代においてカリスマ性と言われる、希薄な情報が届かない偉人・賢人は出ないのではないか。

大阪の教育レベルの低下について問われ、橋下はこう述べている。「そんなもん学校じゃなくて自分が悪いんですよ。僕は学校で教わった勉強なんて一つもない。北野高に行かなかったとしても、大学にも司法試験にも受かっていたと思う」。弁護士時代、出身中学で講演をした橋下は真っ赤なポルシェで現れ、「努力すれば誰だってはい上がれる」と訴えた。

日本の子どもたちの学力低下についての論議は、大阪に限ったことではなく、様々な形でヒステリックな論争があった。「学力低下論者vsゆとり教育派」という構図だが、ハッキリとした決着はつかなかった。その理由として、両者間で学力の定義が違っていた。「学力低下論者」は従来の学力テスト、「ゆとり教育派」は、世界的に見て時代遅れの日本の学力観。

日本の学力は偏差値という受験学力に特化されるが、それは日本の受験制度とそれを支える教育産業の隆盛にある。親にとって大事なことは、わが子が将来、どんな高校に入り、どんな大学に入り、どんな仕事に就けるかである。そんな考えになかった自分は、「どうして親はそんなことを心配せねばならないのか?」と、不思議で仕方がなかった。

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「何で気にならないんですか?」といわれたときに、「子どもは子ども。子どもがやりたいようにやって生きたらそれでいいんじゃないか?」などと答えると、「それは親として無責任ではないですか?」と叱られたこともあった。叱った人と議論はせず、すぐさま話題を変えた。が、子どもの学力を伸ばすために躍起になる親に対し、批判をすることなく眺めていた。

親の子どもへの教育的関心は上記の如きで、国家的な教育方針など興味もない。それが教育熱心な親といわれ、早い時期から子どもを塾に通わせて自己防衛に走っている。自己防衛とは自分なりの見方である。その意味は、上の発言に見られる、「(学力を向上させない親は、)親として無責任では?」の言葉。吐いた親は自己防衛に走るしかない。

ゆとり教育は、「学力低下」と結論されたが、一体誰のどの学力が低下したのか?東京教育大の刈谷剛彦教授は、1979年と1997年の2回、高校生に勉強時間を聞く調査を行い、その結果を著書、『階層化日本と教育危機』にまとめた。調査内容は、2県の11高校を対象に、普通科高校7校と専門高校4校、さらに通学区域などが変更されず、私立一貫校のない地域。

結論を言うと勉強時間の平均は、79年⇒97年で、97.1分から71.9分に減少していた。さらに「勉強しない」という生徒は、22.3%から35.4%に増えていた。他にも様々な調査の結果も見えた。一口に学力低下といっても、ハイレベルの生徒は横ばいで変わらず、下のレベルの生徒が大きく下がっていた。これは学力の低下というより、学力格差の拡大である。

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また、朝食を摂る子と摂らない子の間に大きな学力差があった。同様の差は、就寝時間が遅い子と早い子の間にも認められた。食育や生活態度も学力に影響する。「百ます計算」でお馴染みの陰山英男氏は、「計算練習よりも家庭における生活習慣が大切」と繰り返し説く。『東大脳の作り方と使い方』の著者中本千晶氏も、以下の指摘をする。

「家族みんなで食卓を囲み、バランスのよい食事を子どもに摂らせることが、地方の公立高校から東大合格者を増やすための最善策」と、栄養学者の視点でいうのはいいが、「東大脳」はいただけない。まあ、ゆとりある人々にしかこういう生活は送れないのか。ここに学力格差の要因が見えてくる。とはいえ橋下徹は、母子家庭で母親が朝から晩まで働きづくめであった。

彼は、「公立エリート校」構想を掲げながらも学校そのものには過大な期待を寄せていない。裕福とはいえない環境に育った彼に当時、「私学」の選択肢はない。吹田市から大阪市東淀川区へ引っ越した小学6年当時、同じクラスだった級友は、「家の家賃が払えない。次は家賃8000円の安いところや。仕方ないわ…」と、転居の理由を聞いている。

同じ子どもであれ、どうにもならない“差”があることを橋下は幼くして知っていた。が、そうした恵まれない環境が、結果的に自らのサクセスストーリーにつながったことは、実は彼自身が一番よく分かっているはずだ。だからか、最初からすでに恵まれた存在ともいえる有名な「私学」は、彼の“美学”からして、到底受けつけられないのであろう。

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母校の中学校に赤いポルシェで乗り付け、「努力すれば誰だって…」の言葉は、自慢話ではなく、「貧困と言うハンディがあっても、頑張ったらいい」と、後輩に対する彼一流のエールである。東京から大阪に移り、2度目の引っ越し先となった大阪市東淀川区での生活は、橋下自身が、「僕の人格を作ってくれたところ」と振り返るように濃密な時間だった。

「おれは逆境に強いんだよ」。橋下徹の少年期をよく知る人たちは、彼のこの言葉を何度も耳にしたという。転校を繰り返しながらも、リーダー的存在になっていく小学生時代、偏差値44では到底無理な大阪トップの府立北野高校に合格した中学生時代、さらに北野高校では、部活の厳しい練習に耐えてレギュラーを勝ち取り、46年ぶりの「花園出場」を成し遂げている。

など強靭な精神力のたまもの的エピソードの多い橋下だが、北野高時代ラグビー部顧問だった田中伸明はこう証言をする。「俊足で能力の高さは際立っていたが、まじめに練習する姿勢はなく遅刻も多かった。小さいころからコツコツ努力するのが嫌いだったんでしょう」。橋下は3年でレギュラーをつかんだが、田中は彼を別の選手に代えようとした。

怠惰な練習態度がその理由だった。「もう一度チャンスがほしい」と、追い込まれた橋下は田中に懇願し、別人のように猛練習を開始したという。「彼は逆境に強いというより、追い込まれなければやらないタイプではないか。逆に言えば本番で予想外の力を出せる人間でもあった」。その言葉通り橋下は、花園での大一番の試合で3トライの大活躍をした。


普段は野放図でありながら、尻に火がついた途端に人が変わったような動きや働きを見せる者がいるが、そういう風だから、普段はダラダラしているとの見方もできる。自分も普段はダラダラしてるし、それが何とも心地よく、自分を強いるのは大嫌いである。自分のだらけブリは吾ながら半端ではない。が、思い立ったら30kmでもためらうことなく、歩いたりする。

これは意思の問題である。普段ダラダラ、やるときもやらない、こういうのは怠け者。普段はダラダラでも、やるときは怒涛の如くやる人間は、追い込まれることが刺激となる。ツイッターなんかをちょろちょろと、一日に何回も書き込む人がいるが、アレは自分には絶対にない。クソも溜めて出す、目イッパイ空腹にしてドカ食い、風呂も基本はアカを溜めて入りたい。

不衛生でそうも行かないが、これが基本性向であるのを知っている。裏を返せば、その方が大きな満足感が得られるからだ。人生をどう楽しく生きるかにおいて、これも一つの方法である。橋下は、「逆境に強い」という言い方をしたが、かつて項羽がワザと川を背に戦った「背水の陣」と同じこと。普段がどうでも、人間はここぞと言うときに力を出せるかである。

人間の緊張感はそうそう持続するものではないし、緊張の連続はむしろストレスを生む。有能者は合理的に上手く時間を使うし、ダラダラと机の前にいても勉強の効率が上がらないこともよく知っている。睡眠も勉強も長さではなく質であろう。sexもそのようで、これは余談であるが、つい頭に浮かんだことは書く…。見渡すと、そういう事は日常に多く存在する。

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それをせねばならぬとき、一体人は自分の力をどれだけだせるものだろうか?「火事場のバカ力」は一つの例えであるが、普段には想像できないような力を無意識に発揮する能力は人間にはある。人間の誰もがいつでも最大のポテンシャルを引き出せるとは限らないが、出そうと思うなら自分を追い込むのも方法である。人は往々にして諦めが早い。

誰かに何かの方法を聞かれて、助言を与えたときに、「いやいや、お前のいうようにはとても自分にはできない」と言う奴は多い。聞かれたから言っただけで、自分の言う通りにやる必要はない、自分で出来る方法を見つければいい。が、そういう言葉は本人のやる気のなさを現している。「自分には力がない」、「お前のようにはできない」は、逃げであり、諦めである。

どうしてその場で即断するのだろう?「よし、わかった」と言っても、口だけでやらない者もいるが、悪気のない社交辞令であろう。やろうと強く思ってもどうしても足が出ない、勇気が湧かない者もいる。しかし、やろうとして半歩でも踏み出すものは、そこで倒れても「逃げ」でも「諦め」でもない、実際に行為したのだ。「出来ない」と「やらない」は全く別のこと。

「自分にはできない」という言葉の多くは、「やらない」、「やりたくない」と見ていい。孔子の言葉に、「力足らざる者は中道にして廃す。今、汝は画(かぎ)れり」というのがある。これは"本当に力のないとはどういう事か"を現した言葉である。本当に力のない者は、道半ばで倒れるものだし、学問をする者は机に向かったまま息絶え、百姓はくわを持ったまま倒れる。

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これこそが、「力がなかった」といえるのであって、最初から諦めて何もせず、「自分には力がない」、「能力がない」、「お前とオレは違う」などと、そんなことはすべて逃げの言葉である。人には出来ることと出来ないことがあるが、出来ないと諦めるのは、「出来ない」ではなくて、「しない」であろう。「人に出来て自分に出来ないはずがない」この気持ちが大事。

子どもが幼いときに、上の二つにワザと遭遇させてみる。「出来ない」といって逃げる子は失敗を怖がる子。なぜ、失敗を怖がるか、それは失敗を咎める親がそこにいるからだ。つまり、親が原因である。失敗を咎めないなら子どもは何も怖れない。自分で怖気づくより、誰かの目、親の怒り(悲しみ)に怖気づく。だから、強い子にするには、失敗を咎めないこと。

むしろ、失敗を奨励してやるのがいい。確かに何もしなければ失敗はないし、子どもはできるならそれを望もうとする。まだいっちょ前の自尊心が芽生える前だから、失敗を怖がるのは自尊心の問題ではないし、自分が傷つくのが怖いからではない。そういう段階、そういう時期に大事な教育がある事を親は知るべきだし、その時期を逃すと手遅れになる。

それを感じる子どもや親が多い。やらねばならぬときにやる事を逸して、姑息で、ずるく、逃げてばかりの子。それは親がそのようにさせたのだ。そういう時期には失敗よりも何もしないことを咎めるのがいい。何よりも失敗を怖れなくさせるためには、失敗はむしろ評価をした方がいい。失敗を誉めることだ。そういう親なら子どもは安心してトライする。

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「何もしないで失敗もしなかった○○ちゃんより、お前の方が100倍カッコイイぞ。」そのように本心で言ってやることだ。子どもの目がキラ星に輝くであろう。この頃の子どもが、「親を哀しませたくないからいいこしてる」、などというが、その言葉を真顔で喜ぶ親は羞恥の権化ではないかと。子どもに同情されているわけだし、これはもう主客転倒である。さらにバカな親は…

ワザと子どもに同情を買うようなことを平気で言ったりする。「親を悲しませないで」、「あなたがちゃんとしないとご近所、親戚に親が笑われるのよ」、「頼むからお母さんのために頑張って!」こんな言葉を吐く親に、親の資格はない。「親なんかどうだっていい、考えるな」、「人の目もどうだっていい、考えるな」、「すべてはお前の問題だ!」と男親ならいいたい。

このように育てるべきであろう。親のために頑張らせた子どもは、一見いい子に見えるが、自分の行動原理一切が、他人の視線や意識下においてなされる子どもになり易い。教育の主体は本人のためになされるべきだが、子どもを利用した親自身の教育ならあまりにバカげている。自分が自分のために何かをすべきであって、その意識を植え付けるか、奪うか親にかかっている。

イメージ 8自分のことは、自らに問いただす勇気とねばりと強さとをもって、一度しかない人生を生きさせるようにさせるのが親の役割である。「(学力を向上させない親は、親として無責任では?」と自分を叱った母親に一切の反論をしなかったのは、「豚に真珠」と思ったからだ。度々いうが、学問を否定はしない。が、勉強とクソは自分でするという持論は変わらない。

自分の父はいかなる事も口を出さなかった。それがどれだけ難しいことか、親になれば分かる。母親の愛情は近くでいいが、遠くからじっと眺めてくれている父親というのは、うるさい母親の場合にあって光るものか。もし、自分の母がガミガミうるさい人でなかったなら、父はもっともっと自分に近寄ってくれたのかも知れない。などと考えることがある。

こども ⑧

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ハンディは能力になる。このことは以前、全盲ピア二ストについて書いたが、正確にいうと、「ハンディは能力に変えられる」である。身体的ハンディのある障害者が、常人より高い技能や能力を身につけた人がいるように、ようはやる気である。高校受験前の偏差値が44だった橋下が、70以上のトップ高校に受かったのも、母子家庭、貧乏というハンディがプラスしたのでは?

