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相性悪しは、我慢より回避

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文章を書く、絵を描く、どちらも表現行動である。ブログを書くに際し、「何をかいていいのか分からない」というのを聞くが、それなら書かなければいいことだ。書くものにとって、"何を書けばいいのか"というのはまずない。同様のブロガーにはあるのかも知れないが、少なくとも自分にはない。なぜなら、書くという行為は手段であって目的ではないから。

したがって、「何を書いていいか分からない」というのは、目的がないということになる。書けない人はそこが分からず、「文才がある人はいいね~」などというが、口には出さないけれど、(あるわけないだろ文才なんか)と思っている。書くという行為は手段であるから、文才の有無や是非の問題ではなく、まずは何をしたいかがあって、それをするがために文を書いている。

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したい何かは文を書くことではなく、文を書くのはしたいことの手段であると繰り返していうが、では、したい何かとは何なのかを改めて自らに問うてみる。いろいろ浮かぶが、何といっても何事かについて考えたいということ。つまり、あることについて主観的な思考で文章に現わし、現わしたものを読んでみて客観的に納得したり、また納得できなかったりなどと色々だ。

自らの思考による事柄であっても、納得できないものもある。結論としてまとまらないままに、とりあえず中間報告という形での表明であって、そういう場合の思考は継続される。例えば、自殺の是非や死刑制度の是非について、神や宗教の問題や教育制度や人生の目的などは、その場その時その時点における頭に中味を表明するwけで、最終結論とはいいがたいこともある。

良くても結論、良くなくても結論を出さなければならない。でないと、その時点をやり過ごすことはできないからだ。「結論は先送りにし、とにかく今はそれでいく」という言い方があるが、これは結論が出ない場合には仕方のないことだ。将棋の指し手はほとんどそういうものだと思う。良いと思って選んで指すのだけれども、あくまでそれは、「良いだろう」でしかない。

厳密にいうと人間の生き方ってそういうものではないのでは?「これが絶対に良い」というのは、自分が自分に与えたお墨付きである。人によっては、自分で自分のことを決められないから、他人から、「これが絶対によい」というのを拠り所にしたりする。どちらがいいというより、どちらも曖昧であるが、思わぬ結果となった場合に自己決定が勝ると思っている。

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人によっては、「〇〇さんの言うとおりにやったのだから、それでダメなら仕方がない」という人もいる。余程自分に自信がないのだろう。自信はなくとも自分のことは自分で決めたいものだが、自己で責任を取るのが嫌な人は自己を他人に委ねるようだ。よくもまあ、自分のことを人に委ねられるものかと思うが、委ねる人にとってはそれが正しい選択になる。

「何食べる?」と聞いて、「同じものでいい」という女がいる。不思議と思いながらもそれが彼女の決定なら仕方がない。もっとも、主体性のない女性であるなら責任が増すのでやりがいに通じることもある。「お前に任せる。責任は俺が取る」という上司が好きだった。「いえ、責任も自分で取ります」といってみたが、責任というのは取るべき人が取るものなのだ。

したがって、その様にいわれたら上司が責任を取らなくていいように頑張るしかない。それが上司と部下の良好な関係であろう。上のものはそうやって部下を教育し、育てていくべきであろう。「お前の思うようにやってみろ」という上司ゆえに人間は伸びるものだと考える。委縮させないで、伸び伸び育てるのは子どもも同じではないか。他人の顔色を見ながらではダメだ。

子どもが姑息なのは親の責任である。だから、子どもには、「こうすれば叱られる」などと思わないように育てるべきだが、親が子どもの失敗を恐れるから、器の小さい子どもに育つということを親は知らない。教育効果としてのそんなことを知らなくても器の大きな人間からは、姑息な子どもは生まれない。結果は大事であっても、「挑戦」することはそれ以上に大事である。

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「失敗ないためには何もしなければいい」ということを、子どもに教えているようなもの。大事なことは失敗をどう乗り越え、活かすことであるのに、親の心の小ささ狭さが、気弱で失敗を怖がる子どもに育ててしまっている。子どもの頃に絵を描いたり、字を書いたりするときに、隠して書く女の子がいた。少ないが男にもいたが、なぜ隠すのかが分からなかった。

だから、無理やり隠している手を跳ねのけるとその子は泣いた。跳ねのけた自分が悪いのか?だとするなら、隠す行為は悪くないのか?悪くないにしても、可笑しくはないのか?その様にする人間にとっては、悪いことでも可笑しなことでもないのだろうが、見るからに可笑しな行為であった。「見せてみろよ」、「いやよ」の応酬で埒が明かない。だから無理やり手を払った。

それって泣くことか?当時はそうしか思えなかったが今なら分かる。相手が嫌だということを自分はしたのである。人の嫌がることをするのは、理由の如何に関わらず、良くないことである。人には人なりの正しさがあるのだから、他人が正しくないというのは可笑しなことだと、今はまったくそういう風に思えている。人が嫌がる行為を他人が文句をいうべきではない。

こんな当たり前のことが、60歳近くまで分からなかった自分の愚かさである。己の愚かさというのは己には気づきにくいもので、だからといって他者の指摘においても分からない。自分の本当の愚かさに気づくのは自分以外にないし、自分で気づくからこそ理解に及ぶ。そのためにはどれだけの経験がなされるべきだろうか?自分の傲慢さに人はいつか気づくべきである。

イメージ 4そうすることで、真に他人を尊重でき、いたわることもできる。それに気づかないままで他人を尊重したり、いたわったりするのはいかにも欺瞞であろう。自分がせっかちであるのは認めるところだが、せっかちとは良い場合もあって、たとえば、今すべきことは何をおいても今すべきという姿勢に連なる。このことは仕事のできる大事な要件ではと思っている。

何事も先送りしたり、先延ばしをする人間に、仕事のできる人間はいないというのが持論である。つまり、テキパキと仕事を行えば溜めることもなく、スムーズに仕事をこなしていける。ヤフオクなどで何かを購入しても、発送までに何日も時間のかかる人がいるが、こういう人はサッパリ理解に苦しむ。なぜすぐにできないのだろう?できないどんな理由があるのだろう。

メールで交流する場合にも同類がいる。返信に3日も4日もかかるのが理解できない。日常生活の重要度における優先順位からそうなるのか、面倒くさいからなのか、他にどんな理由があるのかも含めて、いずれも自分には全く理解できない。返信の遅い人のことを、ウサギとカメに例えてか、ネット用語で「カメレス」というが、そういう相手とはまず続かない。

忘れたころに返信が来ても、返す気も起らない。かつて自分は仕事のとろい部下を叱ったり詰ったりしたが、それで仕事が速くなるものでもないと分かれば、彼らを適材適所に据えるしかない。仕事にしろプライベートにしろ、レスポンスが早いかどうかで人間の特徴や心理が分かる。とろい相手にイライラ経験は誰にもあろうが、これも人間関係の代表例である。

レスの早い人は、誠実でマメな人柄のイメージを持たれ易く、こまめに返信すれば相手にも安心感を与え、即効レスが楽しいと好意的に迎えられる。が、相手次第では長所も短所となるのが相性。とろい性格の相手に、「早く返して」と請求されているようなプレッシャーを与えることもあり、キチンとしているのを通り越して、「うるさそう」な人と受け取られることにもなる。

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