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憎しみを自立の糧に…

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ネット社会は生活を便利にしたが、百科事典を不要にした功績は大きい。ブリタニカや平凡社の大百科事典といえば、書棚を飾るゴージャス本でもあった。「我が家に一冊、百科事典」の時流もあってか、家庭を持ち、子どもが生まれて百科事典購入した。購入したのは小学館の「万有百科大事典 ジャンルジャポニカ20巻」+索引+世界大地図+日本大地図+人体大地図の全24巻。

定価は150,000円程だったか。とっくに粗大ゴミ処分したが、ネットでは全巻が2000~3000円程度で売られているが、40年も前の百科事典にどれほどの価値があろうか。淋しい書棚の飾りにでもというなら購入者もいようが、ネット時代に百科事典ほど時代遅れで無価値なものはない。朝に夕に配達される新聞ですら、電子版と比較すればソースの遅さは歴然である。

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ネット社会は仕事をはかどらせ、プライベートにおいても助けられることは多いが、反面リスクもある。誰もが自由に書き込めることが、悪口掲示板でネットいじめを引き起こす。さらには情報の拡散性といい速度といい、怖ろしい時代である。便利なもはリスクを伴うという当たり前の図式が、ネット社会の最大の功罪であろ、こんにち社会の縮図といっていいだろう。

見知らぬ人と誰と無用心に繋がのも、危険といわねばならない。ネットがない時代には、道端で女子中学生とキモオヤジで出会って声をかけ、仲良くなるなどは起こらなかったし、「あり得ない」としたことが、ネット内では平然とやれてしまうことが怖ろしい。リアル感の欠如から警戒心が薄れるのをいいことに、キモオヤジたちが中高生の柔肌にありつこうとする。

「こんなバカなことがあっていいものか!」ではなく、「こんなことが普通になろうという時代」はとっくに始まっている。かつて野坂昭如は、1989年7月に放送された朝まで生テレビの、『人権と部落差別』の番組中、「この世に差別はなくならない。人は差別されるのは嫌だが、差別するのは好きだから」と述べたが、ここに差別という問題の核心があるようだ。

「いじめ」も同じことだろう。いじめられるのは嫌でもいじめるのは好きということか。でもなぜ、いじめられる時の嫌な気持ちに自分を立ち返らせないのか?「自分は他人でもある」といったように、自分も他人と考えれば他人の心の痛みを感じ取ることはできるろはずなのに、その辺りが人間としての未成熟さであろう。自分が嫌なことは他人も嫌って、簡単なことだろうに。

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群れを作って食物を食い散らしては、別のところに食い物を求めて飛び去って行くイナゴにたとえて、ネットイナゴという人たちの、心無い暴力性はしばしば目にしてきた。他人をボロクソにこき下ろして気分爽快というところに情緒の未発達を感じる。人に、「死ね」とか、「気持ち悪い」とか、自分がいわれて嬉しい言葉なのか?嬉しくないならなぜ他人に言う?

このことをキチンと答えられない限りにおいてバカである。理路整然とした批判もできないハナ垂れ小僧がいうならまだしも、つまらん大人が増えたのは嘆かわしい。他人ばかりに視点を向けず、自分も傍から見れば他人であろう。他者への辛辣なる悪口や暴言の背景には、「他者性」の欠如がある。自己は他者から見れば他者、他者はまた当人にとっては自己である。

「他者性の欠如」とは、つまるところ他者視点の欠如であり、自分が他人の目にどう映っているかを意識しているかどうか、ということである。したがって、他者を、「気持ち悪い」などという人間にエールなど贈ってはならない。何をさておき批判すべきである。「そんなこと言うのやめろ。自分がいわれたらどうなんだ?」といえば、「私だって言われたのよ」ということか。

自分も嫌な目にあったから他人も同じ目に合わせたいということか?いじめの連鎖、悪口の連鎖とはそういうものであるらしいが、どこかの時点で断ち切らないと、自身が受けた被害感情を他人に味わせたいとなる。こうした感情を断ち切る理性を何から得るかであって、書物でも他人の助言でも何でもいいから、人間はいつまでもつまらぬ返報感情から脱却することだ。

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虐待の連鎖というのも怖ろしい。記憶はおぼろげとなっても体が覚えている。自分の様に、親と言えない言動をする親を、徹底的に批判し、「あんな親には絶対にならん」と自ら誓った日があった。その言葉を日記に書いた時の気概は今でも覚えている。憎しみというのは、実は真に大切な感情と同じ激情ではないか?誰にもこの憎しみは分からないと悟った時、人は自立する。

自分が味わった苦しみを、誰かに話したい、話して理解してもらいたい。そういう思いから人は人を頼ろうとする。誰かに愚痴を聞いてもらいたいという女性は多く、他人に自分の味わった憎しみや苦労を話して理解してもらえると思えば、苦しみもやわらぐことになる。しかし、そうである限り、やはり人間はそうした理解者に依存し、精神的に寄りかかることになる。

佐藤愛子も幸田文も、夫に苦労をさせられ離婚をしている。あの人たちが強いのは、いや、あの時代の女性が凛として強いのは、誰にも言って行く相手もいず、一人で耐えたからであろう。愚痴をこぼす相手がいようがいまいが、憎しみの感情などは、所詮誰に話しても理解は得られないと悟った時、人は自立をする。自立の対語が依存であるなら、自立は強さの形である。

他人からの理解の絶望、さらには他人への絶望という孤独(孤立)を経て、人は精神的に強くなり、自立をする。自分は小学高学年で母親に絶望した。絶望することで自身の全存在を憎しみの炎とし、それで自分を保ったのである。傷つき、絶望の果てに、人は一人で生きていける人間に成長していく。昨今は少なくない親子の共依存が戒められるのは、そういう理由でもある。

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他人への絶望こそ人を強くするというのは自分の経験則である。が、あえて人に絶望しなさいなどは言わない。せいぜい、「依存は止めなさい」である。なぜ依存を止めるべきか迄は言わないのは相手が考えること。考える前に押し付けても、反発するだけというのが分かっているからだ。他人に言わないそうしたことを、この場で書いている。言えば聞く。書いたものは読む。

言葉で押し付けられるのと、自ら主体的に言葉を読むのは大きく違う。他人の言葉から吸収する人もいるが、「言いつ、言われつ」の人間関係の問題もある。人は自分に足りないものを、人からあからさまに言われれば反発する生き物。ゆえに言い方も難かしい。自分は相手に主体的に何かを変えさせたいとき、相手を褒める。「あなたは良いが、もっと良くなりなさい」と。

自立には様々な方法がある。自分は母親への憎しみの味を味わうことで自立をしたかも知れない。この人には何も頼らないという依存の断ち切りである。自立とはまた、自らの生に自らが責任を取ることでもある。母への燃える憎しみで眠れぬ夜を過ごしたことすら懐かしい。だからか、人間の救いは神への祈りなどではなく、憎しみの彼方にあるものだと思っている。

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