受験勉強は苦しく多くの人が挫折する。自分に負けないために何が必要かを一言でいえば「意志」であろう。が、言葉でいうほど簡単でない。自分にくじけそうになるとき、「コノヤロウ、こんなことで弱音を吐いてどうすんだ、お前はその程度の男か!」と叱咤する自己啓発も効力はあろうが、橋下は、「母子家庭だからバカにされたくない」をバネにしたのかも…。

ハンディがプラスに作用すれば自負心となろう。おそらく中学3年時の担任からも、「お前が北野高校なんかどう転んだところで入れるわけがない。アホちゃうか!」などと言われたに違いない。いくらなんでも偏差値44なら、言う教師ももっともだ。彼の心の強さは、上から見下げられ、蔑まれたときの跳ね返す力。その事を橋下自身は「逆境」といったのだ。

高校のラグビー部顧問は、「彼は逆境に強いというより、追い込まれなければやらないタイプ…」といったが、橋下が北野高校受験を口にしたとき、担任教師のみならず、多くの友人にも、「あいつが北野やて、ほんまにアホや!」くらいは当然言われたろう。それら一切が彼にとって励みになった。それを「逆境に強い」という言い方をした。確かにこの手の人間は強い。

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普通なら心が折れそうになるところが、折れないように支える何かを発揮する。何かのなかに、貧乏や母子家庭などのハンディが含まれる。今の子どもは、家庭にあっても学校にあっても、まるで王様待遇だ。勉強が嫌いでも、教師はその工夫を生徒に強いられるし、親は親でそういう子を塾という受け皿を用意する。この至れり尽くせり感が今の子どもである。

だから、子どもが勉強できないのは学校のせい、教師の教え方が悪いとなる。こういう事を思う親は、自分にいわせるとバカである。他人のせいにしなければ原因が見つからないのではなく、安易に原因を他人のせいにするという無知バカである。江戸初期に熊沢蕃山(ばんざん)という陽明学者がいた。彼は1942年(寛永19年)23歳のとき、中江藤樹の門弟となる。


中江は伊予国大洲藩を致仕し郷里の近江国小川村に帰郷していた。その経緯は以前にも書いたが、熊沢蕃山が中江藤樹の門弟になるときの話が伝わっている。岡山藩主池田光政に仕えていた蕃山は、主君の命を受け、聖人(賢人)を求めて都へ向かう。途中、近江国のある田舎の宿に泊す。ふすまを隔てた隣り部屋で、知り合いになったばかりの二人の旅人が話し合っていた。

一人は武士であった。隣室からの話し声が蕃山の耳に聞こえる。武士はこう語っていた。主君から数百両の金を預けられた武士は、大金をいつも肌身につけて持っていたが、この村へきて馬に乗ったときに、彼はその金を馬の鞍に結びつけた。そして宿に着いたときに彼は鞍につけたその金を降ろすのを忘れ、馬を馬子とともに帰してしまった。気づいた彼は驚き慌てた。

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馬子の名も知らぬ彼は、金を探し出すことができない。主君に申し開きするには、腹を切るしかない。武士は遺書をしたため終わった真夜中に、宿の戸口を激しくたたく物音がした。「人夫のなりをした男が会いたいと言っています」という宿の主人の声で現われたのは、なんと昼の馬子であった。馬子は金入れを武士の前に置き、武士はお礼にと数十両を差し出す。

しかし、馬子は頑として受け取らなかった。その代わりに四里の道を歩いてきたわらじ代として四文を求めた。武士の方からお願いし、やっとのことで二百文の金を馬子に受け取ってもらった。これでもわずか1両の20分の1にすぎない。武士は馬子に聞いた。「こういう正直な人がこの世にあろうとは、自分は思ってもみなかった」。馬子はそれに答えて言った。

「小川村においでになる中江藤樹という方が、常に正直であるようにと私たちに教えてくださっているのです。私たちは中江様の言われることに従っているだけです」。蕃山は膝を打って言った。「私の探し求めている聖人がここにいる。明朝彼のところへ行って、弟子にしていただこう」。蕃山は藤樹のところに出向き、門弟にして欲しいと頼んだところ、断られた。

以後三日三晩、蕃山は藤樹の軒端に坐り込み、門弟にしてもらうまでは死んでも動かないと頑張った。藤樹の母のとりなしで蕃山は藤樹の門弟になった。教育とは、斯くの如く真剣であるべきで、それは教える者も教わる者もである。多くの大作を残した吉川英治は、「私は地道に、学歴もなく、独学でやってきた。座右の銘ではないが、『我以外皆師也』と思っている」。

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馬子の正直さに吉川英治の言葉が過ぎる。「職業に貴賎はない。そんな職業に従事していても、その職業になりきっている人は美しい」。人はどんな職業からも自分を成長させることは出来るし、いかに社会的地位の高い職業にあっても人は自身を堕落させられる。このことを吉川英治は汲みとっていたのだろう。9月の末だったか、ウォーキング中に財布を落とした。

家に帰って気づいたが、落としたというより、自販機のところに飲み物を取る前に置いたのが思い出された。一時間も経過していたが、とりあえずその場所に自転車で行ったが、財布はなかった。その足で近くの交番に届けたものの、お金よりもカード類、免許証、保健証類だけでも返ってくればと願った。一日が過ぎて諦め加減で、カード会社に紛失連絡を始めた。

そうこうするうち交番から連絡があった。「奇特な人はいるものだ」。お金はなくても悔いはなかったが、すべてそのままであった。届けた人の住所・氏名を記すことになっているが、本人は礼もいらない、匿名で願いたいとのことらしく、個人情報という事もあって知ることはできなかった。取得物を届けるのは当たり前のこととはいえ、やはり諦めていたのである。

善意に応えられないもどかしさあれど、まだまだ日本人は捨てたものではないなとの感慨に浸る。老若男女を含む相手の一切の素性は分らないままである。誰だろう?どんな人なだろう?詳細はともかく、姿・形・年齢だけでも人の善意に触れたかった。真の善意とは、何らの強制もなく、誰にも分らないところで発生するものかも…。熊沢蕃山は後に以下の言葉を残している。

イメージ 5「我は我、人は人にてよく候」。天下は、天下の天下なりといえり金銀米穀は天より天下の人の為めに生ずるものなれば、一人の私すべきにあらず。生まれ出たる時は貴賎共に一衣も着ず、一物も持たず。金銀は貧せん・富貴の命によりて、しばらく来往す。今日己が物かと言えば明日は他人の物なり。


(語意)
世界は自分だけのものにあらず。地球も自分のためだけに回っていない。生まれしが裸なら、死に行くときも裸で死ぬ。貴賎富貴は生まれながらの運命、子々孫々に大金を残して何になる。親の財産で兄弟争い、親の財産で遊ぶだけ。良い人間にしたければ、子に財産を遺さぬこと。今、自分のものとて、明日は他人のものになる。

「我は我、人は人にてよく候」。これも有名な蕃山の言葉。自分は自分である、人は人でいいではないか。他人と自分を比較せず、他人の真似などせぬこと。自分の個性を失わず、周りに影響されぬこと。世間体を気にしていると自分を見失う。世間は自分を助けてはくれぬ。だから世間など気にしないことだ」。人間は頭でわかっていても、実行できないことは多い。

なぜそうなのか?"正しいことを行いたい"という強い願望がないからだ。頭でこうすべき、これが正しいと分かっているのに、その正しいことが出来ないのは、勇気がないというより、その正しさに対する執着がない。友人に貸した1万円を返してくれといえないのも、「貸したものは当然返すべき」という道理に立てないからだ。「返して欲しい」のではなく、「返すべき」という道理。

「返して欲しい」は欲求に過ぎないが、「返すべき」は不動の道理である。貸した側の道理などはない。あくまで借りた側に発生する人間としての道理である。だから、貸した側は、借りた側に立って、正しい道理を行うことで、その道理を行使させる言葉が「返してくれ」である。遠慮とかそういう問題ではない、人の道、道理の問題にして解決すればいいのだ。

「返して欲しい」というのが感情的に言いづらいなら、道理という理性で対処すべき。自分はこのように考えることで、多くの難問を解決してきた。人と人は感情の触れ合いであるが、理性をキチンと行使しないと感情が崩れる。感情を崩さないためにも事務的(道理・理性)な言葉をいうようにしたらいい。当たり前のことだと思えば、感情に埋まることは少なくなる。

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「あの野郎、貸した金を返さない!」と憎むより、そうなる前に自分が解決することだ。自分は小学3年生のときに天体望遠鏡の接眼レンズを貸して、それを搾取されたことがトラウマになっている。このことは、自らの成長段階で何度も何度も、繰り返し頭をもたげた。少年期の痛恨の事象から完璧な道理を学ぶに至る。それが「1円貸しても返させる。1円借りても返す」である。

「10円、100円なんか水臭い。いいよ、返さなくて」と人は言うが、これこそ、「我は我、人は人にてよく候」である。他人のことに惑わされず、自分が良いと思うことはひたすら実行する。10円、100円が返らなくとて腹が痛むわけではない。返す側も同様だ。が、それは感情の問題に過ぎず、借りたものは返す。貸したものは請求するのは、思考を抜いた道理である。

文字に書き、言葉にすれば何でもない簡単なことでも、そこに人間同士の関係が加味されると一筋縄でいかないことになる。言葉に、口にした事が実行できれば生きることに苦労しないか、といえばそうでもない。なぜなら、言葉に、口にした事に対する相手の反応があるからだ。そこを考えるから人は思った事を口に出すのを控える。他人の視線になぜに慄くのだろうか?

