ネット内では藤井聡太の話題が持ち切りだ。昼食に、夕食に何を食べたなどを話題にするのは将棋に興味ないゆえにだろうか。「小人閑居して不善をなす」という言葉がある。小人物が暇を持て余すと、とかく悪事に走りやすいとの意味だが、他人をあれこれ言うのも子どもなら、話の中味すら幼稚である。頭から袋を被って顔を隠せるネットでは、羞恥なく何でも言えてしまう。
下の書き込みもヒドイ中傷だ。聡太も有名税は払うことにはなるが、こうした心無い誹謗・中傷に対して、無視するなり耐えるなりが身につけておきたい社会性である。「燕雀安くんぞ…」の志がある彼にとって、こういう雑音に動じることはないとは思うが、毎日店屋物を食べてるわけでないにも関わらず、こうしたバカどもにつける薬はなく、呆れを超えて笑ってしまう。
対局時には好きな物、食べたいものを食べて対局に励んでもらいたい。「鴻鵠の志」の意味すら知らぬ雑魚たちがうごめくネットは無視に限るが、出る杭は打たれる将棋界の狭い社会にあって、才能希薄な諸先輩の風当たりに対処することが大事であろうか。小人棋士による卑屈な言動には、人徳もあり、師である杉本七段が立ちはだかるなり、適切なアドバイスをくれるハズだ。
先般、マスコミやファン注視のなか、杉本・藤井戦の師弟対決が行われた。杉本は藤井を弟子にとって以降、800局くらいの対局をしたといっていたから、公式対局といっても、初対面の棋士に比べて緊張感はないと思うが、周囲やマスコミが話題にして盛り上げるのは仕方がない。気心も手の内も知り尽くした両名の対局前の表情からは、普段通りの感じが伝わってきた。
結果は事前の予測通り藤井の勝利だったが、「赤子の手をひねるが如く」の言葉に相応しく弟子の圧勝だった。藤井の頭には杉本が指す手の一切が予測の範疇、読めていたに違いない。何の試合においてもこういうケースを、「手玉に取る」との言い方をする。斯くも早い師弟対決の実現に際して藤井は、「対局に臨むからには全力を尽くしたい」と意気込みをみせていた。
他方、師の杉本は歴然とした藤井との実力差を最も熟知する一人として、勝敗そのものに対する周囲の興味は想定内ということもあって言及せず、「まずはうれしいが、棋士としては絶対に負けたくない相手の1人」と、勝負師としての自らを鼓舞する発言であった。弟子は真に師に勝ちたいのか、師は真に弟子に勝ちたいものなのか?その辺りは想像するしかないが…
藤井とおなじく中学生棋士の一人谷川浩司は、21歳名人という史上最年少記録を持っているが、彼が名人時代に師匠の若松政和六段と対戦することになった。その際谷川は早めに下座に着席して師を待っていた。その光景を見た内藤國雄九段が、「今日の名人との対局相手は誰や?」といった。内藤は分かっていながらあえて名人の下座にクレームをつけたのだ。
例え師匠と言えども、そんなものは個人的な感情であり、情緒で名人の権威を汚すなどあってはならない。促されて上座に移動したものの、いかにも谷川らしい。そういったところが、組織の長としての適格性を欠いている。谷川は"いい人"であろうとの意識が強い人であるがゆえに、機能集団たるリーダーには不向きである。前代未聞の三浦事件はかくして起こった。
囲碁棋士の大枝雄介九段は2010年7月に他界したが、彼は柳時熏九段、マイケル・レドモンド九段ら多くの弟子を育て、同棋院理事も長く務めた。 その彼が自宅を大枝道場として門戸を開き、内弟子を指導・教育していた。教育評論家俵萌子が、「誰が学校を荒廃されたか」(VOICE 昭和59.9)で大枝道場をとりあげていた。当時、道場には11歳から21歳の門下生がいた。
消灯は午後九時、掃除、洗濯、買い物、料理などの一切の家事を彼らはこなし、無類の礼儀正しさがあった。酒、煙草、男女交際、テレビはご法度。手紙類はすべて師に管理され、無断外出も禁止で、ひたすら碁の勉強に励む。戸塚ヨットスクール顔負けの生活が、一切体罰なしに行われている状況である。内弟子は全員中卒であり、高卒者は一人もいない。
学歴的には中卒だが、そんなことは何の問題にならない。門下生にとって師は、自ら選んだ師であり、仰ぎ見る峰(畏敬の対象)である。中・高生にとって師は、先公である。住み込みの弟子とはいえ、彼らは地方では天才児と騒がれ、期待された子どもであり、その彼らがお使いや雑巾がけというストイックな修行をこなすが、大枝道場には明確な目標が掲げられている。
先ずは日本棋院の院生になること。院生になるにはプロ採用試験があり、これを受けられるのは成績上位者20名。プロ試験では2ヶ月かけて受験者が総当たり戦を行う。プロになれるのは全体で6名、東京からは3名。市ヶ谷に通う院生がプロになれる確率は約5パーセントという非常に狭き門。続いて15歳までに初段、22~23歳までに、四、五段が大枝道場の目標である。
昨今の囲碁・将棋界において内弟子制度は盛んではなく、将棋界では皆無ではないだろうか、それでも囲碁の内弟子をとる大淵盛人九段は、自身が大枝門下生時代のことをこのように述べている。「私が内弟子をとろうと考えた経緯についてお話しいたします。私自身、大枝雄介九段の下で中学を卒業してから8年間、内弟子生活を過ごした経験を持っています。
囲碁のプロを目指す者としては遅い出発でしたが、にもかかわらず、大枝九段は私をとってくださいました。師匠に直接恩返しはできませんが、囲碁界に恩返しをしたい。この気持ちが、内弟子をとりたいと考え始めた第1の理由です。第2の理由は、日本囲碁界の将来への危機感でした。10年ほど前から、国際戦で、日本は韓国、中国になかなか勝てなくなりました。
私自身は国際戦の舞台で戦えなくても、黙って見ているわけにはまいりません。継続でき、地に足のついた形で日本囲碁界の役に立てないだろうかと考えた時、しっかりとした若い人材を育てることが大事であろうとの思い至りました。中国では、国をあげて、若く優秀な人材を中央に集めて指導にあたっています。韓国ではソウルに1000近くの子供教室があるほか…、」(以下略)
そうした志が内弟子制度を復活させたという。藤井・杉本の師弟関係も通い弟子であるが、将棋界の多くの師弟が、形式的・名目的なものである中、800局も対局したというのは、他に例のない特別な関係である。二人の出会いは聡太が小1の時で、小4の時に弟子に取った。母親は聡太を正式な入門を依頼するため名古屋市内の杉本を訪ね、3人は市内のコメダ珈琲の店内で会う。
聡太は大人の会話には加わらず、注文したクリームソーダを飲んでいたというが、クリームを沈めようとしてソーダが溢れるのを見て、「ああ、子どもだな」と思った杉本の聡太への最初の指導は、クリームソーダの飲み方だったという。あれから5年後、公式戦で初めて弟子と相まみえる杉本七段の感慨は、およそ師としては思いもよらぬ言葉となって表されていた。