♪仰げば尊し我が師の恩~と歌い始まる『仰げば尊し』だが、年齢を経るにつれて徐々に好きになった。どことなく哀愁を帯びた楽想が感傷的でもあり、心打たれるのはまさに音楽の持つ魔力である。センチメンタリズムを美しいと感じていた頃でもあってだろうが、もっとも好きな個所は、♪今こそ別れめ~のところで、「この部分を少し延ばすんですよ~」と、教師が力説した。
我々は言われるがままにその様に歌ったが、どれくらい延ばすのかが分からず、音楽担当教師のタクトがないと、人によってまちまちとなる。楽譜には四分音符にフェルマータ付きだから、音符を延ばす時間は任意となる。だから、棒の指示がなければ揃わない。音楽理論でフェルマータとは、音符や休符の記譜上の定量時間が延長されること、またそれを指示した記号のこと。
イタリア語における"fermata"とは、英語"stop"に相当する名詞であり、例えばバス停の標識には"Fermata"の表示がある。古典派音楽以降においてのフェルマータは、どんな場合であっても、付与された音符や休符で音楽の時間の流れを停止させるが、その効果については中村紘子がテレビのピアノレッスン番組で面白いことを述べていたので、自分も子どもに同じように伝えた。
音符の長さを定量以上に延ばす、その長さは4倍程度という物理的な認識があるにはあるが中村は、「この音符から離れたくない、次の音符に進みたくない、そんな気持ちで弾くのよ」と指導した。これはまさに音楽を言葉で教えている。そのそも音楽というのは、黒や白の音符や休符やクレシェンド、リタルダントなどの指示記号で、作者の意図が表現されている。
が、あくまで音符は音符、記号は記号、音符や休符の長さは作曲家の意図する近似値に過ぎない。よって、音符や記号を物理的に奏してはとてもじゃないが音楽とならない。いい例がオルゴールである。定められたテンポ、音量、奏法記号もないあの音楽を、美しい音と感じても、音楽的には無機質極まりない気持ち悪さがあるし、機械的で怖ささえ感じられる。
やはり音楽は有機的でなければ感動を与えない。メトロノームの功罪を知っていた自分は、クラシック音楽にメトロノームは無用と考えていた。そうはいっても音楽を有機的にハートで感じさせられるか、言葉で教えるのは至難である。カラヤンやクライバーのリハーサル映像を見ると、音楽を団員に伝えるためにあらゆる比喩を使ったりと、その切迫感がユニークで面白い。
「この場面はハンガーにかけていたコートが、ドサッと落ちようなそんな様子を頭に描いて…」などと言われても、受け取り方は人によってまちまちだろうが、音楽が有機的で生きているものだというのは伝わってくる。話がそれたが、『仰げば尊し』の♪今こそ別れめ~のフェルマータは、別れたくない、師から離れたくないという心情を現わしていることになる。
ただ物理的に音を延ばすのではなく、そういう気持ちを教師が教えたら、音楽もっと味わい深いものになったであろうが、残念ながらそんな教師は一人もいなかった。我々の時代と違って、こんにち『仰げば尊し』を卒業式で斉唱する学校は少ないというが、その理由については諸説あるというが、自分の知る範囲において一部の教職員から歌詞に問題ありと指摘された。
その指摘は歌い出しの、「仰げば尊しわが師の恩」の歌詞が教職員を賛美しているという点。それと2番の歌詞にある、「身を立て名を挙げ~」の箇所が、「立身出世」を肯定しているという点であり、教育上も子どもたちに説明が難しいということらしい。このような見方は日教組による偏った「平等主義」に基づくもので、教師と生徒は平等であるべきという彼らの主張である。
「末は博士か大臣か」といわれた時代に育った我々だった。小学六年生の卒業文集には、「将来は天文学博士」になりたいという夢を書いた自分だが、本当に「なろう」とか、「なれたらいい」とかというでもなく、文集にはそのようなことを書くものだというお体裁であった。将来の「夢」などは何にも決めてはいず、天文学博士などは子どもの戯言であったのだろう。
小学生の卒業文集に、「野球の選手になる」、「サッカー選手になる」と書いて、本当に夢を実現した選手は、その夢に向かって努力を続けただろうし、その意欲は凄いことに思える。子どもというのは大きな可能性を持っているのが分かる。何かに近づくための努力は何かに近づくだろうし、何もしなうで何かに近づくことはない。ただし、夢を持って夢に向かって生きるだけが人生でもない。
夢などなくて普通にだらだら生きるのも捨てたものでもない。「子どもは大きな志や夢を持って努力せよ!」といわれるが、そうしなかった自分はそれでよかったと思っている。あまり自分を強いることが好きでなかった自分は、だらだら生きるのが自分にもっとも合った生き方だから、その様に生きてきた。努力なんて言葉は好きではないし、したくないことはしなかった。
何かになった人たちもおそらく、「努力」したなどと思っていないのではないか?そのことが何よりも好きだったから、熱中もし、集中したのではないか。藤井聡太も将棋の魅力や面白さに取り付かれたのだろう。そうした"取り付かれるもの"があって、それにひたむきになった結果を、人は天才というなら、エジソンのいう「努力」という言葉が真に天才の実態である。
ただし、「努力」というのは客観であって、当人の主観は楽しいこと、何よりやりたいことであり、努力とは思ってないはずだ。嫌なこと、したくないことを無理してやるというそういう努力はあるかもしれないが、それが実を結んだとしても本人は満足なのだろうか。その点については懐疑的である。自分が望まぬことで名をあげたり、功を得ても人は幸福とは思えない。
好きで乞食をやる人間の方が、本質的には幸せかも知れない。つまるところ、他人から見た幸福と自身が感じる幸福には差異がある。「人から羨まれる境遇にいるのに、何がそんなに不満なのか?」と他人は言うが、望まぬ幸せを得ても人は幸せではないのだろう。貧乏とか貧困とかを物質的な面だけで人は捉えるが、心の貧困所有者もまさしく貧乏人である。
衣食住に必要な物資を十分に手に入れることができれば、悲惨な生活を強いられることはないが、これと並行して我々は、感情や知性の面でも貧しさを追放することも大事となる。藤井聡太に妬みを抱く棋士がいるかも知れない。批判的な一般人もいるかも知れない。が、彼には何のいわれもないことだ。プロ棋士だから収入は得るが、彼は将棋を収入見地(職業)から捉えていない。
というより、職業として将棋の何が面白いかであろう。職業(収入面)として将棋を考えなければならなくなった人たちにとって、将棋は悩ましくも辛いことなのではないだろうか。師匠である杉本七段は、「彼に何かを教えるのは彼のためにならない」と述べていたが、弟子と公式戦初対局を終えた彼が発した言葉は、師弟の在り方の理想とするものであった。
「私の棋士人生で一番注目された対局。勝負としては残念だったが、今日という一日は素晴らしいものだった。藤井六段にお礼を言いたい」と弟子に感謝の言葉を述べた師匠である。3月2日の記事に書いたように、「母の日」、「父の日」にお母さん、お父さんありがとうなら、「子どもの日」に親は、子どもに対して、「生まれてきてくれてありがとう」と言ってもいいかなと。