それは人は人を見て暮らしているからだ。自分を見るのは映った鏡を見る場合か、手や足などを見る事はできても、自分の顔を見ることはできない。理由は顔に目があるからだ。手の平あたりに目があると便利なこともあろうが、手の平に目があると鞄が持てない。持つと目が痛いだろう。いろいろ考えると目や鼻や口や耳の位置というのは、誰が決めたのか適切な場所にある。

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昔、面白いことを言う奴が、「女性の性器が額にあったらいいのに…」と言った。「何でだ?」、「目や鼻と同様に、いつも見れるじゃないか」というので、「バカ!額にあったらパンツをかぶるに決まってるだろが」で収まった。おそらくそうするはずだ。ところで人間だけが執拗に性器を隠すが、なぜだろうか?こんなことを聞いたら「恥ずかしいからでしょ?」と女が言った。

その答えがあまりに素朴で感動した事がある。どうして女性はそんな風に感覚で答えられるのか?それほどに意外な返答だった。男に聞けば、とりあえず理由を考えるし、それなりの時間も必要だろうが、間髪を入れず、「恥ずかしいからでしょ?」はいかにも女らしい、かわいい返答である。ま、これは男的にいえば答えになっていないが、女的にはちゃんとした答えである。

「何で人間は物を食べるんだ?」と聞いて、「お腹がすくからでしょ?」と答えるようなものだ。同じ質問を男の友人にしたときに、彼はユニークな答えを出した。「何でって、食物があるからだよ。食物は、食べる物のことだから」。なるほど、これはユニークだった。「なぜ山に登る?」と問われ、「そこに山があるから」と答えたのはイギリスの登山家ジョージ・マロリー。

と、いわれているが、実はこれは誤訳であった。マロリーは、「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」と問われ、″Because it's there.″と答えたのだが、「it」は、文脈からいってもエベレストのことであり、単に「山」とするのは誤訳である。誤訳はしばしば起こるし、有名な誤訳は「結婚は人生の墓場である」。訳者によるさまざまなバージョンがあるのもその理由。

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話は戻るが、人間が性器を隠す理由は聖書によると、人類の祖先であるアダムとエバが善悪の木の実を食べたことで目が開き、自分たちが裸であったことに気づき、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆ったということになっている。それがなぜ性器であらねばならなかったのか?についての記述はないが、おそらく凸と凹が異質なもので、そういう違和感であったのか?

あくまで想像だ。隠すことによって刺激を高めることにもなろう。いわゆる人間に共通するチラリズムであり、人間の情事は「秘め事」ゆえに人間であろう。人間以外にも隠れて交尾をする動物がいるが、彼らは単に交尾中に捕食動物に襲われないためとの理由である。恥ずかしいから人目をさけて性交する動物は人間だけであるが、一部人間にも見せたがり屋はいる。

深く考えずとも、服を着、パンツを履くのは防寒だけにあらずで、羞恥の意味もあろう。「そこに山があるからだ」は誤訳でも、性器を隠す理由は「恥ずかしいから」は名答であろうか。実際に我が子で実験した事があるのは、幼児の女子の水着である。何の意味もない胸充てをワザと取ったら、なぜか怒るのだ。恥ずかしいからではなく、取られたことに対して怒る。

大人が海水浴場でそんなにされたら羞恥優先だろうが、子どもの怒る理由は、そういう事をされたら怒らなければいけないとのたしなみと、自分は理解した。男子のスカートめくりを防護するためにブルマーを履く女子が、それでもスカートをめくる男子を追っかける。スカートなしでブルマーだけなら何でもないのに、めくる行為が気にくわない。女はよーワカラン。

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こども ⑨

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人は簡単に子を作ることができる。特別な技量を要することなく増殖可能である。妊娠可能な体になれば誰でも子をつくれるし、親になる事ができる。子を産むには生殖可能でありさえすればいいだけのことだし、子を産めば同時に二人の親が存在することになる。が、それを親と言えるのかはどうかは意見が分かれる。親にはなれても、親になるには能力が問題となる。

親の能力がない親はたくさんいるが、能力とは何かについて考えてみる。まず、親であるための必要な最低限の能力とは、子どもの欲求を理解し、それを喜んで満たそうとし、かつ満たせなければならない。が、その能力がない親はしばしば子どもにとって悪影響をもたらせることになる。悪影響にはさまざまあるが、悪い習慣をつけることがもっとも懸念される。

悪い習慣とは親が子どもにしつけたものだ。なのに親は子どもが悪い、よくないと思ってしまう。ここに親子の害悪という一幕が切って落とされる。子どもにしつけた悪い習慣は、子どもの悪いふるまいとなってどんどん広がっていくのは、子どもの邪悪さでもある。近代教育はルソーの「子どもの発見」を前提としているのはその通りだが、「子どもの発見」とは何をいうのか。

それはまず、子どもは大人と違った存在であるということ。ルソーは、『エミール』の冒頭にこう書いている。「すべては、創造主の手を離れるときは善であり、すべては人間の手の中で悪くなる」。ルソーは人間を本来は、「善」と考えている。そして、それを悪くするものは人為的なものとしている。ルソーは、「子どもの発見」としてまず「無垢なる子ども」を発見した。

子どもは純真無垢で弱々しい存在であり、よって大人が保護し、教育する必要があるとした。『エミール』が、「子どもの発見の書」、あるいは「子どもの福音書」と呼ばれる所以である。自分はここに子どものことをたくさん書いている。教育者でもなんでもないが、自分が親から授かったこと、自分が親として授ける側にあったことから、子どもに対する問題意識を持っている。

それも、かなり強力な問題意識である。問題意識とは、「善悪良否」も含んでいるが、主観的な善悪良否もあれば、客観的な善悪良否も持っている。これは正しい、これは間違っているという主観的な善悪判断は、人が生きていくためには不可欠だが、判断は思うだけなら、「絵に描いた餅」でしかない。人を殺した人間が、「人殺しは善」と思ってはいないが、それでも殺す。

それはなぜか?人間は善悪を規範として生きていないからであろう。普段の日常にあっては善悪の判断は出来ても、いざとなったときは善悪の判断が緩むというよりも、客観的な善が主観的に善に変わってしまうのではないか。スーパーのレジが混雑していても割り込まないで並ぶだろうし、道にゴミの投げ捨てはしない、公園は汚さないなどモラルを守って生きている。

規律を守るという事は抑制しているということ。レジが混んでいても一番前に行きたい、いちいちゴミ箱を探さなくてもポイ捨てが面倒でない、公園を汚しても誰かが掃除する、そういう邪悪な心があれども、それを自然に抑えるのが身についている人には何でもないことだ。もし、人が人を殺すとき、人を殺すのはよくないと知りつつも、自分の都合で殺ってしまう。

普段は人殺しは悪と知りつつも、殺すときは自分にとっての「善」となるのだろう。「悪と知りつつ」、「よくないと知りつつ」、それでも自分にとっての「善」とは、そいつを殺してしまうこと。こちらを優先させるのだろう。普段の「悪」が、都合よく「善」に変わるから人を殺せるのではないか。人を殺したことはないが、人が何か悪をするときに一瞬悪を飛ばす。

悪い、悪いと思ったら悪は行為しずらいから、「いいや!」となった方が悪をやりやすい。スピード違反をするときも、制限時速は守るべきと思いながらも、スピードの快感という自己の「善」が優先され、「いいや!」となってアクセルを踏む。つまり「悪」が飛んでいる。人間には善の心と悪の心が同居し、時々の都合によって善が悪の、悪が善の優位に立つ。

同じように「子どもの発見」にはもう一つの発見がある。それは子どもが大人に対する挑戦者・侵犯者としての子どもである。「子どもらしさ」という言葉には、純真無垢という特性とは別の、奔放性、逸脱、狂気性、野蛮性、残虐性といった反社会的側面もある。こうした子どもにおける「悪」の問題を示したのが、ルソーと同じフランス人のフィリップ・アリエスである。

彼の『子どもの誕生』(1960年)は、子どもと大人の一線を当然視し、学校教育制度を当然視する現代の子供観に対して疑義を呈する書物である。「子供」の概念が、ホモサピエンスとしての「ヒト」の生物学的な根拠に基づくというものでなく、歴史の中で創出されてきたものであることを論証した。中世ヨーロッパには教育という概念も、子供時代という概念もなかった、とアリエスは言う。

 7~8歳になれば、徒弟修業に出され、大人と同等に扱われ、飲酒も恋愛も自由とされた。なぜ大人と子どもの一線を7~8歳に引いたのか、この時期に言語によるコミュニケーションが可能になると考えられたためとアリエスは言う。近代的な学校教育制度が現れたのは17世紀。で、当時の教育者たちは古代には存在した学校教育を倣い、「純真無垢」を理念とした。即ち「純真無垢」とは何か。

端的にいえば子どもと大人を引き離すこと、特に子どもにはセックスを禁忌にすることである。そういう考えは今の大人にもあるし、多くの大人は子ども時代に何とかセックスをしたい、どうすればできるかを考えていた。大人が禁じても表面的に従っているようにみせるものの、隙あらばと狙っていた。そういう子どもが大人になって、「子どもはセックスなんかしては遺憾」と言うのである。

大人はずいぶん前には子どもであり、子どもの欲望や願いを持っていたはずなのに、子どもを卒業して大人になると、大人の論理だけで思考する。せっかく子どもを経験しているのに、これでは何にもならないではないか。子ども時代に親からされて嫌だったことと、全く同じことを自分の子どもにするのは何故?自分は子ども時代にされて嫌だったことは、大人になってそれをしないと誓った。

つい、忘れて親のエゴ、大人の傲慢さを発揮することもあるが、すぐに気づいて反省する。自分がされたことをしないことが、自分の親に対する復讐である。それほど嫌だったことを絶対に自分の子にしないことこそ、自分の親を最大の反面教師にすることであろう。大人になっても子ども時代のことを忘れないこと。そして、ただ忘れないだけではなく実行すること。それが親への恨みを晴らすことだ。

一般的に子どもは親から受けたことを、無意識にあるいは意識的に子どもにしてしまう。これを世代間連鎖という。この連鎖には好ましい連鎖もあれば、好ましくないものもある。何故そうなるかは、子どもは無意識に親からいろいろなことを学びます。好ましいことも、好ましくないことも学んでしまいます。親からされたこと一切が、「学習」として内面化されるということ。厳格な親を持った子は厳格な親になる。

決してそれがいいと意識してやるわけではないが、その子どもにとって学習した家族モデルは、自分の家族しかないからである。だからほとんどの場合、あまり疑うこともせず、変えてみようともしない。ところが、自分は親にされたことはほとんど間違っていると思っていた。だから反抗したし、その反抗は一般的な、「甘えの範疇」というようなものではなかった。食うか、食われるかの危機感があった。

こんな傲慢で自分勝手な母親に支配されるなど死んでもなるものかと戦った。学校や社会や姻戚から、「親のいう事を聞かない子は悪い子」といわれた時代であったが、それに抗う罪悪感を抱きながらも、自分が自分でありたいために封殺した。学校や社会教育で教わる思想は、現実度外視の空虚なもので、自分は現実と対峙し、だから闘ったし、虚しいスローガンなどどうでもよかった。

そういう実体験を踏まえて思う。もし、毒親を親にもち、その親に育てられた子どもが自分が受けた好ましくない世代間連鎖に気付き、意識的に自分の子どもとの関係を改めていったら、おそらく素晴らしい結果になると思う。好ましくない世代間連鎖を自身の力で断ち切ることができるのだ。時代の変革者とは、単に勇気があったという以前に、正しいものとそうでないものを徹底的に吟味した人をいう。

好ましくない世代間連鎖の代表的なものとして、「児童虐待」、「アルコール依存症」がいわれる。この連鎖は実は家庭環境によることが多い。しかし、悪の連鎖を断ち切るなら、「今の自分がダメなのは親のせい、親がいけないのだ」、と思っているようでは連鎖は断ち切れない。親に反抗せず、"(親だから)仕方がないな"と諦め加減で受け入れてきた人は、もう一度過去を遡るしかない。

そうして、親がいかに毒の種を自分に蒔いて来たかを冷静に、客観的に思考し、見つめなおすことだ。それ以外に、毒親との世代間連鎖を断ち切る方法はない。自分のようにその都度反抗し、闘ってきた人間は過去を見つめる必要がなく、その時点で毒親の認識であったから、本当はこちらの方がいいが、性格的に親に反抗できない子どもも多い。大事なのは自分である。そのことを再考する。

誰もが親になって、「子育て」を始めるが、本当の、「子育て」とは、自分の子ども時代をもう一度生きなおすことである。特に毒親に育てられ、不遇な幼少年期・思春期を過ごした子どもは、我が子に同じような思いをさせないようにすべきではないのか?世代間連鎖というのは実に怖ろしい。大人になったかといって決して子ども時代を忘れず、自分がされて嫌だったことを我が子にしない親になるべきだ。

「いい子ども時代を生きたかった…」と思う親なればこそ、いい親になるべきだ。自分が嫌っていた毒親と自分が同じになるなんて、こんなバカげた滑稽なことはないな。自分の親を「毒親」と批判する資格もないな。批判しながら同じ事をする人間は多いこと。批判は単に非難や悪口ではない。また、他人を批判することで自らの嫉妬をさらけ出し、「自分は正しい」といい気分になる事でもない。

批判の本質は、「人の振り見て我が振り直せ」だと自分は思っている。即ち、批判を口にすればするほど自分が良くなって行くという論法だ。言い換えるなら、自分がやっていることの批判はできないはず。自分がしていながら、「願望」としての批判もあるにはあるが、「願望なら批判の前に正せよ」と指令が脳から飛んで来る。したがって、自分の場合は自分がしていること、出来ないことの批判はしない。

まあ、人間は言葉の動物だから、そうそう完璧には行かないけれども、「羞恥の極み」的な批判はみっともなさ過ぎる。「あいつは、よく人の事がいえるよな~」これが羞恥の極み的批判であろう。人間が完璧でないのはその通りだから、それなら批判にどれくらい「立ち向かえるか」の人間を目指すことか。そうであるなら、無責任ないい捨て批判は、「羞恥の極み」でなくなるであろう。

厳格で傲慢な親に育てられたある女性が言っていた。「自分が親と同じような言動をしていると、ふと気づくときがある」。「その時にどう思うんだ?」と聞いたら、「ぞっとする」と言った。「ぞっとして、その後どうするんだ?」と聞きたかったが、しつこくなるので聞くのを止めた。それ以降は彼女自身の問題だ。「ぞっとして目が覚める」か、「ぞっとしてまた続けるのか」おそらく後者であろう。

理由は、自己変革が大変なのを知っているからだ。「ぞっとした」くらいで改められるものではない。本当に自分を変えるためには壮絶な自己否定が必要になる。だから、「ぞっとした」などの他人ごと言葉で、自己変革の意気は感じられない。「自分が嫌になった」、「こんなんではいけないと感じた」と、言うような前向きの言葉がでてくるならともかくである。人間は分かってても出来ないものよ。

子ども時代に親によってどれだけ苦悩したか、辛い思いをさせられたか、などと脳裏に消せないでしまっているのに、何の問題もなかったかのように振舞うのが親である。家来が難義しているのを尻目に王様は何も気づかずいるようなものだ。支配者である王様は家来が何を考えているかを知る必要もなく、命令をすればいいだけだが、親は子どもが何を考えているかを知るべきである。

それが親としての責務であろう。印象的だったのは映画『泥の河』の最後、信雄が仲のよかった喜一と遊ばなくなり、家でごろごろの日々。見かねた母は、「喧嘩でもしたんか?」と問いただす。信雄は、「何でもない」と言うが様子がおかしい。父親は何も言葉を発することなく、信雄の心の中を覗こうとする。聞いても無駄と分かっているのか、父親(田村高広)のその秀逸な演技が忘れられない。

信雄の心には親にも誰にもいえないわだかまりは、映画の筋書きとして観客は知っているが、信雄の両親は知らない。が、息子の心を探ろうとする父親の心に観入ってしまった。子どもが清濁の社会体験からさまざまに成長していく様子を親は知ることはない。親にもいえない子どもの苦悩、それを子ども自身が処理し、解決していかねばならないものだと、この映画は知らせてくれた。

小さな船に母と喜一と姉の三人が居住し、泥の河を上ったり下ったりの生活である。汚く狭い家だが、その空気に信雄は惹かれて通うようになる。喜一の母は美しい、ゆえに男相手に汚れた仕事で生計を経てえいる。汚い船の空間に美をみつけた信雄はまた、美しい母から醜悪なものを見ることとなる。「醜は美、美もまた醜」というが、少年信雄の貴重な体験であった。

こども ⑩

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家の近所の公園で3人の男の子がボールを投げ合っていた。小学3~4年生風で、一人はグラブを持ち、あとの二人は素手であった。相手の位置に正しくボールを投げるキャッチボールというものではなく、やや遠い距離から相手に向かって目イッパイ投げるので、ほとんどが後にそれるか横にそれるかの暴投である。それでも互いが文句を言わずに一生懸命に投げ合う、この。遊びに対するひたむきさ…

こういうところがいい。子どもは何でもない遊びに熱中する。自分の近くに転がってきたボールを取って投げ返したやったが、そのボールはなんと硬式ボールだった。「すごいね~、硬球でやってるんだ」といいながら、自分が始めて硬球を目にしたのは中学生くらいだったか、などと回想してみた。見る機会も、触る機会もなく、白い表面に赤い糸の縫い目の硬球は、ミステリアスなボールだった。

かつて、子どものボール投げといえば柔らかいゴムボールと相場が決まっていたものだが、堅い軟式ボールを投げあうこともなかったが、昨今の硬式ボールでのボール投げにはおそれいった。練習球で一個500円、試合球だと1000円もする硬式ボールを、今の子どもは事もなげに手にできる環境が羨ましい。それにしても彼らのひたむきさ、一生懸命さは見ている部外者をも楽しませてくれる。

子どもたちはうまれつき楽天的であるし、その楽天さは大人を癒す。何故だろうか?子どもたちの未来は成長とともにおとずれ、どこにも悲観的なものは見えない。そういう年齢の子どもが悲観的であるなどは想像もできない。どこのどの子どもたち未来は、"満たされる"約束でいっぱいであろう。だから子どもたちはこうも成長を急ぐのか。彼らの世界、環境は彼らに望ましいものであって欲しいと願う。

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子どもたちが悲観的でないのは、彼らの"今"がどんな状況であれ、それは時が経つにつれてよくなるのだという意識を持っているようだ。彼らはみんなそういう、"見込み"の世界に住んでいる、だから楽天的でいれるのだろう。子どもの虐待を報じた事件をブログに書くときは、怒りでワナワナとふるえることもあれば、あまりのことに息がつまって目が潤むこともある。痛ましいのは児童の虐待死。


上のこの事件はやるせなかった。こんなことができる人間がいるなら、少女は何のために生まれてきたのだろう。この少女はひまわりの花を夢見ていたようだ。太陽に向きあい、日差しを慎正面から満面に受けてすくすくと伸びる、子どもはそんなひまわりのようであるべき。そんなひまわりを夢見る少女は、こんな親に対しても気遣いをし、媚びていたのは、彼女が願い、夢見る未来があったからだろう。

きっと良くなる、今より良くなる、そんな風に思えるから、子どもは今を耐えられる。そういう、"見込み"の世界に子どもは生きている。子どもが子どもをいたぶるのは、"いじめ"であるが、大人が子どもをいたぶるのを"虐待"という。2014年には3歳の長女に十分な食事を与えず、衰弱させて殺害したとして、大阪府警は養父で大阪府茨木市の大工(22)と、19歳の母親を殺人容疑で逮捕した。

司法解剖の結果、亡くなった沙弥音ちゃんの腸にはアルミはくやロウ、タマネギの皮が残っていたというが、これらは空腹を満たすため飲み込んだようだ。また、沙弥音ちゃんがベランダの手すりにくくりつけられていた、寒空のベランダで部屋に向かって、「ママ、入れて!」と叫んでいたとの目撃情報もある。 沙弥音ちゃんの死亡時の体重は、同年齢女児の平均15キロの半分近いわずか8キロであった。

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「ひどい」という言葉ではいい足りず、こんなのは親でもない、人間でもない。子どもをそんなにして何が満たされる?生物学的な基礎に立てば、人間は楽天主義であるべきで、それに反するようなものは定義からいっても適応的でない。楽天主義は、心身及び社会の健康に資するのみならず、悲観論者なら不可能とみなす目的でさえ、達成させてくれる気分に誘う。

だからか楽天家は悲観主義者に比べ、物事を簡単に諦めない。小さな町の一介の自転車工に過ぎなかったライト兄弟は、空気より重い物体は数学的・物理的にも飛行不可能と言われた学者に対し、彼らの楽観は実験結果に基づいていた。翼の設計さえ解決できれば、その機械は間違いなく空を飛ぶことを示していた。誰ひとりとて理解せぬものを成功に導いたのが、彼らの楽天主義である。

楽天主義の人は、人をますます楽天的にする。楽天的な子どもを眺めていて癒されるのはそのためだろう。癒されるだけでなく、眺めている者も楽天的になればいいが、オトナには世間のしがらみがどうしても災いするのか、それを阻む。楽観的で物事が上手く行くとは限らない。子どもが楽天的でいられるのは、上手く事を成したいという欲のなさで、彼らは結果よりも過程を楽しんでいる。

我々は、結果を重視するあまり楽観的になれないのであろう。誰もが失敗を恐れ、誰もが成功を夢見る。が、しかし悲観的に始めたことが成功したためしがない。悲観的になるというのは、上手く行かなかった時、失敗した時のダメージを抑える、その準備の前出しである。「上手くいかないだろうな」、「おそらくダメだろうな」などの不安の前出しが子どもにないし、上手くいかずとも子どもは悲嘆にくれない

イメージ 4子どもの指向性や努力は、"良いもの"に向けられている。それらは小さきものであれ憧れであろう。それらのものは、その子の将来の人生経験において、その人生の風景や背景になる。バックボーンになる。多くの偉人や成功者は口を揃えて言う。「幼少期のあの体験が、自分の人生の指針となった」。偉い人にならずとも、影響を残すのは間違いない。幼少年期は人間にとっての"肥やし"であるという。それは歴史年表を覚え、漢字を多く覚えることではない。そういう事をさせたがる親は、幼少年期が人間の肥やしであることを知らない親である。「人間の肥やしは学問」といえば聞こえはいいが、昨今の学問というのは、単に記憶の訓練に成り下がっているようだ。人間の能力で大事なものの順序は、①想像力、②読解力、③に記憶力とされている。

クルマの車種や、歴代天皇や、アメリカの大統領や、世界の国の首都などを記憶する子どもがいる、テレビで披露すると皆は驚く。こういう機械的記憶力は、「門前の小僧、習わぬ経を読む」の例えにあり、何ら驚くことではない。自分も幼児の頃に母親の新興宗教につれていかれ、そこで歌われる宗教歌のようなものを自然と暗記した。信者がすごいすごいと寄って来、母親も得意満面であった。

それがくだらないことだと気づいたのはいつごろだったろうか。早い時期に母親に声をかけられると行くのが嫌で逃げ出した。子どもは従順であるが、野生的でもある。ある事に従順であるべきか、野生であるべきかの判断を、子どもは自らの意思で決定できる能力はある。ところが親は威圧的、強権的に子どもを従わせるのを虐待という。背の高さ、力の強さで、子どもが大人に敵うわけがない。

簡単に手足を縛られ、押入れに押入れに入れられることからして、子どもはオトナからみても相当に小さい動物のようだ。子どもにとって押入れという暗黒の冥界は、とても怖いものだった。子どもを怖がらせ、いう事を聞かせようとするのは、「折檻」として認められていた。折檻とは、子どもを厳しく叱ったり、こらしめるために体罰を加えたりすることだが、こんにちでは虐待として認められていない。

折檻の語源が面白い。《 漢の孝成帝が、朱雲の強い諌めを怒り、朝廷から引きずり出そうとしたとき、朱雲が欄檻 につかまったため、それが折れた。つまり、折れた欄檻ということで折檻。「漢書」朱雲伝の故事から 》 自分も肉体的、精神的に多くの折檻を受けた。虐待というべきだろう。殴る、蹴るの暴力は当たり前、正座、文字の書き取り、お灸、(寺に預けるという)脅し、などが思い出される。

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怖さもあってその時は謝るが、結局はその場しのぎでしかない。それが教育か?折檻する母とはどんどん心が離れていくばかりだった。そんな道理も分からず、折檻する母の、目先の対処で満足するところがバカである。子どもや家来を強権的に従えて人心を掴めるはずがない。鬼母、毒母が尊敬されるなどあり得ないが、それでも鬼を止めない、毒を撒き散らす女の思慮のなさという不幸であろう。

人を判らせる力、説得する力のないものが、手っ取り早い方法として暴力を使う、それが折檻である。こういう慈悲ない行為が非道として、禁止になったのは当たり前だが、個々の家庭内部のことは外部に見えないことから、現在でも虐待は行われている。それを監視し、指導・防止するのが児童相談所である。これまで児童相談所は、従来虐待家庭を指導し、家庭を立て直す機能を重視してきた。

昨今、子どもの保護のために強権を発動する権限が児童相談所に求められる状況にある。 しかしながら、児童相談所にはそれに関する十分なノウハウの蓄積がなく、現在の児童相談所は弁護士の協力を得て後者の機能を強化しているところだ。「虐待などしていない」と言い張る親に、立ち入る勇気も必要だが、それは相談員には酷であろう。指導・勧告は出来ても、罰則のない方はザル法である。

児童を虐待する親は、心理的成長が不完全に終わっている場合が多い。 正しく、冷静な躾がされない親に育った子どもは、当然にして問題がある。そういう子を親は、「教育の失敗」といえばそれで済むが、親によって成長に失敗させられた子どもは深刻である。心理的成長不足の親というのも見分けはつかないが、母親は乳幼児とともに過ごすことで、ある種の子供返りを行うといわれている。

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それが高じてか、長い間自身に封じ込めてきた、「内なる子ども」の憤怒を表に出すことになると言われている。母親が子どもと同一目線でくだらないことに怒りを表すのはそうしたことにある。したがって、社会から児童虐待という病巣を取り除くためには、児童を虐待する母親たちの心理的成長につきあい、意見し、サポートする人間が必要となる。それが夫であるべきなのはいうまでもない。

ところが、ヒステリー状態の妻に意見すると、「あなたは甘い。何が判ってるというの?」、「私を敵にして子どもにいい顔しようとしている」。などと逆上する妻に、夫は口を閉ざすしかない。こういう事例は多く、ここに現代家庭の問題があるようだ。女が強いことの弊害は、夫の冷静な視点を無視するばかりか、頭に血が上った妻は、「余計な口出ししないで!」と凄まれ、尻込む夫はどういうことだ?

のぼせ上がった妻へのクールダウンは夫がするしかなかろう。それが可能か否かだが、子どもの教育より、妻のヒステリーが怖い夫が多い。夫の言葉を、「余計な口出ししないで!」と封じ込める家庭が問題であり、しかるに子どもが妻ひとりに手に負えるものではない。自分だけが子どものことを朝から晩まで考えているという妻の思い上がりが、夫を、「見ざる、言わざる、聞かざる」状態にする。

これはもう家庭とはいわない。自分だけの価値観でどんどん子育てをする妻が、家庭を破綻させ、心労の多い子どもを作ったとは、決して言い過ぎでない。自分も幼少時に同じ体験をしたからよくわかる。子育てなんかに興味はない、お前の仕事だという夫も確かにいる。どちらが悪いかではなく、二人のコミュニケーション不全の問題である。長期間、こういう状態の家庭は、修整のきっかけがない。

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それらも離婚の多さの原因となる。夫婦の離婚と言うのは、夫婦の問題よりも、実は子どもを取り巻く問題が多い。愛が終り、子どもを取り巻く環境が良好といえないなら、もはや修復不可能状態夫婦の関係にとらわれることはない。さっさと離婚を決め、上手く行かない理由等に固執しない。そうして過去に決別し、前に進むべき。離婚が人生の汚点になる時代ではないのは、良き時代であろう。

ある社会学者のデータによると、現代人にとって心のダメージが大きい出来事の上位は、「家族の死」、「失業」、そして「離婚」である。離婚は配偶者の不祥事によって成される場合もあるが、結婚段階で明らかに相手選びを間違っているケースもあり、どちらにしても結婚後に二人の仲がこじれてしまい、「覆水盆に戻らず」というように、別れた方がよいという状況を無理に継続するべきではない。

かつては、世間や親戚などの対外的な理由で、破綻した夫婦がガマンをしながら居続けた。もちろん、子どもを片親にしたくないという思いもあったし、女手ひとりで生きて行きにくい時代や、弱者に対する法の不備もあった。それらが解消できたのも離婚を増大させている。それでも女性が一人で生きて行くのはまだまだ大変であるが、当面は憎しみ合いにまで成り下がった夫婦のストレス回避であろう。

もちろん、互いが努力をしたケースもある。自分たちの幸せ、子どもの幸せを考えて、もう一度やり直そうとしたが、人の性格なんてそうそう変わるものではない。明らかに間違った結婚はぐずぐずするより、早急に解消した方がいい。その後に、新たな伴侶を得て幸せになった事例は少なくない。離婚は男をダメにし、女性を美しくすることがある。もちろん、離婚後にりりしく成長した夫もいるにはいるが…

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離婚のどん底を経験し、そこから這い上がった女性を何人か知っているが、彼女らは一様に美しい。輝いてもいる。負担が取れるということはこれほど人を変えるものなのか。自分も半ば親と縁切り状態にあるから判る気もする。心に負担のない生活がどれだけ清々しいかということ。「あの離婚があったから」、「あの離婚がむしろ自分に良き何かをもたらせた」と言って憚らない女性がいる。

ただしこうも言う。「今の私だったら、おそらく離婚はしていないと思う」。これが意味するものは、それだけ成長したということ。若いからガマンできなかったこと、耐えられなかったことは人間誰にもある。自分だって、今の自分が20歳の自分であったなら、別れない恋人はいた。あの女は本当に出来た女、立派な女だったと思える、そんな女性を袖にしたのは、自分の若さ、バカさ、至らなさである。


こども ⑪

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子育ての最中にこのようなことを考えて見た。ライオンやチンパンジーやカラスの親に、よい子育てをする立派な親と、子育ての下手くそなダメ親がいるのだろうか?ライオンの群れの母親Aが同じ群れの母親Bをみて、「Bさんはなかなかいい子育てをするね~、見習わなきゃ」なんてことがあるのか?チンパンジーに優秀な子を育て上げる優秀な親がいるのだろうか?カラスも同様…

その時に出した答えは「NO!」である。動物生態学に基づいた答ではなく、自分でそう判断した。いい親、ダメな親は人間だけに存在する。理由はいろいろあるが、まずは人間の親には未熟な親、成熟した親がいる。ライオンやチンパンジーやカラスの親は、調べたわけではないが、多少の差はあれど、どの親も一様に成熟した親であろう。すべては育児本能の有無の範疇だ。

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育児本能は、生物に本来備わっている能力は定義されている。ただし、人間を除くすべての生物のである。昆虫や魚やその他の動物が親になれば、誰に教えられるでもなく自然に身につける能力であり、いつもほぼ同じように子どもを育てる能力である。人の親も他の動物と同じであるなら、どの親も同じように生物として合目的に子どもを育てるはずだが、現実は違う。

育児の下手な親、未熟な親、あるいはその逆の立派な親もいよう。ここで考えるべくは、「子育てを立派にやった親」と言うのはどういう親をいうのか?ここが人間以外の動物と人間との大きな違いである。ライオンには立派な親もダメな親もいないと思えるほどに、どの親が育てたライオンもとりあえずライオンである。字が読めたり芸ができるライオンは聞いた事もない。

ところが人間の親には我が子を三人も東大医学部に入れた親もいれば、偏差値30代の学力しかない子もいる。東大医学部に息子3人入れた親を立派だと世間はいうが、それはそれで立派な親であろう。ただし、それは一面だけを見ればの話で、何事も得るものと失うものが存在するという事実がるからで、「受験に恋愛は無用」という母親の考えは、こと受験において否定しない。

受験に大事なのは、受験以外の事をできるだけしないことである。食う、寝る、出すは受験以前に生きるためだから必要だが、寝る間を惜しんで勉強するのはあってもいい。死なない程度に睡眠時間を減らすのは、それだけ勉強時間を増やせるだろう。人間は何かを仕込まれることで、何かを失うものだ。同じような例で、五嶋みどり母はみどりを世界的なバイオリニストにした。

イメージ 2もちろん、彼女だけがみどりを世界的アーチストにしたのではなく、多くの人の手が加えられたが、世界的なバイオリニストになる要素は母親の血と汗の結晶だろう。もちろん、それに歯を食いしばって答えようとしたみどり本人の力が何よりである。東大医学部三人もそうであろう。みどりの母節は、『母と神童』、『天才の育て方』という著書を出している。

東大医学部3人の母親も『秀才の育て方』なる著書を出した。本のタイトルからして我が娘、我が息子自慢であろう。が、実際に苦しんだ本人たちはこの本をどう読むのだろうか?五嶋みどりは苦悩を代償に世界的バイオリニストになったが、決して「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とならず、メンタルへの影響は続いた。自分は彼女の成功を受け入れられないでいる。

人間は仕込めば難しい技能を得る。サーカスの団員も、体操選手も、柔道選手、水泳選手、陸上選手、みんな仕込まれ頑張った。アスリートは汗をかけるが、汗をかけば発散にもなろう。精神的な重圧は本番時にはあっても、仕込まれることで人格が破綻するとか、欝になることはないのだろうが、マラソンの円谷英二のように、苦悩から逃れられず自殺者もいた。

バイオリンやピアノの仕込みはスポーツと違って汗をかかないし、よほどその事が好きにならなければ達成感も充実感も得られない。ホセ・フェガーリというピアニストがいた。彼は1985年の「ヴァン・クライバーン国際コンクール」の優勝者である。ちなみに辻井伸行は、2009年同コンクールの覇者。そのフェガーリは昨年、銃で頭を打ち抜いて自殺した。

動機は不明だが、鬱屈した生活を送っていたのかと想像する。自殺したピア二ストには久野久、デュオのクロムラング夫妻らがいるが、多いと言うほどでもない。ただ、五嶋みどりの失ったものの大きさを考えるに、『天才の作り方』なる本を出せるものなのか?確かに彼女は仕込まれて世界的名声を得たが、精神を壊したみどりに『天才の作り方』はあんまりでは…

タイトルは売るために編集者がつけるものだが、本人が拒否すれば別のタイトルとなる。現に節は「天才なんか育てた覚えはない」というが、それならこのタイトルは拒否すべきと思うのだが…。欧米人にはあまり聞かないが、タイガー・ウッズやビルゲイツ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグなど、世界的に有名になった人たちにも親はいる。

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タイガーの父アール・ウッズは『トレーニング ア タイガー―タイガー・ウッズ父子のゴルフ&教育革命』という著書があるが、これは共著であり自慢話ではない。息子や娘が有名になり、親がでてくる類の本はなぜか日本人に多いが、実際は親自身のゲームのために息子や娘が犠牲になってるに過ぎず、親の方は大したことをしたと思っているようである。とはいえ…

タイガーほどの天才となれば、ゴルフをやるやらないに関わらず、多くの人たちが両親や家庭環境に興味を抱く。著書の日本語訳を買って出たのがまったく畑違いの大前研一であるところに、この本の意義がある。経済学者の大前だが、彼の思考や発言は必ず教育問題に収斂していくのをみても、大前が「教育」こそが国家の指針であり、要点と考えているのが伺える。

石川遼の父が「うちの子はノーベル賞級」と言ったというが、驕り高ぶり、金儲けに熱心な父もいれば、顔すら見ない松山秀樹、錦織圭、本田圭佑の父など、親もいろいろである。東大医学部3人の次男が、あまりの反響に、「母は自慢が過ぎるようですが、あれは主婦感覚です」とコメントを出す。東大医学部3人は、母親はどうでもいいが、彼らの受験という一面は評価する。

タイガーの父と違って母親が自慢したいのはいいが、息子を前に出すなら親は引っ込むのが知性である。息子のいうような主婦感覚的ミーハーなら、ミーハーが読む本ということ。受験の勝利者という一面だけで人間評価をしないのは人間は多面的であるからだ。「金持ちだからと言って人を評価すべきでない。彼がその金をどう使うかを見るまは…」と言う慣用句に習う。

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特別な何かを得ることは、別の何かを失う(犠牲にする)ことだから、その失った何かをシコリとせず、修整するのも何かを得たものの定めである。天才級頭脳とまで言われた笹井芳樹の自殺は衝撃だった。特別な何かを得たであろう彼が、バカ女に惑わされて命を絶つほどに人間は脆弱である。裏返して言うなら、彼は何かを得たがために命を落とすことになったともいえるだろう。

彼は何かを得た代償として命を軽視する自尊心を増幅させた。方や佐村河内のような、何かを得たものが嘘八百であっても、「嘘でした。申し訳ありません」と衆目に対座する図太さがある。この対比を見るに、やはりエリートは脆弱である。血統書付きの高級犬が、暖房つきの部屋で寝起きし、ご馳走にあやかるが、寒空で寝起きし、腐ったまんまを食べ、泥水飲んで暮らす野犬の強靭さを見る。

子どもは親が作り、基本的に作った親が育てる。その親の成熟度によって子どもの性格は大きく変貌する。そこを考えると昆虫やライオンの親と違って、子育て能力を充実させるためには、人間の親はまずは成熟していることが求められる。果たして若き親にその能力があるだろうか?そんなものはとてもないと自覚し、悟った自分は、自分の地力で真っ当な親になれるとは思わなかった。

したがって親にとって何が正しい教育なのかを読み漁った。ソニーの井深大氏のような立派な先人の言葉はまるで自分の発想になく、大いに活用できた。子育てに限らず自身の本能的な機能は、体験を取り入れた自己形成、つまり人間形成を遂げる脳の働き(適応行動)と密接な相関関係にある。人間の育児本能は、生を受けた以後の成長過程での体験だけでは十分ではない。

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初めて子を持ってからの育児体験、できるなら2人目、3人目と、次々に子どもを育てる育児体験の繰り返しなどの適応行動の充実よって、本能が形成され、成熟していく。それに加えて、知識も創意工夫という観点で重要となる。これらの機能が統合されて「人間の育児」は更なる充実に至るのだ。これらのうちで最もじゅうようなのが、先にあげた親の成熟である。成熟とは本能の成熟である。

いずれにしろ人間の親は、好ましい育児のできる親に成長し、親として成熟する必要がある。吉永小百合という女優の過去を知る人は(週刊誌等で大々的に報じられたとの意味で)、彼女が母親との確執の存在を知る。彼女の母はいわゆるステージママの走りで、小百合は母の操り人形、着せ替え人形であった。「母の命じるままに『いい子』を演じるしかなかった」という。

自分のやりたいことも言えず、母親とぶつかり合うこともできず、ずっと我慢をしていたと言う彼女は、アダルトチルドレン型の共依存親子であった。母親の期待と国民の期待に疲れ、20歳過ぎにはストレスが原因で次第に声が出なくなった。「私は普通の人間である前に、女優として育てられました」。このままではダメになってしまうと、決断したのが結婚であった。

母やファンから逃れるための最善の選択が結婚である。相手は15歳年上の平凡な中年男、しかも再婚。親は大反対だったが、小百合は押し切り、その事で親とは絶縁となったが、彼女の親離れはここに完結を見た。両親の出席のない友人宅での結婚式を、当の友人は「不憫」と見ていたという。自分の分身を人に取られたと嘆く母には、誰がこういう母娘関係にしたのかの認識がない。

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母も母なら父も父。小百合は結婚後一年近く芸能活動を休止する。活動を再開した時、彼女はマスコミ宛に、"既に一年半前に吉永事務所を退社、社長である父親とは何の関係はない"旨を通告した。所属タレントが一人もいない事務所を父親は閉じもせず、毎日出社し、あたかも小百合のマネージメントを引き続き行っているかのごとき行動を取り続けていた。それを見かねた通告であった。

小百合と別れて傷心の父親は、その後「ピーターパン」という名の製パン工場と小売店を始めるが頓挫する。小百合という稀有な美貌と天賦の才能を持った娘に恵まれたことを、親が利用しようとするのはいかがなものか。父親のマネージメントは、小百合にとっても押しかけ仕事、大迷惑だったようだ。デビュー以来、小百合と父親は相当の不仲であったと推察される。

吉永は子どもをもたなかったが、その理由を、「母との葛藤の経験から自分には子どもを生んで育てる自信がない」と述べている。親子関係が崩壊したことを憂い、自分が子どもを持ったときに同じ形になるのではという危惧があったと彼女はいうが、この言葉は自分などとは全く逆のネガティブな発想と感じた。自分は親子関係の崩壊を軸に、子どもを苦しめるような親には絶対ならないと誓った。

人には人の考えがあろうし、あっていいのだが、彼女の気持ちは彼女にしか分らない。親に仕込まれ、ひたすら従順に生きた彼女が、遅すぎた反抗をしたときには多くのネガティブな感情が彼女には内面化されていたようだ。小学生から反抗した自分とはそこは大きく異なる。常々思うのは、親の刷り込みによる親の価値観が、子に内面化されるのは怖ろしいことだと感じ、危惧している。

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「娘に迷惑をかけたくない」と、ガンに侵されて後一人暮らしを続けた母。「娘に迷惑をかけたくない」というのは社交辞令で、おそらく意地もあったし、すくなからず自省もあったと推察する。あるいは、憎しみが消えなかったのか。どれも考えられるが、そのことについて母は上の言葉を延べるにとどめている。心情を理解する母の詩集に、一篇の詩がある。

子を持つも持たぬも人の宿命(さだめ)なり ひと日ひと日をつとめて行かむ

あなたの人生なんだから、好きなように生きなさいといっている。世の中にはいろいろな親子関係があるが、行き来もしない、口も聞かない親子の不和のほとんどの要因は、親が子に立ち入り過ぎる事にある。それも親が成熟していない現れである。子が自立して家を離れたら親も子離れするという動物に人間は学ぶべきである。育児を終えてなお子どもにしがらむ親はうっとうしいだけだろうに。

親が成長すれば子も成長するし、親が成長しなければ子どもの成長もないが、賢い子どもは親を見下しながら自力で成長する。その時に、喪失感を持つ親が子どもの自立に影を落す。「自分の邪魔をしないでくれ」と、強く言った方がいいと思う。親の勝手の喪失感が間違っていると思えばいいことだ。また、近年は親の子どもに対する要求が拡大し、それが原因で子どもの精神が歪むこともある。

家庭の精神的崩壊は起こさぬことが先決であろう。日本も先進国型の育児崩壊の要因を作っているが、それが旧態依然の入試制度である。子どもにとって好ましい将来像、社会人像が、いい大学⇒いい企業という図式が出来上がったのが、高度経済成長期を経験した先進国型子育て像である。それを誰もが目指そうと無理な育児を行うべく金銭的教育が横行し、教育産業が隆盛する。

イメージ 8子どもの教育方針をめぐって夫婦が対立し、離婚に発展する時代だ。本来、人間教育とは家庭教育をいうが、知識偏重教育のために、人間性や人間としての逞しさ、人間としての賢さに欠けた子どもが量産されている。教育者は知育教育の危険性を知りながら、人間教育のように目に見えない教育法が見えず、判らず、点数と言う数字に特化される教育を「了」とする。だからか、自分は人を見るときに目に見えない部分をしっかり見て判断をする。同様に、美人だから良い人間とも思わない。⇒性悪美人を多く知っている。金持ちだから立派とも思わない。⇒守銭奴の醜悪成金を多く知っている。東大卒だから偉いなどと思わない。⇒東大出のバカを政治家を知っている。物質文明社会の反動か、何も持たぬ人に良い物があったりする。

こども ⑫

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子どもを取り囲む問題の大きな一つに夫婦の離婚がある。「価値観の多様化は破滅を呼ぶ」という言葉を聞いた事があるが、自由が権利として野放しにされるとその傾向は免れない。少子化の問題も"結婚しないこと"に価値を見出す人もいたりと、究極的には人類滅亡の警鐘といえる。ニートやひきこもりなど、"働かないことが価値のある事"という考えもしかり。

子どもはいらない、子どもに縛られ、生活に追われるよりも、物に囲まれ、遊びをエンジョイし、人生を楽しみたい。という考えも勝手な都合とはいえない立派な価値観として是認されている。数十年前なら、「結婚なんかしたくない」、「子どもはいらない」、「家庭なんか持たず、自由に恋愛を楽しみたい」などといっただけで、変わり者に思われただろう。

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価値観の多様化現象はなぜ起こったのだろう。様々な要因が見て取れるが、人間形成学の視点でいえば、価値観多様化現象というのは、成熟阻害現象ともいえる。つまり、働かない、結婚しない、離婚も自由というのは、種の保存法則からいって人間だけに与えられた生物学的エゴであり、子を生んで育てる障害になっているし、家系の自然淘汰現象となっている。

動物の持つ本能機能の成熟とは、個体維持、集団維持、種族維持の順に成熟していくもので、育児能力だけが独立して成熟することなどあり得ない。人は働き、近隣・社会と付き合い、家庭を維持し、さらには好ましい育児をするという考えに充実しなければ、親としての育児能力も身につかない。現代人は成熟阻害のため、個体維持能力、集団維持能力も未熟である。

それが育児能力の未熟さに連なって行く。ネグレクトは、端的にいえば自分が遊びたいから、子どもが障害になる、邪魔になるということだ。親となって子を持ちながらも、面倒な子育てより自由気ままにエンジョイしたい、という人間のどこが成熟していよう。こういう未成熟の人間は脳の仕組みからいっても、育児能力だけが充実させることは不可能である。

なぜ、自分の時間を犠牲にしてでも、面倒な子育てに邁進するのか?それが子を持った親の夢であり、希望であるからだが、それがあまりに嵩じると別の問題がでてくる。子育てに熱心であるのはいいが、あまりに母親の自己のブランドイメージが高いと、それを子どもに求め、自己の価値観を子どもに押し付ける親になる。美しく生まれた吉永小百合はその被害者だった。

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子育てはハッキリいえば面倒である。人間は横着な動物であるから、面倒なことをなくすように頭を使って様々なものを作り、開発してきた。それを文明といい、豊かで便利になった文明社会の代償として人間の本能はどんどん劣化していくことになる。当然ながら面倒な育児も、育児本能の崩壊という現象として、これらは無意識のうちに破壊していくようだ。

「自分は子育ては力仕事」という先人の言葉を信奉した。「力仕事」とは、力のいる仕事という意味ではなく、子育ては田畑を耕し種を植え、花を咲かせて実をつけさせること。近年は田畑も機械化が進んでいる。効率を上げるとは聞こえはいいが、面倒くさいことはやってられないという時代になった。子育ても教育産業の充実で、外注教育が当たり前になった。

自分の子どもを他人に任せるというのは親の基本法則に反しているとルソーはいい、母になってルソーの『エミール』を教育書とした当時の美智子妃が、皇室で当たり前に行われていた乳母制度を取りやめた事は知られている。子を我が胸に抱き、我が母乳で育てた初めての人である。ルソーは『エミール』になかで、母親による哺育の重要性を以下主張している。

「最初の教育はもっとも重要なものであり、それは明らかに女性に属している」といい、また、「もし、自然の創達者が、教育が男のものであることを欲したなら、子どもを養うための乳房を男に与えたであろう」ともいっている。教育を意味するフランス語の、éducationが古代には「乳を与えて育てる」という意味からしても分かるであろうと、ルソーはいう。

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このような母親の重要さを乳母による哺育と比べて明らかなのは、金銭で雇われた乳母は、子どもたちへの自然の愛情をもっていない。乳母が心を配るのは、自分の仕事をいかに楽にするかということになり、乳母は子どもを自由にしておくと危険であるがゆえ、常に子どもから目を離すことができないであろう。「目を離さないことはいいこと」のように思うのだが…

子どもを常時監視下に置き、子どもの自然な好奇心や、自由性を阻害することになる。子どもの心身の発育に注意を注ぐというより、子どもをうぶぎで小包のようにグルグル縛っておけば、とりあえずお金になる仕事である。「あれはダメ」、「これはダメ」と怪我をさせない子守りは、子どもの好奇心を削いでしまう。禁止の多い窮屈さが子どもの成長を妨げる。

ルソーは乳母による問題を、"うぶぎの弊害"としていろいろあげ、それが子どもの身体的自由な成長を阻むとした。生物は母なる大地に自分を適応させて生きていくものだ。その母親が、便利な育児を好み、片手間な食事を与えるなど手のかかる育児を嫌うとどうなるか?それより、なぜそのようになるのか?生物の親は、育児に手をかけることを本能的に喜びを感じるもの。

本能行動というのは、楽しい事を前提としている。快感といっても過言でない。食事にせよ、睡眠にせよ、排便にせよ、セックスしかりで、育児本能も親の喜び、楽しみであるはずである。ところが、育児本能が崩壊した成熟しきれていない人間が親になると、育児を嫌うし、便利な育児を模索する。そういう親はまた、手のかからないおとなしい子を好むようになる。

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だから子どもが少しでも反抗したりすると、頭にきたりで殴る蹴るの虐待をする。逆らうことが面倒で許せない、こういう育児本能のない親が多いのではないか。自分はボロを着てもせめて子どもには、そんな親であるはずがない。「手のかからぬおとなしい子」を好む愛情は、危険なであり、子に対する消極的敵意であるからして、子どもの人間形成に歪みとなる。

サルやチンパンジーやネコでも我が子に罰を与えるが、人間はさらに積極的に我が子に加害行為を行う動物である。叱ることは教育の範疇だが、ガミガミ言うのは子どもに敵意や憎しみを持ち、カッとして攻撃していることが多い。これと同じような心理的しくみで子どもに罰を与える親は決して少なくない。それが嵩じて子どもを傷つけ、殺してしまう親もいる。

我が子にマジで敵意を抱いた親はいるし、そういう話は度々聞いた。学問的な頭のよい親にかぎって育児が下手なのが多い。知識ばかりが詰め込まれ、人間体験の機微に疎いから、学問で学んだことのない問題には対処ができないのだ。人間の大脳の新皮質(思考する場所)に知識を詰め込み、知識が豊かではあれども、生物としての健全性を統合する脳の機能は低下している。

したがって知識教育をされた親ほど本能破壊が強く、また知識偏重育児を内容とした育児書に走りやすいといわれている。学問や受験勉強は次の学業のステップに必要であって、社会に出れば社会の専門知識が必要となる。学校で学んだこと等何の役に立たないのが社会であるのに、学業成績がよかったからと自分は頭がいいと思い込んでる奴ほどバカである。

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知能が発達した人間は、月や火星や分子レベルのことまで科学する能力は優れているが、生物としての健全性と優れた知能は何の関係もなく、むしろ生物的健全性を阻害するものであろう。したがって、育児や夫婦関係、人間関係といった学問にない問題に疎く、教育や福祉という弱者行政に過ちを犯しやすい傾向にある。灘高⇒東大は所詮は一面評価であるということ。

それで素晴らしい子どもだと、鬼の首でも取ったようにはしゃぐ親の気持ちも分からぬでもないが、はしゃぎ過ぎは禁物だ。東大は人生の過程でしかないのよ。16歳でツアープロとなり、17歳で「石川遼記念館」を建て(閉鎖)、20歳で自伝を書いたが、すべては「ノーベル賞級の息子」と、はしゃいだ父の偉業であろう。世界の王、「王貞治記念館」は70歳にして作られた。


優れた子どもを持つと親は舞い上がりやすいが、それを家族で喜ぶのはいいにしろ、どうしても多くに人に自慢をしたくなる。ブランド品のバッグを持つことで、自身にブランド力がついた気になると同様、ブランドチャイルドを持った親は、自分も優れた親と思うのだろう。王、長嶋、具志堅、さらに真央や錦織や本田の親が優れていようがいまいがどうでもいいこと。

なのに、それでは不満な親はいるし、もういいからあんまり顔をみせないでくれという声が上がるまで気づかない。自信の息子はそれでいいと思うが、自慢の息子というのは控えた方がいい。このように子にまつわる親の問題は、正負両面あるが、負の部分で言えば子どもには関係のない、親同士の都合である日突然、一人の親が家庭から消える「離婚」であろう。

イメージ 6離婚は人生の汚点とはならないし、というのも個々の考え方、気持ちの持ち方だろう。女性は子どもに対して近視眼的といわれるが、中には理知的な見方をする女性もいる。「ガミガミいわず、子どもが自分の頭で考えて行動をするまで、辛抱強く見守る努力をしています」。「子どもの意欲を削がぬよう、自分の価値観を押さえ込むようにしています」。などを聞くに、「これは凄い」と思わされる。

ほとんどの妻は、夫の給料に嘆き、愚痴をこぼす。他人の夫の出世を羨み、帰りがいつも遅いだの、家庭サービスがないだのと不満を言う。口を開けば、「なんであなたはそうなの!」と罵り、「パパのようにならないで」と子どもを味方につけて非難する。父親尊敬しないようにと教えられた子どもが立派に育つのか?夫の悪口ばかりいったところで、いい男になるだろうか?

「思慮ない女性」というのは、こういう女性。毎日あくせく働いてもねぎらいの言葉ひとつない妻に、「俺はどうしてこんな女と結婚したんだろう」と思い始める。愚痴をこぼす相手から、「悪口もほどほどにしたら?」とたしなめられても、「悪いのは夫、私は事実を言ってるだけ」と引き下がらない。悪いのが夫であっても、愚痴をまきちらし、不平不満の限りをいい、夫を見下げることが良い事?

「別にいいんじゃない?」という女性なら、「百年の不作」。妻から逃げ出したいが嵩じて、妻のハナを明かしてやりたいという報復感情に至ることもある。「俺が養ってやってるんだろ?」と言う夫に、「私が面倒みなければ何もできないくせに!」と返す妻。どちらも間違ってないにしろ、互いの悪い部分だけをあげつらう夫婦に明日はない。今日さえままならない。

男と女は違う生き物だから、対等だ、平等だという前に、違う部分を見つけ、評価することが大事。何様夫に何様妻というのは、相手を卑下することで自分を崇めるこういう人間にバカが多い。人は人から自然に尊敬されるもの。自尊心は自信にすべきで、自慢することではない。他人が認めてくれないから自慢したくなるのだろうし、そういう自尊心ははしたない。

夫の欠点ばかりに目が行って、「私ばかりが我慢をしている」などと、被害者意識を丸出しにする妻は多い。女はなにかと悲劇のヒロインに自分を見立て、それで憐れむ自分を増幅させるところがある。私は泣くほど悲しいのよ、と思えば涙まで生み出せる生き物だから、大したものだ。「『ここは泣くべき、泣いた方がいい』と思ったら自然に涙がでるのよ」。と言った女がいたが、ずいぶん正直な女だった。

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「女は、自分でも嫌になるくらい腹黒いのよ」と言った女もいた。そういう言葉を聞いただけで、信頼できる女だと感じた。こういう言葉は、自らに正直であるからこそ出るものだ。人に正直であるためには、自らに正直でなければできないだろう。自分が信頼する人間とは、自分にいいことも、よくないことも口に出せる人間である。自らを偽らない人間は、人を偽ったりはしないものだ。

人は失敗した時に理由をみつけて逃れたり、他人のせいにして己の罪を軽減しようとする愚か者。バカだとわかっているなら、そのようにしないようにするのが、賢い生き方。これについては様々な体験もし、安易に人のせい、何かのせいにすることは避けて来たが、その走りとなったある事を思い出す。大したことではないが、自分にとっては自省材料となる。この話は次回…

こども ⑬

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何かをやる以上失敗はある。当たり前のことだ。バスケのフリースローで10割入れば神、野球の大打者は10本中4本ヒットがでれば天才。ボーリングで常時300点はなく、ゴルフのパットも狙ってもはずす。これらは選手たちにとっては失敗である。人間は成功もあるが失敗もあるし、だから失敗を恥じてごまかすこともない。昨日言いかけたのは以下の事象である。

30歳くらいだったか、仙台に出張に行った時のこと。駅前のホテルにチェックインし、ふらりと街の空気を吸いに外にでた。子細はハッキリ覚えていないが、女子大生風のカワイこちゃんに声をかけ、数分後には彼女の案内でホテルに向かっていた。即決の相手だったんだろう。時間の必要な女もいるにはいる。部屋に入るとすぐに女が切りだした。「わたし、お金がいるんです…」

その言葉に返答した。「金がいるならいい。出よう!」そそくさと外に出た。この話を東京に戻って同僚にした。「ホテルまで入ってか?値切らなかったのか?5分でも休憩料金取られるだろに?」、「確かにものの5分も居なかったな。満額取られるよ。そういう契約だし、2時間も5分も同じ料金」、「その女も、入る前に言うべきだろ。それが売りの女の常識ってもんじゃないか?」

言ってる意味はよくわかるし、常識のあるナシは人によるし、そんな所で常識を持ち出しても意味はない。自分はむしろ彼女の行為は正解だと思った。なぜなら、事前にお金のことを言えば断る男もいるだろう。言わなければいけない決まりはないし、ならばホテルに入っていう方が金を得る確率は高い。そこではいろいろなやり取りが考えられる。「なんだい、お金いるの?」と言いながら男もその気の場合。

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値切ったりの交渉もするだろうが、自分のように5千円払っても即座に退室する男はどのくらいいるのだろうか?人の事は分らないが、自分は「お金をくれ」と言われただけで、気が引くから値段を聞くとか、値切る等はあり得ない。女を金で買うという行為が自分の辞書にない。同僚も、「せっかく入ったんだし、ガンガン値切ったらよかったのに。お前が先に言わないから、半額にしろとか、俺ならいうな」という。

事前に言えば「NO!」でも、部屋に入れば「しょうがないな」と諦める男もいる。よって、ホテルに入るまでは何も言わない方が賢い。彼女は見るからに女子大生風の個人営業のようだった。プロなら相手の財布の所持も気になるし、先に値段交渉をしてからというのが一般的だ。「あのう、わたしお金いるんですけど」の言い方も押し殺した声だった。プロと交渉の経験はないので創造である。

彼女は賢い、自分がバカだというのが正解である。そのように自覚し、認識すれば、次回に同じことがあれば、自分がナンパしたようであっても事前に、「お金くれとかないだろうな?」と聞くだろう。それが学習というものだ。つまり、その分偉くなったわけだが、これを同僚のように、「女が悪い」、「非常識だ」などの方便をたれていては、ダメだ。すべては自分のバカさ、至らなさと、自己責任を回避しない。

何事も真に学習しようとするなら、自己責任とした方がいい。そのように深く見つめると必ず自分の落ち度に気づくし、自分は悪くない、相手が悪いとした場合は、自分の何物にも気づかない。向上する人間は、自分の落ち度をどんどん消してなくしていくものだ。くだらない自尊心がもたがるよりも、己の非を探すことだ。人間は完璧でない、その場その時に完璧な方法が見つかるともいえない。

イメージ 3一晩考えてよい方法が見つかることもある。そういう自省が新たな自分を作る。そのその時場で正しく、適切な方法や言葉が自然に生まれるようになる。望めば敵うようになるというのは、それだけ意識が高いからである。高い意識を持てば最善に近い行動ができるようになだろう。サッカーの本田や野球のイチローなど、常に高い意識で捉えているから成しえた。かつてイチローは、「全打席でヒットを打つのが目標です」と言った。中学生の孫が二年になってバスケ部のキャプテンに指名された。自分は孫に「どうすれば信頼されるキャプテンになれるか分かってるか?」と聞いてみた。「あんまり自慢したり、偉そうにしないこと?」と言うので、「そうじゃない。誰よりもいいプレーをすること。それで信頼を得れるし、信頼が得れると自信にもなる!」と教えた。

ジョーダンが信頼されるのは、彼がいいプレーをするからだ。フリースローの練習で10本打って7本、8本入れば上出来であるなかれ。10本中10本入れる気持ちが高い意識であろう。ついでにこうも言った。「打ったシュートを100%決める方法があるけど、その方法知ってるか?」といえば孫は「そんな方法あるん?」と目を丸くした。「ダンク!ダンクなら100%入る」、「なんだよ、もう、できるわけないっしょ!」

ときどきふざけたことをいうので、最近は少し構え気味になっている。もう少し高度なギャグが要求されるこの頃だ。まあ、中学生もプロもリングの高さは同じ305㎝である。身長が170㎝の孫がダンクするにはどれだけのジャンプ力が必要か?身長170cmなら腕を垂直に伸ばすと指先の高さはだいたい220cm前後。高さ305cmのリングにダンクをするなら、15cmはリングより高いところに指先がなければ無理。

となると、垂直跳び100cmで届くことになるが、助走をつけてジャンプすれば80cm程度跳べばダンクは可能という計算だ。NBAにスパッド・ウェブという身長168cmの選手がいた。スパッドは1986年のNBAオールスター・スラムダンクコンテストで優勝もした。彼はこんな名言を吐いている。「小さかったら高く跳べばいい!」。なるほど…。名言というより、当たり前の言葉である。


離婚の続きを書こう。子ども時代に親が離婚した体験もない、親となって子どもに離婚を体験させたこともない。ただ、夫婦が別々に暮らして15年になるが、最近の用語では別居婚というらしい。別居婚と言うのは続にいう煩わしいから別居し、やがて離婚になるというその別居とは違うらしい。近年は籍だけ入れて、最初から同居しない夫婦も居たりと、これぞ正真正銘の別居婚。

住居を別にしたまま結婚するスタイルであり、なにやら不自然な気もするが、いろいろなケースがあってこういう形態をとるようだ。例えば、働く女性が増えた昨今にあって、互いのライフスタイルを崩さないために別居婚を選択する場合が多いらしい。他には再婚で子供がいる場合、とりあえず籍だけを入れ、子どもを慣れさせるために当面は別居婚から始めるというケースもある。

仕事の都合などから単身赴任となり、結婚当初は同居していたが、途中から別居になる場合は「別居婚」と呼ばないらしい。また、別々に暮らし、一緒に過ごすのが週末だけの場合、特に週末婚というのだそうだ。「別居婚」などという法的な定義があるわけでもないし、どうだっていいだろ。籍があって別々に暮らしているなら別居婚だろに。それがダメなら別居夫婦と呼べばいい。

という事で我が家は別居婚。妻は姑と二人で同居だが、頻繁に娘と息子のところに遊びにいっている。そうでもなきゃ、あんな姑とでは息が詰まってやってられないだろ。さて、親が離婚すれば就学児の子どもはどちらかに引き取られることになる。一概に離婚といってもその時の子どもの年齢によって、子どもの受ける印象は大きく変わってくる。まあ、離婚はないにこしたことはない。

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そうはいっても、愛情のない夫婦が陰険な日々を送るのは、そちらの方が断然子どもへの影響はよくないだろに。こういう場合はさっさと離婚した方がよい。離婚をためらってさらなる不幸に陥るケースもある。具体的にいえば、刑事事件となるケースで、これはもう家族全員不幸である。夫婦とは不思議なもので、おしどり夫婦と言われても10年も立てば相手の嫌な面が鼻につく。

これが度を越すと、夫は家に帰るのが憂鬱となり、帰宅恐怖症候群に陥る。さらに妻が夫をないがしろにしたり、冷たく接したり、邪険に扱うと、ついに夫は実家や心休まる女性のところに逃げ込むようになる。妻には自分が夫を追い込んだとの自覚はなく、女を作ったと怒り心頭となる。作ったのは事実だが、自分がその原因の一端であるなど考えない妻に付ける薬はない。

反対に、夫が荒々しい性格であったり、暴力をふるうなどで妻を追い込んでいるケースもある。心やさしい善意な妻は、夫が愛人とヨロシクやているのに、夫の帰りを待ち続けていることとなり、こういう善意な人間はどんどん憔悴していく。離婚はこういう場合から起こってくる。別居の理由は夫の浮気だから、当初は妻の親族も周囲の人たちも、はた夫の親さえ彼女に同情、味方になる。

「慰謝料もらって離婚した方がいいんじゃないか」、「新しい人生を始めるべきだよ」、「男運が悪かったと思うしかないね」などと周囲は意見をする。昨今は、「女は我慢よ。何が何でも離婚は損だしね。ご主人だって、一瞬の気の迷いだから、長い目で見てあげたら…」、「浮気の虫がついただけで、待ってるとそのうち相手にも飽きて帰ってくるよ、我慢、我慢」という意見は少ないかも。

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夫婦の離婚が特別なことでなくなった現われかもしれない。女性が離婚して生活が苦しくなるのは事実であっても、それ以上に我慢を強いられる時代ではない、今や離婚は女性にとっても市民権を得たのだろうが、昔は、「石にかじりついてでも我慢しなさい」、「離婚はしない方がいい」との意見が大勢だった。問題は子どもに対するケアで、そのメドがたてば女性は離婚に踏み切る。

かつて女性の離婚は、「出戻り」とされ、周囲から異端視され、実家にこもって肩身の狭い日々を送っていたが、近年は女性に離婚に対する社会の偏見はない。夫依存型の社会は様々な女性に対する差別的偏見を生んだが、すべては過去の遺物。価値観多様化は、成熟阻害現象といったが、結婚した相手とは互いの寿命が尽きるまで、添い遂げるのがよいとされた。

なぜ一生添い遂げるのがよいのだろうか?考えたこともない設問に答えを出すべく今、思考をした。結果、それがよいとの答えはでなかった。互いが浮気とは無縁であっても、一生添い遂げる夫婦が幸福とは限らない。という答となった。添い遂げることがよくない、悪いではない。喧嘩もしたし、浮気もあった、憎んだこともあった…、でも一緒にいて良かった。そんな夫婦も幸福である。

が、一生添い遂げる夫婦には、欺瞞を演じ、虚飾夫婦もある。単に別れないというだけなら、その"別れない"ことが素晴らしいわけでも、よいわけでもない。むしろ別れて別の誰かと新たな人生を始めた方がよいかも知れない。それをせず、婚姻継続する夫婦は他人がどうこう言う前に、本人たちが幸福と思っていない。で、幸福でないなら不幸なのかといえば、そうでもない。

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別れるのもいろいろ難義、面倒くさい、ならばこのままでとりあえず問題はないのだし…。こういう夫婦は多い。以下は信じられない話だ。「僕たちは結婚4年目になります。昨年やっと子どもに恵まれました。それまで僕たちは、近所でも評判の仲のよい夫婦でした。それが、子どもが乳離れする前に、妻の浮気現場を目撃したのです。相手は妻が結婚する以前の恋人でした。

つまり、僕の恋敵であり、その男が僕の留守中に家にあがり込んでいたのですから、僕の驚きがどれほどであったか察していただけるでしょう。それ以降ずいぶん悩み、苦しみました。もう妻の顔を見るのも嫌になりました。離婚をしたいと思っています」。この夫の言い分に対し、妻はまったくのデタラメと否定した。「夫の嘘に呆れました。実際は、主人のほうに先に女ができたのです。

夫はそれ以後ガラリと変わりました。本当は離婚したくてたまらないくせに、自分の浮気では私が離婚しないと思ってか、私が浮気をしたかのようにいっているのです。私の浮気相手がいるのなら、どうぞ連れてきて欲しい。そんなに私が嫌なら離婚してあげてもいい。ですが、私が浮気をしたなどという大嘘は許せません」。こうまで話が食い違うというのは、どちらかが嘘をついている。

果たしてどちらの言い分が嘘であろうか?それを詮索したところで、二人の仲が円満におさまることはない。民法では、離婚の理由をいろいろ挙げているが、「婚姻を継続しがたい重大な理由」というのもある。この夫婦の場合、この食い違いは充分それに該当するし、離婚の理由となり得る。自分の勘では夫が嘘をついている。理由は、妻の態度は堂々と自己の潔白を述べている。

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「あなたが断定する過去の恋敵とやらを連れて来なさいよ」といい点は、逃げも隠れも誤魔化すこともせず、積極的に真実に向き合おうとしている点からそれを感じるし、夫の言い分は自己妄想が無意識に事実と思い込んでしまったような言い草である。「そんなに言うなら相手を連れてきなさいよ」というのは、開き直った高等戦術の場合もあるが、潔白である場合に言える言葉に思える。

夫の言い分が真実なら、妻の言うように相手を呼んで客観的事実を証明すべきであろう。ただし、「実際は、主人のほうに先に女ができたのです。」と妻がいうように男がいたのは間違いない。であるなら、妻にも肉体関係があった可能性はある。それで上記の言い分なら、この妻は男を数倍上回る嘘つき、悪女であろう。あくまで、夫が「先」ということで自分の罪を軽減させている。

離婚の原因となる"浮気"は、夫の方と相場が決まっていたが、近年は男女平等のご利益なのか、妻の浮気も珍しくない。女の浮気は嘘と演技の巧みさもあって、なかなか尻尾をつかみにくいし、夫がマヌケという部分もある。こと浮気に関して夫(男)は正直すぎ、演技力は大根役者であろう。

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